2017年05月07日

敵か、味方か

ニア・インフェリアは基本的には画家であるが、その活動は多岐にわたる。そしてそのなかには、一般には知られていないものもあった。宝石を使ってアクセサリーを作るというのも、その一つだ。その技はかつて旅行で訪れた南の大国、サーリシェリアで身につけたのだという。
「一週間くらい休みとって、スキューバダイビングしたり、宝石の加工の勉強したりしてきたんだ。向こうではサーリシェレッドの入手も加工もこっちよりはずっと手軽にできるから。ただ、エルニーニャに持ち込むときに、すごく高いお金をとられるんだけど。それは仕方ないよね、法律で決まっているから」
夕食の準備をしながら簡単に語る兄を、イリスは感心しながら見ていた。手元はちゃんと兄の危なっかしい手つきを支えている。食器をテーブルに出して戻ってきたニールがわくわくきらきらした目でニアを見上げた。
「やっぱりニアさんってなんでもできるんですね。宝石の加工って、カッティングとかも?」
「さすがに専門職の人しかできない部分はやってもらったよ。それでも宝石の扱いは難しくて、本職の人にも売り物にはできないなって言われたけど。そんなでもよければって、イリスのお土産にしたんだ」
「改めて考えると、超高価なお土産だったんだね。お母さんに贈った珊瑚石のブレスレットも、結構したと思ったけど。あれ、珊瑚石って指定品目だっけ」
「サーリシェリア以外でも、海外輸入品があるから、指定には入っていなかったはず。海外もいつか行ってみたいな。長い船旅、ちょっと憧れない?」
憧れるかもしれないけれど、その時はちゃんと家族も、せめてルーファとニールは連れて行ってあげてほしいとイリスは思う。以前に急にサーリシェリア旅行にでかけたとき、ニアはまだ軍人で、イリスは入隊していなかった。しかし当時の状況を知っている人々から聞いたところによると、出発が急だったために、突然一人で残されたルーファが落ち込んでしまって、常にどんよりとした空気に包まれていたとか。
苦笑いするイリスの服の裾を、ニールがくいっと引っ張った。
「イリスさん、サーリシェレッドのアクセサリー持ってるんですね」
「うん。お兄ちゃんが作ったやつ、売り物にならないなんて信じられないくらいきれいなんだよ。お気に入りのブローチなんだ。今度ニールにも見せてあげるよ」
「わあ、見たいです。それって、エイマルちゃんも見たことあるんですか?」
「何度か見せたと思うけど……あの子、宝石の硬度がどうのとかそういう話になっちゃうんだよね。図鑑と名のつくものは何でも読み込むからなあ」
お喋りをしながら夕食の準備を終えた頃、ルーファがレヴィアンスを伴って帰ってきた。途中で会ったそうだ。レヴィアンスの手には酒とジュースの瓶がある。
恒例となった、雑談報告会が幕を開けた。
「ああ、スキューバダイビング事件な……。あれはショックだった。当時もう入隊してたルイゼンにものすごく心配された記憶がある」
ルーファはグラスを傾けながら遠い眼をした。ごめんって、と謝るニアの表情は笑っている。
唐突に南国の海の絵が描きたくなって、実物を見にいくという名目で一週間ほど単独で国外に出ていた思い出は、ニアにとっては楽しいものだが、ルーファには寂しいものだ。あまりの落ち込みように、入隊したてだった(けれどもルーファとはすでに親しかった)ルイゼンや、部下たちが戸惑っていたのを、レヴィアンスも記憶している。「あれは笑ったな」と言うレヴィアンスをルーファがじろりと睨んだ。
「当時の直属の部下は今やほとんどが将官や上級佐官だもんね。今でもルーファを尊敬してるやつらは多いし、スキューバダイビング事件のことも憶えてるよ。直属じゃないはずのレオも憶えてた」
「忘れてほしいな。でも俺も、遠慮がちに声をかけてくるルイゼンとか、大将が落ち込んでるって大騒ぎするタスクのことは忘れられないんだけど」
「タスク?」
ルーファのグラスに薬草水を注ぎながら、イリスは首を傾げた。ルーファは部下が多かったが、個人の名前を出すことは退役して以降はめったになかった。それでも出てくるこの名前は、たしか。
「将官室長のタスク・グラン大将。オレがオリビアさんに指名されたせいで大総統になれなかった悲運の人物で、俺が選ばなかったために補佐にもなれなかった。でも実力は認めてたし、できると思ったから将官室長を任せた。本人がそれに納得してるかどうかはわからないけど、文句がないからまあいいんだろ」
ああ、それで聞き覚えがあったのか。在籍している大将級とは、ガードナー以外は馴染みがないために、あまり名前を覚えていられないイリスだった。それでもいくらか印象が残っているのは、彼が任務でうちたてた数々の功績のためだ。
「俺が最後に関わった人身売買組織の検挙のときも、タスクは連れて行ったよ。正義に燃える熱血漢、派手な行動が目を引く。だから誘導には最適だった。あいつが動いてくれているあいだに、俺たちは監禁されていた人々を保護することができたしな」
「でもサンプルになりそうだったものをいくらか台無しにしてくれたのもタスク君だよね。何度思い返しても、僕はあの件に関してはルーの作戦ミスだと思ってる」
ルーファはタスクを評価しているようだが、ニアはあまり彼を好ましく思っていないのだろうか。「僕たちの領分にまで口出ししてくるし」と呟いて、自分のグラスに追加の酒をどぼどぼと注いでいる。
「そうは言うけど、お前の部下なんか癖が強すぎて連れていくことすらできなかっただろ」
「癖が強い人を僕に軒並み任せたのはルーでしょう」
「まあまあ、過ぎた話はもう良いだろ。ニアもルーファも、今は一般人なんだしさ」
「優秀な人材を真っ先に引き抜いていったやつがよく言うよ。レオナルドのことだって、自分が大総統になるタイミング見計らって近づくなんて」
最初に目をつけたのは俺だったのに、と恨めし気に呟くルーファに、イリスはクラッカーの皿を差し出しながら「そうなんだ」と相槌を打った。
「ルー兄ちゃん、先にガードナーさんを見つけたのに自分の班員にしなかったの?」
「特定の班に所属させるよりは、フリーの人員として事務関係を徹底的にやっていたほうが、あいつの性に合ってるんじゃないかと思ってな。レヴィもずっとそう思ってたと、俺は認識してたんだけど」
「だってさあ、ルーファならわかるだろ。オレの性格なら、絶対レオみたいなタイプが補佐にいないと困る。もし周りの期待通りにタスクを登用してたら今みたいな仕事はできなかったよ」
「それはそうだね。タスク君、暑苦しいもの」
さっきからニアのタスクに対する評価が厳しい。クラッカーでチーズを挟み、ニールに渡している表情は、穏やかな笑顔なのに。
しかし、イリスのかろうじて知るタスク・グラン大将は、確かに活躍は多かったものの、人と衝突していたようなイメージはない。今だってプライドの高い人間をまとめなければならない将官室長という立場をしっかりと務めているように思う。悪い噂がないということは、そういうことではないのか。兄と印象が一致しないことで、イリスは大いに首を傾げた。
「ねえ、なんでお兄ちゃん、そんなにグラン大将のこと気に入らないの?」
「気に入らないわけじゃないよ。ただ、僕とは合わないんだ。ああいう自分より下だとみなした人間に対して常に上から目線の子、苦手なんだよね」
上から目線なのは、どの将官も大抵そうではないだろうか。ガードナーのような腰の低いタイプのほうが珍しいくらいだ。階級が上がれば上がるほど、軍人たちは自らを偉く見せようとすることに躍起になってしまうきらいがある。指示をする立場になるから、というのもあるのだろう。威厳がない上司のいうことは、部下もなかなかきかない。
けれどもイリスがそう言えば、「そもそもそれがおかしいんだよ」とニアが返し、ルーファとレヴィアンスも頷く。クラッカーをよく噛んで飲み込んだニールが、金色の目をきらりと光らせた。
「上司に威厳があるかとかじゃなく、やっていることが本当に適切なのかを見極めて、命令の意図や是非をみんなが自分で考えて行動しなきゃいけないってことですよね。エイマルちゃんが言ってました」
「おおう……エイマルちゃんってばそんなことまで言ってたの。さすがあの両親の娘だわ……」
「指揮系統はもちろん必要だし、団結しなきゃいけない場面だって当然あるけどね。でも立場が上の人間だからってその暴走を止めずに放置したら、それこそとんでもないことになる。それに威厳なんてしっかり仕事をしてようやくついてくるものなのに、肩書やちょっとした印象だけでそれを当てにして尻尾を振ったりそっぽを向いたりするのもおかしいだろ」
豆のさやを振り回しながら語るレヴィアンスに、イリスはふむふむと頷く。明らかな「威厳」がなくとも、人がついてくることはある。逆に威光ばかり気にしてろくな仕事をしない者もいる。
「上に立つってのは大変だね、レヴィ兄」
「オレは肩書と仕事用の家名があるから、文句を言いながらも従うやつは多いよ。だからレオよりはずっと楽。あいつには……本当、最初から苦労かけっぱなしだ」
溜息を吐きながら空のグラスを持ち上げたレヴィアンスに、イリスは瓶の口を差し出した。けれども次の瞬間、危うく取り落とすところだった。
「レオとタスクの仲をぶち壊しちゃったのは、いくら反省してもしきれないよ」
「は?! ……ガードナーさんとグラン大将が、何?」
知らなかったか、とレヴィアンスは目を半分伏せたまま言った。
「レオとタスクは同期だよ。オレたちの二年下。で、二人は三年前までは友達で、寮でも同室だった。その関係が変わるきっかけになったのが、オレの大総統就任だったんだ」
ルーファが黙って薬草水を飲み、ニアは「レヴィのせいじゃないよ」と追加の酒を取りに立った。

ルイゼンと、独りは退屈だからと男子寮に来ていたメイベルは、フィネーロの話に唖然とした。彼が語るあまり事務室に顔を見せない新入り――ミルコレス・ロスタの人物像は、問題があると判断するに十分だった。
「いやあ……世の中にはいろんな性癖の人がいるけど、宝石フェチか……」
「気持ち悪いな。しかもサーリシェレッドがお好みとは。絶対にイリスに近づけたくない」
メイベルの言葉には二重の意味がある。サーリシェレッドの裏での別名は「魔眼」であると聞いてから、彼女はずっと嫌そうに表情を歪めていた。
サーリシェレッドがあしらわれた武器を持ち、瞳にもその色を持つ少女。彼女の持つ能力も「別名」と同じ表現をされる。イリスがミルコレスに目をつけられるまでに、そう時間はかからないだろう。
「全く、新入りはどいつもこいつも信用ならない」
「カリンとシリュウ以外な。大佐は苦手だし、チャン中尉はよくわかんないし、今回の人事は本当にどうなってるんだか」
「君たちがそう言うと思って、僕もちょっと調べてみた」
憤慨するメイベルと疲れた顔のルイゼンに、フィネーロは端末の画面を見せた。兄から譲り受けたものを、そのままずっと使っているのだ。スパイ道具を持ち歩いて大丈夫なのかとルイゼンが問うたことがあるが、一応は大総統閣下の許可を得ているらしい。寛容なのではなく、利用価値があると判断されたのだろう。
「個人データの持ち出しは、俺は感心しないけど」
「しかし役に立つかもしれん。室長大佐様の弱点は載っていないのか」
「弱点になるかどうかは、データを見て判断してほしい。ただ僕はやはり今回の異動に目的があるように思えてならない」
ネイジュ、ミルコレス、ジンミ。三人分の簡単なデータが端末に表示されている。この国の軍人であれば容易にアクセスが可能なものだが、それは軍の情報端末での話であって、個人的に持ち出すことは非常に危険だ。それでもフィネーロがそれをしたのは、三人に共通点を見つけたからだった。
「ロスタ少佐はさっき話した通り、宝石マニアで指定品目輸出入の取り締まりに携わっていた。チャン中尉は宝石商家の出身で、宝石関連の事件では真贋を見分けられる特技を発揮している。そしてディセンヴルスタ大佐は、指定品目輸出入の取り締まりを指揮していた。……そして最近になって、地方司令部の管轄で指定品目の違法輸出入や宝石を違法に売買する事件が立て続けに起こっている。地方に必要なはずのエキスパートたちが、何故今中央に集められているのか。僕はまた閣下が何か掴んでいるのだと思う」
これくらいなら、仕事の片手間に簡単に調べられる。フィネーロが提示した資料と疑問に、ルイゼンは感心し、メイベルは呆れた。
「イリスがやたらと外に出されているのも、指定品目、たぶん宝石についての情報を集めさせられているせいじゃないか。今日の午後に向かったのは、ウルフ・ヤンソネンのところと国立博物館だろう。あの男は貴族の持ち物には詳しそうだし、博物館には指定品目についての資料がある」
「閣下も余計なことをしてくれる」
「宝石かー……。たしかに危険薬物と並ぶ、裏の取引材料なんだよな。てことは、閣下は大佐たちを疑ってるのかな。本人たちを動かさずにイリスに調べさせてるってことは、中央司令部にチェックが入ってるわけじゃなさそうだし」
地方で起こっていた事件については、ルイゼンも一時期の室長仕事のおかげで、多少の心得があった。危険薬物、人身売買、違法輸出入と、事件が盛り沢山で頭が痛くなった日々が思い出される。けれどももしかすると、その一時期ですらもレヴィアンスの計算のうちだったのかもしれない。
ふと、メイベルが眉を顰めた。そして大きな舌打ちをして、部屋を出て行こうとした。
「どうした、突然に」
「カリンを問い質す。あいつもサーリシェレッドの売人と接触している。ルイゼンもシリュウから話を聞いておいた方が良い」
「こんな時間にか? それに、なんでシリュウまで?」
「三人が宝石に関係している、という認識は間違ってはいないが正確じゃない。正しくは、異動してきた五人中四人が関わっている、だ。イリスだって五人分のカルテを確認したがっていた。だったら残る一人も疑ってかかるべきだろう」
「お前、いくらなんでも身内まで……」
ルイゼンが止めようとするのを振り払って、メイベルは行ってしまった。これからカリンが責め立てられるのは間違いない。身内だろうが他人だろうが、彼女は容赦しないのだ。
「……やっぱり、見てきたほうがいいよな。それともこの場合はフィンが行ったほうがいいのか?」
「僕が行こう。もっとも、明日にしろとしか言えないが。ルイゼンはここに用意したサーリシェレッドについての資料でも読んでおくといい。何はともあれ、イリスに関係していそうなことだ」
イリスに関わっていそうなことを、彼女自身に調べさせる。レヴィアンスが何を考えているのか、ルイゼンは目を閉じて想像する。あの人を理解できるとはいわないが、思考の一端くらいはわかるつもりだ。
一つ思いついたのが、汚名返上だった。イリスがいつまでも「大失態を犯した軍人」とみなされているのは、レヴィアンスにとっても都合が悪いだろう。強引な手段を使ってでも、彼女に挽回の機会を与えたいと思ったのかもしれない。
けれども、本当にそれだけか。ここで叩いておかなければならない何かがあるのではないか。
「サーリシェリア産鉱石サーリシェレッド、裏での通称は『魔眼』か……」
ルイゼンだって忘れてはいない。イリスは狙われているのだ。今この瞬間も、裏の者たちは彼女の眼の力を欲している。


翌日、リーゼッタ班は午後から外での任務にあたるようにとネイジュから言い渡された。ルイゼン、イリス、シリュウの三人で、近郊の村に向かう。だがこの指示がネイジュの本意ではないことを、ルイゼンはよく知っていた。
「前に危険薬物の取引があったから、しばらくは定期的に様子を見に行かなくちゃならないって、トーリス准将が言ってたよね。それをディセンヴルスタ大佐が引き継いだんだ」
「一応。でもすっごく嫌そうだった。あの人は極力無駄だと判断したことを省きたいんだろうし」
「レヴィ兄が許さないでしょ。危険薬物関連は情報を専門家に渡す約束になってるもん」
この仕事はシリュウと話をするきっかけになるかもしれない。イリスは期待して彼を見たが、やはり今日も無表情で黙々と机に向かっていた。
留守番組になるメイベルの機嫌はすこぶる悪く、カリンも困ったような表情をしている。あとで事務室の様子を見に戻ってくると約束してくれたフィネーロも、仕事量によってはあまり頼れない。
昨日の今日だ、何事もないことを祈るしかない。
「それはそうとして、閣下のところには行かないのか」
「昨日のことは昨日のうちに報告したからね。今日はこっちに専念するよ」
「そうか。調査中の案件は、俺たちにもまわしてくれそうなものなのか?」
「たぶんそうじゃないかと思うけど……」
それがいつ、どんなかたちでルイゼンたちの耳に入るのか、イリスにはまだわからない。けれども確信めいた表情から、イリスが何も言わずとも探っていそうな気はしていた。こちらの準備が整う頃には、すでに仕事にかかる手筈が整っているという未来が、ありありと想像できる。なにしろイリスは迂闊で、仲間たちは優秀なのだ。
「じゃあ、午前の仕事だ。俺とイリスは午後に行く現場の下調べ。シリュウにもこれまでの調査結果を覚えてもらわなくちゃな。メイベルは今日も訓練指導があるから、ちゃんと教えてくるように。カリンは今から俺が教える資料を持ってきてくれ。軍設図書館との往復になると思うけど」
「大丈夫です。午後のお仕事に関わってるんですか?」
「ああ。別件もあるけど、優先度が高い順に言う」
ルイゼンが羅列した資料は、一人で扱うには少々多すぎるように思えた。けれどもカリンはそれをきちんと書き止め、それでは行ってまいります、と事務室を出ていく。イリスは心配だったが、ルイゼンは逆にホッとしたようだった。
「なんでそんなホッとしてるの」
「ひとまず姉妹喧嘩を回避できたから。な、メイベル」
「そうだな、あいつを問い質すのは午後に延期だ」
問い質すって何を、と尋ねる前に、ルイゼンが詰め寄ってきた。仕事の件だけど、と言いながら、イリスの机にメモを置く。少々乱暴な字に息を呑んだ。
――異動してきた人間全員と宝石には何か関係があるのか。
思ったよりも、事態は知られている。迷った末に、イリスは小さく頷いた。やっぱり、と呟きが返ってくる。答えを予想していたように、ルイゼンは二枚目のメモを置いた。
――サーリシェレッドが裏で「魔眼」と呼ばれているそうだが、お前の眼と関係があるのか。
メモを置くあいだにも、あくまで午後の仕事の話を続けるルイゼンに、不覚にも慄いた。彼の向こうには、ネイジュとジンミが会話をしている光景がある。そしてイリスの背後には机で作業を続けるシリュウがいる。誰もルイゼンの動きに不審感は持っていないようだ。
レヴィアンスがルイゼンを高く評価している理由が、また少しわかった。このやり方は兄たちのものなのだ。ルーファとニアが現役時代にしていた、そしてレヴィアンスが現在も用いている方法を、彼は上手く自分のものにしている。
イリスは頃合いを見て、「そうだね」と相槌を打った。その言葉を聞くと同時に、ルイゼンは二枚のメモを回収する。手品師のごとき鮮やかな手つきに、溜息が出そうになるのを我慢した。
「……じゃあ、シリュウも交えて打ち合わせをしよう」
自分の名前が出たことで、シリュウがこちらに意識を向ける。ルイゼンが手招きをしてこちらに呼び寄せ、本当の午後の打ち合わせを始めた。シリュウにとって、初めての中央での任務だ。身になるものにしてやりたい。
「中央は、危険薬物取引の取り締まりには特に力を入れていると聞きます」
一通りの話を聞いて、シリュウが言った。そのとおり、とルイゼンが頷く。
「地方司令部で担当していた危険薬物関連事件も、最後には中央で処理して、情報を他国と共有する。最も多い犯罪の一つだし、こうすることで未然に防いだり、取引のルートを潰したりしていきたいっていうのが閣下の考えなんだ」
「なるほど。たしかに危険薬物関連事件は大陸全体での問題ですね。他を差し置いても優先されるのはわかります」
いくら取り締まっても尽きない事件は、常に最重要事項に置かれる。他の事件にあまり人や時間を割いていないように見えるのはたしかだった。イリスがちょっと苦い顔をすると、シリュウは気づいて頭を下げる。
「すみません、閣下のやり方を非難しているわけではありません。インフェリア中尉は補佐ですから、気にしますよね」
「ううん、わたしもそこまでは思ってないよ。……シリュウは、他にもっとちゃんと調べてほしいこととかがあるの?」
優先されるべきことに埋もれてしまって、見逃されていること。これがのちに大きな問題になってしまうことを、イリスも知っている。たとえば、本来滅多に起きないはずの指定品目の違法輸出入だとか。シリュウも何らかの形で、これには関わりがあるはずだった。
「いいえ、そういうわけではありません。今は目の前の仕事に集中します」
シリュウがどうやってサーリシェレッドに関わったのか、彼の口から聞きたい。だが、まだ聞けるタイミングではなさそうだった。ルイゼンは午後の仕事についての説明を改めてし始め、イリスはシリュウの表情を窺った。変化は、やはり見られなかった。

ミルコレスは結局、フィネーロの隣の席に腰を落ち着けてしまった。仕事もそこで進めている。たしかに手際は良く、自分に任された分は順調に片付けていた。事務仕事には自信があったフィネーロよりもスピードが速い。ちらりとディスプレイや作成した書類などを見たが、雑であったりいいかげんであったりすることもなかった。
「リッツェ君、中央への異動は栄転だと思うかい?」
しかも喋る。手を動かしながら、何気なく。フィネーロも自分の仕事をしながら、それに答えた。
「閣下に召集されたなら、栄転なのでは?」
「閣下の召集というか、地方司令部長の推薦というか。まあ、一見して仕事ぶりを認められているような感じがするけれど、実のところ俺は栄転だとは思ってないんだよね。だって、俺にとって仕事の最前線は南方だから」
彼の所属していた指定品目輸出入の取り締まりを担当する特別任務の班は、南方でできたものだ。南方司令部が最もノウハウを持っているし、仕事量も多い。中央に来れば他の仕事にまわされ、指定品目関連よりも危険薬物関連のほうが重要な課題になる。今までミルコレスが専門としてきた仕事には、あまり関われなくなるかもしれない。
「では、ロスタ少佐は今回の異動をどう思ってるんですか」
「左遷だね」
ずばりと正反対のことを言うので、フィネーロは一瞬手を止めかけた。だが、気にしないふりをして相槌を打ち、自分の仕事を続けた。耳だけを隣に傾ける。
「ここに来る前の仕事で、サーリシェレッドの違法取引を押さえるのに失敗してるんだよ。南方司令部がマードックにあるのは君も知っての通りだけど、まさにそこで起こった事件を、俺たちは解決できなかった。違法に輸入されたサーリシェレッドも未回収だし、関係者の確保にも至っていない。大失態を犯したのに、どうして中央に来たのが栄転だと思えるのかな。それとも、他の人たちは栄転なんだろうか。ディセンヴルスタ大佐はもしかしたら栄転だと思ってるかもしれないね」
そういえば、集めた情報ではそうなっていた。直近で発生した指定品目の違法輸出入や違法売買は、未解決が続いている。専門の班であるはずのミルコレスたちですら、任務に失敗しているのだ。
「ディセンヴルスタ大佐について何か知っているんですか」
「んー? 大佐はね、北方司令部で指定品目の違法取引に関わっていたんだよ。でも、ついこのあいだ、犯人を取り逃がして、取引対象の回収もできなかった。指揮を執っていた者として責任を負うってかたちで、北方の違法取引の仕事からは手を引いたはずだけど、まさかそれで中央に来られるなんてねえ。あの人、中央に配属されることを強く望んでいたから、今回の人事は願ったり叶ったりだったんじゃないのかな」
歌うように楽し気に言うミルコレスだが、その内容は重大だ。彼がこのことを知っているのは、南方で特別任務に就いていたからこそだろう。各指令部をまわっての任務もあったはずの彼なら、事件関係者を知っていてもおかしくはない。だが、その情報をフィネーロにもたらす意味は何だろう。
「もしかして、チャン中尉のことも知っているのでは?」
考えながら、さらに情報を引き出そうと試みる。ミルコレスはしばし鼻歌を歌っていたが、ごまかすことはしなかった。
「知ってるよ。ジンちゃんは俺の大切な仕事仲間だもの。きれいな宝石を見せてくれるいい子だよ。仲良くしておいて損はない」
「彼女も仕事でミスを?」
「大佐と同じだよ。犯人を逃がして、取引対象の完全回収ができなかった。同じ任務にイドマル准尉も関わっていたから、一緒に来たんじゃないの」
シリュウとジンミはともに仕事をしていたのか。同じ東方司令部から来たのだから、それは十分にあり得ることではあった。だが、やはり「中央に左遷」というのはおかしい。シリュウなどは、異動に伴って昇進もしている。
やはりこの人事には裏がある。確信したフィネーロがすぐに考えたのは、このことをいつルイゼンに伝えるか、そしてどのタイミングでイリスを問い詰めるかということだった。
すぐ隣の人物がここまで喋る理由は、後回しにして。

訓練指導を終えて戻ってきたメイベルと、何度目かの資料室との往復から戻ってきたカリンが鉢合わせたのは、事務室までまだいくらか距離のある廊下のど真ん中でのことだった。バインダーを抱えながら、カリンは姉に笑いかける。
「お姉ちゃん、お疲れ様」
「……お前」
何事もなかったような妹の表情に、メイベルの頬が引き攣った。昨日ネイジュに叩かれたのが、やっと腫れがひいたところだった。
「ちょうど良かった、カリン。お前に聞きたいことがあったんだ」
「どうしたの?」
「昨日の朝、イリスに話していたことだ。宝石の違法売買をしていた奴を取り逃がしたという話、あれは全部が本当の話か?」
廊下には他にも多くの軍人がいる。メイベルを見て逃げる者、カリンに珍しそうな視線を向ける者と様々だったが、ここにいることが目立っているのには変わりない。
「お姉ちゃん、こんなところでその話は……」
「いいから答えろ。一言で良い」
周りを気にしながらも、カリンはメイベルの眼力に負け、頷いた。
「本当だよ。わたしのミスで売人を捕まえられなかった」
「あの話が全てなんだな。話していないことはないか」
「……お姉ちゃん、何が言いたいの?」
カリンは怪訝な表情で、バインダーを抱え直した。手に少し力が込められたのを、メイベルは見逃さない。見逃すものか、生まれたときから見てきた妹のことだ。
「お前はここに来たとき、強くなったと言った。私は、それは本当のことだと思った。だからわざわざ失敗談を、それも重大なミスをしたことを自分から白状するなんて、おかしいと思っている」
姉妹の様子がおかしいことに、周囲も気づき始めた。二人のことを知っている誰かが、リーゼッタ中佐を呼んだほうが良いんじゃないか、と言った。だが、来たところで、メイベルに止めるつもりは毛頭ない。納得のいく答えが得られるまで、カリンを問い詰める。
「何もできなかったわけじゃないだろう。いや、言い方を変えようか。売人は、本当はお前に何をした。お前が何もできなくなるようなことをしたはずだ」
「だから、急に腕を掴まれて……」
「それしきで無抵抗になるようなら、中央になんか来られるはずがない。お前もそれは疑問だと言っていただろう。全部話したふりをして、イリスを欺くような真似をしてはいないだろうな」
首を横に振るカリンの肩を、メイベルが強く掴んだ。痛い、と呻く声にも怯まない。もしも何か隠しているのなら、たとえ妹だとしても、いや、妹だからこそ許さない。
「メイベル!」
背後から駆けつけてきたのは、ルイゼンだ。だが焦った声を無視して、メイベルはカリンの目をじっと見ていた。カリンもまた、しっかりと見返していた。――何も話すことはない、というように。
「おい、何やってるんだ。訓練指導が終わったらすぐに報告に来い。だいたいこんな廊下の真ん中で」
「煩い、黙れ。私はカリンと話をしている」
肩に置かれた手を、メイベルは見もせずに振り払う。それでもルイゼンは退かない。
「ここですることじゃないって言ってるんだ。今日の昼は第三休憩室に集まろう。どうせ俺とイリスとシリュウは、仕事の話をしなくちゃならないし」
「私がカリンを追及するのを、イリスは止めようとするだろう。それじゃだめだ。私はイリスのために真実を知ろうとしているのに」
「だったらもうわたしは話したよ、お姉ちゃん。わたしは失敗をした。けれどもそれまでの貯金があったから中央に来られた。あるいは失敗したわたしをより厳しいところに置いて鍛え直そうとしているのかもしれない。この答えでも納得できない?」
眉間にしわを寄せるメイベルに、カリンは毅然とした態度で応える。それ以上のことはないと言う。だが、メイベルには姉としての勘があった。まだ何かある、妹は何かを言っていない。それは遠い昔、彼女が父からの暴力を隠そうとしていたときに似ていた。
「……発言に矛盾があるぞ、カリン」
吐き捨てて、メイベルは踵を返した。姉からの追及から逃れられたカリンは、ほう、と息を吐いてバインダーを抱きしめる。そして唇を噛んだその表情に、ルイゼンも違和感を覚えた。だが、ここではその正体を確かめられない。
「カリン、まずは事務室に行こう。資料はそれで最後だから、次の仕事の指示をする」
「わかりました」
カリンは頷き、ルイゼンの後についてきた。周りから見れば、彼女は真面目な軍人に見えるだろう。実際そうなのだが、やはり、メイベルの妹でもあるのだ。

呼ばれて出て行ったルイゼンを見送った事務室には、イリスとシリュウが残されていた。あの慌てようはメイベルあたりが何かしたのだろう、とイリスは予想をつけて、一緒に行きたいのを我慢して待っている。シリュウを一人で残していってはいけない。
「慕われているんですね、リーゼッタ中佐は」
ぽつりとシリュウが言う。イリスは笑って頷いた。
「わたしたちのリーダーだからね。何かと責任をとらされることも多いから申し訳なくも思うけど、本人は仕事としてきちんとやってくれるから。きっとそういうところ、レヴィ兄やうちのお兄ちゃんたちから教わったんだと思う」
もともとお兄ちゃん気質ではあるけど、と付け加えると、シリュウは小さく相槌を打った。
「インフェリア中尉のお兄さんは、ニア・インフェリアさんですよね。元中央司令部大将の」
「うん。シリュウもやっぱり知ってるんだね」
「有名人ですから。それに師匠……リータス准将からも話は聞いています。東方司令部で事件を解決に導いたこともあると。なのに、どうして画家になったんですか。軍にいれば、大総統にだってなれたかもしれないのに」
昔東方司令部で起きたという事件のことは聞いて知っているし、兄がどうして軍を離れたのかという質問も何度も受けた。それだけ兄の退役は惜しまれたものだったのだと、そのたびに実感し、いつもと同じように答える。
「昔から絵はお兄ちゃんの大好きなことで、上手かったからね。大陸全土規模のコンクールで評価されて、絵が売れるようになってから、軍を辞めることは考えてたみたいなんだ。最初は名家の子の道楽だ、なんて言われてたこともあったみたいだけど、素性を隠して発表した作品が話題になってからはそんなふうに言う人もほとんどいなくなった」
本当はそれだけじゃない。ニアが大人になって、自分の持つ「兵器」とも称される力を抑え込めるようになり、軍の監視下に置かなくても大丈夫だろうと、やっと認められたということもある。一緒に生きていこうと言ってくれた人がいたということも、もちろんだ。
大総統やそれに準ずる地位なんて、全く望んではいなかった。本当はレヴィアンスだって、ゼウスァートではなくハイルの名でそこに立つのが一番だと思っていた。けれども、全てが思い通りにはいかない。彼らには彼らの背負ってしまったものがある。
「インフェリア中尉は、いつか大総統になりたいと思いますか」
「え、わたし? レヴィ兄の忙しさを見てると、積極的になりたいとは今は思えないかな。でもその立場にある人を手伝うことができたらいいとは思ってるよ。それがきっと、軍家インフェリアの務めだから」
そしておそらくは、自分の背負ってしまったものの最も有効な使い道だから。イリスの言葉を、シリュウはじっとして聞いていた。やがて、イリスの目を真っ直ぐに見て、口を開く。
「おれと手合わせをお願いします、中尉」
「手合わせ? いつでも歓迎だよ」
「では、今夜でいかがでしょう。練兵場は終業後もしばらく使えますよね」
「そうだね、ちょっとなら。でも尉官同士だから、佐官以上の立ち会いが必要だなあ」
誰に頼もうか、と考えているあいだに、その言葉は告げられた。聞き逃しそうだったが、たしかに耳に入ってきた。
「そしてもし、おれがあなたに勝てたら。あなたの持っている『魔眼』を、おれにください」
裏で使われるその符丁。サーリシェレッドを表すそれを、彼は知っていた。異動でここに来た者なら、サーリシェレッドに関わったことのある人物だということはイリスもわかっている。符丁を知っていてもおかしくはないのだが、シリュウの言葉は妙に鋭い。それにわざわざ「魔眼」という言葉を、イリスに向かって使うとは。
「……それって、どういう意味?」
「あなたがおれに負ければわかりますし、おれがあなたに負ければわからないままでいいんです」
息を呑んで、頭をよぎったのは、立ち会いはいないほうがいいのではないかということだった。

昼の第三休憩室には、緊張した空気があった。仕事の話をしながらも、ルイゼンの意識はメイベルとカリンに向いているし、イリスはシリュウを気にしている。メイベルは苛立っていて、フィネーロは仕事中に聞いた話を頭の中で何度も繰り返していた。
「午後イチの任務が終わったら、俺たちは司令部に戻ってきて報告書を作る。が、何もなければたぶん大佐は目を通すこともしないだろうな。この仕事自体、あの人にとっては無駄だし」
溜息を吐くルイゼンに、フィネーロが眉を顰めた。
「無駄な任務をわざわざあの大佐がさせるだろうか。君を司令部から離れさせるための、厄介払いなんじゃないか」
「その可能性はあるな。現状、大佐様に意見できるのはルイゼンだけだ。いないあいだに何かしようと企んでいるのかもしれん。カリン、お前は何か知らないか?」
「知らないよ。わたしだって、ディセンヴルスタ大佐が何を考えてるのかわからないんだもん。なんでわたしにそんなこと訊くの?」
姉妹の関係に飛び火してしまったので、ネイジュについてはひとまず置いておくことにする。ルイゼンは話を元に戻そうとして、イリスの様子に気がついた。思えば、自分たちが事務室に戻ってから、ずっと何か考えているようだった。
「イリス、気になることでもあるのか」
「え? ううん、何も」
笑みを浮かべて否定するイリスの嘘が、ルイゼンには手に取るようにわかる。彼女の兄の嘘はなかなか見抜けなかったが、妹は父似で実にわかりやすい。
今のうちに追究しておいたほうがいいだろうか。それとも話してくれるのを待つべきなのだろうか。迷うルイゼンを一瞥して、先に口を開いたのはフィネーロだった。
「なあ、イリス。君は閣下の命令で、先頃頻発しているサーリシェレッドの違法取引検挙の失敗と、その関係者である今回の異動人員について調べているんだろう」
瞠目したルイゼンの向かいで、イリスが驚嘆した。どうして知っているのか、ではなく、ここでずばりと言われたことに対する反応だろう。カリンも微かに表情を変え、シリュウは肩がピクリと動いた。
「フィン、情報速いねえ……。しかもそれ、言っちゃうんだ」
ルイゼンが思ったことを、イリスはそのまま口にする。それから小さく息を吐いて、両手をあげた。降伏のサインだった。
「その通りだよ。異動してきた五人全員のカルテも、そのために確認しに行った。サーリシェレッドについて詳しく知りたかったから、ウルフやアーシェお姉ちゃんに話を聞きに行った。わたしもサーリシェレッドについては知らないことが多いんだよ。でも、はっきりしてるのは、あの宝石とわたしの眼が裏では同じ呼ばれ方をしているってこと」
「『魔眼』だな。イリスも狙われているし、サーリシェレッドも各地で違法に取引されている。このままじゃ裏の狙いがどっちなのかわからないし、どちらかでごまかされる可能性がある」
ようやく口を挟んだルイゼンに、イリスは正直に頷いた。
「イリスの眼をサーリシェレッドでごまかすほうが圧倒的に可能性が高い」
「そう、ベルの言うことを、レヴィ兄も考えてる。それで関係があった人員を各地方司令部から集めたの。もちろん実力を評価して、中央司令部にいるわたしの味方を増やすっていうのが最大の理由だよ」
困惑するカリンとわずかに眉を顰めるシリュウを見て、慌てて付け加える。カリンとシリュウは確実に味方であるはずだった。――さっきまでは。
メイベルが舌打ちをして、しかし、と言った。
「よそから人員を集めるほうがよほど怪しいし危険じゃないのか。それも任務に失敗した人間ばかり。もしかして失敗したのではなくて、わざと取引を見逃したのかもしれんぞ」
どいつもこいつも、と呟くメイベルの中では、妹すらも容疑者から外れてはいない。姉に睨まれたカリンは黙っていたが、俯いてはいなかった。
「ロスタ少佐は今回の人事を『左遷』と表現していた。あの人は中央に来たことを、サーリシェレッドを含む指定品目の違法輸出入案件から遠ざけられたと感じているらしい。イリスの味方にはなりそうにないと僕は思うが」
「大佐とチャン中尉も、あんまり味方っぽくはない……てのは俺の偏見かもしれないけど」
「わたしもレヴィ兄も、よくわからないことが多いんだ。何もなければそれでいいし、もしわざと任務に失敗していたとしたら、裏についての情報を引き出す。不確かなことばかりだから、まだゼンたちには話してなかったんだよ」
できれば疑いは晴らしたい、というのがイリスの考えだ。けれども彼女の中で容疑が濃くなってしまった人物がいる。それをここで言うわけにはいかず、とにかく、と言葉を継いだ。
「当面は何も知らないことにしてほしい。カリンちゃんとシリュウも」
正式にレヴィアンスから命が下るまでは、普段通りに、おとなしく。難しいとわかっていても、今はそうするよりほかはない。イリスだけではなく、ルイゼンもそう考えていた。だが。
「大佐様と色目女とシリュウにルイゼン、軟派男にフィネーロ、カリンに私。閣下もうまく監視体制を整えたものだな」
メイベルはそうはとっていなかった。彼女だけではなく、フィネーロも静かに頷く。カリンとシリュウが再び緊張した。
イリスは慌てて否定する。
「そんなんじゃないよ。ていうか、それじゃゼンの負担が大きすぎない?」
「一応室長補佐だ、妥当なところだと私は思うぞ。なあ、ルイゼン」
頭を掻きながら、ルイゼンはこれまでのことを思い返す。一時的にでも室長になったこと、あまり補佐はさせてもらえないがネイジュのしない仕事は自分が引き受けていることを考えると、たしかに事務室全体を見られる立場ではある。監視だと考えれば、異動してきた全員があの事務室かフィネーロのいる情報処理室に配属されたのも筋が通る気がしてしまう。
頷きかけたそのとき、カリンが勢いよく立ち上がった。
「わたし……、わたしはっ! イリスさんが狙われているというのが本当なら、絶対に味方です!」
叫んだ声に嘘はないようだ。イリスは嬉しそうに笑みを浮かべ、メイベルは目を細めた。疑い深い姉もこの言葉は信じたらしい。
「では、僕たちは知らないふりを……と言いたいところだが。イリス、僕の情報源はロスタ少佐本人なんだ。僕はそのまま彼から話を聞いていていいだろうか」
フィネーロはまだ渋い顔をしていたが、イリスは一瞬瞠目してから頷いた。情報が向こうから来るのなら、どうしようもない。
「ロスタ少佐が何を考えてるのかは、もしかしたらフィンが掴めるかもしれないね。わたしもそろそろ、大佐やチャン中尉に直接あたってみようかと思う。ちょっと難しそうだけど」
「根気が必要になりそうだな。なにしろあの大佐と、何考えてるのかわからない中尉だ。そういえばシリュウはチャン中尉と同じ東方司令部にいたんだろ、何か知らないか?」
苦笑いしながらルイゼンが尋ねると、シリュウは無表情のまま「いいえ」と答えた。
「一緒に仕事をする機会はありましたが、おれもあの人のことはよくわかりません。宝石商の娘で、やたらと宝石に詳しいこと、それが好きであることは誰の目にも明らかでしたが」
ここでもすでにわかっていることだ。「だよなあ」と口にしながら、ルイゼンは全員の顔を見渡した。
イリスの表情がこわばり、フィネーロが怪訝そうに眉を顰めていた。


午後の視察任務は、何事もなく終了した。普段通りに振る舞えたはずだ。ルイゼンはこちらの様子に何も言わなかったし、シリュウは指示通りに仕事をしていた。
しかし、よく冷静でいられるものだ。シリュウという人間が、いよいよ恐ろしい。終業後の練兵場で、イリスは深く溜息を吐いた。
距離をとった正面には、刀を構えたシリュウがいる。本来の得物ではなく、武器庫から借りた模造刀だ。イリスが手にしている剣も、本物ではない。
これはあくまで手合わせなのだ。ちょっと、賭けているものが特殊なだけの。本当にイリスを狙っている人間が仕掛けてくるはずの、殺し合いではない。だからシリュウは裏と繋がっていない……と思いたい。
「始めましょう、インフェリア中尉」
痺れを切らしたのか、シリュウが低く言った。覚悟を決めなければ。勝てなければ「魔眼」は彼の手に渡る。――それははたして、宝石なのか、眼なのか。判断はとうとうつかず、必要なはずの立ち会いは誰にも頼むことができなかった。
ルイゼンやレヴィアンスに知れたら、叱られるだろう。けれども、シリュウが疑われることに比べたら、そんなことは大したことじゃない。
「勝負は三本。刃が体に触れれば有効ね」
「承知しています」
この若者を、せっかく来てくれた後輩を、この期に及んでもイリスは疑いたくないのだった。
地面を蹴るのは同時。互いの刃は一瞬で接近し、ぶつかった。中段から振り上げるようなシリュウの斬軌を、イリスが剣を振り下ろして止めた。ミナト流剣術を熟知しているわけではないが、似たような斬撃は過去にグレイヴと手合わせをしたときに経験済みだ。
一撃目はそれでよかった。だが、すぐに一歩引いたシリュウから、次の技が繰り出される。イリスの胴を真っ直ぐに狙った、鋭い突き。当たればたとえ模造刀でも激しい痛みは免れない。すんでのところでそれをかわし、イリスはそのまま剣を真横に薙いだ。得物が大剣ならば、兄の得意な技の一つの模倣になる。
シリュウの反応がわずかに遅れ、剣が彼のわき腹に当たった。
「……やはりお強い。沢山の方と、様々な訓練を積まれたんでしょう」
刃の当たった箇所を撫でながら、シリュウは言う。口調はまだまだ落ち着いている。とても追い詰められたようには思えない態度だ。
「シリュウこそ、容赦ないね。模造刀でも突きは怪我する可能性高いんだよ」
「本気でやらなければ、あなたには勝てません。それに、失礼でしょう」
なんて真面目で、真っ直ぐな子だろう。これがただの手合わせであれば、イリスは喜んで、心置きなく相手をすることができた。実際、手応えのある相手にわくわくしていた。だからこそ、彼から「魔眼」の名が出たことが惜しい。
続く二本目は、イリスから斬りかかっていった。上段に剣を振りかぶって跳び、勢いをつけて袈裟懸けに斬りつける得意戦法だったが、シリュウは完全にこちらの動きを見切ってそれを止めた。そしてイリスが着地をする直前の、バランスが危ういところを的確に狙って、空いていた足を屈みこんで斬り払った。刃を受けた足は上手く地面につかず、イリスはそのまま倒れ伏す。兄や、同じく剣を使うルーファに、よく同じ負け方をしていた。
「これで一勝一敗です。次で決めます」
「こっちの台詞よ」
にい、と笑ったイリスに、シリュウはただただ無表情で向かう。イリスが立ち上がって、すぐに三本目が始まった。
もう足を駆使した戦法はとれない。シリュウの攻撃は速い上に強く、先ほどの一撃はイリスの足から無茶ができるだけの力を奪っていた。もとより足の強さが取り柄だったイリスだ、これでは本領発揮は難しい。でも、だからといって諦めるわけにはいかない。
いくら正統流派の剣術であっても、その使い手がどれほど優秀であっても、年季はこちらのほうが勝っている。「魔眼」のやりとり以前に、イリスはシリュウよりも先輩なのだ。ここで負けては。
「ここで負けちゃあ、イリス・インフェリアの名が廃る!」
中段の薙ぎを防ぎ、弾く。隙ができた体面に上段から打ち込もうとしたが、止められた。が、そのまま力を込めてシリュウの手を下させる。離れれば反動が来ることはよくわかっているし、シリュウもきっとそれを狙っている。だから無理にでも足のばねを働かせた。
斬られる前に、飛び退く。そしてすぐにまた前へ。急接近にも少しもたじろぐことのないシリュウは、やはり見事だ。精神力ならルイゼン並か、それ以上かもしれない。
上段に構えた刀を弧を描くように下段へと振り下ろし、掬いあげるようなシリュウの技を、イリスは斬られるより先に彼の手を剣で打ち、止めた。
「……はい、わたしの勝ち」
「……やられました」
寸分の差しかなかった。シリュウの刃は、ほんのわずか、イリスに届いていなかっただけだった。
「危なかったあー……。尉官でこれだけ手応えのある相手って珍しいよ」
「おれも、ミナト流が通用しない相手は、今まであまりいませんでした。やはりインフェリア中尉は強いです。こんなことなら、『魔眼』を引き合いに出す必要もありませんでした」
そもそもどうしてそんな条件を、と問おうとした。しかし、できなかった。
「こらあ!! 何やってんだ、バカイリス!!」
勝手に勝負をしただけで、こんなに怒鳴られたことはない。命令を無視して対象人物と二人きりになったのがいけなかったのだ。
いつのまにかやってきて、怒号を飛ばしたレヴィアンスに、イリスはぎこちなく笑った。もちろん通用しなかった。
「ごめんって、レヴィ兄。だって剣術使いって聞いたら勝負してみたくなるじゃん」
「少しはいうこときけっての。オレの命令破るだけならまだしも、基本的なことすら守れてないなんて、全然反省してないな!」
頬を抓まれるイリスに反論は不可能だ。そのまま大総統執務室まで引っ張られるかと思ったら、シリュウがそれを止めた。
「閣下、おれがインフェリア中尉に手合わせをお願いしたんです」
「後輩に頼まれようと何だろうと、時間外の練兵場の使用は上司の許可と立ち会いが必要なんだよ。シリュウも覚えとけ」
「上司に言えないような理由を、おれがわざとつけたんです」
ぱ、とレヴィアンスの手がイリスの頬を放した。イリスが制するより早く、シリュウは「理由」を口にする。
「手合わせをしておれがインフェリア中尉に勝てたら、中尉の剣の柄にあるサーリシェレッドをくれるように頼みました。おれの馬鹿な頼みを、中尉は断れず、おれのために人に言うこともできず、こっそり相手をしてくれたんです」
レヴィアンスも黙ったが、イリスも閉口した。これは、そういう勝負だったか。「魔眼」とはそちらの意味だったのか。――それにしては、とってつけたような。
「……なんでサーリシェレッドが欲しかったのさ?」
怪訝な表情で問うレヴィアンスに、シリュウは少しも表情を変えることなく答えた。
「おれの悪い癖です」

