2018年11月30日

別れまでは全速力で

足は頭の中に浮かぶ図面に連動し、速く器用に動いた。これまで狭い範囲でしか動かすことがなかったから、制限がなくなると思っていたよりもずっと速く走れるのだということに、感心を覚えるほどの余裕があった。脳の容量までもが大きくなったようだった。
けれども、どこまでいけばいいのかわからない。今まで厳しく定められていた制限がなくなってしまい、ゴールが示されず、ただあてもなく走るだけ。疲れれば立ち止まることができるのかもしれないけれど、生憎とこの体にとって疲れというものは遠くにあった。
他のどの子よりも運動ができて、体力があって、勉強ができたぼくを、あの人はいつも喜んでくれた。ぼくはそれが嬉しくて、もっと動けるように、もっと疲れないように、もっと頭を使えるようにと毎日訓練に励んでいたから、その効果が今発揮されているのだろう。
だけどもう、そんなぼくを見てくれる人はいない。誰も喜ばない。それどころか、あの人の言う通りなら、ぼくはぼくを捜す人たちに見つかった途端に殺されてしまうはずだった。
これまで、たくさんの子たちが殺されてきた。彼らは「不適合」の「失敗作」だから仕方がなかった。そのまま放っておいても苦しい思いをするだけだから、温情として死を与えられたのだ。あの人はぼくに、いつかそう説明してくれた。だから怖がることは、気にすることすらないんだよ、と。
――君は味わわなくていい怖れだ。だって君は「傑作」だから。
その状況が変わってしまった詳しい理由を、ぼくは知らない。でもきっとそれだって仕方がないことだったのだ。「傑作」であっても殺すというふうに方針が変わったのなら、本来、ぼくはそれに従うべきだった。あの人も。
なのにどうして、あの人はぼくを外に出したのだろう。あんなに褒め讃え感謝を捧げていたものに背を向けて、ぼくに「逃げろ」と言ったのだろう。
――逃げて、生き延びてくれ。君は……。
耳元にあっても聞き取るのが難しい、掠れた声。散々叫んだ後のように潰れてしまった喉から絞り出したのは、ぼくが初めて聞く指示だった。
曖昧で、もちろんヒントなんかなくて、そのための知識だってこれから拾っていくしかなくて。達成できなかったときの行く末だけははっきりしているけれど、何が落とし穴になっているのかはわからない。あの人にしては無茶苦茶なミッションで、もしかしたら挑むのも無駄かもしれない。諦めたほうがずっと楽で、あるいはそれがあの人に再会するための近道なのかもしれなかった。
そこまで考えても、足は止まってくれない。頭の一番よく働く部分が、脱落しないためのルートを必死に探っている。

君は「モノ」じゃない。自由になって、普通の、幸せな人生を送るんだ。

あの人の言葉を頭の中で繰り返した、その何度目か。ぼくの足は何かに引っかかって、体が宙に放り出された。
上も下も真っ暗だ。これは失敗なのだろうか。


「私たちは君たちの本当の力を知っている」
笑みを顔面に貼り付けた白衣の男が、この「サークル」のリーダーらしい。よく通る声で、この場にいる数十人に力強く語りかけていた。
「君たちの力は、凡人にはわからない。わからない者たちは自分たちの考えつかないことを『馬鹿』というカテゴリに入れてしまう。そのほうが楽だからか? それもあるだろうが、大半はそれ以上を考えられないためというのが正しい。
彼らは可哀想な人たちなのだから、いつまでも恨んでいたって仕方がない。それよりも脳の容量を、もっと有効に使おう。君たちにしかできないことをしよう。凡人たちが何も知らずに何もせずに日々を浪費しているうちに、私たちと君たちとで世界を変えていくんだ。
最初は自分の意識一つ。とても簡単で小さいかもしれない。しかしそれを結集させることで、未来への舵を大きく切ることができる。終わっていく世界を素晴らしいものに導くことが、君たちには可能だ。
共に未来への道を切り拓いていこうではないか。君たちは理想を現実のものとするために選ばれた、精鋭たちなのだ!」
緩急の心地よい口調に聴き入っている者もいれば、まだ少し疑わし気な目をしている者もいる。異論を唱えるものはいなかった。おかしいと思い立ち去るような人間なら、そもそもここには来ていない。
何より、認められ求められているということへの高揚感が、それがここにいる数十名の総意なのだという無意識かの思い込みが、足を留めさせていた。――秩序を乱して「負け犬」と呼ばれるのは、もうごめんだ。居場所がなくなってしまえば、今度こそどこにも行けなくなる。
特別な存在だと、精鋭だと、認めてくれたここでならば生きていける。ここにしか、生きていく道はない。そんなふうに思った人間が、一人ではないということも心強さになっていた。
リーダーの挨拶の後、全員に名札と名刺が手渡された。少し遅れてざわめきが起こる。一人が名札を配っていた人間を呼び止め、尋ねた。
「失礼ですが、誰かのものと間違ってはいませんか? 名前が違うのですが」
刻まれた名前は自分のものとは異なっていて、しかも全員がそうだった。近くの誰かすら該当しない。けれども名札と名刺には同じ文字が並んでいる。
「今までの名前は、ここでは捨ててしまっていいんだよ」
名札を配っていた人物は、にっこりして言った。
「新しい名前で、これまでとは違う人生を送るんだ。君たちは生まれ変われるんだよ。……だって、今までの名前に良い思い出がそんなにたくさんあるかい?」
頭をよぎるのは、名前を呼ばれて罵倒されたことや、嘲笑された日々の記憶。どんなに頑張っても才能を認めてもらえず、それどころか馬鹿にされてきた屈辱を、ここでは名前とともに捨てることができる。そう考えると、新しい名前の刻まれた名札と名刺はとても輝かしく見えた。
「今までの名前を世間に知らしめたい人もいるかもしれないね。そうしたいのなら止めないけれど、ここではどうか新しい名前を使ってほしい。そのほうが都合が良いってことが、そのうちわかる。有名になるのは望む未来を手に入れてからでも遅くはないよ」
その言葉で、戸惑いの声は消えた。それから先は、新しい身分に期待する人々ばかりだった。

ジニ――これももちろん本名ではない。青年がここに来たときに貰った、新しい名前だ。優秀な成績で高校を卒業して有名大学に進学したものの、そこから伸び悩んだ。今まで正しかったはずの考えは周囲には届かず、教授にすら遠巻きにされた。友人と呼べる人間はおらず、一人で行動すればさらに異端だとみなされた。やるべきことはやっているはずなのに、自分のことは自分でしっかり片付けているつもりなのに、芳しい評価は得られない。
一人で過ごすことが当たり前だった彼に声をかけたのは、とあるサークルの一員だという学生だった。
私たちのサークルは在籍しているだけで就職に有利になります。ただしテストに合格しなければ入会できません。
怪しいとは思ったが、テストに合格した者だけが入会を認められるというシステムには挑んでみたくなった。というより、ここで断って自信がないとみなされるのが嫌だった。
筆記試験と口頭試問はたしかに高度なもので、しかしジニには解けない問題ではなかった。それまで一人でコツコツと蓄積してきた知識はいかんなく発揮され、見事に試験に合格し、他の数十人とともにサークルに入会した。正直、同じように試験をパスした人間が多すぎるような気はしたが、彼らと言葉を交わすうちに納得した。
それぞれ境遇はあれど、誰もがジニにどことなく似ていた。他人に能力を認められない鬱憤を抱えていて、ここでやっと報われるかもしれないという希望を持っていた。
「君たちと取り組むのは実験だ」
ジニと数人が呼ばれ、サークルでの役割が告げられた。ある会社から薬の実験を委託されているので、それに関わるようにとのことだ。初めのうちは手伝いがメインになるが、徐々に仕事を引き渡していく。これは君たちのような優秀で責任感のある人間にしかできないことだ。そこまで言われて引き下がるような人間は、ここにはいなかった。
「……すみません、一つよろしいですか。薬の実験とは、治験ということでしょうか。私たちに投与してデータをとるとか……」
「いや、君たちにはデータをとる側をやってもらう。被検体はもう用意してあるんだ」
ここまで導いてくれた彼が、振り返ってにっこりした。足を止めた彼の向こうには、頑丈そうな扉。壁に備え付けられた認証機器はパスワードとカード、さらに指紋を読ませなければならないようで、この先にあるものが厳重に管理されていることをうかがわせる。唾を飲みこんだのはジニだけではなかった。
入り方だけではなく、入ってからも手順が多い。消毒をし、清潔な作業着を身に付け、機械を通って全身のチェックをする。汚れを検知したり、許可されていないものを所持していると、そこから先へは進めない先へは進めない。全てをクリアしてやっと辿り着いたのは事務室のようなところで、そこからさらにどこかへ続く扉が見える。天井にはカメラと思しきものがいくつかあるが、実際に仕掛けられているのはそれ以上かもしれない。ジニが感じる視線は、ここにいる人数分にカメラの個数を足しても足りない。
「毎日、ここで日誌を書いてもらうことになる。どんなことでもいい、気付いたことは全て記録して。仕事場はあのドアの先だよ」
おそらくはそこが最奥。通された先にはガラス張りの個室が並び、初めて来る場所なのに既視感があった。ガラスを隔てて見えたものと、記憶が重なる。――ペットショップに並ぶ生体と。
「人類の役に立つ、意義のある仕事だ。誇りを持ってあたってほしい」
ジニたちに与えられた仕事は、薬物実験の被検体を扱うこと。揃いの個室で揃いの服を着た少年少女たちの世話をしながら、彼らの記録をとることだった。


85番。注射をされて部屋を与えられてから、それがぼくの呼称だった。
もっともそれ以前に別の呼び名があったわけではない。薄暗くて、いつでも大人たちが争う声があった場所で、ぼくに名前を付ける人なんかいなかった。お前、こいつ、あれ、それ――産まれたときのことは知らないけれど、ずっとそう言われることが当たり前だった。
あるとき、大人がぼくらを集めて、綺麗な服を着た人たちに渡した。大人たちはときどきそうして、まとまったお金を得ていた。お金があっというまに食べ物とお酒、それから変な臭いのする煙や液体や錠剤にかわることも、あの場所では常識だった。
名前のないぼくらはこの国の人間であると認められてもいない。そもそも存在を知られていない。モノとして扱われるのも当然だった。抗う権利などない、そんなものがあるとも思わない、暗い世界の子供たちがぼくたちだ。
それでも買われてからの生活は、それまでに比べればずっと快適だった。毎日の注射さえ受け入れていれば、温かい食事にありつけたし、石の地面より格段に柔らかい寝床で休むことができる。決まった時間に運動をし、あの場所では接する機会もなかった読み書きなどの教育も受けられる。いつも簡素だけれど清潔な服を着て、病気になれば医者に診てもらえる。他の子供たちも早くこっちへ来られたらいいのにと思っていた。
けれども、次第に気づく。用意された部屋の数には限りがあって、誰かがいなくならないと次の子供はやってこない。部屋はいつも埋まっているように見えて、実は頻繁に人が入れ替えられていた。ぼくと一緒に来た子供たちは、一年も経てば誰も見なくなっていた。気づくのが遅かったのは、日々の活動がいつも個人でのもので、他の子たちとの交流がなかったからだ。
部屋から出て、廊下から辺りを見回したときにだけ、現在の顔ぶれがわかる。部屋の中にいても外は見えないのに、外側からは室内の様子が見えるのだった。
いつしかぼくは一番の古株となっていて、それなのにここで何が起こっているのかは何もわからなかった。世話をしてくれた大人は、何も話してくれなかった。
だからあの人に――ジニに会ったときは驚いた。今までに会ったことのある大人の誰よりお喋りだったのだ。
「今日から君の担当になったジニです。よろしく」
いや、大人というには、笑顔が幼かったかもしれない。
ジニは僕の生活のほとんど全てに関わるようになった。勉強を教えてくれ、運動を見てくれ、ぼくが前回よりも良い結果を出すと大袈裟に褒めてくれた。
「君は本当に優秀だね」
頭を撫でてくれる大人を、ぼくはジニ以外に知らない。ジニがぼくに嬉しそうな笑顔を向けてくれるから、なんでも頑張ってできるようになろうと思った。
「君がこんなに優秀だと、僕も自信が持てるよ」
ジニはときどき、自分のことを話してくれた。一生懸命勉強をして、誰よりも頭が良くなろうとしたけれど、なかなか一番にはなれなかったとか。そんなジニを認めてくれる人はいなくて、いつも独りぼっちだったとか。
「友達とか、できたことなかったな。こっちが友達だと思っても、そう経たないうちにあっちには僕よりもずっと大事な友達ができて、だんだん付き合わなくなった。誰にとっても僕はどうでもいい存在だった。だからね、こんなことを話すのも、君が初めてだ」
本当は無駄話はだめなんだけどね、と言いながら、今まで誰にも話すことができなかったことを教えてくれた。ジニが話すのは、全部ぼくの知らない、想像のできない世界。ジニもそれがわかっていたから、ぼくに聞かせてくれたのかもしれない。
ぼくはそうやって、外の世界のことを知った。魅力的な世界ではなかったし、出ていきたいとは思わなかったけれど、ある程度の知識は得ることができた。
そうしてジニと過ごした日々は、悪くなかった。毎日、ジニがぼくの相手を終えて部屋を出ていくときには、残念な気持ちがあった。ジニが部屋にいるときは胸のあたりが温かかったけれど、時間が経つのがとても早かった。
ぼくはきっと、ジニのことが好きだった。知らないはずの家族、いないはずの兄、そんなものを連想させる人だった。ジニも少なからず、ぼくのことを想っていてくれているのではないかと期待していた。


入れ込み過ぎるなよ、と言われるのがジニの常だった。あくまで自分たちが扱っているのは被検体であり、何かあれば即刻処分することになるのだと。あまりに言われるものだから、ジニも自分でわかっているつもりだった。
どんなに優秀でも、85番は「人間ではない」。そのように扱うのは間違いである。――だが、頭ではわかっているつもりでも、冷酷にはなれなかった。ジニにとって、85番は貴重な存在だった。
つまらない人生の話や愚痴を聞いてくれるのは、85番以外にいない。こちらの教えることを忠実に再現し、想定以上の結果を出してくれる85番は、ジニの萎縮していた自尊心を膨らませて支えていた。
また85番の成功はジニの成功であり、数字が伸び続ける限りジニは認められる。ここで役割をこなし、85番の成長を促し見守ることこそが、自分がこの世に存在する意義だったとすら思えていた。
入れ込み過ぎて、この立場を失うわけにはいかない。けれども自分をここにいさせてくれる85番を実験動物として見ることもできない。立ち位置が中途半端になり揺らいでいくことに、ジニは気づかなかった。
――いや、気付かないふりをしたのだ。自分が「ジニ」でいるために。
「ジニ、問題が解けたよ。今日のはとても簡単だった」
よく見なければわからないくらいに薄い微笑みを浮かべて、85番はプリントを差し出す。レベルの高い数学の問題が印刷されているそれには、びっしりと手書きの文字が並んでいた。
「簡単って……昨日より難しいはずだけど、本当に?」
「そうなの? でも、昨日の問題とよく似てた。一昨日の問題とあわせて考えたら、やり方がわかったよ」
たしかに今日の問題は、ここ数日の問題を下敷きにした応用だった。だがそこにもう一歩視点を加えなければ正しい答えには辿り着けない。実際、ジニは自分で解いているときに一度間違えた。しかし85番の導き出した解答は、そこに至るまでの過程も含めて正確だった。今日もまた、この子は着実に進歩している。気づかれないように息を呑み、ジニは笑顔を作った。
「すごいじゃないか。午前の体力測定と運動能力テストも、昨日より良かった。君は優秀だね」
その言葉に応えるように、85番は俯きながら体をよじった。
「ジニが、褒めてくれるから。頑張れば頑張っただけ、ジニにも良いことがあるんだよね?」
そうだよ、と頭を撫でてやる。かつて子供だったジニが――その頃はもちろん「ジニ」ではなかったが――そうして欲しかったように。それを望んでいたのだということには、つい最近気づいたのだけれど。
自分も褒められたら伸びただろうか。でも褒められるためには、最初から他より抜きんでていて、かつ明るく元気で素直な子供でなくてはならなかった。それは幼少期でも現在でも、変わらず難易度が高い。それを求められず、数字を更新してさえいれば「よくやっている」と認めてもらえるここでの生活が、「ジニ」として生きることだけが、コンプレックスから逃れられる唯一の道だった。褒められたら伸びる子供だった自分など、どこにもいやしない。
こちらの求めるものを返してくれ、しかも懐いてくれている85番は、ジニの欲求を満たしてくれるものであり、素直に可愛かった。可愛がっていたから、「入れ込み過ぎるな」と釘を刺される。所詮彼らは名無しの被検体、結果が出せなくなれば処分される存在なのだ。
85番の世話と観察を終えて部屋を出ると、別の部屋から被検体が引きずり出されているところだった。肌は青白く、髪は真っ白になっている。85番も髪は白いが、肌はもう少し血色が良い。ヒューヒューと今にも絶えてしまいそうな呼吸音をさせて、被検体は事務室とは逆方向、処分場へと運ばれていく。
使えなくなった被検体の処分は、上の人たちがする。つまりはジニたちの雇い主だ。被検体がどのように処分されるのか尋ねたところ、苦笑しながら答えがあった。
「もう生きていられないからね。苦しまないようにしてあげるしかない。それが僕らにできる精一杯」
長く苦しむのは可哀想だ、と言う彼に、ジニも一緒にいたメンバーもしみじみと頷いたものだ。――生かしておく方が可哀想だから、被検体には入れ込み過ぎてはならない。いざというときに処分を躊躇ってしまうようなことになってはいけないから。
頭ではわかっている。けれどもどこかで、ジニは「85番は違う」と思っていた。処分される他の被検体は残念ながら85番のようになれなかったモノで、仕方がない。85番のようであれば、可哀想なことにならずに済んだのに。そんなふうに、いつも他人事だった。
「85番は成果をあげているね。上も喜んでいるよ、君たちがいてくれて良かったって」
記録を見たリーダーが言う。雇い主たちだって、85番を必要としているのだ。まず処分されることはないだろうと考えていた。85番がずっと優秀であれば、その担当のジニもずっと優秀であるとみなされて、いつまでも満たされ続ける。誰にとっても良いことであるはずだった。
――しかし実際のところ、この采配にも裏があった。85番が実験の成功例であることは、ジニがここに来るより前にわかっていたことで、新しく担当をつける必要はない。それなのにわざわざジニを選んであてがったのは、ジニを洗脳しきるためだ。集められた人員は誰もが自分に過剰な自信を持っていたが、ジニはそこまでではなく、寧ろ自己評価は低いほうだった。だからまずは彼に「自分は優秀である」「その能力を発揮させてくれる環境をサークルが作ってくれた」と強く意識させる必要があった。
85番の経過ももちろん重要ではあったが、ジニを育てることこそが密かな目的だったということを、このときのジニは当然知らない。
顔も見たことのない、その存在を気にかけたことすらほとんどない誰かの意のまま、ジニは被検体85番との日々を穏やかに過ごし、一方で処分されていく他の被検体を自分には関わりのない別世界のもののように見ていた。

サークル内の空気に変化が出始めたのは、ジニがここに来てから一年ほど経った頃だった。雇い主と連絡が取れないことが多くなった、というリーダーのぼやきを聞いた――という出所不明の噂が流れ始め、そういえば最近被検体の仕入れが少ない、という気づきと結び付けられるようになった。
動物は無限にいるわけではないし、被検体として扱えるようなものはそもそもごくわずかだ。それでもなお部屋の空きはなかった、その状態が異常だったのだ。だがすでに「正常」の定義を歪められているサークルの面々は、現状を訝しみ始める。雇い主に何かがあって、まもなく自分たちにもその影響が出るのではないか。それが自身の経歴を傷つけるようなものならば、回避する策をリーダーたちに講じてもらわなければ。
しかし「策」とやらは一向に提示されない。そもそも何か問題があったなどと告げられることもない。ジニたちはこれまで通り、被検体を観察して記録をとり続けた。担当する被検体がなく、手が空いている者は、事務室で「研究」の真似事を始めた。そして何か思いついては、被検体担当者に口を出すようになった。まるで自分がリーダーになったかのように。ただし、彼らが責任を負うことはなかった。
ジニは担当する85番に責めるべき非が見られなかったため、彼自身の立場についてしきりに羨ましがられるようになった。いや、それはもう妬みの域に達していた。
記録簿には遠まわしながらも辛辣なコメントが寄せられたが、それは85番の状態についてではなく、ジニの挙動に対するものだった。些細なことだ。事務室に入ってくる前のクリーニングが雑だとか、態度が偉そうだとか――そんな事実はなかったとしても。
「偉そう、ていうのはあったかもしれない」
85番がペーパーテストを解いているのを見ながら、ジニは小さな声で独り言ちる。85番がこちらに気をとられることなくテストに向かうことを知っているからできることだった。成績が落ちれば、それが周囲から見咎められて攻撃されることは間違いない。人生経験からよくわかっている。
「優秀な被検体をあてがわれて、調子に乗ってたところはあるんだ。優秀なのは僕自身じゃないのに、君が成長して褒められることが、まるで僕のことを褒められているような気がしてた。それが表に出てたなら、自分の被検体が処分されていった人たちが苛立つのは当然だろうね」
処分、という言葉を使って他の被検体の末路を口にしても、85番は特に反応を示さなかった。何も聞いていないように、平然と自分のやるべきことをこなし、さらに成果をあげてくる。毎日の薬の投与も嫌がらず、注射器を持ったジニに自分から近寄って腕を差し出す。従順で優秀な、これ以上ない被検体。85番が処分されることはまずないだろう。
処分されるとすれば、入れ替えられるとすれば、それはみんなから嫌われる自分自身だ。最近、ジニはそう思うようになっていた。
「生き延びなよ、君は」
ジニは85番から全ての解答欄が美しく埋まったテスト用紙を受け取り、交換するように言った。
「生き延びられるだけの力を、君は持ってる。僕とは、違う」
真っ白で小さい頭を撫でてやると、85番はわずかに目を細めた。

久方ぶりにサークルの人間が集められた日、ジニは目や耳から入る情報を整理しきるのに精いっぱいだった。
まず、全員揃ったな、とリーダーが話し始めたとき。その場にいた人数は、明らかにジニがここへやってきた日よりも少なかった。そして見たことのない顔がいくつもあり、入れ替えられていたのはどうやら被検体ばかりではないらしいということを知った。減っているということは、つまり、最初にいた誰かしらはここから追放された可能性がある。――あるいは、とは考えなかった。考えたくなかったのかもしれない。
次の情報には、その場にいた全員が騒めいた。
「我々の活動は、近日中に終了する。本日からは撤退の準備を主とする」
噂は本当だったのか、それとも別の理由があるのか。詳細は語られなかったが、たしかなのは、もうジニたちの役目は終わりだということだった。あんなに盛り上がって始まった活動は、あっけない最後を迎えようとしていた。
記録や被検体は、雇い主たちに引き取られるのだろうか。膨大な情報を、これからどうするのだろう。誰かが「自分たちはどうなるのですか」と叫ぶまで、ジニの頭を占めていたのはそのことだった。もっといえば、「85番はどうなるのか」。自分の去就は、そういえば、と思う程度だった。
「君たち、いや、我々は全ての作業が終わり次第解散する。撤収作業はくれぐれも漏れのないように」
このサークルはなくなる。解散するとはそういうことだ。その後のことは、リーダーも示してはくれなかった。導を失って動揺する者が多いのは、それだけこの場所が拠り所になってしまったから……というだけではない。全てを捧げたつもりだったものが突然消え、費やした時間が無になる。自分が壊したわけではなく、知らない誰かによって突然奪われる。その理不尽さに憤っても、それをぶつける相手がいない。そんな人間は、一度たりとも姿を見せたことがない。
混乱は、しかし、すぐに鎮圧された。新たな情報が、またも噂としてもたらされたのだ。
――このサークルは、ある組織の傘下にあったもので、当該の組織はこの国の軍に敵対するとみなされるものであった。
――従って捜査対象となり、組織の人間の一部はすでに身柄を拘束されている。
――これまでサークルが活動として行ってきた「世界を変える」研究は、その価値がわからない愚かな軍によって取り締まられ、「罪」として扱われる。
「つまり我々は、国に背いた罪人というわけだ」
苦々しい、口元だけを歪めた笑みを浮かべ、ジニたちのリーダーは記録簿をダンボール箱の中に次々と放り込んだ。それなりにうまくいったものも、そうでないものも、扱いは同じだった。最も優秀だったはずの85番の記録簿に手がかかったとき、ジニは思わず駆け寄った。
「あの、それも必要ないんですか」
「必要ないどころか、真っ先に処分しなければならない。かといって他と分けても怪しまれる」
ジニが丁寧に書きつけた記録簿も、乱暴に箱に投げ入れられる。拾い上げたくなるが、それよりも。
「真っ先にって、どうして」
「投薬実験の成功例があるというのも、都合が悪いんだそうだ。いっそ全部失敗していたほうが、軍も深入りしてこない。……そういうわけだから」
リーダーの目からは何の感情も読み取れない。それはそうだ、本来なら情などいらないことなのだから。
間違ってしまったのは、ジニのほうだ。
「85番、処分して。それが君の最後の仕事」
渡された注射器には、これまでとは違う薬が入っている。同じ無色透明の液体なのに、ジニにはすぐにわかった。


薬の時間になったのに、手には注射器を持っているのに、ジニはぼくの腕に針を刺さなかった。ぼくが差し出した腕を見て、首を横に振った。
ぼくがここに来て、初めて注射のない日だった。
「ジニ?」
時間に正確だった彼が、一分も二分も俯いたまま無駄にしていくのを、ぼくは首を傾げて眺めた。具合が悪いのだろうか。だったら、注射は自分でしたほうがいいのだろうか。注射器を受け取ろうとすると、ジニはぼくの手を振り払うようにして、そのまま注射器を床に叩き付けた。少量の液体が、細かい破片と一緒に飛び散る。毎日注射しなくてはならない薬は貴重なものだと、そう言っていたのに、どうして。
問おうとしてジニを見上げる。そして、動けなくなってしまった。声も出ない。
大粒の涙をこぼす大人に、どう接したらいいのか、ぼくにはわからなかったのだ。
目を逸らすこともできないでいると、ジニはやっと口を開いた。
「……最高の成功例である君は、今やたくさんの情報でできている。筋肉も、脳も、少し調べればたちまちに研究のことが知られてしまう。それは非常にまずいことなんだ。特に軍に知られれば、君に注ぎ込まれたあらゆる知識や実践が、彼らにとられてしまう。正義の名のもとに隠され、いつかは彼らのいいように使われる。それはだめなんだ。わかっているんだ」
ぼくに話しているわけではない。自分自身に言い聞かせるように、ジニは呟く。ときどき引き攣ったような声が混じって、唇の形が歪んだ。
「わかっていても」
けれども、その言葉ははっきりと、ぼくの耳に届いた。
「君を殺せるわけ、ないじゃないか……!」
ぼくの脳は、ときどき自分でも信じられないくらいによく働く。本当は、ジニが今日何をしにここに来たのかも、彼の様子から察していた。見ないふりをしただけだ。信じたくないと思ったんだ。
ジニはぼくを、注射器の薬で殺そうとしていた。殺さなければならなかった。誰よりも長く生き延びたぼくには、これまで投与されてきた薬の影響が強く出ている。身体能力も、脳の働きも、薬によって増強されたもの。ただこの薬はぼく以外の適合者がとうとう現れず、受け入れられない者はみんな入れ替えられて行った。効果を証明できるサンプルは、今に至ってもぼくだけだったと思われる。
そのぼくを殺さなければならないのは、薬の研究をしていたという事実そのものを葬り去る必要が出てきてしまったということなのかもしれない。
ぼんやりと考えたそれの答え合わせをするように、ジニは泣きながら言葉を紡ぎ続けた。掠れて聞き取りにくい声は、ぼくがいつもと同じように正解に辿り着いてしまったことを教えてくれる。君はわかっていただろうね、と言われたので、頷いた。
「なら、話が早いな」
「うん。ぼくが死ねばいい」
それが正答。ぴたりと当てたら、ジニは笑ってくれるはずだ。いつもなら。
「……違うなあ」
けれどもぼくは、どうやら初めて間違えた。ジニは確かに笑ったけれど、嬉しそうではなかった。他の表情を知らなくて、仕方なく口角を上げてみた、というような笑み。
「君は逃げろ。生き延びろ」
ぼくの脳は告げる。間違ったのはぼくではなく、ジニのほうだ。それでも、そう指摘することはできなかった。
「勝手だよな。君をこんなところに閉じ込めて、薬の効果を成長だと言って、君が出した成果を僕のもののように扱ってきた。そんな僕がこんなことをいうのはおかしいけれど、でも、この願いに一生を捧げたい」
人に認められたかったジニ。僕の世話をすることで、望みを叶えようとしてきたジニ。ぼくはそんなジニが嫌じゃなかった。だって、ぼくも認められて、必要とされたかったから。ぼくにはそれしかできなかったから。
ジニが、大好きだ。たとえそれが仕事だったとしても、優しく温かな手で頭を撫でられるのが幸せだった。僕が欲しかったものをくれた、唯一の人。
その人が、強く願っている。
「逃げて、生き延びてくれ。……君は」
その方法は示されない。ジニにもわからないのだ。もちろんぼくにだって、わかるはずがない。
「君は『モノ』じゃない。自由になって、普通の、幸せな人生を送るんだ」
わからなくても叶える方法があるなら、それでジニが幸せになるのなら、ぼくは何だってしようと思った。


潰されたはずの耳にも、騒ぎが届いた。初めは幻聴かとも思ったが、現実で間違いないらしいと、大勢の人間の気配で察した。
両目とも抉られてしまったから、彼らの姿を捉えることはできない。しかしここに来るとすれば、それも乱暴に扉を開けたり、壁を壊したり、並んでいる実験資材の価値なんかどうでもいいように振る舞うのなら、まずサークルの人間ではない。――いや、資材や記録は、とうに処分したのだった。今この施設にあるのは、空の棚ばかり。証拠として押さえられるものがなければ、彼らは――軍は当然苛立つだろう。
ここで何が行われていたのか、彼らが知る術はもはやない。床に転がして残されたジニが教えてやることも、ほぼ不可能だ。最期にほんの少し残された気力と体力は、たった一言を伝えるためだけにある。
「誰かいたぞ! ……うわ、これは酷い状態だ」
「でもまだ生きてます。大丈夫ですか、聞こえていますか」
すぐ傍に来たはずの人間の声は、とても遠くのもののように聞こえる。焼かれた肌を避けるように静かに触れられているらしく、久しぶりに感じる人間の体温が心地よかった。
「……あ、あ……」
まだ、声が出る。安心して意識を手放しそうになったが、まだだ。痛む喉から、命を絞り出す。
「どうしました」
「……こ、ども。……しろい、かみの、こども」
ひりついて貼りつく口を、裂くように動かす。
「おぐ……しあせ、い、いき、……」
伝わったら、きっと奇跡だ。でも願いは、もっと先にある。
こんな臆病でどうしようもない人間の願いを、叶えてくれるものがあるとも思えないけれど。
――いや、あの子だけは、信じよう。あの子は選ばれたのだ。だから生きていた。そして、これからも。
心残りがあるとすれば、もっとましな名前を付けてやるのだった。どうしようもない人間の本名を継いで生きるより、意味のある立派な名前があったほうが……。
そんな彼の最期の逡巡は、こと切れる瞬間に立ち会った軍人にもわからない。
「リーゼッタ、その人は」
「たった今、息を引き取りました。この状態じゃ蘇生はできないでしょうね」
「だな。見たところ拷問だろう、連中も酷いことを」
上司の深い溜息を聞きながら、軍人――ルイゼン・リーゼッタ中佐は人相もわからないほどに損傷した人間を見つめる。最期に発した言葉の、正しい受け取り方を捜す。
こども、は、子供? 白い髪、の子供か。そのあとは。
きっと誰かに伝えなくてはならない。正しい答えを教えなければ。そのために、この人物は今まで生き延びていたのだ。
「担架が来た。運び出してやろう。こんなところにはいつまでもいたくないだろうよ」
「そうですね。あの、気になることがあるので、できれば検分はユロウさんに頼みたいのですが」
「あの人なら引き受けるだろう。わかった、伝えておく」
この日、裏組織が使用していた地下施設の一つを、軍が掌握した。しかしそこから得られる情報はほとんどなく、唯一の手掛かりは狭い部屋に放置されていた一人の人間。死んでしまったその人物が自ら証言できることもない。


深い闇に落ちたはずのぼくの身体は、しかし地面に強かに叩き付けられることはなかった。クッションになったのは積み重ねられた袋で、目を凝らすと中身が大量の落ち葉であることが分かった。そうか、季節は今、冬に向かおうとしているのだ。
気が付いた途端に、寒い、という感覚が追いかけるようにして襲ってきた。ずっと日付を気にさせない部屋にいて、着ているものも簡素な検査着のままだ。全力で走っていたから、今の今まで意識していなかっただけで、ぼくの恰好は十分に異常だった。よく人に見つからなかったものだ。
どこまで来たんだろう、ぼくは。ジニはどうしているだろうか。被検体であるぼくを勝手に逃がして、許されるとは思えない。――ジニと一緒に、逃げたらよかった。ぼくの力があれば、彼を背負って走ることくらい容易いはずだった。どうしてそこまで考えが及ばなかったのだろう。あんなに褒められた脳は、肝心な時にちっとも機能していなかった。
彼に会いたい。会いに行きたい。でもそれは、彼の願いに背くことだからできない。
胸の奥を掴まれたように苦しくなる。動かなければいけないのに、動けない。
「誰?」
知らない声に、咄嗟に逃げ出すこともできなかった。
視線だけを声のした方向に向けると、そこには細身の人影があった。相手はもう一度問う。
「アンタ、名前は? どこから来たの?」
質問が増えた。でも、口調は厳しいものではない。落ち着いた、大人の女性の声だと思った。
黙っていると、こちらへ近づいてくる。静かな足運びには無駄な気配がない。
「名前がないならそれでいいけど。……寒そうな恰好だね。お腹は空いてない?」
敵意も感じないので、その人の顔が見えるまで待ってしまった。思った通り女性で、笑った目じりはジニよりも年上のようだ。ジニ以外の人の顔を見るのは久しぶりだったけれど、以外にも判断基準が残っていたのか、自然に推測ができた。
「温かい物、食べたくない? パンとスープで良ければごちそうできるよ」
ぼくのことをまるで怪しんでいないかのようだった。もちろん、こちらから何かするつもりはないけれど。ただ、パンとスープはその単語が出ただけでも大きな魅力を持っていた。
「お、食べたそうな顔してるね。じゃあお姉さんがご馳走してあげよう。店で出してるものだから、味は間違いなく美味しいよ。アタシのうちは『ホットファーム』ってパン屋でね、商店街でも評判なんだ」
女の人はぼくの腕を掴み、ひょいと持ち上げて立たせてくれた。アンタ軽いねえ、こりゃ食べさせ甲斐があるわ。そう言って呆れながら。
「美味しいもの食べて、寝なさい。安心して、いきなり軍に突き出したりとかはしないし、なんならうちで匿ってもいい。訳ありっぽいヤツの相手は慣れてるからね」
「……何者ですか」
こちらが何も言わなくても、勝手に察してくれている。楽ではあるけれど、同時に疑いもある。けれどそれすら全部わかっているというように、彼女は答えた。
「アタシはシェリア。商店街の名物看板娘……と言いたいところだけど、すっかりおばちゃんになっちゃってね。お姉さんって呼んでくれるとちょっとだけ気分が良い」
こちらを優しげに見た目が、もう一度ぼくの名を尋ねた気がした。この人はきっと、何も知らない。そしてジニが望んだ普通の幸せに近い人だ。匿ってくれるというなら、利用させてもらってもいいかもしれない。
ぼくは初めて、他人に名前を告げた。
「ハナ。ぼくは、ハナって名前です」
貰ったばかりの、大切な名前を。
「素敵な名前」
ジニも、ハナだった頃に、そう褒められていたら。……そうしたらぼくらは、出会っていなかったかもしれないね。



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2018年10月07日

目指した場所にあったもの

エルニーニャ王国軍中央司令部――それが私の職場だ。国軍の統率を担い、頂点には大総統がいる。我々はその人のことを「閣下」と呼び、日々その指揮に従って行動している。
私が軍に入隊した頃、現在の閣下はまだ尉官だった。同期の仲間たちと連れ立って任務に行き、ほぼ確実に遂行する、後輩たちにとっては憧れの存在であり目標であった。私が入隊する前年に起きた大きな事件の中心にいたとも噂されている。事件の全容が明らかではないので、噂に留まるが。
他の多くの同期たちがそうだったように、私も彼らを尊敬していた。いつか彼らのように、信頼できる仲間とともに国を守る存在となるのだと、鍛錬に励み仕事に邁進した。そうしているうちに彼の目に留まったのは、人生で上位に入る幸運だろう。
「自主訓練、頑張ってるね。昨日もいたでしょ」
練兵場で剣を素振りしていた私に、その人は声をかけた。そして緊張しながら返事をした私の頭を、ざりりと撫でた。気合を入れて剃った五分刈りの手触りを、どうやら彼は気に入ったらしい。手を離さないままで、私に話しかけ続けた。
「君、名前は?」
「はっ! マインラート・トーリスです! 軍曹です!」
「階級はバッジ見ればわかるよ。でもまあ、すぐに上がっていけそうだね。もうちょっとこっち側に来たら、オレと一緒に働いてもらおうかな」
単なる挨拶や世辞で構わない。その言葉だけで感激だった。しかしこの程度で舞い上がってはいけないという気持ちで、私はつとめて冷静に礼を言った。
「ありがとうございます!」
「声大きいなあ。ますます気に入った」
最後に私の頭をもう一撫でして、当時のレヴィアンス・ハイル中尉は「またね」と笑って去っていった。

それから月日は流れに流れ、現在の私は准将の位にいる。階級を示す白バッジは毎晩寝る前に国章とともに磨き、その輝きの持つ責任を噛み締めるのが日課だ。
私をこの地位に就けたのはもちろん、レヴィアンス・ゼウスァート大総統閣下だ――大総統になったときに、彼は名乗る家名を変えたのだった。しかし名前が変わろうと、立場がどんなに上になろうと、その人の姿勢は基本的には変わっていない。
「マー坊、おはよう! 元気?」
「おはようございます、閣下! 体調は今日も問題ありません」
「そっか、良かった。結構長く事務室の面倒見てくれてるから、胃を痛めてるんじゃないかと思って」
「心配事がないわけではありませんが、あれくらいでへこたれはしません!」
会えば声をかけてくれる閣下は、二度目に会った日から、私を「マー坊」というあだ名で呼び続けている。私としてはいつまでも子供扱いをされているようで、複雑な心境ではあるのだが。
あの後、階級の上がった私を、彼は本当に直属の部下にした。とはいえ彼と私の間には大きな差があり、私はいつも彼が率いる人々に付き従っていた。大したことのない存在だったはずの私に、しかしながら彼はよく気を配ってくれた。どんなに小さな仕事でも、彼から指示されたものは嬉しく、全力で取り組んだ。
そして今でも、私は閣下から仕事を任されると、胸が躍るのだった。――その瞬間は。
「おはよう、諸君!」
閣下との挨拶を終えて、私は仕事場である事務室に向かった。本来は将官室に席を持つ身であるが、とある事情で佐官以下が集められている事務室で働いているのだ。声を張り上げるとそこかしこから、元気な、あるいは眠そうな、朝の挨拶が返ってくる。
「おはようございます、トーリス准将」
「リーゼッタ、おはよう。どうした、目の下が黒いぞ。寝不足か」
「ええ、まあ……。今日の午後から任務があるので、その資料を読んでいたら遅くなってしまって」
「いかんな、寝不足は判断力を鈍らせる。中休みにでも少し寝るといい」
「それができればいいんですが」
苦笑しながら頭を掻くのは、私の初めての直属の部下だ。ルイゼン・リーゼッタは、入隊してすぐに私の下につけられた。真面目で素直で努力家で、今ではすっかり立派な中佐となった。大佐になる日も近いだろう。
入隊したばかりの少年だった彼を、私の部下にと推薦したのは、もちろん当時のレヴィアンス・ハイル少佐だ。リーゼッタは入隊前から可愛がっていた弟分のようなものなのだと言っていた。翌年になると、部下はさらに増えた。リーゼッタはともかく、後で入ってきた三人は扱いが大変で、それは今でも変わらない。
「イリス、午後から任務だろう。午前のうちにこの書類を片付けて、僕のところへ持ってきてくれ」
「ええ、ちょっと量多くない? ねえフィン、これ本当に今日の午前中じゃないとだめ?」
「君の作業効率を考えると、帰ってきてからでは遅い。メイベル、君も手伝ってやってくれないか」
「手伝いたいが、生憎、下級兵訓練という非常に面倒な仕事が入っている。それをしなくていいなら可能だが……そういうわけでルイゼン、訓練のほうは他の奴に押し付けてもいいか」
「よくない! メイベルはメイベルの、イリスはイリスの仕事をちゃんとやれ」
「はーい」
「融通の利かないリーダーだな」
リーゼッタに一年遅れて入隊してきた、イリス・インフェリア、メイベル・ブロッケン、フィネーロ・リッツェの三名は、私では制御できないものとして半分諦めている。なにしろリーゼッタのいうことしか聞かない場面が多々あり、私はしばしば存在を忘れられるのだ。
インフェリアには足蹴にされたこともある。不可抗力ではあったし、後で謝罪はあったが、あまり上司扱いはされていないと思う。
リッツェは大人しそうに見えるが、そもそも私を含めて他人にはあまり心を開かない。
ブロッケンは言わずもがなだ。最初から信頼できる者以外には邪魔者であるかのような態度をとる。
彼らが不思議とまとまっているのはリーゼッタの尽力のおかげだと、私は暫く思っていた。だがリーゼッタはインフェリアのおかげだという。彼女が中心となって、班ができているのだと。
部下で後輩だと思っていたリーゼッタは、いつのまにか一班のリーダーとして独り立ちしていた。――という認識も実は間違いで、リーゼッタ以外は私が直属の上司であるとみなしてもいなかったことが、最近になって判明した。
それでも私は、彼ら全員の面倒を引き受けたつもりでいる。閣下から仰せつかったのだ。「あいつらをよろしくな」と。
「休めるといいな、リーゼッタ」
「そうですね、期待はしてません」
今のところ私には、騒がしい班員の中に戻っていくリーゼッタを見守ることしかできないが。

ところでそのリーゼッタ班だが、最近になって新たな班員が加わった。西方司令部から異動してきたカリン・ブロッケン准尉は、その名の通りメイベル・ブロッケンの妹だ。ただし、まるで似ていない。私にもごく自然に上司として接してくれる。
「トーリス准将、先日の任務の報告書です。よろしくお願いします」
「早いな。もう少しかかると思ったが」
「わたしは他のみなさんより時間があるので……。特別早いわけじゃないです」
しかも事務仕事が得意らしい。リーゼッタの班は、どちらかといえば現場のほうが得意で、あまり事務仕事に向いていない。リーダーであるリーゼッタすらも例外ではなく、また同じ姉妹なのにメイベルのほうは私に対してはやる気を見せない。真面目に仕事をしてくれるリッツェは閣下の指示で情報処理室に入り浸っていて、なかなかこちらに戻って来ず、インフェリアは閣下に直々に鍛えられているはずなのに、書類の処理はいまだに不得意らしい。ブロッケン准尉の存在はリーゼッタ班にとどまらず、この事務室において貴重な存在だった。
「班の仕事は一通り終えましたけれど、お手伝いできることはありますか?」
「それでは、資料に見出しをつけてくれるだろうか。きっと君のほうがわかりやすく仕上げられるだろう」
「かしこまりました。たぶんお姉ちゃん……大尉に教わったのが見やすいと思うので、それでやってみますね」
そう言って、カリン・ブロッケンは微笑む。彼女の中では姉の評価は高く、よくこうして褒めている。私はそれを通して、メイベル・ブロッケンの長所を今頃になっていくつか知ることができていた。いつになっても新しい発見というものはあるようだ。
彼女が加わることになったいきさつを思うと、今こうしてリーゼッタ班の一員として働いていることが感慨深い。鼻歌を歌いながら机に向かう姿に、私は口には出さずに「良かったな」と投げかけてしまう。
そのいきさつは、私が将官室から事務室へと派遣された原因でもあり、この中央司令部に起こった大きな事件でもあった。それによってリーゼッタとリッツェ、インフェリアは静養のためにしばらく休むことを余儀なくされたほどだ。
だが、ああしてすっかり元気になった。乗り越え、進み、毎日を過ごしている。心に何か抱えていたとしても、それを表に出すことはない。そんな彼らを見て、私は日々安心していた。

「ただいま戻りましたー」
伸びをしながら、インフェリアが夕日の射しこむ事務室に帰ってきた。ブロッケン姉妹が「おかえり」「お疲れさまです」と口々に労う。一緒に任務に行ったはずのリーゼッタの姿はない。閣下に呼ばれているのかもしれなかった。
リーゼッタ班は、この中央司令部でも特殊な存在だ。私は彼らの上司だが、彼らが特別に任されている諸々の全てを知ることはない。ただ一つ確かなのは、閣下が彼らに直々に仕事を任せることが非常に多いということだ。
それを贔屓という者もいる。それで間違いはないのだろう。ただ、完全に正しいともいえない。私は閣下を尊敬し慕っているが、あの人のやり方が多少強引であることは否定できない。使いやすい駒を育てて自らの武器にし、陣地を整える――それがレヴィアンス・ゼウスァートの指揮だということは、彼を長年見ていてようやくわかりかけてきたつもりだ。
リーゼッタにリーダーの資質を見出し、育てる。リッツェはおそらく諜報に長けた人材にするつもりだろうし、ブロッケン姉妹はその実力を発揮すれば強力な兵士になりうる。そしてインフェリアは、自らと同じ歴史を背負った軍家の人間として立場を利用し、さらには彼女自身の持つ能力を正しく使えるようにするため側近としている。閣下には閣下の考える、完璧な布陣というものがあるに違いなかった。
それが周囲からどう思われようと、あの人は突き進むのだろう。そして全ての責任を背負い、けっして逃げないのだろう。そういう人だ。
「インフェリア、戻ったならまず報告をしろ」
「はい。ええと、今回の調査は成果アリです。あとでレヴィ兄、じゃない、閣下から次の指示があると思います。今ゼンが……リーゼッタ中佐が直接報告しに行ってます」
私に告げられる曖昧な内容は、つまり、この件は閣下自らが動いているものだから、まだ私の出番はないということを示している。私は閣下が動けと命じたときに、ようやく詳細を知ることができる。
それに対して異を唱える者もいるが、私はあくまで閣下のやり方に従うつもりだ。彼に出会い、一緒に働いてもらおうと言われたあの日から、考えは変わっていない。
「ご苦労だった。疲れているのかもしれないが、上官の呼び方には気を付けるように」
「はーい、すみませんでした」
だからこの態度も、溜息ひとつで許すことにしているのだ。

後日、インフェリアが言っていた通りに、閣下から中央司令部全体へと命令が下った。任務は、裏社会で大手を振るう犯罪組織を潰すこと。組織は危険薬物を取り扱っているということだった。危険薬物の製造や流通は裏組織の主な犯罪であり、他の様々な犯罪とも繋がっている。私が最近になってリーゼッタとともに取り組むようになった、人身売買関連案件にも当然関わりがあった。
司令部内が準備に追われる最中、私は閣下から呼び出された。久しぶりに大総統執務室の扉を叩き、招き入れられる。この瞬間は、いつだって身が引き締まる。
室内には先に呼ばれていたのか、インフェリアが事務室にいるときよりも険しい表情をして、ソファでバインダーを広げていた。その向かいには将官室長であるタスク・グラン大将。そして奥には、大総統補佐であるレオナルド・ガードナー大将。本来執務机にいるはずの閣下の姿はなかった。
「マインラート・トーリス准将、参りました。閣下はどちらに?」
「いらっしゃいますよ、すぐそこに」
ガードナー大将が指し示した方向には、執務室備え付けのキッチンがある。そちらの方からは、香ばしい匂いが流れてきていた。
ああ、そうか、と私は理解し、改めて背筋を伸ばす。今回の仕事は、本当に大物なのだ。閣下が緊張して、自らコーヒーを淹れるくらいには。
「お、マー坊。来てくれてありがとう」
キッチンから顔を覗かせた閣下は、普段と変わらないように見える笑みを浮かべていた。普段の呼び方、普段の口調。行動だけが、その内面を表している。
「ちょっとね、思ってたより大変な仕事になりそうだから。メインとは打ち合わせをしておかなくちゃと思ってさ」
「メイン、ですか」
「そう。今回の裏組織検挙、一番大事な部分を任せたい」
ガードナー大将が閣下からコーヒーカップの載ったトレイを受け取り、静かに配置にかかる。閣下は礼を言ってから、私に向き直った。
「どうも奴らが扱ってるのは、薬物だけじゃないみたいでね。薬の効能を試すには、被検体が必要でしょ」
「……もしや、それは動物ではなく」
「人間の子供である可能性が高い。人身売買ルートで集めたのか、それとも直接誘拐したのか、はたまた組織で育てていたのか……それは定かじゃないけど、彼らを可能な限り保護する必要がありそうだ」
インフェリアも同席しているのは、彼女が尉官ながら大総統補佐であるという、それだけの理由ではなかったというわけだ。彼女には組織に育てられた人間が起こした事件について、苦い記憶がある。それも、そう遠くなく。
「現場の総指揮は、タスクに頼むことにした。で、被験者たちを保護するのは」
閣下がこちらへ歩いてくる。一歩一歩をしっかりと踏みしめて、私の眼前で止まった。右手をそっと持ち上げ、私の肩を叩く。――かかっているのは、単なる手の重みだけではない。
「マインラート、お前にリーダーを任せたい。補佐にはルイゼンをつけるよ、もう話はしてある」
はっきりと私の名を呼ぶその声を、耳に、脳に、刻み込む。いつかのような階級の差は、なくなったわけではないけれど、もう随分と縮まった。私は、閣下とともに働くことができる。あなたの手足になれる。
「拝命いたしました」
返事をすると、閣下は笑った。これが正しい道だとでもいうように、不敵に。
それは私が昔から憧れる、絶対の勝利を約束する表情だった。
「今回は特別措置として、イリスとメイベル、カリンの面倒も見てもらうよ。フィネーロが情報をまとめてくれているはずだから、確認しておいて。大変な仕事になるぞ」
「そうですね、間違いなく」
ああ、忙しくなりそうだ。



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2018年04月29日

雪の妖精 第一章(5)

 うとうとしているうちに、眠ってしまったらしい。ディンゴを起きて迎えようと思っていたのだが、想像以上に体が疲れていた。目が覚めるとベッドの上で、毛布がきちんと掛けられていた。自分で移動した記憶も、毛布をかぶった覚えもないから、ディンゴは帰ってきたのだ。
 しかし、その姿がどこにもない。家中を探して、食事を摂ったらしい痕跡は見つけた。一度帰ってきたのは間違いない、が、すぐに出ていってしまったのだろう。
「忙しいのかな」
 宿舎に来ていた兵士たちの会話に、ディンゴの名は度々あがっていた。彼はどうやらこの辺りをメインに守る「本営の兵士」で、その中でも特に名の通った人物なのだと、ルネはそれを聞いて初めて知ったのだった。同じ会話の中に、仲間であるラステット、カルバ、ベレの名前も出てきたので、いつもそのメンバーで行動しているのだろう。
 守るべきものが多い本営の兵士は、そうのんびり休んでもいられない。嫁をとる余裕もないわけだと、ルネは納得してしまった。だからといって諦める気は毛頭ないのだが。
「だって、こんなに優しいもんね」
 毛布を頬にすりよせて、その温もりに浸ってから、ルネは自分も出かける支度をした。急いで宿舎に行って、朝食の後片付けを手伝わなければ。
 今日の宿舎は忙しかった。兵士たちがたくさん来て、あちこちで話し合いをしている。話し合いに酒とつまみは不可欠のようで、朝食と昼食の間、昼食と夕食の間も、軽食の要求がたえない。ルネもずっと動き続けて、テーブルに酒を運んだり、皿洗いを頼まれたり、あちこち動き回っていた。
「ニオ隊が来てるんだよ」
 一緒に働いている女性の一人が囁いた。
「あんまり素行の良くない集団なの。本営より東側を根城にしてたんだけど、どういうわけかこっちまで来たみたいだね」
 たしかに、テーブルに近づいたときに聞こえた言葉は、昨日聞いたものよりも乱暴だった。どのくらいの人を殺しただのなんだの、聞いていてあまり気持ちの良い話題ではない。しかし兵士たちは、それを愉快そうに笑って話すのだった。
「武勇を勘違いしているのよ。本営の兵士はあんなこと自慢げに言わない」
 そう言って眉を顰める女性に、ルネは頷いた。ディンゴなら、あんな話はしないだろう。殺しをした話をしたとして、笑うなんてことはないはずだ。だって、ルネの姉たちのことを、あんなにも案じてくれたのだから。
 お喋りしてる暇はないよ、とリンに叱られ、ルネたちは仕事に戻る。つまみを作っては運び、空いた皿を片付け、それをくりかえしていると目がまわるようだった。兵士たちはそんな忙しいルネたちをときどき捕まえては、可愛いなあ、だとか、どこに住んでるの、だとか尋ねてくる。しかしリンの言いつけで、何を訊かれても答えてはいけないことになっていた。
「適当に笑ってごまかしな、キリがないんだから」
 最初はどうすればいいのかわからなかったルネも、他の女性たちがやっているのを真似て、なんとか振る舞えるようになった。次のお客さんが待ってるので失礼します、と急いでいるふりをして手を振り払うコツを覚え、なんとか夜を迎える頃には、昨日以上に疲れていた。
「お客さんをさばくのって、大変ですね」
「ニオ隊だから余計だよ。本営の兵士なら、こっちが忙しいのもわかってくれてるから、余計なことはあんまりしないんだけどね。どうやらあいつらには配慮ってものがないらしい」
「本営の兵士っぽい人はあんまり見かけませんでした」
「今日は会議があったそうだよ。ディンゴから聞いてないのかい」
「起きたらもういなかったんです。だから会ってなくて……」
 そろそろ夕食の準備も終わろうかという頃、どっと人が入ってきた。席に着くなり「飯を寄越せ」と叫んだのは、一際いかつい男だ。一緒にやってきた者たちもどかどかと椅子に腰かけ、早くしろ、と騒ぎ立てる。もう夕食のピークの時間になってしまっていたのだろうか。
「噂をすれば、ニオだね。本営はまだ会議中でいないから、ああやって威張るんだ。これから忙しくなるけど、ルネは先に帰りな。長くなるからね」
「でも、お手伝いを」
「アンタ、まだ十三歳だろう。あんまり長い時間、働かせるわけにはいかない。家に帰って、ディンゴの帰りを待ちな」
 リンに背中を押され、ルネは厨房から出されてしまった。上着を羽織ってからちらりと食堂を覗くと、女性たちが男性たちに酒を注いでいた。すでに注いであるものや、瓶だけを持っていくのではない。そして男たちと一緒に、少量だけだが、酒を口にしていた。テーブルに行ってそのようなことをしなければならないとわかっていたから、ルネは帰らされたのだ。
「私には手伝えないのか……」
 ルネは酒が飲めない。飲んだことがないのだ。ただ、蒸留酒は匂いを嗅いだだけでくらくらしてしまう。それではあの場は手伝えない。リンのように毅然として断ればいいのだろうが、きっとニオ隊と呼ばれるあの人たちには、それが通用しないのだろう。
 おとなしく帰ることにして、ルネは宿舎をあとにした。手には貰った賄いを抱えている。ルネとディンゴの二人分だ。家に帰ったらこれを温めて食べなさいと、リンが渡してくれたのだった。
――きっとディンゴは、腹を空かして帰ってくるからね。
 会議の後は、ディンゴは大抵すぐに家に帰るのだという。急いで帰って、支度をして、一緒に食事ができるといい。今朝彼の顔を見られなかった分、楽しみで仕方がなかった。
 そうして周りに気を配ることをすっかり忘れていた。――こちらに近づいてくる影に、全く気が付かなかった。
 突然腕を引っ張られ、ルネの手から賄いの包みが落ちる。わけがわからないまま雪の地面に押し倒されて、動けなくなる。月を背負った真っ黒な影が、ルネに覆いかぶさっていた。
「な、なんですか?」
 問うも答えはない。ただ荒い息が、白くなって立ち上る。相手の顔は全く見えない。見えないまま、近づいてきた。そうしてルネの首筋に、ぬらっとしたものが触れる。それが舌だとわかった瞬間、ルネは頭の中が真っ白になった。
 気持ち悪い。肌が一気に粟立つ。どうしてこの人はこんなことをするのだろう。どうしてこんな――怖いことを。
「やだ……っ」
 相手を押しのけようにも、力がまるで足りない。もがいているうちに両手を大きな手一つにとられてしまい、頭の上で固定される。相手のもう片方の手は、ルネの足をなぞるように触り、腿のあたりでぐっと力を入れる。抵抗もむなしく、足を開かされた。
「やめてください! 放して! 誰か……」
 辺りは暗い。遠くで宿舎の騒がしい声が聞こえる。ここで起きていることには、誰も気づかないだろう。気づかれないとわかっているから、相手はこんなことをするのだ。
――ディンゴさん。私、あなたの言いつけを守っていればよかったんですね。
 宿舎の手伝いができたことは良かった。家を飛び出してでもやる価値があると思った。でも、こんなことになるなら、我慢して家にいればよかった。
 冷たい涙がこめかみを伝う。いろんな人の顔が頭をよぎった。その誰も、ここにはいない。助けなんかこない。
「私から離れて!」
 もがいても、もがいても、きっと無駄だ。でも最後まで諦めたくはなかった。こんなことに屈したくなかった。涙目で睨んだ相手の顔はやはり暗くて見えなくて、けれどもその向こうにあるものは、どうしてかすぐにわかった。
「てめぇ、俺の家の前で何してやがる」
 低く重い声。ふっとかかっていた力がなくなった。自由になった手で服の裾を直しながら、現れた人物を見上げる。――間違えるはずもない。彼に助けられるのは二度目だ。
「ああ、なんか見たことあると思ったら。お前、ニオ隊の下っ端か。宴会にも混ぜてもらえなかったから、自棄になって女を襲おうとしたってところかね。まったく、躾がなってねぇな」
「ひ……っ、お前、本営の」
「本営の、じゃねぇよ。どこにいようと関係ねぇ。名前で覚えとけ。俺は北領で最強になる予定の男なんだからな」
 さっきまであんなに恐ろしかった人物が、情けない声を出しながら放り投げられる。さほど大きな音がしなかったのは、雪が積もったところに着地したせいだろう。それほどまでに雪に囲まれた場所なのに、彼の声はよく響いた。
「俺はディンゴだ。そのちっちぇえ脳みそに、よーく刻んどけ」
 彼の表情なら、暗くても見える。月を背に、眉を寄せて、獲物を睨み付けている。狩人の眼、本物の兵士の姿が、そこにあった。
「もう二度とその女に手ぇだすんじゃねぇぞ。そいつは俺の嫁だ」
 言われた人物は慌ててその場から逃げ出したので、最後まで聞いていたかわからない。でも、ルネの耳にははっきりと残っている。彼はたしかに「俺の嫁」と言った。ルネのことを、そう言ったのだ。
 何度も頭の中で反芻しているうちに、目の前に手が伸びた。大きくて武骨な掌は、またも自分を救ってくれた。そっと手を伸ばして触れると、強く握られ、引き寄せられる。
「怪我は」
「あちこち痛いけど、怪我はしてないと思います。ディンゴさんが来てくださったおかげで、何もされずに済みました」
「そうか」
 へら、と笑ってみせるが、ディンゴはちっとも表情を崩さない。安心したような素振りもなかった。
「おーい、ディンゴ。今躓きながら逃げてったの、お前が脅したのか」
 聞き覚えのある声と、複数の足音が近づいてくる。ラステット、カルバ、ベレの三人だ。大きな荷物を持っていて、匂いでそれが新鮮な肉だとわかる。
「あ、ルネちゃんじゃん。寒いのに外にいたの? お土産沢山持って来たから、宴会しようぜ!」
 ベレが肉を掲げて笑う。それを見たらなんだか力が抜けてしまって、止まっていた涙が一気に溢れ出した。ぼろぼろ、ぼろぼろと零れるそれは、一所懸命に拭っても一向に収まらない。ベレが焦り、ラステットが宥める声が聞こえた。
「まずは家に入ろう。いいだろう、ディンゴ」
「そうだな。顔を凍らすわけにいかねぇ」
 ルネの背中に、ディンゴの手がそっと添えられた。いつかのように、温かな手だった。
 涙が止まる頃には、焚火のパチパチとはぜる音と、肉を焼く匂いがしていた。落としてしまった賄いの包みも拾ってくれたようで、宿舎の厨房に広がっていたものと同じ香りも混じって漂っている。肩にかけられた毛皮は、よく見れば上着に仕立てられていて、おそるおそる袖を通してみると、ルネの腕の丈にちょうどよかった。
「……これ」
「ちょうどいいのがあったんで作らせた」
 ぶっきらぼうにディンゴが答える。だが、ルネだってわからないわけがない。年の割に小さな自分の体にちょうどいい毛皮など、そうあるものではないのだ。上着の寸法はいいかげんなものではない。これはたしかに、ルネのためにあつらえられたものなのだった。
「ルネちゃん、もしかして寒がりなんじゃないかって。当たってる?」
 酒を注ぎながら、ベレが言う。
「はい、あんまり得意じゃないです」
「ディンゴさあ、最初に会ったときからわかってたっぽくて、ルネちゃんが来てから大急ぎでその上着作らせてたんだよ。裏地も温かくていいでしょ」
「おいベレ、余計なこと言ったらぶん殴るっつっただろうが」
 ディンゴの眉間にしわが寄るが、今は不機嫌なわけではないだろう。彼はどんな感情を表すときでもそうしてしまうのだ。雪焼けの顔が少し赤く見えるのは、炎の近くにいるせいだけではないだろう。
「ここまでしてくださって、嬉しいです。ディンゴさんには、私の全てをかけて恩返ししないといけませんね」
「そんなのいらねぇって。恩とかなんとか、そんなつもり最初からなかった。なかったもんをどう返すってんだよ、何かされるとこっちが返さなきゃいけなくなる」
 低い声は少し早口で言う。武骨な手は片方にナイフを持って、焼けた肉を削ぐ。そうして脂の照った美味しそうなところを、一番にルネに寄こした。
 礼を言おうとしたが、最初の一音も口にすることはできなかった。
「なんでお前は、自分を傷つけた人間の嫁になんかなりたがる。足が痛いのにここまで通ったりして。理解できねぇ。もし父親の言いなりになってるんだったら……」
「違いますよ。お父さんは関係なくて……私がディンゴさんを好きになってしまったんです。あったかくて、優しいから」
 大きくかぶりを振り、遮られないように一気に言い切った。ひゅう、とベレが口笛を吹いたのを、ラステットとカルバが軽く叩いて窘める。この人たちは、本当に仲がいい。彼らさえいれば、ディンゴは生きていけるのかもしれないし、また心置きなく死んでいけるのかもしれない。
 だからこの気持ちは、ディンゴのためのものではない。ルネのための、ルネの想い。生まれて初めて抱いた、簡単には手放したくないもの。ディンゴ以外には絶対に触れさせたくない、触れてもらえなければ仕方がない。
 灯った炎はいつのまにこんなに大きく育って、身を焦がすようになったのだろう。
「やっぱり理解できねぇな。女ってのはもっと、見た目のいい奴が好きなんじゃねぇのか。カルバなんかここいらの女のほとんどにキャーキャー言われるし、ラステットは俺よりよっぽど紳士だぜ。ベレはこう見えてよく気のつく奴だ。なのに、なんでお前は俺なんかが良いんだ」
 肉を多すぎるくらいに削ぎ続けながら、ディンゴは息継ぎをしているのかと疑いたくなるくらいに疑問を並べる。適当なところでラステットが仲間たちに肉を分けたが、自分たちはまるでいないかのように静かな振る舞いだった。
「そういうところですよ」
 だからルネも、遠慮なく自分の気持ちを伝える。
「仲間のことによく気が付いて、私のことを気遣ってくれて、……それから、私は最初から、あなたのことを素敵だと思っていました。里のために役に立たなきゃって使命感はありましたけれど、役目を果たすなら相手はあなたが良かった」
 たしかにラステットは物腰が柔らかく、カルバは美男子で、ベレは明るい。それぞれに魅力的なのは尤もなのだが、ルネの気持ちは初めて会ったあの瞬間から決まっていた。私は、と強く声に出す。
「私は、あなたのお嫁さんになりたい。あなたの家族になって、あなたの子供を産んで、あなたをそう簡単には死なせない。たとえあなたが戦って死んで、それに満足したとしても、それだけで終わらせない。あなたの生きた証を、私がつくりたいんです」
 これでも伝わらなかったら、もう尽くす言葉がない。それくらい力いっぱい語ったつもりだ。ふとディンゴの眉間に目をやると、深かったしわはほぐれていて、その下には呆気にとられたような表情があった。目も口もぽかんと開いて、ちょっと間の抜けた顔が。
「……一生ないくらいに口説かれたな」
 カルバがぼそっと呟くと、ベレがとうとうふきだした。今まで我慢していたのか、笑いだしたら止まらなかった。ラステットはただにこにこして、ルネとディンゴを見ていた。視線に気づいて、急に顔が熱くなったルネだった。
「すっげー! で、で? どうするの、色男は」
 ベレが興奮して騒ぎ始め、ディンゴもようやく我に返ったらしい。つと立ち上がると、ベレにずかずかと歩み寄って、その頭を平手で強かに叩いた。天井まで響くいい音がした。
「これは今笑いやがった分な。さっきの余計な言葉の分がまだあるぜ」
「いってえ……。人を殴らずに照れろよ」
「てめぇが殴らせてんだろうが。……んで」
 少しすっきりしたような顔が、ルネに向けられる。やっとまともに目が合った。絶対に逸らすまいと、ルネは少し身を乗り出す。肉の盛られた皿は、しっかりと持ったまま。
「嫌なこと思い出させるだろうから、言おうか迷ってたんだが。さっきお前が襲われてたの見たとき、俺は助けなきゃとか、そういうことは一切思ってなかった」
 さっきのこと、なんてルネはすっかり忘れていた。そういえばそんなことも、ととても昔の出来事のように思い出し、そして少しだけ気持ち悪さがよみがえった。そのほんの少しが表情に出たらしく、ディンゴは表情を歪めて「悪い」と言った。
「いえ、大丈夫です。続けてください」
「そうか。もしかしたら、もっと嫌な気分になるかもしれねぇぞ。俺はな、あのときは何も考えちゃいなかった……と思ってた。けど改めて考えてみたら、ありゃあなわばりを荒らされたような気がしてたんだな」
 なわばり、と口の中で繰り返して、ルネは首を傾げる。現場が家の近くだったのだから、それは当然の思いだろう。とそのまま返そうとしたら、ラステットが呟いた。
「ディンゴ、言い方下手」
 最後までなりゆきを見守っていそうだったその人の一言に、ディンゴはたちまち顔を赤くした。この変化は、何だ。まばたきをするルネに、ディンゴは向き直って、少し自棄気味に言い放った。
「俺のもんに何しやがる、って思ったんだよ。そんでまだイライラしてる。あの野郎、次に見かけたら絶対半殺しにしてやる」
 途中から恨み言になってしまったが、その意図するところは察した。「俺のもん」――きっとそれは、ルネの熱烈な告白に対する、彼なりの熱烈な答えだった。
「お前を連れまわすことはできねぇし、だからといって家でおとなしくしてろってのも無理な話だってのはわかった。リンたちから仕事のことは聞いたからな。だから四六時中一緒にはいられねぇ。お前を守り切ることはできないかもしれねぇ」
「はい」
 彼は兵士だ。守らなければならないものは大きく、ルネだけには構っていられない。それはわかっている。わかっていなければいけない。
「俺の家族だって言いふらしとけば、ちっとは安全だろう。俺も勢いで言っちまったし、今度から堂々と言っていい。『自分は北の暴拳ディンゴの嫁だ』ってな」
 嫁だと、家族だと認められるなら、常に胸に留めて、抱きしめておかなければ。絶対に離さないように、奪われないように。
「はい!」
 笑って頷いたルネを見て、ディンゴは小さく息を吐いた。それからまた肉を切り始め、削いではルネの皿に盛る。忙しなく、どんどん、どんどん。
「あの、こんなにたくさんは食べられないですよ」
「何言ってやがる、食ってちゃんと体に肉をつけろ。そんな細っこいうちは子づくりなんかできやしねぇだろうが」
「は、はい! 頑張ります!」
 背筋を伸ばして肉を口に運び始めたルネ。ひたすら肉を切るふりをして、赤くなった顔を隠そうとするディンゴ。二人を眺めながら、仲間たちはそっと乾杯をした。
――とんでもないこと言ってるって、わかってるのかね。
――まあ、ディンゴらしいんじゃね? ルネちゃんも天然っぽいし、お似合いだよ。
――あれが幸せなら、それでいい。
 新しい日々が始まろうとしていた。この温かな家から。




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2018年03月25日

雪の妖精 第一章(4)

 翌日、ディンゴは朝早くに――けれどもルネがもっと早く起きて作った朝食は完食した――改めて「夜中まで戻らねぇぞ」と言い残して出かけていった。さて、本当にそうであれば、丸一日暇である。家事をやってしまえばこの家の中でやることはない。針仕事でも、と思ったが、ディンゴの衣服はいずれも丈夫で破れているところなんかなかったし、刺し子ができるような端切れもなかった。里の実家には機織り機があって、植物の繊維を織り上げて布を作り、衣類を縫い上げ、植物で染めた糸で綺麗に刺し子をしたものだ。ルネも姉たちに習って、たくさんの模様を刺すことができた。
 出来上がった品は自分たちで使うよりも、街で食料や生活用品に換えることが多かった。刺し子の着物は美しく、しかも保温に優れているので、評判が良かった。特にルネの姉たちが刺したものは好評で、嫁に行くときもその稼ぎが役に立った。
「……」
 もしも、とルネは俯く。もしも姉たちがそれほどまでに稼がなかったら、姉たちは今でも里にいたのだろうか。父に言われるままに他所へ嫁ぐことなく、家族みんなで仲良く暮らしていただろうか。自分の意思で里を出てきた、ルネが考えることでもないのかもしれないけれど。
――他所者は嬲り殺される可能性だってあるんだ。嫁にやるなんて冗談じゃねぇよ、姉妹同士でいがみ合わせる気か!
 あのときのディンゴの言葉が気がかりだった。姉たちは、今頃どうしているのだろう。せめて他所の様子がわかるような情報はないものだろうか。
「外に出れば、誰かの話が聞ける」
 この家からちょっと出かければ、あらゆるものが手に入りそうだ。情報も、刺し子のできる端切れと糸も、切れかけていた塩や香辛料も。それらがなくてもいい、誰かと話がしたかった。たった一言、挨拶を交わすだけでもいい。
「少しなら、いいよね。ディンゴさん、夜中まで帰らないって言ってたし」
 上着を羽織って、そっと扉を開ける。冷たい風と、太陽に照らされてちかちかと光る雪の地面。微かに漂う煤の匂い。故郷とは少し違う、けれども似たような外の空気が、ルネを包んだ。
 そもそも家にずっとこもっているのは性に合わないのである。たとえもう一度罠にかかったとしても、きっと懲りない自信があった。
「……よし」
 家の前に残っていたディンゴの大きな足跡に、ルネの小さな足が重なった。
 街の賑わっているところは、もっと色々な匂いがした。何かを燻していたり、大きな鍋で煮ていたりを、寒いのに外でやっている。漂ってくる美味しい香りにつられるように、ふらふらと毛皮を着た男性の一団がやってきて、鍋からスープを、燻製器から肉の腸詰を貰っている。いや、何かと交換しているのだ。よく見れば、それは皮を剥いだ兎だったり、羽を毟った鳥だったりした。つまりすぐに調理に取り掛かれる状態の、猟の成果物。なるほど、あれならずっと燻製やスープを作り続けられる。
 軒先で調理をしているのは、例外なく女性だった。子供がその手伝いをしている。大人の男は大体が兵士として戦いに行ってしまうので、彼らを食事でサポートするのが女の仕事になっているのだ。きっと食事以外にも、繕いものだとか、洗濯だとか、生活のあらゆる面を支えているのだろう。家単位ではなく、地域単位での家事労働というわけだ。
「あら、お嬢ちゃん、見かけない子だね」
 感心して見ていると、声をかけられた。ずっと大鍋をかきまわしている、ふっくらとした女性。ルネよりも二回り半は年上だろうか。などと考えていたら、わらわらと近所から女性が集まってきた。のっぽの女性、小柄な女性、年齢もきっとばらばら。しかし誰もが手におたまや調理用のへら、鍋の蓋などを持ったままだった。
「ホント、どこから来た子かしら」
「まあ、綺麗な銀色の髪だこと。あなた、お名前は?」
「ちょっと待って、私、この子見たことあるわ。前に肉を交換したことがある。でも、こんなに小さかったかしら……?」
 囲まれてわいわいと騒がれるので、ルネはどこから答えていいのかわからなくなってしまう。頭の中に返事はあるのに、ええと、その、あの、しか出てこない。山の中の里から来ました、名前はルネです、肉を交換しに来たのはたぶん姉です、……と言いたいのに言えない。小さい体をさらに縮こまらせていると、後方からパンパンと大きな音がした。
 ああ、そういえば昔、一番上の姉がああして手を叩き鳴らしていたっけ。姉妹がみんなで、あれをしたい、これをしたいと好き勝手に騒いでいるときに。
「アンタたち、その子が困ってるじゃないか。いいかい、質問は順番に簡潔に、だよ。あと、自分のとこの料理を疎かにしない!」
 毛皮を着て、さらに前掛けをした女性が言う。途端に女性たちは散って、自分が世話をしていた鍋や燻製器、串焼き網を見に行った。そうしているあいだに毛皮に前掛けの女性が、ルネにずいっと近づいてくる。森の緑の髪が揺れ、美しい相貌にかかった。姉たちとは種類の違う美人だ。
「なるほど、たしかに全く見たことがない顔じゃないね。何度かここいらに来てるだろう。里の子かい」
「は、はい。ルネといいます」
「綺麗な銀髪と銀の瞳だ。ロボの集落の娘かね。あそこの人たちは狩りはあんまり上手じゃないけど、刺し子が抜群に巧い。アタシらも随分世話になってるよ。今日は一人かい? 見たところ、品物も持ってないみたいだし……」
 この人が一番お喋りなのでは、というくらい口がまわる。だが、言っていることに間違いはなかった。ルネがいた里には、他の里と区別するためにロボという名前がついている。そしてたしかに、近くの里の中では一番刺し子の技術が優れていた。
「ええと、私、品物を交換しに来たんじゃないんです。ディンゴさんのところに、お嫁に」
 言いかけて、でもまだ嫁にはなっていないんだった、ということに気づく。しかしもう遅かった。目の前の美人も、戻ってきた他の女性たちも、「嫁」という一言に即座に反応した。
「嫁? あのディンゴに?」
「ディンゴって、あのおっかない顔したディンゴで間違いない?」
「この辺のディンゴっていったら、アイツ一人でしょう。アレに、嫁? しかもこんなちっちゃい子?」
「ええ……あの強面がこんな趣味だったの……」
 散々な言われよう、引き具合である。このままではディンゴの評判を落としかねない。ルネは慌てて、手をばたばたさせながら弁解した。
「違うんです、ディンゴさんはまだ私をお嫁さんにする気はないんですけど、私が勝手にお嫁さんになりたくて押しかけてきちゃったんです! あと、私もう十三歳ですし、子供も産めますから、みなさんが思うほどはちっちゃくないです!」
 すると女性たちはぴたりと騒ぐのをやめた。輪の外側にいる人たちが、周りを確認するようなそぶりを見せる。緑の髪の女性が、人差し指を立ててルネの唇に触れた。
「そういうことは、大声で言っちゃダメ。事情は分かったけど、そういうことならなおさら、自分の体のことはむやみに他人に言うものじゃない。もちろん、困ったことがあればアタシたちに相談してくれて構わないし、できる限り協力はするけどさ」
「……ごめんなさい」
「謝ることじゃないけど、男に聞かれたら厄介だからね。特に最近は、ガラの悪い連中がこの辺にも増えてきてる。女を無理やり手籠めにしようとする馬鹿男が、どこで聞いてるとも限らない」
 女の敵はよそ者だけじゃないんだよ、とあちこちから疲れたように息が漏れる。本来味方であるはずの人々でさえ、蛮行を働いているという現実を、ルネはこのとき初めて知ったのだった。
「まあ、ディンゴなら問題ないだろう。アイツは戦うことしか考えてない。……いや、それが問題なのか。とにかく、ルネを悪いようにはしないさ。いつも一緒にいるラステットやカルバもね。ベレは……軽い男だが、悪人じゃないよ」
「そうですよね」
 それだけはっきりしていればいい。ルネは胸をなでおろし、それからより多くの情報を引き出そうと、女性たちとの会話を続けた。
 緑の髪の女性はリンといい、この辺りの女性たちをまとめているという。女手一つだけでは賄いきれない部分を、二つ、三つと合わせて協力して生活をしているのだ。食事担当、洗濯担当など、女性たちは戦いから帰ってくる男性たちの身のまわりを世話してやりながら、自分たちも生きているのだった。
 リンは兵士たちが集う宿舎の料理番をしているのだという。同時に女性たちに仕事を紹介し、生活の知恵を貸す。彼女がいなければここに住む人間はとてもやっていけない、と誰かが言うと、リンはにっこり笑った。
「私がいなくても、誰かがやるだろうよ。今はたまたま私がここにいるだけだ。そうだ、ルネにも仕事を紹介してやろうか。ディンゴがいないあいだ、暇だろう」
 こちらの事情もお見通しだ。リンは少しだけ考えるそぶりを見せてから、いくつか質問をした。料理はできるか、刺し子はできるか、掃除は得意か。全ての問いに、ルネは「はい」と答えることができた。
「さすがロボの娘だ。よし、アンタには宿舎の仕事を手伝ってもらおう。男どもの飯を作ったり、床を整えてやったり、汗臭い服を洗濯してやったりする、特別忙しいやつだ。わからないことがあったらアタシたちに遠慮なく訊きな」
「はい! ありがとうございます!」
 嬉しかった。ルネは街で、人々の役に立てるのだ。家の中で暇を持て余すことなく、たくさんの人と関わりながら仕事をし、ディンゴの帰りを待つことができる。家ももちろん守る。胸に使命感という焔がめらめらと燃えた。
「じゃあ、さっそく職場案内だ。ついでに今日の夕飯の準備も手伝ってもらうよ」
 リンに連れられて、ルネはまた一歩踏み出した。
 宿舎は食堂になっている大ホールと、その奥の大部屋がいくつか並んでいるところに分けられる。大部屋には、兵士たちが雑魚寝する。今も何人かが横になったり、何やら難しい顔をして会話をしたりしていた。
「ニオ隊、こっちと拠点を行き来しているらしいな」
「本営兵としてどう扱うべきなんだろうな。東でやったことを罰するべきなのか……」
 東、と聞いてドキッとする。何があったのだろう。姉は無事だろうか。気になってよそ見をすると、リンに「あんまり見るんじゃないよ」と声をかけられた。
「兵士たちは、いろんな情報を持ってる。そしてアタシたち宿舎で働く人間は、どうしてもそれが耳に入ってしまう。敵方に情報が漏れたとき、真っ先に疑われるのはアタシたちだ。面倒は避けるに限るよ」
「疑われるって……何もしていなくても?」
「ただいるだけで、アタシたちはスパイ疑惑をかけられる。誰が世話してやってると思ってんだい、って言い返してやったことも何度かあったけど、それでも状況が良くなったためしはないね。アタシが守ってやれなかった子もいる。そういう子は前線基地に引っ張っていかれて、戻ってきたことがない」
 気を付けな、と言うリンの横顔は、悔しそうにも悲しそうにも見えた。前線に引っ張っていかれた子がどうなるのかは、教えてくれなかった。戻らないということは、生きている可能性は低いのだろう。少なくともリンはそう見ている。
「宿舎はこれで全部。みんなで作業を分担する。楽なことはないけど、死ぬほど大変ってわけでもないよ。どうだい、やれそう?」
 さっきまでの話などなかったかのように、笑ったリンが振り返る。ルネは慌てて自分も笑顔を作って、「はい」と元気に答えた。
「すぐにでも仕事を覚えます。何からやりますか」
「そう焦らない。今日は夕飯の仕込みを手伝ってもらう。よく出る酒の種類も一緒に教えるからね」
 頑張りな。背中をばんっと叩かれると、背筋が伸びた。
 大鍋をかき混ぜながら、塩の分量や酒の種類を教わった。どちらも食事には欠かせない。肉と酒は兵士たちの毎日のエネルギー源だ。少し時間が空いたら、座って休んだ。一緒に働いている女性たちとお喋りをし、その流れで端切れと糸をもらえることになった。見せてもらった糸は、野菜の汁で染められているもので、どれも淡い色をしている。
 たった一日の仕事だが、頭の中は新しい知識でいっぱいになり、体はくたくたになった。日が暮れてから女性たちと数人で一緒に帰り、ディンゴの家を温めながら賄いを食べ、片付いたら刺し子をする。ディンゴの言いつけは破ってしまったが、素晴らしい時間だった。こうなったらきちんと話をして、働くことを許してもらわなければなるまい。
「それに……信用してもらって、話を聞かなくちゃ」
 仕事をしているあいだに聞こえてきた、不穏な言葉の数々。東の人々をこちらの兵士が襲ったという話などの真相を知って、姉の無事を確かめたい。今のルネには、ここにいるたくさんの目的があった。



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2018年03月11日

雪の妖精 第一章(3)

 数日後、再び街を訪れたルネを見て、ディンゴはどういうわけか「塩肉」と呟いた。
「あ、あの、今度こそ足は良くなりました」
「歩き方見りゃわかる。もう来るなっつったのに……」
 落胆の中に、安堵が見える。やはりディンゴは良い人だ。真っ当かどうかなんて、そんなあやふやなものはもはや関係ない。ルネは自分の胸に宿った感情を確かなものにしていた。
 そうするべきだからではなく、そうなりたいから願う。この優しい人の傍に、ずっといたい。
「私をお嫁さんにしてください」
「帰れ」
「家のこと、全部やります。あなたが戦いに出ているあいだ、家を守って待ってます」
「いらねぇ」
「ちょっと試してみるのはどうですか。自分が食べる分の食料は持ってきました。ご迷惑にはなりません。食料が尽きるまでにあなたの気持ちを変えられなかったら、今度は諦めます」
 我ながらしつこいと思う。けれど、これくらいしなければ彼をこの世に繋ぎ留められない気がした。死ぬために生きるのではなくて、生きるために生きてほしかった。
――私が、あなたの温かさを失いたくないの。
 今まで生きてきて、一番の我儘だ。末っ子だからいつも可愛がられて、多少のことは聞いてもらえたけれど、それよりももっと、強い気持ち。思いを込めてじっとディンゴを見つめる。目を逸らす気は全くなかった。
 どれくらい見つめ合って、いや、睨み合っていただろうか。先に溜息を吐いて目を閉じたのは、ディンゴだった。
「食料が尽きたら帰れよ」
 尽きたら。それまでは置いてくれるということで、いいのだろうか。そう解釈させてもらう。ルネは笑顔を咲かせ、それから深々とお辞儀をした。
「よろしくお願いします」
 末永く、はまだつけられない。でも、チャンスはまだある。食料はたっぷり持って来たのだ。
 かくして、ルネはディンゴの家に居座ることとなった。まずはこれまで男一人で暮らしていた部屋を掃除し、片付け、自分の生活できるスペースを作る。持参した寝袋で寝る予定だったが、ディンゴが毛布を投げて寄越してくれたので、礼を言って使わせてもらうことにした。
 家を訪れたディンゴの仲間たちは、ルネの姿を見て目を丸くした後、にやりと笑って「ディンゴ、塩肉だぞ」と言っていた。「塩肉」とは、何かの合言葉なのだろうか。首を傾げ、なんですかと訊いても、その答えだけはとうとう教えてもらえなかった。
 二人での生活は、ルネにとっては楽しいものだった。朝は早く起きて、雪をとってきて火にかけ、水をつくる。食事を持参した材料で整え、ディンゴの分は家にあったパンも添える。不機嫌そうな顔で起きてきたディンゴは、顔を洗って戻ってから、朝食に目を瞠った。
「いやに野菜が多いな」
「里から持ってきました。私が姉に習って保存していたものです」
「肉食わねぇと力が入らねぇぞ」
 ディンゴが台所に吊るしてあった肉を削り、ルネの皿にも載せてくれる。薄く切った塩味の肉と、茹でた野菜を一緒に食べると、えもいわれぬ美味しさだった。
「あの、いいんですか。お肉、あなたのお家のものなのに」
「どうせまた獲ってくるんだから、好きに食えよ。あ、お前、パンすらねぇな。野菜だけで腹いっぱいにならねぇだろうが」
「お芋があるので大丈夫ですよ」
 お喋りをしながらの朝食の後、ディンゴは身支度を整えて出かけようとした。戦いに行くのかと思うと胸が痛くなったが、それがそのまま顔に出たらしく、呆れられた。
「出かけるたびに辛気臭ぇ顔されたらたまんねぇよ。今日は作戦会議だけの予定だ。遅くならねぇから、お前は家にいろ」
「あ、そうなんですか。いってらっしゃいませ」
 ホッとして彼を見送ったら、家の仕事が待っている。使った食器の片付けに、洗濯、昨日はできなかった部分の掃除。水仕事が多いが、里にいたときからやっていることだ。手がかじかむなんて日常茶飯事、あかぎれで痛むくらいどうということはない。手際よく進めているうちに、この家の情報もいろいろ頭に入ってくる。
 今まで誰かが一緒に住んでいたような形跡はない。ほとんどのものが一人分しかないのだ。ルネが自分で自分の使うものを持ってきていたのは正解だった。貸してくれた毛布も、ディンゴが使っていたものだろう。さぞかし昨夜は寒かったに違いない。申し訳ないことをしてしまった。
 保存食は肉ばかり。野菜はルネが持ってきたものがほとんどだ。あとは酒の入った容器がある。匂いを嗅ぐだけでくらくらするような、強い酒だ。父が飲んでいたような乳酒や薄くのばした果実酒など、ディンゴにとっては水に等しいのかもしれない。
 部屋の隅には剣と盾。あれは戦いで使うのだろうか。その近くに長い針金や木の蔓など、猟の罠の材料らしきものが揃えてある。たぶん揃えてあるのだろうけれど、ルネには無造作に転がしてあるようにしか見えない。草刈り鎌は日用品だろう。
 見慣れない光景に、他人の家の匂い。この中で暮らしていくのだ――ディンゴが許してくれれば。
「私、家事の他にできることないかな」
 日々を外で過ごし、ときに戦わなければならない彼のために。家事をして待っているだけでは足りないのではないか。彼が家でゆっくりくつろげて、また帰ってきたくなるようにしなければ。そうでなくては、きっと躊躇いなく死にに行く。
 それに里を出てきたからには、街に早く馴染む必要がある。家にいろ、とは言われたが、このあたりのことを知っておいたほうが苦労は随分少なくなるはずだ。
「明日は外に出てもいいか、訊いてみよう。そして私の仕事を探すんだ」
 拳をきゅっと握り、小さく固く決意する。
 けれども帰ってきたディンゴは、ルネの外出を許さなかった。明日も家にいろと言う。
「うろちょろすんな。また罠にかかるぞ」
「こんな場所で罠を仕掛ける人なんていませんよ。私、少しでもあなたの役に立ちたいんです」
「そう思うなら俺の言う通りにしろ。余計な手間かけさせんな」
 ルネが何かしようとすることは、彼の手間になるらしい。あなたの邪魔にはなりませんから、と言いかけて、口を噤んだ。ここに身を置いていること自体が、邪魔になっているのかもしれない。押しかけてきて、拒まれてもしつこく嫁になるというルネが、彼の生活を変えてしまうのは間違いない。一人で気ままに生きてきたかもしれないのに。そうして、死にたいように死んでいくのだ、この人は。――そう考えると、申し訳なさは一瞬で一転して、腹が立ってきた。死なせるものか。たとえ過酷な戦いに向かっても、ここに帰って来たいと思わせたい。
「……明日のご予定は」
「ちっと遠出だ。帰りは夜中になるから、先に飯食って寝てろ。俺の分はいらねぇからな」
 今日もこんなに作りやがって、とディンゴがテーブルの上を見て溜息をつく。ルネが作った野菜多めの食事が並べられた食卓は、冬とは思えないほど華やかだ。ディンゴの分にはちゃんと塩肉がついていて、それもただ切り落として焼いたものではなく、ルネが持って来た香草がすりこんである特製だ。
「あんまり美味そうなもん作んなよ。このご時世に贅沢は禁物だぜ。お前の食料だってすぐなくなっちまうだろ」
「働いてきたらお腹が空くのは当然です。たくさん食べないと。外に出られないなら、私ができることはこれくらいです。姉も言ってました、殿方の胃袋を掴むのは基本中の基本だと」
 えっへん、と薄い胸を張ってみせたルネに、ディンゴはもう一段深く息を吐いてから、食卓に着いた。 それから自分の皿にのっていた肉を半分、ルネに寄こした。



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2018年02月25日

雪の妖精 第一章(2)

 薬はよく効いた。塗るごとに痛みは引き、傷はぴたりと塞がる。魔術みたい、とルネは思った。里でつくる傷薬も効果は抜群だけれど、沁みるし、臭いもきつい。どうしたら臭いのほとんどしない、肌に滑らかな薬ができるのだろう。里の外には、知らないことがまだたくさんある。
 昨日ディンゴたちが帰ってしまってから、ルネの意識は里の外へと向いていた。ここよりも敵に狙われやすく、しかしながら強い人々が守っているところ。戦いつつも日常生活を送る、この地域の中心部。話す言葉のアクセントの違いで、おそらくはそちらの人々だろうと推測することができた。父や自分は、中心部の人々に比べて、古代語の名残が少しばかり強いのだ。
 いつ死ぬかわからない、前線の人たち。だから嫁はとらないと言ったが、そういう人たちにこそ自らの血を引く子孫が必要なのではないだろうか。この地域を、長く守っていくために。
――なんて、理屈をつけてはいるけれど。
 薬を包み直しながら、ルネが思い浮かべるのはあのやぶ睨みだった。人相は良いほうではないかもしれないけれど、あの瞳はきれいだった。そうして、乱暴な言葉ではあったがルネの姉たちを心配してくれた。ルネを優しく助けてくれた。温かな背中に負ってくれた。
――また、会いたいな。
 今度は罠にかからずに。迷惑にならないように会いに行ったら、少しは見直してもらえないだろうか。足の具合が随分いいことも報告したい。
「どうにかしてお礼がしたいな、あの人たちに」
 こちらの考えを読んだかのように、父が言った。
「そうね」
「そしてお前を娶ってくれるといいんだが。あの紳士的な、ラステットという青年が良さそうだ。カルバという青年も、寡黙だがハンサムだったな。多少お喋りではあったが、ベレという彼も、まあ悪くはないだろう」
 どうやら父はまだ、ルネを嫁にやることを諦めていなかったらしい。ディンゴにあれだけ怒鳴られたというのに、ちっとも懲りていない。しかし自分も父のことはいえないので、黙っていた。ただ、父からディンゴの名前が出なかったことは、少しだけ不満だった。
 足の傷に触れながら、罠から救ってくれたときのディンゴの手を思い出す。傷が酷くならないよう、優しく触れてくれた手。鮮明な記憶に、胸がきゅっと締め付けられた。
――やっぱり、会いたい。会いに行こう。足が治ったら、すぐにでも。
 ルネの密かな決意は、しかし、とんでもなく固かった。
 それから四日、もう歩いても痛まなくなった足で、ルネは里の外へと向かった。前日に降り積もった雪を掻き分け、苦手な寒さを我慢して。あの温かな人に会うために。
 地域の中心部のことを、里の人間は「街」と呼んでいる。街には里よりもずっと多くの人がいて、けれどもそのほとんどがこの地域を守る兵士だった。街は兵士たちのつかの間の安息の場であり、帰ってくる場所だった。
 里では手に入らないものでも、街に行けば見つかることがあった。そのため、ルネも何度か街には父や姉とともに来ている。だが、独りで来るのは初めてだ。道に迷わなかっただけでも奇跡である。街はちゃんと、ルネの歩いて行った方向にあった。
 雪の積もった家々の屋根、煙突から流れてくる暖房と煮炊きの煙。一際大きな施設は、兵士たちが休憩する宿舎だ。この地域の至る所から人を集めて、ここに寝泊まりさせている。街出身の人間は自分の家を持っているが、ディンゴたちがいったいどのような経歴の人たちなのかを、ルネは知らない。まずは宿舎をあたってみるのがいいだろう。
 と、思ったのだが。その前に、長距離の移動に耐えかねた足が痛みだした。せっかく治りかけていたのに、無理をして雪の中を歩いてきたものだから、傷が刺激されてしまったのだ。堪えながら宿舎を目指したが、あと少しのところで膝をついてしまう。傷のないほうの足に力を込めて立とうとしたが、こちらには疲れが溜まっていた。知らず知らずのうちに、負傷した足を庇って歩いていたのだ。
「こんなところで……」
 座り込んでいる場合ではないのに。あの人に会わなくちゃ。冷たい空気を吸い込み、もう一度足に力を込める。ふらふらと立ち上がって、一歩、二歩と進む。やっとのことで宿舎に辿り着くと、扉が開いた。
「……あ? なんでお前、ここに?」
 宿舎から出てきたのは、知った顔。忘れようもないあのやぶ睨み。ディンゴと、その仲間たちだった。
 こちらを見て明らかに戸惑っている彼らに、主にディンゴに向けて、ルネはにっこりと微笑む。微笑んだつもりだ。なにしろ足が痛くて、体が寒くて、うまく笑えているかわからない。
「来ちゃいました。あなたに会いに」
 ディンゴが眉根を寄せるのが見えた。この人の眉間のしわは、なかなか深くて解けない。
 次の瞬間、ルネの体は宙に浮いた。軽々とディンゴに抱えあげられ、今度は肩に担がれる。彼の背後が見えるかたちになり、仲間たち――ラステット、カルバ、ベレの表情が目に映った。全員揃って驚愕している。
「俺、一回家戻るわ」
 すぐ近くで重低音が言う。声色は明らかに機嫌が悪そうだった。
「あと頼んだぜ、ラステット。急ぎの用事があったら来てくれ」
「あ、ああ……」
 仲間たちは宿舎のさらに向こうへ、ディンゴはそれと反対方向に歩き出す。家があるということは、彼は街に生まれ育った人間なのだろうか。家に連れていってくれるということは、ルネを嫁として認めてくれるのだろうか。担がれたまま考えていると、まもなくしてその場所に到着した。木造のしっかりとした家の、丈夫そうな扉が開かれる。
 ルネは椅子の上に降ろされた。ディンゴの顔を確かめようとするより先に、見えたのは彼の頭頂部。真っ先に靴を脱がされ、足を見られる。幾分薄くなったはずの傷が赤く腫れている、と思った瞬間。
「馬鹿か! 怪我したんだからおとなしくしてろ! なんだってこんな場所まで来たんだ?」
 凄い剣幕で怒鳴られてしまった。声の圧で吹き飛んでしまいそうなくらいに。
「あ、あの……足はとても良くなったので、お礼を」
 なんとか返事をすると、舌打ちをされた。やっとまともに見た彼の顔は、なんというか、獣も逃げだしそうなくらい凶悪だ。
「どこが良くなってんだ、悪化させやがって。親は止めなかったのか」
「父には置手紙だけしてきたんです」
「輪をかけて馬鹿だな。送ってってやるから二度と来るな」
「家には帰りません。私、あなたのお嫁さんになるために来たんです」
 ここまで言うつもりはなかった。思っていなかったわけではないけれど。でも、帰されたら本当にもう二度と会ってもらえないような気がして、勢いがついた。
 しかし凶悪な顔は崩れない。あのときの言葉をもう一度繰り返す。
「駄目だっつってんだろ。俺は兵士だ。近いうちにまた前線に行って、今度こそ死ぬかもしれねぇ」
「だったらなおさら子供をつくっておくべきではないでしょうか」
「家族はいらねぇ。俺はな、この世に何の未練も残したくねぇんだ。戦って死ぬ、それだけが生き甲斐なんだよ」
 矛盾したことを言う人だ。死ぬのが生き甲斐だなんて、それでは生きたいのか死にたいのかわからない。首を傾げるルネに、だから、と彼は言う。
「お前は帰れ。そんでもっと成長してから、真っ当な人間と家族になれ」
 彼自身も、どうやら自分はまともではないらしいと思っているようだった。
 足に軟膏を塗られ、布をしっかりと巻かれても、ルネの感じる痛みは治まらない。背負われて里に帰されると、それは一層強くなる。腫れが引いても、まだ残った。


 寒さを紛らわすための強い蒸留酒と、塩漬けされた肉、干した野菜。北国の冬では十分なご馳走だ。ありつけるのはここが北軍の本営だからで、食うや食わずの拠点もあると聞いた。支配領土をもう少し南に延ばすことができれば、もっと良い食事が十分に摂れる。そう言われ続けて何十年も、戦争は続いていた。
 発端はもうわからない。ずっと南を支配している「紫の人々」がこの北の地を呪ったからだとか、中央を名乗る勢力が大きくなりすぎたから調整をしようとしたのだとか、東と西の対立を諌めようとしてやっているのだとか、いろいろなことが言われている。つまりは、ディンゴたち若い世代には、まともに語られていない。
 戦争をしている間に北の地を統率する人間も変わり、今上にいる者は大陸統一支配を声高に叫んでいる。大きく分けて五つの勢力がある現状を、一つの代表のもとでまとめれば、みんなが平等に暮らし向きが良くなるはずだということだが、さて。
「ニオ隊って知ってるか、ディンゴ」
「なんか血気盛んな奴らか?」
「血気盛んなのは人のこと言えないけど、たぶん想像してるので合ってる。東で兵士と民間人を殺したそうだ。向こうが先に手を出してきたって、隊の連中は言ってるらしい」
 この北の地に属しているはずの者たちですら志に齟齬があるのだから、一つになるなど到底無理だろう。
 ディンゴら本営の兵士たちの多くは、無駄だと判断した殺生や略奪を禁じている。前線は相手が攻め込んで来ようとする場所であり、守るべき領土の際だ。
 しかしそうは考えない者たちもいる。相手のいる場所に踏み込み、蹂躙して自分たちのものにする、それこそが大陸統一支配への道であると考える人間が集まって、大陸の東や西、中央へ乗り込み全てを奪う。その行動は、数年前から目に余るようになってきた。
「また俺たちが嫌われるな。東は反撃に出ようとしている。もちろん向こうが動くなら、こっちも対応しなきゃならない。なんだってニオ隊なんかの尻拭いをしなきゃならないんだか」
 そう言って、ラステットは深い溜息を吐いた。
 略奪行為が本営の行動でなかったとしても、よそから見れば「北が攻めてきた」ということには変わりない。一部の逸脱行為のせいで、北軍は大陸の主な勢力の中でも特に嫌われものになっていた。北の横暴を許すものかと、「正義」に燃える他領の兵士が対策を練って攻め込んでくる。
 そういう者たちを蹴散らすのは、逸脱行為を働いた当人たちではなく、本営の兵士の仕事だった。
「近々、東とは熱い戦いを繰り広げることになりそうだな」
 ベレが皮肉たっぷりに言い、杯を傾ける。カルバが頷き、肉を齧った。
「……東の、兵士なら。研究ができてる」
「カルバ、口に物入れて喋るのは行儀が悪いぞ。厄介なのが西と、あと中央だ。西の徹底的な人民の統制で、他地域の血筋の人間が迫害されてる。それに異を唱えた者は中央に流出し、あの赤髪……リックはそいつらを全部受け入れている」
 西と中央の動きは、今に始まったことではない。ここ数年で顕著になったというだけだ。中央が勢力を拡大しているというのは、難民を受け入れて味方につけ、これだけの人間を抱えているのだから領土がもっと必要なのだと主張しやすい状況にあるということだった。
「中央の統率力は、こっちとは比べものにならない。リックっておっさんはやり手だよな」
「負けたらあっというまに主導権握られそうだ。俺たちの有利にことを運びたいなら、乗り越えなきゃいけない最大の壁なんだろうな。ディンゴはどう思う?」
 ベレとラステットと、カルバも少し。仲間たちが喋っているあいだ、ディンゴはある点にずっと引っかかっていた。自軍の東への侵略。西の徹底統制。これによって危険にさらされる人間がいる。
「……あのガキ」
「なんだ、上の空だと思ったらあの子のこと考えてたのか。ルネちゃん、だ」
「昨日、よくここまで独りで来たよな。で、ディンゴはそれを追い返しちゃったと」
「なのに気になるのか」
「違ぇよ。あのガキ、姉がみんな他所に嫁に行ったって話だっただろ。東や西では無事なのか」
「可哀想だけど、ディンゴがあの子の父親に言った通りだと思うよ。特に西では、逃げられなければ殺されてる可能性が高い」
 ラステットの即答に、ディンゴの眉間のしわがまた深くなる。――あの父親が考えを改めなければ、残った末娘は、ルネという少女は、どうなってしまうのだろう。
「やっぱり気になってるじゃんか、ディンゴ。お前の顔怖がらない貴重な女の子なんだから、嫁に貰っちまえばいいのに」
「ベレ、無茶言うなよ。あんな小さくて細くて触ったら折れそうな子にディンゴが触れられるわけがないだろ」
 笑いあう仲間たちを睨んだが、実際ラステットの言う通りだった。ルネは小さく、頼りない。体重も軽かった。十三歳といっていたけれど、十歳くらいに見える。見た目を抜きにしても、二十を数える自分に比べたら、まだ子供だ。
 いつ死ぬかわからない身で、未来ある者を預かるわけにはいかない。兵士として生きると決めたとき、この世に未練は残さないと誓った。
「でもあの子、またディンゴを訪ねて来ると思う。塩肉三枚」
「オレも乗る! また来る方に塩肉五枚!」
「それなら俺も一枚かけとく。ついでにディンゴがそれを受け入れるのにも一枚」
「お前らな、勝手に賭けてんじゃねぇよ。さすがにもう来るこたねぇって。塩肉十枚賭けていいぜ」
 来やしない。二度と来るなと言った。こんな賭けは、自分が勝って終わるはずだ。ましてラステットの「受け入れるのにも一枚」が、実現するはずはない。
 あの娘には、ディンゴに関わらずに幸せになる権利と道があるはずだ。



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2018年02月18日

雪の妖精 第一章(1)

 小さな動物を狩るための罠だということには、すぐに気づいた。父も同じものをよく作っては、それで兎や鳥、鼬の類を獲ってくる。ただ、父は罠を仕掛けるのがとても下手で、獲物がかかることは少なかった。こんなに巧妙に仕掛けるものなのだと知っていたら、もう少し気をつけて歩いたかもしれない。
「痛いなあ」
 脚に食い込む罠ばかりではない。冬の北国では、雪の上に長時間座っていることは危険だ。指先は冷たいを通り越してじくじくと痛み、やがて何も感じなくなると、壊死してしまうことも覚悟しなければならない。それくらいの知識は持っている。
 血が滲む足は、引き抜こうとすれば罠がより締まる仕様になっていて、手で外そうにも方法がわからないのでそのままだ。誰かが来てくれなければ、ここで十三年の人生は幕を閉じる。
「痛いなあ」
 こんなまぬけな最期は迎えたくなかった。どうせ死ぬなら、姉たちのように他の支配地域へ嫁に行ってからがよかった。この地域を守るための柱になれるのなら、死ぬことも仕方ない。今はそういう時代だ。
「痛くて、眠いなあ」
 眠ってしまえば目覚められない。けれども寒さは体力と意識を確実に奪っていく。もうじきこの世とお別れか、と瞼をおろしかけた。
「おい、ガキ。じっとしてろよ」
 急に降ってきた声に目が覚めた。雪のせいで足音が聞こえなかったので、いつからこちらに来ていたのかわからない。俯いていたから、周りを見てもいなかった。
 低い声のその人は、大きな体を屈めて、罠に手をかけた。瞬く間に外れた罠をぽかんと見つめていると、今度は足に触れられる。傷には布が丁寧に巻かれた。
 顔を上げて、助けてくれたその人の顔を見た。雪に焼けた肌は浅黒く、無造作に伸びた髪は赤みがかった茶色。目つきは鋭い。少し怖いが、敵ではないようだ。身を包んでいる毛皮がこの辺りの獣のものだから、間違いない。
「薬塗っといたほうがいいな。生憎俺は切らしてるから、ちょっと連れて行くぞ」
 その人は軽々とこの身を抱え上げ、背に担いだ。「ひゃ」と声が漏れるが、気にされない。そのまま連れていかれた。
 向かった先はどうやら狩りのためのキャンプ地のようで、その人の他にも三人の男がいるようだった。
「ディンゴ、何か掛かってたか」
「人間のガキが掛かってた」
 男たちのギョッとした表情が見えた。「マジか」「やっちゃったなー」という声があがる。それでも彼らは全く慌てている様子はなかった。こういうことは、珍しくないのかもしれない。
 自分を背負っている人が言う。
「罠に足をやられてる。放置するわけにもいかねぇし、薬切らしてたからとりあえず連れてきた。ラステット、傷薬寄越せ」
「はいよ。ディンゴは多めに薬持っとけって、いつも言ってるだろ」
「荷物になるだろうが。とにかく手当しろ。これからガキの家を捜しに行くから、テメェらも来い」
「了解。お嬢ちゃん、家まで道案内できる?」
 ラステットと呼ばれた男が、軟膏の包みを取り出しながら問う。頷くと、よかった、と笑った。連れて来てくれた人――ディンゴというらしい彼も、ホッとしたような表情をほんの一瞬見せた。ずっと眉根を寄せていたから怒っているのかと思っていたが、どうやら困っていたというのが正解のようだ。
 男たちが持っていた毛布にぐるぐると包まれて、再びディンゴの背中に収まる。他の者は荷物があるようで、みんな手がふさがっていたから、自然な流れだった。
――この人の背中、温かい。
 毛布のせいだけではない。さっきからずっと、温かくて心地よかった。知らない人だから緊張していたけれど、それでも離れ難かったくらいに。
 本当は、寒いのは苦手なのだ。雪の中、山をうろつくのは本意ではなかった。けれども家の働き手はほとんどいなくなってしまって、それでも家を温めるための薪は使う量が減ったりはしないから、足りなくなってしまった分を外へ探しに来た。そうして罠にかかってしまったというわけだ。
――助けてくれたし、家まで連れてってくれる。親切な人だな。
 広い背中に体を預けて、落ち着いて道案内ができた。だからなのか、それとも単に男たちの歩幅が広いためか、家にはあっというまに到着してしまった。小さな里の、小さな家だ。雪が降る前までは、すぐ上の姉もいたけれど、今では父と二人きりで住んでいる。
 父は娘が屈強な男たちと一緒に帰ってきたのを見て、目も口も大きく開いたまま動きを止めた。
「ここはこの娘の家で合っているか」
 ディンゴの問いに、父はやっとカクカクして頷いた。
「すまねぇが、俺たちが仕掛けた猟罠にはまっちまった。娘に傷をつけたことを詫びる」
「こちらはお詫びの品と、私どもが作りました傷薬です」
 いつのまに用意したのか、脇に控えていたラステットが薪と獣肉の塊、そして先ほどの薬の包みを差し出す。父はおそるおそるといった様子でそれを受け取り、それからハッとしたようにディンゴを、彼に背負われている娘を見上げた。
「傷は、深いのですか。娘の具合は」
「治すにはちょっと時間がかかる。針金が食い込んで擦れたから、もしかしたら傷跡が残るかもしれねぇ。悪かった」
 背中の荷物を落とさぬよう、ディンゴは首だけを屈めるように下げた。父は一瞬だけ眉を顰めたが、すぐに表情を緩めて、一行を家の中へと誘った。
「寒かったでしょう。ここまで娘を送ってくださり、ありがとうございました。温かいものを用意しますよ」
 お構いなく、とラステットが言おうとしたのを、別の男が遮った。鼻をひくひくさせながら「お嬢さんを降ろしてやらないと」と言う彼は、きっと家の中から漂う乳酒の匂いを嗅ぎとったのだろう。父はこれを毎日温めて飲むのが日課だ。
「おう、ガキを降ろしたらすぐ帰るぞ」
「いいえ、せっかくなので休んでいってください。さあ」
「ほら、お家の人もこう言ってくださるし」
「ベレ、お前な……。俺たちはガキに怪我させたんだぞ」
 呆れるディンゴの服を、しかし父が引っ張った。さあさあ中へ、と一行を家の中に連れ込み、そのまま室内に座らせてしまう。手際よく乳酒を用意すると、床に降ろされた娘を呼び寄せた。
「ルネ、傷とやらを見せてごらん」
 無事な足と手を使ってなんとか立ち上がり、父のもとへ行く。引きずる足は痛むが、さっきよりは大分和らいでいた。
 父は巻かれていた布を解いて傷を眺め、ほう、と息を吐いた。
「これは、きれいに治るかどうかはちょっとわからないな」
 そうして男たちに視線をやり、ひとりひとりを値踏みするように見た。この目は知っている。姉たちが嫁に行くごとに、散々見てきた。
 父はこうして相手を選び、姉たちを方々に嫁がせていった。この小さな里が戦に巻き込まれないように、この地域より南側にある四つの地域――それぞれが領土を奪い合い戦争中だ――に一人ずつ。最後に残ったのが、末娘のルネだった。
 姉たちが無事でいるかどうか、ルネは、父ですら、知らなかった。
「どうぞ夕食も食べていってください。あなた方が持ってきてくださった肉です」
 父はにこやかに男たちに語りかけ、彼らを引き留めた。ディンゴは固辞しようとしていたが、ベレという彼らの中でも若そうな男が「お言葉に甘えましょうよ」と留まったのだ。仕方なく座り直したディンゴを見て、ルネは少しホッとした。この温かい人と、もう少しだけ一緒にいられる。
 同時に父の様子を、少し不気味に思っていたのだけれど。知らないふりをして、夕食の準備を始めた。干した野菜を雪を溶かした水で戻し、父が切り分けた肉と一緒に火にかける。この辺りでは、肉を切るのは男の役目だ。
「ルネちゃんはいくつ? 十歳くらいかな」
 ベレが尋ねるので、ルネは戸惑いながら「十三です」と小さく返事をする。たぶん、十三だ。生まれた時の記録をしておらず、だいたい一年が経った頃に柱に傷をつける、それが里での年齢把握の方法なのだった。父が毎年刻んだ柱の傷は、姉たちの分は嫁いだ年で止まっている。
「十三歳かあ。もっと小さいのかと思ってた。もう子供は産めるの?」
「よせよ、ベレ」
 何の遠慮もないベレを、ラステットが窘める。そしてルネには、「答えなくていいからね」と慌てて言った。そうでなければ、ルネはあっさりと「もう産めます」と答えていただろう。初潮は夏、まだ姉がこの家にいるときで、毎月のことだからと対処は一通り教わっていた。以降は子供をつくることができるということも。
 子供を産み育てることは、今の里、ひいてはこの北の地域に住む人々全体にとって重要なことだった。長い戦の只中にあり、どんどん人が死んでいくこの時世で、少しでも人手を増やす必要があった。幸いにして食料に困ることはあまりなかったから、人口は多ければ多いほど良かった。
 そして生まれてくる子供は、より強い血を引いていることが求められた。
 ルネと父、男たちは、出来上がった食事に手を付ける。塩と野菜と肉の出汁の味が、ディンゴの眉間のしわを緩めた。
「うめぇ」
「干した大根が良い。塩加減も丁度。こんな美味しいものをありがとうございます」
「あなた方のくださった肉で作った汁物です。礼には及びません。野菜の良い干し方ならルネがよく知っていますよ、姉に叩き込まれているので」
「へえ、ルネちゃん、お姉さんがいるんだ。で、お姉さんはどこに?」
 きょろきょろと部屋を見回すベレを、ラステットが小突き、ディンゴが睨む。その隙にもう一人の男――歩いているときにカルバと呼ばれていた――がベレの持っている器から肉を盗んだ。賑やかな人たちである。
「この子の姉たちは、嫁に行きましたよ」
「なーんだ。ルネちゃんが可愛いから、きっと美人なんだろうね」
 そう、自慢の姉たちだった。もう会えないのが残念なくらいに。
「この子もそろそろ嫁にやろうと思っていたんです。こう見えて、もう年頃ですから。できれば強い殿方に……」
 ちら、と父が男たちを見る。姉たちが遠くに嫁いだ今、残ったルネには重要な役割があった。この里を守るため、最後にしなければならないこと。それは。
「よろしければ、この子を嫁にもらってくださいませんか」
 地元の強い男に嫁ぎ、この里を優先的に守らせること。そして強い子供を産み、育て、味方を増やすこと。父からずっと言われてきたことだった。この家には娘しかいないから、里を守るためにはそうするより他にないのだと。
「嫁? こんなガキを?」
「幼く見えますが、もう子供も産めます。立派な女です」
 先ほどラステットが気を遣って言わせなかったことを、父はあっさり口にした。ルネは俯いて、客らと父の椀に汁物のおかわりをよそう。
「この子の四人の姉は、敵方に嫁がせました。東、西、中央、南にまで嫁に出したんです。親戚がいれば、この里に手出しはできないでしょう。仕上げはこの子が、この地の強い殿方と一緒になってくれること。娘を差し上げますから、どうぞこの里をお守りください」
 父はそう言って頭を下げた。ルネは父を見、それから男たちを見た。ラステットとカルバはもちろん、軽薄そうだったベレまで戸惑いの表情を浮かべている。唯一、ディンゴだけが再び眉間にしわを寄せていた――今度ははっきりと、怒っているのだとわかった。
「……なんてことしやがる」
 重く低い声が室内を這う。ルネだけではなく、父までもがびくりと肩を震わせた。
「親戚だとか、この状況じゃ関係ねぇ。むしろ他所者は嬲り殺される可能性だってあるんだ。そんだけ領土争いは切羽詰ってる。嫁にやるなんて冗談じゃねぇよ、姉妹同士でいがみ合わせる気か!」
 獣が吼えるよりも激しく、ディンゴは怒鳴った。声の振動が伝わって家が揺れたように感じたほど、その迫力は凄まじい。父は後退り、ルネは頭がぼうっとなる。ぼうっとしながらも、言葉の一つ一つの意味を、確かめるように反芻した。
 この里はまだ無事だ。断片的な情報だけが外から伝わってくる。だから、認識がずれていたのだ。本当に最前線に出る人たちよりも、あまりに暢気だった。人柱を立てさえすれば、この先もずっと無事でいられるだなんて。
「それに俺たちは他の地域の奴らと戦っている。今日はたまたま猟の日だっただけだ。いつ死ぬかわからねぇのに、嫁なんかとれるかよ」
 ディンゴは言い捨て、すっくと立ちあがった。椀の中にはまだ汁物がたっぷり残っている。「行くぞ」と男たちを促すと、真っ先にラステットが、続いてカルバが、最後に汁物を一気にかきこんで椀を空にしたベレが続いた。
 こんなことは初めてだった。少なくとも、ルネが知る限りでは。姉たちを嫁にすることを、先方はとてもありがたがったと父からは聞いている。これでこの里に手出しはされないだろうと。けれども、本当にそうなのだろうか。ディンゴの話を思い返すに、それは認識の大きな誤りなのではないか。
 相手が喜んでいたとしたら、それはこの土地の娘を人質に得たということに対してなのでは。あるいはもっと酷い想像をするなら、姉たちはもう他の土地で嬲り殺されて――。
「あ、あの!」
 痛む足に構わず、ルネはディンゴの前に飛び出した。熊の毛皮でできた外套にしがみつき、やぶ睨みの眼を見上げる。機嫌が悪そうだ。でも、怖くない。この人は、自分を助けてくれた人だ。酷いことはしないはずだ。
「あぁ? 何だよ」
 他の姉たちがどうなっているのかはわからない。でも、せめて自分だけは生き残って、この里を守らなければ。とても小さいけれど、自分が育ってきた場所だ。人々はルネに優しく、父はもしかしたら間違っていたのかもしれないが、里を想っていたのは確かだ。ルネにはこの里を守る理由がある。
 そしてこの小さな体では難しくても、彼らならばできるかもしれない。いつ死ぬかわからないという日々の中、確かにここに生きている彼らなら。
「私のこと、嫌いですか」
 ルネはディンゴの瞳を真っ直ぐに見る。
「私、あなたのお嫁さんになっちゃ駄目ですか」
 一瞬、大雪の後のような静寂が室内を包んだ。ルネ自身、どうしてこんな言葉が出たのか、よくわかっていない。
 ただ、この人と結ばれれば父の願いは叶い、そして自分にも悪くないのではないかと、後になって思考がそこまで追いついた。
「駄目だ」
 静寂を破ったのは、ディンゴの一言だった。そっとルネの体を退けると、そのまま外に出ていってしまう。それをカルバとベレが追いかけた。
 最後にラステットが、丁寧に礼をした。
「温かいものをごちそうさまでした。ルネさん、どうか足を大事に。薬を毎日塗っていれば、傷は薄くなるはずです」
 そうして彼も出ていった。あとには腰を抜かしたままの父と、床にへたり込んだルネが残された。



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雪の妖精 プロローグ

 灰色の空から落ち来る、指先に乗るくらいの結晶。凍る地面に降り積もり、いつしか硬い道となる。そして温かな風が吹く頃に、消え去っていく。
 大陸にまだ大きな国ができていなかった昔、人々が争い生きる場所を勝ち取ろうとしていた時代。そんな生き方をした、一人の女性がいた。彼女の名前はほとんど忘れ去られたが、今でも存在は伝えられている――「雪の妖精」という呼び名で。
 伝わる物語はすでに真実ではなくなっている。彼女は神性化され、美しさと奇跡だけに飾られている。どんな書物を紐解いても、彼女の全てを知ることはできない。
 けれどもたしかに彼女は生きた。ひとりの逞しい人間として、この北の大地に。


 * * *


 映画監督を名乗る男が面会を申し込んできたのは、この国で一番寒い時期だった。最低気温は今シーズンの記録を更新し、道の脇には雪が積み固められている。春はまだ遠そうだ。
「あなたはヴィオラセント家の末裔なのでしょう。何か知っていることはありませんか」
「知りませんね。そもそも俺は養子ですから」
 縋るような彼の言葉をばっさりと切り捨てて、ノーザリア王国軍大将ダイ・ヴィオラセントは口元だけで笑った。本来、このような人物と会うこともない。面会を許可したのは、一応彼の名前を知っていたからだ。
 この映画監督は、これまでに数々の作品を世に送り出してきたが、どれも大きくは流行らなかった。けれども作風は古典的な絵画のような美しさを持っていて、その映像美に惚れ込むコアなファンがついている。ダイの養母もその一人で、一緒に彼の映画を何本か観たことがあった。もっとも、ダイには退屈だったのだが。
 その美しく退屈な映画を作る人物が、大作に着手したいという。それにはどうしてもダイの協力が必要なのだそうだ。映画なんて勝手に作ればいい、と最初は思ったのだが、彼の持つ理由を聞いて、直接会う気になった。――会って、断ろうと思ったのだ。その作品は完成させることができないと思ったし、だからといって勝手なことを描かれても困るのだった。
「過去の記録などに心当たりがあるということも」
「ありません。記録がかつてあったとしても、焼失している可能性が高いかと。ヴィオラセント本家は大昔に燃えてしまいましたし」
 ダイが生まれるよりもっと昔のことだ。このノーザリアという北国にあったヴィオラセントという名の家は、火事でなくなってしまった。そのとき生き残ったたった一人の子供も、四十の頃に亡くなっている。ダイはその生き残りの名前を継ぐ養子で、そのことは多くの人が知っている。
 ただ、全く血縁がないというわけでもない――ということは一部の人間だけが知る真実だ。ダイが生まれたホワイトナイト家は、血筋を辿ればヴィオラセントの分家だった。つまり、遠い親戚なのである。しかし件の映画監督はそれを知らないはずだった。
「本当に、何も遺っていないのですか。お父様から、何か聞いていたことも」
「ありません。ですから、ヴィオラセント家の映画など作れません。諦めてください」
 映画監督は肩を落とす。おそらくは自分でできうる限り手掛かりを探し、最後にここに頼ったのだろう。可哀想だが、こちらから提供できるものは何もなく、そして勝手にヴィオラセント家のイメージを作られるのも避けたかった。あんまり綺麗なものを作られてしまっては、ダイが今後動きにくくなる。自分のやりかたがけっしてクリーンであるとはいえないことは、自らが一番よく知っている。
 メディアの作りだすイメージは強い影響を及ぼす。面倒はごめんだ。
「でも、私は描きたいのです。『雪の妖精』を」
 拳を強く握り、ダイを真っ直ぐに見て、映画監督はなおも訴える。簡単には引き下がらない。彼は自分の人生を賭けている。流行りはしなかったかもしれないが、映画はひとつひとつが彼の命だった。――だからこそ資料がないままに描くのは諦めてほしいのだが。
 どうか諦めてお帰りください、と言って引き取ってもらおうとしたときだった。扉が先に開いて、青年が何の断りもなく応接室に入り込んできた。
「お茶のおかわりをお持ちしました」
「お前……。せめてノックはしろよ」
「あ、すみません。ついいつもの癖で」
 呆れるダイに、青年は舌を出してみせる。客の前だというのに随分砕けた態度に、映画監督はぽかんとした。
「部下が失礼をいたしました」
「いいえ。ノーザリア軍にも、こんな方がいらっしゃるんですね」
「あはは、監督、軍を買いかぶってますよ。これがノーザリア軍の通常運転です」
 ティーカップを置き、青年は気楽に笑う。ダイが睨むのも気にならないようだ。
「あなたは、私をご存知なのですね」
「知ってますよ。俺、監督の映画好きですから。あ、あとでサインもらえます? ウーノ・スターリンズ君へ、って入れてくれると嬉しいです」
「ウーノ、いい加減にしろ」
 とうとうダイが強めに叱り、青年は口を閉じる。表情はどこかいたずらめいたそのままに。映画監督は少し考えてから、もしや、と青年に向き直った。
「あなたは、スターリンズ前大将の」
「はい、息子です」
 あっさりと頷いた青年に、映画監督の目が光った。ダイは額を押さえ、しまった、と内心で呟く。ヴィオラセント家の記録はないが、こちらは現存するはずだ。
 ヴィオラセント家とスターリンズ家は縁が深い。スターリンズ家には代々伝えられている記録があり、そこから窺い知ることができる過去がある。そのことに、映画監督も思い至ったようだった。
「あなたは知りませんか、『雪の妖精』についての物語を。彼女の真実を」
 青年――ウーノに掴みかかるようにして、映画監督は問う。ウーノは目を丸くし、それから。
「真実かどうかはわかりませんけど、その人についてならうちに少しばかり記録があります」
 正直にそう答えた。
「監督、ずっと撮りたかったんでしょう。色々なインタビュー記事も読みましたから、知っています。『雪の妖精』に恋焦がれ、けれどもその本当の姿が掴めなかった。いよいよヴィオラセント姓の人間に直接当たってきたということは、今作を最後にするつもりですね」
 ウーノはダイよりもずっと彼と彼の作品に詳しいようだ。自分が生まれる前の映画や関連する情報も把握しているのだろう。映画監督はただただ頷いていた。
 ダイに振り返り、ウーノは微笑んだ。
「俺、この人の作品が観たいです。きっとダイさんに悪いようにはなりません。うちから記録を提供してもいいですか」
 問いながら選択肢を用意しない、そんな強引さは父譲りで、同時にウーノを部下として育ててきたダイの影響でもある。それを認めているからこそ、ダイは深いため息とともに、返事をした。
「……わかった、制作は許可する。スターリンズ家からの記録提供も。けれども公開については改めて話し合おう」
「わあ、横暴。ね、監督、ヴィオラセント家の末裔ってこういう人なんです。だからもし『雪の妖精』について理想と違うことがわかっても、絶望したりしないでくださいね。それだけ約束してください」
 同じ微笑みを、ウーノは映画監督にも向けた。

 とはいえ、スターリンズ家に残っている記録もごく僅かなものだった。ヴィオラセント家と縁があるといっても、「雪の妖精」について記述があるものは限られる。なにしろそう呼ばれていた人物が生きたのは、約五百五十年前のことだ。そのそも大陸戦争の頃の記録は、ノーザリアの敗戦の歴史ということもあり、あまり遺っていないのだ。
 そのなかで拾い集めた記録から「雪の妖精」の物語を紡ぎ直すことは困難で、だからこそ現実味のないおとぎ話だけが語り継がれてきた。そしてそのほうが、この国の歴史にとっても都合が良かった。
 しかし映画監督が求めているのは真実だ。「雪の妖精」が人間であることを描きたい。その一心で探し当てた、人生のかけらを繋ぎ合わせる。
「ああ、彼女の名は」
 誰もが忘れていた名前を見つけて、映画監督は目を細めた。愛しげにその文字を指先でなぞり、読む。
それがこの物語の始まり。呼ばなければ何も始まらない。



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2017年11月24日

彼女はあまり語らない

エルニーニャ王国立の軍人養成学校には、三種類のコースがある。一つは十歳から入学し、一年間の学習と訓練を経て入隊の準備をするもの。一つは一般の学校で教育を受けた後で、軍人に必要な技能訓練を主とするもの。そしてもう一つは、十歳から軍に入隊するためにその一年前から準備を始めるものである。
十歳入隊を目指すコースは新設されてから十年も経っていない。優秀な人材の早期育成のために、第二十九代大総統ハル・スティーナのときに定められたのだ。同時に軍人養成学校にも特待生制度と奨学金制度が設けられ、入学試験の成績によっては学費の免除や減額が受けられるようになった。
軍人養成学校に限らず、エルニーニャの多くの学校は学費が高いために、裕福な家の子供が通うところという認識がある。制度がどんなに変わろうと、人々の意識はなかなか変わらず、現在も学校に通う子供は家計に余裕がある者ばかりだ。より多くの子供に学習の機会をと創られた私立の学校には、いわゆる中流層の一般市民が通うこともある。だが学校に行って学ぼうという意識を持つ人間は、まだこの国には多くはないのだった。
無論、貧困層には学校に通うなどという考えはなく、それならば子供でもできる仕事を探した方がずっと生活には役立つというのが普通だった。
軍人になるならば、ある程度自分で一般常識と相応の体力を身につけておけば、学校になどわざわざ通う必要がない。それゆえに、軍人養成学校を卒業した軍人のほとんどは、軍家や貴族家、商家といった名家の出である。


リッツェ家は文派の重鎮であるが、軍人も多数輩出してきた名家だ。幼少期からレベルの高い教育を受け、相応の年齢になれば国立学校に入学する。しかし学校は十歳になる前に一度退学し、軍人養成学校へと編入して、そのまま軍人を目指すのが家の習わしとなっていた。
エルニーニャ軍人は若い。三十代ともなれば退役し、第二の人生を歩むこととなる。その道として文派に属することを用意されているのが、このリッツェという家だった。軍人でありながら文派にも通ずるという姿勢を保ち、文派でありながら軍の事情にも精通している人間になる。四男であるフィネーロも、親や兄たちと同様に文武両道であることを求められてきた。
もっともフィネーロは、武というものがあまり得意ではない。身体を動かすよりもおとなしく本を読むのが好きで、机の上の勉強と頭の回転の速さならば、時に兄ら以上の力を発揮する。兄たちはそんな弟の特性をよく理解し、かつ末っ子をとても可愛がっていた。
なので、フィネーロも慣例通りに軍人養成学校に編入させると父が決めたとき、兄たちは反対した。この子にはずっと勉強をさせてやり、ゆくゆくは父のように国立大学で教鞭をとったり、研究にうちこんだりする方が良いはずだと。
しかし父がフィネーロに「どうしたい?」と尋ねると、八歳のフィネーロはおずおずと答えた。
「僕も、お父様や兄さんたちのように、軍人をやってみたいです」
動くのは嫌いではない。それどころか、フィネーロは好奇心旺盛な少年だった。おそらく兄たちが思っていたよりも、ずっと。

かくして九歳になる年の四月、フィネーロは軍人養成学校の学生となった。この学校に運動着以外の制服はないが、誰もが名家の人間らしく仕立てのいい服を着て初日に集まっていた。もちろんフィネーロも例に漏れない。
だからこそ、彼女の姿はとても目立っていた。周囲がひそひそと噂をし、眉を顰めるくらいには。
大勢の視線につられて、フィネーロも目を動かした。視界の端に映ったのは、周りに比べると、いや、フィネーロが知る「一般」に即しても、あまりにみすぼらしい恰好の少女だった。
ぶかぶかのシャツは袖を大きく捲り上げている。ズボンは綻びていて、しかも彼女の足には裾が短い。他に着るものがなかったのだとすれば、明らかな「貧民」だ。本来、軍人養成学校にはいないはずの。
普通はいても学費を懸命に捻出した一般人で、それでも着衣はきれいだ。髪だって整えている。けれども少女は、長く伸びた髪を梳かしもせずに束ねているようだった。せっかく琥珀か蜂蜜かという、綺麗な色なのに。
どうして、という疑問は周囲の声で解けた。あの少女はどうやら、最近になって始まった特待生制度によってここにいるらしい。特待生は入学金が無料で、その枠に入るには入学試験での好成績が必要だ。家柄は問わない、というのは本当の事らしい。
つまりあの少女は「できる」のだ。勉強も、運動も。どんな環境で育ってきたのかはわからないが。
同じ十歳入隊コースの、同じクラスになった彼女の名は、出席をとる際に知った。メイベル・ブロッケン。たしかにブロッケンという名前は聞いたことがない。返事をする声は女の子にしては低く、どこか機嫌の悪さが窺えた。
「態度の悪い貧乏人」というレッテルはたちまち学内に知れ渡る。彼女が特待生であることよりも、金を払わずに入学してきたということのほうが話題としては面白かったのかもしれない。フィネーロにはちっとも面白くはなかったが、彼女がその噂を耳にしているはずなのに特に何も言わないので黙っていた。
もとより、話しかけるきっかけを与えようとしない相手だった。いつも透明で分厚い壁を自分の周りに作っているような少女に、どう接しろというのだ。
そんな人物が同じクラスにいるということは、すぐにフィネーロの家族にも知れた。父は何も言わなかったが、兄たちは口々に弟を心配した。
そんな問題児が一緒で、この先まともにやっていけるのか。今年のクラスは、フィネーロは、気の毒だ。何かあったらすぐに言いなさい、兄さんたちが学校に駆けつけてやるから。
兄たちはまともな人なのだけれど、弟のことになると我を忘れることがある。これからは何があっても黙っていよう、とフィネーロは誓った。

最初の一か月、メイベル・ブロッケンはおとなしい学生だった。衣服がいつも体に合っていなかったり、ぼろぼろだったことを除けば、問題も起こさない。何を言われても反論や反抗はせず、ただ黙々と授業を受け、実習に取り組んだ。成績はさすが特待生というべきか、どれも素晴らしかった。少なくともフィネーロは感心していた。
他人はどうだろう。その瞬間は黙ったようだが、以降も陰口は止まない。貧乏なくせに生意気だとか、軍人になるのもきっと金目当てだろうとか、そんな僻みを含んだ囁きがいつもどこからか聞こえていた。
文句があるなら、実力で示せばいいものの。それができないから僻むのか。そんな人間たちが、これから軍に入ろうとしているのか。そんな根性のまま大人になろうとしているのか。それを考えると、頭が痛くなった。
そうして五月の中旬、フィネーロは初めて彼女と接触する機会を得た。
「隣の席の人と、解答用紙を交換して採点するように」
そう言ったのはたしか、数学の教員だった。優しいと評判だが、やたらと学生同士を仲良くさせたがるので、人見知りをするフィネーロはこの教員の言動に度々困っていた。
他の学生たちからもこのときばかりは文句が出たと記憶している。自分の点数をクラスメイトに、それも大して仲良くない相手に知られるのは、あまり好ましくない。誰もが嫌々ながら解答用紙を机の上で滑らせて、隣の者に渡していた。
座席は決まっているわけではない。教室に来た順に、好きな場所に座ることになっている。彼女はいつも早くに来て一番前の端の席を確保していたが、その隣には誰も座ろうとしなかった。その日、家の都合で遅刻ギリギリに教室に到着したフィネーロには、その空いた席しか残されていなかったのだった。
隣から、解答用紙が差し出される。全ての欄がきちんと埋まった、見事なものだ。フィネーロも同様に空欄のない解答用紙を彼女に渡した。そのとき、案外彼女の字は読みやすいのだな、ということを知った。
「全問正解していた」
採点が終わった解答用紙を彼女に返すとき、フィネーロは何も考えずに一言を添えた。すると彼女は切れ長の目を見開き、こちらを向いた。その瞳は若草の色だった。
「何か問題でも?」
フィネーロが問うと、彼女は「いや」と小さく言った。
「ここに通うようになってから、初めて話しかけられたものだから」
彼女が纏っていた壁が薄くなったと感じた。驚いた顔は無防備で、フィネーロや他の学生と同じ、ただの九歳の少女だった。
休み時間に入ってから、フィネーロは彼女にさらなる接触を試みた。普段なら次の授業の準備と読書で暇を潰すところだが、今日はなんだか彼女と話をしてみたかった。
暇そうに欠伸をする彼女の手元にはノートはなく、代わりにくしゃくしゃになったのを広げたような紙が一枚あった。真新しい教科書と並ぶと、なんだか妙だ。
「まさか、その紙に授業の内容を?」
話しかけると、彼女は横目でこちらを見て、それから頷いた。
「ノートなんてきれいなものを買う余裕はないんだ。本当なら、私も働いて稼がなくてはならない」
低い声で律儀に返事をする。会話ができると判断し、フィネーロはさらにたたみかけた。
「じゃあ、なんで学校に」
「将来的に働いて稼ぐためだ。軍人になればいい稼ぎになる。学校を出れば何もせず試験を受けて入隊するよりも、確実に上の階級からスタートできる。当然貰える給料も多いだろう」
「いや、たしか十八歳までは支給制限があったはずだ。子供のうちは制限以上の給料は軍で管理し、制限がなくなったらまとめて返してもらえる仕組みになっている」
「制限……それは調べていなかった。だが、それまで生きて仕事をしていればいいんだな。制限がかかるといっても、家に金を入れる分には支障がない、……といいんだが」
しきりに金のことを気にするのは、やはり家が貧しいからだろうか。金のために軍人になろうとしている、という噂は間違いではないらしい。周囲は裕福な家の人間ばかりで、育った環境にも恵まれていて、金の心配などしたことがないだろう。フィネーロはそうだ。だから収入のことなど気にしていなかった。けれども彼女は、そこにこだわる。
「金が必要なのか」
「働いて対価を貰うのは当然のことだ。そしてそうでなければ生活ができない。私には、家族を養う義務がある」
そんなものは大人のすることだと思っていた。だが彼女はそうは思っていない。自分にこそその義務があるのだと、本気で考えているようだった。
「不躾で申し訳ないが、君は孤児なのか?」
「まさか。母親がいる。……ただ、あてにならない。あの人も働いてはいるけれど、稼いだ分だけ奪われてしまう。だから我が家には、より多くの収入と、それを守る力が必要なんだ。軍人になれば」
彼女の机の上にあった手が、強く拳を作る。爪が刺さりそうなほど、力がこもっていた。
「軍人になれば、その両方が得られる。私が実現してみせる」
若草色の瞳は宝石でも埋まっているのかというほどにギラギラと光って、ここには存在しない何かを睨み付けていた。そこに決意と怒りを見て、フィネーロは鳥肌の立った腕をそっとさする。
彼女には、確固たる目的がある。自分のように、家族がそうしているから自分もそうしたいなどという、ぼんやりした理由ではなく。もっとずっと先を見据えているかのようだった。
「……喋りすぎた。まあ、貧乏人の理屈だ、忘れてくれてかまわない。お前はこんなことは考えなくてもいいのだろうし、もっと有意義なことに頭を使ったほうがいい。記憶容量というのは限られているそうだからな」
投げやりに会話を終わらせた彼女の声に、授業開始のチャイムが重なる。気が付けばすでに教員が前に出ていた。クラス委員の号令で礼をし、授業が始まる。大総統史担当の教員は、すぐに前回の続きから話し始めた。
横目で確認した彼女は、真剣に授業を聞いている。教員の言葉を一言も聞き漏らすまいとして。

翌日も、さらにその次の日も、彼女の隣は空いていた。フィネーロはその場所を選んで座り、朝は彼女に「おはよう」を、帰りには「さよなら」を言うようになった。彼女はこちらを見ずに、同じ言葉を返す。休み時間にはぽつぽつと、授業のことなどを話した。
「最近、お前の噂を聞くようになったぞ」
何日か経った朝、挨拶の後に彼女が言った。
「リッツェが貧乏人に情けをかけてるって。そうなのか、フィネーロ・リッツェ」
たしかにそんな噂が流れ始めていた。彼女と話すのがフィネーロだけだったから、誰かが言いだしたのだろう。ついでに、女子は恋だのなんだのと言っている。「リッツェ君、趣味良くないね」だそうだ。
「誰かに情けをかけたことはない。僕は僕のしたいようにしているだけだ」
「そうか、お前は私に構いたくて構っているのか。変わった奴だ」
「変わっているか? ただ会話をしているだけなのに」
「普通の人間は、こんな汚い恰好をしている奴と話そうとは思わない。思ったとして、それは同情か恩を着せようとしているかだ」
フィネーロのしていることは、そのどちらでもないつもりだ。しいていうなら、興味だろう。そう正直に言ったら、彼女は「なるほど」と頷いた。
「それなら納得だ。私はお前とは違う人間だからな。お前は名家の坊ちゃん、私はここにそぐわない貧乏人だ。興味はあるだろう」
「そうではないのだが……。周りの声を気にしていなさそうだから、その平常心に感心しているんだ」
「そう見えるか」
彼女は鼻で笑った。子供の顔のまま、大人みたいな表情をする。
「くだらないことにいちいち反応していたら、頭の容量と労力がもったいない。それだけのことだ」
「なるほど。たしかにそうだな」
周囲の声など気にしていたら、彼女の目的を達成する邪魔だ。彼女の労力は、彼女曰く家族を養うために使われるべきなのだから。
「しかし、雑音が多いと集中しにくいのは事実だな」
「すまない、僕が君の邪魔をしているんだろう」
「お前は邪魔じゃなくて気分転換だ」
子供なのに大人びていて、賢くて、気が利いて。なにより家族思いで。フィネーロから見れば、このクラスでメイベル・ブロッケンより出来た人間はいない。末っ子で甘やかされてきた自分が恥ずかしくなるくらいだった。
これからも彼女から学ぶことはたくさんあるだろう。そのために、できるだけ一緒にいたい。誰かの言うような恋とかではなく、きっと憧れが一番近い感情だ。
だから、彼女の頼みには驚いた。
「ところで、私は教科書以外の本というものをまともに読んだことがない。お前は私と話してばかりいるが、本当は読書が好きなんだろう」
「まあ、読書は好きだが」
「何が面白いんだ、教えてくれ。妹たちに話してやりたいんだ。私は何も知らない」
憧れは上の人間に抱くものだ。しかし彼女は、自分は何も知らないのだと言う。教えてほしいと言う。それが不思議だった。
フィネーロはちょうど鞄に入れていた本を取り出し、彼女に差し出した。
「読むといい、自分で。これくらいなら、君はすぐに読み解ける。噛み砕いて家族に話すことだって容易だろう。お薦めはいくらでもあるから、読みたいものがあれば言ってくれ」
彼女は、しかし、本を受け取らなかった。手を伸ばそうとはしたが、すぐに引っ込めてしまった。目が泳ぎ、いい、と答える。
「物を借りたくない」
「じゃあ、学校で読んでしまうのはどうだ。内容を覚えるくらいの容量は、君の頭なら十分に残っているだろう」
自分でも驚くほど強引に、フィネーロは彼女に本を押し付けた。やっと本を受け取った彼女は、その表紙をしばらく眺め、紙の並びをなぞってから、小さな声で「感謝する」と言った。
その日彼女は、授業が終わっても帰らなかった。本を読みふけり、席を立とうとしない。フィネーロは何も言わずに先に帰った。彼女は借りたくないと言ったが、引き上げるわけにもいかない。
遠慮せずに借りていればいい。持って帰って、妹や弟に読み聞かせてやればいい。何日でも、好きなだけ。――そう思っていたのだが。
翌日、本は無残な姿で返ってきた。
「すまない」
千切れた表紙と、破られたページ。汚れて、よれて、ぼろぼろになってしまったそれを、彼女は朝の挨拶よりも先に差し出してきた。
「どうしたんだ」
「……こうなってしまうから、借りたくなかった。しかしお前は先に帰ってしまったし、どうしたものかと考えて、結局持ち帰ったんだ。隠していれば大丈夫だろうと思っていたのだが、甘かった」
答えになっていない。けれども、彼女の家庭で何かあったのだということは予想がついた。妹や弟がやってしまったことならば仕方がないだろう。
「僕は気にしない。本の修復なら、兄さんが得意だ」
「直るのか」
「ああ。どうやら君は、壊れたパーツを全て持ってきてくれたようだし。それより、内容は覚えられたのか」
彼女の手から本と本だったものを受け取り、フィネーロは尋ねた。彼女は瞠目し、「それより?」と低い声で呻く。
「自分のものを壊されて、怒らないのか、お前は」
「僕は別に。壊れるものなら仕方がないだろう」
席に着いたフィネーロを、彼女は睨む。強く、鋭く。そして首を傾げたこちらに告げる。
「やはりお前は坊ちゃんだな。私とは余裕が違う」
透明な壁が、せっかく取り払われつつあったものが、また厚くなってしまったような気がした。

夏になると、訓練の授業が本格的に始まった。各々武器を選び、その扱いを覚える。選択ごとに教員も異なり、いつものクラスとは違うメンバーが顔を合わせるようになる。
フィネーロは武器が決まらなかった。訓練は体術を習う全員共通のものと、武器を扱うものを必ず受けなければならないのだが、武器の適性がわからない場合は無難なものに振り分けられることになる。すなわち、軍で最も使用頻度の高いもの――剣や銃だ。剣はさらに細かく、長剣や短剣などに分かれる。
「武器の適性が見つからなくても、一つ基本を押さえておけば、試験には合格できます。リッツェ君はどうしますか」
「では、ナイフで」
重い剣や衝撃の強い銃は、自分には不向きだと感じた。そこでナイフを選んだのだが、これもまたフィネーロにはなかなか扱いにくい。まず、相手の懐に飛び込む動作が難しかった。
もっと訓練しなければ追いつけない、と悩んでいる間に、彼女の噂が聞こえてきた。迷いなく銃を選んだ彼女は、訓練で優秀な成績を誇っているらしい……というのは聞こえが随分いい方で、周囲の言葉通りなら「鬼気迫っていて怖いくらいだ」という。
基本の拳銃だけではなく、あらゆる火器の構造と扱いを瞬く間に習得し、実践してみせる。彼女一人で的をぼろぼろにし、それが人型ならば確実に急所を狙う。軍人になりたいのか人を殺したいのかわからない、と教員がぼやいていたこともあった。
もちろん軍人養成学校の卒業生がむやみに人を殺すようなことはあってはならない。軍の規則ではやむを得ない場合に限り相手を殺してしまうことになっても罪には問われないことにはなっている。だが、そんな状況は無くしていきたいというのが現在の軍の考えだ。いくら凶悪犯でも、殺してしまえば事件の真相はわからなくなってしまう。
彼女には指導が入った、と聞いたのは汗ばむ日が続く頃のことだった。ちょうどフィネーロが武器の変更を考えたほうが良いと、教員から指導された時期と同じくらいだ。
「ブロッケン、教員から何か言われたのか」
席はずっと隣だった。だが、会話は破れた本を返された日を境に激減していた。だから話しかけるのには、少し躊躇いがあった。けれども彼女はいつもの不機嫌そうな声で返事をしてくれた。
「ああ、もっと落ち着いて訓練に臨めと。実際に任務に就いたとき、今のままだと問題だと言われた」
「問題?」
「手加減を覚えないと死者を出す、だそうだ」
うんざりしたように溜息をついて、彼女はフィネーロに向き直った。久しぶりに真正面から、若草色の瞳を見た気がした。
「なあ、リッツェ。お前はお坊ちゃんだからわからないかもしれないが、一応訊く。性根から悪である人間は、排除すべきではないのか。そのほうが世のためじゃないのか」
いつかのように、ギラギラした眼。彼女は正義感が強いのだろうか。少々、極端な方向に。
「他人の性根なんて、わからないだろう。それに一方的な排除は物事の包括的理解に繋がらない」
「理解する必要が? そもそも理解など可能なのか? お前には、できるのか?」
自分には、と考えるとフィネーロも言葉に詰まる。理解する、というのは難しいだろう。身内でさえ考えを理解したり納得したりすることが困難なのだ。しかし、だからといって考えないというのは、違う気がする。排除するだけでは解決しない。フィネーロは父からそう教わってきた。
「……理解できなくても、物事の原因を探ること、同様の事件を防ぐことは、多少なりともできると思う。僕がなりたいのは、そういう軍人だ」
もっとも今の実力では、それすらも難しいかもしれないのだが。つい唇を噛みそうになったところで、彼女が鼻で笑った。
「いいな、お前は。先のことが考えられて。やはり余裕が違う」
「以前もそう言っていたな、君は。君には余裕がないのか」
「ない」
きっぱりと一言で返す彼女は、もうフィネーロを見てはいなかった。
それから数日が経ち、体術の男女合同訓練があった。普段は体力差や体格差を考え、男女別になっているのだが、実戦ではそうもいかない。ときどきは合同での訓練を行い、互いに対応を学ぶというのが趣旨だ。けれども体力差や体格差の考慮はそのままだ。フィネーロは力のさほど強くない女子を相手にすることになり、彼女は――フィネーロが知る限り、クラスで最も力のある男子と組んでいた。
さすがにあれは可哀想じゃないか、と男子らは失笑する。女子らは「実力で決まったのなら仕方がない」と言っていたので、彼女の成績が女子トップであることは確かなようだ。
合図とともに組手が始まる。初めのうちは男子が手加減しようとするが、次第に本気の女子に押されていく。男だろうが女だろうが、最終的に目指す場所は一緒なのだから、油断は禁物だ。フィネーロなどは手加減などするまでもなかった。相手の攻撃を受け止めるより、かわす方が多くなってしまう。上手に受け身をとることも訓練の一環だというのに。
苦戦しているところで、担当教員が「止め」と号令をかける。ふらつきながらも呼吸を整えようとしていると、大きな音が体育館内に響き渡った。
床に何か叩き付けたようなそれに、教員までもが即座に反応できなかった。受けた当人すら、何が起こったのかわからなかっただろう。周囲は茫然と、音の方向を見ていた。
そこには彼女が仁王立ちになっていた。冷たい眼で見下ろしているのは、クラスで一番強かったはずの男子だ。彼は床に仰向けになって倒れ、手足が不規則に震えていた。
「痙攣?! おい、大丈夫か!」
教員が慌てて駆け寄り、保健委員が体育館の外へと走る。養護教員が体育館に入ってきた頃には男子学生の痙攣は治まり、意識も戻っていたが、様子を見るために体育館の隅で診察が始まった。
「ブロッケン、何をした?」
眉を寄せた教員が問い詰めると、彼女は平然と返した。
「頭を蹴り、バランスを崩したところでさらに腹に頭突きをしました。倒れかかったところでもう一度頭に一発」
「頭部への攻撃は禁止したはずだ! 銃の訓練でもそうだったが、お前の行動は危険すぎる」
「すみません。相手が訓練と関係のないことを言ったものですから、つい頭に血が上ってしまって」
謝ってはいるが、そこに反省の色は見えない。「本気を出して何が悪い」と言う彼女が、フィネーロの脳裏をよぎった。
「訓練と関係のないこととは?」
「私に対して『貧乏人は靴磨きでもしていろ』と。私だけでなく労働への侮辱でもある。こんな人間が軍人になるのだと思うと、ここで頭でも打って諦めさせた方がいい気がした」
体育館中が息をのんだ。教員に向かってあまりに正直すぎる発言をしたことと、相手に重傷を負わせる意図があったこと。彼女のしたこと全てに、教員も学生も絶句した。
だがフィネーロは、やりすぎだとは思ったが、彼女の気持ちはわからなくもない。我慢をしていたのだろう、ずっと。
「彼には病院で検査を受けてもらう。もし異常があり、障害が残るようであれば、相応の処分がある」
そう言われて、彼女はやっとほんの少しだけ動揺したようだった。口元が僅かに歪む。
幸いにも、相手の男子に異常はなかった。処分――もしかすると退学もあり得たかもしれない――を免れた彼女は、しかし厳重注意を受け、またしばらくおとなしくしていた。

夏の盛りの頃に、二週間ほどの連休がある。学校に行かないあいだの学生の過ごし方は様々だが、フィネーロに関していえば読みかけの本を読み終わり、新しい作品に手を出せる期間だ。少しばかり課題が出されているが、それは初日に片付けてしまえばいい。
図書館で勉強をし、本を借りて、ついでに書店にも足を伸ばそう。計画を立てて暑い外へ出た。図書館の前には数人の子供がいて、商店街の催し物についてのチラシを配っている。一枚受け取ると、配っていた女の子がにっこりと笑った。
顔はまるで似ていない。けれども、琥珀色の髪と若草色の瞳は、すっかり馴染んだものと同じ色だった。
「ありがとうございます。ぜひ来てみてくださいね」
年齢は六つか七つといったところだろうか。幼いのに、汗を流しながらチラシの入った籠を抱えている。傍らにはまだ開けていない箱もある。彼女と出会わなければ見過ごしていただろう。
この街には、そこかしこに「働く子供」がいる。中心部からは少し離れた場所に住む子供たちだ。富裕層の住む立派な家が建ち並ぶ区画があるのと同じくらい、古く簡素な家並の低所得者層の住む区画も存在する。働くことにこだわる彼女も、そういうところに住んでいるのかもしれない。
「カリン、まだ残っているか。もう一箱は引き受けるぞ」
図書館のエントランス前で物思いに耽っていると、聞き覚えのある声がした。彼女の事を考えていたから幻聴でも聞こえたのかと思ったが、振り向くと現実だった。琥珀色の髪の少女が、もう一人。
「……ブロッケン」
「ん、リッツェか。こんなところで何をしている」
彼女は同じ髪の色の少女の足元から、箱を持ち上げようとしていた。よっ、と言いながら箱を抱え直したので、少し重いらしい。いったいどのくらいのチラシが入っているのだろう。
「僕は課題をやりに。君こそ何を?」
「せっかく学校が休みなんだ、稼ぎ時だろう」
当たり前のように言って、彼女は去っていこうとする。この場に残った籠を提げた少女が振り返り、フィネーロにもう一度笑顔を見せた。
「お姉ちゃんのお友達ですか?」
「友達……かどうかはわからないが。君は彼女の」
「妹のカリンです。いつもお姉ちゃんがお世話になってます」
ぺこり、と頭を下げてから、続いてやってきた人にチラシを差し出す。――働いて対価を得なければ、生活ができない。こんな小さな子供までもが。
「あの、余計なことかもしれないが、役所に行って生活補助金の申請をしたほうが暮らし向きは楽になるんじゃないか」
思わず口を出したフィネーロに、カリンは困ったように笑って首を横に振った。
「できないです。お姉ちゃんが役所で聞いてきたんですけれど、そういうのって大人が申請しないとだめなんですって。うちだとちょっと、それが難しくて」
見た目よりもしっかりと、はっきりと、少女は答えた。そしてまたチラシを配り始める。何事もなかったように。
そして人が途切れると、フィネーロを振り返って言うのだった。
「できたら、お姉ちゃんとずっと仲良くしてください。お姉ちゃん、学校のお友達の話をするときは、楽しそうだから」

夏期休暇の初日しか、彼女には会わなかった。だが、そのときには彼女は元気そうだった。
少なくとも、顔に大きな青痣などなかった。額と目元と頬が青黒くなり、見る人が思わず短い悲鳴を上げるような、そんな顔ではなかったはずだ。
「おはよう、リッツェ。休みはのんびりできたか」
「おはよう。君、その顔はどうした」
「ああ、夏だからな。化け物は夏が一番流行るだろう」
真顔で冗談めいたことを言う彼女は、それ以上を話さなかった。教員に呼び出されて戻ってきてからは、ずっと不機嫌そうだった。怪我のことを聞かれたのだろうが、おそらく詳細を語ってはいないだろう。
これまで彼女や彼女の妹から聞いた話を思い出す。彼女とのあいだにあった出来事を振り返る。どう考えても、彼女の家に問題がある。だが、他人の家はフィネーロが踏み込んでいい領域ではない。彼女が絶対に踏み込ませない。
彼女は今日もくしゃくしゃの紙に授業の内容を書いていて、傍らの教科書は気づけば破られた表紙を貼りあわせてあった。いつかフィネーロが貸した本を思い出す。
「休みのあいだ、ずっと働いていたのか」
「そうだな。それがどうかしたか」
「課題は」
「やったぞ。そうだ、リッツェに見せてもらえば答え合わせができるな」
そう言って彼女が取り出した紙束も、一度乱暴に破られた跡があった。


怪我をしていても彼女の成績は良く、運動能力は高かった。怪我はそのうちきれいに治り、そしてその頃には軍入隊のための模擬試験や実技試験に備えた本格的な演習が始まっていた。入隊試験は三月。これは軍人養成学校の卒業試験でもある。
クラスでは、筆記試験ならフィネーロ、実技試験なら彼女がトップに立つようになっていた。入隊試験でも好成績があげられそうだと期待されている。学校を卒業すれば入隊時の階級は高くなるが、全体の成績で学卒者がトップに立つことは珍しい。だから成績が良いと、今度こそはと期待がかかるらしかった。
「リッツェの家は名家だから、きっと家族は一番になってほしいと思っているんだろうな」
「そうでもない。家族は僕にはあまり期待していないんだ。頭は良いが、軍で功績を上げるのは難しいだろうと、みんな思っている」
秋になっても――じき入学から半年が経とうとしていた――フィネーロに対する家族の評価は変わっていない。兄らは今でもフィネーロに一般の学校に戻るよう勧めてくる。きっと軍に入っても認識は変わらないだろう。何か大きな功績をあげない限りは。
しかし、例えば北方司令部で諜報部員として成果をあげ、重宝されている長兄と比べられてしまったら、フィネーロなどは何をしてもちっぽけなまま、小さな末っ子のままなのだろう。半ば諦めながらも、自分の選んだ道からおりるつもりはない。
「ブロッケンこそ、家の稼ぎ頭になるんだろう。期待されているんじゃないか」
「妹や弟からはな。早く稼げるようになって、いい服を着せてやりたい。そうしたらチラシ配りや靴磨きだけではなく、どこかの店で販売や案内ができるかもしれない」
彼女が働いても、妹たちもまだ働かなくてはならないようだった。彼女もまた、家の状況がすぐに変わるということはないらしい。もっとも、フィネーロはその状況とやらをいまだによくわかっていないのだが。彼女は依然として、詳しいことは何も語らない。
それからも進展はなかった。彼女はときどき青痣を作って登校してきては、教員に呼び出されている。フィネーロはとうとうその理由を聞けないまま、年を越し、卒業試験――入隊試験の日を迎えた。
結論からいって、トップにはなれなかった。学校に通っていない者がいつも通りに優秀な成績を残し、学卒者はそれに続く形での合格となった。特に実技はずば抜けて高い能力を持つ少女がいて、勝てる者がいなかった。まさに波乱の試験だったのだ。
ともあれ、フィネーロも彼女も、エルニーニャ王国軍中央司令部に伍長として配属が決まったのだった。

事件は入隊後間もなくして起こった。まだ寮の部屋も決まっていない頃、彼女はいきなり謹慎処分を受けた。なんでも上司の許可なく勝手に行動を起こしたそうで、その結果一人の男が捕まったものの、手柄は上司のものになった。
捕まった男の名はブロッケン。正真正銘、彼女の父親だった。
「妻と子供を虐待していたそうだ。酒浸りでよく暴れ、薬にも手を出していたんじゃないかと、余罪を追及中。軍に早くに通報してくれさえすれば、ブロッケン伍長も勝手なことをして謹慎になんかならなかっただろうに」
そう教えてくれた上司の言い分を、フィネーロは納得できず、けれども彼女が軍人になろうとした理由はようやく理解できた。
彼女は家族を守る力が欲しかったのだ。自分の手で家族を苦境から救いたくて、この道を選んだのだ。そしてそんな現実を知らないフィネーロには、知らないままでいてほしかったのだろう。だから本を借りることを拒否したのだ。あれから何を薦めても、彼女は学校で読むようにして、フィネーロが帰る頃には返すようにしていた。
謹慎にはなってしまったが、きっとやり遂げたのだろう。彼女は家族を救えたのだ。――そう思っていたのに、処分期間が終わって戻ってきた彼女は、まったく嬉しそうではなかった。
「私は家を壊してしまった」
明日には寮に入るというその日、彼女はフィネーロの隣でぽつりと呟いた。
「壊した、とは」
「あの男のせいで元々壊れていた家だったが、それなりに均衡は保たれていたんだ、多分。それを私が崩した。母には随分罵られたよ、『お父さんを売るなんて、なんて子だ』って」
ブロッケン家は救われなかった。彼女一人では、子供の手だけでは、どうにもできなかったのだ。そしてそれを聞いたフィネーロにも、何もできない。こちらは完全に部外者だ。手の出しようがない。
それでも、彼女は話した。フィネーロが知ることを許した。
「理解できないだろう、坊ちゃんには」
「……そうだな」
フィネーロは正直に頷いた。だが、彼女について、彼女とともに、考えることはやめたくない。
彼女も寮に入る。実家のことはすぐ下の妹に任せたという。母と一緒に生活することは無理だと判断したためだった。
「お前も寮に入るんだろう。せいぜい先日のように呼び出されて虐められることのないようにな」
「気をつけるよ。もう二度と君に助けられるなんて失態はごめんだ」
「だが、何かあったら手は貸してやる。私はお前に恩があるからな、フィネーロ」
「僕も恩返ししなくてはならないな。これからもよろしく、メイベル」
差し出した手はとられることがなかった。そのかわり、彼女は「恩返しなら」と口角を持ち上げる。
「本を。どうせ寮にも持って来るんだろう、貸してくれ。今度は誰にも破られないし、ゆっくり読める」
彼女と同じ表情で、フィネーロは「もちろん」と返した。



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posted by キルハ制作委員会 at 20:18| Comment(0) | 小ネタ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月02日

秋晴れの向こうへ

歌姫の声は広い空を渡っていく。街を越え、平原を、山を、あらゆる村や国境を越えて響いていく。それはこの世界への愛であり、祈り。かつて壊してしまった幸せへ向けた懺悔と鎮魂でもある。
美しい旋律を支える楽器の音色は、歌に込められた意味を知らず知らずのうちに、大切に、柔らかに、そっと包んでいた。
人の耳に触れると、涙がこぼれそうなくらいに優しい。心の中にあるあらゆる感情に、じんと沁みていくのだった。


「リーゼッタ、君に仕事だ」
事務室長を務める大佐に呼ばれ、ルイゼンは書類から顔を上げた。じきに片付きそうなので、手を止めてもこの後の仕事に影響することはないだろう。
席を立ち、大佐の座る室長机の前に進むと、仕事の内容が書かれた文書が手渡される。エルニーニャ軍で定められた書式は見慣れていて、すぐに中身を把握することができた。
「この依頼を、俺にですか?」
書面には『先方はルイゼン・リーゼッタ中佐を指名』とある。依頼型任務には、時折このような指定が入ることがあるのだが、ごく稀だ。希望が通る数はもっと少ない。大佐もそれはわかっていて、「都合がつかないなら他の人員にまわす」と言った。
「リーゼッタは室長の私よりも忙しいからな、無理にとは言わないよ」
「いえ、スケジュールに問題はありませんし、それが依頼なら受けます。ただ……」
仕事なら全うする。いつでもその姿勢は変わらない。だが、この任務には疑問があった。――依頼主はルイゼンもよく知っている人物で、しかしこちらのことはあまり信用していないものと思っていた。本当に彼が依頼主なのか、そこからして疑わしい。
「……これが本当に先方の希望なのか、確認したいです」
「その点に関しては確かだ。依頼主はわざわざ司令部に出向き、君の名前を出したらしい」
ルイゼンはさらに困惑したが、事実はどうあれ、これは自分の仕事なのだ。名前がある以上、責任を持ってやり遂げなければならない。
「音楽祭警護任務、承りました」
敬礼してみせると、大佐はホッとしたように頷いた。

エルニーニャ王国首都レジーナの秋は、芸術の秋だ。商店街や大通りは街路樹と絵やオブジェに彩られ、小さな楽隊が毎日のように公園で演奏会を開く。音楽祭はそういった中で生まれたイベントだ。
主催するのは、市民の生活と文化を司る文派の人々。多くは学術機関に属している者で、音楽祭で活躍するのは彼らに教わる学生たち。音楽祭とはいうものの、披露されるのは歌や演奏に限らない。一般市民を対象とした特別講座や、スポーツに分類されそうなパフォーマンスなど、様々な催し物がある。文派が軍や王宮と立場を同等にして以降、このようなイベントが数多く提案され、綿密な計画を練って実行に移されるようになった。
音楽祭に参加するのは「市民」。普段は軍に所属していても、王宮で仕事を得ていても、誰もが等しく「この土地に住む人」として扱われる。警備は軍ではなく、警備会社に委託するのがいつものやり方だ。だが、どうやら今回に限っては勝手が違うようだった。
「今年の音楽祭の目玉は、学生楽団によるオーケストラと歌姫の歌唱だ。ところが学生楽団の運営に宛てて、当日の演奏を妨害する旨の脅迫状が届いた」
任務の内容をさらに詳しく資料にしたものを、ルイゼンは五部用意した。一部は自分でとっておき、あとは自らがリーダーを務める班員に配る。――フィネーロ、メイベル、カリン、そしてイリスに。
依頼主の名前を見て、イリスが首を傾げた。想定通りの反応だった。
「これさ、本当に受けちゃってよかったの? ゼンはまあいいとして、わたしがメンバーにいるのはまずいんじゃない?」
「俺もどうしようか悩んだ。けど、先方は俺を指名して、その俺の直属の部下がお前たちなんだ。先方がこうなることを予想していないはずはないし……」
「それでもわたしは外しといたほうがいい気がするよ。もしトラブルが起きたら、ゼンの責任になっちゃうよ」
いつもなら任務には乗り気のイリスが、今回は自分から「外せ」と言う。カリンが目を丸くして、イリスの袖を引っ張った。
「どうしちゃったんですか、イリスさん。任務は名誉挽回の機会だって、積極的に取り組んでたじゃないですか」
「カリンは中央に来て日が浅いからな、知らなくても仕方ないだろう」
口を挟んだのはメイベルだ。彼女も、そしてフィネーロも、今回の任務の妥当性を疑っている。
「依頼主のシャンテ氏は、リチェスタの親だ。ルイゼンとイリスにとっては天敵ともいえる」
資料を指先で叩き、メイベルがずばりと言う。名前の挙がった二人は苦笑を浮かべた。
リチェスタはイリスとルイゼンの幼馴染だ。現在は女学校の学生で、二人とは別の道を歩んでいるが、頻繁に連絡をとり、たまに顔を合わせる、正真正銘の親友である。
しかし文派の中でも重鎮であるシャンテ家の主人とその妻は、娘の友人のことを昔から良く思っていない。リーゼッタ家は裕福な一般家庭で近所付き合いがあること、インフェリア家は軍の名家であることで、なんとか存在を認めてもらっている状態だ。本当は、昔ガキ大将であったルイゼンや、習い事があるリチェスタを引っ張り遊びまわっていたイリスとの友人関係は、見直してほしいと思っているのである。
上品な友人と、上品な付き合いを。それを幼い頃から聞かされてきたリチェスタは、しかし学校でなかなか友達ができなかったこともあり、ルイゼンとイリスを大切に思ってくれている。学校での人間関係が上手くいくようになっても、初めての友達である二人との関係を切ることはなかった。
そんな事情を改めて説明され、カリンはほう、と息を吐く。
「リチェスタさん、イリスさんやルイゼンさんが怪我したときもすぐに駆けつけてくれて、とても良い人ですよね。でも、親御さんはそういうの、あんまり良く思ってないんですかね……」
「ゼンは親同士がうまくやってるから、わたしほどは風当たり強くないはずだけど」
「親はな。でも俺自身は昔と変わらない。……いや、昔より厄介に思われてるはずなんだ」
イリスは「なんで?」という顔をするが、メイベルは黙って頷き、フィネーロは当然のことのように補足する。
「年頃の男女が一緒にいれば、噂にもなるだろう。ルイゼンはときどき、寮を訪ねてきたリチェスタを送っているからな。それにリチェスタの態度が堂々としてきたから、心の内が親に覚られてもおかしくはないだろう」
「なるほど。リチェのとこ、恋愛も厳しそうだもんね」
イリスはシャンテ家の厳しさを幼少期から痛感している。父親は忙しいせいか会ったことはないが、母親はとにかく娘を「健全に」教育しようとしている人だった。「乱暴な子供」であったイリスやルイゼンを目の敵にして、一緒にいるところを見つかると全員に怒りが向いた。
後にルイゼンはシャンテ家への出入りが許されたが、それは近所付き合いの延長と、ルイゼンが成長して母親も黙るような「紳士」になりつつあったからだ。すでに過去のガキ大将の影は、彼が怒りを爆発させたときくらいにしか見られない。
それでもまだ「恋愛は早い」と思われている可能性は十分にある。ルイゼンにもイリスにも、シャンテ家の人々は接触を避けるはずだった。
「それがわざわざルイゼンを指名するとは。文派の重鎮ならば、軍内のこともわからないわけではないだろう。ましてルイゼンの下にイリスがついていることなんて、親の井戸端会議でわかっていそうなものだが」
「お父さんはゼンのこと信頼してるんじゃないの? 軍のことがわかってるなら、ゼンが評判のいい軍人だって知ってるはず」
「ああ、イリスは知らないのか。リチェの父さん、あんまり家には帰らないけど、娘のことは溺愛してるんだ。俺、何度か『近付きすぎるな』って釘刺されてる」
「おおう……方向性は違うけど、ちょっとうちと似てるね……」
これはますます妙な事態になってきた。はたしてこの依頼に手違いがないと断定できるのか、全員が腕組みをして唸る。そのうちカリンがやっと腕を解いて、にっこり笑った。
「でも、リチェスタさんのご家族は、厳しいけど悪い人じゃないんでしょう? だったら、ルイゼンさんの働きを正当に評価しての指名だったんですよ。文派の人なら、少しでも親交のある軍人の方が依頼をしやすいでしょうし。難しく考えることはないと思います。そしてルイゼンさんがメンバーに選ぶなら、イリスさんのことだって認めるに違いないです」
「そうだね。だといいけど」
困ったような笑みのまま、イリスはカリンの頭を撫でる。悩んでいても仕方がない。これは仕事だ。私情を挟んではいけない。やるべきことをやるしかないのだ。
「ゼン、良い方に考えよう」
「良い方だろうが悪い方だろうが、もう受けた依頼だからな。理由なんかどうだっていい。全力で音楽祭を、学生楽団を護ろう」
ルイゼンも吹っ切れた。ようやく本格的にリーゼッタ班の仕事が始まる。


学生楽団は、レジーナの音楽活動をしている学生から優秀な者が選ばれて結成される。名前が挙がればそれは名誉なことで、同時に失敗が許されないという重い責任を負うことになる。
リチェスタ・シャンテは、幼少期から続けているバイオリンを、女学校の高等部に属する今では、多くの人が素晴らしいと絶賛する領域へと昇華させていた。昔は好きでやっていたわけではなかったのだが、真剣に取り組むうちに、自分になくてはならないものの一つになった。
今回学生楽団の一員に選出されたことは、素直に誇らしく、同時に大役を重く感じた。ただオーケストラに参加するのではなく、国内外に名の知れた「歌姫」と同じ舞台に立つのだ。
――ああ、緊張するなあ。こういうとき、イリスちゃんなら張り切って練習するんだろうけれど。
親友のことを考えるのは、長年の癖だ。知り合ってから十二年、いつも心を動かされるようなことがあれば、大切な人たちはどう思うだろう、どうするだろうと想像する。それで勇気をもらうこともあった。
――私は、まずは音に気をつけながら、丁寧に練習しよう。せっかくの機会だもの、台無しになんてしたくない。
心の中で意気込むと、すぐ傍で親友が応援してくれる気がする。報告すれば、本人の声で「頑張れ」が聞けるだろう。後でこっそり電話でもしてみようか。
同じ学校の友人に声をかけられたのは、そんなことを思っていた矢先のことだった。
「シャンテさん、楽団に選出されたんですってね。おめでとう」
「あ、ありがとう」
「でも、大丈夫かしら? 楽団の運営に脅迫状が届いたそうじゃないの。もしもあなたに危害が及ぶようなことになったら……」
それは初耳だ。楽団の運営のトップにはリチェスタの父がいる。しかしそんなことは少しも言っていなかった。――いや、言わなかったのか。母の耳に入れば、音楽祭を中止しろと騒ぐかもしれない。娘である自分にも、余計な心配はさせたくなかっただろう。
「きっと質の悪いイタズラよ。当日は何事もなく終わるわ。私が演奏を失敗しさえしなければ」
「あら、シャンテさんが演奏を失敗? そのほうが可能性は低そうだわ。音楽祭当日は、念のため警備を例年より強化するそうよ。いつもは頼らないのに、軍にまで話がいったとか」
軍が動く。もしかしたら、ルイゼンやイリスも関係しているだろうか。仕事をしなければならないのなら、音楽祭を見に来てほしいと頼めなくなる。何かと催し物に誘ってくれるから、今度はこちらがと思っていたのに。
どうか無関係でいて、という願いは、その夜イリスに電話をして、見事に打ち砕かれた。
「そっか。リチェが楽団のメンバーなら、これは何が何でも絶対に護りきらないと」
「やっぱり、イリスちゃんたちも音楽祭の警護の仕事があるの?」
「あー……うん、まあね。当日は楽しい盛り上がりだけで済むようにするから、安心して舞台に立って」
イリスが関わっているのなら、その上司であるルイゼンも暇ではないだろう。残念だが、今回は誘えない。落ち込んだのを覚られないよう、明るい声を作った。
「イリスちゃんたちがいるなら、何も心配いらないね。私、全力で演奏する」
それがリチェスタにできること。やらなければならないことだから。


眼鏡の奥の目は鋭く、娘にはあまり似ていない。体つきも思ったよりがっしりしている。イリスが初めて会ったシャンテ氏――リチェスタの父親は、母親とはまた違った意味で厳しそうな人だった。
「先日依頼したように、学生楽団の警護を頼みたい。昨年、大総統閣下の暗殺未遂事件もあったことだ。こんな紙切れ一枚も馬鹿にできないからな」
軍で預かっていた脅迫状――今は机の上に広げて置いてある――をトントンと指で叩き、シャンテ氏は正面のルイゼンを睨んだ。いや、ただ視線を寄越しただけか。なにしろ目つきのおかげで判別しにくい。
「リーゼッタ中佐はその暗殺未遂事件でも閣下をお守りする最前線にいたと聞いた。私は同じくらいの緊張感をもって、この任務にあたってほしいと願う」
「もちろん、どんな任務でも緊張感と使命感を欠くことなく遂行します。今回警護にあたる人間は、先の事件でも活躍した精鋭ですので、ご安心を。……特に」
まるで他人と話すように、ルイゼンは背筋を伸ばして冷静な声色で言葉を発する。視線は真っ直ぐに、シャンテ氏の目に向かっていた。が、それがイリスへと移動する。シャンテ氏もつられるようにして、こちらを見た。
「インフェリア中尉は大総統補佐も務めています」
「知っている。閣下を普段からお守りしているのだから、今回も期待している」
声も言葉も重い。イリスは腹に力を入れて、それを受け止めた。
「もちろんです。学生楽団に余計な心配はさせません」
今回の仕事には、リチェスタの無事もかかっている。あらゆる意味で失敗は許されない。何か起きた時の対処はもちろんだが、一番は「何も起きないこと」だ。不穏な要素があれば即座に取り除き、何事もなかったように処理する。
楽団員は、リチェスタの言葉から察するに、軍の警備が入ることは知っている。その理由が脅迫状にあることも、すでに聞き及んでいるかもしれない。当日はそんなことなどすっかり忘れて、ひたすらに演奏に集中してほしい。
「演奏の妨害が予告されている以上、同じ舞台に立つ歌姫の身の安全の確保にも努めてもらいたい。まだ一般には公開していないが、有名な方だ。何かあればもう二度と音楽祭が開催できなくなる危険をはらんでいる」
シャンテ氏は持参した書類を取り出した。当日舞台に立つ人間のリストらしい。すぐにリチェスタの名前を見つけ、イリスは内心で笑った。
そして最後に記されている「歌姫」の名前を見て、目を丸くし、それから口角が上がった。
「……何をにやついている、中尉」
表情をシャンテ氏に見咎められても、直せない。むしろ不敵な笑みのまま、言葉を返した。
「何もないのが一番です。それはわたしたちもわかっていますし、その状態を保つのがわたしたちの仕事です。でも、もし。万が一何かが起こってしまったとしても。……もしかしたら、歌姫が全部解決してくれるかもしれませんよ」
怪訝な表情をするシャンテ氏に、ルイゼンが慌てて「失礼しました」と頭を下げる。後で叱られるのは必至だなと思いつつも、イリスは笑顔だった。

その晩、イリスは兄たちの家を訪れた。ファミリー向け集合住宅の一室は、今日も子供がせっせと料理をしている。大人たちはそれぞれ仕事中なのだ。
「ニール、お兄ちゃんの新作は音楽祭に間に合いそうなの?」
一緒に台所に立ち、作業を手伝いながら、イリスは尋ねる。曖昧な短い唸り声が返ってきた。
「今回は何も教えてくれないんです。でもずっと部屋にいるので、ちゃんと進んでると思いますよ」
音楽祭には絵も多数出展される。イリスの兄ニアも作品を出すべく頑張っているうえに、当日には他の画家や音楽家と組んでパフォーマンスも行うという。あちらもこちらも忙しいのが、音楽祭の直前だ。
協賛企業も毎日、通常業務に加えて音楽祭関連の仕事をしているらしい。この家のもう一人の大人であるルーファも、最近は帰りが遅いようだ。
「イリスさんは、音楽祭は見に行くんですか?」
「行くけど、仕事なんだ。ゆっくりは見られないなあ」
「軍人さんが音楽祭で仕事なんて、珍しいですね」
食事ができたら、部屋にこもっているニアを呼ぶ。そのタイミングでルーファも帰ってきた。
この四人で食卓を囲むのは久しぶりだ。
「本当にこの時期の忙しさときたら……。軍にいた頃はわからなかったな」
「イベントをやるのは大変だよね。楽しいけど」
肩や首を回すルーファとニアに「お疲れ様」と声をかけ、イリスは料理を並べた。ニアがまだ仕事をするので、今日は酒は出さない。
「でも、だんだん軍も関わるようになってきたみたいだね。レヴィも今年はアーシェちゃんにかなり使われてるって?」
「レヴィ兄の様子は、今はちょっとわかんないな。班の仕事がメインだから、手伝いしてないんだよね」
文派のトップは大文卿、アーシェはその妻で補佐だ。代理も多く務めている。文派の祭りのために忙しくなるのは当然だが、大総統であるレヴィアンスまで使っているとは。
「こうやってだんだん協力体制が強くなっていくんだね」
「レヴィは親の仕事をしっかり引き継いでるよな。それに加えて、自分がやることも進めている。俺も見習わなきゃ」
「へえ、ルーでもレヴィを見習うなんて言うんだ。昔からライバルみたいだったのに」
笑いながら、イリスは思う。自分にできること、やるべきことをしっかりとやる。それは年初めの大失敗以降、ずっと意識してきたことだ。
今回のこともそう。リチェスタの親にどう思われていようと、仕事はしっかりこなさなくてはならない。学生楽団を守れなければ、音楽祭の存続が危うい。音楽祭がなくなれば、兄たちの仕事も減ってしまう。全ては繋がっているのだ。
「わたしも頑張るからね、お兄ちゃん」
「うん、応援してるよ。心配はしてない」
――何より、もっと単純に。
親友の晴れ舞台を、邪魔させてなるものか。

本番が近くなればなるほど緊張するが、奏でる音色は冴えわたっている。完成が近いことを自分で感じられる。これはいい出来だ、とリチェスタは思わず口元を緩ませた。今は一人で練習しているから、誰に見られることもない。
楽団のメンバーとの顔合わせや練習を重ね、全員が自信を高めている。選ばれた学生楽団の一員としての誇りと、レベルの高いオーケストラが自分たちで作れるという喜び。それはリチェスタの胸をも満たしている。
だからこそ、聴いてほしかった。大切な人たちに。昔のくよくよしていた自分を知っている彼らに。
――でも、警備に来るって言ってたもんね。
音は聞こえるだろう。リチェスタが一人で演奏するより何倍も素晴らしい音が、会場いっぱいに響き渡るはずだ。それが少しでも耳に入るなら、それでいい。
――それに、歌姫様と共演できるんだもの。それだけで十分贅沢だよ。
すでにリチェスタは、脅迫状のことなど忘れている。イリスたちが守ってくれるのであれば、忘れてしまっても問題はない。ただ思い切り、舞台を楽しみたい。
こんなふうに思う日が来るなんて。幼い頃は、あんなにバイオリンの稽古を嫌がっていたのに。そういえばイリスと出会ったのも稽古をさぼろうとしたからだった。それから歩んできた道のりを思うと感慨深く、あのときさぼっていたのも完全な間違いではない気がしてくる。
「私がずるをしたから、イリスちゃんと出会えて。イリスちゃんはゼン君と出会った。面白い縁よね」
リチェスタだけが別の道を行っても、二人がいつも気にかけてくれた。恋愛でやきもきすることはあったけれど、それも乗り越えてしまえば良い思い出だ。
「今度は、ずるなんてしないよ」
そっと誓い、顔を上げる。


音楽祭の日は爽やかな秋晴れ。文化の花開くレジーナに、芸術家たちが集う。
歌姫との舞台以外にも演奏の予定がある学生楽団は、朝の早い時間から集合し、最終調整に入っていた。
「何か起きそうには思えないね」
無線通信機と武器を装備した軍服姿のイリスたちは、ここでは目立つ。すれ違う人々が振り返り、時には眉を顰めて去る。嫌がられるのは仕方がない。この恰好が抑止力になればいい。
「まずは楽団に挨拶しよう」
ルイゼンが楽団の控室になっている会館へと向かうのに、フィネーロ、メイベル、イリス、カリンがぞろぞろと続く。
「顔出したら迷惑じゃないかな」
「シャンテさんの許可はとってある。軍人が顔を見せたくらいで動じるような者はいないってさ」
「さすがに才能を認められているだけのことはあるな。度胸もあるんだろう」
「リチェスタはその一人というわけだ。惚れ直したんじゃないか、ルイゼン」
「すごいなとは思ってるよ」
からかったりかわしたりしながら、一行は楽団を訪ねた。こちらを振り返った学生たちは、一瞬驚いた顔をしたが、すぐに丁寧な挨拶を返してくれた。一番動揺していたのはリチェスタだろう。イリスだけでなく、ルイゼンたちまで来るとは思っていなかったのかもしれない。
「本日、楽団の皆さんの警護をさせていただきます。何か気づいたことがあったら、遠慮なく仰ってください」
予定通りの簡単な挨拶を済ませると、すぐに控室から出た。そしてあらかじめ決めておいた配置を確認し、解散する。ここからのやり取りは無線を通じて行う。
基本的には、控室周りと演奏を行うステージ周りの、割り当てられた範囲をくまなくチェックし、怪しい人物がいないか、不審物はないかどうかに気をつける。違和感があったらすぐに無線で班員全員に報せ、行動する。イリスに割り当てられたのは、まずは会館外のちょうど控室の裏にあたる場所。ステージに移動してからは、ステージ裏を担当することになる。あまり目立つところにいると、いざというときに盛大に暴れられないだろう。ルイゼンのそんな配慮が、口にせずともわかる。
「こちら0312インフェリア。控室裏確認完了。不審物、不審者、ともになし。どうぞ」
無線に告げると、ノイズまじりの短い返事があった。――了解、どうぞ。
他の場所も今のところ異常は見られないようだ。会館内控室周りのルイゼン、会館外エントランス前のフィネーロ、会館外東樹上のメイベル、会館外西広報用櫓のカリンからも、それぞれ報告があった。名前の前には打ち合わせで決めたコードを言うこと、という決まりも守られている。
シャンテ氏によると、歌姫はまだ現地入りしていない。舞台に学生楽団とともにあがる直前、一回だけしか合同の練習ができないスケジュールなのだそうだ。忙しい人であることは、こちらもわかっていた。
付近の様子に引き続き警戒しながら、イリスは小さく呟く。
「演奏の妨害って……結局、何の目的でそんなことしようとするんだか」
今回の任務にはわからないことがいくつかあるが、これが最も重要かつ、最大の謎だった。シャンテ氏にも思い当たることはないという。学生楽団の邪魔をすることに、メリットなど一つも見いだせない。単なる愉快犯なのだろうか。
「歌姫が目的だったら、楽団運営に脅迫状を送る意味がわからないよね」
何度も話し合った。班でのミーティングでも、寮の部屋での雑談の中でも。答えは一向に見えず、今日を迎えてしまった。せめて目的がわかれば、もっと確実な対策が練られたかもしれない。
本当は、レヴィアンスにも相談したかったのだ。けれどもそんな暇はなかった。隙を見て大総統執務室を訪ねたイリスを迎えたのは、一人で仕事をしていたガードナーだった。
――閣下は所用で外出されています。言伝があるならお受けしますよ。
――あ、じゃあ、今わたしたちの班が持ってる任務についてなんですけど……。
彼も上司だ。もしかしたら糸口を見つけてくれるかもしれない。そう期待したのだが、事情を聞いたガードナーはゆっくりと首を横に振った。
――それだけでは材料が足りませんね。もう少し、シャンテ氏から話を聞いてみることはできませんか。
それができればそうしている。しかし心当たりがないということに変わりはなかったし、楽団の運営状況などにも問題は見られなかった。
ガードナーはレヴィアンスに話をしてくれると言ったが、以降、何の連絡もない。こちらが訪ねる時間もなくなってしまった。
「わたしたちで何とかしろってことなのかな。小班の任務だしねえ……」
そうそう特別扱いもできないか、と思い直して、目を閉じる。眉間のあたりに意識を集中させ、再び瞼を持ち上げると、さっきより視界がクリアに、周囲の動きに敏感になる。眼の力をほんの少し使って、不穏な気配がないかどうか探る。――まだ、何もないようだ。周囲の人の動きに不審なものは感じられない。
耳をすませると、会館から漏れる楽器の音色が聞こえた。リチェスタの奏でるバイオリンの音までは聞き分けられないが、ほんの少し聴くだけで、胸のあたりが温かくなった。そして会館の向こう側、全体が音楽祭の会場となっている広場のほうからは、賑やかな人々の歓声や音楽。市民の祭りは始まっている。
このまま平和に過ぎてくれたら。自分たちが動くようなことがなければ。願っていると、無線がルイゼンの声を受信した。
「こちら0804リーゼッタ。まもなく学生楽団が一回目の演奏のために動く」
最初の移動の合図だ。歌姫はまだ到着していない。彼女が参加するのは最後の演奏だけなのだ。
「了解」
だが、一度たりとて気が抜けない。どこで妨害が入るのかわからないのだから。

大勢の観客の前。注がれる視線。それを意識するのは最初の一瞬だけ。いつもならそれができる。
しかし今、リチェスタの傍にはルイゼンがいる。正確には近くにいるわけではなく、舞台袖でこちらを見ているのだが、どうあれ同じだ。リチェスタは普段の倍は緊張していた。
心臓の鼓動がリズムを乱すのではないかと不安になる。ルイゼンの前でそんな失敗はできない。思わぬ形で訪れた、自分の成長を示す機会だ。嬉しくて、怖くて、手が震える。
けれども不思議なもので、掲げられた指揮棒が目に入れば、震えはぴたりと収まった。
音楽に真面目に向き合うようになったのは、いつからだったろう。幼い頃は嫌で仕方なくて逃げたのに、それをしなくなったのは。
――俺は軍に行くけど、リチェ、大丈夫か?
泣いてばかり、少ない友人の背中を追いかけてばかりだったリチェスタを心配していた、一つ年上の男の子。本当はどこにも行ってほしくなかったけれど、軍人になることが彼の夢だと知っていたから、目を擦りながら頷いた。
もう一人の同い年の友達も、軍人になると言っている。取り残されるのがわかっていた。寂しいと泣いているだけでは、昔の自分に戻ってしまいそうだった。
友人ほど強い夢は持っていない。けれどもたまに帰ってくる彼らを膝を抱えて待っているだけというのは、あまりにむなしい。手元にあるものを見て、何ができるか考えた。
引き寄せたのは、苦しい思い出がたくさんある弦楽器。
すぐには上達しなかった。友人たちが夢に向かって歩みを進めるごとに、練習量を増やした。リチェスタは彼らと離れてもなお、追いかけることを選んだのだ。別の道から、追いつきたい背中を追った。
同じ道の上には並べない。せめて、遠くからでも並行して走れるようになりたい。その気持ちに楽器は、少しずつ応えてくれるようになった。
そして今、リチェスタはここにいる。自分自身の望みを持って。
盛大な拍手に我に返り、丁寧にお辞儀をする。舞台袖に目をやると、大好きな優しい笑顔。彼の拍手が――この瞬間は彼もきっと仕事を忘れていた――何よりも幸福だった。
私は、あなたたちに並べたでしょうか。

一回目も二回目も、学生楽団の演奏は素晴らしかった。舞台の裏にいたイリスにも、それは十分に伝わっている。仕事を放りだしてリチェスタを抱きしめに行けたらどんなに良かったか。
舞台袖にいるルイゼンが羨ましくて、けれども彼にはそこが相応しいとも思う。
残るは歌姫が参加する一回。そこで何もなければ、音楽祭は無事に終わるはずだ。
会館に歌姫が到着したとき、イリスは会館裏にいた。仲間たちから報告を受けただけなので、彼女の顔はまだ見ていない。そのかわり、気になる顔を見かけた気がした。
「グラン大将……? 音楽祭に来てたの?」
似ているだけだろうか。中央司令部将官室長であるタスク・グラン大将のようだったが。昨年まで軍に頼ることのなかった文派のイベントに来るような人だとは思えないのだけれど。彼は軍頂上主義なのだ。
「一応ゼンたちに報告したほうがいいかな。……こちら0312インフェリア――」
イリスの報告を受け、ルイゼンは眉を顰めた。おそらく、イリスの見たものに間違いはない。彼女は眼の力を使っている。しかし、グランがここに現れるのはやはり不自然だ。春に司令部内で起きた傷害事件――ルイゼンは被害者となってしまったが、その裏にはグランが絡んでいるという話もあった。彼は大総統の地位を狙っていた人物だ。何をするかわからない。
「プライベートだとしたら、閣下はこのことは知らないだろうな。念のため報告して、最近の大将の様子を探っておくか」
そう無線で返事をしたが、司令部にいるはずのレヴィアンスとは連絡がつかなかった。かわりにガードナーが、大総統執務室にいた。
「ガードナー大将、グラン大将の動向をご存知ですか? たった今、音楽祭で姿を見かけたとの情報が入ったのですが」
ガードナーとグランは同期で、かつては友人だった。もしかしたら何か知っているかもしれないと思ったのだが、返答は期待したものではなかった。
「彼は仕事中のはずですよ」
「そうですか……そうですよね」
基本的に、将官室長は部屋から動くことがない。仕事をしているということは、イリスの見間違いだったのだろうか。よく似た人がいただけ? でも、イリスの眼は……。
過去には裏がクローン技術を悪用した例がある。悪いことにならなければいいが。念のため、それらしき人物に気をつけておいたほうがいいだろう。
それにしても、このくらいの考えならガードナーもすぐに辿り着くだろうに、何も言わなかったというのは妙だった。
その頃、会館正面についているフィネーロも、グランによく似た人物を見つけていた。特に隠れるようなこともない。ただ祭りを見ているようだ――ここからは会場の賑わいがよく見えた。グランらしき者は、私服だろう、カッターシャツにグレーのボトムスを身につけている。
――閣下に諭されて改心したなら、プライベートでここに来ることもおかしくはない。
あるいは、レヴィアンス直々にここに来ることを薦めたか。市民の生活を知ることは軍人にとって重要だが、グランはそうは考えていなかったと聞いている。そのあたりは、彼と直接話をしたことのあるルイゼンのほうがずっと詳しいだろう。
そのとき、ルイゼンからの報告が入った。グランについて、司令部に確認がとれたという。
「グラン大将は仕事中だと、ガードナー大将は言っていた。だとしたら、司令部にいるはずだ」
見間違いか、あるいは偽物か。ルイゼンはそのあたりを疑っているようだった。しかし、フィネーロはガードナーの言葉に引っ掛かりを覚える。
「ルイゼン、『仕事中』というのはガードナー大将の言葉そのままだな?」
「ああ、それ以上は何も言わなかった」
いかなる仕事も完璧にこなす優秀な大総統補佐が、その一言で話を終わらせるだろうか。フィネーロの頭の中で、嫌な予感が閃いた。
同じ報告を、メイベルは樹上で聞いていた。ここが櫓以外で会場全体を見渡せる絶好の位置なのである。グランらしい人物を特定することは難しいが、もしそんな人物がいたとして、そこまで気にする必要はないだろうと思う。
怪しい動きをする者がいれば撃つ。メイベルは仕事を実にシンプルに考えている。それがグランの姿をしていようと、全く知らない者だろうと、関係ない。
だがフィネーロがルイゼンに確認をとる声で、彼女にもふと疑問が湧いた。――「仕事中」。その言葉に全く間違いがなく、さらにイリスの眼にも間違いがないとするなら。
大将級が動くというのは、よほどのことがなければありえない。まして、将官室長であるグランが司令部を離れるということは。
――レヴィ兄も忙しいらしいんだよね。アーシェお姉ちゃんに色々と協力してるみたいでさ。
イリスが数日前にそう言っていた。終業後、寮での何気ない会話だ。そのときはどうでもいいと思っていたが、実はそれこそが今回の仕事の裏なのではないか。
大総統が使われている。ならば、その下にいる将官だって、動かすことができるのでは。
メイベルは手鏡を取り出し、対岸――会館西の櫓に見えるよう動かした。
反射による合図を、櫓にいたカリンは正確に捉えていた。姉からの指示は「会場全体を見ろ」。言われるまでもなくそうするのが仕事ではあるが、強調するということは何かがあるのだ。見通しの良い櫓からは、会場の様子が容易に見渡せる。双眼鏡を使えば、歩いている人の顔も判別できる。
グランの話が出ていたから、彼によく似た人物を探せばいいのかと思った。だが、それを見つける前に、他の見知った顔を発見した。カリンたちリーゼッタ班が頻繁に世話になる、トーリス准将だ。五分刈りの頭と精悍な顔つきは、基本的に男性が苦手なカリンからすれば少し怖いのだが、その表情は普段以上に険しい。まるで何かを見張っているような――ちょうど自分たちがしているように。
「1105カリンです。あの、トーリス准将を見つけました。なんだか、プライベートではないようなんですが……」
無線機が、四人分の怪訝そうな声を受信した。

いよいよ音楽祭もクライマックスだ。学生楽団は歌姫との通し練習を終え、舞台に向かう。イリスたちは彼らを大きく囲むように一緒に移動し、舞台での配置についた。
これまでは何事もなかった。参加者同士の小さな諍い程度なら、周囲の人々や警備員が仲裁に入ってすぐに解決している。大きな事件は起こっていない。何かあるとしたら、このタイミングだ。
種類の違う緊張感が、会場全てを包む。演者の、観客の、警護にあたるイリスたちの、そして。
舞台雛壇に学生楽団が並び、指揮者より手前に赤いドレスの女性が進み出る。歌姫の登場に拍手が沸いた。演者たちの美しいお辞儀の後に、指揮者が指揮棒を高く掲げた。
それが合図だったかのように、破裂音が空気を裂いた。一つではない。二つ、三つ――一般市民には捉えられない、複数の銃声。それが会場の至る所からあがっていた。人々が騒めく中、一際異様な台詞が響く。――そこから動くな。地面に膝をついて両手を挙げろ。
戸惑う市民はそれにゆるゆると従おうとした。だが、そうするまでもなく事態は動く。
イリスは舞台裏にいたが、見なくてもわかった。銃声のうち、一つはメイベルの放ったものだ。観客により近いところに控えていたフィネーロは、手から銃を弾き飛ばされた人物を見ていた。すぐにそちらへ駆け寄り、それを確保する。
ルイゼンは舞台袖から出て、歌姫と楽団を庇うように剣を抜いた。無線からはカリンの声がする。
「舞台周辺だけじゃなく、会場のパフォーマンスが行われていたところには銃を持った人たちがいたみたいです。……ただ、もう動きは封じられているようですけど」
リーゼッタ班が守っていたのは学生楽団の舞台だけだ。他の場所には警備員と、そして。
「軍服が舞台付近にしかいないからと、強行したようだが。残念だったな」
私服で潜入していた中央司令部の精鋭たちがいた。指揮をとっていたのはタスク・グラン。彼は本来、座して結果を待つよりも、自ら動くほうが得意だ。
「リーゼッタ、まだ動こうとしている奴がいる! なんとしてでも押さえ込め!」
「突然来て、無茶苦茶言うな、あの人……!」
舞台から飛び降り、こちらへ向かって来ようとした者に剣を振るう。彼らが手にしていた銃やナイフを的確に払い、叩き落とす。正面に集中していられるのは、会場全体を見渡し、敵を確実に捉えられる「目」が二つあるから。東の樹上、そして西の櫓から、銃弾がまだ蠢いていたならず者を倒す。
そして舞台裏から侵入を試みていたであろう者たちは、すでにイリスが相手を終えていた。
「眼を使うまでもないね。でもわたし相手に向かって来た勇気は褒めてあげる」
こちらを知らないはずはないだろう。イリスは有名人だ。
「で、あんたら、何? 音楽祭を狙った目的は?」
胸倉を掴んで問い質すと、相手は歯の抜けた口をぱくぱくさせた。
「……文派に、瑕を。分裂させ、軍との溝を深める……」
「そりゃあ、無駄なことだよ。現にこうして文派と軍は文派は協力してる。皮肉にも、あんたたちのおかげでね」
おそらく、リーゼッタ班に持ち込まれた依頼だけではなかったのだろう。アーシェがレヴィアンスを動かしていたというのは、そういうことだ。脅迫状は一通ではなく、しかしほとんどは文派が大文卿に相談して、内々に処置を決める予定だったのだ。だが事態を重く見た大文卿は、例年通り警備会社に会場の警備を頼むと同時に、軍による会場警護を実施した。――シャンテ氏だけは直接軍に依頼をしたために、学生楽団の警護はリーゼッタ班に一任されたのだ。
見覚えのある顔が、舞台裏にやってくる。将官や佐官たちだ。レヴィアンスの指示で動いていた彼らは、この場を引き受けてくれた。
「インフェリア中尉、君は舞台へ。まだリーゼッタ中佐とリッツェ少佐が戦っている」
「ありがとうございます。お願いします!」
イリスは表へと走る。そこには守るべきものがある。自分の力を必要としている人たちがいる。

観客席にいた一人が、首に腕をまわされ、ナイフを突きつけられた。犯行に及んだ人物が怒鳴る。
「一般人がどうなってもいいのか!? 俺に近づけばただじゃ済まねえぞ!」
だがそんな行動は無意味だ。彼はまだ、現状を把握しきれていない。だからそんな無謀なことをしてしまうのだ。
「安心しろ、何もさせない」
溜息交じりにフィネーロが言うと、銃声とともにナイフを持った男は崩れ落ちた。足から血が溢れ出す。何が起こったのか男がわからないでいる間に、フィネーロは速やかに人質を逃がした。
「……っ、何をしやがった!」
「僕はまだ何もしていない。ただ、すこぶる腕のいい射手がいるだけだ」
落ち着き払った態度が気に障ったのか、男は足を引きずったままフィネーロに襲いかかってきた。それをピンと張った鎖で受け止め、分銅を男の首に巻きつかせながら、さらに鎌の切っ先を頬にひたりとあてる。さすがに動けなくなった男は、近くにいた私服の軍人に引き渡された。
「本当なら、音楽祭会場で銃を使うなんてもってのほかなんだろうけど」
例年通りの音楽祭ならば、メイベルの射撃は文派から軍への非難を呼んだだろう。しかし、今回は感謝はされなくとも、仕方なかったくらいには見てもらえるはずだ。今のところ一発も外していない。襲撃犯以外は、人も物も作品も無事だった。
銃を手に会館西の櫓に上ってきた者もいた。高い場所から乱射すれば、多くの被害が出てしまう。しかし、そこには随分前から先客がいる。
「退け、ガキ!」
軍服を着てはいるが、相手は少女。それもどこか頼りなさそうだと、敵は踏んだのだろう。けれども軍服を着てここにいるということ自体が彼女の強さの証明であるということに、なぜ思い至らないのか。
「あなたこそ、ここに来ないでください!」
カリンは相手の顔のど真ん中に渾身の蹴りを入れ、さらに衝撃に負け櫓から離れた両手に素早く銃弾を撃ち込んだ。これでもう上っては来られまい。落ちて死ぬことはないだろう、櫓の下には親切に安全マットが敷き詰められている。
「わたしがお姉ちゃんみたいな乱暴なことしなきゃいけないなんて……」
ぼやきはスイッチを入れっぱなしの無線に拾われ、「ぶつくさ言うな」という姉の声を受信した。
学生楽団は舞台の奥側に避難している。ルイゼンは舞台の上に戻り、彼らを一人で守っていた。どういうわけか、この場所をしつこく狙ってくる一団がいる。一人も逃してなるものかと剣を振るうが、力の強い相手と押し合いになった瞬間に、敵が脇をすり抜けていった。
――まずい!
やはり一人は無謀だったか。早く誰か、応援を。叫ぶように祈ったその瞬間、どさりと何かが崩れ落ちる音がした。
倒れたのは、たった今ルイゼンの横をすり抜けて、楽団に向かって行った者。それを倒したのは、赤いドレスの女性だった。手には美しいが意匠に年季の入っている短剣がある。
「ええと、リーゼッタ君だったかな。私も戦えるから、安心していいよ」
彼女はにっこりと笑って、さらにもう一人やってきた敵をも伏せた。その動きは、まるで激しい舞だ。対峙していた相手を倒したルイゼンは、つい見惚れてしまった。
「ゼン、ぼけっとしない!」
呼ばれて我に返り、前に向き直る。振り向きざまに一人を斬り、それから声の主を見た。
「イリス、裏は?!」
「大佐たちが来てくれたから、任せちゃった。それより、普段人に散々仕事しろって言っておいて、自分はぼんやりしてるとか……」
「悪かったよ。ちょっとびっくりしてただけだ」
「気持ちはわかるけど」
イリスは喋りながら、かかってきた相手の手から剣を弾き飛ばし、上段蹴りをお見舞いした。折れた歯と鼻血が宙を舞う。
「中央司令部の伝説だからね、あの人も」
正面から来る無謀な者たちは、だんだんと減ってきた。そろそろ学生楽団を舞台から避難させられるだろうかと、ルイゼンが思ったそのとき、舞台袖から人が出てきた。スタッフでも、警備員でも、私服軍人でもない。いつのまにか敵は舞台に侵入していたのだ。
「うわ、裏から入ってきちゃった?!」
任せたはずなのに、とイリスが眉を寄せるあいだに、敵は近くにいた楽団員を一人捕まえた。――よりにもよって、リチェスタを。
「きゃあっ!!」
「リチェ!」
駆け寄ろうとしたイリスを、しかし、まだ残っていた正面からの敵が邪魔をする。相手をしていたら、リチェスタが危ない。歌姫も舞台袖からやってきた敵と戦っている最中で、最奥のリチェスタには届きそうになかった。
今、この瞬間に動けるのは。
「ゼン、行け!」
「言われなくたってやる!」
目の前にいた敵を一瞬にして斬り伏せ、ルイゼンが舞台を駆けた。人を避け、飛び越え、秒を数える間もなく目指す場所に辿り着く。
「リチェ、目ぇ閉じろ!!」
ルイゼンの声に、リチェスタはぎゅっと目を瞑った。近くに行くと、今日のためにあつらえたのだろうワンピースが、よく似合っているのがわかる。汚してしまいたくない、それなら。
得物は剣。大剣ほど大きくなく幅も広くないが、叩きつけるのには適している。そのやり方は、先輩たちから教わってこの身に染みついている。ルイゼンは剣を振り上げ、刃ではなく面の部分を、敵の脳天に力いっぱい振り下ろした。
着地とともに、力の抜けた敵の手から素早くリチェスタを引き離す。そしてそのまま、強く抱き寄せた。
「大丈夫か。怪我は」
「……してない。ゼン君、あっという間に来てくれたもの」
涙で潤んだ目が、嬉しそうに笑った。
横目で親友の無事を確認し、イリスは口の端を持ち上げる。同時に舞台袖から現れた敵を蹴り飛ばした。あと数人。これくらいなら、すぐに片付けられる。
美しく舞う歌姫と一緒なら。
「イリスちゃん、あと半分任せていい?」
「半分もあなたに任せていいんですか? 一応、もう一般人なのに」
「そうだね。まさかこの歳になって、こんな大舞台で踊ることになるとは思ってなかった。でもね、私、鍛えるのはやめてないの」
彼女の笑みは、知らない人が見れば楽しそうだ。にっこりと可愛らしい。だがそれが経験に裏付けされた自信の表れなのだと、イリスは知っている。両親やその知り合いから、よく聞かされたものだ。
かつてのエルニーニャ王国軍中央司令部トップ入隊の実力者。敵の巣窟に潜り込み、たった一人で三十人斬りを果たした伝説の女性。テンポの速い舞を踊るかのような艶やかで華麗な戦いのスタイルは、年月が経った現在も変わっていない。
「最後よ、イリスちゃん!」
「はい、ラディアさん!」
相手が怯んだ隙をついて、二人は同時に床を蹴り、剣を振るった。


襲撃者たちは軍の人員によって連行されていく。もちろんリーゼッタ班も彼らの確保とこれからの聴取に加わらねばならず、会場をあとにせざるをえなくなった。
せっかく、遅ればせながらの歌姫と学生楽団の共演が始まろうというのに。それが見られないのは非常に残念だ。
演奏はやりましょう、とは歌姫ラディア・ローズの提案だった。幸いにして一般人に重傷者はなく、かすり傷ならば救護のボランティアで対処できる。それならば、慰労と詫びの意味も込めて舞台を最後までやりきろうということになったのだ。
学生楽団はすでに落ち着きを取り戻している。直接危害を加えられそうになったリチェスタも。誰もが歌姫との舞台を楽しみにしていたのだ。この機会を逃したくはない。
襲撃犯たちを移送用の車に乗せている途中で、オーケストラの音が聞こえてきた。それに続き、美しい歌声も。見られなくとも、少しだけなら聴くことはできそうだ。
目頭を熱くさせる、美しい旋律。様々な想いを乗せて、音は風に運ばれる。どこまでも、どこまでも。
「いいよな、ラディアさんの歌。いくつになっても衰えることを知らない」
イリスの隣に、レヴィアンスが立った。実はずっと大文卿夫妻とともに、会場にいたという。豊かな髪と見慣れた顔を隠してしまえば、なかなか気づかないものだ。
「レヴィ兄、どうして会場警護に軍が全面協力してるって教えてくれなかったのよ」
「文派の人たちは、まだまだ軍がでしゃばるのを嫌がるからね。でも大文卿はその状況を変えたいと思っている。だから徐々に慣らしていこうとしてるんだ。……もっとも、シャンテさんの行動は予想外だったけど。軍に直接依頼をした唯一の人だから、そこは応えないといけないよね」
脅迫状は学生楽団の運営だけではなく、音楽祭でイベントを行う大きな団体の全てに届いていた。しかしそれを公にしたくなかったほとんどの運営は、大文卿に相談をした――リーゼッタ班が辿り着いた読みは、正しかったのだ。
「アーシェが言ってた。『もう二度と“赤い杯”の悲劇は繰り返さない』って。一般市民だろうと、警備員だろうと、誰かが命を落とすようなことはあっちゃいけなかった。そこでオレに、全力で音楽祭を守れって命令してきたんだよ」
佐官以上を使ったのは、文派に対する敬意だ。自分たちはけっして軍以外を軽く見てはいないということを示す必要があった。そのうち、こんな忖度もしなくて済むようになればいいのだけれど。
「元軍人であるアーシェやラディアさんが、軍と文派の懸け橋になってくれると助かるなあ。その分、オレがめいっぱい使われそうな気もするけどさ」
「使われてなんぼの軍人でしょ。わたしたちは市民のためにあるんだから」
イリスとレヴィアンスは顔を見合わせ、にい、と笑った。

現場から去ろうとするルイゼンを、低い声が呼び止めた。今頃は娘の晴れ舞台を見ているはずの、シャンテ氏だった。
「リチェスタさんの演奏、聴かなくていいんですか」
「聴こえている。だから、君と少し話がしたい」
彼は依頼人でもある。ルイゼンは上司たちに断りを入れ、シャンテ氏と向き合った。
「……最近、娘と頻繁に会っているようだな」
「ええ、まあ」
実際のところは、リチェスタがルイゼンのところにやってくるのだが。顔を合わせていることには変わりないので、否定はしない。
「私は、娘の幸福を願ってきた。仕事で傍にいてやる時間が限られる分、娘の望むことはしてやりたいと思っていた。なにぶん、あの子は体も心も弱い」
「弱くはないですよ。リチェスタさん……リチェは、俺も驚くほど強い女性になりました」
自分の想いを表現できるようになった。堂々と舞台に立ち、見事な演奏を披露できるようになった。幼い頃のリチェスタを知っているルイゼンからしてみれば、あまりに大きな成長だ。もしかしたら、追い抜かされているのではないかと思うほどに。
「そうだな。……うん、そうだ。実力で舞台にあがれるようになったのだから、逞しくなった」
シャンテ氏は深く頷き、それからルイゼンの目を真っ直ぐに見た。やぶにらみにも見える彼の目は、今は優しい光を湛えている。
「君の、そしてインフェリア嬢のおかげだと、私は思っている。妻もはっきりとは言わないが、内心では認めている」
娘を立派に育て上げたい。その思いから、シャンテ家の人々はリチェスタに厳しく当たり、彼女を「良くない道」へ誘惑する存在は切り離そうとしてきた。だが、それはどうやら余計なことだったらしいと、最近になって思い至ったのだった。
娘を励まし、ここまで成長させたのは、友人の存在だったのだと、今回任務を任せて確認した。
「リチェスタを救ってくれてありがとう、ルイゼン君。インフェリア嬢にもそう伝えておいてくれ」
差し出された右手を、ルイゼンはそっととり、握り返す。このペンや楽器を扱う手で、彼は娘も大切にしてきたのだ。それは不器用な方法だったかもしれない。でも。
「伝えておきます。けれども、リチェの親はあなた方です。彼女を俺たちと一緒にいさせてくれて、ありがとうございました」
愛のかたちは様々だ。ときに望まないものになってしまうこともある。けれども、シャンテ家ならば大丈夫だろう。リチェスタの存在が、その証明だ。
「君はやはりいい青年だ。どうだ、将来はリチェスタの婿に」
「それはもう少し考えさせてください。よくできたお嬢さんなので、まだ自分にはもったいないです。もっと俺自身が成長してから、そのとききちんと答えを出します」
笑って返したルイゼンに、シャンテ氏は目を細めた。

襲撃者たちの思惑――文派を襲い、動かない軍を悪者にし、協力体制に瑕をつける――は、大体は外れたが、一部はその通りになってしまった。大勢の一般人がいるところへ銃弾を撃ち込むのは危険だという苦情が、数日後の司令部に何件か入っていた。
軍と文派の溝が埋まる日は遠そうだ。
「ベルの銃は百発百中なのに」
「そんなの、知らない人にはわからないだろ。とにかくここだけはうちの班の責任問題になったから、メイベルは始末書な。俺も書くから」
「理不尽だ。そこは突っぱねてくれないと困るぞ、リーダー様」
「ルイゼンさん、わたしも銃を使いましたけど……」
「カリンは集団に向けては撃ってないから免除」
メイベルと、彼女の実力をわかっているイリスは不満そうだ。だが、これも仕方のないこと。本来であれば軍側が使用武器の配慮をすべきだった。
しかし音楽祭は、来年も開催するという。そして軍は、私服での警護を次回も任されることになった。リーゼッタ班は抑止力を狙って軍服で任務にあたったが、どうやら上層部では目立つばかりであまり意味がないという結論に至ったようだ。
「来年も関われるのはいいけどさ、軍服ぐらい何よ。グラン大将の顔のほうがよっぽど目立ってたじゃない」
「まあ、それは……本人には絶対に言うなよ」
報告書と始末書をまとめたら、今回の仕事は終わり。今夜はリーゼッタ班が揃ってイリスの兄らの家に行き、お疲れ様会をやる予定だ。レヴィアンスも「もちろん行くよ!」と酒の手配をしていた。
「早く仕事を終わらせなければ、予定が狂うぞ。通常の仕事もあることを忘れないように」
「うわ、フィン、その書類何……。なんか多くない?」
歌姫の歌声と、奏でられる音楽のように、しがらみから解放され、調和し、どこまでも遠くにいけるよう。それがイリスたちの目指す、明るい未来だ。



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posted by キルハ制作委員会 at 22:05| Comment(0) | 小ネタ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする