2018年02月18日

雪の妖精 第一章(1)

 小さな動物を狩るための罠だということには、すぐに気づいた。父も同じものをよく作っては、それで兎や鳥、鼬の類を獲ってくる。ただ、父は罠を仕掛けるのがとても下手で、獲物がかかることは少なかった。こんなに巧妙に仕掛けるものなのだと知っていたら、もう少し気をつけて歩いたかもしれない。
「痛いなあ」
 脚に食い込む罠ばかりではない。冬の北国では、雪の上に長時間座っていることは危険だ。指先は冷たいを通り越してじくじくと痛み、やがて何も感じなくなると、壊死してしまうことも覚悟しなければならない。それくらいの知識は持っている。
 血が滲む足は、引き抜こうとすれば罠がより締まる仕様になっていて、手で外そうにも方法がわからないのでそのままだ。誰かが来てくれなければ、ここで十三年の人生は幕を閉じる。
「痛いなあ」
 こんなまぬけな最期は迎えたくなかった。どうせ死ぬなら、姉たちのように他の支配地域へ嫁に行ってからがよかった。この地域を守るための柱になれるのなら、死ぬことも仕方ない。今はそういう時代だ。
「痛くて、眠いなあ」
 眠ってしまえば目覚められない。けれども寒さは体力と意識を確実に奪っていく。もうじきこの世とお別れか、と瞼をおろしかけた。
「おい、ガキ。じっとしてろよ」
 急に降ってきた声に目が覚めた。雪のせいで足音が聞こえなかったので、いつからこちらに来ていたのかわからない。俯いていたから、周りを見てもいなかった。
 低い声のその人は、大きな体を屈めて、罠に手をかけた。瞬く間に外れた罠をぽかんと見つめていると、今度は足に触れられる。傷には布が丁寧に巻かれた。
 顔を上げて、助けてくれたその人の顔を見た。雪に焼けた肌は浅黒く、無造作に伸びた髪は赤みがかった茶色。目つきは鋭い。少し怖いが、敵ではないようだ。身を包んでいる毛皮がこの辺りの獣のものだから、間違いない。
「薬塗っといたほうがいいな。生憎俺は切らしてるから、ちょっと連れて行くぞ」
 その人は軽々とこの身を抱え上げ、背に担いだ。「ひゃ」と声が漏れるが、気にされない。そのまま連れていかれた。
 向かった先はどうやら狩りのためのキャンプ地のようで、その人の他にも三人の男がいるようだった。
「ディンゴ、何か掛かってたか」
「人間のガキが掛かってた」
 男たちのギョッとした表情が見えた。「マジか」「やっちゃったなー」という声があがる。それでも彼らは全く慌てている様子はなかった。こういうことは、珍しくないのかもしれない。
 自分を背負っている人が言う。
「罠に足をやられてる。放置するわけにもいかねぇし、薬切らしてたからとりあえず連れてきた。ラステット、傷薬寄越せ」
「はいよ。ディンゴは多めに薬持っとけって、いつも言ってるだろ」
「荷物になるだろうが。とにかく手当しろ。これからガキの家を捜しに行くから、テメェらも来い」
「了解。お嬢ちゃん、家まで道案内できる?」
 ラステットと呼ばれた男が、軟膏の包みを取り出しながら問う。頷くと、よかった、と笑った。連れて来てくれた人――ディンゴというらしい彼も、ホッとしたような表情をほんの一瞬見せた。ずっと眉根を寄せていたから怒っているのかと思っていたが、どうやら困っていたというのが正解のようだ。
 男たちが持っていた毛布にぐるぐると包まれて、再びディンゴの背中に収まる。他の者は荷物があるようで、みんな手がふさがっていたから、自然な流れだった。
――この人の背中、温かい。
 毛布のせいだけではない。さっきからずっと、温かくて心地よかった。知らない人だから緊張していたけれど、それでも離れ難かったくらいに。
 本当は、寒いのは苦手なのだ。雪の中、山をうろつくのは本意ではなかった。けれども家の働き手はほとんどいなくなってしまって、それでも家を温めるための薪は使う量が減ったりはしないから、足りなくなってしまった分を外へ探しに来た。そうして罠にかかってしまったというわけだ。
――助けてくれたし、家まで連れてってくれる。親切な人だな。
 広い背中に体を預けて、落ち着いて道案内ができた。だからなのか、それとも単に男たちの歩幅が広いためか、家にはあっというまに到着してしまった。小さな里の、小さな家だ。雪が降る前までは、すぐ上の姉もいたけれど、今では父と二人きりで住んでいる。
 父は娘が屈強な男たちと一緒に帰ってきたのを見て、目も口も大きく開いたまま動きを止めた。
「ここはこの娘の家で合っているか」
 ディンゴの問いに、父はやっとカクカクして頷いた。
「すまねぇが、俺たちが仕掛けた猟罠にはまっちまった。娘に傷をつけたことを詫びる」
「こちらはお詫びの品と、私どもが作りました傷薬です」
 いつのまに用意したのか、脇に控えていたラステットが薪と獣肉の塊、そして先ほどの薬の包みを差し出す。父はおそるおそるといった様子でそれを受け取り、それからハッとしたようにディンゴを、彼に背負われている娘を見上げた。
「傷は、深いのですか。娘の具合は」
「治すにはちょっと時間がかかる。針金が食い込んで擦れたから、もしかしたら傷跡が残るかもしれねぇ。悪かった」
 背中の荷物を落とさぬよう、ディンゴは首だけを屈めるように下げた。父は一瞬だけ眉を顰めたが、すぐに表情を緩めて、一行を家の中へと誘った。
「寒かったでしょう。ここまで娘を送ってくださり、ありがとうございました。温かいものを用意しますよ」
 お構いなく、とラステットが言おうとしたのを、別の男が遮った。鼻をひくひくさせながら「お嬢さんを降ろしてやらないと」と言う彼は、きっと家の中から漂う乳酒の匂いを嗅ぎとったのだろう。父はこれを毎日温めて飲むのが日課だ。
「おう、ガキを降ろしたらすぐ帰るぞ」
「いいえ、せっかくなので休んでいってください。さあ」
「ほら、お家の人もこう言ってくださるし」
「ベレ、お前な……。俺たちはガキに怪我させたんだぞ」
 呆れるディンゴの服を、しかし父が引っ張った。さあさあ中へ、と一行を家の中に連れ込み、そのまま室内に座らせてしまう。手際よく乳酒を用意すると、床に降ろされた娘を呼び寄せた。
「ルネ、傷とやらを見せてごらん」
 無事な足と手を使ってなんとか立ち上がり、父のもとへ行く。引きずる足は痛むが、さっきよりは大分和らいでいた。
 父は巻かれていた布を解いて傷を眺め、ほう、と息を吐いた。
「これは、きれいに治るかどうかはちょっとわからないな」
 そうして男たちに視線をやり、ひとりひとりを値踏みするように見た。この目は知っている。姉たちが嫁に行くごとに、散々見てきた。
 父はこうして相手を選び、姉たちを方々に嫁がせていった。この小さな里が戦に巻き込まれないように、この地域より南側にある四つの地域――それぞれが領土を奪い合い戦争中だ――に一人ずつ。最後に残ったのが、末娘のルネだった。
 姉たちが無事でいるかどうか、ルネは、父ですら、知らなかった。
「どうぞ夕食も食べていってください。あなた方が持ってきてくださった肉です」
 父はにこやかに男たちに語りかけ、彼らを引き留めた。ディンゴは固辞しようとしていたが、ベレという彼らの中でも若そうな男が「お言葉に甘えましょうよ」と留まったのだ。仕方なく座り直したディンゴを見て、ルネは少しホッとした。この温かい人と、もう少しだけ一緒にいられる。
 同時に父の様子を、少し不気味に思っていたのだけれど。知らないふりをして、夕食の準備を始めた。干した野菜を雪を溶かした水で戻し、父が切り分けた肉と一緒に火にかける。この辺りでは、肉を切るのは男の役目だ。
「ルネちゃんはいくつ? 十歳くらいかな」
 ベレが尋ねるので、ルネは戸惑いながら「十三です」と小さく返事をする。たぶん、十三だ。生まれた時の記録をしておらず、だいたい一年が経った頃に柱に傷をつける、それが里での年齢把握の方法なのだった。父が毎年刻んだ柱の傷は、姉たちの分は嫁いだ年で止まっている。
「十三歳かあ。もっと小さいのかと思ってた。もう子供は産めるの?」
「よせよ、ベレ」
 何の遠慮もないベレを、ラステットが窘める。そしてルネには、「答えなくていいからね」と慌てて言った。そうでなければ、ルネはあっさりと「もう産めます」と答えていただろう。初潮は夏、まだ姉がこの家にいるときで、毎月のことだからと対処は一通り教わっていた。以降は子供をつくることができるということも。
 子供を産み育てることは、今の里、ひいてはこの北の地域に住む人々全体にとって重要なことだった。長い戦の只中にあり、どんどん人が死んでいくこの時世で、少しでも人手を増やす必要があった。幸いにして食料に困ることはあまりなかったから、人口は多ければ多いほど良かった。
 そして生まれてくる子供は、より強い血を引いていることが求められた。
 ルネと父、男たちは、出来上がった食事に手を付ける。塩と野菜と肉の出汁の味が、ディンゴの眉間のしわを緩めた。
「うめぇ」
「干した大根が良い。塩加減も丁度。こんな美味しいものをありがとうございます」
「あなた方のくださった肉で作った汁物です。礼には及びません。野菜の良い干し方ならルネがよく知っていますよ、姉に叩き込まれているので」
「へえ、ルネちゃん、お姉さんがいるんだ。で、お姉さんはどこに?」
 きょろきょろと部屋を見回すベレを、ラステットが小突き、ディンゴが睨む。その隙にもう一人の男――歩いているときにカルバと呼ばれていた――がベレの持っている器から肉を盗んだ。賑やかな人たちである。
「この子の姉たちは、嫁に行きましたよ」
「なーんだ。ルネちゃんが可愛いから、きっと美人なんだろうね」
 そう、自慢の姉たちだった。もう会えないのが残念なくらいに。
「この子もそろそろ嫁にやろうと思っていたんです。こう見えて、もう年頃ですから。できれば強い殿方に……」
 ちら、と父が男たちを見る。姉たちが遠くに嫁いだ今、残ったルネには重要な役割があった。この里を守るため、最後にしなければならないこと。それは。
「よろしければ、この子を嫁にもらってくださいませんか」
 地元の強い男に嫁ぎ、この里を優先的に守らせること。そして強い子供を産み、育て、味方を増やすこと。父からずっと言われてきたことだった。この家には娘しかいないから、里を守るためにはそうするより他にないのだと。
「嫁? こんなガキを?」
「幼く見えますが、もう子供も産めます。立派な女です」
 先ほどラステットが気を遣って言わせなかったことを、父はあっさり口にした。ルネは俯いて、客らと父の椀に汁物のおかわりをよそう。
「この子の四人の姉は、敵方に嫁がせました。東、西、中央、南にまで嫁に出したんです。親戚がいれば、この里に手出しはできないでしょう。仕上げはこの子が、この地の強い殿方と一緒になってくれること。娘を差し上げますから、どうぞこの里をお守りください」
 父はそう言って頭を下げた。ルネは父を見、それから男たちを見た。ラステットとカルバはもちろん、軽薄そうだったベレまで戸惑いの表情を浮かべている。唯一、ディンゴだけが再び眉間にしわを寄せていた――今度ははっきりと、怒っているのだとわかった。
「……なんてことしやがる」
 重く低い声が室内を這う。ルネだけではなく、父までもがびくりと肩を震わせた。
「親戚だとか、この状況じゃ関係ねぇ。むしろ他所者は嬲り殺される可能性だってあるんだ。そんだけ領土争いは切羽詰ってる。嫁にやるなんて冗談じゃねぇよ、姉妹同士でいがみ合わせる気か!」
 獣が吼えるよりも激しく、ディンゴは怒鳴った。声の振動が伝わって家が揺れたように感じたほど、その迫力は凄まじい。父は後退り、ルネは頭がぼうっとなる。ぼうっとしながらも、言葉の一つ一つの意味を、確かめるように反芻した。
 この里はまだ無事だ。断片的な情報だけが外から伝わってくる。だから、認識がずれていたのだ。本当に最前線に出る人たちよりも、あまりに暢気だった。人柱を立てさえすれば、この先もずっと無事でいられるだなんて。
「それに俺たちは他の地域の奴らと戦っている。今日はたまたま猟の日だっただけだ。いつ死ぬかわからねぇのに、嫁なんかとれるかよ」
 ディンゴは言い捨て、すっくと立ちあがった。椀の中にはまだ汁物がたっぷり残っている。「行くぞ」と男たちを促すと、真っ先にラステットが、続いてカルバが、最後に汁物を一気にかきこんで椀を空にしたベレが続いた。
 こんなことは初めてだった。少なくとも、ルネが知る限りでは。姉たちを嫁にすることを、先方はとてもありがたがったと父からは聞いている。これでこの里に手出しはされないだろうと。けれども、本当にそうなのだろうか。ディンゴの話を思い返すに、それは認識の大きな誤りなのではないか。
 相手が喜んでいたとしたら、それはこの土地の娘を人質に得たということに対してなのでは。あるいはもっと酷い想像をするなら、姉たちはもう他の土地で嬲り殺されて――。
「あ、あの!」
 痛む足に構わず、ルネはディンゴの前に飛び出した。熊の毛皮でできた外套にしがみつき、やぶ睨みの眼を見上げる。機嫌が悪そうだ。でも、怖くない。この人は、自分を助けてくれた人だ。酷いことはしないはずだ。
「あぁ? 何だよ」
 他の姉たちがどうなっているのかはわからない。でも、せめて自分だけは生き残って、この里を守らなければ。とても小さいけれど、自分が育ってきた場所だ。人々はルネに優しく、父はもしかしたら間違っていたのかもしれないが、里を想っていたのは確かだ。ルネにはこの里を守る理由がある。
 そしてこの小さな体では難しくても、彼らならばできるかもしれない。いつ死ぬかわからないという日々の中、確かにここに生きている彼らなら。
「私のこと、嫌いですか」
 ルネはディンゴの瞳を真っ直ぐに見る。
「私、あなたのお嫁さんになっちゃ駄目ですか」
 一瞬、大雪の後のような静寂が室内を包んだ。ルネ自身、どうしてこんな言葉が出たのか、よくわかっていない。
 ただ、この人と結ばれれば父の願いは叶い、そして自分にも悪くないのではないかと、後になって思考がそこまで追いついた。
「駄目だ」
 静寂を破ったのは、ディンゴの一言だった。そっとルネの体を退けると、そのまま外に出ていってしまう。それをカルバとベレが追いかけた。
 最後にラステットが、丁寧に礼をした。
「温かいものをごちそうさまでした。ルネさん、どうか足を大事に。薬を毎日塗っていれば、傷は薄くなるはずです」
 そうして彼も出ていった。あとには腰を抜かしたままの父と、床にへたり込んだルネが残された。



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雪の妖精 プロローグ

 灰色の空から落ち来る、指先に乗るくらいの結晶。凍る地面に降り積もり、いつしか硬い道となる。そして温かな風が吹く頃に、消え去っていく。
 大陸にまだ大きな国ができていなかった昔、人々が争い生きる場所を勝ち取ろうとしていた時代。そんな生き方をした、一人の女性がいた。彼女の名前はほとんど忘れ去られたが、今でも存在は伝えられている――「雪の妖精」という呼び名で。
 伝わる物語はすでに真実ではなくなっている。彼女は神性化され、美しさと奇跡だけに飾られている。どんな書物を紐解いても、彼女の全てを知ることはできない。
 けれどもたしかに彼女は生きた。ひとりの逞しい人間として、この北の大地に。


 * * *


 映画監督を名乗る男が面会を申し込んできたのは、この国で一番寒い時期だった。最低気温は今シーズンの記録を更新し、道の脇には雪が積み固められている。春はまだ遠そうだ。
「あなたはヴィオラセント家の末裔なのでしょう。何か知っていることはありませんか」
「知りませんね。そもそも俺は養子ですから」
 縋るような彼の言葉をばっさりと切り捨てて、ノーザリア王国軍大将ダイ・ヴィオラセントは口元だけで笑った。本来、このような人物と会うこともない。面会を許可したのは、一応彼の名前を知っていたからだ。
 この映画監督は、これまでに数々の作品を世に送り出してきたが、どれも大きくは流行らなかった。けれども作風は古典的な絵画のような美しさを持っていて、その映像美に惚れ込むコアなファンがついている。ダイの養母もその一人で、一緒に彼の映画を何本か観たことがあった。もっとも、ダイには退屈だったのだが。
 その美しく退屈な映画を作る人物が、大作に着手したいという。それにはどうしてもダイの協力が必要なのだそうだ。映画なんて勝手に作ればいい、と最初は思ったのだが、彼の持つ理由を聞いて、直接会う気になった。――会って、断ろうと思ったのだ。その作品は完成させることができないと思ったし、だからといって勝手なことを描かれても困るのだった。
「過去の記録などに心当たりがあるということも」
「ありません。記録がかつてあったとしても、焼失している可能性が高いかと。ヴィオラセント本家は大昔に燃えてしまいましたし」
 ダイが生まれるよりもっと昔のことだ。このノーザリアという北国にあったヴィオラセントという名の家は、火事でなくなってしまった。そのとき生き残ったたった一人の子供も、四十の頃に亡くなっている。ダイはその生き残りの名前を継ぐ養子で、そのことは多くの人が知っている。
 ただ、全く血縁がないというわけでもない――ということは一部の人間だけが知る真実だ。ダイが生まれたホワイトナイト家は、血筋を辿ればヴィオラセントの分家だった。つまり、遠い親戚なのである。しかし件の映画監督はそれを知らないはずだった。
「本当に、何も遺っていないのですか。お父様から、何か聞いていたことも」
「ありません。ですから、ヴィオラセント家の映画など作れません。諦めてください」
 映画監督は肩を落とす。おそらくは自分でできうる限り手掛かりを探し、最後にここに頼ったのだろう。可哀想だが、こちらから提供できるものは何もなく、そして勝手にヴィオラセント家のイメージを作られるのも避けたかった。あんまり綺麗なものを作られてしまっては、ダイが今後動きにくくなる。自分のやりかたがけっしてクリーンであるとはいえないことは、自らが一番よく知っている。
 メディアの作りだすイメージは強い影響を及ぼす。面倒はごめんだ。
「でも、私は描きたいのです。『雪の妖精』を」
 拳を強く握り、ダイを真っ直ぐに見て、映画監督はなおも訴える。簡単には引き下がらない。彼は自分の人生を賭けている。流行りはしなかったかもしれないが、映画はひとつひとつが彼の命だった。――だからこそ資料がないままに描くのは諦めてほしいのだが。
 どうか諦めてお帰りください、と言って引き取ってもらおうとしたときだった。扉が先に開いて、青年が何の断りもなく応接室に入り込んできた。
「お茶のおかわりをお持ちしました」
「お前……。せめてノックはしろよ」
「あ、すみません。ついいつもの癖で」
 呆れるダイに、青年は舌を出してみせる。客の前だというのに随分砕けた態度に、映画監督はぽかんとした。
「部下が失礼をいたしました」
「いいえ。ノーザリア軍にも、こんな方がいらっしゃるんですね」
「あはは、監督、軍を買いかぶってますよ。これがノーザリア軍の通常運転です」
 ティーカップを置き、青年は気楽に笑う。ダイが睨むのも気にならないようだ。
「あなたは、私をご存知なのですね」
「知ってますよ。俺、監督の映画好きですから。あ、あとでサインもらえます? ウーノ・スターリンズ君へ、って入れてくれると嬉しいです」
「ウーノ、いい加減にしろ」
 とうとうダイが強めに叱り、青年は口を閉じる。表情はどこかいたずらめいたそのままに。映画監督は少し考えてから、もしや、と青年に向き直った。
「あなたは、スターリンズ前大将の」
「はい、息子です」
 あっさりと頷いた青年に、映画監督の目が光った。ダイは額を押さえ、しまった、と内心で呟く。ヴィオラセント家の記録はないが、こちらは現存するはずだ。
 ヴィオラセント家とスターリンズ家は縁が深い。スターリンズ家には代々伝えられている記録があり、そこから窺い知ることができる過去がある。そのことに、映画監督も思い至ったようだった。
「あなたは知りませんか、『雪の妖精』についての物語を。彼女の真実を」
 青年――ウーノに掴みかかるようにして、映画監督は問う。ウーノは目を丸くし、それから。
「真実かどうかはわかりませんけど、その人についてならうちに少しばかり記録があります」
 正直にそう答えた。
「監督、ずっと撮りたかったんでしょう。色々なインタビュー記事も読みましたから、知っています。『雪の妖精』に恋焦がれ、けれどもその本当の姿が掴めなかった。いよいよヴィオラセント姓の人間に直接当たってきたということは、今作を最後にするつもりですね」
 ウーノはダイよりもずっと彼と彼の作品に詳しいようだ。自分が生まれる前の映画や関連する情報も把握しているのだろう。映画監督はただただ頷いていた。
 ダイに振り返り、ウーノは微笑んだ。
「俺、この人の作品が観たいです。きっとダイさんに悪いようにはなりません。うちから記録を提供してもいいですか」
 問いながら選択肢を用意しない、そんな強引さは父譲りで、同時にウーノを部下として育ててきたダイの影響でもある。それを認めているからこそ、ダイは深いため息とともに、返事をした。
「……わかった、制作は許可する。スターリンズ家からの記録提供も。けれども公開については改めて話し合おう」
「わあ、横暴。ね、監督、ヴィオラセント家の末裔ってこういう人なんです。だからもし『雪の妖精』について理想と違うことがわかっても、絶望したりしないでくださいね。それだけ約束してください」
 同じ微笑みを、ウーノは映画監督にも向けた。

 とはいえ、スターリンズ家に残っている記録もごく僅かなものだった。ヴィオラセント家と縁があるといっても、「雪の妖精」について記述があるものは限られる。なにしろそう呼ばれていた人物が生きたのは、約五百五十年前のことだ。そのそも大陸戦争の頃の記録は、ノーザリアの敗戦の歴史ということもあり、あまり遺っていないのだ。
 そのなかで拾い集めた記録から「雪の妖精」の物語を紡ぎ直すことは困難で、だからこそ現実味のないおとぎ話だけが語り継がれてきた。そしてそのほうが、この国の歴史にとっても都合が良かった。
 しかし映画監督が求めているのは真実だ。「雪の妖精」が人間であることを描きたい。その一心で探し当てた、人生のかけらを繋ぎ合わせる。
「ああ、彼女の名は」
 誰もが忘れていた名前を見つけて、映画監督は目を細めた。愛しげにその文字を指先でなぞり、読む。
それがこの物語の始まり。呼ばなければ何も始まらない。



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2017年11月24日

彼女はあまり語らない

エルニーニャ王国立の軍人養成学校には、三種類のコースがある。一つは十歳から入学し、一年間の学習と訓練を経て入隊の準備をするもの。一つは一般の学校で教育を受けた後で、軍人に必要な技能訓練を主とするもの。そしてもう一つは、十歳から軍に入隊するためにその一年前から準備を始めるものである。
十歳入隊を目指すコースは新設されてから十年も経っていない。優秀な人材の早期育成のために、第二十九代大総統ハル・スティーナのときに定められたのだ。同時に軍人養成学校にも特待生制度と奨学金制度が設けられ、入学試験の成績によっては学費の免除や減額が受けられるようになった。
軍人養成学校に限らず、エルニーニャの多くの学校は学費が高いために、裕福な家の子供が通うところという認識がある。制度がどんなに変わろうと、人々の意識はなかなか変わらず、現在も学校に通う子供は家計に余裕がある者ばかりだ。より多くの子供に学習の機会をと創られた私立の学校には、いわゆる中流層の一般市民が通うこともある。だが学校に行って学ぼうという意識を持つ人間は、まだこの国には多くはないのだった。
無論、貧困層には学校に通うなどという考えはなく、それならば子供でもできる仕事を探した方がずっと生活には役立つというのが普通だった。
軍人になるならば、ある程度自分で一般常識と相応の体力を身につけておけば、学校になどわざわざ通う必要がない。それゆえに、軍人養成学校を卒業した軍人のほとんどは、軍家や貴族家、商家といった名家の出である。


リッツェ家は文派の重鎮であるが、軍人も多数輩出してきた名家だ。幼少期からレベルの高い教育を受け、相応の年齢になれば国立学校に入学する。しかし学校は十歳になる前に一度退学し、軍人養成学校へと編入して、そのまま軍人を目指すのが家の習わしとなっていた。
エルニーニャ軍人は若い。三十代ともなれば退役し、第二の人生を歩むこととなる。その道として文派に属することを用意されているのが、このリッツェという家だった。軍人でありながら文派にも通ずるという姿勢を保ち、文派でありながら軍の事情にも精通している人間になる。四男であるフィネーロも、親や兄たちと同様に文武両道であることを求められてきた。
もっともフィネーロは、武というものがあまり得意ではない。身体を動かすよりもおとなしく本を読むのが好きで、机の上の勉強と頭の回転の速さならば、時に兄ら以上の力を発揮する。兄たちはそんな弟の特性をよく理解し、かつ末っ子をとても可愛がっていた。
なので、フィネーロも慣例通りに軍人養成学校に編入させると父が決めたとき、兄たちは反対した。この子にはずっと勉強をさせてやり、ゆくゆくは父のように国立大学で教鞭をとったり、研究にうちこんだりする方が良いはずだと。
しかし父がフィネーロに「どうしたい?」と尋ねると、八歳のフィネーロはおずおずと答えた。
「僕も、お父様や兄さんたちのように、軍人をやってみたいです」
動くのは嫌いではない。それどころか、フィネーロは好奇心旺盛な少年だった。おそらく兄たちが思っていたよりも、ずっと。

かくして九歳になる年の四月、フィネーロは軍人養成学校の学生となった。この学校に運動着以外の制服はないが、誰もが名家の人間らしく仕立てのいい服を着て初日に集まっていた。もちろんフィネーロも例に漏れない。
だからこそ、彼女の姿はとても目立っていた。周囲がひそひそと噂をし、眉を顰めるくらいには。
大勢の視線につられて、フィネーロも目を動かした。視界の端に映ったのは、周りに比べると、いや、フィネーロが知る「一般」に即しても、あまりにみすぼらしい恰好の少女だった。
ぶかぶかのシャツは袖を大きく捲り上げている。ズボンは綻びていて、しかも彼女の足には裾が短い。他に着るものがなかったのだとすれば、明らかな「貧民」だ。本来、軍人養成学校にはいないはずの。
普通はいても学費を懸命に捻出した一般人で、それでも着衣はきれいだ。髪だって整えている。けれども少女は、長く伸びた髪を梳かしもせずに束ねているようだった。せっかく琥珀か蜂蜜かという、綺麗な色なのに。
どうして、という疑問は周囲の声で解けた。あの少女はどうやら、最近になって始まった特待生制度によってここにいるらしい。特待生は入学金が無料で、その枠に入るには入学試験での好成績が必要だ。家柄は問わない、というのは本当の事らしい。
つまりあの少女は「できる」のだ。勉強も、運動も。どんな環境で育ってきたのかはわからないが。
同じ十歳入隊コースの、同じクラスになった彼女の名は、出席をとる際に知った。メイベル・ブロッケン。たしかにブロッケンという名前は聞いたことがない。返事をする声は女の子にしては低く、どこか機嫌の悪さが窺えた。
「態度の悪い貧乏人」というレッテルはたちまち学内に知れ渡る。彼女が特待生であることよりも、金を払わずに入学してきたということのほうが話題としては面白かったのかもしれない。フィネーロにはちっとも面白くはなかったが、彼女がその噂を耳にしているはずなのに特に何も言わないので黙っていた。
もとより、話しかけるきっかけを与えようとしない相手だった。いつも透明で分厚い壁を自分の周りに作っているような少女に、どう接しろというのだ。
そんな人物が同じクラスにいるということは、すぐにフィネーロの家族にも知れた。父は何も言わなかったが、兄たちは口々に弟を心配した。
そんな問題児が一緒で、この先まともにやっていけるのか。今年のクラスは、フィネーロは、気の毒だ。何かあったらすぐに言いなさい、兄さんたちが学校に駆けつけてやるから。
兄たちはまともな人なのだけれど、弟のことになると我を忘れることがある。これからは何があっても黙っていよう、とフィネーロは誓った。

最初の一か月、メイベル・ブロッケンはおとなしい学生だった。衣服がいつも体に合っていなかったり、ぼろぼろだったことを除けば、問題も起こさない。何を言われても反論や反抗はせず、ただ黙々と授業を受け、実習に取り組んだ。成績はさすが特待生というべきか、どれも素晴らしかった。少なくともフィネーロは感心していた。
他人はどうだろう。その瞬間は黙ったようだが、以降も陰口は止まない。貧乏なくせに生意気だとか、軍人になるのもきっと金目当てだろうとか、そんな僻みを含んだ囁きがいつもどこからか聞こえていた。
文句があるなら、実力で示せばいいものの。それができないから僻むのか。そんな人間たちが、これから軍に入ろうとしているのか。そんな根性のまま大人になろうとしているのか。それを考えると、頭が痛くなった。
そうして五月の中旬、フィネーロは初めて彼女と接触する機会を得た。
「隣の席の人と、解答用紙を交換して採点するように」
そう言ったのはたしか、数学の教員だった。優しいと評判だが、やたらと学生同士を仲良くさせたがるので、人見知りをするフィネーロはこの教員の言動に度々困っていた。
他の学生たちからもこのときばかりは文句が出たと記憶している。自分の点数をクラスメイトに、それも大して仲良くない相手に知られるのは、あまり好ましくない。誰もが嫌々ながら解答用紙を机の上で滑らせて、隣の者に渡していた。
座席は決まっているわけではない。教室に来た順に、好きな場所に座ることになっている。彼女はいつも早くに来て一番前の端の席を確保していたが、その隣には誰も座ろうとしなかった。その日、家の都合で遅刻ギリギリに教室に到着したフィネーロには、その空いた席しか残されていなかったのだった。
隣から、解答用紙が差し出される。全ての欄がきちんと埋まった、見事なものだ。フィネーロも同様に空欄のない解答用紙を彼女に渡した。そのとき、案外彼女の字は読みやすいのだな、ということを知った。
「全問正解していた」
採点が終わった解答用紙を彼女に返すとき、フィネーロは何も考えずに一言を添えた。すると彼女は切れ長の目を見開き、こちらを向いた。その瞳は若草の色だった。
「何か問題でも?」
フィネーロが問うと、彼女は「いや」と小さく言った。
「ここに通うようになってから、初めて話しかけられたものだから」
彼女が纏っていた壁が薄くなったと感じた。驚いた顔は無防備で、フィネーロや他の学生と同じ、ただの九歳の少女だった。
休み時間に入ってから、フィネーロは彼女にさらなる接触を試みた。普段なら次の授業の準備と読書で暇を潰すところだが、今日はなんだか彼女と話をしてみたかった。
暇そうに欠伸をする彼女の手元にはノートはなく、代わりにくしゃくしゃになったのを広げたような紙が一枚あった。真新しい教科書と並ぶと、なんだか妙だ。
「まさか、その紙に授業の内容を?」
話しかけると、彼女は横目でこちらを見て、それから頷いた。
「ノートなんてきれいなものを買う余裕はないんだ。本当なら、私も働いて稼がなくてはならない」
低い声で律儀に返事をする。会話ができると判断し、フィネーロはさらにたたみかけた。
「じゃあ、なんで学校に」
「将来的に働いて稼ぐためだ。軍人になればいい稼ぎになる。学校を出れば何もせず試験を受けて入隊するよりも、確実に上の階級からスタートできる。当然貰える給料も多いだろう」
「いや、たしか十八歳までは支給制限があったはずだ。子供のうちは制限以上の給料は軍で管理し、制限がなくなったらまとめて返してもらえる仕組みになっている」
「制限……それは調べていなかった。だが、それまで生きて仕事をしていればいいんだな。制限がかかるといっても、家に金を入れる分には支障がない、……といいんだが」
しきりに金のことを気にするのは、やはり家が貧しいからだろうか。金のために軍人になろうとしている、という噂は間違いではないらしい。周囲は裕福な家の人間ばかりで、育った環境にも恵まれていて、金の心配などしたことがないだろう。フィネーロはそうだ。だから収入のことなど気にしていなかった。けれども彼女は、そこにこだわる。
「金が必要なのか」
「働いて対価を貰うのは当然のことだ。そしてそうでなければ生活ができない。私には、家族を養う義務がある」
そんなものは大人のすることだと思っていた。だが彼女はそうは思っていない。自分にこそその義務があるのだと、本気で考えているようだった。
「不躾で申し訳ないが、君は孤児なのか?」
「まさか。母親がいる。……ただ、あてにならない。あの人も働いてはいるけれど、稼いだ分だけ奪われてしまう。だから我が家には、より多くの収入と、それを守る力が必要なんだ。軍人になれば」
彼女の机の上にあった手が、強く拳を作る。爪が刺さりそうなほど、力がこもっていた。
「軍人になれば、その両方が得られる。私が実現してみせる」
若草色の瞳は宝石でも埋まっているのかというほどにギラギラと光って、ここには存在しない何かを睨み付けていた。そこに決意と怒りを見て、フィネーロは鳥肌の立った腕をそっとさする。
彼女には、確固たる目的がある。自分のように、家族がそうしているから自分もそうしたいなどという、ぼんやりした理由ではなく。もっとずっと先を見据えているかのようだった。
「……喋りすぎた。まあ、貧乏人の理屈だ、忘れてくれてかまわない。お前はこんなことは考えなくてもいいのだろうし、もっと有意義なことに頭を使ったほうがいい。記憶容量というのは限られているそうだからな」
投げやりに会話を終わらせた彼女の声に、授業開始のチャイムが重なる。気が付けばすでに教員が前に出ていた。クラス委員の号令で礼をし、授業が始まる。大総統史担当の教員は、すぐに前回の続きから話し始めた。
横目で確認した彼女は、真剣に授業を聞いている。教員の言葉を一言も聞き漏らすまいとして。

翌日も、さらにその次の日も、彼女の隣は空いていた。フィネーロはその場所を選んで座り、朝は彼女に「おはよう」を、帰りには「さよなら」を言うようになった。彼女はこちらを見ずに、同じ言葉を返す。休み時間にはぽつぽつと、授業のことなどを話した。
「最近、お前の噂を聞くようになったぞ」
何日か経った朝、挨拶の後に彼女が言った。
「リッツェが貧乏人に情けをかけてるって。そうなのか、フィネーロ・リッツェ」
たしかにそんな噂が流れ始めていた。彼女と話すのがフィネーロだけだったから、誰かが言いだしたのだろう。ついでに、女子は恋だのなんだのと言っている。「リッツェ君、趣味良くないね」だそうだ。
「誰かに情けをかけたことはない。僕は僕のしたいようにしているだけだ」
「そうか、お前は私に構いたくて構っているのか。変わった奴だ」
「変わっているか? ただ会話をしているだけなのに」
「普通の人間は、こんな汚い恰好をしている奴と話そうとは思わない。思ったとして、それは同情か恩を着せようとしているかだ」
フィネーロのしていることは、そのどちらでもないつもりだ。しいていうなら、興味だろう。そう正直に言ったら、彼女は「なるほど」と頷いた。
「それなら納得だ。私はお前とは違う人間だからな。お前は名家の坊ちゃん、私はここにそぐわない貧乏人だ。興味はあるだろう」
「そうではないのだが……。周りの声を気にしていなさそうだから、その平常心に感心しているんだ」
「そう見えるか」
彼女は鼻で笑った。子供の顔のまま、大人みたいな表情をする。
「くだらないことにいちいち反応していたら、頭の容量と労力がもったいない。それだけのことだ」
「なるほど。たしかにそうだな」
周囲の声など気にしていたら、彼女の目的を達成する邪魔だ。彼女の労力は、彼女曰く家族を養うために使われるべきなのだから。
「しかし、雑音が多いと集中しにくいのは事実だな」
「すまない、僕が君の邪魔をしているんだろう」
「お前は邪魔じゃなくて気分転換だ」
子供なのに大人びていて、賢くて、気が利いて。なにより家族思いで。フィネーロから見れば、このクラスでメイベル・ブロッケンより出来た人間はいない。末っ子で甘やかされてきた自分が恥ずかしくなるくらいだった。
これからも彼女から学ぶことはたくさんあるだろう。そのために、できるだけ一緒にいたい。誰かの言うような恋とかではなく、きっと憧れが一番近い感情だ。
だから、彼女の頼みには驚いた。
「ところで、私は教科書以外の本というものをまともに読んだことがない。お前は私と話してばかりいるが、本当は読書が好きなんだろう」
「まあ、読書は好きだが」
「何が面白いんだ、教えてくれ。妹たちに話してやりたいんだ。私は何も知らない」
憧れは上の人間に抱くものだ。しかし彼女は、自分は何も知らないのだと言う。教えてほしいと言う。それが不思議だった。
フィネーロはちょうど鞄に入れていた本を取り出し、彼女に差し出した。
「読むといい、自分で。これくらいなら、君はすぐに読み解ける。噛み砕いて家族に話すことだって容易だろう。お薦めはいくらでもあるから、読みたいものがあれば言ってくれ」
彼女は、しかし、本を受け取らなかった。手を伸ばそうとはしたが、すぐに引っ込めてしまった。目が泳ぎ、いい、と答える。
「物を借りたくない」
「じゃあ、学校で読んでしまうのはどうだ。内容を覚えるくらいの容量は、君の頭なら十分に残っているだろう」
自分でも驚くほど強引に、フィネーロは彼女に本を押し付けた。やっと本を受け取った彼女は、その表紙をしばらく眺め、紙の並びをなぞってから、小さな声で「感謝する」と言った。
その日彼女は、授業が終わっても帰らなかった。本を読みふけり、席を立とうとしない。フィネーロは何も言わずに先に帰った。彼女は借りたくないと言ったが、引き上げるわけにもいかない。
遠慮せずに借りていればいい。持って帰って、妹や弟に読み聞かせてやればいい。何日でも、好きなだけ。――そう思っていたのだが。
翌日、本は無残な姿で返ってきた。
「すまない」
千切れた表紙と、破られたページ。汚れて、よれて、ぼろぼろになってしまったそれを、彼女は朝の挨拶よりも先に差し出してきた。
「どうしたんだ」
「……こうなってしまうから、借りたくなかった。しかしお前は先に帰ってしまったし、どうしたものかと考えて、結局持ち帰ったんだ。隠していれば大丈夫だろうと思っていたのだが、甘かった」
答えになっていない。けれども、彼女の家庭で何かあったのだということは予想がついた。妹や弟がやってしまったことならば仕方がないだろう。
「僕は気にしない。本の修復なら、兄さんが得意だ」
「直るのか」
「ああ。どうやら君は、壊れたパーツを全て持ってきてくれたようだし。それより、内容は覚えられたのか」
彼女の手から本と本だったものを受け取り、フィネーロは尋ねた。彼女は瞠目し、「それより?」と低い声で呻く。
「自分のものを壊されて、怒らないのか、お前は」
「僕は別に。壊れるものなら仕方がないだろう」
席に着いたフィネーロを、彼女は睨む。強く、鋭く。そして首を傾げたこちらに告げる。
「やはりお前は坊ちゃんだな。私とは余裕が違う」
透明な壁が、せっかく取り払われつつあったものが、また厚くなってしまったような気がした。

夏になると、訓練の授業が本格的に始まった。各々武器を選び、その扱いを覚える。選択ごとに教員も異なり、いつものクラスとは違うメンバーが顔を合わせるようになる。
フィネーロは武器が決まらなかった。訓練は体術を習う全員共通のものと、武器を扱うものを必ず受けなければならないのだが、武器の適性がわからない場合は無難なものに振り分けられることになる。すなわち、軍で最も使用頻度の高いもの――剣や銃だ。剣はさらに細かく、長剣や短剣などに分かれる。
「武器の適性が見つからなくても、一つ基本を押さえておけば、試験には合格できます。リッツェ君はどうしますか」
「では、ナイフで」
重い剣や衝撃の強い銃は、自分には不向きだと感じた。そこでナイフを選んだのだが、これもまたフィネーロにはなかなか扱いにくい。まず、相手の懐に飛び込む動作が難しかった。
もっと訓練しなければ追いつけない、と悩んでいる間に、彼女の噂が聞こえてきた。迷いなく銃を選んだ彼女は、訓練で優秀な成績を誇っているらしい……というのは聞こえが随分いい方で、周囲の言葉通りなら「鬼気迫っていて怖いくらいだ」という。
基本の拳銃だけではなく、あらゆる火器の構造と扱いを瞬く間に習得し、実践してみせる。彼女一人で的をぼろぼろにし、それが人型ならば確実に急所を狙う。軍人になりたいのか人を殺したいのかわからない、と教員がぼやいていたこともあった。
もちろん軍人養成学校の卒業生がむやみに人を殺すようなことはあってはならない。軍の規則ではやむを得ない場合に限り相手を殺してしまうことになっても罪には問われないことにはなっている。だが、そんな状況は無くしていきたいというのが現在の軍の考えだ。いくら凶悪犯でも、殺してしまえば事件の真相はわからなくなってしまう。
彼女には指導が入った、と聞いたのは汗ばむ日が続く頃のことだった。ちょうどフィネーロが武器の変更を考えたほうが良いと、教員から指導された時期と同じくらいだ。
「ブロッケン、教員から何か言われたのか」
席はずっと隣だった。だが、会話は破れた本を返された日を境に激減していた。だから話しかけるのには、少し躊躇いがあった。けれども彼女はいつもの不機嫌そうな声で返事をしてくれた。
「ああ、もっと落ち着いて訓練に臨めと。実際に任務に就いたとき、今のままだと問題だと言われた」
「問題?」
「手加減を覚えないと死者を出す、だそうだ」
うんざりしたように溜息をついて、彼女はフィネーロに向き直った。久しぶりに真正面から、若草色の瞳を見た気がした。
「なあ、リッツェ。お前はお坊ちゃんだからわからないかもしれないが、一応訊く。性根から悪である人間は、排除すべきではないのか。そのほうが世のためじゃないのか」
いつかのように、ギラギラした眼。彼女は正義感が強いのだろうか。少々、極端な方向に。
「他人の性根なんて、わからないだろう。それに一方的な排除は物事の包括的理解に繋がらない」
「理解する必要が? そもそも理解など可能なのか? お前には、できるのか?」
自分には、と考えるとフィネーロも言葉に詰まる。理解する、というのは難しいだろう。身内でさえ考えを理解したり納得したりすることが困難なのだ。しかし、だからといって考えないというのは、違う気がする。排除するだけでは解決しない。フィネーロは父からそう教わってきた。
「……理解できなくても、物事の原因を探ること、同様の事件を防ぐことは、多少なりともできると思う。僕がなりたいのは、そういう軍人だ」
もっとも今の実力では、それすらも難しいかもしれないのだが。つい唇を噛みそうになったところで、彼女が鼻で笑った。
「いいな、お前は。先のことが考えられて。やはり余裕が違う」
「以前もそう言っていたな、君は。君には余裕がないのか」
「ない」
きっぱりと一言で返す彼女は、もうフィネーロを見てはいなかった。
それから数日が経ち、体術の男女合同訓練があった。普段は体力差や体格差を考え、男女別になっているのだが、実戦ではそうもいかない。ときどきは合同での訓練を行い、互いに対応を学ぶというのが趣旨だ。けれども体力差や体格差の考慮はそのままだ。フィネーロは力のさほど強くない女子を相手にすることになり、彼女は――フィネーロが知る限り、クラスで最も力のある男子と組んでいた。
さすがにあれは可哀想じゃないか、と男子らは失笑する。女子らは「実力で決まったのなら仕方がない」と言っていたので、彼女の成績が女子トップであることは確かなようだ。
合図とともに組手が始まる。初めのうちは男子が手加減しようとするが、次第に本気の女子に押されていく。男だろうが女だろうが、最終的に目指す場所は一緒なのだから、油断は禁物だ。フィネーロなどは手加減などするまでもなかった。相手の攻撃を受け止めるより、かわす方が多くなってしまう。上手に受け身をとることも訓練の一環だというのに。
苦戦しているところで、担当教員が「止め」と号令をかける。ふらつきながらも呼吸を整えようとしていると、大きな音が体育館内に響き渡った。
床に何か叩き付けたようなそれに、教員までもが即座に反応できなかった。受けた当人すら、何が起こったのかわからなかっただろう。周囲は茫然と、音の方向を見ていた。
そこには彼女が仁王立ちになっていた。冷たい眼で見下ろしているのは、クラスで一番強かったはずの男子だ。彼は床に仰向けになって倒れ、手足が不規則に震えていた。
「痙攣?! おい、大丈夫か!」
教員が慌てて駆け寄り、保健委員が体育館の外へと走る。養護教員が体育館に入ってきた頃には男子学生の痙攣は治まり、意識も戻っていたが、様子を見るために体育館の隅で診察が始まった。
「ブロッケン、何をした?」
眉を寄せた教員が問い詰めると、彼女は平然と返した。
「頭を蹴り、バランスを崩したところでさらに腹に頭突きをしました。倒れかかったところでもう一度頭に一発」
「頭部への攻撃は禁止したはずだ! 銃の訓練でもそうだったが、お前の行動は危険すぎる」
「すみません。相手が訓練と関係のないことを言ったものですから、つい頭に血が上ってしまって」
謝ってはいるが、そこに反省の色は見えない。「本気を出して何が悪い」と言う彼女が、フィネーロの脳裏をよぎった。
「訓練と関係のないこととは?」
「私に対して『貧乏人は靴磨きでもしていろ』と。私だけでなく労働への侮辱でもある。こんな人間が軍人になるのだと思うと、ここで頭でも打って諦めさせた方がいい気がした」
体育館中が息をのんだ。教員に向かってあまりに正直すぎる発言をしたことと、相手に重傷を負わせる意図があったこと。彼女のしたこと全てに、教員も学生も絶句した。
だがフィネーロは、やりすぎだとは思ったが、彼女の気持ちはわからなくもない。我慢をしていたのだろう、ずっと。
「彼には病院で検査を受けてもらう。もし異常があり、障害が残るようであれば、相応の処分がある」
そう言われて、彼女はやっとほんの少しだけ動揺したようだった。口元が僅かに歪む。
幸いにも、相手の男子に異常はなかった。処分――もしかすると退学もあり得たかもしれない――を免れた彼女は、しかし厳重注意を受け、またしばらくおとなしくしていた。

夏の盛りの頃に、二週間ほどの連休がある。学校に行かないあいだの学生の過ごし方は様々だが、フィネーロに関していえば読みかけの本を読み終わり、新しい作品に手を出せる期間だ。少しばかり課題が出されているが、それは初日に片付けてしまえばいい。
図書館で勉強をし、本を借りて、ついでに書店にも足を伸ばそう。計画を立てて暑い外へ出た。図書館の前には数人の子供がいて、商店街の催し物についてのチラシを配っている。一枚受け取ると、配っていた女の子がにっこりと笑った。
顔はまるで似ていない。けれども、琥珀色の髪と若草色の瞳は、すっかり馴染んだものと同じ色だった。
「ありがとうございます。ぜひ来てみてくださいね」
年齢は六つか七つといったところだろうか。幼いのに、汗を流しながらチラシの入った籠を抱えている。傍らにはまだ開けていない箱もある。彼女と出会わなければ見過ごしていただろう。
この街には、そこかしこに「働く子供」がいる。中心部からは少し離れた場所に住む子供たちだ。富裕層の住む立派な家が建ち並ぶ区画があるのと同じくらい、古く簡素な家並の低所得者層の住む区画も存在する。働くことにこだわる彼女も、そういうところに住んでいるのかもしれない。
「カリン、まだ残っているか。もう一箱は引き受けるぞ」
図書館のエントランス前で物思いに耽っていると、聞き覚えのある声がした。彼女の事を考えていたから幻聴でも聞こえたのかと思ったが、振り向くと現実だった。琥珀色の髪の少女が、もう一人。
「……ブロッケン」
「ん、リッツェか。こんなところで何をしている」
彼女は同じ髪の色の少女の足元から、箱を持ち上げようとしていた。よっ、と言いながら箱を抱え直したので、少し重いらしい。いったいどのくらいのチラシが入っているのだろう。
「僕は課題をやりに。君こそ何を?」
「せっかく学校が休みなんだ、稼ぎ時だろう」
当たり前のように言って、彼女は去っていこうとする。この場に残った籠を提げた少女が振り返り、フィネーロにもう一度笑顔を見せた。
「お姉ちゃんのお友達ですか?」
「友達……かどうかはわからないが。君は彼女の」
「妹のカリンです。いつもお姉ちゃんがお世話になってます」
ぺこり、と頭を下げてから、続いてやってきた人にチラシを差し出す。――働いて対価を得なければ、生活ができない。こんな小さな子供までもが。
「あの、余計なことかもしれないが、役所に行って生活補助金の申請をしたほうが暮らし向きは楽になるんじゃないか」
思わず口を出したフィネーロに、カリンは困ったように笑って首を横に振った。
「できないです。お姉ちゃんが役所で聞いてきたんですけれど、そういうのって大人が申請しないとだめなんですって。うちだとちょっと、それが難しくて」
見た目よりもしっかりと、はっきりと、少女は答えた。そしてまたチラシを配り始める。何事もなかったように。
そして人が途切れると、フィネーロを振り返って言うのだった。
「できたら、お姉ちゃんとずっと仲良くしてください。お姉ちゃん、学校のお友達の話をするときは、楽しそうだから」

夏期休暇の初日しか、彼女には会わなかった。だが、そのときには彼女は元気そうだった。
少なくとも、顔に大きな青痣などなかった。額と目元と頬が青黒くなり、見る人が思わず短い悲鳴を上げるような、そんな顔ではなかったはずだ。
「おはよう、リッツェ。休みはのんびりできたか」
「おはよう。君、その顔はどうした」
「ああ、夏だからな。化け物は夏が一番流行るだろう」
真顔で冗談めいたことを言う彼女は、それ以上を話さなかった。教員に呼び出されて戻ってきてからは、ずっと不機嫌そうだった。怪我のことを聞かれたのだろうが、おそらく詳細を語ってはいないだろう。
これまで彼女や彼女の妹から聞いた話を思い出す。彼女とのあいだにあった出来事を振り返る。どう考えても、彼女の家に問題がある。だが、他人の家はフィネーロが踏み込んでいい領域ではない。彼女が絶対に踏み込ませない。
彼女は今日もくしゃくしゃの紙に授業の内容を書いていて、傍らの教科書は気づけば破られた表紙を貼りあわせてあった。いつかフィネーロが貸した本を思い出す。
「休みのあいだ、ずっと働いていたのか」
「そうだな。それがどうかしたか」
「課題は」
「やったぞ。そうだ、リッツェに見せてもらえば答え合わせができるな」
そう言って彼女が取り出した紙束も、一度乱暴に破られた跡があった。


怪我をしていても彼女の成績は良く、運動能力は高かった。怪我はそのうちきれいに治り、そしてその頃には軍入隊のための模擬試験や実技試験に備えた本格的な演習が始まっていた。入隊試験は三月。これは軍人養成学校の卒業試験でもある。
クラスでは、筆記試験ならフィネーロ、実技試験なら彼女がトップに立つようになっていた。入隊試験でも好成績があげられそうだと期待されている。学校を卒業すれば入隊時の階級は高くなるが、全体の成績で学卒者がトップに立つことは珍しい。だから成績が良いと、今度こそはと期待がかかるらしかった。
「リッツェの家は名家だから、きっと家族は一番になってほしいと思っているんだろうな」
「そうでもない。家族は僕にはあまり期待していないんだ。頭は良いが、軍で功績を上げるのは難しいだろうと、みんな思っている」
秋になっても――じき入学から半年が経とうとしていた――フィネーロに対する家族の評価は変わっていない。兄らは今でもフィネーロに一般の学校に戻るよう勧めてくる。きっと軍に入っても認識は変わらないだろう。何か大きな功績をあげない限りは。
しかし、例えば北方司令部で諜報部員として成果をあげ、重宝されている長兄と比べられてしまったら、フィネーロなどは何をしてもちっぽけなまま、小さな末っ子のままなのだろう。半ば諦めながらも、自分の選んだ道からおりるつもりはない。
「ブロッケンこそ、家の稼ぎ頭になるんだろう。期待されているんじゃないか」
「妹や弟からはな。早く稼げるようになって、いい服を着せてやりたい。そうしたらチラシ配りや靴磨きだけではなく、どこかの店で販売や案内ができるかもしれない」
彼女が働いても、妹たちもまだ働かなくてはならないようだった。彼女もまた、家の状況がすぐに変わるということはないらしい。もっとも、フィネーロはその状況とやらをいまだによくわかっていないのだが。彼女は依然として、詳しいことは何も語らない。
それからも進展はなかった。彼女はときどき青痣を作って登校してきては、教員に呼び出されている。フィネーロはとうとうその理由を聞けないまま、年を越し、卒業試験――入隊試験の日を迎えた。
結論からいって、トップにはなれなかった。学校に通っていない者がいつも通りに優秀な成績を残し、学卒者はそれに続く形での合格となった。特に実技はずば抜けて高い能力を持つ少女がいて、勝てる者がいなかった。まさに波乱の試験だったのだ。
ともあれ、フィネーロも彼女も、エルニーニャ王国軍中央司令部に伍長として配属が決まったのだった。

事件は入隊後間もなくして起こった。まだ寮の部屋も決まっていない頃、彼女はいきなり謹慎処分を受けた。なんでも上司の許可なく勝手に行動を起こしたそうで、その結果一人の男が捕まったものの、手柄は上司のものになった。
捕まった男の名はブロッケン。正真正銘、彼女の父親だった。
「妻と子供を虐待していたそうだ。酒浸りでよく暴れ、薬にも手を出していたんじゃないかと、余罪を追及中。軍に早くに通報してくれさえすれば、ブロッケン伍長も勝手なことをして謹慎になんかならなかっただろうに」
そう教えてくれた上司の言い分を、フィネーロは納得できず、けれども彼女が軍人になろうとした理由はようやく理解できた。
彼女は家族を守る力が欲しかったのだ。自分の手で家族を苦境から救いたくて、この道を選んだのだ。そしてそんな現実を知らないフィネーロには、知らないままでいてほしかったのだろう。だから本を借りることを拒否したのだ。あれから何を薦めても、彼女は学校で読むようにして、フィネーロが帰る頃には返すようにしていた。
謹慎にはなってしまったが、きっとやり遂げたのだろう。彼女は家族を救えたのだ。――そう思っていたのに、処分期間が終わって戻ってきた彼女は、まったく嬉しそうではなかった。
「私は家を壊してしまった」
明日には寮に入るというその日、彼女はフィネーロの隣でぽつりと呟いた。
「壊した、とは」
「あの男のせいで元々壊れていた家だったが、それなりに均衡は保たれていたんだ、多分。それを私が崩した。母には随分罵られたよ、『お父さんを売るなんて、なんて子だ』って」
ブロッケン家は救われなかった。彼女一人では、子供の手だけでは、どうにもできなかったのだ。そしてそれを聞いたフィネーロにも、何もできない。こちらは完全に部外者だ。手の出しようがない。
それでも、彼女は話した。フィネーロが知ることを許した。
「理解できないだろう、坊ちゃんには」
「……そうだな」
フィネーロは正直に頷いた。だが、彼女について、彼女とともに、考えることはやめたくない。
彼女も寮に入る。実家のことはすぐ下の妹に任せたという。母と一緒に生活することは無理だと判断したためだった。
「お前も寮に入るんだろう。せいぜい先日のように呼び出されて虐められることのないようにな」
「気をつけるよ。もう二度と君に助けられるなんて失態はごめんだ」
「だが、何かあったら手は貸してやる。私はお前に恩があるからな、フィネーロ」
「僕も恩返ししなくてはならないな。これからもよろしく、メイベル」
差し出した手はとられることがなかった。そのかわり、彼女は「恩返しなら」と口角を持ち上げる。
「本を。どうせ寮にも持って来るんだろう、貸してくれ。今度は誰にも破られないし、ゆっくり読める」
彼女と同じ表情で、フィネーロは「もちろん」と返した。



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posted by キルハ制作委員会 at 20:18| Comment(0) | 小ネタ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月02日

秋晴れの向こうへ

歌姫の声は広い空を渡っていく。街を越え、平原を、山を、あらゆる村や国境を越えて響いていく。それはこの世界への愛であり、祈り。かつて壊してしまった幸せへ向けた懺悔と鎮魂でもある。
美しい旋律を支える楽器の音色は、歌に込められた意味を知らず知らずのうちに、大切に、柔らかに、そっと包んでいた。
人の耳に触れると、涙がこぼれそうなくらいに優しい。心の中にあるあらゆる感情に、じんと沁みていくのだった。


「リーゼッタ、君に仕事だ」
事務室長を務める大佐に呼ばれ、ルイゼンは書類から顔を上げた。じきに片付きそうなので、手を止めてもこの後の仕事に影響することはないだろう。
席を立ち、大佐の座る室長机の前に進むと、仕事の内容が書かれた文書が手渡される。エルニーニャ軍で定められた書式は見慣れていて、すぐに中身を把握することができた。
「この依頼を、俺にですか?」
書面には『先方はルイゼン・リーゼッタ中佐を指名』とある。依頼型任務には、時折このような指定が入ることがあるのだが、ごく稀だ。希望が通る数はもっと少ない。大佐もそれはわかっていて、「都合がつかないなら他の人員にまわす」と言った。
「リーゼッタは室長の私よりも忙しいからな、無理にとは言わないよ」
「いえ、スケジュールに問題はありませんし、それが依頼なら受けます。ただ……」
仕事なら全うする。いつでもその姿勢は変わらない。だが、この任務には疑問があった。――依頼主はルイゼンもよく知っている人物で、しかしこちらのことはあまり信用していないものと思っていた。本当に彼が依頼主なのか、そこからして疑わしい。
「……これが本当に先方の希望なのか、確認したいです」
「その点に関しては確かだ。依頼主はわざわざ司令部に出向き、君の名前を出したらしい」
ルイゼンはさらに困惑したが、事実はどうあれ、これは自分の仕事なのだ。名前がある以上、責任を持ってやり遂げなければならない。
「音楽祭警護任務、承りました」
敬礼してみせると、大佐はホッとしたように頷いた。

エルニーニャ王国首都レジーナの秋は、芸術の秋だ。商店街や大通りは街路樹と絵やオブジェに彩られ、小さな楽隊が毎日のように公園で演奏会を開く。音楽祭はそういった中で生まれたイベントだ。
主催するのは、市民の生活と文化を司る文派の人々。多くは学術機関に属している者で、音楽祭で活躍するのは彼らに教わる学生たち。音楽祭とはいうものの、披露されるのは歌や演奏に限らない。一般市民を対象とした特別講座や、スポーツに分類されそうなパフォーマンスなど、様々な催し物がある。文派が軍や王宮と立場を同等にして以降、このようなイベントが数多く提案され、綿密な計画を練って実行に移されるようになった。
音楽祭に参加するのは「市民」。普段は軍に所属していても、王宮で仕事を得ていても、誰もが等しく「この土地に住む人」として扱われる。警備は軍ではなく、警備会社に委託するのがいつものやり方だ。だが、どうやら今回に限っては勝手が違うようだった。
「今年の音楽祭の目玉は、学生楽団によるオーケストラと歌姫の歌唱だ。ところが学生楽団の運営に宛てて、当日の演奏を妨害する旨の脅迫状が届いた」
任務の内容をさらに詳しく資料にしたものを、ルイゼンは五部用意した。一部は自分でとっておき、あとは自らがリーダーを務める班員に配る。――フィネーロ、メイベル、カリン、そしてイリスに。
依頼主の名前を見て、イリスが首を傾げた。想定通りの反応だった。
「これさ、本当に受けちゃってよかったの? ゼンはまあいいとして、わたしがメンバーにいるのはまずいんじゃない?」
「俺もどうしようか悩んだ。けど、先方は俺を指名して、その俺の直属の部下がお前たちなんだ。先方がこうなることを予想していないはずはないし……」
「それでもわたしは外しといたほうがいい気がするよ。もしトラブルが起きたら、ゼンの責任になっちゃうよ」
いつもなら任務には乗り気のイリスが、今回は自分から「外せ」と言う。カリンが目を丸くして、イリスの袖を引っ張った。
「どうしちゃったんですか、イリスさん。任務は名誉挽回の機会だって、積極的に取り組んでたじゃないですか」
「カリンは中央に来て日が浅いからな、知らなくても仕方ないだろう」
口を挟んだのはメイベルだ。彼女も、そしてフィネーロも、今回の任務の妥当性を疑っている。
「依頼主のシャンテ氏は、リチェスタの親だ。ルイゼンとイリスにとっては天敵ともいえる」
資料を指先で叩き、メイベルがずばりと言う。名前の挙がった二人は苦笑を浮かべた。
リチェスタはイリスとルイゼンの幼馴染だ。現在は女学校の学生で、二人とは別の道を歩んでいるが、頻繁に連絡をとり、たまに顔を合わせる、正真正銘の親友である。
しかし文派の中でも重鎮であるシャンテ家の主人とその妻は、娘の友人のことを昔から良く思っていない。リーゼッタ家は裕福な一般家庭で近所付き合いがあること、インフェリア家は軍の名家であることで、なんとか存在を認めてもらっている状態だ。本当は、昔ガキ大将であったルイゼンや、習い事があるリチェスタを引っ張り遊びまわっていたイリスとの友人関係は、見直してほしいと思っているのである。
上品な友人と、上品な付き合いを。それを幼い頃から聞かされてきたリチェスタは、しかし学校でなかなか友達ができなかったこともあり、ルイゼンとイリスを大切に思ってくれている。学校での人間関係が上手くいくようになっても、初めての友達である二人との関係を切ることはなかった。
そんな事情を改めて説明され、カリンはほう、と息を吐く。
「リチェスタさん、イリスさんやルイゼンさんが怪我したときもすぐに駆けつけてくれて、とても良い人ですよね。でも、親御さんはそういうの、あんまり良く思ってないんですかね……」
「ゼンは親同士がうまくやってるから、わたしほどは風当たり強くないはずだけど」
「親はな。でも俺自身は昔と変わらない。……いや、昔より厄介に思われてるはずなんだ」
イリスは「なんで?」という顔をするが、メイベルは黙って頷き、フィネーロは当然のことのように補足する。
「年頃の男女が一緒にいれば、噂にもなるだろう。ルイゼンはときどき、寮を訪ねてきたリチェスタを送っているからな。それにリチェスタの態度が堂々としてきたから、心の内が親に覚られてもおかしくはないだろう」
「なるほど。リチェのとこ、恋愛も厳しそうだもんね」
イリスはシャンテ家の厳しさを幼少期から痛感している。父親は忙しいせいか会ったことはないが、母親はとにかく娘を「健全に」教育しようとしている人だった。「乱暴な子供」であったイリスやルイゼンを目の敵にして、一緒にいるところを見つかると全員に怒りが向いた。
後にルイゼンはシャンテ家への出入りが許されたが、それは近所付き合いの延長と、ルイゼンが成長して母親も黙るような「紳士」になりつつあったからだ。すでに過去のガキ大将の影は、彼が怒りを爆発させたときくらいにしか見られない。
それでもまだ「恋愛は早い」と思われている可能性は十分にある。ルイゼンにもイリスにも、シャンテ家の人々は接触を避けるはずだった。
「それがわざわざルイゼンを指名するとは。文派の重鎮ならば、軍内のこともわからないわけではないだろう。ましてルイゼンの下にイリスがついていることなんて、親の井戸端会議でわかっていそうなものだが」
「お父さんはゼンのこと信頼してるんじゃないの? 軍のことがわかってるなら、ゼンが評判のいい軍人だって知ってるはず」
「ああ、イリスは知らないのか。リチェの父さん、あんまり家には帰らないけど、娘のことは溺愛してるんだ。俺、何度か『近付きすぎるな』って釘刺されてる」
「おおう……方向性は違うけど、ちょっとうちと似てるね……」
これはますます妙な事態になってきた。はたしてこの依頼に手違いがないと断定できるのか、全員が腕組みをして唸る。そのうちカリンがやっと腕を解いて、にっこり笑った。
「でも、リチェスタさんのご家族は、厳しいけど悪い人じゃないんでしょう? だったら、ルイゼンさんの働きを正当に評価しての指名だったんですよ。文派の人なら、少しでも親交のある軍人の方が依頼をしやすいでしょうし。難しく考えることはないと思います。そしてルイゼンさんがメンバーに選ぶなら、イリスさんのことだって認めるに違いないです」
「そうだね。だといいけど」
困ったような笑みのまま、イリスはカリンの頭を撫でる。悩んでいても仕方がない。これは仕事だ。私情を挟んではいけない。やるべきことをやるしかないのだ。
「ゼン、良い方に考えよう」
「良い方だろうが悪い方だろうが、もう受けた依頼だからな。理由なんかどうだっていい。全力で音楽祭を、学生楽団を護ろう」
ルイゼンも吹っ切れた。ようやく本格的にリーゼッタ班の仕事が始まる。


学生楽団は、レジーナの音楽活動をしている学生から優秀な者が選ばれて結成される。名前が挙がればそれは名誉なことで、同時に失敗が許されないという重い責任を負うことになる。
リチェスタ・シャンテは、幼少期から続けているバイオリンを、女学校の高等部に属する今では、多くの人が素晴らしいと絶賛する領域へと昇華させていた。昔は好きでやっていたわけではなかったのだが、真剣に取り組むうちに、自分になくてはならないものの一つになった。
今回学生楽団の一員に選出されたことは、素直に誇らしく、同時に大役を重く感じた。ただオーケストラに参加するのではなく、国内外に名の知れた「歌姫」と同じ舞台に立つのだ。
――ああ、緊張するなあ。こういうとき、イリスちゃんなら張り切って練習するんだろうけれど。
親友のことを考えるのは、長年の癖だ。知り合ってから十二年、いつも心を動かされるようなことがあれば、大切な人たちはどう思うだろう、どうするだろうと想像する。それで勇気をもらうこともあった。
――私は、まずは音に気をつけながら、丁寧に練習しよう。せっかくの機会だもの、台無しになんてしたくない。
心の中で意気込むと、すぐ傍で親友が応援してくれる気がする。報告すれば、本人の声で「頑張れ」が聞けるだろう。後でこっそり電話でもしてみようか。
同じ学校の友人に声をかけられたのは、そんなことを思っていた矢先のことだった。
「シャンテさん、楽団に選出されたんですってね。おめでとう」
「あ、ありがとう」
「でも、大丈夫かしら? 楽団の運営に脅迫状が届いたそうじゃないの。もしもあなたに危害が及ぶようなことになったら……」
それは初耳だ。楽団の運営のトップにはリチェスタの父がいる。しかしそんなことは少しも言っていなかった。――いや、言わなかったのか。母の耳に入れば、音楽祭を中止しろと騒ぐかもしれない。娘である自分にも、余計な心配はさせたくなかっただろう。
「きっと質の悪いイタズラよ。当日は何事もなく終わるわ。私が演奏を失敗しさえしなければ」
「あら、シャンテさんが演奏を失敗? そのほうが可能性は低そうだわ。音楽祭当日は、念のため警備を例年より強化するそうよ。いつもは頼らないのに、軍にまで話がいったとか」
軍が動く。もしかしたら、ルイゼンやイリスも関係しているだろうか。仕事をしなければならないのなら、音楽祭を見に来てほしいと頼めなくなる。何かと催し物に誘ってくれるから、今度はこちらがと思っていたのに。
どうか無関係でいて、という願いは、その夜イリスに電話をして、見事に打ち砕かれた。
「そっか。リチェが楽団のメンバーなら、これは何が何でも絶対に護りきらないと」
「やっぱり、イリスちゃんたちも音楽祭の警護の仕事があるの?」
「あー……うん、まあね。当日は楽しい盛り上がりだけで済むようにするから、安心して舞台に立って」
イリスが関わっているのなら、その上司であるルイゼンも暇ではないだろう。残念だが、今回は誘えない。落ち込んだのを覚られないよう、明るい声を作った。
「イリスちゃんたちがいるなら、何も心配いらないね。私、全力で演奏する」
それがリチェスタにできること。やらなければならないことだから。


眼鏡の奥の目は鋭く、娘にはあまり似ていない。体つきも思ったよりがっしりしている。イリスが初めて会ったシャンテ氏――リチェスタの父親は、母親とはまた違った意味で厳しそうな人だった。
「先日依頼したように、学生楽団の警護を頼みたい。昨年、大総統閣下の暗殺未遂事件もあったことだ。こんな紙切れ一枚も馬鹿にできないからな」
軍で預かっていた脅迫状――今は机の上に広げて置いてある――をトントンと指で叩き、シャンテ氏は正面のルイゼンを睨んだ。いや、ただ視線を寄越しただけか。なにしろ目つきのおかげで判別しにくい。
「リーゼッタ中佐はその暗殺未遂事件でも閣下をお守りする最前線にいたと聞いた。私は同じくらいの緊張感をもって、この任務にあたってほしいと願う」
「もちろん、どんな任務でも緊張感と使命感を欠くことなく遂行します。今回警護にあたる人間は、先の事件でも活躍した精鋭ですので、ご安心を。……特に」
まるで他人と話すように、ルイゼンは背筋を伸ばして冷静な声色で言葉を発する。視線は真っ直ぐに、シャンテ氏の目に向かっていた。が、それがイリスへと移動する。シャンテ氏もつられるようにして、こちらを見た。
「インフェリア中尉は大総統補佐も務めています」
「知っている。閣下を普段からお守りしているのだから、今回も期待している」
声も言葉も重い。イリスは腹に力を入れて、それを受け止めた。
「もちろんです。学生楽団に余計な心配はさせません」
今回の仕事には、リチェスタの無事もかかっている。あらゆる意味で失敗は許されない。何か起きた時の対処はもちろんだが、一番は「何も起きないこと」だ。不穏な要素があれば即座に取り除き、何事もなかったように処理する。
楽団員は、リチェスタの言葉から察するに、軍の警備が入ることは知っている。その理由が脅迫状にあることも、すでに聞き及んでいるかもしれない。当日はそんなことなどすっかり忘れて、ひたすらに演奏に集中してほしい。
「演奏の妨害が予告されている以上、同じ舞台に立つ歌姫の身の安全の確保にも努めてもらいたい。まだ一般には公開していないが、有名な方だ。何かあればもう二度と音楽祭が開催できなくなる危険をはらんでいる」
シャンテ氏は持参した書類を取り出した。当日舞台に立つ人間のリストらしい。すぐにリチェスタの名前を見つけ、イリスは内心で笑った。
そして最後に記されている「歌姫」の名前を見て、目を丸くし、それから口角が上がった。
「……何をにやついている、中尉」
表情をシャンテ氏に見咎められても、直せない。むしろ不敵な笑みのまま、言葉を返した。
「何もないのが一番です。それはわたしたちもわかっていますし、その状態を保つのがわたしたちの仕事です。でも、もし。万が一何かが起こってしまったとしても。……もしかしたら、歌姫が全部解決してくれるかもしれませんよ」
怪訝な表情をするシャンテ氏に、ルイゼンが慌てて「失礼しました」と頭を下げる。後で叱られるのは必至だなと思いつつも、イリスは笑顔だった。

その晩、イリスは兄たちの家を訪れた。ファミリー向け集合住宅の一室は、今日も子供がせっせと料理をしている。大人たちはそれぞれ仕事中なのだ。
「ニール、お兄ちゃんの新作は音楽祭に間に合いそうなの?」
一緒に台所に立ち、作業を手伝いながら、イリスは尋ねる。曖昧な短い唸り声が返ってきた。
「今回は何も教えてくれないんです。でもずっと部屋にいるので、ちゃんと進んでると思いますよ」
音楽祭には絵も多数出展される。イリスの兄ニアも作品を出すべく頑張っているうえに、当日には他の画家や音楽家と組んでパフォーマンスも行うという。あちらもこちらも忙しいのが、音楽祭の直前だ。
協賛企業も毎日、通常業務に加えて音楽祭関連の仕事をしているらしい。この家のもう一人の大人であるルーファも、最近は帰りが遅いようだ。
「イリスさんは、音楽祭は見に行くんですか?」
「行くけど、仕事なんだ。ゆっくりは見られないなあ」
「軍人さんが音楽祭で仕事なんて、珍しいですね」
食事ができたら、部屋にこもっているニアを呼ぶ。そのタイミングでルーファも帰ってきた。
この四人で食卓を囲むのは久しぶりだ。
「本当にこの時期の忙しさときたら……。軍にいた頃はわからなかったな」
「イベントをやるのは大変だよね。楽しいけど」
肩や首を回すルーファとニアに「お疲れ様」と声をかけ、イリスは料理を並べた。ニアがまだ仕事をするので、今日は酒は出さない。
「でも、だんだん軍も関わるようになってきたみたいだね。レヴィも今年はアーシェちゃんにかなり使われてるって?」
「レヴィ兄の様子は、今はちょっとわかんないな。班の仕事がメインだから、手伝いしてないんだよね」
文派のトップは大文卿、アーシェはその妻で補佐だ。代理も多く務めている。文派の祭りのために忙しくなるのは当然だが、大総統であるレヴィアンスまで使っているとは。
「こうやってだんだん協力体制が強くなっていくんだね」
「レヴィは親の仕事をしっかり引き継いでるよな。それに加えて、自分がやることも進めている。俺も見習わなきゃ」
「へえ、ルーでもレヴィを見習うなんて言うんだ。昔からライバルみたいだったのに」
笑いながら、イリスは思う。自分にできること、やるべきことをしっかりとやる。それは年初めの大失敗以降、ずっと意識してきたことだ。
今回のこともそう。リチェスタの親にどう思われていようと、仕事はしっかりこなさなくてはならない。学生楽団を守れなければ、音楽祭の存続が危うい。音楽祭がなくなれば、兄たちの仕事も減ってしまう。全ては繋がっているのだ。
「わたしも頑張るからね、お兄ちゃん」
「うん、応援してるよ。心配はしてない」
――何より、もっと単純に。
親友の晴れ舞台を、邪魔させてなるものか。

本番が近くなればなるほど緊張するが、奏でる音色は冴えわたっている。完成が近いことを自分で感じられる。これはいい出来だ、とリチェスタは思わず口元を緩ませた。今は一人で練習しているから、誰に見られることもない。
楽団のメンバーとの顔合わせや練習を重ね、全員が自信を高めている。選ばれた学生楽団の一員としての誇りと、レベルの高いオーケストラが自分たちで作れるという喜び。それはリチェスタの胸をも満たしている。
だからこそ、聴いてほしかった。大切な人たちに。昔のくよくよしていた自分を知っている彼らに。
――でも、警備に来るって言ってたもんね。
音は聞こえるだろう。リチェスタが一人で演奏するより何倍も素晴らしい音が、会場いっぱいに響き渡るはずだ。それが少しでも耳に入るなら、それでいい。
――それに、歌姫様と共演できるんだもの。それだけで十分贅沢だよ。
すでにリチェスタは、脅迫状のことなど忘れている。イリスたちが守ってくれるのであれば、忘れてしまっても問題はない。ただ思い切り、舞台を楽しみたい。
こんなふうに思う日が来るなんて。幼い頃は、あんなにバイオリンの稽古を嫌がっていたのに。そういえばイリスと出会ったのも稽古をさぼろうとしたからだった。それから歩んできた道のりを思うと感慨深く、あのときさぼっていたのも完全な間違いではない気がしてくる。
「私がずるをしたから、イリスちゃんと出会えて。イリスちゃんはゼン君と出会った。面白い縁よね」
リチェスタだけが別の道を行っても、二人がいつも気にかけてくれた。恋愛でやきもきすることはあったけれど、それも乗り越えてしまえば良い思い出だ。
「今度は、ずるなんてしないよ」
そっと誓い、顔を上げる。


音楽祭の日は爽やかな秋晴れ。文化の花開くレジーナに、芸術家たちが集う。
歌姫との舞台以外にも演奏の予定がある学生楽団は、朝の早い時間から集合し、最終調整に入っていた。
「何か起きそうには思えないね」
無線通信機と武器を装備した軍服姿のイリスたちは、ここでは目立つ。すれ違う人々が振り返り、時には眉を顰めて去る。嫌がられるのは仕方がない。この恰好が抑止力になればいい。
「まずは楽団に挨拶しよう」
ルイゼンが楽団の控室になっている会館へと向かうのに、フィネーロ、メイベル、イリス、カリンがぞろぞろと続く。
「顔出したら迷惑じゃないかな」
「シャンテさんの許可はとってある。軍人が顔を見せたくらいで動じるような者はいないってさ」
「さすがに才能を認められているだけのことはあるな。度胸もあるんだろう」
「リチェスタはその一人というわけだ。惚れ直したんじゃないか、ルイゼン」
「すごいなとは思ってるよ」
からかったりかわしたりしながら、一行は楽団を訪ねた。こちらを振り返った学生たちは、一瞬驚いた顔をしたが、すぐに丁寧な挨拶を返してくれた。一番動揺していたのはリチェスタだろう。イリスだけでなく、ルイゼンたちまで来るとは思っていなかったのかもしれない。
「本日、楽団の皆さんの警護をさせていただきます。何か気づいたことがあったら、遠慮なく仰ってください」
予定通りの簡単な挨拶を済ませると、すぐに控室から出た。そしてあらかじめ決めておいた配置を確認し、解散する。ここからのやり取りは無線を通じて行う。
基本的には、控室周りと演奏を行うステージ周りの、割り当てられた範囲をくまなくチェックし、怪しい人物がいないか、不審物はないかどうかに気をつける。違和感があったらすぐに無線で班員全員に報せ、行動する。イリスに割り当てられたのは、まずは会館外のちょうど控室の裏にあたる場所。ステージに移動してからは、ステージ裏を担当することになる。あまり目立つところにいると、いざというときに盛大に暴れられないだろう。ルイゼンのそんな配慮が、口にせずともわかる。
「こちら0312インフェリア。控室裏確認完了。不審物、不審者、ともになし。どうぞ」
無線に告げると、ノイズまじりの短い返事があった。――了解、どうぞ。
他の場所も今のところ異常は見られないようだ。会館内控室周りのルイゼン、会館外エントランス前のフィネーロ、会館外東樹上のメイベル、会館外西広報用櫓のカリンからも、それぞれ報告があった。名前の前には打ち合わせで決めたコードを言うこと、という決まりも守られている。
シャンテ氏によると、歌姫はまだ現地入りしていない。舞台に学生楽団とともにあがる直前、一回だけしか合同の練習ができないスケジュールなのだそうだ。忙しい人であることは、こちらもわかっていた。
付近の様子に引き続き警戒しながら、イリスは小さく呟く。
「演奏の妨害って……結局、何の目的でそんなことしようとするんだか」
今回の任務にはわからないことがいくつかあるが、これが最も重要かつ、最大の謎だった。シャンテ氏にも思い当たることはないという。学生楽団の邪魔をすることに、メリットなど一つも見いだせない。単なる愉快犯なのだろうか。
「歌姫が目的だったら、楽団運営に脅迫状を送る意味がわからないよね」
何度も話し合った。班でのミーティングでも、寮の部屋での雑談の中でも。答えは一向に見えず、今日を迎えてしまった。せめて目的がわかれば、もっと確実な対策が練られたかもしれない。
本当は、レヴィアンスにも相談したかったのだ。けれどもそんな暇はなかった。隙を見て大総統執務室を訪ねたイリスを迎えたのは、一人で仕事をしていたガードナーだった。
――閣下は所用で外出されています。言伝があるならお受けしますよ。
――あ、じゃあ、今わたしたちの班が持ってる任務についてなんですけど……。
彼も上司だ。もしかしたら糸口を見つけてくれるかもしれない。そう期待したのだが、事情を聞いたガードナーはゆっくりと首を横に振った。
――それだけでは材料が足りませんね。もう少し、シャンテ氏から話を聞いてみることはできませんか。
それができればそうしている。しかし心当たりがないということに変わりはなかったし、楽団の運営状況などにも問題は見られなかった。
ガードナーはレヴィアンスに話をしてくれると言ったが、以降、何の連絡もない。こちらが訪ねる時間もなくなってしまった。
「わたしたちで何とかしろってことなのかな。小班の任務だしねえ……」
そうそう特別扱いもできないか、と思い直して、目を閉じる。眉間のあたりに意識を集中させ、再び瞼を持ち上げると、さっきより視界がクリアに、周囲の動きに敏感になる。眼の力をほんの少し使って、不穏な気配がないかどうか探る。――まだ、何もないようだ。周囲の人の動きに不審なものは感じられない。
耳をすませると、会館から漏れる楽器の音色が聞こえた。リチェスタの奏でるバイオリンの音までは聞き分けられないが、ほんの少し聴くだけで、胸のあたりが温かくなった。そして会館の向こう側、全体が音楽祭の会場となっている広場のほうからは、賑やかな人々の歓声や音楽。市民の祭りは始まっている。
このまま平和に過ぎてくれたら。自分たちが動くようなことがなければ。願っていると、無線がルイゼンの声を受信した。
「こちら0804リーゼッタ。まもなく学生楽団が一回目の演奏のために動く」
最初の移動の合図だ。歌姫はまだ到着していない。彼女が参加するのは最後の演奏だけなのだ。
「了解」
だが、一度たりとて気が抜けない。どこで妨害が入るのかわからないのだから。

大勢の観客の前。注がれる視線。それを意識するのは最初の一瞬だけ。いつもならそれができる。
しかし今、リチェスタの傍にはルイゼンがいる。正確には近くにいるわけではなく、舞台袖でこちらを見ているのだが、どうあれ同じだ。リチェスタは普段の倍は緊張していた。
心臓の鼓動がリズムを乱すのではないかと不安になる。ルイゼンの前でそんな失敗はできない。思わぬ形で訪れた、自分の成長を示す機会だ。嬉しくて、怖くて、手が震える。
けれども不思議なもので、掲げられた指揮棒が目に入れば、震えはぴたりと収まった。
音楽に真面目に向き合うようになったのは、いつからだったろう。幼い頃は嫌で仕方なくて逃げたのに、それをしなくなったのは。
――俺は軍に行くけど、リチェ、大丈夫か?
泣いてばかり、少ない友人の背中を追いかけてばかりだったリチェスタを心配していた、一つ年上の男の子。本当はどこにも行ってほしくなかったけれど、軍人になることが彼の夢だと知っていたから、目を擦りながら頷いた。
もう一人の同い年の友達も、軍人になると言っている。取り残されるのがわかっていた。寂しいと泣いているだけでは、昔の自分に戻ってしまいそうだった。
友人ほど強い夢は持っていない。けれどもたまに帰ってくる彼らを膝を抱えて待っているだけというのは、あまりにむなしい。手元にあるものを見て、何ができるか考えた。
引き寄せたのは、苦しい思い出がたくさんある弦楽器。
すぐには上達しなかった。友人たちが夢に向かって歩みを進めるごとに、練習量を増やした。リチェスタは彼らと離れてもなお、追いかけることを選んだのだ。別の道から、追いつきたい背中を追った。
同じ道の上には並べない。せめて、遠くからでも並行して走れるようになりたい。その気持ちに楽器は、少しずつ応えてくれるようになった。
そして今、リチェスタはここにいる。自分自身の望みを持って。
盛大な拍手に我に返り、丁寧にお辞儀をする。舞台袖に目をやると、大好きな優しい笑顔。彼の拍手が――この瞬間は彼もきっと仕事を忘れていた――何よりも幸福だった。
私は、あなたたちに並べたでしょうか。

一回目も二回目も、学生楽団の演奏は素晴らしかった。舞台の裏にいたイリスにも、それは十分に伝わっている。仕事を放りだしてリチェスタを抱きしめに行けたらどんなに良かったか。
舞台袖にいるルイゼンが羨ましくて、けれども彼にはそこが相応しいとも思う。
残るは歌姫が参加する一回。そこで何もなければ、音楽祭は無事に終わるはずだ。
会館に歌姫が到着したとき、イリスは会館裏にいた。仲間たちから報告を受けただけなので、彼女の顔はまだ見ていない。そのかわり、気になる顔を見かけた気がした。
「グラン大将……? 音楽祭に来てたの?」
似ているだけだろうか。中央司令部将官室長であるタスク・グラン大将のようだったが。昨年まで軍に頼ることのなかった文派のイベントに来るような人だとは思えないのだけれど。彼は軍頂上主義なのだ。
「一応ゼンたちに報告したほうがいいかな。……こちら0312インフェリア――」
イリスの報告を受け、ルイゼンは眉を顰めた。おそらく、イリスの見たものに間違いはない。彼女は眼の力を使っている。しかし、グランがここに現れるのはやはり不自然だ。春に司令部内で起きた傷害事件――ルイゼンは被害者となってしまったが、その裏にはグランが絡んでいるという話もあった。彼は大総統の地位を狙っていた人物だ。何をするかわからない。
「プライベートだとしたら、閣下はこのことは知らないだろうな。念のため報告して、最近の大将の様子を探っておくか」
そう無線で返事をしたが、司令部にいるはずのレヴィアンスとは連絡がつかなかった。かわりにガードナーが、大総統執務室にいた。
「ガードナー大将、グラン大将の動向をご存知ですか? たった今、音楽祭で姿を見かけたとの情報が入ったのですが」
ガードナーとグランは同期で、かつては友人だった。もしかしたら何か知っているかもしれないと思ったのだが、返答は期待したものではなかった。
「彼は仕事中のはずですよ」
「そうですか……そうですよね」
基本的に、将官室長は部屋から動くことがない。仕事をしているということは、イリスの見間違いだったのだろうか。よく似た人がいただけ? でも、イリスの眼は……。
過去には裏がクローン技術を悪用した例がある。悪いことにならなければいいが。念のため、それらしき人物に気をつけておいたほうがいいだろう。
それにしても、このくらいの考えならガードナーもすぐに辿り着くだろうに、何も言わなかったというのは妙だった。
その頃、会館正面についているフィネーロも、グランによく似た人物を見つけていた。特に隠れるようなこともない。ただ祭りを見ているようだ――ここからは会場の賑わいがよく見えた。グランらしき者は、私服だろう、カッターシャツにグレーのボトムスを身につけている。
――閣下に諭されて改心したなら、プライベートでここに来ることもおかしくはない。
あるいは、レヴィアンス直々にここに来ることを薦めたか。市民の生活を知ることは軍人にとって重要だが、グランはそうは考えていなかったと聞いている。そのあたりは、彼と直接話をしたことのあるルイゼンのほうがずっと詳しいだろう。
そのとき、ルイゼンからの報告が入った。グランについて、司令部に確認がとれたという。
「グラン大将は仕事中だと、ガードナー大将は言っていた。だとしたら、司令部にいるはずだ」
見間違いか、あるいは偽物か。ルイゼンはそのあたりを疑っているようだった。しかし、フィネーロはガードナーの言葉に引っ掛かりを覚える。
「ルイゼン、『仕事中』というのはガードナー大将の言葉そのままだな?」
「ああ、それ以上は何も言わなかった」
いかなる仕事も完璧にこなす優秀な大総統補佐が、その一言で話を終わらせるだろうか。フィネーロの頭の中で、嫌な予感が閃いた。
同じ報告を、メイベルは樹上で聞いていた。ここが櫓以外で会場全体を見渡せる絶好の位置なのである。グランらしい人物を特定することは難しいが、もしそんな人物がいたとして、そこまで気にする必要はないだろうと思う。
怪しい動きをする者がいれば撃つ。メイベルは仕事を実にシンプルに考えている。それがグランの姿をしていようと、全く知らない者だろうと、関係ない。
だがフィネーロがルイゼンに確認をとる声で、彼女にもふと疑問が湧いた。――「仕事中」。その言葉に全く間違いがなく、さらにイリスの眼にも間違いがないとするなら。
大将級が動くというのは、よほどのことがなければありえない。まして、将官室長であるグランが司令部を離れるということは。
――レヴィ兄も忙しいらしいんだよね。アーシェお姉ちゃんに色々と協力してるみたいでさ。
イリスが数日前にそう言っていた。終業後、寮での何気ない会話だ。そのときはどうでもいいと思っていたが、実はそれこそが今回の仕事の裏なのではないか。
大総統が使われている。ならば、その下にいる将官だって、動かすことができるのでは。
メイベルは手鏡を取り出し、対岸――会館西の櫓に見えるよう動かした。
反射による合図を、櫓にいたカリンは正確に捉えていた。姉からの指示は「会場全体を見ろ」。言われるまでもなくそうするのが仕事ではあるが、強調するということは何かがあるのだ。見通しの良い櫓からは、会場の様子が容易に見渡せる。双眼鏡を使えば、歩いている人の顔も判別できる。
グランの話が出ていたから、彼によく似た人物を探せばいいのかと思った。だが、それを見つける前に、他の見知った顔を発見した。カリンたちリーゼッタ班が頻繁に世話になる、トーリス准将だ。五分刈りの頭と精悍な顔つきは、基本的に男性が苦手なカリンからすれば少し怖いのだが、その表情は普段以上に険しい。まるで何かを見張っているような――ちょうど自分たちがしているように。
「1105カリンです。あの、トーリス准将を見つけました。なんだか、プライベートではないようなんですが……」
無線機が、四人分の怪訝そうな声を受信した。

いよいよ音楽祭もクライマックスだ。学生楽団は歌姫との通し練習を終え、舞台に向かう。イリスたちは彼らを大きく囲むように一緒に移動し、舞台での配置についた。
これまでは何事もなかった。参加者同士の小さな諍い程度なら、周囲の人々や警備員が仲裁に入ってすぐに解決している。大きな事件は起こっていない。何かあるとしたら、このタイミングだ。
種類の違う緊張感が、会場全てを包む。演者の、観客の、警護にあたるイリスたちの、そして。
舞台雛壇に学生楽団が並び、指揮者より手前に赤いドレスの女性が進み出る。歌姫の登場に拍手が沸いた。演者たちの美しいお辞儀の後に、指揮者が指揮棒を高く掲げた。
それが合図だったかのように、破裂音が空気を裂いた。一つではない。二つ、三つ――一般市民には捉えられない、複数の銃声。それが会場の至る所からあがっていた。人々が騒めく中、一際異様な台詞が響く。――そこから動くな。地面に膝をついて両手を挙げろ。
戸惑う市民はそれにゆるゆると従おうとした。だが、そうするまでもなく事態は動く。
イリスは舞台裏にいたが、見なくてもわかった。銃声のうち、一つはメイベルの放ったものだ。観客により近いところに控えていたフィネーロは、手から銃を弾き飛ばされた人物を見ていた。すぐにそちらへ駆け寄り、それを確保する。
ルイゼンは舞台袖から出て、歌姫と楽団を庇うように剣を抜いた。無線からはカリンの声がする。
「舞台周辺だけじゃなく、会場のパフォーマンスが行われていたところには銃を持った人たちがいたみたいです。……ただ、もう動きは封じられているようですけど」
リーゼッタ班が守っていたのは学生楽団の舞台だけだ。他の場所には警備員と、そして。
「軍服が舞台付近にしかいないからと、強行したようだが。残念だったな」
私服で潜入していた中央司令部の精鋭たちがいた。指揮をとっていたのはタスク・グラン。彼は本来、座して結果を待つよりも、自ら動くほうが得意だ。
「リーゼッタ、まだ動こうとしている奴がいる! なんとしてでも押さえ込め!」
「突然来て、無茶苦茶言うな、あの人……!」
舞台から飛び降り、こちらへ向かって来ようとした者に剣を振るう。彼らが手にしていた銃やナイフを的確に払い、叩き落とす。正面に集中していられるのは、会場全体を見渡し、敵を確実に捉えられる「目」が二つあるから。東の樹上、そして西の櫓から、銃弾がまだ蠢いていたならず者を倒す。
そして舞台裏から侵入を試みていたであろう者たちは、すでにイリスが相手を終えていた。
「眼を使うまでもないね。でもわたし相手に向かって来た勇気は褒めてあげる」
こちらを知らないはずはないだろう。イリスは有名人だ。
「で、あんたら、何? 音楽祭を狙った目的は?」
胸倉を掴んで問い質すと、相手は歯の抜けた口をぱくぱくさせた。
「……文派に、瑕を。分裂させ、軍との溝を深める……」
「そりゃあ、無駄なことだよ。現にこうして文派と軍は文派は協力してる。皮肉にも、あんたたちのおかげでね」
おそらく、リーゼッタ班に持ち込まれた依頼だけではなかったのだろう。アーシェがレヴィアンスを動かしていたというのは、そういうことだ。脅迫状は一通ではなく、しかしほとんどは文派が大文卿に相談して、内々に処置を決める予定だったのだ。だが事態を重く見た大文卿は、例年通り警備会社に会場の警備を頼むと同時に、軍による会場警護を実施した。――シャンテ氏だけは直接軍に依頼をしたために、学生楽団の警護はリーゼッタ班に一任されたのだ。
見覚えのある顔が、舞台裏にやってくる。将官や佐官たちだ。レヴィアンスの指示で動いていた彼らは、この場を引き受けてくれた。
「インフェリア中尉、君は舞台へ。まだリーゼッタ中佐とリッツェ少佐が戦っている」
「ありがとうございます。お願いします!」
イリスは表へと走る。そこには守るべきものがある。自分の力を必要としている人たちがいる。

観客席にいた一人が、首に腕をまわされ、ナイフを突きつけられた。犯行に及んだ人物が怒鳴る。
「一般人がどうなってもいいのか!? 俺に近づけばただじゃ済まねえぞ!」
だがそんな行動は無意味だ。彼はまだ、現状を把握しきれていない。だからそんな無謀なことをしてしまうのだ。
「安心しろ、何もさせない」
溜息交じりにフィネーロが言うと、銃声とともにナイフを持った男は崩れ落ちた。足から血が溢れ出す。何が起こったのか男がわからないでいる間に、フィネーロは速やかに人質を逃がした。
「……っ、何をしやがった!」
「僕はまだ何もしていない。ただ、すこぶる腕のいい射手がいるだけだ」
落ち着き払った態度が気に障ったのか、男は足を引きずったままフィネーロに襲いかかってきた。それをピンと張った鎖で受け止め、分銅を男の首に巻きつかせながら、さらに鎌の切っ先を頬にひたりとあてる。さすがに動けなくなった男は、近くにいた私服の軍人に引き渡された。
「本当なら、音楽祭会場で銃を使うなんてもってのほかなんだろうけど」
例年通りの音楽祭ならば、メイベルの射撃は文派から軍への非難を呼んだだろう。しかし、今回は感謝はされなくとも、仕方なかったくらいには見てもらえるはずだ。今のところ一発も外していない。襲撃犯以外は、人も物も作品も無事だった。
銃を手に会館西の櫓に上ってきた者もいた。高い場所から乱射すれば、多くの被害が出てしまう。しかし、そこには随分前から先客がいる。
「退け、ガキ!」
軍服を着てはいるが、相手は少女。それもどこか頼りなさそうだと、敵は踏んだのだろう。けれども軍服を着てここにいるということ自体が彼女の強さの証明であるということに、なぜ思い至らないのか。
「あなたこそ、ここに来ないでください!」
カリンは相手の顔のど真ん中に渾身の蹴りを入れ、さらに衝撃に負け櫓から離れた両手に素早く銃弾を撃ち込んだ。これでもう上っては来られまい。落ちて死ぬことはないだろう、櫓の下には親切に安全マットが敷き詰められている。
「わたしがお姉ちゃんみたいな乱暴なことしなきゃいけないなんて……」
ぼやきはスイッチを入れっぱなしの無線に拾われ、「ぶつくさ言うな」という姉の声を受信した。
学生楽団は舞台の奥側に避難している。ルイゼンは舞台の上に戻り、彼らを一人で守っていた。どういうわけか、この場所をしつこく狙ってくる一団がいる。一人も逃してなるものかと剣を振るうが、力の強い相手と押し合いになった瞬間に、敵が脇をすり抜けていった。
――まずい!
やはり一人は無謀だったか。早く誰か、応援を。叫ぶように祈ったその瞬間、どさりと何かが崩れ落ちる音がした。
倒れたのは、たった今ルイゼンの横をすり抜けて、楽団に向かって行った者。それを倒したのは、赤いドレスの女性だった。手には美しいが意匠に年季の入っている短剣がある。
「ええと、リーゼッタ君だったかな。私も戦えるから、安心していいよ」
彼女はにっこりと笑って、さらにもう一人やってきた敵をも伏せた。その動きは、まるで激しい舞だ。対峙していた相手を倒したルイゼンは、つい見惚れてしまった。
「ゼン、ぼけっとしない!」
呼ばれて我に返り、前に向き直る。振り向きざまに一人を斬り、それから声の主を見た。
「イリス、裏は?!」
「大佐たちが来てくれたから、任せちゃった。それより、普段人に散々仕事しろって言っておいて、自分はぼんやりしてるとか……」
「悪かったよ。ちょっとびっくりしてただけだ」
「気持ちはわかるけど」
イリスは喋りながら、かかってきた相手の手から剣を弾き飛ばし、上段蹴りをお見舞いした。折れた歯と鼻血が宙を舞う。
「中央司令部の伝説だからね、あの人も」
正面から来る無謀な者たちは、だんだんと減ってきた。そろそろ学生楽団を舞台から避難させられるだろうかと、ルイゼンが思ったそのとき、舞台袖から人が出てきた。スタッフでも、警備員でも、私服軍人でもない。いつのまにか敵は舞台に侵入していたのだ。
「うわ、裏から入ってきちゃった?!」
任せたはずなのに、とイリスが眉を寄せるあいだに、敵は近くにいた楽団員を一人捕まえた。――よりにもよって、リチェスタを。
「きゃあっ!!」
「リチェ!」
駆け寄ろうとしたイリスを、しかし、まだ残っていた正面からの敵が邪魔をする。相手をしていたら、リチェスタが危ない。歌姫も舞台袖からやってきた敵と戦っている最中で、最奥のリチェスタには届きそうになかった。
今、この瞬間に動けるのは。
「ゼン、行け!」
「言われなくたってやる!」
目の前にいた敵を一瞬にして斬り伏せ、ルイゼンが舞台を駆けた。人を避け、飛び越え、秒を数える間もなく目指す場所に辿り着く。
「リチェ、目ぇ閉じろ!!」
ルイゼンの声に、リチェスタはぎゅっと目を瞑った。近くに行くと、今日のためにあつらえたのだろうワンピースが、よく似合っているのがわかる。汚してしまいたくない、それなら。
得物は剣。大剣ほど大きくなく幅も広くないが、叩きつけるのには適している。そのやり方は、先輩たちから教わってこの身に染みついている。ルイゼンは剣を振り上げ、刃ではなく面の部分を、敵の脳天に力いっぱい振り下ろした。
着地とともに、力の抜けた敵の手から素早くリチェスタを引き離す。そしてそのまま、強く抱き寄せた。
「大丈夫か。怪我は」
「……してない。ゼン君、あっという間に来てくれたもの」
涙で潤んだ目が、嬉しそうに笑った。
横目で親友の無事を確認し、イリスは口の端を持ち上げる。同時に舞台袖から現れた敵を蹴り飛ばした。あと数人。これくらいなら、すぐに片付けられる。
美しく舞う歌姫と一緒なら。
「イリスちゃん、あと半分任せていい?」
「半分もあなたに任せていいんですか? 一応、もう一般人なのに」
「そうだね。まさかこの歳になって、こんな大舞台で踊ることになるとは思ってなかった。でもね、私、鍛えるのはやめてないの」
彼女の笑みは、知らない人が見れば楽しそうだ。にっこりと可愛らしい。だがそれが経験に裏付けされた自信の表れなのだと、イリスは知っている。両親やその知り合いから、よく聞かされたものだ。
かつてのエルニーニャ王国軍中央司令部トップ入隊の実力者。敵の巣窟に潜り込み、たった一人で三十人斬りを果たした伝説の女性。テンポの速い舞を踊るかのような艶やかで華麗な戦いのスタイルは、年月が経った現在も変わっていない。
「最後よ、イリスちゃん!」
「はい、ラディアさん!」
相手が怯んだ隙をついて、二人は同時に床を蹴り、剣を振るった。


襲撃者たちは軍の人員によって連行されていく。もちろんリーゼッタ班も彼らの確保とこれからの聴取に加わらねばならず、会場をあとにせざるをえなくなった。
せっかく、遅ればせながらの歌姫と学生楽団の共演が始まろうというのに。それが見られないのは非常に残念だ。
演奏はやりましょう、とは歌姫ラディア・ローズの提案だった。幸いにして一般人に重傷者はなく、かすり傷ならば救護のボランティアで対処できる。それならば、慰労と詫びの意味も込めて舞台を最後までやりきろうということになったのだ。
学生楽団はすでに落ち着きを取り戻している。直接危害を加えられそうになったリチェスタも。誰もが歌姫との舞台を楽しみにしていたのだ。この機会を逃したくはない。
襲撃犯たちを移送用の車に乗せている途中で、オーケストラの音が聞こえてきた。それに続き、美しい歌声も。見られなくとも、少しだけなら聴くことはできそうだ。
目頭を熱くさせる、美しい旋律。様々な想いを乗せて、音は風に運ばれる。どこまでも、どこまでも。
「いいよな、ラディアさんの歌。いくつになっても衰えることを知らない」
イリスの隣に、レヴィアンスが立った。実はずっと大文卿夫妻とともに、会場にいたという。豊かな髪と見慣れた顔を隠してしまえば、なかなか気づかないものだ。
「レヴィ兄、どうして会場警護に軍が全面協力してるって教えてくれなかったのよ」
「文派の人たちは、まだまだ軍がでしゃばるのを嫌がるからね。でも大文卿はその状況を変えたいと思っている。だから徐々に慣らしていこうとしてるんだ。……もっとも、シャンテさんの行動は予想外だったけど。軍に直接依頼をした唯一の人だから、そこは応えないといけないよね」
脅迫状は学生楽団の運営だけではなく、音楽祭でイベントを行う大きな団体の全てに届いていた。しかしそれを公にしたくなかったほとんどの運営は、大文卿に相談をした――リーゼッタ班が辿り着いた読みは、正しかったのだ。
「アーシェが言ってた。『もう二度と“赤い杯”の悲劇は繰り返さない』って。一般市民だろうと、警備員だろうと、誰かが命を落とすようなことはあっちゃいけなかった。そこでオレに、全力で音楽祭を守れって命令してきたんだよ」
佐官以上を使ったのは、文派に対する敬意だ。自分たちはけっして軍以外を軽く見てはいないということを示す必要があった。そのうち、こんな忖度もしなくて済むようになればいいのだけれど。
「元軍人であるアーシェやラディアさんが、軍と文派の懸け橋になってくれると助かるなあ。その分、オレがめいっぱい使われそうな気もするけどさ」
「使われてなんぼの軍人でしょ。わたしたちは市民のためにあるんだから」
イリスとレヴィアンスは顔を見合わせ、にい、と笑った。

現場から去ろうとするルイゼンを、低い声が呼び止めた。今頃は娘の晴れ舞台を見ているはずの、シャンテ氏だった。
「リチェスタさんの演奏、聴かなくていいんですか」
「聴こえている。だから、君と少し話がしたい」
彼は依頼人でもある。ルイゼンは上司たちに断りを入れ、シャンテ氏と向き合った。
「……最近、娘と頻繁に会っているようだな」
「ええ、まあ」
実際のところは、リチェスタがルイゼンのところにやってくるのだが。顔を合わせていることには変わりないので、否定はしない。
「私は、娘の幸福を願ってきた。仕事で傍にいてやる時間が限られる分、娘の望むことはしてやりたいと思っていた。なにぶん、あの子は体も心も弱い」
「弱くはないですよ。リチェスタさん……リチェは、俺も驚くほど強い女性になりました」
自分の想いを表現できるようになった。堂々と舞台に立ち、見事な演奏を披露できるようになった。幼い頃のリチェスタを知っているルイゼンからしてみれば、あまりに大きな成長だ。もしかしたら、追い抜かされているのではないかと思うほどに。
「そうだな。……うん、そうだ。実力で舞台にあがれるようになったのだから、逞しくなった」
シャンテ氏は深く頷き、それからルイゼンの目を真っ直ぐに見た。やぶにらみにも見える彼の目は、今は優しい光を湛えている。
「君の、そしてインフェリア嬢のおかげだと、私は思っている。妻もはっきりとは言わないが、内心では認めている」
娘を立派に育て上げたい。その思いから、シャンテ家の人々はリチェスタに厳しく当たり、彼女を「良くない道」へ誘惑する存在は切り離そうとしてきた。だが、それはどうやら余計なことだったらしいと、最近になって思い至ったのだった。
娘を励まし、ここまで成長させたのは、友人の存在だったのだと、今回任務を任せて確認した。
「リチェスタを救ってくれてありがとう、ルイゼン君。インフェリア嬢にもそう伝えておいてくれ」
差し出された右手を、ルイゼンはそっととり、握り返す。このペンや楽器を扱う手で、彼は娘も大切にしてきたのだ。それは不器用な方法だったかもしれない。でも。
「伝えておきます。けれども、リチェの親はあなた方です。彼女を俺たちと一緒にいさせてくれて、ありがとうございました」
愛のかたちは様々だ。ときに望まないものになってしまうこともある。けれども、シャンテ家ならば大丈夫だろう。リチェスタの存在が、その証明だ。
「君はやはりいい青年だ。どうだ、将来はリチェスタの婿に」
「それはもう少し考えさせてください。よくできたお嬢さんなので、まだ自分にはもったいないです。もっと俺自身が成長してから、そのとききちんと答えを出します」
笑って返したルイゼンに、シャンテ氏は目を細めた。

襲撃者たちの思惑――文派を襲い、動かない軍を悪者にし、協力体制に瑕をつける――は、大体は外れたが、一部はその通りになってしまった。大勢の一般人がいるところへ銃弾を撃ち込むのは危険だという苦情が、数日後の司令部に何件か入っていた。
軍と文派の溝が埋まる日は遠そうだ。
「ベルの銃は百発百中なのに」
「そんなの、知らない人にはわからないだろ。とにかくここだけはうちの班の責任問題になったから、メイベルは始末書な。俺も書くから」
「理不尽だ。そこは突っぱねてくれないと困るぞ、リーダー様」
「ルイゼンさん、わたしも銃を使いましたけど……」
「カリンは集団に向けては撃ってないから免除」
メイベルと、彼女の実力をわかっているイリスは不満そうだ。だが、これも仕方のないこと。本来であれば軍側が使用武器の配慮をすべきだった。
しかし音楽祭は、来年も開催するという。そして軍は、私服での警護を次回も任されることになった。リーゼッタ班は抑止力を狙って軍服で任務にあたったが、どうやら上層部では目立つばかりであまり意味がないという結論に至ったようだ。
「来年も関われるのはいいけどさ、軍服ぐらい何よ。グラン大将の顔のほうがよっぽど目立ってたじゃない」
「まあ、それは……本人には絶対に言うなよ」
報告書と始末書をまとめたら、今回の仕事は終わり。今夜はリーゼッタ班が揃ってイリスの兄らの家に行き、お疲れ様会をやる予定だ。レヴィアンスも「もちろん行くよ!」と酒の手配をしていた。
「早く仕事を終わらせなければ、予定が狂うぞ。通常の仕事もあることを忘れないように」
「うわ、フィン、その書類何……。なんか多くない?」
歌姫の歌声と、奏でられる音楽のように、しがらみから解放され、調和し、どこまでも遠くにいけるよう。それがイリスたちの目指す、明るい未来だ。



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posted by キルハ制作委員会 at 22:05| Comment(0) | 小ネタ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月09日

荒野のオアシス

首都は賑わっているが、街を出ると荒野が広がる。五百年以上前に終結した大陸戦争のあと、正式に結成された中央政府は、得た領土の中心から少しずつ開発を進めていった。街が、道路が、整備されていったが、のちに取り込んだ旧小国との間には、いまだに舗装されていない道なき道がある。
エルニーニャ王国首都レジーナを取り囲むその点在する植物と石や砂ばかりの平原には、地域ごとに名前がつけられている。ラミア平原はその一つで、その先には金や石炭の鉱脈を持つ地域がある。それらの資源をうまく利用した村々は栄えており、その分だけ危機も抱えていた。
平原に出没する盗賊たち。首都と村や町を行き来する旅人や商人を狙い、持ち物と奪おうと襲いかかってくる者は後を絶たず、エルニーニャ王国軍もこれには苦慮していた。
従って遠方への視察任務には、盗賊討伐が伴うこともある。あるいは盗賊が集落を狙うことがあるので、それを捕まえてほしいという依頼任務がくる。
いずれにしても荒事だ。任される軍人は、当然戦いに慣れている者になる。

トコルタという小さな村から依頼があったのは、世界暦五〇八年二月のことだった。まだ大陸中央には冬が居座っており、息を吐けば白い靄が目の前に広がる。トコルタは首都からそう離れていない。ほんの少しだけ南東に下る。広いラミア平原の中ほどに位置していて、気候は首都とほぼ変わらない。
「盗賊が出るのだそうだ。トコルタはまだ石炭が出ていて、鉄道事業との繋がりがあり、村としては潤っているほうだ。奴らは石炭と引き換えにトコルタにもたらされる物資を狙っているのだろう」
軍に来る依頼を差配する将官室の見解は、この件をフリーの人員二人に任せることで一致した。二人で足りると判断したのだ。
「ディア・ヴィオラセント中佐、アクト・ロストート少佐。君たち二人に盗賊討伐を任ずる」
依頼任務を任命されたディアはつまらなそうに「はいよ」と返事をし、アクトは黙って敬礼した。
任務へ向かう準備をするために、ディアは部屋に戻ろうとし、アクトは過去の資料を探そうと軍設図書館へ行こうとした。が、ディアは口をへの字に曲げてアクトの腕を掴む。
「現地に行って様子を見ればいいじゃねぇか」
「予習はしておくに越したことない。過去に何かあったなら、それも考慮して調査しないと」
「任務は盗賊の討伐だ。んなもん必要ねぇよ」
言い切るディアに、アクトは呆れたように息を吐いてみせる。この男はいつもこうなのだ。事前調査が苦手で、場当たり的なところがある。そして派手に動いて、あとで上司からの不評を買うのだ。たとえその判断が間違っていなかったとしても、だ。
今回の任務だって、何かあってもディアに押し付けてしまえば済むからという人選だったのだろう。上層部の考えをアクトは見透かしていた。
「おれは調べてから行く。お前は別に銃の点検だろうが荷物の支度だろうがしてていい。どうせ調べ物の役には立たないだろうしね」
「相変わらず随分な言いようだな、オイ」
コンビを組むようになって六年。最初から口の減らないやつだと思っていたが、付き合いが長くなるにつれてさらに遠慮がなくなってきた。アクトのそういうところも、ディアの気にいるところではあるのだが、たまにはもうちょっとだけ言葉を選んでくれてもいいんじゃないかと思う。
「そんじゃ、お言葉に甘えるかね。お前の分の荷物も用意しておくか?」
「おれは自分でやるからいいよ」
相方をあしらいながら、アクトはトコルタについて知っている情報を頭の中で整理する。上司が言っていた通り、炭鉱の町だ。ラミア平原の途中に、大昔に隆起してできた山があり、そこを中心に栄えたという歴史がある。大陸戦争では中央が守るべき場所の一つとされたそうだが、当時の理由は石炭ではなかった。たしかその山にあった植物が、傷によく効くとされていたのだ。
「近年はどんな情報があるやら」
ディアがやらないことはアクトの仕事。アクトにできないことはディアの仕事。二人は常にそうして役割を決め、動いてきた。
その晩には出発の準備が整い、明朝に二人は軍用車両で出かけて行った。

二月の荒野は冷たい風が吹きすさぶ。分厚いダウンを着込んでいるアクトは、車内の暖房が効いているにもかかわらず「寒い」と文句を言っている。北国生まれのディアは暑いくらいだというのに。こちらは上着を脱いでしまっていた。
「こんな寒い時期に遠征任務とか最悪」
「昨夜まで行く気満々だったじゃねぇか。トコルタのことすっげぇ調べて」
「仕事だから。でも寒いものは寒い」
さらに持って来た大判のストールを背中からかぶるアクトを見て、ディアはぼんやりと思う。今度仕事をするときは、できるだけ南のほうに行けるものをもぎ取って来よう。トコルタは首都の南東にあるが、気温が変わるほどには離れてはいない。周囲が荒涼としているだけに、むしろ寒いのだそうだ。それを調べてきたアクトは、最初から防寒具をめいっぱい用意していた。
「そんなに着込んで、いざというときに動けるのかよ」
「いざというときに動くのはディアの仕事だろ」
今はディアが運転を担当しているが、有事の際――たとえば突然車が襲撃されれば、運転はアクトの役目になる。素早く席をかわり、ディアは敵を迎え討つのだ。それがこの六年で確立された、二人のやり方だった。
今回はまだそんな気配はなさそうだ。防寒具でもこもこになっていても、アクトは常に外の様子に意識をむけているし、ディアも神経をとがらせている。アンテナには他者の存在はひっかかっていない。このまま無事にトコルタまで辿り着けそうだった。
「盗賊なんて本当に出るのか?」
「輸送ルート遮断の報告はしょっちゅうだね。最近もあったみたい。中央鉄道の関係者が、トコルタから石炭が届かなかったことが何度もあったって言ってる。ただ、軍が見に行くと奴らはなかなか現れないらしい」
「じゃあ今回も無理なんじゃねぇの」
「かもね。討伐しようにも、対象が出てこなくちゃできないし。だからなかなか班を動かそうとはしないで、フリーの人員を少数で向かわせてるんだよ」
過去にこういうことが何度かあったということだ。ディアは苦虫を噛み潰したような顔をし、ハンドルを操る。その何度かの遠征でも、トコルタと周辺の盗賊たちの確保には至らず、そして。
「トコルタ自体にも疑惑がある。危険薬物の取引が行われていたってね」
「そっちは確かなのか」
「別の事件で捕まった売人の証言だけど、本当かどうかはわかっていない。トコルタには何の証拠も残ってなかった。これまでの調べでは、ってことだけど」
どうやらトコルタそのものにも問題がありそうで、だからこその今回の任務なのだと、ディアも理解する。上層部は、表面上はトコルタを助ける体をとりつつ、この場所の持つあらゆる疑惑について調べたいのだ。何かが出ればその後のことは上層部が引き取るだろうし、何も出なければ誰の手柄にもならない。ディアとアクトに押し付けられたのは、そういう仕事だった。
「やってらんねぇな。観光して帰るか」
「嫌だよ、寒いのに。それなら仕事だって割り切ったほうがいい」
「ホットワインが美味いらしいぜ」
「なんで調べるの嫌いなのに、そういうのばっかり知ってるんだよ、お前は」
まもなく、山の影が見え始めた。その下には家並と、煙突から立ち上る煙。あれが炭鉱の村、トコルタだ。ここまでは何事もなかった。以前までの調査と同じように。

車を適当なところに停め、外に出た。荒野の真ん中よりは暖かく感じるのは、そこに人々が住んでいるからだ。
「小さいけど賑やかだね。マーケットで温かいものでも買おう」
「結構楽しんでるじゃねぇか」
少し機嫌を直した様子のアクトに、ディアは苦笑する。たしかに小さな村にしては、人が多い。冬であるにもかかわらず通りにずらりと並ぶマーケットには、威勢のいい掛け声が飛び交っていて、人々はみんなにこやかだ。平和そのもののこの集落が、盗賊の被害にあっているとはなかなか信じられない。
アクトが戻ってくるまで、その場で周囲を見渡しながら待っていようとしたとき、ディアの足元に近寄ってくるものがあった。
子供だ。短い髪は濃いグレー、こちらを見上げる瞳は深い茶色。あまりにじっと見られるものだから、何か用か、という問いを込めて見返した。だがディアは目つきが悪い。本人が単に相手を見ただけだと主張しても、相手には睨まれたように感じる。子供ならなおさら。
「うわああ! 盗賊だ!」
子供は眉を寄せ、目に涙を一気に溜め、周囲に響き渡る大声で叫んだ。当然注目を浴びる。和やかな空気が一瞬にして剣呑なものに変わり、本当にここの人間は盗賊に悩まされていたのだとわかった。それはともかく、この誤解はとんでもない。
「馬鹿、盗賊なんかじゃねぇ! 俺は」
「嘘だ! こんな凶悪な顔してて、盗賊じゃないわけがない! 早くここから出てけ!」
意外にも子どもは勇敢で、ディアの足を両手でポコポコと殴り始める。店から女性が出て来て「危ないから離れなさい」と言っても、攻撃の手を休めない。わああ、と声をあげながら、凶悪な顔の男をここから追いだそうと必死だ。
「だから俺は盗賊じゃねぇし」
「出てけ! 早く出てけ! オレの親を殺しやがって!」
こちらをしっかと睨む子供の眼に、ディアはハッとする。親を殺す。ここいらに出るという盗賊は、殺しまでやっていたのか。
「あんた、どこから来た。極悪人の面だな」
大人の男たちがぞろぞろと出て来て、ディアを取り囲む。不味いことになった、と舌打ちをしたところで、ようやく救いはやってきた。
「すみません、通して。そいつ、おれの連れです。盗賊じゃありません」
「アクト、お前遅ぇよ!」
両手に湯気を立てるカップを持ち、アクトが戻ってきた。突然現れた美人に、男たちは思わず道を空ける。まったく現金、いや、正直なものだ。
アクトは子供の傍らに屈み、温かい飲み物を差し出す。表情はディアにもめったに見せない、柔らかな笑顔だ。子供も手を止め、アクトを見返した。
「どうしたの? こいつ、たしかに顔は凶悪だけど、盗賊じゃないよ。おれたちはこの村を助けたいと思って来た、軍人だ」
「……軍人」
もごもごと繰り返しながら、子供はアクトとカップを交互に見た。いいよ、とアクトがカップをさらに近づけると、子供はそれを受け取った。温かさにホッとしたのか、表情が緩む。
「ありがとう、ございます」
「うん」
どうやら誤解は解けたらしい。取り囲んでいた男衆も解散し、自分の店や、他の場所へ戻っていく。誰も謝りもしないが、ディアもアクトもこんなことは慣れている。強面のディアは何かと誤解されやすく、今回のような騒ぎは遠征任務では日常茶飯事といっていい。子供が泣くなんてしょっちゅうだ。
子供はおそるおそるカップに口をつけ、喉を上下させた。
「悪人顔の相方を持つと大変だよ」
「うるせぇ」
軍服を着ていれば、もっと早く誤解は解けたかもしれない。しかし今は冬。上着を羽織っているし、その下は冬用のTシャツだ。遠征任務、とくに視察任務の際には、軍人でも私服で行動することが多い。今回は村からの依頼任務で、目的は盗賊の討伐だが、軍人がいると盗賊が現れないという前例を省みて、ディアもアクトも私服だった。
すでに軍人だと言ってしまったため、その意味もなくなってしまったが。そもそも軍用車で来た時点で、身分は隠せていない。何をしようが同じことだ。
カップを空にした子供が、改めてアクトに向き直る。そして、首を傾げた。
「姉ちゃん、本当に軍人なのか?」
「姉ちゃんではないけど、軍人だよ。そこの悪人顔も。おれはアクトで、あっちはディア」
ディアが悪人と間違えられるくらい、アクトが女性に間違えられることもいつものことだ。儚げにも見える色の白さと美しい女性のような顔のつくり、加えてさほど高くない身長は、人々の誤解や侮りを招きやすい。子供にはいまいち否定が伝わっていないようだったが、こちらを少しは信用してくれたらしい。
「コーヒー、ありがとう」
「どういたしまして」
「アクト、お前ガキにコーヒーなんか飲ませたのかよ」
「すっごい薄いコーヒーに、ミルクと砂糖を大量に入れたやつだよ。ちゃんとお前の分は濃いめのコーヒーにしてもらった」
アクトは持っていたもう一つのカップをディアに渡す。黒い液体は、この寒さもあって少々ぬるくなっていた。
「……で、盗賊に親を殺されたって話を詳しく聞きたいんだが。話せるか、ガキ」
ディアが言うと、子供はまた怒りを見せた。
「ガキじゃねえ! オレにはミマって名前があるんだ!」
威嚇する猫のようだ。あまり動物に好かれないディアには慣れたことで、はいはいとあしらう。アクトは再びミマと目線を合わせ、真剣な表情で問う。
「ここに出る盗賊は、人殺しまでするの?」
真面目に話を聞いてくれると思ったのか、ミマはディアを無視して頷いた。目は潤んでいるが、強い意志がある。
「オレの父ちゃんは、この村から町に石炭を運ぶ仕事をしてたんだ。帰りにはお土産を持ってくる。オレみたいな子供にはお菓子とかだったけど、大人にはお酒とか。あと、たくさんのお金。父ちゃんは村に帰ってくる途中で盗賊に襲われて、持ち物を一切合切盗られちまった。オレと知り合いのおっちゃんが、帰りが遅いのを心配して捜しに行ったら、父ちゃんはぼろ雑巾みたいになって荒野に倒れてた」
車すらもなかった、とミマは唇を噛んだ。本当に盗賊は、全てを奪っていったのだ。その事件があったために、ミマには家族がいないという。母親はミマを産んですぐに死んでしまい、ずっと父親と二人で暮らしていたのだった。
「盗賊の目撃証言とかがあれば、それを頼りに捜査をすることができるんだけど」
「襲われて、生きて帰ってきた人を何人か知ってる。でもみんな、言うことがばらばらだよ。それでも何かわかるってんなら、姉ちゃんは案内する」
だから姉ちゃんじゃないんだけど、と普段は否定するところだが、今はそんな場合ではない。アクトはミマに「ありがとう」と返して、屈めていた腰を上げた。
「前回の調査から、被害者が増えてるかもしれない。ミマに手を貸してもらって、一件ずつ当たっていこう」
「地道なやり方だな。それしかねぇんだろうけど」
顔を顰めて頭を掻くディアを見て、ミマはムッとした。アクトのダウンの裾を掴み、不満げに見上げる。
「あの怖いおっさんも一緒じゃないとだめ?」
「誰がおっさんだ、クソガキ」
「ディア、やめろ。あのさ、ミマ。おれとあの怖い顔のお兄さんは、コンビを組んで仕事をしてるんだ。おれにできないことをあいつはできる。だから一緒にいてもいいかな」
お願い、と手を合わせるアクトに、ミマは渋々頷いた。ダウンを掴む手は離さずに、もう片方の手で路地の向こうを指さす。
「まず、村長さんから話を聞いたほうが早いよ。……兄ちゃんもついてきなよ」
さりげなく「お兄さん」と訂正したのを、聞き入れてくれたらしい。アクトはミマに微笑み、ディアも小さく息を吐いた。

村長邸には、四十代ほどの男性と、十代後半と思われる女性がいた。二人は家族ではないという。
「よく来てくださいました、軍人さん方。私は村長のフブ。こちらは秘書のユリといいます」
フブは握手を求め、ユリは丁寧にお辞儀をした。ディアとアクトは順番に握手を交わし、アクトはユリにも会釈をする。
トコルタ村長フブが、今回の盗賊討伐の依頼主だ。もう何度も軍に依頼をしているが、達成されたことがないのだと残念そうに溜息を吐く。その表情は疲れ果てていた。ユリが隣で、彼を労わる。
「今日はマーケットが賑わっていたでしょう。軍に依頼をする前後は盗賊が現れない。だからマーケットもまともに機能できるんです。けれども軍の人々が異常なしと判断して去ってしまった途端に、また村の周辺で奴らが動き出す。軍は任務を終えているから、私たちは礼金を支払わなければなりません。ですがそれも正直苦しいのです。流通がうまくいかないということは、村の経済がきちんと成り立たないということですから」
トコルタの最もたる収入源は石炭だ。これを首都や各地の企業などに売る。けれども運ぶ予定だった石炭が、あるいはこちらに持って帰ってくるはずの代金や物資が奪われてしまうと、村の運営は苦しくなる。軍を常駐させるだけの余裕がないのは、そういうわけだった。
「平原で盗賊に遭っていないでしょう」
「ええ、何事もなく到着できました。でも、村長さんの言う通りならいつもは……」
「マーケットが開けるほどの潤沢な物資は用意できません。奴らに盗られてしまう。けれども根こそぎ奪うということはめったにしないのです。トコルタがなんとか存在できる、その限界のラインを奴らは熟知している。ここがなくなれば自分たちの仕業も成り立たなくなるとわかってやっているんです」
「トコルタは『荒野のオアシス』ですからね」
相槌を打つアクトに、ディアは怪訝な顔をする。下調べをしない彼のことだから、どうせこのことも知らなかったのだろうと、アクトは溜息交じりに補足した。
「ラミア平原の大半は荒野だ。旅支度を念入りに整えておかないと、立ち往生してしまったときになすすべがない。平原を越えるために重要になってくるのが、途中にある村や集落。燃料も食料も生活用品も、そこでなら手に入る。トコルタはその一つなんだ。運転するんだからそれぐらいわかるだろ」
「それでオアシスか。まあ、たしかに遠征任務のときにはそういうところの世話になったりもするな」
なるほど、と本気で感心するディアに、アクトだけでなく、ずっとくっついてまわっているミマも呆れる。ミマはアクトを気に入ったらしく、ずっと腰のあたりに纏わりついていた。
「ところで、根こそぎ奪うことはしないはずの盗賊が、どうしてミマの親を?」
子供の頭を撫でながら、アクトはフブに問う。彼はかぶりを振って「悲しい事件でした」と言った。
「ミマの父親は一人で出かけていたのです。正義感の強い人間でしたから、盗賊とまともにやりあってしまったのでしょう。奴らが人命を含めた全てを奪ったのはあのときだけです。もしかしたら、何か都合の悪いことでも知ってしまったのかもしれない」
ミマは黙ってフブの言葉を聞いていた。ディアを叩いていたときには泣きそうだったのに、ここでは茶色の目を潤ませもしない。かわりに宿るのは、誰にもぶつけられない、怒りや恨み、憎しみだ。
この子だけではない。追い詰められた生活を送るこの村の人々は、みんな盗賊を憎んでいる。いなくなってほしいと願い、軍に一縷の望みを託すが、それも何度も裏切られた。ただひたすら礼金を支払うだけなんて、軍まで嫌いになりそうだ。そんな人がいてもおかしくなかった。
「稼げるのは軍の人が来ているときだけ、なんて生活は終わらせたいのです。ですから今度こそ、せめて手掛かりだけでも掴んでください。情報ならいくらでも提供します」
フブとユリが頭を下げる。ミマがアクトの服の裾を掴む手にも力がこもった。任せてください、と胸を叩いて、この件をあっというまに解決できたらどれだけいいことだろう。けれどもそううまくいくわけではないということを、アクトは資料を読んで思い知っている。だから簡単に返事ができなかった。
「期待に応えられるかはわかんねぇな」
かわりに口を開いたのはディアだった。いつもと何も変わらない乱暴な口調で、腕組みをしたままその場の全員を見下ろす。ミマが顔を上げ、ディアを睨んだ。
「どうしてだよ!」
「今まで何度も軍が来て、何も解決してねぇんだろ。だったら俺たちが来たところで、すぐに片付くとは思えねぇ。情報だってそうでかい変化があるわけでもないだろうしよ。手掛かり掴めってのすら無茶ぶりだぜ」
「それが軍人の言うことかよ! アクト姉ちゃん、こいつ本当に軍人なの?!」
「一応軍人。ああ言ってるけど仕事はちゃんとさせるから、ミマは安心してて。村長さんも」
不安でしょうけど、と付け足すと、フブは苦笑いをした。それから、とりあえず荷物を運んでください、と奥の部屋を示してくれる。任務のあいだは村長邸の客間に泊まらせてもらうことになっていた。
ただし、長くはいられない。期間は今日を含めてわずか三日。この条件で盗賊を引きずりだして捕まえるところまでできるかといえば、かなり難しい。
ユリに案内されて部屋に向かったディアに、ミマが顔を顰めて舌を出した。それに対してディアはからかうように舌を出してみせる。この二人はまだ当分仲良くなれそうにないな、とアクトは思った。

さて、手掛かりを掴むのが全く無理なわけではないということに、アクトはとうに気づいていた。トコルタに来る前、下調べをしているときにはすでにその可能性に辿り着いている。ただ、この村の関係者には、特にずっとくっついていたミマには絶対に聞かせたくないものだった。
部屋で荷物を整理しているそのとき、やっとディアと二人きりになって、それを口にする。
「村に内通者がいる」
「だろうな」
下調べなんかしていないのに、ディアもわかっていた。軍人が来るときには絶対に現れない盗賊なんて、トコルタの内情を知っていなければできない。当日だけではなくその前後も脅威は去っていて、だからこそここに到着した時にはすでに盛大なマーケットが開かれていた。物資が事前に用意できなければ、あれだけ多様に物がある店は準備できない。軍が来ているあいだは鳴りを潜めて村に稼がせ、あとでがっぽり盗んでやろうという作戦なら、トコルタに住む誰かが盗賊と繋がっているはずだ。
「問題はそれ以上をどうやって知るか、だ。内通者の可能性だけなら、今までだって指摘されてた」
「なのに尻尾を掴むどころか影も見えねぇってことは、トコルタの奴らが隠してるんだ。でも隠す必要がわかんねぇ」
「来るときに言ったと思うけど。窃盗とは別にトコルタにはもっと危ない疑惑があるんだよ」
アクトがそっとディアに近づき、耳に唇を寄せる。吐息とともに吹き込まれる言葉には、色気なんか微塵もなかった。
「危険薬物関連」――この国ではもっとも大きな組織犯罪だとされている。裏社会が絡み、多額の金が動く。トコルタには、その取引が行われたのではという疑いがあるのだ。そのことをディアはすっかり忘れていた。
証拠があがっていないから疑惑止まりだが、過去に検挙した裏組織の人間の証言がある。信憑性はさほど高くないそうだが、名前が挙がるということだけでも重要だ。
「トコルタでの疑惑が本当なら、あんまり軍に立ち入ってほしくはないはず。駐在を置けないのも、単なる資金不足ってだけじゃないかもしれない」
「だったら軍を呼ぶことだってねぇんじゃねぇの?」
「いや、イベントとして必要なんだ。あの賑わいを見ただろ。トコルタがこれまで通り、軍の疑いを逸らしながら『オアシス』の役割を果たし続け、なおかつ石炭の流通も止めないようにするには、ときどきは軍を呼んだほうが都合がいい」
「……そこまで思いつくなんて、お前性格悪ぃな」
言葉はともかく、ディアはアクトを認めているし、褒めている。アクトはきちんと役割を果たしているのだ。ディアには難しい、頭脳の部分を。
「盗賊の情報を集めながら、村の様子をよく見ておこう。お前は騒ぎを起こすなよ」
「わかったわかった。よっぽど腹立ったときしか喧嘩しねぇから安心しろ」
本当にわかってる? とアクトは眉根を寄せる。ディアの沸点の低さは、六年の付き合いでよくわかっているつもりだ。ちょっと目を離した隙に誰かと殴り合いになっていたなんてことも珍しくはない。余計なことをして捜査打ち切り、なんてことになったら誰も得をしない。ことに今回のような場合は。
怒らせないためには、まずアクトが自衛を徹底することだ。ディアという男は、相方であるアクトに危害が及んだときに普段以上に激昂する。気持ちはありがたいが、もう少し落ち着いてくれていい。
「おとなしくしてりゃいいんだろ。聞き込みはお前に任せるぜ。俺は悪人面だし」
「はいはい」
僅かな荷物を持って部屋を出る。フブから村の地図を貸してもらい、これで仕事の準備は万端だ。唯一の問題点は、アクトはやはり防寒具を着込んでいて、ディアの顔は当然変わったりしないので、人から話を聞くためにいちいち軍人であることを証明しなければならないということくらいだ。
そのはずだったのだが。

「なんでガキがついてくるんだよ」
「だからガキじゃねえ。オレはミマだ」
どういうわけか、村長邸の前でミマが待っていた。出てきたところで捕まり、今はアクトにぴったりとくっついている。
「ミマ、おれたちはこれから仕事をしなくちゃならない」
「わかってるよ。絶対に邪魔しないから、仕事を見せてほしいんだ」
懇願するミマを突き離せず、アクトはそのまま歩き始める。その後ろから、ディアが「ガキ」と呼びかけた。
「お前、さては俺たちが真面目に仕事をするのかどうか見張るつもりだろ」
「姉ちゃんはともかく、兄ちゃんはまだ信用できないからな」
「あっさり認めやがった。アクト、そいつ引き剥がせよ」
「それができればやってるけど、ミマの手が温かいんだよ」
「ガキの体温に買収されてやがる……」
思いきり顔を顰めたディアを尻目に、アクトはミマの手をぎゅっと握り返した。ミマのちょっと照れた顔が可愛らしくて、心まで温かくなる。
もちろんミマをカイロがわりにするためだけに連れ歩くつもりはない。この子は盗賊の被害者の子供で、この村の一員だ。もちろん情報源になる。それに来たばかりで、しかもなかなか初対面の人間の信用を得られない自分たちには、きっと助けになってくれるだろう。
ただ、村のことに深入りはできない。ミマを傷つけてしまうようなことだって、必要になるかもしれないのだ。ディアの態度がそれを懸念してのことだと、アクトも理解している。
「あのさ、ミマ。仕事についてくるなら、ミマも役割を持たなきゃいけないとおれは思うんだけど」
「役割? オレも仕事をするのか?」
「うん。おれたちはこれから村の人に色々話を聞かなくちゃならない。ミマはそれが本当かどうか、知ってる限りおれたちに教えてくれるかな」
「……村の人が嘘吐くかもしれないってこと?」
ミマは正直な子供だ。喜びも不安も、全部顔に出る。アクトの頼みで、懐いてくれていた目が一気に不審なものを見るそれに変わった。
証言の真偽を確かめるのはもちろんだ。村そのものに疑惑がある以上は、嘘だってありうる。村の子供であるミマは、ここでアクトの手を離してどこかへ行ってしまっても良かった。けれども、手だけは離れない。縋るように、祈るように、しっかりと握られたままだ。
それを確かめてから、アクトは微笑んだ。
「そうじゃないよ。間違いがないかどうか、ミマの記憶と照らし合わせてほしいんだ。おれたちはここに来たばかりだからどんなことがあったのかよく知らないし、誰だって憶え間違いはある。ずれがあったら修正しなければならないから、ミマに手伝ってほしい。それだけのこと」
疑っているわけじゃない、ととってくれたのか、ミマはあからさまにホッとしたような表情になる。
「いいぜ。オレは記憶力には自信があるんだ。盗賊のことだって、大人が話してたのを聞いてるからよく憶えてる。きっと姉ちゃんの役に立つよ」
「おい、俺は」
「そうか、ミマは偉いな。ありがとう、頼りにしてるよ」
アクトに頭を撫でられると、ミマは得意気に笑った。そして「早く行こう」というように手を引っ張る。ちらと振り返ったアクトに、ディアはやぶ睨みをさらに険しくしたような表情を向けていた。
いいのかよ、と無言の問い。単純に「子連れで捜査ができるのか」という意味ではない。「子供を利用していいのか」と言っているのだ。
アクトがディアの考えていることを大抵はわかるように、ディアもまたアクトのことを六年分はわかっているつもりだ。ミマに対して優しく振る舞っているように見えても、実際はより冷淡な人物だと。達成すべき目的のためなら、自身も他人も使えるだけ扱き使う。そうできるものと割り切ってしまう。そこに年齢や社会的地位の序列はあまりない。
そのうえで、答えを受け止める。――今はこれが最善の方法だ。
「……そうかよ」
小さく呟いてから、ディアは上着のポケットから煙草を取り出し、咥える。余計に人相が悪くなり、こちらを見たミマに嫌な顔をされた。
知らない人が見れば奇妙な三人連れだっただろう。子供と美女と悪そうな男。――もっとも「知らない人」などこの村には存在せず、ミマの姿を見れば人々は相好を崩して挨拶をしてくれた。
「おっちゃん、盗賊に遭ったときのこと教えてよ。今度こそ軍人さんがなんとかしてくれるから」
対象人物にもミマが積極的に近づいていき、話をつけてくれる。もう何度もした話だろうに、相手は嫌な顔一つせずに盗賊の特徴や当時の状況、遭遇日時を教えてくれた。主張は一貫しているようで、ミマは初めて聞いたときと違いはないとこっそり告げる。
盗賊の特徴はやはり人によって違った。あるときは髭を生やした屈強な男、あるときは若者らしい集団。共通するのは、荷を根こそぎ奪うということはしないということ。――ミマの父親の場合を除いては。
盗賊は一人ではなく、彼らが繋がっているのかどうかも不明。これはアクトが事前に調べたことと一致している。つまりは被害者の証言としてあがってきているのだ。
「ミマ、素朴な疑問なんだけど」
手帳にチェックを入れてから、アクトが尋ねる。
「ミマのお父さんが見つかったとき、軍へ報告がなかったみたいなんだ。これは誰の判断?」
他の案件に比べて、ミマの父親の被害は明らかに異質だ。しかし、軍にはそれと思われる記録がない。あればすぐにわかる。これまでも「何件か続いたから軍に討伐の依頼をした」ようだが、いつもと違うことが明らかな場合はすぐに連絡があってもよかったはずだ。
ミマは首を捻りながら答えた。
「オレと一緒に父ちゃんを捜しに行ってくれた父ちゃんの友達と、村長さんが話し合って決めたはずだ。父ちゃんの荷物や車がなかったから、きっと盗賊の仕業だろうって。首都から帰ってくるときに襲われたんじゃないかって言ってた。金とか盗られるのはいつものことだから、今度軍が来たときに報告しようってことになったんだ」
「ということは、ミマのお父さんが亡くなったのは最近なんだな」
「ひと月前だよ。そのあとも盗賊の被害が続いたから、また軍に頼もうってことになって、姉ちゃんたちが来た」
いつもと違うことがあったなら、別個の事件の可能性があるのですぐに報せてほしいのだが。そうしないくらいに、この村の人々は盗賊に慣れてしまったのだろうか。それとも。
考え込むアクトを、ミマが真剣な顔で見上げる。
「何度も軍人が来たけど、誰も解決できなかった。盗賊を一人も捕まえられなかった。だから兄ちゃんが無茶ぶりって言うのも、本当はわかってる」
ぐっと拳を握り、だけど、とミマは声に力を込めた。
「でも、諦めたくないんだ。父ちゃんがなんで死ななきゃいけなかったのか、オレはそれが知りたい。盗賊の被害が他人事じゃなくなって、初めてオレも真剣になったんだ。だから」
「うん、わかってる。尻尾くらいは掴めるように頑張る。……でも、これだけは胸に留めておいて」
屈んで、ミマと目線を合わせたアクトは、厳しい眼をしていた。ミマがびくりと肩を震わせたのが、ディアにも見える。
「おれたちが調べた結果は、もしかしたらミマの望まないものになるかもしれない。そういう真実を、今は無理に受け入れなくてもいい。けれどもいつかは納得しなきゃならないと思うんだ。たとえおれたちを恨んでも、それは一向にかまわない。でも過去の事実はどうしたって変えられないものなんだってことは、いつでもいい、わかるようになって」
それは半ば「予告」だった。この事件の真相は、村にとって、村の子供であるミマにとって、都合の悪いものかもしれない。疑惑、聞き込み結果、軍への未通報事項。これらに導かれる推理は、あまり良いものではない。アクトもディアも、すでにただならぬ事態を嗅ぎとっていた。
ミマが人と話をつけてくれているあいだに、村の様子も確認している。賑やかで明るい村だ。だがこれは軍人がいるときの姿であり、普段は盗賊に苦しめられている。そういうことになっているのだが、あまりに不自然だ。
幼い子供が大人たちに可愛がられている光景を見れば見るほど、後のことが気にかかる。内部犯がいる可能性は高い。そのことを知ったミマが、どれほどの衝撃を受けるのか、予想はできた。
大人に裏切られた子供の心の傷は、そう簡単には消えない。傷を傷だと気づかずに過ごし、少しずつ膿んでくることを疑問に思うようになるケースもある。そしてその頃には、なかなか癒えなくなっているのだ。それをかつて大人に裏切られた子供だったディアとアクトは、よくわかっていた。
アクトの言葉を、ミマは黙って聞いていた。頭の中で、意味を必死に整理しているのかもしれない。
「結果がまたわからないことも考えられる。おれたちには三日しか時間がない。ミマの期待に応えられなかったら、ごめん」
「……うん。それは、納得はできないけど、仕方ないと思う。今までの軍人もそうだったし」
よその人間は頼りにならない、とミマも思っている。いくら懐いてくれたって、ミマが本当に大切にしているのは、信頼しているのは、この村の人々だ。
しかしミマを救うのに冷徹な判断が必要かもしれない。その覚悟は、互いに持っていなくてはならなかった。
「今日の聞き込みはこれくらいでいいんじゃねぇか? 腹減ってきちまった」
冷えてしまった空気に割って入った、乱暴だが暢気な言葉。ミマは目を丸くしてから、口をへの字に曲げてディアを睨んだ。アクトは平坦なトーンで「そうだな」と返し、優しくミマに尋ねる。
「ミマのおかげで仕事が捗ったよ。ところでこの村で、ご飯が一番美味しいところはどこだろう?」
「なんでも美味しいけど、やっぱりオレのおすすめは村長さんの家かな。ユリ姉ちゃんの作る飯は村で一番美味い。炭鉱夫たちへの差し入れも大人気なんだぜ」
にかっと笑うミマについて、一旦村長邸に戻ることにした。いずれにせよ情報の整理と、そしてフブとユリの話が必要だった。

丸ごと焼いた鶏肉と、乾燥させ保存してあったらしい色とりどりの野菜が並ぶ。そしてとろとろの芋のポタージュ。さっそく手を付けようとしたミマを、フブが「軍人さんたちが先だよ」と窘めた。父がいなくなって以来、ミマは村長邸で暮らしているらしい。
「いかがでしたか、村の者の証言は」
フブが食事を勧めて言った。アクトは一礼してから答える。
「大方はミマのおかげで聞くことができました。けれども、やはり特徴に一貫性がありませんね。しかしやり方は、ミマのお父さんが襲われたとき以外は、ほぼ一緒。盗賊は大きな組織ということも考えられます」
ディアとアクトが聞いてまわった盗賊たちの外見の特徴は、これまで通りばらばらだ。そしてミマによると、その主張は以前から変わっていない。今までトコルタを調査した軍人たちの報告とも一致する。だからこそミマの父の件は、異常なものとして浮かび上がってくる。
「村長さん」
「フブでかまいませんよ」
「フブさんは、何故ミマのお父さんのことを軍にすぐに報告してくださらなかったんですか。これまでの手口と違うということは、すぐにわかったでしょうに」
突然、しかし落ち着いて切り込んだアクトに、フブも目を眇めつつ静かに返した。
「……麻痺、というのでしょうか。あまりにも盗賊の被害が多く、正しい判断ができなかった。ミマと父親には、申し訳ないことをしました」
ミマは表情を変えずに、鶏肉を咀嚼している。謝罪はもう聞き慣れた、というふうに。
「全く同じ手口なら、麻痺の範囲に入っただろうな。でもよ、人死には一件だけなんだろ」
「荷運びの人間がまた襲われた。私たちの当時の認識はそれきりでした。そのあとも立て続けに盗賊が現れ……」
「その一件は後回しになってしまったのです」
言いにくそうに唇の端を歪めたフブの代わりに、ユリが続きを引き取った。がつがつと肉を食べるミマは、まるで何も聞いていないかのようだ。そんなはずはないのに。
「みんなわかってくれました。ミマも、幼いながら納得してくれています」
ミマの皿におかわりをよそいながら、ユリは言う。だが、そんなものは大人の勝手な言い分だと、ディアもアクトも感じていた。大切な人が突然いなくなったことに、納得なんてそう簡単にできることではない。経験上、二人ともそれを知っていた。
空気が不穏になったのを感じ取ったのか、ミマが急いで口の中の物を飲みこんだ。
「オレ、平気だよ。他の人だって、盗賊が出るのにはもう慣れてるし、何が起こってもどうしようもないって思ってる。軍人が来ても解決したことはないし、オレたちはあるがままを受け入れるだけだ。父ちゃんの事だって仕方ない」
「何言ってんだよ、ガキが。本気でそう思ってんなら、俺を殴ったりしねぇだろ」
即座にディアが返す。村に到着してすぐのできごとと、ミマの今の言葉は矛盾している。何故父が死んだのかを知りたいとも言ったのに、まるでそんなことはなかったかのようだ。世話になっているフブやユリの前ではいい子でいたいのかもしれない。表情を歪めたミマは、小さな声で「余計なこと言いやがって」と呟いた。
「ミマが失礼なことをしましたか」
「いいえ、当然のことだと思います。良い子ですよ、ミマは。……子供が手伝ってくれて、大人がそうしないということはないでしょう。フブさんとユリさんからも、お話を聞かせていただきます」
アクトの視線が鋭くなる。フブとユリは食事の手を止め、顔を見合わせた。
「私どもからは、何を話せば良いでしょう。すでに村の者から聞き込みをされたのですよね」
「フブさんたちから聞きたいのは、軍を呼ぶか呼ばないかという判断についてです。そのあたりの責任は、あなたがたにあったということでいいんですよね。もしもミマに聞かせたくない話であるならば、今でなくても構いませんが」
ちら、とミマを見る。別に構わない、とでも言いたげな表情をしている子供に、しかしフブは眉を八の字にしていた。これは後にしたほうがいいな、とアクトが思うと同時に、口を開いたのはユリだった。
「軍人さんたちは、朝はお早いんですか? もし良ければ、夜中にお茶でも飲みながらゆっくりお話ししましょう。ね、村長さんもそれでよろしいですか」
「軍人さんたちがよろしければ」
「おれたちは一向にかまいませんよ。なあ、ディア」
「俺は逆に夜のほうが頭が働く。ガキを寝かしつけてからじっくり話を聞こうじゃねぇか」
不満げに脹れたミマを、ユリが宥める。デザートを少し多めにしてもらって、ミマはちょっとだけ機嫌を直したようだった。木の実のシロップ漬けはたしかに美味しくて、ほんのりと酒の味がした。ミマの分は別の瓶から取り出されたので、きっと子供用にアルコールを抜いてあるのだろう。
「けれどもまずは、お風呂に入ってくると良いですよ。村中を歩き回ってお疲れでしょうから」
ユリが勧める通りにしたほうが良さそうだ。夜は長い。ミマがアクトと一緒に風呂に入りたがったのはやんわりと断った。
全員の入浴が終わり、歩き疲れたミマがぐっすり眠ってから、大人たちは再びテーブルを囲んだ。ユリがブランデー入りの紅茶を淹れてくれ、それからフブの隣に座る。
「……改めて、いかがですか、トコルタは」
フブが口を開く。口元は笑みを作っているが、眉がミマを気にしていたときと同じ形のままだ。
「先ほど申し上げた通り、皆さん、協力的で助かります。ミマのおかげだとは思いますが。これまでの調査と、今回の証言は一致しています。新たな証言も得られましたが、それらはミマがお父さんを亡くしてからのものでした」
アクトが落ち着いて言う。手元にメモはあるが、内容はすでに頭の中に叩き込んであるので見ない。今見るべきは、人間の顔だ。いつ、どんなときに、相手の表情が動くのか。
「ええ、以前に軍に来ていただいたときは、ミマの父親は生きておりました。悲しい出来事は、それからまもなくのことです」
「ミマの親父さんの件は、それまでとは明らかに様子が違ったはずだ。なのに、どうしてその時点で軍に連絡しなかった? 何度でも言うが、単なる麻痺じゃこっちは納得しねぇぞ」
ディアの詰問に、フブが言葉を詰まらせる。かわりに声を発したのはユリだった。
「軍の調査が何も解決せずに終わったのに、そちらにお金をお支払いしなくてはならなかったので、村は金銭的に困窮していました。立て続けに軍に依頼をというわけにはいきません」
険のある言葉を、フブが窘めようとする。だがディアは黙って頷き、アクトはユリを真っ直ぐに見据えたまま返した。
「殺人事件となれば依頼として扱うことはありませんから、それは考えなくても良かったのですが。しかしそちらからの依頼を軍が解決しきれなかったために、そのような判断を招いてしまったんでしょうね。申し訳ございません」
言葉は丁寧だが、アクトの内心には一つ確信ができた。やはり軍は、信用されていない。村の「イベント」のために利用されているだけだ。それが軍が任務を遂行できなかったために引き起こされたことなのか、それとも……という疑問はまだ残っていたが。
金銭的な困窮というのは、嘘ではないだろう。石炭運びを担っていたミマの父親は、盗賊に全てを奪われた。つまり村の収入は、その分だけ減っていたと考えられる。それにこの村は、軍人が来るたびに物資を出し惜しまないマーケットを開く。
だが、何もミマの父親ひとりだけが働いていたわけではないはずだ。嘘ではないにしても誇張が過ぎる。軍人を遠ざけておきたかった、と考えるのがもっとも自然だ。
「ユリさんは、フブさんの考えをそのまま仰っているのですよね」
「ええ、私は村長さんに恩がありますので、助けになるならなんでもしたいと思っています」
恩、と小さく繰り返したアクトに、ユリは頷き、フブはようやく言葉を発する。
「ユリは盗賊に囚われていたのです。なんとか逃げてきたところを、私どもが保護しました。以来、この村のためによくやってくれていますよ」
「へえ。そんじゃ、一番に話を聞くべきだったのはあんただったってことだな。囚われてたってことは、盗賊の顔も一通り見てるんじゃねぇのか」
ディアの指摘に、しかしユリはかぶりを振る。自分の肩を両手で抱くようにして、震えた。
「あんな恐ろしいこと、思い出せません。思い出したくない」
そう言われては追及できない。受けた痛みを思い出すことがどんなにつらいか、こちらも経験上わかっている。同じように問われたら、ディアなら家族を失ったときのことを、アクトは虐待を受け続けた過去のことを、すんなりとは話せなかっただろう。恐ろしい体験だったなら、本当に思い出せないということもある。
「……言葉にしようとすると、途端に記憶が曇るんです。色々な人が盗賊の特徴を言うけれど、私はそれを目にしたかどうかわかりません。相手が複数だったことはたしかですが、他の人を襲ったのと同じ組織かどうかは……」
「そう。話せないなら仕方ないので、一旦この件は置いておきましょう」
俯くユリに、アクトが告げる。それから突然話題を変えた。
「では盗賊の側は何が目的なのか、心当たりはありますか」
「それは……我々の収入が目的なのでは。あるいは、石炭でしょう」
何を今更、という疑問を浮かべ、フブが答える。ディアも同じことを思ったが、すぐにアクトの狙いに気づいた。最初からその可能性は提示されている。
アクトはメモを一枚千切り、そこにペンで丸を二つ描いた。
「そう、盗賊の狙いは二つある……というより、狙うルートが二つ存在しているとおれは考えています。一つはトコルタからよそへ向かうもの。もう一つはよそからトコルタへ帰ってくるもの。目的は石炭や金品だけではないのでは」
「と、いいますと」
本来なら、もう少し探りを入れて情報が集まってから切り込むべきところだ。しかし、時間がない。眉根を寄せるフブに、アクトは毅然と言い放つ。
「この村で、危険薬物が取り扱われたことがあるのでは」
「……その嫌疑、まだかかったままでしたか」
フブは俯きながら首を横に振った。残念です、と小さく呟いた彼の背中を、ユリが慰めるようにゆっくりさする。こちらを見る目は非難がましいが、そんな視線にたじろぐようなことはない。ディアの知るアクトは非情であり、アクトの知るディアはちょっとやそっとのことでは揺らがない。
「以前にも疑いがかけられていると、軍の方に言われたことがあります。しかし証拠はどこにもない。トコルタと危険薬物の関わりは示されなかった。それなのにあなたがたは、まだ私たちの村をそんな目で見るのですか。だいたい、それと盗賊と何の関係があるというのです」
「盗賊たちの目的が危険薬物である可能性もあるかと。噂を頼りにトコルタの人々を襲ったのでは」
「それならば、そんなおかしな噂を広めた軍にも責任があるでしょう」
「尤もです。ですからはっきりさせたかった」
フブやユリが軍を信用しないのと、質は違えど量れば同じくらいには、アクトもまた軍を信用していない。もとより帰属意識は薄い。軍に非があればそちらを、容赦なく叩くつもりだ。口にせずともそれが通じたのか、しばしの沈黙ののち、ユリが目を伏せたまま言った。
「噂のせいで私たちが被害を受け、ミマのお父さんが死んでしまったのなら、それはとても悲しいことです。あなたたちが盗賊を討ち、軍にこの村の無実を訴えてくれることを望みます。そうすればきっと、不幸は終わる」


明朝、ディアは村長邸の外にいた。普段は寝起きが悪いとアクトに叱られているが、今いるところがよそであり、さらには得意な冬であることで、目はしっかりと覚めている。そうして吐息と煙草の煙を空気に混ぜながら、昨夜のことを思い返していた。
与えられた期限は、今日を含めてあと二日。時間がないのはわかっているが、アクトの態度は少々急ぎ過ぎだ。危険薬物のことなんか持ち出したら、相手が頑なになってしまうのは容易に想像できるだろうに。
「らしくねぇんだよなぁ」
村長らとのやりとりに限らない。腑に落ちないことは山ほどある。こちらにも、あちらにも。ただ、アクトには何か意図があるのだろうと、自分もそれを読まねばならないと思っていたから、ディアは口出しをしなかった。
しかし一晩を越えて、頭どころか全身を冷やしても、何もまとまらなかった。相方は今回、何を考えて仕事に臨んでいるのだろう。
「あ、兄ちゃん。せっかく早起きなのに煙草かよ」
下から呆れたような声。雪を踏む足音に気がつかなかったわけではない。こちらから話しかける用事がなかっただけだ。どこに行っても子供にはまず泣かれるせいで、扱いは苦手なのだ。関わらなくていいのなら、それに越したことはない。
だがこの子供、ミマには、どうにも相方が甘いような気がする。
「早起きしたから煙草なんだよ」
「病気になるぞ」
「そりゃ迷信だ」
鼻を真っ赤にして、白い息を吐く子供は、訝し気に目を眇める。きっと何を言っても信じないだろう。村の人間やアクトには素直そうなのだが。
「兄ちゃんにかまってる暇ないんだ、オレ。水汲みに行かなきゃ」
「必要あんのか。この家、水引いてるじゃねぇか」
「そうだよ。でも、父ちゃんが生きてた頃からやってるから。無駄でもいいから続けてないと、朝が来たって感じがしねえんだ」
子供が両手で抱える大きさの水汲み桶は、箍に錆が浮くくらいには古いもののようだった。もといた家から、これだけ持ってきたのかもしれない。誰かに無駄だと言われても。もういらないだなんて、まだ思いたくなくて。
「ついていってやろうか」
「来るなよ。せっかくのきれいな水に、煙草の灰でも落とされたらたまんねえや」
即座に拒否されたが、妙に気になってしまった。ミマから見えない位置を確認し、煙草を踏みつぶしてから、ディアはこっそり後を追う。思ったよりも遠くへ行くようだ。昨日歩き回った限りでは、水場らしいものは見当たらなかったが、ここは「オアシス」らしいからきっとどこかにあるのだろう。
気がつけば、村長邸からも大通りからも随分離れたところに来ていた。村のはずれに、葉を纏わない木々に囲まれた空間が、まるで貼り付けたように存在している。ミマは幹の太い木の陰に屈んでいた。
もっと雪の深い場所だったなら、音を吸収してくれただろうに。そこまで雪の積もらない地域で、おそらくはよく点検されている場所であろうそこでは、泣き声がよく響いた。
納得しているふうを、仕方がないふうを装っていたのは、大人たちのためであり、自分自身のためだ。聞き分けの良い子供でいることは、集団の中で生きる上で都合がいい。けれども心には、現実や疑問や羨望がいつも浮き上がっては沈み、溜まっていく。それが苦しいのだと、痛いのだと、誰にも言うことができずに、ひとりで隠れて泣いていたのだ。――あれほどまでに泣いた覚えはないが、痛みならわかる。子供が我慢するには、受け入れるには、あまりにつらすぎるものだ。
駆け寄って声をかければ、ミマはもうここで泣けなくなる。気持ちを吐き出せる場所を奪ってしまう。だからディアは、静かにもと来た道を戻った。
村長邸の前で、寒さが何より嫌いな相方が、防寒具を纏って待っていた。こちらに気づくのは早く、しかし歩いては来ない。ただただ怒りの形相でこちらを見るだけ。目の前まで来たところで、強烈な膝蹴りを食らった。
「何してたんだ、お前。人の家の前に吸い殻放置したままとか、最悪」
「それは悪かったって。すぐ戻ってくるつもりだったんだ」
「すぐだろうがなんだろうが、自分で出したごみも処分できないなら吸うな。……で、ミマは?」
何があったのか、アクトはすでにわかっているようだった。じきに戻るだろ、と返す。わざわざ一人で泣きに行ったのを、知られたくはないだろう。
「……意外と子供は逞しいって、おれもよくわかってるつもりだけど。だからって見捨てるわけにはいかないよな」
「別に見捨ててきたわけじゃ」
「わかってる、お前のことじゃない」
アクトは先に家に入っていった。いつから待っていたのかわからないが、寒くてたまらなかったに違いない。呼び止めて考えを聞くまでの時間はなかった。

朝食の準備をしているあいだにミマが帰ってきた。アクトを見つけて元気に「おはよう、姉ちゃん」と言う顔には、涙の跡はない。ユリの用意した食事をみんなで囲み、支度を全て済ませたら、今日の調査の始まりだ。
「今日は村の周りを見て行こうかと。もしかしたら盗賊が出てくるかもしれません」
言いながら、アクトは可能性は低いだろうと思っていた。今までだって、軍がいるあいだには盗賊は出ていない。彼らが慎重ならば、出現はしないはずだ。昨夜のうちに策は講じておいたが、今のところそれも効き目はないようだし。
「アクト姉ちゃん、オレも行きたい」
「こら、ミマ。軍人さんたちの邪魔をしてはいけないよ」
駄々をこねるミマを、フブが宥める。信頼している大人の言うことはちゃんと聞いてくれる子供は、脹れながらもおとなしくなった。
昨日はミマの同行を利用できたが、今度は連れまわすわけにはいかない。万が一のことがあって、ミマを巻き込んでしまうようなことになるのは避けなければ。この子は父親を奪われたという以外、何の関係もないのだから。
「盗賊を見つけたら捕まえて来るから、ミマは待ってて」
「うん……。見つけた軍人は今までいないけど」
ミマは懐いてくれてはいるが、軍を信用しているわけではないのだ。今までに成果をあげられていないものを、信じろというほうが難しい。
だが、アクトは笑みを浮かべる。
「そうだね、いない。でも、可能性はゼロじゃない」
散々聞かされてきた言葉なのか、ミマは「ふうん」と言って足をぶらぶらさせていた。今は信用できなくていい。しなくていいのだ。
ミマに見送られて村長邸を出て、まずは村を歩く。相変わらずマーケットは盛況で、その賑わいの中でディアとアクトはそれぞれ昼食を調達した。それから乗ってきた軍用車で、村の周囲を走り始める。昨日と同じ、寒く静かな平原が広がり、盗賊らしい影は見えない。だが村から離れたこのタイミングこそが重要だった。
「ディア、ユリさんの料理は美味かった?」
「お前ほどじゃねぇな。でもまあ、美味いほうなんじゃねぇ?」
「そう。……あれ、ミマや炭鉱夫たちも食べてるんだよね。一か月前からフブさんの家に住むようになったミマはまだ大丈夫かもしれないけど、もっと長いこと摂取してる人はどうかな」
「どういう意味だ」
話が見えないことに苛立って、ディアが眉間にしわを作る。いいかげん、わかっていることをはっきりと言ってほしい。一方のアクトは平然として見える表情のまま、さらりと言った。
「今朝、台所で危険薬物の原料を見つけた」
「はぁ?! そういうことは早く言え!」
動揺が伝わった車が蛇行する。この辺りには道というものがないが、もし障害物や他の車があれば大惨事になるところだ。しかしアクトは至って落ち着いた様子で続けた。
「あくまで原料だよ。それがそのまま危険薬物になるかどうかは、また別の話。原料っていうのは植物なんだけど、様々な成分を持ってるんだよ。危険薬物だけじゃなく、一般薬にもなる。もちろん、薬学に精通している人間じゃないと正しい加工はできない。危険になり得る根拠は」
大判のストールで口元まで隠しながら、アクトは平原を見渡す。その寒々しさにほんの僅かうんざりした表情をしてから、言葉を継いだ。
「……根拠は、葉と根に含まれる微量の毒性。大量に摂取すると神経が徐々に蝕まれていき、異常行動を引き起こしたり、逆に無気力にしたりすることがわかっている。十年くらい前までは中央でも料理の味を良くする香辛料として使われていたんだけど、その発表があってからは取り扱いがなくなった。国境に近い田舎ではまだ使っているところもあるかもしれないけど、国内では一応規制がかかってる」
「おい、まさかユリは料理に」
「使ってるんじゃない? おれは味でわかったけど」
途端に胃液がこみ上げてくるような感覚があって、ディアは片手で口を押さえる。それを見て、アクトは鼻で笑った。
「直ちに影響があるわけじゃない。少量なら本当に料理が美味しいだけ。ほとんどの場合、毒は吸収されないみたいだし」
「なんだよ、脅かしやがって」
「でもミマが気にかかることを言ってた。『ユリ姉ちゃんの作る飯は村で一番美味い』って。あれがトコルタの常食じゃなくて、ユリさんだけが使っているんだとしたら、故意かそうでないか、毒性のことを知っているかどうかは確かめなきゃいけない。他にもあの人は怪しいところがある」
盗賊のもとから逃げ出してきたと聞いたときには、同情しているふうを見せたのに。あのときは、そのほうが都合が良かったと、それだけのことだったのだ。変に煽って相手を激昂させれば、村から追いだされかねないから。
「アクト、お前が考えてること、全部話せ。憶測でもなんでもいい。俺に理解できるようにしろ」
「珍しく自分で考えてるなと思ってたから邪魔しなかったのに」
「仕事なんだから邪魔も何もねぇよ」
周りには何もなく、ただ荒野が広がっているだけ。今なら何の気兼ねもなく話せる。それがどんなに残酷な推理でも。
傷つく者は、ここにはいない。

手ぶらかつ無傷でトコルタに戻ったのは、とっくに昼を過ぎた頃。やっぱりね、と残念そうに呟くミマが出迎えてくれた。手にはバスケットを抱えている。
「昼飯もまだだろうからって、ユリ姉ちゃんが作ってくれた。サンドイッチだって」
「ありがとう」
アクトは微笑んでバスケットを受け取る。先ほどユリの料理の秘密について話したばかりだったというのに、全く気にしていないかのようだ。ディアは慄きながら煙草を取り出した。
「兄ちゃん、食わないの?」
「腹減ってねぇ」
「食べておいたほうがいい。何があるかわからないから」
わからないから食べたくないのだが、相方が平然としている以上は意地になって断る方が不自然だ。仕方なく一つ貰って、口に運ぶ。何も知らなければ、ただの美味い食事だった。薄い皮のようなパンと、塩に漬けこんだ肉と香草の取り合わせが絶妙なのだが、これが毒だと判明した今は噛むごとに不安になる。
そんなディアの様子を、ミマは怪訝そうに、アクトは呆れて見ていた。どうやら思っていたことは全部顔に出ていたらしい。
「嫌いなものでも入ってたのか、兄ちゃん」
「気にしなくていいよ、ミマ。こいつは何でも食えるから。でもこれ、コーヒー欲しくなるね」
買ってくるよ、とアクトはその場を離れてしまう。きちんと一つ食べきったあとだから、逃げるのか、とも言えない。そもそもそんなことは、ミマの前では口にできない。
車中での推理は、とても子供には聞かせられないものだった。だが、子供のために早く何とかしなくてはならなかった。ミマが負う傷がせめて少しでも軽く済むように――真実を暴けば、どうあがいたってこの子供は巻き込まれてしまう。
「ねえ、兄ちゃん」
ミマに急に顔を覗きこまれ、ディアは思わず後ずさりしそうになった。こちらの考えていることがばれたのか、と思ったが、そうではなかった。
「今まで何人もの軍人がこの村に来たけど、盗賊を捕まえることができなかった。兄ちゃんたちもたぶんそうなるだろうけど、そういうときってさ、軍はどうするの。依頼した村から金取って終わり?」
「……あー、そういうふうに見えるよな。実際解決してないんだから、言い訳しようがねぇけど」
これが意地の悪い質問であると、ミマはわかっている。だからアクトのいない間に、ディアに尋ねたのだ。けれどもそれは、おそらくは多くの人の疑問で、軍が一定層から嫌われる原因でもある。尋ねるのは、悪いことではない。
「一応、ちゃんと記録はとってある。依頼された内容だけじゃなく、その時々で気候はどうだったか、どんな人間がいたかとか。それが次に役立つはずだって思いながら、見てきたことや聞いてきたことを資料にする。俺は見てねぇけどな。アクトと組むときは、あいつが読みこんだ方が仕事が楽だ」
「見てないのかよ。仕事しろよな、金貰ってんだから」
「任務が果たせなけりゃ、礼金は俺たちの懐には入らねぇ。その辺の処理は詳しくねぇんだよな」
「うわ、ダメだこの軍人」
ミマが呆れるのも無理はない。話していて改めて意識したが、ディアはエルニーニャ軍の仕組みをあまり理解していなかった。依頼がどのように受け付けられ、入ってくる金がどう処理されているのか、詳細にはわからない。アクトなら、きっと全部分かった上で行動しているのだろう。
「兄ちゃんは、なんかわかりやすい。軍人っぽくないし、頭も悪そう」
「んだとコラ」
反射的に乱暴な言葉が出るが、ミマの声と表情は、からかっているようなものではなかった。
「でも、アクト姉ちゃんはなんか、ときどき怖いな。優しいけど、何を見てるのかわからない。軍人っぽくないのは、兄ちゃんと似てるけど」
この子供は思っていたよりも鋭い。こいつは、とディアは内心で溜息を吐いた。こいつは――ミマは、きっとこの村で起きている全てを、いずれ察することになる。たとえ、自分たちが今回の任務に失敗しても。それなら、ここできれいに片付けてしまったほうが、この子供のためだ。
たとえ、深く傷ついても。軍を恨むようになっても。恨まれるのが軍だけならば、問題はない。
「ミマ。お前、村長やユリが好きか」
「好きだよ。オレの面倒見てくれるし」
「そうか、わかった」
嫌われるのは慣れている。こんな子供に恨まれたところで、そう大きく人生が変わることもないだろう。
ディアがおそらく毒草入りであろうサンドイッチをもう一つ食べ始めたところで、アクトが戻ってきた。手には器用に、カップが三つ。全て昨日ここに到着した時に飲んだものと同じコーヒーだ。ミマには砂糖とミルクがたっぷり入ったものを、ディアには濃いブラックコーヒーを渡し、アクト自身は薄くて砂糖の入ったものをとっておく。
「炭鉱で働いてる人に会った。石炭、昔ほどは採れなくなってるんだって?」
唐突に切り出すアクトに、ミマは曖昧に頷いた。
「おっちゃんたちはそう言うけど、オレにはよくわかんない。十分たくさん採れてると思うんだけどな」
「資源には限りがあるからね。尽きて炭鉱が閉鎖されるようなことになれば、この村は他の方法で生き残っていかなくちゃならない」
「他の方法って?」
ミマの問いに、アクトは答えなかった。薄く微笑んでから、カップに口をつけ、それっきり。頭に疑問符を浮かべるミマは、しかし黙って自分のコーヒーを飲んだ。
カップとバスケットが空になる頃、アクトはミマに言った。
「ミマ、今夜はマーケットで何か奢るよ。美味しそうなのがあったから、そっちが気になってさ」
「え、でも、村長さんの家にいればユリ姉ちゃんが美味い飯作ってくれるよ」
「マーケットでものを買えば、少しは村に金が入るだろ。盗賊が出てこない以上、おれたちは仕事ができそうにない。だったらせめて、村のためになることをしたい」
村のために。ミマはその言葉に頬を染めた。先ほどトコルタの持つ資源に限りがあるなどという話を聞いたばかりだ。この小さなことも、もしかすると村の活力につながるかもしれない。――と思わせるように誘導したのだと、ディアは少し遅れて気がついた。
本来の目的は、これ以上ユリの料理を口にしないこと。仕事ができそうにないなどというのは嘘だ。アクトは、そしてディアも、意地でも任務を遂行するつもりだった。


月が昇る、冷えた闇。トコルタの人々が寝静まった頃、ディアは軍用車の前にいた。助手席にはすでに防寒具の塊が乗っており、こちらが運転席に座るのを待っている。
――その作戦で本当に良いんだな?
ここに来る前に、相方には何度も確認した。
――夕食をとらなかったことで、たぶん気づかれてる。今夜中に仕掛けてくる可能性は高い。それにお前、有名人だし。
アクトは確信を持っていた。今夜をトコルタで過ごそうとすれば、中央司令部には戻れなくなる。証拠を掴んだ軍人を、敵は逃がしたくないはずだ。
こっそり村長邸を抜け出して、村を出る。何事もなければ中央へ急ぎ、応援を呼ぶ。それで話はまとまった。
エンジンの音が静寂の中に響き、ディアは荒野へと車を走らせる。アクセルはいっぱいに踏むが、この車はさほどスピードが出ない。普段、もっと速く、などと無茶なことを言うアクトの気持ちが、今だけはわかる。さっさとトコルタから離れたい。少しでも遠くに行きたい。
「……ったく、恐ろしいぜ。どうしてこうも、予想通りの展開になるんだろうな」
どうせ行く手を阻まれるなら、罪のない人々を巻き込みたくない。
軍用車よりもスピードを上げ、何台かの車が並走してくる。こちらを追い抜かしたかと思うと進行方向に滑り込んできて、その窓に何かが光る。銃だ、と頭が判断するより先に体が動く。こんなことはよくあることだ。何度修羅場を潜り抜けてきたと思っている。
急ブレーキをかけると軍用車のタイヤは地面を滑った。まだ動きを止めないうちに、一発、二発と銃弾が撃ち込まれ、助手席に命中した。助手席に乗っていたものには穴があいて、ぐったりとしている。
三発目は運転席に命中した。すでに誰もいないそこに。
「けど、こういう展開のほうが俺にとっちゃあ面白ぇな。ようやく思いっきり暴れられるぜ」
軍用車から転がり出て立ち上がったディアの手にはライフル。エルニーニャ軍支給のものだが、使い手の改造によりその威力を増している。放たれた弾丸は冷たい空気を裂いて走り、先ほどこちらを狙って来た車に命中した。激しい音がして、車が煙をあげはじめると、乗っていた者たちが飛び出してくる。
有事の際にはその場で対応し、絶対に逃がさないこと。それがディアに任された仕事だ。荒野の荒事に慣れた人間にしかできない、重要な役割。
他の車も同様に破壊し、敵を全て誘き出す。ここからが本番だ。――左頬に傷のある悪名高き軍人、ディア・ヴィオラセントの本領を、月夜の荒野は最大限に発揮させてくれる。

月を背にしたこの姿を、相手は驚愕の表情で見ている。大方今頃は片付いているだろうと思って外に出てみたのだろうが、その行動も含めてこちらは見通していた。どうしてか、人の行動パターンというものはよく観察すれば予想できるほどにわかりやすく単純だ。
「どうしてここに、って思った?」
冬の空気よりも冷たい声に、相手――ユリは眉を歪ませる。今夜中に軍人たちは村を出ていくだろうと、その読みはなかなか良かった。わざと危険薬物の原料を台所に置いておくことで、そう仕向けたのかもしれない。だが、一つだけ見落としていた。
こちらは二人いるのだということを。
「村の外に盗賊たちを配備しているだろう、ということはわかってた。二人でかかっても相手にするのは難しい人数を揃えるだろうということも。けど、残念だったね。どうせ『中央司令部の傷の男』をリサーチするなら、どれくらい強くて、どれだけ暴れるのが好きかも押さえておかなきゃ」
アクトが微かに笑うと、ユリは怒りの形相を見せる。その手がそっと腰に伸びたのも、見逃してはいない。次の瞬間、冷えた空気に金属のぶつかる音が響いた。
ナイフを振り上げて向かってきたユリを、アクトも愛用の銀細工の施されたナイフで止める。そして、ねえ、と囁いた。
「嘘が多すぎたね、ユリさん。いや、本当の名前はなんだろう。女性名のわけないよね。……お前は男だから」
ナイフを振り払うと、ユリは飛び退いた。そして月夜に、美しくも歪んだ笑みを照らし出す。
「いつからわかっていた?」
「最初から疑ってた。なにしろ、おれをすぐに男だって見抜いた人間は、今までほとんどいなかったから。もしかしたら仲間かなって」
村長邸に到着して、部屋に案内されたとき。ユリは迷わず、何も訊かずに、アクトとディアを同室にした。他にも客室があることは確認済みだ。
大抵の人間はアクトの性別を女性に間違える。ミマが今でもそうであるように。したがって、普段の任務で部屋を借りたときは、いかにも男らしいディアとは部屋を分けるか、異性と同室でも構わないかどうか尋ねられる。だが、今回はそれがなかった。
「盗賊から逃げてきたってのも、あんまり自然だとは思えなかった。男でもひどい目に遭うときは遭う。でもそのあと女のふりをし続けるのは、どうも納得がいかない。盗賊は村の外に出るんだし、やっぱり欺きたかったのは村の人々だったんじゃない? ……って問い質すつもりだったんだけど、思ってたよりお前が短気で助かった」
「さっさと軍人なんか追いだしたかったんでね」
「ほら、また嘘。秘密を知られたから生かしておきたくなかった、が正解だろ。お前は料理にわざと毒性を持つ植物を混ぜていた。規制がかかってるから、今ではめったに手に入らないはずなんだよね、あれ」
この辺りに自然に生えているものでもない、と付け加えようとしたところで、再びユリが斬りかかってくる。それをアクトは素早くかわし、ナイフを構え直した。そしてさらに続ける。
「入手するなら人工栽培するしかない。余分に作っておけば売ることもできる。毒にも薬にもなるあの植物は、結構いい収入になったはずだ。もちろん堂々と売りさばくことはできない。だから盗賊と称した取引組織が必要だった。村の多くの人に協力関係がばれないようにしていただろうけれど、協力者もいたはずだ。それが」
再び攻撃してきたユリを右手の銀のナイフで止め、左手の軍支給のナイフでもう一人の襲撃者の相手をする。そちらを睨むと、冷たい視線が同じように返ってきた。
「……フブさん。以前に軍がここに来たとき、村長邸にいたのはあなたではなかった」
軍の記録では、村長は別の人間だった。アクトたちがここに来る前に変わったのだ。直近のことではない。おそらくは、前回の依頼の直後。資料にユリに関する記述がなかったことから、ユリがこの村に来たのもその頃だろう。
「お前たちは協力関係にあった。邪魔者は軍の目の届かないところで消した。炭鉱での事故に見せかけてもいいし、あるいは平原で盗賊にやられたことにしてもいい」
家のドアが開いている。その向こうに気配がある。アクトは両手にかかる力を跳ね飛ばし、飛び退き、気配に向かって告げた。
「ミマの父親はお前たちが使っていた運び屋だったんだろう。いや、もっと前から村側にいた、取引の協力者だった。けれどもだんだんその仕事に嫌気がさしてきて、一か月前には協力を拒んだ。彼から軍に情報が漏れることを恐れたお前たちは、盗賊を使って始末することにした。一切合切を奪ったのは、取引の痕跡を残さないため。それともう一つ、殺したタイミングを偽るためだろう。ミマは父親が村に戻るときに襲われたと認識しているけれど、そうじゃない。村を出て中央に駆けこまれたら困るから、行かせてはいけない。……お父さんはどこにも行けずに、こいつらに殺されたんだよ、ミマ」
ドアの向こうで、床に何かが落ちたような音がした。わかっている。ずっと話を聞いていたミマが、膝を崩した音だった。

荒野に転がるのは、顔が腫れあがった盗賊たち。それらを集めて縛り上げる。車載無線で、軍にはすでに連絡済みだ。先ほど襤褸切れになってしまったアクトの防寒具を旗代わりに、目印はつけてある。
「逃げられることはねぇだろ、たぶん」
心配なら、すぐに戻って来ればいい。アクトが聞いたら怒りそうな大雑把な仕事だが、仕方ない。早く村へ引き返さなければ、そのアクトが危ないのだから。
軍用車に乗り込み、トコルタへ向かう。今頃はユリとの一騎打ちか、それとも他の協力者とやらも加わっているか。どうか倒れていてくれるなよと、それだけを願う。
――そんなに弱い奴じゃねぇけど、相手の力量がわかんねぇし。
それに危機にあるのはアクトだけではない。村長邸にはミマがいる。アクトは誰よりあの子供を助けたがっていた。最初からずっと。
家族を失った子供に、自分たちを重ねていたのかもしれない。都合のいいように利用してもいたけれど、ミマに危害が及ばないように気をつけていた。だが、傷つけないのは無理だと悟ったのだ。どうあがいたって、真実はミマの心を抉る。
それでも「生き残っていかなくちゃいけない」――あれは村のことではなく、ミマのことだった。心の中のあらゆるものが尽きても、それでも生きていくための術を探しだして、前に進む。大人の押しつけだと言われてしまえばそれまでだが、ミマにはそうしてほしかった。
村に入って、車を停める。村長邸へ走りながら、ディアはライフルを構えた。
――間に合え!
月明かりを頼りに、標的を見極める。まだ戦いが続いていたことに安堵と感心を覚え、それから。
高らかに二発、銃声が響いた。


中央軍と近隣の駐在たちが、ぞろぞろとトコルタに入ってくる。フブとユリを連行してから、彼らは村長邸や他の住宅を隅々まで調べ始めた。
盗賊一味も捕まったらしい。顔面を腫らしているせいで本当の人相がわかりにくい、と偉そうな軍人が文句を言っていた。
その光景を、ミマはぼんやりと見ていた。冬の早朝の空はまだ暗い。けれどもきっと朝日が昇ろうと、寝付くことはできないだろう。頭の中で、聞いたことと見たことがごちゃごちゃになりながら繰り返し再生されている。
どうして父が殺されなくてはならなかったのか、その理由を知りたいと思っていたのは本当だ。けれども、結末を望んでいたわけではない。フブはみなしごになったミマをすぐに引き取ってくれたし、ユリはいつでも優しかった。食事に毒が入っているなんて、考えたこともなかった。しかし彼らは不正をしていた悪人であり、生前の父もそれに加担していたのだ。ただの憶測ではなく、どうやらこれが真実らしいと、軍人たちがフブを問い質す中でわかった。
思えば荷運びをしていた父は、いつも疲れていた。仕事が大変だからだと思っていたが、もしかして、やりたくない仕事をさせられていたからなのだろうか。そうならまだいい。父を、唯一の肉親だった人を、悪人だと思いたくない。
「君、そこにいると邪魔になる。どこかの家に世話になって、少し眠りなさい。子供なんだから」
軍人の一人が声をかけてくる。世話になっていた家は捜索の真っ最中で、他に頼れる家はない。父のことが村の人に知られてしまったら、ミマは可哀想な子供ではなく、犯罪者の子供として扱われるかもしれない。可哀想、も嫌だったけれど、悪者になるのはもっと嫌だ。
それに大人のいうことを聞くのも、今は素直にできない。邪魔になったとしても、足がここを動こうとしない。
「人の家漁っておいて、その言い方はないんじゃないの」
そこに、凛とした声が響いた。先ほどミマにつらい現実を言って聞かせた声と同じものだ。
「ロストート、こちらはお前たちの協力要請通りにしているだけなんだが」
「協力要請通り? おれたちのせいにしないでよ」
戦っているときは上着すら羽織っていなかったのに、今は大きめのコートを着て首にストールをぐるぐる巻きにしている。ミマはいよいよ、このアクトという人間がわからなくなっていた。ずっと女性だと思っていたが、どうやら男らしいということがわかって、そのことにも混乱している。
「ミマ、ここ寒いよ。おれたちの車なら、少しは温かいと思う」
「行かない」
とにかく、大人というものはわからない。わからないから、信用もできない。アクトのほうを見ることなく、ミマはその場に立ち尽くす。そうしていると、どうしてかアクトもそこから動かなかった。
「……姉ちゃん、じゃない、兄ちゃんか。仕事しないの?」
「してるよ。ミマを怖い大人から守る仕事。……おれも怖い大人かもしれないけどさ」
その通りだ、と心の中で返事をする。この人たちさえ来なければ、こんな思いをすることはなかった。そのかわり、父の死の真相を突き止めることもなかったけれど。知りたいという気持ちがいつか絆されて、体中に毒がまわっていくのを知らないまま、暮らしていたかもしれないけれど。
村長邸の脇でアクトと並んで立っていると、強面の男が戻ってきた。盗賊たちを中央軍に引き渡すため、しばらく村を離れていたのだ。
「アクト、こっちは片付いたぜ。なんだミマ、不細工な顔してんなよ」
「うるせえ。悪人面の兄ちゃんには言われたくねえや」
見た目なら十分、ディアのほうが怖い大人なのに。どうしてか、こちらにはすぐに返事ができた。中身は外見ほど悪人っぽくないからかもしれない。わからないことはわからないと正直に言い、言葉が乱暴だからこちらも遠慮しなくていい。そんなところが今ではとっつきやすそうだった。
「俺は悪人面でもいいけどよ。女は愛嬌あったほうが得だぜ」
「余計なお世話だ」
「なんだ、ディア、ミマが女の子だって気づいてたんだ。てっきり男の子だと思ってるかと」
「見りゃわかる」
口調や振る舞いのせいか、幼いミマは男の子と間違えられることが多かった。けれどもこの二人の軍人は、どうやら最初からミマを女の子として認識していたらしい。変な人たちだ。見た目と性格があべこべだし、本来の仕事よりもこんな子供に構っている。
「まあ、損得はおいといてだな。ミマ、お前はこれからどうしたい? この村でなんとかして暮らし続けるか、それとも中央に行って施設に入るか。俺らから提案できるのはこれぐらいだ」
「オレは……」
全部どうでもいい。大人が勝手に決めたら、それに従うしかないのが子供なのだ。それに、誰を信じたらいいのかわからないのに、この先を生きていくことを考えるのは苦しい。どうしても生きていかなければならないのかと、生きていても仕方ないだろうと、そんな思いが頭に居座っている。
「今は何も考えたくないかもしれないけど」
それを見透かしたように、アクトが言う。
「もしかしたらそれは、何年も続くかもしれないけど。でも、その何年か先にちょっといいことが一つくらいはあるかもしれない。たとえば家族全員を亡くした人間が良い人に出会って面倒を見てもらったり、虐待を受け続けてきた人間が十年以上経ってから引き上げられたりするみたいに」
そんな物語みたいなことが都合よく起きるわけがない。そう反論しようとして顔を上げると、アクトとディアが揃ってミマを見ていた。笑顔ではなかったけれど、その瞳は優しい。
「ミマにとっていいことがあるのはもちろんだけど、おれは成長したミマが見てみたい」
「ちんちくりんのガキがどんなふうに育つのか見ものだな」
勝手なことを言う。だけどこの人たちは、嘘を吐かない。黙っていることはあっても、偽ることはない。物語みたいな話も、本当にあったことなのかもしれない。だったら、もしかしたら、自分にも。
期待すればするほど傷つくかもしれない。池のほとりで泣くようなことが、これからもあるかもしれない。でもそんな日々を、越えてきた人がいるのなら。
ミマにも越えられる日が来ると、信じている人が少なくとも二人はいると、ずっと憶えていれば。
「オレは、これからどうしたらいいのかわかんねえ。わかんねえけど、兄ちゃんたちが何とかなるってんなら……」
考えてみてもいい。そう告げると、何年かかってもいい、と言われた。

荒野を走る車内で、はたして何度の「寒い」が出ただろうか。防寒具をほとんどだめにしてしまったアクトは、すこぶる機嫌が悪い。
「だから全部使っていいのかって確認しただろうが」
「あのときはいいと思ったんだよ、勢いで。でも大間違いだった。こんな季節に外での任務なんかするもんじゃない」
時に千里眼でも持っているのかというほど頭の切れるアクトだが、仕事が終われば文句ばかりだ。この口をふさぐ方法はあるが、ディアは運転中なので実行できない。そのためにわざわざ車を停めるより、さっさと中央に戻って温まったほうがいい。
「帰ったらベッドで温めてやるよ。汗かくくらい激しくやろうぜ」
「なんかその下品な台詞も久々に聞いた。一応お前も、子供の前ではちゃんと取り繕うんだよな」
「ガキの前で思ったことそのまま言ったら、お前が怒るだろうが」
当然だろ、と言ってから、また「寒い」の数が増える。首都まではあともう少しなのだが、そう思えば余計に遠い気がするのは何故だろう。
「ディア、一つ嘘ついただろ」
少しの間黙ったかと思えば、唐突にそんなことを言われる。
「嘘?」
「ミマが女の子だって、見りゃわかるって。見ただけじゃわかってなかったくせに」
ディアは正直に言葉に詰まった。たしかに最初、ディアはミマを男の子だと思っていた。女の子なのでは、と思ったのは、アクトの態度を思い返してからだ。子供に接するだけにしては、妙に甘かった。
「お前は最初から気づいてたのかよ」
「もちろん。自分が間違えられて面倒な分、人には気を遣うんでね」
ユリのことだって、ディアはアクトから聞くまでわかっていなかったのだ。喉仏や肩幅、胸などのわかりやすい部分は服で巧妙に隠されていたし、アクトとは違う種類の美人だった。普通はわからないだろう。
「お前が相方で助かった」
「そりゃどうも。おれもディアが相方で良かったよ、ピンチにすぐ駆けつけてくれるし」
「棒読みすんな。良かったと思うならもっと感謝してみろってんだ」
「はいはい、あとでね。いいから早く帰ろう」
うるさい二人を乗せて、軍用車は首都へ向かう。寒々しい荒野から、人里へ。
二人の運命が重なった場所を目指して。



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posted by キルハ制作委員会 at 11:36| Comment(0) | 小ネタ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月20日

家族の歩み

珍しく客はいない。急ぐような用事もない。今が好機だと、今しかないと思った。呆れられるなら、それはそれで構わない。これが別れのきっかけになってしまったら、仕方がないと受け入れよう。
「ニア、話があるんだ。大事な話」
「大事な話? 仕事と私生活、どっちの?」
「両方」
大事だと言えば、ニアは何をしていても、ちゃんとこちらを向いてくれる。どうしたの、と落ち着いて尋ねてくれる。その声で、ルーファはやっと深呼吸ができるのだった。
「軍を辞めて、母さんの実家の会社で働こうと思うんだ。昔からずっと考えてて、そろそろちゃんと決めるべきだな、と」
ルーファの階級は大将。それも部下を大勢抱えて現場で指揮を執る立場だ。リーダーとしての資質を見込まれ、将官室では次席の扱いになっている。そんな自分が急に辞められるわけがないとわかっていたから、早くに道を決めておく必要があった。
「そっか、もうそういうことを考える時期なんだね。二十代も折り返しちゃったし、そろそろかもとは思ってたけど」
旧知の仲であるニアなら、それはわかってくれる。そのことには確信があった。問題はそれからだ。この提案を、可能性として少しでも考えてくれるだろうか。
「それで、軍を辞めたら当然寮も出ることになるだろ。実家には帰らないで、部屋を借りようと思ってるんだ。計算したんだけど、分譲を買うまではちょっと難しくて」
「うん、それで?」
これが前置きであることも、ニアはちゃんと理解していた。もしかしたらこちらが言う前に、言いたいことを見抜き、答えをとっくに用意しているかもしれない。
どんな答えでも、聞かなければ。そうしなければ前には進めない。もう一度深呼吸をしてから、ルーファはニアを真っ直ぐに見た。
「それでもよければ、だけど。俺と一緒に来てくれないか。一緒に暮らそう、ニア」
見開いた目に海が見えた。風が穏やかで、晴れた日の水面。きれいだ、と思った。どんな答えが返ってきても、この色はきっと忘れないだろうと。
見惚れていると、ニアが口を開いた。
「いいよ」
「そうだよな、普通悩むよな……って、え、何て」
我に返って尋ね返すと、だから、と苦笑された。
「いいよって。一緒に暮らそうって言ったんだよ。今更悩むようなことかな」
普通は悩むだろう。ニアだって大将の地位にいて、軍の中でも癖のある人間をまとめるエキスパートとしての立場を確立させている(そう仕向けたのは他でもないルーファだが)。寮を離れれば仕事がしにくくなるかもしれない。
けれども、彼は笑って続けた。
「実は僕も、辞め時を考えてたんだ。後輩たちは立派に育ったし、イリスだって尉官になった。僕の仕事は、正直ここまでだと思う。それに、絵の仕事を本格的にやりたいんだよね。軍にいるままじゃ、受けたい仕事をきちんととれないから」
二十代になってから、ニアの描く絵が少しずつ認められ始めたのは、ルーファも見てきたので知っている。軍人として働きながら、少しだけ絵の仕事をしていたことも。きっともっと大きな仕事を引き受ければ、それで食べていくことはできる。
「アトリエとか贅沢なこと言わないけど、絵を描く場所はちゃんと欲しかったし。ルーが誘ってくれるなら都合がいい」
「なんだ、そういう都合か」
はは、と渇いた笑いが漏れた。別にルーファと一緒にいたいから了承したわけではなく、ニアにもやりたいことがあったのだ。そこへ提案をしたという点では、たしかにタイミングは良かった。けれどもさすがに、真意までは汲み取ってもらえなかったか。
「なんで拗ねるの。ルーじゃなきゃ一緒に暮らそうとは思わないよ。絵は一人でも描けるんだし」
「いや、拗ねてない。拗ねてないけど、例えばレヴィとかが同じ話を持ち掛けたら」
「まずありえない話だけど、即答はしないだろうね。……ねえ、ルー。一緒に暮らそうって、つまりプロポーズでいいんだよね?」
ほんの少し照れたような笑顔。なんだ、ちゃんとわかってくれていた。顔が熱くなるのを感じながら、ルーファは頷いた。
「そのつもりだった。ちゃんと伝わってたんだな」
「何年一緒にいると思ってるの。だから僕、いいよ、って言ったじゃない」
「だって仕事の話始めるから」
「仕事の話から始めたのはルーのほうでしょう」
十歳のときから同じ部屋で暮らし、惚れ込んでしまった人は、いつのまにか口では勝てない相手になっていた。緊張がどっと解けて、大きく息を吐いたルーファに、ニアは重ねて言う。
「よろしくね、ルー」
言いながら優しく額をぶつけ、それから。


「……夢か」
ついベタな台詞が出た。しかし、懐かしい夢を見たものだ。おそるおそる隣を見て、ホッとする。夢だけど、あれは紛れもなく現実の回想だった。
ルーファのすぐ横には可愛い子供がいて、さらに隣にはニアがいる。この部屋に越してくるまでの苦労と、越してきてからの様々なことは、夢などではない。
実際、ルーファはともかく、ニアを軍籍から外すというのは酷く面倒なことだった。実家が軍家だからということではない。昔起こした事件のために、在籍というよりは軍で身柄を預かって監視しているという扱いだったせいだ。多くの人を説得して回って、やっと辞めることを認められたと思ったら、まもなくして当時の大総統が失踪した。
――気にせず辞めなよ、決めたことでしょ。あとは任せろ。
そう言ってくれた、親友でありライバルでもあったレヴィアンスは、言わずもがな現大総統だ。
あれから三年の月日が流れ、当時と状況は変わった。二人暮らしは三人暮らしになり、仕事も今のところは順調。未だに軍人時代の癖が抜けないことはあるが、ルーファたちは一般市民として幸せな生活を送っている。
これでめでたしめでたし……と終わるわけではない。生活が続いていく限り。
「んー……、ルー、起きた?」
「ニアは寝てていいぞ。どうせあんまり寝てないんだろ。俺も休みだし、ゆっくりしたら」
「そうもいかないんだよ。まだ書類片付いてないんだ。他はなんとかなっても、これは期限破れない」
ニアがベッドからおりると、同時にニールも目を覚ます。
「おはようございます。ルーファさん、もう起きます? できたら朝ごはんの支度を手伝ってほしいんですけど」
家族になって一年経ったこの子は、元々持っていたのであろうしっかり者の性格を、どんどん良い方に伸ばしている。親が育てているというよりは、自分ですくすく育っている。
「手伝うけど、休みだからそんなに急がなくても」
「だめなんです。ニアさんに先に朝ごはん食べてもらわないと」
「そうか、何も食べずに延々と仕事し出すもんな」
三人家族の一日が、今日も始まる。

大急ぎで朝食を作り、三人揃って食べた後、案の定ニアは仕事を始めた。ルーファが休みでも、自由業のニアは一緒に休むというわけにいかない。忙しいときは今日のように、ニールが朝食の支度をしているあいだにニアに身支度を整えさせる。ルーファができる朝食の手伝いといえば、ニールの指示に従ってパンをトースターに入れたり、食器を出したりすることくらいだ。
ニールが来るまでどんな生活をしていたのかは記憶がない。子供を迎えることで、あらゆる意味で生活が一変した。子供のために、と一旦は整えた生活のリズムは、次第に子供によって、よりやりやすいかたちに変えられていった。
「ずぼらな親でごめんな」
「違いますよ。僕が何かしてないと落ち着かないだけです」
その「何か」が大いに役に立っていて、生活に欠かせなくなってしまっている。子離れできるか今から不安になりながら、ルーファは食器を片付ける。その傍らで、ニールはもう昼食の準備をしていた。「すぐに食べられるもの」にしてくれるという。
「お母さんが仕事で忙しい人だったので、こういうのは慣れてるんです」
「全部自分でやってたんだもんな。また全部やらせて申し訳ない」
「半分は趣味ですから。それに、色々なことができたほうが、きっといつか誰かの助けになるんじゃないかなって。僕にはエイマルちゃんやイリスさんほどの体力も、ニアさんみたいな強さも、ルーファさんみたいな丈夫な体もないから、他のことで頑張りたいです」
例に挙げてる人がほとんど普通じゃないだけだぞ、と言うのはやめた。それより、この子を褒めるべきだ。それから。
「ニールはもう色々なことができてて偉いよ。でも、体力とか筋肉とかは鍛えればつくから、今から諦めなくたっていい」
「そうですか? じゃあ、僕も何かやってみようかな」
「やりたいことがあったら言え。できる限り協力する」
ルーファが親としてできることは、それくらいだ。父が剣技を教えてくれたように、自分も何か教えられるようなことがあればいいのだが。
あれこれ考え、そういえば、と一つ思い出した。自分では長いこと役立てていないが、知識としてはなんとか残っている。
「ニール、勉強好きだよな」
「はい。ここに来てから好きなだけできるようになったので感謝してます」
「薬学に興味ないか? 俺がわかるのは、せいぜいが薬草の種類とか効能とかくらいだけど」
これも父に教わったものだ。けれどもルーファ自身は、昔も今もあまり実践はしていない。軍人時代にはもっと詳しい先輩がいたし、今はそれよりも自分の仕事で頭がいっぱいだ。それでも、少しくらいは。
「僕もさわりだけなら、カイさんに教わりましたよ。あとエイマルちゃんが図鑑を暗記してるので、それを話してくれました」
せっかく見つけたものも、先を越されていた。別にルーファに教わらなくても、ニールの周りは博識な人が揃っている。親の出番はなかなかない。
「父さんはともかく、エイマルか。敵わないな、あの子には」
「知識欲がすごいんです。それを誰かに話したいって気持ちも。最近は近所の子に話しかける練習とか、ノーザリアの勉強とかしてるみたいです」
子供はどんどん成長する。色々なものを吸収する。そうしていつかは、親元を離れていく。エイマルは来年、今住んでいるダスクタイトの家を出て、ダイのところへ行くらしい。そういうこともあるんだな、とついこのあいだ感心したばかりだった。

正午をまわる頃にはニアの仕事は一段落していた。いろいろな具が入ったおむすびを食べながら労う。
台所での話をニアはずっと聞いていたらしく、話題はニールの興味関心についてになる。甘い炒り玉子の入ったおむすびをしげしげと見つめて言う。
「料理は好きなの? よそからも教わってくるよね」
「好きなんだと思います。同じ名前の料理でも、家庭によってちょっとずつ味が違うのが面白いです」
にこにこして答えるニールに、ニアがふむふむと頷く。
「違うのに美味しいって不思議だよね。僕が作ってもあんまり美味しくならないのに」
「いや、ニアの飯も食えるようになった」
「ルー、それ褒めてないよね」
うっかり口を滑らせた。しかし本当に、一年前に比べたら上達したのだ。ニールにきちんとしたものを食べさせなければという決意のもとで、ニアはしばらく特訓をしていた。ニールのほうが料理ができるということが判明したのは、忙しくなってきてからである。
「でも僕、ニアさんが作ってくれるごはん、好きですよ」
「ありがとう。また時間ができたら、特訓再開するから」
今年に入ってから――ニールの誕生日を過ぎてすぐの頃から、ニアは仕事の量を増やし、スケジュールをいっぱいいっぱいに詰め始めた。昨年の夏にニールを迎えて以降、しばらく家でできる仕事のみを引き受け、時間に余裕を作っていたのだが、それを辞めたのだ。
心配したルーファに、ニアは「もう大丈夫だと思ったから、元に戻すだけ」と言った。環境に慣れ、一つ歳を重ねたニールを、常に気にしていなくても良いだろう、という判断だった。
ニールは忙しくなるならと、家のことをより積極的にするようになった。負担じゃないか、とルーファが尋ねると、首を横に振った。無理をしているのではと思ったが、そうでもないらしい。家事だけでなくニアの仕事の手伝いもしていて、仕事から帰ってきたルーファに嬉しそうに報告してくれる。
「書類関係が片付いたし、しばらくはのんびりできるかも。明日は僕がご飯作ろうか」
「本当ですか。じゃあ、今のうちにメニュー考えましょう。ルーファさん、何食べたいですか?」
「俺? ……カレーかな」
「今、無難なの探したでしょう」
「そんなことない」
「僕もカレー食べたいです。唐辛子と胡椒は少なめで」
もう少し甘やかしても、とか、世話を焼いても、とか。ときどきそう思うのだが、しっかり者の我が子にはあまり必要なさそうだ。

午後、ニールが出かけていった。エイマルと遊ぶのだという。
ニアは何か描き始め、ルーファはその向かいで新聞を広げる。二人きりの時間は久しぶりだ。
「のんびりできるんじゃなかったのか」
「のんびりしてるよ。これ、急いでないもの」
何かさらさらと描いては首を捻り、また描く。しばらくそれを続けてから、「ルー」と呼ぶ。
「この中だったら、どれがいい?」
顔を上げたルーファの目に、鉛筆画が映る。描かれているのは、三種類の指輪だった。
「作るのか」
「うん、少し時間ができるから。どうかな、好きなデザインある?」
絵を描くだけがニアの仕事ではない。少数ではあるがアクセサリーなどを作ることもする。たとえば、レヴィアンスはニアに結婚指輪を依頼した。何も装飾のついていないシンプルなもののように見えるが、裏に細かい彫りものをしてある、実はかなり凝ったものだ。
アクセサリーは自分で好きなように作る場合と、依頼主とじっくり相談をして作る場合とがある。今回のは、急がないということだし、前者だろうか。
「ニアが好きなの作ったら?」
「僕だけじゃだめなんだよ。ルーとニールと相談しなきゃ」
「ニールも?」
驚いて見た表情は、いつかのような照れた笑み。
「この一年、ニールのために何かしら作ったりしてきたけれど。ルーにはあんまりできなかったから。それと、レヴィの作ってるとき、ちょっといいなって思ったんだよね」
一緒に暮らそうと言って、それが実現してからも、「形」として残るものは持ってこなかった。ルーファは何度か贈ることを考えたのだけれど、ニアが左耳のカフス以外のアクセサリーをつけないのを知っていたから、そのたびに足踏みをしていた。
ニアから持ち掛けて来るなんて、考えもしなかった。
「普段はつけなくてもいいんだ。でも、ルーは会社での付き合いとかあるでしょう。そういうときに、なんというか、役に立つかなって」
ああ、そういうことか。つまりはレヴィアンスが結婚に踏み切った理由と同じようなものだ。周囲に「相手がいる」ということをわかってもらうため。ルーファもときどき困ったことがあって、そのたびに家族がいるのだということを説明しなければならなかったので、少々面倒だった。
一目でわかるものがあれば、気を持たせずに済む。たしかに指輪は便利なアイテムになるだろう。
「……なんてね。本当は、僕が証明がほしいだけなんだ」
「証明?」
そう、とニアが頷く。苦笑しながら、ごめん、と言う。
「そんなものなくても、ルーとニールと僕で家族なんだって、一年で感じてきたんだけど。でも、目に見えるものが欲しいなって思うようになったんだ。僕ら三人、傍目には家族だってなかなかわからない。名前だってみんな違う。だから、お揃いの何かが欲しかったんだ。僕がそういう環境で育ってきたから、そう思うだけかも」
ニアの家はわかりやすい。親子に血のつながりがあるし、容姿は遺伝している。誰が見ても家族だとわかる。でも、この家はそうではない。誰一人として似てはいないし、戸籍もばらばらだ。最初はそれでもかまわないと、ニールは自分の家の名前を持っているべきだと言ってきたニアは、今になって不安になってきたのだった。
見た目だけでも、誰にでもわかるように。「証明」はそのためのものだ。
「三人で同じものを持っていたいなって、そう思ったきっかけはレヴィだよ。羨ましかったんだよね。ほら、あれでいて、レヴィってちゃんとエトナちゃんのこと好きだから。指輪の注文してくるとき、結構楽しそうだったんだ」
「指輪なら、俺に贈らせてくれればいいのに」
ルーファだって思わなかったわけではない。一緒に暮らし始めたときから、そういうことができないかどうか考えていた。けれどもどんな指輪を見てもしっくりこなくて、おまけにニアは物作りをする仕事だから指輪なんて邪魔になるだろうと思い至ってしまって、踏み切れなかった。
しかしニアの描いたデザインは、これ以上ぴったりなものはないと感じた。求めていたものはこれなのだと。そしてこれを作れるのは、ニア本人だけ。結局は、ルーファが贈るということはできなかったのだ。
「……いや、ニアのじゃなきゃだめだな。それじゃ、俺がニアに注文するようにすればいいのか。指輪を三つ」
デザインは迷うな、と言ったルーファに、ニアはにっこりした。嬉しそうで、幸せそうな顔。この顔をずっと見ていたくて、一緒に生きたいと思った。この笑顔を守り続けたいと思った。
「では、承ります」
この笑顔を見て、いつか好きだと思ったんだ。

お土産をたくさん抱えて、ニールは家に帰ってきた。エイマルの家、ダスクタイト家からのお裾分けだ。今日の夕飯はこれで足りてしまうだろう。
「また新しい料理を教わってきたので、明後日作らせてください」
「明後日? 明日でもいいんだよ」
「明日はニアさんがカレーを作ってくれるんでしょう。僕、楽しみにしてるので」
貰って来たおかずを温めながら、ニールは歌うように言う。こんなにニアの作る料理を楽しみにしてくれた人がいただろうか。感激のあまり言葉が出なくなったニアの背中を、ルーファが軽く叩いた。
和やかな夕食の時間、ニアはニールに指輪を作ろうと考えていることを話した。家族三人、お揃いの物を持とうと。するとニールは、喜んで頷いてから、提案した。
「僕のは、大きめに作ってほしいです。将来もずっとつけられるように」
「じゃあ、今はどうするの」
「ブレスレットとか、そういうのにできますか? 本当はネックレスとかが見栄えがいいのかもしれませんけど、僕は首がだめなので……」
「できるよ。そうだね、それならニールのも大人のサイズで作ろうか。大きくなるのが楽しみだ」
それまで、ずっと見守っている。たとえ離れたとしても、家族として想っている。ニアのそんな気持ちがニールにも伝わったようで、二人は笑いあっている。
こんな幸福があるなんて、この生活が始まる前は想像できただろうか。現実は簡単に想像を超えてくる。昨夜の夢が現実だった頃の自分に教えたら、信じるだろうか。ルーファは心の中で独り言ち、笑みを浮かべた。
いつか思った以上の幸せを、明日からも続けていく。
「一緒に暮らして、良かったな」
零れた言葉を、大切な人たちは優しく掬いあげて。
「ね、だから僕、即答したでしょう」
「僕もここに来ることを決めて良かったです。お二人とも、大好きです」
両方の手を優しくとってくれるのだ。
これからも、よろしく。



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posted by キルハ制作委員会 at 13:30| Comment(0) | 小ネタ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月01日

少女の力は未来を拓く

エルニーニャ王国軍に所属する軍人の多くは若者だ。大総統にでもならない限り、遅くとも三十代の半ばには身体の衰えを察して引退するのが、暗黙の了解となっている。入隊は十歳から可能。まだ子供の時分から、軍という組織で、自らを鍛えつつ仕事をする。入隊前に養成学校に通う者もあれば、諸事情でほとんど何の教育も受けずに軍人となる者も少なくない。
入隊の際には試験が行われる。いかなるいきさつがあろうと、この試験では入隊希望者たちは平等に審査される。筆記試験と実技試験からなり、筆記では事務処理能力を、実技では体力と運動能力を試される。毎月多くの人々が試験を受けるために最寄りの司令部へ赴く。その多くは十歳になったばかりの子供たちだ。基本的には誕生日がくると試験が受けられることになっている。
「あたし、軍の入隊試験を受けたい」
十歳の誕生日をひと月後に控えた少女の発言に、家族は動きを止めた。軍に入りたいという子供に対する家族の反応は様々だが、このダスクタイト家では「いよいよ来たか」といったところだ。むしろ言うのが遅すぎるくらいだ。
「アンタ、一か月でどうにかできると思ってるの?」
母、グレイヴが尋ねると、娘――試験を受けたいと言った張本人であるエイマルは、即座に首肯した。
「だって、お母さんは一か月の訓練で軍に入れたんでしょう」
「それはそうだけど……」
元軍人であるグレイヴは、かつてたった一か月の剣技の訓練と筆記の勉強で、軍に入隊した。しかしそれは父、エイマルにとっては祖父にあたるブラックに、休む暇もなく叩き込まれた結果だった。また同じことができるかと問われれば、年齢を重ねたブラックには難しく、今は軍人養成学校で技能講師を務めているグレイヴでも可能だと断言できない。
けれどもエイマルはしっかりとした目をして言う。
「あたし、真剣だよ。入隊試験に一発で合格するつもりでいる。勉強なら、今までちゃんとしてきたから大丈夫。体力も自信あるよ。あとは技術だけなの」
たしかにエイマルは、同年代の子供たちと比べると、持っている知識量は抜きんでている。応用力もある。体を動かすのも好きだし、得意だ。それに周りは軍人ばかり。両親、祖父、親戚、姉のように慕う人など誰もが軍の関係者だ。憧れ、同じ場所に立ちたいと思うのも当然といえば当然だった。
「お母さん、あたしに稽古をつけて」
「……そりゃあ、アタシができることならそうしたいけど」
しかしグレイヴはすぐに返事ができない。稽古の時間はどうやって作るか、この子には何が適しているのか、そもそもこの子の父親はどう思うか……など、懸念事項がたくさんある。お母さん、と急かすエイマルを止めたのは、祖父、ブラックだった。
「そういうことを急に言われても、母さんだって困るんだ。オレも困ってる。エイマルは一か月で入隊試験に合格できるレベルに達したいんだな?」
「ちょっと違うかな。一か月で技術を磨いて、合格を確実にするの。あたし、今のままでもきっと入隊試験はパスできると思うんだ」
さらりと言い放つ孫に、ブラックは一瞬だけ怯む。その自信の源が何なのか、予想ができないわけではないけれど、本当に言葉にするとは。
「あたしの目的は入隊試験の合格なの。きちんと合格したいの。どんな厳しい訓練でも、しっかりやるよ。絶対に諦めないし、泣き言も言わない。だから一か月、あたしに協力してください」
深く頭を下げるエイマルを見て、ブラックとグレイヴは小さく溜息を吐く。ここまで言われて、協力しないなんて言えるわけがない。この家はそういう家庭だった。
「真面目に訓練するのね?」
「真面目にやるよ」
「一発合格するんだな?」
「するよ。そう決めたんだもの」
だったら急いで計画を立て、速やかに実行に移そう。三世代は頷き合い、まずはテーブルの上に紙を広げた。


「イリス、これに番号を順に振って紐で綴じて。542080001から」
レヴィアンスから九桁の数字とともに渡されたのは、顔写真付きの書類。あどけない子供が真面目な顔をしているのが、何枚も続いている。
「あ、生年月日よく見ておいてね。ちゃんと八月の試験までに十歳になってるかどうか」
「はーい。もうこんなに来てるんだね、来月の試験の申込み」
イリスには一目でわかった。同じものを、自分も昔用意した。これは毎月行われる、入隊試験の申込書。一般受験者は満十歳以上が対象となるこの試験は、毎月一回行われている。申し込みの締め切りは試験前日で、それまで書類整理はずっと続く。実はイリスが大総統補佐として任されている書類整理の多くが、この申込書の整理だった。ナンバリングの意味ももちろん知っている。前半五桁が年と月を表し、後半は受理順だ。
この時期はまだ少ないのでいい。受験者のピークは、軍人養成学校の卒業試験を兼ねる三月だ。したがって前の月である二月は、この作業だけで一日が終わってしまうこともある。処理するほうも大変だが、受験者はもっと大変だ。三月試験は激戦区。養成学校卒業がかかっている者たちと一般の受験者たちがぶつかり合う。人数が多い分、技術や頭脳はより高いレベルを求められる。続く四月、五月くらいまでは、養成学校の浪人生たちが試験に参加するので、一般受験者は気が抜けない。
それに比べたら、八月試験はまだ易しい。この時期に誕生日を迎える一般の子供の受験者と、ときどきわずかに残った養成学校浪人生、とうに十歳は過ぎた少年少女や、ごく稀に大人。求められるレベルは相対的に、春期の試験ほど高いものではなくなる――というのが傾向だ。
もちろん軍人になるための最低限のレベルは必要なので、全員が合格するわけではないのだが。
イリスが書類整理を始めると、ガードナーが思い出したように言った。
「イリスさんは、三月試験の実技トップでしたね」
「ああ、そうですよ。実家に行けば成績と合格証が残ってるはず」
「ぶっちぎりだったもんな。筆記はまあ……ごく平凡だったけど、一応伍長入隊できてるしいいか」
それはイリスの人生における自慢の一つ。入隊試験の実技の成績が群を抜いて良かったので、成績上位者と養成学校卒業者に許される伍長入隊ができたのだ。エルニーニャ軍は三等兵からのスタートが基本だが、伍長入隊は実力や経験を評価してそれを跳び越すことができる制度だ。イリスの兄、ニアも伍長入隊を果たしているが、こちらは実技も上位だったが筆記が誰よりも良かった。
「筆記試験は本当にお兄ちゃんのおかげとしか言いようがないね。お父さんもお母さんも勉強はちょっと苦手だったし」
「ニアは叔母さんに似たんじゃないの。それはそうと、喋りながらやってナンバリング間違えるなよ」
慣れた仕事で、喋りながらでもできるが、気をつけてはいる。生年月日を確認して番号を振る、の繰り返し。生年を偽っている大総統の前での確認作業は、いつもながら妙な感じがする。
ふと、見たことのある数字に目と手が止まった。あまり受験者の名前や顔写真は見ないのだが、それだけはやけに気になって、視線をずらす。そしてそのまま、目を見開いた。ついでに口も大きく開く。
「え、あ、はああ?! 聞いてないよ、こんなの!」
「イリス、うるさい。オレも仕事してんだから静かにやって」
「だってだって、知らなかったんだもん! もしかしてガードナーさん、知ってて急にわたしの入隊試験の成績のことなんかふったんですか?」
ガードナーはにこりと笑う。有能な補佐大将である彼ならば、とっくに申込書には目を通していただろう。そして、先にこのことを把握していた。
真剣な顔の美少女が、こちらをしっかりと見ている。世界暦532年8月1日生まれ。八月の試験を受ける少女の名前は、エイマル・ダスクタイト。
イリスが可愛がっている、大事な大事な妹分だ。

大総統執務室での仕事が終わると、ちょうど終業時間を迎えた。早く寮に戻って、エイマルの受験のことを確かめなければと、イリスは急ぐ。そこへ、事務室での仕事を終えたルイゼンとブロッケン姉妹、情報処理室にいたフィネーロがちょうど出くわした。
「イリス、お疲れ」
「お疲れさまです、イリスさん! 今日はあんまり会えなくて寂しかったです」
「そんなそぶり、今までなかっただろう。調子のいい奴め。で、今日は閣下からどんな面倒を押し付けられていたんだ」
「今の時期なら、そろそろ来月の受験者を確認する頃だな」
仲間たちは賑やかだ。一時期はみんなで集まれないこともあったので、こうして揃うのはいつだって嬉しい。イリスは表情を緩め、頷いた。
「毎月やってるから、フィンはわかるよね。そうだよ、受験申込書のナンバリングやってた。それで、すっごくびっくりしたことがあってね……」
ここには周りに人が多い。誰が受験するかは本来秘密にしておかなければならないので、ここでのネタばらしはまずい。とりあえずは全員部屋での夕食に誘うことにした。もともと今日は、手に入ったばかりの夏野菜でイリス得意のトマトカレーを作るつもりだったので、ちょうどいい。特に初めてイリスの手料理を食べられるカリンが大喜びだった。
全員が私服に着替えてイリスとメイベルの部屋に集合し、夕食の準備をしながら本日の大ニュースを話す。思ったより驚かれなかった。
「エイマルちゃんが軍に入ってくれるなら心強いな。頭良いし、動けるし。ていうかあの子、サラブレッドだろ」
ルイゼンが野菜を切りながら言う。首を傾げるカリンに、メイベルが食器を出しながら説明した。
「エイマル・ダスクタイトは、軍人学校のダスクタイト先生の孫でな。……ああ、グレイヴさんも教えてるから、娘でもあるのか。十歳にしては博識だし、運動能力も軍の伍長入隊組並にはあるんだ」
「軍人学校の先生のお子さんなんだね。できる子なんだ」
「おまけに父親はノーザリア軍大将だ」
「え? ノーザリア軍……てことは、ダイ・ヴィオラセント大将だよね。あれ、なんだかこんがらがってきた」
エイマルの家の事情は、少々複雑だ。イリスもうまく説明しきれない。だが、エイマルがダイとグレイヴの血を引く娘だというのは確固たる事実である。
「とにかく、エイマルちゃんはすごいよ。軍に入れば大活躍できると思う。……でも、本当に大丈夫かな。ただでさえ、今の軍の状況って良くないのに。主にわたしのせいだけど」
季節は夏に入ったが、今年初め以降の事件がまだ尾を引いていた。イリスの持つ異能の眼を狙い、裏組織が暗躍している。軍としては、何があっても適切に、冷静に対処できる人材を育てたい。初めから高い能力を持っていればもっと良い。
それを思うと、たしかにエイマルは期待の大きな軍人になるだろう。その分、負担も大きくなる。まして祖父と母が軍人学校の教師で、さらにあの北の狂犬ダイ・ヴィオラセント大将が父親だとわかったら、軍内だけでなく裏からも注目を集めるのは必至だ。
トマトを煮込む鍋をかき混ぜながら、イリスは複雑な思いだった。嬉しくて心配で、応援したいけれど本当にそれでいいのか疑問で。それはそのまま表情に出る。
「変な顔になってるぞ。野菜、先に炒めたほうが良いのか」
「あ、ううん、それ素揚げにする。ていうか変な顔って何よ、失礼だな」
「だって変な顔だったし。お前のことだから、エイマルちゃんを危険な目に遭わせたくないなんて思ってるのかもしれないけど」
図星を突いてくるルイゼンに、イリスは彼曰く「変な顔」を継続して向ける。切った野菜を受け取りながら、だってさ、と口をとがらせた。
「わたし、エイマルちゃんが生まれたときから、あの子のこと知ってるんだよ。元気で明るくて、でも本当は寂しがり屋で。だからわたしが守るんだって、思ってたんだけど……」
「やりたいことが見つかって、そのために強くなるのはいいことだろ。軍だって危険ばっかりじゃないし、そもそも危険の回避、対応を学ぶための教育機関でもある。そんなに心配することないと思うぞ」
「じゃあゼンは、もしリチェが軍人になるって言ったら、即応援できる? わたしはできない」
「リチェは別だな。あいつ体力ないし。エイマルちゃんとは違う」
そうだ、こんなたとえ話なんか、何の意味もなかった。エイマルは、きっと自分で試験を受けたいと言って申込書を出したのだ。少なくとも親や祖父から勧められることはないだろう。彼らはエイマルを、彼女の思うように生きられるよう育てている。逆に言えば、だからこそ試験を受けることに反対もしなかったのだろうけれど。
わざわざ本人に確認するまでもない。エイマルは八月の試験を受ける。それは確かなことなのだから。やりたいことの邪魔をしようとは、イリスだって思わない。
「……一つ疑問なんだが、エイマルの受験のこと、大将は知ってるんだろうか」
飲み物を冷蔵庫から出しながら、フィネーロが言う。イリスはハッとして手を止めた。
ダスクタイト家はエイマルの自由を尊重している。悪いことは悪いと叱るが、大抵のことは自分で判断してできるようにと、子供の行動に口を出すことはさほどしない。
だが普段家にいない、子供の父親――ダイは少し違う。家にいられないから子供のことにも口を挟めないだけで、実は一番の心配性だ。度が過ぎて離婚し、なかなか元鞘に戻れないくらいの。それ以外にも要因はあるのだが、この認識で間違ってはいない。
「ダイさん、知らないかも。知ってたら反対しそう」
「軍の厳しさを一番知っているだろうしな」
メイベルも頷く。まさか本当に、エイマルの受験はダスクタイト家の人々のみが了承していることなのか。ダイに何も相談していない可能性は十分にある。
「イリス、トマトの鍋焦げるぞ。あと野菜の素揚げって、普通に鍋に油入れていいのか」
「わたしがやるからいいよ。ゼンは座ってて」
だって全然進まないじゃん、と文句を言うルイゼンを台所から追い出して、イリスは再び唸る。
果たして今度の入隊試験、本当に波乱なく終えることができるのだろうか。
不安なまま作ったカレーは、やはり少し焦げていた。


刀、サバイバルナイフ、棍、弓、拳銃、ライフル。ずらりと並んだ道具は、どれも練習用のものだ。刃物は切れないようになっており、銃はエアガンでプラスチック製の弾を撃ち出せる。弓と対になっている矢も先が丸い。だが、いずれも人に向けるのは危険だ。
一つ一つの基本的な使い方を、エイマルは完全に覚えてしまっていた。その講釈を、ニールは先ほどからずっと聞いている。正直なところ、武器として使われるものをあまり長く見ていたくはないのだが。
「やっぱりニール君に聞いてもらうと、ちゃんと覚えてるって実感できる。あとは扱いを完璧にするだけだね」
「うん、僕が役に立てたならいいけど。……ねえ、エイマルちゃん、本当に試験受けるの?」
意気込むエイマルに、ニールは不安を感じていた。エイマルの能力は確かに高いが、それは軍で使うものなのだろうか。確かに軍人は人を救うことができる立派な職業だ。ニールもイリスたち軍人に命を救われ、現在は幸せな日々を送ることができている。けれどもその仕事には大きな危険が伴うというのもよくわかっているつもりだ。春にイリスが大怪我をしたときには、泣くのを我慢するのでせいいっぱいだった。
エイマルまで血を流すようなことになったら。もしかして命にかかわるようなことになったら。それを考えると、胸がしめつけられたようになる。
ところがそんなニールの気持ちをよそに、エイマルは輝かんばかりの笑顔で頷くのだった。
「十歳になったら試験を受けようって、実はずっと前から考えてたことなの。それこそ、ニール君に会う前からね。あたし、このときをずっと待ってたんだよ」
「待ってたんだ……」
無理もない、とは思う。ニールが周りを見ても、軍人や元軍人で溢れかえっている状況だ。生まれたときからこの環境にいたエイマルが、軍を意識しないはずはない。ニールよりも、かっこいい軍人たちの姿をたくさん見てきているだろう。
エイマルとニールにとってはお姉さんのような存在であるイリスなど、その最もたる例だ。身体能力と剣技、おまけに特殊能力まで備わって、エルニーニャ軍の大きな戦力として活躍している。蹴りを繰り出せば華麗、剣を振るえば激烈。情熱をもって任務に向かい、人には優しく手を差し伸べる。子供が憧れる軍人像そのものだ。――イリスが一番力を出し惜しみしないというだけで、インフェリア家の人が大体そうなのも、ニールは知っている。
「エイマルちゃんは、イリスさんみたいになりたいの?」
「そうだね、イリスちゃんはすごいと思う。あんなふうになれたらいいなとは、昔から思ってた。強くてかっこいい女の人に、あたしもなるんだって」
「エイマルちゃんならもうなってるよ。初めて会ったときがそうだったもの」
「そうだっけ? あ、でも、今のあたしが目指してるのは、イリスちゃんじゃないよ。姿勢は見習いたいけど、進路は違う」
「え、そうなの?」
しかし軍の入隊試験を受け、合格するのではないのか。何が違うというのだろう、と首を傾げたニールに、エイマルの顔がずいっと近付く。
「わ、何?!」
「ニール君には教えてあげる。あたしが入隊試験を受ける本当の目的」
「ほ、本当の……?」
ごくり、と息を呑む。そこへエイマルが囁いたのは、まるで呪文のように流れる言葉。ニールの頭の中に沁み込んで、それまでの不安をあっというまに吹き飛ばしてしまう魔法だった。
言い終えてにっこりしたエイマルに、ニールは呆けたまま言った。
「……なんか、すごいね。そんなことまで考えてたんだ」
「結構あたしって計画的でしょう? これはきっとダスクタイトの血ね」
「それはどうかな。エイマルちゃんのお母さんやおじいちゃんは、もっと地道なタイプだと思うよ……」
むしろやっぱりお父さんに似たんじゃ、と言うと、それでもエイマルは喜んだ。誰に似ていようが、そんなのは彼女にとって些細なことなのだ。
入隊試験すらも、彼女の進む道に至るための一歩でしかないように。
「一応訂正するけど、おじいちゃんもお母さんもそんなに地道じゃないよ」
「ええ……その訂正はあんまり聞きたくなかった……」
いずれにしても、ニールにできることといえば、彼女の前途を祈るばかりだ。親友として。

試験日の前に、エイマルの誕生日がくる。八月一日。夏真っ盛りの暑い日に生まれてきたのがエイマルだ。あの日の暑さは一生忘れない、とグレイヴは毎年語ってくれる。
「病院に行く前に死んでたまるかって、根性でおじいちゃんに連絡したんだから」
「うんうん、それでおじいちゃんと一緒に病院に行って、あたしを産んだんだよね。でも、タクシー使って先に病院行ったほうが良かったんじゃないの」
「そういうアンタのコメントが年々大人になっていくのが面白くて話してるのよ」
今日は刀を使った訓練をした後、いつもより豪華な夕食の準備をすることになっている。エイマルが持つ模造刀は、昔グレイヴが入隊試験対策に使っていたものだ。修復が必要な部分をブラックが直してきてくれたので、受け取ったときは新品かと思った。けれどもそれも、試験当月ともなればところどころに綻びが出てきていた。それを自分でメンテナンスするのも含めて、エイマルの訓練である。
「イリスちゃんが言ってた。お母さんの技は、ミナト流を取り入れてるんだって。それって東方の刀術一門だよね」
「取り入れてるなんて大袈裟ね。ちゃんとした技は一つしか使えないわよ。あとはおじいちゃんから習ったのと、自分の経験。おじいちゃんは軍に入ったばっかりの頃、ミナト流を教わってたらしいんだけど、あんまり経たないうちに破門されたし。以来、技は使わないようにしてきたみたい」
刀の点検をしながら、エイマルの頭には自分で調べた一文が浮かぶ。「邪心を持って刀を振るい、人の命を奪った者は、ミナト流の人間とは認められない」――軍人時代の、若かった祖父には、そういうこともあったのかもしれない。性格が随分丸くなったのだと、昔のブラックを知る人はよく言う。
それでも今、エイマルにとって優しい祖父であるならば、過去のことは関係ない。わざわざブラックにその話をさせようとも思わない。ダスクタイトの名は、遠い昔には悪名だったとしても、今は軍人学校の生徒たちに慕われる先生の代表だ。それでいい。
「お母さん、点検終わったよ」
「見せて。……うん、大丈夫ね。これなら本物も扱える」
「やった!」
一か月。その短い期間で、エイマルは順調に力を伸ばしていた。ブラックやグレイヴとの手合わせも、日に日にレベルが上がっている。成長ぶりにはブラックも驚いていて、「うちの生徒だって、こんな急に伸びるヤツはめったにいねーよ」と汗を拭いていた。教え方がいいのは間違いないが、エイマルの吸収率も半端なものではないということだ。
今日は誕生日。実力はお墨付き。頼みごとをするなら、今日しかないだろう。相手は祖父でも母でもない――これまで訓練していることも隠してきた、父だ。
「父さんから電話が来る前に、夕飯の支度をしようか。コロッケ、たくさん揚げようね」
「うん!」
今年も父、ダイはノーザリアから帰ってこられない。向こうは今、短い夏だ。気温は平年通りならエルニーニャほど高くはならないというが、それでも涼しさに慣れているノーザリアの人々には暑いと感じるそうだ。ダイは涼しい顔をしているが暑がりだから、苛立ちながら仕事をしているかもしれない。
「怒られちゃうかな……」
グレイヴに聞こえないように呟く。両親が離婚するに至った理由は、最近になってようやく知った。亡くなった父方の祖父の、その死に不審な点があり、調べが進むとダイの家族を狙った犯行であったことが判明した。再び悲劇が起きることを避けるために、ダイはグレイヴとエイマルの「家族」をやめたのだ。独断だったその行動を、けれどもグレイヴはすんなり受け入れた。引き留めても無駄だと、そういう人と一緒になったのだと、諦めた。エイマルもその日から、ダイは「お父さん」ではなく、たまに家に来てくれる「おじさん」なのだと教えられるようになった。まだ一歳になるかならないかの頃だ。
ろくに結婚生活など送っていない両親の距離が再び近づき、エイマルがダイを「お父さん」と呼べるようになったのが、八歳の誕生日。それからは、いやそれまでも、随分甘やかしてもらった。最近では離婚しているなんて信じられないくらい、この家に帰ってきては「家族」として振る舞うようになっていた。
大切にされればされるほど、ダイのことを知れば知るほど、エイマルは抱いている夢を口にすることができなくなっていった。きっと反対されるだろうと、常に思ってきた。あの人は父親であると同時に、一国の軍の長なのだ。この世界がどんなに過酷なものか、よく知っている。エイマルが本で読んだよりも生々しく「体験」をしている。
けれども、その「体験」を自分もしてみたいと強く願ってしまったら、それ以外の自分をごまかすような夢なんか見られなくなった。反対されたら、押し切るまでだ。
夕飯の支度が終わる頃を狙ったように、電話が鳴った。エイマルが走っていって受話器を取ると、優しいけれど疲れているような声がする。
「エイマルか? 暑いだろうに、元気だな」
「お父さんは夏バテ? それとも忙しかった?」
「どっちも。でも夏は嫌いじゃない」
知ってるよ。それはあたしが生まれたからでしょう。
「十歳の誕生日おめでとう、エイマル」
「ありがとう、お父さん」
毎年電話をくれ、プレゼントを送ってくれた。今年も少し遅れて、荷物が着くはずだ。その優しさを、エイマルはこれから裏切ってしまうかもしれない。父の期待に応えられない、酷い娘になってしまうかもしれない。
「あのね、お父さん。ちょっと大事な話があるの。聞いてくれる?」
「どうした。言ってごらん」
「あたしね、今月のエルニーニャ軍の入隊試験、受けるの」
電話の向こうには、どんな顔があるだろう。こんなとき、離れているのは不便だ。


練兵場に人が集まり始める。少年や少女ばかりで、今回の最年長は十四歳。年齢も体格もそう変わらないおかげで、実技に含まれる対人格闘の組み合わせが楽に決まった。
エルニーニャ軍入隊試験当日。まずは全員が練兵場に集まり、大総統の言葉を聞く。隣に控える補佐は毎月交代しているが、今回はちょうどイリスの番だった。
「わあ、緊張するー……」
「いつも平気な顔してるくせに。ていうか、なんでイリスが緊張するのさ」
「だって、エイマルちゃんがいるんだよ。ほら、あそこで一際輝いてる!」
イリスの表現は多少過剰だが、レヴィアンスから見てもたしかにエイマルは目立っていた。少年の比率が多く、少女は全体の二割程度。中でもエイマルは、特に少年たちの視線を集めているようだった。これから人生が決まるかもしれない試験を受けるのに、突然美少女が現れたら動揺するのかもしれない。でもそれじゃ勝ち抜けないぞ、とレヴィアンスは内心苦笑した。油断をしたら痛い目に遭う。レヴィアンスの代のアーシェが男子どもを実力で黙らせたように。入隊試験時のイリスが圧倒的な強さを見せつけたように。女子を舐めると怖いのだ。
集合時間になるとともに、練兵場は閉められる。事前に申し込みがあった者全員が揃っていた。遅刻をすれば失格になるので、ここまでは上々。
「ただいまより、入隊試験を行います」
気を取り直したイリスがいつもの口上を述べると、ざわついていた場が静まる。先ほどまでのイリス以上に緊張した顔が並ぶのを見渡し、レヴィアンスは口を開いた。
「暑い中、よく来てくれた。これから今月の入隊試験を始めるけど、具合が悪くなったら無理をせずに係の者に申し出ること。体調管理も仕事のうちだからね。それから承知しておいてほしいのは、毎月合格者が必ず出るってわけじゃないこと。今回がうまくいかなくても、そんなに落ち込まないで帰ってね。次があるから」
必ず合格者を出さなければならないのは、三月試験だけだ。毎月新人を採っていたら、軍の人員は膨れ上がってパンクしてしまう。だからこそ超えなければならない最低ラインが設けられ、さらに超えなければならないランクがある。
軽い口調で言うが、レヴィアンスの言葉は「お前ら全員落とすこともあるから覚悟しろ」ということだ。そして実際次があるかというと、よほどの者でない限りは次に受かる可能性は低くなる。こちらでデータが取れてしまっているからだ。自分を超えなければ、未来はない。
――見る側になって改めて思うけど、甘く見せかけた厳しい仕組みなんだよね。
果たして今回は何人が合格できるだろう。エイマルの実力はどうなのか。気になることは多々あれど、イリスが見られるのはここまでだ。筆記試験の監督は大尉以上の階級の者から選ばれるし、実技試験は将官が監督する。大総統と補佐は実技試験を見に来ることができるが、今回イリスは来られない。レヴィアンスからストップがかかったのだ。
「だってイリス、エイマルに声援送りそうだし。それはまずいじゃんか」
そんなことしないと何度も言ったのに、とうとう許可は下りなかった。今日は試験を気にしながら、通常業務に就かなければならない。
筆記試験を受けるために移動する受験者たちを見送りながら、イリスは溜息を吐いた。

筆記試験の内容は一般常識だ。難易度は三月試験、つまり軍人養成学校で学んできた者に合わせてある。しかし一般受験者が解きにくいということもない。出題のバランスは担当将官たちのさじ加減と、大総統の最終決定次第だ。
普通に市井をよく見て生活していれば、特に難しい勉強をしなくても、考え方次第でクリアできる。しかし軍に入隊しようとする者は、実は市井を見るだけの余裕がない者や、市井のことなど高みの見物をしながら育ってきた者がほとんどだ。ようするに、筆記試験でまともに点数をとれる人間は割合少ない。学校でわざわざ常識を学ばなければならないのは危うい。
その点、エイマルは有利だった。普通の子供として育ってきたうえに、日ごろから祖父に勉強を教わっている。おまけにあまりある知識欲で、様々な事柄を頭に詰め込んでいた。たとえば大総統史などは、何代目が誰だったか、どんな政策が有名かなどということは基礎の基礎で、伝記などからその人がどんな人生を送ったのかまで知っているので、要求されればいくらでも語れる。難しいのは情報の取捨選択だ。
――こんな問題じゃ足りない。解答欄がもっと大きければいいのに。
余裕で全問を解き終わってしまい、暇になる。一応見直しもしたけれど、名前と受験番号もきちんと書いているし、解答には間違いがあると思えない。何もすることがなくなってしまうと、電話で聞いたダイの声が頭の中によみがえる。
「もっとよく考えてみろ。そうする必要があるのか。他に方法はないかどうか。じゃないと俺は、賛成できないな」
予想の範囲内だ。いや、随分優しいほうだった。けれども父を納得させるのは難しいと思い知らされた。入隊試験にただ合格するだけでは、やはり足りない。
エイマルは自分に自信がある。それゆえに見えていないものもある。もっと自分の世界を広げたい。これはそのための試験だ。他人と優劣を競うものではなく、自分の進みたい道へ行くためのもの。だから周囲など気にしてはいなかったのだが。
――たぶん、それだけじゃだめなんだ。周りも気にしないと。じゃなきゃ、また見えなくなる。
実技はその意識を確認する機会になるかもしれない。

「聞いた? 入隊試験の話。ダスクタイトって子がいるんだって」
仕事中に聞こえてきた話題に、イリスはどきりとした。話しているのは軍人学校卒の者だ。
「大総統史の先生と関係あるの?」
「女子実技の先生は?」
「それ親子でしょ。だから、大総統史のブラック先生の孫で、女子実技のグレイヴ先生の娘」
「女の子なんだ」
「めっちゃ可愛いって噂だったよな。実際どうなの」
エイマルちゃんは噂通りの美少女だよ! とは言えず、イリスは頬の内側を噛みながら黙々と事務作業を進める。お喋りはまだ続いた。
「学校に通ってたっけ?」
「そんな話は聞かないから、先生から教わってたんじゃないの。筆記の対策とか、実技の指導とか」
「うわー、お得。金払わなくてもプロの指導受けられるんだ」
言い草にイラッとしても、ここは我慢だ。そこまでエイマルの素性が知れているのなら、イリスとも知り合いだとばれればさらに不味いことになる。口の中に血の味が広がるほど耐えていると、ルイゼンが席を立った。
「お前ら、新人候補が気になるのはわかるけど、仕事しないと終わらないぞ」
「リーゼッタ中佐、すみません!」
「でも、あの、ずるくないですか。学校に通ってないのに、学校でやるような対策ができるなんて」
叱られてもなお話を続けようとした一人を、ルイゼンはほんの一瞬だけ睨み付けた。それだけでも十分な威圧感があったようで、相手は竦みあがる。それを確認したうえで、彼は軽い口調で返した。
「あのな、それを俺に言うか。俺は軍人学校には通ってないけど、若かりし頃の閣下に稽古つけてもらってたんだぞ。お前の考えの通りなら超ずるい!」
若かりしって。超ずるいって。今度は笑いを堪えなくてはならなくなったイリスの向かいで、メイベルは盛大にふきだしていた。さすがに噂話をしていた彼らも、こちらの様子に気づく。
「いや、中佐をずるいと言ったわけでは……。そうだ、ブロッケン大尉はどう思いますか?!」
なんとか同意してもらおうと必死なようだが、彼は尋ねる相手を間違えた。メイベルは鼻で笑い、「馬鹿か」とストレートに言った。
「お前たちは親の金で軍人学校に入ってのんびりお勉強をしていた分際で、よくもまあ人をずるいだとかぬかせたものだ。素直に失言を認めていれば、こんな恥をかかずに済んだものを、本当に馬鹿だ。学校に通ってないのに学校でやるような対策? そんなものは学校に行かなくたってできる。学卒のほうが入隊時にちょっと階級を上げられるだけのことだ。たとえお前みたいな馬鹿でも伍長入隊ができるんだから、学卒は楽でいいな。私も楽をさせてもらった一人だが、けれども金は国と学校に出してもらって、ただいま返済真っ最中だ。それすらもしなくていいんだから羨ましいよ」
ずらずらと並べられる言葉に、反論の隙は無かった。ルイゼンが「その辺にしておけ」と言って、やっとメイベルは口を閉じる。すでに相手は涙目だ。
そこへ畳みかけたのが、困ったように笑顔を浮かべるカリンだった。
「お姉ちゃんはちょっと馬鹿って言いすぎだけど、でも憶測だけで人をずるいとか言うのも良くないよ。それぞれにそれぞれの環境があって、みんな努力してここにいるんだから。それはちゃんと認めなきゃだめだと、わたしは思うな」
ずるいと発言した者は、完全に負けていた。涙を拭きながら、ごめんなさい、と頭を下げる。メイベルの言葉だけでは余計に反発したかもしれないが、カリンがそれを上手に抑えていた。ブロッケン姉妹の見事な連係プレーに、イリスは人に見えないよう拍手をした。戻ってきたルイゼンにも礼を言う。
「ありがとね、注意してくれて」
「俺が一人で止めるつもりだったんだけどな。あ、でも、イリスだって言い返して良かったんだぞ。学校に行ってない軍家出身のお前にだって失礼だったんだから」
それもそうか、と今更気づく。イリスも軍人学校に通わず、兄と父と祖父の指導を受けて入隊を果たした。インフェリア家はそういう伝統がある。だがそれはけっして楽な道ではなく、むしろ裕福な分だけ市井に対する正しい理解が及ばず、軍家の人間である分だけ求められる体力や技術の水準が高かった。カリンの言う通り、努力しなければ至れないというのは、環境は違ってもみんな同じなのだ。
ずるいと言ってしまった彼も、それだけきっと大変な思いをしたのだろう。物事の感じ方というのは、本人にしかはかれない。
――エイマルちゃんは、どれほどの努力をしてきたんだろう。あの子、頑張ってるのを人に見せたがらないからな。わたしでもわかんないや。
わからないけれど、エイマルは合格する気がする。家族のことは関係なく、自分の力で。女子軍服を着た彼女を想像して、イリスは思わずにやけた。

実技試験は、基礎体力測定、技能試験、対人格闘の三つで構成されている。基礎体力測定では全員同じ内容のメニューを同時に行ない、技能試験では一人ずつ武器の扱いや体術を見る。対人格闘はあらかじめ決められた対戦相手との勝負になるが、負けても不合格になるわけではない。
再び練兵場に集合した受験生たちは、指示を待ちがてら、周囲を見ている。筆記試験に失敗し落ち込んでいる者、実技に緊張している者と様々なのは毎度のことだが、今回は平然としている美少女に注目が集まっている。
「ずっと思ってたけど、あの子、誰? すっげー可愛い……」
「なんか実技試験やらせるのかわいそうだよな。なんで入隊試験なんか受けてるんだろう」
「親が軍人学校の先生だからよ」
ひそひそと話し合う男子たちに、女子が数名割り込んだ。謎の美少女を軽く睨みながら、一人が言う。
「近所に住んでるから知ってる。あの子、軍人学校の先生の家の子なの。可愛いからって騙されちゃだめだよ、たぶん実技もかなりできるから」
噂の的になっている謎の美少女ことエイマルだが、そんな声はまるで聞こえていなかった。筆記試験中に固まってしまった体を軽くほぐし、これからのことだけに集中している。誰よりも速く走り、高く跳び、長く正しい呼吸を保つこと。それだけ意識していれば良い。
様子を見に来たレヴィアンスにも、エイマルの集中力の高さは窺えた。今回の受験者の中で、最も合格に近いのは彼女だろうと、すでに感じている。素質があるのだ。
「うわ、鳥肌立ってくる。あの雰囲気、まんまダイさんとグレイヴじゃん」
「閣下がそこまで仰るとは。私はダスクタイトさんとは仕事をしたことがないのでわかりませんが、たしかにヴィオラセント大将に似た落ち着きぶりですね。幼いのに貫禄がある」
ガードナーは頷くが、その表情は曖昧だ。どうしたの、とレヴィアンスが尋ねる前に、彼は「しかし」と口にした。
「彼女が軍に入ったとして、集団の中でうまくやっていけるかは心配です。試験は個人戦ですから、問題なくクリアできるでしょう。ですが、例えば彼女を組み入れて班を作るとしたら、閣下はどうなさいますか」
「あー……それを言われると、問題がないわけじゃないよね。同期同士の班だと浮くかも。普段は普通に子供らしいし人懐っこいんだけど、オレたちが大人だからそう思うのかもしれない」
思えばレヴィアンスは、エイマルにイリス以外の親しい友人がいるという話すら、去年まで聞いたことがなかった。仕事と友達付き合いはもちろん違う。親しくなくてもコミュニケーションは必要だし、仲が良くても割り切ることを必要とされる場面は当たり前にある。だが、かつてのエイマルはその前段階から躓いていた節があった。――同年代とコミュニケーションをとること、そこからして彼女は苦手だったのだ。
けれどもその壁は、この一年で崩された。丁寧に、きれいに、穴をあけられた。そのやり方を学んでいれば、おそらく心配はないはずだ。
「今は個人戦だから、ちょっと周りへの警戒心が強くなってるだけだよ。たぶんね」
「たぶん、ですか」
「多少のことは仕方ないよ。個人技特化型人間と人見知りのサラブレッドだから」
「……閣下、そこまで仰ると心配になります」
まあまあ、他の子も見ようよ。レヴィアンスは明るく笑いながらガードナーの背中を叩き、練兵場全体を見渡す。心配はない。過去や未来のことなど、今は考えなくていいのだから。

基礎体力測定でのトップは、最年長の少年だった。だが彼に僅差で迫っていたのがエイマルで、その下とは大きな差がある。それでもエイマルは悔しかった。こんなに悔しくなるなんて、思ってもみなかった。
――自分が全力を出せればいいと思ってたけど、負けるのってこんなにショックなことだったんだ。
自分の中にあった絶対の自信に瑕がつく。エイマルにとって初めての感覚だった。誘拐されたときでさえ冷静に対処できたと思っていたのに。
誰かと本気で競争をするのは初めてだ。周りは年上の、それもエイマルの手の届かないような人ばかりだったし、唯一の同年代の友人であるニールは年下だ。競争しようとは思わなかったし、そんな機会はなかった。
同年代の子たちと関わりがなかったのは、話をしても話題が合わず、遊ぼうとしても興味が違い、自分は他の子とは違うのだと思っていたからだ。「子供」との関わりをやめて、大人たちの話に耳を傾けながら自分の世界に埋もれているのは、とても楽だった。優越感もあったかもしれない。
外の世界への憧れは強いけれど、それは人と関わりたいということではなく、自分の知らないものを見て、経験したいという思いからくるものだ。そこに人がいるということは、知識だけで捉えていて、関わり方なんかまともに考えてこなかった。――ということに、今この瞬間に気づいてしまった。
周りの受験者たちは自分の成績を話し合い、一緒に悔しがったり、比べることを楽しんだりしている。でも、エイマルは独りぼっちだ。誰もこちらに駆け寄ってきてはくれない。いや、違う。エイマルが誰にも話しかけようとしていないのだ。みんなが自然にしているようなことの、やりかたがわからない。急にわからなくなった。
ひとりでいることそのものは悪いことじゃないはずだ。悪くはないけれど、この敗北感の上にさらにのしかかってくる重いものはいったい何だろう。
――だめだ、こんなこと考えてちゃ。すぐに技能試験が始まる。集中しなくちゃ。
雑念はよそへ。代わりに頭の中に展開するのは、次の試験で披露する技の数々。これは一人ずつやるもので、みんなやることは違うから、人と比べるものではない。いつも通りにやればできるはずだ。
自分の順番が来るまで、目を閉じて待つ。基本的には一人一つずつの武器の扱いと、体術がセットになっている。エイマルの前までは、その基本通りに進んでいたようだ。
「次、十八番」
受験番号で呼ばれ、返事をする。そうしてやっと目を開けた。練兵場には六種の武器が用意されている。全てエイマルが使うものだ。係員をつとめる軍人も、表情が引き攣っている。
「武器六種と体術の、合わせて七種目……で、間違いないんだな」
「間違いないです。よろしくお願いします」
どの武器を使うかはぎりぎりまで迷ったが、結局全部見てもらえるならそうしようということになった。種目数の規定はない。というのも、実際に軍では複数の武器を登録して使いこなす者が僅かではあるが存在する。一つを極めるのも、いくつかを器用に使うのも、技能として認められる。
他の誰かの声なんか聞こえない。全て完璧に扱ってみせる。それがエイマルに必要なことだから。
刀は鮮やかに。ナイフは華麗に。棍は流麗に。弓は風のように。銃二種は正確に。扱いを覚えて練習した全ての得物を操る。そして体術も見事に決めてから、監督者に一礼する。顔を上げて見た彼の表情は、笑っているような、怖がっているような、よくわからないものだった。自分ではできていたと思うのだが、何かミスでもあっただろうか。
訝しんでいると、誰かの声が耳に届いた。「すごい」と。
「え、あの子何者? まだ軍人じゃないんだよな」
「だから先生の家の子なんだって。まさか、あそこまでやるとは思ってなかったけど」
「あれ全部使いこなせるなんて、現役の軍人にもいないんじゃない? 鳥肌立った……」
褒められているのだろうか。それより、全員エイマルを見ていたのかというほうに驚く。エイマルは他の受験者が何をしているのかなんて見ていなかったのに。
――自分さえ良ければ、って思ってたけど。
釈然としないまま控えの場に戻り、次の受験者をそのまま眺める。女の子だった。使う得物は剣一種。それと体術で試験に挑む。
「よろしくお願いします」
張った声、真っ直ぐな姿勢、美しい礼。そして何より、勢いのある剣技。力が入りすぎな感はあるが、遠くで見ているだけでも圧倒されるのだから、正面から斬り合う者にはさぞ強大に見えることだろう。息を呑んでいるそのあいだに、体術へ移る。こちらはうってかわってしなやかだ。体が柔らかい。あれに比べると、エイマルの動きは硬かったように思う。
――また、見えてなかったんだ。見てなかった。
エイマルの前の子たちは、どんな動きをしていたのだろう。どんなふうに得物を選び、扱い、どんな表情をしていたのだろうか。気になっても、時は巻き戻せない。
――合格する自信はある。でも、あたしには……。
技術よりも、足りないものがあったのではないか。もっと早く、それに気づくべきだったのでは。
一人一人の素晴らしい演技を見終え、エイマルの胸では感動と恥ずかしさがないまぜになっていた。

対人格闘の予定時間が迫っている。イリスと同じ事務室で仕事をしていた別班の同期が、具合悪そうに眉を歪めた。軍人学校卒で、実技の成績は良かったものの、入隊試験の最後の最後で運が悪かったことを思い出したらしい。
「毎月そんな顔しなくても」
「黙れ、インフェリア! お前と対戦したせいで俺に黒星がついたんだ!」
「わたしが勝っちゃったものはしょうがないじゃん。しつこいなあ」
以来、一緒に行動することはほとんどなかったのだが、この時期になると必ず絡んでくる。ちょっと面倒な昔馴染みだ。
そんな因縁を生むこともある対人格闘で、エイマルはどうなるだろう。噂では、個人技能はあらゆる意味で他を圧倒していたという。誰かが「インフェリアみたいなのが増えるのはちょっとな……」とぼやいていた。
「懐かしいな、対人格闘。防具は重いしエアガンは手応えないしで最悪だったが」
「ベルの『格闘させないスタイル』、なかなか面白かった覚えがあるよ。あのときはまさか寮で同室になるとは思ってなかったなあ。ていうか、格闘なのに相手に近づかないでひたすら撃ってるってどうなのって思ってた」
「そうか、私はイリスをよく跳ねる猿だと思ってた」
「なんでお姉ちゃんとイリスさんが仲良くなれたのか、本当に謎なんだけど」
仲良くなって良かったけどね、とカリンが笑う。こういうこともあるから、人との出会いは面白い。
カリンにも思い出があるようで、仕事をしながら話を聞いた。入隊試験の対人格闘の相手とは、入隊後にカリンは西方、向こうは北方と所属が分かれてしまったが、今でもたまにはがきのやり取りをしているという。ちなみに勝敗は、カリンの負けだった。
「わたしが次の手を考えているあいだに、どんどん拳がくるの。防具がなかったら大怪我だったよ」
「お前、それは……。よくここまで成長したな」
「わあ、お姉ちゃんに褒められた」
「褒めてない。呆れてるんだ」
ブロッケン姉妹のやり取りにほのぼのしていると、イリスの机にバインダーがドサッと置かれた。ルイゼンからの「真面目に仕事をしろ」という圧力かと思ったが、そこにいたのはフィネーロだった。
「頼まれていた資料を持ってきた。君は頼んだことも忘れていそうだが」
「ごめん、その通りでした。あとでなんか奢るね、フィン」
「そんなのはいい。どうせ君はエイマルのことで頭がいっぱいだろう。約束しても忘れる」
ぐうの音も出ない。項垂れるイリスだったが、次の言葉ですぐに顔を上げた。
「評判になってる。エイマルが実はノーザリア大将の娘だって」
「は?! どうしてそんな」
すぐにばれたの、をすんでのところで呑み込む。フィネーロはさらに声を潜めて続けた。
「今年の初めの誘拐事件のせいだ。あのとき、大将もいただろう」
「うわー……わたしのせいか……」
「わかったところで選考に影響はない。合格しても納得するだけの力があるようだし」
ここに来てイリスの迂闊な行動が評判として影響を及ぼしてくるのが、なんとも申し訳ない。反省で再び項垂れるイリスを慰めようと、カリンが背中を優しく叩いてくれた。
「そういえば、あの事件のときもエイマルは肝が据わっていたとか。これは余裕で合格だな」
メイベルが軽く言う。たしかにエイマルは強いから、試験も乗り越えられるし、軍人になっても大丈夫だろうとは思う。でも。
「ここまで噂になったら、大変だよね。いくら強いっていってもさ」
「イリスも期待に応えようと必死だったことがあるのか」
「わたしは……必死だとすれば今かな。インフェリアの妹のほうは残念だっていう汚名を返上しないと、家にも申し訳が立たない」
「そんなに必死にならなくていい。お前は空回りしそうだからな」
どこから話を聞いていたのか、室長の手伝いをしていたルイゼンがいつのまにか戻ってきていた。持っていたバインダーでイリスの頭を叩くと、当たり前のように言う。
「前も言っただろ。お前はもっと周りを頼って味方をつくれ。そうしたら些細なことに必死になる必要はなくなる」
「ゼン……。そうだね、まずはそこからだよね」
エイマルにも、軍人の極意として教えてあげよう。この試験が終わったら。

急遽、対戦表を作り直した。三月試験は人数が多すぎて不可能だが、今回くらいならばそういうこともできる。実技項目の二つが終わり、受験者の大体の実力はわかった。わかった上で、予想以上だと判断した。
「いったい娘に何してんのさ……」
レヴィアンスは、いつかの両親と同じ感想を持っていた。グレイヴがたった一か月の訓練で、その年に入隊した女性軍人の中ではトップの実技成績を叩き出したときのことだ。やはりエイマルはサラブレッドだった。今のところ、三月試験入隊者よりも成績がいい。
「閣下、対戦表はこれでよろしいのですか」
「うん、決定。ちょっと見に行ってもいいかな」
ガードナーの了承を得て、レヴィアンスは休憩中の受験生を見に行った。彼らに姿は見せないで、そっと覗くだけだ。
受験生にはもうグループができていて、このあと戦わなくてはならないもの同士が和気藹々と言葉を交わしている。勝敗は関係なく、対応力を見たいので、仲良くなるのは一向にかまわない。これで遠慮がなくなって、互いに本気を出せるならそのほうがいい。
その中で、エイマルは独りだった。少し離れたところから、楽しそうな集団を眺めている。試験を受けに来たばかりのときとは、まるで雰囲気が変わっていた。
――なんで自信なくしてんの? 成績いいのに。
この後、すぐに最終試験なのに。あんなにしょんぼりして、戦えるのだろうか。
心配しても仕方がない。こればかりはエイマルが自分でなんとかするしかない。――ここでなんとかできなければ、合格してもそのあとが難しい。

思い知ったのは、自分の世界の小ささ。それから気づかないようにしていた心の狭さ。
――あたし、全然強くなんかなかったんだな。
ぼうっと眺める世界は、エイマルが知らないものでできたそこは、眩しいくらいに輝いている。明るすぎて近づけない。手を伸ばしたら火傷をしてしまいそうだ。
――こんなんじゃ、夢を叶えるどころか、その一歩さえ踏み出せないや。
父に「賛成できない」といわれた意味がわかった気がした。考えが足りなかった。視野が狭かった。せっかく十歳になって、大人に近づいたと思ったのに、まだ全然子供だった。
俯いたまま溜息を吐くと、肩を叩かれた。顔を上げると、受験者の中でも顔を覚えていた少年がいた。最年長で、基礎体力測定ではエイマルより上にいた唯一の人物だ。
「対戦表が出たよ。見に行かないの?」
「対戦……」
「それとも誰が相手でも負ける気がしないから、見に行かない? さっきの技能試験みたいに」
ぎくりとした。自分の番が来るまで他の人を見ていなかったことが、ばれている。返事ができないでいると、少年は「ごめん」と笑った。
「あんまり他人に興味ないみたいだったから。ちなみに君の対戦相手は俺だよ、ダスクタイトさん」
「……あなたが」
「だから俺のことくらいは、ちゃんと見ててね」
まるで口説き文句だ。本で読んだだけで、実際に言われたのは初めてだけれど。思っていたほど嬉しくはない。どうしたらいいのか考えていると、構わずに彼は続けた。
「君には楽勝の試験かもしれないけど、俺は、きっと他の人も、頑張ってるんだ。どうしてか落ち込んでるみたいだけど、もしやる気をなくしたんだったら、棄権したほうがいい。迷惑だから」
刺すような言葉に襲われる。たしかに落ち込んではいたけれど、やる気がないわけではない。頑張らなかったこともない。持てる力を全て出してきたのに、それがそんな言葉で片付けられてしまうなんて。
「違います、棄権なんかしません!」
気づけば叫んでいた。他の受験者が振り返り、こちらに注目する。顔が熱くなるけれど、ここで言い返さなければ誤解されたままだ。いや、言い返してもまだ信じてもらえないかもしれない。本気を見せなければ。もとより自分の気持ちを言葉にするのは、それほど得意ではない。いつもよそから得た知識を借りるばかりになってしまう。でも、動くことなら。
「あたし、勝ちますから」
「……そう。じゃあ、お互い頑張ろう」
世界が何だ、視野が何だ。そんなことを今更振り返って何になる。進む方向は前だ。

刀と剣が激しくぶつかる。火花が弾けたようなちかちかした光は、実際の衝撃なのか、対峙する二人の気迫なのか。打ち合いは間合いをとったり近づいたりを繰り返しながら、何度も繰り返される。重い防具を全身に纏っているはずなのに、動きは軽やかだ。どちらの防具にも、今のところ刃は当たっていない。
初等教育終了後に二年間の訓練を経て試験に臨んだ、最年長十四歳。対するはたった一か月半で急成長を遂げた、天性の勘と身体能力を具えた少女。二人の勝負は互角で、決着が見えない。
二人とも全身全霊をかけて戦っていた。一人は親の反対を押し切り、自分の力で生きる世界へ飛び込もうとしている。そして一人は、この戦いによって実力を示し、新たなステージに立つことを望んでいる。どちらも譲れない。一歩も引けない。勝つと宣言したならば、果たしてみせなければ。
対人格闘では武器の使用が可能だが、使えるのは一つだけだ。エイマルが扱ってみせた六種の得物から何を選ぶかには注目されていた。手にしたのは、母から受け継いだ刀。
相手の剣は軍で用意されたものだ。だが、もうずっと使っているかのように馴染んでいた。エイマルの攻撃を受け止め、さらに一太刀浴びせようとする。しかしエイマルも強力な一撃をかわし、再び素早く斬りつける。それは見ている側からも溜息が漏れるほど、鮮やかで烈しい戦いだった。
「技はグレイヴだけど、あの攻め方はまるでダイさんだね。おー怖」
「あの剣の扱いは素晴らしいですね。隙がない。彼も間違いなく合格候補でしょう」
大総統と補佐は、受験者たちからは見えないところで戦いを見守る。後ほどあがってくる報告次第だが、まず今対戦している二人は合格だろう。他にも候補者は数名いる。どうしても合格者を出さなければならない三月試験を除いて、今月の試験は最も有望な人材が集まっていた。
合格定員を決めていないということは、採れるだけ採るということでもある。今後のことを考えると、レヴィアンスも楽しみだ。今回入ることになる新人の、人との関わりや仕事適正はどうだろう。彼らはどのように成長していくのだろう。
思い切って斬りつけた少年の刃を跳んでかわし――その高さは昔のイリスに引けを取らない――宙で体を捻りながら、少女は刀を構えた。そして少年の頭に、その刀身を叩き付けた。防具がなかったら、と思うとゾッとするようなことを、躊躇いなくやってのける。彼女は間違いなく、軍人の娘だった。


五日後、イリスは試験結果の文書と成績表、そして合格証を封筒に入れる作業をしていた。これを間違えると大変なことになるので真剣だ。一方ではガードナーが来月の受験者をもう確認している。結果の郵送が終わったら、すぐさま申込書のナンバリングが始まる。毎月その繰り返しだ。
「見たかったな、エイマルちゃんの戦いっぷり。イヴ姉譲りの技に、ダイさん並の度胸かあ。聞いただけでゾクゾクしちゃう」
「実物を見たらゾクゾクどころじゃ済まないぞ。筆記はパーフェクトだったし、たぶん今年最高の成績だね。これ以上が出てきたらすごい」
封筒詰め作業のために、イリスもエイマルの成績を見た。筆記は数年見られなかった満点。実技は年間トップ。女子が実技で年間ランクのトップに立つのは、イリス以来の快挙だ。
「文句なしの合格ってやつだね」
「エイマルだけじゃないよ。今回は有望株を他に六名も獲得できた。しかも七人中三人が伍長入隊レベルなんて、超豊作」
ホクホクしているレヴィアンスに、イリスもにまにまと笑う。大総統閣下の機嫌が良いのも何よりだが、春に後輩を一人失ってしまったイリスには、また後輩が増えることが嬉しい。
「ねえレヴィ兄、エイマルちゃんの指導、わたしがやりたいな」
「イリスはだめ。私情が入りまくるだろ。それに指導にあたるやつ、もう候補決めてるから」
「なによ、ケチ」
口をとがらせていると、電話が鳴った。ガードナーが速やかに受話器を取り、応じる。「わかりました、お繋ぎします」と言ってから、レヴィアンスに告げた。
「ノーザリアのヴィオラセント大将からです」
「お、ちょうどいいタイミング。結果に影響が出るの嫌で、こっちからは連絡してなかったんだよね」
受話器を受け取り、軽快に挨拶をする。イリスにも「ひさしぶりだな」というダイの声が微かに届いた。
娘が軍の入隊試験に合格したと聞いたら、どんな反応をするだろう。受験を知っていたとしても、知らなかったとしても気になる。もしかしたら反対しているかも、と思っていたが、ダイからも一切エイマルに関する連絡はなかった。
相槌を打つレヴィアンスの声を聞きながら、イリスは封書を一つ一つ仕上げていく。そのあいだに、聞こえてくる声の調子は少しずつ変わっていった。
「……え、そうなの? じゃあ、ずっと知ってて、結果に影響出ないようにって言わなかったんだ」
ダイはエイマルの受験を知っていたようだ。反対せずに受けさせるのだから、それはいいだろう。だが、レヴィアンスの声色には困惑が混じっていた。
「まあ、結果的に合格はしてるわけだけど。あとはそっちでちゃんと話し合いなよ」
電話を切る間際には、「まいったな」と呟いて、苦い顔をしていた。イリスは手を止め、レヴィアンスに近づく。
「ねえ、何かあったの? ダイさん、エイマルちゃんの受験をあんまり良く思ってなかったとか?」
「いや、受験すること自体には反対しなかったらしいよ。エイマルが決めたことだし。でも、入隊しないんだって」
「……え」
入隊試験に合格した者は、軍への入隊が許される。だが、合格した当人が必ず軍に入らなければならないという規定はない。諸事情により辞退するケースは、そう珍しいことではない。
だが、エイマルのようなパターンは、レヴィアンスやイリスにとっては初めてだった。
「エイマルは最初から入隊しようと思って試験を受けたわけじゃないんだ。だから合格しようがしなかろうが、軍人にはならないんだってさ」
「じゃあ、なんで……」
「力試し。ダイさんに、夢を叶えるための証明をするためのね」
軍人になることは、エイマルの夢ではなかった。彼女の望みはなんなのか。それはイリスも聞いたことがない。――ずっと妹のように思って見てきたのに、知らなかった。

合格証がダスクタイト家に届いたその日、エイマルは電話の前をうろうろしていた。ダイに電話をかけるか、それともやめようか。最初は合格したらすぐに父に報せるつもりだったのだが、今は悩んでいる。
だって、知ってしまったのだ。自分の知っている「世界」というものが、どんなに狭かったか。人との関わりが不足していて、そのために成長できていなかったことに気づいて、試験以降ずっとショックを受けていた。
恥ずかしくてニールにも話せなかったくらいだ。彼にだって、今まで散々失礼な態度をとっていた。「弟みたい」だなんて、どれだけ自分は上に立とうとしていたのだ。そんなのは思い上がりだった。
深くて重い溜息を吐くと、電話が鳴った。
「はい、ダスクタイトです」
「エイマルか?」
かけてきたのは、話すことを迷っていた、ダイだった。
「お父さん。……あの、あたし」
「入隊試験、合格したんだってな。おめでとう」
どうして知っているのだろうと思ったが、よく考えてみればおかしくはない。大総統とダイは仕事仲間だ。何かのついでに話したのだろう。
「ありがとう。でも、あたしね」
「大したもんだな、トップだったなんて。筆記の満点なんか初めて見たって、レヴィがびっくりしてた」
穏やかな父の声。エイマルの頼み事を、忘れているかのような。けれども忘れていれば、電話をかけてきたりはしないだろう。
エイマルは受話器を握りしめ、声を絞り出した。
「あのね、試験はトップでも、だめだったの。あたし、全然わかってなかった。自分の周りと本の世界だけを見て、全てをわかった気になってたけど、それじゃだめなんだね。試験を受けて、周りの人たちを見て、初めて気がついたの」
なんらかのかたちで他の誰かと関わらなければ、人は生きていけない。気づいていないだけで、エイマルが生活をするのにも、たくさんの人たちが手助けをしてくれている。見えない場所からも、手を貸してくれている。十歳になるまで、そのことに思い至らなかった。自分の力だけでおおよそのことはなんとかできると、本気で思っていた。
「お父さん、あたし、勉強が足りなかったみたい。お父さんの言う通り、もっと方法をちゃんと考えてみるべきだった。あたしだけじゃなく、周りのことも含めて、一から考え直さなきゃ」
「……じゃあ、やめるか? 頼み事」
考えなくてはならないのはわかっている。でも、一度そうしたいと思ったことを、ダイに協力してもらいたいと強く望んだことを、取り消したいとは思わなかった。いや、取り消そうかと思ったけれど、改めて問われて、強い思いが胸に湧きあがった。
諦めたくない。やりたいことがあるんだ。あたしには、大きな夢がある。
「やめたくない。あたし、やっぱりノーザリアに留学したい。それで今度こそもっと広い世界を、広い視野で見て、たくさんのものを見たり、聞いたり、探したりしたい」
軍の入隊試験を受けたのは、ダイに迷惑をかけないで自分の身を自分で守れると、証明したかったから。ただ合格するだけじゃなく、上を目指したのは、より力があることを示すため。でも結局、それだけではまだまだ足りないということを思い知った。自分の力だけでは、達成できないこともある。道具一つ持つのだって、誰かがそれを考案し、作り、届けてくれなければ成り立たない。
世界は、エイマルが思っているよりずっと広く、深い。ただ留学をして一人きりの勉強を続けるだけでは、きっと見たいものを見ることすらできない。
「したいけど、今のあたしじゃだめだなって、思ったの」
「そうか、今のエイマルじゃだめか」
電話の向こうで、ふ、と笑う声が微かに聞こえた。馬鹿にしているような、呆れているような、そんな笑い方ではない。どうしてか、安心したようだった。
「じゃあエイマル、来年からってのはどうだ」
「え?」
「年始に父さんがそっちに帰るだろう。ノーザリアに戻る日に、一緒に来たらいい。もちろん、エイマルがそれまでに足りなかった分の勉強をして、しっかり準備をしておくことが前提だ」
そんな提案があるなんて、思ってもみなかった。ダイはこのまま賛成してくれないだろうと、そればかり考えていた。けれども今日までの期間、ダイにだって考える時間があったのだ。そうして、この答えを出したのだろう。
「どうだ、できるか?」
「やるよ! あたし、もっともっと自分のいる世界について知る。そのために、いろんな人と関わりたい。無謀なことをするんじゃなく、いいことに積極的に挑戦したい!」
即答だった。これしか答えはない。もう何年も前から、エイマルはしたかったのだ――冒険を。世界中を旅して、いろいろなものに出会うことを。
「じゃあ、約束だ。経過報告はいつでも受け付けるからな」
「うん! お父さん、ありがとう」
――あのね、あたし、冒険家になりたいの。そのためには、まずお父さんに認めてもらって、お父さんの傍で勉強をしたいんだ。
それが叶う日は近い。予想よりももっと大きなかたちで、エイマル自身が成長した状態で、叶えられる。その日が待ち遠しい。それまでにやることがたくさんある。
これから忙しくなると思うと、嬉しかった。

夢に向かって、進むのは前。駆けて、ときには歩いて、周りをよく見てみれば、果てしなく広がる世界がある。いつかそこに、行けることを信じて、少女は再び動き出す。


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posted by キルハ制作委員会 at 20:19| Comment(0) | 小ネタ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月22日

両片思いは後からくる

「写真撮ってこいって」
溜息交じりに言う彼女に、しかしレヴィアンスは一瞥もくれない。「何の」と言いながら、急ぎの書類を捌いている。本当は来客予定時間前に終わるはずだったのだが、急な任務受理などでおしてしまい、まだ残っているのだった。
その状況に慣れている彼女――大総統付記者エトナリアは、こちらもぎっしりと情報の詰まった取材ノートだけを見ながら続ける。
「大総統閣下のプライベート写真、奥さんを添えて」
「そんな料理みたいに。プライベートは大総統じゃないから嫌だ」
「だよね。今回も適当にごまかしておくわ。幸い、事件記事ならどれから手を付けたらいいのかわからないほどあるし」
そんな二人の様子を、ガードナーは大総統執務室備え付けの小さなキッチンからこっそり覗いている。お茶を淹れるふりをしてここに下がったのだが、相変わらずレヴィアンスとエトナリアは仕事の話ばかりだ。ここがレヴィアンスの職場で、エトナリアも仕事のために来ているのだから、当然といえば当然なのだけれど。
だが、二人の左手薬指には同じ指輪がある。シンプルで、宝石の一つもついていない、銀細工。二人は紛れもなく夫婦である。それが互いが主張するような「仕事に都合がいいから」というだけの関係ではなく、それなりに愛情を持ったものであるはずなのに、そんなそぶりはあまり見せない。いつもエトナリアが仕事に来て、レヴィアンスがそれに応じ、その日のうちに解散する流れだ。
――もう半年以上になるんですけれどね……。
少しは閣下も態度を示せばよろしいのに、とガードナーは嘆息する。けれどもこちらがいくら心配したところで、どうしようもない。これは二人の問題であり、夫婦が何もしなければそれまでのことだ。これ以上話すこともなさそうなので、ガードナーは仕方なくキッチンから出てくる。
「お茶をどうぞ。今日は暑いので、アイスティーです」
「わあお。レオナルド君、いつもありがとう。きれいな色ねえ、あたしじゃこんなきれいに淹れられないよ」
「せっかくいただいたので、より丁寧に淹れるよう心がけました。東方のお茶なんて、こちらではめったに手に入りませんから」
カップには透き通った薄い緑色。東方で好まれるグリーンティだ。中央では紅茶が主流なので、緑茶は珍しい嗜好品である。フォース社の社長はこのお茶が昔からお気に入りだという。
レヴィアンスも礼を言って、カップに口をつけた。
「美味いね。エトナ、今度また買ってきてよ。代金出すから」
「いいけど、今日持って来たのはクレリアからのお土産よ。あんた、またあの子に何か仕事させたでしょ。便利に使える人材が増えたからって、あんまり無理させないでよ」
「無理はさせてない……と思うんだけど、気を付ける」
お茶を出してみても、空気は和やかになったが、夫婦感はまるでない。これが彼らの普通であるとガードナーもわかってはいるのだが、なんだかもやもやする。もっと仲睦まじくできないものか。いや、あれで本人たちは仲が良いはずなのだが……。
「でさ、手が空いたなら、先日の事件の続報を書きたいから、いろいろ話してもらいたいんだけど」
「ごめん、もうちょっと。レオが淹れた美味い茶でも飲んで、ゆっくりしていきなよ」
この態度から、ガードナーは察している。レヴィアンスはエトナリアのいる時間を長引かせたいのだ。今日に限って急な仕事が入ってきたのは、単に運が悪かっただけではない。今日に引き延ばしていたこともいくつかある。
そしてエトナリアは、ガードナーから見るに確実にレヴィアンスのことが好きだ。それもずっと昔から。仕事以上の恋はない、と公言している彼女だが、内心は結婚相手にべた惚れなのだ。
お互いが自分の仕事に集中するための策略結婚。二人は夫婦ではなく協力及び共謀関係。それが表向きの姿だが、実は両片思い状態が続いたままであることを、有能な大総統補佐は見抜いている。それゆえにもどかしいのだ。
閣下にも、閣下が選んだ方にも幸せになっていただきたい。それが大総統補佐レオナルド・ガードナーの願いです。

レヴィアンスの仕事が一段落すれば、今度はエトナリアの取材が始まる。
何とかして軍の持っている情報の「見える」部分を拡大し、裏の技術や知識を国全体、もっといえば大陸全体で有効利用できるようにしたいというのが、レヴィアンスの大総統としての目論見だ。そのためには国内に存在する格差を可能な限りなくし、裏に暮らす人間が悪事を働く必要のないようにしていかなければならない。第一段階は裏の情勢の把握と彼らのおかれている環境の底上げだ。これは先々代大総統から引き継がれている仕事でもある。
しかし裏社会は広大で、彼らのルールは根強い。エルニーニャ王国建国からあと数年で五百五十年、そのあいだにつくられてしまった格差や生まれてしまった差別の解消は難しく、「裏がいなければ軍の仕事がなくなる」という極論をいう者まで現れる。まだまだ目指す場所への道のりは遠そうだ。
大総統付記者エトナリア・リータスは――仕事のときは旧姓を使い続けている――大総統の仕事を適度に記事にし、伝えている。ときには文派や王宮、そしてエトナリア自身の批判も入れる。大総統付とはいえど、あくまで「摺り寄らない」ことを念頭において取材をするのがエトナリアのやり方だ。ただし、場合に応じて情報の規制はやむを得ないとする。不安をあおるような記事は避けるべきだ。真相を捻じ曲げるのではなく、伝えるべきことだけを伝える。その塩梅を任されているのだから、エトナリアは確かに優秀で力のある記者なのだった。
「裏を含めた全国的な調査が改めて必要である、と。でも、それってどうやってやるの? 住所不定の人たちまで調査が及ばないのは、これまでだって問題だったわよね」
「いくつか考えてることはあるんだよ。たとえばさ……」
取材によって考えの問題点や解決法が見つかることもあり、レヴィアンスはこの時間を大切にしている。エトナリアが訪れているときは、基本的にもう一人の大総統補佐であるイリスを執務室に呼ばない。いれば、女の子同士のお喋りになってしまうからだ。互いに仕事であることをわきまえてはいるはずなのだが、イリスが口を挟んだり、納得のいかないような表情をすると、エトナリアはそちらにも話を振る。そうすると、次の話をするための時間がとれなくなってしまう。
――というのは、建前で。本当はエトナリアとの時間を邪魔されたくないのではないかというのが、ガードナーの見立てである。
策略結婚の話が出たとき、ガードナーは何度もレヴィアンスの相談に乗っていた。相談をするということは、その段階ですでにレヴィアンスの心は決まっていたのだろう。エトナリアが縁談があると打ち明けた時の狼狽ぶりは――本人は平然としているように見せかけてはいたが――今でも忘れられない。
「なるほどなるほど。で、それどこまで記事にしていいの? 裏の技術に関係することには、まだ触れられないんだよね」
「確定できる段階にないし、まずイリスの眼の問題をある程度のところまで片付けないとね。むやみに使いまくるからこういうことになる」
「あんたも助けられてるくせに。……さて、こんなもんかな。じゃあホテルに戻って仕事するね」
本日の取材は済んだようだ。これからエトナリアは、定宿に行って原稿を書き、新聞社に送る。新聞社の本社はレジーナにあるので直接行って仕事をすることもできるのだが、可能な限り会社の人間に会うことは避けている。通信の発達が、彼女の仕事と立場を大いに助けていた。
立ち上がったエトナリアは、空のカップをキッチンに持っていこうとする。それをいつものようにやんわりとガードナーが制し、カップを受け取る。「ありがと」と微笑む彼女は、ガードナーから見ても可愛らしい。
「それじゃ、また。仕事頑張ってね、レヴィ」
「エトナもね。また今度」
手を振って別れれば、今度は後日。二人が一緒にいる時間は、あまりにも短い。もう少し時間があれば、と惜しむのはガードナーの仕事ではないのだが、レヴィアンスが何も言わないので代わりに惜しむ。
「次はいつでしょうね」
「順調なら来週でしょ。大きな事件が起こればすぐにでも」
大総統閣下は平気なふりをする。あくまでこれは仕事なのだと。
しかし事件はすぐに起こった。三十分も経たないうちにエトナリアから電話があったのだ。
「いつものホテル、部屋が空いてなかった! なんか予約に不備があったみたい。ねえ、今日だけレヴィの部屋に泊めてもらえない?」
レヴィアンスの部屋は軍人寮にある。二人部屋を一人用にした、少し広い部屋だ。しかし仕事が忙しいので、ほぼ寝に帰るだけの状態になっている。そのことは、以前からエトナリアに愚痴を言っていた。
「男子寮でもかまわないなら、オレはいいけど。一回戻っておいでよ、鍵貸すから」
「ありがとう!」
これはチャンスではないか。せっかくエトナリアが泊まるのであれば、少し話でもしたほうがいい。幸いにして、今日の夕方以降のスケジュールは空いている……と、ガードナーは把握していた。このまま平和なら余計な仕事はなく、レヴィアンスを部屋に帰すことができる。
「閣下、先ほどエトナリアさんが仰ってましたね。閣下のお写真が欲しいと」
「プライベートのは嫌だって」
「公開するものではなく、閣下個人の趣味として、お写真を撮られてはいかがですか。エトナリアさんとのお写真は、ご結婚以降まだ一度も撮影されていないでしょう。個人的な記念撮影くらいはなさってもよろしいのでは」
写真を撮ることは、レヴィアンスの趣味である。大総統執務室に暗室を作るほどだ。趣味は人に指図されてするものではないと、ガードナーもわかっている。だが、ここはあえて言わせてもらった。誰かが言わなければ、レヴィアンスもエトナリアも動けない。
目を泳がせ、頬をわずかに赤くしたレヴィアンスは、しばらくして口を開いた。
「……まあ、記念撮影くらいしてもいいか」
ちょっと背中を押せば、そのあとは行動が速い。レヴィアンスはガードナーにいくつか指示を飛ばし、ガードナーは見事にそれを遂行してみせた。
そのあいだにエトナリアが鍵を取りに来て、軍人寮に向かったが、彼女には彼らが何をしているのか、その時は見当もつかなかった。


レヴィアンスが仕事を終えて部屋に戻ると、ここでは嗅いだことのない香りで満ちていた。そもそもこの部屋で料理をすることなんてめったにないのだから、食べ物と判断できる匂いがすること自体が珍しい。
「あ、おかえりー。ご飯もうすぐできるよ」
台所には鍋を菜箸でかき混ぜるエトナリア。きちんとエプロンまで身につけている。だがその鍋とエプロンはどこから持って来たのだろう。この部屋にそんなものはない。
「あんたの部屋、相変わらずなんにもないのね。道具から食材から色々買ってきちゃった」
「わざわざそこまでするか。仕事は片付いたの」
「うん、まだ校了までもうちょっとかかるけど、あたしがやることは大体」
テーブルの上には開きっぱなしのノート型端末がある。新聞社にも普及しつつあるんだな、いやエトナが個人的に手に入れたのかな、高いだろうに、などと考えつつ、レヴィアンスは着替えを持って脱衣所に向かう。いつもならその場で着替えてしまうのだが、今日は女性がいるので気を遣った。
夫婦、という実感は今でも湧いていない。そもそもが策略と謀略の上に成り立った結婚だし、仕事が優先なのは変わっていない。レヴィアンスは大総統としてレジーナに留まっているし、エトナリアはレジーナに通いつつもいまだにハイキャッシの実家に自分の部屋を持っている。生活は別々で、戸籍と指輪が二人を夫婦であると証明している。
それ以外は、仕事をしているときの名前だって違うのだ。レヴィアンスはゼウスァートを、エトナリアはリータスを名乗り続けている。双方、現在の本名であるハイルを名乗る機会は少ない。それなのに夫婦だとか言われても、どうすればいいのかわからない。
自分から言いだしたことなのにな、とレヴィアンスは苦笑する。あのとき、それなりに緊張はしていたのだが、それが何から来る緊張だったのかは実はよくわかっていない。自分は今でもニアが好きなのだと思っているし、思いが叶わなければ仕事一筋に生きるつもりでいた。ニアには家族ができてしまったから、今では完全に後者の気持ちであるはずだった。
「何作ってくれてんの」
「今日は麺類。キノコで出汁をとったスープをかけて食べるんだよ」
それなのに、胸には新たな感情が芽生えている。麺を茹でながらこちらに振り向いた顔は、可愛いとも思うし、綺麗だとも思う。肌に触れたらすべすべしてるんだろうなとか、エプロンの紐を結んである腰が健康的にくびれているなとか、ぼうっとしているとそんなことばかり考える。
まいったな、と声に出さずに頭を掻いた。これじゃまるで、本当にエトナリアに恋をしているようではないか。
「野菜たっぷり入れたからね」
「そういうのが好きなの?」
「ささっと作れて、食べるにもあんまり時間のかからないものがいいかな。まだ仕事残ってるし」
「お疲れさん。忙しいのにありがとう」
心の内は上手く隠したつもりで、いただきますと手を合わせ、野菜たっぷりのうどんを啜る。出汁がきいていて美味しい。肉が好きなレヴィアンスだが、キノコと野菜だけを使って出した味も悪くない。エトナリアにこんな特技があったとは。
「美味いね。よく作るの、これ」
「夜食にしてるの。肉とか魚とかはさ、付き合いで結構いいのが食べられるから。仕事の合間に、こういう素朴なのが恋しくなったりするのよね」
「へえ、オレなんかは断然肉とワインだけど。でもこれは本当に美味い」
褒めるたびに、エトナリアの目が笑う。ちょっと顔が赤いのは、もしかして照れているのか。これだけのものを作れるのなら、褒められたことだって一度や二度ではないだろうに。
――いや、わかんないか。オレたち、似たもの同士だもんな。
思うほど、褒められた経験はないのかもしれない。親が忙しくて祖父に育てられたという共通の過去を持ち、成長するにしたがって自分の世界を作り上げていった者同士。寂しいという気持ちを抱えながらも、それを言葉にできない日々があったから、出会ってすぐに意気投合した。
あれから十八年以上。まさか結婚するなんて、あの頃は思いもしなかったが。
「本当は、旦那の健康管理は奥さんがしてあげなきゃいけないのかもしれないけど」
「そんなことないんじゃない。お互いちゃんと気をつけてるに越したことないよ」
「それもそうだね。でも、さすがにいっつも肉とワインは、あんまり体によくない。あと、レヴィはストレス溜まると煙草吸うでしょ。あれもできればやめたほうがいいんだよね。いくら医療にも使われてるからって、なんでもやりすぎは毒」
「はいはい、もっと気をつけるよ。不甲斐ない夫で悪かったな」
自分で言って、どきりとした。今のレヴィアンスは大総統ではない。エトナリアの夫、レヴィアンス・ハイルなのだ。
エトナリアは取材ノートを脇に置いて、視線をそちらにやりつつ食事をしている。彼女はまだ仕事中なので、記者のエトナリア・リータスだ。けれどもレヴィアンスに小言をくれているあいだは、たしかに彼女は、レヴィアンスの妻であるエトナリア・ハイルだった。
「エトナ、明日時間ある?」
「昼の列車で東方に戻るから、それまでなら。何か用事?」
「うん、プライベートの写真が欲しいって言ってただろ。あんまり公にはしたくないけど、プライベートでプライベートを撮るなら構わないよ」
「なにそれ、どういうこと」
こちらに尋ねてから、エトナリアは麺を一気に啜った。よく咀嚼して飲みこんだのを確認してから、レヴィアンスは続けた。
「オレの趣味に付き合ってよ。オレが写真を撮って、あとでエトナに送る」
「それじゃあたししか写らないんじゃないの」
「一緒に撮れるよ。タイマー機能がついたカメラも持ってる。使えそうなツーショットを一枚だけなら、仕事に提供してやらなくもない」
使えそうな、というのは、顔が見えないということだ。レヴィアンスはともかく、エトナリアが本人だとはっきりわかるように写ってしまうのは都合が悪い。大総統が結婚した、という報道はしているが、相手については言及していない。エトナリア自身も告白していない。彼女を守るためなのだが、レヴィアンスには別の理由もある。
「モデル、引き受けてくれない?」
レヴィアンスが、にい、と笑ってみせる。エトナリアは少し考えるような素振りを見せてから、口角を上げた。
「いいわよ。やるからには最高のモデルになってあげる。だから全力で撮ってよね」
互いに、全力で。これができるから結婚という契約を交わした。でも、本当にそれだけなのか。レヴィアンスは自分の気持ちを、おそるおそるながら確かめてみたかった。

泊まりの予定が上手くいかず、レヴィアンスの部屋を借りるのは初めてではない。今回のようなトラブル――学生とのダブルブッキングならこちらが譲るしかない――ならば、年に二回は経験する。一年のほとんどを東方と中央との往復で過ごすのだから、そのうちの二回なんて大した数字ではない。レジーナはそれだけ人が混んでいるし、定宿は安い分サービスを削っている。
――高いホテルでも泊まれるんだけど、それを使わないのは、あたしも期待してるからなんだろうな。
シャワーを浴びながら、エトナリアは自分に呆れていた。仕事が一番だと言いながら、レヴィアンスへの恋心を捨てきれない。結婚の提案は、驚いたが嬉しかった。けれどもすぐに虚しさに襲われた。お互い仕事のためにこの契約をするのであって、恋が実ったわけではないのだと。
けれども、レヴィアンスがエトナリアのことをある程度は好きでいてくれていることはわかっていたし、こちらは言わずもがなだ。本当に仕事のことしか考えていなかったら、結婚なんて荒業には及ばない。あのレヴィアンスだとしても、だ。
だから毎回期待して、そしてひっそりと裏切られる。部屋に泊まるのは初めてではないが、いつもエトナリアが一人で部屋を使っていた。レヴィアンスは仕事や友人たちの家に向かってしまい、ここには帰ってこない。
でも、今日はどういうわけか、ちゃんと部屋にいるらしい。ガードナーに何か言い含められたのかもしれない。あの補佐は、ものすごくよく気の回る人だから。
身体を拭いて、持って来た寝間着を着て、居間へ戻る。シャワーを浴びているあいだに消えているのではないかと思った彼は、座って本を読んでいた。
「読書なんて珍しい」
「勉強しろって、ドミノさんが貸してくれるんだよ。確かにオレが今持ってる知識だけじゃ、法整備は難しいし。でもちゃんとした提案をするにはオレがその実現可能性をわかってないと」
「そうだね。じゃないとアーシェさんや女王様にバッサリ斬られちゃう」
「それだよ。二人とも頭良いから、こっちが何言ってもなかなか通じなくてさ」
結婚前なら、この後に「女って怖いよね」と続く。けれどもあれ以来、少なくともエトナリアの前で口にすることはなくなった。意識してくれているのだろうか――「女性」として。
「エトナ、髪乾かしてくれば」
「あ、うん。ドライヤー借りるね」
いやいや、いくら今日は部屋にいるからといって、仕事をしているのには変わりがない。どうせ夜通し本を読んで、テーブルに突っ伏してちょっとだけ寝るつもりだろう。せめてベッドに寝ろと言わなければ。エトナリアは別に、毛布さえ借りられるのなら、床で寝たってかまわないのだ。
乾いて天然の癖を取り戻した髪を手櫛で整え、また戻る。仕事のメールを確認して、問題がないようなら毛布を勝手に借りて眠ろう。明日の午前中、写真撮影をするというのは、態度には出していないつもりだが、かなり楽しみだった。
「……うむ、問題なし。無事に今回の原稿も記事になります」
「良かったね。じゃあ休もうか、明日もあるし」
「それなんだけど、レヴィ、たまにはベッドで寝なさいよ。あたしは床でも椅子でもかまわないから」
「え?」
本を閉じて顔を上げた、レヴィアンスの目が真ん丸になっている。心なしか赤面しているような気もする。部屋の明かりのせいだろうか、いや、さっきまでは気にならなかった。
首を傾げるエトナリアに、レヴィアンスはもごもごと何かを言う。
「え、何」
「……だから、最初からそのつもりだったんだけどって言ったんだよ」
「ああ、あたしが床で寝るって話」
「そっちじゃなくて。……オレはてっきり、ベッドに一緒に寝るものだと思ってた」
万が一にもありえない。だって、策略と謀略のための契約としての婚姻関係のはずだ。レヴィアンスが顔を真っ赤にしてまでこんなことを言うなんて、そんな現実は想定外だ。
いやいや、単に公平性の問題だろう。そこまで深く考えてはいけない。そうは思いつつも、エトナリアの顔は湯気が出ているのではないかというくらい熱かった。
「悪い、馬鹿なこと言った。大丈夫だよ、オレが床で寝るから、エトナはベッド使って」
「だめだよそんなの。あたしが床」
これでは埒が明かない。二人で適当に床に転がる羽目になってしまう。それなら、……それよりは。
意を決して相手を見たのは、同時。目が合って、逸らせない。
「やっぱり二人でベッド使おう」
「そうだね。それがいいわ」
シングルサイズだから、狭いけれど。大人二人では、くっつかなければならないけれど。疚しいことなんか、何一つとしてない。


おそらく、昨夜のことを人に話したら。ニアなら聞き流すかもしれないが、ルーファやアーシェは呆れるかもしれない。グレイヴは励ましてくれるかもしれないが、ダイはまず間違いなく爆笑するだろう。
緊張でなかなか寝付けず、すぐにすやすやと眠ってしまった妻(一応)の顔を見ることすらできず、気がついたら寝落ちていて、目が覚めたときにはすでに隣は空だった。台所からは何かを焼いている香ばしい匂いがして、「おはよう、よく寝てたね」なんて言われてしまう、そんな朝。
何かをしようと思ったわけではない。最初からそんなつもりはなかった。「ベッド一つしかないけど一緒に寝るのか?! 一応夫婦だから自然だよな?!」とかなんとか考えていただけだ。だが、これではあんまり情けないではないか。
「昨夜、肉食べたいって言ってたでしょ。だからってわけじゃないけど、BLTサンドに目玉焼き付。飲み物はちょっと組み合わせとしては変だけど、あたしが持って来た緑茶。レオナルド君に倣ってアイスティーにしてみたんだけど、やっぱりあれほどきれいには淹れられないね」
そんな食材もこの部屋には用意していなかったはずだ。いったいどれほど買い込んできたのだろう。たった一日、泊まるだけのために。……たった一日では、ないからか?
一緒に暮らすことなんか想定していなかったから、レヴィアンスは相変わらず寮生活だし、エトナリアは実家に帰る。自分たちの仕事の仕方を考えれば、そのほうがいいと思っていた。でも、普段使わない大鍋と、可愛らしいエプロンは、きっとこの部屋に置かれることになる。これらの道具は、いつでもエトナリアの帰りを待つのだ。
「……オレは目玉焼きより、スクランブルエッグのほうが好きだな」
「そう? じゃあ、また今度ね」
「うん、また今度。いただきます」
今度、だ。毎日にはならない。二人とも仕事が第一で、相手のことまで気がまわらない。だから家庭を持つことを避け続けてきた。例えば他の多くの家庭のように、結婚して一緒に暮らし、子供が産まれたとして、自分はきっと家族に寂しい思いをさせてしまう。置いてけぼりにして、本来なら同じ秤に載せられないものを比べるようなことをして、みんな苦しむくらいなら、独り身でいたほうがいいと思っていた。
エトナリアとなら、結婚しても独り身に近い状態でいられる。双方ともに仕事に集中できる。幼い頃のように寂しい思いをすることはなく、周囲に言い訳もできて、都合が良い。そんな打算を、彼女は良しとした。後の不利に目を瞑ってくれた。
だからこそ、今更好きだなんて、一緒にいたいだなんて、言えない。
――いや、何考えてんのオレ。エトナのことは好きだけど、そういう「好き」ではなかったじゃんか。
でもこんな美味しい朝食を二人でとれるのは、良いことだ。胸がじわりと温かくなって、頭の中がふわふわしたもので満たされて。この状態がなんとも心地よい。
「ねえ、写真いつ撮るの? 急がないとお昼の列車に乗れなくなっちゃう」
「そうだった。ちょっと準備があるから、そのあいだに荷物まとめるなりしておいてよ」
発する言葉の一つ一つが、せっかく温まった胸を刺す。離れなければならないから、急がなければならない。どんな時間も永遠ではないとわかってはいるが、これはあまりにも短すぎる。
食器を片付けるのはエトナリアが引き受けてくれた。レヴィアンスは自分の支度を素早く済ませると、部屋を飛び出していった。

仕事の後だったので頭が疲れていて、すぐに眠ってしまったが、起きるのは早かった。寝返りをうつと、赤い髪――短かった時期があったが、ようやく以前に近いくらい伸びてきた――があって、少し手を伸ばせば広い背中に触れる。出会った頃はお互い小さな子供だったのに、いつのまにこんなに大きくなったのだろう。
こちらに背を向けているということは、手を出そうなんて気はなかったのだろう。そもそも布団に入った時だってそうだった。あのときはエトナリアもレヴィアンスに背を向けてしまっていて、相手がどんな様子なのかは全くわからなかった。
そっと体を起こして、こちらを向かない顔を覗き込む。昔はそう思わなかったけれど、改めて見るとなかなか整った顔立ちをしている。豊かな前髪から僅かに覗く額、すうっと真っ直ぐ通った鼻筋、少し痩せた頬。唇は、笑っている形のときのほうが好きだ。不敵な笑みは頼もしくて、かっこいい。
「これは、大総統じゃなくたってモテるよね。一緒にいたいと思う人がどれだけいても、仕方ないや」
自分もその一人だった。けれども恋より仕事を選んだはずだった。それで十分満たされていたと思っていたのに、今のエトナリアはそれ以上を求めている。レヴィアンスが面倒だと言って遠ざけていた、彼を想う人たちと同じだ。
告白したら、失望されるだろうか。失望されても、契約は継続されるのだろうか。それはあまりにもひどい地獄だ。
「……だめだ、センチメンタルは性に合わない。こんなあたしはあたしが許せない。さっさと支度して、朝ごはんでも作ろう」
ちょっと大きな独り言だったが、レヴィアンスは気づかずに眠っている。それでいい。知らないままでいてほしい。そのほうがきっと、幸せは長続きするから。
そうして朝食を作り、そのあいだに起きてきたレヴィアンスと一緒に、食事をした。きっとこれも、当たり前ではないから、楽しくて嬉しいのだ。食事の後の片付けだって、実家では面倒がりながらやっている。だからたとえ仕事を諦めたとしても、レヴィアンスとは一緒には暮らせない。
荷物をまとめて、すっかりこの部屋を出る準備ができた頃に、外に出ていたレヴィアンスが戻ってきた。
「ただいま。エトナ、ごめん、ちょっとドア押さえてて」
「うわ、どうしたの、その大荷物。どこから運んできたのよ」
「色んなとこで融通してもらった。こういうとき、大総統の肩書って便利だね」
「乱用するのやめなさいよ……」
箱やら袋やらを大量に抱えたレヴィアンスに、エトナリアは大いに戸惑っていた。これはただの荷物ではない。どれもこれも、有名店の名前が入っている。ほとんどが女性ブランドだ。
「撮影用にしては気合入りすぎじゃないの?」
「これがオレの本気だよ。まあ、手配してくれたのはレオだけどね」
「それは補佐の正しい使い方ではないわね……」
呆れている隙に、大きな袋から服が取り出された。サテン地のワンピース。淡いグリーンのそれを、レヴィアンスが広げ、エトナリアに当てる。
「サイズはこんなもんでいいかな。着てみてよ。帽子とか靴とか一式あるから、全部合わせて」
「合わせてって……こんなの着たことないわよ。だいたい、靴のサイズとか知ってたっけ?」
「正直言ってオレは知らなかった」
ほんの一瞬、レヴィアンスの表情が不機嫌そうになった。けれどもすぐに次の品物を取り出しにかかったので、よく見えなかった。
「……あの、用意してくれて申し訳ないんだけど、こういうの着るのにもちゃんとした下着が必要でね。あたしはそんなもの当然持ってきてないわけで」
「それもあるんだなあ。うちの補佐有能だからさ」
下着類は袋ごと渡された。こちらもエトナリアがちょっと勇気を出さなければ買えないような値段のものだ。写真を撮るとなったら、そこまで本気になるのか、この人は。ていうか、なんでレオナルド君があたしのいろんなサイズを把握できてるの。
「オレも自分の準備するから、とりあえず着替えてくれる?」
頷くしかない。物が多いので、脱衣所ではなく寝室を借りた。

自慢の補佐は慧眼に過ぎる。洋服や靴、下着のサイズまで迷わず淀みなく指定して、衣装一式を注文してくれた。レヴィアンスのために揃えてくれたものがぴったりだったのはまだありがたいで済むが、人の妻について夫より把握しているとはどういうことだろう。
――うん、妬いたさ。ちょっとどころじゃなく妬いた。自分で意外だったけど。
ガードナーの場合、単に目が良すぎるだけなのだというのはわかっている。きっと他の人について頼んでも、彼なら同じようにするだろう。
もやもやした気持ちで撮影の用意をしていると、レヴィ、と寝室から呼ぶ声がした。
「どうしたの。サイズ合わなかった?」
「ううん。びっくりするほどぴったりだった。でも似合ってるかどうかわかんないから、見に来てくれる?」
ぴったりなのか、となぜか残念に思う。三脚とスクリーンをそのままに、寝室に向かった。
入るよ、と一応念を押してから足を踏み入れる。少し前まで寝ていた狭い寝室には、袋や箱が丁寧に重ねてまとめてあった。そして。
「ねえ、変じゃない? 仕事で食事会とかあっても、あたしっていつもスーツだから……」
不安げだが上品な佇まいの女性が、そこに立っているのを見た。
「……って、あんたも結構良いの着てるじゃない。似合うよ。レオナルド君の見立てすごすぎるね」
レヴィアンスを見てパッと笑った顔は、化粧をし直したのか、さっきまでと雰囲気が違っていた。もうこだわりのスクリーンだとか、思い切って買ったが置き場に困る照明一式だとかはどうでもいいから、この場でシャッターを切りたかった。そしてちょうど、いつもの癖で、カメラは今手に持っている。
「待って、動かないで、そのまま」
「今撮るの? 変じゃないかどうか訊いたのに」
「あーもう、困った顔すんな。悔しいくらい似合ってるんだから笑ってろ」
シャッター音の合間に、声。
「何で悔しいのよ」
こんな音でごまかせやしないけれど、今なら言える。
「選んだのがオレじゃないから。他の男に任せたのを後悔してんだよ」
ああ、悔しいけれど、役得だ。エトナリアが一気に赤面してから花のような笑顔に変わるまでの全てを写真に収められて、その瞬間に立ち会えるのは、レヴィアンスただ一人なのだから。


後日、新聞に写真が掲載された。司令部の掲示板に貼られたそれを見てから、イリスは大総統室に走る。
「失礼しまーす。レヴィ兄、みんな写真の話題でもちきりだよ」
「ああ、あれね。よく撮れてるだろ」
「そりゃあ、レヴィ兄の持ってる道具全部惜しみなく使ったら、よく撮れるよね」
広めの部屋をさらに改造して、スタジオのように使えることを、妹分はよく知っている。大総統を引退したら写真屋でもやればいいのではないか。
掲載された写真が、レヴィアンスが急に午前休みを取った日のものであることは、イリスも承知している。そのためにガードナーに呼び出され、二人で午前の仕事を片付けたのだ。
――午前休みって、レヴィ兄、どうしたんですか?
――閣下は夫人とデートです。ですから私たちが代わりに頑張りましょう。
まさか部屋で写真を撮っただけで終わったデートだなんて、そのときは思っていなかったわけだが。
「エトナさんが顔出し厳禁なのがちょっと残念だけど、いい写真だった。そのために買った衣装全部プレゼントしたのもまあかっこいい。これでコーディネートをガードナーさんに全任せじゃなければもっと良かったね」
「やめろよー。オレだってそこ気にしてるんだから。でもいいだろ、あの恰好」
「うん、さすがガードナーさん。新聞だとモノクロになっちゃうのがもったいない。あれ、カラーで見られない? レヴィ兄、もとの写真持ってるんだよね」
新聞に載ったのは、大きな帽子をかぶったエトナリアとレヴィアンスが並んだ、その後姿。それだけでも十分きれいな写真だったのだけれど、やっぱりカラーで、できれば正面から撮ったものを見てみたい。
けれどもイリスがどんなに頼んでも、レヴィアンスは首を縦に振らなかった。「だめー」「やだー」とかわし続け、とうとう写真は見せてもらえなかった。
「いつもなら、自分で撮った写真はすごく自慢してくるのに。なんで今回のだけだめなのよ」
脹れるイリスに、ガードナーが冷たいお茶を持ってきてくれた。そしてこっそり囁く。
「私も見せていただいていないんですよ。あの日のことは、閣下と夫人の秘密なんです」
「……あー、そういうこと」
ようやくイリスにも合点がいった。つまりレヴィアンスは、エトナリアを独占したいのだ。一番きれいな瞬間は、自分と相手以外の誰にも見せまいとしているのだろう。ニヤニヤしながらレヴィアンスを見ると、「いいから仕事」と書類を寄越された。
――なんだ、レヴィ兄、新しい恋できてんじゃん。順番がめちゃくちゃだけど。
今日もレヴィアンスの左手の薬指には、銀のシンプルな指輪がある。そしてきっと、どこかで忙しく働いているエトナリアの指にも。
あたしたち、たぶん周りが思ってるより、お互いが好きよ。――あのときは本人たちにとっても「たぶん」だったのかもしれないけれど、今は確かだ。



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2017年07月16日

希望と願いの剣

インフェリア家はエルニーニャ王国建国の英雄の末裔、軍御三家の一つ。代々軍人を生業としてきた。しかしその十七代目にあたるカスケード・インフェリアは、大総統を務めた祖父と同じ名前を持っているにもかかわらず、軍人にはなりたがらなかった。そうなることを強要する父への反発だったが、結局は父の出した条件をのんで軍籍に入った。高い身体能力と、何より家名が入隊の決め手だった。
ジューンリー家は特に歴史に名を遺すこともない、平凡な一市民だった。あえていうなら代々手先は器用で、細かい作業を必要とする仕事や、細工物を作ることで生計を立てる者が多かった。ニア・ジューンリーの親も銀細工を作って売ることを仕事にしていたが、そんな平和で平凡な日々は、ある日突然炎に包まれ、跡形もなく燃え尽きてしまった。唯一生き残り、行き場をなくしたニアが選んだのは、軍に入ることだった。
そんな二人が出会い、手を取り、一緒に「人を助ける軍人」を目指すことになった。ニアはカスケードを家名で特別視するようなことはしなかったし、カスケードはニアがみなしごであることを必要以上には気にしなかった。ただ、二人で同じ方向へ歩いていられれば、それで良かった。
「親友」でいられれば、それで。
二人が始まった夏の盛り、それから時間は流れ、十五歳の夏。誕生日が近い二人が一緒に出掛けて、ニアが大剣を手に入れた、これはその後の物語。


重い大剣を引きずる親友の姿を、カスケードはかれこれ一時間眺めていた。もちろんそのあいだ、自分も射撃訓練をしたりしていたのだが、ニアが新しい相棒と格闘しているのが気になって仕方がなかった。
「ニア、やっぱり無茶じゃないか。今まで通り細い剣を使ってたほうがいいって。そんな重いの、扱いにくいだろ」
少し離れたところから声を飛ばす。するとニアは、ムッとして返事をした。きれいな形の眉が寄る。
「そんなの、やってみなきゃわからないよ。使ってたら、扱えるようになるはず。なにかコツが掴めるかもしれない。僕は絶対に諦めないからね」
今まで、ニアの得物は軍支給の細身の剣だった。軽くて扱いやすい、女性が選ぶことも多いものだ。ニアは見た目が華奢で、実際十五歳男子としては少々非力ではあったので、それが最も扱いやすかったはずだ。それが急に大剣を持つことになったのは、十五歳の誕生日に、それに出会ってしまったからだ。
カスケードとともに商店街へ出かけ、そこで見つけた、幅の広い大きな刃にしっかりとした柄の剣。巨大なそれに、ニアはあろうことか一目惚れしてしまった。しかもその店の主は、「コツを掴めば使える」とニアにそれを譲ってしまったのだった。
店主の親友の、最後の作だという大剣。ニアは店主の親友への思いを代わりに受け取り、それを使いこなすことを目指して特訓を始めた。カスケードも「使えると信じてくれたのだから、大切に使うのがニアの義務だ」などと励ましたが、実際に訓練しているところを見ると、やはり不安になる。
ニアの体格と大剣は、どう見ても不釣り合いだ。引きずっている時点でアウトだろう。今になって、カスケードは自分の発言を後悔していた。余計なことを言って、ニアに期待を持たせるのではなかった。
「諦めないにしても、今日はもうやめとこうぜ。腹も減ってきたし」
今は終業後。練兵場には見張りの上官がいて、残って訓練をしている下級兵たちの様子をチェックしていた。その視線も、こちらへ向くと苦笑いするのだ。誰もが、ニアに大剣を扱うのは無理だろうと思っている。
できると信じたいと思ったカスケードでも無茶だと思うのだから、他の人はもっと「無理だ」「不可能だ」と思っているかもしれない。
それでもニアは、そんな視線や声など無視して、大剣を必死に持ち上げて振るおうとし、耐え切れずに地面に落とすことを繰り返していた。
「カスケードは先に戻ってていいよ。僕はもう少しやっていく。筋力トレーニングにもなるし」
「お前を残してくくらいなら待ってるよ」
「そう? じゃあ、あと五分だけ」
ニアは頑固だ。強情だ。それは実は、出会った時から変わっていないのだった。笑顔と穏やかな声で、他人にはそうとわかりにくかっただけで。

上司と二人の軍人寮の部屋で、カスケードはぼうっとしていた。ニアは別室で、他の上司と一緒に暮らしている。同じ部屋だったらいいのに、と話したことはあるけれど、それは実現されていなかった。カスケードの同室は軍家出身の者、ニアの同室は子供の頃に身寄りをなくした、つまりは同じ境遇の人間だ。
「インフェリア、ぼーっとしすぎ。暇なら武器の手入れするなり、ちょっと勉強するなりしたら? お前、趣味とかないんだし」
同室は悪気なくそんな言葉をかけて、自分は飴を舐めながら漫画本を読んでいた。瓶にいっぱい入った飴を、カスケードに分けてくれたことは一度もない。欲しいとも思わないが。
「別に、なんにも考えてないわけじゃない。ニアのことを考えてたんです」
「ジューンリーのことなら四六時中考えてるじゃんか、お前。あいつのこと好きなんだろ? 同室になれるよう、セレスさんに言っといてやろうか」
コロコロと飴を口の中で転がしながら、同室は笑う。この同室が「わざわざ部屋替えまでして同室になるようなやつらは、寮管理人のセレスさんに付き合ってるんだと思われてる」なんて言うものだから、カスケードからニアに同じ部屋になれたらいいなと話すことはなくなった。気恥ずかしくて、できなくなってしまった。
「あー、でも、最近のジューンリーに関しては俺も思うところがあるかな」
同室は漫画本から目を離さないまま言う。
「どういうことですか」
「お前もわかってんじゃない? あの大剣だよ。突然手に入れて、すぐに武器登録して。あんなでかいの、ジューンリーみたいなひょろひょろに使えるわけないじゃん。大剣ってのは、もっと鍛え上げたやつがぶんぶん振り回して使うんだよ。周りの敵を一振りで一掃する、その光景は超かっこいい。でもさあ、ジューンリーにはそんなの無理無理。だってそもそも、まともに持ち上げられないし」
あいつチビだしなあ、と同室は鼻で笑い、漫画のページを捲った。カスケードは無性に腹が立ったが、言い返すことはしなかった。自分もニアにあの武器は無茶だと思っていた一人なのだから、言い返せない。
「インフェリアも、友達ならはっきり言ってやったら? もとの武器に戻せって。じゃないと任務のときも足手纏いになる。お前らよく組むんだし、諦めさせるのも優しさだよ」
確かにカスケードとニアはよく組む。二人とも今はフリーの人員だが、そのうちどこかの班に組み込まれて仕事をすることも増えてくるだろう。軍の多くの人間は大なり小なり班に所属して、任務には極力まとまった人数で臨んでいる。ニアが大剣を使いこなせなければ、その班でもうまく立ち回れなくなってしまうだろう。カスケードとニアが同じ班になるという確証はない。今、寮での部屋が別々であるように。
一緒ならサポートできる。ニアがその頭の良さを生かして作戦を立てて、カスケードが動けばいいのだ。今もそうしている。でも、別れてしまったら。
諦めさせるのも優しさ。ニアがこれから上手く立ち回るためには、彼の憧れを断ち切らせることも必要なのかもしれない。カスケードは組んだ腕に顔を埋め、ニアの笑顔を思った。大剣を苦労して持ち上げながら、それでも彼は希望を湛えて笑っていたのだ。

翌日もニアは、空き時間には練兵場で大剣を手にしていた。昨日持ち上がらなかったものが今日になって突然軽々と扱えるということはもちろんなく、重い鋼の塊との格闘は続いている。柄を何度か握り直しては少し持ち上げることを繰り返している様子からは、とても実戦で動けそうにない。
カスケードは自分の訓練をしながらニアを見て、何度か口を開きかけた。もういいんじゃないか、と。大切なものを譲り受けただけでもすごいことなんじゃないか、と。それとも、扱えると信じているだなんて無責任に発言したことを謝るべきだろうか。
結局何も言えないまま訓練の時間は終わり、二人で事務仕事なり簡単な任務なりに向かう。視察任務のときにニアが持っていくのは、大剣ではなく、軍支給の細身の剣だった。
「そっちも使うんだな」
「登録を解除したわけじゃないからね。今はまだ、こっちの方が役に立つ」
それを聞いてホッとした。つまり、いつニアが諦めても、武器で困ることはない。しかしニアはキラキラした瞳で続けた。
「でも、やっぱり大剣を実戦で使えるようになりたいな。あっちのほうがリーチがあるし、力も大きい。例えば、他の先輩たちがやっているような大型獣の退治なら、大剣のほうが断然都合がいい」
諦めるつもりなんか毛頭ない。きっとカスケードが無理だと言っても、ニアはあの大剣へのこだわりを捨てないだろう。あれはニアの願いの象徴だ。人を助ける軍人になりたいという、変わらぬ願いの。
一緒に同じものを目指すと約束した自分が、ニアの願いを否定しようとしている。そう思うと、カスケードの胸はじくじくと痛んだ。
「カスケード、そんな変な顔してどうしたの」
「変……失礼だな、変な顔なんかしてない。むしろ俺はかっこいい! と、よく言われる!」
「ええ、絶対今変な顔してたよ。何かまた、面倒なこと考えてるんでしょう。僕にはわかるんだよ」
ニアにはお見通しだ。こちらが悩んでいることも、もしかしたらその内容も。それでも大剣を使おうとしているのであれば、もう止める手立てなんかない。彼に中途半端な「優しさ」なんて必要ないのだろう。ニアは最初から、カスケードより強かった。胸に抱く、魂ともいえる心の形が、全然違った。
「あのさ、ニア。もし……もしも、だぞ。大剣が使えなかったらどうするんだ」
嘘がつけない、ごまかしが下手なカスケードだから、尋ねてしまう。胸をしめつけられるような思いで、声を絞り出して。するとニアは振り返って、にこ、と笑って答えるのだ。
「使えるって店主さんが言ってたから、そのもしもはない。だから僕は、考えてない」
いつだって物事を考えてから動くニアが、大剣を使えないという未来を考えていないのなら、その未来はないのだ。彼はきっと、あの重い剣を使う。考えるのは、それを使うためにクリアしなければならないハンデをどう乗り越えるかだ。
「心配しなくても、ヒントは見つけたんだ。僕みたいに非力でも、あれを使える方法。まだ実践してないから、うまくいくかどうかはわからないけどね」
「本当か?! どうやって」
驚くカスケードに、ニアは唇の端を持ち上げ、人差し指を立てた。
「内緒」


その任務は、十五歳の年末に入ってきた。
「貴族家を狙った盗難事件が相次いでいる。一件は傷害もついていて、貴族たちはいよいよ怯えている。何とかしろと軍に詰めかけてくる者も後を絶たない状況だ」
「住宅街の見回りの強化と、一部貴族家の護衛をします。護衛対象になるのは、年配の方や小さな子供、心身に障碍を持つ人を抱えている家庭。それぞれ交代で行なうので、持ち回りを確認しておいて」
事件のために大班が結成された。カスケードたちの上には、日ごろから世話になっている上司、マグダレーナがいる。よほど大事にならない限りは、彼女の指示に従うことになる。
「よろしくね、カスケード君、ニア君。あなたたちのコンビネーションには、みんな大いに期待しているんだから」
マグダレーナのウィンクに、カスケードとニアはしっかりと頷いた。また二人で組んで仕事ができるという嬉しさと、それ以上の使命感。もう二度と、昨年の春に出くわしてしまった事件のようなことはごめんだった。
昨年の四月、裕福層の住む住宅街で殺人事件が起きた。家の中も荒らされ、金品が持ち去られていたので、強盗殺人事件として処理されている。家主の男性が行方不明、女性が亡くなっており、三人の娘たちがかろうじて生き残っていた。その凄惨な現場を見てしまってから、そこにいた少女の涙を見てから、二人にとってこの手の事件は必ず防がなければならないものとして刻み込まれている。
「俺たちの担当は?」
「まずは見回りに加わってもらうわね。あなたたちはまだ階級が高いとはいえないから、護衛をさせるのは難しいの。実力はあっても、肩書がより重視されてしまうのが、こういう仕事だから」
だから頑張って出世してね、とマグダレーナが二人の背中を強めに叩いた。カスケードは嫌な顔をするが、ニアは笑って「はい」と返事をする。
見回りは今夜から始まる。カスケードとニアには、裕福層の住む住宅地の一画が割り当てられた。見回りの日は午前休みをとってもいいらしいが、第一陣である今日は朝から夜中までずっと仕事ということになる。十五歳の成長にはあまりよくないが、これも軍人としての務めだ。
見回りの時間になって外に集合したとき、カスケードはギョッとした。他の軍人たちも戸惑っている。ニアがあの大剣を背負っていたのだ。細い体に、あまりにも似合っていない。
「ニア、お前、それ使う気か?」
「使わないで済むといいよね。もし何か起こそうなんて人がいても、これを見たら驚いてやめるかもしれないでしょう」
むしろ見た目には弱そうなニアに、これ幸いと襲いかかってきそうなものだが。上司らに説得されても、ニアは首を縦に振らなかった。意地でも大剣を持って行くつもりだ。
「インフェリア、やめさせろよ」
ついにカスケードに助けを求め始める。けれども簡単に頷けない。ニアの頑固さは、ここにいる誰よりも知っている。そうと決めたら、梃子でも動かないのだ。
「俺がついてるんで、今日は許してもらえませんか。そうだ、いざとなったら俺がこの大剣使いますよ」
とっさに思いついたことを口にすると、上司たちは渋々と頷いた。まあ、インフェリアが一緒なら。ジューンリーもそれほど馬鹿ではないし。そう会話が飛び交う中で、カスケードはホッと胸をなでおろした。
しかし、ニアはそんなカスケードをじろりと睨む。
「カスケード、今の何? これは僕の武器だよ。カスケードには銃があるじゃない」
「そうだけど。でもさ、やっぱり大剣を扱うのって力がいるだろ。ニアは俺より非力だし……」
「だから僕には無理だっていうの? その認識は大きな間違いだ。僕には僕の、この剣との付き合い方がある」
ふい、とそっぽを向いたニアは、どうやら本気で怒ったようだ。そんなつもりじゃなかった、なんて白々しいことは、カスケードには言えない。喧嘩になってしまった今でも、戦わなければならなくなったら自分がニアから大剣を奪って振おうかと思っている。それが最も確実な、この剣の利用法だと。
険悪な雰囲気のまま、見回りが始まった。カスケードたちは指定された区画に、上司たちとともに向かう。冬のエルニーニャは、まだ暖かいほうだというが、ずっと住んでいる身にはやはり空気は冷たく感じる。コートをしっかり着込んでいても、体は震えるし、吐く息は白かった。
「ニア、寒くないか?」
「……平気」
まだ機嫌が直っていないらしく、返事は短い。どうしたものかと思っていると、手に温かいものが触れた。ニアが小さな白い布袋のようなものを、カスケードの手に押し当てている。
「これ、持ってれば温かいよ。僕はもう一つ持ってるから、あげる」
「サンキュ」
こんなときなのに、ニアはカスケードを思いやってくれていた。もっと怒ってもいいのに、ニアの怒りはいつも長続きしない。ことカスケードに対しては、頑固なくせに、別の部分で譲ってくれることが多かった。
揉むと熱を発するらしい布袋を、コートのポケットにしまう。時折、ポケットに手を入れて温めた。ニアがそうしているように、カスケードも真似る。冬の夜の一日目は、そうしているうちに何事もなく終わった。

二日目、三日目も、カスケードたちには何も起きなかった。他の区画に行った班は、怪しげな人物を捕まえることもあったようだが、いずれも貴族家を狙う者ではなかった。しかし事件は、軍を嘲笑うかのように続いている。見回りの目をすり抜け、軍が護衛をしていない家を巧妙に狙い、盗みは繰り返されていた。そうなると貴族たちの不満はいよいよ膨らみ、軍への苦情や不信感が今にも爆発しそうになっている。この事態を重く見たマグダレーナら上司たちは、より見回りを強化するよう計画を立て直した。見回りの時間は長くなり、一晩あたりで歩く距離も増える。他の仕事に支障が出ないギリギリのラインで動き、なんとかして事件を解決しようと尽力していた。
カスケードとニアも、欠伸を噛み殺しながら日々の仕事をこなし、見回りに参加する。ニアの背中には毎回大剣があったが、今のところ一度も抜かれてはいなかった。相手がいないのだから、抜く必要はない。
大剣を使わないことに、カスケードもニアも安堵していた。けれども理由はそれぞれ違う。カスケードはニアの身を案じ、ニアは自分の見回る場所が無事であることに安心した。
「でも、そろそろ窃盗犯は捕まえないとね。あんまり被害が増えて、もっと酷い事件になったら困る」
「そうだな。貴族は軍に頼らないで自分でなんとかしたほうがいいんじゃないかって言いだしたらしいし、怪我人がまた出る前に決着をつけたいって上司連中も言ってる」
もう二度と惨劇が起きないように。カスケードとニアの想いはそれだけだ。今夜も武器を手に、町中の見回りが始まった。
十二月ももう下旬。安心して新しい年が迎えられるよう、物騒な事件は片付けてしまいたい。貴族も軍も、その気持ちは同じだった。
「止まって。……今、屋根の上を何かが走っていった」
班を率いていたマグダレーナが、腕を伸ばして立ち止まる。見上げた班員たちは、遠くに微かに移動する影を見た。
「こちらマグダレーナ班、東区画にて不審者を発見。追います」
無線で他班と連絡をとった、それが合図。通信が終わるや否や、カスケードとニアも他の班員とともに走り出した。途中の道で半分ずつ分かれ、次の道でまた半分。影の走る方向を追ううちに、いつのまにかカスケードとニアは二人きりになっていた。
「カスケード、みんなと分かれちゃまずいんじゃない? これはちょっと分散しすぎだよ」
警戒するニアを気にしている余裕も、カスケードにはなかった。だって、不審者には確実に近づいているのだ。もうすぐで追いつくところまで来ているのだ。あれを他の仲間が来るまで放っておくわけにはいかない。
「行き先はみんな同じだ。合流できるだろ」
「相手が僕たちと同じように複数人だったら? 考えているよりも、もっと大きな組織だったら……」
そんなはずはない。見えた影は一つだった。相手は一人、あるいはこちらと同じように少人数に分散しているはずで、もしものときでも二人もいれば対処できる。カスケードは考えたままに、ニアに告げようとした。だが、できなかった。
「やっとガキどもだけになった」
「階級章の色はよく見えねえが、そんなに高くはなさそうだ。さっさとやっちまおう」
「軍の目を掻い潜るのも、いい加減面倒になってきたしな」
いつのまにか、二人は囲まれていた。周りには柄の悪そうな大人たちがいて、手には棍などの入手しやすい武器が見える。どうやらニアの懸念通り、相手は大人数で、カスケードたちを罠に嵌めたようだった。
「おいおい、チビのほうが何かでかいの持ってるぜ。使えんのかよ、あれ」
「ただの荷物だろ。でかいほうには気をつけておけ。暗くてよく見えねえが、ありゃあもしかすると、建国御三家の人間かもしれねえ」
カスケードの額に青筋が浮いた。家のことをどうこう言われ、それと自分を結び付けられるのが、カスケードは何よりも嫌だった。軍の人々はそれをわかっていて、あまりインフェリア家の話題は出さない。しかし相手は、何も知らない人間だ。
「カスケード、冷静に」
「わかってる」
ニアの声で深呼吸をし、落ち着いて銃を構える。射撃の腕は悪くないつもりだ。ニアが大剣を使えるかどうかがわからない今、頼れるのはカスケード自身の力だけだった。
相手が一斉に棍を振り上げて襲いかかってくる。こちらに到達するよりも早く、カスケードは引き金を引いた。弾丸が一発、二発と放たれるごとに、相手の手や足を撃ち抜いていく。けっして殺してはいけない。奴らを捕まえ、これまでの事件と関係があるのかどうか証言をさせなければならないからだ。もとよりカスケードには、殺すための技術も心構えも足りていないのだが。
ニアは攻撃をひたすら避け、勢いづいた相手の自滅を誘っている。大剣を背負っているというのに、足取りは重く見えない。そういえば一緒に訓練をしていて、足運びが随分良くなっていたなと、カスケードは思い出した。
気が反れた、ほんの一瞬。カスケードの手から銃が弾かれた。相手も銃を持っていたのだ。弾丸は手には当たらなかったが、しっかりと握っていたはずの銃を遠くに飛ばすくらいの威力はあった。暗闇も不利に働き、カスケードは自分の武器を完全に見失ってしまう。
「くそ……っ、ここからは体術だけで頑張るしかないか」
体術にもいくらか自信はある。そもそも実技能力の高さをかわれて軍に入隊したカスケードだ。ニアとの訓練の中で、その技術も力も、当時より格段にあがっている。近くにいた敵を蹴り飛ばし、殴り倒し、なんとか凌いだ。だが相手が銃を持っているとわかった以上、それもどこから狙われたのかがわからないままでは、その対抗策が見つからない。さすがに徒手空拳で立ち向かうことは難しいだろう。
どうする。ニアだって、いつまでも逃げていられるとは限らない。――俺がニアを守らなければ、やられてしまう。
「カスケード、あっちには今、誰もいない」
不意にニアが囁いた。示された方向には、たしかに敵がおらず、頑丈そうな塀がそびえていた。
「あっちに離れててくれる? ここは僕に任せて」
「任せてって、どうするんだよ」
大剣は満足に扱えないはずだ。扱えたのを見たことがない。カスケードよりも力の弱いニアでは、格闘でも不利だ。しかし、ニアは笑顔を浮かべていた。
「大丈夫。突破口は見えてるんだ。でも君を巻き込みたくないから、早く離れて」
馬鹿なことを言うな、と叱り飛ばすべきなのかもしれない。でも、そんな余裕はなかった。それに何より、大剣を背からおろして柄を握るニアが、とても自信に満ちていて。
気がつけば、カスケードはニアの指示に従っていた。
「さあ、いくよ。……僕には、僕の戦い方がある!」
嘲笑いながら襲いかかってくる人々と、どこかから聞こえた銃声。危ない、とカスケードが叫ぼうとしたその刹那。
大剣の刃が、宙に輝いた。大きな弧を描き、その軌道にいた者と、ついでに銃弾までも、跳ね飛ばした。
あの細い腕で、カスケードより小さな体で、ニアは大剣を完全に使いこなしていた。
両手で柄を握り、それでも持ち上がらなかったはずの大剣が、ふわりと浮き上がって、その鋼の広い面で周囲の敵を叩く。動きが大きく、その分だけ攻撃範囲も広い。たしかにカスケードが近くにいれば、巻き添えを食うだろう。呆然としていると、手に何かが当たった。触れてみると、慣れた感触。どこに飛んだのかわからなくなっていた、カスケードの銃だった。ニアの周りは彼がどうにかする。誰だって、今のニアには近づけない。だったら離れたところにいる者は、カスケードの担当だ。再び銃のグリップを握りしめ、身体は体術の姿勢をとる。素早くあたりを見回すと、不思議なことに、遠くからニアを狙おうとしていた狙撃手がはっきりと見えた。近くにいた敵に拳を浴びせた直後、弾丸を放つ。闇の中で小さな影が膝を崩した。
突破口はある――ニアはずっと、このときを見据えていた。大剣を自在に操る、そのコツを掴んでいた。ただ日々を大剣を持ち上げては置くだけの繰り返しに費やしていたわけではない。どう扱えば自分の力でもこの大きな武器が振るえるのか、彼はずっと頭の中で計算していた。それがニアの得意なことであり、器用に道具を使うことはもっと得意なことだった。どうしてそれを忘れていたんだ、とカスケードはにんまり笑う。やっぱりニアは、すごいやつだ。
他の人員が現場に到着する頃には、カスケードたちを囲んでいた集団は壊滅していた。大剣を手にするニアに、誰もがぽかんとする。そんな軍人たちに、ニアは、えへ、と照れたように笑った。
同時に、他の班が窃盗団の確保に成功したようだ。その晩、窃盗事件は終息を迎えたのだった。


明日から新しい年を迎える。それと同時に、カスケードとニアの年齢は十六歳になる。満年齢はまだ十五歳だが、この国では一般的に年が変われば年齢も上がる扱いだ。
例のごとく実家に帰るのを嫌がったカスケードは、ニアの暮らす部屋に入り浸り――年末年始は二人とも同室の上司がいないのだ――インスタント食品と炭酸飲料と菓子を大量に持ち込んで年を越そうとしていた。
「ニアの部屋の人って、休みの日いつもどこ行ってんの」
柑橘の皮をむきながら、カスケードは興味なさげに尋ねる。
「お世話になってた施設の手伝いに行ってるんだよ。前に言わなかったっけ」
「んー、忘れた」
果物の実を口に放り込む。酸っぱい味が広がって、そこに炭酸飲料を流し込んだ。
「なあ、ニア」
「何?」
「あの大剣、どうやって使えるようになったんだ。店主が言ってたコツっての、掴んだんだろ」
ずっと訊きたかった。どうしてあの瞬間、ニアは大剣を振るうことができたのか。掴めば使えるようになるという「コツ」とは何だったのか。身を乗りだすカスケードに、ニアは首を傾げて微笑んだ。
「知りたい?」
「もちろん」
「でも、カスケード、信じてなかったでしょう。励ましてくれたけど、本当は僕に大剣を使うのは無理だって思ってた」
ぎくりとした、感情がそのまま顔に出る。しかしニアは怒らずに、代わりにいたずらが成功した子供のような顔をした。
「だから今は教えない。どうしても知りたかったら、いつか突き止めてごらん」
「ええー、それ余計気になる……」
テーブルに突っ伏したカスケードの頭を、ニアがぽんぽんと優しく叩く。きっといつかはわかる。カスケードも、あの大剣を使ってみればいい。
それは少し遠く、けれどもあまりに近すぎる未来の話。それまで二人は、並んで歩いて行くのだ。



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お話まとめ

サイトのストーリー更新しました。
SecondAge内Afterに、魔眼編全六話掲載。
これにてSecondAgeAfterの本編は、SecondAge本編と同じ全39話で完結となりました。長い間ありがとうございました。
お話の更新はまだ続きます。
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