午後の任務の報告書は、「異常なし」という結果を口頭で伝えた時点で、ネイジュには不要のものとなった。しかしルイゼンはこれまで通りにきちんと報告書を仕上げ、考えた末に将官室へと持参した。トーリスなら事情を話せば、代わりに見てくれないかと思ったのだ。
将官執務室を訪ねたときには終業時間になっていたが、トーリスら将官はまだそこにいた。将官は一人でいくつかの班や大班の面倒を見なければならず、常に報告書や資料と向き合わなければならない。仕事を選び部下に任せたり、重要任務について会議を行なったりと、外に出ずともやることは多い。訓練の時間がとれず、実戦では役に立たなくなると言われるのは、仕方がない部分もあった。将官になっても現場の第一線で活躍していたレヴィアンスやかつてのニアやルーファは、稀有な例なのだ。
「失礼します。トーリス准将、お願いがあって参りました」
「おお、リーゼッタか。なんだか久しぶりだな。何やら大変だったそうだが」
書類から顔を上げて、トーリスは嬉しそうに笑った。まだ傍らには未処理分が積まれているので、あなたこそ、と返す。
「お忙しいところ、申し訳ないのですが……今日行ってきた定期視察任務の報告書の確認をしていただけますか」
「私がか? 新室長はどうした。ディセンヴルスタとかいう……」
「大佐は、何もなかったのなら報告書は時間と紙の無駄だと。まずは事務室内の無駄を徹底的になくすことから始めようという方針らしいです」
ルイゼンは声を潜めたが、近くの他の将官には聞こえていた。眉を顰める者もいれば、言い分はわからなくもない、というように頷く者もいる。トーリスは前者だった。
「北方出身だったな。無駄を省くのは結構だが、あまりやりすぎると以前の不祥事の二の舞になりそうで、私は不安だ」
「俺もそう思います。とにかくそういうわけで、報告書は見てもらえませんでした。他の報告書も、大体は俺が処理している状態です」
「道理で私に上がってくる報告書のサインが、お前のものばかりなわけだ。随分仕事を任されているんだなと思っていたが、面倒を押し付けられているだけか」
ルイゼンたちの事務室から上がってくるものは、引き続きトーリスがまとめているようだ。渋い顔をしながら報告書を受け取ってくれ、ざっと目を通し、サインをくれた。このまま引き受けてくれるというので、ルイゼンは礼を言った。
「しかし、ディセンヴルスタ大佐の判断は問題だ。ちょっと意見を仰ごう。お前も来い」
誰に、と問う前に、ルイゼンはトーリスに腕を掴まれ引っ張られていった。向かう先を見てギョッとする。そこには、机に向かって書類に判を捺す将官室長、タスク・グラン大将の姿があった。大総統補佐を除く将官のトップに「ちょっと」意見を聞けるのだから、トーリスはやはり偉くなったのだ。
「グラン大将、第一大班事務室長に就任したディセンヴルスタ大佐について、ご報告申し上げます」
「ディセンヴルスタ大佐?」
肩眉を上げてこちらを見る男には、かつて大暴れをしてまで功績をあげてきたような勝気さは感じられない。ただ他の将官らしい、静かな威厳が存在する。近寄るだけで鳥肌が立った。
「リーゼッタ中佐の報告によりますと、ディセンヴルスタ大佐は無駄を省くとして報告書の確認を怠っているようです。事務室長としての職務を放棄しているのでは?」
トーリスの進言にも、低い声で淡々と答える。
「放棄ではないだろう。問題があると判断したものは確認している。ただでさえ仕事量の多い第一大班の見直しを行うことは、悪いことではない。なんでもかんでも受け入れて仕事が滞る方が問題だと、私は思うがね」
その言葉は、とても噂通りのタスク・グランのものとは思えなかった。三年前までなら、こんなにおとなしくはしていないだろう。それとも将官室長として考えを改めたのだろうか。疑問に感じたのはルイゼンだけではないらしく、トーリスも怪訝そうにしていた。
「トーリス准将、君もあまり第一大班に仕事を任せすぎないよう気を付けなさい。ここにいるリーゼッタ中佐含め、たしかに彼らは優秀だ、閣下も特別に目をかけるほどな。しかし物事には限度というものがある」
「彼らの技量に合わせ、適切に割り振りをしているつもりでしたが」
「だったら些細なことは他の班にまわしてやったらどうだ。リーゼッタ中佐も、負担は軽いほうがいいだろう」
そんなことはない、とは言えなかった。忙しいときにはレヴィアンスを多少なりとも恨めしく思ったこともあったし、仕事は全体に行き渡らなければ不公平だ。仕事の質と量のバランスは士気にも影響する。
「ディセンヴルスタ大佐は他でもない閣下が室長に任命しているんだ。少し任せて様子を見てみればいい。リーゼッタ中佐も、もっと柔軟に考えたらどうだ。閣下にいつまでも子供扱いされ、いいように使われるのは、君も本意じゃないだろう」
ここにきて、ようやく目の前にいる人物は間違いなくタスク・グランなのだと実感が湧いた。かつての大総統候補で、あのネイジュが贔屓する者。レヴィアンスの人事を良く思っていないことは今の言葉ではっきりした。
「いいように使われているとは思っていません」
言い返したルイゼンに、トーリスはじめ将官たちが一斉に注目する。タスクは目を眇めはしたが、無言だった。
「大将の仰ることは尤もですが、自分は閣下の言いなりになっているつもりはありません。ディセンヴルスタ大佐ではなくトーリス准将を頼ったことも、閣下が聞けばきちんと段階を踏めと仰るでしょう。これは自分が考え、自分がとった行動です。それに子供扱いなんて、閣下は部下に対して一度たりともしたことはありません。自分は昔からあの方を見てきましたが、そういうことができない人なんです」
失礼しました、と頭を下げる。もう用事は済んだ。この後の処分がどうなろうと、知ったことか。将官執務室を辞する前に、もう一度トーリスに会釈をした。巻き込んでしまった詫びを込めて。

胸ポケットに見慣れないペンが入っていた。こんなものを入れられるのは、一時的に軍服の上着を脱いで席を離れた時。やるのは隣の席の彼くらいだ。フィネーロは寮へ向かっていた足を、渋々と司令部の情報処理室へ戻した。他人の物を持ち続けているのは、気分のいいものではない。
情報処理室にはまだ人の気配がした。合図も遠慮もなく扉を開けると、せめてノックくらいすればよかったと後悔するような光景があった。
フィネーロの隣の席には、一つの椅子に二人が座っていた。一人はミルコレスだが、彼と向かい合うように密着しているのは、ジンミ・チャンだ。軍服はスカートまでもが床に脱ぎ散らかされ、彼女はブラウス一枚だったが、その前もはだけて豊満な肌色が見えている。
「あ、リッツェ君。おかえり」
ミルコレスはにっこりと笑い、ジンミも紅潮した顔で妖艶な笑みを浮かべてこちらへ振り返る。状況が把握できるまでその場から動けなかったフィネーロだが、しかし、やっとのことで顔を顰めて二人に歩み寄った。
「情報処理室にも監視カメラはついているんですが」
ペンを差し出すと、ミルコレスは片手でジンミを抱きしめたまま、もう片方の手で受け取った。
「わざわざありがとう」
「わざわざ? わざとでしょう。こんなものを見せつけるために呼び出したんですか」
「呼んでないよ。ペンの一本くらい、明日でもよかったのに、君はここに来た。それだけのことじゃないか。すぐにここを立ち去ることもできたのにそうしなかったってことは、君も仲間に入りたい? 俺は全然かまわないけど、ジンちゃんは?」
行為と口調がめちゃくちゃだ。激しい嫌悪感を覚えて踵を返そうとしたフィネーロの袖を、白く細い指がつまんで引っ張った。
「私はいいのよ、二人でも三人でもお相手できるわ。私を無視してもかまわない。ミルから今まで散々情報をもらったのだったら、彼に体で返してあげたらどう?」
「馬鹿なことを」
指を振り払うときに、赤で塗られた長い爪が見えた。耳には宝石、唇には艶。これはさぞや、とフィネーロは思わず笑ってしまった。色目を使われたというルイゼンには、さぞや苦手なタイプだろう。
「そういうことは自室でやっていただきたい。その隣は僕の席だ。少しでも汚したら、たとえあなたが年上だろうと承知しません」
「ジンちゃんは君より年下だよ」
「もちろんチャン中尉もです。……情報をべらべら喋ってくれたことに対して対価が欲しいなら、あとで正当な形でお返しさせていただきます」
「俺は君の体かサーリシェレッドがいいな。両方でももちろん歓迎だ。もしくは……」
最後まで聞かずに、早足で情報処理室を出た。こみ上げる吐き気と粟立つ肌は不快の極みだ。明日からも隣にあの男がいるのかと思うとげんなりする。
「いい仕事仲間、ね」
彼らが思った以上に深い関係であることだけははっきりした。

終業後に姿を消したイリスを探して、メイベルは司令部内をうろついていた。大総統執務室かと思ったが、ガードナーが来ていないと答え、レヴィアンスが「じゃあオレも捜す」と部屋から出てきた。
「閣下と二人で歩きたくはない」
「じゃあ二手に分かれよう。どうせ異性の更衣室とか入れないし」
なぜ更衣室、と思ったが、気がつけば練兵場近くの更衣室に来てしまっていた。従ったわけではない、と心の中でぐちぐち言いながら、メイベルは女子更衣室を覗き込む。明かりはついていないが、誰かがいるのか、がたごとと音がする。ロッカーを探る音だ。
電気をつけると、音がぴたりと止んだ。中を進んで一通り見回っても、人の姿はない。その代わり、ロッカーの一つから呼吸音が聞こえた。驚いて、急に息を吸ったような。かすかに漏れた声が、メイベルの知っているものだった。
眉を顰め、逡巡する。あの言葉は嘘ではないと感じた。だが、結局隠れなければならないようなことはしている。言っていないことがあるという勘は正しかった、ということが残念でならない。激情型であるというのは自覚しているが、不思議と怒りは湧かなかった。
「カリン」
ロッカーの中にいるはずの、妹の名を呼ぶ。返事のように、かたん、と音がした。
「そこで何をしている。お前は何をしにここに来た。更衣室に、という意味ではない。中央司令部に、という意味で尋ねている」
そっとロッカーが開いた。出てきたカリンは俯いていて、その手には剣が一振り握られていた。柄には紅玉――スティーナ鍛冶製である証のサーリシェレッドがあしらわれている。見間違えるはずがない、イリスの剣だった。
「イリスの味方なのではなかったか」
「……」
返事を待つ間に、練兵場のほうから怒号が響いた。レヴィアンスがイリスを見つけたらしい。ここに剣などの荷物があるということからも、つまり練兵場にいたのだ。
「閣下の前で白状してもらおう。私はもう、お前を怒鳴るのは疲れた」
「お姉ちゃん、ごめんなさい。閣下にはちゃんと話すから、お姉ちゃんは寮に戻って」
「お前の不祥事は私の責任でもある。周囲がそう言うのだから、そうなんだろう。ロッカーの鍵をこじ開けるくらいの技術は、そもそも私が昔お前に教えたものだ」
疑いは全員にあると言いつつも、メイベルだってどこかで「カリンは関係ないはずだ」と思っていた。それが覆されてしまうことは、存外にショックだった。――自分のような者でも、ショックは受けるらしい。きっと周囲は「意外だ」と言うのだろう。
カリンを引っ張ってきてレヴィアンスと合流すると、イリスと、なぜかシリュウも一緒だった。これから大総統執務室に向かうというので、メイベルもついていくことにした。
「ベル、どうしてカリンちゃんを?」
「どうもこうも、こいつがイリスの荷物を漁ってたんだ。標的は剣、いや、剣についているサーリシェレッドといったところか」
イリスとカリンが同時に息を呑んだ。こんな展開、少しも望んでなんかいなかったのに。
レヴィアンスを先頭に、メイベルがしんがりを務めて進む。その途中で、疲れた表情のルイゼンと、蒼い顔をしたフィネーロと、それぞれ別の方向からやってきて出くわした。
「どうした、みんな揃っちゃったな」
「閣下……。すみません、ちょっと面倒なことをやってしまいました」
「僕は嫌なものを見てしまって。ですが、一つ可能性を提示することができます」
全員の顔を見回し、レヴィアンスが苦笑した。
「みんなまとめて聞くよ。おいで」

レヴィアンスが出て行った大総統執務室で、ガードナーは一人で書類を整理していた。これが終われば、今日の仕事はきれいに片付いて、自分もレヴィアンスも寮に戻ってゆっくり休める。さっきまでは、そういうことになっていたはずなのだが。
「……ノックもなしにこの部屋に入ってくるのは、マナー違反ですよ」
予定は狂うものだ。それも込みで計画は立てなければならない。そもそもレヴィアンスがイリスを捜しに行ってしまった時点で、すぐには帰れないことがわかっていた。今更用事が増えたところでどうということはない。
「マナーが必要なんですか、無茶しかしない大総統のための部屋に」
「ええ、もちろん。もう二十歳を過ぎた大人なら、身につけているべきことですよ。ディセンヴルスタ大佐」
窘められても、ネイジュは不敵な笑みを浮かべていた。というよりも、これはこちらを侮っている表情だなと、ガードナーにはわかった。
「あなたはマナーで伸し上がったんですか。そうやって閣下に取り入って、補佐の座を手に入れたんですか。ご友人を蹴落としてまで」
「取り入った覚えはありません」
「大切なご友人を蹴落としたのは事実でしょう。本当はご友人のほうが補佐に相応しいと、ご自分でもわかっていらしたくせに」
鼻で嗤うネイジュに、ガードナーは静かに瞳を向けた。この不遜な態度の部下の言うことは、間違ってはいない。彼は知っているのだなと、ただそれだけを思った。
「どうして閣下は、何の功績もないあなたを補佐に起用したんでしょうね。雑用には向いていると思ったんでしょうか。もう一人の補佐は名前と義理ですかね。もしかして下心もあったのでは」
「私はともかく、閣下たちへの無礼な発言は許しませんよ」
「許さない、ですか。だからって何ができます? 今すぐ私に何かできるというのならしてみてくださいよ。さあ!」
初めて見たときは、落ち着いた青年だと思っていたのに。見た目というのは当てにならないものだ。挑発的な語調には、かすかに友人だった男を感じた。
「そうですね、ここでは私は何もできません。あなたは敵ではありませんし、その様子では閣下の脅威とも思えません」
ネイジュが整った顔を怒りに歪める。このくらいで感情をあらわにするとは、やはりまだ若い。若いからこそつけこまれやすい。もしも裏の人間が彼に巧みに接触していたとしたら、簡単に引っかかりそうだ。
「ディセンヴルスタ大佐、出ていきなさい。閣下が戻ってこないうちに去ったほうがいい」
「ご忠告ですか? 閣下が戻れば、私は軍を辞めさせられるのでしょうか」
「いいえ、あなたのような人を簡単に外に出しては、どうなってしまうかわかりません。閣下の『教育』は、きっとあなたが考えるよりもずっと厳しいですよ」
たとえ彼が裏と通じていたとしても、レヴィアンスは彼を手放さない。情報を搾り取れるだけ搾り取り、軍人としての心得を叩き込み直し、一生逆らえないように手をかけて育てるだろう。他でもないガードナー自身が、あの人に惚れ込んでしまったのだ。
「私としてはそれもお薦めの道ではありますが、あなたが耐えられるかどうかはわかりかねますので」
「……っ、思ったより口も達者ですね、大総統の狗が。だが到底グラン大将には及ばない」
捨て台詞を吐いてしまった時点で、相手の負けだ。これで大佐になれるとは、北ではさぞ行儀よくしていたのだろう。つい笑みがこぼれた。
「閣下の忠犬であり番犬であることは、私の誇りです」
激昂して言葉が出てこなくなったのか、ネイジュは歯ぎしりしながら執務室を出て行った。つい手を振って見送ってしまってから、彼の出した名前を思い返す。
タスク・グラン――同時に軍に入隊し、生活をも共にした、かつての友人。ガードナーがこの地位を得ることで昔のような関係は断たれてしまったが、彼の功績は今でも認めている。彼こそが補佐に相応しいと思っていたことも、たしかにその通りだった。
ネイジュのように、彼を慕う者もいる。中央にも、口にしないだけでそう思っている人間が多い。それでもタスクが我こそという主張を収めた理由を、ガードナーは正しくは知らないが、少しばかりの希望は持っている。ガードナーを直接罵倒して気が済んだだけではなく、三年経っていくらかは今の立場を認めてくれたのではないかと。
もしもそうなら、彼の気持ちに恥じないような働きをするのが、自分の役割だ。
気を引き締めて片付けの続きをしていると、部屋の外から複数人の足音が聞こえてきた。一つはレヴィアンス、一つはイリス、そしてメイベルと……ルイゼン、フィネーロまで? それにあとの二つは。
「これは大変なことになりましたね……」
呟きながらすぐに取り掛かったのは、お茶の準備だった。落ち着いて話ができるように、香りのよい紅茶を。


「思っていたより愚かだな、お前は」
自室に戻ってすぐに訪れた客人を、タスクは溜息交じりに迎えた。悔しそうに口を引き結んだネイジュは、俯いたまま返事をしなかった。
「レオナルドを舐めていたんだろう。あんなやつでも、大総統補佐を務めて三年だ。部下をあしらうくらいには立場に慣れているだろうに、どうして直接当たったんだ」
「補佐とは言いますが、あの人は結局、閣下の言うことに従うばかりの犬にすぎない。そう思っていたのですが……」
「昨年の暗殺未遂事件では、怪我をしたレオナルドがわざわざ病院から駆けつけて、公会堂での戦いを征した。あの閣下がそうしろと命令するとは思えんから、やつの独断だろう。三年前までの腑抜けと同じままではないということだ」
そう言って笑みを浮かべたタスクは、見惚れるほど清々しかった。台詞を聞かなければ、誰も彼が大総統とその補佐に対して下剋上を企てているとは思わないだろう。
「ネイジュ。その階級に見合うよう、もっと上手にやつらを引っ掻き回すことだな。レオナルドはこっちに任せろ。お前は大総統のお気に入りたちをよく見て、潰せ」
「リーゼッタたちをですか」
「そうだな、お前ならリーゼッタを狙うほうがいいかもな。ブロッケンは扱いにくいし、リッツェとはあまり顔を合わせない。インフェリアは……あれは手を出すまでもない。むしろ権力を得るには不利な状況を作りかねないから、放っておけ」
タスクはグラスを二つ並べ、酒を注いだ。にっこり笑って、片方をネイジュに差し出す。
「甘いくせに生意気なリーゼッタを、徹底的に潰せ。何なら、軍を辞めさせてしまえ。どうせ甘いやつは、俺たちが理想とするエルニーニャ軍には不必要な存在だ」
強さこそ至高の正義。逆らう人間は排除する。タスク・グランの「理想」は入隊した子供時代から変わっておらず、それこそネイジュの求める国軍の頂点の姿だった。



続きを読む
posted by キルハ制作委員会 at 13:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 小ネタ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月23日

魔眼の物語

美しいでしょう。血にはない赤い輝きは、きっとあなたを虜に――ああ、もうなっていますね。その恍惚とした表情が見たかった。
魔眼、の由来ですか? 人を狂わせる悪魔の眼、そう、かつて発禁になった物語ですね、それが元だといいますよ。物語は、たしか差別に繋がるからといって、本になったものはすべて回収されたのでしたね。三十年ほど前でしたか。
でも、魔眼はたしかに存在するんです。その眼を見ただけで狂ってしまう。多くの場合は嫌悪感です。身体にも影響が出ることがあります。平気な人もいますが、本物の魔眼は、大抵の人間には害となります。
ですがその眼も使いようですよ。サーリシェリア鉱石と同じです。力や物質は使う人間によってその役割を変化させる。
あなたは、この魔力を使いこなす自信がありますか? どういうことかって、それは……そうですね、サーリシェリア鉱石の取り扱いもそうなのですが。あなたにお願いしたいのは、魔眼についてです。符丁としての「魔眼」ではなく、本物の。
私どもは、魔眼の生成を目指しています。あなたもご存知でしょう。こちらで大きく発展した、細胞複製技術を利用します。そのためにはサンプルが必要だ。
現在、その存在が確認されている魔眼の持ち主がいます。強力で、生かすにも殺すにも申し分ない。私どもは生かす方向で進めたいのですが、持ち主からの許可はおそらく得られないでしょう。残念ですが。
そこであなたにお願いがあります。魔眼のサンプルを、持ち主からいただいてきてください。実物が欲しい。片目くらいなら、抉りだしても問題ないでしょう。
そして得た魔眼の完全複製に成功したあかつきには、あなたに魔眼を使ってもらいます。すなわち、移植です。そうしてあなたは、この世界でもっとも強く美しいものになれます。この宝石のように。
どうです。一枚噛んでみる気は、ありませんか?


「カリンちゃんは違う。接触したといっても一瞬のことだし、何か吹き込まれたようなことも言ってなかった。だからもし裏と深い関わりを持った人間がいるとしたら、カリンちゃん以外だと思う」
大総統執務室で書類の整理をしながら、イリスは今朝のことをレヴィアンスに報告した。そもそも、カリンが裏とつながりを持っているのであれば、自分から話をすることはないだろう。
「彼女は最も可能性の低い人物だったから、まあそうだろうなとは。売人と二人きりになった時間がある、という報告しか受けていないんだよね、オレも」
「しかしカリンさんの場合、西方司令部の誰かがカモフラージュのために彼女を推薦したという可能性のほうが高いんです。西方の調査は、向こうで閣下が信頼のおける人々が進めてくれています」
レヴィアンスは頷き、ガードナーは詳細を補足する。西方司令部は、以前にいざこざのあった西国に一番近い。潜入されていることも視野に入れているという。
人を疑い続けるのは、イリスにとって大きなストレスだ。そもそもイリスを守るために人を集めたというのなら、できれば早々に、全員の容疑を晴らしてしまいたい。残りは四人。まだ十分に話もできていない人物もいる。他班の人間となれば、接する機会は限られる。不自然に近づけば警戒されるだろう。
「カリンがその話をしているあいだ、シリュウも近くにいたんだよね。あいつの様子はどうだった」
「話を聞いてるのか聞いてないのか、よくわからなかったなあ。ずっと無表情だからね、あの子」
「だよな。ここに来たときも、緊張してるのはわかったけど、表情は少しも変わらなかった。東方での評価も、冷静で物事に対して動じない、至って真面目な人物だそうだし。准尉になったばかりとは思えないほど落ち着いているとは、オレも思ったよ」
「十六歳、ですか。イリスさんが十六歳のときとは、勝手が違いますね」
「はいはい、どうせ十六歳当時のわたしはやんちゃしてましたよ。……あ、でも」
ふと、思い出した。練兵場を案内したとき、剣技の訓練ができることを確認し、イリスを強いと言ったあのときのこと。彼の言葉から感じた、真っ直ぐに切っ先を突きつけられたような、ひやりとした感覚。
「剣技に関しては、たぶん自信とか誇りとか……そういうのがあるんだと思う。あの子、わたしを超えるべき相手として見てた」
本当にそれだけだろうか、とはイリス自身も思った。超えるべき相手、ではなく、仕留めるべき相手なのではないかと。それくらい彼の視線は鋭く、こちらを射貫いていたのだ。ただ、殺気とは違うようだったから、シリュウもシロではないかと考えている。彼は純粋に強さを求めているのだろう。
「あとの人は、まだよくわからない。ディセンヴルスタ大佐は、ゼンは付き合いにくいって言ってるけど、仕事はちゃんと手際よく進めてるみたいだし。昨日引継ぎしただけでもう室長らしくできてるんだから、やっぱりすごい人なんじゃないかな、とは思ってる」
「うん、あいつは超優秀だよ。ていうか、今の北方司令部って優秀な人材を集めて育てるのがうまいんだよね。その分癖も強いけどさ。フィネーロの兄さんのアルトだって、元は北方司令部の人間だ」
すんなりと認めるレヴィアンスだが、その隣ではガードナーが少し苦い顔をしている。他の人が褒められて嫉妬をするような人ではないので、イリスはちょっと首を傾げた。
北方司令部の人材が優秀なのは、過去にあった裏や条項違反貴族との癒着の解消に努めるべく、内部をきれいに入れ替えたためでもある。上の立場にいたアルト・リッツェはそれ以上に跡を濁すことなく、責任をとって軍を辞した。反省をもとにつくりあげられた現体制と人員は、中央よりも厳しく現場を律しているともいわれる。
その中で育ってきたネイジュ・ディセンヴルスタが、優秀でないはずがなかった。
「でもまあ、ルイゼンとは合わないだろうなとは、オレも思ってたよ。完璧が過ぎるし、理想も高い。でもルイゼンは、ちょうどいいところを模索しながら少しずつ全体を高めていきたいタイプだよね。そのうち真っ向から対立しそう」
「なのに大佐を室長にしたの? 相変わらずレヴィ兄の人事ってわけわかんないんだから」
大総統になったときからそうだよ、とイリスが口をとがらせると、レヴィアンスは、にい、と笑う。
「ネイジュには功績至上主義がいいことばかりじゃないってことを知ってもらいたいし、ルイゼンにはちょっとは仕事で成果を上げることを意識してもらいたいんだよ。足してちょうどいいと思ったから、ネイジュが室長、ルイゼンが副室長ってかたちにした。他の大佐階級は、考え方がどちらかといえばネイジュに近いんだよね。そのわりにルイゼンが室長だったときには頼る、というか仕事を押し付けてたから、彼らにはちょっと考え直してほしい」
事務室の様子はほとんど見ていないはずなのに言い切った。でも、実際その通りだ。上司からは重い仕事を与えられ、後輩からは頼られるルイゼンの立場は、とてもイリスには真似できないほどの忙しさだった。手伝いたくてもその隙がなく、結局最後までルイゼンはほとんど一人で繋ぎの室長をやりきった。少しだけフィネーロが補佐に入ったものの、尉官であるメイベルとイリスには「自分の仕事があるだろ」といって触らせなかった。
しかしそれは室長になったからには責任を果たさなければならず、またイリスたちには本当にそれぞれの仕事があったからであって、彼は功績や実績といったことなどはまるで考えていないのだ。
「ディセンヴルスタ大佐は、功績とかにこだわってるの? あんまりそうは見えなかったけど」
「こだわったから中央行きを望んだんだよ。表向きはね。本当は何を考えているのかまでは、オレにはわからない」
これからそれも見えてくるだろうか。まだまだ謎の多い人だ。
「じゃあさ、ジンミは? わたしと同じ階級の、ジンミ・チャン。まだまともに話してないんだけど」
こちらは別班に所属した女性中尉だ。肩の上で切りそろえたコーヒー色の髪と、切れ長の黒い目。異国の雰囲気を漂わせる美貌は、さっそく中央司令部の話題になっているらしい。たしかにすごい美人だよね、とイリスが呟くと、レヴィアンスとガードナーも正直に頷いた。
「映画とかの謎の女スパイってあんな感じだよね」
「閣下、その先入観はあまり適切ではないかと。しかし、彼女が東方で囮捜査を専門にしていたというのは事実です。尉官で、それも十七歳という若さでというのは、あまり例がありません」
年齢が一つ下だったことをたった今知って、イリスは溜息を吐いた。あんまり大人っぽい、言ってしまえば色っぽいので、年上かと思っていた。それに。
「着けてるピアス、今日のも本物の宝石だった。昨日の赤いのは、きっと渦中のサーリシェレッド。今日は青かったけど、あれ、ノーザリアの指定鉱石だよね。北極星って呼ばれてる……」
「目が良いお前が言うんだから、そうなんだろう。そっか、あれだけじゃなかったか。さすが、堂々としたもんだ」
まさか裏から流れたものではないだろう。だが、普通なら若者がそう簡単に手に入れられるようなものでもない。一応は名家の娘であるイリスでさえ、アクセサリーとして持っているのは一つきりだ。
「ジンミは宝石商の子。東方での功績は、囮のほかに目利き。不正取引された品物を見極められる。もちろん現場に出て、裏の人間と直接会うことも多かった」
「本人が重要かつ貴重な人材じゃん」
中央に引き抜かれたら、東方司令部は困るのではないか。イリスの懸念を見抜くように、レヴィアンスは苦笑した。
「東方司令部長とチャン家を説得するのに、クレリアには随分苦労かけたよ。あとでどうやって埋め合わせたらいいと思う?」
「しっかり休み取らせてあげたほうがいいよ……」
ジンミも高い能力と身分がある。家に傷がつくようなことは避けそうなものだ。
「あとはミルコレス・ロスタ少佐か。たぶんこの人は、フィンのほうが近いよね。情報処理室に挨拶しに行ってたし、今日もそっちで仕事みたい」
強い癖のある赤い髪と、健康そうな褐色の肌が特徴の彼は、フィネーロと同階級で仕事も同じだ。目が合うと愛嬌のある笑顔を向けてくれたので、今のところイリスの印象は良い方だった。
「うん、オレがそう指示したからね。南方の情報処理と特別任務の担当だったんだ」
特別任務、というあいまいな表現を復唱する。ガードナーがすぐに補足してくれた。
「『指定品目の違法輸出入』の対策です。専門の班が南方にありまして、ロスタ少佐はその一員でした。サーリシェリアからの持ち込みが最も多かった時期に結成されたのですが、仕事の内容はそのときからほとんど変わっていませんね。他の地方での事件にも何度か派遣されています」
「こっちもスペシャリストかあ……。優秀な人ばっかり入れちゃって、わたしが埋もれたらどうしてくれるのよ、レヴィ兄」
「埋もれてもいいけど、食われるなよ。イリスも違法輸出入案件について勉強してくれるとありがたい。サーリシェレッドについてはアーシェも詳しい。あとはその価値をよくわかっていて盗んだことがあるやつ、とか」
たしかに知識が足りないままではいけないだろうとは思っていた。隙を見て事件記録を調べたり、アーシェのいる国立博物館にあたってみることも考えのうちに入っていた。けれども、最後のはなんだ。レヴィアンスに怪訝な表情を向けると、にやりと笑い返された。
「利用されっぱなしは癪じゃない?」
「わたしは別に。でも、確かに何か知ってそうではある。でもって、きっとわたしが行かなきゃ話してくれないことも予想がつくよ」
サーリシェレッドの別名を考えれば、いつかは行きつく心当たりでもあった。彼はイリスの眼を、最初にその名で表現した人物だ。
会うことを考えると、複雑な気持ちになるけれど。

事務室での仕事はネイジュが一人で取りまとめようとしていて、実際彼はそれができる人物だ。それはルイゼンも認めるところであったが。
「大佐、俺もやりましょうか」
「いや、遠慮するよ。リーゼッタ中佐は自分の班のことに集中してくれてかまわない。私は余計な手出しをされるのが好きではないんだ」
この態度はやはり簡単には受け入れられるものではなかった。「失礼しました」と笑顔で返しつつ、ルイゼンは内心でイライラしている。こんなとき、トーリスならばすぐに仕事を分けてくれ、より高いレベルの知識や技能を伝授してくれただろう。思えばあの人は部下を育てるのがうまかった。
溜息を吐くのを我慢しながら自分の机に戻ろうとしたところで、街の巡回に行っていた者たちが帰ってきた。ついジンミに目がいく。正確には、彼女の耳に青く光る宝石に。
――ありゃあ、相当なお嬢だな。イリスとは別の意味で。
半ば呆れていたのだが、彼女と目が合ってどきりとした。慌てて目を逸らそうとすると、彼女は口の端を持ち上げて妖艶に笑った。それからネイジュに、巡回の報告に向かう。何事もなかったように。
「大佐、レジーナは賑やかですね。喧嘩騒ぎを一つ止めてきました」
「ご苦労。中央は人が多いしちょっとした事件もよく起こるようだ。全部報告していたらきりがない」
報告を受けたネイジュは鼻で嗤う。するとジンミが微笑んだまま「いやですわ、はしたない」と言い放った。会って間もないはずの上司に随分な言いようだが、異論はない。
「報告書は規定通りに提出いたします」
「内容のない報告書など、作っても意味がない。だが規則を守るためというなら、提出はリーゼッタ中佐に頼むよ。彼は副室長として仕事が欲しいようだ」
近場にあった椅子を蹴り倒しそうになった足を、ぐっとこらえる。ここで怒りをあらわにしては、相手の思うつぼだ。
「そうですか。では、後ほどお渡してもよろしい? 中佐」
「ああ、受けとるよ。最近は何が重要になるかわからないし、喧嘩のこともちょっと詳しく書いておいてほしい」
「わかりました」
ジンミはジンミで、苦手なタイプの、というよりこれまでに周りにいなかったために接し方がわからない女性だ。上目遣いは媚びず、むしろ挑戦的。軍服の上からでもわかる体の線は美しく、同年代であるはずのイリスやメイベルよりずっと色っぽい。周りが注目してしまうのもわかる……が、ルイゼンの好みではない。こんなこと、絶対に口にできないけれど。
少し遅れて、もう一人の美人が事務室に戻ってきた。だがこちらは見た目よりも性格のインパクトが大きすぎて、おまけに本人が男性嫌いということもあり、めったに話題にのぼることはない。
「おいルイゼン、私はもう下級兵指導はごめんだ。奴ら、ちっとも私の命令を聞きやしない」
「メイベルの言い方が悪いんじゃないか。あと求めるレベルが高すぎるとか。ちゃんと見てやれよ」
残念な美人メイベルは、しかしそんなことは全く気にせずに舌打ちをして自分の席に戻る。いつものように訓練報告を書いて提出するつもりなのだが、その肩にぽんと手が置かれた。
「ブロッケン大尉、訓練の報告書はよほどのことがない限りは作成しなくてよろしい。無駄は積極的に省いて、効率のいい仕事をしよう」
笑顔を浮かべるネイジュの提案は、メイベルには都合のいい話だと思われるかもしれない。だが、彼女にはよく知りもしない男に気安く触れられることそのものが嫌悪の対象だった。ネイジュの手を振り払うと、彼を思い切り睨む。
「……なぜ、そのような態度を?」
「そっちこそどういうつもりだ。仮にも大佐様、室長様が、これまでの慣例を無駄だと? まあ、たしかに私も無駄なことだと思ってきたさ。だがな、何がどう役立つかわからないのが中央司令部の現状だ。部下とのスキンシップをはかるよりも、ちょっとは勉強してきたらどうだ、大佐様」
もっともらしいことを言ってはいるが、ルイゼンには「気安く触るな、気持ち悪い」と聞こえた。フォローをしようと二人に近寄ろうとしたとき、ぱん、と音が響いた。
誰もが目をむいた。そんなこと、今まで誰もしなかったし、しようなんて考えたことがない。突然頬を平手で打たれたメイベルも呆然としていた。
「君は少し、上司への態度を改めたほうが良い、ブロッケン大尉。君がそんなことでは、妹である准尉にまで影響が出てしまう」
ネイジュの瞳は冷たくメイベルを見下ろしている。我に返ったルイゼンは、メイベルの前に立ち、ネイジュに迫った。
「今のはあんまりです、大佐。叩く必要がありましたか」
「リーゼッタ中佐、君は優しすぎたんだよ。躾のなっていない者には、ちゃんとわからせてやらないとだめだろう。……それとも女性に手をあげることは許さないという、フェミニストなのかな、君は」
否定しようとルイゼンが口を開いたが、声を出す前に腕を掴まれた。手を伸ばしたメイベルが、もう片方の手で髪を耳にかけ直しながら、息を吐く。
「ああ、その通り。うちの班長は女はおろか、男にすらまともに手をあげられないんだ。室長様と違って、可能な限り暴力に訴えないのがルイゼン・リーゼッタという人間だ。ルイゼン、こいつはお前にとっていいお手本になるぞ」
赤くなった頬を押さえようともしないメイベルに、ネイジュが眉を顰めた。反省していないことは歴然だった。ルイゼンは一瞬戸惑ったあと、やっと喉を震わせた。
「メイベル、医務室で手当てを」
「いらん、そんなもの。これくらい昔は日に何十回と浴びせられた。……私が叩かれるのはかまわん。態度を改めるつもりもない」
「ブロッケン大尉、慎め」
「生憎と慎みなんてものは大昔に捨てた。新人室長様も、どうか中央の癖のある人間に慣れてくれ。こちらも物を知らない室長様に慣れる努力をしようじゃないか」
ふ、と息を漏らしたのは、おそらく笑ったのだとルイゼンにもわかった。自分の机に向き直ったメイベルは、何事もなかったように報告書の作成を始める。ネイジュも諦めたように大きく溜息を吐くと、室長の椅子に座った。
この空気をなんとかする、というのはきっと無理なことだろう。メイベルが他人と相容れるということはまずほとんどの場合で見込めない。かといって上司であるネイジュが譲歩するわけがない。ルイゼンにできることは、慣れること、そして騒ぎを最小限に止めることだった。

情報処理室のフィネーロの隣の席には、よく誰かがいる。大抵は愚痴や相談を持ち込んだリーゼッタ班の人間なのだが、昨日から勝手が違ってきた。今隣でにこにこ笑いながら、勝手にフィネーロ愛用の鎖鎌を弄っているのは、ミルコレス・ロスタ少佐だ。
「はー……。本物のサーリシェレッドっていうのは、なんてきれいなんだろう。レジーナには正しく認定された職人がいて羨ましいよ。スティーナ翁には残念ながらとうとう会えずじまいだったけれど、ちゃんとその跡継ぎがいる。しかも師に匹敵する腕前だ」
恍惚とした表情で装飾を眺める、いや、愛でる彼に、フィネーロは先ほどから鳥肌が立っていた。自分もスティーナ鍛冶の仕事の証である紅玉の装飾は気に入っているが、ここまでではない。
「ねえねえ、リッツェ君。情報担当の君がどうしてこんな立派な武器を持つことになったんだい?」
「閣下をお守りするのに必要だったからです。僕は非力なので、せめて相手の意表を突くような技が使えたらと思いまして。……そろそろ返していただけませんか」
「俺も中央に来たからには、スティーナ鍛冶で何か作ってほしいな。いつまでも軍支給の短剣じゃダサいよ。柄にサーリシェレッドを上品にあしらった、芸術品みたいな短剣……ああ、それじゃ使うのがもったいない」
一向に返してくれそうになかったので、フィネーロは一旦手を止め、ミルコレスの手から鎖鎌を奪い取った。相手のほうが年上だが、話を聞いてくれない場合は強硬手段もやむをえない。返してもらった武器を机の下に隠すようにしまうと、ミルコレスは「ごめんごめん」と笑った。
「サーリシェレッドがきれいだからさ、仕方ないよ。サーリシェリアとエルニーニャの友好の証である“赤い杯”も、サーリシェレッドをカットして作られたものなんだよね。あれを完成させるには相当大きな原石と高度な技術が必要だ。人々を魅了する魔性の宝石に手を加える……はー、なんだかエロチックだと思わないかい?」
「思いませんが」
変態なんですか、という言葉を呑み込み、フィネーロは仕事に戻る。だが、その集中はすぐに乱された。
「赤い輝きはまさに『魔眼』と呼ぶにふさわしい。見たものを狂わせてしまう」
その言葉を知っている。まさにこの紅玉のような瞳を持つ少女がいる。彼女の眼もまた「魔眼」と呼ばれた。仕事の続きをできないでいると、ミルコレスは話を聞いてくれると思ったのか、機嫌良く続けた。
「赤眼の悪魔って物語を知っているかい? 赤い眼をした魔物が、人々の心を虜にして狂わせてしまい、最後には目が覚めた人々によって倒されてしまう話だ。赤い眼を持つ人々からは、差別を助長する、なんて言われていて、三十年ほど前に本になったものはほとんどが発禁となってしまった。けれどもサーリシェレッドの美しさを表す言葉として、『魔眼』は残ったんだ。表立っては言われない。この言葉を使うのは裏の人間と、俺たちのような特別な仕事をする軍人くらいだね」
特別な仕事、と心の中で繰り返す。ミルコレスのいた南方司令部には指定品目の違法輸出入案件を専門にする、特殊な部署があったはずだ。とすると、彼がまさしくそうだったのか。サーリシェリア鉱石は違法輸入されるものの代表といわれるから、それはさぞ楽しい仕事だっただろう。
「よく扱うんですか、サーリシェレッドは」
「うん。サーリシェレッドも、ノーザンブルーも、フォレスティリアやウィスティエロウだって見てきた。リッツェ君は全部知ってるよね」
「はい。ノーザリアのノーザンブルーは北極星ともいわれますね。フォレスティリアはイリアおよびその周辺の地層から出る美しい緑の宝石、ウィスティエロウはウィスタリアの火山地帯で、一定の条件の元でしか生成されない貴重な黄味の強い宝石でしょう。どれも輸出入が厳しく制限された、指定品目の宝石です」
「さっすがー。文武両道のエリート、リッツェ家の人だけあるね」
家のことを知られているのは想定内だ。ミルコレスも南方で情報担当として働いてきたのだし、そもそもリッツェ家がそれなりに有名になっている。どうも、と返して、冷静に尋ねる。
「それだけ多くの宝石に携わっていて、何故サーリシェレッドには特別な執着を? 僕の気のせいならそれはそれでかまわないのですが」
「サーリシェレッドはさ、他の宝石が星や草木なんかにたとえられたりするのに、これだけは『眼』なんだよ。動物の体の一部なんだ。広い意味でいえば自然物かもしれないけれど、一般的な自然とは一線を画す。それが俺にとってはロマンなんだな。わかる?」
「わかりません」
口ではそう答えたフィネーロだが、ミルコレスの感じているものはなんとなく理解できた。動物と彼は表現したが、つまるところ、それは「人」なのだ。人体の一部――思い出すのは、裏の人身売買組織の所業だ。フィネーロは現場を見ていないが、ルイゼンの話と資料から、至る所に人体の一部が生々しく置かれた光景を想像することはできていた。
「ロスタ少佐が興味を持っているのは、宝石だけですか」
「んー……一番惹かれるのは宝石だね。どうして?」
「いいえ、なんとなく」
この人の「ロマン」は、どことなく危なっかしい。あまりイリスを近づけたい人間ではないなと、フィネーロは心の中で呟いた。

イリスが事務室に戻る頃には、班に任された事務仕事のほとんどは順調に片付いていた。だが、室内に漂うどこかよそよそしい空気から、何かあったのだと想像することは十分にできた。嫌な予感は、メイベルの顔を見て確信に変わる。
「ちょっと、どうしたの。頬腫れてるよ」
「わかるほど腫れてるのか。鏡を見ていないからわからなかった。だが大したことはない」
何でもないように、けれども何かあったことを否定しないメイベルに唖然としていると、ルイゼンが近寄ってきて合図をした。外に出ろ、という指示に従うと、こちらを睨むいくつもの視線を感じた。複数あることがすでに異常だ。
「大佐に叩かれたんだ。メイベルは普段通りだった……のがいけなかったんだけど」
事務室を出て聞かされた事情に、イリスは頭を抱えた。ネイジュは優秀だと聞いていたのに、まさかこんなことになろうとは。だが、きっと「優秀」の定義が、こちらとは違ったのだろう。ネイジュは彼のやり方で仕事を効率化しようと試みていた。メイベルはそれに対して、常日頃と同じく「無礼に」振る舞った。たとえばトーリスなら半ば諦めつつ軽く叱って終わりにしただろう。けれどもネイジュは、彼女の態度を罰するべきものとして捉えたのだ。
「メイベル本人は反省の色も見せないけどな」
「まあ……叩かれたくらいでベルが変わるとは、わたしも思わないけど。それにしても、その場にカリンちゃんがいなくて良かった」
「タイミングよく資料室に向かわせてたんだ。戻ってきてすぐ、メイベルの顔には気づいたけど。心配はしてたが、詳細は知らない」
メイベルが本当のことを話すわけがない。ネイジュだって誰だって、説明の手間を省くだろう。男性の暴力に敏感なカリンに、わざわざ聞かせるような内容ではない。
「ごめんな。俺がしっかりしていれば、こんなことにはならなかったのに」
「ゼンはしっかりしてるよ。だって、止めようとしてくれたんでしょう」
「今はとっさに大佐を殴り返すくらいすれば良かったと思ってる」
「何言ってんの、立派な中佐が。ぶち切れたあんたを見るのは、わたしだけで十分。とりあえず、みんなでお昼食べに行こうよ。レヴィ兄に使われまくって、お腹ペコペコなんだ」
昼を挟めば気持ちが切り替わるかもしれない。イリスが笑ってみせると、ルイゼンもなんとか笑みを浮かべた。事務仕事の進捗がいいために、すぐにでも食堂に向かえるのは、ありがたいことだ。
再び事務室に入ると、ちょうどネイジュも席を離れようとしていたところだった。イリスと目が合うと微笑み、こちらへ向かってきた。
「インフェリア中尉、閣下の仕事を手伝っているのだろう。まだ尉官なのに、大変だね」
「わたしができることをやらせてもらっているだけです」
「そうかい? でも尉官にできることなんて、ごく限られているんじゃないか。閣下の人事は、私には理解不能だ」
言葉だけなら同意する。初めから言われてきたことだ、今更反論などない。だが、そう思っている者が他人の揚げ足取りに夢中になり、逆に自らの足元を掬われているのだって何度も見てきた。ネイジュはどうだろうか。
事務室を出ていく彼を見送ってから、イリスはメイベルに駆け寄った。
「ね、ベル。今からでも医務室行って、手当てした方がいいよ。わたしも一緒に行くからさ。ゼンは班のみんなを集めて、食堂に行ってて」
「手当なんかもう遅い。それに平気だと言っているだろう」
「じゃあベルがわたしについてきてよ。ユロウさんに確認したいことあって、医務室に行くから」
「……それなら行ってやらないこともない」
返事を引き出してからカリンに目配せをすると、ホッとした表情で小さくお辞儀をしていた。やはりずっと姉のことが心配だったのだ。そしてメイベルも、そんな妹の気持ちを無碍にできなかったから、イリスの言葉に折れたのだ。普段なら意地でも医務室には行かない。
実際、イリスが医務室に用があることは本当だ。新入りのカルテがあるはずなので、それを確認しておきたかった。メイベルの手当ての間に、軍医から話を聞けるだろう。
「ベルは、異動で新しく入ってきた人たちにどんな印象を持ってる? カリンちゃん以外で」
廊下を並んで歩きながら、イリスはメイベルに尋ねた。無表情で答えが返ってくる。
「どいつもこいつも気に食わん。見どころがあるのはシリュウくらいだ」
「シリュウは認めちゃうよね。あとはどのあたりが気に食わないの?」
「室長大佐様は存在自体。情報処理室に行った奴はよく知らないが、軟派な雰囲気が気色悪い。それからジンミ・チャンだったか、あの女はルイゼンに色目を使っていたぞ」
「まさか。ゼンだって引っかからないでしょ」
それに色目を使う理由も見当たらない。彼女なら、立っているだけでたくさんの人が惹かれる。たしかにルイゼンは見向きもしなかった、とメイベルが相槌を打つので、ちょっとだけ苦笑した。
それにしても、ネイジュとメイベルは当分穏やかに仕事ができそうにない。これはレヴィアンスに報告するべきか、と迷っているうちに医務室に到着した。
軍医はメイベルの顔を見るなり「兄さんじゃないんだから」と言いながら手当てにかかった。なすがままになるメイベルは、けれども「兄君と一緒にされるなら光栄ですね」と返答していた。
「ユロウさん、昨日異動してきた五人分のカルテってある?」
棚を眺めながらイリスが訊くと、軍医ユロウは小さな冷蔵庫をあさりながら「あるよ」と言った。
「昨日のうちに目は通したけど、イリスちゃんが気にするような病歴や怪我の記録はなかったな。特にディセンヴルスタ大佐は超健康。羨ましいくらいだったよ」
「やはり図太いんですね、あの室長大佐野郎様。足でも捻ればいいのに」
「さっそくそんなに恨んでるの? さてはこの頬も、大佐にやられた?」
メイベルは黙っていたが、ユロウは鋭い。現場に居合わせていないのはもちろん、本人にも会っていないだろうに、原因を特定してみせた。
「しいてあげるなら、イドマル准尉が入隊当初は発育不良気味だったみたいだね。カリン准尉は僕から言わなくても君たちの方が知ってるだろう」
「シリュウが発育不良……。施設にいたって聞いたし、今は普通の十六歳男子に見えるけど」
「軍に入ってから鍛えられたんじゃないかな。メイベルちゃん、冷却シート貼っておいたから、剥がさないでおとなしくしててね」
あとは問題ないのだろう。イリスは頷きながら、得られた情報を頭の中に入れておいた。
「ありがとうございます。ユロウさんから見て、他に気になる点は?」
「特には。ロスタ少佐が銀歯入れてるから、歯は大事にしてほしいなって思ったくらい」
見た目にはわからないが、差し歯や銀歯などはわりとよくあることだ。歯に関する治療はユロウの専門外なので、病院に行ってもらうために、彼は少し気にしている。
医務室での用を終えて食堂に向かうと、ルイゼンたちは先に食べ始めていた。イリスたちも自分の昼食を持ってきて席に着くと、フィネーロが感心したように息を吐いた。
「本当に医務室で手当てを受けたんだな」
「してくれと頼んだわけじゃない。……ところでイリス、さっきのはなんだ。新入りについて気になることでもあるのか」
あえてその新入りたちの前で、メイベルが尋ねる。カリンが緊張し、シリュウが手を止めた。
「過去に怪我とかしてて、後遺症があったら嫌だなと思ってて。レヴィ兄も肩が弱いから」
「ならば確認はこの二人だけでいいだろう。なぜ五人分のカルテについて訊いた?」
半端な言い逃れは、メイベルには通用しない。たとえルイゼンやフィネーロが聞き流してくれても、彼女はそれをよしとしていない。イリスは周りを見てから、声を潜めた。
「レヴィ兄が色々気にしてるんだよ。詳細は今は省くけど」
「わたしたち、閣下に心配されてるんですか?」
「ちょっとだけね。優秀が故の心配だから、カリンちゃんとシリュウは気にしなくていいよ」
とはいえ、全く気にしないわけにはいかないだろう。カリンは困った顔で首を傾げ、シリュウは無表情のまま視線を俯けた。
そして長く一緒にいる三人は、ちっとも納得していなかった。何も言わずとも表情でわかる。ただ、メイベルはこの場で聞き出すのをやめてくれた。
――お父さんに似てごまかすの下手だからな、わたし……。
早く彼らに話が届く段階にしなければ。そのためにイリスがしなければならないのは、引き続きの情報収集だ。
「わたしは午後からも外に出ちゃうけど、仕事は大丈夫そうだね」
「たぶんな。どこに行く予定だ」
「レヴィ兄のおつかいで、例の警備会社に。あいつとちょっと話さなきゃならない」
あくまで仕事であることを強調したつもりだが、メイベルはあからさまに不機嫌そうになり、ルイゼンも軽く眉を顰める。まだ「彼」が絡むと疑われてしまうのは仕方がない。フィネーロだけが頷き、さぼるなよ、と言った。
「もう後がないんだからな、君は」
「さぼらないよ。今日はあいつの上司も立ち会うから、二人にはならないし。帰りに博物館に寄ってアーシェお姉ちゃんと話して、それから仕事が終わったらお兄ちゃんのところに行くつもり」
「やっぱり大総統補佐って忙しいんですね。イリスさんが事務室にいないと寂しいです」
しゅんとしてしまったカリンに、デザートにと持って来たイチゴを分けてやる。ついでにシリュウにも。しかし彼の表情が変化することはない。
「ごめんね、ちゃんと班の仕事に手がまわればいいんだけど」
「閣下の無茶ぶりは今に始まったことじゃないし、こっちは任せてくれていい。俺も余裕ができたしな」
後輩の前では頼もしく笑うルイゼンに、イリスは心の中で、強がり、と言った。

午後の業務が始まる直前、つまりはイリスが司令部を出ようとしたとき、フィネーロに呼び止められた。これから会う人間のことで追加の注意でもあるのかと身構えたが、予想していなかった名前が出てきた。
「ロスタ少佐に単独で近づくなよ」
「え、なんで?」
もとより対象に単独接近することのないよう、レヴィアンスからは言いつかっている。だが、それを知らないはずのフィネーロがどうしてわざわざこんなことを言うのだろう。
「少し話して、変態だと判断した。スティーナ製の武器、というよりその装飾にご執心のようだから、念のため忠告しておく」
「フィンが変態って言うなんて、よほどだね。わかった、気をつけておくよ」
スティーナ鍛冶で作られた武器を持っている者は、中央司令部でも少数だ。非常に高価ということもある。フィネーロとイリスも、それぞれ貯金や給与と相談して、思い切って購入している。その原因の一つが、装飾。サインの代わりにあしらわれるサーリシェレッドだった。
それにロスタ少佐が「変態」と言われるほどこだわっている。やはりサーリシェレッドに近く、手を出しかねない人物なのだ。まさか彼がわかりやすくクロだとは思わないけれど。
「ねえ、フィンの武器に何かされた?」
「気がついたら勝手に弄っているから、正直迷惑だ」
「休み時間だけじゃなくて、情報処理室にいるあいだは、ロッカーに鍵かけて管理しておいたほうがいいかもね。使う前によく点検するとか」
何にしろ、武器を勝手に弄られるのはあまり気持ちの良いものではない。イリスの言葉にフィネーロは頷き、送り出してくれた。
歩きながら得た情報を整理する。頭の中だけではまとめきれないので――こういうとき、兄ならもっと上手くできるのだろう――手帳に少しずつ書きこんでいくが、どれも容疑者たちが「裏と繋がっている」という証明にはならない。当人たちにだって、まだ十分なコンタクトをとっていないのだ。
「こういうアプローチの仕方って、レヴィ兄にしては珍しいし。あ、でも、暗殺未遂事件の前情報はこうやって周りからちょっとずつ集めてたのかな」
イリスとしては本人にがつんと当たりたいところなのだが、そうする前に事務室で衝突が起きてしまった。ネイジュから情報を引き出すのは難しそうだ。中尉で大総統補佐という特殊な立場にあるイリスのことも、好ましくは思っていないだろう。さらにミルコレスは「変態」、ジンミは「色目を使う」ときた。仲間たちもまた、彼らに良い印象を持っていない。
このままでは「何の問題もなかった」場合、先が思いやられる。別班の人間とも、共に動く機会はあるのだから。いや、その前にルイゼンのストレスが心配だ。
「まいったなあ」
「僕に会うのが?」
溜息を吐いたところで、顔を覗き込まれる。イリスが反射的に大きく後退ると、相手は朗らかに笑った。
「相変わらずいい反応だ。悩みはありそうだけど、元気そうで安心したよ」
「あんたねえ……いるならいるって言いなさいよ」
「話を聞きたいって人の職場まで来たのはそっちなのに」
顔を合わせるのは冬以来だ。向こうも変わっていない。ウルフ・ヤンソネンは微笑んだままこちらに手を伸ばしていた。だが。
「今日は仕事。本当に仕事しかしないって決めてるから、あんたには一切触らない」
「エスコートくらいさせてくれても」
「ついていくから大丈夫」
自分が大人になったという自信が持てるまで、恋心は封印する。そう決めたイリスだったが、ウルフはそれを簡単に解いてしまいそうだった。いや、こちらの意志がまだ弱いのだ。絶対に近づきすぎてはいけない。
「君って人は、単純で可愛いね」
しみじみと言いながら、ウルフが先に歩き出す。頭の中から「可愛い」と言う声を追い出しつつ、イリスはその後についていった。
初めて入る警備会社の社屋は、中央司令部よりもかなりすっきりしたつくりだった。応接室に通されて少し待つと、ウルフが上司とともに入ってきた。顔にしわを刻んだ上司は、おそらく父と同年代だろう。互いに挨拶をしてから、早速本題に入ろうとする。
「本日はヤンソネンさんにお話を伺いたいと思っているのですが、彼の経歴についてはご存知ですか」
わざと硬い声をつくったイリスに、ウルフが肩を震わせていた。イリスが睨むまでもなく、上司が彼をつついて言う。
「ほとんど全部知っているつもりですよ。こいつが盗みをやってた時代のことも、入社時に話してもらっていますから。おまけに二か月前の事件がありましたし」
「それはわたしの責任でした。彼に非は……ちょっとしかないです」
「正直だな、インフェリアのお嬢さんは。ああ失礼、今は中尉とお呼びしなければ」
「構いませんよ。父を知っている方にはよくお嬢さんって言われます」
こういう環境でウルフは働いているのか、と確認して、少しだけ遠慮が解けた。
「今日は彼が盗みをやっていた頃に得た知識を拝借したいんです。宝石関係、詳しいよね」
「多少は。何を聞きたい? 真贋の見分け方とか?」
「サーリシェレッドと違法輸出入について知りたい。盗む側としての意見と知識を話してほしい」
すでに社会復帰を果たしている人間を、元犯罪者として扱うのは心苦しい。けれども、ウルフはイリスになら答えるだろう。少し考えるように目を眇め、彼は再び口を開いた。
「……説明するにあたって、君や親族への差別発言があるかもしれないけれど」
「差別の意図はないんでしょ。だったらそのまま言っていい」
「わかった」
サーリシェリア産鉱石サーリシェレッドは、生産国ではそう高く取引されないが、国境を越えるとその価値を跳ね上げる。外国での高値の取引を狙って活動する裏社会の人間が後を絶たない。エルニーニャ王国立博物館にある“赤い杯”も厳重に守られているが、かつてその守りは突破され、奪われたことがある。それを完全な形で取り返したのがウルフだった。
サーリシェレッドが特に狙われやすい理由は二つあると、ウルフは語った。
「一つは価値の差。他の指定品目鉱石に比べ、サーリシェリアとエルニーニャとでのその価値の差は大きい。その原因は誰でも調べられるから割愛するよ」
「わかった、それは自分で調べる。もう一つは?」
「サーリシェレッドそのものの魅力。他にはない赤い輝きに、人々は惹かれた。エルニーニャでその人気をより高めたのが、『赤眼の悪魔』という物語だった」
どきり、と心臓が跳ねる。昔の記憶がよみがえろうとするのを押さえて、イリスは先を促した。
「それってわたしはよく知らないんだけど、どういう話なの?」
「三十年ほど前に、差別を助長するとして発禁になったからね。けれども発表された当時は話題になったんだ。赤い眼をした人物が、次々に人々を惑わせ翻弄していくという内容の戯曲だった」
その眼には魔力が宿っていて、人を虜にして操ることができた。操られた人々は彼の思うままに動き、失敗を成功に変え、身分を高めることすらできた。だが、それらは全て非合法的な行動によるものだった。赤眼の彼によって出世した人々は、その意のままに彼を優遇する。
このままでは国が堕落してしまう、と目を覚ました人々によって、赤眼の彼は最後には、討たれてしまうという物語。戯曲は本で読める物語として出版され、国内に広く知れ渡り、人気を博した。
だが一方で、赤い瞳を持つ人々が差別されることとなる原因ともなったという訴えも出てくるようになった。「赤眼の悪魔」という言葉に苦しめられた人々がいたということで、戯曲の上演は禁止され、本は回収された。しかしその物語は、人々の記憶からいまだに消えてはいないのだった。
「物語そのものにも、差別の意図はなかったはずなんだけど。物語を読み違えて差別に走った者に非があるのは明白だ。ただ、人を惑わす赤い瞳……『魔眼』がサーリシェレッドの符丁となったのは、そういう経緯があってのことだよ」
物語が発禁となったのは三十年前。ということは、イリスと同じ眼を持つ母はすでに生まれている。胸が苦しくなったが、手はペンと手帳をそれぞれ握ったままだ。
人を狂わせるものとして同じ名前を持つことになった、赤い瞳と赤い宝石。宝石は「眼」の名をもって違法に取引されている。そして。
「今は『魔眼』という呼び名に本来の意味が当てられることもある。君がよく知っているように、裏の生体研究者たちは、見ただけで他者に影響を及ぼすような強い力を持った『眼』を欲している。サーリシェレッドの取引をしていると見せかけて、君や、他にいるかもしれない同じような力を持つ人の『眼』を狙っているということも、十分に考えられる」
「やっぱり、ウルフもそう思うんだ」
レヴィアンスが気にしているのはそちらのほうだ。ただ「指定品目の違法輸出入」の取り締まりを強化したり、その調査をするだけならば、今までのように各指令部や専門のチームに任せた方が良い。軍全体の仕事量や能力のバランスをとるために、中央に集中させてはいけないはずなのだ。
だが、あえてそれをしようとしているのは、やはりイリスが狙われていることを懸念しているからだ。いや、わざわざ容疑者を集めて、裏に繋がる道をあぶり出そうとしている。イリスが自分で納得のいくように、関わらせているのだ。
「僕ならサーリシェレッドを狙うふりをして、君の眼を奪いに行く。同じことを考えている人がいるのかな?」
「まだはっきりとはわからない。でも、どっちにしても解決しなきゃいけない問題なら、立ち向かう」
ウルフに詳細は話せない。彼は協力してくれたが、部外者だ。もう巻き込むわけにはいかない。絶対に自分で調べたりしないように、と念押しして、彼からの聞き取りを終えた。
「また聞きたいことができたらおいで。そうじゃなくても、デートのお誘いならいつでも歓迎する」
「ありがとう。でもデートはまだまだ先かな」
軽口を叩きあう二人の脇で、ウルフの上司が咳払いをした。途端に恥ずかしくなって、イリスは慌てて警備会社を辞した。

エルニーニャ王国立博物館で、アーシェは待っていた。博物館の主として、そして“赤い杯”の守り手として、サーリシェレッドとその歴史について語ってくれることになっている。
「指定鉱石にはね、それぞれ国の思惑が絡んでいるの。サーリシェレッドには民族意識や大陸全土の宗教が大きく関わっているのよ」
すでにレヴィアンスから話を聞いていた彼女は、すぐに話を始めてくれた。イリスはメモをとりながら、拾った言葉の意味を問う。
「民族意識……ってどういうこと? 宗教って?」
「サーリシェレッドはサーリシェリアでしか採れないということになっているけれど、最初はもっと限定されていたの。古くは純正サーリシェリア人にのみ触れることが許された、特別な品だった。今では純正サーリシェリア人とみなされる人々のほうがかなり減ってしまって、サーリシェレッドは大陸中に流通しているわけだけれど……」
純正サーリシェリア人は、大陸南部の赤紫の髪と青紫の瞳をもつ人々のことだ。この血は遺伝しにくく、他の民族との混血になってしまうと特徴が発現しなくなる。つまり現代に生き残っているこの特徴の持ち主は、先祖代々ずっとサーリシェリア人だけの血を受け継いできた人間なのだ。
身近なところでいうと、先々代大総統ハル・スティーナがそれにあたる。彼の祖父はかつて南の大国から家族を連れて中央にやってきた。こうして移動するサーリシェリア人も増えたことから、純正の人々はもうほとんど見られなくなっている。
「サーリシェレッドは、数が少ないサーリシェリア人たちの、よその人との貴重な交易材料だったの。昔の中央の人々はサーリシェレッドを高く買い取ったり、こちらも貴重な金や青銅、改良した農作物なんかを差し出したりして、互いに利益が得られるようにしていたのだけれど。それは大陸戦争やその後の時代の流れを経て、だんだんと整合性がとれなくなってきたのね」
合わなくなっても変えられなかったのは、サーリシェリア人が少なくなっても民族としてのプライドを高く持っているからであり、またエルニーニャの人々もサーリシェリア人に余計すぎるほどの憐れみを持っているからだ。時代が変わった今でも、緩やかで無意識な差別は残り続けている。
「根付いた差別は、そう簡単にはなくならない……」
「そうね。刷り込まれた認識を変えることは、とても勇気と気力がいることなんだと思う。現に、レヴィ君のお母さんが大総統になったとき、サーリシェリア人だということで反発があったそうよ。けれども立派にその仕事をやり通して、エルニーニャの政治体制だけじゃなく福祉や教育のあり方をも大きく変えたから、多くの人から認められることになった」
人って現金なものよね、とアーシェは困ったように笑った。
「そしてね、サーリシェレッドがそこまでエルニーニャをはじめとする他国や他民族に求められるようになった理由が、宗教にあるの。この大陸で一番メジャーなのは、太陽神信仰でしょう。真っ赤なサーリシェレッドは、『太陽の石』として偶像崇拝の対象になった。そして純正サーリシェリア人に見られた特殊能力、予知夢を見ることが、彼らを太陽神の宣託を受けるものとして位置付けていた。大陸戦争の始まりは大陸北部の不作が原因の一つと言われているけれど、太陽神から見捨てられてたまるか、太陽の力を得なければ、という思いが少なからずあったというわ。希望を目指して南に向かおうとして、長い戦争に繋がってしまったという説もある」
サーリシェレッドは古くは神聖なものだった。南の人々にとっては、今でもそうなのかもしれない。信仰を支える「太陽の石」をエルニーニャに友好の証として贈った“赤い杯”がどれほど重要な意味を持っているのか、イリスは改めて思い知った。それは最大の表敬だったのだろう。
それがどうして、「魔眼」になってしまったのか。その神性を貶めるようなことになってしまったのか。その疑問にも、アーシェは答えてくれた。
「太陽神信仰にもいろいろな解釈があってね、偶像崇拝を良しとしない宗派もあるの。それにこの大陸には、もっとたくさんの宗教や信仰があるでしょう。今でも新たに生まれたり消えたりしている。そういう考え方の違いがぶつかり合って、結果的に神性を貶めることに発展することがあるのよね」
「何だか変な話。そういうのもあるんだなって、認めればいいのに」
「そうね。でも、なかなかそうはならない。できないのね、きっと」
自分の信じてきたものが揺らぐというのは、心の平穏が保たれないということだ。それを恐れる気持ちは、わからなくはないけれど。だからといって、何かを貶めてまで守ろうとするなんて。
不満げなイリスに、アーシェは薄く微笑んだ。
「これは考えればきりがない問題よ。だからといって考えるのをやめてはいけない。考え続けて、自分の答えを持とうとするということが大切なんじゃないかな。人間って、きっとそういうものだよ」
言葉を切って、それから続けた。
「揺らぎが刺激になるのも、たしかではあるのよね。だから『魔眼』が広まるのは早かった。批判する意味でも、面白がる意味でも。どちらにせよ、話題になることには変わりないでしょう」
それがエルニーニャ国内でのサーリシェレッドの価値をより高めたことも事実なのだ。サーリシェリアとエルニーニャ両国の宝石商は、双方ともに利益を上げることができ、裏社会ではより多くの違法取引が行われた。
民族と信仰と物質と金。これらが組み合わさって、問題が生まれている。そしてその大きな問題で覆い隠すようにしながら、本物の「魔眼」が狙われている。
「アーシェお姉ちゃん、わたしたちはこの案件を解決できるのかな」
「時間がかかっても取り組むしかない。そしてそのためには、イリスちゃんは何が何でも自分を守らなきゃならないわ。もちろん、私たちもあなたを全力で守る」
そのための準備は、整いつつあった。


エルニーニャ王国軍大将であり、将官室長を務めるタスク・グラン。数々の大きな功績を持ち、大総統になるのではないかと噂された男は、しかしその横に立つこともできないままだ。
だが、彼に憧れる人間は多い。ネイジュもその一人だ。功績と効率こそが軍人にとって重要であるという考えは、タスクの活躍に基づくものだった。
「グラン大将。私はずっとあなたにお会いしたかった」
終業間際の中央司令部の廊下で、ネイジュは彼に接触していた。タスクは一瞬怪訝な表情をしたが、すぐに「異動してきた者か」と眉間のしわを緩めた。
「ディセンヴルスタ大佐だったか。北方での活躍は聞いている」
「光栄です。あなたの行動こそが正しいと信じてやってきたものですから」
ネイジュが微笑むと、タスクは苦笑した。自分が正しいと――昔はそう思っていたが、今は誰もそう言ってくれなくなった。三年前、大総統はおろか、補佐にすら名前が挙がらなかった、あのときから。
正しいのは、それまで軍人の癖に何もしていないと思っていた、同僚のほうだった。大総統が認めれば、この国では何でも正しくなる。
「このままで良いとお思いですか、大将」
だからネイジュの言葉に、そんな人間もいたのだと、感心させられた。
「私はあなたこそが軍の頂点に立つべきだと思います。大きな力を持っているのだから、それを活用するべきだ。邪魔があれば、この私が排除しましょう」
感心すると同時に、若かった頃の自分を思い出して、苦い思いが胸に広がった。
「邪魔を排除する、とはたとえばどういうことだ。まさか閣下に反旗を翻すわけでもないだろう」
「場合によってはそうなってしまうかもしれませんが、直接手を出すつもりはありません。変えるべきは補佐です。導く者によって、指揮は変えることができる」
それはいつか、タスクも考えたことだ。けれども、そのうち諦めたことだ。自分はどうしても、あの男のようにはなれなかったし、なるつもりもなかった。
どうしてあの男が補佐になったのか、今ではいくらか理解できているつもりだ。けれどもやはりいくらかは納得していないのだと、ネイジュに気づかされてしまった。
「私はあなたのお手伝いができます。その自信があります。……いかがです、大将」
濃紫の瞳が、タスクを誘う。これまで目を背けてきた道へと。
「一枚噛んでみる気はありませんか?」
もしも友人だった男ではなく、自分が大総統補佐であったなら。その仮定を、今からでも現実にできる方法があるのなら。
ごくりと、つばを飲み込んだ。三年ぶりに、野心が胸に灯った。



続きを読む
posted by キルハ制作委員会 at 17:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 小ネタ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月09日

輝きの名

サーリシェリア鉱石「サーリシェレッド」。その真紅の輝きに魅せられる者は数知れず。大陸の南でしか採掘されないそれを扱うことができるのは、南国サーリシェリアの職人たちと、彼らに認められた国外のわずかな専門職人たちのみ。
エルニーニャ王国に鍛冶屋兼武器工房を持っていた、名匠スティーナ翁が去り、たった一人の弟子が店を継いだ。彼女もまたサーリシェレッド加工の資格を持ち、スティーナ鍛冶の営業は変わらず続くこととなった。
だが、サーリシェレッドを扱える職人は、エルニーニャでは彼女を含む数人しかいない。サーリシェリアから鉱石や原石を持ち込むことも規制されており、加工物の持ち出しや輸入には相応の額をサーリシェリア税関に支払わなくてはならない決まりがある。
それを潜り抜けようとする者、不正にサーリシェリア鉱石を扱おうとする者、偽物を流通させようとする者は後を絶たない。その取り締まりも、各国の軍が中心となって行っている。
大陸中、あるいは海外と呼ばれるよその大陸の人々をも魅了するその輝きを、こう呼ぶ者もいるそうだ。――「魔眼」と。


大総統執務室に、七人の男女が揃った。そのうち二人は、大総統レヴィアンス・ゼウスァートと、その補佐官であるレオナルド・ガードナー大将である。
あとの五人は、新しく中央司令部に配属となった軍人たち。それまでは地方にいたが、最も事件が多く仕事が厳しいといわれる中央に引き抜かれた精鋭だ。
「ようこそ、中央司令部へ。君たちの活躍に期待しているよ。なあに、周りは良いやつばっかりだから、すぐに慣れるさ。気楽に行こう」
ニッと笑ったレヴィアンスを見て、五人の肩から少しだけ力が抜けた。ガードナーはそれを確認したように、「それでは」と中央司令部規律を読み上げ始める。地方とは異なる部分があるので、覚えてもらわなくてはならない。
今回配属されたメンバーは次の通り。
元北方司令部大佐、ネイジュ・ディセンヴルスタ。元東方司令部中尉、ジンミ・チャン。同じく准尉、シリュウ・イドマル。元南方司令部少佐、ミルコレス・ロスタ。元西方司令部准尉、カリン・ブロッケン。
もちろんのこと、レヴィアンスは彼ら全員のデータを頭に入れ、どのように仕事を任せるかを決めている。ガードナーが「以上です」と言葉を切り、目配せをした。
「わからないことがあったら訊いてよ。今でもいいし、あとでもいい。……うん、ないようなら、早速仕事の話をしようか」
鳶色の瞳を光らせ、レヴィアンスはもう一つ、考えを巡らせていた。五人の挙動を見逃すまいと、目を離さずに、それぞれの持ち場を告げる。
この五人の中の誰かが、軍の脅威となり得る、要注意人物なのだ。


エルニーニャには花の咲き誇る春が訪れている。空気も柔らかく、風が運ぶ葉擦れの音は耳に心地よい。窓を開け放った事務室は清々しい。――が、仕事中の軍人たちには、それを甘受するほどの余裕はなかった。
「リーゼッタ中佐、書類のチェックをお願いします。それからこちらの資料ですが……」
「ただいま戻りました。リーゼッタ中佐、今回の任務の報告をしてもよろしいでしょうか」
「市中巡回の結果、異状はありませんでした。リーゼッタ中佐が懸念していた事項についても、引き続き調査中です」
飛び交う慣れない呼ばれ方に、ルイゼンの処理能力はぎりぎりで追いついている。事務室長というのは、かくも忙しいものだったのか。溜息を吐く暇もない。この激務をこなしてきたマインラート・トーリスを思い出しては尊敬する日々だ。つい先日まで大佐だった彼は、准将への昇格に伴って、将官部屋に移ってしまった。
トーリスが事務室長の任を解かれた今、事務室を取り仕切るのは他の大佐階級の人間になるはずだった。しかし大総統たるレヴィアンスは、どういうわけか中佐に昇格したばかりのルイゼンをその立場に任命した。そうして文句の一つも言えないまま今に至る。
「巡回ありがとうな。資料と報告書には目を通しておく。ええと、遠征任務の報告だっけ、お疲れさん。とりあえず口頭で簡単に報告頼む」
素早く優先順位を決め、仕事をこなしていく。その様子を、イリスとメイベルは自分たちの任務の報告書を作成しながら見守っていた。
「ゼン、やっぱりリーダー向いてるんじゃないの。レヴィ兄よりてきぱきしてるよ」
「少なくとも、前任のトーリス大佐……おっと、今は准将だったか。奴より親しみやすそうだな。だから誰も彼も、余計なことまで報告したがる。急ぎじゃなければ報告書にまとめれば良いものを」
イリスは相変わらず中尉のままだが、メイベルは大尉に昇格した。仕事が増えて面倒だ、とぼやくメイベルのサポートをしたり、リーゼッタ班の下っ端として雑用を積極的にかって出るのが、イリスの仕事だ。
だが、ルイゼンの忙しさも、イリスの下っ端生活も、予定では今日までだ。ルイゼンに事務室長を任されたのは後任の者が異動してくるまでの繋ぎ。そしてイリスたちには、後輩ができることになっていた。リーゼッタ班の人員が、増えるのだ。
「午後から後輩が二人かー。楽しみだね、ベル」
「楽しみなものか。面倒が増えるだけだ。カリンめ、まんまと中央異動を果たしおって……」
後輩のうち、一人はすでにわかっている。メイベルの妹、カリンが実績を認められてこちらへ正式に配属となったのだ。フィネーロが少佐に昇格し、ますます情報処理室の要として求められるようになってしまったために、事務仕事をする人間が手薄になってしまったこの班の助けとなることが期待されている。
もう一人はどんな人間なのか、イリスもまだ知らない。レヴィアンスは「当日になればわかるんだから待ってなよ」と教えてくれなかった。
ただ、中央に人員を集める理由は聞かされた。これはイリスに直接関わる問題なのだ。
三か月前に、裏の人身売買組織を検挙したとき。現在裏社会の関心が、イリスに集まっていることが判明した。正確には、イリスの眼だ。
イリスの眼には原因不明の特殊能力がある。意識して見つめた対象の心身に影響を及ぼす力。ときには巨大な生物や、大勢の人間の意識を奪うことすらも可能なそれを、裏は狙っている。
イリス本人を捕らえて裏に引き入れ、力を良いように使わせる(これが一番難しい)。あるいはイリスの眼を抉って奪い、クローン技術を応用して殖やす(だが実用できるかどうかは不明だ)。もしくは脅威をなくすために、イリスの眼を潰してしまう(これがもっとも実行可能性が高い)。裏の思惑通りにならないために、レヴィアンスは味方を増やすことを選んだ。
もちろん、たった一人でも高い戦闘能力を持つイリスを、信用していないわけはない。だが、その絆されやすい心につけこまれるといけないので、彼女を囲むものは多い方が良いのだった。
人員を増やすのは、イリスを守るため。そして、イリスに「軍を」守らせるためなのだと、レヴィアンスは言う。それほどまでに、イリスの眼は敵にまわると厄介な代物なのだった。
イリスも自覚している。この眼で何人もの敵を倒してしまったときに、使い方を間違えてはいけないと深く心に刻んだ。普段は封じることのできている力だが、何かのはずみで制御しきれなくなることもある。そのときのために、「眼が効かない仲間」が必要だ。
「そろそろ昼だ。食堂で新入りが待っているそうだ……が、まだ手が離せそうにないな」
事務室のドアを開け、フィネーロが迎えに来た。だが、ルイゼンは苦笑いしながら書類を手にし、イリスとメイベルは報告書をキリのいいところまであげてしまいたかった。
「悪い、もう少しかかりそうだ」
「仕方ないな、僕も手伝おう。どれから目を通せばいい?」
「こんなに忙しないのも、もうちょっとの辛抱だよね。早く新しい大佐来るといいね、ゼン」
「その新しい大佐とやらも、マシなやつが来るといいんだがな」
「イリス、メイベル、お前たちは手を動かせ!」
結局、食堂に向かうことができたのは、昼を告げる時報から十分ほど経った頃だった。

「イリスさん、お姉ちゃん、お久しぶりです!」
食堂に到着したイリスたちを出迎えたのは、メイベルと同じ琥珀色の髪の少女。しかし、幼い顔立ちはあまり姉には似ていない。
「カリンちゃん、久しぶり。元気そうで良かったよ」
「イリスに抱きつくんじゃない。全く、先が思いやられるな」
妹をイリスから引き剥がし、メイベルは溜息を吐く。襟首を掴まれたカリンは、姉にいたずらっぽく笑ってみせた。
「ちゃんとお仕事はするもん。去年の研修と違って、今日からは正式にリーゼッタ班の一員だもの。それに、わたし前より強くなったんだよ」
「ほう、ならば私に勝ってみるんだな」
膨れる妹と大人げない姉はひとまず置いといて、イリスとルイゼンとフィネーロはもう一人の後輩に視線を移す。背筋を伸ばして立っている少年は、背中まで伸びた黒髪を束ね、榛色の瞳でこちらを見ていた。
「そして君が、もう一人の新入りだな」
「東方司令部より異動してまいりました、シリュウ・イドマルです。異動に伴って准尉になったばかりです。よろしくお願いします」
真面目そうな態度はフィネーロと同等かそれ以上。やっとまともな人材をまわしてくれた、とルイゼンはこっそり安堵していた。カリンも真面目なのだが、やはりそこはメイベルの妹で、イリスが絡むと少々暴走するきらいがある。
「こちらこそよろしくね、シリュウ。わたしはイリス・インフェリア。階級は中尉」
「ルイゼン・リーゼッタ中佐だ。一応、班のリーダーってことになってる。いつもはイリスのほうが目立つけどな」
「僕はフィネーロ・リッツェ。少佐だ。普段は事務室にいないことが多いが、班員だ。よろしく頼む。それから、あそこでカリン准尉とじゃれているのが、メイベル・ブロッケン大尉だ」
こちらの自己紹介を、シリュウは頷きながら聞いていた。そして話の切れ目を見計らい、改めて「よろしくお願いします」と頭を下げた。
メイベルとカリンはイリスが宥め、シリュウはルイゼンに促され、六人で食堂のテーブルを囲む。食事をしながら、イリスたちはカリンとシリュウそれぞれのいきさつを聞くこととなった。
「わたしは去年の研修の成果と、あれから一年の働きを認めてもらえたみたいです。閣下が直々に褒めてくださいました」
えへへ、と照れて笑うカリンの頭をメイベルが「調子に乗るな」と軽く叩く。
「あの閣下に褒められたからといって何だ。あてにならんぞ」
「いや、去年の研修がドタバタした原因のほとんどはお前にあるからな、メイベル。それから巻き返した妹を褒めてやれよ」
呆れたルイゼンに、メイベルは反論しなかった。むすっと黙ってサラダを咀嚼する。
「シリュウはどうして中央へ?」
イリスの問いに、シリュウはよく噛んでいたパンを飲み込んでから短く答えた。
「推薦です」
「推薦?」
「上司……クレリア・リータス准将がおれの名前を挙げてくださったんです」
その名前にイリスはハッとした。東方司令部准将クレリア・リータスは、大総統付記者エトナリアの妹だ。イリスは直接会ったことはないが、現在の東方司令部において大きな力を持つ存在であることは、情報として知っている。
その彼女が推挙した人物が、リーゼッタ班に配属された。相当な実力者であることは間違いない。それも、強力な後ろ盾付き。東方准将と、レヴィアンスの二枚立てだ。
「もしかしてレヴィ兄、最初からクレリアさんに相談してたな……。今や義妹だもんね」
呟きはルイゼンに捉えられ、なるほど、という言葉が漏れた。
「東方出身、リータス准将の推薦ってことは、得意なのは剣技か?」
「はい。准将はおれの師でもあります。得物は刀、ミナト流剣術を使います」
ルイゼンが問うと、シリュウははっきりと答えた。それに誇りを持っているというように、胸を張って。
ミナト流剣術は、東方司令部のあるハイキャッシで伝えられる、刀の技だ。会得すれば、細い刀身で岩をも砕くことができるという。ただしその刃は、人を殺すにあらず。その技をもって故意に人間を斬り殺したとき、その人物はミナト流を破門になる。
中央司令部のあるレジーナにも、ミナト流を使う者はいる。ただし、直弟子だった者は遠い昔に破門されており、その娘は技の一部だけを伝えられているという、中途半端なものだ。
「ちゃんと学べば、ミナト流ってすごく強いんだよね。イヴ姉は破壊の奥義を一つだけ習ったらしいけど、シリュウはもっと色々できるんだ?」
「破壊の奥義は、最近になってようやく会得したところですが。基礎からずっとミナト流なので、名に恥じない働きはできるつもりです」
イリスの知るミナト流は、グレイヴとその父ブラックが使えるそれだけだ。剣を使う者として、正式な動作にはちょっと、いや、かなり興味がある。
「カリン、どうやらシリュウはできるやつらしいぞ。お前はどうなんだ」
「わたしは銃の腕を、ちょっとでもお姉ちゃんに近づけるように磨いてきました。でもやっぱり、事務仕事のほうが得意かな」
妹をつつくメイベルは、少し楽しそうで、少し悔しそうだ。無表情ながらも妹贔屓なのである。カリンは自分の領分をきちんと考えているようで、煽りには乗らなかった。
「ブロッケン准尉も、事務仕事の手際はかなりのものだと閣下が仰っていましたが」
「ありがとう、シリュウ君。でも、ブロッケンはこの班に二人いるから、わたしのことはカリンって呼んで。お姉ちゃんはメイベルね」
「そうですね。……では、今後はカリンさんと」
名前を呼ぶときに顔が少し赤くなるのが初々しい。イリスはシリュウとカリンをにまにまと笑みを浮かべながら見ていた。可愛く頼もしい後輩たちのおかげで、これから楽しくなりそうだ。
しかしルイゼンは、笑ってはいるが姿勢が硬い。それに気づいたフィネーロは、しばらく黙って考え込んでいた。

午後の始業時、事務室は新しい室長を迎えた。正式にその肩書がつくのは、ルイゼンからの引継ぎを終えた明日からだが、その佇まいはすでに何年もそこで仕事をしていたかのようだった。
ネイジュ・ディセンヴルスタ大佐。遠目には白髪にも見える薄い青紫色の髪と、そこから覗く濃い紫色の瞳が印象的だ。北方司令部から来たが、元を辿ればサーリシェリア人の血が流れていると、彼は自己紹介をした。
「それにしても、中央は仕事が多いね。明日からは私が引き受けるから、リーゼッタ中佐は安心するといい」
「しばらくは俺が補佐につきます。ただでさえ、この事務室は他に比べて扱う仕事が多く重いので、一人でまとめるのはとても難しいです」
室長机に積まれたバインダーや書類を見て溜息を吐いたネイジュに、ルイゼンは笑みを浮かべながら言った。しかし、ネイジュの表情は明るくならなかった。
「……どうしてそんな事務室の室長を、繋ぎとはいえ君がしていたんだ、リーゼッタ中佐」
それはルイゼンが訊きたいことだったが、口にはしなかった。ごまかす言葉を探しているあいだに、ネイジュは続ける。
「この事務室には、他にも大佐階級の人間がいる。それなのに閣下は君を室長にし、重い仕事を押し付けた。私は閣下のやり方に賛成できない。補佐にあの無功績の人を選んだ頃から、ずっと」
「無功績?」
その言い方に違和感を覚えたルイゼンに、ネイジュは薄く嗤って、室長の椅子に座った。
「補佐にするなら、もっと適切な人物がいた。大きな功績を幾つもあげているのに、どうして……」
ルイゼンは笑顔を保っていたが、内心は穏やかではなかった。何故この人物が中央にやってきたのか、レヴィアンスが彼を選んだ理由は何か、読み取ることができない。それに、大きな功績をあげたという、ガードナーよりも大総統補佐に相応しいといわれた人物。それはいったい、誰なのだろう。
ともあれ、ネイジュという人物は、ルイゼンとはあまり馬が合うとはいえないようだった。仕事の引継ぎは順調にできたが、今日受け取った報告書や関連資料を見るたびに眉を顰める彼の思うところは「どうして中佐になって間もない人間がこんな仕事を任されるのだ」といったところだろう。
現在抱えている仕事は残業になってでも今日中に終わらせてしまおう。でなければややこしいことになりそうだ。ルイゼンはこっそりと溜息を吐いた。
一方、イリスとメイベルは、カリンとシリュウに司令部内を案内していた。カリンは昨年の研修ですでに知っているが、シリュウが来るのは初めてだ。どうせなら、二人ともに現在の司令部の様子を知っておいてもらいたい。
「ここが第三休憩室。休憩のほかにも、小班で会議したいときに会議室が空いてないときとか、あんまり表立って話せないようなことを話すときにも使うよ」
イリスたちも頻繁に使う第三休憩室の前で、カリンが目をくりくりさせて首を傾げる。
「表立って話せないことって?」
「ルイゼンがイリスを叱り飛ばすときとかだな」
メイベルがにやりと笑って言うと、シリュウが目を丸くした。
「リーゼッタ中佐は穏やかそうに見えるのに」
「うーん……怒らせたのはわたしが馬鹿なことをやらかしたせいだから。普段は優しいし頼もしいお兄さんだよ。そういえば、シリュウには兄弟はいるの?」
「いいえ、家族はいません。東方の施設で育ち、十歳になってから軍の試験を受けて、以降はずっとお世話になっています」
もう慣れた回答なのか、シリュウは淡々と言う。イリスが「ごめん」と謝ると、彼は首を横に振った。
「この国では、そう珍しいことではないでしょう。身寄りのなくなった子供の行きつく先は、施設か軍か、あるいは裏社会です。幼すぎれば軍という選択肢はなくなり、施設と縁がなければ裏社会で裏のルールのもとで育てられる。そうした子供は、自分のやっていることが善だと信じているために、いわゆる一般的な意味での更生は難しい」
そうでしょう、と確認したシリュウに、メイベルが頷いた。目を細めたところを見ると、彼女はこの少年を気に入ったらしい。イリスだけではなくカリンもそうとったようで、にっこり笑った。
「シリュウ君はそういう選択肢の中から軍を選んだんだね。わたしとお姉ちゃんもね、もしかしたら路頭に迷ってたかもしれないんだよ」
「カリン、余計なことを言うな」
こつん、と姉に頭を叩かれ、カリンは舌を出して口を噤んだ。シリュウもそれ以上聞こうとはしなかった。――そうか、彼らは似ているのだ。自らの置かれた境遇が、ほんの少しではあるけれど。
メイベルとカリンの場合、親はいるが、頼れる状態ではなかった。その状況を、メイベルが軍に入ることで打開したのだ。カリンが後に続くことで、ブロッケン家の生活はかなり安定した。しかしもしメイベルの選択が軍ではなく裏だったなら、彼女らはそれを正しいと信じて今も生きていたのかもしれない。
シリュウとブロッケン姉妹の間にあるのは、一種の共感だった。それも、イリスには到底わからないものだ。それが少しだけ寂しく、しかし安心のもとでもあった。シリュウの味方になれる人間がここにいる。
いつのまにか案内は、カリンがシリュウにあれこれと話しかけ、メイベルがときどき口を挟むようなかたちになっていた。イリスはその光景をほのぼのと眺めながら歩いて行く。そうして、中央司令部内の設備で最も広い場所に辿り着いた。
「ここが中央司令部が誇る、国内最大級の施設。練兵場だよ!」
他司令部からもわざわざ使用しに来るほどの巨大施設。武器庫に揃っている道具も豊富で、軍外の人間も見学に来ることができる。イリスにとってもわくわくする場所だ。ここでなら堂々と、存分に力を振るえるのだから。やりすぎれば叱られてしまうが。
今日もそこかしこで訓練が行われている練兵場に、イリスが現れると空気が変わる。誰もが手を止めてこちらに注目し、それから近くの者と顔を見合わせる。今度は誰が勝負を仕掛けたんだ、と。
「さすがは悪名高いイリス・インフェリアだな」
「悪名とは失礼な。ベルだって銃の訓練してる人たちに見られてるじゃん」
「注目浴びちゃうイリスさんかっこいい……」
互いをつつきあうイリスとメイベル。憧れの先輩にうっとりするカリン。シリュウは周囲を見回し、それから一点を見つめた。
「剣技の訓練も、当然できるんですよね」
視線の先では二人の軍人が向かい合っていた。それぞれの手には軍支給の剣がある。イリスたちが来るまで打ち合っていたようだ。
「もちろん。備品を使ってもいいし、自分の得物でもいい。組手もわたしは好きだけど、剣の訓練は格別だよね。ゼンとの訓練が一番楽しい」
「ええ、東方司令部でも評判でした。インフェリア中尉は佐官をも倒せる実力の持ち主だと。それなのに、何故階級は中尉のままなんですか。閣下の暗殺未遂事件の解決など、功績もあげているでしょう」
そうか、他司令部でも噂になっていたのか。イリスは苦笑し、メイベルは呆れて息を吐く。怪訝な表情のシリュウに、イリスは頭を掻きながら答えた。
「それねえ、全部ふいにしちゃったんだ。わたしのせいで女の子が誘拐される事件が起きちゃって、そのペナルティで階級がしばらく上がらないの。だから班でも下っ端なんだよ」
自分のせいでこうなった。だから仕切り直すことにした。今では清々しいはずなのに、やはりまだうまく笑えないのは、何度思い出しても情けない自分の行動が頭をよぎってしまうからだ。イリスのぎこちない笑みを、けれどもシリュウは気にしていないようだった。
「班での立ち位置がどうであろうと、インフェリア中尉が強いことには変わりありません。身体能力の高さ、剣技のセンスはおれの師であるリータス准将も認めていました。……だからおれは、あなたを超えたい」
誉め言葉を喜ぶ間もなく、真剣な眼差しに射貫かれた。身動きが取れなくなったイリスの代わりに、メイベルがずいっと前に進み出る。
「随分生意気な口をきくな。その心意気は嫌いではないが、あまりイリスをジロジロ見るんじゃない」
「それは失礼しました」
「いやいや、失礼ではないけど……。そんなにはっきり言われると、なんか照れちゃうな」
超えたい、とはっきり言われたのは初めてだ。いつも一緒に訓練をしていて、未だにイリスに勝てたことのないルイゼンだって、「次こそ勝ってやる」くらいしか言わない。どちらの気持ちもまっすぐであることには変わりないのに、シリュウのそれはあまりにも鋭かった。本当に刀の切っ先を突きつけられたような感覚に、ひやりとした。実際のところ、照れる、なんてとんでもなかった。
「なんか危なっかしいなあ、シリュウ君」
カリンの密かな呟きは、イリスにも聞こえなかった。

終業時間も間近になって、イリスは大総統執務室に呼ばれた。いつも通りに入室すると、ふわりと花が香る。レヴィアンスの机に、あまり似つかわしくない花束があったのだった。
「うわ、どうしたのこれ。もう結婚発表してるんだから、ファンからってことはないよね」
「結婚していようがいまいが、そのへんは関係ないよ。まあ、ファンからじゃないんだけどさ」
うんざりしたように息を吐いたレヴィアンスに、ガードナーがお茶を出した。イリスにもカップをくれる。今日はミルクティーだった。
「各地方指令部からいただいたんです。紅茶は南方司令部、ミルクは北方司令部、花は西方司令部、それから東方司令部からはこちらの焼き菓子を。異動のご挨拶ですね」
ガードナーが出した焼き菓子は、表面がこんがりとした、一見してパイのようなものだった。勧められるままにイリスが齧ると、中に癖のある甘さの餡が入っている。ガードナーが、ドライフルーツを潰してよく練り合わせたものだと説明してくれた。
「いかがです? 私は食べても何も感じませんでしたが、イリスさんは舌が痺れたりということはありませんか?」
「ないですけど……って、もしかしてレヴィ兄に食べさせる前の毒見ですか」
「申し訳ありません。閣下に何かあっては一大事なので」
「イリスに何かあっても一大事なんだけどね。なにしろオレたち、各方面から狙われてるから」
レヴィアンスも菓子を摘み、無造作に口に放り込む。癖のある味があまり好みではなかったのか、少しだけ顔を顰めた。
しかし、挨拶の品を毒見するとはどういうことだろう。イリスは菓子の残りを食べながら、視線でガードナーに尋ねる。彼はすぐにこちらの意を察して説明してくれた。
「今回異動してきた方々の中に、裏と通じている人物がいる可能性があるのです。というより、その可能性が高い人物を各指令部で調査してもらい、こちらに差し出していただいたというのが正しいです」
ごくん、と大きな塊を呑み込む。のどに詰まったものを通すようにミルクティーを一気飲みして、口の中をやけどした。だが、そんなことを気にしている場合ではない。
「それって、カリンちゃんやシリュウも? 功績が認められたんじゃないの?!」
やっとのことで叫ぶと、レヴィアンスが自分の唇に人差し指を当てた。静かに、ということは、これは極秘事項なのだ。カリンたちの様子を思い出してみたが、おそらくはそんな意図で選ばれたとは思っていないだろう。
「裏が利用するなら、ある程度力をつけている人材じゃないとね。入隊したての子供とかは洗脳しやすいけど、動かしにくい。あまり長いこと軍にいる人間だと、勝手な判断をしがち。イリスたちと同年代くらいがちょうどいいんだよ」
「でも、だからって……少なくとも、カリンちゃんとシリュウは違うよ」
一緒に行動していて、怪しいとは思わなかった。カリンはメイベルの妹だし、シリュウは軍人という立場に真摯に向き合っているように見えた。あの子たちが裏と通じているとは考えられない。眉を顰めるイリスに、レヴィアンスは落ち着いて静かに言う。
「もちろん、ここに来たから即容疑者ってわけじゃない。本当に優秀な人材が集まった。地方で活躍していたんだから、そのまま残していても良いはずだった。それなのに各指令部長やそれに準ずる者が、彼らを中央に送り込んだ。経緯は様々だけどね」
執務机に、顔写真付きの書類が並べられる。今回中央に移動してきた人物の個人データだ。全部で五つ、イリスは今日中に全員の顔を見ていた。
西方司令部で主に事務での仕事ぶりが認められ、司令部長から推薦を受けたカリン・ブロッケン。東方司令部での事件解決の功績と剣技の能力の高さが評価され、上司から推薦を受けたシリュウ・イドマル。この二人以外には、事務室で会った。
南方司令部から来たミルコレス・ロスタとシリュウとともに東方司令部から来たジンミ・チャンは、同じ事務室の別の班に配属されている。それぞれ各指令部長からの推薦を受けていた。そしてネイジュ・ディセンヴルスタは新しい事務室長だ。ルイゼンが「付き合いにくい人だ」とこっそりぼやいていた。彼だけは自ら志願して中央に来ている。
一見して、彼らには優秀であるということ以外の共通点はないように見える。けれども個人データの備考欄には、すでに印がつけられていた。
「サーリシェレッド」――五人全ての但し書きに、その単語が入っている。事務仕事が主であるはずのカリンすらも。
「軍では『指定品目の違法輸出入案件』としてまとめている。すでに大きなジャンルとなっている危険薬物を除く、勝手に国内に持ち込んだり、国外に運び出したりしちゃいけない貴重品に関わるものだ。その国独自の特産品や工芸品なんかが、正式な手続きを踏まずに国境を越えるとこれに抵触する」
実は危険薬物に並ぶ、裏の資金調達の手口の一つなのだと、レヴィアンスは説いた。危険薬物はあらゆる方法を用いて運びやすくすることができるが、こちらはそれよりも扱いにくく、それゆえに事件としてあがってくることは少ない。だが、成功すれば莫大な金が動くことになる。
「サーリシェリアの特産である鉱石、サーリシェレッドは特に狙われやすい。取り扱いの資格を得れば動かせるし。現にうちのじいちゃんやシルビアさんが取り扱いと加工の資格を持ってて、だからこそスティーナの武器である証拠としてサーリシェレッドの装飾を施せた」
「サーリシェリアの国家資格で、非常に難易度が高く、また少しでも規定違反をすれば剥奪される資格です。ですから大陸中で資格を持っている人間はごくわずかで、それもサーリシェレッドを貴重なものにしている要素となっています」
そんな貴重品の扱いに、この五人が関わった。違法取引の取り締まりで活躍していたり、偽物の売買を見抜いて中止させたり。全員が一度はサーリシェレッドに触れている。
「でも、それがどうして裏と通じることになるの」
「サーリシェレッドの違法取引に関わったってことは、裏と直接接触したってこと。若者を唆して仲間に引き入れるのは、奴らの得意技、常套手段だ。それこそ一瞬でも時間があれば十分。裏がイリスを狙っていることが明らかである以上、接触した人物は調べあげて監視下におかないと」
「暴論だよ。接触しなきゃ捕まえられないでしょ」
「接触して捕まえきれなかったんだ。優秀な彼らの、珍しいミス。それを怪しんだ各指令部長が、中央に対象人物を送ってくれたんだよ」
それでも説明不足だ、とイリスは思う。たとえばカリンなどは、そもそも外での任務が苦手なのだから、失敗くらいするだろう。不満を込めてレヴィアンスを睨んでいると、ガードナーに宥められた。
「イリスさん、閣下が言っている可能性は五十パーセントに満たないものです。人員を集めた理由のほとんどは、先に説明した通り、あなたを守るために相違ありません」
「それはありがたいけど……」
「それより、少し状況を整理してみましょう。『指定品目の違法輸出入案件』は、あがってくることがとても少ないものです。いつもなら年に数えるほどしかないものが、ここ最近地方で立て続けに起き、実行犯の完全確保に至らなかった。少しばかり急な話ではありませんか」
穏やかな声が、イリスの頭に上っていた血をよく巡らせ、視点を変えさせた。裏ですら難しいとしている案件が、こうも続いて起きるものだろうか。しかも中央以外の各地方全てで。サーリシェリアに最も近い南方司令部だけではなく、遠いはずの北方でまで事件は起きている。
「ディセンヴルスタ大佐は、自分から中央に来たんですよね」
「ええ、彼はもともと中央で働くことを望んでいました。今回の異動は、先だってのサーリシェレッドの違法取引を取り締まったリーダーとしての責任をとりたいとのことです」
「取引が中央に来る絶好の機会になった、とも考えられるよね。人を募ったのはオレなんだけどさ」
イリスは考え込み、客用のソファにどっかりと腰を下ろした。とりあえず、サーリシェレッドと裏社会に関係がありそうなこと、そしてそこに触れた誰かが裏に取り込まれている可能性があるということは把握した。
だがレヴィアンスの性格からいって、彼らを集めた目的は、「誰か」をあぶり出すことではないだろう。それとわからないように軍側に引き戻し、何事もなかったことにする。それが一番良い手だ。もちろん、裏の情報があれば引き出すのだろうけれど。
「……うん、わかった。今はそれで納得しておく。わたしたちは、それとなく異動してきた人たちの様子を見ていればいいんだね」
「イリスは自分の身の安全も確保すること。あんまり単独行動をとらない、対象人物と二人きりにならないことを心掛けてよ。サーリシェレッドにはちょっと気がかりな別名があるんだ」
レヴィアンスが口にしたその言葉に、イリスは息を呑んだ。たぶんこれが本題だったのだろうと、でなければわざわざ自分が呼び出されて話を聞かされる理由にならないと、判断した。これは大総統補佐のイリスではなく、イリス・インフェリアという人間に対する警告だった。
サーリシェレッド。主に裏で使われるその別名は、「魔眼」。

軍の男子寮の一室で、フィネーロはその名を口にした。
「目立った多功績者といえば、閣下を除けばタスク・グラン大将だろうな。三年前、大総統候補にも挙がっていた。ゼウスァート閣下がその立場に決まってからは、大総統補佐になるのではないかとしばらく噂になっていた」
すぐに覆されたがな、という結末は、ルイゼンも知っての通りだ。大総統補佐にはガードナーが選ばれ、タスク・グラン大将は三年前から現在に至るまで将官室長を務めている。
名前を聞けばすぐに顔が浮かんだ。たしかに功績は多く、よく目立つものばかりだ。キメラ討伐に、大規模な裏組織の検挙。危険薬物事件にもよく関わっている。将官室長になる前は実地での大立ち回りが注目されていたなと思い出した。とにかく、彼の行動は目立っていたのだ。圧倒的な存在感は、イリスにも似ている。
「グラン大将って、ルーファさんが引退するまで直属の部下だったんだよな。それもあって結構有名だったのに、なんで忘れてたんだろう」
「おそらく、ルイゼンが閣下に近くなったからだろう。将官たちとの関わりは、僕らはあまりない。だが閣下とガードナー補佐大将とはかなり親密になっている。普段は将官室から出られないグラン大将に気がまわらないのも無理はない」
なるほど、と頷きながら、ルイゼンはネイジュの言葉を思い返していた。――無功績の人を選んだ。これは間違いなくガードナーのことで、より多くの功績を上げた「補佐に適切な人物」はきっとグランのことだろう。
「ディセンヴルスタ大佐は、グラン大将贔屓なんだろうな。俺はガードナー大将が無功績だとは思わないけど、あの人はそう言った」
「ガードナー大将が補佐に就任した当初は、そういった反発があったそうだからな。しかし見事に補佐の役割を果たし、周囲を黙らせたのだから、やはり適任だったのだろう」
「だよなあ……」
まさか今になって、文句を言う者が現れるとは思わなかった。立派に務めを果たしているガードナーを見て、無功績なんて言葉が出るはずはない。彼がいなければ、暗殺未遂事件だって未遂に止められなかったかもしれない。
「……フィン、俺、あの大佐苦手だ。うまくやれなかったらごめん」
「うまくやろうと思わなくていい。閣下がわざわざあの人を事務室長にしたのも、何か理由があるんだろう。これまでと全く違うタイプの人間を置いて、ルイゼンの力を伸ばそうとしているとか」
「それこそ贔屓だろ。俺、そこまで贔屓される人間じゃないよ」
贔屓ではない、とフィネーロは言おうとして、やめた。そのうちルイゼンもわかるだろう。
話題を変えようとして、ふと思い出した。情報処理室にも新入りが来たのだ。リーゼッタ班と同じ事務室を使っている別班に、情報処理担当として配属されたということだった。
「ロスタ少佐と少し話した。彼は僕の武器に興味を示していたな」
「鎖鎌なんて珍しいもの持ってるからだよ。誰でも気になるだろ」
「いや、本体ではなく装飾に。スティーナ鍛冶であつらえてもらったから、サーリシェリア鉱石が使われているだろう。それを羨ましがられた」
「そういえば珍しいんだっけ、それ」
返事をしてから、ルイゼンも思い当たった。ロスタ少佐と同じ班にチャン中尉も配属されていたが、彼女の右耳には赤い石のピアスが光っていた。あれは本物のサーリシェリア鉱石――サーリシェレッドではないだろうか。だとすればかなり値の張るものだ。
「いや、まさかな。とてもアクセサリーとして持てるものじゃない」
フィネーロの訝し気な表情をよそに、首を横に振る。そんなものをアクセサリーとして気軽に持っていられるのは、よほどの人物だ。
たとえば、名家のお嬢様とか。あまり言葉は似合わないが、イリスはサーリシェリア鉱石のブローチを持っている。彼女にとって大事なものなので、めったに使うことはない。
「……あれ? あいつ、そういえば剣にも紅玉ついてんじゃん。贅沢だな」
「なんだ、イリスのことを考えていたのか。君も大概諦めないな」
「そっくりそのまま返す。あと、今のはそういう意味で考えてたんじゃないから」
スティーナ鍛冶が店を構えているレジーナでは、サーリシェレッドはさほど珍しいものではない。だからこそ価値を忘れがちだ。それは、国を動かすことのできるものなのだと。ゆえに「魔眼」と呼ばれているということも、知られていない。


翌日から、いよいよ本格的に新体制が動き出した。ネイジュの事務室長としての仕事ぶりに問題はなさそうだ。引き継がなければいけないものは昨日のうちにルイゼンが全て片付けた。もちろん、ルイゼンでなければわからないものも処理済みである。
同じ部屋の別の島では、ジンミ・チャン中尉が巡回の準備をしている。元から中央にいる者と行動を共にするようだ。ミルコレス・ロスタ少佐は早々に情報処理室へ向かっていた。
そしてリーゼッタ班。カリンが朝早く来て机を拭いてくれたのを褒めながら、シリュウの様子を確かめる。落ち着き払った態度は、イリスが見る限り、怪しいところなどない。
――やっぱりレヴィ兄の考えすぎじゃないのかな。
とはいえ、サーリシェレッドに関係する事件については気になっていた。メイベルはカリンの仕事について知らないということだったので、本人たちに直接尋ねようと思っている。どう切り出したものか、と考えながら今日の予定を確認していると、カリンのほうから話しかけてきた。
「イリスさん、武器変えたんですよね。私物の剣を登録したんだとか」
「そうそう、前に使ってた軍支給のは壊しちゃったから。良い機会だと思って奮発したんだよ」
机の側に立てかけておいた剣を指さすと、カリンは柄をじっと見つめた。スティーナ鍛冶で作られたものなので、サインの代わりのように紅玉があしらわれている。正真正銘のサーリシェレッドだ。
「剣、気になる?」
「剣が、というより、柄の装飾がちょっと。中央に来ることが決まる少し前に、わたし、あれで失敗をしていて」
やはり該当する事件があったのだ。イリスは少し身を乗りだし、何があったの、と何気ない風を装って訊いた。カリンは困ったように眉を寄せ、ぽつぽつと話し出す。
「ひと月くらい前でした。視察のための遠征任務に連れて行ってもらったんですけれど、そこで会っちゃったんです。違法輸入した宝石の売人に」
「あれと同じ、サーリシェレッドの?」
「はい。他にも国外でしか採掘されないものや、特別な許可がないと扱えないような宝石を幾つも持っていました。許可を得ている人なら問題がないのですが、念のためわたしたちの上司が調べて。相手が許可証を持っていなかったので、本来ならそのまま連行するべきだったんです」
本来なら。ということは、そうならなかったのだ。カリンが悔しそうに小さく息を吐くさまは、姉にどこか似ていた。
「上司がその場を離れなくてはならなくなり、わたしはその人を見張っているようにと言われました。一人での見張りでした。相手はわたしの態度を見て判断したんでしょうね、ポケットから突然許可証を取り出したんです」
勉強不足でした、と歯噛みした妹を、メイベルが睨んでいた。話を全て聞いていたのだ。口を出される前にカリンが視線に気づき、もうわかってるよ、と言った。
「宝石の種類が複数あったなら、その分だけ許可証が必要。そして指定鉱石の許可証は、とてもポケットから取り出せるようなものじゃない。その時のわたしはそれを知りませんでした。ただ、思い出したように提示された許可証が本物かどうかは疑いましたよ。その隙をついて、相手は逃亡を図りました。……わたしの腕を掴んだまま」
視察のための遠征任務の際は、たいてい私服での行動になる。装備の薄い状態でも、軍人なら多くの者は対応できるはずだ。だがイリスは、そしてメイベルも、カリンの弱点をよく知っていた。
「売人は男だな。お前はまた男が怖くて、対応できなかったのか」
メイベルの冷たい声に、カリンは目を伏せて頷いた。幼少期の経験がもとで、彼女には少々男性恐怖症のきらいがある。乗り越えようとはしているものの、とっさに反応できないことがまだあるようだった。
「上司がすぐに気づいて助けてくれたんですけれど、売人は逃がしてしまいました。まだ捕まっていません。完全にわたしのミスです」
「痛恨のミスだな。私が上司なら罵倒しているところだが、どういうわけかお前はその後中央へ栄転が決まった」
「お姉ちゃんならそうするよね。わたしも中央への異動が決まったのはおかしいなと思ってる」
裏の人間と思われる者に接触していたのは事実のようだ。連れ去られそうになったのは、裏に引き入れるためだったかもしれない。だが、唆されるなどといったことはないようなので、カリンはシロだろう。
「それ以上にカリンちゃんが今まで頑張ってきたことが認められたんだよ、きっと。ベルはあんなこと言ってるけど、わたしたちはカリンちゃんの味方だからね」
「ありがとうございます」
にこ、と笑ったカリンにホッとしてから、イリスはシリュウの様子を窺う。こちらの話を聞いていたのかいないのか、彼は黙って机に向かっていた。中央に移ってきて、提出しなければならない書類がいくつもあるらしく、それを片付けているようだった。
他の四人にも、サーリシェレッドが絡む事件との関わりがある。カリンのようにほんのわずかな接触かもしれないし、もっと深い関係があるのかもしれない。ネイジュは担当事件の責任をとろうとしたというから、裏との関わり方はより深いだろう。それはいったい、どんな事件だったのか。
「メイベル、そろそろ新兵訓練に行け。イリスは閣下の手伝いが入ってるんだろ。カリンとシリュウは俺と一緒にここでの仕事をしようか」
ルイゼンから指示が飛んだ。返事をしながら、イリスはこれからのことを考えていた。



続きを読む
posted by キルハ制作委員会 at 15:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 小ネタ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月28日

お話まとめのお知らせ

こちらに掲載していたお話を、storyにまとめました。
SecondAgeAfterを11話から33話まで
おまけを14本
追加しています。三年ぶりでした。増えましたね子世代アフター。
posted by キルハ制作委員会 at 22:40| Comment(0) | TrackBack(0) | お知らせ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月18日

変わる世界へ導く手

先々代大総統ハル・スティーナの引退も、先代大総統の失踪事件も、軍の人間として見てはいたけれど、まるで窓の向こうのことのようだった。影響はあるかもしれないが、何かが変わるならそれに対応するように動けばいい。周りの様子を見て適切な行動をとれば、ちゃんと物事は悪くない方向に動く。幸いにして器用ではあったから、おそらく他人よりも多くのことを難なくこなすことができたし、周りもそれが当然だと思ってくれていたおかげで、特に目立つことはなかった。
そうして得たものを、あの日に失い、それらとひきかえにしてあまりにも大きなものを手にしてしまった。どうして自分が、と何度も思ったけれど、未だに自分で答えを出せたことはない。
ただ、事実としてその人は自分を隣に置き、大切な仕事を任せながら、親しみを込めて名を呼んでくれるのだ。
「レオ、頼んだ」
「はい、閣下」
彼がこの国を統べる者となり、自分を補佐に選んだ瞬間に変わってしまった世界。それを疑問にこそ思えど、恨むことはない。


世界暦五三九年。大総統にレヴィアンス・ハイルが就任するということが本決まりになり、そのための式典が間近に迫っていたその日。レオナルド・ガードナーは大総統執務室に呼び出された。
先代が仕事を放棄していなくなってから、しばらくは補佐だった者がこの部屋を管理していた。だが、彼も責任をとって軍を辞するという。すでに部屋は、新しい主を迎えていた。
「ガードナー大将、ただいま参りました。お呼びでしょうか」
そこにいた赤毛の豊かな男を、これまでと同じく「ハイル大将」と呼ぶわけにはいかないことに、すんでのところで気づいた。もっとも、そう呼んだことも片手で足りるくらいしかない。
「……ゼウスァート大総統閣下」
思えば、こちらのほうが馴染みのある名ではあった。軍に入るためにいくらかの勉強をすれば必ず目に入り、そうでなくても一般教養として覚えるものだ。建国の英雄、初代大総統の家名。彼がその末裔であるというのは軍内では常識だったが、そう扱う人間はあまりいなかった。
「堅苦しいなあ、それ。やっぱりやめとけばよかったかな、大総統やるの……」
というのも、当人がこういう人間だからだ。歴史ある机に寄り掛かり、威厳もなにも意識していない口調で話す。一見不真面目そうだが実力と人望がある、レオナルドよりも二年先に軍人になったその人。
「みんなレヴィって呼んでるし、それで良いと思うんだけど」
「いけません。あなたはこの国を背負う方なのです。そのような無礼はできません」
それ以前に天上の人のように思っていた相手を、気安く呼べるわけがない。こうして言葉を述べることすらも畏れ多い。
レヴィアンスは不服そうにしながらも、まあいいか、と呟いて文句を言うのをやめた。そして一生忘れることができない、あの言葉を告げたのだ。
「レオナルド・ガードナー大将。君を本日付で大総統補佐に任命する」
意味を咀嚼するのに、レオナルドにしては長い時間を要した。大総統補佐。国を統べるその人の、すぐ傍で仕事を助ける、その役割。特に目立った功績もない自分には、一生縁がないと思っていた。
「……ねえ、返事。珍しいね、そんなに反応鈍いの」
「え、はい、申し訳ございません。しかしながら……」
呆けていた状態から我に返る。補佐なんて簡単に拝命できるものではない。だいたいにして、これまでほとんど接点のなかったレオナルドを、大切な役職に就けていいのだろうか。
たしかに相応しい人材は、ちょうどいなくなったばかりだった。ルーファ・シーケンスは家業を継ぐことを目指して、ニア・インフェリアは才能を認められた絵画の世界に進むため、それぞれ軍を辞めていた。レヴィアンスと常にともにあった人々がいない以上は、優秀な人材を適切に選ぶことがより重要になるはずだ。
だからこそ、レオナルドは自分が選ばれた意味が解らなかった。
「私は明確な実績を持たない人員です。おそれながら申し上げますが、閣下はどなたかと私を勘違いなさってはいませんか」
「いや、間違いないよ。レオナルド・ガードナー。目立った功績が見えないにもかかわらず、誰もがなれるわけではない大将という階級にいる。オレが欲しいのはそういう、地道で大切な仕事を怠らず敵をつくらない人材なんだ」
にい、と笑って、レヴィアンスはこちらへ手を伸ばす。契約の右手。この手をとれば世界は変わる。レオナルドがいた場所から、一気に「あちら側」へ引き上げられてしまう。
「よろしくね、レオ」
しかし抗う術も、レオナルドは持っていなかった。――環境が変われば自分が対応すればいい。ずっとそうして生きてきたから、疑問を持ち否定はできても、強い拒否はできなかったのだ。

レヴィアンスの人事はめちゃくちゃだった。レオナルドのほかにもう一人補佐を立てたが、それは少尉の少女だった。イリス・インフェリア。軍家インフェリアの名を持ってはいるが、軍を辞した兄に比べれば功績は圧倒的に足りず、むしろしょっちゅう他の軍人たちと手合わせをしては叩きのめしているという問題行動が見られる。名前だけの大総統に名前だけの補佐、と批判されるのは当然のことだった。
「だからこそレオが必要だったんだよ。オレたちは名前ばっかり有名になっちゃって、それなりに反感を持つ人間がいる。敵をつくらない人が欲しかったのはそういうわけ」
その言葉で、腑に落ちた。所詮レオナルドの存在は、本当に育てたい人材であるイリスの、そして批判を一身に受けるはずのレヴィアンスの、楯でしかないのだ。大勢の人員の中から選ばれたことは名誉だろう。死ぬときに箔がつく。
割り切ってしまえば、動くのはさほど難しいことではなかった。レヴィアンスの行動パターンはまもなくして掴むことができ、彼が求めるものをすぐに用意することができた。イリスからも「ガードナー大将は昔からレヴィ兄のこと知ってたみたいですね」という評価を得られた。彼女には公私を分けることを覚えてほしい。
仕事は順調だった。あまりに順調すぎて、終業後は暇だった。初めのうちはそれなりに忙しかったが、落ち着いてくると独りの時間が多くなった。持て余した時間を訓練や仕事に必要になりそうな知識の吸収に使った。すると日々のことは一層順調に片付いた。
「レオは本当に有能で助かるよ」
「勿体ないお言葉です」
慣れないのはこれだけだった。今までは何をこなしてもそれが当然のことで、褒められたり礼を言われたりすることはなかった。だが、レヴィアンスは逐一褒める。礼を言う。挙句の果てに部下や客に自慢する。「うちの補佐は有能だからね」とノーザリア大将に紹介されたときは、その場から逃げ出したかった。
自分はそんな人間ではないのに、どうしてそう持ち上げようとするのだろう。もう一人の補佐に比べればいくらかはできることも多いが、それは人生経験の差によるものだ。
上に立つ者の言葉は、より多くの人々に向けられるべきだろう。レオナルドひとりには、言葉通り勿体なかった。こんな特徴のない人間の、何をこの人はそんなに。
そもそもこの人は、どうやってレオナルドを見つけたのだろうか。

あくる日の朝、執務室に入るとコーヒーの香りがした。大総統執務室は便利なもので、部屋の主一人ならしばらく生活できるくらいの環境が整っている。小さなキッチンで湯を沸かし、客用のお茶を淹れることも、レオナルドはすぐに慣れた。コーヒーもインスタント粉末を溶かすだけならすぐに用意できる。
だが、今部屋を満たしている匂いは、もっと濃くて深い。「おはようございます」と声をあげつつキッチンへ向かうと、すでに来ていたレヴィアンスが「おはよ」と軽く手をあげた。
「何をしていらっしゃるんですか」
一応訊いたが、見ればわかる。ドリッパー、フィルター、ミル。そしてコーヒー豆の入った袋。基本的な道具と良い豆を、この人はどこから持って来たのだろう。昨日までなかったのだから、わざわざ調達してきたのだ。
「しばらく紅茶ばっかりで、コーヒー飲んでなかったなって思って。父親がコーヒー党で、オレはこっちのほうが馴染んでるんだよ。紅茶も好きだけど」
馴染んでるわりには、と思ったが言わなかった。しばらく見ていてわかったが、レヴィアンスはおそらく手先がさほど器用ではない。このコーヒーはあまり美味しく仕上がらないだろう。
「レオも飲む?」
「お気遣いありがとうございます。いただきます」
拒否はできない。朝から相手の機嫌を損ねても困る。レオナルドに対しては、レヴィアンスは一度も機嫌を損ねたことはなかったが。
そうして二つのカップに注がれた真っ黒なコーヒーは、やはり残念な出来だった。
「うわ、不味い。なんか失敗したかな。レオ、原因なんだと思う? あとそれ不味いだろうから無理して飲まなくていいよ」
「いえ、勿体ないです。閣下が淹れてくださったのに」
「勿体なくしたのオレだから。えーと、量はたぶん間違ってない……」
レヴィアンスは首を傾げながら、レオナルドの手からカップを取り上げた。まったく惜しむことなく、あっさりと。けれどもコーヒーを淹れることは諦めていない。
これ以上良い豆を無駄にしてもいけないし、何より今後レヴィアンスに恥をかかせてはいけない。レオナルドはおそるおそるフィルターを指さした。
「閣下、豆が。……挽いた豆がフィルターからこぼれませんでしたか。細かい粒がドリッパーを抜けて、中に入ってしまったのだと思います」
「あ、それだ。最初フィルター使うの忘れたんだ」
こぼしたどころの話ではなかった。それでは美味しいコーヒーは飲めない。なぜごまかして続けてしまったのか、という疑問は呑みこんだ。
「コーヒーを召し上がりたいのであれば、私がご用意いたします。ですから閣下はお待ちください」
「いや、ここでやり方見せて。さっき馴染んでるとか言ったの恥ずかしくなってきたから、ちゃんと覚える。お願い」
「私なんかに頭を下げてはいけません」
「レオのほうが師匠じゃん。私なんか、とか言うなよ」
少し語気が強くなったように感じた。けれども一瞬で、気のせいかと思い直す。失敗した分をレヴィアンスがてきぱきと片付けたあとで、レオナルドは知っている通りに正しくコーヒーを淹れてみせた。動作をじっくり見られていたので、ゆっくり丁寧にやるしかなく、結局始業の時間を過ぎた。
仕事のお伴になった一杯のコーヒーを、レヴィアンスは褒めちぎりながら飲んでいた。今度はオレもちゃんとやってみせる、と意気込んで。
そしてその通り、午後には飲めるコーヒーを淹れてみせたのだった。

コーヒー事件以来、小さなキッチンはみるみるうちに充実した。コーヒーはもちろん豆を挽いて淹れられる。紅茶も茶葉の種類が増えた。レヴィアンスのその日の体調などを考慮して、レオナルドが適切な飲み物を選んで用意することができるようになった。
曰く、先々代ハル・スティーナがこの部屋を使っていた頃は、こんなふうに賑やかなキッチンだったのだという。道具は全てハルが持ちこんだ私物だったので、引退するときに引き上げてしまい、先代の頃はがらんとしたままだったのだとか。ちなみに第三休憩室にも良い茶葉があるという。少し気になって確かめると、そこにも茶葉やコーヒー豆と道具一式が揃っていた。
もしやこの人は司令部を私物化しているのでは、という疑いを持った頃、決定的なできごとがあった。
「閣下、資料室を片付けられましたか?」
大総統執務室には、重要度の高い資料がある特別な資料室が備わっている。めったなことでは資料の配置は変わらないはずなのだが、それが大きくずらされ、奥に謎の空間が出来上がっていた。
「あんまり古いのは移動させたよ」
「お一人でですか? それに、奥のスペースは……」
「あそこ、写真現像するのにちょうど良さそうなんだよね」
「仰っている意味がよくわからないのですが」
写真を現像するような仕事は大総統にはない。必要なら人に頼めばいい。しかしレヴィアンスはここで、自分でやりたいのだという。
「趣味でやってるんだよ、写真。遠くの知り合いに送るのに始めたらはまっちゃって。何度か仕事にも使えたから、ここでできたら便利だなと思ってたんだ」
彼の仕事ぶりは知っている。できる人だということはわかっている。どんなに忙しくても余裕を持っていて、調べ物も手を抜かない。部下は可能な限り、レオナルドも含めて定時に帰らせている。外部との関係も良好で、そんな彼を評価する者も増えてきた。
きっと今が大事な時だ。それなのにこの人は、よりによって趣味でこの場所を弄っている。
「施設の私物化は問題になります。キッチンは私も使わせていただいているので意見できる立場にありませんが、資料室はさすがにやりすぎかと」
「やっぱりそうだよね。我に返って、何してるんだろうなって思った。ちゃんと元に戻すよ」
思い切って意見すると、あっさり引き下がった。そして翌日には資料室は元通りになっている。古い資料も元あった場所に並べられ、写真の件は白昼夢だったのかとも思われた。
しかし、これが数回続いた。そのあいだにも仕事はしていて、重要な事件も解決に導いているのに、いつのまにかぽっかりと空間ができては、また消える。実害がなかったので、そのうちこの現象にも慣れてしまった。幸い、このことを知っているのは当人とレオナルドだけで、黙っていれば誰にもわからない。
だが、後になって思えば、私物化などまだかわいいものだった。むしろそれがレヴィアンスのストレスサインであったことに気づかなかったレオナルドの責任は大きかった。

大量の仕事をレヴィアンスがこなせていたのは、彼の集中力によるところが大きい。彼が大総統に就任して、つまりはレオナルドが補佐になって間もなくして気づいたことだが、レヴィアンスはあまりに集中力が高まると周りを一切気にしなくなる。呼びかけても返事をせず、ひたすら書類に向かっているのを、初めて見たときは狼狽えてイリスをわざわざ呼びに行ったほどだった。
「ときどき行っちゃうんですよね、集中力の向こう側。あっちの世界に行ったらしばらく帰ってこないんだって、お兄ちゃんたちが言ってました」
困ったように笑う彼女に、初めは「まさか」と言った。だが、二度目には本当らしいとわかり、それ以降は気にならなくなった。
体を壊せばやりすぎないようにと諌めたかもしれない。けれどもそんな様子はなく、それどころか仕事のあとは飲みに出るなどしているようなので、そのうち戻ってくるのを待つようになった。
それで仕事が片付くなら問題はない、健康なら気にしすぎるとかえって良くない。――あの「赤い杯事件」の処理のときは、まだそう思えた。そのときはレオナルドやイリスへの仕事配分もできていた。
問題はある程度慣れた頃に発生する。レヴィアンスが「自分一人でもなんとかなるだろう」と判断することが増えてから。
明らかに仕事は多かった。集中したとしても、とても一人で終わらせられる量ではない。それなのに定時にはレオナルドを帰らせてしまうことが、二日続いた。さすがに二日目には心配になって、終業後しばらくしてからもう一度執務室へ向かった。
少しだけ開けた扉から見た姿に、ぎくりとした。たった一人で机に向かう彼は、休む気配が少しもなく。昼間見せている余裕はまるで消え失せていた。――全く知らない表情をしている。あれは、誰だ。
「……違う」
閉じた扉にもたれかかって、両手で顔を覆った。あそこにいるのは間違いなくレヴィアンスだ。すぐ傍で見ていたはずなのに、あんな姿は知らなかった。いや、見ようとしていなかった。
ゼウスァートの名前を背負い、周囲の期待と羨望と妬みを一身に引き受けて、人々の理想の姿であろうとしていた。レオナルド自身、この人はやはりゼウスァートの末裔なのだと感心していた。しかしそれはレヴィアンスがそう見せかけていただけに過ぎない。
資料室にときどき現れるあの空間は、いつ作って、いつ元に戻しているのか。そのことにすら考えが至らなかった。大量の資料が移動しているのに、それにどれほどの時間が費やされたのか。レオナルドが見ていないのなら、それは終業時間以降。夜中までかかったかもしれない。
もちろん自分の役割は大総統補佐だ。プライベートにまで干渉しようとは思わない。レヴィアンスが「仕事はおしまいだよ」と言えばそれまで。だからそれ自体は問題ではない。
一番近くにいながら、彼を過信し、なおかつ侮ってもいた。そうだったのだと気づいてしまった。だから彼は、誰にも頼ることができなくなっていったのかもしれない。
「私は楯になるどころか、あなたに寄り添ってもいなかったのですね」
それでもわかってしまう。今部屋に入れば、レヴィアンスは仕事の手を止める。その分、明日に持ち越される。――そのほうが良かったのだと、思い直したのは寮にふらふらと戻ってからだった。
翌日のレヴィアンスは普段通りの余裕さをみせていた。だが、状況は変わっていない。それなのにまた同じことを繰り返そうとする。ゼウスァートであろうとするために。
――私を、頼れないために。
「そうやって余裕ぶって全部抱え込もうとしていたら、閣下はいつか壊れますよ」
「……え?」
こんなことを言える立場じゃない。もっと早くに気づいていたら、抱え込ませることもなかった。
「何言ってんの、レオ。ねえイリス、そんなことないよな」
まるで冗談でも言うみたいに笑おうとするレヴィアンスに、イリスは真剣な表情で返す。
「ガードナーさんの言う通りだと思う。少なくとも今は、一人で何とかできる状態じゃないんじゃないの」
たぶん、レヴィアンスのことは彼女のほうがわかっていた。わかっていて、レオナルドが動かなかったから、動けなかったのだ。
その日は遅くまで三人で仕事を進めた。もうこの人が「万能の指揮者」などではないことはわかっている。どれだけの支えが必要なのかも、以前よりはわかるようになった。
今度こそ、レヴィアンスの補佐ができる。そうしようとレオナルドは密かに誓った。


数日の山場を越えて、ちょっとした連帯感を覚えてしまったあとの一人の部屋は、いつになく静かに感じる。すっかり慣れたはずの空気を寂しく感じたのは、いつ以来だろう。
「補佐になったばかりの頃みたいだ」
声に出してみたら、ほんの少しの笑いもこぼれた。
思えばあの頃から、あまり成長していない。二十歳を過ぎたあたりで、もしかしたら目立たないまま生きていくのだろうと思い始めたあたりから、成長することを諦めていた。
けれども世界は変わってしまった。それに合わせていけばいいと思っていたが、きっとどこかうまく合っていなかった。今までだって、そのことに気づいていなかっただけで、本当は何かがずれていたかもしれない。
――お疲れ様。手伝ってくれて、ありがとう。叱ってもらったのも久しぶりだ。
以前なら「大総統なのにこの人は子供みたいなことを言う」と思ったかもしれない。実際、今でも少し思う。しかしその先を、その人を受け入れるということは、今のレオナルドでなければできないかもしれない。当然が当然ではなくなった、今。
ぼんやりしていると、突然、部屋の戸が叩かれた。この部屋に用があるような人はいないはずだが、と戸を開けると、さっきまで一緒に仕事をしていたその人が立っていた。
「閣下……いかがなさいました?」
「ちょっと飲まない?」
両手に瓶を持って、レヴィアンスが笑う。こんなふうに訪ねてくるのは初めてだ。でも。
「申し訳ございません、閣下。私はお酒はちょっと……」
「ああ、知ってるよ、全然飲めないって。だからこれはジュース。たまに地方から送ってもらうんだ」
酒が飲めないことを話したことはあっただろうか。覚えがないが、断る理由が見つからないことはたしかだ。
「散らかってますよ」
「どこだってオレの部屋よりマシ。おじゃましまーす」
遠慮せずに入ってきて、なんだ片付いてるじゃん、と言う。こちらが緊張していることは、わかっているのかいないのか。
「……楽にしたら? って、オレが言うのも変だけどさ」
「ご存知でしたか」
これはもう完敗だ。レオナルドは諦めて、あまり使っていないグラスを洗いに行った。
ジュースは濃い葡萄液で、炭酸水で割るとちょうど良かった。少し渋く、酸味が強い。しかしそれよりもずっと甘かった。
「これは美味しいですね」
「だろ? 毎年送ってくれるのが楽しみでさ。でもオレはなかなか受け取れないから、実家に送ってもらうようにしてるんだよ」
レヴィアンスは寮暮らしだ。ということは、わざわざ実家まで取りに行ったのか。
ジュースを少しずつ飲む間、レヴィアンスは部屋をきょろきょろと見回していた。散らかっているというのはもちろん方便で、実際はレオナルドが最低限生活できるだけの物しか置いていない、殺風景な部屋だ。奥にはベッドが二つ。そちらに目を留め、レヴィアンスは首を傾げた。
「ここ、二人部屋なんだ。道理で広いと思ったよ。同室は?」
「はい。しかし、今は私が一人で使っています。同室だった者は、別室に移動しました。……私が、閣下から補佐になるよう言い渡された日のことです」
忘れもしない。大きなものを得て、たくさんのものを失った日だ。目を眇めると、レヴィアンスの怪訝な表情がうっすらと見えた。
同室だった者とは、軍に入隊して以来の付き合いだった。少なくともレオナルドは、彼を最も仲の良い友人だと思っていた。訓練では派手な動きでよく目立ち、大きな事件に積極的に関わって次々に功績をつくった人物だ。名前を出すと、レヴィアンスも「ああ、あいつか」と頷いた。
「彼の活躍は誰もが認めるものだったはずです。しかし閣下は私を補佐に選ばれました。彼はそれが納得できなかったようで……」
当然のことだろう、とレオナルドも思った。だから彼が「どうしてお前なんかが」とがなりたてたときも、「お前なんかに補佐が務まるものか」と言い捨てて部屋を出ていったときも、仕方がないと受け入れた。彼だけではない、他の多くの同僚が、彼と似たような態度をとった。レオナルドをなんでもないもののように気にしていなかった人々が、一斉にその挙動に注目するようになった。なぜあんな、存在感の薄い平凡な人間が選ばれたのか。レオナルド自身を含む、多くの人の疑問だった。
「軍に入隊する以前から、私は平凡な人間でした。褒められることも貶されることもなく、両親は私を民間の学校に入れてから、適齢期になると軍の養成学校に進ませました。それが当たり前のことであると、私も受け入れてきました。それからも日々は変わらず、ただ坦々と過ごしてきたつもりです。目立たずにいたと思います。ですから、私もわからないのです。閣下が、何故私なんかを補佐に選ばれたのか」
どうしてあんなに、一挙一動を褒めるのか。レオナルドのいた世界を変えたのか。
レヴィアンスは黙ったままだった。言葉が切れた瞬間にグラスの中身を飲み干して、それから、ほう、と息を吐いた。あまり見せない、少し難しいことを考えるような顔をして。
もういちどグラスを、レオナルドの分まで濃い色の液体と炭酸水で満たしてから、彼はようやく口を開いた。
「最初にレオを見つけたのは、ルーファだったんだ。もう十年以上前になるかな」
瞠目したレオナルドに、レヴィアンスは微笑んだ。
「すごいやつがいるんだって、オレに教えてくれたの。練兵場に連れて行かれて、訓練をしているのを見た。入隊二年目にしては型が綺麗な剣技だと思ったら、相手に合わせて次々に得物を変えていた。訓練してたのは実は相手のほうで、レオはそれに付き合ってたんだよね」
合ってる? と尋ねられ、レオナルドは曖昧に頷いた。自分の訓練でもあったので完全に肯定することはできないけれど、ほぼ相手に、友人のやりたいように合わせていた。友人が剣の腕を磨きたいと言えば自分も剣を持ち、変わった武器を相手にしたいと言えば武器庫から様々な種類の得物を借りてきた。レオナルドは全て器用に使うことができた。少し練習すれば慣れる。けれどもそれはいつものことで、友人にだって褒められたことなんか一度もない。
「もちろんそれもすごいことだけど、後日、上司の机にお茶を置いている姿にも感心した。相手の利き手や手を伸ばすであろうタイミング、他の物品の位置関係……全部計算してるように見えたよ。ちょうど今、オレとの仕事でそうしてくれているように」
ついでに崩れかけた書類を直したり、ファイリングし損ねてたものを片付けたりもしてたよね。――レオナルドにとっては当然で、他人から見ればつまらないだろうと思っていたことを、レヴィアンスはよく見て、憶えていた。当人にとってはただの癖でも、この人の目にはそうと映らなかったらしい。
「それからずっと見てきたよ。同じ仕事はなかなかできなかったけど、しょっちゅう目に留まった。他の人が面倒がってやらない仕事を、レオは率先して片付けた。他の人が大きな功績をつくるためのサポートを徹底的にしていた。それは先々代と、先代の大総統も認めてたようだね。目立った活躍なんかしなくても、レオの階級は着々と上がっていった」
行動が当たり前すぎるから、目立たないから、誰も見ていないと思っていた。とりたてて褒められないことが当然だった。しかし、レヴィアンスにとっては。
「大総統になれって言われたとき、すぐに決めたよ。補佐は二人つけようって。一人はオレが育てたいやつを選ぶ。そしてもう一人は、確実なサポートをしてくれる人間を選ぶ。オレはつい物事にのめり込んじゃうから、身の回りのことに気を配ってくれる人が絶対に必要だった」
レオナルドならそれができる。真っ先にそう思ったのだと、彼は笑った。敵をつくらないから楯にしようだなんて、そんなのはレオナルドの勝手な思い込みに過ぎなかった。
「大総統補佐に選んだことで、友達と仲違いしたことに関しては、悪かったよ。でもそいつらだって、頭を冷やしたらレオをちゃんと認められたと思う。その証拠に、今までなんにも言ってこないでしょ。オレやイリスは名ばかりだとかよく言われるけど、レオの悪い噂なんて一つも聞いたことがない。だって、弱点がないからね、言いようがないよ」
弱点がないのではなく、特徴がないのです。そう言おうとしたら、遮られた。まるで何を言おうとしたのか、先に読まれたように。
「レオは有能だ。誰よりもたくさんのことができる。大抵のことはそつなくこなせて、実力も隠してるだけでちゃんとついてる。気が利いて、相手の様子に合わせて動くことができる。必要な知識を自分の力で吸収して、ここぞというときに生かせる。こんな超優秀な人材、なかなかいないよ」
顔が熱かった。だって、できて当たり前だと思っていたことを、「なかなかいない」と言われて。「有能だ」と表現されて。こんなに自分を褒める人は、レヴィアンス以外にいない。こんなに褒められるようなことがあるなんて、ついこのあいだまで想像もしていなかった。
変わった世界は、友人や平穏といった色々なものを失ったけれど、とても大きなものを得た世界。レオナルドの存在を、価値あるものとして認めてくれる世界だった。
「閣下、私は……私なんかが、そんなに褒められてもいいのでしょうか」
「その、私なんか、っていうのやめよう。謙遜ならまだしも、自分を卑下するのは損だよ。これ大総統命令ね」
そんなのはずるい。逆らえるわけがない。今までそうやって生きてきた。そうやって生きることすら、この人は認めてくれるのだ。
「ありがとうございます、閣下」
この人のためになら、本当に楯にだってなれる。彼のために戦って、何ものからも守り抜こう。変わる世界に合わせることはそう難しくはないけれど、この人のいない世界だけは許すわけにいかない。
それが自分の役目だと、レオナルドは心に深く刻んだ。そのためになら、これからまた何を捨てることになっても、それを厭わない。

資料室の奥を改装しましょう、とレオナルドから申し出ると、レヴィアンスはぽかんとしていた。
「そう何度も物を出し入れするのはご面倒でしょう。古い資料を整理するのも、理にかなっています。奥をあけて、閣下がお好きなようにお使いいただくのが一番かと私は思います」
もちろんレヴィアンスに余計な負担をかけず、ストレスを軽減させるためでもある。だが、それ以上に彼の趣味だという写真が素晴らしかった。イリスに頼んでいくらか見せてもらったのだが、どれもプロ並みの出来で、実際何度かコンクールに応募して入賞してもいるという。
それが近くで出来上がるのなら、レオナルドは真っ先に見せてもらえるかもしれない。そんな欲もある。とにかくレヴィアンスのことを、もっと知りたい、知る必要があると思ったのだった。
「いいの、暗室作っても? だって趣味だよ。私物化は問題だって……」
「捜査に役立つことがあるのなら、必要な設備です。閣下の気分転換も大切なことですので、この程度ならば問題はないと判断いたしました」
「そっか、それならやっちゃおうかな」
なんて嬉しそうに笑うんだろう、この人は。好きなことにも、仕事にも、一生懸命だ。その人に認められたのだと思うと、レオナルドの胸にもくすぐったさと温かさがこみあげてくる。大声で喜びを叫びたいのを我慢して、キッチンに向かった。
「今日はコーヒーにいたしますね、閣下。一番お好きなブレンドをお淹れします」
「ありがとう! 頼んだよ、レオ」
「はい。お任せください、閣下」
そういえば、「生きがい」といえるものを持ったのも初めてかもしれない。自分から何かをしたいと思うのも。
変わった世界は明るくて、そこに恨みなんか存在しない。ただ決意と感謝がある。大切なものを想う心がある。



続きを読む
posted by キルハ制作委員会 at 13:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 小ネタ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月12日

甘味の女子会

部屋に立ち込める甘い甘い香りに、この身まで溶けてしまいそう。所詮は糖と脂だろう、と嘯く口も、次第に黙って作業に没頭するようになる。理想はきゃあきゃあと盛り上がりながらの光景だが、真剣な現場では迂闊な一言が命取り。
「イリスちゃんはウルフさんに本命チョコ渡すんだよね?」
「違うぞ、エイマル。あの男はウルフではなく変態盗人と呼べ」
「ちょっとベル、エイマルちゃんに変な言葉教えないでよ! チョコはみんな同じで、特別なのなんてないから! あっ」
大きく傾くボウルを慌てて支え、こぼれるのをなんとか回避する。ほうっと息を吐きながら、どきどきという大きな鼓動を落ち着かせようとした。
好きな人を意識してから、初めてのバレンタインがやってくる。

*一緒に作ろう*
一月末にニールの誕生日を盛大に祝い、暦は二月になった。直近の大事件もやっと落ち着いてきて、代わりに新聞の紙面を「大総統、ついに結婚か?!」の見出しが飾る。もともと明るい話題を欲していたのだからこれはこれで正しいのだが、イリスは今でもこれが事実だということを受け止めきれない。
兄であるニアがルーファと暮らし始めた時とは感覚が違う。まるで自分が取り残されたような気持ち。相手のエトナリアのことはよく知っていて、良い人だとわかっているのに。
「結構時間経ったのに、まだ複雑な心境なんだよね」
「まあ、簡単に信じられることじゃないよな。だって閣下、というかレヴィさんと結婚って、なかなか結び付かないよ」
昼食をとりながらのお喋りも、自然とこの話題になった。イリスは玉子サンドをちびちびと食べ、ルイゼンはチキンカツバーガーにかぶりつく。
「私は良い話だと思うぞ。邪魔者が一人減った」
「閣下は邪魔者ではない。少々僕らにとって余計なことはしてくれたが、イリスのためにはなっている」
メイベルはサラダをつつき、フィネーロは具だくさんのスープを少しずつ口に運んでいる。それで足りるのか、とルイゼンに尋ねられて、二人は同時に頷いた。イリスは何の話なのかわからないので黙っていたが、おかげで少し整理できた。
たぶん、兄が兄ではなくなることが寂しいのだ。ニアは実兄で、ルーファも以前と変わらない態度でいてくれるが、レヴィアンスは、一番距離が近かったはずのその人は、これからイリスの兄役の一人ではいられなくなる。世間が求めれば、人の夫として振る舞うだろう。それはイリスが知らないレヴィアンスだ。
「……レヴィ兄を素直に祝うには、どうしたらいいんだろう」
「祝うったって、そもそもが仕事的な結婚なんだろ。祝っていいの?」
「祝った方が良いんじゃないかな。一応はめでたいことだし」
せめて日頃の感謝くらいはすべきだろう。随分と助けられたし、イリスが今軍人でいられるのはレヴィアンスのおかげだ。問題はどうやって表すか、だが。
玉子サンドの最後の一口を咀嚼しながら、イリスは目を閉じた。と、耳に女の子たちの会話が飛び込んでくる。
「あ、イリス中尉だ。ねえねえ、今年はチョコ渡す?」
「もちろん。司令部一のイケメンに笑顔でありがとうって言ってほしい!」
チョコ。あの甘いお菓子。そういえば、それが大量に手渡されるイベントがある。好きな人へ、またはお世話になっている人に感謝を込めて。気持ちを込めた贈り物が、自然に人を行き交う日。
「これだ!」
「なんだよ、いきなり」
「どうせみんなに感謝とお詫びをしなきゃいけない立場なんだから、これに乗っからない手はないよね。そうだよ、レヴィ兄も甘いもの好きだし、ちょうどいい」
意気込むイリスに、ルイゼンも何を考えているのか気づいた。フィネーロはやれやれと溜息を吐き、メイベルは眉間にしわを寄せる。
「まさか、あの忌まわしいイベントに参加するつもりか。毎年大量に貰って処分に困っているのはイリスだろう」
「それはそれ、これはこれだよ。ベルも一緒にやらない?」
にっこり笑ったイリスに、メイベルは勝てない。ずるいと思いながらも頷いてしまうのだ。

エイマルから電話があったのはその夜だった。
「イリスちゃん、バレンタインチョコ作らない?」
「チョコ? 作るの?」
人に渡すにしても、ちょっと良いものを買おうと思っていた。作れないことはないが、メイベルとは一緒に料理をするよりも買い物をしたほうが楽しい。けれどもエイマルが加わるのなら……。
「そういえば、エイマルちゃんは毎年手作りだよね。今年もダイさんに送るの?」
「そうだよ。おじいちゃんと叔父さんとおばあちゃんと、下宿のみんなにも。ニール君の分もあるから、今年は最高に美味しいの作るんだ」
弾む声を聞いていたら、イリスも作りたくなってきた。メイベルも一緒に、と言ったら、嬉しそうな返事があった。
「いいね、みんなでやろうよ! リチェさんとか誘えないかな」
「リチェか、声かけてみよう。場所はどうしようか」
「お母さんがね、うちに来ていいって。だから誘ったんだよ」
ダスクタイト家でなら、エイマルも安全だし、プロはだしのお菓子職人だっている。これ以上の好条件はないだろう。
かくして、バレンタイン直前のチョコレート作り女子会が開催されることとなったのだった。

*チョコレート女子会*
エイマルとイリス、メイベルにリチェスタも加わって、チョコレートの会が始まった。本日のお題は簡単で可愛い、フルーツチョコレート。イチゴやリンゴ、オレンジなどのドライフルーツを、溶かしたチョコレートに浸けるだけ。もう少し凝りたいなら、イチゴなどをチョコレートで包むということもできる。教えてくれたのはエイマルの母であるグレイヴだ。
「アタシも父さんから教わったんだけどね。母さんが甘いものの好きな人で、制限ギリギリまで食べちゃう人だったから、作り甲斐があったみたい」
意外だが羨ましい話に、リチェスタは頬に両手をあてて、うっとりと聞き入っている。
メイベルはそのての話にはまるで興味がないようで、ただ自分が必要な数を確認していた。妹や弟にあげるのだ。
エイマルは湯煎のためのお湯を沸かしながら、板チョコを刻み始める。製菓用の、ちょっと良いものだ。イリスも一枚とって手伝う。
「イリスちゃんはいくつ作るの?」
「多ければ多いほどいいかな。わたし、貰ったらお返ししなきゃいけないからね」
「モテモテだね。イリスちゃんかっこいいから、またファンが増えてるんじゃない?」
でも、順番をつけてはいけないと思いつつ、大切なのは身近な人たちだ。家族と友人、世話になっている上司、それから……。そういえば彼は、甘いものは平気だっただろうか。
次第に部屋は甘い香りに満たされていく。お湯が沸いたらちょうどいい温度にして、チョコレートを湯煎にかけるだけで、口の中まで甘くなってくる気がした。
「こっちはチョコがけ用だからそのまま。これはフルーツを包むから、温めた生クリームを入れて混ぜるの」
「混ぜるの順番ね。あたしの次はイリスちゃん。リチェさんはメイベルさんと交代してね」
作業に没頭すると、口数が少なくなってくる。ここには失敗が許されない乙女もいるのだから、真剣にもなる。リチェスタにとって、今回のバレンタインは勝負だった。
ルイゼンに告白し、一度は振られた。だが、絶対に振り向かせると宣言したからには、胃袋からがっちり掴まなければ。いつにもまして気合が入っているのは、そういうわけだ。
「メイベルちゃん、生クリーム入れてくれる?」
「了解した。……交代、しないほうがいいか? ルイゼンへの念を込めているんだろう」
「念って……。交代はしてもらうよ、メイベルちゃんだって渡したい相手がいるんでしょう」
いるにはいるが、生憎とリチェスタのような乙女思考は持ち合わせていない。どうせなら彼女が好きなだけやればいい。
溶けたチョコレートにまだ塊が残る状態で、エイマルはイリスにバトンタッチ。お湯の温度を調節しながら続けた。
「イリスちゃんはウルフさんに本命チョコ渡すんだよね?」
そろそろなめらかになってきたところで、不意にエイマルが言う。心臓が大きく跳ねた気がした。返答する隙がないまま、メイベルが無表情で割り込む。
「違うぞ、エイマル。あの男はウルフではなく変態盗人と呼べ」
「ちょっとベル、エイマルちゃんに変な言葉教えないでよ! チョコはみんな同じで、特別なのなんてないから! あっ」
取り落としかけて、傾くボウル。ここでひっくり返しでもしたら、全てが台無しだ。――もう、大事なことをだめにしちゃいけない!
すんでのところでボウルを支えたイリスは、ほう、と溜息を吐く。だが、一度始まった話はなかなか止めることができない。
「えー、特別じゃないの? だってウルフさんって、イリスちゃんの彼氏でしょう」
「彼氏じゃないよ。あと、今回の最大の目的はレヴィ兄へのお礼で……」
「でも、好きなんだったらあげるよね。イリスちゃんが恋して初めてのバレンタインだもの」
「リチェまで変なこと言わないでよ」
これまでの仕返しだと言わんばかりに、リチェスタまでもがイリスをいじる。面白くないのはメイベルで、手を止めたリチェスタからボウルを奪って混ぜ始めた。
「メイベル、もうそれは冷やしちゃいましょう。ちょっと冷やして扱いやすくなってから続きね」
「ああ、もういいんですか」
「アンタたちも、早くしないとチョコが固まっちゃうわ。好きなフルーツをとって、こんなふうにちょっとつけたら、シートを敷いたお皿に置いて」
グレイヴの指示が飛ぶ。途端にリチェスタは真剣さを取り戻し、エイマルもフルーツに手を伸ばした。イリスだけが赤面したまま、他人の恋に興味を持った乙女の恐ろしさを感じていた。

カラフルなフルーツチョコと、甘酸っぱさを包み込んだトリュフが揃った。エイマルが集められるだけ集めたというラッピング素材に、年長女子達は感心する。
「こういうの、エイマルちゃんは得意だよね。わたしのセンスはお兄ちゃんに全部持って行かれちゃったからなあ」
「適当に袋詰めして押し付けるのではだめなのか」
「それじゃ可愛くないよ。私も持ってきたけど、エイマルちゃんのコレクションのほうがキラキラして見えるね」
リチェスタが持参したのはクラフト紙でできたもので、エイマルのものよりも少し大人っぽい。レースの飾りをつければ可愛くもなる。これはこれで、本命には合いそうだ。
「リチェはそれでいいんじゃない?」
「そうかな。でもゼン君はいっぱい貰うだろうから、埋もれちゃいそうで」
「埋もれることはないだろう。身近な人間からの贈り物は他人からのものとちゃんと分けるぞ、あいつ」
そもそもそんなに貰ってない、とメイベルが言うのは、イリスと比較してのことだ。インフェリアの血を引く司令部一のイケメンは、ここ何年か大変な思いをしている。
「男どもより紳士だと評判のイリスが、変態盗人にとられそうだと知ったら……女どもは暴徒化するかもな」
「しないよ。みんながみんなベルじゃないんだから」
「でもメイベルちゃん、なんだか落ち着いた感じする。エイマルちゃんはどう思う?」
「あたしはみんな前から素敵だと思うよ。イリスちゃんはかっこいいし、メイベルさんはクールで、リチェさんは可愛い!」
そういうエイマルちゃんが可愛い、とリチェスタはエイマルを抱きしめる。イリスにとっては最高の絵が完成した。レヴィアンスがいたら写真を撮ってもらうのに。
結局、グレイヴに急かされるまで遊んでいて、ラッピングはなかなか決まらなかった。
「そういえば、イヴ姉はダイさんにチョコは」
「何年かあげてない。エイマルからあれば十分でしょう。昔は欲しいってしつこかったけど、今はそうでもないし。アンタたちと違ってもう若くないからね」
それでも、エイマルと一緒に熱心にラッピングの組み合わせを試しているのだから、蔑ろにしているわけではないのだろう。ただかたちが変わっただけで、グレイヴもちゃんと気持ちを贈り物に込めている。
「じゃあ、私たちくらいのときはどうだったんですか? 手作りとかしてました?」
「してたしてた。アーシェと一緒に、ああでもないこうでもないって騒ぎながらね。だから今日のアンタたちが静かだったのは意外だったわよ」
たしかにこんなに真剣なバレンタインの準備は、イリスも初めてだ。リチェスタは「告白してすぐだから緊張してて」と頬を赤らめる。以前なら、ルイゼン相手にそんなに気張らなくても、と言ってしまったかもしれないが、今ではイリスにもその気持ちが少しわかるので黙っていた。
「あたしもね、今年はちょっとだけ頑張ろうって思ったんだ。ニール君、お母さんからしかチョコ貰ったことないんだって。だから今年はあたしが美味しいのをあげるの」
ニールのことになると途端に張り切るエイマルだが、これは弟分を可愛がっているのだ。リチェスタとは違うが、この子も十分に乙女といえる。
「みんな女子力高いねえ、ベル……。わたし、まだラッピング決まらないよ」
「変態盗人や閣下にはビニール袋に適当に入れて渡せばいいんじゃないか」
言葉はぞんざいでも、弟妹の分はちゃんとカラフルな紙袋を選んでシールを貼っている。メイベルも良いお姉ちゃんなのだった。

*当日の景色*
二月十四日、早朝。ルイゼンは覚えのある状況に頭を抱えていた。
「ゼン君、おはよう」
寮の管理人に呼び出され、玄関へ向かうと、リチェスタが手を振って待っていた。
「……リチェ、お前また学校」
「今日は大丈夫! 余裕持って来たから、ちゃんと自分で間に合うよ。どうしても誰よりも早く渡したかったんだ」
まったく、逞しくなったものだ。いったいどこの誰から影響を受けたのだろう。差し出された包みを受け取って、しかたないな、と笑う。
「ありがとな。どうせだから送っていくよ。支度してくるから待っててくれ」
「! うん、待ってる!」
ぱあっと咲いた笑顔は、やっぱりまだ幼くて、なかなか彼女の気持ちには応えられそうにないけれど。

予想外に可愛い包みを、予想外の人物が「ほら」と押し付けてくる。怪訝な表情をしたフィネーロを、メイベルが不機嫌そうに睨んだ。
「なんだ、いらないのか」
「いや、わざわざどうも。君から物を貰うのが珍しすぎて驚いただけだ」
「ただやるわけじゃない。これはイリスと充実した時間を過ごした私からの自慢だ」
そういえば、女子で集まってチョコレートを作るのだと言っていた。まさかメイベルが、弟妹たちの分以外を用意しているとは思わなかったが。
「……それとだな、今すぐ食って感想を教えろ。カリンのところへ届くのが明日になってしまうらしい。慣れないことをしたから多少は不安なんだ」
さらに貴重な台詞だ。あのメイベルが不安とは。驚きながらも包みを開ける。チョコレートに浸けたイチゴをその場で口に放り込む。甘酸っぱさが広がって、そしてやはり、メイベルらしくないな、と思った。
「どうだ」
「美味いよ。だから堂々としていろ。だいたい、君個人で作ったものじゃないんだから、自信がないというのは失礼にあたるんじゃないか」
「自信がないとは言っていない。美味いならそれで良い。信じるぞ、フィネーロ」
幼馴染にこんなに驚かせられる日が来るとは、夢にも思っていなかった。少しは変わっているのだろうか。彼女も、自分も。
残りは少しずつ食べて、しばらく感動を噛み締めていようか。

所変わってレジーナのとある警備会社。人材採用の基準が少々変わっているここは、社員にとても寛容だ。しっかり仕事をしてくれさえすれば、本人の代わりに荷物を受け取ることになっても、何も文句は言わない。
「ヤンソネン、君宛てに届けものだ。食品らしいから、すぐに開けたほうが良い」
「はあ、食品ですか」
ほぼ地顔のうっすらとした微笑みで、ウルフは上司から荷物を受け取った。そして言われた通りに、その場で開封する。もちろん差出人は、ほんの一瞬で確認済みだ。
赤い滑らかな手触りの素材の、小さな箱が現れる。開けるとチョコレートのかかったフルーツとトリュフが少しずつ、綺麗に並んでいた。彼女はこんなこともできたのか、と感心する。
「これは将来が楽しみだな」
「あ、ウルフ君、そのチョコ誰に貰ったの? なんか、昔先輩が奥さんに貰ったって自慢してきたやつに、ちょっと似てるわ」
ウルフよりも先輩にあたる、女性社員が覗き込む。「先輩が持って来たのはもっと豪華だったかもだけどね」と言いながら、自分もウルフの机に市販のチョコレートを置いていった。礼を言うと、「来月三倍返しね」と冗談交じりに返される。
さて、彼女にも三倍にして返すべきか。例えば夜中に部屋に忍び込むとかして。
「そんなことしたら、怒られちゃうな」
捕まえるのは嫌だ、と言われそうだから、別の案を考えるとしよう。幸い、時間はたっぷりある。

柑橘のオレンジや黄色、イチゴやリンゴの赤、青や紫の小さな実。そしてちょっと背伸びしたトリュフが、可愛い袋に一つずつ入れられている。去年まで母がくれたちょっと高そうなチョコレートもたしかに懐かしいけれど、これはこれで宝石のようで、なんだかエイマルらしい。
「こんなにたくさん、いいの?」
尋ねると、花のような笑顔と頷きがあった。ふわりと甘い匂いもする。
「もちろん! ニール君のお母さんには及ばないかもしれないけど、あたしにできる精一杯をやったつもり。だったら全種類食べてもらわなきゃ損じゃない?」
「なんだか、すぐに食べちゃうのがもったいないくらいきれいだから。ありがとう、エイマルちゃん」
すぐに食べるのも、独り占めするのも躊躇われる。だからニールはその場で二つ封を開けて、一つをエイマルの口もとに差し出した。
「はい。一緒に食べよう。友達と食べたほうが、きっともっと美味しいよ」
母がいた頃もそうだった。結局は二人でチョコレートを食べて、美味しいね、と笑いあったのだ。もう母はいないけれど、友達とそうしなさい、と言うに決まっている。
エイマルはきょとんとしていたけれど、そのうちにんまりして、ニールの手からぱくりとチョコレートを頬張った。
「……うん、美味しい。これね、おじいちゃんが下宿のおばあちゃんに教わって、お母さんに教えたレシピなの」
ニールももう一つをそっと口に入れる。舌の上に、優しい甘さが広がった。
「そうだね、とっても美味しい。これはお返し、頑張らなくちゃね」
「お返しとかいいよ。それより、これからもあたしと仲良くしてくれたら嬉しいな。ニール君は、あたしの親友なんだから」
初めての、母以外からのバレンタインチョコレート。初めてできた、親友。母に、それから今の親たちに、報告したらとても喜んでくれるだろう。

大総統執務室では、ガードナーが紅茶ではなく、ココアを用意していた。イリスにもマシュマロを浮かべたものを出してくれる。これがたいそう甘くて、事務仕事といくらかの緊張で疲れた脳に効く。
「おいしー……。執務室でこんなの飲んでるって知られたら、みんなに恨まれちゃうよ」
「そのときはみなさんにもご馳走します」
「レオなら本当にやりそうだ。サービスはほどほどにね」
レヴィアンスは喋りながら書類を片付けている。ときどきちらりと見える左手の薬指に、指輪が光る。宝石も何もない、ただの銀細工だ。仕事の邪魔にならないようにわざとそうしたと言っていたが、必ずつけているところをみると、やはりまんざらでもないらしい。
ガードナーにそう言ったときは、閣下はいつ誰が訪ねて来ても対応できるようにしているのだと言うでしょうね、と笑っていたけれど。
「レヴィ兄、エトナさんからチョコ貰った?」
「忙しい人に期待はしないよ。オレもお返しの約束できないし」
処理が済んで溜まった書類を取りに行く。これをバインダーに綴じるのがイリスの仕事だ。でもそれだけなら、いつもと同じ。今日はちゃんと感謝を伝えると決めた。
「堂々と期待していいのに。わたしはさ、もうちょっとレヴィ兄から素直になってあげたらいいのにって思うよ」
「オレはいつでも素直だよ。嘘は得意じゃないし」
「そういうことじゃない。……これ、あげるよ。食べたらレヴィ兄だって、素直になれるよ」
周りが思うより、あたしたちはお互いを好きよ。エトナリアはそう言っていた。それが真実だと、イリスはわかっていてもなかなか認められなかった。認めたつもりで、受け入れたつもりでいても、実感はなかなか湧いてこなかった。
だったらこちらから、きちんと見ようとすればいい。それはイリスの得意なことで、けれども今まで避け続けてきたことでもある。自分の全てを認めてくれたこの人のことを、自分も認めよう。
赤い箱を机に置き、手をそっと離す。
「いつもありがとう、レヴィ兄。それから、おめでとう」
何が、とは言わない。言う必要はない。全部としか答えようがないものを、今更説明するつもりはない。
レヴィアンスは手を止めて、イリスを見ていた。その瞳を、真っ直ぐに。
「……ありがと」
そうして顔をほころばせ、イリスの頭をくしゃりと撫でた。その手は昔と変わらない温かさで、この人はいつまでもこの人のままなのだということが、どうしようもなく嬉しかった。



続きを読む
posted by キルハ制作委員会 at 11:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 小ネタ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月10日

恋の約束

午後の大総統執務室。レヴィアンスは自分の椅子に座り、客用のソファには大総統付記者のエトナリアが座っている。ガードナーは紅茶を淹れてから執務室を出て行った。
「レオナルド君が用事なんて珍しいわね。レヴィ以外のことに興味ないのかと思ってた」
カップに触れながら、エトナリアが笑う。
「そんなことないよ。レオだってここ以外での仕事はある」
「冗談よ。それより、事件の顛末についてコメントを。それを書くのがあたしの仕事」
「……続けられるの、仕事」
カップがソーサーに当たって音をたてる。ちょっと不機嫌になったな、とわかった。
「まだ、今のところは。でもお見合いの日取りは設定されちゃったから、一応顔は出さなきゃね。お互い断れば不成立になるんだから、そうしたら上司も納得するでしょう」
早口に語られる状況。それより、と仕切り直される場。まずは仕事をすべきだろう。けれども、そのあとはずっと考えていたことを話さなければならない。そのためにガードナーは出て行ったのだ。
「本当に国の資産を増やすなんて思わなかったわ。まだ本決まりじゃないでしょうから、そこは書かないけどね」
「うん、厳密に言うと国の資産じゃないし、このあとまだ片付けなきゃいけないことがあるから、発表の時期はこっちで決める。うっかり口滑らせんなよ」
「優秀な記者ですからそんなことはしません。だから人身売買組織の検挙については、たっぷり聞かせてちょうだい」
にんまり笑ったエトナリアに、レヴィアンスはにやりと返す。
「本当に仕事に貪欲だな、お互い」
考え事は、一旦隠して。

少女誘拐事件からの延長で、人身売買組織が検挙された。最近の女性や子供の行方不明事件のうちいくつかに関連しているとみられ、その捜査が続いている。組織が拠点としていた場所からは人体の一部とみられるものが多数発見され、現場に入った軍人の何人かはその日の夕食と翌日の朝食を摂れなかった。
組織は単なる人身売買だけではなく、人体を「殖やす」事もしていた。かつて大陸中で問題となっていた裏の技術、クローンの生成である。見つかった臓器や四肢などの半数は、誘拐した人間を元として、そこでつくられたものだった。
組織がイリスを狙った理由は、もちろん彼女の眼にある。洗脳して裏の手駒とするもよし、特別な力を持つ眼を殖やす実験をしてもよし、いずれもかなわないならいっそ潰して脅威をなくす。これはこの組織だけの目的ではないらしく、裏社会の多くの者の狙いだという。つまりは今後も油断できない。
「情報過多で倒れそうだけど、閣下の頭の中はこのレベルのものがいくつもあるんだよな。本当に凄いよ、あの人。現場での指揮もかっこよかったし」
時間は少し遡り、始業直後の情報処理室。溜息を吐きながらのルイゼンの話を、フィネーロは黙って聞いていた。目はディスプレイに向かい、手はキーボードを打ち続けている。いつものスタイルだ。
「検挙と聴取で、ウルフからの情報の裏付けもとれた。で、あいつが組織とは現時点では関係ないこともはっきりしたよ。でも……」
「危機は去っていないし、そもそもあいつをイリスに近づけたくないんだろう。とられるから」
「そういうことだけズバッと言うなよ」
昨日は夜遅くまで現場に出ていたので、本来なら午前休みをもらっているルイゼンだ。それをわざわざ通常業務のフィネーロについてきてぼやいている。フィネーロからすれば少々迷惑なのだが、今回一番苦労したリーダーの言うことなら聞いてやろうと、こうして耳だけ貸しているのだ。一言くらいの毒は吐いても罰は当たらない、と思う。
「当分は会えないはずだけどな。イリスはとりあえず謹慎だって、閣下が。もちろん無断外出はできないし、メイベルだって見張ってる」
「謹慎か。メイベルは嫌がるんじゃないか。勝手に大嫌いな人間と出かけて、軍人としてあるべき行動をとらなかったイリスを、あいつは許せないはずだ。となれば寮にはいられない。おそらくは……」
たん、と最後のキーを叩き、フィネーロは手を止めた。言わんとすることはわかったので、ルイゼンもそれ以上は聞かずに、眉を寄せながら頬を掻いた。
「それはそれでちゃんと監視がつくから、かまわないだろうけどな」

同じ頃、イリスはすでに寮の部屋を追い出されていた。メイベルが「世話などいらん」「今は顔も見たくない」と癇癪を起こしたのだ。――いや、そう言っては失礼だ。彼女の怒りは、イリスからすれば正当なものだった。
「ベル、お腹の包帯はちゃんと換えなよ。本当なら入院しなきゃいけないんだから」
「うるさい! さっさとどこかへ行け!」
駄目押しでドアの向こうに話しかけてもこの調子だ。おとなしく引き下がったほうが良い。共同電話からレヴィアンスに確認すると、自宅謹慎でも良いそうだ。「信じててやるから真っ直ぐ帰れよ。カスケードさんには連絡しておく」だそうなので、最短距離で帰らなければまた騒ぎになる。
そういうわけで年始以来で実家に帰ると、玄関で迎えたのは母だった。昔、こっそり家を抜け出して遊びに行き、帰ってきたときと同じ表情をしている。怒りと心配が入り混じったものだが、今回は怒りの割合が多いだろう。
「このおばか! 全部レヴィ君から聞いてるわよ。ニールとエイマルちゃんまで巻き込んだんですってね! 私はあなたをそんな子に育てたかしら?!」
「こんなふうには育てられてません、わたしが勝手に育ちました。本当にごめんなさい、お母さん」
両肩を掴まれ揺さぶられ、何度目かの謝罪を述べる。ニールにも謝りたいのだが、今のところそれは許されていない。ただ、エイマルが無事だということは伝わっているらしい。
「謹慎が解けるまではこっちにいるんでしょう。深く反省しなさいね」
「はい……」
やっと家にあがると、微かに紅茶の香りがした。こんなときでもお茶を淹れてくれるのか、と思って台所を覗くと、父が二人分のカップを運ぼうとしているところだった。
「……お父さん、ただいま」
「おかえり。荷物を置いて座れ」
素っ気ない返事だ。いつもなら笑顔で迎えてくれるのに、そんな気配は微塵もない。当然か、と言われた通りに自分の席に座った。父は紅茶を置いてから、その正面に着く。
「レヴィが一通り説明してくれたから、何があったかはわかっている。その前にルーファからも電話があったしな。子供たちに大きな怪我がなかったのは不幸中の幸いだということは、理解しているな?」
「わかって……ます。わたしがしたことがどれだけ最低か。ベルにはしなくてもいい怪我をさせるし、一般の人たちの楽しみも奪いました。水族館にも迷惑かけました」
「損害面はちゃんとわかってるな。シィが玄関でもう叱ってたから、俺はこれ以上は叱ったりしない。そのかわり、この後イリスがどういうことになっても、俺は助けない」
低くゆっくりと告げられる言葉は、これまでに聞いたどんなものよりも重かった。「はい」と頷いてから飲んだ紅茶が、舌に沁みる。今日のはちっとも甘みがない。渋みが強い種類なのだろうが、それにしたっていつもならもっと美味しく感じるはずだ。兄と同じで、父はお茶を淹れるのは得意なのだ。
今までどんなことがあっても、何かしらのかたちで助けてくれた父が、「助けない」と言った。だったら本当に手を出すことはないのだろう。
「エイマルちゃんが攫われたとわかったとき、怖かっただろ」
「うん」
「ニールが泣いたとき、胸が痛かっただろ」
「うん」
「それを二度と忘れるんじゃない。これからも軍人であり続けるとしても、そうでなくなったとしても」
軍人で、なくなったとしても。一瞬考えて、さすがにそうはならないだろう、なったとしてもどうにかならないだろうか、と軽く扱ったことが現実味を帯びている。改めて軍人でなくなった自分を想像しようとしたが、できなかった。未来は真っ暗だ。
ただ、父に言われたようなことは、死んでも忘れられないだろうと思う。
お茶の時間は静かに終わり、イリスは自分の部屋に引きこもった。部屋は常に整えられている。いつ帰ってきてもいいように。誰かを連れてきて泊めても問題がないように。助けないとは言われたが、愛情までは失われていない。それを実感した瞬間に、涙があふれてきた。何年ぶりかで、声をあげて泣いた。


「あらまあ、不細工な顔。とてもカスケードとシィレーネの子だとは思えないわよ」
夜になっても引きこもっていたイリスに、鈴のような声で容赦のない言葉が降りかかる。この家に居候しているが、普段は仕事でほとんど外にいるラヴェンダ・アストラだ。ニアとはあまり折り合いが良くない彼女だが、イリスは姉妹のように思っている。少しくらい厳しい言葉も、いつもなら平気だ。だが。
「そうだね、この状態じゃインフェリアを名乗るのもおこがましいよね」
「気持ち悪いくらい落ち込んでるわね。だいたいの事情は知ってるけど、そこまで思い詰めるようなこと? 私なんかあんたに暴力振るってもここに図々しく居座ってるのに」
それは父が許したからだ。刑罰を終えて住む場所がなくなったラヴェンダを、父はインフェリア家で預かると言った。服役中の彼女の父が戻ってくるまでという期限付きで。
「それもそろそろ終わりだけどね。春になったら、この家ともお別れよ」
「え、なんで? アストラさん、もう出てこられるの?」
「違うわ、私の都合。おかげさまで次の行き先が決まったの」
ラヴェンダがかざした白い左手に、イリスは落ち込んでいたのも忘れて見入った。その薬指に、指輪がある。宝石が一つだけついた、シンプルで細いものだが、それが意味するところは重大だ。
「うそ、ラヴェンダ、結婚するの? それともわたしが知らないうちにしちゃった?」
「言ったでしょう、春にするのよ。おかしいわよね、記憶の年齢はとっくにおばあちゃんの私を、ホリィはお嫁さんにしてくれるんですって」
イリスの知人で兄の先輩でもあるホリィと、ラヴェンダが長く交際を続けていることは知っていた。それがついに結ばれるという。イリスは思わずラヴェンダの手を取った。
「良かったね、ラヴェンダ! すごくいい報告じゃん、もうお父さんたちには話したの?」
「話そうと思ったら辛気臭い顔してるんだもの。訊けばあんたが謹慎処分で帰ってきてるって言うじゃない。盛り上げてくれないと気分悪いから、先にあんたに言うことにしたのよ」
「てことはまさに今日プロポーズされたの? うわあ、こんな嬉しいことってないよ。ラヴェンダが幸せになれるなんて、インフェリア家代々の念願がようやく叶うんだね!」
「代々って……私が関わったのはあんたの曽祖父の代からよ、そんなに昔じゃないわ。全く、さっきまで不細工な顔でしょぼくれてたのが、急に元気でうるさいイリスに戻っちゃって」
クスッと笑ったラヴェンダは美しかった。見た目は十代後半の少女だが、その記憶はとうに百年分を超えた記憶継承クローンの彼女。幸せを望むあまりに凶行に走ったこともあるが、やっと本当に幸福を掴めるのだ。きっとこれまで彼女に関わってきた誰もが、この笑顔を見たかっただろう。
「ね、ホリィさんになんて言われたの?」
「あんたでもこういうこと興味あるのね。てっきり軍とニアにしか関心ないのかと思ってたわ」
「わたしもいろいろあってさ。乙女心が分からなくてリチェとすれ違ったりね」
二人でベッドに並んで座り、イリスはラヴェンダの惚気に耳を傾ける。プロポーズはいかにも熱血なわりに器用でスマートなホリィらしいもので、イリスでも想像が容易だった。こっちまでにやけてしまう。語り終えたラヴェンダは満足気に指輪を眺めながら、「で?」と言った。
「あんたはどうなの。相変わらず初恋もまだなの?」
「初恋はお兄ちゃんだってば」
「やっぱりそれ、カウントするの? ニアじゃなくてレヴィアンスとかルーファだったりしない?」
「レヴィ兄はそういうのじゃないって。ルー兄ちゃんも、そんなの考えたこともないよ。……そもそも、恋とかよくわかんなくて、リチェとすれ違ったんだし」
わかんないのにニアが初恋だって言い張るのね、とラヴェンダは呆れていた。それから何か考えながら、私の場合は、と歌うように語り始める。
「その人を見たとき、胸が高鳴った。その人を想えばいつだって幸せな気持ちになって、安らいで、何をしてでも一緒にいたいと考えるようになったわ。たとえ罪を犯してでも、彼の側にいたい。それで結局、本当に罪を犯しちゃったわけだけど」
たとえ罪を犯してでも、一緒にいたい。その言葉にイリスはどきりとした。すぐに思い浮かんだのは、あの真意の見えない笑顔。そして謹慎の原因となった、自分がしでかした一連のこと。
イリスはおそるおそる口を開いた。
「あのさ、ラヴェンダ。もし、会っちゃいけないって言われたのにどうしても会いたくなって、本当に会いに行ったり、隠れて一緒に出掛けたりしたら、……その相手に抱きしめられたり手を繋いだりしたらどきどきして、他の人にそうされるのとは違うなって思ったら。それは、恋、ってやつなのかな……」
言うだけで恥ずかしい。それが大きな過ちに結び付くのだから、本当に恥だ。ラヴェンダにも「はあ? 何言ってんの、馬鹿じゃない?」くらいは言われるかと思った。
だが反応は違った。隣に座る彼女はぽかんと口を開け、イリスの顔を見つめていた。
「……ラヴェンダ? どうしたの?」
「いや、どうしたのじゃないわよ。こっちが言いたいわ。あんたどうしたの? 何があったの? そんな具体例出してくるんだから、誰かとそうなったってことよね?」
堰を切ったように溢れ出る疑問符が、イリスを押しつぶさんばかりの勢いで降りかかってくる。何から言えばいいのかわからなくなって、ただ一言だけ「ありました」と答えたら、ラヴェンダに思い切り背中を叩かれた。今までに見たこともない、いい笑顔で。
「やだ、そういうことはもっと早く言いなさいよ! カスケードとニアには内緒にしておいてあげるから! で、恋の相手は誰? やっぱりレヴィアンス? それともルイゼンかしら。意外とフィネーロ、大穴であの粘着質女だったり?!」
「いや、なんでその名前が出てくるの……。ていうか相変わらずベルのこと好きじゃないんだね」
該当する人物をラヴェンダは知らないから、適当に知り合いの名前を並べたのかもしれない。しかし、何はともあれ、これはたぶん恋なのだ。そしてその気持ちを、イリスはコントロールできなかった。そういえば恋は盲目なんて言葉もあったなと、そしてそれはなかなか自分をよく表しているのではないかと、イリスはしみじみ納得した。

翌日、お祝いムードのインフェリア家をレヴィアンスが訪ねた。イリスのことがあったのにどうして、という疑問はすぐに解消され、はたしてそれを壊してしまうのはどうかと話を切り出すのは躊躇われた。
だが、言わねばなるまい。本来なら大総統執務室に呼び出して言うべきところだが、今回はカスケードもいるこの家のほうがいいだろう。
「イリスの処分を正式に決めたよ」
出されたお茶で喉を潤してから、告げる。イリスは姿勢を正し、真っ直ぐにこちらを見ていた。もう覚悟はできているようだ。
「降格はない。ただし、今後すぐに階級を上げることもない。最低でも一年は中尉のまま留まってもらう。このままだとリーゼッタ班では一番下になるね」
近いうちにリーゼッタ班全員を昇格させるつもりだった。今回のことがなければ、イリスも一緒に大尉になるはずだったのだが、それはなくなってしまった。大総統暗殺未遂事件で上げた功績が丸ごとなくなったようなものだ。
ことあるごとに昇格を望んでいたイリスはさぞやがっかりすることだろうと思っていたが。
「……それだけでいいの?」
「だけって、結構なペナルティーだと思うけど。大総統補佐がいつまでも階級上がらないんじゃ、周りからの風当たりも気になるだろうし」
「軍どころか、補佐も辞めなくていいの? レヴィ兄、正気?」
どうやら、レヴィアンスはイリスを侮っていたようだ。閣下が思うよりいろいろ考えているかもしれませんよ、というガードナーの言葉が思い出される。たしかにそうだ。今回のことを、イリスはちゃんと受け止めている。
「正気だよ。ちゃんとレオとも話し合って、ルイゼンにも報告した。カスケードさん、これでいいかな」
「レヴィがそう決めたならいいんじゃないか。階級保留で、監視しながら扱き使うってことだろう」
「なるほど、そういうことか。だったらちゃんとペナルティーだね」
カスケードの説明でようやく処分に実感がわいたのか、イリスは何度も頷いていた。ルイゼンなどは「イリスを補佐にし続けるのは閣下が不利なのでは」と疑問を呈していたが、これでいい。最初から彼女の軍人としての人生に責任を持つつもりで、補佐に抜擢したのだ。これが不利だというのなら、レヴィアンスの監督不行き届きでもあるのだから、甘んじて受け入れる。
「典型的な悪い報告と良い報告ってのをやろうと思ったけど、これじゃイリスにとってはどっちも良い報告だな」
「え、まだ何かあるの?」
「ウルフのことでね」
名前を出すと、途端にイリスは固まってしまった。処分を告げるときより緊張しているようだ。イリスならこっちのほうを気にしていたとしてもおかしくはないが。
「……どうなるの、あいつ」
「本人はどうにもならないよ。今まで通り働いて普通に生活してもらう。でも何かあったらまず疑われるだろうね。今回の件も、どうやら組織に潜入して潰すつもりでいたようだから。軍に情報を渡して調査を持ちかけたのも、肝心の本拠地を見つけてほしかったってのが真相。本人曰く、だけど」
「そっか……」
イリスが信じていたうちのいくらかは、やはり裏切られていた。だが実行に移さなかっただけいい。おかげで今回の件については無罪放免となった。そして。
「それからバンリさんだけど、レジーナの病院に移ってもらったよ。病気もちゃんとした方法で治せる。裏組織が動いてると、正しい治療法があるのに不当な利益のためにそれを邪魔されたり、より良い治療法を適用する妨げになるからね。だからウルフは動いてたんだ」
「本当?! そっか、それならいいんだ。やろうとしたことは無茶だけど、組織に協力しようとか、裏から治療を都合しようとか、そういうわけじゃなかったんだね。ウルフがそんなことするはずないもん。バンリさんも助かるなら良かった」
やっと嬉しそうな顔が見られた。少しは裏切られたかもしれないが、だいたいはイリスが信じていた通りなのだから、安心しただろう。
でもそれだけじゃなさそうだ、と気づいても、レヴィアンスは言わなかった。カスケードがいる前で、迂闊なことは口にできない。事情はもう話してあるから、わかっているかもしれないけれど。
「もう一つ、これはカスケードさんへの報告だね。今回の人身売買組織の検挙をきっかけに、裏で働いている闇医者とか、発達した生体技術関係とかの把握が進みそうなんです。今まで裏の技術だからと長いこと実用できなかったことを、オレが大総統をやっているうちに堂々と正しく使えるようになるかもしれない。まだ確定してないから、公表はできないんですけど」
「それはいいな。そのことで惜しい思いをした人はかなりの数いるから、早めに進めてほしい」
これはまだ時間がかかりそうだが、もう「国の資産が増える」という表現でエトナリアには明かしてしまっている。宣言したからには確実に前進していかなければ。
それから――いや、これはまた後日でいいだろう。今日の仕事は終わったことにして、レヴィアンスはインフェリア邸を辞した。
イリスの謹慎はまだ解いていない。けれども長くはしないつもりだ。

その日の夕方には、インフェリア邸は実に忙しなくなっていた。ラヴェンダの婚約祝いということで、カスケードが人を呼んだのだ。だが、それだけではないだろう。父はイリスを助けないと言ったが、気遣っていなければ、ラヴェンダとはほぼ無関係のエイマルたちダスクタイト家の人々まで呼ばない。
「黒すけのとこには、うちの娘が迷惑かけたからな。俺からの詫びってことで」
「お前が詫びてどうすんだ。エイマルは喜んでるからいいけどよ」
そんな会話が玄関で交わされていたのを、イリスは宴会の準備をしながら聞いていた。父との話が落ち着いた頃に、彼らに駆け寄って頭を下げる。
「ブラックさん、イヴ姉、エイマルちゃんを危ない目に遭わせて、本当にすみませんでした! もう二度とこんなことにならないように気をつけます! 今度こそちゃんと、エイマルちゃんを守り抜きます!」
二度と会わせてもらえなかったらどうしよう、とまで考えた。味方をしてくれると言ったダイはともかく、普段からエイマルの世話をしているグレイヴとブラックには許してもらえないのではないかと。
でも、それは嫌だった。エイマルとはこれまで通りに仲良くしたいし、グレイヴとブラックは頼りたい先輩だ。イリスがこれからも裏組織の標的であり続け、一緒にいる人が危険にさらされるとわかっていても、彼らとの交流を諦めたくなかった。
どれくらいの時間、そうしていただろうか。もしかしたら数秒だったかもしれないけれど、イリスにとっては長かった。
「顔を上げなさい」
グレイヴに言われて、勢いよく頭を上げた。すると頭頂部に手刀が入った。結構痛いが、これがまた懐かしい。他人の子だろうと悪いことをすれば容赦しないグレイヴには、昔からよくこうやって叱られたものだった。
「……イヴ姉のチョップ、久しぶりだね」
「そう? ここ数日でかなり繰り出したから、アタシはそんな感じしないわよ。……それより、ちゃんと約束しなさいよ」
「約束?」
「たった今自分で言ったでしょう、エイマルを守り抜くって。もう会わないなんて言ってたら、これじゃ済まなかったわ」
ということは、これまで通り会ってもいいのか。ブラックに視線を移すと、それを肯定するように頷きが返ってきた。
「勝手に突き放すって決められるよりずっと良い。エイマルもお前と一緒に遊びたいだろうから、これかも頼む」
「はい!」
今度は絶対に。軍人としてだけではなく、エイマルの「お姉ちゃん」としても、しっかりしよう。認めてもらえるのなら、応えなければ。決意を込めた返事を聞いたかのように、エイマルが玄関から早足でやってきた。手には新聞紙に包まれた大きな塊を抱えている。
「イリスちゃん、見て! ラヴェンダさんのお祝いに、お父さんのお肉持ってきたんだよ!」
「え、ダイさんの? 削いだの?」
「削ぐわけないだろ。向こうで獲ってきたんだよ」
一緒にやってきたダイも、エイマルの持っているものより一回り大きい包みを手にしていた。父も覗き込んで、懐かしい土産だな、と笑う。
「休みも明日で終わりなんで、今日呼んでもらったのは良かったです。ラヴェンダのお祝いと、それからイリスと一緒になって暴れたお詫びってことで」
「そうか、せっかくの休みなのに悪かったな」
「俺は娘たちの成長を見られて、良い思い出になりました。な、イリス」
肉を受け取りながら、ふと思う。ダイは今回、ずっとそう表現していた。それはつまり。
「ずっと気になってたけど、娘たちって言い方、もしかしてわたしも入ってるの?」
「年齢だけなら親子くらい離れてるだろ。それにお前、俺のことは兄扱いしてないし」
素直に喜んでいいのかどうかは微妙なところだが、大切に思われているのだろう。それも実の娘であるエイマルと並べられるくらいに。とりあえず、ありがとう、と返しておいた。
台所仕事にグレイヴも参加してくれ、料理が揃った頃に兄がやってきた。「ただいま」という声はイリスまで聞こえたが、それがすでに笑っていない。今回はイリスにとって怖いことがたくさんあったが、やはり兄が一番怖いことには変わりない。自分が悪いから、仕方ないのだけれど。
「今日はあからさまに機嫌悪くしてるわね。大丈夫?」
グレイヴもさすがに心配になったようだ。ぎこちなく頷いたイリスの隣で、母が困ったように笑う。
「ニアは怒鳴ったりしない分、どこまで怒ってるのかわからないのよね」
「笑い事じゃないよ、お母さん……」
今までで一番怒っているのではないだろうか。ニアは自分のことよりも、近しい他人の傷に敏感だ。ニールを泣かせたことで、今度こそイリスと口をきかなくなるかもしれない。謝っても許してもらえないのは覚悟の上で、イリスは兄のもとへ向かった。
兄は先にダイたちに挨拶をしていた。ルーファも一緒にいる。ニールはエイマルに飛びつかれていたが、笑顔がどこかぎこちなかった。――せっかく最近は、明るく笑えるようになったのに。
「……あの、お兄ちゃん」
おそるおそる話しかける。だが、兄の表情は見えなかった。その前にルーファがこちらに気づいて大股に歩いてきて、イリスの正面に立つなり頭に拳骨を落としたからだ。痛みに頭を押さえようとすると、今度は怒鳴り声が降ってくる。
「イリス、お前ニールを誘った時なんて言った?! あいつの誕生日祝いだからって、そう言ったよな。それがなんだ、あんな事件に巻き込んで! どうにもおかしい誘い方すると思ったら、最初から子供たちを利用する気だったのか!!」
周りがみんな静まりかえる中、ルーファの言葉がイリスに深く刺さった。そうだ、子供たちを自分の我儘を通すための口実にしようとした。そうして事件に巻き込んだ。現に誘拐されたエイマルだけではなく、もうたくさん怖い思いをしているはずの繊細な少年を傷つけた。
「利用、しました。せっかくニールがこっちに来て、初めての誕生日のお祝いだったのに。わたしがそれを台無しにしました」
イリスが認めると、深い溜息が聞こえた。イリスを殴ったその手で、ルーファは自分の頭を抱えている。
「反省をどう表すつもりだ。俺は謝ればチャラに、なんて甘いことは考えてないぞ」
「チャラになんてできないよ。そんなのわかってる。……でも、どう表したらいいかな。わたしね、エイマルちゃんと同じく、ニールのこともこれからちゃんと守るって言うつもりだった。だけどそんなの、ルー兄ちゃんは、きっとお兄ちゃんも、信用できないよね」
グレイヴたちは優しかったのだ。エイマルが逞しいこともあるだろう。けれども本当なら、これくらい怒られて当然なのだ。これこそが普通の反応だった。反省の表し方を問われても、何をしても許しては貰えない気がして、すぐには思いつかなかった。
「ごめんなさい。ニール、ごめんね。わたし、初めて会ったときからずっと、あんたを傷つけてばっかりだ。怖い思いをさせて、泣かせて、それなのにまたお姉さんぶるなんて、虫が良すぎるよね」
涙がこみ上げる。でも、泣いてはいけない。泣いたって何も変わらない。自然に目のあたりに力が入ってしまう。――ああ、これじゃあ、ニールの顔を見ることすらできないな。
「イリスさん、こっち見てください」
いつの間に近くに来ていたのか、ニールの声がした。目を閉じたまま首を横に振ると、手を握られる。
「お願いです。僕を見て。……僕、怒ってませんし、もう泣いてもいません」
「そっか、ニールは強くなったね。でもわたしの眼は見ないほうが」
「目を開けて。お願いします」
懇願されて、思わず瞼が開いた。眼を制御できていないのはわかっている。でも、目の前の子供は少しも怯えていなかった。具合悪そうにもしていない。
精悍な顔つきの少年が、そこにはいた。
「……ね、僕、泣いてないです。事件の時だって、僕が泣いたのは自分の無力さが悔しかったからで、イリスさんの所為じゃありません。だからルーファさん、もういいですよね。ちょっと叱るかもしれないとは聞いてましたけど、手をあげて怒鳴るなんて思ってませんでした。いつも優しいのに、どうしてこんなことを」
傷つけたと思っていた。ただでさえ繊細なのだから、と。しかしニールは、イリスを庇おうとしていた。世話になっている人を、静かな目で見つめて。
しばしの静寂の後、突然誰かが吹き出した。
「ルーファ、お前……っ、頑張りすぎだろ……! たしかにこういう役は、ニアにはやらせたくないよな。いやあお見事!」
「ダイさん? え、なんで笑うの? ここ笑うとこ?」
真っ白だったイリスの頭が、途端に疑問符で埋め尽くされた。グレイヴが呆れ顔で諌めようとするも、今度は母が笑いだしてしまう。イリスとニールは思わず顔を見合わせた。やはりニールに、怯えはない。きょとんとしているが、顔色も良かった。
ニールに眼が効かないことも含めて混乱しているイリスに、ルーファの諦めたような声が届く。
「もうちょっと間を持たせてくれれば良かったのに。ダイさんがいるとこういうことになるからな」
「ルー兄ちゃん、どういうこと?」
「怒ってるんじゃないんですか?」
「怒ってたよ。怒ってなきゃこんなことするもんか。くそ、ダイさんじゃなくてレヴィならもっと空気読んでくれただろうに」
「そんなこと言われても。傑作だったから報告はしておいてやるよ。……つまりだな、ルーファは憎まれ役を演じようとしてたのさ。ニールがイリスを庇うのも、もしかしたら計算の内だったかもな。だからこそニアより先に動いた。先に怒ってしまえば、それ以上のことはできなくなるだろうと踏んだ」
なるほど、とニールがルーファを見上げる。イリスはダイを見て、それからニアへ視線を向けた。
「……そうですね。ルーが派手にやってくれた所為で、僕は何もできなくなりました。でもさすがに拳骨はやりすぎ」
「やってからまずいと思った。イリス、頭へこんでないか」
「へこみはしないし、拳骨くらいいくらでも食らうつもりだったけど」
「ニールもびっくりさせたな。悪かった」
ルーファはすっかりいつもの調子だった。ちょっと気の抜けたニールを撫で、ニアに目配せしている。今度はニアが大きな溜息を吐く番で、それからイリスのもとへやってきた。眉を寄せてこちらを見る深海の色に、身が竦む。
「レヴィから連絡があったよ。階級保留だってね」
声は穏やかだった。ルーファに先を越されたせいで、怒るに怒れなくなってしまったのだろう。イリスも自然に、いつも通りの返事ができた。
「うん。軍を辞めさせられるかと思った。そうでなくても、大総統補佐はできないんじゃないかって」
「次はないって言ってた。僕も同じ。またニールが泣くようなことがあったら、きっとそれはよほどのことだろうから、ルーが先に何しようと容赦しないよ」
「その時は縁切られると思ってる」
「そうだね。今の言葉、お互い忘れないようにしようか」
重くて大事な約束だ。けれどもそれくらいでなければ、今のままのイリスではすぐに心が揺らいでしまう。エイマルを守り抜くこと、ニールを泣かせないこと。破れば自分の心も張り裂ける。しっかり憶えていて、これからを歩むと決めた。
「ところで、準備ってどこまで進んでるの。ラヴェンダがホリィさん連れてくる前に終わる?」
「終わらせる! うわ、予定の時間まであと十分しかない。お兄ちゃんも台所手伝って! あと食器運ぶだけだからお兄ちゃんでもできるよ」
「僕を何だと思ってるの。本当に反省してる?」
主役が来る頃には、何事もなかったように賑やかになっていた。笑顔が咲いて、門出を祝う。今からこんなに盛り上がってどうするのよ、たしかに盛り上げろとは言ったけどやりすぎだわ、と文句を言うラヴェンダは、やはり幸せそうだった。


宴の余韻が残って眠れない。人がいなくなると、広い家が急に寂しくなる。父が家に人を呼びたがるのは、この寂しさに耐えられないからだろうか。この家の人たちは、案外寂しがりだ。
ラヴェンダにもそれはうつったかもしれない。でも彼女には、その寂しさごと抱きしめてくれる人ができた。父には母がいて、兄にも新しい家族がいる。
――でも、わたしは。
布団に包まり、目を閉じる。頭ははっきりしていて、この数日のことをきちんと思い出せる。ちょっと衝撃が大きすぎたということもあるけれど。
もう一度目を開けて額に触れる。何一つとして忘れていない。そしてそれが信じて良かったものなのかどうかも、今では冷静に考えられる。考えて、答えを出せたことがある。
起き上がって、寝間着の上にコートを羽織る。部屋を出て、玄関まで降り、静かに扉を開けて外に出た。冷えた空気の中に立つ人物に、そっと近づく。
「風邪ひくよ」
「一度ひいたら、もう大丈夫でしょ」
「そういうものじゃないと思うけど」
ウルフが困ったように笑う。いや、いつも笑っているから、これはただの困り顔なのだろう。彼がここにいるのは、レヴィアンスの手引きによる。
まだ家が賑やかな時間に、電話がかかってきた。レヴィアンスはまだ大総統執務室にいて、仕事をしているようだった。
――今日だけ、夜間のインフェリア邸の警備を頼んだ。外に出ればウルフに会えるよ。
そんなことしていいの、ついこのあいだまで疑ってたくせに、と問い詰めた声は、自然と小さくなった。ニールだけがこちらへ振り向いたので、あの子には聞こえたかもしれない。
――無罪放免だし、あいつ警備員なんでしょ。仕事仕事。カスケードさんはちょっと自信なかったから、シィさんに許可取ったよ。
いつのまにそんなことをしていたのだろう。母もよく許したものだ。レヴィアンスは全部話したというから、本当に事の全てを知っているだろうに。そう言ったら、だからだよ、と返された。
――あいつと決着つけたいでしょ、イリスは。シィさんもわかってた。何かあればすぐにこっちが動くから、余計な心配せずに会うといい。会いたくなければ部屋にいて。
余計な心配をしているのはレヴィアンスのほうだろう。放っておいても良かったのに。言い返す前に、含んだような一言で締められた。
――お前が患うと周りにも影響あるからさ。
言葉の意味はとうとうわからなかったが、自分の性格を考えるとやはり引きずりそうだった。少しだけ迷って外に出てきて、決めたはずの答えをまた迷う。
「これ、使うといいよ。温かいから」
「いやいや、あんたのほうが寒いでしょ。ずっと外にいたんだから」
「僕は北国育ちだから大丈夫」
巻いていたマフラーを貸してくれ、手袋まで渡される。微笑みに負けて、そのまま借りてしまった。温もりに絆されそうになって、違う、と思い直す。言わなければならないことがある。そのために出てきたのだ。
「……バンリさん、こっちの病院にいるんでしょ。ちゃんと治せるって、レヴィ兄が言ってた」
「ああ、聞いたんだね。わざわざ軍医さんが連れてきてくれたんだ。色々厳しいこと言われたよ」
「だってあんたのしてること、やっぱり無茶苦茶だったじゃない。バンリさんの病気、治したかったら一緒に来ればよかったのよ。裏組織のことなんか放っておいて」
「長年調べてると、その癖が抜けなくて。それがバンリにも関係あることなら、そのままにしておけなかった。僕はやっぱり、普通には暮らせないみたいだ」
それはイリスも同じだ。関わってしまったものから手を離せない。たぶん軍を辞めさせられたら、世間一般にいう普通の生活はできなくなる。今がイリスの普通だからだ。同じように、ウルフにはウルフの「普通」があるのだろう。
「バンリと暮らすようになってから、探偵を始めたんだ。人捜しが主だったんで、調べていくうちに例の人身売買組織に辿り着いた。内情を知っていくうちに、バンリの病気のこともわかって。そしたら、もういてもたってもいられなかった。奴らの本拠地がレジーナ近辺だというところまで掴んで、お金が必要だったからこっちにきて仕事を探した。今の警備会社に来たのは偶然。縁が欲しかったっていうのは後付けの理由だ」
後付けでも、そこに留まる理由にはなった。全くの嘘ではなかった。
「街で事件があった日、わたしに会ったのは?」
「仕事が休みだったから、組織に関係ありそうな人間を追ってた。君を襲った人たちだよ。まさか狙われているのが君だなんて、そのときまでわからなかった。中央司令部に君たちがいることを思い出して、利用することを思いついたのも君に会った時。君たちが興味ありそうな情報を伝えて、君が関わるように仕向けた。……僕は、イリスを利用したかった。利用したくて君を呼び出し、自分の過去に同情させようとした」
それはたしかにうまくいった。ルイゼンやレヴィアンスに止められなければ、イリスは軍での捜査内容をそのまま話してしまうところだった。
「君がわざわざ会いに来て、情報はあげられないって言った時、そこで関係を切るべきだった。失敗したらそうするつもりだったんだよ。でも、できなかった」
「どうして」
「もっと会いたかったから」
ふわりと笑って言ったそれは、イリスと同じ気持ちだった。嘘ではなく、打算もなく、純粋な。
「一番最初の出会いから、君に惹かれていた。眼も美しいけど、僕のために必死になってくれたのが嬉しかった。僕よりも年下で、小さいのに、バンリみたいだって思った。水族館に行った時、昔話をしてくれたよね。君でも弱点があるんだなって初めてわかって、本気で愛おしいと思った」
少し前ならわからなかっただろう。でも今ならそれがなんなのか、たった一言で表す言葉を知っている。同じ想いを、イリスも持っている。
ただ、それを抱えるには、イリスはまだ幼すぎた。振り回されて、周囲に迷惑をかけてしまうくらいに。自分の立場を、仕事を、やるべきことを見失うほど、盲目だった。
「……ウルフの気持ちは、嬉しいよ。わたしもね、どうしてもウルフに会いたかったの。だからゼンやレヴィ兄の言いつけを破った。それで、大切な人を傷つけた。わたしは軍人だから、それ以前にあの子たちのお姉さんだから、何が何でも守らなきゃいけなかったのに」
この道を行くと決めた以上、それがイリスの最優先事項だ。あちらもこちらも立てるなんて、やはり無理な話だった。選ばなくてはならないときは、必ず来る。
けれども選択肢は、増えるし、増やせる。いや、実は無限にあって、それに気づけるかどうかが大事なのだ。だからイリスは、自分の気持ちを叶えるでも諦めるでもなく。
「今の私じゃ、大切な人をしっかりと抱きしめてあげることができない。だから、わたしがもうちょっと大人になって、恋をしてもちゃんと自分のやるべきことを見失わずにいられるようになったら。……そうしたら、今度はわたしから、ウルフに告白してもいいかな」
待っていてくれとは言わない。ウルフの気持ちが変わってもかまわない。ただ、イリスがそうしたいだけなのだ。我儘だとわかっていて、選び取った答えだった。
ウルフは一瞬だけ笑うのをやめ、目を丸くした。それからまた、満面の笑みを浮かべた。
「楽しみに待ってる。何年でも待つよ。執念深さで言えば、きっと僕のほうが上だからね。君の言葉、絶対に忘れない」
また一つ、約束が増えた。とても大切で、愛しい約束が。

インフェリア邸の様子がなんとか見える、住宅街の曲がり角の先。ルイゼンはそこで、ウルフを見張っていた。レヴィアンスが警備会社に連絡をとっているのを聞いたのだ。こっそり、ではなく、まさにその場面に居合わせた。
――ウルフを止めたかったら乗り込みなよ。
どうしてこの人を尊敬していたのか、わからなくなるくらいに、意地の悪い笑みだった。この人だってわかっているくせに。イリスが選んだのはルイゼンの言葉を受け入れることではなく、それを振り切ってでもウルフに会うことだった。
ウルフを監視するという仕事を受けたというかたちではあるが、ここに来たのは悪あがきだと自覚している。そして隣にいる仲間たちもまた、彼らなりにあがいているのだろう。
「メイベル、割り込まないのか」
「怪我を負っていなければ割り込んでいる。これも奴の策略じゃないだろうな」
「君はここに来ただけでも、十分な執念だろう。そして銃を持って来なかっただけ、ちゃんと現実を見ている」
「フィンだっておとなしいだろ。いつもおとなしいけど」
「僕には割り込む資格がない。イリスに余計なことを言って混乱させた責任がある。ウルフ・ヤンソネンはイリスにその答えを教えたようだ」
ルイゼンと、メイベルと、フィネーロ。イリスを想う者同士、抜け駆けせずにやってきたつもりだ。その結果が、自分の気持ちが伝わらないまま撃沈することになるとは思わずに。
そもそも、はっきり言わないと伝わらない相手だったのだ。みんなそれをわかっていたはずなのに、しなかった。四人での関係が心地よくて、それに浸ってしまっていたのかもしれない。
「私は諦めないぞ」
腹の怪我が痛むだろうに、メイベルは強い語気で言う。
「まだあの二人は付き合っているわけではない。物理的な距離と一緒にいる時間で見れば、私が一番イリスに近い。変態盗人からイリスを取り返してやる」
「喧嘩して追い出したくせに」
「腹が立ったのは事実だからな。で、お前たちはどうなんだ。このままイリスが盗人の手に落ちるのを見ているだけか」
イリスが好きになった相手なら仕方がない。ルイゼンはそう思いかけていた。ウルフが害をなす存在ではないとわかった今、それが一番良いことなのではないかと。けれどもメイベルはもちろんそんな満足はしない。
「……今回は引いたが、僕も簡単には諦められそうにない」
フィネーロも意外と執着するタイプだ。納得できればそれまでで手放せるのだが、イリスに関してはそうもいかないらしい。
「ルイゼンは? 僕は君には諦めてほしくない。僕らよりも長く彼女を想っていて、彼女のことをよく知っていて、それなのにいきなり出てきた男に掠め取られていいのか」
「私もルイゼンからなら奪い甲斐がある。はっきりしろ」
同志兼ライバルたちに詰め寄られ、ルイゼンはたじろぐ。イリスがウルフを好きなら、諦めるべきなのだろう。でもあんなに彼女を引き留めようとしたのは、仕事のためだけではない。ここに来たこともそうだ。だからつまり、ここで答えが出ないわけはないのだ。
「諦められるかよ。こちとら十二年追いかけてんだ」
絞り出すような言葉に、同志たちは少し満足気に頷いた。

リチェスタが電話を受けたのは、早朝、学校へ向かう前だった。自分が受話器を取らなければ無視されていたであろう相手からの言葉を、最後まで聞いて、しっかり受け取った。
――わたしさ、リチェの気持ち、ちょっとだけわかったかもしれないんだ。
十二年。それがイリスと出会ってから今日までの時間だ。彼女を親友と呼ぶようになってから、いつのまにかこんなに経っていた。それでも互いにわからないことはあった。イリスがきっとリチェスタの「恋する気持ち」をあまりわかっていなかったように、リチェスタもイリスについて知らなかったことが山ほどある。
どうしてこんなに勇気があるんだろう。どうしてこんなに行動力があるんだろう。どうしてルイゼンとずっと一緒にいられるんだろう。どうしてこんなに強くて眩しくて、自分が翳むとわかっていても憧れて、離れ難くなってしまうんだろう。そんな思いを何遍も抱いてきたのに、答えは一つも出せなかった。ただ、そんなイリスをルイゼンは好きなのだと、それだけはリチェスタの目にもはっきりしていた。
――ごめんね、リチェ。わたし、無責任だったよね。恋をすることがあんなに不安で怖いことだなんて、全然知らずに偉そうなこと言った。
親友は、イリスは、近づこうとしてくれた。いつだってそうだ。イリスからリチェスタに歩み寄って、初めて世界が明るくなった。ときにそれは眩しすぎたけれど、やはりそんな親友を羨む気持ちは消えず、そしてそんなところが大好きだった。
ときどきしか見せてくれない弱みも含めて、彼女と、彼女と一緒にいられる自分が、誇りだった。
「リチェ?! お前、こんな時間にどうしたんだよ。学校は?」
電話を切ってから、急いで中央司令部敷地内の軍人寮へ走った。ルイゼンを呼び出してもらい、緊張しながら来るのを待った。いつも心臓が弾け飛びそうだからと遠慮していたことに、あえて挑んだ。
自分もイリスの気持ちを知りたくなったから。知りたくてたまらなかったから。
「学校は、遅刻する。ママにばれたら怒られちゃうけど、もう慣れたからどうってことないよ」
「どうってことないって……そんなわけないだろ。送ってやる」
「ありがとう。ゼン君はいつも優しいね」
ルイゼンは昔から優しかった。幼い頃はちょっと乱暴なところもあったけれど、リチェスタには絶対に手をあげなかったし、こちらが吐く良くない嘘まで「仕方ないな」と受け止めてくれた。具合の悪い時は見舞いに来てくれたし、節目の挨拶を欠かさない。――それがただの「幼馴染のよしみ」だとしても、嬉しかった。優しさにずっと甘えていた。
気持ちを告げたら、きっとこの人は困るだろう。リチェスタを傷つけない言葉を選ぶだろう。
「ゼン君、私、あなたのことが好きです。小さい頃からずっと」
でも伝えなかったら、リチェスタはきっとそれを誰かの所為にしたり、いつまでも悩んだりする。昔、そうやってイリスを傷つけた。もう同じことは繰り返すまいと誓った。
ルイゼンが一瞬だけ目を見開いて、それから困った顔をして頭を掻く。この仕草は予想済みだ。ずっと見ていたのだからよく知っている。
「……お前、それを言うために来たのか」
「そう。イリスちゃんが、ゼン君はすぐ階級上がっちゃって会いにくくなるから、早くって」
「そっか。あいつが、そうやって言ったのか」
がっかりしたような溜息。それも予想していた。そのあとの返事も。
「ごめん。リチェのことは、妹みたいなものだと思ってる。それ以上には、今は考えられない」
そうだよね。知ってたよ。ずっと覚悟していたから、涙も我慢できる。
「学校まで送る。車こっちだから、ついてこい」
「今は、だよね」
彼がこちらに背中を向ける前に、引き留めることだってできる。勇気は、自分の恋を認めた親友から貰った。
「ゼン君、今は考えられないって言った。じゃあ、これからの可能性がないわけじゃないよね。私、諦めないよ。ずっとゼン君のこと好きだって言い続けるよ。絶対にあなたを振り向かせてみせる!」
その吃驚した顔で、何を思っているだろう。イリスに似ていると、少しは思っただろうか。それとももっと先、「リチェはこんなに強くなったのか」と、思ってくれただろうか。
少し宙に視線を漂わせてから、ルイゼンはしっかりとリチェスタを見てくれた。
「期待してる」
幼い頃から大好きな笑顔で、そう言って。


イリスの謹慎が解けたのは、二十二日の午後だった。
「ご迷惑をおかけしました!」
改めて頭を下げたイリスを、仲間たちは「全くだ」と迎えてくれた。メイベルも「もう寮に戻ってこい」と言ってくれ、イリスは晴れて日常に戻ることができたのだった。
「これに懲りて、無茶はもうするなよ。なかなか懲りないのがお前だけど」
「ごめん、ゼン。でもウルフの容疑晴らしてくれたんだよね。ありがとう」
言いそびれていた言葉をようやく本人に伝えられた。少し間があってから、「どういたしまして」と返事があった。
「言っとくけど、あいつの為じゃないからな。仕事だからだ」
「でもゼン、仕事好きだし誇り持ってるよね。そういうところ、かっこいいよ」
「煽てても何も出ないし出さないぞ。ほら、お前の分の仕事とっておいてやったんだから、さっさと取り掛かれ」
逸らした顔が赤くなっていたのを、イリスは見逃さなかった。そういう表情をこれからはリチェにも見せなよ、とは思っても言わない。――彼女の告白については、電話で報告を聞いた。まさか振られるとは思っていなかったので、どう慰めたらいいのか迷ったが、それも一瞬のこと。リチェスタは案外、元気そうだった。
――今回はだめでも、次はわかんないもの。私は何度でもゼン君にアタックする。
親友の逞しさがどこからきたものなのか、そこまでイリスは考えていなかったけれど。
仕事の合間に情報処理室にも顔を出した。相変わらずこちらを向くことはなかったが、フィネーロはイリスの話を全部聞いてくれた。
「フィンの言ってたこと、なんかちょっとわかっちゃったかも。私は人にどう思われているかを、もっと深く考えなきゃいけなかったね」
「……僕に話してる時点で、まだ考えが浅い気がするが。まあいいだろう、僕も言いすぎた。悪かったよ」
「何謝ってるのよ。ていうかまだ足りないの、わたしの考えは……」
フィネーロの言うことはまだ難しい。彼がイリスをどう思っているのか、実はよくわかっていない。それもいつかわかるかな、と思いながら、拒まれないのを良いことにしばらく横顔を眺めていた。
大総統執務室にも行ったが、レヴィアンスは集中モードに入っていて、ろくにこちらを見なかった。ガードナーが、困りましたね、と苦笑していたが、これでいい。どうせあとでまた、顔を合わせることになるのだから。

午後だけの仕事はすぐに終わって、そのあとは兄の家に向かった。ニールへの反省の表し方をずっと考えていたのだが、今日やっとそれを伝えられる。本題はまた別にあるのだが、イリスにとってはどちらも大切なことだった。
水族館に行ったのは、ニールの誕生日祝いを兼ねて、ということにしていた。それを台無しにしたのだから、今度こそちゃんと祝わせてほしい。きちんと計画を立てさせてほしい。そう言うつもりだった。
いざ兄たちの住まいに到着して口を開こうとしたら、遮られてしまったけれど。
「ああ、イリス、やっと来たの。僕だけじゃとてもじゃないけど料理間に合わないし、ルーは台所ではあんまり活躍できないんだよね」
「悪かったな、役に立たなくて。そういうわけだから、飯はお前頼みだ、イリス」
「えー、イヴ姉とアーシェお姉ちゃんから届いてるのだけで十分じゃないの?」
「僕だって頑張りたかったんだよ。レヴィの誕生日だし」
兄たちが慌ただしいのは、そしてイリスがここに来たのは、そのためだった。今日はレヴィアンスの誕生日当日。集中モードに入っていたのも、各所からのお祝いを受け取って処理しつつ、夜にはここに来るためだったのだろう。
「仕方ないな、諸々のお詫びも込めて、腕を振るいますか。お、ニール、部屋の飾りつけしてるの? やっぱりセンスいいね」
「イリスさん、こんばんは。台所手伝おうとしたら断られてしまったので。イリスさんが来てくれたので心強いです」
「ニールが手伝った方がスムーズにできるのに。お兄ちゃんってば頑固なんだから」
レヴィアンスが来るのはいつかわからない。が、一緒に来なくて正解だったのはたしかだ。イリスは台所の惨状――それでも以前よりましになっている――を手際よく片付け、料理の仕上げに取り掛かった。
呼び鈴が鳴る頃には、すっかりテーブルの上と壁が華やかになっていた。レヴィアンスの好きな酒もちゃんと用意してある。あとは部屋に入ってくるレヴィアンスを驚かせるだけなのだが。
「……? いつもなら、勝手に開けて入ってくるのに」
「イリス、ニールと迎えに出てあげてくれる? きっと入りにくいだろうから」
クスクスと笑う兄とにやつくルーファが気になったが、入ってこなければ凍えてしまうだろう。イリスはニールの手を引いて、玄関に急いだ。
「もー、何してんのレヴィ兄。さっさと入って……」
おいでよ、という言葉は出てこなかった。ニールもいつもの挨拶が出てこないようだ。それもそのはず、外に立っていたのはレヴィアンスだけではなかった。
「よ、お待たせ」
「こんばんは、イリスちゃん。あと、ニール君だよね。初めまして」
「……エトナさん? なんで?」
そういう予定だっただろうか。しかし、それならそうと兄たちが言うはずだ。だいたいにして、大総統付記者で仕事上でしか関わりのなかったエトナリアがここに来ることが、前代未聞である。混乱するイリスに、レヴィアンスが苦笑いのまま言う。
「とりあえず、エトナだけでも入れてやってくれない? 結構寒いんだ、ここ」
言われるままにすると、エトナリアはごく自然に上がりこみ、兄たちに「久しぶりでーす」と挨拶していた。そして壁の装飾と並んだ料理を褒めちぎって、これまたごく自然に席に迎えられていた。レヴィアンスはイリスの横を通り過ぎ、兄たちに礼を言ってから、エトナリアの隣に座る。
「あの人がエトナさんって人なんですね。なんだか可愛らしい人ですね」
「ニール、エトナさんのこと知ってるの? ねえ、これどういうこと?」
ニールに尋ねても、意味ありげに首を傾げるだけ。またも知らないのはイリスだけという状況だ。いいかげん、こんなシチュエーションはこりごりだ。
「レヴィ兄、説明してよ。わたしが説明されないとわからないの、もう十分知ってるでしょ」
「これからするから、まず座りなよ。ニアとルーファにもちゃんと報告したいし。他のところにはもう済ませてきたから、実家を除けばここが最後」
いったい何の報告なのか。もしや生体技術関係とやらの公表の準備がもう整ったとか。いや、それはいくらなんでも早すぎるだろう。レヴィアンス自身も時間がかかると言っていた。それに報告するならここじゃなくてもいい。兄たちはあくまで一般人なのだから。
考えを巡らせるイリスの目の前で、レヴィアンスと、そしてエトナリアが姿勢を正した。
「以前話した通り、エトナと結婚することになった。でも今までと付き合いが変わるわけじゃないから、これからも普通によろしく」
よろしくお願いします、とエトナリアが綺麗な礼をする。兄とルーファが、おめでとう、よろしく、と口々に言う。ニールも笑顔で拍手をしている。
――これは、いったい。
「どういうことよ?! 話が急展開すぎてわかんないんだけど!!」
イリスの叫びが、部屋の壁を通り越してこだました。
静かにしなさい、と兄に諌められた後で、その話は始まった。
「イリスには一から説明するよ。まず、これはイリスが知ってるような恋愛結婚とかではない。互いの利害が一致して、名目上だけでも結婚しちゃった方が手っ取り早いなって結論に達したんだよ」
曰く、エトナリアは上司から押し付けられる縁談話に、レヴィアンスは大総統の妻になりたい人たちからの度重なる求婚と一部国民からの期待に、それぞれ困っていた。二人とも自分の仕事を最優先にしたく、そのために家庭を持つというビジョンがなかったのだ。今の自分たちには、それは行動の妨げですらあるとも思っている。そこでレヴィアンスから、この名目上の結婚を持ちかけたのだという。
――エトナ、オレたち結婚しようか。
――は? あんた何言ってんの。
――面倒は片付けちゃった方が、心置きなく動けるよ。オレは大総統の、エトナは記者としての仕事にそれぞれ集中したい。だったら効率よく損のない方法をとらない?
もちろん、まったく損がないはずはない。今後エトナリアが本当に結婚したい相手が現れたら、この契約は即座に破棄される。ただ、大総統の妻として発表してしまえば、たとえ契約は破棄されてもエトナリアの人生はうまくいかなくなるかもしれない。そのときはこの結婚が仮のものであったこと、レヴィアンスが一方的に持ちかけたものであることを公表するという条件だ。
エトナリアは少し考えてから、この申し出を受け入れた。レヴィアンスが思ったよりも、彼女は悩まなかったという。
「生活はこれまで通り別々。オレは首都にいて、エトナは仕事や用事に応じてこっちと地方、実家のあるハイキャッシを行き来する。あ、向こうの家にも挨拶しに行かなきゃいけないから、近々執務室をレオとイリスに任せるからよろしく」
「びっくりしたでしょう、イリスちゃん。あたしもまだ実感ないのよね。まあ仕事を円滑に進めるための契約みたいなものだし、実感も何もなくて当然なんだけど」
レヴィアンスは淡々と語り、エトナリアは冗談のように笑う。しかし、冷静に話せることでも、笑って済ませられることでもないのだ。少なくとも、イリスには。
「何それ。二人とも、結婚は経歴として残るんだよ? しかも大総統とその奥さんなんだから、もっと真面目に考えようよ。エトナさん、本当に好きな人ができるかもしれないのに、こんなのいいの? それをわかっててこんな提案するなんて、レヴィ兄、ひどいよ」
「イリス、ストップ。これはレヴィとエトナちゃんが二人できちんと決めたことだよ。君は口出しできる立場にない。それにこの話、ダイさんが来てるうちにもうしてるんだ。その時はレヴィはまだエトナちゃんに話してなかったみたいだけど」
兄が止めなければ、最低、まで口にしていただろう。これは二人の問題で、イリスがとやかく言えるわけがない。まして恋愛感情で周囲を振り回したあとで他人をどうこう言う資格はない。口を噤むと、エトナリアが笑みを柔らかくして言った。
「あたしのこと気遣ってくれてるんだね。ありがとう、イリスちゃん。でもね、あたしはこれ、いい策だと思って乗ったの。それにもう、仕事以外に恋はしないと思うのよ。そういう人生もあっていいんじゃないかって」
イリスが大切なものを守りぬくために恋を保留するという選択をしたように、エトナリアは仕事に邁進できる人生を選んだ。選択肢はそれに気づくことができれば無限にある。そしてその責任は、結局は選んだ当人に委ねられる。後悔しても遅いし、だからこそそれぞれが後悔しないための道を探すのだ。
「それにこれからは大総統閣下に遠慮なく密着取材できるから、あたしとしては旨味もあるの。この立場、大いに乱用させてもらうわよ」
「乱用はするなよ。お互い立場もあるだろ。そういうわけで報告終わり! 飯と酒が楽しみで来てるんだから、そろそろ堪能させてよ」
イリスが全てを呑み込むことはできないまま、宴会が始まった。ご馳走も、デザートも、味がわからない。まるでリチェスタの恋心がわからなかったときのお茶会のようだった。

台所を片付けていると、エトナリアが手伝いに入ってくれた。お客さんにやらせるわけには、と断ろうとしたが、いいのよ、と押し切られる。リビングではまだ男性陣が酒を酌み交わしていた。
「あいつ、ここではいつもああなの? ちょっと調子に乗りすぎじゃない?」
「レヴィ兄ですか? まあ、だいたいは。お兄ちゃんは笊だし、ルー兄ちゃんはあんまり飲まないけど聞き上手だから、レヴィ兄が酔っぱらって色々喋るんです。よほどの秘密は言いませんけど」
だから大総統はちゃんとやれてます、と言うと、エトナリアがそうだよね、と笑った。
「根は真面目だし、優しいからね。仕事してるとそれなりにかっこよく見えちゃうし」
「……だからこそ、わたしはレヴィ兄の提案が納得できないです。エトナさんの不利になるようなこと、絶対にしないと思ってたのに」
「うん、してないよ」
洗った食器を拭く、かすかな音が耳に届く。気をつけていないと、賑やかさにかき消されてしまいそうだ。それと同じくらいの声で、エトナリアは続けた。
「あのね、イリスちゃん。あたしたち、たぶん周りが思ってるより、お互いが好きよ。少なくともあたしは、レヴィのことが昔から大好きだった」
初めて会った九歳の頃からね、という言葉で、彼女はレヴィアンスの実年齢を知っているのだと気付いた。二人の出会いは、たしかレヴィアンスが仕事でエトナリアのいるハイキャッシに行ったときだ。
「だから実は、結婚の提案は嬉しかったりもするの。恋愛とか、家族になるとか、そういうのとは違うけど。……なんていうのかな、パートナーにあたしを選んでくれたのが、嬉しいんだよね」
ふと、兄の言葉を思い出した。ルーファへの感情は恋じゃない。これは単なる照れ隠しだと思っていたけれど、もしかするとそれだけではないのかもしれない。兄はルーファのことを、「パートナー」と表現する。
「どういうかたちであるにせよ、人生を一緒に歩く相手。あたし、レヴィのパートナーはてっきりレオナルド君かイリスちゃんだと思ってたから、言われたときは信じられなかったけど。でもね、信じてみると、これはなかなか素敵な提案で、レオナルド君とイリスちゃんはそれぞれの立場や将来を守れるし、あたしたちは自分の好きなことができる。障害はまだまだあるけど、一緒に乗り越えるなら最強のパートナーよ。あたしもレヴィにとって、そう思われる人間になりたい」
「なってますよ。だからレヴィ兄、エトナさんを選んだんだと思う」
自然に口を突いて出た。そうだと思えたのだ。二人がそれで良いのなら、そうと決めたのなら、きっと不利なんかではない。なにより、全くの打算ではないことに安心した。エトナリアはレヴィアンスを、レヴィアンスはエトナリアを、信じたのだ。
「良かった。イリスちゃんに受け入れてもらえるかどうか、実は不安だったんだ。だってイリスちゃんは、お兄ちゃんたちが大好きだもんね」
「大好きだから、信じるしかないじゃないですか。これで幸せになれるって」
「なれるんじゃない、なるのよ」
きっぱりと言い切ってウィンクをしたエトナリアを見て、イリスは気づいてしまった。きっとレヴィアンスも、周りの誰かやエトナリアが思っているより、彼女のことが好きだ。だってイリスは、たった一言に、かつてレヴィアンスが好きだった人の面影を見てしまった。その人は、イリスも大好きな人だ。だからこの感覚は、信じていい。
「そうですね。絶対幸せになってください」
「イリスちゃんもね。好きな人いるんでしょ? 両想いなのにくっついてないとの情報が入ってるけど、このままでいいの?」
「なんで知ってるの……。わたしはまだいいんです、未熟者なので」
「うかうかしてると障害が増えるわよ。お兄ちゃんたちのジャッジは厳しそうだし」
人の気持ちはわからない。心が読めるわけでもないし、イリスはそもそもそういうことに不得手だという自覚がわいてきた。
けれども、信じることはできる。人の強い思いや、何かを乗り越えようとする力、誰かや何かを大切にすることを。それはイリスも心に持っているもので、たくさん教わったものでもある。
それが未来を拓くのだと、イリスは信じ続ける。これからも、ずっと。



続きを読む
posted by キルハ制作委員会 at 21:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 小ネタ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月04日

恋と乱戦

先日、ニールの住むファミリー向けマンションの一室は、とても狭くなっていた。大人の男が四人と子供が一人。いつものメンバーがイリスからダイに変わっただけで、かなりの圧迫感があった。
ただ、ダイの「お前はあんまり身長変わってないな」と笑う声は、初めて会ったときより穏やかだった。なんでもエイマルと遊んだときのことを色々と聞かされ、感心してくれたのだとか。
「ニール、お前って案外強いんだな。これからもエイマルのこと、惚れない程度によろしく」
日頃から強くなりたいと思っていた。だからこの言葉は、それもなかなか認めてくれないらしいその人から貰ったものは、とても嬉しかった。
嬉しかった、のに。
「ごめんなさい。僕が、僕がエイマルちゃんを止めてたら、こんなことにならなかったのに……!」
泣きじゃくるだけなんて情けない。子供だからとすぐ帰されて、ニアとルーファに「ニールは悪くない」と慰められて。悪くないはずないのに。だって、ニールは知っていた。ウルフという人が怪しいということを、大人たちの話でとっくにわかっていたのだ。
その名前は、酒の席で出た。レヴィアンスが話したのだ。ウルフ・ヤンソネンという人物がイリスに近づいている。もしかしたら厄介なことに関係があるかもしれない。イリスが現在危険な人たちに目をつけられていて、ウルフと彼らの繋がりが疑われる。――実際はもっと複雑な話だったかもしれない。レヴィアンスだって全てを明かしたわけではないだろう。
でも、十分だった。イリスの近くにいる者は、気をつけていなければならなかったのだ。それはニールやエイマルも例外ではない。事実として、ウルフはイリスの友人として現れ、イリスは彼と一緒にいることを他の人には言わないようにと念押ししていた。あれは、いけないことだったのだ。
わかっていて、何もできなかった。ウルフと二人きりになったときでさえ。彼が親し気に話しかけてくるのに無難な返事をしているそのあいだ、エイマルは危険の只中にあったのに。
――僕は、全然強くなんかない。
何一つとして守れないことが、悔しくて、もどかしくて、苦しかった。

意識が途切れないように強く噛みすぎた唇は、舐めると錆くさい味がした。けれどもおかげで、得た情報は全部記憶できたし、軍に伝えるべきことはすぐに言えた。それができるようにと仕込まれていた。一国を守る大将の娘としてどう振る舞うべきか、自分から教えてほしいと祖父と母に頼んだ。
エイマルが父を父と呼ぶために、自らに課したこと。もしものときに自分で対処できる、あるいはそこまでできなくても、対処のために役に立てるようになる。父が心配しすぎないようにと思ってのことだったが、うまくいっただろうか。
――お父さん、大丈夫かな。怒ってないかな。
口はテープで塞がれた。手も足もきつく縛られて痛い。実行犯兼見張りらしい二人組は、エイマルを睨みながら「誰なら買ってくれるだろうな」「黙ってりゃ結構可愛いし、小国の富豪とかが気に入るんじゃないか」などと話している。きちんと理解できているわけではないが、人攫いが話すようなことだから、ろくな末路ではなさそうだ。
――よそに行くのはやだな。ニール君のいうこと、聞いておくんだった。
考えながら、腕時計の針が動く音に耳をすませた。また、一分が経過した。


軍用車両を借りてエイマルのところに急ごうという思い付きは、車の鍵がないということであっけなく失敗した。イリスはレヴィアンスの車に連れ戻され、他の車が出ていくのを見送ることになった。
水族館にいた人々のチェックもほぼ終わっている。多くの軍人が「ここから四十分程度で行ける距離にあった大型車両」を捜しに向かうのに、イリスは何もできない。することを許されていない。
「イリス、ちょっとは立場考えろよ。オレもいい加減怒るよ」
「俺も今のは擁護できない。エイマルが心配なのはわかるし、責任も感じてるんだろうけど、今はイリスに単独で動かれると困るんだ」
「ごめんなさい……」
ここに各車両から情報が入ってくるから、と言われても、じっとしていることができない。あまりにそわそわするのを見兼ねてか、レヴィアンスが話を始めた。
「イリスさ、四歳の頃に誘拐されたの憶えてるよね。あのとき、ニアとルーファが容疑者巡って喧嘩してたんだ。ルーファは容疑者をとことん疑ってて、ニアは容疑をかけられてるその人はやってないって信じて庇おうとした」
何の話かと思ったら、だんだん既視感を覚えるようになってきた。兄たちの関係は、まるで。
「それって、こないだのわたしとゼンみたいに? お兄ちゃんはわたしよりは酷くないと思うけど……」
「いや、そんなに変わんない。ニアは『ルーはいなくていい』って言ったらしいから」
「お兄ちゃんが? でも二人とも助けに来てくれたよね」
「ルーファが疑ってた人の容疑が晴れたからね。イリスの隣のその人なんだけど」
驚いて隣を見ると、ダイが「どうも容疑者です」と笑っていた。笑い事じゃないだろうに。
「なんでルー兄ちゃんはダイさんを疑ったの? 知ってる人なのに」
「率直に言って、俺がそういうふうに誘導してたからだな。イリスが攫われるのはさすがに想定外だったけど、それまでの行動はわざと俺を敵だと認識させるようにしていた。ルーファは見事に引っかかってくれたし、レヴィも怪しんでたけど、ニアは引っかからなかったんだ」
そうしなければならなかった事情までは、イリスは知らない。だが、ニアが誘導に惑わされずにダイを信じ抜き、それが間違いではなかったのはたしかだった。少し希望を持ったイリスに、しかしレヴィアンスは冷静に続ける。
「もちろん今回のケースとは違うから、同じようにはいかないだろうね。そもそもダイさんは先々代大総統が身元を保証してたって背景があったんだけど、ウルフにはそれがない。ルイゼンとフィネーロが調べてくれたんだけど、バンリさんとは半年前から会ってないらしい。以降、これまでの動向を証明できる人がいないんだ」
「そんなはずない! だって、レジーナから離れた村に、二人で暮らしてるって……」
イリスはそう聞いた。それに半年前なら、ウルフが警備会社に勤め始めたのもその頃だ。そちらで証明はできないのだろうか。
「半年前までは一緒だったみたいだよ。でもウルフは家を出て行った。レジーナで働きたいっていうのを、バンリさんが了解した形でね」
「ディアおじさんがいた警備会社に勤めてるの。たしかに外から通うにはちょっと遠いよね」
「ああ、あそこか。レヴィ、もう調べは?」
「まだだよ。そういうのは早く言え。……でもそれなら勤務時間は不安定だね。潔白を証明するまでにはいかないし、警備員ならいろんな施設に出入りできるから死角も探れる」
逆にウルフの不利になってしまった。言っても疑いが晴れないのでは意味がない。どこで寝泊まりしているのかもわからず、容疑は深まる一方だ。
「ウルフは人身売買組織の主なターゲットは子供だって言ってた。わたしが標的なら、そう言うんじゃない?」
「ルイゼンが聞いた話では、体の一部分の売り買いだった。イリスとは言っていない。子供も含まれてるようだから嘘ではないだろうね。エイマルが誘拐されたことだけ見れば、むしろそれはウルフの容疑を濃くする証言だけどいいの?」
言葉に詰まる。何か、疑いを覆せるようなことはないのか。いくら探しても見つからない。あんなに信じていたのに、それを証明できる一手がない。
「……ウルフは違うよ。自分が酷いことされたのに、他の人を同じ目に遭わせるようなことはしない」
そうだ、彼には動機がない。人身売買に手を染める理由なんかないはずだ。それを阻止しようとすることはあっても、手を貸すなんてありえない。
だが、レヴィアンスは頷いてくれなかった。
「バンリさんが今どこにいるか、その様子じゃ知らないよね」
「どこって、だから首都から離れた村に」
「それは合ってる。……村の病院だよ。半年と少し前に病気が見つかった。いずれ臓器移植が必要になると、そのときにはわかっていたらしい」
それには多額のお金と、臓器を提供してくれるドナーが必要だ。しかし、どちらもそう簡単に得られるものではない。金銭の工面はできても、都合よくドナーが見つかるかどうか。――さすがに、もう説明されなくても、想像ができる。できてしまう。
「人身売買組織がやりとりしているのは体の一部だ。手を貸せば融通してやる、と言われたら……」
「やめて。そんなことしたって、バンリさんは喜ばないよ。ウルフだってわかってるはず」
「心を殺して命が手に入るなら、俺もそうするかもな。そもそも天秤にかけられないものだ」
――全部立てることはできない。人生の至る所で、似たような選択を迫られます。
ウルフも、選んでしまったのだろうか。信じていたものが揺らぐ。
動く気力が失われたイリスの耳に、無線の受信音が飛び込んできた。
「閣下、現地駐在員が該当車両を発見しましたが、すでに逃亡した模様です。被害者も見当たりません」
「やっぱ遅かったか……まあ、エイマルちゃんがあれだけ派手にやってくれたら、ねえ?」
「でも役に立っただろ。そう遠くには行ってないはずだ。いずれにせよ目指してる方向はわかってるんだから、追えるだろう? なあ、大総統閣下」
ダイが凄むと、レヴィアンスは諦めたように前を向いた。
「安全運転は保証できない。イリスは絶対に外に出さない。ダイさんも一般人なんだからおとなしくしてるように」

レヴィアンスの車が動き出したのを見て、ルイゼンも出る準備をする。助手席ではせっかくの非番を最悪な形で奪われたメイベルが眉を寄せ、行ってしまう車を見送っていた。
「閣下が動いたということは、エイマルの保護はひとまず失敗か。おい変態盗人、いい加減に敵の本拠地を吐いたらどうだ」
「だから首都を中心に活動しているらしいことしか知らないんだよ。それも含めて君たちに調べてほしかったのに」
メイベルの何度目かの追及に、拘束されたウルフはこれまでと同じ答えを繰り返した。水族館でニールと一緒にいるところを確保したときから、彼に笑顔はない。何を考えているのかわからない無表情で、尋ねられたことに淡々と答えていた。
ここに来たのは、イリスとの約束だったから。日程を決めるときに、子供たちも一緒だということは聞いていた。イリスがウルフとの接触を禁じられていたことは知らなかった。だが、おそらくそういうことになるのではないかと予想はできていた。
だってリーゼッタ君は僕のことを良く思ってなかったでしょう、と言われたときには思わず手が出そうになったが、それには及ばなかった。先にウルフの隣にいたフィネーロが、拘束用ロープをきつく締めたのだ。無表情でこなすそれは、こちらがカッとなるより、はるかに怖い怒りの示し方だった。
イリスが姿を消していた寒波の夜、ウルフに会いに行っていたのだということもついさっき判明した。今日の約束は、そのときにしたのだと。ルイゼンは任務に行っていたので、あとで聞いただけの出来事だ。喧嘩の直後だっただけにショックだったが堪えた。
「イリスはどうして変態盗人に会いに行ったんだろうな。今日も、先日も。何を言って誑かしたんだ」
「誑かしてなんかないよ。僕は彼女が来てくれて嬉しかった」
「そこはイリスの行動だから、彼ばかり責められないだろう。聞くべきは誘拐事件に関与しているかどうかだ。事前に情報を知り得たなら、実行犯にそれを流すこともできる」
「そんなことはしてない。誘拐犯はあの子……エイマルちゃんだったかな、彼女とイリスの交換を要求しているんだろう。僕ならそんな遠回りはしない。直接イリスを襲うほうを選ぶ」
殺気立つメイベルを制し、ルイゼンは「そうだろうな」と呟く。他の雑魚ならまだしも、ウルフにはイリスに勝てる可能性がある。眼の力は効かず、互角以上に戦える相手。だからこそレヴィアンスとルイゼンは、彼を危険視していたのだ。
「襲ってどうするつもりだ? 例えでいい、君の考えを聞かせてくれ」
フィネーロが続けて問う。ウルフは少し間を置いて、「僕なら」と切り出した。
「帰りにでも不意を打って、彼女の眼を抉るかな。組織はあれを欲しがってるから、僕が持っているとわかれば向こうから近づいてくるだろう。美しいから勿体ないけど、交渉材料に使って、組織の本拠地に潜入する」
「それで奴らが流通させている臓器等を手に入れるのか」
「いらないよ、そんなの。そういう発言が出てくるってことは、バンリのことはもう知っているんだろう。彼には僕が稼いだお金ときちんとした医療機関を使って良くなってもらう。僕がしたいのは組織を潰す方だ」
ミラー越しに、ルイゼンとフィネーロが頷きあう。ウルフは長く息を吐いた。
「君たち、こんなことを聞きたかったの?」
「目的が分かれば阻止することができる。イリスにお前を捕まえさせなくて済む」
「今頃閣下に脅されて小さくなっているだろうから、早く聞かせてやらなければな」
少し気が抜けたルイゼンを見て、メイベルが舌打ちする。言いたいことは色々あるだろう。だが、黙っていてくれた。真相が明らかになろうとしている今、最優先すべきは誘拐されたエイマルの救出だ。関係がないのなら、ウルフを責めている場合ではない。殺気だけで十分、気持ちは伝わる。
そのあいだにも車はレヴィアンスたちを追いかけていた。向こうはかなり急いでいたが、ルイゼンもちゃんと一定の距離を保ってついていく。慣れたものだ。
たしかにイリスほど強くはない。しかしルイゼンがレヴィアンスがもっとも信用する部下の一人であることには変わりない。今だって、何をしようとしているのか、どこへ向かうつもりなのか、予測して動いている。
「……勿体ないな」
フィネーロの呟きには、誰も返事をしなかった。意味はちゃんとわかっている。

乗り捨てられた車両は部下たちに任せ、レヴィアンスはレジーナ周辺を走っていた。エイマルが連れ去られてからかなりの時間が経っているにもかかわらず、なかなか西へは向かおうとしない。
「レヴィ兄、要求通りに動かないの?」
こちらには相手の目的であるイリスがいる。要求を呑んだふりをして相手を誘い出し、捕まえることも可能だ。イリスはそう思っていたのだが、レヴィアンスは「だめだよ」と一蹴した。
「今はイリスもダイさんも一般人だからね。寄り道するより、確実に安全にエイマルちゃんを助ける方法をとらないと」
「でもやみくもに動き回るより、来るとわかってる場所に向かった方が良いんじゃ……。エイマルちゃんとわたしを交換するんだよね?」
「さっきダイさんが言っただろ、相手は約束を守る気なんかない。それにやみくもじゃないよ。人身売買担当チームにはもう動き方を知らせてあるし、オレには心強い味方が多い」
レヴィアンスはいつのまにやら片耳にイヤホンをはめている。無線と繋がっているようで、イリスが気づかないあいだにも常に通信状態にあったようだ。
「リーガル社の運搬車は追跡が可能で、車だけじゃなくて備品のほとんど全てに発信機がつけてあるんだって。だから何か一つでも持ち出せば、車を降りたあとでも乗っていた人間の居場所がわかる。やつらはそうと知らずに、リーガル社の運送担当者の制服と車にある地図を盗んでいる。無理もないよね、社員にもあまり知らされていないことだから」
「どうしてレヴィ兄がそんなこと知ってるのよ」
怪訝な表情のイリスの隣で、ダイがくくっと笑う。
「情報を流してるのはリヒトか。あいつの言う通りに動いてるんだな」
なるほど、とイリスも感嘆する。リヒト・リーガルはリーガル社の御曹司にして若き役員だ。運送担当者たちを束ねているのは彼だという。アーシェの弟で抜け目ないところがそっくりだが、今はそれが頼りだ。誘拐に使われている車両がリーガル社のものだと聞いて、レヴィアンスはすぐに連絡をとったのだ。
「ちょっと時差があるし、他の普通の担当者と混ざるかもしれないって言ってたけど。でもオレはあいつを信じてる。もう何度も捜査で世話になってるし、向こうも慣れてるでしょ」
イリスの胸がチクリと痛む。信じてもらっていいな、と思ったのだ。イリスは不正をしたし、レヴィアンスと同い年でずっと協力関係を結んでいるリヒトと比べられるものではない。でも、信頼されているのが羨ましかった。裏切ったのは自分のほうなのに。
「エイマルちゃんの大暴露によって、やつらはリーガル社の車を使えなくなった。そこで緊急で別車両に乗り換えたけれど、着替える余裕まではなかった。もとからエイマルちゃんも売るつもりなら、その最終的な決定権ははたして誰にあるのか。迂闊な行動を繰り返すような下っ端じゃ、そんな大事なことは決められないよね」
「ボスかそれに近い人間がいるところが、やつらの行き先か。イリスを引き取りに西へ向かうのは別の人間でいい。というより、腕っぷしの強い別の人間でなければならない」
「そう。だから実力のあるチームを向かわせてる。そしてこっちはこっちで、本拠地を叩く。できれば到着前にエイマルちゃんを取り返したいところだけどね」
人身売買を担当したことがある、数少ない経験者。そこにレヴィアンスも計上されている。本当に危険な場所へ向かうことを想定していたからこそ、自ら動いたのだ。単にイリスが問題を起こしただけでは、彼は来なかっただろう。
本当はイリスを関わらせたくなかった案件だ。だが、今となっては仕方ない。きっとレヴィアンスの頭の中には、可能な限りイリスを外に出さない片付け方が用意されている。
おとなしく従った方が良いのだろう。もうレヴィアンスの邪魔になってはいけない。それにもしウルフも敵なら、イリスはきっとまともに戦えない。戦って勝てる自信がない。眼を使わずに勝負に出ることもできるし、そのための訓練は積んできたが、おそらく彼には通用しない。たった一度見ただけの棍捌きだが、あれだけでイリスには判断できた。いざというときに彼が迷わないのも、過去の経験から知っている。迷いだらけのイリスが勝てるはずはなかった。
「……ん、あれだ。あの車」
レヴィアンスの声に我に返る。そして前方を見て、思わず身を乗りだした。
外から少し見ただけでは、ごく普通の一般車両。だが、運転手がつなぎを着ている。間違いなくリーガル社の運送担当の制服だ。後部座席には二人の人間が並んで座っていたが、こちらは着替えたのか、それとも初めからそうだったのか、どこにでもあるシャツを着ていた。
「間違いないよ、レヴィ兄。エイマルちゃんの姿は見えないけど、あの車の中の人は不自然」
「イリス、眼を使ってるな。あんまり使うなって言ってるじゃん。でもまあ、遠くのものや暗い場所がよく見えるのは便利だよね」
助かった、とレヴィアンスが言う。それと同時に車が大きく傾いた。イリスはダイに押さえられ、負傷を免れる。急にハンドルを切った車は、猛スピードで狙いの車両を追跡した。相手もスピードを上げるが、レヴィアンスの操る車両はそれ以上だ。相手車両の前方に回り込むと、相手はそのまま突っ込んできた。
「イリス、伏せろ!」
ダイに守られるようにして、イリスは低く伏せる。次の瞬間、大きな衝撃に襲われた。耐久性の高い軍用車の、誰も乗っていない側面が潰れた。
「……これ、大事故じゃないの」
「人のこと一般人って言っておきながらよくやるよ、大総統閣下」
眉を顰めるイリスと、苦笑するダイ。そして不敵な笑みのレヴィアンス。その肌には汗が滲んでいるが、拭う間もなく車から出ようとする。
「絶対に外に出ちゃだめだからな」
念押しされたが、外を見るなとは言われていない。相手車両に目を向けると、フロント部分が若干潰れてはいたものの、それ以外は無事だった。丈夫な車で良かった、というより、レヴィアンスもそう判断して無茶をしたのだろう。でなければ人質が乗っているはずの車と事故を起こすわけがない。
「他の軍用車はまだみたいだな。でもこっちに向かってはいる」
ダイが勝手に無線をいじり始める。と、聞き覚えのある声がした。
「おい、事故になってるがいいのか」
「閣下の作戦の内……だといいんだけど。フィンはウルフを拘束しててくれ」
「わかった。健闘を祈る」
ルイゼンたちの車両での会話だった。こちらが見えているようだ。イリスは気づかなかったが、ついてきていたらしい。
ウルフもここに連れてきているというのはどういうことだろう。案内人だとしたら最悪だ。
「エイマルを攫ったのは雑魚だろう。レヴィとルイゼンとメイベルで十分に対応できる。俺たちのやることは、エイマルを迎えることだけだ」
「うん……。そう、だね」
つまり何もするな、おとなしく待っていろということだ。イリスは飛び出したいのを堪える。
かわりに近づいてきて止まった軍用車両の中を見た。ルイゼンとメイベルの姿が真っ先に目に入る。その後ろにはフィネーロと、ウルフが乗っていた。イリスの前ではほとんどずっと笑っていたのに、今は全くの無表情の彼が。

ダガーを構えたレヴィアンスと、剣と銃をそれぞれ手にしたルイゼンとメイベルのあいだで、誘拐犯たちは狼狽えていた。佐官や尉官はともかくとして、大総統本人が出てくるなんて思っていなかった。そんな話は聞いていない。せいぜい将官が関わってくる程度だろうと、上からは言われていたのだ。
レヴィアンスたちの読み通り、彼らは組織の下っ端、つまりは雑魚だった。それなりの戦闘能力はあるが、軍のトップを相手にできるほどの実力はない。だから強いと評判のイリスではなく、幼いエイマルを攫った。子供を使えばイリス・インフェリアは簡単に釣れるという情報は持っていたし、それが上からの指令だった。
「座席にはいない、ってことは攫った子はトランクかな。狭いところに閉じ込めておくのは可哀想だから、さっさとケリつけようか」
ダガーナイフの切っ先が誘拐犯たちを狙う。あれは百発百中だと、裏でももっぱらの評判だ。とすれば下っ端である自分たちにできることは、降伏か悪あがきかのどちらかになる。この状態を、組織は助けてくれないだろう。代わりの者はいくらでもいるし、イリス・インフェリアを手に入れるための計画もまたしかり。所詮、自分たちは使い捨ての道具なのだ。
「おい、俺たちに手を出したら、子供がどうなるかわかってんのか」
どうせ破滅しか待っていないのなら、せめて道連れを。誘拐犯が選んだのは、悪あがきだった。トランクを開けて、中に転がしておいた少女を引きずり出す。事故で気を失ったかと思っていたので、その目がこちらをしっかりと睨んでいたことにはギョッとしたが。
「そこから動いたら、子供を殺すぞ」
少女のこめかみに、隠し持っていた銃を向ける。けれども少女は少しも怯える様子がない。軍人たちも冷静そのものだった。
「そこから動いたら、ねえ」
「馬鹿か貴様ら。こちらの得物を見てもなお、言葉を選べないとは」
大総統が苦笑し、女性軍人が鼻で嗤う。剣を持った軍人だけは、呆れたような表情をしていた。
「何がおかしい! 子供が死んでもいいのか?!」
「死なせないから笑ったんだよ。だって、ここから動かなくてもお前らを倒すことはできるからさ」
ついでに、誘拐犯たちは銃を使ったことがない。持たされたが、弾の無駄遣いはするなと言われていて、扱いを練習したことすらない。引鉄を引きさえすればいいと思っていた。だがそれすらも、指が震えてままならない。もちろん銃のプロ――メイベルはそれを見逃さなかった。
子供がいるというのに、全く躊躇はなかった。彼女が放った弾丸は正確にエイマルを捕えていた者の手を貫き、銃も弾き落とした。痛みを感じるより先に混乱が生じ、彼は何も考えられないまま悲鳴をあげて蹲る。エイマルは地面に転がったが、そのついでにもう一人の誘拐犯の足を蹴っていた。両足をまとめて縛られているのに。
「このガキ……っ!」
「ガキにかまうな! 軍人への対処を」
「無駄口叩くほど余裕ないでしょ。だからお前らは雑魚止まりなんだよ」
エイマルに気をとられているあいだに、レヴィアンスのダガーが誘拐犯たちに迫っていた。避けられずにまともに刃を受け、彼らもまた短く叫ぶ。そうしているうちにルイゼンがエイマルに駆け寄り、抱き上げる。拘束を手早く解いて、傷がないかどうか確認。両手足に縛られた跡があるだけだった。
「よかった、怪我はないな」
「うん。ありがとう、ゼンさん」
にっこりと笑うエイマルの背後で、三人の誘拐犯が確保された。

事故車では帰れないし、ルイゼンたちの車だけでは定員オーバーなので、応援が来るまで待つことになった。せっかくなので聴取も済ませてしまおうと、ルイゼンは誘拐犯たちに質問を始める。
レヴィアンスはイリスとダイにエイマルの無事を報告しようと、車に戻ろうとした。イリスは外に出したくないが、ダイは保護者としてエイマルの状態を確認する必要があるので、出てもいいだろう。
「ダイさん、エイマルちゃん救助成功だよ」
「ああ、聞こえてた。声からして元気だな」
「良かった……。わたしのせいで怖い思いさせたよね」
イリスはしょんぼりしながらも、一安心できたようだ。あんまり怖かった感じしないけど、と言おうとしたとき、軍用車両がこちらへ向かってきた。急いで駆けつけてくれたのか、スピードが出ている。そして道の脇に、急ブレーキで止まった。
「もうそんなに急ぐ必要ないよ。誘拐犯は捕まえたから」
レヴィアンスが声をかけると、その車の窓が少しだけ開いた。一仕事終えて安心していたので、真っ先に気づかなければいけないのに気付かなかった。
「全員伏せろ! こいつは違う!」
叫んだのはメイベルだった。反射的にレヴィアンスとルイゼンは伏せたが、メイベルはその場に立ったままだ。――銃声が響いても。
「メイベル!」
顔をあげたルイゼンから血の気が引く。いつもは銃を撃つ側のはずのメイベルに、車の窓から向けられた細く煙をあげる銃口。そしてわき腹を押さえる彼女。指の隙間から、赤黒い血がどくりと流れた。
「……私としたことが、しくじった」
「喋るな、座ってろ! しくじったのはオレだ!」
とっさに駆けつけたレヴィアンスに、銃口が次の狙いを決めた。
「閣下、だめです!」
「だめじゃない! 出てこい、卑怯者!」
発砲前に、レヴィアンスは車の窓を蹴り飛ばした。割れはしないが、銃は引っ込む。ドアを開けると、そこには銃を持った見知らぬ男がいた。
「車を奪ってきたな……!」
歯噛みしたレヴィアンスに、再び銃口が向けられる。しかし今度は至近距離だ。銃身を掴んで奪い、放り投げる。
銃が一丁だけではないことにも気づいていた。すぐに退くと、一瞬前までレヴィアンスの頭があったところで発砲された。運転席に一人、後部座席に発砲した一人ともう一人いる。
「ルイゼン、エイマルとメイベルを安全な場所へ!」
「はい!」
現時点で最も安全なのはルイゼンたちが乗ってきた車だ。メイベルを担ぎ、エイマルを抱え、避難させようとした。しかし向こう側からもう一台軍用車が来るのが見えて、ルイゼンは動きを止めた。そして。
「フィン、ウルフを連れて降りろ!」
即座に反応したフィネーロがウルフとともに車を脱出すると、やってきた車が勢いを緩めずにぶつかってきた。その中からも軍人ではない者たちが降りてくる。ぐるりを見渡し、フィネーロは鎖鎌を構えた。
「仲間を助けに来た……というわけではなさそうだな」
むしろ処分しに来たというのが正しいだろう、と推測する。軍用車両を奪ってくるのだから、今来た彼らは戦い慣れしている。邪魔な軍人たちとこれ以上の利用価値がないと思われる雑魚を、まとめて処分するのが彼らの目的だ。実際、捕まった三人は怯えている。
「この車両、佐官の班が使っていたものだな。メイベルを撃った方も」
「閣下がいるとはいえ、怪我人と一般人を守りながらはきついな」
フィネーロと、抱えていた二人を地面におろしたルイゼンが言うと、メイベルが怒る。
「私も戦える! このくらいの怪我なんかで……」
「まず止血しろ。怪我で手元が狂ったらまずいから、おとなしくしててくれ」
逆上すると見境がなくなるメイベルには、今はあまり動いてほしくない。ここはレヴィアンスとルイゼン、フィネーロの三人で切り抜けるしかないだろう。
ルイゼンがそう考えていた隙に、敵の一人が接近していた。狙いは負傷したメイベルだ。
「くそっ!」
メイベルが血塗れの手で銃を構える。だが反応が遅れた。引鉄に指が触れる前に、敵の手は素早くこちらへ伸びる。
「だめっ!!」
それを立ちふさがって阻んだのは、小さな体だった。
「エイマル、退け!」
「きゃ……っ!」
とっさに叫んだメイベルだったが、それしかできなかった。少女はそのまま髪を掴まれ、敵の腕におさまってしまった。痛みに歪んだエイマルの表情を見て、彼は勝ち誇った顔をした。
「車に乗っていた軍人が言っていた。この娘、親がたいそう美人だそうだな。これから調教すれば、成長後も楽しめる。このまま生かしてこちらに渡すか、それともここで殺すか、二つに一つだ、大総統閣下。まさか国民を見殺しにするはずはないと思うが……」
気持ちの悪い笑みを浮かべ、彼はべらべらと宣った。だが、レヴィアンスは全方向に注意を払ったまま、面倒そうに息を吐いた。
「……あのさあ、違うよ、それ。選ぶのはオレじゃなくてお前で、たぶん三つめを強制的に選択させられる」
彼はエイマルに手を出してしまった。レヴィアンスが敵から奪った銃は、さっき放り投げた。そしてここにはメイベル以外にも、遠距離射撃の名手がいる。――本当は、動いてほしくはなかったのだけれど。
ぱん、と一つ、破裂音。弾丸は視認できない速さで、エイマルを捕えていた男の耳を撃ち飛ばした。だらりと流れた血が落ちる前に、飛び出してきた影が少女を奪い返す。
彼は、もっとも怒らせてはいけない人たちを怒らせた。
「おい、てめえは誰の娘をどうしようとしてた? たしかに母親は美人だが、てめえらの好きにさせるためにそうなってるわけじゃねえよ」
壊れた車の側から狙撃してきた男に、襲撃者たちは見覚えがあった。
「選択肢は増えるし増やせる。だから増やすね。答えは、あんたが刑務所送りになる、よ」
少女を胸に抱えながら赤い瞳を光らせる彼女のことも、もちろん知っている。
「まさか、ノーザリアの大将……?」
「ここに来ていたのか、イリス・インフェリア……!」
敵が驚き慄いている今こそが好機。レヴィアンスはやむなく一般人の保護を諦めた。もとより保護に甘んじるような人間ではない。
「よそ見してんなよ。そいつらは大当たりだがおまけだ!」

フィネーロの鎖鎌は器用に敵の腕に絡み、引き倒す。そしてルイゼンが武器を奪い腱を切って確保。大総統暗殺未遂事件で鍛えられた、素早い連係プレーだ。わき腹を持ってきた救急セットで処置したメイベルは、その様子を唇を噛みながら見守っている……だけのはずがない。
「怪我で手元が狂うだと? ルイゼンめ、私を見くびるな」
だいたい、機嫌が悪いのだ。イリスが黙って出かけたこと、ルイゼンとフィネーロの間だけで情報が共有されていたこと、せっかくの休日を台無しにされたこと。全てにおいて気に食わない。これが撃たずにいられようか。
レヴィアンスは敵を次々に斬りつけ、体術も駆使して地面に伏せさせる。たとえ敵が佐官らを倒して車を奪ってきた者であろうと関係ない。誰もが等しく、大総統より格下だ。
――あと一人。
最後の相手はメイベルの放った弾丸とレヴィアンスの駆使するダガーに動きを封じられる。死線を潜り抜けた彼らには、全員が雑魚のうちだった。
だが、雑魚にも脳はある。それとも彼らに指示を与えた者がそう判断したのだろうか。敵が乗ってきた車から、もう一人男が飛び出した。素早くレヴィアンスの足元を撃って動きを止め、フィネーロの鎖鎌を避けてルイゼンを引き離し、メイベルには再装填の隙を与えない。そうして真っ直ぐに、イリスのほうへと向かっていた。
イリスはエイマルをダイに渡し、二人から少し離れた場所にいた。敵の真の目的が自分なら、彼らと一緒にはいないほうがいい。私服に徒手空拳でも、十分に戦えるはずだ。眼にも力を込めた。
しかし敵は、嗤っていた。街路で見た表情と同じだ。
「それでいい。その眼を奪えば……!」
敵の狙いはイリス。欲しかったのは眼。彼らの「奪う」には二つの意味がある。――そのものを取るか、潰して使えないようにするか。目の前に迫った敵が土壇場で選んだのは、後者だった。
もちろん迎えうつつもりで、イリスは蹴りを構えようとした。軍服ならできただろう。しかし、今の恰好は私服のロングスカートだ。脚に絡んで、得意の蹴りの邪魔になる。
――こんなときに?!
破くことはもとより、たくし上げている暇もない。相手はもう目前だ。手にはナイフ、向かう先はイリスの眼。怪我をしてでも手で止める――と、この行動はつい最近もとろうとしなかっただろうか。
「なんて残念なんだろう」
また、ナイフは届かなかった。あのときと違うのは、彼がイリスに背を向けていたこと。手には棍がある。そういえば彼の得物は特殊で、伸縮自在だった。隠し持っていたのだろう。
「美しいものに傷をつけようとするなんて、君たちと僕とでは美的感覚が合わないようだ。乗り込むことを選ばずに正解だったよ」
拘束されていたはずだが、解いたのか。おそらくはフィネーロが施したのだろうから、解くのは容易ではなかっただろうに。棍を操り敵を殴り倒したウルフは、小さく息を吐いて振り向いた。
「間に合ってよかったよ、イリス」
何を考えているのかわからない、でも嫌ではない、穏やかな笑顔で。
「……あんた、こいつらの仲間じゃなかったの」
「違うよ」
あまりにもあっさりと答えるので、真実かどうかが分からない。あんなに信じていたのに。
「やっぱり、疑うよね」
笑顔が少し悲し気になる。否定はできない。全てが、明らかになるまでは。
イリスの目の前で、レヴィアンスが襲いかかってきた男を、ルイゼンがウルフを再び確保した。


まもなく軍人たちが現場に到着した。今度は本物だ。一部は確保し拘束した襲撃者たちを連れて行き、一部はイリスとダイ、そしてエイマルを運んでくれることになった。そして残った将官と佐官を中心とした班には、もう一仕事残っている。
「レヴィ兄、本当にこのまま本拠地に乗り込むつもり? 休まなくていいの?」
「休んでる暇なんかないよ。最新の情報がある今がチャンスなんだから。お前の処分はそれから考える」
覚悟してろよ、と額を突かれる。今回は随分と迷惑をかけてしまった。俯いたイリスの耳に、レヴィアンスの声が続く。
「誰かルイゼンの車運転してやって。ちょっと潰れたけど動くよね。どうせ医療用に乗るの嫌がるだろうから、病院にメイベルを預けてから司令部に向かってな。ウルフの聴取はフィネーロを中心に頼む」
「俺の車って……俺はどうするんですか、閣下」
ルイゼンが怪訝な表情をする。返ってきたのは、いつもの表情と真剣な声。
「ちょっと厳しい現場だけど、勉強してみない? ルイゼンは経験がないからって人身売買の件を上に任せようとしたけど、経験さえあれば今後のことを頼めるとオレは思ってるよ」
イリスも顔をあげた。そしてルイゼンを見る。隣にいる時間が長すぎてなかなか気づかなかったが、幼馴染はいつのまにか、随分と大きくなっていた。立場も、人間としても。
「俺が行ってもかまわないんですか」
「リーゼッタ少佐が必要だ。実はオレにとってもそのほうが都合が良いんだよね。下っ端だから暴れさせてやることはできないけど」
「行きます。俺にとっても閣下にとっても良いことなら、断る理由がありません」
伸びた背筋は真っ直ぐだ。声に迷いはない。イリスが気がつかなかっただけで、いつもこうして守ってくれていたのだろう。それがリーダー、ルイゼン・リーゼッタだ。
「……かっこよく、なったなあ……」
思わず呟くと、ルイゼンはこちらを見た。ちょっとだけ頬を赤くして、けれどもすぐに真面目な顔になった。
「お前は早く帰れよ、一般人。メイベルの怪我のフォローだけよろしく」
「そうだ、ベルにまで怪我させちゃったんだ。わたしって本当にだめだ……」
踵を返して軍用車両へ向かうイリスを、ルイゼンは見送る。最後までは見ないで、レヴィアンスについていった。
「あの服着るのが自分と一緒のときだったら良かったのにって思った?」
「そこまで思ってません。似合うのに勿体なかったな、くらいです」
茶化されながら、向かうのは決戦の場所。

イリスたち「巻き込まれた一般人」は、トーリスの運転する車に乗ることになった。後部座席に、ダイとエイマルとの三人で座る。心なしか緊張している様子のトーリスに、ダイが「一般人を運ぶだけだよ」と追い討ちをかけていた。
「大将……いえ、今はヴィオラセントさんですね。インフェリアがご迷惑をおかけしました。こちらは誘拐されたのがお嬢様だと伺ったのはついさっきだったのですが、インフェリアはもちろん知っていたんでしょう。大変申し訳ありませんでした」
余計に緊張したトーリスが、声だけで力いっぱい謝る。手はハンドルを硬く握っていた。
「そうだな、大変な目に遭った。エイマルは手首と足首をこんなに赤くして……」
「ごめんなさい! エイマルちゃん、怖かったよね」
場所が場所なら土下座もしそうな勢いでイリスが頭を下げる。するとその頭に、エイマルはそっと触れた。小さな手に優しく撫でられ、イリスは戸惑う。
「エイマルちゃん?」
「あたしね、実は全然怖くなかったんだ。イリスちゃんが教えてくれた護身術を実践できたし、おじいちゃんやお母さんが教えてくれた通りに周囲の状況を言えた。おまけにお父さんと一緒に来て助けてくれるなんて、こんなすごいドラマなかなかないよ。だから、もう謝らないで」
顔を上げると、天使のような微笑みがあった。手首にはまだ生々しい縄の痕が残っているのに、この子はそれをちっとも気にしていないようだ。それどころかちょっと自慢気に胸を張って。
「ね、お父さん。あたし、エイマル・ヴィオラセントとして、ちゃんとできたでしょう? 貰った時計もね、時間を把握するのに役に立ったんだよ」
嬉しそうに、父に頭を撫でられていた。
「うん、よく頑張ったな。でもあんまり無茶はしなくていいぞ。それよりあとでニールに謝るように」
「そうだね。ニール君のいうことちゃんと聞いてたら、こんな騒ぎになってないもんね」
「わたしこそ謝らなきゃ……。小さい子に怖い思いさせて、軍人以前に人間として最低だ……」
「俺は許すよ。エイマルとニールを利用してデートしたことも。でもうちの奥さんとニアたちはどうだろうな」
さらに落ち込むイリスを撫でながら、エイマルが「お父さん、今はそういうの言わないの」と怒る。この子も大きくなったものだ。今年で十歳になるが、イリスが十歳の時、つまりは軍に入隊した当時よりも、大人なのではないだろうか。
自分はこのままではいけない。人間として、軍人として、もっと成長しなければ、他人を想うことがどんどん裏目に出る。イリスは拳を固く握った。



続きを読む
posted by キルハ制作委員会 at 15:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 小ネタ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月28日

恋の衝動

せっかく帰ってきたのに大雪降るのはちょっとな。イリスが風邪をひいたと聞いたダイの反応である。それくらい珍しいことで、ずっとイリスと同室で生活しているメイベルも、未だに信じられない。
空港でダイを拾ってから司令部に向かうまでの車内の会話は、ここから始まった。
「昨夜、独りで外に出てたらしいんだよね。メイベルにも行き先告げてなかったみたいで、オレのとこにまで連絡来てさ」
「本人は、行き先のない散歩だから言いようがなかった、とか言ってごまかそうとしていた。だがイリスは嘘が下手くそだ。絶対に何か目的があったはずだ」
レヴィアンスに続いてメイベルが発言すると、ダイは助手席で「ほー」と聞いているのかいないのかわからない返事をした。話を聞く態度としてはなっていないが、メイベルは彼が嫌いではない。最愛のイリスに手を出さないことがわかっているため、そして執着したものに関わるときに手段を択ばないところに親近感が持てるためだ。この二つが揃って、初めてメイベルの眼鏡にかなうことになる。ついでに、もうレヴィアンスの隣には座りたくないという我儘を笑って聞き入れてくれたこともある。
「昨日はエルニーニャも大寒波だったらしいからな。どうせイリスのことだから、薄着で飛び出していったんだろ」
「さすが大将、よくわかってますね。防寒具はコートだけでした。それでもいつもなら、風邪をひくなんてありえないのですが」
話聞いてたんだな、と口に出すのを我慢して、敬語を使う。オレに対する態度と違う、という大総統閣下のぼやきは無視した。
「でもさ、本当に風邪で熱出たのかは怪しいよね。最近あいつ色々あったから、知恵熱なんじゃないの」
「お前の暗殺未遂以外の何があったんだよ」
「親友と意思疎通がうまくできないとか、ルイゼンと喧嘩したとか」
「喧嘩なんかするのか? 原因は?」
「イリスが担当できない事件に関わりたくて余計なことまで言って、ルイゼンを怒らせた。イリスの気持ちもわからなくはないけどね。信じたい人を疑わなくちゃならないのは、あいつにはきついよ」
しばらく前席二人の会話を黙って聞いていたが、唐突に知らない情報が入ってきた。イリスがルイゼンと喧嘩したらしいという話は、昨夜フィネーロから聞いた。だがその原因まではわからず、当人が不在ということもあって追究はしていなかった。
担当できない事件とは、信じたい人を疑うとは、どういうことだ。
「閣下、その話をもっと詳しく聞かせろ。事件とは何のことだ。イリスは誰を信じたいんだ」
「げ、話しすぎた。メイベルは聞いてなかったのか……」
しまった、という顔がバックミラーに映った。その隣で笑うダイは、暢気に言う。
「レヴィ、お前『閣下』があだ名になってるな」
なっているのではない。メイベルにとっては「そうだった」。だがそんなことよりも、今はイリスだ。
予想はこの一瞬で組み立てた。メイベルは中央司令部に来たウルフの姿を見ているのだ。あいつが関わっているに違いない。

予定になかった休みができてしまった。体はだるいが、動けないわけではない。発熱も今がピークだろう。――今、イリスはこの部屋に独りだ。
昨夜コートのポケットにしまい、今は机の引き出しに隠すようにしてある、メモとチラシ。メイベルがいないうちなら、電話がかけられる。確認すると、非番の日は案外近く、レヴィアンスや他の近しい上司なら体調も考慮してきちんと休ませてくれるだろうという確信もあった。
布団の中で、外出の言い訳も考えた。協力はすぐに得られるだろう。
「こんなずるいこと考えるなんて、わたしも悪くなったなあ」
口ではそう言いながらも、なんだか楽しい。もちろんレヴィアンスやルイゼンの言いつけを破ることになるから、罪悪感もある。大事なことのはずなのに、気分はまるで幼い頃に母の目を盗んでひとりで遊びに出かけたときのよう。
――そういえば、リチェやゼンと友達になるまでは、勝手に遊びに行くと怒られたっけ。
四歳の頃に誘拐されるという事件があってから、しばらく家族はイリスの行動の把握に努めていた。大人と一緒に行動すること、どうしてもひとりで出かけたいときは必ず行き先を告げることを、強く言い聞かせられたものだ。約束を破ると、帰ってから母にきつく叱られた。
「また叱られるかな。……叱られるだけで済まないかも」
そうなったら、どうしよう。最悪のパターンとして、軍を辞めることになったら……そのときは、あの親切だという会社あたりが、イリスを雇ってはくれないだろうか。
「いやいや、レヴィ兄だってゼンだって、そこまではしないよ。ウルフの疑いをわたしが晴らせば、心配事なんてなくなるじゃん。でもそのためにはまず、わたしが信用されなくちゃならない……」
すでに「まず」の部分で躓いている。深い溜息を吐いてから、イリスは電話に向かった。机の中のメモを忘れずに。


緊急の三派会は、挨拶と説教だけで早々に終わった。ダイが休暇で帰ってくるときは、外交扱いにはならないので、本来この手続きはいらない。だが、空港で「仕事をした」となれば別だ。他国の軍人がエルニーニャで発生した事件に関わったということになってしまうので、一応報告が必要になる。
「アーシェ、相変わらずすごい剣幕だったな」
「わかっててどうして怒らせるのさ……」
他人事のように言うダイに、レヴィアンスは呆れ果てていた。ついでに疲れてもいる。イリスの件を、メイベルに「業務に差し障りがない程度」に伝えるのは骨が折れた。さらに苦手な三派会となれば、体力も精神力も限界だ。
「寄り道しないで帰ってよね。エイマルちゃんもお土産待ってるだろうしさ」
「俺じゃなくてお土産か」
「もちろんお父さんのことだって待ってるんじゃないの。いいから早く帰りなよ」
ダイの滞在期間は一週間らしい。ここ何年かを考えると休暇としては異例の長さだが、今回はノーザリア情勢が安定しているということで、補佐が融通してくれたそうだ。上手に人を育てていれば、椅子を離れても部下がちゃんと守ってくれる。
レヴィアンスの部下たちだって負けてはいない。今だって、執務室はガードナーがしっかりと守り、仕事を着々と片付けてくれている。将官、佐官は直接手をかけて育てた精鋭たちが務め、若い力もよく育っていると胸を張れる。暗殺事件を未遂に終わらせることができたのは、彼らのおかげだ。
あとはレヴィアンス自身がしっかりすれば、部下たちも安心できるのだろうが。
「レヴィ、悩みでもあるのか」
ようやく家へ向かって歩き出したはずのダイが振り返った。この人に覚られるなんて、今日はよほど疲れているのだ、きっと。
「は? ないない、そんなの。あっても話すようなことじゃないから大丈夫。それより」
「わかった、帰る。今日は帰るが、俺がこっちにいるうちに時間作れ。お前にも土産がある」
「それはどうも。じゃあ戻って仕事片付けて、スケジュール空けとくよ」
今考えているいくつかのことや、抱えている些細な問題を、この人は気づいて聞いてくれようとしている。昔はもっと傍若無人だった気がするけど、と思って、気づかれないように笑った。

ドアを開けたら娘と妻に会えると思っていただけに、声のトーンはあからさまにがっかりしてしまった。
「なんだ、お義父さんかあ……。ただいま戻りました……」
「戻って早々に家主に喧嘩を売るとはいい度胸だな」
出迎えたブラックが言うには、グレイヴとエイマルは待ちくたびれて買い物に出てしまったらしい。「待たせたほうが会ったときに感動があるかと思って」と言うと、「馬鹿か」と睨まれた。
「勘違いすんな、待ってるやつをわざと待たせてんのは甲斐性ねーんだよ」
「あ、それさっき全く同じことをアーシェに言われました」
「言われんなよ、こういうことを」
親しみを込めた文句と、台所から流れてくる家庭料理の匂い。この場所に来ると、ダイの胸の中にくすぐったさと罪悪感が同時にやってくる。今は前者の割合が多くなったが、少し前までは後者が圧倒的に重かった。ブラックを「義父」と自然に呼べるようになったのも、一昨年からだ。
「お前が送ってくれた肉、先に着いてたから処理しちまった。今回はなんだあれ」
「鹿です。獲ったのを適当に捌いたんですけど、但し書きとかつけたほうが良かったですか」
「あった方がお前も美味い飯が食えるぞ」
「ここのは何でも美味いです」
いつもの部屋に通され、いつもの場所に荷物を置く。土産一式は分けておく。一週間のスケジュールをある程度は決めておこうと、手帳を取り出したところで。
「ただいまー!」
少女の明るい声がした。
「あ、お父さんもう帰ってきてる! お父さーん、おかえりー!」
「こら、エイマル! 靴はちゃんと揃えなさい!」
久方ぶりの賑やかさ。これから一週間、この家で家族として暮らす。
「ただいま、エイマル。またちょっと背が伸びたか?」
「お父さん、いっつもそれ言うね」
「アタシもいつもの言っていい? 遅いのよアンタ。またレヴィに世話かけたんでしょう」
「グレイヴはいつ見ても美人だな」
「人の話を聞きなさいよ」
くすぐったい家だ。ここにいるあいだは、まるで自分がまともな人間のようだ。
食事をしながら、休暇中の予定を埋めていった。ダイが予定していることといえば、下宿に顔を出すことと、レヴィアンスと酒を飲むことくらいだ。あとは決めてもらう。
「お父さんとおうちでごろごろしてー、遊びにも行きたいな」
エイマルがにこにこしながら言う。おうちでごろごろはともかく、遊べるところはどこかあっただろうか。気がついたらなくなっていたり、増えていたりするので、事前調査が必要だ。
「どこがいい? 遊園地か、水族館か」
「水族館は行く約束してるから、他のところ。おでかけとお父さんのお休み重なっちゃった」
「そうだったのか。誰と行くんだ? イリスは熱出して寝込んでるみたいだけど」
「でもイリスちゃん、今日誘ってくれたんだよ。熱は当日までに気合で下げるからって。あのね、ニール君のお誕生日のお祝いも兼ねてるんだって」
風邪の割には随分と元気そうだ。しかし、イリスなら完全に治るまでは子供に接触しないようにするとか、考えていそうなものだが。ニールの誕生日だから焦っているのだろうか。それにしても、祝うだけならあとでも良さそうだ。
「ニールの誕生日っていつ?」
「今月の末だよ」
「まだ先じゃないか。やけに急いでるな」
思ったことをそのまま口にすると、グレイヴも何か考えるように首を傾げた。
「アタシも少し気になってるの。あの子、いつもはエイマルやニールの都合に合わせてくれるのに、今回は自分の都合にこの子たちを付き合わせたいみたいだった。変よね」
ダイの脳裏に、昼間の車内でのやりとりがよみがえる。イリスがやりたかった仕事を、ルイゼンが難易度を判断して上層にまわしてしまった。それで言い合いになり、大喧嘩に発展した。どうやらイリスがその仕事に関わりたかった理由は、依頼主が指名してきたからであるようだ。――依頼主のことならダイはよく知っていた。ウルフ・ヤンソネンには直接会ったこともある。
メイベルは「イリスをあの変態盗人から遠ざけるのは当然だな」と頷いていた。ルイゼンとメイベル、そしてレヴィアンスはウルフに疑いを持っている。おそらくレヴィアンスだけは、別の種類の疑念がある。
そしてイリスだ。喧嘩くらいで、指名された仕事から簡単に身を引くような子だろうか。どうにも挙動がおかしいように感じる。
「……エイマル、水族館は楽しんでおいで。そして帰ったら、俺に話をたくさん聞かせてほしい」
「うん!」
イリスには借りがある。返せるものなら、手伝ってやりたい。

メイベルが仕事から帰ってきたら、元気に振る舞って出迎えるつもりだった。実際、熱はもう下がっているし、明日からはイリスも仕事に戻れそうだ。
ところがノックに反応して勢いよく開けた戸の向こうには、意外な人物が立っていた。
「風邪にしては元気だな。仮病か?」
「……ゼン、なんで……」
昨日大喧嘩をしたはずのルイゼンが、何事もなかったような顔をしてそこにいる。もっと怒っているものだと、どうやって謝ろうかと思っていたのに。
「台所借りるぞ。メイベルから許可は得てる」
返事をする前にあがりこんでくる。そろそろとついていくと、ルイゼンは持ってきた袋から果物を取り出して並べ始めた。
「桃? 季節はずれじゃないの?」
「だよなあ。だから美味いかどうかはわからない。でも具合悪い時はこれが一番だって、お前もリチェも昔から言ってただろ」
「……わざわざ、わたしのために? そんな昔のことよく覚えてたね」
「イリスはともかく、リチェはよく風邪ひいてたからな。そのたびに見舞いに行ってたんだ、忘れるほうが難しい」
剥いてやるから待ってろ、と言われて台所から出る。たしかにリチェスタは体が弱かった。それをよくこうして見舞っていたのなら、彼女がルイゼンを好きになるのもわかる気がする。イリスだって、喧嘩の後ということもあるが、普段通りのルイゼンが来てくれたことが嬉しい。
しばらくおとなしくしていると、切った桃の載った皿を持って、彼はこちらにやってきた。
「残りはシロップ漬けにしておいたから、明日の朝にでもメイベルと食って」
「おお、あんたそんなことできたの」
「トーリス大佐に教わった。あの人の趣味は剣とお菓子作り」
「そりゃまた意外な」
季節はずれの桃も意外と美味しかった。一口をじっくり味わってから、イリスはルイゼンに向き直る。貰ってばかりではいけない。言わなければならないことがある。
「ゼン、ごめん。昨日の……カッとなって、最低なこと言った」
ルイゼンは一瞬目を見開く。けれどもすぐにまた、普段の表情に戻った。
「俺も言い方間違えたなって思ってて。ガキ大将時代は封印したはずなのにな。悪かった」
「あれくらい怒るのも当然だよ。仕事と勝負は関係ないもん。仕事はゼンのほうがずっとできる。上の人に任せるって判断も正しい」
イリスが黙ると、ルイゼンもしばらく何も言わなかった。やがて小さく息を吐いて「そうか」と呟いたとき、困ったように眉を寄せていた。
「あの、またまずいこと言ったかな、わたし」
「言ってはいない。……言わなかったなと思っただけ。お前って本当に強情だな」
「謝ったのに強情って何よ。でも失言がなかったならホッとしたよ。リチェにも変なこと言っちゃったみたいで、ちょっと怒らせたんだ」
「リチェを怒らせるなんてよっぽどだぞ。何言ったんだよ」
しまった、また口が滑った。リチェスタがルイゼンを好きなことは、本人から言わなければ意味がないし、そもそもイリスから告げるのは、リチェスタの気持ちを蔑ろにすることになってしまう。「まあ色々」と言葉を濁すと、ルイゼンはまた溜息を吐いた。
「早く仲直りしろよ。じゃないとイリスはいつまでも調子がおかしいままだし、リチェだって落ち込む。そんなお前たち、俺はいつまでも見ていたくはないからさ」
そろそろ戻るというルイゼンに合わせ、イリスも立ち上がる。部屋の外へ続くドアまで見送り、彼の笑顔を見た。
「風邪、ちゃんと治せよ」
「うん。もう大丈夫だから、明日にはもう出るよ」
「そんなに早くなくていいよ。メイベルとフィネーロも心配してたから、明日くらいは寝てていい」
その優しさを昔から知っているつもりだった。ガキ大将として暴れていた幼少期も、軍人を本気で目指すようになってからも、イリスの上司として目の前に現れたときも。いつだってルイゼンは、他人を気遣うことを忘れない、優しい人物だった。
そんな彼の言葉を無視する。関わるなと言われた人物に、また会う約束をした。仕事ではなくプライベートだから関係ない、エイマルとニールも一緒だから問題ない、というのはとても下手な言い訳だ。
明日仕事にきちんと出て、まともに仕事をしたとしても、この罪悪感は拭えない。ルイゼンが優しくするから、比重が大きくなってしまった。イリスの心の中に天秤があったとしたら、きっと大きく揺れていることだろう。
「ごめんね……ゼン」
呟いてから、そういえば「ありがとう」と言っていない、ということに気がついた。


風邪で寝込んだ翌日から、熱はもうないからとマスクをしたまま仕事に復帰したイリスは、咳もくしゃみもないからとさらに翌日にはマスクを外して完全復活を遂げていた。本当に知恵熱だったのかもしれない、とレヴィアンスが言うと、ガードナーは苦笑した。
「イリスさんは閣下がお考えになっているより、色々と思うところがあるかもしれませんよ?」
「そうかもね。今のところ不穏な動きもないし、このまま何事もなければいいんだけど」
意外なほど、復帰後のイリスはおとなしい。かといって黙々と仕事をしているわけでもなく、すっかり元の調子に戻ったようなのだ。ウルフのことなど、忘れているように。
「閣下は、昨夜はニアさんたちのお家に行ってらしたのですよね。イリスさんのことはお話されましたか?」
「熱を出したことと、まあ一応例のことの報告をちょっと。ダイさんもいたから、相談したいとも思ってたし。ニアはあんまり心配してないみたいだった。イリスはちょっとやそっとのことじゃ動じないだろうってさ」
「ああ、ヴィオラセント大将もご一緒だったんですね。ルーファさん、胃を痛めてはいらっしゃいませんでしたか」
「そのへんはいつも通り。意外だったのがさ、ダイさんがニールを認めてたことだね。なかなか見どころがあるって褒めてた」
そうして笑ったあと、レヴィアンスはダイと二人でいるときの会話を思い出した。ニアたちの家を辞してから、二人で夜道を歩いていたときのことだ。
――イリスに起こっていることはだいたいわかった。厄介な問題だが……それにうちの娘が巻き込まれたりはしないだろうな?
真剣な表情だった。危険薬物関連事件を追っているときの恨みを湛えたものとはまた違う、真面目に仕事に向かうときの顔だ。思わず「なんで」と尋ね返してしまった。
――近々、イリスがエイマルとニールを連れて遊びに行くと言っていただろう。ニールも楽しみにしていたな。もしもそこを狙われたら、と思って。
ニアとルーファは大丈夫だと言っていた。イリスがいるなら、万が一の事態でも切り抜けられるだろうと。レヴィアンスも同じように考えていたので、ダイがこれほど心配しているとは思っていなかった。
――気にしすぎなだけだといいんだが。エイマルを誘うときのイリスの様子が、いつもと違ったみたいなんだ。熱を出しているはずのタイミングで誘うこと、あらかじめ日付を指定していること。後者は休みの都合があるからかもしれないが、前者は不自然だろう。
たしかにそうだ、と思った。ニールが「イリスさんから連絡をもらって、楽しみにしているんです」と嬉しそうに語っていたときは、特に気にしなかった。だが、改めて考えてみると奇妙なタイミングだ。風邪なんていつ治るという確証がないのに、熱が下がってもしばらくは感染の可能性を考えなければならないものなのに、イリスは予定をつくって押し通そうとしている。普段ならそんなことはしないはずだと、レヴィアンスにもわかった。
「あのさ、レオ。次のイリスの非番って、明日だよね。いくらイリスでも、それまでに風邪を完治させられるかな。実際治ってるから、今更だけど」
「イリスさんなら可能かもしれませんが、必ずとはいえませんね。ぶり返すかもしれません」
「だよねえ。わかってないはずないんだけどな……」
行き先はわかっているから、監視をつけるまではしなくてもいい。だが、何が起こるのか、何が起こっているのかはわからない。それに、寒い夜にわざわざ出かけて行った日のことも、何もわかってはいないのだ。何をしていたのかはレヴィアンスも尋ねたが、「突発的な散歩」としか返事がなかった。
大寒波に襲われているというのに、突発的な散歩も何もない。だが、深入りはしなかった。こっちはこっちで、イリスに知られると厄介なことを抱えている。
「ご心配なら、私がついていって見てきましょうか」
「いや、それはしなくていい。したくないし。オレはこれでも、イリスを信用してるんだ」
何も起きやしない。起きても問題なく片付けられる。イリスが子供たちから目を離すことはないだろうし、子供たちもイリスから離れることはないだろう。
きっと気にしすぎだ。ダイも、自分も。


ワインカラーの、ボトルネックのセーター。胸元にはビジューの飾りが光っている。それにお気に入りのロングスカートをあわせた。仕上げは髪を一つに束ねたシュシュ。なかなか使う機会がなかったが、今日はまさにそのときだろう。
いつもの非番の日に比べて随分とめかしこんだイリスは、何度も鏡をチェックする。そこへひょいと、メイベルの顔が覗いた。
「素晴らしい恰好だな。デートか?」
デート、という単語にどきりとしたが、いつもエイマルと出かけるときなどに使われる言い回しだ。焦らず、落ち着いて、返事をする。
「エイマルちゃんとニールと一緒にね。ニールの誕生日が近いから、お祝いしようと思って」
「お前は本当にちびっ子に甘いな。ちびっ子たちが羨ましいよ」
メイベルは本を読んで過ごすらしい。フィネーロとルイゼンは、それぞれ仕事だそうだ。レヴィアンスは毎日そうしているように、大総統執務室に詰めている。
誰も知っているはずがない。そしてこのあとも知らずに終わる。今日の外出の、もう一つの目的を。
寮を出て、まずはエイマルを迎えに行った。玄関先で迎えたのは、可愛らしいポシェットを提げたエイマルと、送り出そうとするダイだった。
「ダイさん、お久しぶりです。お休み楽しんでる?」
「おかげさまで。今日はイリスにエイマルを取られるから寂しいけど」
「だからお父さんも、お母さんとお出かけして来ればいいんだよ。あんまりデートしたことないって言ってたよね」
靴の爪先でとんとんと床を蹴り、エイマルは屈託なく笑う。「そうだな」と同じ表情で笑い返したダイに、イリスは少し驚いた。いつぞやに比べたら、かなり穏やかな表情だ。
「そんなふうに笑えるんだね、ダイさんも」
「お前のおかげだよ。だから、何かあったら俺はお前の味方をしてやる」
「じゃあちょっとだけ期待してるよ。それじゃ、エイマルちゃんといってきます!」
手をつないで駆けていく二人を見送る声は、冬の朝の冷えた空気に溶けた。
「……何もないのが一番良いんだけどな」
次にニールを拾いに行って、ニアとルーファに見送られ、バスに乗ってやってきたのは大きな建物。レジーナには大規模な施設がいくつかあるが、この水族館も非常に広くなっている。大陸の真ん中にあるエルニーニャは海とあまり縁がなく、ここは多くの水棲生物について知ることができる貴重な場所だ。エイマルは何度か来たことがあるが、ニールは初めてだという。
「ここに海や河川の生物がいるんですか?」
「そうだよ。大きな水槽にたくさんいるんだから。一日かけてゆっくり見よう」
「海獣のショーがあるんだよね。楽しみだなあ」
きゃあきゃあと喋りながら入口へ向かうと、彼はすでにそこで待っていた。イリスの姿を見つけると、片手を軽く挙げて小さく振る。
もちろんエイマルとニールにとっては知らない人だ。顔を見合わせて首を傾げている。
「ウルフ、待った?」
「ちょうど今来たところだよ。チケットは買ってあるから、行こうか」
大人二枚と子供二枚。四枚の入場券のうち、イリスは三枚受け取って、子供たちに一枚ずつ渡す。知らない人がくれたチケットを、ニールは戸惑い、エイマルは不思議そうに見つめていた。イリスが慌てて説明する。
「ごめんごめん、教えてなかったもんね。この人はウルフ・ヤンソネン。わたしの友達だから、遠慮しないで」
「はじめまして、ウルフです。ええと……」
「女の子がエイマルちゃん、男の子がニール。エイマルちゃんはダイさんとイヴ姉の娘さんで、ニールはお兄ちゃんとルー兄ちゃんの子」
はじめまして、と子供たちも頭をぺこりと下げる。人見知りするニールは、まだ相手をまともに見られていない。逆にエイマルはしげしげとウルフを見つめ、やがてにっこりと笑った。
「イリスちゃん、ウルフさんって本当にお友達なの? もしかして彼氏とかだったり……」
「ち、違う違う! 違うけど、説明がややこしくなるから、ウルフが一緒にいることは他の人には内緒にしてね。ニールも、お兄ちゃんやルー兄ちゃんには秘密だよ。レヴィ兄はもってのほか!」
「え、わ、わかりました。……よろしくお願いします」
にまにまと口元がにやけるのを隠さないエイマルと、怪訝な表情のニールを連れて、イリスは館内へ進んでいく。隣にはウルフ。会ってはいけない人との、秘密の一日が始まる。わくわくしながら、罪悪感を残したまま。

南の海にいるという、小さく鮮やかな色をした魚たちの水槽の前で、エイマルは図鑑で知ったという蘊蓄をニールに披露している。よく一緒に図書館に行くというが、二人で遊んでいるときはいつもこんなふうなのだろうと、イリスは微笑ましくその光景を眺めていた。
「ニール君って、お兄さんの子だっけ。血が繋がっているわけでは……」
不意にウルフが、こそっと尋ねる。子供たちに聞こえないであろう声量で、イリスも答えた。
「血縁ではないよ。去年の夏に起こった事件がきっかけで、お兄ちゃんたちが引き取ったの。でももう本当の家族と同じだね。ウルフとバンリさんみたいじゃない?」
「そうだね。僕はバンリと本当の兄弟だって思ってるから」
「他にもウルフとちょっとだけ似てるところがあったの。わたしたちがニールを救助したんだけど、あの子は最初、軍人が苦手ですごく怖がってたんだ。事件のショックと関係しているからじゃないかってみんなは言ってたけど、わたしは今でも、わたしの所為じゃないかって思ってる」
一通り知識を話し終えたエイマルが、次へ行こうと誘う。今度は大きな魚がいるスペースを見たいらしい。自分たちの身長くらいの巨大魚がいる、と聞いてニールの目も輝いた。子供たちの後ろからついていくように歩き出すと、ウルフが「どうして」と言う。
「君の所為って、何かあの子にしたの?」
「ニールを見つけたのは夜だった。あの子を捜索するのに、わたしは眼の力を使ってたんだ。そのほうが見えるし、それに絶対に見つけなくちゃって必死になってた。でも、忘れちゃいけなかったんだ。わたしの眼は多くの他人にとっては毒。わたしがニールを見つけたときに、あの子が怯えていたのは、きっと事件の所為だけじゃない。初めて見たわたしの眼も怖くて、だから軍人が怖くなったんじゃないかって、ずっと思ってるんだよね」
普段、自分の眼について、これほど多くは語らない。ニールを怖がらせたかもしれないという話は、レヴィアンスやニアにだってしていない。ウルフに対して妙に饒舌になってしまったのは何故だろう。眼の力が効かない人や、眼の力を認めてくれている人は、彼以外にもいるのに。
「君の眼が役に立ったから、あの子を見つけられたんじゃないの? 僕はやっぱり、君の眼は美しいと思うけれど」
もしかして、この言葉を待っていたのだろうか。
「それに今は、君と随分仲が良いようだよ」
「お兄ちゃんたちと暮らしてるうちに、ニールは怖いものを減らしてきてるんだ。友達のエイマルちゃんが引っ張っていってくれるから、怖くて動けないままではいられないし。そうやってわたしのことも、いくらか好きになってくれたみたい」
「君は元々、誰からも好かれるじゃないか。必然だよ」
ウルフがふわりと笑う。イリスは一瞬どきっとしたが、すぐに首を横に振った。子供たちはもう巨大魚に見入っていて、こちらのことは気にしていないようだ。
「……誰からもは、好かれないよ。レヴィ兄の補佐をするようになってからは、尉官のくせに生意気だってよく言われるし。小さい頃は、ゼンたちと仲良くなるまで、友達ができなかった。大人も子供も、わたしの眼を怖がって、気持ち悪いって言うの。昔は制御する方法を知らなかったから、余計に」
ぶつけられた悪意は、たぶんほとんど忘れている。兄たちに遊び相手をしてもらうことや、ルイゼンやリチェスタと友達になることで、忘れることができた。けれども、たとえばリチェスタの母は今でもイリスを「気持ち悪い眼をした子、あまり娘と仲良くしてほしくない」と思っているし、数人の大人から濁した言葉で確かな糾弾を受けたことは、記憶に深く刻まれている。
「昔ね、学校に入りたいって思ったことがあったの。そうしたら友達もできるし、軍人になるなら中退できるって聞いたから。でも入学のための面談で、学校側から拒否された。学力がどうとか、ちょっとやんちゃすぎるとか、色々言われたけど……やっぱり結局は、眼が不気味できちんとした指導ができないって理由だった」
「それは酷いな」
「お母さんもそう言ってすごく怒ってた。お父さんやおじいちゃんは、そんなところなら行かないほうがいい、友達なら近所で必ずできるし、勉強はお兄ちゃんに教わればいいって。その頃は、お兄ちゃんも頻繁に実家に寄ってくれたなあ。で、ゼンたちと知り合えたのはその直後」
学校に行かなくても、友達はできたし、それなりに社会性は身についたつもりだ。眼の力の制御も、あまり目に力を入れすぎないこと、まばたきの回数を意識することなどから始めて、次第にできるようになっていった。今では自在に扱える。結果的には良かったのだと、これまでの人生には納得している。
「憶えてはいるけど、気にしてはいない。わたしは今のわたしがあればいい。エイマルちゃんやニールも懐いてくれるし、軍の女の子たちにも結構モテるんだよ」
おどけてみせたイリスだったが、見上げたウルフの表情は、困ったような笑みだった。
「でも、イリス。それは君の、傷じゃないのか?」
言葉の意味を捉える前に、エイマルが移動を始めた。ニールが引っ張られている。イリスも慌てて二人を追いながら、心に落ちてきた「傷」という単語を思う。
――君は好意を向けられるのも疎まれるのも慣れてしまって、だから自分自身へ向けられる感情を都合のいいように解釈することでシャットアウトしてしまう癖が無意識についてしまったんだろう。
フィネーロに言われたことが、今になってようやくわかりかけた。たしかに、人にどう思われているか、きちんと知ることは怖かった。広い定義の「好意」と仕方ない「疎まれ」を、深く追求せずに受け止めてきた。それはウルフのいう「傷」の所為だったかもしれない。
知れば深くなり痛むから、それが長く続くと知っているから、線を引いてそれ以上踏み込まないように、踏み込まれないようにした。
「案外、わたしも臆病なのか」
西の海のコーナーの前でぽつりと呟く。独り言のはずが、丁寧に拾われた。
「誰だってそういう気持ちがあるよ。僕はそういうところも含めて、君を愛おしいと思う」
いつのまにか繋がれていた手は、冷たいのに安心できた。心臓の音がとくとくと鳴って、全身に温かい血を巡らせるようだった。

海獣のイベントショーは楽しかった。イリスと、その友達だというウルフが良い席をとってくれたおかげで、動物の鼻先に触れることもできた。盛大に跳ねる水で濡れないようにと、ウルフはきちんとビニールの合羽を用意してくれていて、エイマルは感心すると同時にすっかり信用している。
「友達っていうけど、ウルフさんはイリスちゃんの彼氏だと思う。でもたしか、ゼンさんもイリスちゃんが好きだったような……。レヴィさんもそうじゃないかなって思ってたんだけど」
他にも他にも、とエイマルが並べると、ニールが苦笑した。
「少なくとも、レヴィさんは違うと思うよ」
「そうかなあ。ニール君はどうしてそう思うの?」
「あの人は大人だから」
「ウルフさんだって結構大人じゃない? そういえば歳はいくつなのか聞いてなかったよね」
エイマルがこそこそと盛り上がっていると、イリスに「ちょっと待って」と呼び止められた。ショーのとき以外はずっと少し離れたところにいるので、たぶんこちらの話は聞こえていないはずだ。
「エイマルちゃん、ニール、そろそろお昼だよ。何か食べて、それからまたゆっくり見て回ろう。お土産も欲しいよね」
言われて初めて、エイマルは時計を確認した。父にクリスマスプレゼントとして貰った、新しい腕時計だ。針はぴったり正午を指している。
「本当だ、そういえばお腹空いたかも」
「良い時計だね。文字盤がねぁーの顔で可愛いけど、全体的なデザインはちょっと大人っぽい」
ウルフが少し屈んで、時計を褒めてくれる。嬉しくなったエイマルは思わずウルフに飛びつきそうになったが、「イリスちゃんの彼氏だから」と思って踏みとどまった。
「ここ、イートインあったよね。わたしとウルフで食べるもの買ってくるから、エイマルちゃんとニールには席をとっておいてもらおう。混んでる時間だし、なかなか難しいミッションになるけど、できる?」
イリスがにやりと笑う。一緒に出掛けると、よくこういうふうに遊んでくれるのだ。おそらくはイリスが子供の頃に兄たちにそうしてもらっていたのだろうが、エイマルもこういう指令は大好きだ。父の仕事に少し近づけるようで嬉しいし、クリアできるかどうかわくわくする。
「やるよ、ミッション! 四人が座れるところを確保すればいいんだよね。ニール君、行こう!」
「う、うん。でも走っちゃだめだよ、危ないよ。エイマルちゃんってば……」
ニールの手を引っ張って、まずはイートインコーナーを目指す。簡単に辿り着いたが、そこはもう昼食をとる人でいっぱいだった。これはなかなか手強いミッションになりそうだ。
歩きながら探そうと、エイマルは動こうとする。けれどもニールに止められた。
「どうしたの?」
「ええと、きょろきょろしながら歩くと危ないと思って。だからここでまずあたりをつけたほうが良いと思うんだ」
ニールが視線だけをあちこちに走らせ、やがて「あそこ」と指さした。背の高い大人たちの陰になっていたが、よく見るとたしかに座れそうな場所がある。少し手狭だが、大人二人と子供二人ということを考えると十分だ。
「ニール君、目良いよね。耳も良かったっけ」
「人よりちょっと良いみたい。僕は感覚を使って動くのが得意で、エイマルちゃんは動体視力と勘が良いんだって。エイマルちゃんのお父さんが言ってたんだけど、聞いてない?」
「あー、ずるーい。あたしが聞いたことないのに、ニール君には言うなんて。あとでお父さんに文句言おう」
「ニアさんたちとそういうふうに話してるのを、僕が横で聞いてただけだよ。今お父さん帰ってきてるから、直接文句言えるね」
父は先日、ニールの住む家に行っていたのだ。夜が遅くなるし、お酒も入るからと、エイマルは連れて行ってもらえなかった。その分昼間にたくさん遊ぶ約束をしたので許したけれど、エイマルだけが知らない話があるというのは聞き捨てならない。
ちょっとふくれて席に着き、ハンカチを取り出そうとしてポケットに手を突っ込んで、あれ、と思った。ポシェットの中も見たが、最後の記憶ではたしかにポケットにしまっていたはずだ。
「ハンカチ、落としちゃったかも。捜してくる」
「え、今? イリスさんたちが戻ってくるまでは動かない方がいいよ」
「落とし物で届いてないか訊いてくるだけ。席はニール君がとっておいて。ね、お願い」
すぐに戻ってくるから、と手を合わせる。ハンカチはお気に入りのもので、絶対に無くしたくない。ニールは「それもイリスさんたちが戻ってきてから」と言うが、気にしたままでは昼食の味がわからなくなってしまう。
「本当にすぐだから。いってきます!」
「ちょっと、エイマルちゃんってば」
ニールは動けない。二人ともいなくなれば、イリスたちを心配させてしまう。それにエイマルはひとりで動き回ってもすぐに戻ってこられるという自信がある。ここにはもう何度か来ていて、設備の位置も把握している。だから絶対に大丈夫だと思っていた。
ニールを残して早足で向かったのは案内所。誰かがハンカチを拾って届けてくれたなら、ここにある。けれども尋ねたところ、ハンカチの落とし物は届いていないということだった。広い館内の、これまで歩いた場所を隅々まで見ることはできない。遅くなってはイリスたちに迷惑がかかってしまう。ひとまず戻ることにして、でも足元くらいは見ておこうかと、あまり前を見ずに歩き出した。それでもイートインまでは戻れるだろう。
薄暗い水族館の、水槽が途切れた場所。さらに照明が絞られたところに差し掛かったとき、背後から覗き込むような気配があった。
「お嬢さん、捜し物はこれかな?」
目の前にハンカチが差し出される。間違いなくエイマルのものだ。嬉しさと安堵で気が緩む。
礼を言うことはできなかった。
「んむっ?!」
そのハンカチで口を塞がれ、腕で体を拘束される。ようやく見た周囲に、人は他にいなかった。まるで空間を切り取られたようだ。そのまま持ち上げられたので、エイマルはとっさに自分を抱えている人間を踵で思いきり蹴った。相手が呻いて手を緩めた瞬間に、逃れて走ろうとする。
だが、もう遅い。足の動きは重く鈍く、頭もくらくらする。ハンカチからした変な臭いの所為だ。よろけたところを再び捕まり、抱えられて運ばれる。口はまたハンカチで塞がれたので、助けも呼べない。
「やっとおとなしくなったか、このガキ。おい、車はすぐに出せるんだろうな」
「エンジンかかってます。人が来る前に、早く」
意識がもうろうとする。ニール君、ごめん。イリスちゃん、ウルフさん、ごめんなさい。心の中で繰り返しながら、唇を強く噛んだ。

ようやく見つけた席には、ニールしかいなかった。ホットドッグと飲み物をテーブルに置いて、イリスはあたりを見回す。それらしき姿は、この混雑もあって見つからない。
「エイマルちゃんは?」
「あの、ハンカチを落としたかもって、捜しに……。たぶん案内所に行ったんだと思うんですけど、まだ戻らないんです」
おろおろするニールを宥めるように撫で、「案内所ねえ」と呟く。ここからそう遠くはなく、館内を把握しているエイマルならさほどかからずに戻ってこられるはずだ。
「行ったのはいつ?」
「席に着いてすぐなので、もう十分くらい経ちます。さすがにかかりすぎですよね……」
「そうだね。もしかしたら捜すのに熱中しちゃってるかも。ちょっと見てくるから、ウルフと待っててくれる? ウルフ、ニールのことお願いね。先に食べてていいから」
「え、イリスさん、待って」
よく知らない人と二人は心細いだろうが、ニールにはもうちょっと待ってもらうしかない。独りでいるよりはましだろう。イリスはまず案内所に向かった。職員はエイマルのことを覚えていて、ここに落とし物が届いていないことを教えたら、もと来た方へ戻っていったという。
「ここまでは会ってないから、館内回っちゃってるかな。すみません、放送かけてもらっていいですか」
むやみに捜しまわるよりは、館内放送で呼び出してもらった方が早いだろう。そう思ったのだが、いつまでたってもエイマルは現れなかった。まさか外に出ているはずはないだろう。お手洗いにしてもこんなにはかからないはず、と訝しんだそのとき。
「あの、すみません。お客様、イリス・インフェリアさんでよろしいですか」
「はい、そうですけど。子供、見つかりました?」
「いいえ、それが……」
職員の顔色が蒼い。唇も震えている。
「軍から。中央司令部から、緊急の連絡が入っています」

明るい賑やかさが一転し、不安に包まれ騒然となっている。水族館は緊急に閉鎖され、来館者はひとりひとり軍による取り調べを受けてから帰宅する。
イリスは表情を硬くして、軍用車両の中にいた。別の車にはウルフがいる。ニールは迎えに来たニアとルーファに保護され、すでに帰宅したが、顔は涙でぐしゃぐしゃになっていた。――僕が、エイマルちゃんを止めていたら。そう言っていつまでも泣いていたが、もちろんニールの所為ではない。
「……連絡、来ないな」
運転席で、レヴィアンスが車内無線を気にしている。待っているのは、犯人からの連絡だ。エイマルを誘拐した人物からの。
軍に連絡があったのは、正午を過ぎてしばらく経った頃。イリスとウルフが昼食を買いに行って戻ってきた時間と同じくらいだ。
第一声は「大総統を出せ」だったという。電話をとった外部情報連絡係の者は、まず相手の情報を聞き出そうとしたが、「早く大総統を出さなければ罪なき市民が犠牲になる」と脅された。電話は短い相談の後に大総統執務室にまわされ、事件はレヴィアンスの知るところとなった。
――イリス・インフェリアと一緒にいた女児を預かっている。
該当するのはもちろんエイマルだけだ。イリスの居場所は知っている。ガードナーが別の電話ですぐに水族館へ連絡をとってくれた。すると案の定、というわけだ。
「わたしが行けば、エイマルちゃんを取り戻せるんでしょ。だったら行かせてよ、レヴィ兄」
「どこに行くっての。場所と方法は追って連絡するって言われてるんだから、今は待つしかない。もちろん付近も調べてるけど、今はお前を行かせるわけにはいかない」
犯人が提示してきた条件は、イリス・インフェリアの身柄との交換。イリスがそれを聞いたのは、レヴィアンスたちが水族館に到着してからだった。「どうして」とレヴィアンスに掴みかかろうとしたのを、止めたのはルイゼンだった。喧嘩をしたときよりも、もっと険しい表情をして。
ニールとウルフはすぐに引き離され、ニールは保護、ウルフは拘束された。ルイゼンの言葉が、はっきりと耳に残っている。――だから、関わるなって言ったんだ。
「なんでもっと早く言ってくれなかったのよ。人身売買組織の狙いが、わたしだったって」
「言ったらお前は突撃するじゃん。ルイゼンもそれをずっと懸念してたんだよ」
「でもウルフは関係なかったよね。だって情報提供者だよ」
ウルフが直接「イリスが狙われている」と言ったわけではない。だが、同時に起こった事件が繋がっていたのだ。
ウルフがもたらした情報は、人身売買組織の動きと狙い。それも詳細なものだった。ここ最近の行方不明者の幾人かが組織に誘拐された可能性と、その目的の大半が人間そのものを取引するのではなく、身体の一部にあること。それは臓器だったり、四肢だったり、――眼球であったりするという。わざわざ眼球という情報を持ち出してきたことで、ルイゼンは危機を覚えた。ウルフが以前からイリスの眼に興味を示していることは、よく知っている。
一方、レヴィアンスのところには、イリスとウルフが対峙した街頭の襲撃者の聴取結果が入ってきていた。イリスが当事者として補足をするその前に、彼らが人身売買を目的とした組織の一員であること、そして彼らの狙いがイリスだったということがわかっていた。わざわざイリスが巡回に出る時間を狙い、彼女がほぼ確実にかかるであろう「子供を餌にする」という罠を仕掛けた。裏にはイリス・インフェリアについての情報が出回っていたのだ。
裏組織の情報と、イリスの情報。両方を持っているのがウルフ・ヤンソネン。このことから、彼はこの件の最重要人物の一人となっていた。
「関係ないかどうかはこれから調べる。どっちにしても、お前はウルフと会うべきじゃなかったよ。どうして隠れてまで会おうとしたのさ。エイマルとニールまで巻き込んで」
「巻き込んだのは……わたしが悪い。最悪なことした。エイマルちゃんになんてお詫びしたらいいんだろう。イヴ姉やダイさんにどんな顔して会えばいいの」
「その顔でいいよ」
俯いたイリスの耳に、今朝も聞いた声が届く。レヴィアンスがすぐに車の窓を開けた。
「ダイさん、家で待っててって言ったじゃん! 今は休みなんだから、ダイさんはただの被害者の親!」
「家にはグレイヴとお義父さんがいる。母さんも来てくれて控えてるし、軍に入ってくる情報はユロウが医務室で拾ってくれるってさ。我が家の布陣は完璧だ」
突然現れたダイは勝手にドアを開けて、後部座席のイリスの隣に乗り込んだ。そしてイリスを真っ直ぐに見る。
「まさかこんなことになるとはな」
「ごめんなさい! わたしの所為で、エイマルちゃんが……」
頭を下げたイリスの肩を、ダイは意外にも優しく叩いた。いつものダイなら、身内が危険な目に遭えば怒り狂うはずだ。イリスを殴りつけてもおかしくないと思っていただけに、この態度には疑問が湧く。
「そうだな、イリスの所為だ。相手の狙いはイリスであって、エイマルじゃない。まあ、人身売買関係者なら、もしかしたらエイマルも売ろうとするかもな。子供だから体の一部といわず、昔のウルフみたいにどっかの馬鹿貴族にまるっと売り渡すほうを考えるかも」
「……ダイさん、そんなに知ってたの?」
「知ってるさ。うちの娘たちにどんな危害が及ぶ可能性があるのか、俺は可能な限り把握してるつもりだ。ともかくやつらは、エイマルのことはイリスを手に入れるついでくらいにしか考えてない。それはレヴィにきた電話の『イリスと一緒にいた女児』という表現から予想がつく。あの子が何者か知っていれば、もっと手っ取り早い言い方と理由があるからな」
唖然とするイリスに、ダイは不敵に笑った。レヴィアンスも得心したようで、やれやれ、と呟いて再び無線に集中する。
「俺はイリスの味方だ。安易にうちの娘たちに手を出そうとしたこと、末代まで後悔させてやろう」
ちょうど無線が司令部からの連絡を受信した。発信元はガードナーで、犯人からの電話をそのままこちらへまわすという。イリスも身を乗りだし、無線からの声に耳を傾けた。
「大総統、イリス・インフェリアをタルミア国境まで連れてこい。無論、独りでだ」
声は機械で加工されているようだった。相手のいうタルミアはエルニーニャ西側の小国で、国境を越えればエルニーニャ軍の介入は基本的にはできなくなる。だがここからは遠い。
「条件はわかった。でも、そっちが誘拐した子の無事が確認できないと、こっちも行動できないな」
「……声を聞かせてやろう」
レヴィアンスの誘いに、相手がのってくる。ノイズの向こうで、ガタガタという音と「喋ってやれ」という声がした。
「エイマルちゃん?」
レヴィアンスが話しかける。すると、少し間があって。
「あたしがいる車はリーガル社の大荷物運搬用トラック、連絡用車載電話付き、荷台にいるのは二人、載せられてから四十分くらい経過! 犯人はあたしを売るからあんまり手を出すなって言ってる!」
少女の声で、情報が一気に溢れてきた。レヴィアンスとイリスは目を見開く。
「おい、小娘を黙らせろ!」
「うわっ! 蹴るんじゃねえ、ガキ!」
機械を通さない男二人の声を最後に、通信はぶつりと切れた。呆気にとられているイリスの隣で、ダイが得意気に言う。
「だから言っただろ。我が家の布陣は完璧だって。相手は取引を持ち掛けておきながら、約束を守る気がないってこともわかった」
内心では心配でたまらないだろう。これでエイマルの危機は一層高まってしまった。だが、あとは情報を頼りに動ける。レヴィアンスが急いで出動している全員に情報をまわした。さらにリーガル社の運搬車で、今出ているものを探る。
「おい、待て! イリス!」
そのあいだにイリスは、ダイの手をすり抜けて車を飛び出した。そして他の軍用車両に向かって、一目散に駆けた。



続きを読む
posted by キルハ制作委員会 at 12:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 小ネタ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月21日

恋と信用

イリスが巡回から戻るまでに、街路で起こった傷害未遂事件は軍に知らされていた。実行犯である二人の男は捕まり、早々に聴取が始まっている。
だが、彼女が軍に連れ帰ってきた青年に、ルイゼンは驚愕していた。なぜ彼が、ここにいる。
「おい、どうしてそいつが一緒にいる。首謀者か?」
メイベルが苛立ちを隠さず尋ねる。するとイリスが答えるより先に、青年がへらりと笑って言った。
「やだな、僕は今回の事件とは何も関係ないよ。君は相変わらず僕が嫌いなの、ブロッケンさん?」
「イリスの許可があれば今すぐ滅したいくらいだ」
「だめだよ。ウルフはわたしを助けてくれたんだから。それと軍に用事があったんだって」
イリスの言葉に、にこっと笑う青年。だが彼は無害そうな見た目とは裏腹に、過去にとんでもないことをしでかした人物なのだ。
「用事なら俺が聞こう。これでも一応佐官だ。下手な真似はするなよ、ウルフ・ヤンソネン」
「下手はしないよ、上手にやる。……ああ、冗談だから睨まないでよ、リーゼッタ君」
相変わらず真意が読めないやつだ。――ウルフ・ヤンソネン。かつて貴族家をターゲットに盗みを繰り返していた「怪盗」で、その前は軍人だった青年。その強さは鈍っていなければ、イリスに匹敵する。
だが、ルイゼンたちが彼を捕まえて、聴取と相応の刑罰の後に釈放されてからは、ずっとおとなしくしていた。イリスの前に現れることもなかった。だから顔を見るまでは、その存在を忘れていたといってもいい。
「で、用事って何なんだ。今までどこにいたのかは知らないしどうでもいいけど、わざわざ中央司令部を訪れるようなことなのか」
「なんだか、君も僕のことは嫌いみたいだね。でも僕は君たちを信用しているし、僕の恩人を貶めた人間に処罰を与えてくれた大総統閣下にも感謝している。そうでなければ、軍に頼みごとなんか、今でもごめんだよ」
一般応接室に通すと、ウルフは微笑んだまま、言葉の端にまだ残る禍根を滲ませた。
「軍じゃなく、閣下と君たちに頼みたい。でも君たちが信用する人になら、この件を預けてもいい。どちらにせよ僕ができることは少ない」
「何のことだ」
焦れて少し荒れたルイゼンの問いに、氷の色をした瞳が笑うのをやめた。
「……人身売買関係を、担当したことはある?」

巡回の報告書を手早く仕上げ、街で事件を起こした男たちの聴取に補足をする。まるで昼間の失敗の数々が嘘のように仕事を片付け、イリスは再び司令部を出て行った。
ここから近い小さな公園が、待ち合わせ場所だ。巡回から戻るときに、そこを見かけた彼が指定した。
「ウルフ、あんたずっと待ってたの? どこか店にでも入ってればよかったのに」
真ん中に立ち竦んでいた彼は、にこりと笑った。
「レジーナの中心街の店は、どこも入るのに勇気がいるよ。華やかな人たちばかりで。でもほら、屋台が出てたから、温かい飲み物は確保できた」
寒くなかったよ、とウルフは蓋つきのカップをイリスに差し出した。受け取ると熱く、指先がじんわりと痛む。
「ありがとう。いくら?」
「君はしっかりしてるね。いいんだ、僕の奢り。君のおかげで、軍への用事がスムーズに済んだ」
「それを言うなら、わたしだって助けてもらったんだから、割に合わないでしょ」
「ううん、合ってるよ」
さっきまでカップを持っていた、温かい手がイリスのこめかみにかかる髪を除けた。親指が目じりに触れる。
「僕は今でも、君の眼はこの世で最も美しいものの一つだと思っている。その力まで見せてもらったんだから、お礼に助けるのは当然じゃないか」
「相変わらず変なこと言うんだね」
手から逃れて、髪を直す。やたらと人に触れてくるのも、イリスの眼を「美しい」と褒めるのも、初めて会ったときと変わらない。変わったのは、彼がもう追うべき存在ではないということ。
「……今まで、何してたの? バンリさんに引き取られたんだよね」
釈放されたウルフは、恩人にして唯一身内と呼べる人、バンリ・ヤンソネンという元軍人に引き取られたはずだ。それからあとは、音沙汰がなかった。
「うん。レジーナからは少し離れた村に、バンリと二人で暮らしてるんだ。だけど半年くらい前から、レジーナにある警備会社で働いてる」
「あんた仕事してたの」
「してるよ。だからそのうち、君にも会えるんじゃないかと思ってた」
「なかなか会わないもんだね。わたしはレヴィ兄につきっきりだったせいもあるけど」
もう捕まえる必要がない、犯した罪もきれいに償った彼に、イリスが抱く気持ちは一つだ。――元気そうでよかった。身内も無事ならもっと良い。
「君には感謝してる。僕やバンリを、苦しみから救ってくれた。その力に縋りたいと思って、中央司令部まで来たんだ」
「何かあったの? そういえば、あんたから話聞いたあと、ゼンが戻ってこなかったんだよね」
ルイゼンが事務室に戻ってきたのは、終業間近のことだった。なにやら難しい顔をしていたが、それにかまわずに、イリスはここに来てしまった。
ウルフは笑みをほんの少し歪め、頷いた。
「レジーナで仕事を始めたのには、いくつか理由があるんだ。その一つが、裏組織と一部市民の手による人身売買の情報を集めることだった」
「人身……って、あんたまだそんなことに首突っ込んでたの?!」
国内のみならず、大陸中に蔓延る闇、裏社会。組織をつくって、違法な手口を使って生きている人々を、イリスたちは取り締まっている。危険薬物の取引が大半だが、ウルフのいう「人間のやり取り」もたしかに存在していた。
「まあ、聞いてよ。リーゼッタ君に情報は渡したから、近いうちに話があると思う。僕が手を出せるのはここまでだけれど、どうしても君たちに託したかった。貴族も絡んでるから、他の軍人はあまり信用できなくて」
「まだ、軍人と貴族が嫌いなの?」
「嫌いなわけじゃないよ。それに貴族の全てが悪いとは思っていない。君たちのような、真っ当な軍人がいるように」
そう言いながら、ウルフは上着を脱ぎだした。イリスが止めようとしたのも無視し、中に着ていたセーターの袖も捲る。あまり健康そうには思えない左腕が露わになった。
「……だけど良い人がいるのと同じくらい、そうじゃない人もいる」
腕にはいくつもの古い傷があった。古いけれど深くて、まだそれとわかってしまう。イリスは息を呑み、やっとのことで「いつの?」と訊いた。
「子供の頃、バンリに会う前。僕は貴族に買われて、家の主人の慰み者として生きていた。これは当時の折檻の痕で、体中がこんな感じ。やっとのことで逃げ出したのは、今日みたいな寒い冬で、バンリが助けてくれなかったら、僕は名前もないままこの世から消えていた。そんなことだから、僕は自分の実年齢を知らないし、親の顔も見たことがない」
名前と誕生日は、バンリが与えてくれた。彼がこの世でただ一人の身内となった。ウルフを痛めつけた貴族家は、バンリが条項違反で検挙し、貴族階級を剥奪された。それでもこの傷は、そう簡単には消えなかった。
「僕は幸福だ。バンリがいたから、今もこうして生きてる。でも今まさにつらい思いをしている人がいる。僕が情報を入手した裏組織の主な狙いは子供だった。子供や女性は特に狙われやすいんだ」
いつのまにかウルフは笑うのをやめていた。真剣な瞳は、真冬の寂しさをこれでもかというくらい詰め込んだような色に、鈍く光っている。
「君に、助けてほしい」
かつての彼なら、無理にでも自分の手で救おうとしていたかもしれない。けれどもそれには限界がある。怪盗は盗みを続けることはできなかったし、今は彼にも家族がいる。その人のためにも、この件はしかるべきところに託す必要があった。
イリスは地面に落ちた上着を拾い、土と雪を掃って、ウルフにかけ直した。
「話を聞いたら、助けないわけにいかないでしょ。ゼンがきっと、レヴィ兄にも報告してる。わたしたちに任せなさい」
にい、と笑うと、ウルフにも笑顔が戻った。そのまま距離をあけないうちに、抱きしめられる。すっかり身長が高くなったイリスを、余裕をもって抱きしめられるような人はそうそういないので、少しだけびっくりした。
「ありがとう。頼りにしてるよ」
耳にかかる吐息。柔らかく穏やかな声は、どこか兄に似ている。
「……あんた、こうやってすぐ人に抱きつくのやめなさいよ。子供じゃないんだから」
「ああ、ごめん。嬉しくてつい」
ウルフはそっと離れてから上着に袖を通し、それからポケットに手を突っ込んだ。畳んだ紙を取り出し、イリスの手に握らせる。
「これ、連絡先。何か進展があったら教えて。職場を訪ねてくれてもいいよ」
「わかった。教えられることはできるだけ伝えるよ」
「待ってる」
すっかり冷たくなった手が、また髪に触れた。今度は前髪を撫で、除けて、それから。
「じゃあ、またね。イリス」
額にあたった柔らかい感触に呆然としていたら、ウルフは吹き過ぎる風のように姿を消していた。夢ではなかったのだということを証明するのは、手の中の小さなメモ。
「今、あいつ、何した……?」
触れたのは、直後に「またね」と形作られた、自らの過去を語り、頼りにしてると言った、その部分。
「……っ、冗談がすぎるわ、あの馬鹿――!」
親族以外のキスも、こんなに顔が熱いのも、恐怖以外で心臓の音がうるさいのも、初めてだった。


「続けて様子がおかしいが、大丈夫か。昨日はどこに行っていた」
メイベルの問いに、今日は答えられなかった。巡回中に落とし物したみたいで、と適当にごまかしておいたが、おそらく通用していないだろう。
早ければ朝のうちに、ルイゼンからなんらかの話があるはずだ。それからであれば、うっかりウルフの話をしても大丈夫だと思っていた。だが、仕事が始まっても、そんな気配は微塵もない。
ルイゼンは午後から佐官による遠征任務に同行するという。行ってしまえば明日まで帰ってこない予定だ。イリスはその前に、ルイゼンを問い質すことにした。
それ以外の、昨日あったことなんか、もう忘れている。
「ゼン、ウルフの用事って何だったの」
メイベルの不在を狙って問うと、しかめっ面で返事があった。
「俺たちじゃ手に負えないこと。閣下に報告して、准将がリーダーの佐官グループで担当してもらうことになるから、イリスには関係ない」
「関係ないわけないでしょ。だってウルフはわたしたちを頼って来たのに」
物言いにカチンときて言い返すと、ちょっと来い、と事務室の外に連れ出された。そのまま向かったのは第三休憩室だった。
あまり広くはない部屋だが、二人でいるには十分な余裕がある。冬である今は寒いくらいだ。
「何でこんなとこに……」
「お前、あいつからどこまで聞いてるんだ」
こちらの呟きを遮ったルイゼンの声は、いつにもまして低い。
「どこまでって?」
「わたしたちを頼ってきた、って言っただろ。あいつがそう言わなきゃ、知らないはずだよな」
つい口が滑った。もともと嘘を吐くのは下手だし、まして幼馴染であるルイゼンを欺けるわけもない。ごまかしきれそうにないので、素直に白状する。
「人身売買の情報を託しに来たんでしょう。まだ軍は信用しきれないから、わたしたちにって」
「俺たちが信用する人間になら預けていいとも言っていた。だからそうしたまでだ」
「でもあいつは、わたしたちにって」
「尉官が担当できる仕事じゃないし、俺も経験がない。あいつも元軍人なら知らないわけじゃないだろうに、どうしてわざわざ指名してきたんだろうな。顔見知りからなら、軍の捜査がどこまで進んでるのか、情報を得ることができると思ったか。それさえわかれば、盗みをやってた頃のような無茶も、情報を裏に売ることもできる」
ルイゼンが言い切る前に、イリスはもう彼の胸倉に手を伸ばしていた。そんなことは、あるはずがない。いくらルイゼンでも穿った邪推は許せない。
「あいつが、ウルフがそんなことするはずない。信用してくれてる人を、どうしてそんなに疑えるの」
抵抗なく、表情も変えず、ルイゼンは答える。
「お前こそ、どうして前科がある人間をそう簡単に信じるんだ。何を言われて絆された」
「前とは違う。自分は手を出せないって、だからわたしに助けてほしいって、ウルフはそう言ってた!」
「イリスは頼られると弱いからな。そうやって騙されて、軍の情報を勝手に流されたくないから、俺はこの件を上層のプロに任せた。閣下もそのほうがいいと、人を集めてくれている」
部屋の机にしまってある、連絡先のメモを思い出す。進展があったら教えてほしいとは言われたが、誰でも自分の持ちこんだ話の続きは気になるものではないか。でも、イリスもここまで言われればわかっていた。そう返したところで、ルイゼンは「仕事への意識が足りない」と言うだろう。
情報提供者の安全のためにも、本来なら堂々と連絡をとって教えるなんてできないのだ。それを忘れていたのは、何故だろう。懐かしい人に助けてもらって、舞い上がっていたからだろうか。
「でも、だからって、あいつを疑うことないじゃない」
「お前が信じすぎなんだよ、イリス。俺はお前の上司として、お前を守る義務がある」
「あんたに守られなくたっていいわよ! だいたいあんた、一回もわたしに勝てたことないじゃない!」
叫びを掻き消すくらい大きな音が室内に響いた。もしかしたら、外にも聞こえたかもしれない。廊下が少しざわついた気がした。
近くにあった椅子を蹴り飛ばしたルイゼンが、イリスの手を掴んで自分から引き剥がす。
「そういう問題じゃねえんだよ。力が強けりゃなんでもできると思うな。特例で大総統補佐やってても、お前は経験の浅い尉官に違いねえんだ。閣下の暗殺未遂事件でちょっとは学んだかと思ったらこれだ」
軍に入ってからは滅多に見せなくなった挙動と口調。だが、幼馴染であるイリスは知っている。ルイゼンがどれだけ本気で怒っているのか、よくわかる。
「ウルフ・ヤンソネンが持ち込んだ件には、お前は関わらせない。あいつには関わるな」
第三休憩室を出て行ったルイゼンに、その日はもう会うことはなかった。

約十年ぶりの大喧嘩に落ち込んでいると、ガードナーがお茶を淹れてくれた。ハーブティーだ、と思ったところに、辛辣な言葉が飛んでくる。
「レオ、今日は甘やかさなくていいよ。イリスが明らかに悪いんだから」
「しかし閣下、落ち着かなければ自分の非を冷静に受け止めることも難しいですよ」
「十分刺さってます。わたしが悪いのはよくわかってます……」
そうでなければこんなに落ち込んでいない。考えなしの行動も、ルイゼンを傷つけたかもしれない言動も、これでもかというくらい後悔している。しかもそれをすぐに謝ることはできない。
「勝てたことないとか絶対禁句じゃん……。わたしだって、お兄ちゃんやレヴィ兄に勝てたことなくて悔しい思いしてるのに……」
「そうだな。それはルイゼンが帰ってきたらすぐ謝れ」
自分に出されたお茶を飲みながら、レヴィアンスは手元の書類を捲っている。添付されている写真で、それが軍に所属する者の個人データだとわかった。将官と佐官。この組み合わせは、もしかして。
「レヴィ兄、それって人身売買の件を担当する人たちの?」
顔をあげて書類を凝視するイリスに、レヴィアンスは溜息交じりに「まあね」と返した。
「目敏いなあ。気になるのはわかるけど、ルイゼンの言う通り、これは尉官の手には負えないよ。危険薬物関連より手口が巧妙だし、人間を扱うからか、裏で動いてるやつも手強い。何度か現場を経験してる人員を選んでるけど、それでも解決を見たことがあるやつはあまりいない」
「そんなに難しいの? ていうか、解決したことあるの?」
「イリスには話したことないよね。最後に人身売買のルートを潰して売られそうになった人を助けられたのは、四年前。ルーファをリーダーに、オレとニアがそれぞれの部下を連れて動いた。この意味わかる?」
メンバーと時期で、イリスには事の重大さが分かってしまう。現場慣れした大将級が三人も動かなければならなかったほど、難しい事件だったのだ。そして以降、他のルートが確保され、人身売買は続いたのだろう。つまり、精鋭を揃えても根絶やしにできなかったということ。たしかに経験の少ない尉官には任せにくい案件ではある。
「レヴィ兄は、今回は動くの?」
「数少ない経験者だからね。ただ、事件にあたれる人員は増やしておかないとあとで困るから、情報の真偽を探らなくちゃいけない現段階での担当は准将以下」
「それってわたしは」
「含まないよ。だからルイゼンが言ったことが正しいんだって。お前は情報提供者に近すぎる。ウルフ・ヤンソネンが完全に味方であることが証明されなきゃ、イリスには噂も聞かせたくないっていうのが、オレの本音」
レヴィアンスまでウルフを疑っているというのか。彼のことを詳細に調べたのなら、過去に何があったかも知っているかもしれないのに。イリスが睨んでも、レヴィアンスは眉一つ動かさなかった。考えを曲げる気は毛頭ないらしい。
「イリスさん、少し落ち着きましょう。お茶は飲みましたか?」
「でもガードナーさん、ゼンもレヴィ兄もちょっと一方的過ぎじゃないですか」
「私は妥当だと思います。ただの一般人にしては、彼の持っている情報は多すぎました」
「レオ、喋りすぎ。ヒントはそこまでにしてやって。……そういうことだからさ、イリス。この件は諦めろ。ウルフとの接触も禁止」
関わるな。接触禁止。重ねられる言葉が胸に刺さって痛い。そんなにもウルフは疑われているのか。憤慨しながらカップに口をつける。こんなふうに、彼も温かい飲み物を用意して、イリスと話すために待っていてくれたのに。大切なことを託そうとしてくれたのに、それを受け取れないのが悔しい。
――ああ、違う。疑われてるのは、ウルフだけじゃない。
ルイゼンはイリスのことも疑っていた。ウルフに入れ込んで情報を流すのではないかと。おそらく、レヴィアンスも同じように考えているのだろう。だから「噂も聞かせたくない」のだ。そういうことを軽率にしてしまうと思われている。
実際、そうしてしまうところだった。だからこれは、イリスが責められても仕方がない。
――信用がないのは、わたしも同じだ。
暗殺未遂事件以降、もう少し頼ってもらえると、信じてもらえると思っていたのに。大総統補佐としても、なかなかうまく振る舞えていた気がしていたのに。全部勘違いだったのか。それともこちらが調子に乗りすぎていたのか。
「……お茶、ごちそうさま。ゼンもいないし、事務室に戻らなきゃ」
ふらりと立ち上がって、イリスは大総統執務室を出ていく。扉を閉じてしまえば、部屋での会話はもう聞こえない。
「閣下、イリスさんには本当のことを話した方が良かったのでは?」
まだお茶が半分以上も残っているカップを片付けながら、ガードナーが言う。
「言ったらなおさら自分で動こうとするよ。自分が少しでも関わったことは放っておけないし、人を信用しやすい。親と兄貴にそっくりなんだもん、あいつ」
「ですが、イリスさんが自分の身を守らなければならないという意味でも、多少の注意喚起は」
「雑魚相手なら何も知らなくても十分戦える。一番厄介なのはやっぱりウルフだ。イリスの眼が効かない相手だし、そこそこ強いし、何より前科があるからさ」
レヴィアンスが煙草を取り出して咥えると、ガードナーはすぐに火をつける。この人の考えていることは大抵わかるようになった。「前科」の意味も知っている。
「閣下は、どこまでもイリスさんが大切なんですね。ルイゼン君も。……伝わればいいのですが」
「ルイゼンはともかく、オレは別に誤解されてもかまわないよ」
本当に「かまわない」なら、煙草を吸うことはないはずだ。この人も大概嘘が下手だなと、ガードナーは苦笑した。

終業後の、ほとんどの人が寛いでいる時間。男子寮の部屋のドアがものすごい音をたてて蹴られた。何事かと、部屋の主だけでなく、周りの部屋の住人まで驚いて出てくる。が、大抵の者はそこにいた人物を見て、気まずそうに戻っていく。彼女が男嫌いなように、多くの男性にとっても彼女は天敵なのだ。
「メイベル、もっと静かに訪問できないのか」
呆れながらドアに疵がついていないか確かめるフィネーロの問いを、メイベルは無視して尋ねる。
「イリスは来ていないか」
「ここには来ていない。昨日からちょっと気まずいんだ、僕のところには来ないだろう」
散々鈍いだの気の毒だのと言ってしまった後だ。さらにはイリスの過去を掘り返して、勝手な推測から余計なことまで指摘してしまった。その傾向があるなとは以前から思っていたが、わざわざ伝える必要はなかったと、フィネーロは後悔していたところだった。
「なんだ、誰も彼もそんな調子だな。イリスの様子がおかしいのは誰の所為だ」
「君には何も話してないのか」
「今朝は話してくれなかった。昨日の夕方から出かけていたが、どこで何をしていたのかは聞いていない。そしてさっきも黙って出て行ったんだ。いつもならメモくらい残していくのに」
不満そうなメイベルだが、自分に原因があるとは微塵も思っていないようだ。この自信が羨ましい、とフィネーロは小さく溜息を吐く。自分はともかく、ルイゼンには少し分けてやってほしい。頼れるリーダーは案外繊細なのだ。
今日だって、任務に出る前にフィネーロのいる情報処理室に駆け込んできた。「イリスに怒鳴ってしまった」と言って。彼女のことだからすぐに忘れるだろう、と送り出したが、はたして仕事になっただろうか。そんなことを考えていると、ドアをまた叩かれた。
「聞いているのか、フィネーロ。イリスがいないんだぞ。どこに行ったか心当たりはないか」
「君にないなら僕にだってない。イリスの兄さんにはもう連絡をとったんだろう」
「もちろんだ。兄君が来ていないと言っていた。匿っている様子もなかった。閣下は仕事中だったが、知らないという。エイマルにも電話してみたが駄目だった」
「そうか。イリスにも独りになりたいことはあるだろう。すぐに戻ってくるさ」
独りで考えたいことの心当たりならある。もしかしたら、「鈍い」と言われた意味に気づいたかもしれない。だがメイベルはまだ納得しないようだった。
「……なあ、フィネーロ。もしやあいつの所為ではあるまいな」
「あいつ?」
「変態盗人のことだ。お前は会っていなかったか」
メイベルがそんな呼び方をするのは一人しかいない。中央司令部に来たという話も聞いている。イリスと一緒にいたらしいから、その可能性がないこともないだろう。
「バンリ・ウルフ……ではなく、本名はウルフ・ヤンソネンだったか。彼がイリスに何かしたと?」
「十分考えられる。奴はイリスをべたべたと触りまくっているからな。とうとう決定的に手を出されて誰にも言えないのでは」
「いや、イリスに限ってそれはないだろう。襲われれば急所を攻撃して動きを封じたうえで訴えるほうに賭ける」
「……なるほど」
メイベルは頷いてはいるが、イリスのゆくえはわからないままだ。このまま捜しに出ていくかと思いきや、頷きながら部屋に入ってきた。
「何のつもりだ」
「ここで待たせてもらう。最近買った本はないのか」
「構わないが、眠くなったらちゃんと自分の部屋に帰れよ」
ついでにウルフのことを少し聞いておこう。そういえばルイゼンは何も言っていなかった。ただ顔を顰めているだけで、一言も。

白い息が空気に流れる。冷たい空気は、吸い込むと喉も胸も痛くなる。温暖なはずのこの国の冬だが、今日は一層寒い。今はそのほうがいい。頭が少しはすっきりする。
夜の街を、頭に入っている地図を頼りに走る。手には一応、貰ったメモ。電話番号ととある警備会社の名前が書いてある。知っている名前だった。場所もすぐにわかった。まだ勤め先に彼がいるかどうかはわからないので、これは博打だ。
いたら少しだけ話す。いなければ金輪際会うことは諦めて、メモも捨てる。そう決めて飛び出してきた。
「……ここだ」
はあ、と大きく息を吐く。目の前が白くなって、すぐにひらけた。社屋にはまだ人がいるようだ。しかし来たはいいが、どうやって訪ねよう。
「そこまで考えてなかった……やっぱりポンコツだ、わたし」
そもそも接触禁止と言われたのに、どうして会おうとしているのだろう。疑われるのが嫌なら、今はおとなしくしていたほうが絶対にいいのに。けれどもそれが性分ではないこともわかっている。
レヴィアンスは何か罰を与えるだろうか。ルイゼンに知られたら、もう二度と口をきいてくれないかもしれない。
「イリス?」
不意に名前を呼んだ柔らかい声に振り返ると、会ってはいけないその人がいた。
「ウルフ……。え、なんで後ろに? 仕事は?」
「これからだよ、今日は夜勤だから」
笑顔に偽りがあるとは思えない。つらい思いをしている人を助けたいという気持ちは本物だと信じたい。
だから会いに来たのか、と今更腑に落ちた。誰が何と言おうと、イリスだけは信じていたかったのだ。
「僕に会いに来てくれたの?」
問われて、心臓が大きく跳ねた。脈拍が早くなった気がする。
「あ、会いに来たっていうか……会社が気になったの。ほら、ここってディアおじさん……ええと、『赤い杯』の警備をしてた人が、勤めてたところだから」
「うん、そうだよ。僕みたいな訳ありでも雇ってくれる親切な会社だ。それに君の言う通り、『赤い杯』の事件で亡くなった人のいたところだから、縁が欲しかったんだ」
メモを見てすぐに気づいた。そうしてイリスも、これは贖罪のつもりだろうかと思ったのだ。ウルフの身内であるバンリ・ヤンソネンが軍を辞めて姿を消していたことと、過去にあった博物館襲撃事件は繋がっている。
「バンリさんは、ここで働くことについて何か言ってる?」
「ウルフがしたいようにすればいいって。悪いことじゃなければ、だけれど」
「当たり前じゃん。次そんなことしたら、またわたしが捕まえてあげるよ」
「それはそれで理想的だな」
穏やかな笑み。その奥が読めない、不思議な表情。でも今は、少しでもいいからわかりたかった。
「……笑ってないで否定してよ」
疑われるようなことはしないと、そんな要素は持っていないと、証明してほしかった。
「もう無茶はしないって。今回のことだって純粋な情報提供だったんだって。また捕まるなんて全然理想的じゃないって、ちゃんと否定して」
イリスの言葉に、ウルフは首を傾げる。それから、笑みを保ったまま尋ねた。
「もしかして、僕、疑われてる?」
「わたしは信じてる」
「じゃあ他の人が信じてくれてないのか。リーゼッタ君、僕が話すあいだもずっと機嫌悪そうだったし。閣下もそう簡単には前科者のことを信用できないよね。それは当然だ」
「でも、わたしはそんなの理不尽だと思う。色々考えたけど、やっぱりウルフは、もう悪いことはしないって信じる。バンリさんと一緒にいて、ここで働いて、そんなことできるわけない」
もう関わるなと言われても、捜査の進捗は教えられなくても、それだけは伝えたい。伝わってほしい。ちゃんと軍にも味方はいるのだということを、知っていてほしい。
真っ直ぐに目を見ても、ウルフはイリスを恐れたりしない。気味悪がって遠ざけたりしない。それどころか近づいてきて、手を伸ばし、抱き寄せる。
急に心臓が鼓動を速めた。心音もうるさい。でもウルフにはまるで聞こえていないようなので、きっと気のせいだ。
「だから、子供じゃないんだから、こういうことは……」
「ごめんね。どうやって嬉しいのを表現したらいいのか、他の方法が思いつかなかった。バンリは昔からこうしてくれたから、きっと僕にもうつったんだ」
「……そういうことなら仕方ないな。わたしもお兄ちゃんとかに抱きついたりするし」
「なんだ、君だって同じじゃないか」
そうだ、これは親愛を表す行動で、それ以外の意味なんてない。だったらどうして兄らと違って緊張するのか、その説明がつかないけれど。
「イリス、君は僕の味方なんだね」
「そ、そう、わたしはウルフを信じるし、味方になりたい。でも、やっぱり情報はあげられない。あんたの持ってきた話はわたしが担当するには難しすぎて、ゼンは上に任せる判断をした。わたしにもこれからのことはわからないし、わかっても教えられない。それがわたしの……わたしたちの仕事だから」
「だろうね。一応僕も軍人だったことはあるから、事情は呑みこめる。でも、僕の希望は君だったから、できるならと思ったんだ。担当する上の人は、信用できる人?」
「レヴィ兄が真剣に選んでたから、ちゃんとした人たちだよ。だから安心して、解決するのを待ってて」
「それならいい。僕はイリスを信じてるから、イリスが信じる人ならいい」
ホッとした。これでもまだイリスから情報を引き出そうとしたなら、疑わなければならなくなっていた。軍に裏切られた人が、軍を信用してくれるようになった。それはイリスたちのしたことが無駄ではなかったということでもある。
もうウルフを追わなくてもいい。そして、会わなくてもよくなってしまった。こちらに完全に任せてくれるのなら、もう会って言葉を交わす必要はない。イリスの仕事は本当におしまいだ。
――ホッとしたのに、それはちょっと、寂しいなあ。
気持ちが頭をよぎるあいだに、ウルフはイリスから離れる。体温が一気に奪われて、体が震えた。
「あんた、温かいんだね。急に寒くなった」
「そう? 体温は低めな方だよ。風邪ひくと困るから、帰ってちゃんと温まってね」
「風邪とかめったにひかないから平気。レヴィ兄が、なんとかは風邪ひかないっていうもんな、ってからかってくるくらい。自分だって風邪ひかないくせに」
ウルフが声をあげて笑う。イリスもつられて笑った。いや、本当に笑えてきたのだ。これも否定しなさいよ、と軽くウルフの胸を叩くと、ごめん、という言葉が耳に、何かが手に返ってきた。
紙、いや、チラシだ。魚が泳いでいる写真に、大きく「海の生物がいっぱい!」と書かれている。
「水族館?」
「最近仕事で通ってるんだ。イベントもやってるみたいだから、一緒に行かない?」
「いいね、行きたい!」
即答してしまってから、我に返る。もう会ってはいけないのに、こんな約束なんかできない。いや、でも、あれは仕事の話で、プライベートまでは縛られたくはなくて……。
悩んでいるあいだに、ウルフは「そろそろ行かないと」と社屋を見上げる。そういえば、彼はこれから仕事だった。
「休みの日がわかったら連絡がほしい。待ってるから」
「え、ちょっと、……わたし」
もう会えない、と言えなかった。言いたくなかった。こちらから連絡をするのは難しいだろう。部屋の電話を使うにはメイベルの目を潜り抜けなければならない。でもウルフは、イリスからの連絡を待ち続けるのだろう。それならもう一度くらいは頑張らなければ。
チラシを丁寧に畳んで、ポケットに連絡先のメモと一緒にしまいこんだ。元来た道を戻る途中、何度かくしゃみが出た。


よく晴れた空を、飛行機が白線を引きながら走る。消えかけた線を辿っていくと、そこには空港がある。
レジーナから少し離れたそこには、大陸のそこかしこからやってきた人が集まっている。その一角で騒ぎがあったという報せを受け、レヴィアンスは仕方なく向かうことにした。
イリスがいれば頼んでしまうのだが、今日はいない。風邪で寝込んでいるそうです、と電話を受けたガードナーが驚いていた。あの健康優良児が、珍しいこともあるものだ。
「でもどうするかな。執務室空けるわけにいかないから、レオには残ってほしい。あと面識があるやつといったら……ルイゼンはまだ任務に行ってるし……」
「イリスさんの代理ができるのは彼女でしょう、閣下」
「……レオ、本気で言ってる?」
などというやり取りの末、レヴィアンスの運転する軍用車両の助手席には、メイベルが乗ることとなった。腕組みをしながら、何度か舌打ちをしている。
「イリスの代理なら仕方がない。仕事の内容もまあわかった。だが閣下の隣というのは最高に気に食わないですね」
「悪かったって。でも、人見知り激しいメイベルが、あの人には結構すぐうちとけてたじゃん」
「イリスに手を出す心配がないので」
「妻子持ちだからね」
空港であった騒ぎというのは、危険薬物を密輸しようとしていた者を、こちらに着いたばかりの者が見つけて取り押さえたというものだった。せっかく休暇で帰ってきても、彼は毎度この調子で、その結果プライベートなのでしなくてもいいはずの三派会を開かせることになる。休みなんだから休めばいいのに、仕事をしてしまうので要人扱いになってしまうのだ。
はたして空港には、拘束された密輸犯と、北の大国ノーザリアからやってきたその人物が待っていた。片や顔を真っ青にし、片やこれ以上ないくらいに晴れやかな表情をしている。
「久しぶり、レヴィ。……と、メイベル? イリスはどうしたんだ」
「車の中で説明するよ。とりあえず密輸犯は担当者に引き渡して、ダイさんはこっちに」
「え、こいつ最後まで責め抜きたい」
「やめてあげて。ダイさんだってせっかくの休暇無駄にしたくないでしょ。エイマルちゃん待ってるんだから、早く」
イリスが熱を出している間に、ノーザリア王国軍大将ダイ・ヴィオラセントの、少し遅くて少し長い冬休みが始まろうとしていた。



続きを読む
posted by キルハ制作委員会 at 17:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 小ネタ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする