2017年06月25日

強者と弱者

エルニーニャ王国軍科学部の車両が、地方に建つ病院に到着する。これから、崩れやすくなってしまった真っ黒焦げの遺体を運び、中央司令部にある科学部の施設で検分の準備をするのだ。それにはユロウも立ち会うことになっている。顔色は一向に良くならないのに、彼はまだ働くつもりのようだ。
ルイゼンは先ほどからレヴィアンスに連絡しようとしているのだが、電話が繋がらない。一刻も早く重大な情報を伝えたいのに、相手はずっと話し中だ。軍用無線での通信も試みたが、こちらは何故か混線しているようで、うまく繋がらなかった。
「くそっ、どうなってるんだ。今回に限っては電話番を通すと不味いしな……」
「レヴィ兄も情報を集めてるんだと思うよ。ユロウさん、カルテの件はもうレヴィ兄に話してるみたいだし。南方からロスタ少佐の情報を引き出してるのかも」
「それにしてもタイミングが悪いな。無線が繋がらないのもおかしい。車同士はちゃんと通信できたのに、受信設備が整っているはずの司令部にはどうして……」
メイベルがイライラしているのをカリンが宥める。しかし彼女も不安そうな表情をしていた。こんなときに役に立てたらいいのだが、残念ながらイリスには通信のスキルがない。
「一応、閣下の使っている端末にメールを送っておいた。暗号化しているから、僕と閣下しか内容がわからないようになっている」
「フィン、ありがとう! でも、いつ見るかわかんないよね、それ。ていうか、レヴィ兄も端末持ってたの?」
「兄に融通してもらったんだ。そんなことより、これ以上の通信がだめなら、戻ったほうがいいかもしれないな。どうせ遺体も移動させることだし」
それが最善の策だ。一旦中央司令部に戻り、レヴィアンスには直接報告しよう。来たときと同じように分かれて車に乗り込み、イリスたちは出発した。
司令部で何が起こっているのかは知らない。知ることができない。このためにリーゼッタ班は任務にかこつけて司令部から遠ざけられ、無線には障害を生じさせられたのだから。


大総統暗殺未遂事件以来、中央司令部は少々の改装がなされている。大総統執務室を上からの侵入から守るため、庇をつくったのもその一環だ。人間の大人がなんとか一人分寝そべることができるほどのそこに、ガードナーはうまく体をひっかけることができた。体勢によっては体を強かに打って動けなくなっていたかもしれないが、それを回避できるだけの訓練は日々積んでいた。
「レオ、大丈夫?」
庇の下の開いていた窓から、レヴィアンスの声がした。ガードナーたちが出て行ってから、執務室の大窓をずっと開けていたのだろう。
「無事です。それよりタスクが」
「うん、何はともあれ、レオが助かって良かったよ。こっちに下りてこられる?」
ガードナーは庇からぶら下がり、大総統執務室の窓へ器用に飛び移ってきた。上出来上出来、とレヴィアンスが軽く拍手をしたが、目は笑っていなかった。
「てっきり、タスクは私の代わりに補佐を務めるつもりなのだと思っていましたが……」
「レオが大怪我してたら、順当にいけばそうせざるをえないよね。向こうは『事故』って言い張って、悔やんでみせるつもりだったんでしょ」
「聞いてらしたんですか」
「あんまり良くないことなんだけど、屋上にはマイクを付けさせてもらってる。オレしか聞けないようにしてるけどね」
話してなくてごめん、と言ったあと、レヴィアンスは腕組みをして、またか、と呻いた。
「ちょっと地位脅かされすぎじゃない、オレ?」
「インフェリア氏……二十八代目ほどではないと思いますが。あちらは八年の任期で十数回に渡る襲撃を経験していらっしゃる」
「そうだね。だったらこれくらい、乗り切ってみせなきゃだよね」
伸びをしてから、レヴィアンスは執務室備え付けの無線機に向かう。ガードナーがタスクと対峙しているあいだに、南方からいくつかの情報を受け取っていた。それをリーゼッタ班に伝え、できるだけ早く戻ってきてもらおうとしたのだが、無線機はスイッチを入れた途端に雑音を響かせた。
「混線かな」
「いいえ、ここまでひどくはならないはずです。設備の故障とみていいでしょう。ここではなく、管理室のほうかと」
「まいったなあ。担当者はどうしたんだろう、すぐに直してもらわなきゃ」
「閣下」
ガードナーが眉を顰めて手帳を見る。予定ではなく、その日ごとの司令部内の主要施設の管理担当者が書かれているものだ。チェックしなければならない事項が多いので、用途ごとに使い分けているのだった。その全てを把握するのも、ガードナーの重要な役目だ。だからすぐに気がついた。
「本日の無線管理室担当はタスクです」
「……ルイゼンたちに仕事を任せたのは、ネイジュだったよね。ああ、もう、後手後手じゃんか!」
そもそも、死体遺棄事件はリーゼッタ班に任せるつもりではなかった。あれはレヴィアンスの判断ではない。ユロウが遺体の状態に違和感を覚えて報告に来たのだって、たまたまタイミングが良かっただけのことだ。担当する者が誰であろうと、ユロウは遺体を確かめに行こうとしただろう。
条件を揃えたのは、ネイジュ・ディセンヴルスタ。彼がリーゼッタ班を司令部から追いだしている間に、タスクの訪問があり、無線機も故障した。
「たしかに偶然にしてはできすぎています。タスクとディセンヴルスタ大佐が手を組んだのは間違いないでしょう。しかしイリスさんの件には関わっているかどうか……。ルイゼン君の話通りなら、大佐は面倒を避けている傾向がありますから、単にチャンスが訪れたとしか考えていないかもしれません」
関係性はわからない。だがたしかなのは、イリスを狙う者と、レヴィアンスとガードナーを狙う者が存在しているということ。
「あいつらが早く戻って来てくれればな。タスクの処分も考えないと」
「タスクについては、もう少し待っていてくださいませんか。彼はあれで、三年間将官室長を務めあげています。そのあいだに私のことをよく思っていなかったとしても、行動は起こさなかった。まだ、引き戻せます」
「レオ……」
親友ではなかったと、ずっと疎まれていたのだと知っても、それでも同期を引き戻せるとガードナーは信じていた。たとえこの手が二度と届かなくたって、声が聞き入れられなくたって、彼の持っている軍人としての資質は本物なのだからと。これがガードナーの選んだ、「タスクを認める」ということだった。
やっぱり強いや、とレヴィアンスは口角を持ち上げた。あの日、彼を補佐に選んだ判断は間違っていなかった。そういう強さが欲しかった。かつての仲間たちが持っていたものと同質の、心の強さが。
「わかった、タスクについては後回しだ。レオは無事だったんだし、タスクがあれは単なる喧嘩だと言い張れば、数日の謹慎程度で済む。二人とも剣を抜いたなら、両成敗の適用でレオまで謹慎させなきゃいけなくなっちゃうから、それは避けたいし」
「閣下もなかなか勝手なことを仰る」
「何を今更。押し付けられた立場の分、やり方は好きにさせてもらう。女王に出した条件通りに動いてるだけだよ」
にい、と笑うレヴィアンスに、ガードナーは小さな溜息とともに微笑んだ。


司令部に戻ってきたリーゼッタ班を待ち受けていたのは、ネイジュだった。それもわざわざ、門前でのお出迎えだ。怪訝な表情をすぐに隠し、ルイゼンは敬礼した。
「リーゼッタ班、ただいま戻りました」
「早かったね、本当に調べたのかい? 状況はどうだった、遺体の損傷具合は?」
本当なら、それらはレヴィアンスに報告したいところだ。ネイジュには遺体がミルコレスのものだったなどと言うわけにはいかない。ここを通してもらうための方便が必要だった。
「遺体は損傷が激しく、身元は歯型の照合をもって判断することになりそうです。これより閣下に検分許可をいただきに参ります」
「ならば私が行こう。君たちに仕事を任せたのは私だ。じき就業時間も終わるし、君たちはこのまま帰って休んでくれてかまわない」
にこりと優しそうに微笑むネイジュを、メイベルが睨む。イリスがまずいと思ったときには、もう言葉が出ていた。
「随分と態度が違いますね。午前まで、あんなに面倒そうにお仕事をなさってたのに」
しかしその声がメイベルではなく妹のカリンのものだったので、思いがけず瞠目した。ネイジュの頬が引き攣るが、予想もしなかった反撃に返答ができないようだった。
「リーゼッタ班に実務を任せて、楽そうな部分だけ自分が引き取ろうなんて。そんなことをして、あなたは卑怯だと思わないんですか」
「卑怯? 乱暴な言葉を使うね、ブロッケン准尉。部下からの報告を受け取って上にまとめたものを渡すのは、そもそも私の仕事だよ」
「それすらしなかったくせに。報告を受け取る? それだってルイゼンさんに任せっぱなしだったじゃないですか」
「カリン、やめておけ。ここで無駄な時間を使うな」
メイベルがカリンを止めるという珍しい光景に、イリスはつい見入ってしまった。ぼうっとしていると、フィネーロに腕を引っ張られる。戸惑っていると、そのままネイジュの横をすり抜けて司令部内に入っていった。あとにシリュウも続く。
「ちょ、ちょっとフィン、ゼンたちは」
「ルイゼンには頭と胃の痛い思いをさせてしまうが、場を収める役としてあそこに残ってもらったほうがいい。カリンとメイベルではいつ囮が本気になるかわからない」
あれは囮だったのか。メイベルが怒っていたのは本気に見えたが。そう言うと、フィネーロはしれっと「いつもと同じじゃ目を引かないだろう」と答えた。フィネーロの運転する車に乗っていたメンバーは、移動中に打ち合わせができていたのだ。
「大佐が待ってるだろうって予想してたの?」
「いや、そこまでは。ただ無線の不具合はあまりにも不自然だったから、何かは仕掛けられる可能性があると思っていた」
それだけでも思いつけば十分だ。実際、ネイジュは動いていた。カリンの芝居だって、とっさのものだったとしてはあまりに上出来だった。
「それにしても勇気あるなあ、カリンちゃん……。なんか、昨日と雰囲気が全然違う」
「もう気にするものが何もないからな。これからは自分の思う通りに動ける。いつまでも君の知っている可愛い妹分だと思うなよ、あれはメイベルの身内で、リーゼッタ班の新しい頭脳だ」
たしかに、今日のカリンはメイベルの妹といわれればすぐに納得ができる。父親という枷がなくなり、能力を存分に発揮できるようになった彼女の、あれが本領なのだ。
カリンが、メイベルが、ルイゼンが頑張っている。そして、フィネーロも。
「僕はこれから、ロスタ少佐に会う。ユロウさんが言っていたことが気になっているからな、一刻も早く確かめたい。イリスは閣下のところに行って報告を。検分許可は閣下が直々に科学部に出してくれるはずだ」
「わかった、レヴィ兄に報告するのはわたしに任せて。シリュウはどうする?」
「おれは正直、あの人と顔を合わせるのは気まずいです。インフェリア中尉に同行したいのですが」
「だろうな。安心しろ、もともとロスタ少佐には僕が独りで会うつもりだった」
あっさりと頷くフィネーロに、イリスは眉を寄せる。先に行こうとするその手を引き留めると、怪訝な顔をされた。どうしてそんな、当たり前のように言うのだ。
「最重要容疑者に、独りで会うの? それでクローンかどうか確かめるの? 危ないよ」
「最重要容疑者にその標的を会わせるわけにはいかないし、今ではシリュウの立場も危険だ。それに僕は一番あの男に近い。妥当な判断だ」
「でも」
「君は君の仕事をしろ。シリュウを守り、閣下に報告を。急げ」
なんだって、みんなどんどん強くなって、前に進んでいくのだ。ルイゼンも、メイベルも、フィネーロも、カリンも。シリュウまで、早く行きましょうと歩き出す。
もっと強くなろうと決めて、だからこそ自分自身が関わっているこの件に立ち向かおうとしたのに、どうして置いていかれるのだろう。覚悟は、約束は、どうした。
フィネーロから手を離すと、心配するな、と優しい声がした。僕だって闘える、と言われてしまったら、信じないわけにはいかないだろう。だって、それはもう、十分に知っているのだから。
「絶対後で合流だからね」
「当然だ。リーゼッタ班の仕事は全員でまとめなければ、ルイゼンに叱られる」
笑みを浮かべて拳をぶつけ合う。それが、スタートダッシュの合図だった。フィネーロは情報処理室へ、イリスは大総統執務室へ向かって走る。終業間際の軍人たちが驚いて振り返るのも気にしない。追い越したシリュウのほうを振り返ると、一定の距離を保ってついてきていた。
終業を知らせるチャイムが鳴り響く。けれども、今日の仕事はまだ終わらない。

「ほら、もう仕事は終わりの時間だ。君たちは寮生だろう、寮に帰りなさい」
呆れたようにネイジュは言うが、カリンは引かない。それどころか、チャイムが鳴り終わると今度はメイベルまで口を開き出した。
「なあ、大佐様。どうしてイリスたちは通した? 閣下に報告に行くのは、私たちのうち誰でもいい。ということは、手柄を横取りするつもりなら、貴様は私たち全員を留める必要があったはずだ」
あんなに堂々と、三人もの人間が横を通って行ったのだ。いくらカリンが囮になったとはいえ、気付かないなんてことはない。つまり、あの三人には用がなかったと考えられる。
「……あなたのターゲットは俺ですか、大佐」
ルイゼンは真っ直ぐにネイジュの目を見る。眇められたその奥は、暗い紫色をしていた。本人はサーリシェリア人の血を引いていると言っていたが、正しくサーリシェリア人の血統を持つ先々代大総統とはまるで印象が違う。
「君とは考え方が違いすぎる。だから一度、きちんと話をしたかった。私のほうが君より立場が上で、君は私に従うべきだと、はっきりさせておきたかったんだ」
思えば、最初から気に食わなかったのだろう。中佐でありながら一時期の事務室長を務め、同じ部屋にいる他班の者たちからも信頼が厚い、ルイゼンのことが。ネイジュが北にいてできなかったことを、階級も年齢も下の人間に任されているということが我慢ならなかった。
もっとも、ルイゼンがネイジュに従順であれば、溜飲が下がったのかもしれない。これからはネイジュが中央司令部第一大班事務室の長として君臨し、かつ尊敬するタスクを押し上げ、目をかけてもらい、中央での成功を収めるという道筋を立てられたのかもしれなかった。それは北にいた時から夢見ていた、理想のありかただったのだ。
頂点に名ばかり大総統のレヴィアンスが、その傍らに無功績のガードナーが、彼らの信頼する部下としてルイゼンがいる現在の状態は、ネイジュが理想とするエルニーニャ軍からは程遠い。あまりにお気楽でぬるくて、とてもこの国の力を示す存在たりえない。
北で危険薬物関連案件ではなく指定品目の違法輸出入案件を任されたときから、自分の立場に納得していなかった。何故この国で最も大きな事案を担当できないのか。何故発生件数も大したことがないような、つまらない仕事に携わらねばならなかったのか。苛立ちながらの杜撰な指揮は、どうせ大したことになりはしないと油断していた心は、いざ事件が起きたときにミスとなって現れた。
北方司令部長からは叱責され、不貞腐れていたところへ、どういうわけか中央への異動の話が舞い込んだ。大総統が人手を欲しがっている、できればサーリシェレッドに関わったことがある人間がいい。そう聞いて、ネイジュは真っ先に手を挙げた。今回は失敗しましたが、次こそは。そう司令部長に猛アピールして、異動が認められた。
レヴィアンスの本当の思惑なんて知りはしない。中央に行けさえすれば、出世の道が開ければ、そうしていつかあの頂点の椅子を自分のものにできたなら。そのためには上の人間からの信頼が必要で、どうせなら尊敬する人間に認めてほしかった。この国の力として、相応しい人間に。
「ルイゼン・リーゼッタ。君は私の道を邪魔する石ころだ。砂利だ。足に纏わりつく砂粒だ。家名だけの大総統や無功績補佐に認められているからといい気になるな、庶民が」
「ああ、庶民だよ。どうしてその庶民にムキになるんだ」
「庶民のくせに、私のやり方に指図をするからだ。無駄を排除し、純粋な力によって、頂点たるエルニーニャ軍を取り戻す。この私の崇高な理念を、何故君は解さない?」
司令部門前には誰も現れない。ルイゼンたちが到着したときから、ここにはネイジュしかいなかった。その立場を使って人払いをしていたのだろう。しかし彼も所詮は佐官だから、おそらくはもっと上の人間が関わっている。レヴィアンスやガードナーでなければ、可能なのは一人だけ。
「あんまり崇高すぎるからかな。大佐のやり方は現実的じゃないんですよ。エルニーニャ軍が純粋な力だったことなんて、ただの一度もない。タスク・グラン大将にだって不可能だ」
「なんだと! 君にあの人の何がわかる!」
「わかんねえよ! 将官以外の部下に姿も見せない、引きこもりの将官室長のことなんか、わかるもんか! それで仕事ができたとしても、あんたみたいな考えのやつがくっついてるようじゃ、申し訳ないけど信じられないね」
「愚か者めが。やはり君の軍人生命は絶っておいたほうがいいな」
ネイジュが剣を抜く。ゆるく弧を描く刃は、軍支給武器の目録にはないものだ。ルイゼン自身、これまで一度も相手にしたことがない。しかしどんな得物であろうと、抜かれたならば対することを避けられない。門前の人払いも、初めからこのためだったのだろう。
軍人生命を絶つ――殺しはしないが、軍という組織からは消す。ルイゼンはいつか見た軍籍簿の備考欄を思い出していた。「退役」と書かれた横に「職務不可能」と足されている、あの中に加わるというのは考えたくなかった。そんなことを、レヴィアンスに書かせたくなかった。
ルイゼンも使い込んだ剣を抜く。軍支給のシンプルなものだが、厳しい任務とイリスとの激しい訓練を乗り越えてきた、今となっては唯一無二の相棒だ。
「庶民に似合いの汚らしい剣だな」
そんなふうにネイジュに嗤われるいわれなどない。そんな言葉で、磨き上げたこの剣を無駄に振るったりはしない。
「メイベル、カリン。お前たちはフィンたちを追ってくれ。行き先はわかるな」
「当然だ。行くぞ、カリン」
「はい。ルイゼンさん、またあとで、必ず」
返事はできなかった。その前にネイジュは斬りかかってきた。振り下ろされた刃はよくしなり、ルイゼンの剣とぶつかって不思議な金属音を奏でる。
「見たことがないだろう、海外製だ。はたして君の頭で対策が練られるかな」
「……うるせえ」
対策は頭で考えるものではない。少なくともルイゼンにとっては、その場で見つけるものだ。剣技も、実戦での判断力も、先輩たちに鍛え上げられた。
「俺はこれでも、大総統の代理をやったんだ。てめえなんかに負けるかよ」
無理やりに笑ってみせると、ネイジュの表情が歪んだ。

情報処理室はまだ人がまばらに残っていた。飛び込んできたフィネーロに、驚きながらも「お疲れ」などと挨拶をしてくれる。その中に、暢気に笑うあの男もいた。
「リッツェ君、おかえり。たまに外に出るのは楽しいだろう。俺もちょっとでいいから外で仕事がしたいな。また大陸中を回れるような任務があればいいんだけど」
ミルコレスに不審な点は見当たらない。お喋りで、にやけていて、周囲とももう打ち解けていて。部屋を出ていく仕事終わりの仲間たちに「また明日」と手を振っている彼を、怪しむ人間はいないだろう。むしろ突然いなくなれば、どうして彼が、と惜しまれる。
南方でもそうだったのだろうか。問題点は多々あれど、それを差し引いてもあまりある愛嬌で親しまれる人物。それが死んだ者なのか、生きている者なのか、確かめてみなければわからない。
「ええ、外の任務はいいですね。良かったら、土産話でも聞いてくれませんか」
「珍しいね、君から誘ってくれるなんて。嬉しいよ」
「興味を持たれていたようなので、僕の武器も改めてお見せします。外に出ましょう」
「なになに、随分サービスがいいんだねえ」
にこにこと笑いながら、ミルコレスはフィネーロの肩を抱いた。情報処理室には、あと二、三人が残っているが、いずれも自分の作業に没頭している。こちらを見てもいないし、話を聴いてもいないだろう。
「もしかして、俺の相手をしてくれる気になってくれたりして?」
耳元で囁かれるその意味を、フィネーロは正しく解釈していた。誘えば食いついてくるだろうと思って、独りで彼に接触することを選んだのだ。
「望むならお相手しますよ」
返事をすると、ミルコレスの雰囲気が変わる。同じ笑みでも、今は舌なめずりでもしそうだ。こっちへ、と導くふりをして、彼から少し離れる。そうでもしないと冷や汗が流れそうだった。
先日イリスに言われた通り、得物はロッカーに保管している。取り出してしっかりと握りしめると、手汗が滲んだ。――わかっている。この男には、一人では勝てない。相手は同じ階級とはいえ、フィネーロよりも経験を積み、専門部署にも所属していた者だ。本物ではないとしても、同等以上に鍛えられているだろう。でなければ軍に平気で潜入することなどできない。ジンミやシリュウには、雰囲気で別人だと悟られるはずだ。
「どこでするの?」
「外に良い場所があります。ときどき憂さ晴らしをしたい連中が人を呼び出していたぶっていますが、この時間なら誰もいないでしょう。周囲は壁で囲まれ奥まっているので、気づかれにくいんです」
「まるで悪いことでもするみたいだね。もっと楽しんでいいのに」
新人だった頃、その場所にフィネーロ自身が呼び出されたことがあった。そこに柄の悪い連中が集まるのは、どうやら暗黙の了解だったらしい。上層部も特に対策をすることがなく、大総統自らが出向いて閉鎖しても破られた。現行犯なら罰せられるが、証言だけなら数の暴力に覆される。軍の中の「悪」を象徴するような、狭い中庭だ。
着いた途端、ミルコレスはそこが気に入ったようだった。「陰気だねえ」とは言っていたが、鼻歌が漏れている。
「中央にもあるんだね、こういうところが。みんな大総統のお膝元で、明るくぬくぬくしているものだと思っていたよ」
「裏表あってこその人間ですから。全員同じなんて気持ちが悪いでしょう」
「うん、もっともだ」
頷きながら、ミルコレスは片手でフィネーロを抱き寄せる。もう片方の手は、こちらの武器を乱暴に奪った。全く別のことをそれぞれの手でできる器用さに、ほんの一瞬だけ感心する。
「せっかく鎖があるんだったら、活用しなきゃ損だよね。美しいもので美しいものを縛れるなんて最高だなあ」
「そんなことを考えてたんですか。自分の欲望に忠実すぎて、詰めが甘いんですね、あなたは」
だが、一瞬だ。それ以上はこの男に興味を持つ必要はない。フィネーロは片腕を――初めから鎖を巻き付けておいた側を思い切り引いて、ミルコレスから武器を奪い返した。これの扱いなら、自分より強い者にだって負けない。
「銀歯をどうしたんですか、ロスタ少佐。あなたには銀歯があると聞いていましたが、確認したところ一本も見当たらない。まあ、上手く似せたところで調べればぼろが出たでしょうね。本物のミルコレス・ロスタの銀歯は成分が特殊なようですから」
ユロウが示した「特徴」は、銀歯の有無や加工の痕だけではなかった。銀歯そのものも、国内ではめったに見られない珍しいものだったのだ。治療歴に関わるので、カルテにもそのことは記載されていた。
「クローンをつくるには、人選を誤ったのでは?」
「……まいったな、そんなこと聞かされてないよ。記憶までうまくコピーできたと思ったのに。所詮俺は、記憶継承型ではないからなあ」
笑顔を浮かべたまま、偽物のミルコレスはフィネーロの腹に膝蹴りを入れた。倒れ込んだところで、さらに胸を踏む。しかし何をされても、フィネーロは自分の武器だけは手放さなかった。
「やっぱり半端な焼死は美しくなかったね。ミルコレス・ロスタ本人の美学からいっても、骨までちゃんと砕くべきだった。ついでに宝石に加工してくれたら浮かばれただろうに」
「やはり……あれは……!」
焼死体はミルコレス本人に間違いなかったのだ。いつ入れ替わったのか、彼の記憶をどうやって手に入れたのか、問い質したいのに声が出ない。フィネーロの胸にはさらに重みが加わる。
「聞きたいことは色々あると思うけど。でもほら、俺が今まで喋ってあげた分の対価を、まだ貰っていないよね。それがないと続きは教えてあげられないな。希望としては体で払ってほしいね。本物のミルコレスが死んでも手に入れられなかった、人間から作った完全人工の宝石がほしいんだ。それができなきゃ魔眼だな。イリス・インフェリアの眼を抉ってほしい」
「……っ、誰が、するか……、そんな」
「だよねえ。でもさ、ほしいものは全部手に入れたいミルコレスとしては、君がインフェリアの眼を抉ってくれたあとで、君を殺してよく焼いて宝石をつくるのが一番良いんだよ。ね、今死ぬか、もうちょっと生きるか、それだけの違いしかないんだから決めようよ」
優しく甘い声だが、していることと噛み合っていない。ジンミはこんな男のどこがいいのだろう。
鎖鎌を持っている手を動かそうとすると、足が胸から離れた。代わりに腕を折れそうなくらい強く踏まれ、思わず呻きが漏れる。
「諦めなよ。俺の体ってね、結構筋肉あるんだよ。君が思ってるより重いんじゃない? リッツェ君さ、頭は良いし技術もあるかもしれないけど、体格はその辺の一般人と変わらないよね。だから情報処理にまわされたんじゃない?」
「だから、どうした」
「君は軍人としては底辺だ。失格だ。塵だ。でも宝石になれば輝ける。魅力的な提案だと思うんだけど、残念ながら生前のミルコレスはこのナンパを成功できた試しがない。人を殺すっていう、そのたった一押しができなかったのが敗因だ」
先ほど偽ミルコレスは、自分は記憶継承型クローンではないと言った。だからこそ歯を加工した記憶もなかったのだ。しかし会話の内容、持っている情報量は、本人とあまり違わないようだ。おそらくは本人くらいしか知らないであろうことまで、詳細に知っている。
生前に成功できた試しがないというのは、生前の本物も同じことを誰かに、それも複数回にわたり言っていたということではないか。もともとミルコレス・ロスタには特殊な嗜好があり、それを叶えるために裏と通じていて、結果的にクローンを生成されることになったのでは。ぼんやりする頭でフィネーロは考えたが、それを言葉にすることができない。
――イリスに、嘘を吐いてしまったな。
闘えると言ったのにこのざまだ。情報を持ち帰ることすらできないかもしれない。
「……リッツェ君、意外と強情だね。それとももう返事できないくらい弱っちゃったかな。それじゃ、魔眼のほうは無理かもね。そっちは仕方ないか、俺じゃなくてもいいし。でも人工宝石のほうは俺がやらなきゃ誰もやってくれないから、もう殺すね。はい、決まり」
一人では、不可能だ。

情報処理室にはフィネーロもミルコレスもいない。カリンがまだ残っていた者に尋ねると、二人で出て行ったという。
「最近、仲良さそうだったからね。ロスタ少佐は女も男も好みならいけるって噂だし、リッツェ少佐も狙われてたかも」
なんてね、とごまかされたが、冗談に聞こえない。ミルコレスが本物だろうと偽物だろうと、フィネーロが危ないのは確かだった。
「お姉ちゃん、どうしよう」
カリンが焦って振り向くと、メイベルは舌打ちした。今更どうしようも何もない。
「車で打ち合わせをしたときからこうするつもりだったんだろう。イリスを変態に近づけないためにも、まあベターな選択だ」
「良くないよ、こんなの!」
「最善手だとは言っていないだろう。とにかくここには用がない。他を当たるぞ」
先に部屋を出てしまう姉の分も、カリンは部屋にいた人たちに礼を言った。再び廊下に出ると、もうメイベルは歩き出している。
「どこ行くの、お姉ちゃん。心当たりあるの?」
「来たばかりのお前は、本当は知らなくてもいい場所だ。この条件だけなら、お前と変態は同じだな」
「一緒にしないで……って言えない立場だったね、わたし。イリスさんのもの勝手に持ちだそうとしたんだから」
自分で言っておいて落ち込むカリンの頭を、メイベルがぺしんと叩く。痛みに頭を押さえた妹に、姉は平常と変わらぬ口調で言った。
「変態は中央司令部の構造を完璧に知っているわけではない。中央でも、知らない奴は知らないまま過ごしていられる。フィネーロならそういう場所に変態を誘い込むことができるんだ。利用するとしたらそこだな」
「そんな場所があるの?」
「いくつかある。だからあいつが使いそうな場所を片っ端から調べる。はぐれるなよ、カリン」
「! はい、大尉!」
「気持ち悪い呼び方はやめろ」
嬉しくて敬意を表したのに、メイベルはそれが嫌だという。だからお前と同じ班は嫌なんだ、とぐちぐち言いながらも、ちゃんとカリンがついてきているかどうかを確認してくれる。かといってそれはカリンを甘やかしているわけではない。
「変態を見つけたら即撃て。躊躇は許さん」
命令は真剣で、かつカリンの能力を信じていた。これまで何度も失敗してきて、姉を怒らせたことも幾度となくある。しかしメイベルは、上司として部下を使うことを優先した。切り捨てるのでも甘やかすのでもなく、ただ任務の遂行に必要だと、それだけを思ってくれている。
だからカリンの動き方も自然に決まる。期待に応えるためでも、罪を償うためでもない。軍人としてすべきことを、逃さず躊躇わずに全うする。もう迷いの元は何一つとしてないし、何より今日のためにこれまでを積み重ねてきたのだ。
覚悟を決めると、感覚が研ぎ澄まされる。ただメイベルについていくだけでなく、途中で何が動いたか、誰とすれ違ったか、よく見ることができた。だから彼女にも気づくことができたのだ。
「お姉ちゃん、待って。あそこにいるの、チャン中尉じゃない?」
メイベルが通り過ぎた部屋のドアが開いていた。部屋の窓辺に佇む彼女は、間違いなくジンミ・チャンだった。
戻ってきたメイベルはそのまま部屋に入ってしまう。そこは男性用のロッカールームだったが、そんなことは気にしない。カリンがおそるおそる後に続いて部屋を見渡しても、ジンミ以外の人物はいなかった。
「何をしている、色目女」
「あら、随分なご挨拶。お仕事はもう済んだのかしら、ブロッケン大尉?」
「生憎なかなか終わらなくてな。ちょうど人手がほしかったところだ」
相手が誰であろうと色っぽい笑みを浮かべるジンミに、カリンは少しどきどきする。一方メイベルはジンミを見下ろし、冷たい声で尋ねた。
「ミルコレス・ロスタがどこにいるか知らないか」
「ミル? あなたもミルに口説かれたの?」
「誰があんな変態軟派野郎に口説かれるか。質問に質問で返すな」
も、ということはジンミも口説かれたのだろうか。そうしてミルコレスと深い関係になって、手を組んだのだろうか。シリュウの話だとそういうことになっている。だが、その話にもカリンは違和感を覚えていた。あのときに限らず、シリュウが話をするときはいつでもそうだった。無表情だからか、まるで台詞を棒読みしているかのように聞こえるのだ。
「ミルが今どこにいるかについては、私は知らないわ。今日は別に会う約束はしていないし」
「今日以外なら約束をしていたのか。……ああ、あの変態と情報処理室で淫らな行為に耽っていたのだったな。奴とはどんな関係なんだ」
「東方にいた頃、ミルが任務で来たのよ。指定品目の違法輸出入にお互い関わっていたから、仕事を一緒にして、それから親しくなったの。気がついたら二人ともベッドで裸になってたわ。……あら、お嬢ちゃんには刺激が強すぎたかしらね」
くす、と笑うジンミに、カリンは少し腹が立った。たった一つしか年齢が違わないのに、お嬢ちゃんとは失礼だ。
「平気です! お二人は、それから恋人同士に?!」
カリンがムキになって尋ねると、ジンミはすうっと目を細め、笑顔を消した。
「いいえ、恋人なんかじゃない。あの人は大陸中を仕事でまわって、ついでに宝石を手に入れて好みの子を抱くの。東方司令部で私を選んだのは、私が宝石商の娘で、顔と体もまあ悪くなかったからでしょう。その程度よ」
ミルコレスにとってはそうだったかもしれない。でも、ジンミは本当は、彼の特別になりたかったのかもしれない。カリンには色恋沙汰はまだよくわからないが、ふとそう思った。
「というわけで、あの人がどこにいるかは知らない。嘘じゃないわよ」
再び薄く微笑んだジンミだったが、カリンにはもう笑っているように見えなかった。彼女が嘘を吐いているとも思えない。同時に疑問が湧きあがってくる。しかしそれを口にする前に、メイベルがジンミの腕を掴んで引っ張った。
「何? まだ何か用が?」
「お姉ちゃん、何してるの」
「ここで油を売っていると最悪フィネーロが死ぬ。話は歩きながらにしようと思ってな」
「フィネーロ、ってリッツェ少佐よね。どうして彼が死ぬの」
ジンミは本気でわからないようだった。それが普通だ。突然話の中に登場人物が増えて、説明もされないまま結び付けろというほうが無茶なのだ。
だが、ミルコレスが何者であるかを知っていれば、そんな疑問は湧かないか、もっとごまかすような反応があっていい。カリンはある可能性と、それによって生じる矛盾に気づきかけていた。
「率直に訊こう。ジンミ・チャン、お前は中央司令部にいるミルコレス・ロスタに違和感を持ったことはないか。以前にも性交をしているのなら、そのときと違うと感じたことは」
率直すぎる問いだが、ジンミは素直に首を横に振った。
「意味がわからないわ。ミルに違和感……久しぶりだったから考えてもみなかった」
「では次だ。東方にいた頃、ミルコレス・ロスタと複数回一緒に仕事をしている。このことに間違いはないか」
「ええ、それは何度か。私と組むと仕事がスムーズだからって、ミルが指名してくれるの。実際うまくいったわ。私の功績にもなるから、お礼としてつけていたピアスをあげたりもした」
それは随分と高額で、しかもミルコレスにはたまらない報酬だっただろう。今日もジンミがつけているピアスは、本物の宝石だ。
「もう一つ。シリュウ・イドマルとはよく任務を共にしていたか」
カリンが目を見開くのに気付かないまま、ジンミは答える。
「シリュウは私の後輩よ。私のことを姉さんって呼んで、あの子が入隊してからずっと慕ってくれてた」
「今は? 話しているところすら見ないが」
「それは……班が分かれたのに一緒にいるのは変でしょう」
「そうでもない。現にお前は他班の人間であるルイゼンに絡んでいる。答えにくいなら質問を変えてやろう」
いつのまにか、カリンは知らない場所にいた。メイベルだけはここがどこで、今どこに向かっているのかを知っている。すでに明かりが落ちたそこは薄暗く、閉塞感があった。
「お前とシリュウ、中央では離れて行動するよう言いだしたのはどっちだ」
知らない場所で不安なのに、たしかなものを掴んだと思えたのは、メイベルの問いの意図がカリンにはとうにわかっていたからだ。カリンも、同じことを問おうとしていた。
ジンミは美しい柳眉を歪め、どうして、と呟く。どうしてそのことを知ってるの。
「……拒絶されたの、あの子に。中央では姉さんとは組まないって。姉さんは好きなだけミルといなよって。あの子、自分がミルの本命だってわかってて言うのよ!」
最後は絶叫に近かった。暗い廊下にわんと響いた声に、メイベルが目を細めて頷いた。
「そうか。こちらの聞きたかったことはそれだけだ。それさえわかれば、決められる」
ジンミの手を解放し、メイベルは銃を抜く。両手に一丁ずつ構え、カリンにも促す。
「十秒以内に終わらせるぞ、カリン。ミルコレスを撃ったらすぐに来た道を戻ってイリスを捜せ」
姉の無茶もこなさなければと思うくらいに危機が差し迫っている。カリンは頷き、銃を手にした。情報処理室を訪れたのがフィネーロ一人だったことはわかっている。本当の最重要容疑者は、最も近づけてはいけない人間の傍にいる。
狭い中庭に飛び込んで、姉妹は同時に弾丸を放った。

大総統執務室には誰もいなかった。部屋に鍵をかけないで離れるなんて、レヴィアンスはともかくガードナーまでもがそんなことをするだろうか。
「おかしいな……。二人ともどこ行っちゃったんだろ……」
無線の調子が悪かったことといい、ネイジュが待ち受けていたことといい、中央司令部の様子はずっとおかしかった。全てをネイジュが一人でやったとは考えにくい。まさか、ミルコレスと手を組んでいたのだろうか。
「シリュウ、レヴィ兄を捜しに行こう。ガードナーさんでもいい。とにかく現状を把握しないと」
幸いこちらも二人だ。手分けして捜しに行ける。イリスは単独行動を避けるように言われているが、すでにシリュウと二人きりなのだから、そんなことにこだわってはいられない。
「無線がおかしかったから、片方は無線管理室かな。シリュウ、場所はわかる?」
「いいえ。行く必要もありません」
聞き違いかと思って、首を傾げる。あるいは、もう戻ってきそうな気配がしたのか。――そこまで考える暇もなかった。思考は後でやっと追いついて、遅れた混乱が頭を満たす。
鍛えた体だけが反射的に飛び退いて、刃をかわした。それでも軍服が切れてしまった。真一文字に裂けた丈夫な布地の、切り口はそれは見事なものだった。
「シリュウ、あんた」
刀を構える少年は、それまでの無表情ではなかった。いや、一度だけこの視線を感じた。こちらを獲物と認識し、仕留めようとするその眼。けれども、今の彼は「あなたを超えたい」どころではない。ここにはたしかな殺気がある。イリスに向けられた、目の前の存在を消してしまおうという明確な意思が。
「インフェリア中尉、これはおれの想像ですが」
ゆっくりと構えを変えながら、シリュウが近づいてくる。イリスは後退るが、すぐに逃げ場はなくなった。大総統のための立派な机が、こんなに邪魔なものだとは。
「あなたには弱点が多すぎる。すぐに人を信じ、学習能力も欠如している。そのままだとあなたは一般の中でも弱者の部類になってしまう。だからこその身体能力と、その眼なのでは。性懲りもなく騙されても、ある程度は逃げられるように備わった機能なのではと思うんです」
「何言ってるの」
「しかしそれは宝の持ち腐れというものです。せっかくの『魔眼』なんですから、より有効に活用すべきでしょう。たとえばおれには、それが可能です。あなたの眼をサンプルとしていただき、技術によって殖やし、移植すれば……うまくいけば、この国に巣食う屑どもは一掃できるでしょうね」
「なんでそんな、裏みたいなこと言うのよっ!?」
叫んだイリスの目の前に、刀の切っ先が突きつけられる。その向こうで、シリュウは当然のような、ほんの少しこちらを嘲るような、薄い笑みを浮かべた。
「裏の人間なんですから。おれは至極真っ当なことを述べているだけです」
軍服を着た少年が、まるで違うことを言う。ここに来て初めての笑顔で。
「やめてよ、そんな冗談」
「その台詞を言うタイミングが間違っています。せめて、おれがここでみなさんに作り話をしているときに言うべきでしたね」
全部嘘だったというのか。シリュウはジンミとミルコレスに指示され、やむをえず関わることとなってしまったのではなかったのか。
「もっとも、あの作り話だって、急いで考えたんですよ。ガードナー補佐大将が勝手に、ジンミ姉さんがおれに指示を出していたことにしたでしょう。話を合わせるのが大変でした。あなたの弱点は人に伝染するんですか? 中央のみなさんは思い込みが激しすぎる」
「賭け事の悪癖っていうのは」
「ああ、それはちょっと長い期間をかけて作り上げたイメージです。そういうことにしておけば、多少の無茶もちょっと叱られるだけで済みます。そうして軍の人間は、おれのことなんかろくに調べもしないまま、情報も技術もどんどん与えてくれた」
「だって施設出身って」
「信じるに値する根拠にはなりません。出身は自己申告です。たとえその施設があったとしても、運営をあなたがたが裏と呼ぶ人々が行なっていて、その常識のもとに育てられれば、あなたがた軍の常識からは外れた子供が出来上がります」
そのとき、シリュウのカルテのことを思い出した。入隊当初は、発育不良気味だった。まともな施設で育てられればそうはならないはずだと思っていたが、シリュウのいた環境に問題があったとすれば、おかしいことではない。
「おれは初めのうちに、あなたに真実をお話しているはずです。身寄りのなくなった子供の行きつく先は、施設か軍か、あるいは裏社会。裏の子供は、自分のやっていることが善だと信じているために、いわゆる一般的な意味での更生は難しい。……軍を一般にした話で、裏が普通なら逆になります」
「逆だろうと何だろうと、シリュウは今まで軍人だったじゃない」
「必要なものを手に入れるための仮の姿です。力も、情報も、金銭も、軍でなら十分に手に入る。軍人の仮面をかぶるのに、良心なんか必要ありません。地を隠せるだけの演技力があればいい」
呆れたような表情で、シリュウが首を横に振る。こんなに表情が豊かな子だとは思わなかった。
「インフェリア中尉は軍家の人間ですからね、軍が正義で裏が悪であると勘違いしていても、仕方のないことです。それも育った環境の問題ですから、おれは責めませんよ。別に他人を責めるために裏にいるわけじゃない。単に、おれにはおれの生活があったという、それだけのことです。そしてあなたは、あなたがたの属するコミュニティの人間の中でも特に運が悪かった」
こんなに喋るような子だとも。けれども、普通の――いや、こちら側の人間だと思っていた。同じ思いを持っていると、自分で軍を選択したのだと、勝手に思い込んでいたのだ。
シリュウ・イドマルは、十六年の人生を、ただの一度も「軍」の人間として生きたことはない。
「おれはあなたの眼を抉り、研究組織に提供します。あなたはどうしますか。このままおとなしく、片目くらいなら差し出そうと思いますか」
それで全てが終わり、それ以上の被害が出ないならそれでいい。けれども、そうではないとわかっているからイリスは守られてきた。この眼を悪用される危険があり、それでイリスたちの社会が破壊されることになるかもしれないから、軍のトップまで動いていた。
「できない」
大切なものを守ると約束した。絶対に破ることのできない約束だ。それを果たすためには、イリスが戦うよりほかにない。ここにいるのは自分と、シリュウだけだ。
「わたしの眼はわたしのもの。誰にだって渡せない」
イリスは剣を抜き、目の前にあった刃を払った。額が少し切れて、つう、と一筋血が滴る。力を少しだけ解放した眼に映るシリュウは、三日月のように割れた口で笑っていた。

レヴィアンスは無線管理室にいた。叩き壊された機械はどうしようもなく、復旧は少し先になりそうだ。今度は管理を分散させよう、と溜息を吐きながら、耳では屋上の音声を拾っている。
ガードナーは再びタスクに会いに行っていた。レヴィアンスも行こうとしたのだが、もう少しだけ自分が粘りたいのだと、ガードナーにここに留められてしまった。
「これは私……いや、僕とタスクの決着なんです。喧嘩別れになってしまった三年前のけじめです。だから閣下は、待っていてください」
そうなってしまう原因をつくったのはレヴィアンスなのに、そう言わない。レオナルド・ガードナーは自分の誇りとレヴィアンスの正しさの証明のために戦いに行った。
屋上から落としたはずの男がほぼ無傷で戻ってきたことに、タスクは驚いただろう。しかしすぐに思い直したはずだ。大総統補佐とはそういう人間がなるものなのだと。そしてこうも思ったはずだ。誰がそこまで育ててやったと思ってる、と。
タスクはガードナーを認めたのだろうと、レヴィアンスは本気で思っていた。それまで本当に、将官室長を真面目に務めていたのだ。だが考えてみれば、あれも彼にとっては閑職だったのかもしれない。本来、実地での任務に向いていた男だ。暴れることが取り柄で仕事の、一時期のイリスのような人間だったのだ。それを椅子から離れられない立場に置いたのだから、レヴィアンスの采配ミスだ。不満が徐々に溜まり、限界まで膨らんだところを針で突かれただけのこと。それをずっと勘違いしていた。
「指揮者失格だね」
与えられた名前の通りにできたら良かったのに、とこんなにも思ったことがあっただろうか。ゼウスァートの名はいつだってレヴィアンスが捨てたいものの上位にあったのに、今ではその力を欲している。それで全て解決したら、もう一つも文句を言わずに職務を全うする。だが、それは無理な話だった。
万能の指揮者は一度死んだ名前だ。名前で嘘を吐いている。もはや「名ばかり大総統」という蔑称すらふさわしくない。
「三年も、よくもったよ。レオも、タスクも、頑張った。もう十分……」
振り回し続けたものは、もう解放してやるべきなのかもしれない。けれども、そのあとは。それが全く、思いつかないのだ。今まで、自分の周りだけを理想的に固めた状態がベストだと信じてやってきた。それ以上のことが、考えられなかった。
耳に剣が交わる音が響く。タスクの猛攻に、ガードナーが耐えているのがわかる。そうして耐え続けたために、それができてしまったために、タスクに練習台として使われるようになってしまったのだ。結果、タスクはガードナーを下に見るようになった。――けれどもそれは、昔の話だ。
「……あ」
一瞬で、音が変わる。ガードナーが打ち返したのだと、すぐにわかった。それをきっかけに形勢が逆転し始めた。ガードナーは、タスクの粗い攻撃の隙を見切ったのだ。そう、本来はこちらが彼の本領。物事の好機を見定め、自分の動きを決める。反撃の機会を強かに窺える人物なのだ。
「どうしてオレが、それを信じないのさ」
必要としていたのは、耐える補佐ではない。適切な機を逃さない補佐だ。それこそがレヴィアンスを補える人物だと思ったから、ガードナーを選んだ。
けれどもタスクの力も必要だった。彼の持つ圧倒的な存在感と求心力が、おとなしくなってしまいがちな将官たちを動かせると思ったのも本当だ。
ガードナーの強さを、タスクの力を、危うく「十分」などという言葉で否定するところだった。彼らを選んだ自分が、それをしてはいけない。すべきことは、伝えそこなっていた言葉を伝えること。それで解決するかどうかはともかく、レヴィアンスにしか言えないのだから。
それが、大総統レヴィアンス・ゼウスァートの選択なのだと。

勝利こそまだないが、ルイゼンの訓練相手はイリスが最多だ。尉官でありながら、佐官をも凌ぐ戦いのセンスと技術。戦略が甘い分粗削りではあるが、それでも強い。どんなにこちらが腕を磨いても、彼女はさらにその先を行ってしまう。
その向こうには、先輩たちがいた。技術を、戦術を、丁寧に叩きこんでくれた人たちだ。イリスに勝てないということは彼らにももちろん勝てないのだけれど、頼めば相手をしてくれた。
経験はルイゼンの血や肉や骨となり、この体を動かしている。見たことのない武器も、何度か打ち合えば、どんな使われ方をしているのか、何が得意で何が弱点なのかがわかってくる。イリスや先輩たちに比べれば、ネイジュは実に理解しやすく、かつ制することが十分に可能だ。
よくしなる奇妙な剣は、しかしその材質ゆえか軽い。その特徴をネイジュは持て余していた。かつては彼も軍支給の剣を使っていたのだろう、力の入り方がルイゼンとよく似ている。しかし、彼の剣にそれほどまでの力は必要ない。叩き付けるのではなく、斬り落とすのでもなく、刻むのがちょうど良さそうだ。こういう剣が手に入っていれば、いつぞやのフィネーロの戦闘力不足問題ももっと早くに解決できたかもしれない、と冷静に考えるだけの余裕がある。
「なぜだ、なぜ届かない!? 中佐ごときが、若造が、どうして私の剣を弾くんだ!」
焦れば焦るほど、ネイジュの手は滑る。そうなんだよな、とルイゼンはいつかの自分を重ねた。焦るとそこから全部崩れていってしまう。
「勿体ないですね、大佐。その剣、入手してからまだ日が浅いのでは? 訓練不足なら、うちの血気盛んなやつ貸しましょうか」
「うるさい!」
柔らかな刀身をルイゼンの剣に叩き付けては、いくらしなるとはいえ向こうが先に折れてしまいそうだ。それは本当に勿体ない。
「グラン大将に言われたんだ。ルイゼン・リーゼッタに軍を辞めさせてしまえばいいと。だからそうすれば、私の道は開けるはずなんだ」
「ああ、大将に。根に持たれたかな」
ネイジュの精神状態は、おそらく限界に近い。重要なことを思わず吐いてしまうほどに、彼はルイゼンに対して焦りと、本人がまだ気づいていない恐怖を持っている。相手が敵ならば今こそ倒すところだが、お互い軍の人間である以上はむやみに傷つけられない。
そう、ネイジュは本当に軍人だ。軍で上を目指し、軍で生きようとする人間だ。イリスを狙っている者たちの仲間ではない。彼は邪魔者を排除したいだけで、取り締まり対象という意味での「悪人」ではないのだ。
「そんなことしなくても、閣下がもう大佐を認めてたのに。そうでなきゃ、事務室長にしたりしません。俺もきっと、あなたから学ぶことがあったんだ。でも、こうなったら仕方ないですよね」
素早く剣を引き、ネイジュがバランスを崩したその瞬間を狙い、大きく一振り。ルイゼンの一撃はネイジュの剣を手から弾き飛ばし、遠くへと放った。地べたに倒れ込んだネイジュは、すぐに起き上がる気配を見せない。彼はもう、戦えないだろう。
「……どうして、お前なんかが」
絞り出すような声に、ルイゼンは真剣に答える。
「俺にもわかりません。でも、何かを見出してくれているのなら、それに応えようと思います。そもそも俺がここにいるのは、立場ではなく、大切な人を守りたいからなので」
だから、どんなに恨まれても、妬まれても、負けるわけにはいかなかった。
「俺は絶対に辞めません。グラン大将にも、そうお伝えください」
寮のほうから人が来る。門前でこれだけ暴れれば、何事かと駆けつけることもあるだろう。ネイジュのことは他の者に任せ、ルイゼンは早くイリスたちに追いつきたかった。こちらに気づいて走ってくる軍人たちに手を振り、ネイジュには背を向けた。
「……お前だけ、ここに居続けられると思うなよ」
ゆらりとネイジュが立ち上がり、よろける。ルイゼンは振り返って、思わず彼を支えようとした。いつも仲間にそうしているのだから、反射的に体が動くのだ。しかし。
「どうせ地獄に落ちるなら、お前も道連れだ」
こちらの目を覗き込む、歪んだ笑みが、だんだん霞んでいく。痛みというより、熱かった。今まで受けたどんな傷よりも深いということは、かろうじて察することができる。
腹に深々と刺さったナイフに思うのは、まいったな、ということ。これじゃ、約束通り合流できないや。――ああ、そういえば、約束はしそこなっていたんだっけ。

両肩と左脇腹に銃弾を受けたミルコレスが地べたに座り込む。それを一瞬のうちに確認すると、カリンはもと来た道を引き返した。姉の言いつけ通り、イリスを助けに向かうため。
メイベルは中庭に足を踏み入れ、フィネーロを一瞥した。
「腕は折れてないか」
「わからない。でも動かないから、あとは頼んでいいか」
「独りで戦おうなんて無茶をするからそうなるんだ。……さて、変態」
脇腹を押さえるミルコレスを見下ろすと、痛みに歪んだ表情が見えた。変態とは呼んでいたが、彼も案外普通の人間だった。人間と、そう変わりはなかった。
「お前はクローンなんだな」
「……そうだよ。ミルコレス・ロスタのクローンだ。でも、本人とそんなに違いはないよ。俺の記憶や仕草は本人から仕込まれたものだ。ミルコレスはもともと、裏に加担している軍人だった」
やはりそうか、とフィネーロが呟く。いや、まともに喋ろうとしたのだが、掠れた声しか出なかったのだ。メイベルは一言「喋るな」と告げてから、ミルコレスに再び問う。
「いつから入れ替わっていた」
「南方にいた時から、実験的にときどき入れ替わってたよ。誰も気づかないのが面白くて、ミルコレスとはよく笑いあったものだ。だからあいつを殺すのは、ほんのちょっと惜しかった」
「殺したのはいつのことだ」
「あいつが中央に向かった日だよ。組織の人間とともに、切り刻んで意識を失わせてから、焼き殺したんだ」
これくらいはもうわかっているんだろう。そんな口調で、ミルコレスのクローンは語る。時系列などに不明な点はあるが、調べればすぐにわかるのだろう。それはメイベルたちの仕事だった。
「もう一つ問おう。お前に指示を出していた人間は、シリュウ・イドマルか」
フィネーロが驚愕するのが見えた。それまでの容疑はジンミにかかっていたのだから、無理はない。だが、ジンミはシロだ。この計画そのものを知らずにいたかもしれない。あるいは、彼女も無意識のうちに操られていたことも考えられる。
シリュウにはおそらく、それができるのだ。中央の人間に、それもトップにいる者たちにまで間違った推理をさせ、信じ込ませる。
ミルコレスは首肯し、笑った。
「そうだよ。地方で指定品目の違法輸出入取り締まりを失敗させるように仕向けたところから、本物のミルコレスを殺すよう指示したこと。もちろん俺をつくる過程に、ミルコレスを参加させたのもシリュウだ。あの子はミルコレス曰く、宝石と同じくらい魅力的で恐ろしいって。あっというまに虜になったってさ。実際に会って、なるほどと思った」
弾丸が三発も命中している割にはよく喋る。しかし、おかげで事件が見えてきた。黒幕はシリュウ。ミルコレスのクローンはその手下。全ては彼らによって仕組まれていたのだ。カリンに送られた手紙も、シリュウの関係者が用意させたものだろう。ネイジュの行動まではわからないが、エルニーニャ中を仕事という名目でまわっていたミルコレスを使えば、そうとわからないように手を回すことは可能なのかもしれない。
「あいつは本当に十六歳か。実は記憶継承型クローンで、何十年も生きているのではあるまいな」
「んー、たぶん普通の人間だと思うよ。組織で英才教育受けて、何年も軍人のフリしてれば、それなりの人材に育つんじゃない? 軍人だって、十歳から決められた生き方を叩きこまれるんだから、できないことじゃないだろう」
たしかに、とメイベルは頷き、再び銃を構えた。ミルコレスには同じことを、今度は聴取で喋ってもらわねばならない。来てもらおうか、と言おうとしたとき、横から銃を奪われた。
「何をする、ジンミ」
駆け寄ってきたジンミが、メイベルから取り上げた銃を構えた。標準を合わせ、彼女は泣きそうな顔で微笑んだ。
「私が殺してやりたかったのに。でも、それも結局できなかったのね。私は、最後まで騙されたままだった」
破裂音が響き、ミルコレスがゆっくりとくずおれる。その額の真ん中には穴があき、クローンといえど、もう二度と喋ることはできなくなってしまった。
身体を起こしたフィネーロが、眉を寄せてジンミを見た。
「君は、なんてことを。……証言者を、殺すなんて」
「クローンでしょう。死んだってかまわないんじゃないの」
「しかし」
「あなたたちが聞いたのだから、もういいでしょう。……彼を、死なせて。無理やり生かして、喋らせないで」
ああ、とメイベルは嘆息する。きっと自分がジンミの立場なら、同じことをしただろう。愛した人間の、それも殺されてしまった者の複製など、見ていられない。殺してしまったほうがましだと思う。だが、それでは何の解決にもならないのだ。真実は明らかにならないし、やるせなさや悲しみはけっして消えることがない。
ジンミがミルコレスに近づき、その亡骸の頬を撫でる。こんなに似ているのに、と呟く声には、慈しみと憎しみの両方が混じっている。
「やっぱりあなたは、私を愛してはくれなかったのね。生きていても、死んでからも」

剣戟は疾く、高い音を響かせる。型の決まっているミナト流剣術に裏の暗殺術が加わったシリュウの動きは、知っているようで知らない動きだ。一度手合わせしたとき、あのときはやはり手加減をしていたのだ。イリスの剣技がどれほどのものなのか、見定めるために。
ぴ、と刀の刃先がイリスの頬を掠める。頬を拭うと、手が赤く染まった。呼吸を整える間もなく、次の攻撃が来る。飛び退いて大総統の執務机の上に乗ると、口元に笑みを浮かべるシリュウが見えた。ここに来て一番楽しそうな表情に、イリスはつい苦笑する。
――どうやって笑わせようか、考えてたのにな。
まさか、殺し合いが一番効果があるとは。模造刀での手合わせなんかではなく、本気の命の奪い合いが、シリュウと心をかわす最短の方法だったのだ。
「インフェリア中尉、この期に及んでまだ躊躇っているんですか。裏の人間が相手なんですから、本気にならないと死にますよ」
「そうだね。どうやらあんたには、わたしの眼も効かないようだし」
先ほどから少しずつ出力をあげている眼は、しかしシリュウには効果が見られない。むしろ彼の動きは、イリスと打ち合いをするごとに洗練されているようだった。刃の描く軌跡は美しく、それが自らに降りかかる災いとなるとわかっていても見惚れそうになる。
下から上へ、掬いあげるように刀を振るうミナト流の技をなんとか止めると、全身に痺れが走るようだった。だがイリスは間髪入れずに刀を弾き、机の上から飛び上がってシリュウに斬りかかる。狙いは肩から胸にかけての袈裟懸け斬り。動けなくするだけで、致命傷は与えないつもりだった。シリュウには真実を証言してもらわなければならないし、イリス自身、若い彼を殺してしまいたくはない。できれば裏から抜けて、「真っ当な」生活ができるようになってほしい。
――でも、シリュウとわたしでは「真っ当」が全然違うんだ。
シリュウ自身が言っていた。裏で育ってきた彼にとっては、裏での暮らしこそが常識なのだ。幼い頃からそう育てられてきたものを、今更変えることは難しい。イリスがいまだにメイベルたちの暮らしがわからないのと同じだ。
一瞬考え事をしたせいで、シリュウにはこちらの攻撃を完全に読まれ、避けられた。すぐに次の刃が来る。横一直線、真一文字に薙ぎ斬る技。イリスはとっさに屈んでかわし、今度はシリュウの足を斬りつける。剣は軍服の生地を裂き、たしかに狙い通りに届いた。けれどもシリュウは、傷を気にすることもしない。一歩後退り、今度は真上に振り上げた刀をイリスの頭に向かって一気に叩き落としてくる。刀を見ずに、気配だけで刃を察知し、剣で受け止めると、シリュウがくつくつと笑った。
「惜しいな。インフェリア中尉、こちらで働きませんか。眼も剣技も生かせる、最高の環境だと思いますよ」
「お断り。わたしは軍人、イリス・インフェリアなの」
「そうですか。あくまで軍の人間だと、そう言い張るわけですね」
刀を引き、シリュウがぱっくりと開いた三日月の口で言う。
「『赤眼の悪魔』のくせに、それをいつまでも軍の『正義』のために使えると。もっと楽に、自由に、その力を使ってもいいんですよ。あなたがたはどうしてか裏を敵視し滅しようとするけれど、おれには意味が解りません。裏はあなたがたが思うより、ずっと解放されたところです」
赤眼の悪魔。そう呼ばれた者は、最後には退治されてしまった。物語の中でのことだけれど、彼は存在を許されなかった。その眼で人を操った代償は、柔らかな表現で包まれてはいるけれど、きっと命だった。そして現実も、物語と同じくらい、いや、それ以上に厳しい。
この眼が疎まれたことは忘れていない。同じ眼を持つ母はかつて苦しみ、イリスもまた人々から気味悪がられ、自らもその力の大きさを恐れた。上手く扱えるかどうか、あるいは隠せるかどうか、不安の日々を過ごしてきたのは確かだ。
だが、この眼を認めてくれる人がいる。母は父らに丸ごと受け入れられ、イリスと兄を産んだ。イリスもたくさんの人に、ここにいろと言ってもらえる。強大な力のことなど気にせずに、イリスという人間を認めてくれる人たちがいる限り、ここを離れず、守ると決めた。
それがイリスの、力の使い方だ。それを捻じ曲げる気はさらさらない。
「たとえ軍がわたしを縛っていようと、それはそれでいいんだよ。シリュウが裏で生きてきたっていうなら、わたしは軍の中で生きてきたんだ。今あるこの世界が、わたしを自由にしてる。わたしは裏にはいかない。そこがどんなに自由だとしても、わたしの居場所じゃないから」
再びシリュウが斬りつけるのを、イリスは手にした剣で迎え討つ。鍔迫り合いをする両者の距離は、限界まで近くなる。
「シリュウは、どうしても裏にいるつもりなの? あんたの世界は、本当にそこでいいの? 利用されるのが、あんたの自由なわけ?」
「それはあなただって同じだ。軍に利用され、その身を縛りつけられている。軍はあなたを脅威だと思っているから手放さないと、わかっていてどうしてそこにいるんですか」
その答えは、実にシンプルだ。イリスは父を、母を、兄たちをこの眼で見てきたのだ。彼らの背負った苦しみや悲しみ、痛みやつらさ、使命の重さをよく知っている。インフェリアの名のもとに生まれたからには、知らないでいられるはずもない。
だからこそ、この道を選んだ。背負うなら、真っ直ぐに立って、前へ進もうと思った。ときには転んだり、迷ったり、道を間違ったりすることもあるけれど。そんなときは仲間が手を差し伸べ、導いてくれる。イリスの世界は、そんな場所だ。
「わたしは恐れられても、縛られても、わたしの周りだけは守るって約束したの。大切なものを何が何でも守り抜くために、わたしはここで生きる!」
シリュウの刀を押し返し、剣を高く振り上げる。距離をとったシリュウは突きの構えをとる。おそらくはシリュウのほうが速いだろうと、一度手合わせをしたイリスにはわかっている。しかし、この少年を立ち止まらせることができるのならなんでもいい。イリスの大切なものたちを守れるのなら、それでいい。
振り下ろした剣は、シリュウの肩を叩き斬る。細身の剣だから斬り落とすことはないけれど、傷は浅くないはずだ。
そしてシリュウの刀は、イリスの胸を的確に突いていた。切っ先は深く突き刺さり、けれども背中に通りはしなかった。
部屋の外からたくさんの足音が走ってくるのが聞こえる。騒ぎに気づいた軍人たちのものだろう。聞き慣れた靴音だった。
「シリュウ、裏で動くのはこれでおしまいだよ。わたしの眼を持ち帰れなければ、あんたは裏に戻ったって、生きられるかどうかわからないんでしょ?」
血を吐きながらも、はっきりと喋るイリスに、シリュウはほんの僅か瞠目して、それから目を眇める。
「言ったでしょう。裏のほうが自由なんです。あの世界はあなたが思うより広い。いくらでも生き方はあります」
シリュウもまた、呼吸が粗かった。大きく斬られた傷は、その場から立ち去ることができないほどのダメージになったはずだ。
「おれは生き続けます。あなたの眼を狙い続けます。もしあなたがどうしてもおれを裏から抜けさせたいというのなら――」
告げられた言葉に、イリスは眉を顰める。その瞬間、軍人たちが部屋に入ってきた。ここが大総統執務室であろうとお構いなしだ。戦闘の現場ならば関係ない。
「イドマル准尉を確保しろ! そして速やかにインフェリア中尉の手当てを!」
軍人たちの後方には、カリンがいた。彼女が味方をここまで導いてくれたのだ。イリスはホッとして、その途端に胸が激しく痛むのを感じた。これはどれくらいの傷なのだろう。上手に肋骨の間をぬっていた。呼吸をするたびに血が口から溢れて、なんとなく、肺かな、と思った。もう少しちゃんと勉強しておけばよかった。

レヴィアンスが大総統執務室に――シリュウが取り押さえられ、負傷したイリスが応急処置を受けている現場に戻ってきたのは、軍人たちがそこに乗り込んでから数分後のことだった。屋上でのガードナーとタスクの戦いに割って入り、止めさせ、それから来たのだ。
それまで、執務室が戦いの舞台となっていることも、門前や隠れ中庭での状況も、何も把握できていなかった。
「司令部門前ではルイゼン・リーゼッタ中佐がネイジュ・ディセンヴルスタ大佐にナイフで刺され、重傷を負いました。司令部施設内でも、フィネーロ・リッツェ少佐が肋骨、鎖骨、および右尺骨を折る重傷。ミルコレス・ロスタ少佐が額、両肩、左脇腹を撃たれて死亡。ロスタ少佐に関してはリッツェ少佐への暴行があったとの証言があり、致命傷となった額の銃創はジンミ・チャン中尉によるものだということで、本人も認めています」
急遽集まった軍人たちからの報告と、目の前の光景に呆然となる。だが、すぐに気を取り直して、レヴィアンスは報告をした将官に礼を言った。
「ありがとう。そんなにたくさんあったら、まとめるの大変だったでしょ。苦労人だね、マー坊も」
「仕事ですので。……申し訳ありません、閣下。つい最近まで私が彼らの直属の上司だったというのに、こんなことを引き起こしてしまうなんて」
トーリスが深く頭を下げるので、レヴィアンスはそれを労うように軽く叩いた。この状況は、全く彼のせいなんかではない。レヴィアンスの無茶が招いたことだ。もっと慎重になるべきだった。イリスを狙う者の尻尾は掴めたが、その代償があまりに大きい。
先ほどまで戦っていたガードナーとタスクが協力して場を鎮めようとする、その姿が唯一の救いだった。
「リーゼッタはもう病院に運んだのか。怪我の具合はどうなんだ」
「ただでさえ深い刺し傷をさらに抉られたようで、治るまでには時間がかかりそうだとのことです。幸いにも意識はあるようですが」
「リッツェ少佐とロスタ少佐については、ブロッケン大尉が詳細を知っているそうです。これから聴取を始めます」
「お願いします。しかし、くれぐれも彼女を煽るようなことはしないでください」
客用のテーブルやソファは元あった位置から大きくずれ、重厚で丈夫なはずの執務机にも傷が刻まれている。柔らかかったソファは無残にも中身がはみ出していて、この場所での戦いの激しさを物語っている。レヴィアンスはそれらを横目に、イリスのほうへと歩みを進めた。
壁に寄り掛かっている彼女は、晒した肌に包帯を何重にも巻き、口から零れる血を拭っている。粗い呼吸を整えながら、掠れた声で「レヴィ兄」と言った。
「みんなのこと、聞こえた。……ゼンやフィンは、治るんだよね。ベルとカリンちゃんは、無事なの? シリュウの傷は、大丈夫?」
この期に及んでも、自分のことは後回しだ。やはりイリスは、あの父の娘で、あの兄の妹だった。レヴィアンスは大きく溜息を吐いて、喋るな、と告げた。
「みんな大丈夫だよ。だから、お前も休んでろ。軍に入ってから、一番でっかい傷じゃんか」
「……へへーん。傷は、軍人の、勲章だよ」
「だから黙ってろって。ちゃんと治さなきゃ、勲章にしたって意味ないだろ」
救急隊が部屋にぞろぞろと入ってくる。同時に、ルイゼンとフィネーロが無事に病院へ送り届けられたという報告があった。ミルコレスも一応運ばれたそうだが、もう息がないことは確実だという。
「あ、レヴィ兄。ユロウさんが、検分の、許可を……」
担架に載せられる間際、イリスが再び口を開く。レヴィアンスは急いで頷いた。
「それはもう了解して、頼んである。焼死体が本物のミルコレスだって、すぐにわかるんじゃないかな。あいつの足取りもオレのほうで調べた。だからもう休めよ。お前にあんまり無理されると、オレがニアとカスケードさんに叱られる」
「だい、じょうぶ、だよ……。お兄ちゃんと、お父さんには、わたしから、頼んでおく。……あんまり、レヴィ兄を、叱らないでって、さ」
にい、と笑う顔は真っ青で、イリスらしさに欠ける。もうおとなしくして、傷を悪化させないようにしてほしい。けれどもそうしないのは、レヴィアンスが怪我人と同じくらいに酷い顔をしているからだというのも、自分でよくわかっていた。
シリュウも担架で運ばれていく。軍服を左肩から真っ直ぐ縦にばっさりと裂いた、その切り口が真っ黒だった。軍服が紺色なので、血に染まると真っ黒になってしまうのだ。イリスは覚悟して剣を握ったのだろう。普段から活発でよく暴れる彼女だが、人を傷つけることはめったにない。こうしなければならないと、それこそ血を吐くような思いで斬ったに違いなかった。
「シリュウ、傷を治したら全部喋ってもらうからな」
声をかけたが、答えなかった。目は開けているが、こちらの言うことを聞いていないらしい。裏の人間が、軍の頂点の人間の言うことを、聞くはずもない。
「私が迂闊でした、閣下。シリュウ・イドマルを信じ切って油断し、そのうえ自分のことに囚われてしまったせいで……」
いつのまに傍に来ていたのか、ガードナーが俯いていた。もう「申し訳ございません」は聞き飽きたので、言われる前に首を横に振った。
「仕方ないよ。シリュウは、何年もかけて軍に入り込んでいたんだ。オレやクレリアだって見抜けなかったんだから、油断したのはみんな同じ」
それより、と大総統執務室を見回す。これからこの部屋を現場として検証し、それが終われば片づけをして、同時に今回の事件をまとめなくてはならない。各司令部への報告をし、タスクやネイジュ、ジンミの処分についても考えなくては。やるべきことはたくさんある。レヴィアンスは大総統として、ガードナーは補佐として、俯いて立ち止まっている暇はない。
「まずは現場の写真かな。レオ、カメラ持ってきてくれる?」
「また閣下が撮られるんですか」
半分呆れたガードナーが資料室に向かったのを待っている、そのときだった。突然、外から轟音が響き、悲鳴が続く。何事かと窓際に集まった軍人たちを掻き分けて、レヴィアンスも外を見た。――先ほどよりももっと信じがたい光景が、日の暮れた闇の中に広がっている。
壊れた車や割れた石畳と、折れた木々。そして倒れている軍人たち。中心には空の担架が、折れ曲がって落ちていた。そこにいたはずの人物の姿は、どこを見回しても見当たらない。
レヴィアンスは弾かれたように走り出し、廊下を駆け抜け、外へ出た。ちょうど大総統執務室の下に、惨状が広がっている。血塗れになった軍人の一人が、閣下、と苦しげに呻いた。
「何があった?! シリュウは?!」
「……逃亡、しました。武器を、……剣を奪われて……」
一瞬の出来事だったという。大怪我を負っていたはずのシリュウが体を起こし、担架から飛び降りてすぐ傍にいた軍人から剣を奪った。彼が得物を一振りしただけで、周囲の全てが割れたのだ。
「しまった……ミナト流か!」
このとてつもない威力の技を、レヴィアンスは知っている。かつて間近で見たことがある。堅固な牢の鉄格子をも飴細工のように砕くことのできるこの技は、ミナト流の破壊の奥義だ。本来ならば対物のみに使われるものだが、脆い人間が巻き込まれればもちろんのこと甚大な被害を受けることになる。
「レヴィ兄っ!」
あらん限りの声をあげて、イリスが駆け寄ってくる。とはいえ、こちらも大怪我のために今にも倒れそうなくらいふらついている。動けるのが不思議なくらいだ。
「バカ、何動いてるんだ! 巻き込まれなかったみたいで良かったけどさ」
「シリュウは、逃げたの?」
とっさに支えたイリスの表情は、泣きそうなのを我慢しているようだった。痛みのせいではないことは、レヴィアンスにもわかっている。きっと、同じ気持ちだから。
「……逃げた。止められなかった。姿も見えない」
「あんな、怪我させたのに……。まだ、これだけの、力が、残ってたなんて……」
「とにかく、手分けして怪我人を運ぶ。シリュウも捜す。あとは全部オレが大総統として責任もってやるから、お前は病院に行け。今のでまた出血しただろ、バカだな」
真っ赤になった包帯と、まだ口から流れている血。しかしイリスの眼が、そんなものはどうでもいいと言っていた。その時点で、嫌な予感はしていたのだ。
無理やりイリスを無事だった車に乗せて、レヴィアンスは軍人たちに指示をとばす。怪我人の処置をし、運ぶ者。拡大した事件現場の検証にあたる者。そして、シリュウ・イドマルの捜索にあたる者。夜の中央司令部は騒がしかったが、軍人たちは指揮者の命令通りに手際よく動いていた。
メイベルとカリンはそれぞれ聴取を受ける。タスクは自ら、ネイジュとジンミは軍の者によって拘束された。ルイゼンとフィネーロは病院で治療を受けている。ミルコレスのクローンの遺体は、本物と同様に速やかに検分にまわされた。
そして、イリスは。
その日の晩のうちに、姿を消した。



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2017年06月17日

解け蠢くものたち

発見したのは、鉄道関係者だった。線路から五十メートルほど離れた場所に不審物があるとの連絡を受け、軍を待つ間にそれに近づいた。
黒い大きな袋に見える。懐中電灯で照らしても、一目見た限りではそれだけの情報しか得られなかった。袋の口は縛っただけで、簡単に開けられそうだ。
好奇心に負けた手は袋に伸び、その結び目を解く。少し持ち上げようとしたが、重かった。中身を覗き、照らし出して、彼の頭は真っ白になった。
悲鳴をあげてから、ようやく思考が追いつく。果たしてこれは作り物か、それともまさかの本物か。なにしろ真っ黒に焦げているので、判別がつかない。
遅れて到着した軍の人員も顔を顰め、けれどもじっくりとそれを眺めた。そうして下されたのは、「おそらく本物だろう」という判断だった。
男とも女ともつかない、ただ成人だろうということだけがわかる、焼死体。これは厄介な案件になるぞと、軍人は深い溜息を吐いた。


熱い紅茶をテーブルに並べてから、口火を切ったのはフィネーロだった。
「閣下、僕は個人に関するデータを私物の端末に持ち出しました。規則を破ったことを謝罪します」
イリスが口をあんぐり開ける向こうで、自分の椅子に座ったレヴィアンスは苦笑する。
「きっとそうするだろうなと思った。手間が省けていいや。だから今回だけ不問にしてあげるよ」
今回だけね、と繰り返してから、目を細めた。これは本当に次はないなと、フィネーロは肩を竦め、イリスは頭を抱えた。
「フィンがそういうことしたのは、わたしのせい?」
「いや、イリスや閣下からは、待っていればいずれ何らかの指示があるだろうと思っていた。だがそれに先んじて、僕に情報を押し付けてきたやつがいる」
「ミルコレス・ロスタだね。フィネーロと話す機会がある人物なんて、あいつくらいだ」
「やはり閣下は意図的に彼らを異動させたんですか」
レヴィアンスは首肯し、き、と表情を引き締めた。
「意図的じゃない異動なんかあるもんか。今回地方司令部から集めた五人は、オレが有能な人材を求めて各地方司令部長に打診したんだ。……というのが表向きの事情で、実際は最近立て続けに起こっていた『指定品目の違法輸出入』案件に関係し、かつ逃亡した実行犯たちと接触した人間を呼び出した。対象品目はいずれの事件もサーリシェレッド。裏では『魔眼』と呼ばれて取引されている」
これくらいわかってるよね、と言いたげなレヴィアンスに、ルイゼンとフィネーロとメイベルは当然のように同時に頷いた。ここまでは掴まれていると、イリスもわかっている。が、問題はその先だ。
「宝石だけならまだ良かったけど、ここ最近は『魔眼』にもう一つの意味がある。裏の人身売買をやってるやつらや、生体技術の悪用を目論んでるやつらが狙っている、そのものずばりの『魔眼』。イリスみたいな異能の眼だね。裏で動いてる複数の組織が同じ符丁に別の意味を込めて使っていて、実際わざと混乱させてるみたいなんだ」
これはイリスにも言ってなかったけど、と明かされたのは、大佐階級以上の一部の人員が調査を続けていた人身売買案件の話だった。確保された裏組織の人間が、符丁の扱いについて白状した。人身売買及び生体技術を扱う組織は指定品目の違法輸出入を主にしているふりをし、中央の目を欺こうとしている。指定品目に関わる案件は地方司令部で扱われることが多く、それも数が少なかったため、中央はこれまであまり関わってこなかった。ノウハウが十分とはいえなかったのだ。
「サーリシェレッドを隠れ蓑にイリスを狙ってるってのはそういうこと。だからこそ『指定品目の違法輸出入』も今まで以上に厳しく取り締まらなくちゃならなかったんだけど、失敗が続いたよね。発生件数が多くなったのはともかく、検挙率がそれ以上に下がったのが気になって、地方に相談して関係者を寄越してもらうことになったら、取引がぴたりと止まった」
そういえば、と呟いたのはルイゼンだ。異動からはまだ三日目ではあるが、中央に人が来ると決まった頃から、たしかに地方からの報告はあがってきていない。
「軍の担当者が裏と通じている疑いは濃厚になった。本当の目的はサーリシェレッドではなく、イリスの眼なんじゃないかっていうのも。全地方で一斉に取引が止まったから、全員がグルって可能性も考えた」
「それはないでしょ、レヴィ兄。カリンちゃんとシリュウは」
「例外とは言えない。たしかに裏と通じている可能性は低かったけれど、本人も知らないうちに利用されているということもありえた。隠れ蓑のほうに関わるか、中身のほうに関わるかの違いだよ。……お前たちの行動はそういうことじゃないの。カリン・ブロッケン、シリュウ・イドマル」
イリスがおそるおそる見たカリンの顔は蒼白だった。シリュウは表情こそ変えないが、実際にイリスに「賭け」を挑んでいる。彼らを擁護するものは何もない。
「……関係あるなんて、知らなかったんです」
先に細い声で言ったのは、カリンだった。メイベルが足を組み直し、妹を見つめる。
「イリスさんが狙われてるなんて今日初めて聞いたんです。だから、危ないなら味方にならなきゃって思ったのは本当で……。でも、サーリシェレッドの横流しをしようとしたのも、本当です」
あの日、と語りだしたのは、昨日の朝に聞いたカリンの失敗についてだった。あの任務の話には、隠したことがあった。
宝石の売人にいきなり腕を掴まれ、連れ去られそうになったのは事実だ。だが、そのときカリンは抵抗できたのだ。売人を押さえ込もうとしたときに告げられた一言に、ほんの一瞬、気をとられた。
――俺に命令したのはお前もよく知っている人間だぞ。
それをきっかけに形勢は逆転し、カリンは上司に助けられたが、売人は逃亡した。質の悪い冗談だろうと思い直して上司に謝り、例の言葉は黙っていた。
その翌日、西方司令部軍人寮のカリン宛てに、封書が届いた。中の便箋には家族の名前が書き連ねられ、サーリシェレッドを一粒でもいいから横流ししろという指示が添えてあった。乱暴な筆跡は、忘れたくても忘れられないものだった。
唐突に中央への異動が決まったのは、その後だ。レジーナにはサーリシェレッドを扱うスティーナ鍛冶があることは知っていた。そのセキュリティをいかに突破するかを考えるより先に目に入ったのが、イリスの剣だった。
「どうして手紙のこと、誰にも言わなかったの? 大体、カリンちゃんが従わなきゃいけないほどの何が……」
「イリス、話を聞いていてわからなかったのか。手紙を書いたのはあの男だな。それをどうしても私の耳に入れたくなくて、馬鹿なことをしようとしたんだろう」
イリスの疑問は、メイベルがバッサリと斬り捨てた。カリンは弱々しく頷き、軍服の内ポケットから封書を取り出す。差し出されたそれを奪ったメイベルは、中身を出して目を走らせ、机に叩き付けた。
「カリンに接触した売人がイリスを狙うやつらと繋がっていたことはたしかなようだ。身辺調査もどうやら万全のようだぞ、閣下」
「やられたな。カリンが絶対に抗えない相手を、向こうはもう確保してたのか」
額を押さえたレヴィアンスには、すぐに状況がわかったようだ。戸惑うイリスに、フィネーロが一言告げた。
「父親だ」
「……あ、ああ!」
ブロッケン姉妹の父親は、あまり良い人物ではなかった。以前カリンから聞いた話では、家族の虐待やその他の犯罪に手を染め、軍に入ったばかりだったメイベルによって捕まえられたのだった。だが、拘束されていた期間はそう長くはなかっただろう。現在の彼の行方を、メイベルもカリンも知らなかった。
「お父さんから手紙が来たって言ったら、お姉ちゃん、またお父さんを追うでしょう」
「ああ、今度こそ殺す自信がある」
いつもの物騒な冗談ではなく、メイベルは本気でその言葉を口にしていた。カリンが手紙のことを隠していたのは、そんな姉の執念と性分を誰よりも知っていたからだ。いくら酷い父親だったからといって、姉に手を下させるのは、カリンには我慢できなかったのだろう。それなら、自分一人が罪を被ったほうがいい――という考えは、やはり姉に似ていた。
「イリスの味方になりたいのも本当、メイベルの手を汚さないようにしたかったのも本当だったのか」
ルイゼンが言うと、カリンの目から涙があふれた。結局、どちらの気持ちも台無しにしてしまった。
「……処分を。閣下が妥当だと思う処分をしてください。わたし、馬鹿なことをしました」
「うん、じゃあここで決めちゃおうか。カリンはリーゼッタ班で身柄預かり。今後は上司の監視下に置かれる。もちろんオレも見張ってる。以上」
あまりにもあっさりとレヴィアンスが言ったので、カリンは顔を上げて目を瞠った。
「どうして……」
「だって全部未遂じゃん。売人を逃がしたのは完全にミスだったんだしさ。それにたぶん、もうメイベルが手を下す必要もないよ」
カリンがサーリシェレッドの横流しに失敗し、全てを明らかにしたこの時点で、敵方にいるであろう彼女らの父親はもう用済みになった。いや、もしかしたら手紙を書かせたらもう終わりだったかもしれない。メイベルの言った「今度」は、おそらく永遠に訪れない。
「西は調査結果を待つだけになったな。タイミング的に引っかかるところがあるから、他に内通者がいないかどうか気をつけてもらおう。で、次はシリュウ。お前の悪癖について話をしようか」
すぐに矛先を変えたレヴィアンスに、イリスはカッとなりかけた。だが、視線でガードナーに制される。今はただ、進めるだけ前に進むしかないのだ。メイベルが背筋を伸ばし、カリンが涙を拭いたのなら、イリスが口を挟むことは何もない。

シリュウ・イドマルには「賭け事」の悪癖がある。その情報は彼が中央へ来る前に、レヴィアンスに届いていた。
「至極真面目って話はどうなったのさ。賭け事って遊びじゃないの」
「いいえ、彼は本気なんですよ、義兄さん。相手がまともに取り合ってくれるのなら、命だって賭けかねない。これまで任務中でも相手に賭けを持ちかけたことが何度もあるんです。大抵は、シリュウに勝てたら見逃してやる、負けたらおとなしく連行されて何をされても文句を言うな、という内容なんですけど」
異動人員を決めるとき、東方司令部准将クレリア・リータスは電話口でそう語った。
一口に賭け事といっても様々あることは、レヴィアンスだってわかっていないわけではない。それで生計を立てている者もいるのだし、特に悪質でなければ取り締まることもない。だが、仕事の現場で大真面目に賭けをするというのは危なっかしいにもほどがある。
「問題の案件だってそうです。シリュウが相手といつもの賭けをして、でも途中で逃げられたので約束が果たされなかったんです。いつかはそういうこともあるかもしれないと思って、周りの子にも気をつけるように言っていたんですけれどね。あの子は妙な自信があって、勝つことは考えていても、相手が逃げるかもしれないということまで思い至ってないんです」
エルニーニャ軍は十歳から入隊者を受け入れている。そのためレヴィアンスも様々な子供を見てきたが、シリュウのようなタイプはなかなかいない。それもミナト流の教えなのか、と意地悪く言うと、義妹は「まさか」と少し怒ったようだった。
「だからね、義兄さん。シリュウには気をつけてあげて。あの子はあたしの弟子ですけれど、何をしでかすのか読めないのよ。もしも心が通じてしまうような裏の人間がいたら、つけこまれてしまうかもしれないわ」
そういう前置きのあとに実際にシリュウに会って、納得した。たしかに真面目そう、というよりは、無感情に見える。何を考えているのか底が知れない。しかし扱いようによっては化けるだろうなという期待がほんの少しあった。
その期待は、きっと裏の人間の誰かと同じだったに違いない。
「シリュウからイリスに勝負を申し込んだってことでいいんだよね」
「相違ありません」
「正統派の剣術を身につけてる子と手合わせできるって思って、わたしもノリノリで引き受けちゃったんだよ。だから練兵場を勝手に使ってた件は、全部わたしの責任ってことで……」
「もちろんイリスの責任だよ。あとでニアにも報告するから覚悟しとけ。そんなことより、悪癖……賭けの対象だ。どうしてイリスのサーリシェレッドだったんだ? フィネーロだって持ってるのに」
「そうなんですか、知りませんでした。リッツェ少佐は事務室にはほとんどいらっしゃらないので。その点、インフェリア中尉はわかりやすかったんです。いつも傍らに剣を置いていましたし、剣技を含む強さは東方にも知られていました。勝負をしてみたいと思うのは自然なことだったと思います」
答えは実に滑らかだ。だが、はぐらかしたことに気づかないレヴィアンスではない。そしてイリスも、シリュウの言葉への疑問を素直に表情に出していた。
それを気にしているのかいないのか、シリュウは無表情のまま言葉を継いだ。
「サーリシェレッドってきれいですよね。東方にいた時から思っていました。縁あって色々な宝石を見ることができましたけれど、何よりも美しかった。欲しかったんです、ずっと」
気にしていたのか、とレヴィアンスが思うと同時に、イリスがホッとする。違和感の正体がだんだん見えてきた。シリュウのことはわからないが、妹分のことならわかりやすい。
「イリス、シリュウの言葉に間違いはない?」
「本人がそう言うなら、間違いないんじゃないかな」
「本当に? 一言一句?」
追及すると言葉に詰まる。やはりそうか、とレヴィアンスが溜息を吐いたところで、イリスも降参したらしい。言いにくそうにその言葉を口にした。
「……『魔眼』って言った。わたしに手合わせを申し込んできたとき、シリュウはサーリシェレッドが欲しいなんて言ってない」
そうだろう。でなければ、立ち会いなしに練兵場を使うなど、今のイリスはしないはずだ。仲間の疑いを晴らしたかったのに、もしやと思うような言葉を突きつけられ、誰にも話せなくなったのだろう。
「でも、わたしの『魔眼』をくれって言ったのがサーリシェレッドって意味なら、いくらか安心だと思ったんだ。だから今、ちょっとホッとしてた。ねえ、本当にあれは、わたしの眼のことじゃないんだよね」
イリスの縋るような問いに、シリュウは何も答えなかった。一言肯定してくれればいいのに、それをしない。嘘がつけないのか、あるいは彼もまた混乱しているのか。見た目だけでは判断できない。
「イリスさんの『魔眼』を奪うよう、指示をした人物がいるのですか」
沈黙を破ったのは、ガードナーだった。これにはレヴィアンスも驚いた。彼はただ傍らにいて、話の内容をまとめているものだと思っていたのだが、この様子ではずっと考えていたのだろう。単なる思い付きで発言するような彼ではない。
「あなたに指示ができるような人物は限られています。その意味が解っていたかどうかは別として、『魔眼』という言葉を使ってイリスさんに勝負を申し込むよう、指示をしたのは……同じ東方司令部に在籍していた、ジンミ・チャン中尉ではありませんか」
シリュウはガードナーを見上げ、僅かに目を見開いた。それが返事だ。状況からの推理は、ほぼ当たっていたのだろう。レヴィアンスがなるほどと思ったのと同時に、フィネーロが「それなら」と口を開いた。
「ロスタ少佐が異様に絡んできたことにも頷ける。チャン中尉とロスタ少佐は指定品目関連の捜査で以前から面識があり、密接な関係を持つようになっていた。彼らは共犯であると、僕は考えます」
「共犯? だって片や東方、片や南方から来た人でしょ。どうして面識があるの」
「南方には指定品目に関わる特殊捜査班がある。その班員はエルニーニャ全土をまわって捜査に当たるため、各地方の担当者とは一度ならずとも会ったことがあるはずなんだ。中でもロスタ少佐とチャン中尉は仕事上だけでなく、プライベートでも深い関係にあるのだと思う。さっき情報処理室で性行為に及んでいるのを見た」
フィネーロがさらりと言い放つと、ルイゼンは紅茶を吹き出し、メイベルは眉間のしわを深くし、イリスは手をばたばたさせながら「後輩がいるのにそんなこと」などと言って顔を赤くしたり青くしたりしている。「平気ですよ」と苦笑いしたのはカリンで、シリュウは平然としている。
そんな若者たちの様子を、レヴィアンスは頬を引き攣らせながら見ていた。まさかそこまでとは。
「なんというか……災難だったね、フィネーロ」
「おそらく偶然ではありません。ロスタ少佐はチャン中尉と親密であるということを、わざと僕に見せつけたかったのでしょう」
「フィン、お前なんで平気な顔してんの……」
冷静さを保ったままフィネーロに、ルイゼンが呆れながら尋ねる。ガードナーが濡れたテーブルと服を拭いてくれるのには、きちんと礼を言った。
「平気なわけがあるか。あの男は僕の隣の席に陣取っているんだ。それはそうとして、シリュウ。君はチャン中尉のことをよくわからないと言っていたが、あれは嘘だろう。君は彼女と同じ仕事を任され、彼女についてもよく知っていたはずだ。だから宝石に縁があったと言った、違うか」
フィネーロの追及に、反論する気はないようだった。シリュウはすうっと目を細め、皮肉めいた笑みを浮かべた。
「ロスタ少佐は何のつもりで情報を喋ったんでしょうね。あの人の考えることこそよくわからない。ジンミ姉さんはあの男と付き合うようになってから様子がおかしくなったんです」
親しみを込めた呼び方に、イリスたち全員がハッとする。注目を浴びたシリュウは笑うのをやめ、「そうですよ」と続けた。
「軍に入隊して以来、ジンミ姉さんには良くしてもらっていました。同じ仕事、つまり指定品目関連ということですが、姉さんがおれを片腕として使ってくれたおかげで随分と関わっています。特にサーリシェレッドは違法取引が多いものですから、よく目にしていました」
その捜査の中で、ジンミとミルコレスは出会った。シリュウは彼らが親しくなる一部始終を、近くで見ていた。先ほどフィネーロが言ったようなことをしていたのも、当然のように知っていた。ジンミはそれを、「あの人と仲良くしておけば得だから」と言って、シリュウに聞かせていたのだった。
「姉さんとロスタ少佐は、実際いいコンビだと思います。二人が組んで、解決できなかった事件はなかった。ついこのあいだまでは」
「東方での取引の、検挙失敗の件だな」
「はい。あのとき、姉さんがおれに言ったんです。売人と対峙したら、賭けを持ち掛けろと。そうして時間を稼いでくれれば、あとは自分がなんとかする、と。しかし実際は……」
実行犯は取り逃がした。シリュウの賭けから逃げたのだ。レヴィアンスはそう聞いていたが。
「……実際は、姉さんは見ていただけでした。だからおれは、姉さんが売人が逃走するための手引きをしたのではないかと、ずっと疑っていました」
「見ていたのか、ジンミが」
彼女もまた取り逃がしたのだと聞いていた。だが、その認識は誤っていたらしい。
「姉さんは宝石を不正に取り扱う者を嫌っているはずでした。宝石を扱うのは自分の家業なのですから、当然です。しかし売人を見逃したのは……おれはロスタ少佐の指示ではないかと思うのです。あの人は、サーリシェレッドに異様な執着を持っている。軍人として危険なくらいに」
疑いは、中央に来ることが決まってから一層濃くなった。ミルコレスも中央に行くことを知ったシリュウがジンミに何気なく「今度は一緒に働くんですね」と言うと、彼女は笑みを浮かべて返したのだ。
――中央に行ったら、私とは他人のふりをしてね。私はあの人といるから。
どうして、と問い詰めた。それまでずっと姉のように慕い、弟のように扱われてきたのに。ミルコレスがいると、シリュウが邪魔になるのか。直接そう問うと、ジンミは答えず、代わりに頼みごとをしてきた。
――中央でのあなたのお仕事はね、「魔眼」を手に入れることよ。あの人が欲しがってたの。私に手を貸してくれるというなら、イリス・インフェリアの持つ魔眼を私たちに頂戴。
インフェリアの名も、その評判も知っていた。高い身体能力と、異例ともいえる大総統補佐への抜擢。そして、その眼がもつ魔性の力。実際に本人に会って、噂の意味を理解した。見ただけでぞくりと震える、サーリシェレッドと同じ色の眼は、たしかに「魔眼」だった。
「ということは、閣下」
「うん、確定だね。狙われたのはサーリシェレッドじゃなく、イリスの眼だ。手に入れたがっているのはミルコレス・ロスタ。裏と通じているかどうかはこれからもっと調べなくちゃならないけど、最低限イリスへの接触は防ごう」
現時点ではまだ彼を確保することはできない。決定的なことは何一つとしてしていないからだ。シリュウの証言だけでは足りない。任務の失敗がわざとであったという証拠もない。
あの変態め、というメイベルの悪態に、今回ばかりは全員が同意した。
ミルコレスとジンミは組んでいて、シリュウは彼らの言う通りにしていた。これまでの話が本当ならば、今のうちにシリュウの話を聞けたのは良かった。対象人物をマークし、決定的な証拠を掴めば、司令部内の問題はひとまず片付く。――そう思われた。
「閣下、ディセンヴルスタ大佐にも注意しておいたほうがよろしいかと」
ガードナーが言葉を発すると、全員が顔を上げた。いつもと変わらず冷静に、彼は続ける。
「先ほど、執務室を訪ねてきました。閣下の人事に異論があるようです」
「あ、それ、事務室でも言ってました。でも、わざわざここに来てまで言ったんですか?」
訝しむルイゼンに、レヴィアンスは苦笑する。わかってたよ、とでも言うように。
「ネイジュ・ディセンヴルスタには『大総統はかくあるべき』という理想がある。それと違っていれば、せっかく中央に来たんだ、文句くらい言いたいだろ。でもオレは今の状態がベストだと思ってるから、あいつには頑張って納得してもらうしかないな。納得できなくても、中央に来た以上は中央の人間として適切に振る舞ってもらわないと」
さらりと流すあたり、ネイジュは問題にしないということなのだろうか。しかし、それならわざわざガードナーがこの場で進言するだろうか。イリスの胸に、一点の染みのように疑問が残った。
「さてと、やるべきことはわかった。しばらくはフィネーロがミルコレス・ロスタを、ルイゼンがジンミ・チャンを見ていてほしい。二人とも苦手なタイプなのは重々承知しているけど、確実に尻尾を掴むまではなんとか頑張って。で、イリスはとにかく無茶しないこと。次やったら昇進までの道がまた遠のくよ」
「はーい」
これで解散、とレヴィアンスが手を叩き、イリスたちは立ち上がる。しかし大総統執務室を出る直前に、レヴィアンスはシリュウを呼び止めた。
「ミルコレスとジンミに何か言われたら、速やかに報告してほしい。身の危険を感じたら、こちらで出来る限りの対処はするつもりだ」
「……わかりました」
シリュウは深く頭を下げ、部屋を出る。一気に静かになった執務室で、レヴィアンスはガードナーに向き直った。
「レオ、ディセンヴルスタ大佐は何だって?」
「私が閣下の補佐であることに納得していないようです」
「なんだ、そんなこと」
鼻で笑ったレヴィアンスに、ガードナーは微笑みを返した。


翌日から、通常の仕事がまた始まる。ただしレヴィアンスの命令通り、ルイゼンはジンミに、フィネーロはミルコレスに注意を払っている。特にフィネーロは最も容疑の濃い人物の側にいるとあって、片時も気を抜けない。もちろん、昨日見てしまった不適切な光景のこともある。
イリスはフィネーロを心配していたが、情報処理室まで見に行くことは許されていない。ミルコレスとの接触は避けるように言われているし、なにより一度暴れてしまったら、おとなしくしているよりほかにないのだった。
「何かあったら、フィンがすぐに来てくれるから。落ち着けよ、イリス」
「何かって、ロスタ少佐に動きがあったらってことでしょ。フィンに何かあったらどうするの」
「白昼堂々と手出しはしないだろう」
「施設で堂々と汚らわしい行為に及ぶような変態だ、わからないぞ」
ひそひそと話し合うルイゼン、イリス、メイベルは、これでも一応同じ事務室にいるジンミを気にしている。彼女は今日はずっと内勤のようで、同じ班の者から仕事を教わったり、調査継続中の事件について聞いたりしていた。至って真面目な仕事ぶりだ、とイリスは思う。
しかし、彼女の傍にいる男性軍人はずっとそわそわしている。ジンミが髪を耳にかける仕草や、そうすることできらりと光る宝石のピアスの艶っぽさ、そして意識してそうしているのかわからない流し目に翻弄されているのだった。あれが色目を使うってやつか、とつい感心してしまう。もちろん、イリスにはとてもできない芸当だ。メイベルにはできるかもしれないが、彼女のことだ、すぐに人見知りの本性が出てしまうだろう。それも威嚇するタイプの。
別段変わったところがないので、ネイジュにも目を向けてみる。彼はとうとう事務室長机に「優先」「無駄」と見出しを付けた箱を設けて、渡される書類を一瞥してはそこに放り込んでいた。折を見て、ルイゼンが「無駄」の箱の中身を確かめる。
「失礼します。……大佐、この報告は二か月前から継続して調査している事件のものです。必要なものですよ」
「しかし事件そのものは解決済みなのだろう。もう人を割く必要も、紙を無駄にすることもない。中央の仕事は大仰で古い。もっと先進的なやり方でなければならない」
そうして振り分けられた「優先」の箱には、新規の仕事ばかりが入っている。たしかに新規の仕事は重要だが、事件の経過も大切だとルイゼンは教わってきた。だが、ネイジュにとってはそれも「古い」らしいのだ。
「リーゼッタ中佐のやり方は非効率で前時代的だ。大総統閣下やその昔の仲間に教わったものが、今、この瞬間、本当に役に立つのか考えてみてはどうかな」
心底馬鹿にしたような笑みを浮かべたネイジュを見て、イリスは立ち上がろうとした。だが、カリンに止められる。叱られたばかりなのにまた騒ぎを起こすのは得策ではない。それにレヴィアンスのやり方を否定するネイジュに、大総統補佐であるイリスが食って掛かるというのは、間接的に大総統の品位に関わってしまう。
「イリスさん、ここは我慢です。わたしが言うのもなんですけど」
「いや、ごめん。ちょっと熱くなった。だってあんな、レヴィ兄だけじゃなくてお兄ちゃんたちまでバカにするような態度はわたしだって腹立つよ」
「気持ちはわかります。でも……」
堪えなければならない。文句があるなら、ルイゼンを通すしかない。リーゼッタ班男性陣ばかりが頑張らなくてはならないのがもどかしく、イリスは溜息を吐いた。
と、同時に息の音が聞こえた。ふうっと吹くような微かな音だが、注意しているために気づいてしまった。ジンミを盗み見ると、彼女は仕事を教えてくれていた男性軍人の耳に息を吹きかけたところだった。されたほうは真っ赤になっている。
「いやらしさ満点のご挨拶だな」
苦々しい表情をしたメイベルに、向こうも気づいたようだった。イリスが「やばい」と思ったときには、もうジンミがこちらに来ていて、妖艶な微笑みを浮かべていた。
「何か? 先ほどから視線を感じるのですけれど、私、生憎女性は守備範囲外なの」
「それは安心だ。イリスにまで色目を使われたらたまったもんじゃない」
即座にメイベルが返答する。室長机からこちらを見るネイジュの視線が冷たい。また先日のような騒ぎになる前に、なんとかしなくては。
「ベル、ちょっと。教えてほしいことがあるんだけどな」
「……わかった、色目女は放っておくよ」
「まあ、随分な言い草ですこと。リッツェ少佐はうぶだったのに、ブロッケン大尉は遠慮がありませんのね」
気を逸らせようとしたイリスの作戦は、失敗どころか余計な方向に持っていかれてしまった。メイベルの眉間のしわはいよいよ深くなり、ジンミを睨み付ける。口を開き、あわや暴言が飛び出るかというその寸前。
「チャン中尉、あまりうちの班の人間を刺激しないでいただきたい。もうわかっているだろうが、うちは少々カルシウム不足でね」
ルイゼンがあいだに割って入り、メイベルの悪態を封じた。彼女だけではなく、フィネーロのことについても牽制している。それが面白いのか、ジンミはクスクスと笑いながら、ルイゼンの顎に細い指を伸ばした。
「だったら骨まで食べられるお魚がおすすめですわ。脳の働きも良くなるそうですし」
つうっと輪郭をなぞり、首から胸へと降りてきた白い人差し指に、しかしルイゼンは全く動じない。指が腹部に到達しようかというところで、バサバサっと大きな音がした。
「ご、ごめんなさい、バインダーの山を崩してしまって。ルイゼンさん、すみませんけど拾うの手伝ってください。これちょっと重くて……」
先ほどカリン自身がしっかり安定させて積んだバインダーだった。急に落ちるはずがない。裏に協力しようとしてしまったことを悔やんでか、今日のカリンは大活躍だった。
今行く、と踵を返したルイゼンの背中に、ジンミが、あら残念、と呟いた。そして自分の机に帰っていく。ひとまず風紀の乱れは抑えられたらしい。
イリスは再び溜息を吐き、バインダー拾いを手伝った。カリンに小声で「ありがとう」と言うと、困ったような笑みが見えた。
「わたしにはこれくらいしか、お詫びすることができませんから」
ここにいる限り、カリンは昨日したことをずっと詫び続けるつもりだ。レヴィアンスも彼女を退役以外で解放するつもりはないだろう。罪の意識が、彼女のしてしまったことへの罰だ。あんまりだ、とイリスは思ってしまうが、当事者である自分が何を言っても、カリンの救いにはならない。ただただ同情と憐れみを受け取って、より萎縮してしまうだろう。
言葉を返せずにいると、ルイゼンがバインダーを机の上に置き、真剣な表情で告げた。
「詫びでも名誉の回復でも何でもいい。仕事をきっちりやってくれれば、俺はかまわない」
やんわりとした口調だが、つまりは、感情で仕事をおろそかにするなということだ。カリンは真意をきちんと汲み取ったようで、さっきよりも力強い目で「はい」と頷いた。
「さっきから何をこそこそしているんだい、リーゼッタ班諸君は。無駄話は仕事にとって最もたる害悪だよ」
そこに水を差したネイジュにイリスはムッとするが、それが見えないようにルイゼンが進み出て、「申し訳ありません」と頭を軽く下げる。そして再び「無駄箱」に向かい、本来であればやらなければならない仕事を拾いにかかった。
「あのルイゼンの態度は、閣下やルーファさんやイリスの兄君から教わったものだな。古いも新しいもないから安心しろ、イリス」
わざと声を潜めずにメイベルが言うと、少しだけ胸がすく思いがした。けれどもネイジュがまた嫌な顔をしたので、慌てて唇に人差し指を当てた。
ちょっとした、けれども事務室内ではそれなりの騒動だったはずだ。他の班の人間もこちらに注目していたし、そうでなくてもちらちらと窺っていた。だがその中で、たった一人、何のアクションも起こさなかった者がいる。
――シリュウ……。あんたって、肝が据わってんのか、それとも……。
イリスが気にしているのは、ジンミやネイジュばかりではない。昨日全てを話してしまったのだから、もっと動揺していてもおかしくはないはずなのに、シリュウはこれまでと同じで微動だにしていなかった。単にジンミの行動に慣れているのか、仕事のみに集中できる精神力を鍛えられているのか。その感情は、ここにきてもまだ読めなかった。

昼休みには、リーゼッタ班の全員で第三休憩室に集まった。昼食は食堂から軽食を入手し、ここまで持って来た。加えてここにはレヴィアンスが隠し持っていた良質な茶葉があるので、美味しい紅茶も淹れられる。イリスが人数分のカップを用意しているあいだに、フィネーロはもう話し始めていた。
「何事もなかったように振る舞っていたよ、ロスタ少佐は。真面目に仕事をしている。お喋りが多めなのは……まあ、あの人の性格なんだろう。しかし適切な内容の雑談だった」
「雑談に適切も何もないって、ディセンヴルスタ大佐なら言いそうだけど」
苦笑いをしたルイゼンの前にサンドイッチを差し出して、だが、とメイベルが言う。
「雑談から進展が見えることもある。フィネーロ、今日は変態はどんな話を?」
「レジーナ近郊の村に点在する、金鉱脈の話がメインだ。今回の件に関わりはなさそうだった」
「中央は金の産出が多いんだよな。他国に比べてもよく採れる」
「鉱物なら何でもいいのか、あの変態」
こちらも雑談をしながらサンドイッチを食み、イリスが紅茶を振る舞う。そしてやっと会話に参加した。
「ジンミも特に目立った行動はないよ。ゼンを誘惑しようとして失敗してたくらいかな」
「ほう。さすがだな、我らがリーダーは」
「いや、カリンに助けてもらわなきゃまずかった。あの子、たしかに妙な色気がある。俺はああいうタイプって苦手だけど、好きなやつはコロコロ転がされるんだろうな。東方ではどうだったんだ、シリュウ」
それまで無言だった彼に話が振られ、何故かイリスのほうがドキドキしてしまった。シリュウが何を答えるのか、それは十六歳の少年に答えさせていいものなのか、様々な思いが湧いてくる。
「姉さんはいつもああです。男の人に粉をかけてはあしらうのが趣味なんですよ」
さらりと、姉さん、と口にした。親密であることを知られた以上、わざわざ他人行儀に表現することもないと判断したらしい。けれどもそれ以上は言わなかった。おまけにサンドイッチには手を付けていないし、紅茶のカップにも触れさえしない。
「シリュウ君、何か食べたほうがいいよ。午後から合同訓練があるでしょう、お腹空いちゃうよ」
カリンが勧めるが、頷くだけで手は出さない。こうなったら無理やりにでも口に突っ込んでやろうかとイリスが考え始めたとき、フィネーロが言った。
「シリュウ、君が何を考えてるのかは知らないし、僕はどうでもいいとすら思っている。だがルイゼンやイリスは聞きたがりだから、話したいことがあれば大抵は聞いてくれる。うちにはすでに自分の事情を意地でも話すまいとしている人間がいるから、言わないのももちろん自由だ」
必要であればこちらから暴きにいくが、と付け加えて、自分もサンドイッチに齧りついた。いつもは食べないような、揚げた鶏肉とタルタルソースがたっぷりのものだ。驚くイリスの横で、今度はメイベルが肉厚のハムで作ったハムサンドを手に取る。いつもは食が細い二人の態度による説得で、シリュウはようやくサンドイッチに手を伸ばした。
「おお、食べた……!」
「イリス、動物じゃないんだから。まあでも、食っとくに越したことはないし、育ち盛りなんだから、食事はちゃんとしろよ」
ルイゼンがきれいにまとめれば、この場は和やかさを取り戻す。もくもくと口を動かすシリュウに、イリスも安心した。
やがて皿の上に何もなくなった頃、ルイゼンは改めて切り出した。
「さて、雑談のおかげでロスタ少佐がチャン中尉にとってどれだけ特別かはわかったな」
「え、さっきので何がわかるの」
「粉かけてあしらうのが、チャン中尉の趣味なんだろ。だったらまともに相手をしているロスタ少佐は、趣味の範疇を超えているってことだ。少佐は喋りすぎるからともかくとして、チャン中尉に動きがあったら、二人ともに何かがあると思っていいかもな」
なるほど、とイリスが頷くと、いい加減それくらいわかれよ、と小突かれた。
「しかし再確認に過ぎないぞ。やはり決定的な証拠が欲しいな」
「だよなあ……。ロスタ少佐も話題を変えたなら、今は引き出すのが難しいかもしれない」
「あるいはもう喋りきったから、あの中からヒントを洗い出すしかないのか。フィネーロ、今までのやり取りは憶えているんだな?」
初めはイリスに関わることだったのに、今では班の全員がこの件を自分のものとして捉えている。それだけではなく、考えるのも理解するのも速い。とんでもなく頼もしい仲間たちだ。だからシリュウにも、遠慮なく先輩たちを頼ってほしいのだが、まだ時間がかかるだろうか。無表情の横顔と減っていないカップの中身を、イリスはもどかしい思いで見つめた。
「午後の確認だけしておくか。イリスは閣下から呼び出されてないし、俺は室長机の例の箱を見ておきたいから事務室にいる。メイベルもだな。フィンは引き続き情報処理室で、通常業務とロスタ少佐の見張り。カリンとシリュウは練兵場で合同訓練。それぞれ終わったら、また事務室で合流しよう」
ルイゼンがその場を締めてから、イリスはすぐにカップと皿を片付けにかかる。一つだけ残った紅茶を捨てるのは、気が重かった。

事件の情報が入ってきたのは、午後の仕事が始まってからまもなくのことだった。内線をとったネイジュがしばらく相槌を打っていたかと思うと、ルイゼンを呼んだ。
「リーゼッタ中佐、死体遺棄事件に関わった経験は?」
「状態にもよりますけど、一応あります」
「黒焦げで身元不明だそうだ。中央管轄の路線の側で発見されたという。君に任せる」
突然放られた案件だが、ルイゼンはすぐに受けた。ネイジュからもう少し情報を引き出したところによると、現地駐在の軍人が発見して担当していたが、結局は中央司令部にまわさざるをえなくなったのだという。身元がわからないほど黒焦げなら仕方がない。
ミルコレスとジンミの監視は一時中断して、リーゼッタ班全員でこの死体遺棄事件にあたることになった。イリスはカリンとシリュウにそのような状態の死体を見せても大丈夫なのか心配したが、二人とも落ち着いていた。
「西でも、けっこうご遺体は見ちゃうんです。さすがに黒焦げは初めてですけど」
「同じく。この仕事をしている以上は、人の死は避けて通れないでしょう」
「悪いな、来て早々に変な事件に付き合わせて。でも、シリュウの言う通り仕事だからな。せめて身元がわかるよう、最善を尽くそう」
「最善と言ったって、私たちは行方不明者リストを調べたり、現地での聞き込みをするくらいしかできないが」
合流の予定は早まり、リーゼッタ班は外へ出る。人員が増えたので四人乗りの車では動けず、運転手はルイゼンとフィネーロがそれぞれ務めることになった。ルイゼン、イリス、シリュウで一台、フィネーロ、メイベル、カリンで一台を使う。運転手二人が、それぞれで引き取る人員をさっさと決めてしまった。万が一の際のパワーバランスにも問題はないだろう。ただ、イリスと離れるブロッケン姉妹が不満げなだけだ。
車に乗り込もうとして、「待ってください」と呼び止められた。声はガードナーだったが、走ってきたのはもう一人。立ち止まった途端にぜえぜえと息をする人物に、一同はギョッとした。パーカーのフードを被り、顔の大半を覆うマスクをしたその人が、誰だかわからない。
「あなたは急がなくてもよろしかったのに」
「いいえ、急ぎですから。どっちか、僕も乗せていってくれる?」
ガードナーが慌てて気遣うのに答えた声は、医務室の主だった。マスクをしていても顔が蒼いとわかる。そもそも彼にとって、陽の光と激しい運動は控えるべきもののはずだ。
「ユロウさん、なんで? すごく具合悪そうだけど……」
「遺体の身元特定に協力してくださるそうですが、閣下も無理にとは言っていません。しかし」
「イリスちゃん、カルテ見たよね。その中で気になることがあるんだ」
カルテを見たのは、直近では一度。異動してきた五人のものをユロウに見せてもらった、あのとき以外に思いつかない。しかし、それが今回の仕事と何の関係があるというのだ。――関係なければ、レヴィアンスは絶対に止める。それをしなかったということは。
「ゼン、行ける?」
「任せろ。ユロウさん、こちらの車に。具合悪ければ袋か何か用意しましょうか」
「大丈夫、持参した。でも君の運転は信頼してるよ。兄さんがおとなしく運ばれるんだからね」
ユロウを先に車に乗せ、続いてシリュウとルイゼンが乗り込む。イリスはそれを確認しながら、ガードナーに問う。
「レヴィ兄は何て言ってるんですか」
「可能性があるなら確かめねばならないと仰っています。ですがホワイトナイト先生はあの状態ですし、イリスさんたちが様子を見て差し上げてください」
「わかりました。では、いってきます。レヴィ兄によろしく!」
多くを語らないのは、これが急ぎだからだ。任務としてももちろんだが、イリスたちに関わることかもしれない。一つでも可能性があれば、足がかりがあればと、考えていた矢先なのだ。
車内では、ユロウは説明もままならなかったので、寝かせておいた。シリュウが「本当にこの人は役に立つのか」という表情をしていたので、イリスは助手席から、苦笑しながらフォローを入れる。
「身体は弱いけど名医なんだよ。きっと見つかった遺体の身元に心当たりがあるんだと思う」
とはいえ、その内容は想像もつかない。焼死体では、心当たりがあったとしても、確かめるすべがあるのだろうか。それにカルテがどう関わっているのかもわからない。
「イリスが見たカルテは、異動してきた五人のもので間違いないんだよな」
「うん、それしか見てない。前に別の事件で確認させてもらったことはあったけど、今関係ありそうなのはそれしかないはず。……でも、カルテだけで何がわかるんだろう。それも生きてる人のだよ」
「フィンの車に乗せて、ちょっとずつでも聞き出した方が良かったかもしれないな。あいつならすぐに見当がつきそうだ。メイベルとカリンもいるし」
パワーバランスに問題がない、というのは訂正しなければならないだろう。今この瞬間、大いに偏っている。シリュウにも尋ねてみたが、無表情のまま首を横に振られた。
遺体発見の現場は、首都から南側に伸びた線路の近くだ。中央司令部所属の軍人が交代で勤務している現地駐在所からは少々距離がある。発見されたのは本日未明で、第一発見者は鉄道関係者だという。線路の確認の時間は決まっているから、遺棄できる時間も限られている。駐在所にいた軍人も、昨夜十一時以降とあたりをつけていた。
「目撃者は見つかっていません。首都中心部と違って監視機能もほとんどありませんし、犯人を特定するのは難しいかと」
「なるほど。ディセンヴルスタ大佐、これがすぐに功績にならないと思って俺に任せたんじゃないだろうな……」
わからない尽くしではすぐに結果が出ない。だからといって調べなければ、わからないままで葬られてしまう。そんなことが許されていいはずがない。犯人はともかくとして、死んでしまった人をそうとは知らずに待っている人がいるかもしれないのだから。
歯噛みするルイゼンの後ろで、イリスはユロウの背中をさすっていた。もう大丈夫だよ、と本人は言うが、とてもそうは見えないのだ。フードにマスクといういでたちは駐在員たちに怪しまれてしまい、しかしながら本人は車から降りるのがやっとで言い訳もできず、先んじてルイゼンとイリスで必死の説明をしたところだった。
「あの、そろそろ遺体を見たいな。メイベルちゃんたち、もう行ってるんだよね」
「もう動くんですか? でも顔色……」
「こんなのいつものことだよ」
「こっちは話聞いておくから、イリス、連れて行ってあげてくれ。シリュウは俺の手伝いをしてほしい」
いつまでもここにいるよりは、という声なき言葉を察して、イリスは頷く。ユロウを支えながら駐在所を出て、ここからさらに離れた病院に向かうために車に乗り込んだ。フィネーロたちとは車内無線で連絡を取り合い、先にそちらへ向かってもらっている。
二人きりになった車内で、イリスはユロウの様子を見つつ尋ねた。
「カルテと今回見つかった遺体、何か関係があるんですか」
「……うーん、僕は本当は専門じゃないんだけど。でもずっと気になってはいたんだよ」
シートを倒して横になったユロウの手には、いつのまにかあのカルテがあった。車の中で読むと余計に具合悪くなりますよ、と言おうとしたところで、内容が読み上げられる。五人のうちの一人の名前と、その人物が持つある特徴。それを聞くうち、イリスは自分まで具合が悪くなってきた。
そんなことはありえないだろう。そう言いきれないのは、イリス自身が可能性と実例を知っていたからだ。むしろだからこそ、ユロウは二人きりになった今を狙ってカルテを取り出したのかもしれなかった。
「閣下……レヴィ君から、僕も話は聞いてるからね。だからこそ遺体の特徴について情報をもらったとき、ピンときた。いかにも裏がやりそうなことでしょう」
「考えたくないけど、そうかも」
今でこそレヴィアンスが何とか有効活用できないかと目論んでいるが、そもそもは裏で発展していた技術というのが、この大陸にはいくつか存在する。ことエルニーニャ王国においては、発展させられるだけの土壌とそれを利用できるだけの能力を持つ人材が揃っていた。今回もそれを悪用されたのだとしたら、イリスはなおのこと放っておけない。
「こんなことなら、二手に分かれればよかった。そうしたらすぐに追い詰められたかもしれないのに」
「ちゃんと分かれてるじゃない。司令部にはレヴィ君とレオナルド君がいる。一番心強いでしょう」
口をとがらせるイリスにもっともなことを言って、ユロウは不敵に笑った。まだ少し弱々しくはあったが、確実に彼の兄と同じ血が流れていると思わせる笑みだった。

真っ黒な、かろうじて人間だとわかる丸まったものを、カリンはじっくりと観察する。メイベルが感心して覗き込むと、くるりと振り向いて「きっと男性」と言った。
「性別の判断がつきにくかったのは、この体勢のせいだと思う。見た目にもよく焼けてるし。でも体型からして、男の人なんじゃないかな。一番判別しやすいところは切り取られてるから、事故や自殺じゃなくて殺人かも」
「西では随分物騒な方向に鍛えられたんだな。事務メインのくせに」
「お姉ちゃんに物騒って言われたくない。わたし、頑張って勉強したんだよ。全部無駄にするようなことしちゃったけど……」
「閣下が無駄にしなかったし、実際君の能力は高い。遺体の検分はプロが来てから、と思っていたが、カリンだけでも問題ない日が来るかもしれないな」
持ち込んだ端末に情報を入力しながら、フィネーロも褒める。少しだけ照れたカリンを、メイベルが優しく小突いた。
遺体を安置するために用意されたのは、病院の地下だった。首都中心部には軍が持っている専用の施設があるのだが、ここでは代わりに病院の霊安室の一部を利用している。もっときれいな状態の遺体ならば中心部に輸送することもできたのだろうが、すでにカサカサになって崩れかけている焼死体では難しい。
そして地方の病院には、死体にかまっている暇がない。結果、このように中央から人員が来るまで転がされることとなってしまった。
「酷なことを訊くが、それが君たちの父親である可能性は?」
「ないと思います。体格が違いますし、そこまで裏が手をかけるとも思えません」
「そうだな。カリンへの見せしめにしては手回しが早いし、それなら身元がわかるようにしているだろう。あの男だったところで、どうとも思わないが」
フィネーロの中にあった可能性の一つは潰れた。あとはユロウが気にしているという事項だ。わざわざカルテを持ちだしてきた、それもイリスが見たものを、とすれば異動してきた五人のうちの誰かに関係する人物であると考えられる。まさか本人ということはあるまい、全員生きて中央司令部にいるのだから。
「フィン、ベル、カリンちゃん。お待たせ」
部屋の戸が軋みながら開き、イリスが顔を覗かせる。その後ろには、いまだ病人のような顔をしたユロウがいた。フードもマスクもないのは、ここが陽の入らない地下だからだろう。
「ルイゼンは」
「駐在員からもうちょっと話聞いてくるって。シリュウはゼンのサポート。……で、それが例の?」
「はい、こちらが被害者の方です」
イリスが見やった黒い塊を、カリンが手で示す。生きている人間を紹介するかのように。イリスとユロウは並んで近づき、短い祈りをささげた。
「……カリンが言うには、被害者は男性。殺人の可能性が高いのではないかと」
「カリンちゃんが見たの? すごいねえ……」
「万が一ということもありましたから。でも、おそらく父ではありません」
驚くイリスの横で、ユロウがさっそく動いた。遺体の顔を覗き込みながら、フィネーロに問う。
「フィネーロ君って、ミルコレス・ロスタ少佐と一緒にいる時間が長いんだってね。彼の口の中を見たことがある?」
「さすがにそこまでじっくり見たことはありません。しかしなぜ口の中……」
言いかけて、はっとした。身元特定の材料になりうるもので、全身が焼けても残っているかもしれないものがある。
「そうか、歯だ。焼死体の身元特定に有用とされていますね」
「うん。僕は法歯学は専門じゃないけど、歯の所見ならカルテである程度わかる」
「でも個人識別の話ですよね。詳しく調べれば身内だとわかるかもしれませんが、ユロウさんが持っている判断材料はカルテだけでは」
「だから、個人の特定の話なんだ。この遺体はミルコレス・ロスタ本人のものである可能性が高い」
ユロウはまだ遺体の口の中を覗いている。けれども絶句しているフィネーロのことが見えているように、信じられないよね、と呟いた。
「……では、中央司令部にいるのは偽物だと? しかし顔見知りであるはずのジンミやシリュウは何も言っていない」
「わからないんじゃないかな。体を構成する組織とその形状が全て本人と同一なら、整形だって必要ないし」
メイベルがイリスをつつく。説明しろ、というのだ。カリンも戸惑っている。ユロウではなくイリスに確認するということは、メイベルはいくらか察しがついているのだろう。この件に一番詳しいのはイリスだった。
「つまり、司令部にいるのは、ロスタ少佐のクローンなんじゃないかって。過去にも事例はあるから、ありえない話じゃない。それならジンミやシリュウだって、気付かないかもしれないよね」
裏組織によるクローン生成研究は、表向きの研究よりもはるかに歴史が長い。そもそも表立っては、クローンの存在は「ない」ということになっている。軍がひた隠しにしているあいだに、裏ではさらに研究が進んでいた。
イリスの両親が軍に在籍していた頃には、すでに自立して行動ができる人間のクローンが、裏に利用されている。そしてその祖であり、究極ともいわれる記憶継承クローンが、イリスと親しいラヴェンダだ。
「ラヴェンダみたいな人は、生命維持のための特別な装置が必要なんだけど。でももっと研究が進んでるなら、そんなものはなしに、記憶を持ったまま自由に動けるタイプがつくられているかもしれない。それに記憶を短期間分植え付けただけなら、ラヴェンダほどの処置はいらないみたいなんだ。そういうのなら、お父さんが十代のときにはもうできてたんだって」
ブロッケン姉妹の表情は、顔はあまり似ていないのに全く同じだった。死体遺棄事件や、指定品目の不正取引や、イリスの眼といったものよりももっと根が深くて底が暗い、そんなものに自分たちが関わっていいものなのかという疑問と恐怖。カリンはともかく、メイベルまでがそんなふうだ。
あまりに手が届かないようならば、レヴィアンスは佐官以上のベテランを集めて、改めてこの件を仕切るだろう。ユロウがついてきたのは、そのラインを見極めるためだ。
「……銀歯をしてたんだよね」
ぽつりとユロウが言う。
「銀歯ですか? ロスタ少佐が?」
「うん、カルテ上はそうなっていた。そしてこの遺体は、特徴が酷似しているんだよね。レヴィ君から別の許可を貰って、きちんと調べてもらった方が確実だけど、僕の見立てではミルコレス・ロスタ本人」
治療か趣味かはさておき、歯に全く同じ加工の痕ができるはずはない。クローンでも傷の完全再現までは不可能だ。
「念のためカルテも本物かどうか調べないと。南方から中央に来るまでの彼の動きを調べるのは、君たちの仕事だね。頑張って」
生きているほうと死んでいるほう、どちらが本物のミルコレスでも、彼は裏に関わっていることになる。今ここにあるのが本当の彼ならば、被害者として。
「もし巻き込まれただけだったら、わたしのせいだ」
「イリスのせいなものか。余計な責任を感じるより、でかい証拠を掴めたのだと思え」
「シリュウの証言通りなら、ただ巻き込まれただけということはない。もともと怪しかったんだ」
メイベルとフィネーロに肩を叩かれるが、イリスは俯いたままだった。死人が出てしまったことを、仕方ないとは思えない。けれども防ぎようがなかったのもたしかだ。唇を噛んでいると、部屋の扉が開いた。
「悪い、遅れた。何か手掛かりはあったか」
「ルイゼン、ややこしい話になったぞ」
リーゼッタ班の全員が揃ったところで、フィネーロとユロウが説明をした。イリスはそれを聞きながら、各々の表情を見ていた。驚きつつも納得した様子のルイゼン。機嫌の悪そうなメイベル。少し疲れが見えるフィネーロ。顔色は悪いが落ち着いているユロウ。真剣な目をしたカリン。動じることのないシリュウ。彼らと一緒にいて、情けない顔をしている暇はない。
「遺体の情報公開の件もあるし、閣下に相談だな。すぐに連絡をとろう」
「早く動いたほうがいいよね。ロスタ少佐がクローンなら、あの人は黒幕じゃない。裏にボスがいるなら、きっと尉官のわたしは動けないだろうし……」
引き続き事件にあたれるのは、リーゼッタ班ではルイゼンとフィネーロの佐官組だろう。イリスは自分ができることを捜し、かつ余計なことはしないように慎重に行動しなければならない。何ができるか、考えなければ。


中央司令部では、レヴィアンスが南方司令部と連絡をとっていた。
ユロウが「発見された遺体の特徴とミルコレス・ロスタのカルテの内容が似ている」というので、その行動や南方での様子をより詳細に聞き出そうとしたのだ。南方司令部長はミルコレスを信頼していて、それだけに彼が中央に引き抜かれたことを惜しく思っていた。それだけ優秀な人物だったのだ。
ただ、性格には少々難があった。宝石への異様なこだわり。そして女性との派手な付き合い。南方にいた頃から、これは変わっていないようだ。
「東方に彼女がいたという話は聞いたことがある?」
「さあ……。ロスタはエルニーニャ各地に足を伸ばして、そのたびに現地の女性を口説いていたようですから。関係を持ったのも、一人だけではないでしょう」
ミルコレスの相手はジンミだけではない。彼は知り合いをいくらでも作れた。それが軍や一般の人間だけではないかもしれないということは、容易に想像がつく。
「そういうところはちょっと問題かもしれませんが、仕事には真面目ですよ。中央への異動も、前日には現地入りしたいと言って、随分と早く出発しましたし」
「前日に?」
妙だ、と思うと同時に、横でガードナーが手帳を捲った。そして、頷きながらページを見せてくれる。五人の軍人がエルニーニャに来たのは、いずれも着任当日の朝ということになっていた。ならば、ミルコレスには南方から中央に来るまでに空白の時間がある。南方司令部のあるマードックから首都レジーナまで、列車一本。たしかに数時間はかかるが、列車のダイヤから考えて、ミルコレスの動きは不自然だった。
「……ロスタ少佐が南方司令部にいるあいだ、来客はあった?」
「各地に知り合いがいますから、訪ねて来る人も多かったですね。司令部を通さずに会っている人もいますから、こちらで全てを把握することはできていません」
「わかるだけでいい、データを寄越してくれない?」
ミルコレスがマードックを出発する日を知っている人物の中に、彼と手を組んでいる、あるいは彼を利用した人間がいるかもしれないのだ。南方司令部長が電話の向こうで指示を出しているのを聞いていると、執務室の扉がノックされた。
私が、とガードナーが出る。細く開けた扉から、覚えのある顔が見えた。
「失礼。閣下は仕事中か」
「……珍しいですね、グラン大将」
そこにいたのは、タスク・グラン。将官室長となって三年経ったが、あまり大総統執務室に来たことはない。そしてガードナーと直接話すのも、実に三年ぶりのことだった。
「閣下は別に仕事中でもかまわない。俺が用があるのはお前だ、ガードナー大総統補佐大将」
瞠目したガードナーに、タスクは笑みを見せた。昔と変わらない、自信に満ち溢れた勝気な笑顔。だがそれは見る人から見れば、気持ちの良いものではないようだった。
「外で話せないか? レオナルド」
昔のように呼ぶ声色は、こちらを下に見るそれだった。
「閣下」
「いいよ、こっちはまだかかるから。行って来なよ、レオ」
レヴィアンスが笑みを浮かべる。ここは大丈夫。そして――。言わんとしていることは、もうすっかりわかってしまうようになっていた。
「では、失礼します。すぐに戻りますから」
一礼して部屋を出たガードナーの目の前には、すでに笑顔の消えたタスクがいる。彼が歩き出した方向には、話し合えるような部屋などはない。あるのは階段だ。最上階まで登れば、屋上に辿り着く。案の定、行き先は春の強い風が吹き付ける、中央司令部の広い屋上だった。
「こうして話すのも久しぶりだな、レオナルド」
伸びをしながら、タスクが言う。こちらに背を向けているので、表情は見えない。ただ、声は昔のまま、大きくてよく響いた。
「大総統補佐、よく務めているそうじゃないか。あの閣下の手綱を握るのは、大変じゃないか? なにしろやることがめちゃくちゃだ。自ら現場に出向くことも多い。貴重な血が流れているせいで命まで狙われる。その相手をするのは面倒だろう」
「面倒はない、といえば嘘にはなるかな」
ガードナーも言葉を崩す。かつてはこんなふうに、彼と話していたのだ。その日はとうに懐かしいものになってしまったと思っていた。
「でも、僕は閣下が好きだから、苦ではないよ。あの人は黙って椅子に座っていることができない性分なんだ。たまにすごい集中力を発揮して、誰の声も聞こえないことがあるけれど。一緒にいれば、魅力がわかるよ」
「さすが、一緒にいられるやつは言うことが違う」
タスクが振り向き、こちらを見る。軽く眉を寄せ、目を眇めて。口元だけがまだ笑みを作っていた。
「補佐様ならではの自慢だな。お前がそんなことを言えるようになるなんて、俺は感激だよ」
補佐を務めることに不安のあったガードナーに、誰も何も言わないなら認めてくれているんだろう、とレヴィアンスは言っていた。だが、そうではない。ガードナーもタスクも、それなりに大人になって、本心をそのまま態度に出すことをしなくなっただけだ。タスクには将官室長という立場が与えられている。補佐までとはいかないが、十分に大きな力を持つ地位だ。そこに就けたレヴィアンスに文句は言えない。レヴィアンスの選んだガードナーとも、衝突を避けていたのだ。
「暗殺事件のときは驚いた。レオナルドのことだから、てっきり閣下のお茶汲みばかりやっているかと思ったが、案外まともに戦えるんだな。病院を抜け出したのも、閣下のためか。楯にされたのに、どうしてそこまでできる? それほどまでにあの男が大事か」
「楯にされたんじゃないよ。僕が自分でそうなると決めた。閣下はそんなことはしてほしくないと、ずっと言ってくれている」
「そんなだから利用されるんだよ、お前は」
ガードナーを憐れむように、タスクが嗤う。もう避けるのはやめにしたらしい。その場所を狙うのならば、そこにいる者を叩きのめし、引き摺り下ろさなければならない。黙っているだけでは、何も動かせない。かつてそうだったように、自ら掴みに行かなければ。
「お前が良い人なのは、友人だった俺がよく知っている。それがどんなに利用されてきたか、お前自身がそれにどれほど甘んじてきたかも。閣下だって同じだ。レオナルドを利用するために補佐にした。それ以外に、お前が補佐になれる要素なんて見当たらない。何年経っても、俺には理解できない」
肩を竦める元友人を、ガードナーは無言で見つめた。――認めてくれている。そのレヴィアンスの見立ては、そして自分がそうかもしれないと期待したものは、ただの妄想だった。結局、タスクは今でもガードナーを見下し、大総統補佐にはふさわしくないとみなしていたのだ。
「そのうち限界を感じるようになるよ、お前も。あの閣下と、お前みたいな補佐と、ついでに家柄だけのお嬢ちゃんじゃ、この国の頂点として立っていられなくなる。王宮と文派にうまく丸め込まれておしまいだ」
「……じゃあ、タスクは誰が相応しいというんだ」
「力のある人間でなければだめだ。名前に頼ることなんかしないで、実力で勝負できる人間が頂点にいて、この国をまとめるべきだ。俺の考えは、昔から変わっていない。それに賛同してくれるやつもいる」
同期として軍に入隊したときから、タスクはガードナーに常々言っていた。いつか自分が大総統になりたいと。当時その地位にいたハル・スティーナは、タスクには儚く見えたらしい。実直な姿勢は、つまらなかったという。その前、カスケード・インフェリアの治世から軍は崩壊しつつあり、ハル・スティーナが三派政を始めたことで、軍のあるべき姿は失われてしまったと嘆いていた。
俺ならこんなことにはさせなかったのに。寮の、ガードナーと同じだった部屋で、タスクはそうぼやいていた。昔の話だと思っていた。
「賛同者とは、ネイジュ・ディセンヴルスタ大佐かな。まさかタスク、彼に唆されたわけじゃないよね」
「唆された? あんなガキに、この俺が? 違うな、俺があいつを使うんだ。あの単純さは便利だ」
「単純だから危険なんだよ。……タスク、何か物騒なことを考えているなら、やめたほうがいい。それは君の破滅に繋がる」
「忠告のつもりか、レオナルド。随分な身分になったな!」
予備動作はほとんどなく、タスクが腰の剣を抜いた。溜めずにそのまま薙いだ刃を、ガードナーはとっさに飛び退いて避ける。それと同時に、自身も剣を抜く。そして正道の構えでぴたりと止まった。
「タスク、無駄な戦いはやめよう。僕らは今、こんなことをしている場合ではないんだ」
「無駄かどうかは勝者が決める。俺たちは、昔からそうだったじゃないか、レオナルド!」
ガードナーの手から剣を弾き飛ばすような勢いで、タスクが斬りかかる。激しい音が響くが、ガードナーは柄をしっかりと握りしめたままだ。動きはあくまでしなやかに、タスクの技を受け流し、次の一撃をも止める。苦々しい表情の元親友に、ガードナーは冷静に言う。
「僕が強くなったのは君のおかげだ。君が僕を相手に訓練をしてくれていたから、僕もここまで自分の技を磨くことができた。……けれども、その力の使い方は、君を手本にすることはできない」
「偉そうに……っ! たかが雑用の分際で!」
「その雑用を認めてくれたんだよ、閣下は。だから僕は、閣下に恥じるような負け方だけはできない」
カッとなったタスクがめちゃくちゃに斬りつけてくるのを、ガードナーは全て止めた。だが、威力だけなら圧倒的にタスクのほうが強い。ガードナーは少しずつ後退っていた。そして。
「なあ、レオナルド。俺たちがしているのは喧嘩だ。ただの喧嘩なんだ。そして俺たちは、遺恨はあれど親友だった」
突然何を言いだすのだ、と返すことはできなかった。次の一振りを受けた瞬間、ガードナーの体は宙に浮いた。
「これは事故だ。俺はこのことを後悔する。周りが憐れんでくれるくらいに悔いてやる。だから安心して消えるといい」
昏い笑顔がどんどん小さくなっていく。自分が下へと落ちているのだ。
――残念だよ、タスク。
後戻りのできなくなってしまった元親友に、ガードナーは哀しみと憐憫を向けた。



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2017年05月07日

敵か、味方か

ニア・インフェリアは基本的には画家であるが、その活動は多岐にわたる。そしてそのなかには、一般には知られていないものもあった。宝石を使ってアクセサリーを作るというのも、その一つだ。その技はかつて旅行で訪れた南の大国、サーリシェリアで身につけたのだという。
「一週間くらい休みとって、スキューバダイビングしたり、宝石の加工の勉強したりしてきたんだ。向こうではサーリシェレッドの入手も加工もこっちよりはずっと手軽にできるから。ただ、エルニーニャに持ち込むときに、すごく高いお金をとられるんだけど。それは仕方ないよね、法律で決まっているから」
夕食の準備をしながら簡単に語る兄を、イリスは感心しながら見ていた。手元はちゃんと兄の危なっかしい手つきを支えている。食器をテーブルに出して戻ってきたニールがわくわくきらきらした目でニアを見上げた。
「やっぱりニアさんってなんでもできるんですね。宝石の加工って、カッティングとかも?」
「さすがに専門職の人しかできない部分はやってもらったよ。それでも宝石の扱いは難しくて、本職の人にも売り物にはできないなって言われたけど。そんなでもよければって、イリスのお土産にしたんだ」
「改めて考えると、超高価なお土産だったんだね。お母さんに贈った珊瑚石のブレスレットも、結構したと思ったけど。あれ、珊瑚石って指定品目だっけ」
「サーリシェリア以外でも、海外輸入品があるから、指定には入っていなかったはず。海外もいつか行ってみたいな。長い船旅、ちょっと憧れない?」
憧れるかもしれないけれど、その時はちゃんと家族も、せめてルーファとニールは連れて行ってあげてほしいとイリスは思う。以前に急にサーリシェリア旅行にでかけたとき、ニアはまだ軍人で、イリスは入隊していなかった。しかし当時の状況を知っている人々から聞いたところによると、出発が急だったために、突然一人で残されたルーファが落ち込んでしまって、常にどんよりとした空気に包まれていたとか。
苦笑いするイリスの服の裾を、ニールがくいっと引っ張った。
「イリスさん、サーリシェレッドのアクセサリー持ってるんですね」
「うん。お兄ちゃんが作ったやつ、売り物にならないなんて信じられないくらいきれいなんだよ。お気に入りのブローチなんだ。今度ニールにも見せてあげるよ」
「わあ、見たいです。それって、エイマルちゃんも見たことあるんですか?」
「何度か見せたと思うけど……あの子、宝石の硬度がどうのとかそういう話になっちゃうんだよね。図鑑と名のつくものは何でも読み込むからなあ」
お喋りをしながら夕食の準備を終えた頃、ルーファがレヴィアンスを伴って帰ってきた。途中で会ったそうだ。レヴィアンスの手には酒とジュースの瓶がある。
恒例となった、雑談報告会が幕を開けた。
「ああ、スキューバダイビング事件な……。あれはショックだった。当時もう入隊してたルイゼンにものすごく心配された記憶がある」
ルーファはグラスを傾けながら遠い眼をした。ごめんって、と謝るニアの表情は笑っている。
唐突に南国の海の絵が描きたくなって、実物を見にいくという名目で一週間ほど単独で国外に出ていた思い出は、ニアにとっては楽しいものだが、ルーファには寂しいものだ。あまりの落ち込みように、入隊したてだった(けれどもルーファとはすでに親しかった)ルイゼンや、部下たちが戸惑っていたのを、レヴィアンスも記憶している。「あれは笑ったな」と言うレヴィアンスをルーファがじろりと睨んだ。
「当時の直属の部下は今やほとんどが将官や上級佐官だもんね。今でもルーファを尊敬してるやつらは多いし、スキューバダイビング事件のことも憶えてるよ。直属じゃないはずのレオも憶えてた」
「忘れてほしいな。でも俺も、遠慮がちに声をかけてくるルイゼンとか、大将が落ち込んでるって大騒ぎするタスクのことは忘れられないんだけど」
「タスク?」
ルーファのグラスに薬草水を注ぎながら、イリスは首を傾げた。ルーファは部下が多かったが、個人の名前を出すことは退役して以降はめったになかった。それでも出てくるこの名前は、たしか。
「将官室長のタスク・グラン大将。オレがオリビアさんに指名されたせいで大総統になれなかった悲運の人物で、俺が選ばなかったために補佐にもなれなかった。でも実力は認めてたし、できると思ったから将官室長を任せた。本人がそれに納得してるかどうかはわからないけど、文句がないからまあいいんだろ」
ああ、それで聞き覚えがあったのか。在籍している大将級とは、ガードナー以外は馴染みがないために、あまり名前を覚えていられないイリスだった。それでもいくらか印象が残っているのは、彼が任務でうちたてた数々の功績のためだ。
「俺が最後に関わった人身売買組織の検挙のときも、タスクは連れて行ったよ。正義に燃える熱血漢、派手な行動が目を引く。だから誘導には最適だった。あいつが動いてくれているあいだに、俺たちは監禁されていた人々を保護することができたしな」
「でもサンプルになりそうだったものをいくらか台無しにしてくれたのもタスク君だよね。何度思い返しても、僕はあの件に関してはルーの作戦ミスだと思ってる」
ルーファはタスクを評価しているようだが、ニアはあまり彼を好ましく思っていないのだろうか。「僕たちの領分にまで口出ししてくるし」と呟いて、自分のグラスに追加の酒をどぼどぼと注いでいる。
「そうは言うけど、お前の部下なんか癖が強すぎて連れていくことすらできなかっただろ」
「癖が強い人を僕に軒並み任せたのはルーでしょう」
「まあまあ、過ぎた話はもう良いだろ。ニアもルーファも、今は一般人なんだしさ」
「優秀な人材を真っ先に引き抜いていったやつがよく言うよ。レオナルドのことだって、自分が大総統になるタイミング見計らって近づくなんて」
最初に目をつけたのは俺だったのに、と恨めし気に呟くルーファに、イリスはクラッカーの皿を差し出しながら「そうなんだ」と相槌を打った。
「ルー兄ちゃん、先にガードナーさんを見つけたのに自分の班員にしなかったの?」
「特定の班に所属させるよりは、フリーの人員として事務関係を徹底的にやっていたほうが、あいつの性に合ってるんじゃないかと思ってな。レヴィもずっとそう思ってたと、俺は認識してたんだけど」
「だってさあ、ルーファならわかるだろ。オレの性格なら、絶対レオみたいなタイプが補佐にいないと困る。もし周りの期待通りにタスクを登用してたら今みたいな仕事はできなかったよ」
「それはそうだね。タスク君、暑苦しいもの」
さっきからニアのタスクに対する評価が厳しい。クラッカーでチーズを挟み、ニールに渡している表情は、穏やかな笑顔なのに。
しかし、イリスのかろうじて知るタスク・グラン大将は、確かに活躍は多かったものの、人と衝突していたようなイメージはない。今だってプライドの高い人間をまとめなければならない将官室長という立場をしっかりと務めているように思う。悪い噂がないということは、そういうことではないのか。兄と印象が一致しないことで、イリスは大いに首を傾げた。
「ねえ、なんでお兄ちゃん、そんなにグラン大将のこと気に入らないの?」
「気に入らないわけじゃないよ。ただ、僕とは合わないんだ。ああいう自分より下だとみなした人間に対して常に上から目線の子、苦手なんだよね」
上から目線なのは、どの将官も大抵そうではないだろうか。ガードナーのような腰の低いタイプのほうが珍しいくらいだ。階級が上がれば上がるほど、軍人たちは自らを偉く見せようとすることに躍起になってしまうきらいがある。指示をする立場になるから、というのもあるのだろう。威厳がない上司のいうことは、部下もなかなかきかない。
けれどもイリスがそう言えば、「そもそもそれがおかしいんだよ」とニアが返し、ルーファとレヴィアンスも頷く。クラッカーをよく噛んで飲み込んだニールが、金色の目をきらりと光らせた。
「上司に威厳があるかとかじゃなく、やっていることが本当に適切なのかを見極めて、命令の意図や是非をみんなが自分で考えて行動しなきゃいけないってことですよね。エイマルちゃんが言ってました」
「おおう……エイマルちゃんってばそんなことまで言ってたの。さすがあの両親の娘だわ……」
「指揮系統はもちろん必要だし、団結しなきゃいけない場面だって当然あるけどね。でも立場が上の人間だからってその暴走を止めずに放置したら、それこそとんでもないことになる。それに威厳なんてしっかり仕事をしてようやくついてくるものなのに、肩書やちょっとした印象だけでそれを当てにして尻尾を振ったりそっぽを向いたりするのもおかしいだろ」
豆のさやを振り回しながら語るレヴィアンスに、イリスはふむふむと頷く。明らかな「威厳」がなくとも、人がついてくることはある。逆に威光ばかり気にしてろくな仕事をしない者もいる。
「上に立つってのは大変だね、レヴィ兄」
「オレは肩書と仕事用の家名があるから、文句を言いながらも従うやつは多いよ。だからレオよりはずっと楽。あいつには……本当、最初から苦労かけっぱなしだ」
溜息を吐きながら空のグラスを持ち上げたレヴィアンスに、イリスは瓶の口を差し出した。けれども次の瞬間、危うく取り落とすところだった。
「レオとタスクの仲をぶち壊しちゃったのは、いくら反省してもしきれないよ」
「は?! ……ガードナーさんとグラン大将が、何?」
知らなかったか、とレヴィアンスは目を半分伏せたまま言った。
「レオとタスクは同期だよ。オレたちの二年下。で、二人は三年前までは友達で、寮でも同室だった。その関係が変わるきっかけになったのが、オレの大総統就任だったんだ」
ルーファが黙って薬草水を飲み、ニアは「レヴィのせいじゃないよ」と追加の酒を取りに立った。

ルイゼンと、独りは退屈だからと男子寮に来ていたメイベルは、フィネーロの話に唖然とした。彼が語るあまり事務室に顔を見せない新入り――ミルコレス・ロスタの人物像は、問題があると判断するに十分だった。
「いやあ……世の中にはいろんな性癖の人がいるけど、宝石フェチか……」
「気持ち悪いな。しかもサーリシェレッドがお好みとは。絶対にイリスに近づけたくない」
メイベルの言葉には二重の意味がある。サーリシェレッドの裏での別名は「魔眼」であると聞いてから、彼女はずっと嫌そうに表情を歪めていた。
サーリシェレッドがあしらわれた武器を持ち、瞳にもその色を持つ少女。彼女の持つ能力も「別名」と同じ表現をされる。イリスがミルコレスに目をつけられるまでに、そう時間はかからないだろう。
「全く、新入りはどいつもこいつも信用ならない」
「カリンとシリュウ以外な。大佐は苦手だし、チャン中尉はよくわかんないし、今回の人事は本当にどうなってるんだか」
「君たちがそう言うと思って、僕もちょっと調べてみた」
憤慨するメイベルと疲れた顔のルイゼンに、フィネーロは端末の画面を見せた。兄から譲り受けたものを、そのままずっと使っているのだ。スパイ道具を持ち歩いて大丈夫なのかとルイゼンが問うたことがあるが、一応は大総統閣下の許可を得ているらしい。寛容なのではなく、利用価値があると判断されたのだろう。
「個人データの持ち出しは、俺は感心しないけど」
「しかし役に立つかもしれん。室長大佐様の弱点は載っていないのか」
「弱点になるかどうかは、データを見て判断してほしい。ただ僕はやはり今回の異動に目的があるように思えてならない」
ネイジュ、ミルコレス、ジンミ。三人分の簡単なデータが端末に表示されている。この国の軍人であれば容易にアクセスが可能なものだが、それは軍の情報端末での話であって、個人的に持ち出すことは非常に危険だ。それでもフィネーロがそれをしたのは、三人に共通点を見つけたからだった。
「ロスタ少佐はさっき話した通り、宝石マニアで指定品目輸出入の取り締まりに携わっていた。チャン中尉は宝石商家の出身で、宝石関連の事件では真贋を見分けられる特技を発揮している。そしてディセンヴルスタ大佐は、指定品目輸出入の取り締まりを指揮していた。……そして最近になって、地方司令部の管轄で指定品目の違法輸出入や宝石を違法に売買する事件が立て続けに起こっている。地方に必要なはずのエキスパートたちが、何故今中央に集められているのか。僕はまた閣下が何か掴んでいるのだと思う」
これくらいなら、仕事の片手間に簡単に調べられる。フィネーロが提示した資料と疑問に、ルイゼンは感心し、メイベルは呆れた。
「イリスがやたらと外に出されているのも、指定品目、たぶん宝石についての情報を集めさせられているせいじゃないか。今日の午後に向かったのは、ウルフ・ヤンソネンのところと国立博物館だろう。あの男は貴族の持ち物には詳しそうだし、博物館には指定品目についての資料がある」
「閣下も余計なことをしてくれる」
「宝石かー……。たしかに危険薬物と並ぶ、裏の取引材料なんだよな。てことは、閣下は大佐たちを疑ってるのかな。本人たちを動かさずにイリスに調べさせてるってことは、中央司令部にチェックが入ってるわけじゃなさそうだし」
地方で起こっていた事件については、ルイゼンも一時期の室長仕事のおかげで、多少の心得があった。危険薬物、人身売買、違法輸出入と、事件が盛り沢山で頭が痛くなった日々が思い出される。けれどももしかすると、その一時期ですらもレヴィアンスの計算のうちだったのかもしれない。
ふと、メイベルが眉を顰めた。そして大きな舌打ちをして、部屋を出て行こうとした。
「どうした、突然に」
「カリンを問い質す。あいつもサーリシェレッドの売人と接触している。ルイゼンもシリュウから話を聞いておいた方が良い」
「こんな時間にか? それに、なんでシリュウまで?」
「三人が宝石に関係している、という認識は間違ってはいないが正確じゃない。正しくは、異動してきた五人中四人が関わっている、だ。イリスだって五人分のカルテを確認したがっていた。だったら残る一人も疑ってかかるべきだろう」
「お前、いくらなんでも身内まで……」
ルイゼンが止めようとするのを振り払って、メイベルは行ってしまった。これからカリンが責め立てられるのは間違いない。身内だろうが他人だろうが、彼女は容赦しないのだ。
「……やっぱり、見てきたほうがいいよな。それともこの場合はフィンが行ったほうがいいのか?」
「僕が行こう。もっとも、明日にしろとしか言えないが。ルイゼンはここに用意したサーリシェレッドについての資料でも読んでおくといい。何はともあれ、イリスに関係していそうなことだ」
イリスに関わっていそうなことを、彼女自身に調べさせる。レヴィアンスが何を考えているのか、ルイゼンは目を閉じて想像する。あの人を理解できるとはいわないが、思考の一端くらいはわかるつもりだ。
一つ思いついたのが、汚名返上だった。イリスがいつまでも「大失態を犯した軍人」とみなされているのは、レヴィアンスにとっても都合が悪いだろう。強引な手段を使ってでも、彼女に挽回の機会を与えたいと思ったのかもしれない。
けれども、本当にそれだけか。ここで叩いておかなければならない何かがあるのではないか。
「サーリシェリア産鉱石サーリシェレッド、裏での通称は『魔眼』か……」
ルイゼンだって忘れてはいない。イリスは狙われているのだ。今この瞬間も、裏の者たちは彼女の眼の力を欲している。


翌日、リーゼッタ班は午後から外での任務にあたるようにとネイジュから言い渡された。ルイゼン、イリス、シリュウの三人で、近郊の村に向かう。だがこの指示がネイジュの本意ではないことを、ルイゼンはよく知っていた。
「前に危険薬物の取引があったから、しばらくは定期的に様子を見に行かなくちゃならないって、トーリス准将が言ってたよね。それをディセンヴルスタ大佐が引き継いだんだ」
「一応。でもすっごく嫌そうだった。あの人は極力無駄だと判断したことを省きたいんだろうし」
「レヴィ兄が許さないでしょ。危険薬物関連は情報を専門家に渡す約束になってるもん」
この仕事はシリュウと話をするきっかけになるかもしれない。イリスは期待して彼を見たが、やはり今日も無表情で黙々と机に向かっていた。
留守番組になるメイベルの機嫌はすこぶる悪く、カリンも困ったような表情をしている。あとで事務室の様子を見に戻ってくると約束してくれたフィネーロも、仕事量によってはあまり頼れない。
昨日の今日だ、何事もないことを祈るしかない。
「それはそうとして、閣下のところには行かないのか」
「昨日のことは昨日のうちに報告したからね。今日はこっちに専念するよ」
「そうか。調査中の案件は、俺たちにもまわしてくれそうなものなのか?」
「たぶんそうじゃないかと思うけど……」
それがいつ、どんなかたちでルイゼンたちの耳に入るのか、イリスにはまだわからない。けれども確信めいた表情から、イリスが何も言わずとも探っていそうな気はしていた。こちらの準備が整う頃には、すでに仕事にかかる手筈が整っているという未来が、ありありと想像できる。なにしろイリスは迂闊で、仲間たちは優秀なのだ。
「じゃあ、午前の仕事だ。俺とイリスは午後に行く現場の下調べ。シリュウにもこれまでの調査結果を覚えてもらわなくちゃな。メイベルは今日も訓練指導があるから、ちゃんと教えてくるように。カリンは今から俺が教える資料を持ってきてくれ。軍設図書館との往復になると思うけど」
「大丈夫です。午後のお仕事に関わってるんですか?」
「ああ。別件もあるけど、優先度が高い順に言う」
ルイゼンが羅列した資料は、一人で扱うには少々多すぎるように思えた。けれどもカリンはそれをきちんと書き止め、それでは行ってまいります、と事務室を出ていく。イリスは心配だったが、ルイゼンは逆にホッとしたようだった。
「なんでそんなホッとしてるの」
「ひとまず姉妹喧嘩を回避できたから。な、メイベル」
「そうだな、あいつを問い質すのは午後に延期だ」
問い質すって何を、と尋ねる前に、ルイゼンが詰め寄ってきた。仕事の件だけど、と言いながら、イリスの机にメモを置く。少々乱暴な字に息を呑んだ。
――異動してきた人間全員と宝石には何か関係があるのか。
思ったよりも、事態は知られている。迷った末に、イリスは小さく頷いた。やっぱり、と呟きが返ってくる。答えを予想していたように、ルイゼンは二枚目のメモを置いた。
――サーリシェレッドが裏で「魔眼」と呼ばれているそうだが、お前の眼と関係があるのか。
メモを置くあいだにも、あくまで午後の仕事の話を続けるルイゼンに、不覚にも慄いた。彼の向こうには、ネイジュとジンミが会話をしている光景がある。そしてイリスの背後には机で作業を続けるシリュウがいる。誰もルイゼンの動きに不審感は持っていないようだ。
レヴィアンスがルイゼンを高く評価している理由が、また少しわかった。このやり方は兄たちのものなのだ。ルーファとニアが現役時代にしていた、そしてレヴィアンスが現在も用いている方法を、彼は上手く自分のものにしている。
イリスは頃合いを見て、「そうだね」と相槌を打った。その言葉を聞くと同時に、ルイゼンは二枚のメモを回収する。手品師のごとき鮮やかな手つきに、溜息が出そうになるのを我慢した。
「……じゃあ、シリュウも交えて打ち合わせをしよう」
自分の名前が出たことで、シリュウがこちらに意識を向ける。ルイゼンが手招きをしてこちらに呼び寄せ、本当の午後の打ち合わせを始めた。シリュウにとって、初めての中央での任務だ。身になるものにしてやりたい。
「中央は、危険薬物取引の取り締まりには特に力を入れていると聞きます」
一通りの話を聞いて、シリュウが言った。そのとおり、とルイゼンが頷く。
「地方司令部で担当していた危険薬物関連事件も、最後には中央で処理して、情報を他国と共有する。最も多い犯罪の一つだし、こうすることで未然に防いだり、取引のルートを潰したりしていきたいっていうのが閣下の考えなんだ」
「なるほど。たしかに危険薬物関連事件は大陸全体での問題ですね。他を差し置いても優先されるのはわかります」
いくら取り締まっても尽きない事件は、常に最重要事項に置かれる。他の事件にあまり人や時間を割いていないように見えるのはたしかだった。イリスがちょっと苦い顔をすると、シリュウは気づいて頭を下げる。
「すみません、閣下のやり方を非難しているわけではありません。インフェリア中尉は補佐ですから、気にしますよね」
「ううん、わたしもそこまでは思ってないよ。……シリュウは、他にもっとちゃんと調べてほしいこととかがあるの?」
優先されるべきことに埋もれてしまって、見逃されていること。これがのちに大きな問題になってしまうことを、イリスも知っている。たとえば、本来滅多に起きないはずの指定品目の違法輸出入だとか。シリュウも何らかの形で、これには関わりがあるはずだった。
「いいえ、そういうわけではありません。今は目の前の仕事に集中します」
シリュウがどうやってサーリシェレッドに関わったのか、彼の口から聞きたい。だが、まだ聞けるタイミングではなさそうだった。ルイゼンは午後の仕事についての説明を改めてし始め、イリスはシリュウの表情を窺った。変化は、やはり見られなかった。

ミルコレスは結局、フィネーロの隣の席に腰を落ち着けてしまった。仕事もそこで進めている。たしかに手際は良く、自分に任された分は順調に片付けていた。事務仕事には自信があったフィネーロよりもスピードが速い。ちらりとディスプレイや作成した書類などを見たが、雑であったりいいかげんであったりすることもなかった。
「リッツェ君、中央への異動は栄転だと思うかい?」
しかも喋る。手を動かしながら、何気なく。フィネーロも自分の仕事をしながら、それに答えた。
「閣下に召集されたなら、栄転なのでは?」
「閣下の召集というか、地方司令部長の推薦というか。まあ、一見して仕事ぶりを認められているような感じがするけれど、実のところ俺は栄転だとは思ってないんだよね。だって、俺にとって仕事の最前線は南方だから」
彼の所属していた指定品目輸出入の取り締まりを担当する特別任務の班は、南方でできたものだ。南方司令部が最もノウハウを持っているし、仕事量も多い。中央に来れば他の仕事にまわされ、指定品目関連よりも危険薬物関連のほうが重要な課題になる。今までミルコレスが専門としてきた仕事には、あまり関われなくなるかもしれない。
「では、ロスタ少佐は今回の異動をどう思ってるんですか」
「左遷だね」
ずばりと正反対のことを言うので、フィネーロは一瞬手を止めかけた。だが、気にしないふりをして相槌を打ち、自分の仕事を続けた。耳だけを隣に傾ける。
「ここに来る前の仕事で、サーリシェレッドの違法取引を押さえるのに失敗してるんだよ。南方司令部がマードックにあるのは君も知っての通りだけど、まさにそこで起こった事件を、俺たちは解決できなかった。違法に輸入されたサーリシェレッドも未回収だし、関係者の確保にも至っていない。大失態を犯したのに、どうして中央に来たのが栄転だと思えるのかな。それとも、他の人たちは栄転なんだろうか。ディセンヴルスタ大佐はもしかしたら栄転だと思ってるかもしれないね」
そういえば、集めた情報ではそうなっていた。直近で発生した指定品目の違法輸出入や違法売買は、未解決が続いている。専門の班であるはずのミルコレスたちですら、任務に失敗しているのだ。
「ディセンヴルスタ大佐について何か知っているんですか」
「んー? 大佐はね、北方司令部で指定品目の違法取引に関わっていたんだよ。でも、ついこのあいだ、犯人を取り逃がして、取引対象の回収もできなかった。指揮を執っていた者として責任を負うってかたちで、北方の違法取引の仕事からは手を引いたはずだけど、まさかそれで中央に来られるなんてねえ。あの人、中央に配属されることを強く望んでいたから、今回の人事は願ったり叶ったりだったんじゃないのかな」
歌うように楽し気に言うミルコレスだが、その内容は重大だ。彼がこのことを知っているのは、南方で特別任務に就いていたからこそだろう。各指令部をまわっての任務もあったはずの彼なら、事件関係者を知っていてもおかしくはない。だが、その情報をフィネーロにもたらす意味は何だろう。
「もしかして、チャン中尉のことも知っているのでは?」
考えながら、さらに情報を引き出そうと試みる。ミルコレスはしばし鼻歌を歌っていたが、ごまかすことはしなかった。
「知ってるよ。ジンちゃんは俺の大切な仕事仲間だもの。きれいな宝石を見せてくれるいい子だよ。仲良くしておいて損はない」
「彼女も仕事でミスを?」
「大佐と同じだよ。犯人を逃がして、取引対象の完全回収ができなかった。同じ任務にイドマル准尉も関わっていたから、一緒に来たんじゃないの」
シリュウとジンミはともに仕事をしていたのか。同じ東方司令部から来たのだから、それは十分にあり得ることではあった。だが、やはり「中央に左遷」というのはおかしい。シリュウなどは、異動に伴って昇進もしている。
やはりこの人事には裏がある。確信したフィネーロがすぐに考えたのは、このことをいつルイゼンに伝えるか、そしてどのタイミングでイリスを問い詰めるかということだった。
すぐ隣の人物がここまで喋る理由は、後回しにして。

訓練指導を終えて戻ってきたメイベルと、何度目かの資料室との往復から戻ってきたカリンが鉢合わせたのは、事務室までまだいくらか距離のある廊下のど真ん中でのことだった。バインダーを抱えながら、カリンは姉に笑いかける。
「お姉ちゃん、お疲れ様」
「……お前」
何事もなかったような妹の表情に、メイベルの頬が引き攣った。昨日ネイジュに叩かれたのが、やっと腫れがひいたところだった。
「ちょうど良かった、カリン。お前に聞きたいことがあったんだ」
「どうしたの?」
「昨日の朝、イリスに話していたことだ。宝石の違法売買をしていた奴を取り逃がしたという話、あれは全部が本当の話か?」
廊下には他にも多くの軍人がいる。メイベルを見て逃げる者、カリンに珍しそうな視線を向ける者と様々だったが、ここにいることが目立っているのには変わりない。
「お姉ちゃん、こんなところでその話は……」
「いいから答えろ。一言で良い」
周りを気にしながらも、カリンはメイベルの眼力に負け、頷いた。
「本当だよ。わたしのミスで売人を捕まえられなかった」
「あの話が全てなんだな。話していないことはないか」
「……お姉ちゃん、何が言いたいの?」
カリンは怪訝な表情で、バインダーを抱え直した。手に少し力が込められたのを、メイベルは見逃さない。見逃すものか、生まれたときから見てきた妹のことだ。
「お前はここに来たとき、強くなったと言った。私は、それは本当のことだと思った。だからわざわざ失敗談を、それも重大なミスをしたことを自分から白状するなんて、おかしいと思っている」
姉妹の様子がおかしいことに、周囲も気づき始めた。二人のことを知っている誰かが、リーゼッタ中佐を呼んだほうが良いんじゃないか、と言った。だが、来たところで、メイベルに止めるつもりは毛頭ない。納得のいく答えが得られるまで、カリンを問い詰める。
「何もできなかったわけじゃないだろう。いや、言い方を変えようか。売人は、本当はお前に何をした。お前が何もできなくなるようなことをしたはずだ」
「だから、急に腕を掴まれて……」
「それしきで無抵抗になるようなら、中央になんか来られるはずがない。お前もそれは疑問だと言っていただろう。全部話したふりをして、イリスを欺くような真似をしてはいないだろうな」
首を横に振るカリンの肩を、メイベルが強く掴んだ。痛い、と呻く声にも怯まない。もしも何か隠しているのなら、たとえ妹だとしても、いや、妹だからこそ許さない。
「メイベル!」
背後から駆けつけてきたのは、ルイゼンだ。だが焦った声を無視して、メイベルはカリンの目をじっと見ていた。カリンもまた、しっかりと見返していた。――何も話すことはない、というように。
「おい、何やってるんだ。訓練指導が終わったらすぐに報告に来い。だいたいこんな廊下の真ん中で」
「煩い、黙れ。私はカリンと話をしている」
肩に置かれた手を、メイベルは見もせずに振り払う。それでもルイゼンは退かない。
「ここですることじゃないって言ってるんだ。今日の昼は第三休憩室に集まろう。どうせ俺とイリスとシリュウは、仕事の話をしなくちゃならないし」
「私がカリンを追及するのを、イリスは止めようとするだろう。それじゃだめだ。私はイリスのために真実を知ろうとしているのに」
「だったらもうわたしは話したよ、お姉ちゃん。わたしは失敗をした。けれどもそれまでの貯金があったから中央に来られた。あるいは失敗したわたしをより厳しいところに置いて鍛え直そうとしているのかもしれない。この答えでも納得できない?」
眉間にしわを寄せるメイベルに、カリンは毅然とした態度で応える。それ以上のことはないと言う。だが、メイベルには姉としての勘があった。まだ何かある、妹は何かを言っていない。それは遠い昔、彼女が父からの暴力を隠そうとしていたときに似ていた。
「……発言に矛盾があるぞ、カリン」
吐き捨てて、メイベルは踵を返した。姉からの追及から逃れられたカリンは、ほう、と息を吐いてバインダーを抱きしめる。そして唇を噛んだその表情に、ルイゼンも違和感を覚えた。だが、ここではその正体を確かめられない。
「カリン、まずは事務室に行こう。資料はそれで最後だから、次の仕事の指示をする」
「わかりました」
カリンは頷き、ルイゼンの後についてきた。周りから見れば、彼女は真面目な軍人に見えるだろう。実際そうなのだが、やはり、メイベルの妹でもあるのだ。

呼ばれて出て行ったルイゼンを見送った事務室には、イリスとシリュウが残されていた。あの慌てようはメイベルあたりが何かしたのだろう、とイリスは予想をつけて、一緒に行きたいのを我慢して待っている。シリュウを一人で残していってはいけない。
「慕われているんですね、リーゼッタ中佐は」
ぽつりとシリュウが言う。イリスは笑って頷いた。
「わたしたちのリーダーだからね。何かと責任をとらされることも多いから申し訳なくも思うけど、本人は仕事としてきちんとやってくれるから。きっとそういうところ、レヴィ兄やうちのお兄ちゃんたちから教わったんだと思う」
もともとお兄ちゃん気質ではあるけど、と付け加えると、シリュウは小さく相槌を打った。
「インフェリア中尉のお兄さんは、ニア・インフェリアさんですよね。元中央司令部大将の」
「うん。シリュウもやっぱり知ってるんだね」
「有名人ですから。それに師匠……リータス准将からも話は聞いています。東方司令部で事件を解決に導いたこともあると。なのに、どうして画家になったんですか。軍にいれば、大総統にだってなれたかもしれないのに」
昔東方司令部で起きたという事件のことは聞いて知っているし、兄がどうして軍を離れたのかという質問も何度も受けた。それだけ兄の退役は惜しまれたものだったのだと、そのたびに実感し、いつもと同じように答える。
「昔から絵はお兄ちゃんの大好きなことで、上手かったからね。大陸全土規模のコンクールで評価されて、絵が売れるようになってから、軍を辞めることは考えてたみたいなんだ。最初は名家の子の道楽だ、なんて言われてたこともあったみたいだけど、素性を隠して発表した作品が話題になってからはそんなふうに言う人もほとんどいなくなった」
本当はそれだけじゃない。ニアが大人になって、自分の持つ「兵器」とも称される力を抑え込めるようになり、軍の監視下に置かなくても大丈夫だろうと、やっと認められたということもある。一緒に生きていこうと言ってくれた人がいたということも、もちろんだ。
大総統やそれに準ずる地位なんて、全く望んではいなかった。本当はレヴィアンスだって、ゼウスァートではなくハイルの名でそこに立つのが一番だと思っていた。けれども、全てが思い通りにはいかない。彼らには彼らの背負ってしまったものがある。
「インフェリア中尉は、いつか大総統になりたいと思いますか」
「え、わたし? レヴィ兄の忙しさを見てると、積極的になりたいとは今は思えないかな。でもその立場にある人を手伝うことができたらいいとは思ってるよ。それがきっと、軍家インフェリアの務めだから」
そしておそらくは、自分の背負ってしまったものの最も有効な使い道だから。イリスの言葉を、シリュウはじっとして聞いていた。やがて、イリスの目を真っ直ぐに見て、口を開く。
「おれと手合わせをお願いします、中尉」
「手合わせ? いつでも歓迎だよ」
「では、今夜でいかがでしょう。練兵場は終業後もしばらく使えますよね」
「そうだね、ちょっとなら。でも尉官同士だから、佐官以上の立ち会いが必要だなあ」
誰に頼もうか、と考えているあいだに、その言葉は告げられた。聞き逃しそうだったが、たしかに耳に入ってきた。
「そしてもし、おれがあなたに勝てたら。あなたの持っている『魔眼』を、おれにください」
裏で使われるその符丁。サーリシェレッドを表すそれを、彼は知っていた。異動でここに来た者なら、サーリシェレッドに関わったことのある人物だということはイリスもわかっている。符丁を知っていてもおかしくはないのだが、シリュウの言葉は妙に鋭い。それにわざわざ「魔眼」という言葉を、イリスに向かって使うとは。
「……それって、どういう意味?」
「あなたがおれに負ければわかりますし、おれがあなたに負ければわからないままでいいんです」
息を呑んで、頭をよぎったのは、立ち会いはいないほうがいいのではないかということだった。

昼の第三休憩室には、緊張した空気があった。仕事の話をしながらも、ルイゼンの意識はメイベルとカリンに向いているし、イリスはシリュウを気にしている。メイベルは苛立っていて、フィネーロは仕事中に聞いた話を頭の中で何度も繰り返していた。
「午後イチの任務が終わったら、俺たちは司令部に戻ってきて報告書を作る。が、何もなければたぶん大佐は目を通すこともしないだろうな。この仕事自体、あの人にとっては無駄だし」
溜息を吐くルイゼンに、フィネーロが眉を顰めた。
「無駄な任務をわざわざあの大佐がさせるだろうか。君を司令部から離れさせるための、厄介払いなんじゃないか」
「その可能性はあるな。現状、大佐様に意見できるのはルイゼンだけだ。いないあいだに何かしようと企んでいるのかもしれん。カリン、お前は何か知らないか?」
「知らないよ。わたしだって、ディセンヴルスタ大佐が何を考えてるのかわからないんだもん。なんでわたしにそんなこと訊くの?」
姉妹の関係に飛び火してしまったので、ネイジュについてはひとまず置いておくことにする。ルイゼンは話を元に戻そうとして、イリスの様子に気がついた。思えば、自分たちが事務室に戻ってから、ずっと何か考えているようだった。
「イリス、気になることでもあるのか」
「え? ううん、何も」
笑みを浮かべて否定するイリスの嘘が、ルイゼンには手に取るようにわかる。彼女の兄の嘘はなかなか見抜けなかったが、妹は父似で実にわかりやすい。
今のうちに追究しておいたほうがいいだろうか。それとも話してくれるのを待つべきなのだろうか。迷うルイゼンを一瞥して、先に口を開いたのはフィネーロだった。
「なあ、イリス。君は閣下の命令で、先頃頻発しているサーリシェレッドの違法取引検挙の失敗と、その関係者である今回の異動人員について調べているんだろう」
瞠目したルイゼンの向かいで、イリスが驚嘆した。どうして知っているのか、ではなく、ここでずばりと言われたことに対する反応だろう。カリンも微かに表情を変え、シリュウは肩がピクリと動いた。
「フィン、情報速いねえ……。しかもそれ、言っちゃうんだ」
ルイゼンが思ったことを、イリスはそのまま口にする。それから小さく息を吐いて、両手をあげた。降伏のサインだった。
「その通りだよ。異動してきた五人全員のカルテも、そのために確認しに行った。サーリシェレッドについて詳しく知りたかったから、ウルフやアーシェお姉ちゃんに話を聞きに行った。わたしもサーリシェレッドについては知らないことが多いんだよ。でも、はっきりしてるのは、あの宝石とわたしの眼が裏では同じ呼ばれ方をしているってこと」
「『魔眼』だな。イリスも狙われているし、サーリシェレッドも各地で違法に取引されている。このままじゃ裏の狙いがどっちなのかわからないし、どちらかでごまかされる可能性がある」
ようやく口を挟んだルイゼンに、イリスは正直に頷いた。
「イリスの眼をサーリシェレッドでごまかすほうが圧倒的に可能性が高い」
「そう、ベルの言うことを、レヴィ兄も考えてる。それで関係があった人員を各地方司令部から集めたの。もちろん実力を評価して、中央司令部にいるわたしの味方を増やすっていうのが最大の理由だよ」
困惑するカリンとわずかに眉を顰めるシリュウを見て、慌てて付け加える。カリンとシリュウは確実に味方であるはずだった。――さっきまでは。
メイベルが舌打ちをして、しかし、と言った。
「よそから人員を集めるほうがよほど怪しいし危険じゃないのか。それも任務に失敗した人間ばかり。もしかして失敗したのではなくて、わざと取引を見逃したのかもしれんぞ」
どいつもこいつも、と呟くメイベルの中では、妹すらも容疑者から外れてはいない。姉に睨まれたカリンは黙っていたが、俯いてはいなかった。
「ロスタ少佐は今回の人事を『左遷』と表現していた。あの人は中央に来たことを、サーリシェレッドを含む指定品目の違法輸出入案件から遠ざけられたと感じているらしい。イリスの味方にはなりそうにないと僕は思うが」
「大佐とチャン中尉も、あんまり味方っぽくはない……てのは俺の偏見かもしれないけど」
「わたしもレヴィ兄も、よくわからないことが多いんだ。何もなければそれでいいし、もしわざと任務に失敗していたとしたら、裏についての情報を引き出す。不確かなことばかりだから、まだゼンたちには話してなかったんだよ」
できれば疑いは晴らしたい、というのがイリスの考えだ。けれども彼女の中で容疑が濃くなってしまった人物がいる。それをここで言うわけにはいかず、とにかく、と言葉を継いだ。
「当面は何も知らないことにしてほしい。カリンちゃんとシリュウも」
正式にレヴィアンスから命が下るまでは、普段通りに、おとなしく。難しいとわかっていても、今はそうするよりほかはない。イリスだけではなく、ルイゼンもそう考えていた。だが。
「大佐様と色目女とシリュウにルイゼン、軟派男にフィネーロ、カリンに私。閣下もうまく監視体制を整えたものだな」
メイベルはそうはとっていなかった。彼女だけではなく、フィネーロも静かに頷く。カリンとシリュウが再び緊張した。
イリスは慌てて否定する。
「そんなんじゃないよ。ていうか、それじゃゼンの負担が大きすぎない?」
「一応室長補佐だ、妥当なところだと私は思うぞ。なあ、ルイゼン」
頭を掻きながら、ルイゼンはこれまでのことを思い返す。一時的にでも室長になったこと、あまり補佐はさせてもらえないがネイジュのしない仕事は自分が引き受けていることを考えると、たしかに事務室全体を見られる立場ではある。監視だと考えれば、異動してきた全員があの事務室かフィネーロのいる情報処理室に配属されたのも筋が通る気がしてしまう。
頷きかけたそのとき、カリンが勢いよく立ち上がった。
「わたし……、わたしはっ! イリスさんが狙われているというのが本当なら、絶対に味方です!」
叫んだ声に嘘はないようだ。イリスは嬉しそうに笑みを浮かべ、メイベルは目を細めた。疑い深い姉もこの言葉は信じたらしい。
「では、僕たちは知らないふりを……と言いたいところだが。イリス、僕の情報源はロスタ少佐本人なんだ。僕はそのまま彼から話を聞いていていいだろうか」
フィネーロはまだ渋い顔をしていたが、イリスは一瞬瞠目してから頷いた。情報が向こうから来るのなら、どうしようもない。
「ロスタ少佐が何を考えてるのかは、もしかしたらフィンが掴めるかもしれないね。わたしもそろそろ、大佐やチャン中尉に直接あたってみようかと思う。ちょっと難しそうだけど」
「根気が必要になりそうだな。なにしろあの大佐と、何考えてるのかわからない中尉だ。そういえばシリュウはチャン中尉と同じ東方司令部にいたんだろ、何か知らないか?」
苦笑いしながらルイゼンが尋ねると、シリュウは無表情のまま「いいえ」と答えた。
「一緒に仕事をする機会はありましたが、おれもあの人のことはよくわかりません。宝石商の娘で、やたらと宝石に詳しいこと、それが好きであることは誰の目にも明らかでしたが」
ここでもすでにわかっていることだ。「だよなあ」と口にしながら、ルイゼンは全員の顔を見渡した。
イリスの表情がこわばり、フィネーロが怪訝そうに眉を顰めていた。


午後の視察任務は、何事もなく終了した。普段通りに振る舞えたはずだ。ルイゼンはこちらの様子に何も言わなかったし、シリュウは指示通りに仕事をしていた。
しかし、よく冷静でいられるものだ。シリュウという人間が、いよいよ恐ろしい。終業後の練兵場で、イリスは深く溜息を吐いた。
距離をとった正面には、刀を構えたシリュウがいる。本来の得物ではなく、武器庫から借りた模造刀だ。イリスが手にしている剣も、本物ではない。
これはあくまで手合わせなのだ。ちょっと、賭けているものが特殊なだけの。本当にイリスを狙っている人間が仕掛けてくるはずの、殺し合いではない。だからシリュウは裏と繋がっていない……と思いたい。
「始めましょう、インフェリア中尉」
痺れを切らしたのか、シリュウが低く言った。覚悟を決めなければ。勝てなければ「魔眼」は彼の手に渡る。――それははたして、宝石なのか、眼なのか。判断はとうとうつかず、必要なはずの立ち会いは誰にも頼むことができなかった。
ルイゼンやレヴィアンスに知れたら、叱られるだろう。けれども、シリュウが疑われることに比べたら、そんなことは大したことじゃない。
「勝負は三本。刃が体に触れれば有効ね」
「承知しています」
この若者を、せっかく来てくれた後輩を、この期に及んでもイリスは疑いたくないのだった。
地面を蹴るのは同時。互いの刃は一瞬で接近し、ぶつかった。中段から振り上げるようなシリュウの斬軌を、イリスが剣を振り下ろして止めた。ミナト流剣術を熟知しているわけではないが、似たような斬撃は過去にグレイヴと手合わせをしたときに経験済みだ。
一撃目はそれでよかった。だが、すぐに一歩引いたシリュウから、次の技が繰り出される。イリスの胴を真っ直ぐに狙った、鋭い突き。当たればたとえ模造刀でも激しい痛みは免れない。すんでのところでそれをかわし、イリスはそのまま剣を真横に薙いだ。得物が大剣ならば、兄の得意な技の一つの模倣になる。
シリュウの反応がわずかに遅れ、剣が彼のわき腹に当たった。
「……やはりお強い。沢山の方と、様々な訓練を積まれたんでしょう」
刃の当たった箇所を撫でながら、シリュウは言う。口調はまだまだ落ち着いている。とても追い詰められたようには思えない態度だ。
「シリュウこそ、容赦ないね。模造刀でも突きは怪我する可能性高いんだよ」
「本気でやらなければ、あなたには勝てません。それに、失礼でしょう」
なんて真面目で、真っ直ぐな子だろう。これがただの手合わせであれば、イリスは喜んで、心置きなく相手をすることができた。実際、手応えのある相手にわくわくしていた。だからこそ、彼から「魔眼」の名が出たことが惜しい。
続く二本目は、イリスから斬りかかっていった。上段に剣を振りかぶって跳び、勢いをつけて袈裟懸けに斬りつける得意戦法だったが、シリュウは完全にこちらの動きを見切ってそれを止めた。そしてイリスが着地をする直前の、バランスが危ういところを的確に狙って、空いていた足を屈みこんで斬り払った。刃を受けた足は上手く地面につかず、イリスはそのまま倒れ伏す。兄や、同じく剣を使うルーファに、よく同じ負け方をしていた。
「これで一勝一敗です。次で決めます」
「こっちの台詞よ」
にい、と笑ったイリスに、シリュウはただただ無表情で向かう。イリスが立ち上がって、すぐに三本目が始まった。
もう足を駆使した戦法はとれない。シリュウの攻撃は速い上に強く、先ほどの一撃はイリスの足から無茶ができるだけの力を奪っていた。もとより足の強さが取り柄だったイリスだ、これでは本領発揮は難しい。でも、だからといって諦めるわけにはいかない。
いくら正統流派の剣術であっても、その使い手がどれほど優秀であっても、年季はこちらのほうが勝っている。「魔眼」のやりとり以前に、イリスはシリュウよりも先輩なのだ。ここで負けては。
「ここで負けちゃあ、イリス・インフェリアの名が廃る!」
中段の薙ぎを防ぎ、弾く。隙ができた体面に上段から打ち込もうとしたが、止められた。が、そのまま力を込めてシリュウの手を下させる。離れれば反動が来ることはよくわかっているし、シリュウもきっとそれを狙っている。だから無理にでも足のばねを働かせた。
斬られる前に、飛び退く。そしてすぐにまた前へ。急接近にも少しもたじろぐことのないシリュウは、やはり見事だ。精神力ならルイゼン並か、それ以上かもしれない。
上段に構えた刀を弧を描くように下段へと振り下ろし、掬いあげるようなシリュウの技を、イリスは斬られるより先に彼の手を剣で打ち、止めた。
「……はい、わたしの勝ち」
「……やられました」
寸分の差しかなかった。シリュウの刃は、ほんのわずか、イリスに届いていなかっただけだった。
「危なかったあー……。尉官でこれだけ手応えのある相手って珍しいよ」
「おれも、ミナト流が通用しない相手は、今まであまりいませんでした。やはりインフェリア中尉は強いです。こんなことなら、『魔眼』を引き合いに出す必要もありませんでした」
そもそもどうしてそんな条件を、と問おうとした。しかし、できなかった。
「こらあ!! 何やってんだ、バカイリス!!」
勝手に勝負をしただけで、こんなに怒鳴られたことはない。命令を無視して対象人物と二人きりになったのがいけなかったのだ。
いつのまにかやってきて、怒号を飛ばしたレヴィアンスに、イリスはぎこちなく笑った。もちろん通用しなかった。
「ごめんって、レヴィ兄。だって剣術使いって聞いたら勝負してみたくなるじゃん」
「少しはいうこときけっての。オレの命令破るだけならまだしも、基本的なことすら守れてないなんて、全然反省してないな!」
頬を抓まれるイリスに反論は不可能だ。そのまま大総統執務室まで引っ張られるかと思ったら、シリュウがそれを止めた。
「閣下、おれがインフェリア中尉に手合わせをお願いしたんです」
「後輩に頼まれようと何だろうと、時間外の練兵場の使用は上司の許可と立ち会いが必要なんだよ。シリュウも覚えとけ」
「上司に言えないような理由を、おれがわざとつけたんです」
ぱ、とレヴィアンスの手がイリスの頬を放した。イリスが制するより早く、シリュウは「理由」を口にする。
「手合わせをしておれがインフェリア中尉に勝てたら、中尉の剣の柄にあるサーリシェレッドをくれるように頼みました。おれの馬鹿な頼みを、中尉は断れず、おれのために人に言うこともできず、こっそり相手をしてくれたんです」
レヴィアンスも黙ったが、イリスも閉口した。これは、そういう勝負だったか。「魔眼」とはそちらの意味だったのか。――それにしては、とってつけたような。
「……なんでサーリシェレッドが欲しかったのさ?」
怪訝な表情で問うレヴィアンスに、シリュウは少しも表情を変えることなく答えた。
「おれの悪い癖です」

午後の任務の報告書は、「異常なし」という結果を口頭で伝えた時点で、ネイジュには不要のものとなった。しかしルイゼンはこれまで通りにきちんと報告書を仕上げ、考えた末に将官室へと持参した。トーリスなら事情を話せば、代わりに見てくれないかと思ったのだ。
将官執務室を訪ねたときには終業時間になっていたが、トーリスら将官はまだそこにいた。将官は一人でいくつかの班や大班の面倒を見なければならず、常に報告書や資料と向き合わなければならない。仕事を選び部下に任せたり、重要任務について会議を行なったりと、外に出ずともやることは多い。訓練の時間がとれず、実戦では役に立たなくなると言われるのは、仕方がない部分もあった。将官になっても現場の第一線で活躍していたレヴィアンスやかつてのニアやルーファは、稀有な例なのだ。
「失礼します。トーリス准将、お願いがあって参りました」
「おお、リーゼッタか。なんだか久しぶりだな。何やら大変だったそうだが」
書類から顔を上げて、トーリスは嬉しそうに笑った。まだ傍らには未処理分が積まれているので、あなたこそ、と返す。
「お忙しいところ、申し訳ないのですが……今日行ってきた定期視察任務の報告書の確認をしていただけますか」
「私がか? 新室長はどうした。ディセンヴルスタとかいう……」
「大佐は、何もなかったのなら報告書は時間と紙の無駄だと。まずは事務室内の無駄を徹底的になくすことから始めようという方針らしいです」
ルイゼンは声を潜めたが、近くの他の将官には聞こえていた。眉を顰める者もいれば、言い分はわからなくもない、というように頷く者もいる。トーリスは前者だった。
「北方出身だったな。無駄を省くのは結構だが、あまりやりすぎると以前の不祥事の二の舞になりそうで、私は不安だ」
「俺もそう思います。とにかくそういうわけで、報告書は見てもらえませんでした。他の報告書も、大体は俺が処理している状態です」
「道理で私に上がってくる報告書のサインが、お前のものばかりなわけだ。随分仕事を任されているんだなと思っていたが、面倒を押し付けられているだけか」
ルイゼンたちの事務室から上がってくるものは、引き続きトーリスがまとめているようだ。渋い顔をしながら報告書を受け取ってくれ、ざっと目を通し、サインをくれた。このまま引き受けてくれるというので、ルイゼンは礼を言った。
「しかし、ディセンヴルスタ大佐の判断は問題だ。ちょっと意見を仰ごう。お前も来い」
誰に、と問う前に、ルイゼンはトーリスに腕を掴まれ引っ張られていった。向かう先を見てギョッとする。そこには、机に向かって書類に判を捺す将官室長、タスク・グラン大将の姿があった。大総統補佐を除く将官のトップに「ちょっと」意見を聞けるのだから、トーリスはやはり偉くなったのだ。
「グラン大将、第一大班事務室長に就任したディセンヴルスタ大佐について、ご報告申し上げます」
「ディセンヴルスタ大佐?」
肩眉を上げてこちらを見る男には、かつて大暴れをしてまで功績をあげてきたような勝気さは感じられない。ただ他の将官らしい、静かな威厳が存在する。近寄るだけで鳥肌が立った。
「リーゼッタ中佐の報告によりますと、ディセンヴルスタ大佐は無駄を省くとして報告書の確認を怠っているようです。事務室長としての職務を放棄しているのでは?」
トーリスの進言にも、低い声で淡々と答える。
「放棄ではないだろう。問題があると判断したものは確認している。ただでさえ仕事量の多い第一大班の見直しを行うことは、悪いことではない。なんでもかんでも受け入れて仕事が滞る方が問題だと、私は思うがね」
その言葉は、とても噂通りのタスク・グランのものとは思えなかった。三年前までなら、こんなにおとなしくはしていないだろう。それとも将官室長として考えを改めたのだろうか。疑問に感じたのはルイゼンだけではないらしく、トーリスも怪訝そうにしていた。
「トーリス准将、君もあまり第一大班に仕事を任せすぎないよう気を付けなさい。ここにいるリーゼッタ中佐含め、たしかに彼らは優秀だ、閣下も特別に目をかけるほどな。しかし物事には限度というものがある」
「彼らの技量に合わせ、適切に割り振りをしているつもりでしたが」
「だったら些細なことは他の班にまわしてやったらどうだ。リーゼッタ中佐も、負担は軽いほうがいいだろう」
そんなことはない、とは言えなかった。忙しいときにはレヴィアンスを多少なりとも恨めしく思ったこともあったし、仕事は全体に行き渡らなければ不公平だ。仕事の質と量のバランスは士気にも影響する。
「ディセンヴルスタ大佐は他でもない閣下が室長に任命しているんだ。少し任せて様子を見てみればいい。リーゼッタ中佐も、もっと柔軟に考えたらどうだ。閣下にいつまでも子供扱いされ、いいように使われるのは、君も本意じゃないだろう」
ここにきて、ようやく目の前にいる人物は間違いなくタスク・グランなのだと実感が湧いた。かつての大総統候補で、あのネイジュが贔屓する者。レヴィアンスの人事を良く思っていないことは今の言葉ではっきりした。
「いいように使われているとは思っていません」
言い返したルイゼンに、トーリスはじめ将官たちが一斉に注目する。タスクは目を眇めはしたが、無言だった。
「大将の仰ることは尤もですが、自分は閣下の言いなりになっているつもりはありません。ディセンヴルスタ大佐ではなくトーリス准将を頼ったことも、閣下が聞けばきちんと段階を踏めと仰るでしょう。これは自分が考え、自分がとった行動です。それに子供扱いなんて、閣下は部下に対して一度たりともしたことはありません。自分は昔からあの方を見てきましたが、そういうことができない人なんです」
失礼しました、と頭を下げる。もう用事は済んだ。この後の処分がどうなろうと、知ったことか。将官執務室を辞する前に、もう一度トーリスに会釈をした。巻き込んでしまった詫びを込めて。

胸ポケットに見慣れないペンが入っていた。こんなものを入れられるのは、一時的に軍服の上着を脱いで席を離れた時。やるのは隣の席の彼くらいだ。フィネーロは寮へ向かっていた足を、渋々と司令部の情報処理室へ戻した。他人の物を持ち続けているのは、気分のいいものではない。
情報処理室にはまだ人の気配がした。合図も遠慮もなく扉を開けると、せめてノックくらいすればよかったと後悔するような光景があった。
フィネーロの隣の席には、一つの椅子に二人が座っていた。一人はミルコレスだが、彼と向かい合うように密着しているのは、ジンミ・チャンだ。軍服はスカートまでもが床に脱ぎ散らかされ、彼女はブラウス一枚だったが、その前もはだけて豊満な肌色が見えている。
「あ、リッツェ君。おかえり」
ミルコレスはにっこりと笑い、ジンミも紅潮した顔で妖艶な笑みを浮かべてこちらへ振り返る。状況が把握できるまでその場から動けなかったフィネーロだが、しかし、やっとのことで顔を顰めて二人に歩み寄った。
「情報処理室にも監視カメラはついているんですが」
ペンを差し出すと、ミルコレスは片手でジンミを抱きしめたまま、もう片方の手で受け取った。
「わざわざありがとう」
「わざわざ? わざとでしょう。こんなものを見せつけるために呼び出したんですか」
「呼んでないよ。ペンの一本くらい、明日でもよかったのに、君はここに来た。それだけのことじゃないか。すぐにここを立ち去ることもできたのにそうしなかったってことは、君も仲間に入りたい? 俺は全然かまわないけど、ジンちゃんは?」
行為と口調がめちゃくちゃだ。激しい嫌悪感を覚えて踵を返そうとしたフィネーロの袖を、白く細い指がつまんで引っ張った。
「私はいいのよ、二人でも三人でもお相手できるわ。私を無視してもかまわない。ミルから今まで散々情報をもらったのだったら、彼に体で返してあげたらどう?」
「馬鹿なことを」
指を振り払うときに、赤で塗られた長い爪が見えた。耳には宝石、唇には艶。これはさぞや、とフィネーロは思わず笑ってしまった。色目を使われたというルイゼンには、さぞや苦手なタイプだろう。
「そういうことは自室でやっていただきたい。その隣は僕の席だ。少しでも汚したら、たとえあなたが年上だろうと承知しません」
「ジンちゃんは君より年下だよ」
「もちろんチャン中尉もです。……情報をべらべら喋ってくれたことに対して対価が欲しいなら、あとで正当な形でお返しさせていただきます」
「俺は君の体かサーリシェレッドがいいな。両方でももちろん歓迎だ。もしくは……」
最後まで聞かずに、早足で情報処理室を出た。こみ上げる吐き気と粟立つ肌は不快の極みだ。明日からも隣にあの男がいるのかと思うとげんなりする。
「いい仕事仲間、ね」
彼らが思った以上に深い関係であることだけははっきりした。

終業後に姿を消したイリスを探して、メイベルは司令部内をうろついていた。大総統執務室かと思ったが、ガードナーが来ていないと答え、レヴィアンスが「じゃあオレも捜す」と部屋から出てきた。
「閣下と二人で歩きたくはない」
「じゃあ二手に分かれよう。どうせ異性の更衣室とか入れないし」
なぜ更衣室、と思ったが、気がつけば練兵場近くの更衣室に来てしまっていた。従ったわけではない、と心の中でぐちぐち言いながら、メイベルは女子更衣室を覗き込む。明かりはついていないが、誰かがいるのか、がたごとと音がする。ロッカーを探る音だ。
電気をつけると、音がぴたりと止んだ。中を進んで一通り見回っても、人の姿はない。その代わり、ロッカーの一つから呼吸音が聞こえた。驚いて、急に息を吸ったような。かすかに漏れた声が、メイベルの知っているものだった。
眉を顰め、逡巡する。あの言葉は嘘ではないと感じた。だが、結局隠れなければならないようなことはしている。言っていないことがあるという勘は正しかった、ということが残念でならない。激情型であるというのは自覚しているが、不思議と怒りは湧かなかった。
「カリン」
ロッカーの中にいるはずの、妹の名を呼ぶ。返事のように、かたん、と音がした。
「そこで何をしている。お前は何をしにここに来た。更衣室に、という意味ではない。中央司令部に、という意味で尋ねている」
そっとロッカーが開いた。出てきたカリンは俯いていて、その手には剣が一振り握られていた。柄には紅玉――スティーナ鍛冶製である証のサーリシェレッドがあしらわれている。見間違えるはずがない、イリスの剣だった。
「イリスの味方なのではなかったか」
「……」
返事を待つ間に、練兵場のほうから怒号が響いた。レヴィアンスがイリスを見つけたらしい。ここに剣などの荷物があるということからも、つまり練兵場にいたのだ。
「閣下の前で白状してもらおう。私はもう、お前を怒鳴るのは疲れた」
「お姉ちゃん、ごめんなさい。閣下にはちゃんと話すから、お姉ちゃんは寮に戻って」
「お前の不祥事は私の責任でもある。周囲がそう言うのだから、そうなんだろう。ロッカーの鍵をこじ開けるくらいの技術は、そもそも私が昔お前に教えたものだ」
疑いは全員にあると言いつつも、メイベルだってどこかで「カリンは関係ないはずだ」と思っていた。それが覆されてしまうことは、存外にショックだった。――自分のような者でも、ショックは受けるらしい。きっと周囲は「意外だ」と言うのだろう。
カリンを引っ張ってきてレヴィアンスと合流すると、イリスと、なぜかシリュウも一緒だった。これから大総統執務室に向かうというので、メイベルもついていくことにした。
「ベル、どうしてカリンちゃんを?」
「どうもこうも、こいつがイリスの荷物を漁ってたんだ。標的は剣、いや、剣についているサーリシェレッドといったところか」
イリスとカリンが同時に息を呑んだ。こんな展開、少しも望んでなんかいなかったのに。
レヴィアンスを先頭に、メイベルがしんがりを務めて進む。その途中で、疲れた表情のルイゼンと、蒼い顔をしたフィネーロと、それぞれ別の方向からやってきて出くわした。
「どうした、みんな揃っちゃったな」
「閣下……。すみません、ちょっと面倒なことをやってしまいました」
「僕は嫌なものを見てしまって。ですが、一つ可能性を提示することができます」
全員の顔を見回し、レヴィアンスが苦笑した。
「みんなまとめて聞くよ。おいで」

レヴィアンスが出て行った大総統執務室で、ガードナーは一人で書類を整理していた。これが終われば、今日の仕事はきれいに片付いて、自分もレヴィアンスも寮に戻ってゆっくり休める。さっきまでは、そういうことになっていたはずなのだが。
「……ノックもなしにこの部屋に入ってくるのは、マナー違反ですよ」
予定は狂うものだ。それも込みで計画は立てなければならない。そもそもレヴィアンスがイリスを捜しに行ってしまった時点で、すぐには帰れないことがわかっていた。今更用事が増えたところでどうということはない。
「マナーが必要なんですか、無茶しかしない大総統のための部屋に」
「ええ、もちろん。もう二十歳を過ぎた大人なら、身につけているべきことですよ。ディセンヴルスタ大佐」
窘められても、ネイジュは不敵な笑みを浮かべていた。というよりも、これはこちらを侮っている表情だなと、ガードナーにはわかった。
「あなたはマナーで伸し上がったんですか。そうやって閣下に取り入って、補佐の座を手に入れたんですか。ご友人を蹴落としてまで」
「取り入った覚えはありません」
「大切なご友人を蹴落としたのは事実でしょう。本当はご友人のほうが補佐に相応しいと、ご自分でもわかっていらしたくせに」
鼻で嗤うネイジュに、ガードナーは静かに瞳を向けた。この不遜な態度の部下の言うことは、間違ってはいない。彼は知っているのだなと、ただそれだけを思った。
「どうして閣下は、何の功績もないあなたを補佐に起用したんでしょうね。雑用には向いていると思ったんでしょうか。もう一人の補佐は名前と義理ですかね。もしかして下心もあったのでは」
「私はともかく、閣下たちへの無礼な発言は許しませんよ」
「許さない、ですか。だからって何ができます? 今すぐ私に何かできるというのならしてみてくださいよ。さあ!」
初めて見たときは、落ち着いた青年だと思っていたのに。見た目というのは当てにならないものだ。挑発的な語調には、かすかに友人だった男を感じた。
「そうですね、ここでは私は何もできません。あなたは敵ではありませんし、その様子では閣下の脅威とも思えません」
ネイジュが整った顔を怒りに歪める。このくらいで感情をあらわにするとは、やはりまだ若い。若いからこそつけこまれやすい。もしも裏の人間が彼に巧みに接触していたとしたら、簡単に引っかかりそうだ。
「ディセンヴルスタ大佐、出ていきなさい。閣下が戻ってこないうちに去ったほうがいい」
「ご忠告ですか? 閣下が戻れば、私は軍を辞めさせられるのでしょうか」
「いいえ、あなたのような人を簡単に外に出しては、どうなってしまうかわかりません。閣下の『教育』は、きっとあなたが考えるよりもずっと厳しいですよ」
たとえ彼が裏と通じていたとしても、レヴィアンスは彼を手放さない。情報を搾り取れるだけ搾り取り、軍人としての心得を叩き込み直し、一生逆らえないように手をかけて育てるだろう。他でもないガードナー自身が、あの人に惚れ込んでしまったのだ。
「私としてはそれもお薦めの道ではありますが、あなたが耐えられるかどうかはわかりかねますので」
「……っ、思ったより口も達者ですね、大総統の狗が。だが到底グラン大将には及ばない」
捨て台詞を吐いてしまった時点で、相手の負けだ。これで大佐になれるとは、北ではさぞ行儀よくしていたのだろう。つい笑みがこぼれた。
「閣下の忠犬であり番犬であることは、私の誇りです」
激昂して言葉が出てこなくなったのか、ネイジュは歯ぎしりしながら執務室を出て行った。つい手を振って見送ってしまってから、彼の出した名前を思い返す。
タスク・グラン――同時に軍に入隊し、生活をも共にした、かつての友人。ガードナーがこの地位を得ることで昔のような関係は断たれてしまったが、彼の功績は今でも認めている。彼こそが補佐に相応しいと思っていたことも、たしかにその通りだった。
ネイジュのように、彼を慕う者もいる。中央にも、口にしないだけでそう思っている人間が多い。それでもタスクが我こそという主張を収めた理由を、ガードナーは正しくは知らないが、少しばかりの希望は持っている。ガードナーを直接罵倒して気が済んだだけではなく、三年経っていくらかは今の立場を認めてくれたのではないかと。
もしもそうなら、彼の気持ちに恥じないような働きをするのが、自分の役割だ。
気を引き締めて片付けの続きをしていると、部屋の外から複数人の足音が聞こえてきた。一つはレヴィアンス、一つはイリス、そしてメイベルと……ルイゼン、フィネーロまで? それにあとの二つは。
「これは大変なことになりましたね……」
呟きながらすぐに取り掛かったのは、お茶の準備だった。落ち着いて話ができるように、香りのよい紅茶を。


「思っていたより愚かだな、お前は」
自室に戻ってすぐに訪れた客人を、タスクは溜息交じりに迎えた。悔しそうに口を引き結んだネイジュは、俯いたまま返事をしなかった。
「レオナルドを舐めていたんだろう。あんなやつでも、大総統補佐を務めて三年だ。部下をあしらうくらいには立場に慣れているだろうに、どうして直接当たったんだ」
「補佐とは言いますが、あの人は結局、閣下の言うことに従うばかりの犬にすぎない。そう思っていたのですが……」
「昨年の暗殺未遂事件では、怪我をしたレオナルドがわざわざ病院から駆けつけて、公会堂での戦いを征した。あの閣下がそうしろと命令するとは思えんから、やつの独断だろう。三年前までの腑抜けと同じままではないということだ」
そう言って笑みを浮かべたタスクは、見惚れるほど清々しかった。台詞を聞かなければ、誰も彼が大総統とその補佐に対して下剋上を企てているとは思わないだろう。
「ネイジュ。その階級に見合うよう、もっと上手にやつらを引っ掻き回すことだな。レオナルドはこっちに任せろ。お前は大総統のお気に入りたちをよく見て、潰せ」
「リーゼッタたちをですか」
「そうだな、お前ならリーゼッタを狙うほうがいいかもな。ブロッケンは扱いにくいし、リッツェとはあまり顔を合わせない。インフェリアは……あれは手を出すまでもない。むしろ権力を得るには不利な状況を作りかねないから、放っておけ」
タスクはグラスを二つ並べ、酒を注いだ。にっこり笑って、片方をネイジュに差し出す。
「甘いくせに生意気なリーゼッタを、徹底的に潰せ。何なら、軍を辞めさせてしまえ。どうせ甘いやつは、俺たちが理想とするエルニーニャ軍には不必要な存在だ」
強さこそ至高の正義。逆らう人間は排除する。タスク・グランの「理想」は入隊した子供時代から変わっておらず、それこそネイジュの求める国軍の頂点の姿だった。



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posted by キルハ制作委員会 at 13:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 小ネタ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月23日

魔眼の物語

美しいでしょう。血にはない赤い輝きは、きっとあなたを虜に――ああ、もうなっていますね。その恍惚とした表情が見たかった。
魔眼、の由来ですか? 人を狂わせる悪魔の眼、そう、かつて発禁になった物語ですね、それが元だといいますよ。物語は、たしか差別に繋がるからといって、本になったものはすべて回収されたのでしたね。三十年ほど前でしたか。
でも、魔眼はたしかに存在するんです。その眼を見ただけで狂ってしまう。多くの場合は嫌悪感です。身体にも影響が出ることがあります。平気な人もいますが、本物の魔眼は、大抵の人間には害となります。
ですがその眼も使いようですよ。サーリシェリア鉱石と同じです。力や物質は使う人間によってその役割を変化させる。
あなたは、この魔力を使いこなす自信がありますか? どういうことかって、それは……そうですね、サーリシェリア鉱石の取り扱いもそうなのですが。あなたにお願いしたいのは、魔眼についてです。符丁としての「魔眼」ではなく、本物の。
私どもは、魔眼の生成を目指しています。あなたもご存知でしょう。こちらで大きく発展した、細胞複製技術を利用します。そのためにはサンプルが必要だ。
現在、その存在が確認されている魔眼の持ち主がいます。強力で、生かすにも殺すにも申し分ない。私どもは生かす方向で進めたいのですが、持ち主からの許可はおそらく得られないでしょう。残念ですが。
そこであなたにお願いがあります。魔眼のサンプルを、持ち主からいただいてきてください。実物が欲しい。片目くらいなら、抉りだしても問題ないでしょう。
そして得た魔眼の完全複製に成功したあかつきには、あなたに魔眼を使ってもらいます。すなわち、移植です。そうしてあなたは、この世界でもっとも強く美しいものになれます。この宝石のように。
どうです。一枚噛んでみる気は、ありませんか?


「カリンちゃんは違う。接触したといっても一瞬のことだし、何か吹き込まれたようなことも言ってなかった。だからもし裏と深い関わりを持った人間がいるとしたら、カリンちゃん以外だと思う」
大総統執務室で書類の整理をしながら、イリスは今朝のことをレヴィアンスに報告した。そもそも、カリンが裏とつながりを持っているのであれば、自分から話をすることはないだろう。
「彼女は最も可能性の低い人物だったから、まあそうだろうなとは。売人と二人きりになった時間がある、という報告しか受けていないんだよね、オレも」
「しかしカリンさんの場合、西方司令部の誰かがカモフラージュのために彼女を推薦したという可能性のほうが高いんです。西方の調査は、向こうで閣下が信頼のおける人々が進めてくれています」
レヴィアンスは頷き、ガードナーは詳細を補足する。西方司令部は、以前にいざこざのあった西国に一番近い。潜入されていることも視野に入れているという。
人を疑い続けるのは、イリスにとって大きなストレスだ。そもそもイリスを守るために人を集めたというのなら、できれば早々に、全員の容疑を晴らしてしまいたい。残りは四人。まだ十分に話もできていない人物もいる。他班の人間となれば、接する機会は限られる。不自然に近づけば警戒されるだろう。
「カリンがその話をしているあいだ、シリュウも近くにいたんだよね。あいつの様子はどうだった」
「話を聞いてるのか聞いてないのか、よくわからなかったなあ。ずっと無表情だからね、あの子」
「だよな。ここに来たときも、緊張してるのはわかったけど、表情は少しも変わらなかった。東方での評価も、冷静で物事に対して動じない、至って真面目な人物だそうだし。准尉になったばかりとは思えないほど落ち着いているとは、オレも思ったよ」
「十六歳、ですか。イリスさんが十六歳のときとは、勝手が違いますね」
「はいはい、どうせ十六歳当時のわたしはやんちゃしてましたよ。……あ、でも」
ふと、思い出した。練兵場を案内したとき、剣技の訓練ができることを確認し、イリスを強いと言ったあのときのこと。彼の言葉から感じた、真っ直ぐに切っ先を突きつけられたような、ひやりとした感覚。
「剣技に関しては、たぶん自信とか誇りとか……そういうのがあるんだと思う。あの子、わたしを超えるべき相手として見てた」
本当にそれだけだろうか、とはイリス自身も思った。超えるべき相手、ではなく、仕留めるべき相手なのではないかと。それくらい彼の視線は鋭く、こちらを射貫いていたのだ。ただ、殺気とは違うようだったから、シリュウもシロではないかと考えている。彼は純粋に強さを求めているのだろう。
「あとの人は、まだよくわからない。ディセンヴルスタ大佐は、ゼンは付き合いにくいって言ってるけど、仕事はちゃんと手際よく進めてるみたいだし。昨日引継ぎしただけでもう室長らしくできてるんだから、やっぱりすごい人なんじゃないかな、とは思ってる」
「うん、あいつは超優秀だよ。ていうか、今の北方司令部って優秀な人材を集めて育てるのがうまいんだよね。その分癖も強いけどさ。フィネーロの兄さんのアルトだって、元は北方司令部の人間だ」
すんなりと認めるレヴィアンスだが、その隣ではガードナーが少し苦い顔をしている。他の人が褒められて嫉妬をするような人ではないので、イリスはちょっと首を傾げた。
北方司令部の人材が優秀なのは、過去にあった裏や条項違反貴族との癒着の解消に努めるべく、内部をきれいに入れ替えたためでもある。上の立場にいたアルト・リッツェはそれ以上に跡を濁すことなく、責任をとって軍を辞した。反省をもとにつくりあげられた現体制と人員は、中央よりも厳しく現場を律しているともいわれる。
その中で育ってきたネイジュ・ディセンヴルスタが、優秀でないはずがなかった。
「でもまあ、ルイゼンとは合わないだろうなとは、オレも思ってたよ。完璧が過ぎるし、理想も高い。でもルイゼンは、ちょうどいいところを模索しながら少しずつ全体を高めていきたいタイプだよね。そのうち真っ向から対立しそう」
「なのに大佐を室長にしたの? 相変わらずレヴィ兄の人事ってわけわかんないんだから」
大総統になったときからそうだよ、とイリスが口をとがらせると、レヴィアンスは、にい、と笑う。
「ネイジュには功績至上主義がいいことばかりじゃないってことを知ってもらいたいし、ルイゼンにはちょっとは仕事で成果を上げることを意識してもらいたいんだよ。足してちょうどいいと思ったから、ネイジュが室長、ルイゼンが副室長ってかたちにした。他の大佐階級は、考え方がどちらかといえばネイジュに近いんだよね。そのわりにルイゼンが室長だったときには頼る、というか仕事を押し付けてたから、彼らにはちょっと考え直してほしい」
事務室の様子はほとんど見ていないはずなのに言い切った。でも、実際その通りだ。上司からは重い仕事を与えられ、後輩からは頼られるルイゼンの立場は、とてもイリスには真似できないほどの忙しさだった。手伝いたくてもその隙がなく、結局最後までルイゼンはほとんど一人で繋ぎの室長をやりきった。少しだけフィネーロが補佐に入ったものの、尉官であるメイベルとイリスには「自分の仕事があるだろ」といって触らせなかった。
しかしそれは室長になったからには責任を果たさなければならず、またイリスたちには本当にそれぞれの仕事があったからであって、彼は功績や実績といったことなどはまるで考えていないのだ。
「ディセンヴルスタ大佐は、功績とかにこだわってるの? あんまりそうは見えなかったけど」
「こだわったから中央行きを望んだんだよ。表向きはね。本当は何を考えているのかまでは、オレにはわからない」
これからそれも見えてくるだろうか。まだまだ謎の多い人だ。
「じゃあさ、ジンミは? わたしと同じ階級の、ジンミ・チャン。まだまともに話してないんだけど」
こちらは別班に所属した女性中尉だ。肩の上で切りそろえたコーヒー色の髪と、切れ長の黒い目。異国の雰囲気を漂わせる美貌は、さっそく中央司令部の話題になっているらしい。たしかにすごい美人だよね、とイリスが呟くと、レヴィアンスとガードナーも正直に頷いた。
「映画とかの謎の女スパイってあんな感じだよね」
「閣下、その先入観はあまり適切ではないかと。しかし、彼女が東方で囮捜査を専門にしていたというのは事実です。尉官で、それも十七歳という若さでというのは、あまり例がありません」
年齢が一つ下だったことをたった今知って、イリスは溜息を吐いた。あんまり大人っぽい、言ってしまえば色っぽいので、年上かと思っていた。それに。
「着けてるピアス、今日のも本物の宝石だった。昨日の赤いのは、きっと渦中のサーリシェレッド。今日は青かったけど、あれ、ノーザリアの指定鉱石だよね。北極星って呼ばれてる……」
「目が良いお前が言うんだから、そうなんだろう。そっか、あれだけじゃなかったか。さすが、堂々としたもんだ」
まさか裏から流れたものではないだろう。だが、普通なら若者がそう簡単に手に入れられるようなものでもない。一応は名家の娘であるイリスでさえ、アクセサリーとして持っているのは一つきりだ。
「ジンミは宝石商の子。東方での功績は、囮のほかに目利き。不正取引された品物を見極められる。もちろん現場に出て、裏の人間と直接会うことも多かった」
「本人が重要かつ貴重な人材じゃん」
中央に引き抜かれたら、東方司令部は困るのではないか。イリスの懸念を見抜くように、レヴィアンスは苦笑した。
「東方司令部長とチャン家を説得するのに、クレリアには随分苦労かけたよ。あとでどうやって埋め合わせたらいいと思う?」
「しっかり休み取らせてあげたほうがいいよ……」
ジンミも高い能力と身分がある。家に傷がつくようなことは避けそうなものだ。
「あとはミルコレス・ロスタ少佐か。たぶんこの人は、フィンのほうが近いよね。情報処理室に挨拶しに行ってたし、今日もそっちで仕事みたい」
強い癖のある赤い髪と、健康そうな褐色の肌が特徴の彼は、フィネーロと同階級で仕事も同じだ。目が合うと愛嬌のある笑顔を向けてくれたので、今のところイリスの印象は良い方だった。
「うん、オレがそう指示したからね。南方の情報処理と特別任務の担当だったんだ」
特別任務、というあいまいな表現を復唱する。ガードナーがすぐに補足してくれた。
「『指定品目の違法輸出入』の対策です。専門の班が南方にありまして、ロスタ少佐はその一員でした。サーリシェリアからの持ち込みが最も多かった時期に結成されたのですが、仕事の内容はそのときからほとんど変わっていませんね。他の地方での事件にも何度か派遣されています」
「こっちもスペシャリストかあ……。優秀な人ばっかり入れちゃって、わたしが埋もれたらどうしてくれるのよ、レヴィ兄」
「埋もれてもいいけど、食われるなよ。イリスも違法輸出入案件について勉強してくれるとありがたい。サーリシェレッドについてはアーシェも詳しい。あとはその価値をよくわかっていて盗んだことがあるやつ、とか」
たしかに知識が足りないままではいけないだろうとは思っていた。隙を見て事件記録を調べたり、アーシェのいる国立博物館にあたってみることも考えのうちに入っていた。けれども、最後のはなんだ。レヴィアンスに怪訝な表情を向けると、にやりと笑い返された。
「利用されっぱなしは癪じゃない?」
「わたしは別に。でも、確かに何か知ってそうではある。でもって、きっとわたしが行かなきゃ話してくれないことも予想がつくよ」
サーリシェレッドの別名を考えれば、いつかは行きつく心当たりでもあった。彼はイリスの眼を、最初にその名で表現した人物だ。
会うことを考えると、複雑な気持ちになるけれど。

事務室での仕事はネイジュが一人で取りまとめようとしていて、実際彼はそれができる人物だ。それはルイゼンも認めるところであったが。
「大佐、俺もやりましょうか」
「いや、遠慮するよ。リーゼッタ中佐は自分の班のことに集中してくれてかまわない。私は余計な手出しをされるのが好きではないんだ」
この態度はやはり簡単には受け入れられるものではなかった。「失礼しました」と笑顔で返しつつ、ルイゼンは内心でイライラしている。こんなとき、トーリスならばすぐに仕事を分けてくれ、より高いレベルの知識や技能を伝授してくれただろう。思えばあの人は部下を育てるのがうまかった。
溜息を吐くのを我慢しながら自分の机に戻ろうとしたところで、街の巡回に行っていた者たちが帰ってきた。ついジンミに目がいく。正確には、彼女の耳に青く光る宝石に。
――ありゃあ、相当なお嬢だな。イリスとは別の意味で。
半ば呆れていたのだが、彼女と目が合ってどきりとした。慌てて目を逸らそうとすると、彼女は口の端を持ち上げて妖艶に笑った。それからネイジュに、巡回の報告に向かう。何事もなかったように。
「大佐、レジーナは賑やかですね。喧嘩騒ぎを一つ止めてきました」
「ご苦労。中央は人が多いしちょっとした事件もよく起こるようだ。全部報告していたらきりがない」
報告を受けたネイジュは鼻で嗤う。するとジンミが微笑んだまま「いやですわ、はしたない」と言い放った。会って間もないはずの上司に随分な言いようだが、異論はない。
「報告書は規定通りに提出いたします」
「内容のない報告書など、作っても意味がない。だが規則を守るためというなら、提出はリーゼッタ中佐に頼むよ。彼は副室長として仕事が欲しいようだ」
近場にあった椅子を蹴り倒しそうになった足を、ぐっとこらえる。ここで怒りをあらわにしては、相手の思うつぼだ。
「そうですか。では、後ほどお渡してもよろしい? 中佐」
「ああ、受けとるよ。最近は何が重要になるかわからないし、喧嘩のこともちょっと詳しく書いておいてほしい」
「わかりました」
ジンミはジンミで、苦手なタイプの、というよりこれまでに周りにいなかったために接し方がわからない女性だ。上目遣いは媚びず、むしろ挑戦的。軍服の上からでもわかる体の線は美しく、同年代であるはずのイリスやメイベルよりずっと色っぽい。周りが注目してしまうのもわかる……が、ルイゼンの好みではない。こんなこと、絶対に口にできないけれど。
少し遅れて、もう一人の美人が事務室に戻ってきた。だがこちらは見た目よりも性格のインパクトが大きすぎて、おまけに本人が男性嫌いということもあり、めったに話題にのぼることはない。
「おいルイゼン、私はもう下級兵指導はごめんだ。奴ら、ちっとも私の命令を聞きやしない」
「メイベルの言い方が悪いんじゃないか。あと求めるレベルが高すぎるとか。ちゃんと見てやれよ」
残念な美人メイベルは、しかしそんなことは全く気にせずに舌打ちをして自分の席に戻る。いつものように訓練報告を書いて提出するつもりなのだが、その肩にぽんと手が置かれた。
「ブロッケン大尉、訓練の報告書はよほどのことがない限りは作成しなくてよろしい。無駄は積極的に省いて、効率のいい仕事をしよう」
笑顔を浮かべるネイジュの提案は、メイベルには都合のいい話だと思われるかもしれない。だが、彼女にはよく知りもしない男に気安く触れられることそのものが嫌悪の対象だった。ネイジュの手を振り払うと、彼を思い切り睨む。
「……なぜ、そのような態度を?」
「そっちこそどういうつもりだ。仮にも大佐様、室長様が、これまでの慣例を無駄だと? まあ、たしかに私も無駄なことだと思ってきたさ。だがな、何がどう役立つかわからないのが中央司令部の現状だ。部下とのスキンシップをはかるよりも、ちょっとは勉強してきたらどうだ、大佐様」
もっともらしいことを言ってはいるが、ルイゼンには「気安く触るな、気持ち悪い」と聞こえた。フォローをしようと二人に近寄ろうとしたとき、ぱん、と音が響いた。
誰もが目をむいた。そんなこと、今まで誰もしなかったし、しようなんて考えたことがない。突然頬を平手で打たれたメイベルも呆然としていた。
「君は少し、上司への態度を改めたほうが良い、ブロッケン大尉。君がそんなことでは、妹である准尉にまで影響が出てしまう」
ネイジュの瞳は冷たくメイベルを見下ろしている。我に返ったルイゼンは、メイベルの前に立ち、ネイジュに迫った。
「今のはあんまりです、大佐。叩く必要がありましたか」
「リーゼッタ中佐、君は優しすぎたんだよ。躾のなっていない者には、ちゃんとわからせてやらないとだめだろう。……それとも女性に手をあげることは許さないという、フェミニストなのかな、君は」
否定しようとルイゼンが口を開いたが、声を出す前に腕を掴まれた。手を伸ばしたメイベルが、もう片方の手で髪を耳にかけ直しながら、息を吐く。
「ああ、その通り。うちの班長は女はおろか、男にすらまともに手をあげられないんだ。室長様と違って、可能な限り暴力に訴えないのがルイゼン・リーゼッタという人間だ。ルイゼン、こいつはお前にとっていいお手本になるぞ」
赤くなった頬を押さえようともしないメイベルに、ネイジュが眉を顰めた。反省していないことは歴然だった。ルイゼンは一瞬戸惑ったあと、やっと喉を震わせた。
「メイベル、医務室で手当てを」
「いらん、そんなもの。これくらい昔は日に何十回と浴びせられた。……私が叩かれるのはかまわん。態度を改めるつもりもない」
「ブロッケン大尉、慎め」
「生憎と慎みなんてものは大昔に捨てた。新人室長様も、どうか中央の癖のある人間に慣れてくれ。こちらも物を知らない室長様に慣れる努力をしようじゃないか」
ふ、と息を漏らしたのは、おそらく笑ったのだとルイゼンにもわかった。自分の机に向き直ったメイベルは、何事もなかったように報告書の作成を始める。ネイジュも諦めたように大きく溜息を吐くと、室長の椅子に座った。
この空気をなんとかする、というのはきっと無理なことだろう。メイベルが他人と相容れるということはまずほとんどの場合で見込めない。かといって上司であるネイジュが譲歩するわけがない。ルイゼンにできることは、慣れること、そして騒ぎを最小限に止めることだった。

情報処理室のフィネーロの隣の席には、よく誰かがいる。大抵は愚痴や相談を持ち込んだリーゼッタ班の人間なのだが、昨日から勝手が違ってきた。今隣でにこにこ笑いながら、勝手にフィネーロ愛用の鎖鎌を弄っているのは、ミルコレス・ロスタ少佐だ。
「はー……。本物のサーリシェレッドっていうのは、なんてきれいなんだろう。レジーナには正しく認定された職人がいて羨ましいよ。スティーナ翁には残念ながらとうとう会えずじまいだったけれど、ちゃんとその跡継ぎがいる。しかも師に匹敵する腕前だ」
恍惚とした表情で装飾を眺める、いや、愛でる彼に、フィネーロは先ほどから鳥肌が立っていた。自分もスティーナ鍛冶の仕事の証である紅玉の装飾は気に入っているが、ここまでではない。
「ねえねえ、リッツェ君。情報担当の君がどうしてこんな立派な武器を持つことになったんだい?」
「閣下をお守りするのに必要だったからです。僕は非力なので、せめて相手の意表を突くような技が使えたらと思いまして。……そろそろ返していただけませんか」
「俺も中央に来たからには、スティーナ鍛冶で何か作ってほしいな。いつまでも軍支給の短剣じゃダサいよ。柄にサーリシェレッドを上品にあしらった、芸術品みたいな短剣……ああ、それじゃ使うのがもったいない」
一向に返してくれそうになかったので、フィネーロは一旦手を止め、ミルコレスの手から鎖鎌を奪い取った。相手のほうが年上だが、話を聞いてくれない場合は強硬手段もやむをえない。返してもらった武器を机の下に隠すようにしまうと、ミルコレスは「ごめんごめん」と笑った。
「サーリシェレッドがきれいだからさ、仕方ないよ。サーリシェリアとエルニーニャの友好の証である“赤い杯”も、サーリシェレッドをカットして作られたものなんだよね。あれを完成させるには相当大きな原石と高度な技術が必要だ。人々を魅了する魔性の宝石に手を加える……はー、なんだかエロチックだと思わないかい?」
「思いませんが」
変態なんですか、という言葉を呑み込み、フィネーロは仕事に戻る。だが、その集中はすぐに乱された。
「赤い輝きはまさに『魔眼』と呼ぶにふさわしい。見たものを狂わせてしまう」
その言葉を知っている。まさにこの紅玉のような瞳を持つ少女がいる。彼女の眼もまた「魔眼」と呼ばれた。仕事の続きをできないでいると、ミルコレスは話を聞いてくれると思ったのか、機嫌良く続けた。
「赤眼の悪魔って物語を知っているかい? 赤い眼をした魔物が、人々の心を虜にして狂わせてしまい、最後には目が覚めた人々によって倒されてしまう話だ。赤い眼を持つ人々からは、差別を助長する、なんて言われていて、三十年ほど前に本になったものはほとんどが発禁となってしまった。けれどもサーリシェレッドの美しさを表す言葉として、『魔眼』は残ったんだ。表立っては言われない。この言葉を使うのは裏の人間と、俺たちのような特別な仕事をする軍人くらいだね」
特別な仕事、と心の中で繰り返す。ミルコレスのいた南方司令部には指定品目の違法輸出入案件を専門にする、特殊な部署があったはずだ。とすると、彼がまさしくそうだったのか。サーリシェリア鉱石は違法輸入されるものの代表といわれるから、それはさぞ楽しい仕事だっただろう。
「よく扱うんですか、サーリシェレッドは」
「うん。サーリシェレッドも、ノーザンブルーも、フォレスティリアやウィスティエロウだって見てきた。リッツェ君は全部知ってるよね」
「はい。ノーザリアのノーザンブルーは北極星ともいわれますね。フォレスティリアはイリアおよびその周辺の地層から出る美しい緑の宝石、ウィスティエロウはウィスタリアの火山地帯で、一定の条件の元でしか生成されない貴重な黄味の強い宝石でしょう。どれも輸出入が厳しく制限された、指定品目の宝石です」
「さっすがー。文武両道のエリート、リッツェ家の人だけあるね」
家のことを知られているのは想定内だ。ミルコレスも南方で情報担当として働いてきたのだし、そもそもリッツェ家がそれなりに有名になっている。どうも、と返して、冷静に尋ねる。
「それだけ多くの宝石に携わっていて、何故サーリシェレッドには特別な執着を? 僕の気のせいならそれはそれでかまわないのですが」
「サーリシェレッドはさ、他の宝石が星や草木なんかにたとえられたりするのに、これだけは『眼』なんだよ。動物の体の一部なんだ。広い意味でいえば自然物かもしれないけれど、一般的な自然とは一線を画す。それが俺にとってはロマンなんだな。わかる?」
「わかりません」
口ではそう答えたフィネーロだが、ミルコレスの感じているものはなんとなく理解できた。動物と彼は表現したが、つまるところ、それは「人」なのだ。人体の一部――思い出すのは、裏の人身売買組織の所業だ。フィネーロは現場を見ていないが、ルイゼンの話と資料から、至る所に人体の一部が生々しく置かれた光景を想像することはできていた。
「ロスタ少佐が興味を持っているのは、宝石だけですか」
「んー……一番惹かれるのは宝石だね。どうして?」
「いいえ、なんとなく」
この人の「ロマン」は、どことなく危なっかしい。あまりイリスを近づけたい人間ではないなと、フィネーロは心の中で呟いた。

イリスが事務室に戻る頃には、班に任された事務仕事のほとんどは順調に片付いていた。だが、室内に漂うどこかよそよそしい空気から、何かあったのだと想像することは十分にできた。嫌な予感は、メイベルの顔を見て確信に変わる。
「ちょっと、どうしたの。頬腫れてるよ」
「わかるほど腫れてるのか。鏡を見ていないからわからなかった。だが大したことはない」
何でもないように、けれども何かあったことを否定しないメイベルに唖然としていると、ルイゼンが近寄ってきて合図をした。外に出ろ、という指示に従うと、こちらを睨むいくつもの視線を感じた。複数あることがすでに異常だ。
「大佐に叩かれたんだ。メイベルは普段通りだった……のがいけなかったんだけど」
事務室を出て聞かされた事情に、イリスは頭を抱えた。ネイジュは優秀だと聞いていたのに、まさかこんなことになろうとは。だが、きっと「優秀」の定義が、こちらとは違ったのだろう。ネイジュは彼のやり方で仕事を効率化しようと試みていた。メイベルはそれに対して、常日頃と同じく「無礼に」振る舞った。たとえばトーリスなら半ば諦めつつ軽く叱って終わりにしただろう。けれどもネイジュは、彼女の態度を罰するべきものとして捉えたのだ。
「メイベル本人は反省の色も見せないけどな」
「まあ……叩かれたくらいでベルが変わるとは、わたしも思わないけど。それにしても、その場にカリンちゃんがいなくて良かった」
「タイミングよく資料室に向かわせてたんだ。戻ってきてすぐ、メイベルの顔には気づいたけど。心配はしてたが、詳細は知らない」
メイベルが本当のことを話すわけがない。ネイジュだって誰だって、説明の手間を省くだろう。男性の暴力に敏感なカリンに、わざわざ聞かせるような内容ではない。
「ごめんな。俺がしっかりしていれば、こんなことにはならなかったのに」
「ゼンはしっかりしてるよ。だって、止めようとしてくれたんでしょう」
「今はとっさに大佐を殴り返すくらいすれば良かったと思ってる」
「何言ってんの、立派な中佐が。ぶち切れたあんたを見るのは、わたしだけで十分。とりあえず、みんなでお昼食べに行こうよ。レヴィ兄に使われまくって、お腹ペコペコなんだ」
昼を挟めば気持ちが切り替わるかもしれない。イリスが笑ってみせると、ルイゼンもなんとか笑みを浮かべた。事務仕事の進捗がいいために、すぐにでも食堂に向かえるのは、ありがたいことだ。
再び事務室に入ると、ちょうどネイジュも席を離れようとしていたところだった。イリスと目が合うと微笑み、こちらへ向かってきた。
「インフェリア中尉、閣下の仕事を手伝っているのだろう。まだ尉官なのに、大変だね」
「わたしができることをやらせてもらっているだけです」
「そうかい? でも尉官にできることなんて、ごく限られているんじゃないか。閣下の人事は、私には理解不能だ」
言葉だけなら同意する。初めから言われてきたことだ、今更反論などない。だが、そう思っている者が他人の揚げ足取りに夢中になり、逆に自らの足元を掬われているのだって何度も見てきた。ネイジュはどうだろうか。
事務室を出ていく彼を見送ってから、イリスはメイベルに駆け寄った。
「ね、ベル。今からでも医務室行って、手当てした方がいいよ。わたしも一緒に行くからさ。ゼンは班のみんなを集めて、食堂に行ってて」
「手当なんかもう遅い。それに平気だと言っているだろう」
「じゃあベルがわたしについてきてよ。ユロウさんに確認したいことあって、医務室に行くから」
「……それなら行ってやらないこともない」
返事を引き出してからカリンに目配せをすると、ホッとした表情で小さくお辞儀をしていた。やはりずっと姉のことが心配だったのだ。そしてメイベルも、そんな妹の気持ちを無碍にできなかったから、イリスの言葉に折れたのだ。普段なら意地でも医務室には行かない。
実際、イリスが医務室に用があることは本当だ。新入りのカルテがあるはずなので、それを確認しておきたかった。メイベルの手当ての間に、軍医から話を聞けるだろう。
「ベルは、異動で新しく入ってきた人たちにどんな印象を持ってる? カリンちゃん以外で」
廊下を並んで歩きながら、イリスはメイベルに尋ねた。無表情で答えが返ってくる。
「どいつもこいつも気に食わん。見どころがあるのはシリュウくらいだ」
「シリュウは認めちゃうよね。あとはどのあたりが気に食わないの?」
「室長大佐様は存在自体。情報処理室に行った奴はよく知らないが、軟派な雰囲気が気色悪い。それからジンミ・チャンだったか、あの女はルイゼンに色目を使っていたぞ」
「まさか。ゼンだって引っかからないでしょ」
それに色目を使う理由も見当たらない。彼女なら、立っているだけでたくさんの人が惹かれる。たしかにルイゼンは見向きもしなかった、とメイベルが相槌を打つので、ちょっとだけ苦笑した。
それにしても、ネイジュとメイベルは当分穏やかに仕事ができそうにない。これはレヴィアンスに報告するべきか、と迷っているうちに医務室に到着した。
軍医はメイベルの顔を見るなり「兄さんじゃないんだから」と言いながら手当てにかかった。なすがままになるメイベルは、けれども「兄君と一緒にされるなら光栄ですね」と返答していた。
「ユロウさん、昨日異動してきた五人分のカルテってある?」
棚を眺めながらイリスが訊くと、軍医ユロウは小さな冷蔵庫をあさりながら「あるよ」と言った。
「昨日のうちに目は通したけど、イリスちゃんが気にするような病歴や怪我の記録はなかったな。特にディセンヴルスタ大佐は超健康。羨ましいくらいだったよ」
「やはり図太いんですね、あの室長大佐野郎様。足でも捻ればいいのに」
「さっそくそんなに恨んでるの? さてはこの頬も、大佐にやられた?」
メイベルは黙っていたが、ユロウは鋭い。現場に居合わせていないのはもちろん、本人にも会っていないだろうに、原因を特定してみせた。
「しいてあげるなら、イドマル准尉が入隊当初は発育不良気味だったみたいだね。カリン准尉は僕から言わなくても君たちの方が知ってるだろう」
「シリュウが発育不良……。施設にいたって聞いたし、今は普通の十六歳男子に見えるけど」
「軍に入ってから鍛えられたんじゃないかな。メイベルちゃん、冷却シート貼っておいたから、剥がさないでおとなしくしててね」
あとは問題ないのだろう。イリスは頷きながら、得られた情報を頭の中に入れておいた。
「ありがとうございます。ユロウさんから見て、他に気になる点は?」
「特には。ロスタ少佐が銀歯入れてるから、歯は大事にしてほしいなって思ったくらい」
見た目にはわからないが、差し歯や銀歯などはわりとよくあることだ。歯に関する治療はユロウの専門外なので、病院に行ってもらうために、彼は少し気にしている。
医務室での用を終えて食堂に向かうと、ルイゼンたちは先に食べ始めていた。イリスたちも自分の昼食を持ってきて席に着くと、フィネーロが感心したように息を吐いた。
「本当に医務室で手当てを受けたんだな」
「してくれと頼んだわけじゃない。……ところでイリス、さっきのはなんだ。新入りについて気になることでもあるのか」
あえてその新入りたちの前で、メイベルが尋ねる。カリンが緊張し、シリュウが手を止めた。
「過去に怪我とかしてて、後遺症があったら嫌だなと思ってて。レヴィ兄も肩が弱いから」
「ならば確認はこの二人だけでいいだろう。なぜ五人分のカルテについて訊いた?」
半端な言い逃れは、メイベルには通用しない。たとえルイゼンやフィネーロが聞き流してくれても、彼女はそれをよしとしていない。イリスは周りを見てから、声を潜めた。
「レヴィ兄が色々気にしてるんだよ。詳細は今は省くけど」
「わたしたち、閣下に心配されてるんですか?」
「ちょっとだけね。優秀が故の心配だから、カリンちゃんとシリュウは気にしなくていいよ」
とはいえ、全く気にしないわけにはいかないだろう。カリンは困った顔で首を傾げ、シリュウは無表情のまま視線を俯けた。
そして長く一緒にいる三人は、ちっとも納得していなかった。何も言わずとも表情でわかる。ただ、メイベルはこの場で聞き出すのをやめてくれた。
――お父さんに似てごまかすの下手だからな、わたし……。
早く彼らに話が届く段階にしなければ。そのためにイリスがしなければならないのは、引き続きの情報収集だ。
「わたしは午後からも外に出ちゃうけど、仕事は大丈夫そうだね」
「たぶんな。どこに行く予定だ」
「レヴィ兄のおつかいで、例の警備会社に。あいつとちょっと話さなきゃならない」
あくまで仕事であることを強調したつもりだが、メイベルはあからさまに不機嫌そうになり、ルイゼンも軽く眉を顰める。まだ「彼」が絡むと疑われてしまうのは仕方がない。フィネーロだけが頷き、さぼるなよ、と言った。
「もう後がないんだからな、君は」
「さぼらないよ。今日はあいつの上司も立ち会うから、二人にはならないし。帰りに博物館に寄ってアーシェお姉ちゃんと話して、それから仕事が終わったらお兄ちゃんのところに行くつもり」
「やっぱり大総統補佐って忙しいんですね。イリスさんが事務室にいないと寂しいです」
しゅんとしてしまったカリンに、デザートにと持って来たイチゴを分けてやる。ついでにシリュウにも。しかし彼の表情が変化することはない。
「ごめんね、ちゃんと班の仕事に手がまわればいいんだけど」
「閣下の無茶ぶりは今に始まったことじゃないし、こっちは任せてくれていい。俺も余裕ができたしな」
後輩の前では頼もしく笑うルイゼンに、イリスは心の中で、強がり、と言った。

午後の業務が始まる直前、つまりはイリスが司令部を出ようとしたとき、フィネーロに呼び止められた。これから会う人間のことで追加の注意でもあるのかと身構えたが、予想していなかった名前が出てきた。
「ロスタ少佐に単独で近づくなよ」
「え、なんで?」
もとより対象に単独接近することのないよう、レヴィアンスからは言いつかっている。だが、それを知らないはずのフィネーロがどうしてわざわざこんなことを言うのだろう。
「少し話して、変態だと判断した。スティーナ製の武器、というよりその装飾にご執心のようだから、念のため忠告しておく」
「フィンが変態って言うなんて、よほどだね。わかった、気をつけておくよ」
スティーナ鍛冶で作られた武器を持っている者は、中央司令部でも少数だ。非常に高価ということもある。フィネーロとイリスも、それぞれ貯金や給与と相談して、思い切って購入している。その原因の一つが、装飾。サインの代わりにあしらわれるサーリシェレッドだった。
それにロスタ少佐が「変態」と言われるほどこだわっている。やはりサーリシェレッドに近く、手を出しかねない人物なのだ。まさか彼がわかりやすくクロだとは思わないけれど。
「ねえ、フィンの武器に何かされた?」
「気がついたら勝手に弄っているから、正直迷惑だ」
「休み時間だけじゃなくて、情報処理室にいるあいだは、ロッカーに鍵かけて管理しておいたほうがいいかもね。使う前によく点検するとか」
何にしろ、武器を勝手に弄られるのはあまり気持ちの良いものではない。イリスの言葉にフィネーロは頷き、送り出してくれた。
歩きながら得た情報を整理する。頭の中だけではまとめきれないので――こういうとき、兄ならもっと上手くできるのだろう――手帳に少しずつ書きこんでいくが、どれも容疑者たちが「裏と繋がっている」という証明にはならない。当人たちにだって、まだ十分なコンタクトをとっていないのだ。
「こういうアプローチの仕方って、レヴィ兄にしては珍しいし。あ、でも、暗殺未遂事件の前情報はこうやって周りからちょっとずつ集めてたのかな」
イリスとしては本人にがつんと当たりたいところなのだが、そうする前に事務室で衝突が起きてしまった。ネイジュから情報を引き出すのは難しそうだ。中尉で大総統補佐という特殊な立場にあるイリスのことも、好ましくは思っていないだろう。さらにミルコレスは「変態」、ジンミは「色目を使う」ときた。仲間たちもまた、彼らに良い印象を持っていない。
このままでは「何の問題もなかった」場合、先が思いやられる。別班の人間とも、共に動く機会はあるのだから。いや、その前にルイゼンのストレスが心配だ。
「まいったなあ」
「僕に会うのが?」
溜息を吐いたところで、顔を覗き込まれる。イリスが反射的に大きく後退ると、相手は朗らかに笑った。
「相変わらずいい反応だ。悩みはありそうだけど、元気そうで安心したよ」
「あんたねえ……いるならいるって言いなさいよ」
「話を聞きたいって人の職場まで来たのはそっちなのに」
顔を合わせるのは冬以来だ。向こうも変わっていない。ウルフ・ヤンソネンは微笑んだままこちらに手を伸ばしていた。だが。
「今日は仕事。本当に仕事しかしないって決めてるから、あんたには一切触らない」
「エスコートくらいさせてくれても」
「ついていくから大丈夫」
自分が大人になったという自信が持てるまで、恋心は封印する。そう決めたイリスだったが、ウルフはそれを簡単に解いてしまいそうだった。いや、こちらの意志がまだ弱いのだ。絶対に近づきすぎてはいけない。
「君って人は、単純で可愛いね」
しみじみと言いながら、ウルフが先に歩き出す。頭の中から「可愛い」と言う声を追い出しつつ、イリスはその後についていった。
初めて入る警備会社の社屋は、中央司令部よりもかなりすっきりしたつくりだった。応接室に通されて少し待つと、ウルフが上司とともに入ってきた。顔にしわを刻んだ上司は、おそらく父と同年代だろう。互いに挨拶をしてから、早速本題に入ろうとする。
「本日はヤンソネンさんにお話を伺いたいと思っているのですが、彼の経歴についてはご存知ですか」
わざと硬い声をつくったイリスに、ウルフが肩を震わせていた。イリスが睨むまでもなく、上司が彼をつついて言う。
「ほとんど全部知っているつもりですよ。こいつが盗みをやってた時代のことも、入社時に話してもらっていますから。おまけに二か月前の事件がありましたし」
「それはわたしの責任でした。彼に非は……ちょっとしかないです」
「正直だな、インフェリアのお嬢さんは。ああ失礼、今は中尉とお呼びしなければ」
「構いませんよ。父を知っている方にはよくお嬢さんって言われます」
こういう環境でウルフは働いているのか、と確認して、少しだけ遠慮が解けた。
「今日は彼が盗みをやっていた頃に得た知識を拝借したいんです。宝石関係、詳しいよね」
「多少は。何を聞きたい? 真贋の見分け方とか?」
「サーリシェレッドと違法輸出入について知りたい。盗む側としての意見と知識を話してほしい」
すでに社会復帰を果たしている人間を、元犯罪者として扱うのは心苦しい。けれども、ウルフはイリスになら答えるだろう。少し考えるように目を眇め、彼は再び口を開いた。
「……説明するにあたって、君や親族への差別発言があるかもしれないけれど」
「差別の意図はないんでしょ。だったらそのまま言っていい」
「わかった」
サーリシェリア産鉱石サーリシェレッドは、生産国ではそう高く取引されないが、国境を越えるとその価値を跳ね上げる。外国での高値の取引を狙って活動する裏社会の人間が後を絶たない。エルニーニャ王国立博物館にある“赤い杯”も厳重に守られているが、かつてその守りは突破され、奪われたことがある。それを完全な形で取り返したのがウルフだった。
サーリシェレッドが特に狙われやすい理由は二つあると、ウルフは語った。
「一つは価値の差。他の指定品目鉱石に比べ、サーリシェリアとエルニーニャとでのその価値の差は大きい。その原因は誰でも調べられるから割愛するよ」
「わかった、それは自分で調べる。もう一つは?」
「サーリシェレッドそのものの魅力。他にはない赤い輝きに、人々は惹かれた。エルニーニャでその人気をより高めたのが、『赤眼の悪魔』という物語だった」
どきり、と心臓が跳ねる。昔の記憶がよみがえろうとするのを押さえて、イリスは先を促した。
「それってわたしはよく知らないんだけど、どういう話なの?」
「三十年ほど前に、差別を助長するとして発禁になったからね。けれども発表された当時は話題になったんだ。赤い眼をした人物が、次々に人々を惑わせ翻弄していくという内容の戯曲だった」
その眼には魔力が宿っていて、人を虜にして操ることができた。操られた人々は彼の思うままに動き、失敗を成功に変え、身分を高めることすらできた。だが、それらは全て非合法的な行動によるものだった。赤眼の彼によって出世した人々は、その意のままに彼を優遇する。
このままでは国が堕落してしまう、と目を覚ました人々によって、赤眼の彼は最後には、討たれてしまうという物語。戯曲は本で読める物語として出版され、国内に広く知れ渡り、人気を博した。
だが一方で、赤い瞳を持つ人々が差別されることとなる原因ともなったという訴えも出てくるようになった。「赤眼の悪魔」という言葉に苦しめられた人々がいたということで、戯曲の上演は禁止され、本は回収された。しかしその物語は、人々の記憶からいまだに消えてはいないのだった。
「物語そのものにも、差別の意図はなかったはずなんだけど。物語を読み違えて差別に走った者に非があるのは明白だ。ただ、人を惑わす赤い瞳……『魔眼』がサーリシェレッドの符丁となったのは、そういう経緯があってのことだよ」
物語が発禁となったのは三十年前。ということは、イリスと同じ眼を持つ母はすでに生まれている。胸が苦しくなったが、手はペンと手帳をそれぞれ握ったままだ。
人を狂わせるものとして同じ名前を持つことになった、赤い瞳と赤い宝石。宝石は「眼」の名をもって違法に取引されている。そして。
「今は『魔眼』という呼び名に本来の意味が当てられることもある。君がよく知っているように、裏の生体研究者たちは、見ただけで他者に影響を及ぼすような強い力を持った『眼』を欲している。サーリシェレッドの取引をしていると見せかけて、君や、他にいるかもしれない同じような力を持つ人の『眼』を狙っているということも、十分に考えられる」
「やっぱり、ウルフもそう思うんだ」
レヴィアンスが気にしているのはそちらのほうだ。ただ「指定品目の違法輸出入」の取り締まりを強化したり、その調査をするだけならば、今までのように各指令部や専門のチームに任せた方が良い。軍全体の仕事量や能力のバランスをとるために、中央に集中させてはいけないはずなのだ。
だが、あえてそれをしようとしているのは、やはりイリスが狙われていることを懸念しているからだ。いや、わざわざ容疑者を集めて、裏に繋がる道をあぶり出そうとしている。イリスが自分で納得のいくように、関わらせているのだ。
「僕ならサーリシェレッドを狙うふりをして、君の眼を奪いに行く。同じことを考えている人がいるのかな?」
「まだはっきりとはわからない。でも、どっちにしても解決しなきゃいけない問題なら、立ち向かう」
ウルフに詳細は話せない。彼は協力してくれたが、部外者だ。もう巻き込むわけにはいかない。絶対に自分で調べたりしないように、と念押しして、彼からの聞き取りを終えた。
「また聞きたいことができたらおいで。そうじゃなくても、デートのお誘いならいつでも歓迎する」
「ありがとう。でもデートはまだまだ先かな」
軽口を叩きあう二人の脇で、ウルフの上司が咳払いをした。途端に恥ずかしくなって、イリスは慌てて警備会社を辞した。

エルニーニャ王国立博物館で、アーシェは待っていた。博物館の主として、そして“赤い杯”の守り手として、サーリシェレッドとその歴史について語ってくれることになっている。
「指定鉱石にはね、それぞれ国の思惑が絡んでいるの。サーリシェレッドには民族意識や大陸全土の宗教が大きく関わっているのよ」
すでにレヴィアンスから話を聞いていた彼女は、すぐに話を始めてくれた。イリスはメモをとりながら、拾った言葉の意味を問う。
「民族意識……ってどういうこと? 宗教って?」
「サーリシェレッドはサーリシェリアでしか採れないということになっているけれど、最初はもっと限定されていたの。古くは純正サーリシェリア人にのみ触れることが許された、特別な品だった。今では純正サーリシェリア人とみなされる人々のほうがかなり減ってしまって、サーリシェレッドは大陸中に流通しているわけだけれど……」
純正サーリシェリア人は、大陸南部の赤紫の髪と青紫の瞳をもつ人々のことだ。この血は遺伝しにくく、他の民族との混血になってしまうと特徴が発現しなくなる。つまり現代に生き残っているこの特徴の持ち主は、先祖代々ずっとサーリシェリア人だけの血を受け継いできた人間なのだ。
身近なところでいうと、先々代大総統ハル・スティーナがそれにあたる。彼の祖父はかつて南の大国から家族を連れて中央にやってきた。こうして移動するサーリシェリア人も増えたことから、純正の人々はもうほとんど見られなくなっている。
「サーリシェレッドは、数が少ないサーリシェリア人たちの、よその人との貴重な交易材料だったの。昔の中央の人々はサーリシェレッドを高く買い取ったり、こちらも貴重な金や青銅、改良した農作物なんかを差し出したりして、互いに利益が得られるようにしていたのだけれど。それは大陸戦争やその後の時代の流れを経て、だんだんと整合性がとれなくなってきたのね」
合わなくなっても変えられなかったのは、サーリシェリア人が少なくなっても民族としてのプライドを高く持っているからであり、またエルニーニャの人々もサーリシェリア人に余計すぎるほどの憐れみを持っているからだ。時代が変わった今でも、緩やかで無意識な差別は残り続けている。
「根付いた差別は、そう簡単にはなくならない……」
「そうね。刷り込まれた認識を変えることは、とても勇気と気力がいることなんだと思う。現に、レヴィ君のお母さんが大総統になったとき、サーリシェリア人だということで反発があったそうよ。けれども立派にその仕事をやり通して、エルニーニャの政治体制だけじゃなく福祉や教育のあり方をも大きく変えたから、多くの人から認められることになった」
人って現金なものよね、とアーシェは困ったように笑った。
「そしてね、サーリシェレッドがそこまでエルニーニャをはじめとする他国や他民族に求められるようになった理由が、宗教にあるの。この大陸で一番メジャーなのは、太陽神信仰でしょう。真っ赤なサーリシェレッドは、『太陽の石』として偶像崇拝の対象になった。そして純正サーリシェリア人に見られた特殊能力、予知夢を見ることが、彼らを太陽神の宣託を受けるものとして位置付けていた。大陸戦争の始まりは大陸北部の不作が原因の一つと言われているけれど、太陽神から見捨てられてたまるか、太陽の力を得なければ、という思いが少なからずあったというわ。希望を目指して南に向かおうとして、長い戦争に繋がってしまったという説もある」
サーリシェレッドは古くは神聖なものだった。南の人々にとっては、今でもそうなのかもしれない。信仰を支える「太陽の石」をエルニーニャに友好の証として贈った“赤い杯”がどれほど重要な意味を持っているのか、イリスは改めて思い知った。それは最大の表敬だったのだろう。
それがどうして、「魔眼」になってしまったのか。その神性を貶めるようなことになってしまったのか。その疑問にも、アーシェは答えてくれた。
「太陽神信仰にもいろいろな解釈があってね、偶像崇拝を良しとしない宗派もあるの。それにこの大陸には、もっとたくさんの宗教や信仰があるでしょう。今でも新たに生まれたり消えたりしている。そういう考え方の違いがぶつかり合って、結果的に神性を貶めることに発展することがあるのよね」
「何だか変な話。そういうのもあるんだなって、認めればいいのに」
「そうね。でも、なかなかそうはならない。できないのね、きっと」
自分の信じてきたものが揺らぐというのは、心の平穏が保たれないということだ。それを恐れる気持ちは、わからなくはないけれど。だからといって、何かを貶めてまで守ろうとするなんて。
不満げなイリスに、アーシェは薄く微笑んだ。
「これは考えればきりがない問題よ。だからといって考えるのをやめてはいけない。考え続けて、自分の答えを持とうとするということが大切なんじゃないかな。人間って、きっとそういうものだよ」
言葉を切って、それから続けた。
「揺らぎが刺激になるのも、たしかではあるのよね。だから『魔眼』が広まるのは早かった。批判する意味でも、面白がる意味でも。どちらにせよ、話題になることには変わりないでしょう」
それがエルニーニャ国内でのサーリシェレッドの価値をより高めたことも事実なのだ。サーリシェリアとエルニーニャ両国の宝石商は、双方ともに利益を上げることができ、裏社会ではより多くの違法取引が行われた。
民族と信仰と物質と金。これらが組み合わさって、問題が生まれている。そしてその大きな問題で覆い隠すようにしながら、本物の「魔眼」が狙われている。
「アーシェお姉ちゃん、わたしたちはこの案件を解決できるのかな」
「時間がかかっても取り組むしかない。そしてそのためには、イリスちゃんは何が何でも自分を守らなきゃならないわ。もちろん、私たちもあなたを全力で守る」
そのための準備は、整いつつあった。


エルニーニャ王国軍大将であり、将官室長を務めるタスク・グラン。数々の大きな功績を持ち、大総統になるのではないかと噂された男は、しかしその横に立つこともできないままだ。
だが、彼に憧れる人間は多い。ネイジュもその一人だ。功績と効率こそが軍人にとって重要であるという考えは、タスクの活躍に基づくものだった。
「グラン大将。私はずっとあなたにお会いしたかった」
終業間際の中央司令部の廊下で、ネイジュは彼に接触していた。タスクは一瞬怪訝な表情をしたが、すぐに「異動してきた者か」と眉間のしわを緩めた。
「ディセンヴルスタ大佐だったか。北方での活躍は聞いている」
「光栄です。あなたの行動こそが正しいと信じてやってきたものですから」
ネイジュが微笑むと、タスクは苦笑した。自分が正しいと――昔はそう思っていたが、今は誰もそう言ってくれなくなった。三年前、大総統はおろか、補佐にすら名前が挙がらなかった、あのときから。
正しいのは、それまで軍人の癖に何もしていないと思っていた、同僚のほうだった。大総統が認めれば、この国では何でも正しくなる。
「このままで良いとお思いですか、大将」
だからネイジュの言葉に、そんな人間もいたのだと、感心させられた。
「私はあなたこそが軍の頂点に立つべきだと思います。大きな力を持っているのだから、それを活用するべきだ。邪魔があれば、この私が排除しましょう」
感心すると同時に、若かった頃の自分を思い出して、苦い思いが胸に広がった。
「邪魔を排除する、とはたとえばどういうことだ。まさか閣下に反旗を翻すわけでもないだろう」
「場合によってはそうなってしまうかもしれませんが、直接手を出すつもりはありません。変えるべきは補佐です。導く者によって、指揮は変えることができる」
それはいつか、タスクも考えたことだ。けれども、そのうち諦めたことだ。自分はどうしても、あの男のようにはなれなかったし、なるつもりもなかった。
どうしてあの男が補佐になったのか、今ではいくらか理解できているつもりだ。けれどもやはりいくらかは納得していないのだと、ネイジュに気づかされてしまった。
「私はあなたのお手伝いができます。その自信があります。……いかがです、大将」
濃紫の瞳が、タスクを誘う。これまで目を背けてきた道へと。
「一枚噛んでみる気はありませんか?」
もしも友人だった男ではなく、自分が大総統補佐であったなら。その仮定を、今からでも現実にできる方法があるのなら。
ごくりと、つばを飲み込んだ。三年ぶりに、野心が胸に灯った。



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2017年04月09日

輝きの名

サーリシェリア鉱石「サーリシェレッド」。その真紅の輝きに魅せられる者は数知れず。大陸の南でしか採掘されないそれを扱うことができるのは、南国サーリシェリアの職人たちと、彼らに認められた国外のわずかな専門職人たちのみ。
エルニーニャ王国に鍛冶屋兼武器工房を持っていた、名匠スティーナ翁が去り、たった一人の弟子が店を継いだ。彼女もまたサーリシェレッド加工の資格を持ち、スティーナ鍛冶の営業は変わらず続くこととなった。
だが、サーリシェレッドを扱える職人は、エルニーニャでは彼女を含む数人しかいない。サーリシェリアから鉱石や原石を持ち込むことも規制されており、加工物の持ち出しや輸入には相応の額をサーリシェリア税関に支払わなくてはならない決まりがある。
それを潜り抜けようとする者、不正にサーリシェリア鉱石を扱おうとする者、偽物を流通させようとする者は後を絶たない。その取り締まりも、各国の軍が中心となって行っている。
大陸中、あるいは海外と呼ばれるよその大陸の人々をも魅了するその輝きを、こう呼ぶ者もいるそうだ。――「魔眼」と。


大総統執務室に、七人の男女が揃った。そのうち二人は、大総統レヴィアンス・ゼウスァートと、その補佐官であるレオナルド・ガードナー大将である。
あとの五人は、新しく中央司令部に配属となった軍人たち。それまでは地方にいたが、最も事件が多く仕事が厳しいといわれる中央に引き抜かれた精鋭だ。
「ようこそ、中央司令部へ。君たちの活躍に期待しているよ。なあに、周りは良いやつばっかりだから、すぐに慣れるさ。気楽に行こう」
ニッと笑ったレヴィアンスを見て、五人の肩から少しだけ力が抜けた。ガードナーはそれを確認したように、「それでは」と中央司令部規律を読み上げ始める。地方とは異なる部分があるので、覚えてもらわなくてはならない。
今回配属されたメンバーは次の通り。
元北方司令部大佐、ネイジュ・ディセンヴルスタ。元東方司令部中尉、ジンミ・チャン。同じく准尉、シリュウ・イドマル。元南方司令部少佐、ミルコレス・ロスタ。元西方司令部准尉、カリン・ブロッケン。
もちろんのこと、レヴィアンスは彼ら全員のデータを頭に入れ、どのように仕事を任せるかを決めている。ガードナーが「以上です」と言葉を切り、目配せをした。
「わからないことがあったら訊いてよ。今でもいいし、あとでもいい。……うん、ないようなら、早速仕事の話をしようか」
鳶色の瞳を光らせ、レヴィアンスはもう一つ、考えを巡らせていた。五人の挙動を見逃すまいと、目を離さずに、それぞれの持ち場を告げる。
この五人の中の誰かが、軍の脅威となり得る、要注意人物なのだ。


エルニーニャには花の咲き誇る春が訪れている。空気も柔らかく、風が運ぶ葉擦れの音は耳に心地よい。窓を開け放った事務室は清々しい。――が、仕事中の軍人たちには、それを甘受するほどの余裕はなかった。
「リーゼッタ中佐、書類のチェックをお願いします。それからこちらの資料ですが……」
「ただいま戻りました。リーゼッタ中佐、今回の任務の報告をしてもよろしいでしょうか」
「市中巡回の結果、異状はありませんでした。リーゼッタ中佐が懸念していた事項についても、引き続き調査中です」
飛び交う慣れない呼ばれ方に、ルイゼンの処理能力はぎりぎりで追いついている。事務室長というのは、かくも忙しいものだったのか。溜息を吐く暇もない。この激務をこなしてきたマインラート・トーリスを思い出しては尊敬する日々だ。つい先日まで大佐だった彼は、准将への昇格に伴って、将官部屋に移ってしまった。
トーリスが事務室長の任を解かれた今、事務室を取り仕切るのは他の大佐階級の人間になるはずだった。しかし大総統たるレヴィアンスは、どういうわけか中佐に昇格したばかりのルイゼンをその立場に任命した。そうして文句の一つも言えないまま今に至る。
「巡回ありがとうな。資料と報告書には目を通しておく。ええと、遠征任務の報告だっけ、お疲れさん。とりあえず口頭で簡単に報告頼む」
素早く優先順位を決め、仕事をこなしていく。その様子を、イリスとメイベルは自分たちの任務の報告書を作成しながら見守っていた。
「ゼン、やっぱりリーダー向いてるんじゃないの。レヴィ兄よりてきぱきしてるよ」
「少なくとも、前任のトーリス大佐……おっと、今は准将だったか。奴より親しみやすそうだな。だから誰も彼も、余計なことまで報告したがる。急ぎじゃなければ報告書にまとめれば良いものを」
イリスは相変わらず中尉のままだが、メイベルは大尉に昇格した。仕事が増えて面倒だ、とぼやくメイベルのサポートをしたり、リーゼッタ班の下っ端として雑用を積極的にかって出るのが、イリスの仕事だ。
だが、ルイゼンの忙しさも、イリスの下っ端生活も、予定では今日までだ。ルイゼンに事務室長を任されたのは後任の者が異動してくるまでの繋ぎ。そしてイリスたちには、後輩ができることになっていた。リーゼッタ班の人員が、増えるのだ。
「午後から後輩が二人かー。楽しみだね、ベル」
「楽しみなものか。面倒が増えるだけだ。カリンめ、まんまと中央異動を果たしおって……」
後輩のうち、一人はすでにわかっている。メイベルの妹、カリンが実績を認められてこちらへ正式に配属となったのだ。フィネーロが少佐に昇格し、ますます情報処理室の要として求められるようになってしまったために、事務仕事をする人間が手薄になってしまったこの班の助けとなることが期待されている。
もう一人はどんな人間なのか、イリスもまだ知らない。レヴィアンスは「当日になればわかるんだから待ってなよ」と教えてくれなかった。
ただ、中央に人員を集める理由は聞かされた。これはイリスに直接関わる問題なのだ。
三か月前に、裏の人身売買組織を検挙したとき。現在裏社会の関心が、イリスに集まっていることが判明した。正確には、イリスの眼だ。
イリスの眼には原因不明の特殊能力がある。意識して見つめた対象の心身に影響を及ぼす力。ときには巨大な生物や、大勢の人間の意識を奪うことすらも可能なそれを、裏は狙っている。
イリス本人を捕らえて裏に引き入れ、力を良いように使わせる(これが一番難しい)。あるいはイリスの眼を抉って奪い、クローン技術を応用して殖やす(だが実用できるかどうかは不明だ)。もしくは脅威をなくすために、イリスの眼を潰してしまう(これがもっとも実行可能性が高い)。裏の思惑通りにならないために、レヴィアンスは味方を増やすことを選んだ。
もちろん、たった一人でも高い戦闘能力を持つイリスを、信用していないわけはない。だが、その絆されやすい心につけこまれるといけないので、彼女を囲むものは多い方が良いのだった。
人員を増やすのは、イリスを守るため。そして、イリスに「軍を」守らせるためなのだと、レヴィアンスは言う。それほどまでに、イリスの眼は敵にまわると厄介な代物なのだった。
イリスも自覚している。この眼で何人もの敵を倒してしまったときに、使い方を間違えてはいけないと深く心に刻んだ。普段は封じることのできている力だが、何かのはずみで制御しきれなくなることもある。そのときのために、「眼が効かない仲間」が必要だ。
「そろそろ昼だ。食堂で新入りが待っているそうだ……が、まだ手が離せそうにないな」
事務室のドアを開け、フィネーロが迎えに来た。だが、ルイゼンは苦笑いしながら書類を手にし、イリスとメイベルは報告書をキリのいいところまであげてしまいたかった。
「悪い、もう少しかかりそうだ」
「仕方ないな、僕も手伝おう。どれから目を通せばいい?」
「こんなに忙しないのも、もうちょっとの辛抱だよね。早く新しい大佐来るといいね、ゼン」
「その新しい大佐とやらも、マシなやつが来るといいんだがな」
「イリス、メイベル、お前たちは手を動かせ!」
結局、食堂に向かうことができたのは、昼を告げる時報から十分ほど経った頃だった。

「イリスさん、お姉ちゃん、お久しぶりです!」
食堂に到着したイリスたちを出迎えたのは、メイベルと同じ琥珀色の髪の少女。しかし、幼い顔立ちはあまり姉には似ていない。
「カリンちゃん、久しぶり。元気そうで良かったよ」
「イリスに抱きつくんじゃない。全く、先が思いやられるな」
妹をイリスから引き剥がし、メイベルは溜息を吐く。襟首を掴まれたカリンは、姉にいたずらっぽく笑ってみせた。
「ちゃんとお仕事はするもん。去年の研修と違って、今日からは正式にリーゼッタ班の一員だもの。それに、わたし前より強くなったんだよ」
「ほう、ならば私に勝ってみるんだな」
膨れる妹と大人げない姉はひとまず置いといて、イリスとルイゼンとフィネーロはもう一人の後輩に視線を移す。背筋を伸ばして立っている少年は、背中まで伸びた黒髪を束ね、榛色の瞳でこちらを見ていた。
「そして君が、もう一人の新入りだな」
「東方司令部より異動してまいりました、シリュウ・イドマルです。異動に伴って准尉になったばかりです。よろしくお願いします」
真面目そうな態度はフィネーロと同等かそれ以上。やっとまともな人材をまわしてくれた、とルイゼンはこっそり安堵していた。カリンも真面目なのだが、やはりそこはメイベルの妹で、イリスが絡むと少々暴走するきらいがある。
「こちらこそよろしくね、シリュウ。わたしはイリス・インフェリア。階級は中尉」
「ルイゼン・リーゼッタ中佐だ。一応、班のリーダーってことになってる。いつもはイリスのほうが目立つけどな」
「僕はフィネーロ・リッツェ。少佐だ。普段は事務室にいないことが多いが、班員だ。よろしく頼む。それから、あそこでカリン准尉とじゃれているのが、メイベル・ブロッケン大尉だ」
こちらの自己紹介を、シリュウは頷きながら聞いていた。そして話の切れ目を見計らい、改めて「よろしくお願いします」と頭を下げた。
メイベルとカリンはイリスが宥め、シリュウはルイゼンに促され、六人で食堂のテーブルを囲む。食事をしながら、イリスたちはカリンとシリュウそれぞれのいきさつを聞くこととなった。
「わたしは去年の研修の成果と、あれから一年の働きを認めてもらえたみたいです。閣下が直々に褒めてくださいました」
えへへ、と照れて笑うカリンの頭をメイベルが「調子に乗るな」と軽く叩く。
「あの閣下に褒められたからといって何だ。あてにならんぞ」
「いや、去年の研修がドタバタした原因のほとんどはお前にあるからな、メイベル。それから巻き返した妹を褒めてやれよ」
呆れたルイゼンに、メイベルは反論しなかった。むすっと黙ってサラダを咀嚼する。
「シリュウはどうして中央へ?」
イリスの問いに、シリュウはよく噛んでいたパンを飲み込んでから短く答えた。
「推薦です」
「推薦?」
「上司……クレリア・リータス准将がおれの名前を挙げてくださったんです」
その名前にイリスはハッとした。東方司令部准将クレリア・リータスは、大総統付記者エトナリアの妹だ。イリスは直接会ったことはないが、現在の東方司令部において大きな力を持つ存在であることは、情報として知っている。
その彼女が推挙した人物が、リーゼッタ班に配属された。相当な実力者であることは間違いない。それも、強力な後ろ盾付き。東方准将と、レヴィアンスの二枚立てだ。
「もしかしてレヴィ兄、最初からクレリアさんに相談してたな……。今や義妹だもんね」
呟きはルイゼンに捉えられ、なるほど、という言葉が漏れた。
「東方出身、リータス准将の推薦ってことは、得意なのは剣技か?」
「はい。准将はおれの師でもあります。得物は刀、ミナト流剣術を使います」
ルイゼンが問うと、シリュウははっきりと答えた。それに誇りを持っているというように、胸を張って。
ミナト流剣術は、東方司令部のあるハイキャッシで伝えられる、刀の技だ。会得すれば、細い刀身で岩をも砕くことができるという。ただしその刃は、人を殺すにあらず。その技をもって故意に人間を斬り殺したとき、その人物はミナト流を破門になる。
中央司令部のあるレジーナにも、ミナト流を使う者はいる。ただし、直弟子だった者は遠い昔に破門されており、その娘は技の一部だけを伝えられているという、中途半端なものだ。
「ちゃんと学べば、ミナト流ってすごく強いんだよね。イヴ姉は破壊の奥義を一つだけ習ったらしいけど、シリュウはもっと色々できるんだ?」
「破壊の奥義は、最近になってようやく会得したところですが。基礎からずっとミナト流なので、名に恥じない働きはできるつもりです」
イリスの知るミナト流は、グレイヴとその父ブラックが使えるそれだけだ。剣を使う者として、正式な動作にはちょっと、いや、かなり興味がある。
「カリン、どうやらシリュウはできるやつらしいぞ。お前はどうなんだ」
「わたしは銃の腕を、ちょっとでもお姉ちゃんに近づけるように磨いてきました。でもやっぱり、事務仕事のほうが得意かな」
妹をつつくメイベルは、少し楽しそうで、少し悔しそうだ。無表情ながらも妹贔屓なのである。カリンは自分の領分をきちんと考えているようで、煽りには乗らなかった。
「ブロッケン准尉も、事務仕事の手際はかなりのものだと閣下が仰っていましたが」
「ありがとう、シリュウ君。でも、ブロッケンはこの班に二人いるから、わたしのことはカリンって呼んで。お姉ちゃんはメイベルね」
「そうですね。……では、今後はカリンさんと」
名前を呼ぶときに顔が少し赤くなるのが初々しい。イリスはシリュウとカリンをにまにまと笑みを浮かべながら見ていた。可愛く頼もしい後輩たちのおかげで、これから楽しくなりそうだ。
しかしルイゼンは、笑ってはいるが姿勢が硬い。それに気づいたフィネーロは、しばらく黙って考え込んでいた。

午後の始業時、事務室は新しい室長を迎えた。正式にその肩書がつくのは、ルイゼンからの引継ぎを終えた明日からだが、その佇まいはすでに何年もそこで仕事をしていたかのようだった。
ネイジュ・ディセンヴルスタ大佐。遠目には白髪にも見える薄い青紫色の髪と、そこから覗く濃い紫色の瞳が印象的だ。北方司令部から来たが、元を辿ればサーリシェリア人の血が流れていると、彼は自己紹介をした。
「それにしても、中央は仕事が多いね。明日からは私が引き受けるから、リーゼッタ中佐は安心するといい」
「しばらくは俺が補佐につきます。ただでさえ、この事務室は他に比べて扱う仕事が多く重いので、一人でまとめるのはとても難しいです」
室長机に積まれたバインダーや書類を見て溜息を吐いたネイジュに、ルイゼンは笑みを浮かべながら言った。しかし、ネイジュの表情は明るくならなかった。
「……どうしてそんな事務室の室長を、繋ぎとはいえ君がしていたんだ、リーゼッタ中佐」
それはルイゼンが訊きたいことだったが、口にはしなかった。ごまかす言葉を探しているあいだに、ネイジュは続ける。
「この事務室には、他にも大佐階級の人間がいる。それなのに閣下は君を室長にし、重い仕事を押し付けた。私は閣下のやり方に賛成できない。補佐にあの無功績の人を選んだ頃から、ずっと」
「無功績?」
その言い方に違和感を覚えたルイゼンに、ネイジュは薄く嗤って、室長の椅子に座った。
「補佐にするなら、もっと適切な人物がいた。大きな功績を幾つもあげているのに、どうして……」
ルイゼンは笑顔を保っていたが、内心は穏やかではなかった。何故この人物が中央にやってきたのか、レヴィアンスが彼を選んだ理由は何か、読み取ることができない。それに、大きな功績をあげたという、ガードナーよりも大総統補佐に相応しいといわれた人物。それはいったい、誰なのだろう。
ともあれ、ネイジュという人物は、ルイゼンとはあまり馬が合うとはいえないようだった。仕事の引継ぎは順調にできたが、今日受け取った報告書や関連資料を見るたびに眉を顰める彼の思うところは「どうして中佐になって間もない人間がこんな仕事を任されるのだ」といったところだろう。
現在抱えている仕事は残業になってでも今日中に終わらせてしまおう。でなければややこしいことになりそうだ。ルイゼンはこっそりと溜息を吐いた。
一方、イリスとメイベルは、カリンとシリュウに司令部内を案内していた。カリンは昨年の研修ですでに知っているが、シリュウが来るのは初めてだ。どうせなら、二人ともに現在の司令部の様子を知っておいてもらいたい。
「ここが第三休憩室。休憩のほかにも、小班で会議したいときに会議室が空いてないときとか、あんまり表立って話せないようなことを話すときにも使うよ」
イリスたちも頻繁に使う第三休憩室の前で、カリンが目をくりくりさせて首を傾げる。
「表立って話せないことって?」
「ルイゼンがイリスを叱り飛ばすときとかだな」
メイベルがにやりと笑って言うと、シリュウが目を丸くした。
「リーゼッタ中佐は穏やかそうに見えるのに」
「うーん……怒らせたのはわたしが馬鹿なことをやらかしたせいだから。普段は優しいし頼もしいお兄さんだよ。そういえば、シリュウには兄弟はいるの?」
「いいえ、家族はいません。東方の施設で育ち、十歳になってから軍の試験を受けて、以降はずっとお世話になっています」
もう慣れた回答なのか、シリュウは淡々と言う。イリスが「ごめん」と謝ると、彼は首を横に振った。
「この国では、そう珍しいことではないでしょう。身寄りのなくなった子供の行きつく先は、施設か軍か、あるいは裏社会です。幼すぎれば軍という選択肢はなくなり、施設と縁がなければ裏社会で裏のルールのもとで育てられる。そうした子供は、自分のやっていることが善だと信じているために、いわゆる一般的な意味での更生は難しい」
そうでしょう、と確認したシリュウに、メイベルが頷いた。目を細めたところを見ると、彼女はこの少年を気に入ったらしい。イリスだけではなくカリンもそうとったようで、にっこり笑った。
「シリュウ君はそういう選択肢の中から軍を選んだんだね。わたしとお姉ちゃんもね、もしかしたら路頭に迷ってたかもしれないんだよ」
「カリン、余計なことを言うな」
こつん、と姉に頭を叩かれ、カリンは舌を出して口を噤んだ。シリュウもそれ以上聞こうとはしなかった。――そうか、彼らは似ているのだ。自らの置かれた境遇が、ほんの少しではあるけれど。
メイベルとカリンの場合、親はいるが、頼れる状態ではなかった。その状況を、メイベルが軍に入ることで打開したのだ。カリンが後に続くことで、ブロッケン家の生活はかなり安定した。しかしもしメイベルの選択が軍ではなく裏だったなら、彼女らはそれを正しいと信じて今も生きていたのかもしれない。
シリュウとブロッケン姉妹の間にあるのは、一種の共感だった。それも、イリスには到底わからないものだ。それが少しだけ寂しく、しかし安心のもとでもあった。シリュウの味方になれる人間がここにいる。
いつのまにか案内は、カリンがシリュウにあれこれと話しかけ、メイベルがときどき口を挟むようなかたちになっていた。イリスはその光景をほのぼのと眺めながら歩いて行く。そうして、中央司令部内の設備で最も広い場所に辿り着いた。
「ここが中央司令部が誇る、国内最大級の施設。練兵場だよ!」
他司令部からもわざわざ使用しに来るほどの巨大施設。武器庫に揃っている道具も豊富で、軍外の人間も見学に来ることができる。イリスにとってもわくわくする場所だ。ここでなら堂々と、存分に力を振るえるのだから。やりすぎれば叱られてしまうが。
今日もそこかしこで訓練が行われている練兵場に、イリスが現れると空気が変わる。誰もが手を止めてこちらに注目し、それから近くの者と顔を見合わせる。今度は誰が勝負を仕掛けたんだ、と。
「さすがは悪名高いイリス・インフェリアだな」
「悪名とは失礼な。ベルだって銃の訓練してる人たちに見られてるじゃん」
「注目浴びちゃうイリスさんかっこいい……」
互いをつつきあうイリスとメイベル。憧れの先輩にうっとりするカリン。シリュウは周囲を見回し、それから一点を見つめた。
「剣技の訓練も、当然できるんですよね」
視線の先では二人の軍人が向かい合っていた。それぞれの手には軍支給の剣がある。イリスたちが来るまで打ち合っていたようだ。
「もちろん。備品を使ってもいいし、自分の得物でもいい。組手もわたしは好きだけど、剣の訓練は格別だよね。ゼンとの訓練が一番楽しい」
「ええ、東方司令部でも評判でした。インフェリア中尉は佐官をも倒せる実力の持ち主だと。それなのに、何故階級は中尉のままなんですか。閣下の暗殺未遂事件の解決など、功績もあげているでしょう」
そうか、他司令部でも噂になっていたのか。イリスは苦笑し、メイベルは呆れて息を吐く。怪訝な表情のシリュウに、イリスは頭を掻きながら答えた。
「それねえ、全部ふいにしちゃったんだ。わたしのせいで女の子が誘拐される事件が起きちゃって、そのペナルティで階級がしばらく上がらないの。だから班でも下っ端なんだよ」
自分のせいでこうなった。だから仕切り直すことにした。今では清々しいはずなのに、やはりまだうまく笑えないのは、何度思い出しても情けない自分の行動が頭をよぎってしまうからだ。イリスのぎこちない笑みを、けれどもシリュウは気にしていないようだった。
「班での立ち位置がどうであろうと、インフェリア中尉が強いことには変わりありません。身体能力の高さ、剣技のセンスはおれの師であるリータス准将も認めていました。……だからおれは、あなたを超えたい」
誉め言葉を喜ぶ間もなく、真剣な眼差しに射貫かれた。身動きが取れなくなったイリスの代わりに、メイベルがずいっと前に進み出る。
「随分生意気な口をきくな。その心意気は嫌いではないが、あまりイリスをジロジロ見るんじゃない」
「それは失礼しました」
「いやいや、失礼ではないけど……。そんなにはっきり言われると、なんか照れちゃうな」
超えたい、とはっきり言われたのは初めてだ。いつも一緒に訓練をしていて、未だにイリスに勝てたことのないルイゼンだって、「次こそ勝ってやる」くらいしか言わない。どちらの気持ちもまっすぐであることには変わりないのに、シリュウのそれはあまりにも鋭かった。本当に刀の切っ先を突きつけられたような感覚に、ひやりとした。実際のところ、照れる、なんてとんでもなかった。
「なんか危なっかしいなあ、シリュウ君」
カリンの密かな呟きは、イリスにも聞こえなかった。

終業時間も間近になって、イリスは大総統執務室に呼ばれた。いつも通りに入室すると、ふわりと花が香る。レヴィアンスの机に、あまり似つかわしくない花束があったのだった。
「うわ、どうしたのこれ。もう結婚発表してるんだから、ファンからってことはないよね」
「結婚していようがいまいが、そのへんは関係ないよ。まあ、ファンからじゃないんだけどさ」
うんざりしたように息を吐いたレヴィアンスに、ガードナーがお茶を出した。イリスにもカップをくれる。今日はミルクティーだった。
「各地方指令部からいただいたんです。紅茶は南方司令部、ミルクは北方司令部、花は西方司令部、それから東方司令部からはこちらの焼き菓子を。異動のご挨拶ですね」
ガードナーが出した焼き菓子は、表面がこんがりとした、一見してパイのようなものだった。勧められるままにイリスが齧ると、中に癖のある甘さの餡が入っている。ガードナーが、ドライフルーツを潰してよく練り合わせたものだと説明してくれた。
「いかがです? 私は食べても何も感じませんでしたが、イリスさんは舌が痺れたりということはありませんか?」
「ないですけど……って、もしかしてレヴィ兄に食べさせる前の毒見ですか」
「申し訳ありません。閣下に何かあっては一大事なので」
「イリスに何かあっても一大事なんだけどね。なにしろオレたち、各方面から狙われてるから」
レヴィアンスも菓子を摘み、無造作に口に放り込む。癖のある味があまり好みではなかったのか、少しだけ顔を顰めた。
しかし、挨拶の品を毒見するとはどういうことだろう。イリスは菓子の残りを食べながら、視線でガードナーに尋ねる。彼はすぐにこちらの意を察して説明してくれた。
「今回異動してきた方々の中に、裏と通じている人物がいる可能性があるのです。というより、その可能性が高い人物を各指令部で調査してもらい、こちらに差し出していただいたというのが正しいです」
ごくん、と大きな塊を呑み込む。のどに詰まったものを通すようにミルクティーを一気飲みして、口の中をやけどした。だが、そんなことを気にしている場合ではない。
「それって、カリンちゃんやシリュウも? 功績が認められたんじゃないの?!」
やっとのことで叫ぶと、レヴィアンスが自分の唇に人差し指を当てた。静かに、ということは、これは極秘事項なのだ。カリンたちの様子を思い出してみたが、おそらくはそんな意図で選ばれたとは思っていないだろう。
「裏が利用するなら、ある程度力をつけている人材じゃないとね。入隊したての子供とかは洗脳しやすいけど、動かしにくい。あまり長いこと軍にいる人間だと、勝手な判断をしがち。イリスたちと同年代くらいがちょうどいいんだよ」
「でも、だからって……少なくとも、カリンちゃんとシリュウは違うよ」
一緒に行動していて、怪しいとは思わなかった。カリンはメイベルの妹だし、シリュウは軍人という立場に真摯に向き合っているように見えた。あの子たちが裏と通じているとは考えられない。眉を顰めるイリスに、レヴィアンスは落ち着いて静かに言う。
「もちろん、ここに来たから即容疑者ってわけじゃない。本当に優秀な人材が集まった。地方で活躍していたんだから、そのまま残していても良いはずだった。それなのに各指令部長やそれに準ずる者が、彼らを中央に送り込んだ。経緯は様々だけどね」
執務机に、顔写真付きの書類が並べられる。今回中央に移動してきた人物の個人データだ。全部で五つ、イリスは今日中に全員の顔を見ていた。
西方司令部で主に事務での仕事ぶりが認められ、司令部長から推薦を受けたカリン・ブロッケン。東方司令部での事件解決の功績と剣技の能力の高さが評価され、上司から推薦を受けたシリュウ・イドマル。この二人以外には、事務室で会った。
南方司令部から来たミルコレス・ロスタとシリュウとともに東方司令部から来たジンミ・チャンは、同じ事務室の別の班に配属されている。それぞれ各指令部長からの推薦を受けていた。そしてネイジュ・ディセンヴルスタは新しい事務室長だ。ルイゼンが「付き合いにくい人だ」とこっそりぼやいていた。彼だけは自ら志願して中央に来ている。
一見して、彼らには優秀であるということ以外の共通点はないように見える。けれども個人データの備考欄には、すでに印がつけられていた。
「サーリシェレッド」――五人全ての但し書きに、その単語が入っている。事務仕事が主であるはずのカリンすらも。
「軍では『指定品目の違法輸出入案件』としてまとめている。すでに大きなジャンルとなっている危険薬物を除く、勝手に国内に持ち込んだり、国外に運び出したりしちゃいけない貴重品に関わるものだ。その国独自の特産品や工芸品なんかが、正式な手続きを踏まずに国境を越えるとこれに抵触する」
実は危険薬物に並ぶ、裏の資金調達の手口の一つなのだと、レヴィアンスは説いた。危険薬物はあらゆる方法を用いて運びやすくすることができるが、こちらはそれよりも扱いにくく、それゆえに事件としてあがってくることは少ない。だが、成功すれば莫大な金が動くことになる。
「サーリシェリアの特産である鉱石、サーリシェレッドは特に狙われやすい。取り扱いの資格を得れば動かせるし。現にうちのじいちゃんやシルビアさんが取り扱いと加工の資格を持ってて、だからこそスティーナの武器である証拠としてサーリシェレッドの装飾を施せた」
「サーリシェリアの国家資格で、非常に難易度が高く、また少しでも規定違反をすれば剥奪される資格です。ですから大陸中で資格を持っている人間はごくわずかで、それもサーリシェレッドを貴重なものにしている要素となっています」
そんな貴重品の扱いに、この五人が関わった。違法取引の取り締まりで活躍していたり、偽物の売買を見抜いて中止させたり。全員が一度はサーリシェレッドに触れている。
「でも、それがどうして裏と通じることになるの」
「サーリシェレッドの違法取引に関わったってことは、裏と直接接触したってこと。若者を唆して仲間に引き入れるのは、奴らの得意技、常套手段だ。それこそ一瞬でも時間があれば十分。裏がイリスを狙っていることが明らかである以上、接触した人物は調べあげて監視下におかないと」
「暴論だよ。接触しなきゃ捕まえられないでしょ」
「接触して捕まえきれなかったんだ。優秀な彼らの、珍しいミス。それを怪しんだ各指令部長が、中央に対象人物を送ってくれたんだよ」
それでも説明不足だ、とイリスは思う。たとえばカリンなどは、そもそも外での任務が苦手なのだから、失敗くらいするだろう。不満を込めてレヴィアンスを睨んでいると、ガードナーに宥められた。
「イリスさん、閣下が言っている可能性は五十パーセントに満たないものです。人員を集めた理由のほとんどは、先に説明した通り、あなたを守るために相違ありません」
「それはありがたいけど……」
「それより、少し状況を整理してみましょう。『指定品目の違法輸出入案件』は、あがってくることがとても少ないものです。いつもなら年に数えるほどしかないものが、ここ最近地方で立て続けに起き、実行犯の完全確保に至らなかった。少しばかり急な話ではありませんか」
穏やかな声が、イリスの頭に上っていた血をよく巡らせ、視点を変えさせた。裏ですら難しいとしている案件が、こうも続いて起きるものだろうか。しかも中央以外の各地方全てで。サーリシェリアに最も近い南方司令部だけではなく、遠いはずの北方でまで事件は起きている。
「ディセンヴルスタ大佐は、自分から中央に来たんですよね」
「ええ、彼はもともと中央で働くことを望んでいました。今回の異動は、先だってのサーリシェレッドの違法取引を取り締まったリーダーとしての責任をとりたいとのことです」
「取引が中央に来る絶好の機会になった、とも考えられるよね。人を募ったのはオレなんだけどさ」
イリスは考え込み、客用のソファにどっかりと腰を下ろした。とりあえず、サーリシェレッドと裏社会に関係がありそうなこと、そしてそこに触れた誰かが裏に取り込まれている可能性があるということは把握した。
だがレヴィアンスの性格からいって、彼らを集めた目的は、「誰か」をあぶり出すことではないだろう。それとわからないように軍側に引き戻し、何事もなかったことにする。それが一番良い手だ。もちろん、裏の情報があれば引き出すのだろうけれど。
「……うん、わかった。今はそれで納得しておく。わたしたちは、それとなく異動してきた人たちの様子を見ていればいいんだね」
「イリスは自分の身の安全も確保すること。あんまり単独行動をとらない、対象人物と二人きりにならないことを心掛けてよ。サーリシェレッドにはちょっと気がかりな別名があるんだ」
レヴィアンスが口にしたその言葉に、イリスは息を呑んだ。たぶんこれが本題だったのだろうと、でなければわざわざ自分が呼び出されて話を聞かされる理由にならないと、判断した。これは大総統補佐のイリスではなく、イリス・インフェリアという人間に対する警告だった。
サーリシェレッド。主に裏で使われるその別名は、「魔眼」。

軍の男子寮の一室で、フィネーロはその名を口にした。
「目立った多功績者といえば、閣下を除けばタスク・グラン大将だろうな。三年前、大総統候補にも挙がっていた。ゼウスァート閣下がその立場に決まってからは、大総統補佐になるのではないかとしばらく噂になっていた」
すぐに覆されたがな、という結末は、ルイゼンも知っての通りだ。大総統補佐にはガードナーが選ばれ、タスク・グラン大将は三年前から現在に至るまで将官室長を務めている。
名前を聞けばすぐに顔が浮かんだ。たしかに功績は多く、よく目立つものばかりだ。キメラ討伐に、大規模な裏組織の検挙。危険薬物事件にもよく関わっている。将官室長になる前は実地での大立ち回りが注目されていたなと思い出した。とにかく、彼の行動は目立っていたのだ。圧倒的な存在感は、イリスにも似ている。
「グラン大将って、ルーファさんが引退するまで直属の部下だったんだよな。それもあって結構有名だったのに、なんで忘れてたんだろう」
「おそらく、ルイゼンが閣下に近くなったからだろう。将官たちとの関わりは、僕らはあまりない。だが閣下とガードナー補佐大将とはかなり親密になっている。普段は将官室から出られないグラン大将に気がまわらないのも無理はない」
なるほど、と頷きながら、ルイゼンはネイジュの言葉を思い返していた。――無功績の人を選んだ。これは間違いなくガードナーのことで、より多くの功績を上げた「補佐に適切な人物」はきっとグランのことだろう。
「ディセンヴルスタ大佐は、グラン大将贔屓なんだろうな。俺はガードナー大将が無功績だとは思わないけど、あの人はそう言った」
「ガードナー大将が補佐に就任した当初は、そういった反発があったそうだからな。しかし見事に補佐の役割を果たし、周囲を黙らせたのだから、やはり適任だったのだろう」
「だよなあ……」
まさか今になって、文句を言う者が現れるとは思わなかった。立派に務めを果たしているガードナーを見て、無功績なんて言葉が出るはずはない。彼がいなければ、暗殺未遂事件だって未遂に止められなかったかもしれない。
「……フィン、俺、あの大佐苦手だ。うまくやれなかったらごめん」
「うまくやろうと思わなくていい。閣下がわざわざあの人を事務室長にしたのも、何か理由があるんだろう。これまでと全く違うタイプの人間を置いて、ルイゼンの力を伸ばそうとしているとか」
「それこそ贔屓だろ。俺、そこまで贔屓される人間じゃないよ」
贔屓ではない、とフィネーロは言おうとして、やめた。そのうちルイゼンもわかるだろう。
話題を変えようとして、ふと思い出した。情報処理室にも新入りが来たのだ。リーゼッタ班と同じ事務室を使っている別班に、情報処理担当として配属されたということだった。
「ロスタ少佐と少し話した。彼は僕の武器に興味を示していたな」
「鎖鎌なんて珍しいもの持ってるからだよ。誰でも気になるだろ」
「いや、本体ではなく装飾に。スティーナ鍛冶であつらえてもらったから、サーリシェリア鉱石が使われているだろう。それを羨ましがられた」
「そういえば珍しいんだっけ、それ」
返事をしてから、ルイゼンも思い当たった。ロスタ少佐と同じ班にチャン中尉も配属されていたが、彼女の右耳には赤い石のピアスが光っていた。あれは本物のサーリシェリア鉱石――サーリシェレッドではないだろうか。だとすればかなり値の張るものだ。
「いや、まさかな。とてもアクセサリーとして持てるものじゃない」
フィネーロの訝し気な表情をよそに、首を横に振る。そんなものをアクセサリーとして気軽に持っていられるのは、よほどの人物だ。
たとえば、名家のお嬢様とか。あまり言葉は似合わないが、イリスはサーリシェリア鉱石のブローチを持っている。彼女にとって大事なものなので、めったに使うことはない。
「……あれ? あいつ、そういえば剣にも紅玉ついてんじゃん。贅沢だな」
「なんだ、イリスのことを考えていたのか。君も大概諦めないな」
「そっくりそのまま返す。あと、今のはそういう意味で考えてたんじゃないから」
スティーナ鍛冶が店を構えているレジーナでは、サーリシェレッドはさほど珍しいものではない。だからこそ価値を忘れがちだ。それは、国を動かすことのできるものなのだと。ゆえに「魔眼」と呼ばれているということも、知られていない。


翌日から、いよいよ本格的に新体制が動き出した。ネイジュの事務室長としての仕事ぶりに問題はなさそうだ。引き継がなければいけないものは昨日のうちにルイゼンが全て片付けた。もちろん、ルイゼンでなければわからないものも処理済みである。
同じ部屋の別の島では、ジンミ・チャン中尉が巡回の準備をしている。元から中央にいる者と行動を共にするようだ。ミルコレス・ロスタ少佐は早々に情報処理室へ向かっていた。
そしてリーゼッタ班。カリンが朝早く来て机を拭いてくれたのを褒めながら、シリュウの様子を確かめる。落ち着き払った態度は、イリスが見る限り、怪しいところなどない。
――やっぱりレヴィ兄の考えすぎじゃないのかな。
とはいえ、サーリシェレッドに関係する事件については気になっていた。メイベルはカリンの仕事について知らないということだったので、本人たちに直接尋ねようと思っている。どう切り出したものか、と考えながら今日の予定を確認していると、カリンのほうから話しかけてきた。
「イリスさん、武器変えたんですよね。私物の剣を登録したんだとか」
「そうそう、前に使ってた軍支給のは壊しちゃったから。良い機会だと思って奮発したんだよ」
机の側に立てかけておいた剣を指さすと、カリンは柄をじっと見つめた。スティーナ鍛冶で作られたものなので、サインの代わりのように紅玉があしらわれている。正真正銘のサーリシェレッドだ。
「剣、気になる?」
「剣が、というより、柄の装飾がちょっと。中央に来ることが決まる少し前に、わたし、あれで失敗をしていて」
やはり該当する事件があったのだ。イリスは少し身を乗りだし、何があったの、と何気ない風を装って訊いた。カリンは困ったように眉を寄せ、ぽつぽつと話し出す。
「ひと月くらい前でした。視察のための遠征任務に連れて行ってもらったんですけれど、そこで会っちゃったんです。違法輸入した宝石の売人に」
「あれと同じ、サーリシェレッドの?」
「はい。他にも国外でしか採掘されないものや、特別な許可がないと扱えないような宝石を幾つも持っていました。許可を得ている人なら問題がないのですが、念のためわたしたちの上司が調べて。相手が許可証を持っていなかったので、本来ならそのまま連行するべきだったんです」
本来なら。ということは、そうならなかったのだ。カリンが悔しそうに小さく息を吐くさまは、姉にどこか似ていた。
「上司がその場を離れなくてはならなくなり、わたしはその人を見張っているようにと言われました。一人での見張りでした。相手はわたしの態度を見て判断したんでしょうね、ポケットから突然許可証を取り出したんです」
勉強不足でした、と歯噛みした妹を、メイベルが睨んでいた。話を全て聞いていたのだ。口を出される前にカリンが視線に気づき、もうわかってるよ、と言った。
「宝石の種類が複数あったなら、その分だけ許可証が必要。そして指定鉱石の許可証は、とてもポケットから取り出せるようなものじゃない。その時のわたしはそれを知りませんでした。ただ、思い出したように提示された許可証が本物かどうかは疑いましたよ。その隙をついて、相手は逃亡を図りました。……わたしの腕を掴んだまま」
視察のための遠征任務の際は、たいてい私服での行動になる。装備の薄い状態でも、軍人なら多くの者は対応できるはずだ。だがイリスは、そしてメイベルも、カリンの弱点をよく知っていた。
「売人は男だな。お前はまた男が怖くて、対応できなかったのか」
メイベルの冷たい声に、カリンは目を伏せて頷いた。幼少期の経験がもとで、彼女には少々男性恐怖症のきらいがある。乗り越えようとはしているものの、とっさに反応できないことがまだあるようだった。
「上司がすぐに気づいて助けてくれたんですけれど、売人は逃がしてしまいました。まだ捕まっていません。完全にわたしのミスです」
「痛恨のミスだな。私が上司なら罵倒しているところだが、どういうわけかお前はその後中央へ栄転が決まった」
「お姉ちゃんならそうするよね。わたしも中央への異動が決まったのはおかしいなと思ってる」
裏の人間と思われる者に接触していたのは事実のようだ。連れ去られそうになったのは、裏に引き入れるためだったかもしれない。だが、唆されるなどといったことはないようなので、カリンはシロだろう。
「それ以上にカリンちゃんが今まで頑張ってきたことが認められたんだよ、きっと。ベルはあんなこと言ってるけど、わたしたちはカリンちゃんの味方だからね」
「ありがとうございます」
にこ、と笑ったカリンにホッとしてから、イリスはシリュウの様子を窺う。こちらの話を聞いていたのかいないのか、彼は黙って机に向かっていた。中央に移ってきて、提出しなければならない書類がいくつもあるらしく、それを片付けているようだった。
他の四人にも、サーリシェレッドが絡む事件との関わりがある。カリンのようにほんのわずかな接触かもしれないし、もっと深い関係があるのかもしれない。ネイジュは担当事件の責任をとろうとしたというから、裏との関わり方はより深いだろう。それはいったい、どんな事件だったのか。
「メイベル、そろそろ新兵訓練に行け。イリスは閣下の手伝いが入ってるんだろ。カリンとシリュウは俺と一緒にここでの仕事をしようか」
ルイゼンから指示が飛んだ。返事をしながら、イリスはこれからのことを考えていた。



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2017年02月28日

お話まとめのお知らせ

こちらに掲載していたお話を、storyにまとめました。
SecondAgeAfterを11話から33話まで
おまけを14本
追加しています。三年ぶりでした。増えましたね子世代アフター。
posted by キルハ制作委員会 at 22:40| Comment(0) | TrackBack(0) | お知らせ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月18日

変わる世界へ導く手

先々代大総統ハル・スティーナの引退も、先代大総統の失踪事件も、軍の人間として見てはいたけれど、まるで窓の向こうのことのようだった。影響はあるかもしれないが、何かが変わるならそれに対応するように動けばいい。周りの様子を見て適切な行動をとれば、ちゃんと物事は悪くない方向に動く。幸いにして器用ではあったから、おそらく他人よりも多くのことを難なくこなすことができたし、周りもそれが当然だと思ってくれていたおかげで、特に目立つことはなかった。
そうして得たものを、あの日に失い、それらとひきかえにしてあまりにも大きなものを手にしてしまった。どうして自分が、と何度も思ったけれど、未だに自分で答えを出せたことはない。
ただ、事実としてその人は自分を隣に置き、大切な仕事を任せながら、親しみを込めて名を呼んでくれるのだ。
「レオ、頼んだ」
「はい、閣下」
彼がこの国を統べる者となり、自分を補佐に選んだ瞬間に変わってしまった世界。それを疑問にこそ思えど、恨むことはない。


世界暦五三九年。大総統にレヴィアンス・ハイルが就任するということが本決まりになり、そのための式典が間近に迫っていたその日。レオナルド・ガードナーは大総統執務室に呼び出された。
先代が仕事を放棄していなくなってから、しばらくは補佐だった者がこの部屋を管理していた。だが、彼も責任をとって軍を辞するという。すでに部屋は、新しい主を迎えていた。
「ガードナー大将、ただいま参りました。お呼びでしょうか」
そこにいた赤毛の豊かな男を、これまでと同じく「ハイル大将」と呼ぶわけにはいかないことに、すんでのところで気づいた。もっとも、そう呼んだことも片手で足りるくらいしかない。
「……ゼウスァート大総統閣下」
思えば、こちらのほうが馴染みのある名ではあった。軍に入るためにいくらかの勉強をすれば必ず目に入り、そうでなくても一般教養として覚えるものだ。建国の英雄、初代大総統の家名。彼がその末裔であるというのは軍内では常識だったが、そう扱う人間はあまりいなかった。
「堅苦しいなあ、それ。やっぱりやめとけばよかったかな、大総統やるの……」
というのも、当人がこういう人間だからだ。歴史ある机に寄り掛かり、威厳もなにも意識していない口調で話す。一見不真面目そうだが実力と人望がある、レオナルドよりも二年先に軍人になったその人。
「みんなレヴィって呼んでるし、それで良いと思うんだけど」
「いけません。あなたはこの国を背負う方なのです。そのような無礼はできません」
それ以前に天上の人のように思っていた相手を、気安く呼べるわけがない。こうして言葉を述べることすらも畏れ多い。
レヴィアンスは不服そうにしながらも、まあいいか、と呟いて文句を言うのをやめた。そして一生忘れることができない、あの言葉を告げたのだ。
「レオナルド・ガードナー大将。君を本日付で大総統補佐に任命する」
意味を咀嚼するのに、レオナルドにしては長い時間を要した。大総統補佐。国を統べるその人の、すぐ傍で仕事を助ける、その役割。特に目立った功績もない自分には、一生縁がないと思っていた。
「……ねえ、返事。珍しいね、そんなに反応鈍いの」
「え、はい、申し訳ございません。しかしながら……」
呆けていた状態から我に返る。補佐なんて簡単に拝命できるものではない。だいたいにして、これまでほとんど接点のなかったレオナルドを、大切な役職に就けていいのだろうか。
たしかに相応しい人材は、ちょうどいなくなったばかりだった。ルーファ・シーケンスは家業を継ぐことを目指して、ニア・インフェリアは才能を認められた絵画の世界に進むため、それぞれ軍を辞めていた。レヴィアンスと常にともにあった人々がいない以上は、優秀な人材を適切に選ぶことがより重要になるはずだ。
だからこそ、レオナルドは自分が選ばれた意味が解らなかった。
「私は明確な実績を持たない人員です。おそれながら申し上げますが、閣下はどなたかと私を勘違いなさってはいませんか」
「いや、間違いないよ。レオナルド・ガードナー。目立った功績が見えないにもかかわらず、誰もがなれるわけではない大将という階級にいる。オレが欲しいのはそういう、地道で大切な仕事を怠らず敵をつくらない人材なんだ」
にい、と笑って、レヴィアンスはこちらへ手を伸ばす。契約の右手。この手をとれば世界は変わる。レオナルドがいた場所から、一気に「あちら側」へ引き上げられてしまう。
「よろしくね、レオ」
しかし抗う術も、レオナルドは持っていなかった。――環境が変われば自分が対応すればいい。ずっとそうして生きてきたから、疑問を持ち否定はできても、強い拒否はできなかったのだ。

レヴィアンスの人事はめちゃくちゃだった。レオナルドのほかにもう一人補佐を立てたが、それは少尉の少女だった。イリス・インフェリア。軍家インフェリアの名を持ってはいるが、軍を辞した兄に比べれば功績は圧倒的に足りず、むしろしょっちゅう他の軍人たちと手合わせをしては叩きのめしているという問題行動が見られる。名前だけの大総統に名前だけの補佐、と批判されるのは当然のことだった。
「だからこそレオが必要だったんだよ。オレたちは名前ばっかり有名になっちゃって、それなりに反感を持つ人間がいる。敵をつくらない人が欲しかったのはそういうわけ」
その言葉で、腑に落ちた。所詮レオナルドの存在は、本当に育てたい人材であるイリスの、そして批判を一身に受けるはずのレヴィアンスの、楯でしかないのだ。大勢の人員の中から選ばれたことは名誉だろう。死ぬときに箔がつく。
割り切ってしまえば、動くのはさほど難しいことではなかった。レヴィアンスの行動パターンはまもなくして掴むことができ、彼が求めるものをすぐに用意することができた。イリスからも「ガードナー大将は昔からレヴィ兄のこと知ってたみたいですね」という評価を得られた。彼女には公私を分けることを覚えてほしい。
仕事は順調だった。あまりに順調すぎて、終業後は暇だった。初めのうちはそれなりに忙しかったが、落ち着いてくると独りの時間が多くなった。持て余した時間を訓練や仕事に必要になりそうな知識の吸収に使った。すると日々のことは一層順調に片付いた。
「レオは本当に有能で助かるよ」
「勿体ないお言葉です」
慣れないのはこれだけだった。今までは何をこなしてもそれが当然のことで、褒められたり礼を言われたりすることはなかった。だが、レヴィアンスは逐一褒める。礼を言う。挙句の果てに部下や客に自慢する。「うちの補佐は有能だからね」とノーザリア大将に紹介されたときは、その場から逃げ出したかった。
自分はそんな人間ではないのに、どうしてそう持ち上げようとするのだろう。もう一人の補佐に比べればいくらかはできることも多いが、それは人生経験の差によるものだ。
上に立つ者の言葉は、より多くの人々に向けられるべきだろう。レオナルドひとりには、言葉通り勿体なかった。こんな特徴のない人間の、何をこの人はそんなに。
そもそもこの人は、どうやってレオナルドを見つけたのだろうか。

あくる日の朝、執務室に入るとコーヒーの香りがした。大総統執務室は便利なもので、部屋の主一人ならしばらく生活できるくらいの環境が整っている。小さなキッチンで湯を沸かし、客用のお茶を淹れることも、レオナルドはすぐに慣れた。コーヒーもインスタント粉末を溶かすだけならすぐに用意できる。
だが、今部屋を満たしている匂いは、もっと濃くて深い。「おはようございます」と声をあげつつキッチンへ向かうと、すでに来ていたレヴィアンスが「おはよ」と軽く手をあげた。
「何をしていらっしゃるんですか」
一応訊いたが、見ればわかる。ドリッパー、フィルター、ミル。そしてコーヒー豆の入った袋。基本的な道具と良い豆を、この人はどこから持って来たのだろう。昨日までなかったのだから、わざわざ調達してきたのだ。
「しばらく紅茶ばっかりで、コーヒー飲んでなかったなって思って。父親がコーヒー党で、オレはこっちのほうが馴染んでるんだよ。紅茶も好きだけど」
馴染んでるわりには、と思ったが言わなかった。しばらく見ていてわかったが、レヴィアンスはおそらく手先がさほど器用ではない。このコーヒーはあまり美味しく仕上がらないだろう。
「レオも飲む?」
「お気遣いありがとうございます。いただきます」
拒否はできない。朝から相手の機嫌を損ねても困る。レオナルドに対しては、レヴィアンスは一度も機嫌を損ねたことはなかったが。
そうして二つのカップに注がれた真っ黒なコーヒーは、やはり残念な出来だった。
「うわ、不味い。なんか失敗したかな。レオ、原因なんだと思う? あとそれ不味いだろうから無理して飲まなくていいよ」
「いえ、勿体ないです。閣下が淹れてくださったのに」
「勿体なくしたのオレだから。えーと、量はたぶん間違ってない……」
レヴィアンスは首を傾げながら、レオナルドの手からカップを取り上げた。まったく惜しむことなく、あっさりと。けれどもコーヒーを淹れることは諦めていない。
これ以上良い豆を無駄にしてもいけないし、何より今後レヴィアンスに恥をかかせてはいけない。レオナルドはおそるおそるフィルターを指さした。
「閣下、豆が。……挽いた豆がフィルターからこぼれませんでしたか。細かい粒がドリッパーを抜けて、中に入ってしまったのだと思います」
「あ、それだ。最初フィルター使うの忘れたんだ」
こぼしたどころの話ではなかった。それでは美味しいコーヒーは飲めない。なぜごまかして続けてしまったのか、という疑問は呑みこんだ。
「コーヒーを召し上がりたいのであれば、私がご用意いたします。ですから閣下はお待ちください」
「いや、ここでやり方見せて。さっき馴染んでるとか言ったの恥ずかしくなってきたから、ちゃんと覚える。お願い」
「私なんかに頭を下げてはいけません」
「レオのほうが師匠じゃん。私なんか、とか言うなよ」
少し語気が強くなったように感じた。けれども一瞬で、気のせいかと思い直す。失敗した分をレヴィアンスがてきぱきと片付けたあとで、レオナルドは知っている通りに正しくコーヒーを淹れてみせた。動作をじっくり見られていたので、ゆっくり丁寧にやるしかなく、結局始業の時間を過ぎた。
仕事のお伴になった一杯のコーヒーを、レヴィアンスは褒めちぎりながら飲んでいた。今度はオレもちゃんとやってみせる、と意気込んで。
そしてその通り、午後には飲めるコーヒーを淹れてみせたのだった。

コーヒー事件以来、小さなキッチンはみるみるうちに充実した。コーヒーはもちろん豆を挽いて淹れられる。紅茶も茶葉の種類が増えた。レヴィアンスのその日の体調などを考慮して、レオナルドが適切な飲み物を選んで用意することができるようになった。
曰く、先々代ハル・スティーナがこの部屋を使っていた頃は、こんなふうに賑やかなキッチンだったのだという。道具は全てハルが持ちこんだ私物だったので、引退するときに引き上げてしまい、先代の頃はがらんとしたままだったのだとか。ちなみに第三休憩室にも良い茶葉があるという。少し気になって確かめると、そこにも茶葉やコーヒー豆と道具一式が揃っていた。
もしやこの人は司令部を私物化しているのでは、という疑いを持った頃、決定的なできごとがあった。
「閣下、資料室を片付けられましたか?」
大総統執務室には、重要度の高い資料がある特別な資料室が備わっている。めったなことでは資料の配置は変わらないはずなのだが、それが大きくずらされ、奥に謎の空間が出来上がっていた。
「あんまり古いのは移動させたよ」
「お一人でですか? それに、奥のスペースは……」
「あそこ、写真現像するのにちょうど良さそうなんだよね」
「仰っている意味がよくわからないのですが」
写真を現像するような仕事は大総統にはない。必要なら人に頼めばいい。しかしレヴィアンスはここで、自分でやりたいのだという。
「趣味でやってるんだよ、写真。遠くの知り合いに送るのに始めたらはまっちゃって。何度か仕事にも使えたから、ここでできたら便利だなと思ってたんだ」
彼の仕事ぶりは知っている。できる人だということはわかっている。どんなに忙しくても余裕を持っていて、調べ物も手を抜かない。部下は可能な限り、レオナルドも含めて定時に帰らせている。外部との関係も良好で、そんな彼を評価する者も増えてきた。
きっと今が大事な時だ。それなのにこの人は、よりによって趣味でこの場所を弄っている。
「施設の私物化は問題になります。キッチンは私も使わせていただいているので意見できる立場にありませんが、資料室はさすがにやりすぎかと」
「やっぱりそうだよね。我に返って、何してるんだろうなって思った。ちゃんと元に戻すよ」
思い切って意見すると、あっさり引き下がった。そして翌日には資料室は元通りになっている。古い資料も元あった場所に並べられ、写真の件は白昼夢だったのかとも思われた。
しかし、これが数回続いた。そのあいだにも仕事はしていて、重要な事件も解決に導いているのに、いつのまにかぽっかりと空間ができては、また消える。実害がなかったので、そのうちこの現象にも慣れてしまった。幸い、このことを知っているのは当人とレオナルドだけで、黙っていれば誰にもわからない。
だが、後になって思えば、私物化などまだかわいいものだった。むしろそれがレヴィアンスのストレスサインであったことに気づかなかったレオナルドの責任は大きかった。

大量の仕事をレヴィアンスがこなせていたのは、彼の集中力によるところが大きい。彼が大総統に就任して、つまりはレオナルドが補佐になって間もなくして気づいたことだが、レヴィアンスはあまりに集中力が高まると周りを一切気にしなくなる。呼びかけても返事をせず、ひたすら書類に向かっているのを、初めて見たときは狼狽えてイリスをわざわざ呼びに行ったほどだった。
「ときどき行っちゃうんですよね、集中力の向こう側。あっちの世界に行ったらしばらく帰ってこないんだって、お兄ちゃんたちが言ってました」
困ったように笑う彼女に、初めは「まさか」と言った。だが、二度目には本当らしいとわかり、それ以降は気にならなくなった。
体を壊せばやりすぎないようにと諌めたかもしれない。けれどもそんな様子はなく、それどころか仕事のあとは飲みに出るなどしているようなので、そのうち戻ってくるのを待つようになった。
それで仕事が片付くなら問題はない、健康なら気にしすぎるとかえって良くない。――あの「赤い杯事件」の処理のときは、まだそう思えた。そのときはレオナルドやイリスへの仕事配分もできていた。
問題はある程度慣れた頃に発生する。レヴィアンスが「自分一人でもなんとかなるだろう」と判断することが増えてから。
明らかに仕事は多かった。集中したとしても、とても一人で終わらせられる量ではない。それなのに定時にはレオナルドを帰らせてしまうことが、二日続いた。さすがに二日目には心配になって、終業後しばらくしてからもう一度執務室へ向かった。
少しだけ開けた扉から見た姿に、ぎくりとした。たった一人で机に向かう彼は、休む気配が少しもなく。昼間見せている余裕はまるで消え失せていた。――全く知らない表情をしている。あれは、誰だ。
「……違う」
閉じた扉にもたれかかって、両手で顔を覆った。あそこにいるのは間違いなくレヴィアンスだ。すぐ傍で見ていたはずなのに、あんな姿は知らなかった。いや、見ようとしていなかった。
ゼウスァートの名前を背負い、周囲の期待と羨望と妬みを一身に引き受けて、人々の理想の姿であろうとしていた。レオナルド自身、この人はやはりゼウスァートの末裔なのだと感心していた。しかしそれはレヴィアンスがそう見せかけていただけに過ぎない。
資料室にときどき現れるあの空間は、いつ作って、いつ元に戻しているのか。そのことにすら考えが至らなかった。大量の資料が移動しているのに、それにどれほどの時間が費やされたのか。レオナルドが見ていないのなら、それは終業時間以降。夜中までかかったかもしれない。
もちろん自分の役割は大総統補佐だ。プライベートにまで干渉しようとは思わない。レヴィアンスが「仕事はおしまいだよ」と言えばそれまで。だからそれ自体は問題ではない。
一番近くにいながら、彼を過信し、なおかつ侮ってもいた。そうだったのだと気づいてしまった。だから彼は、誰にも頼ることができなくなっていったのかもしれない。
「私は楯になるどころか、あなたに寄り添ってもいなかったのですね」
それでもわかってしまう。今部屋に入れば、レヴィアンスは仕事の手を止める。その分、明日に持ち越される。――そのほうが良かったのだと、思い直したのは寮にふらふらと戻ってからだった。
翌日のレヴィアンスは普段通りの余裕さをみせていた。だが、状況は変わっていない。それなのにまた同じことを繰り返そうとする。ゼウスァートであろうとするために。
――私を、頼れないために。
「そうやって余裕ぶって全部抱え込もうとしていたら、閣下はいつか壊れますよ」
「……え?」
こんなことを言える立場じゃない。もっと早くに気づいていたら、抱え込ませることもなかった。
「何言ってんの、レオ。ねえイリス、そんなことないよな」
まるで冗談でも言うみたいに笑おうとするレヴィアンスに、イリスは真剣な表情で返す。
「ガードナーさんの言う通りだと思う。少なくとも今は、一人で何とかできる状態じゃないんじゃないの」
たぶん、レヴィアンスのことは彼女のほうがわかっていた。わかっていて、レオナルドが動かなかったから、動けなかったのだ。
その日は遅くまで三人で仕事を進めた。もうこの人が「万能の指揮者」などではないことはわかっている。どれだけの支えが必要なのかも、以前よりはわかるようになった。
今度こそ、レヴィアンスの補佐ができる。そうしようとレオナルドは密かに誓った。


数日の山場を越えて、ちょっとした連帯感を覚えてしまったあとの一人の部屋は、いつになく静かに感じる。すっかり慣れたはずの空気を寂しく感じたのは、いつ以来だろう。
「補佐になったばかりの頃みたいだ」
声に出してみたら、ほんの少しの笑いもこぼれた。
思えばあの頃から、あまり成長していない。二十歳を過ぎたあたりで、もしかしたら目立たないまま生きていくのだろうと思い始めたあたりから、成長することを諦めていた。
けれども世界は変わってしまった。それに合わせていけばいいと思っていたが、きっとどこかうまく合っていなかった。今までだって、そのことに気づいていなかっただけで、本当は何かがずれていたかもしれない。
――お疲れ様。手伝ってくれて、ありがとう。叱ってもらったのも久しぶりだ。
以前なら「大総統なのにこの人は子供みたいなことを言う」と思ったかもしれない。実際、今でも少し思う。しかしその先を、その人を受け入れるということは、今のレオナルドでなければできないかもしれない。当然が当然ではなくなった、今。
ぼんやりしていると、突然、部屋の戸が叩かれた。この部屋に用があるような人はいないはずだが、と戸を開けると、さっきまで一緒に仕事をしていたその人が立っていた。
「閣下……いかがなさいました?」
「ちょっと飲まない?」
両手に瓶を持って、レヴィアンスが笑う。こんなふうに訪ねてくるのは初めてだ。でも。
「申し訳ございません、閣下。私はお酒はちょっと……」
「ああ、知ってるよ、全然飲めないって。だからこれはジュース。たまに地方から送ってもらうんだ」
酒が飲めないことを話したことはあっただろうか。覚えがないが、断る理由が見つからないことはたしかだ。
「散らかってますよ」
「どこだってオレの部屋よりマシ。おじゃましまーす」
遠慮せずに入ってきて、なんだ片付いてるじゃん、と言う。こちらが緊張していることは、わかっているのかいないのか。
「……楽にしたら? って、オレが言うのも変だけどさ」
「ご存知でしたか」
これはもう完敗だ。レオナルドは諦めて、あまり使っていないグラスを洗いに行った。
ジュースは濃い葡萄液で、炭酸水で割るとちょうど良かった。少し渋く、酸味が強い。しかしそれよりもずっと甘かった。
「これは美味しいですね」
「だろ? 毎年送ってくれるのが楽しみでさ。でもオレはなかなか受け取れないから、実家に送ってもらうようにしてるんだよ」
レヴィアンスは寮暮らしだ。ということは、わざわざ実家まで取りに行ったのか。
ジュースを少しずつ飲む間、レヴィアンスは部屋をきょろきょろと見回していた。散らかっているというのはもちろん方便で、実際はレオナルドが最低限生活できるだけの物しか置いていない、殺風景な部屋だ。奥にはベッドが二つ。そちらに目を留め、レヴィアンスは首を傾げた。
「ここ、二人部屋なんだ。道理で広いと思ったよ。同室は?」
「はい。しかし、今は私が一人で使っています。同室だった者は、別室に移動しました。……私が、閣下から補佐になるよう言い渡された日のことです」
忘れもしない。大きなものを得て、たくさんのものを失った日だ。目を眇めると、レヴィアンスの怪訝な表情がうっすらと見えた。
同室だった者とは、軍に入隊して以来の付き合いだった。少なくともレオナルドは、彼を最も仲の良い友人だと思っていた。訓練では派手な動きでよく目立ち、大きな事件に積極的に関わって次々に功績をつくった人物だ。名前を出すと、レヴィアンスも「ああ、あいつか」と頷いた。
「彼の活躍は誰もが認めるものだったはずです。しかし閣下は私を補佐に選ばれました。彼はそれが納得できなかったようで……」
当然のことだろう、とレオナルドも思った。だから彼が「どうしてお前なんかが」とがなりたてたときも、「お前なんかに補佐が務まるものか」と言い捨てて部屋を出ていったときも、仕方がないと受け入れた。彼だけではない、他の多くの同僚が、彼と似たような態度をとった。レオナルドをなんでもないもののように気にしていなかった人々が、一斉にその挙動に注目するようになった。なぜあんな、存在感の薄い平凡な人間が選ばれたのか。レオナルド自身を含む、多くの人の疑問だった。
「軍に入隊する以前から、私は平凡な人間でした。褒められることも貶されることもなく、両親は私を民間の学校に入れてから、適齢期になると軍の養成学校に進ませました。それが当たり前のことであると、私も受け入れてきました。それからも日々は変わらず、ただ坦々と過ごしてきたつもりです。目立たずにいたと思います。ですから、私もわからないのです。閣下が、何故私なんかを補佐に選ばれたのか」
どうしてあんなに、一挙一動を褒めるのか。レオナルドのいた世界を変えたのか。
レヴィアンスは黙ったままだった。言葉が切れた瞬間にグラスの中身を飲み干して、それから、ほう、と息を吐いた。あまり見せない、少し難しいことを考えるような顔をして。
もういちどグラスを、レオナルドの分まで濃い色の液体と炭酸水で満たしてから、彼はようやく口を開いた。
「最初にレオを見つけたのは、ルーファだったんだ。もう十年以上前になるかな」
瞠目したレオナルドに、レヴィアンスは微笑んだ。
「すごいやつがいるんだって、オレに教えてくれたの。練兵場に連れて行かれて、訓練をしているのを見た。入隊二年目にしては型が綺麗な剣技だと思ったら、相手に合わせて次々に得物を変えていた。訓練してたのは実は相手のほうで、レオはそれに付き合ってたんだよね」
合ってる? と尋ねられ、レオナルドは曖昧に頷いた。自分の訓練でもあったので完全に肯定することはできないけれど、ほぼ相手に、友人のやりたいように合わせていた。友人が剣の腕を磨きたいと言えば自分も剣を持ち、変わった武器を相手にしたいと言えば武器庫から様々な種類の得物を借りてきた。レオナルドは全て器用に使うことができた。少し練習すれば慣れる。けれどもそれはいつものことで、友人にだって褒められたことなんか一度もない。
「もちろんそれもすごいことだけど、後日、上司の机にお茶を置いている姿にも感心した。相手の利き手や手を伸ばすであろうタイミング、他の物品の位置関係……全部計算してるように見えたよ。ちょうど今、オレとの仕事でそうしてくれているように」
ついでに崩れかけた書類を直したり、ファイリングし損ねてたものを片付けたりもしてたよね。――レオナルドにとっては当然で、他人から見ればつまらないだろうと思っていたことを、レヴィアンスはよく見て、憶えていた。当人にとってはただの癖でも、この人の目にはそうと映らなかったらしい。
「それからずっと見てきたよ。同じ仕事はなかなかできなかったけど、しょっちゅう目に留まった。他の人が面倒がってやらない仕事を、レオは率先して片付けた。他の人が大きな功績をつくるためのサポートを徹底的にしていた。それは先々代と、先代の大総統も認めてたようだね。目立った活躍なんかしなくても、レオの階級は着々と上がっていった」
行動が当たり前すぎるから、目立たないから、誰も見ていないと思っていた。とりたてて褒められないことが当然だった。しかし、レヴィアンスにとっては。
「大総統になれって言われたとき、すぐに決めたよ。補佐は二人つけようって。一人はオレが育てたいやつを選ぶ。そしてもう一人は、確実なサポートをしてくれる人間を選ぶ。オレはつい物事にのめり込んじゃうから、身の回りのことに気を配ってくれる人が絶対に必要だった」
レオナルドならそれができる。真っ先にそう思ったのだと、彼は笑った。敵をつくらないから楯にしようだなんて、そんなのはレオナルドの勝手な思い込みに過ぎなかった。
「大総統補佐に選んだことで、友達と仲違いしたことに関しては、悪かったよ。でもそいつらだって、頭を冷やしたらレオをちゃんと認められたと思う。その証拠に、今までなんにも言ってこないでしょ。オレやイリスは名ばかりだとかよく言われるけど、レオの悪い噂なんて一つも聞いたことがない。だって、弱点がないからね、言いようがないよ」
弱点がないのではなく、特徴がないのです。そう言おうとしたら、遮られた。まるで何を言おうとしたのか、先に読まれたように。
「レオは有能だ。誰よりもたくさんのことができる。大抵のことはそつなくこなせて、実力も隠してるだけでちゃんとついてる。気が利いて、相手の様子に合わせて動くことができる。必要な知識を自分の力で吸収して、ここぞというときに生かせる。こんな超優秀な人材、なかなかいないよ」
顔が熱かった。だって、できて当たり前だと思っていたことを、「なかなかいない」と言われて。「有能だ」と表現されて。こんなに自分を褒める人は、レヴィアンス以外にいない。こんなに褒められるようなことがあるなんて、ついこのあいだまで想像もしていなかった。
変わった世界は、友人や平穏といった色々なものを失ったけれど、とても大きなものを得た世界。レオナルドの存在を、価値あるものとして認めてくれる世界だった。
「閣下、私は……私なんかが、そんなに褒められてもいいのでしょうか」
「その、私なんか、っていうのやめよう。謙遜ならまだしも、自分を卑下するのは損だよ。これ大総統命令ね」
そんなのはずるい。逆らえるわけがない。今までそうやって生きてきた。そうやって生きることすら、この人は認めてくれるのだ。
「ありがとうございます、閣下」
この人のためになら、本当に楯にだってなれる。彼のために戦って、何ものからも守り抜こう。変わる世界に合わせることはそう難しくはないけれど、この人のいない世界だけは許すわけにいかない。
それが自分の役目だと、レオナルドは心に深く刻んだ。そのためになら、これからまた何を捨てることになっても、それを厭わない。

資料室の奥を改装しましょう、とレオナルドから申し出ると、レヴィアンスはぽかんとしていた。
「そう何度も物を出し入れするのはご面倒でしょう。古い資料を整理するのも、理にかなっています。奥をあけて、閣下がお好きなようにお使いいただくのが一番かと私は思います」
もちろんレヴィアンスに余計な負担をかけず、ストレスを軽減させるためでもある。だが、それ以上に彼の趣味だという写真が素晴らしかった。イリスに頼んでいくらか見せてもらったのだが、どれもプロ並みの出来で、実際何度かコンクールに応募して入賞してもいるという。
それが近くで出来上がるのなら、レオナルドは真っ先に見せてもらえるかもしれない。そんな欲もある。とにかくレヴィアンスのことを、もっと知りたい、知る必要があると思ったのだった。
「いいの、暗室作っても? だって趣味だよ。私物化は問題だって……」
「捜査に役立つことがあるのなら、必要な設備です。閣下の気分転換も大切なことですので、この程度ならば問題はないと判断いたしました」
「そっか、それならやっちゃおうかな」
なんて嬉しそうに笑うんだろう、この人は。好きなことにも、仕事にも、一生懸命だ。その人に認められたのだと思うと、レオナルドの胸にもくすぐったさと温かさがこみあげてくる。大声で喜びを叫びたいのを我慢して、キッチンに向かった。
「今日はコーヒーにいたしますね、閣下。一番お好きなブレンドをお淹れします」
「ありがとう! 頼んだよ、レオ」
「はい。お任せください、閣下」
そういえば、「生きがい」といえるものを持ったのも初めてかもしれない。自分から何かをしたいと思うのも。
変わった世界は明るくて、そこに恨みなんか存在しない。ただ決意と感謝がある。大切なものを想う心がある。



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2017年02月12日

甘味の女子会

部屋に立ち込める甘い甘い香りに、この身まで溶けてしまいそう。所詮は糖と脂だろう、と嘯く口も、次第に黙って作業に没頭するようになる。理想はきゃあきゃあと盛り上がりながらの光景だが、真剣な現場では迂闊な一言が命取り。
「イリスちゃんはウルフさんに本命チョコ渡すんだよね?」
「違うぞ、エイマル。あの男はウルフではなく変態盗人と呼べ」
「ちょっとベル、エイマルちゃんに変な言葉教えないでよ! チョコはみんな同じで、特別なのなんてないから! あっ」
大きく傾くボウルを慌てて支え、こぼれるのをなんとか回避する。ほうっと息を吐きながら、どきどきという大きな鼓動を落ち着かせようとした。
好きな人を意識してから、初めてのバレンタインがやってくる。

*一緒に作ろう*
一月末にニールの誕生日を盛大に祝い、暦は二月になった。直近の大事件もやっと落ち着いてきて、代わりに新聞の紙面を「大総統、ついに結婚か?!」の見出しが飾る。もともと明るい話題を欲していたのだからこれはこれで正しいのだが、イリスは今でもこれが事実だということを受け止めきれない。
兄であるニアがルーファと暮らし始めた時とは感覚が違う。まるで自分が取り残されたような気持ち。相手のエトナリアのことはよく知っていて、良い人だとわかっているのに。
「結構時間経ったのに、まだ複雑な心境なんだよね」
「まあ、簡単に信じられることじゃないよな。だって閣下、というかレヴィさんと結婚って、なかなか結び付かないよ」
昼食をとりながらのお喋りも、自然とこの話題になった。イリスは玉子サンドをちびちびと食べ、ルイゼンはチキンカツバーガーにかぶりつく。
「私は良い話だと思うぞ。邪魔者が一人減った」
「閣下は邪魔者ではない。少々僕らにとって余計なことはしてくれたが、イリスのためにはなっている」
メイベルはサラダをつつき、フィネーロは具だくさんのスープを少しずつ口に運んでいる。それで足りるのか、とルイゼンに尋ねられて、二人は同時に頷いた。イリスは何の話なのかわからないので黙っていたが、おかげで少し整理できた。
たぶん、兄が兄ではなくなることが寂しいのだ。ニアは実兄で、ルーファも以前と変わらない態度でいてくれるが、レヴィアンスは、一番距離が近かったはずのその人は、これからイリスの兄役の一人ではいられなくなる。世間が求めれば、人の夫として振る舞うだろう。それはイリスが知らないレヴィアンスだ。
「……レヴィ兄を素直に祝うには、どうしたらいいんだろう」
「祝うったって、そもそもが仕事的な結婚なんだろ。祝っていいの?」
「祝った方が良いんじゃないかな。一応はめでたいことだし」
せめて日頃の感謝くらいはすべきだろう。随分と助けられたし、イリスが今軍人でいられるのはレヴィアンスのおかげだ。問題はどうやって表すか、だが。
玉子サンドの最後の一口を咀嚼しながら、イリスは目を閉じた。と、耳に女の子たちの会話が飛び込んでくる。
「あ、イリス中尉だ。ねえねえ、今年はチョコ渡す?」
「もちろん。司令部一のイケメンに笑顔でありがとうって言ってほしい!」
チョコ。あの甘いお菓子。そういえば、それが大量に手渡されるイベントがある。好きな人へ、またはお世話になっている人に感謝を込めて。気持ちを込めた贈り物が、自然に人を行き交う日。
「これだ!」
「なんだよ、いきなり」
「どうせみんなに感謝とお詫びをしなきゃいけない立場なんだから、これに乗っからない手はないよね。そうだよ、レヴィ兄も甘いもの好きだし、ちょうどいい」
意気込むイリスに、ルイゼンも何を考えているのか気づいた。フィネーロはやれやれと溜息を吐き、メイベルは眉間にしわを寄せる。
「まさか、あの忌まわしいイベントに参加するつもりか。毎年大量に貰って処分に困っているのはイリスだろう」
「それはそれ、これはこれだよ。ベルも一緒にやらない?」
にっこり笑ったイリスに、メイベルは勝てない。ずるいと思いながらも頷いてしまうのだ。

エイマルから電話があったのはその夜だった。
「イリスちゃん、バレンタインチョコ作らない?」
「チョコ? 作るの?」
人に渡すにしても、ちょっと良いものを買おうと思っていた。作れないことはないが、メイベルとは一緒に料理をするよりも買い物をしたほうが楽しい。けれどもエイマルが加わるのなら……。
「そういえば、エイマルちゃんは毎年手作りだよね。今年もダイさんに送るの?」
「そうだよ。おじいちゃんと叔父さんとおばあちゃんと、下宿のみんなにも。ニール君の分もあるから、今年は最高に美味しいの作るんだ」
弾む声を聞いていたら、イリスも作りたくなってきた。メイベルも一緒に、と言ったら、嬉しそうな返事があった。
「いいね、みんなでやろうよ! リチェさんとか誘えないかな」
「リチェか、声かけてみよう。場所はどうしようか」
「お母さんがね、うちに来ていいって。だから誘ったんだよ」
ダスクタイト家でなら、エイマルも安全だし、プロはだしのお菓子職人だっている。これ以上の好条件はないだろう。
かくして、バレンタイン直前のチョコレート作り女子会が開催されることとなったのだった。

*チョコレート女子会*
エイマルとイリス、メイベルにリチェスタも加わって、チョコレートの会が始まった。本日のお題は簡単で可愛い、フルーツチョコレート。イチゴやリンゴ、オレンジなどのドライフルーツを、溶かしたチョコレートに浸けるだけ。もう少し凝りたいなら、イチゴなどをチョコレートで包むということもできる。教えてくれたのはエイマルの母であるグレイヴだ。
「アタシも父さんから教わったんだけどね。母さんが甘いものの好きな人で、制限ギリギリまで食べちゃう人だったから、作り甲斐があったみたい」
意外だが羨ましい話に、リチェスタは頬に両手をあてて、うっとりと聞き入っている。
メイベルはそのての話にはまるで興味がないようで、ただ自分が必要な数を確認していた。妹や弟にあげるのだ。
エイマルは湯煎のためのお湯を沸かしながら、板チョコを刻み始める。製菓用の、ちょっと良いものだ。イリスも一枚とって手伝う。
「イリスちゃんはいくつ作るの?」
「多ければ多いほどいいかな。わたし、貰ったらお返ししなきゃいけないからね」
「モテモテだね。イリスちゃんかっこいいから、またファンが増えてるんじゃない?」
でも、順番をつけてはいけないと思いつつ、大切なのは身近な人たちだ。家族と友人、世話になっている上司、それから……。そういえば彼は、甘いものは平気だっただろうか。
次第に部屋は甘い香りに満たされていく。お湯が沸いたらちょうどいい温度にして、チョコレートを湯煎にかけるだけで、口の中まで甘くなってくる気がした。
「こっちはチョコがけ用だからそのまま。これはフルーツを包むから、温めた生クリームを入れて混ぜるの」
「混ぜるの順番ね。あたしの次はイリスちゃん。リチェさんはメイベルさんと交代してね」
作業に没頭すると、口数が少なくなってくる。ここには失敗が許されない乙女もいるのだから、真剣にもなる。リチェスタにとって、今回のバレンタインは勝負だった。
ルイゼンに告白し、一度は振られた。だが、絶対に振り向かせると宣言したからには、胃袋からがっちり掴まなければ。いつにもまして気合が入っているのは、そういうわけだ。
「メイベルちゃん、生クリーム入れてくれる?」
「了解した。……交代、しないほうがいいか? ルイゼンへの念を込めているんだろう」
「念って……。交代はしてもらうよ、メイベルちゃんだって渡したい相手がいるんでしょう」
いるにはいるが、生憎とリチェスタのような乙女思考は持ち合わせていない。どうせなら彼女が好きなだけやればいい。
溶けたチョコレートにまだ塊が残る状態で、エイマルはイリスにバトンタッチ。お湯の温度を調節しながら続けた。
「イリスちゃんはウルフさんに本命チョコ渡すんだよね?」
そろそろなめらかになってきたところで、不意にエイマルが言う。心臓が大きく跳ねた気がした。返答する隙がないまま、メイベルが無表情で割り込む。
「違うぞ、エイマル。あの男はウルフではなく変態盗人と呼べ」
「ちょっとベル、エイマルちゃんに変な言葉教えないでよ! チョコはみんな同じで、特別なのなんてないから! あっ」
取り落としかけて、傾くボウル。ここでひっくり返しでもしたら、全てが台無しだ。――もう、大事なことをだめにしちゃいけない!
すんでのところでボウルを支えたイリスは、ほう、と溜息を吐く。だが、一度始まった話はなかなか止めることができない。
「えー、特別じゃないの? だってウルフさんって、イリスちゃんの彼氏でしょう」
「彼氏じゃないよ。あと、今回の最大の目的はレヴィ兄へのお礼で……」
「でも、好きなんだったらあげるよね。イリスちゃんが恋して初めてのバレンタインだもの」
「リチェまで変なこと言わないでよ」
これまでの仕返しだと言わんばかりに、リチェスタまでもがイリスをいじる。面白くないのはメイベルで、手を止めたリチェスタからボウルを奪って混ぜ始めた。
「メイベル、もうそれは冷やしちゃいましょう。ちょっと冷やして扱いやすくなってから続きね」
「ああ、もういいんですか」
「アンタたちも、早くしないとチョコが固まっちゃうわ。好きなフルーツをとって、こんなふうにちょっとつけたら、シートを敷いたお皿に置いて」
グレイヴの指示が飛ぶ。途端にリチェスタは真剣さを取り戻し、エイマルもフルーツに手を伸ばした。イリスだけが赤面したまま、他人の恋に興味を持った乙女の恐ろしさを感じていた。

カラフルなフルーツチョコと、甘酸っぱさを包み込んだトリュフが揃った。エイマルが集められるだけ集めたというラッピング素材に、年長女子達は感心する。
「こういうの、エイマルちゃんは得意だよね。わたしのセンスはお兄ちゃんに全部持って行かれちゃったからなあ」
「適当に袋詰めして押し付けるのではだめなのか」
「それじゃ可愛くないよ。私も持ってきたけど、エイマルちゃんのコレクションのほうがキラキラして見えるね」
リチェスタが持参したのはクラフト紙でできたもので、エイマルのものよりも少し大人っぽい。レースの飾りをつければ可愛くもなる。これはこれで、本命には合いそうだ。
「リチェはそれでいいんじゃない?」
「そうかな。でもゼン君はいっぱい貰うだろうから、埋もれちゃいそうで」
「埋もれることはないだろう。身近な人間からの贈り物は他人からのものとちゃんと分けるぞ、あいつ」
そもそもそんなに貰ってない、とメイベルが言うのは、イリスと比較してのことだ。インフェリアの血を引く司令部一のイケメンは、ここ何年か大変な思いをしている。
「男どもより紳士だと評判のイリスが、変態盗人にとられそうだと知ったら……女どもは暴徒化するかもな」
「しないよ。みんながみんなベルじゃないんだから」
「でもメイベルちゃん、なんだか落ち着いた感じする。エイマルちゃんはどう思う?」
「あたしはみんな前から素敵だと思うよ。イリスちゃんはかっこいいし、メイベルさんはクールで、リチェさんは可愛い!」
そういうエイマルちゃんが可愛い、とリチェスタはエイマルを抱きしめる。イリスにとっては最高の絵が完成した。レヴィアンスがいたら写真を撮ってもらうのに。
結局、グレイヴに急かされるまで遊んでいて、ラッピングはなかなか決まらなかった。
「そういえば、イヴ姉はダイさんにチョコは」
「何年かあげてない。エイマルからあれば十分でしょう。昔は欲しいってしつこかったけど、今はそうでもないし。アンタたちと違ってもう若くないからね」
それでも、エイマルと一緒に熱心にラッピングの組み合わせを試しているのだから、蔑ろにしているわけではないのだろう。ただかたちが変わっただけで、グレイヴもちゃんと気持ちを贈り物に込めている。
「じゃあ、私たちくらいのときはどうだったんですか? 手作りとかしてました?」
「してたしてた。アーシェと一緒に、ああでもないこうでもないって騒ぎながらね。だから今日のアンタたちが静かだったのは意外だったわよ」
たしかにこんなに真剣なバレンタインの準備は、イリスも初めてだ。リチェスタは「告白してすぐだから緊張してて」と頬を赤らめる。以前なら、ルイゼン相手にそんなに気張らなくても、と言ってしまったかもしれないが、今ではイリスにもその気持ちが少しわかるので黙っていた。
「あたしもね、今年はちょっとだけ頑張ろうって思ったんだ。ニール君、お母さんからしかチョコ貰ったことないんだって。だから今年はあたしが美味しいのをあげるの」
ニールのことになると途端に張り切るエイマルだが、これは弟分を可愛がっているのだ。リチェスタとは違うが、この子も十分に乙女といえる。
「みんな女子力高いねえ、ベル……。わたし、まだラッピング決まらないよ」
「変態盗人や閣下にはビニール袋に適当に入れて渡せばいいんじゃないか」
言葉はぞんざいでも、弟妹の分はちゃんとカラフルな紙袋を選んでシールを貼っている。メイベルも良いお姉ちゃんなのだった。

*当日の景色*
二月十四日、早朝。ルイゼンは覚えのある状況に頭を抱えていた。
「ゼン君、おはよう」
寮の管理人に呼び出され、玄関へ向かうと、リチェスタが手を振って待っていた。
「……リチェ、お前また学校」
「今日は大丈夫! 余裕持って来たから、ちゃんと自分で間に合うよ。どうしても誰よりも早く渡したかったんだ」
まったく、逞しくなったものだ。いったいどこの誰から影響を受けたのだろう。差し出された包みを受け取って、しかたないな、と笑う。
「ありがとな。どうせだから送っていくよ。支度してくるから待っててくれ」
「! うん、待ってる!」
ぱあっと咲いた笑顔は、やっぱりまだ幼くて、なかなか彼女の気持ちには応えられそうにないけれど。

予想外に可愛い包みを、予想外の人物が「ほら」と押し付けてくる。怪訝な表情をしたフィネーロを、メイベルが不機嫌そうに睨んだ。
「なんだ、いらないのか」
「いや、わざわざどうも。君から物を貰うのが珍しすぎて驚いただけだ」
「ただやるわけじゃない。これはイリスと充実した時間を過ごした私からの自慢だ」
そういえば、女子で集まってチョコレートを作るのだと言っていた。まさかメイベルが、弟妹たちの分以外を用意しているとは思わなかったが。
「……それとだな、今すぐ食って感想を教えろ。カリンのところへ届くのが明日になってしまうらしい。慣れないことをしたから多少は不安なんだ」
さらに貴重な台詞だ。あのメイベルが不安とは。驚きながらも包みを開ける。チョコレートに浸けたイチゴをその場で口に放り込む。甘酸っぱさが広がって、そしてやはり、メイベルらしくないな、と思った。
「どうだ」
「美味いよ。だから堂々としていろ。だいたい、君個人で作ったものじゃないんだから、自信がないというのは失礼にあたるんじゃないか」
「自信がないとは言っていない。美味いならそれで良い。信じるぞ、フィネーロ」
幼馴染にこんなに驚かせられる日が来るとは、夢にも思っていなかった。少しは変わっているのだろうか。彼女も、自分も。
残りは少しずつ食べて、しばらく感動を噛み締めていようか。

所変わってレジーナのとある警備会社。人材採用の基準が少々変わっているここは、社員にとても寛容だ。しっかり仕事をしてくれさえすれば、本人の代わりに荷物を受け取ることになっても、何も文句は言わない。
「ヤンソネン、君宛てに届けものだ。食品らしいから、すぐに開けたほうが良い」
「はあ、食品ですか」
ほぼ地顔のうっすらとした微笑みで、ウルフは上司から荷物を受け取った。そして言われた通りに、その場で開封する。もちろん差出人は、ほんの一瞬で確認済みだ。
赤い滑らかな手触りの素材の、小さな箱が現れる。開けるとチョコレートのかかったフルーツとトリュフが少しずつ、綺麗に並んでいた。彼女はこんなこともできたのか、と感心する。
「これは将来が楽しみだな」
「あ、ウルフ君、そのチョコ誰に貰ったの? なんか、昔先輩が奥さんに貰ったって自慢してきたやつに、ちょっと似てるわ」
ウルフよりも先輩にあたる、女性社員が覗き込む。「先輩が持って来たのはもっと豪華だったかもだけどね」と言いながら、自分もウルフの机に市販のチョコレートを置いていった。礼を言うと、「来月三倍返しね」と冗談交じりに返される。
さて、彼女にも三倍にして返すべきか。例えば夜中に部屋に忍び込むとかして。
「そんなことしたら、怒られちゃうな」
捕まえるのは嫌だ、と言われそうだから、別の案を考えるとしよう。幸い、時間はたっぷりある。

柑橘のオレンジや黄色、イチゴやリンゴの赤、青や紫の小さな実。そしてちょっと背伸びしたトリュフが、可愛い袋に一つずつ入れられている。去年まで母がくれたちょっと高そうなチョコレートもたしかに懐かしいけれど、これはこれで宝石のようで、なんだかエイマルらしい。
「こんなにたくさん、いいの?」
尋ねると、花のような笑顔と頷きがあった。ふわりと甘い匂いもする。
「もちろん! ニール君のお母さんには及ばないかもしれないけど、あたしにできる精一杯をやったつもり。だったら全種類食べてもらわなきゃ損じゃない?」
「なんだか、すぐに食べちゃうのがもったいないくらいきれいだから。ありがとう、エイマルちゃん」
すぐに食べるのも、独り占めするのも躊躇われる。だからニールはその場で二つ封を開けて、一つをエイマルの口もとに差し出した。
「はい。一緒に食べよう。友達と食べたほうが、きっともっと美味しいよ」
母がいた頃もそうだった。結局は二人でチョコレートを食べて、美味しいね、と笑いあったのだ。もう母はいないけれど、友達とそうしなさい、と言うに決まっている。
エイマルはきょとんとしていたけれど、そのうちにんまりして、ニールの手からぱくりとチョコレートを頬張った。
「……うん、美味しい。これね、おじいちゃんが下宿のおばあちゃんに教わって、お母さんに教えたレシピなの」
ニールももう一つをそっと口に入れる。舌の上に、優しい甘さが広がった。
「そうだね、とっても美味しい。これはお返し、頑張らなくちゃね」
「お返しとかいいよ。それより、これからもあたしと仲良くしてくれたら嬉しいな。ニール君は、あたしの親友なんだから」
初めての、母以外からのバレンタインチョコレート。初めてできた、親友。母に、それから今の親たちに、報告したらとても喜んでくれるだろう。

大総統執務室では、ガードナーが紅茶ではなく、ココアを用意していた。イリスにもマシュマロを浮かべたものを出してくれる。これがたいそう甘くて、事務仕事といくらかの緊張で疲れた脳に効く。
「おいしー……。執務室でこんなの飲んでるって知られたら、みんなに恨まれちゃうよ」
「そのときはみなさんにもご馳走します」
「レオなら本当にやりそうだ。サービスはほどほどにね」
レヴィアンスは喋りながら書類を片付けている。ときどきちらりと見える左手の薬指に、指輪が光る。宝石も何もない、ただの銀細工だ。仕事の邪魔にならないようにわざとそうしたと言っていたが、必ずつけているところをみると、やはりまんざらでもないらしい。
ガードナーにそう言ったときは、閣下はいつ誰が訪ねて来ても対応できるようにしているのだと言うでしょうね、と笑っていたけれど。
「レヴィ兄、エトナさんからチョコ貰った?」
「忙しい人に期待はしないよ。オレもお返しの約束できないし」
処理が済んで溜まった書類を取りに行く。これをバインダーに綴じるのがイリスの仕事だ。でもそれだけなら、いつもと同じ。今日はちゃんと感謝を伝えると決めた。
「堂々と期待していいのに。わたしはさ、もうちょっとレヴィ兄から素直になってあげたらいいのにって思うよ」
「オレはいつでも素直だよ。嘘は得意じゃないし」
「そういうことじゃない。……これ、あげるよ。食べたらレヴィ兄だって、素直になれるよ」
周りが思うより、あたしたちはお互いを好きよ。エトナリアはそう言っていた。それが真実だと、イリスはわかっていてもなかなか認められなかった。認めたつもりで、受け入れたつもりでいても、実感はなかなか湧いてこなかった。
だったらこちらから、きちんと見ようとすればいい。それはイリスの得意なことで、けれども今まで避け続けてきたことでもある。自分の全てを認めてくれたこの人のことを、自分も認めよう。
赤い箱を机に置き、手をそっと離す。
「いつもありがとう、レヴィ兄。それから、おめでとう」
何が、とは言わない。言う必要はない。全部としか答えようがないものを、今更説明するつもりはない。
レヴィアンスは手を止めて、イリスを見ていた。その瞳を、真っ直ぐに。
「……ありがと」
そうして顔をほころばせ、イリスの頭をくしゃりと撫でた。その手は昔と変わらない温かさで、この人はいつまでもこの人のままなのだということが、どうしようもなく嬉しかった。



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2017年02月10日

恋の約束

午後の大総統執務室。レヴィアンスは自分の椅子に座り、客用のソファには大総統付記者のエトナリアが座っている。ガードナーは紅茶を淹れてから執務室を出て行った。
「レオナルド君が用事なんて珍しいわね。レヴィ以外のことに興味ないのかと思ってた」
カップに触れながら、エトナリアが笑う。
「そんなことないよ。レオだってここ以外での仕事はある」
「冗談よ。それより、事件の顛末についてコメントを。それを書くのがあたしの仕事」
「……続けられるの、仕事」
カップがソーサーに当たって音をたてる。ちょっと不機嫌になったな、とわかった。
「まだ、今のところは。でもお見合いの日取りは設定されちゃったから、一応顔は出さなきゃね。お互い断れば不成立になるんだから、そうしたら上司も納得するでしょう」
早口に語られる状況。それより、と仕切り直される場。まずは仕事をすべきだろう。けれども、そのあとはずっと考えていたことを話さなければならない。そのためにガードナーは出て行ったのだ。
「本当に国の資産を増やすなんて思わなかったわ。まだ本決まりじゃないでしょうから、そこは書かないけどね」
「うん、厳密に言うと国の資産じゃないし、このあとまだ片付けなきゃいけないことがあるから、発表の時期はこっちで決める。うっかり口滑らせんなよ」
「優秀な記者ですからそんなことはしません。だから人身売買組織の検挙については、たっぷり聞かせてちょうだい」
にんまり笑ったエトナリアに、レヴィアンスはにやりと返す。
「本当に仕事に貪欲だな、お互い」
考え事は、一旦隠して。

少女誘拐事件からの延長で、人身売買組織が検挙された。最近の女性や子供の行方不明事件のうちいくつかに関連しているとみられ、その捜査が続いている。組織が拠点としていた場所からは人体の一部とみられるものが多数発見され、現場に入った軍人の何人かはその日の夕食と翌日の朝食を摂れなかった。
組織は単なる人身売買だけではなく、人体を「殖やす」事もしていた。かつて大陸中で問題となっていた裏の技術、クローンの生成である。見つかった臓器や四肢などの半数は、誘拐した人間を元として、そこでつくられたものだった。
組織がイリスを狙った理由は、もちろん彼女の眼にある。洗脳して裏の手駒とするもよし、特別な力を持つ眼を殖やす実験をしてもよし、いずれもかなわないならいっそ潰して脅威をなくす。これはこの組織だけの目的ではないらしく、裏社会の多くの者の狙いだという。つまりは今後も油断できない。
「情報過多で倒れそうだけど、閣下の頭の中はこのレベルのものがいくつもあるんだよな。本当に凄いよ、あの人。現場での指揮もかっこよかったし」
時間は少し遡り、始業直後の情報処理室。溜息を吐きながらのルイゼンの話を、フィネーロは黙って聞いていた。目はディスプレイに向かい、手はキーボードを打ち続けている。いつものスタイルだ。
「検挙と聴取で、ウルフからの情報の裏付けもとれた。で、あいつが組織とは現時点では関係ないこともはっきりしたよ。でも……」
「危機は去っていないし、そもそもあいつをイリスに近づけたくないんだろう。とられるから」
「そういうことだけズバッと言うなよ」
昨日は夜遅くまで現場に出ていたので、本来なら午前休みをもらっているルイゼンだ。それをわざわざ通常業務のフィネーロについてきてぼやいている。フィネーロからすれば少々迷惑なのだが、今回一番苦労したリーダーの言うことなら聞いてやろうと、こうして耳だけ貸しているのだ。一言くらいの毒は吐いても罰は当たらない、と思う。
「当分は会えないはずだけどな。イリスはとりあえず謹慎だって、閣下が。もちろん無断外出はできないし、メイベルだって見張ってる」
「謹慎か。メイベルは嫌がるんじゃないか。勝手に大嫌いな人間と出かけて、軍人としてあるべき行動をとらなかったイリスを、あいつは許せないはずだ。となれば寮にはいられない。おそらくは……」
たん、と最後のキーを叩き、フィネーロは手を止めた。言わんとすることはわかったので、ルイゼンもそれ以上は聞かずに、眉を寄せながら頬を掻いた。
「それはそれでちゃんと監視がつくから、かまわないだろうけどな」

同じ頃、イリスはすでに寮の部屋を追い出されていた。メイベルが「世話などいらん」「今は顔も見たくない」と癇癪を起こしたのだ。――いや、そう言っては失礼だ。彼女の怒りは、イリスからすれば正当なものだった。
「ベル、お腹の包帯はちゃんと換えなよ。本当なら入院しなきゃいけないんだから」
「うるさい! さっさとどこかへ行け!」
駄目押しでドアの向こうに話しかけてもこの調子だ。おとなしく引き下がったほうが良い。共同電話からレヴィアンスに確認すると、自宅謹慎でも良いそうだ。「信じててやるから真っ直ぐ帰れよ。カスケードさんには連絡しておく」だそうなので、最短距離で帰らなければまた騒ぎになる。
そういうわけで年始以来で実家に帰ると、玄関で迎えたのは母だった。昔、こっそり家を抜け出して遊びに行き、帰ってきたときと同じ表情をしている。怒りと心配が入り混じったものだが、今回は怒りの割合が多いだろう。
「このおばか! 全部レヴィ君から聞いてるわよ。ニールとエイマルちゃんまで巻き込んだんですってね! 私はあなたをそんな子に育てたかしら?!」
「こんなふうには育てられてません、わたしが勝手に育ちました。本当にごめんなさい、お母さん」
両肩を掴まれ揺さぶられ、何度目かの謝罪を述べる。ニールにも謝りたいのだが、今のところそれは許されていない。ただ、エイマルが無事だということは伝わっているらしい。
「謹慎が解けるまではこっちにいるんでしょう。深く反省しなさいね」
「はい……」
やっと家にあがると、微かに紅茶の香りがした。こんなときでもお茶を淹れてくれるのか、と思って台所を覗くと、父が二人分のカップを運ぼうとしているところだった。
「……お父さん、ただいま」
「おかえり。荷物を置いて座れ」
素っ気ない返事だ。いつもなら笑顔で迎えてくれるのに、そんな気配は微塵もない。当然か、と言われた通りに自分の席に座った。父は紅茶を置いてから、その正面に着く。
「レヴィが一通り説明してくれたから、何があったかはわかっている。その前にルーファからも電話があったしな。子供たちに大きな怪我がなかったのは不幸中の幸いだということは、理解しているな?」
「わかって……ます。わたしがしたことがどれだけ最低か。ベルにはしなくてもいい怪我をさせるし、一般の人たちの楽しみも奪いました。水族館にも迷惑かけました」
「損害面はちゃんとわかってるな。シィが玄関でもう叱ってたから、俺はこれ以上は叱ったりしない。そのかわり、この後イリスがどういうことになっても、俺は助けない」
低くゆっくりと告げられる言葉は、これまでに聞いたどんなものよりも重かった。「はい」と頷いてから飲んだ紅茶が、舌に沁みる。今日のはちっとも甘みがない。渋みが強い種類なのだろうが、それにしたっていつもならもっと美味しく感じるはずだ。兄と同じで、父はお茶を淹れるのは得意なのだ。
今までどんなことがあっても、何かしらのかたちで助けてくれた父が、「助けない」と言った。だったら本当に手を出すことはないのだろう。
「エイマルちゃんが攫われたとわかったとき、怖かっただろ」
「うん」
「ニールが泣いたとき、胸が痛かっただろ」
「うん」
「それを二度と忘れるんじゃない。これからも軍人であり続けるとしても、そうでなくなったとしても」
軍人で、なくなったとしても。一瞬考えて、さすがにそうはならないだろう、なったとしてもどうにかならないだろうか、と軽く扱ったことが現実味を帯びている。改めて軍人でなくなった自分を想像しようとしたが、できなかった。未来は真っ暗だ。
ただ、父に言われたようなことは、死んでも忘れられないだろうと思う。
お茶の時間は静かに終わり、イリスは自分の部屋に引きこもった。部屋は常に整えられている。いつ帰ってきてもいいように。誰かを連れてきて泊めても問題がないように。助けないとは言われたが、愛情までは失われていない。それを実感した瞬間に、涙があふれてきた。何年ぶりかで、声をあげて泣いた。


「あらまあ、不細工な顔。とてもカスケードとシィレーネの子だとは思えないわよ」
夜になっても引きこもっていたイリスに、鈴のような声で容赦のない言葉が降りかかる。この家に居候しているが、普段は仕事でほとんど外にいるラヴェンダ・アストラだ。ニアとはあまり折り合いが良くない彼女だが、イリスは姉妹のように思っている。少しくらい厳しい言葉も、いつもなら平気だ。だが。
「そうだね、この状態じゃインフェリアを名乗るのもおこがましいよね」
「気持ち悪いくらい落ち込んでるわね。だいたいの事情は知ってるけど、そこまで思い詰めるようなこと? 私なんかあんたに暴力振るってもここに図々しく居座ってるのに」
それは父が許したからだ。刑罰を終えて住む場所がなくなったラヴェンダを、父はインフェリア家で預かると言った。服役中の彼女の父が戻ってくるまでという期限付きで。
「それもそろそろ終わりだけどね。春になったら、この家ともお別れよ」
「え、なんで? アストラさん、もう出てこられるの?」
「違うわ、私の都合。おかげさまで次の行き先が決まったの」
ラヴェンダがかざした白い左手に、イリスは落ち込んでいたのも忘れて見入った。その薬指に、指輪がある。宝石が一つだけついた、シンプルで細いものだが、それが意味するところは重大だ。
「うそ、ラヴェンダ、結婚するの? それともわたしが知らないうちにしちゃった?」
「言ったでしょう、春にするのよ。おかしいわよね、記憶の年齢はとっくにおばあちゃんの私を、ホリィはお嫁さんにしてくれるんですって」
イリスの知人で兄の先輩でもあるホリィと、ラヴェンダが長く交際を続けていることは知っていた。それがついに結ばれるという。イリスは思わずラヴェンダの手を取った。
「良かったね、ラヴェンダ! すごくいい報告じゃん、もうお父さんたちには話したの?」
「話そうと思ったら辛気臭い顔してるんだもの。訊けばあんたが謹慎処分で帰ってきてるって言うじゃない。盛り上げてくれないと気分悪いから、先にあんたに言うことにしたのよ」
「てことはまさに今日プロポーズされたの? うわあ、こんな嬉しいことってないよ。ラヴェンダが幸せになれるなんて、インフェリア家代々の念願がようやく叶うんだね!」
「代々って……私が関わったのはあんたの曽祖父の代からよ、そんなに昔じゃないわ。全く、さっきまで不細工な顔でしょぼくれてたのが、急に元気でうるさいイリスに戻っちゃって」
クスッと笑ったラヴェンダは美しかった。見た目は十代後半の少女だが、その記憶はとうに百年分を超えた記憶継承クローンの彼女。幸せを望むあまりに凶行に走ったこともあるが、やっと本当に幸福を掴めるのだ。きっとこれまで彼女に関わってきた誰もが、この笑顔を見たかっただろう。
「ね、ホリィさんになんて言われたの?」
「あんたでもこういうこと興味あるのね。てっきり軍とニアにしか関心ないのかと思ってたわ」
「わたしもいろいろあってさ。乙女心が分からなくてリチェとすれ違ったりね」
二人でベッドに並んで座り、イリスはラヴェンダの惚気に耳を傾ける。プロポーズはいかにも熱血なわりに器用でスマートなホリィらしいもので、イリスでも想像が容易だった。こっちまでにやけてしまう。語り終えたラヴェンダは満足気に指輪を眺めながら、「で?」と言った。
「あんたはどうなの。相変わらず初恋もまだなの?」
「初恋はお兄ちゃんだってば」
「やっぱりそれ、カウントするの? ニアじゃなくてレヴィアンスとかルーファだったりしない?」
「レヴィ兄はそういうのじゃないって。ルー兄ちゃんも、そんなの考えたこともないよ。……そもそも、恋とかよくわかんなくて、リチェとすれ違ったんだし」
わかんないのにニアが初恋だって言い張るのね、とラヴェンダは呆れていた。それから何か考えながら、私の場合は、と歌うように語り始める。
「その人を見たとき、胸が高鳴った。その人を想えばいつだって幸せな気持ちになって、安らいで、何をしてでも一緒にいたいと考えるようになったわ。たとえ罪を犯してでも、彼の側にいたい。それで結局、本当に罪を犯しちゃったわけだけど」
たとえ罪を犯してでも、一緒にいたい。その言葉にイリスはどきりとした。すぐに思い浮かんだのは、あの真意の見えない笑顔。そして謹慎の原因となった、自分がしでかした一連のこと。
イリスはおそるおそる口を開いた。
「あのさ、ラヴェンダ。もし、会っちゃいけないって言われたのにどうしても会いたくなって、本当に会いに行ったり、隠れて一緒に出掛けたりしたら、……その相手に抱きしめられたり手を繋いだりしたらどきどきして、他の人にそうされるのとは違うなって思ったら。それは、恋、ってやつなのかな……」
言うだけで恥ずかしい。それが大きな過ちに結び付くのだから、本当に恥だ。ラヴェンダにも「はあ? 何言ってんの、馬鹿じゃない?」くらいは言われるかと思った。
だが反応は違った。隣に座る彼女はぽかんと口を開け、イリスの顔を見つめていた。
「……ラヴェンダ? どうしたの?」
「いや、どうしたのじゃないわよ。こっちが言いたいわ。あんたどうしたの? 何があったの? そんな具体例出してくるんだから、誰かとそうなったってことよね?」
堰を切ったように溢れ出る疑問符が、イリスを押しつぶさんばかりの勢いで降りかかってくる。何から言えばいいのかわからなくなって、ただ一言だけ「ありました」と答えたら、ラヴェンダに思い切り背中を叩かれた。今までに見たこともない、いい笑顔で。
「やだ、そういうことはもっと早く言いなさいよ! カスケードとニアには内緒にしておいてあげるから! で、恋の相手は誰? やっぱりレヴィアンス? それともルイゼンかしら。意外とフィネーロ、大穴であの粘着質女だったり?!」
「いや、なんでその名前が出てくるの……。ていうか相変わらずベルのこと好きじゃないんだね」
該当する人物をラヴェンダは知らないから、適当に知り合いの名前を並べたのかもしれない。しかし、何はともあれ、これはたぶん恋なのだ。そしてその気持ちを、イリスはコントロールできなかった。そういえば恋は盲目なんて言葉もあったなと、そしてそれはなかなか自分をよく表しているのではないかと、イリスはしみじみ納得した。

翌日、お祝いムードのインフェリア家をレヴィアンスが訪ねた。イリスのことがあったのにどうして、という疑問はすぐに解消され、はたしてそれを壊してしまうのはどうかと話を切り出すのは躊躇われた。
だが、言わねばなるまい。本来なら大総統執務室に呼び出して言うべきところだが、今回はカスケードもいるこの家のほうがいいだろう。
「イリスの処分を正式に決めたよ」
出されたお茶で喉を潤してから、告げる。イリスは姿勢を正し、真っ直ぐにこちらを見ていた。もう覚悟はできているようだ。
「降格はない。ただし、今後すぐに階級を上げることもない。最低でも一年は中尉のまま留まってもらう。このままだとリーゼッタ班では一番下になるね」
近いうちにリーゼッタ班全員を昇格させるつもりだった。今回のことがなければ、イリスも一緒に大尉になるはずだったのだが、それはなくなってしまった。大総統暗殺未遂事件で上げた功績が丸ごとなくなったようなものだ。
ことあるごとに昇格を望んでいたイリスはさぞやがっかりすることだろうと思っていたが。
「……それだけでいいの?」
「だけって、結構なペナルティーだと思うけど。大総統補佐がいつまでも階級上がらないんじゃ、周りからの風当たりも気になるだろうし」
「軍どころか、補佐も辞めなくていいの? レヴィ兄、正気?」
どうやら、レヴィアンスはイリスを侮っていたようだ。閣下が思うよりいろいろ考えているかもしれませんよ、というガードナーの言葉が思い出される。たしかにそうだ。今回のことを、イリスはちゃんと受け止めている。
「正気だよ。ちゃんとレオとも話し合って、ルイゼンにも報告した。カスケードさん、これでいいかな」
「レヴィがそう決めたならいいんじゃないか。階級保留で、監視しながら扱き使うってことだろう」
「なるほど、そういうことか。だったらちゃんとペナルティーだね」
カスケードの説明でようやく処分に実感がわいたのか、イリスは何度も頷いていた。ルイゼンなどは「イリスを補佐にし続けるのは閣下が不利なのでは」と疑問を呈していたが、これでいい。最初から彼女の軍人としての人生に責任を持つつもりで、補佐に抜擢したのだ。これが不利だというのなら、レヴィアンスの監督不行き届きでもあるのだから、甘んじて受け入れる。
「典型的な悪い報告と良い報告ってのをやろうと思ったけど、これじゃイリスにとってはどっちも良い報告だな」
「え、まだ何かあるの?」
「ウルフのことでね」
名前を出すと、途端にイリスは固まってしまった。処分を告げるときより緊張しているようだ。イリスならこっちのほうを気にしていたとしてもおかしくはないが。
「……どうなるの、あいつ」
「本人はどうにもならないよ。今まで通り働いて普通に生活してもらう。でも何かあったらまず疑われるだろうね。今回の件も、どうやら組織に潜入して潰すつもりでいたようだから。軍に情報を渡して調査を持ちかけたのも、肝心の本拠地を見つけてほしかったってのが真相。本人曰く、だけど」
「そっか……」
イリスが信じていたうちのいくらかは、やはり裏切られていた。だが実行に移さなかっただけいい。おかげで今回の件については無罪放免となった。そして。
「それからバンリさんだけど、レジーナの病院に移ってもらったよ。病気もちゃんとした方法で治せる。裏組織が動いてると、正しい治療法があるのに不当な利益のためにそれを邪魔されたり、より良い治療法を適用する妨げになるからね。だからウルフは動いてたんだ」
「本当?! そっか、それならいいんだ。やろうとしたことは無茶だけど、組織に協力しようとか、裏から治療を都合しようとか、そういうわけじゃなかったんだね。ウルフがそんなことするはずないもん。バンリさんも助かるなら良かった」
やっと嬉しそうな顔が見られた。少しは裏切られたかもしれないが、だいたいはイリスが信じていた通りなのだから、安心しただろう。
でもそれだけじゃなさそうだ、と気づいても、レヴィアンスは言わなかった。カスケードがいる前で、迂闊なことは口にできない。事情はもう話してあるから、わかっているかもしれないけれど。
「もう一つ、これはカスケードさんへの報告だね。今回の人身売買組織の検挙をきっかけに、裏で働いている闇医者とか、発達した生体技術関係とかの把握が進みそうなんです。今まで裏の技術だからと長いこと実用できなかったことを、オレが大総統をやっているうちに堂々と正しく使えるようになるかもしれない。まだ確定してないから、公表はできないんですけど」
「それはいいな。そのことで惜しい思いをした人はかなりの数いるから、早めに進めてほしい」
これはまだ時間がかかりそうだが、もう「国の資産が増える」という表現でエトナリアには明かしてしまっている。宣言したからには確実に前進していかなければ。
それから――いや、これはまた後日でいいだろう。今日の仕事は終わったことにして、レヴィアンスはインフェリア邸を辞した。
イリスの謹慎はまだ解いていない。けれども長くはしないつもりだ。

その日の夕方には、インフェリア邸は実に忙しなくなっていた。ラヴェンダの婚約祝いということで、カスケードが人を呼んだのだ。だが、それだけではないだろう。父はイリスを助けないと言ったが、気遣っていなければ、ラヴェンダとはほぼ無関係のエイマルたちダスクタイト家の人々まで呼ばない。
「黒すけのとこには、うちの娘が迷惑かけたからな。俺からの詫びってことで」
「お前が詫びてどうすんだ。エイマルは喜んでるからいいけどよ」
そんな会話が玄関で交わされていたのを、イリスは宴会の準備をしながら聞いていた。父との話が落ち着いた頃に、彼らに駆け寄って頭を下げる。
「ブラックさん、イヴ姉、エイマルちゃんを危ない目に遭わせて、本当にすみませんでした! もう二度とこんなことにならないように気をつけます! 今度こそちゃんと、エイマルちゃんを守り抜きます!」
二度と会わせてもらえなかったらどうしよう、とまで考えた。味方をしてくれると言ったダイはともかく、普段からエイマルの世話をしているグレイヴとブラックには許してもらえないのではないかと。
でも、それは嫌だった。エイマルとはこれまで通りに仲良くしたいし、グレイヴとブラックは頼りたい先輩だ。イリスがこれからも裏組織の標的であり続け、一緒にいる人が危険にさらされるとわかっていても、彼らとの交流を諦めたくなかった。
どれくらいの時間、そうしていただろうか。もしかしたら数秒だったかもしれないけれど、イリスにとっては長かった。
「顔を上げなさい」
グレイヴに言われて、勢いよく頭を上げた。すると頭頂部に手刀が入った。結構痛いが、これがまた懐かしい。他人の子だろうと悪いことをすれば容赦しないグレイヴには、昔からよくこうやって叱られたものだった。
「……イヴ姉のチョップ、久しぶりだね」
「そう? ここ数日でかなり繰り出したから、アタシはそんな感じしないわよ。……それより、ちゃんと約束しなさいよ」
「約束?」
「たった今自分で言ったでしょう、エイマルを守り抜くって。もう会わないなんて言ってたら、これじゃ済まなかったわ」
ということは、これまで通り会ってもいいのか。ブラックに視線を移すと、それを肯定するように頷きが返ってきた。
「勝手に突き放すって決められるよりずっと良い。エイマルもお前と一緒に遊びたいだろうから、これかも頼む」
「はい!」
今度は絶対に。軍人としてだけではなく、エイマルの「お姉ちゃん」としても、しっかりしよう。認めてもらえるのなら、応えなければ。決意を込めた返事を聞いたかのように、エイマルが玄関から早足でやってきた。手には新聞紙に包まれた大きな塊を抱えている。
「イリスちゃん、見て! ラヴェンダさんのお祝いに、お父さんのお肉持ってきたんだよ!」
「え、ダイさんの? 削いだの?」
「削ぐわけないだろ。向こうで獲ってきたんだよ」
一緒にやってきたダイも、エイマルの持っているものより一回り大きい包みを手にしていた。父も覗き込んで、懐かしい土産だな、と笑う。
「休みも明日で終わりなんで、今日呼んでもらったのは良かったです。ラヴェンダのお祝いと、それからイリスと一緒になって暴れたお詫びってことで」
「そうか、せっかくの休みなのに悪かったな」
「俺は娘たちの成長を見られて、良い思い出になりました。な、イリス」
肉を受け取りながら、ふと思う。ダイは今回、ずっとそう表現していた。それはつまり。
「ずっと気になってたけど、娘たちって言い方、もしかしてわたしも入ってるの?」
「年齢だけなら親子くらい離れてるだろ。それにお前、俺のことは兄扱いしてないし」
素直に喜んでいいのかどうかは微妙なところだが、大切に思われているのだろう。それも実の娘であるエイマルと並べられるくらいに。とりあえず、ありがとう、と返しておいた。
台所仕事にグレイヴも参加してくれ、料理が揃った頃に兄がやってきた。「ただいま」という声はイリスまで聞こえたが、それがすでに笑っていない。今回はイリスにとって怖いことがたくさんあったが、やはり兄が一番怖いことには変わりない。自分が悪いから、仕方ないのだけれど。
「今日はあからさまに機嫌悪くしてるわね。大丈夫?」
グレイヴもさすがに心配になったようだ。ぎこちなく頷いたイリスの隣で、母が困ったように笑う。
「ニアは怒鳴ったりしない分、どこまで怒ってるのかわからないのよね」
「笑い事じゃないよ、お母さん……」
今までで一番怒っているのではないだろうか。ニアは自分のことよりも、近しい他人の傷に敏感だ。ニールを泣かせたことで、今度こそイリスと口をきかなくなるかもしれない。謝っても許してもらえないのは覚悟の上で、イリスは兄のもとへ向かった。
兄は先にダイたちに挨拶をしていた。ルーファも一緒にいる。ニールはエイマルに飛びつかれていたが、笑顔がどこかぎこちなかった。――せっかく最近は、明るく笑えるようになったのに。
「……あの、お兄ちゃん」
おそるおそる話しかける。だが、兄の表情は見えなかった。その前にルーファがこちらに気づいて大股に歩いてきて、イリスの正面に立つなり頭に拳骨を落としたからだ。痛みに頭を押さえようとすると、今度は怒鳴り声が降ってくる。
「イリス、お前ニールを誘った時なんて言った?! あいつの誕生日祝いだからって、そう言ったよな。それがなんだ、あんな事件に巻き込んで! どうにもおかしい誘い方すると思ったら、最初から子供たちを利用する気だったのか!!」
周りがみんな静まりかえる中、ルーファの言葉がイリスに深く刺さった。そうだ、子供たちを自分の我儘を通すための口実にしようとした。そうして事件に巻き込んだ。現に誘拐されたエイマルだけではなく、もうたくさん怖い思いをしているはずの繊細な少年を傷つけた。
「利用、しました。せっかくニールがこっちに来て、初めての誕生日のお祝いだったのに。わたしがそれを台無しにしました」
イリスが認めると、深い溜息が聞こえた。イリスを殴ったその手で、ルーファは自分の頭を抱えている。
「反省をどう表すつもりだ。俺は謝ればチャラに、なんて甘いことは考えてないぞ」
「チャラになんてできないよ。そんなのわかってる。……でも、どう表したらいいかな。わたしね、エイマルちゃんと同じく、ニールのこともこれからちゃんと守るって言うつもりだった。だけどそんなの、ルー兄ちゃんは、きっとお兄ちゃんも、信用できないよね」
グレイヴたちは優しかったのだ。エイマルが逞しいこともあるだろう。けれども本当なら、これくらい怒られて当然なのだ。これこそが普通の反応だった。反省の表し方を問われても、何をしても許しては貰えない気がして、すぐには思いつかなかった。
「ごめんなさい。ニール、ごめんね。わたし、初めて会ったときからずっと、あんたを傷つけてばっかりだ。怖い思いをさせて、泣かせて、それなのにまたお姉さんぶるなんて、虫が良すぎるよね」
涙がこみ上げる。でも、泣いてはいけない。泣いたって何も変わらない。自然に目のあたりに力が入ってしまう。――ああ、これじゃあ、ニールの顔を見ることすらできないな。
「イリスさん、こっち見てください」
いつの間に近くに来ていたのか、ニールの声がした。目を閉じたまま首を横に振ると、手を握られる。
「お願いです。僕を見て。……僕、怒ってませんし、もう泣いてもいません」
「そっか、ニールは強くなったね。でもわたしの眼は見ないほうが」
「目を開けて。お願いします」
懇願されて、思わず瞼が開いた。眼を制御できていないのはわかっている。でも、目の前の子供は少しも怯えていなかった。具合悪そうにもしていない。
精悍な顔つきの少年が、そこにはいた。
「……ね、僕、泣いてないです。事件の時だって、僕が泣いたのは自分の無力さが悔しかったからで、イリスさんの所為じゃありません。だからルーファさん、もういいですよね。ちょっと叱るかもしれないとは聞いてましたけど、手をあげて怒鳴るなんて思ってませんでした。いつも優しいのに、どうしてこんなことを」
傷つけたと思っていた。ただでさえ繊細なのだから、と。しかしニールは、イリスを庇おうとしていた。世話になっている人を、静かな目で見つめて。
しばしの静寂の後、突然誰かが吹き出した。
「ルーファ、お前……っ、頑張りすぎだろ……! たしかにこういう役は、ニアにはやらせたくないよな。いやあお見事!」
「ダイさん? え、なんで笑うの? ここ笑うとこ?」
真っ白だったイリスの頭が、途端に疑問符で埋め尽くされた。グレイヴが呆れ顔で諌めようとするも、今度は母が笑いだしてしまう。イリスとニールは思わず顔を見合わせた。やはりニールに、怯えはない。きょとんとしているが、顔色も良かった。
ニールに眼が効かないことも含めて混乱しているイリスに、ルーファの諦めたような声が届く。
「もうちょっと間を持たせてくれれば良かったのに。ダイさんがいるとこういうことになるからな」
「ルー兄ちゃん、どういうこと?」
「怒ってるんじゃないんですか?」
「怒ってたよ。怒ってなきゃこんなことするもんか。くそ、ダイさんじゃなくてレヴィならもっと空気読んでくれただろうに」
「そんなこと言われても。傑作だったから報告はしておいてやるよ。……つまりだな、ルーファは憎まれ役を演じようとしてたのさ。ニールがイリスを庇うのも、もしかしたら計算の内だったかもな。だからこそニアより先に動いた。先に怒ってしまえば、それ以上のことはできなくなるだろうと踏んだ」
なるほど、とニールがルーファを見上げる。イリスはダイを見て、それからニアへ視線を向けた。
「……そうですね。ルーが派手にやってくれた所為で、僕は何もできなくなりました。でもさすがに拳骨はやりすぎ」
「やってからまずいと思った。イリス、頭へこんでないか」
「へこみはしないし、拳骨くらいいくらでも食らうつもりだったけど」
「ニールもびっくりさせたな。悪かった」
ルーファはすっかりいつもの調子だった。ちょっと気の抜けたニールを撫で、ニアに目配せしている。今度はニアが大きな溜息を吐く番で、それからイリスのもとへやってきた。眉を寄せてこちらを見る深海の色に、身が竦む。
「レヴィから連絡があったよ。階級保留だってね」
声は穏やかだった。ルーファに先を越されたせいで、怒るに怒れなくなってしまったのだろう。イリスも自然に、いつも通りの返事ができた。
「うん。軍を辞めさせられるかと思った。そうでなくても、大総統補佐はできないんじゃないかって」
「次はないって言ってた。僕も同じ。またニールが泣くようなことがあったら、きっとそれはよほどのことだろうから、ルーが先に何しようと容赦しないよ」
「その時は縁切られると思ってる」
「そうだね。今の言葉、お互い忘れないようにしようか」
重くて大事な約束だ。けれどもそれくらいでなければ、今のままのイリスではすぐに心が揺らいでしまう。エイマルを守り抜くこと、ニールを泣かせないこと。破れば自分の心も張り裂ける。しっかり憶えていて、これからを歩むと決めた。
「ところで、準備ってどこまで進んでるの。ラヴェンダがホリィさん連れてくる前に終わる?」
「終わらせる! うわ、予定の時間まであと十分しかない。お兄ちゃんも台所手伝って! あと食器運ぶだけだからお兄ちゃんでもできるよ」
「僕を何だと思ってるの。本当に反省してる?」
主役が来る頃には、何事もなかったように賑やかになっていた。笑顔が咲いて、門出を祝う。今からこんなに盛り上がってどうするのよ、たしかに盛り上げろとは言ったけどやりすぎだわ、と文句を言うラヴェンダは、やはり幸せそうだった。


宴の余韻が残って眠れない。人がいなくなると、広い家が急に寂しくなる。父が家に人を呼びたがるのは、この寂しさに耐えられないからだろうか。この家の人たちは、案外寂しがりだ。
ラヴェンダにもそれはうつったかもしれない。でも彼女には、その寂しさごと抱きしめてくれる人ができた。父には母がいて、兄にも新しい家族がいる。
――でも、わたしは。
布団に包まり、目を閉じる。頭ははっきりしていて、この数日のことをきちんと思い出せる。ちょっと衝撃が大きすぎたということもあるけれど。
もう一度目を開けて額に触れる。何一つとして忘れていない。そしてそれが信じて良かったものなのかどうかも、今では冷静に考えられる。考えて、答えを出せたことがある。
起き上がって、寝間着の上にコートを羽織る。部屋を出て、玄関まで降り、静かに扉を開けて外に出た。冷えた空気の中に立つ人物に、そっと近づく。
「風邪ひくよ」
「一度ひいたら、もう大丈夫でしょ」
「そういうものじゃないと思うけど」
ウルフが困ったように笑う。いや、いつも笑っているから、これはただの困り顔なのだろう。彼がここにいるのは、レヴィアンスの手引きによる。
まだ家が賑やかな時間に、電話がかかってきた。レヴィアンスはまだ大総統執務室にいて、仕事をしているようだった。
――今日だけ、夜間のインフェリア邸の警備を頼んだ。外に出ればウルフに会えるよ。
そんなことしていいの、ついこのあいだまで疑ってたくせに、と問い詰めた声は、自然と小さくなった。ニールだけがこちらへ振り向いたので、あの子には聞こえたかもしれない。
――無罪放免だし、あいつ警備員なんでしょ。仕事仕事。カスケードさんはちょっと自信なかったから、シィさんに許可取ったよ。
いつのまにそんなことをしていたのだろう。母もよく許したものだ。レヴィアンスは全部話したというから、本当に事の全てを知っているだろうに。そう言ったら、だからだよ、と返された。
――あいつと決着つけたいでしょ、イリスは。シィさんもわかってた。何かあればすぐにこっちが動くから、余計な心配せずに会うといい。会いたくなければ部屋にいて。
余計な心配をしているのはレヴィアンスのほうだろう。放っておいても良かったのに。言い返す前に、含んだような一言で締められた。
――お前が患うと周りにも影響あるからさ。
言葉の意味はとうとうわからなかったが、自分の性格を考えるとやはり引きずりそうだった。少しだけ迷って外に出てきて、決めたはずの答えをまた迷う。
「これ、使うといいよ。温かいから」
「いやいや、あんたのほうが寒いでしょ。ずっと外にいたんだから」
「僕は北国育ちだから大丈夫」
巻いていたマフラーを貸してくれ、手袋まで渡される。微笑みに負けて、そのまま借りてしまった。温もりに絆されそうになって、違う、と思い直す。言わなければならないことがある。そのために出てきたのだ。
「……バンリさん、こっちの病院にいるんでしょ。ちゃんと治せるって、レヴィ兄が言ってた」
「ああ、聞いたんだね。わざわざ軍医さんが連れてきてくれたんだ。色々厳しいこと言われたよ」
「だってあんたのしてること、やっぱり無茶苦茶だったじゃない。バンリさんの病気、治したかったら一緒に来ればよかったのよ。裏組織のことなんか放っておいて」
「長年調べてると、その癖が抜けなくて。それがバンリにも関係あることなら、そのままにしておけなかった。僕はやっぱり、普通には暮らせないみたいだ」
それはイリスも同じだ。関わってしまったものから手を離せない。たぶん軍を辞めさせられたら、世間一般にいう普通の生活はできなくなる。今がイリスの普通だからだ。同じように、ウルフにはウルフの「普通」があるのだろう。
「バンリと暮らすようになってから、探偵を始めたんだ。人捜しが主だったんで、調べていくうちに例の人身売買組織に辿り着いた。内情を知っていくうちに、バンリの病気のこともわかって。そしたら、もういてもたってもいられなかった。奴らの本拠地がレジーナ近辺だというところまで掴んで、お金が必要だったからこっちにきて仕事を探した。今の警備会社に来たのは偶然。縁が欲しかったっていうのは後付けの理由だ」
後付けでも、そこに留まる理由にはなった。全くの嘘ではなかった。
「街で事件があった日、わたしに会ったのは?」
「仕事が休みだったから、組織に関係ありそうな人間を追ってた。君を襲った人たちだよ。まさか狙われているのが君だなんて、そのときまでわからなかった。中央司令部に君たちがいることを思い出して、利用することを思いついたのも君に会った時。君たちが興味ありそうな情報を伝えて、君が関わるように仕向けた。……僕は、イリスを利用したかった。利用したくて君を呼び出し、自分の過去に同情させようとした」
それはたしかにうまくいった。ルイゼンやレヴィアンスに止められなければ、イリスは軍での捜査内容をそのまま話してしまうところだった。
「君がわざわざ会いに来て、情報はあげられないって言った時、そこで関係を切るべきだった。失敗したらそうするつもりだったんだよ。でも、できなかった」
「どうして」
「もっと会いたかったから」
ふわりと笑って言ったそれは、イリスと同じ気持ちだった。嘘ではなく、打算もなく、純粋な。
「一番最初の出会いから、君に惹かれていた。眼も美しいけど、僕のために必死になってくれたのが嬉しかった。僕よりも年下で、小さいのに、バンリみたいだって思った。水族館に行った時、昔話をしてくれたよね。君でも弱点があるんだなって初めてわかって、本気で愛おしいと思った」
少し前ならわからなかっただろう。でも今ならそれがなんなのか、たった一言で表す言葉を知っている。同じ想いを、イリスも持っている。
ただ、それを抱えるには、イリスはまだ幼すぎた。振り回されて、周囲に迷惑をかけてしまうくらいに。自分の立場を、仕事を、やるべきことを見失うほど、盲目だった。
「……ウルフの気持ちは、嬉しいよ。わたしもね、どうしてもウルフに会いたかったの。だからゼンやレヴィ兄の言いつけを破った。それで、大切な人を傷つけた。わたしは軍人だから、それ以前にあの子たちのお姉さんだから、何が何でも守らなきゃいけなかったのに」
この道を行くと決めた以上、それがイリスの最優先事項だ。あちらもこちらも立てるなんて、やはり無理な話だった。選ばなくてはならないときは、必ず来る。
けれども選択肢は、増えるし、増やせる。いや、実は無限にあって、それに気づけるかどうかが大事なのだ。だからイリスは、自分の気持ちを叶えるでも諦めるでもなく。
「今の私じゃ、大切な人をしっかりと抱きしめてあげることができない。だから、わたしがもうちょっと大人になって、恋をしてもちゃんと自分のやるべきことを見失わずにいられるようになったら。……そうしたら、今度はわたしから、ウルフに告白してもいいかな」
待っていてくれとは言わない。ウルフの気持ちが変わってもかまわない。ただ、イリスがそうしたいだけなのだ。我儘だとわかっていて、選び取った答えだった。
ウルフは一瞬だけ笑うのをやめ、目を丸くした。それからまた、満面の笑みを浮かべた。
「楽しみに待ってる。何年でも待つよ。執念深さで言えば、きっと僕のほうが上だからね。君の言葉、絶対に忘れない」
また一つ、約束が増えた。とても大切で、愛しい約束が。

インフェリア邸の様子がなんとか見える、住宅街の曲がり角の先。ルイゼンはそこで、ウルフを見張っていた。レヴィアンスが警備会社に連絡をとっているのを聞いたのだ。こっそり、ではなく、まさにその場面に居合わせた。
――ウルフを止めたかったら乗り込みなよ。
どうしてこの人を尊敬していたのか、わからなくなるくらいに、意地の悪い笑みだった。この人だってわかっているくせに。イリスが選んだのはルイゼンの言葉を受け入れることではなく、それを振り切ってでもウルフに会うことだった。
ウルフを監視するという仕事を受けたというかたちではあるが、ここに来たのは悪あがきだと自覚している。そして隣にいる仲間たちもまた、彼らなりにあがいているのだろう。
「メイベル、割り込まないのか」
「怪我を負っていなければ割り込んでいる。これも奴の策略じゃないだろうな」
「君はここに来ただけでも、十分な執念だろう。そして銃を持って来なかっただけ、ちゃんと現実を見ている」
「フィンだっておとなしいだろ。いつもおとなしいけど」
「僕には割り込む資格がない。イリスに余計なことを言って混乱させた責任がある。ウルフ・ヤンソネンはイリスにその答えを教えたようだ」
ルイゼンと、メイベルと、フィネーロ。イリスを想う者同士、抜け駆けせずにやってきたつもりだ。その結果が、自分の気持ちが伝わらないまま撃沈することになるとは思わずに。
そもそも、はっきり言わないと伝わらない相手だったのだ。みんなそれをわかっていたはずなのに、しなかった。四人での関係が心地よくて、それに浸ってしまっていたのかもしれない。
「私は諦めないぞ」
腹の怪我が痛むだろうに、メイベルは強い語気で言う。
「まだあの二人は付き合っているわけではない。物理的な距離と一緒にいる時間で見れば、私が一番イリスに近い。変態盗人からイリスを取り返してやる」
「喧嘩して追い出したくせに」
「腹が立ったのは事実だからな。で、お前たちはどうなんだ。このままイリスが盗人の手に落ちるのを見ているだけか」
イリスが好きになった相手なら仕方がない。ルイゼンはそう思いかけていた。ウルフが害をなす存在ではないとわかった今、それが一番良いことなのではないかと。けれどもメイベルはもちろんそんな満足はしない。
「……今回は引いたが、僕も簡単には諦められそうにない」
フィネーロも意外と執着するタイプだ。納得できればそれまでで手放せるのだが、イリスに関してはそうもいかないらしい。
「ルイゼンは? 僕は君には諦めてほしくない。僕らよりも長く彼女を想っていて、彼女のことをよく知っていて、それなのにいきなり出てきた男に掠め取られていいのか」
「私もルイゼンからなら奪い甲斐がある。はっきりしろ」
同志兼ライバルたちに詰め寄られ、ルイゼンはたじろぐ。イリスがウルフを好きなら、諦めるべきなのだろう。でもあんなに彼女を引き留めようとしたのは、仕事のためだけではない。ここに来たこともそうだ。だからつまり、ここで答えが出ないわけはないのだ。
「諦められるかよ。こちとら十二年追いかけてんだ」
絞り出すような言葉に、同志たちは少し満足気に頷いた。

リチェスタが電話を受けたのは、早朝、学校へ向かう前だった。自分が受話器を取らなければ無視されていたであろう相手からの言葉を、最後まで聞いて、しっかり受け取った。
――わたしさ、リチェの気持ち、ちょっとだけわかったかもしれないんだ。
十二年。それがイリスと出会ってから今日までの時間だ。彼女を親友と呼ぶようになってから、いつのまにかこんなに経っていた。それでも互いにわからないことはあった。イリスがきっとリチェスタの「恋する気持ち」をあまりわかっていなかったように、リチェスタもイリスについて知らなかったことが山ほどある。
どうしてこんなに勇気があるんだろう。どうしてこんなに行動力があるんだろう。どうしてルイゼンとずっと一緒にいられるんだろう。どうしてこんなに強くて眩しくて、自分が翳むとわかっていても憧れて、離れ難くなってしまうんだろう。そんな思いを何遍も抱いてきたのに、答えは一つも出せなかった。ただ、そんなイリスをルイゼンは好きなのだと、それだけはリチェスタの目にもはっきりしていた。
――ごめんね、リチェ。わたし、無責任だったよね。恋をすることがあんなに不安で怖いことだなんて、全然知らずに偉そうなこと言った。
親友は、イリスは、近づこうとしてくれた。いつだってそうだ。イリスからリチェスタに歩み寄って、初めて世界が明るくなった。ときにそれは眩しすぎたけれど、やはりそんな親友を羨む気持ちは消えず、そしてそんなところが大好きだった。
ときどきしか見せてくれない弱みも含めて、彼女と、彼女と一緒にいられる自分が、誇りだった。
「リチェ?! お前、こんな時間にどうしたんだよ。学校は?」
電話を切ってから、急いで中央司令部敷地内の軍人寮へ走った。ルイゼンを呼び出してもらい、緊張しながら来るのを待った。いつも心臓が弾け飛びそうだからと遠慮していたことに、あえて挑んだ。
自分もイリスの気持ちを知りたくなったから。知りたくてたまらなかったから。
「学校は、遅刻する。ママにばれたら怒られちゃうけど、もう慣れたからどうってことないよ」
「どうってことないって……そんなわけないだろ。送ってやる」
「ありがとう。ゼン君はいつも優しいね」
ルイゼンは昔から優しかった。幼い頃はちょっと乱暴なところもあったけれど、リチェスタには絶対に手をあげなかったし、こちらが吐く良くない嘘まで「仕方ないな」と受け止めてくれた。具合の悪い時は見舞いに来てくれたし、節目の挨拶を欠かさない。――それがただの「幼馴染のよしみ」だとしても、嬉しかった。優しさにずっと甘えていた。
気持ちを告げたら、きっとこの人は困るだろう。リチェスタを傷つけない言葉を選ぶだろう。
「ゼン君、私、あなたのことが好きです。小さい頃からずっと」
でも伝えなかったら、リチェスタはきっとそれを誰かの所為にしたり、いつまでも悩んだりする。昔、そうやってイリスを傷つけた。もう同じことは繰り返すまいと誓った。
ルイゼンが一瞬だけ目を見開いて、それから困った顔をして頭を掻く。この仕草は予想済みだ。ずっと見ていたのだからよく知っている。
「……お前、それを言うために来たのか」
「そう。イリスちゃんが、ゼン君はすぐ階級上がっちゃって会いにくくなるから、早くって」
「そっか。あいつが、そうやって言ったのか」
がっかりしたような溜息。それも予想していた。そのあとの返事も。
「ごめん。リチェのことは、妹みたいなものだと思ってる。それ以上には、今は考えられない」
そうだよね。知ってたよ。ずっと覚悟していたから、涙も我慢できる。
「学校まで送る。車こっちだから、ついてこい」
「今は、だよね」
彼がこちらに背中を向ける前に、引き留めることだってできる。勇気は、自分の恋を認めた親友から貰った。
「ゼン君、今は考えられないって言った。じゃあ、これからの可能性がないわけじゃないよね。私、諦めないよ。ずっとゼン君のこと好きだって言い続けるよ。絶対にあなたを振り向かせてみせる!」
その吃驚した顔で、何を思っているだろう。イリスに似ていると、少しは思っただろうか。それとももっと先、「リチェはこんなに強くなったのか」と、思ってくれただろうか。
少し宙に視線を漂わせてから、ルイゼンはしっかりとリチェスタを見てくれた。
「期待してる」
幼い頃から大好きな笑顔で、そう言って。


イリスの謹慎が解けたのは、二十二日の午後だった。
「ご迷惑をおかけしました!」
改めて頭を下げたイリスを、仲間たちは「全くだ」と迎えてくれた。メイベルも「もう寮に戻ってこい」と言ってくれ、イリスは晴れて日常に戻ることができたのだった。
「これに懲りて、無茶はもうするなよ。なかなか懲りないのがお前だけど」
「ごめん、ゼン。でもウルフの容疑晴らしてくれたんだよね。ありがとう」
言いそびれていた言葉をようやく本人に伝えられた。少し間があってから、「どういたしまして」と返事があった。
「言っとくけど、あいつの為じゃないからな。仕事だからだ」
「でもゼン、仕事好きだし誇り持ってるよね。そういうところ、かっこいいよ」
「煽てても何も出ないし出さないぞ。ほら、お前の分の仕事とっておいてやったんだから、さっさと取り掛かれ」
逸らした顔が赤くなっていたのを、イリスは見逃さなかった。そういう表情をこれからはリチェにも見せなよ、とは思っても言わない。――彼女の告白については、電話で報告を聞いた。まさか振られるとは思っていなかったので、どう慰めたらいいのか迷ったが、それも一瞬のこと。リチェスタは案外、元気そうだった。
――今回はだめでも、次はわかんないもの。私は何度でもゼン君にアタックする。
親友の逞しさがどこからきたものなのか、そこまでイリスは考えていなかったけれど。
仕事の合間に情報処理室にも顔を出した。相変わらずこちらを向くことはなかったが、フィネーロはイリスの話を全部聞いてくれた。
「フィンの言ってたこと、なんかちょっとわかっちゃったかも。私は人にどう思われているかを、もっと深く考えなきゃいけなかったね」
「……僕に話してる時点で、まだ考えが浅い気がするが。まあいいだろう、僕も言いすぎた。悪かったよ」
「何謝ってるのよ。ていうかまだ足りないの、わたしの考えは……」
フィネーロの言うことはまだ難しい。彼がイリスをどう思っているのか、実はよくわかっていない。それもいつかわかるかな、と思いながら、拒まれないのを良いことにしばらく横顔を眺めていた。
大総統執務室にも行ったが、レヴィアンスは集中モードに入っていて、ろくにこちらを見なかった。ガードナーが、困りましたね、と苦笑していたが、これでいい。どうせあとでまた、顔を合わせることになるのだから。

午後だけの仕事はすぐに終わって、そのあとは兄の家に向かった。ニールへの反省の表し方をずっと考えていたのだが、今日やっとそれを伝えられる。本題はまた別にあるのだが、イリスにとってはどちらも大切なことだった。
水族館に行ったのは、ニールの誕生日祝いを兼ねて、ということにしていた。それを台無しにしたのだから、今度こそちゃんと祝わせてほしい。きちんと計画を立てさせてほしい。そう言うつもりだった。
いざ兄たちの住まいに到着して口を開こうとしたら、遮られてしまったけれど。
「ああ、イリス、やっと来たの。僕だけじゃとてもじゃないけど料理間に合わないし、ルーは台所ではあんまり活躍できないんだよね」
「悪かったな、役に立たなくて。そういうわけだから、飯はお前頼みだ、イリス」
「えー、イヴ姉とアーシェお姉ちゃんから届いてるのだけで十分じゃないの?」
「僕だって頑張りたかったんだよ。レヴィの誕生日だし」
兄たちが慌ただしいのは、そしてイリスがここに来たのは、そのためだった。今日はレヴィアンスの誕生日当日。集中モードに入っていたのも、各所からのお祝いを受け取って処理しつつ、夜にはここに来るためだったのだろう。
「仕方ないな、諸々のお詫びも込めて、腕を振るいますか。お、ニール、部屋の飾りつけしてるの? やっぱりセンスいいね」
「イリスさん、こんばんは。台所手伝おうとしたら断られてしまったので。イリスさんが来てくれたので心強いです」
「ニールが手伝った方がスムーズにできるのに。お兄ちゃんってば頑固なんだから」
レヴィアンスが来るのはいつかわからない。が、一緒に来なくて正解だったのはたしかだ。イリスは台所の惨状――それでも以前よりましになっている――を手際よく片付け、料理の仕上げに取り掛かった。
呼び鈴が鳴る頃には、すっかりテーブルの上と壁が華やかになっていた。レヴィアンスの好きな酒もちゃんと用意してある。あとは部屋に入ってくるレヴィアンスを驚かせるだけなのだが。
「……? いつもなら、勝手に開けて入ってくるのに」
「イリス、ニールと迎えに出てあげてくれる? きっと入りにくいだろうから」
クスクスと笑う兄とにやつくルーファが気になったが、入ってこなければ凍えてしまうだろう。イリスはニールの手を引いて、玄関に急いだ。
「もー、何してんのレヴィ兄。さっさと入って……」
おいでよ、という言葉は出てこなかった。ニールもいつもの挨拶が出てこないようだ。それもそのはず、外に立っていたのはレヴィアンスだけではなかった。
「よ、お待たせ」
「こんばんは、イリスちゃん。あと、ニール君だよね。初めまして」
「……エトナさん? なんで?」
そういう予定だっただろうか。しかし、それならそうと兄たちが言うはずだ。だいたいにして、大総統付記者で仕事上でしか関わりのなかったエトナリアがここに来ることが、前代未聞である。混乱するイリスに、レヴィアンスが苦笑いのまま言う。
「とりあえず、エトナだけでも入れてやってくれない? 結構寒いんだ、ここ」
言われるままにすると、エトナリアはごく自然に上がりこみ、兄たちに「久しぶりでーす」と挨拶していた。そして壁の装飾と並んだ料理を褒めちぎって、これまたごく自然に席に迎えられていた。レヴィアンスはイリスの横を通り過ぎ、兄たちに礼を言ってから、エトナリアの隣に座る。
「あの人がエトナさんって人なんですね。なんだか可愛らしい人ですね」
「ニール、エトナさんのこと知ってるの? ねえ、これどういうこと?」
ニールに尋ねても、意味ありげに首を傾げるだけ。またも知らないのはイリスだけという状況だ。いいかげん、こんなシチュエーションはこりごりだ。
「レヴィ兄、説明してよ。わたしが説明されないとわからないの、もう十分知ってるでしょ」
「これからするから、まず座りなよ。ニアとルーファにもちゃんと報告したいし。他のところにはもう済ませてきたから、実家を除けばここが最後」
いったい何の報告なのか。もしや生体技術関係とやらの公表の準備がもう整ったとか。いや、それはいくらなんでも早すぎるだろう。レヴィアンス自身も時間がかかると言っていた。それに報告するならここじゃなくてもいい。兄たちはあくまで一般人なのだから。
考えを巡らせるイリスの目の前で、レヴィアンスと、そしてエトナリアが姿勢を正した。
「以前話した通り、エトナと結婚することになった。でも今までと付き合いが変わるわけじゃないから、これからも普通によろしく」
よろしくお願いします、とエトナリアが綺麗な礼をする。兄とルーファが、おめでとう、よろしく、と口々に言う。ニールも笑顔で拍手をしている。
――これは、いったい。
「どういうことよ?! 話が急展開すぎてわかんないんだけど!!」
イリスの叫びが、部屋の壁を通り越してこだました。
静かにしなさい、と兄に諌められた後で、その話は始まった。
「イリスには一から説明するよ。まず、これはイリスが知ってるような恋愛結婚とかではない。互いの利害が一致して、名目上だけでも結婚しちゃった方が手っ取り早いなって結論に達したんだよ」
曰く、エトナリアは上司から押し付けられる縁談話に、レヴィアンスは大総統の妻になりたい人たちからの度重なる求婚と一部国民からの期待に、それぞれ困っていた。二人とも自分の仕事を最優先にしたく、そのために家庭を持つというビジョンがなかったのだ。今の自分たちには、それは行動の妨げですらあるとも思っている。そこでレヴィアンスから、この名目上の結婚を持ちかけたのだという。
――エトナ、オレたち結婚しようか。
――は? あんた何言ってんの。
――面倒は片付けちゃった方が、心置きなく動けるよ。オレは大総統の、エトナは記者としての仕事にそれぞれ集中したい。だったら効率よく損のない方法をとらない?
もちろん、まったく損がないはずはない。今後エトナリアが本当に結婚したい相手が現れたら、この契約は即座に破棄される。ただ、大総統の妻として発表してしまえば、たとえ契約は破棄されてもエトナリアの人生はうまくいかなくなるかもしれない。そのときはこの結婚が仮のものであったこと、レヴィアンスが一方的に持ちかけたものであることを公表するという条件だ。
エトナリアは少し考えてから、この申し出を受け入れた。レヴィアンスが思ったよりも、彼女は悩まなかったという。
「生活はこれまで通り別々。オレは首都にいて、エトナは仕事や用事に応じてこっちと地方、実家のあるハイキャッシを行き来する。あ、向こうの家にも挨拶しに行かなきゃいけないから、近々執務室をレオとイリスに任せるからよろしく」
「びっくりしたでしょう、イリスちゃん。あたしもまだ実感ないのよね。まあ仕事を円滑に進めるための契約みたいなものだし、実感も何もなくて当然なんだけど」
レヴィアンスは淡々と語り、エトナリアは冗談のように笑う。しかし、冷静に話せることでも、笑って済ませられることでもないのだ。少なくとも、イリスには。
「何それ。二人とも、結婚は経歴として残るんだよ? しかも大総統とその奥さんなんだから、もっと真面目に考えようよ。エトナさん、本当に好きな人ができるかもしれないのに、こんなのいいの? それをわかっててこんな提案するなんて、レヴィ兄、ひどいよ」
「イリス、ストップ。これはレヴィとエトナちゃんが二人できちんと決めたことだよ。君は口出しできる立場にない。それにこの話、ダイさんが来てるうちにもうしてるんだ。その時はレヴィはまだエトナちゃんに話してなかったみたいだけど」
兄が止めなければ、最低、まで口にしていただろう。これは二人の問題で、イリスがとやかく言えるわけがない。まして恋愛感情で周囲を振り回したあとで他人をどうこう言う資格はない。口を噤むと、エトナリアが笑みを柔らかくして言った。
「あたしのこと気遣ってくれてるんだね。ありがとう、イリスちゃん。でもね、あたしはこれ、いい策だと思って乗ったの。それにもう、仕事以外に恋はしないと思うのよ。そういう人生もあっていいんじゃないかって」
イリスが大切なものを守りぬくために恋を保留するという選択をしたように、エトナリアは仕事に邁進できる人生を選んだ。選択肢はそれに気づくことができれば無限にある。そしてその責任は、結局は選んだ当人に委ねられる。後悔しても遅いし、だからこそそれぞれが後悔しないための道を探すのだ。
「それにこれからは大総統閣下に遠慮なく密着取材できるから、あたしとしては旨味もあるの。この立場、大いに乱用させてもらうわよ」
「乱用はするなよ。お互い立場もあるだろ。そういうわけで報告終わり! 飯と酒が楽しみで来てるんだから、そろそろ堪能させてよ」
イリスが全てを呑み込むことはできないまま、宴会が始まった。ご馳走も、デザートも、味がわからない。まるでリチェスタの恋心がわからなかったときのお茶会のようだった。

台所を片付けていると、エトナリアが手伝いに入ってくれた。お客さんにやらせるわけには、と断ろうとしたが、いいのよ、と押し切られる。リビングではまだ男性陣が酒を酌み交わしていた。
「あいつ、ここではいつもああなの? ちょっと調子に乗りすぎじゃない?」
「レヴィ兄ですか? まあ、だいたいは。お兄ちゃんは笊だし、ルー兄ちゃんはあんまり飲まないけど聞き上手だから、レヴィ兄が酔っぱらって色々喋るんです。よほどの秘密は言いませんけど」
だから大総統はちゃんとやれてます、と言うと、エトナリアがそうだよね、と笑った。
「根は真面目だし、優しいからね。仕事してるとそれなりにかっこよく見えちゃうし」
「……だからこそ、わたしはレヴィ兄の提案が納得できないです。エトナさんの不利になるようなこと、絶対にしないと思ってたのに」
「うん、してないよ」
洗った食器を拭く、かすかな音が耳に届く。気をつけていないと、賑やかさにかき消されてしまいそうだ。それと同じくらいの声で、エトナリアは続けた。
「あのね、イリスちゃん。あたしたち、たぶん周りが思ってるより、お互いが好きよ。少なくともあたしは、レヴィのことが昔から大好きだった」
初めて会った九歳の頃からね、という言葉で、彼女はレヴィアンスの実年齢を知っているのだと気付いた。二人の出会いは、たしかレヴィアンスが仕事でエトナリアのいるハイキャッシに行ったときだ。
「だから実は、結婚の提案は嬉しかったりもするの。恋愛とか、家族になるとか、そういうのとは違うけど。……なんていうのかな、パートナーにあたしを選んでくれたのが、嬉しいんだよね」
ふと、兄の言葉を思い出した。ルーファへの感情は恋じゃない。これは単なる照れ隠しだと思っていたけれど、もしかするとそれだけではないのかもしれない。兄はルーファのことを、「パートナー」と表現する。
「どういうかたちであるにせよ、人生を一緒に歩く相手。あたし、レヴィのパートナーはてっきりレオナルド君かイリスちゃんだと思ってたから、言われたときは信じられなかったけど。でもね、信じてみると、これはなかなか素敵な提案で、レオナルド君とイリスちゃんはそれぞれの立場や将来を守れるし、あたしたちは自分の好きなことができる。障害はまだまだあるけど、一緒に乗り越えるなら最強のパートナーよ。あたしもレヴィにとって、そう思われる人間になりたい」
「なってますよ。だからレヴィ兄、エトナさんを選んだんだと思う」
自然に口を突いて出た。そうだと思えたのだ。二人がそれで良いのなら、そうと決めたのなら、きっと不利なんかではない。なにより、全くの打算ではないことに安心した。エトナリアはレヴィアンスを、レヴィアンスはエトナリアを、信じたのだ。
「良かった。イリスちゃんに受け入れてもらえるかどうか、実は不安だったんだ。だってイリスちゃんは、お兄ちゃんたちが大好きだもんね」
「大好きだから、信じるしかないじゃないですか。これで幸せになれるって」
「なれるんじゃない、なるのよ」
きっぱりと言い切ってウィンクをしたエトナリアを見て、イリスは気づいてしまった。きっとレヴィアンスも、周りの誰かやエトナリアが思っているより、彼女のことが好きだ。だってイリスは、たった一言に、かつてレヴィアンスが好きだった人の面影を見てしまった。その人は、イリスも大好きな人だ。だからこの感覚は、信じていい。
「そうですね。絶対幸せになってください」
「イリスちゃんもね。好きな人いるんでしょ? 両想いなのにくっついてないとの情報が入ってるけど、このままでいいの?」
「なんで知ってるの……。わたしはまだいいんです、未熟者なので」
「うかうかしてると障害が増えるわよ。お兄ちゃんたちのジャッジは厳しそうだし」
人の気持ちはわからない。心が読めるわけでもないし、イリスはそもそもそういうことに不得手だという自覚がわいてきた。
けれども、信じることはできる。人の強い思いや、何かを乗り越えようとする力、誰かや何かを大切にすることを。それはイリスも心に持っているもので、たくさん教わったものでもある。
それが未来を拓くのだと、イリスは信じ続ける。これからも、ずっと。



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2017年02月04日

恋と乱戦

先日、ニールの住むファミリー向けマンションの一室は、とても狭くなっていた。大人の男が四人と子供が一人。いつものメンバーがイリスからダイに変わっただけで、かなりの圧迫感があった。
ただ、ダイの「お前はあんまり身長変わってないな」と笑う声は、初めて会ったときより穏やかだった。なんでもエイマルと遊んだときのことを色々と聞かされ、感心してくれたのだとか。
「ニール、お前って案外強いんだな。これからもエイマルのこと、惚れない程度によろしく」
日頃から強くなりたいと思っていた。だからこの言葉は、それもなかなか認めてくれないらしいその人から貰ったものは、とても嬉しかった。
嬉しかった、のに。
「ごめんなさい。僕が、僕がエイマルちゃんを止めてたら、こんなことにならなかったのに……!」
泣きじゃくるだけなんて情けない。子供だからとすぐ帰されて、ニアとルーファに「ニールは悪くない」と慰められて。悪くないはずないのに。だって、ニールは知っていた。ウルフという人が怪しいということを、大人たちの話でとっくにわかっていたのだ。
その名前は、酒の席で出た。レヴィアンスが話したのだ。ウルフ・ヤンソネンという人物がイリスに近づいている。もしかしたら厄介なことに関係があるかもしれない。イリスが現在危険な人たちに目をつけられていて、ウルフと彼らの繋がりが疑われる。――実際はもっと複雑な話だったかもしれない。レヴィアンスだって全てを明かしたわけではないだろう。
でも、十分だった。イリスの近くにいる者は、気をつけていなければならなかったのだ。それはニールやエイマルも例外ではない。事実として、ウルフはイリスの友人として現れ、イリスは彼と一緒にいることを他の人には言わないようにと念押ししていた。あれは、いけないことだったのだ。
わかっていて、何もできなかった。ウルフと二人きりになったときでさえ。彼が親し気に話しかけてくるのに無難な返事をしているそのあいだ、エイマルは危険の只中にあったのに。
――僕は、全然強くなんかない。
何一つとして守れないことが、悔しくて、もどかしくて、苦しかった。

意識が途切れないように強く噛みすぎた唇は、舐めると錆くさい味がした。けれどもおかげで、得た情報は全部記憶できたし、軍に伝えるべきことはすぐに言えた。それができるようにと仕込まれていた。一国を守る大将の娘としてどう振る舞うべきか、自分から教えてほしいと祖父と母に頼んだ。
エイマルが父を父と呼ぶために、自らに課したこと。もしものときに自分で対処できる、あるいはそこまでできなくても、対処のために役に立てるようになる。父が心配しすぎないようにと思ってのことだったが、うまくいっただろうか。
――お父さん、大丈夫かな。怒ってないかな。
口はテープで塞がれた。手も足もきつく縛られて痛い。実行犯兼見張りらしい二人組は、エイマルを睨みながら「誰なら買ってくれるだろうな」「黙ってりゃ結構可愛いし、小国の富豪とかが気に入るんじゃないか」などと話している。きちんと理解できているわけではないが、人攫いが話すようなことだから、ろくな末路ではなさそうだ。
――よそに行くのはやだな。ニール君のいうこと、聞いておくんだった。
考えながら、腕時計の針が動く音に耳をすませた。また、一分が経過した。


軍用車両を借りてエイマルのところに急ごうという思い付きは、車の鍵がないということであっけなく失敗した。イリスはレヴィアンスの車に連れ戻され、他の車が出ていくのを見送ることになった。
水族館にいた人々のチェックもほぼ終わっている。多くの軍人が「ここから四十分程度で行ける距離にあった大型車両」を捜しに向かうのに、イリスは何もできない。することを許されていない。
「イリス、ちょっとは立場考えろよ。オレもいい加減怒るよ」
「俺も今のは擁護できない。エイマルが心配なのはわかるし、責任も感じてるんだろうけど、今はイリスに単独で動かれると困るんだ」
「ごめんなさい……」
ここに各車両から情報が入ってくるから、と言われても、じっとしていることができない。あまりにそわそわするのを見兼ねてか、レヴィアンスが話を始めた。
「イリスさ、四歳の頃に誘拐されたの憶えてるよね。あのとき、ニアとルーファが容疑者巡って喧嘩してたんだ。ルーファは容疑者をとことん疑ってて、ニアは容疑をかけられてるその人はやってないって信じて庇おうとした」
何の話かと思ったら、だんだん既視感を覚えるようになってきた。兄たちの関係は、まるで。
「それって、こないだのわたしとゼンみたいに? お兄ちゃんはわたしよりは酷くないと思うけど……」
「いや、そんなに変わんない。ニアは『ルーはいなくていい』って言ったらしいから」
「お兄ちゃんが? でも二人とも助けに来てくれたよね」
「ルーファが疑ってた人の容疑が晴れたからね。イリスの隣のその人なんだけど」
驚いて隣を見ると、ダイが「どうも容疑者です」と笑っていた。笑い事じゃないだろうに。
「なんでルー兄ちゃんはダイさんを疑ったの? 知ってる人なのに」
「率直に言って、俺がそういうふうに誘導してたからだな。イリスが攫われるのはさすがに想定外だったけど、それまでの行動はわざと俺を敵だと認識させるようにしていた。ルーファは見事に引っかかってくれたし、レヴィも怪しんでたけど、ニアは引っかからなかったんだ」
そうしなければならなかった事情までは、イリスは知らない。だが、ニアが誘導に惑わされずにダイを信じ抜き、それが間違いではなかったのはたしかだった。少し希望を持ったイリスに、しかしレヴィアンスは冷静に続ける。
「もちろん今回のケースとは違うから、同じようにはいかないだろうね。そもそもダイさんは先々代大総統が身元を保証してたって背景があったんだけど、ウルフにはそれがない。ルイゼンとフィネーロが調べてくれたんだけど、バンリさんとは半年前から会ってないらしい。以降、これまでの動向を証明できる人がいないんだ」
「そんなはずない! だって、レジーナから離れた村に、二人で暮らしてるって……」
イリスはそう聞いた。それに半年前なら、ウルフが警備会社に勤め始めたのもその頃だ。そちらで証明はできないのだろうか。
「半年前までは一緒だったみたいだよ。でもウルフは家を出て行った。レジーナで働きたいっていうのを、バンリさんが了解した形でね」
「ディアおじさんがいた警備会社に勤めてるの。たしかに外から通うにはちょっと遠いよね」
「ああ、あそこか。レヴィ、もう調べは?」
「まだだよ。そういうのは早く言え。……でもそれなら勤務時間は不安定だね。潔白を証明するまでにはいかないし、警備員ならいろんな施設に出入りできるから死角も探れる」
逆にウルフの不利になってしまった。言っても疑いが晴れないのでは意味がない。どこで寝泊まりしているのかもわからず、容疑は深まる一方だ。
「ウルフは人身売買組織の主なターゲットは子供だって言ってた。わたしが標的なら、そう言うんじゃない?」
「ルイゼンが聞いた話では、体の一部分の売り買いだった。イリスとは言っていない。子供も含まれてるようだから嘘ではないだろうね。エイマルが誘拐されたことだけ見れば、むしろそれはウルフの容疑を濃くする証言だけどいいの?」
言葉に詰まる。何か、疑いを覆せるようなことはないのか。いくら探しても見つからない。あんなに信じていたのに、それを証明できる一手がない。
「……ウルフは違うよ。自分が酷いことされたのに、他の人を同じ目に遭わせるようなことはしない」
そうだ、彼には動機がない。人身売買に手を染める理由なんかないはずだ。それを阻止しようとすることはあっても、手を貸すなんてありえない。
だが、レヴィアンスは頷いてくれなかった。
「バンリさんが今どこにいるか、その様子じゃ知らないよね」
「どこって、だから首都から離れた村に」
「それは合ってる。……村の病院だよ。半年と少し前に病気が見つかった。いずれ臓器移植が必要になると、そのときにはわかっていたらしい」
それには多額のお金と、臓器を提供してくれるドナーが必要だ。しかし、どちらもそう簡単に得られるものではない。金銭の工面はできても、都合よくドナーが見つかるかどうか。――さすがに、もう説明されなくても、想像ができる。できてしまう。
「人身売買組織がやりとりしているのは体の一部だ。手を貸せば融通してやる、と言われたら……」
「やめて。そんなことしたって、バンリさんは喜ばないよ。ウルフだってわかってるはず」
「心を殺して命が手に入るなら、俺もそうするかもな。そもそも天秤にかけられないものだ」
――全部立てることはできない。人生の至る所で、似たような選択を迫られます。
ウルフも、選んでしまったのだろうか。信じていたものが揺らぐ。
動く気力が失われたイリスの耳に、無線の受信音が飛び込んできた。
「閣下、現地駐在員が該当車両を発見しましたが、すでに逃亡した模様です。被害者も見当たりません」
「やっぱ遅かったか……まあ、エイマルちゃんがあれだけ派手にやってくれたら、ねえ?」
「でも役に立っただろ。そう遠くには行ってないはずだ。いずれにせよ目指してる方向はわかってるんだから、追えるだろう? なあ、大総統閣下」
ダイが凄むと、レヴィアンスは諦めたように前を向いた。
「安全運転は保証できない。イリスは絶対に外に出さない。ダイさんも一般人なんだからおとなしくしてるように」

レヴィアンスの車が動き出したのを見て、ルイゼンも出る準備をする。助手席ではせっかくの非番を最悪な形で奪われたメイベルが眉を寄せ、行ってしまう車を見送っていた。
「閣下が動いたということは、エイマルの保護はひとまず失敗か。おい変態盗人、いい加減に敵の本拠地を吐いたらどうだ」
「だから首都を中心に活動しているらしいことしか知らないんだよ。それも含めて君たちに調べてほしかったのに」
メイベルの何度目かの追及に、拘束されたウルフはこれまでと同じ答えを繰り返した。水族館でニールと一緒にいるところを確保したときから、彼に笑顔はない。何を考えているのかわからない無表情で、尋ねられたことに淡々と答えていた。
ここに来たのは、イリスとの約束だったから。日程を決めるときに、子供たちも一緒だということは聞いていた。イリスがウルフとの接触を禁じられていたことは知らなかった。だが、おそらくそういうことになるのではないかと予想はできていた。
だってリーゼッタ君は僕のことを良く思ってなかったでしょう、と言われたときには思わず手が出そうになったが、それには及ばなかった。先にウルフの隣にいたフィネーロが、拘束用ロープをきつく締めたのだ。無表情でこなすそれは、こちらがカッとなるより、はるかに怖い怒りの示し方だった。
イリスが姿を消していた寒波の夜、ウルフに会いに行っていたのだということもついさっき判明した。今日の約束は、そのときにしたのだと。ルイゼンは任務に行っていたので、あとで聞いただけの出来事だ。喧嘩の直後だっただけにショックだったが堪えた。
「イリスはどうして変態盗人に会いに行ったんだろうな。今日も、先日も。何を言って誑かしたんだ」
「誑かしてなんかないよ。僕は彼女が来てくれて嬉しかった」
「そこはイリスの行動だから、彼ばかり責められないだろう。聞くべきは誘拐事件に関与しているかどうかだ。事前に情報を知り得たなら、実行犯にそれを流すこともできる」
「そんなことはしてない。誘拐犯はあの子……エイマルちゃんだったかな、彼女とイリスの交換を要求しているんだろう。僕ならそんな遠回りはしない。直接イリスを襲うほうを選ぶ」
殺気立つメイベルを制し、ルイゼンは「そうだろうな」と呟く。他の雑魚ならまだしも、ウルフにはイリスに勝てる可能性がある。眼の力は効かず、互角以上に戦える相手。だからこそレヴィアンスとルイゼンは、彼を危険視していたのだ。
「襲ってどうするつもりだ? 例えでいい、君の考えを聞かせてくれ」
フィネーロが続けて問う。ウルフは少し間を置いて、「僕なら」と切り出した。
「帰りにでも不意を打って、彼女の眼を抉るかな。組織はあれを欲しがってるから、僕が持っているとわかれば向こうから近づいてくるだろう。美しいから勿体ないけど、交渉材料に使って、組織の本拠地に潜入する」
「それで奴らが流通させている臓器等を手に入れるのか」
「いらないよ、そんなの。そういう発言が出てくるってことは、バンリのことはもう知っているんだろう。彼には僕が稼いだお金ときちんとした医療機関を使って良くなってもらう。僕がしたいのは組織を潰す方だ」
ミラー越しに、ルイゼンとフィネーロが頷きあう。ウルフは長く息を吐いた。
「君たち、こんなことを聞きたかったの?」
「目的が分かれば阻止することができる。イリスにお前を捕まえさせなくて済む」
「今頃閣下に脅されて小さくなっているだろうから、早く聞かせてやらなければな」
少し気が抜けたルイゼンを見て、メイベルが舌打ちする。言いたいことは色々あるだろう。だが、黙っていてくれた。真相が明らかになろうとしている今、最優先すべきは誘拐されたエイマルの救出だ。関係がないのなら、ウルフを責めている場合ではない。殺気だけで十分、気持ちは伝わる。
そのあいだにも車はレヴィアンスたちを追いかけていた。向こうはかなり急いでいたが、ルイゼンもちゃんと一定の距離を保ってついていく。慣れたものだ。
たしかにイリスほど強くはない。しかしルイゼンがレヴィアンスがもっとも信用する部下の一人であることには変わりない。今だって、何をしようとしているのか、どこへ向かうつもりなのか、予測して動いている。
「……勿体ないな」
フィネーロの呟きには、誰も返事をしなかった。意味はちゃんとわかっている。

乗り捨てられた車両は部下たちに任せ、レヴィアンスはレジーナ周辺を走っていた。エイマルが連れ去られてからかなりの時間が経っているにもかかわらず、なかなか西へは向かおうとしない。
「レヴィ兄、要求通りに動かないの?」
こちらには相手の目的であるイリスがいる。要求を呑んだふりをして相手を誘い出し、捕まえることも可能だ。イリスはそう思っていたのだが、レヴィアンスは「だめだよ」と一蹴した。
「今はイリスもダイさんも一般人だからね。寄り道するより、確実に安全にエイマルちゃんを助ける方法をとらないと」
「でもやみくもに動き回るより、来るとわかってる場所に向かった方が良いんじゃ……。エイマルちゃんとわたしを交換するんだよね?」
「さっきダイさんが言っただろ、相手は約束を守る気なんかない。それにやみくもじゃないよ。人身売買担当チームにはもう動き方を知らせてあるし、オレには心強い味方が多い」
レヴィアンスはいつのまにやら片耳にイヤホンをはめている。無線と繋がっているようで、イリスが気づかないあいだにも常に通信状態にあったようだ。
「リーガル社の運搬車は追跡が可能で、車だけじゃなくて備品のほとんど全てに発信機がつけてあるんだって。だから何か一つでも持ち出せば、車を降りたあとでも乗っていた人間の居場所がわかる。やつらはそうと知らずに、リーガル社の運送担当者の制服と車にある地図を盗んでいる。無理もないよね、社員にもあまり知らされていないことだから」
「どうしてレヴィ兄がそんなこと知ってるのよ」
怪訝な表情のイリスの隣で、ダイがくくっと笑う。
「情報を流してるのはリヒトか。あいつの言う通りに動いてるんだな」
なるほど、とイリスも感嘆する。リヒト・リーガルはリーガル社の御曹司にして若き役員だ。運送担当者たちを束ねているのは彼だという。アーシェの弟で抜け目ないところがそっくりだが、今はそれが頼りだ。誘拐に使われている車両がリーガル社のものだと聞いて、レヴィアンスはすぐに連絡をとったのだ。
「ちょっと時差があるし、他の普通の担当者と混ざるかもしれないって言ってたけど。でもオレはあいつを信じてる。もう何度も捜査で世話になってるし、向こうも慣れてるでしょ」
イリスの胸がチクリと痛む。信じてもらっていいな、と思ったのだ。イリスは不正をしたし、レヴィアンスと同い年でずっと協力関係を結んでいるリヒトと比べられるものではない。でも、信頼されているのが羨ましかった。裏切ったのは自分のほうなのに。
「エイマルちゃんの大暴露によって、やつらはリーガル社の車を使えなくなった。そこで緊急で別車両に乗り換えたけれど、着替える余裕まではなかった。もとからエイマルちゃんも売るつもりなら、その最終的な決定権ははたして誰にあるのか。迂闊な行動を繰り返すような下っ端じゃ、そんな大事なことは決められないよね」
「ボスかそれに近い人間がいるところが、やつらの行き先か。イリスを引き取りに西へ向かうのは別の人間でいい。というより、腕っぷしの強い別の人間でなければならない」
「そう。だから実力のあるチームを向かわせてる。そしてこっちはこっちで、本拠地を叩く。できれば到着前にエイマルちゃんを取り返したいところだけどね」
人身売買を担当したことがある、数少ない経験者。そこにレヴィアンスも計上されている。本当に危険な場所へ向かうことを想定していたからこそ、自ら動いたのだ。単にイリスが問題を起こしただけでは、彼は来なかっただろう。
本当はイリスを関わらせたくなかった案件だ。だが、今となっては仕方ない。きっとレヴィアンスの頭の中には、可能な限りイリスを外に出さない片付け方が用意されている。
おとなしく従った方が良いのだろう。もうレヴィアンスの邪魔になってはいけない。それにもしウルフも敵なら、イリスはきっとまともに戦えない。戦って勝てる自信がない。眼を使わずに勝負に出ることもできるし、そのための訓練は積んできたが、おそらく彼には通用しない。たった一度見ただけの棍捌きだが、あれだけでイリスには判断できた。いざというときに彼が迷わないのも、過去の経験から知っている。迷いだらけのイリスが勝てるはずはなかった。
「……ん、あれだ。あの車」
レヴィアンスの声に我に返る。そして前方を見て、思わず身を乗りだした。
外から少し見ただけでは、ごく普通の一般車両。だが、運転手がつなぎを着ている。間違いなくリーガル社の運送担当の制服だ。後部座席には二人の人間が並んで座っていたが、こちらは着替えたのか、それとも初めからそうだったのか、どこにでもあるシャツを着ていた。
「間違いないよ、レヴィ兄。エイマルちゃんの姿は見えないけど、あの車の中の人は不自然」
「イリス、眼を使ってるな。あんまり使うなって言ってるじゃん。でもまあ、遠くのものや暗い場所がよく見えるのは便利だよね」
助かった、とレヴィアンスが言う。それと同時に車が大きく傾いた。イリスはダイに押さえられ、負傷を免れる。急にハンドルを切った車は、猛スピードで狙いの車両を追跡した。相手もスピードを上げるが、レヴィアンスの操る車両はそれ以上だ。相手車両の前方に回り込むと、相手はそのまま突っ込んできた。
「イリス、伏せろ!」
ダイに守られるようにして、イリスは低く伏せる。次の瞬間、大きな衝撃に襲われた。耐久性の高い軍用車の、誰も乗っていない側面が潰れた。
「……これ、大事故じゃないの」
「人のこと一般人って言っておきながらよくやるよ、大総統閣下」
眉を顰めるイリスと、苦笑するダイ。そして不敵な笑みのレヴィアンス。その肌には汗が滲んでいるが、拭う間もなく車から出ようとする。
「絶対に外に出ちゃだめだからな」
念押しされたが、外を見るなとは言われていない。相手車両に目を向けると、フロント部分が若干潰れてはいたものの、それ以外は無事だった。丈夫な車で良かった、というより、レヴィアンスもそう判断して無茶をしたのだろう。でなければ人質が乗っているはずの車と事故を起こすわけがない。
「他の軍用車はまだみたいだな。でもこっちに向かってはいる」
ダイが勝手に無線をいじり始める。と、聞き覚えのある声がした。
「おい、事故になってるがいいのか」
「閣下の作戦の内……だといいんだけど。フィンはウルフを拘束しててくれ」
「わかった。健闘を祈る」
ルイゼンたちの車両での会話だった。こちらが見えているようだ。イリスは気づかなかったが、ついてきていたらしい。
ウルフもここに連れてきているというのはどういうことだろう。案内人だとしたら最悪だ。
「エイマルを攫ったのは雑魚だろう。レヴィとルイゼンとメイベルで十分に対応できる。俺たちのやることは、エイマルを迎えることだけだ」
「うん……。そう、だね」
つまり何もするな、おとなしく待っていろということだ。イリスは飛び出したいのを堪える。
かわりに近づいてきて止まった軍用車両の中を見た。ルイゼンとメイベルの姿が真っ先に目に入る。その後ろにはフィネーロと、ウルフが乗っていた。イリスの前ではほとんどずっと笑っていたのに、今は全くの無表情の彼が。

ダガーを構えたレヴィアンスと、剣と銃をそれぞれ手にしたルイゼンとメイベルのあいだで、誘拐犯たちは狼狽えていた。佐官や尉官はともかくとして、大総統本人が出てくるなんて思っていなかった。そんな話は聞いていない。せいぜい将官が関わってくる程度だろうと、上からは言われていたのだ。
レヴィアンスたちの読み通り、彼らは組織の下っ端、つまりは雑魚だった。それなりの戦闘能力はあるが、軍のトップを相手にできるほどの実力はない。だから強いと評判のイリスではなく、幼いエイマルを攫った。子供を使えばイリス・インフェリアは簡単に釣れるという情報は持っていたし、それが上からの指令だった。
「座席にはいない、ってことは攫った子はトランクかな。狭いところに閉じ込めておくのは可哀想だから、さっさとケリつけようか」
ダガーナイフの切っ先が誘拐犯たちを狙う。あれは百発百中だと、裏でももっぱらの評判だ。とすれば下っ端である自分たちにできることは、降伏か悪あがきかのどちらかになる。この状態を、組織は助けてくれないだろう。代わりの者はいくらでもいるし、イリス・インフェリアを手に入れるための計画もまたしかり。所詮、自分たちは使い捨ての道具なのだ。
「おい、俺たちに手を出したら、子供がどうなるかわかってんのか」
どうせ破滅しか待っていないのなら、せめて道連れを。誘拐犯が選んだのは、悪あがきだった。トランクを開けて、中に転がしておいた少女を引きずり出す。事故で気を失ったかと思っていたので、その目がこちらをしっかりと睨んでいたことにはギョッとしたが。
「そこから動いたら、子供を殺すぞ」
少女のこめかみに、隠し持っていた銃を向ける。けれども少女は少しも怯える様子がない。軍人たちも冷静そのものだった。
「そこから動いたら、ねえ」
「馬鹿か貴様ら。こちらの得物を見てもなお、言葉を選べないとは」
大総統が苦笑し、女性軍人が鼻で嗤う。剣を持った軍人だけは、呆れたような表情をしていた。
「何がおかしい! 子供が死んでもいいのか?!」
「死なせないから笑ったんだよ。だって、ここから動かなくてもお前らを倒すことはできるからさ」
ついでに、誘拐犯たちは銃を使ったことがない。持たされたが、弾の無駄遣いはするなと言われていて、扱いを練習したことすらない。引鉄を引きさえすればいいと思っていた。だがそれすらも、指が震えてままならない。もちろん銃のプロ――メイベルはそれを見逃さなかった。
子供がいるというのに、全く躊躇はなかった。彼女が放った弾丸は正確にエイマルを捕えていた者の手を貫き、銃も弾き落とした。痛みを感じるより先に混乱が生じ、彼は何も考えられないまま悲鳴をあげて蹲る。エイマルは地面に転がったが、そのついでにもう一人の誘拐犯の足を蹴っていた。両足をまとめて縛られているのに。
「このガキ……っ!」
「ガキにかまうな! 軍人への対処を」
「無駄口叩くほど余裕ないでしょ。だからお前らは雑魚止まりなんだよ」
エイマルに気をとられているあいだに、レヴィアンスのダガーが誘拐犯たちに迫っていた。避けられずにまともに刃を受け、彼らもまた短く叫ぶ。そうしているうちにルイゼンがエイマルに駆け寄り、抱き上げる。拘束を手早く解いて、傷がないかどうか確認。両手足に縛られた跡があるだけだった。
「よかった、怪我はないな」
「うん。ありがとう、ゼンさん」
にっこりと笑うエイマルの背後で、三人の誘拐犯が確保された。

事故車では帰れないし、ルイゼンたちの車だけでは定員オーバーなので、応援が来るまで待つことになった。せっかくなので聴取も済ませてしまおうと、ルイゼンは誘拐犯たちに質問を始める。
レヴィアンスはイリスとダイにエイマルの無事を報告しようと、車に戻ろうとした。イリスは外に出したくないが、ダイは保護者としてエイマルの状態を確認する必要があるので、出てもいいだろう。
「ダイさん、エイマルちゃん救助成功だよ」
「ああ、聞こえてた。声からして元気だな」
「良かった……。わたしのせいで怖い思いさせたよね」
イリスはしょんぼりしながらも、一安心できたようだ。あんまり怖かった感じしないけど、と言おうとしたとき、軍用車両がこちらへ向かってきた。急いで駆けつけてくれたのか、スピードが出ている。そして道の脇に、急ブレーキで止まった。
「もうそんなに急ぐ必要ないよ。誘拐犯は捕まえたから」
レヴィアンスが声をかけると、その車の窓が少しだけ開いた。一仕事終えて安心していたので、真っ先に気づかなければいけないのに気付かなかった。
「全員伏せろ! こいつは違う!」
叫んだのはメイベルだった。反射的にレヴィアンスとルイゼンは伏せたが、メイベルはその場に立ったままだ。――銃声が響いても。
「メイベル!」
顔をあげたルイゼンから血の気が引く。いつもは銃を撃つ側のはずのメイベルに、車の窓から向けられた細く煙をあげる銃口。そしてわき腹を押さえる彼女。指の隙間から、赤黒い血がどくりと流れた。
「……私としたことが、しくじった」
「喋るな、座ってろ! しくじったのはオレだ!」
とっさに駆けつけたレヴィアンスに、銃口が次の狙いを決めた。
「閣下、だめです!」
「だめじゃない! 出てこい、卑怯者!」
発砲前に、レヴィアンスは車の窓を蹴り飛ばした。割れはしないが、銃は引っ込む。ドアを開けると、そこには銃を持った見知らぬ男がいた。
「車を奪ってきたな……!」
歯噛みしたレヴィアンスに、再び銃口が向けられる。しかし今度は至近距離だ。銃身を掴んで奪い、放り投げる。
銃が一丁だけではないことにも気づいていた。すぐに退くと、一瞬前までレヴィアンスの頭があったところで発砲された。運転席に一人、後部座席に発砲した一人ともう一人いる。
「ルイゼン、エイマルとメイベルを安全な場所へ!」
「はい!」
現時点で最も安全なのはルイゼンたちが乗ってきた車だ。メイベルを担ぎ、エイマルを抱え、避難させようとした。しかし向こう側からもう一台軍用車が来るのが見えて、ルイゼンは動きを止めた。そして。
「フィン、ウルフを連れて降りろ!」
即座に反応したフィネーロがウルフとともに車を脱出すると、やってきた車が勢いを緩めずにぶつかってきた。その中からも軍人ではない者たちが降りてくる。ぐるりを見渡し、フィネーロは鎖鎌を構えた。
「仲間を助けに来た……というわけではなさそうだな」
むしろ処分しに来たというのが正しいだろう、と推測する。軍用車両を奪ってくるのだから、今来た彼らは戦い慣れしている。邪魔な軍人たちとこれ以上の利用価値がないと思われる雑魚を、まとめて処分するのが彼らの目的だ。実際、捕まった三人は怯えている。
「この車両、佐官の班が使っていたものだな。メイベルを撃った方も」
「閣下がいるとはいえ、怪我人と一般人を守りながらはきついな」
フィネーロと、抱えていた二人を地面におろしたルイゼンが言うと、メイベルが怒る。
「私も戦える! このくらいの怪我なんかで……」
「まず止血しろ。怪我で手元が狂ったらまずいから、おとなしくしててくれ」
逆上すると見境がなくなるメイベルには、今はあまり動いてほしくない。ここはレヴィアンスとルイゼン、フィネーロの三人で切り抜けるしかないだろう。
ルイゼンがそう考えていた隙に、敵の一人が接近していた。狙いは負傷したメイベルだ。
「くそっ!」
メイベルが血塗れの手で銃を構える。だが反応が遅れた。引鉄に指が触れる前に、敵の手は素早くこちらへ伸びる。
「だめっ!!」
それを立ちふさがって阻んだのは、小さな体だった。
「エイマル、退け!」
「きゃ……っ!」
とっさに叫んだメイベルだったが、それしかできなかった。少女はそのまま髪を掴まれ、敵の腕におさまってしまった。痛みに歪んだエイマルの表情を見て、彼は勝ち誇った顔をした。
「車に乗っていた軍人が言っていた。この娘、親がたいそう美人だそうだな。これから調教すれば、成長後も楽しめる。このまま生かしてこちらに渡すか、それともここで殺すか、二つに一つだ、大総統閣下。まさか国民を見殺しにするはずはないと思うが……」
気持ちの悪い笑みを浮かべ、彼はべらべらと宣った。だが、レヴィアンスは全方向に注意を払ったまま、面倒そうに息を吐いた。
「……あのさあ、違うよ、それ。選ぶのはオレじゃなくてお前で、たぶん三つめを強制的に選択させられる」
彼はエイマルに手を出してしまった。レヴィアンスが敵から奪った銃は、さっき放り投げた。そしてここにはメイベル以外にも、遠距離射撃の名手がいる。――本当は、動いてほしくはなかったのだけれど。
ぱん、と一つ、破裂音。弾丸は視認できない速さで、エイマルを捕えていた男の耳を撃ち飛ばした。だらりと流れた血が落ちる前に、飛び出してきた影が少女を奪い返す。
彼は、もっとも怒らせてはいけない人たちを怒らせた。
「おい、てめえは誰の娘をどうしようとしてた? たしかに母親は美人だが、てめえらの好きにさせるためにそうなってるわけじゃねえよ」
壊れた車の側から狙撃してきた男に、襲撃者たちは見覚えがあった。
「選択肢は増えるし増やせる。だから増やすね。答えは、あんたが刑務所送りになる、よ」
少女を胸に抱えながら赤い瞳を光らせる彼女のことも、もちろん知っている。
「まさか、ノーザリアの大将……?」
「ここに来ていたのか、イリス・インフェリア……!」
敵が驚き慄いている今こそが好機。レヴィアンスはやむなく一般人の保護を諦めた。もとより保護に甘んじるような人間ではない。
「よそ見してんなよ。そいつらは大当たりだがおまけだ!」

フィネーロの鎖鎌は器用に敵の腕に絡み、引き倒す。そしてルイゼンが武器を奪い腱を切って確保。大総統暗殺未遂事件で鍛えられた、素早い連係プレーだ。わき腹を持ってきた救急セットで処置したメイベルは、その様子を唇を噛みながら見守っている……だけのはずがない。
「怪我で手元が狂うだと? ルイゼンめ、私を見くびるな」
だいたい、機嫌が悪いのだ。イリスが黙って出かけたこと、ルイゼンとフィネーロの間だけで情報が共有されていたこと、せっかくの休日を台無しにされたこと。全てにおいて気に食わない。これが撃たずにいられようか。
レヴィアンスは敵を次々に斬りつけ、体術も駆使して地面に伏せさせる。たとえ敵が佐官らを倒して車を奪ってきた者であろうと関係ない。誰もが等しく、大総統より格下だ。
――あと一人。
最後の相手はメイベルの放った弾丸とレヴィアンスの駆使するダガーに動きを封じられる。死線を潜り抜けた彼らには、全員が雑魚のうちだった。
だが、雑魚にも脳はある。それとも彼らに指示を与えた者がそう判断したのだろうか。敵が乗ってきた車から、もう一人男が飛び出した。素早くレヴィアンスの足元を撃って動きを止め、フィネーロの鎖鎌を避けてルイゼンを引き離し、メイベルには再装填の隙を与えない。そうして真っ直ぐに、イリスのほうへと向かっていた。
イリスはエイマルをダイに渡し、二人から少し離れた場所にいた。敵の真の目的が自分なら、彼らと一緒にはいないほうがいい。私服に徒手空拳でも、十分に戦えるはずだ。眼にも力を込めた。
しかし敵は、嗤っていた。街路で見た表情と同じだ。
「それでいい。その眼を奪えば……!」
敵の狙いはイリス。欲しかったのは眼。彼らの「奪う」には二つの意味がある。――そのものを取るか、潰して使えないようにするか。目の前に迫った敵が土壇場で選んだのは、後者だった。
もちろん迎えうつつもりで、イリスは蹴りを構えようとした。軍服ならできただろう。しかし、今の恰好は私服のロングスカートだ。脚に絡んで、得意の蹴りの邪魔になる。
――こんなときに?!
破くことはもとより、たくし上げている暇もない。相手はもう目前だ。手にはナイフ、向かう先はイリスの眼。怪我をしてでも手で止める――と、この行動はつい最近もとろうとしなかっただろうか。
「なんて残念なんだろう」
また、ナイフは届かなかった。あのときと違うのは、彼がイリスに背を向けていたこと。手には棍がある。そういえば彼の得物は特殊で、伸縮自在だった。隠し持っていたのだろう。
「美しいものに傷をつけようとするなんて、君たちと僕とでは美的感覚が合わないようだ。乗り込むことを選ばずに正解だったよ」
拘束されていたはずだが、解いたのか。おそらくはフィネーロが施したのだろうから、解くのは容易ではなかっただろうに。棍を操り敵を殴り倒したウルフは、小さく息を吐いて振り向いた。
「間に合ってよかったよ、イリス」
何を考えているのかわからない、でも嫌ではない、穏やかな笑顔で。
「……あんた、こいつらの仲間じゃなかったの」
「違うよ」
あまりにもあっさりと答えるので、真実かどうかが分からない。あんなに信じていたのに。
「やっぱり、疑うよね」
笑顔が少し悲し気になる。否定はできない。全てが、明らかになるまでは。
イリスの目の前で、レヴィアンスが襲いかかってきた男を、ルイゼンがウルフを再び確保した。


まもなく軍人たちが現場に到着した。今度は本物だ。一部は確保し拘束した襲撃者たちを連れて行き、一部はイリスとダイ、そしてエイマルを運んでくれることになった。そして残った将官と佐官を中心とした班には、もう一仕事残っている。
「レヴィ兄、本当にこのまま本拠地に乗り込むつもり? 休まなくていいの?」
「休んでる暇なんかないよ。最新の情報がある今がチャンスなんだから。お前の処分はそれから考える」
覚悟してろよ、と額を突かれる。今回は随分と迷惑をかけてしまった。俯いたイリスの耳に、レヴィアンスの声が続く。
「誰かルイゼンの車運転してやって。ちょっと潰れたけど動くよね。どうせ医療用に乗るの嫌がるだろうから、病院にメイベルを預けてから司令部に向かってな。ウルフの聴取はフィネーロを中心に頼む」
「俺の車って……俺はどうするんですか、閣下」
ルイゼンが怪訝な表情をする。返ってきたのは、いつもの表情と真剣な声。
「ちょっと厳しい現場だけど、勉強してみない? ルイゼンは経験がないからって人身売買の件を上に任せようとしたけど、経験さえあれば今後のことを頼めるとオレは思ってるよ」
イリスも顔をあげた。そしてルイゼンを見る。隣にいる時間が長すぎてなかなか気づかなかったが、幼馴染はいつのまにか、随分と大きくなっていた。立場も、人間としても。
「俺が行ってもかまわないんですか」
「リーゼッタ少佐が必要だ。実はオレにとってもそのほうが都合が良いんだよね。下っ端だから暴れさせてやることはできないけど」
「行きます。俺にとっても閣下にとっても良いことなら、断る理由がありません」
伸びた背筋は真っ直ぐだ。声に迷いはない。イリスが気がつかなかっただけで、いつもこうして守ってくれていたのだろう。それがリーダー、ルイゼン・リーゼッタだ。
「……かっこよく、なったなあ……」
思わず呟くと、ルイゼンはこちらを見た。ちょっとだけ頬を赤くして、けれどもすぐに真面目な顔になった。
「お前は早く帰れよ、一般人。メイベルの怪我のフォローだけよろしく」
「そうだ、ベルにまで怪我させちゃったんだ。わたしって本当にだめだ……」
踵を返して軍用車両へ向かうイリスを、ルイゼンは見送る。最後までは見ないで、レヴィアンスについていった。
「あの服着るのが自分と一緒のときだったら良かったのにって思った?」
「そこまで思ってません。似合うのに勿体なかったな、くらいです」
茶化されながら、向かうのは決戦の場所。

イリスたち「巻き込まれた一般人」は、トーリスの運転する車に乗ることになった。後部座席に、ダイとエイマルとの三人で座る。心なしか緊張している様子のトーリスに、ダイが「一般人を運ぶだけだよ」と追い討ちをかけていた。
「大将……いえ、今はヴィオラセントさんですね。インフェリアがご迷惑をおかけしました。こちらは誘拐されたのがお嬢様だと伺ったのはついさっきだったのですが、インフェリアはもちろん知っていたんでしょう。大変申し訳ありませんでした」
余計に緊張したトーリスが、声だけで力いっぱい謝る。手はハンドルを硬く握っていた。
「そうだな、大変な目に遭った。エイマルは手首と足首をこんなに赤くして……」
「ごめんなさい! エイマルちゃん、怖かったよね」
場所が場所なら土下座もしそうな勢いでイリスが頭を下げる。するとその頭に、エイマルはそっと触れた。小さな手に優しく撫でられ、イリスは戸惑う。
「エイマルちゃん?」
「あたしね、実は全然怖くなかったんだ。イリスちゃんが教えてくれた護身術を実践できたし、おじいちゃんやお母さんが教えてくれた通りに周囲の状況を言えた。おまけにお父さんと一緒に来て助けてくれるなんて、こんなすごいドラマなかなかないよ。だから、もう謝らないで」
顔を上げると、天使のような微笑みがあった。手首にはまだ生々しい縄の痕が残っているのに、この子はそれをちっとも気にしていないようだ。それどころかちょっと自慢気に胸を張って。
「ね、お父さん。あたし、エイマル・ヴィオラセントとして、ちゃんとできたでしょう? 貰った時計もね、時間を把握するのに役に立ったんだよ」
嬉しそうに、父に頭を撫でられていた。
「うん、よく頑張ったな。でもあんまり無茶はしなくていいぞ。それよりあとでニールに謝るように」
「そうだね。ニール君のいうことちゃんと聞いてたら、こんな騒ぎになってないもんね」
「わたしこそ謝らなきゃ……。小さい子に怖い思いさせて、軍人以前に人間として最低だ……」
「俺は許すよ。エイマルとニールを利用してデートしたことも。でもうちの奥さんとニアたちはどうだろうな」
さらに落ち込むイリスを撫でながら、エイマルが「お父さん、今はそういうの言わないの」と怒る。この子も大きくなったものだ。今年で十歳になるが、イリスが十歳の時、つまりは軍に入隊した当時よりも、大人なのではないだろうか。
自分はこのままではいけない。人間として、軍人として、もっと成長しなければ、他人を想うことがどんどん裏目に出る。イリスは拳を固く握った。



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posted by キルハ制作委員会 at 15:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 小ネタ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする