2018年04月29日

雪の妖精 第一章(5)

 うとうとしているうちに、眠ってしまったらしい。ディンゴを起きて迎えようと思っていたのだが、想像以上に体が疲れていた。目が覚めるとベッドの上で、毛布がきちんと掛けられていた。自分で移動した記憶も、毛布をかぶった覚えもないから、ディンゴは帰ってきたのだ。
 しかし、その姿がどこにもない。家中を探して、食事を摂ったらしい痕跡は見つけた。一度帰ってきたのは間違いない、が、すぐに出ていってしまったのだろう。
「忙しいのかな」
 宿舎に来ていた兵士たちの会話に、ディンゴの名は度々あがっていた。彼はどうやらこの辺りをメインに守る「本営の兵士」で、その中でも特に名の通った人物なのだと、ルネはそれを聞いて初めて知ったのだった。同じ会話の中に、仲間であるラステット、カルバ、ベレの名前も出てきたので、いつもそのメンバーで行動しているのだろう。
 守るべきものが多い本営の兵士は、そうのんびり休んでもいられない。嫁をとる余裕もないわけだと、ルネは納得してしまった。だからといって諦める気は毛頭ないのだが。
「だって、こんなに優しいもんね」
 毛布を頬にすりよせて、その温もりに浸ってから、ルネは自分も出かける支度をした。急いで宿舎に行って、朝食の後片付けを手伝わなければ。
 今日の宿舎は忙しかった。兵士たちがたくさん来て、あちこちで話し合いをしている。話し合いに酒とつまみは不可欠のようで、朝食と昼食の間、昼食と夕食の間も、軽食の要求がたえない。ルネもずっと動き続けて、テーブルに酒を運んだり、皿洗いを頼まれたり、あちこち動き回っていた。
「ニオ隊が来てるんだよ」
 一緒に働いている女性の一人が囁いた。
「あんまり素行の良くない集団なの。本営より東側を根城にしてたんだけど、どういうわけかこっちまで来たみたいだね」
 たしかに、テーブルに近づいたときに聞こえた言葉は、昨日聞いたものよりも乱暴だった。どのくらいの人を殺しただのなんだの、聞いていてあまり気持ちの良い話題ではない。しかし兵士たちは、それを愉快そうに笑って話すのだった。
「武勇を勘違いしているのよ。本営の兵士はあんなこと自慢げに言わない」
 そう言って眉を顰める女性に、ルネは頷いた。ディンゴなら、あんな話はしないだろう。殺しをした話をしたとして、笑うなんてことはないはずだ。だって、ルネの姉たちのことを、あんなにも案じてくれたのだから。
 お喋りしてる暇はないよ、とリンに叱られ、ルネたちは仕事に戻る。つまみを作っては運び、空いた皿を片付け、それをくりかえしていると目がまわるようだった。兵士たちはそんな忙しいルネたちをときどき捕まえては、可愛いなあ、だとか、どこに住んでるの、だとか尋ねてくる。しかしリンの言いつけで、何を訊かれても答えてはいけないことになっていた。
「適当に笑ってごまかしな、キリがないんだから」
 最初はどうすればいいのかわからなかったルネも、他の女性たちがやっているのを真似て、なんとか振る舞えるようになった。次のお客さんが待ってるので失礼します、と急いでいるふりをして手を振り払うコツを覚え、なんとか夜を迎える頃には、昨日以上に疲れていた。
「お客さんをさばくのって、大変ですね」
「ニオ隊だから余計だよ。本営の兵士なら、こっちが忙しいのもわかってくれてるから、余計なことはあんまりしないんだけどね。どうやらあいつらには配慮ってものがないらしい」
「本営の兵士っぽい人はあんまり見かけませんでした」
「今日は会議があったそうだよ。ディンゴから聞いてないのかい」
「起きたらもういなかったんです。だから会ってなくて……」
 そろそろ夕食の準備も終わろうかという頃、どっと人が入ってきた。席に着くなり「飯を寄越せ」と叫んだのは、一際いかつい男だ。一緒にやってきた者たちもどかどかと椅子に腰かけ、早くしろ、と騒ぎ立てる。もう夕食のピークの時間になってしまっていたのだろうか。
「噂をすれば、ニオだね。本営はまだ会議中でいないから、ああやって威張るんだ。これから忙しくなるけど、ルネは先に帰りな。長くなるからね」
「でも、お手伝いを」
「アンタ、まだ十三歳だろう。あんまり長い時間、働かせるわけにはいかない。家に帰って、ディンゴの帰りを待ちな」
 リンに背中を押され、ルネは厨房から出されてしまった。上着を羽織ってからちらりと食堂を覗くと、女性たちが男性たちに酒を注いでいた。すでに注いであるものや、瓶だけを持っていくのではない。そして男たちと一緒に、少量だけだが、酒を口にしていた。テーブルに行ってそのようなことをしなければならないとわかっていたから、ルネは帰らされたのだ。
「私には手伝えないのか……」
 ルネは酒が飲めない。飲んだことがないのだ。ただ、蒸留酒は匂いを嗅いだだけでくらくらしてしまう。それではあの場は手伝えない。リンのように毅然として断ればいいのだろうが、きっとニオ隊と呼ばれるあの人たちには、それが通用しないのだろう。
 おとなしく帰ることにして、ルネは宿舎をあとにした。手には貰った賄いを抱えている。ルネとディンゴの二人分だ。家に帰ったらこれを温めて食べなさいと、リンが渡してくれたのだった。
――きっとディンゴは、腹を空かして帰ってくるからね。
 会議の後は、ディンゴは大抵すぐに家に帰るのだという。急いで帰って、支度をして、一緒に食事ができるといい。今朝彼の顔を見られなかった分、楽しみで仕方がなかった。
 そうして周りに気を配ることをすっかり忘れていた。――こちらに近づいてくる影に、全く気が付かなかった。
 突然腕を引っ張られ、ルネの手から賄いの包みが落ちる。わけがわからないまま雪の地面に押し倒されて、動けなくなる。月を背負った真っ黒な影が、ルネに覆いかぶさっていた。
「な、なんですか?」
 問うも答えはない。ただ荒い息が、白くなって立ち上る。相手の顔は全く見えない。見えないまま、近づいてきた。そうしてルネの首筋に、ぬらっとしたものが触れる。それが舌だとわかった瞬間、ルネは頭の中が真っ白になった。
 気持ち悪い。肌が一気に粟立つ。どうしてこの人はこんなことをするのだろう。どうしてこんな――怖いことを。
「やだ……っ」
 相手を押しのけようにも、力がまるで足りない。もがいているうちに両手を大きな手一つにとられてしまい、頭の上で固定される。相手のもう片方の手は、ルネの足をなぞるように触り、腿のあたりでぐっと力を入れる。抵抗もむなしく、足を開かされた。
「やめてください! 放して! 誰か……」
 辺りは暗い。遠くで宿舎の騒がしい声が聞こえる。ここで起きていることには、誰も気づかないだろう。気づかれないとわかっているから、相手はこんなことをするのだ。
――ディンゴさん。私、あなたの言いつけを守っていればよかったんですね。
 宿舎の手伝いができたことは良かった。家を飛び出してでもやる価値があると思った。でも、こんなことになるなら、我慢して家にいればよかった。
 冷たい涙がこめかみを伝う。いろんな人の顔が頭をよぎった。その誰も、ここにはいない。助けなんかこない。
「私から離れて!」
 もがいても、もがいても、きっと無駄だ。でも最後まで諦めたくはなかった。こんなことに屈したくなかった。涙目で睨んだ相手の顔はやはり暗くて見えなくて、けれどもその向こうにあるものは、どうしてかすぐにわかった。
「てめぇ、俺の家の前で何してやがる」
 低く重い声。ふっとかかっていた力がなくなった。自由になった手で服の裾を直しながら、現れた人物を見上げる。――間違えるはずもない。彼に助けられるのは二度目だ。
「ああ、なんか見たことあると思ったら。お前、ニオ隊の下っ端か。宴会にも混ぜてもらえなかったから、自棄になって女を襲おうとしたってところかね。まったく、躾がなってねぇな」
「ひ……っ、お前、本営の」
「本営の、じゃねぇよ。どこにいようと関係ねぇ。名前で覚えとけ。俺は北領で最強になる予定の男なんだからな」
 さっきまであんなに恐ろしかった人物が、情けない声を出しながら放り投げられる。さほど大きな音がしなかったのは、雪が積もったところに着地したせいだろう。それほどまでに雪に囲まれた場所なのに、彼の声はよく響いた。
「俺はディンゴだ。そのちっちぇえ脳みそに、よーく刻んどけ」
 彼の表情なら、暗くても見える。月を背に、眉を寄せて、獲物を睨み付けている。狩人の眼、本物の兵士の姿が、そこにあった。
「もう二度とその女に手ぇだすんじゃねぇぞ。そいつは俺の嫁だ」
 言われた人物は慌ててその場から逃げ出したので、最後まで聞いていたかわからない。でも、ルネの耳にははっきりと残っている。彼はたしかに「俺の嫁」と言った。ルネのことを、そう言ったのだ。
 何度も頭の中で反芻しているうちに、目の前に手が伸びた。大きくて武骨な掌は、またも自分を救ってくれた。そっと手を伸ばして触れると、強く握られ、引き寄せられる。
「怪我は」
「あちこち痛いけど、怪我はしてないと思います。ディンゴさんが来てくださったおかげで、何もされずに済みました」
「そうか」
 へら、と笑ってみせるが、ディンゴはちっとも表情を崩さない。安心したような素振りもなかった。
「おーい、ディンゴ。今躓きながら逃げてったの、お前が脅したのか」
 聞き覚えのある声と、複数の足音が近づいてくる。ラステット、カルバ、ベレの三人だ。大きな荷物を持っていて、匂いでそれが新鮮な肉だとわかる。
「あ、ルネちゃんじゃん。寒いのに外にいたの? お土産沢山持って来たから、宴会しようぜ!」
 ベレが肉を掲げて笑う。それを見たらなんだか力が抜けてしまって、止まっていた涙が一気に溢れ出した。ぼろぼろ、ぼろぼろと零れるそれは、一所懸命に拭っても一向に収まらない。ベレが焦り、ラステットが宥める声が聞こえた。
「まずは家に入ろう。いいだろう、ディンゴ」
「そうだな。顔を凍らすわけにいかねぇ」
 ルネの背中に、ディンゴの手がそっと添えられた。いつかのように、温かな手だった。
 涙が止まる頃には、焚火のパチパチとはぜる音と、肉を焼く匂いがしていた。落としてしまった賄いの包みも拾ってくれたようで、宿舎の厨房に広がっていたものと同じ香りも混じって漂っている。肩にかけられた毛皮は、よく見れば上着に仕立てられていて、おそるおそる袖を通してみると、ルネの腕の丈にちょうどよかった。
「……これ」
「ちょうどいいのがあったんで作らせた」
 ぶっきらぼうにディンゴが答える。だが、ルネだってわからないわけがない。年の割に小さな自分の体にちょうどいい毛皮など、そうあるものではないのだ。上着の寸法はいいかげんなものではない。これはたしかに、ルネのためにあつらえられたものなのだった。
「ルネちゃん、もしかして寒がりなんじゃないかって。当たってる?」
 酒を注ぎながら、ベレが言う。
「はい、あんまり得意じゃないです」
「ディンゴさあ、最初に会ったときからわかってたっぽくて、ルネちゃんが来てから大急ぎでその上着作らせてたんだよ。裏地も温かくていいでしょ」
「おいベレ、余計なこと言ったらぶん殴るっつっただろうが」
 ディンゴの眉間にしわが寄るが、今は不機嫌なわけではないだろう。彼はどんな感情を表すときでもそうしてしまうのだ。雪焼けの顔が少し赤く見えるのは、炎の近くにいるせいだけではないだろう。
「ここまでしてくださって、嬉しいです。ディンゴさんには、私の全てをかけて恩返ししないといけませんね」
「そんなのいらねぇって。恩とかなんとか、そんなつもり最初からなかった。なかったもんをどう返すってんだよ、何かされるとこっちが返さなきゃいけなくなる」
 低い声は少し早口で言う。武骨な手は片方にナイフを持って、焼けた肉を削ぐ。そうして脂の照った美味しそうなところを、一番にルネに寄こした。
 礼を言おうとしたが、最初の一音も口にすることはできなかった。
「なんでお前は、自分を傷つけた人間の嫁になんかなりたがる。足が痛いのにここまで通ったりして。理解できねぇ。もし父親の言いなりになってるんだったら……」
「違いますよ。お父さんは関係なくて……私がディンゴさんを好きになってしまったんです。あったかくて、優しいから」
 大きくかぶりを振り、遮られないように一気に言い切った。ひゅう、とベレが口笛を吹いたのを、ラステットとカルバが軽く叩いて窘める。この人たちは、本当に仲がいい。彼らさえいれば、ディンゴは生きていけるのかもしれないし、また心置きなく死んでいけるのかもしれない。
 だからこの気持ちは、ディンゴのためのものではない。ルネのための、ルネの想い。生まれて初めて抱いた、簡単には手放したくないもの。ディンゴ以外には絶対に触れさせたくない、触れてもらえなければ仕方がない。
 灯った炎はいつのまにこんなに大きく育って、身を焦がすようになったのだろう。
「やっぱり理解できねぇな。女ってのはもっと、見た目のいい奴が好きなんじゃねぇのか。カルバなんかここいらの女のほとんどにキャーキャー言われるし、ラステットは俺よりよっぽど紳士だぜ。ベレはこう見えてよく気のつく奴だ。なのに、なんでお前は俺なんかが良いんだ」
 肉を多すぎるくらいに削ぎ続けながら、ディンゴは息継ぎをしているのかと疑いたくなるくらいに疑問を並べる。適当なところでラステットが仲間たちに肉を分けたが、自分たちはまるでいないかのように静かな振る舞いだった。
「そういうところですよ」
 だからルネも、遠慮なく自分の気持ちを伝える。
「仲間のことによく気が付いて、私のことを気遣ってくれて、……それから、私は最初から、あなたのことを素敵だと思っていました。里のために役に立たなきゃって使命感はありましたけれど、役目を果たすなら相手はあなたが良かった」
 たしかにラステットは物腰が柔らかく、カルバは美男子で、ベレは明るい。それぞれに魅力的なのは尤もなのだが、ルネの気持ちは初めて会ったあの瞬間から決まっていた。私は、と強く声に出す。
「私は、あなたのお嫁さんになりたい。あなたの家族になって、あなたの子供を産んで、あなたをそう簡単には死なせない。たとえあなたが戦って死んで、それに満足したとしても、それだけで終わらせない。あなたの生きた証を、私がつくりたいんです」
 これでも伝わらなかったら、もう尽くす言葉がない。それくらい力いっぱい語ったつもりだ。ふとディンゴの眉間に目をやると、深かったしわはほぐれていて、その下には呆気にとられたような表情があった。目も口もぽかんと開いて、ちょっと間の抜けた顔が。
「……一生ないくらいに口説かれたな」
 カルバがぼそっと呟くと、ベレがとうとうふきだした。今まで我慢していたのか、笑いだしたら止まらなかった。ラステットはただにこにこして、ルネとディンゴを見ていた。視線に気づいて、急に顔が熱くなったルネだった。
「すっげー! で、で? どうするの、色男は」
 ベレが興奮して騒ぎ始め、ディンゴもようやく我に返ったらしい。つと立ち上がると、ベレにずかずかと歩み寄って、その頭を平手で強かに叩いた。天井まで響くいい音がした。
「これは今笑いやがった分な。さっきの余計な言葉の分がまだあるぜ」
「いってえ……。人を殴らずに照れろよ」
「てめぇが殴らせてんだろうが。……んで」
 少しすっきりしたような顔が、ルネに向けられる。やっとまともに目が合った。絶対に逸らすまいと、ルネは少し身を乗り出す。肉の盛られた皿は、しっかりと持ったまま。
「嫌なこと思い出させるだろうから、言おうか迷ってたんだが。さっきお前が襲われてたの見たとき、俺は助けなきゃとか、そういうことは一切思ってなかった」
 さっきのこと、なんてルネはすっかり忘れていた。そういえばそんなことも、ととても昔の出来事のように思い出し、そして少しだけ気持ち悪さがよみがえった。そのほんの少しが表情に出たらしく、ディンゴは表情を歪めて「悪い」と言った。
「いえ、大丈夫です。続けてください」
「そうか。もしかしたら、もっと嫌な気分になるかもしれねぇぞ。俺はな、あのときは何も考えちゃいなかった……と思ってた。けど改めて考えてみたら、ありゃあなわばりを荒らされたような気がしてたんだな」
 なわばり、と口の中で繰り返して、ルネは首を傾げる。現場が家の近くだったのだから、それは当然の思いだろう。とそのまま返そうとしたら、ラステットが呟いた。
「ディンゴ、言い方下手」
 最後までなりゆきを見守っていそうだったその人の一言に、ディンゴはたちまち顔を赤くした。この変化は、何だ。まばたきをするルネに、ディンゴは向き直って、少し自棄気味に言い放った。
「俺のもんに何しやがる、って思ったんだよ。そんでまだイライラしてる。あの野郎、次に見かけたら絶対半殺しにしてやる」
 途中から恨み言になってしまったが、その意図するところは察した。「俺のもん」――きっとそれは、ルネの熱烈な告白に対する、彼なりの熱烈な答えだった。
「お前を連れまわすことはできねぇし、だからといって家でおとなしくしてろってのも無理な話だってのはわかった。リンたちから仕事のことは聞いたからな。だから四六時中一緒にはいられねぇ。お前を守り切ることはできないかもしれねぇ」
「はい」
 彼は兵士だ。守らなければならないものは大きく、ルネだけには構っていられない。それはわかっている。わかっていなければいけない。
「俺の家族だって言いふらしとけば、ちっとは安全だろう。俺も勢いで言っちまったし、今度から堂々と言っていい。『自分は北の暴拳ディンゴの嫁だ』ってな」
 嫁だと、家族だと認められるなら、常に胸に留めて、抱きしめておかなければ。絶対に離さないように、奪われないように。
「はい!」
 笑って頷いたルネを見て、ディンゴは小さく息を吐いた。それからまた肉を切り始め、削いではルネの皿に盛る。忙しなく、どんどん、どんどん。
「あの、こんなにたくさんは食べられないですよ」
「何言ってやがる、食ってちゃんと体に肉をつけろ。そんな細っこいうちは子づくりなんかできやしねぇだろうが」
「は、はい! 頑張ります!」
 背筋を伸ばして肉を口に運び始めたルネ。ひたすら肉を切るふりをして、赤くなった顔を隠そうとするディンゴ。二人を眺めながら、仲間たちはそっと乾杯をした。
――とんでもないこと言ってるって、わかってるのかね。
――まあ、ディンゴらしいんじゃね? ルネちゃんも天然っぽいし、お似合いだよ。
――あれが幸せなら、それでいい。
 新しい日々が始まろうとしていた。この温かな家から。




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2018年03月25日

雪の妖精 第一章(4)

 翌日、ディンゴは朝早くに――けれどもルネがもっと早く起きて作った朝食は完食した――改めて「夜中まで戻らねぇぞ」と言い残して出かけていった。さて、本当にそうであれば、丸一日暇である。家事をやってしまえばこの家の中でやることはない。針仕事でも、と思ったが、ディンゴの衣服はいずれも丈夫で破れているところなんかなかったし、刺し子ができるような端切れもなかった。里の実家には機織り機があって、植物の繊維を織り上げて布を作り、衣類を縫い上げ、植物で染めた糸で綺麗に刺し子をしたものだ。ルネも姉たちに習って、たくさんの模様を刺すことができた。
 出来上がった品は自分たちで使うよりも、街で食料や生活用品に換えることが多かった。刺し子の着物は美しく、しかも保温に優れているので、評判が良かった。特にルネの姉たちが刺したものは好評で、嫁に行くときもその稼ぎが役に立った。
「……」
 もしも、とルネは俯く。もしも姉たちがそれほどまでに稼がなかったら、姉たちは今でも里にいたのだろうか。父に言われるままに他所へ嫁ぐことなく、家族みんなで仲良く暮らしていただろうか。自分の意思で里を出てきた、ルネが考えることでもないのかもしれないけれど。
――他所者は嬲り殺される可能性だってあるんだ。嫁にやるなんて冗談じゃねぇよ、姉妹同士でいがみ合わせる気か!
 あのときのディンゴの言葉が気がかりだった。姉たちは、今頃どうしているのだろう。せめて他所の様子がわかるような情報はないものだろうか。
「外に出れば、誰かの話が聞ける」
 この家からちょっと出かければ、あらゆるものが手に入りそうだ。情報も、刺し子のできる端切れと糸も、切れかけていた塩や香辛料も。それらがなくてもいい、誰かと話がしたかった。たった一言、挨拶を交わすだけでもいい。
「少しなら、いいよね。ディンゴさん、夜中まで帰らないって言ってたし」
 上着を羽織って、そっと扉を開ける。冷たい風と、太陽に照らされてちかちかと光る雪の地面。微かに漂う煤の匂い。故郷とは少し違う、けれども似たような外の空気が、ルネを包んだ。
 そもそも家にずっとこもっているのは性に合わないのである。たとえもう一度罠にかかったとしても、きっと懲りない自信があった。
「……よし」
 家の前に残っていたディンゴの大きな足跡に、ルネの小さな足が重なった。
 街の賑わっているところは、もっと色々な匂いがした。何かを燻していたり、大きな鍋で煮ていたりを、寒いのに外でやっている。漂ってくる美味しい香りにつられるように、ふらふらと毛皮を着た男性の一団がやってきて、鍋からスープを、燻製器から肉の腸詰を貰っている。いや、何かと交換しているのだ。よく見れば、それは皮を剥いだ兎だったり、羽を毟った鳥だったりした。つまりすぐに調理に取り掛かれる状態の、猟の成果物。なるほど、あれならずっと燻製やスープを作り続けられる。
 軒先で調理をしているのは、例外なく女性だった。子供がその手伝いをしている。大人の男は大体が兵士として戦いに行ってしまうので、彼らを食事でサポートするのが女の仕事になっているのだ。きっと食事以外にも、繕いものだとか、洗濯だとか、生活のあらゆる面を支えているのだろう。家単位ではなく、地域単位での家事労働というわけだ。
「あら、お嬢ちゃん、見かけない子だね」
 感心して見ていると、声をかけられた。ずっと大鍋をかきまわしている、ふっくらとした女性。ルネよりも二回り半は年上だろうか。などと考えていたら、わらわらと近所から女性が集まってきた。のっぽの女性、小柄な女性、年齢もきっとばらばら。しかし誰もが手におたまや調理用のへら、鍋の蓋などを持ったままだった。
「ホント、どこから来た子かしら」
「まあ、綺麗な銀色の髪だこと。あなた、お名前は?」
「ちょっと待って、私、この子見たことあるわ。前に肉を交換したことがある。でも、こんなに小さかったかしら……?」
 囲まれてわいわいと騒がれるので、ルネはどこから答えていいのかわからなくなってしまう。頭の中に返事はあるのに、ええと、その、あの、しか出てこない。山の中の里から来ました、名前はルネです、肉を交換しに来たのはたぶん姉です、……と言いたいのに言えない。小さい体をさらに縮こまらせていると、後方からパンパンと大きな音がした。
 ああ、そういえば昔、一番上の姉がああして手を叩き鳴らしていたっけ。姉妹がみんなで、あれをしたい、これをしたいと好き勝手に騒いでいるときに。
「アンタたち、その子が困ってるじゃないか。いいかい、質問は順番に簡潔に、だよ。あと、自分のとこの料理を疎かにしない!」
 毛皮を着て、さらに前掛けをした女性が言う。途端に女性たちは散って、自分が世話をしていた鍋や燻製器、串焼き網を見に行った。そうしているあいだに毛皮に前掛けの女性が、ルネにずいっと近づいてくる。森の緑の髪が揺れ、美しい相貌にかかった。姉たちとは種類の違う美人だ。
「なるほど、たしかに全く見たことがない顔じゃないね。何度かここいらに来てるだろう。里の子かい」
「は、はい。ルネといいます」
「綺麗な銀髪と銀の瞳だ。ロボの集落の娘かね。あそこの人たちは狩りはあんまり上手じゃないけど、刺し子が抜群に巧い。アタシらも随分世話になってるよ。今日は一人かい? 見たところ、品物も持ってないみたいだし……」
 この人が一番お喋りなのでは、というくらい口がまわる。だが、言っていることに間違いはなかった。ルネがいた里には、他の里と区別するためにロボという名前がついている。そしてたしかに、近くの里の中では一番刺し子の技術が優れていた。
「ええと、私、品物を交換しに来たんじゃないんです。ディンゴさんのところに、お嫁に」
 言いかけて、でもまだ嫁にはなっていないんだった、ということに気づく。しかしもう遅かった。目の前の美人も、戻ってきた他の女性たちも、「嫁」という一言に即座に反応した。
「嫁? あのディンゴに?」
「ディンゴって、あのおっかない顔したディンゴで間違いない?」
「この辺のディンゴっていったら、アイツ一人でしょう。アレに、嫁? しかもこんなちっちゃい子?」
「ええ……あの強面がこんな趣味だったの……」
 散々な言われよう、引き具合である。このままではディンゴの評判を落としかねない。ルネは慌てて、手をばたばたさせながら弁解した。
「違うんです、ディンゴさんはまだ私をお嫁さんにする気はないんですけど、私が勝手にお嫁さんになりたくて押しかけてきちゃったんです! あと、私もう十三歳ですし、子供も産めますから、みなさんが思うほどはちっちゃくないです!」
 すると女性たちはぴたりと騒ぐのをやめた。輪の外側にいる人たちが、周りを確認するようなそぶりを見せる。緑の髪の女性が、人差し指を立ててルネの唇に触れた。
「そういうことは、大声で言っちゃダメ。事情は分かったけど、そういうことならなおさら、自分の体のことはむやみに他人に言うものじゃない。もちろん、困ったことがあればアタシたちに相談してくれて構わないし、できる限り協力はするけどさ」
「……ごめんなさい」
「謝ることじゃないけど、男に聞かれたら厄介だからね。特に最近は、ガラの悪い連中がこの辺にも増えてきてる。女を無理やり手籠めにしようとする馬鹿男が、どこで聞いてるとも限らない」
 女の敵はよそ者だけじゃないんだよ、とあちこちから疲れたように息が漏れる。本来味方であるはずの人々でさえ、蛮行を働いているという現実を、ルネはこのとき初めて知ったのだった。
「まあ、ディンゴなら問題ないだろう。アイツは戦うことしか考えてない。……いや、それが問題なのか。とにかく、ルネを悪いようにはしないさ。いつも一緒にいるラステットやカルバもね。ベレは……軽い男だが、悪人じゃないよ」
「そうですよね」
 それだけはっきりしていればいい。ルネは胸をなでおろし、それからより多くの情報を引き出そうと、女性たちとの会話を続けた。
 緑の髪の女性はリンといい、この辺りの女性たちをまとめているという。女手一つだけでは賄いきれない部分を、二つ、三つと合わせて協力して生活をしているのだ。食事担当、洗濯担当など、女性たちは戦いから帰ってくる男性たちの身のまわりを世話してやりながら、自分たちも生きているのだった。
 リンは兵士たちが集う宿舎の料理番をしているのだという。同時に女性たちに仕事を紹介し、生活の知恵を貸す。彼女がいなければここに住む人間はとてもやっていけない、と誰かが言うと、リンはにっこり笑った。
「私がいなくても、誰かがやるだろうよ。今はたまたま私がここにいるだけだ。そうだ、ルネにも仕事を紹介してやろうか。ディンゴがいないあいだ、暇だろう」
 こちらの事情もお見通しだ。リンは少しだけ考えるそぶりを見せてから、いくつか質問をした。料理はできるか、刺し子はできるか、掃除は得意か。全ての問いに、ルネは「はい」と答えることができた。
「さすがロボの娘だ。よし、アンタには宿舎の仕事を手伝ってもらおう。男どもの飯を作ったり、床を整えてやったり、汗臭い服を洗濯してやったりする、特別忙しいやつだ。わからないことがあったらアタシたちに遠慮なく訊きな」
「はい! ありがとうございます!」
 嬉しかった。ルネは街で、人々の役に立てるのだ。家の中で暇を持て余すことなく、たくさんの人と関わりながら仕事をし、ディンゴの帰りを待つことができる。家ももちろん守る。胸に使命感という焔がめらめらと燃えた。
「じゃあ、さっそく職場案内だ。ついでに今日の夕飯の準備も手伝ってもらうよ」
 リンに連れられて、ルネはまた一歩踏み出した。
 宿舎は食堂になっている大ホールと、その奥の大部屋がいくつか並んでいるところに分けられる。大部屋には、兵士たちが雑魚寝する。今も何人かが横になったり、何やら難しい顔をして会話をしたりしていた。
「ニオ隊、こっちと拠点を行き来しているらしいな」
「本営兵としてどう扱うべきなんだろうな。東でやったことを罰するべきなのか……」
 東、と聞いてドキッとする。何があったのだろう。姉は無事だろうか。気になってよそ見をすると、リンに「あんまり見るんじゃないよ」と声をかけられた。
「兵士たちは、いろんな情報を持ってる。そしてアタシたち宿舎で働く人間は、どうしてもそれが耳に入ってしまう。敵方に情報が漏れたとき、真っ先に疑われるのはアタシたちだ。面倒は避けるに限るよ」
「疑われるって……何もしていなくても?」
「ただいるだけで、アタシたちはスパイ疑惑をかけられる。誰が世話してやってると思ってんだい、って言い返してやったことも何度かあったけど、それでも状況が良くなったためしはないね。アタシが守ってやれなかった子もいる。そういう子は前線基地に引っ張っていかれて、戻ってきたことがない」
 気を付けな、と言うリンの横顔は、悔しそうにも悲しそうにも見えた。前線に引っ張っていかれた子がどうなるのかは、教えてくれなかった。戻らないということは、生きている可能性は低いのだろう。少なくともリンはそう見ている。
「宿舎はこれで全部。みんなで作業を分担する。楽なことはないけど、死ぬほど大変ってわけでもないよ。どうだい、やれそう?」
 さっきまでの話などなかったかのように、笑ったリンが振り返る。ルネは慌てて自分も笑顔を作って、「はい」と元気に答えた。
「すぐにでも仕事を覚えます。何からやりますか」
「そう焦らない。今日は夕飯の仕込みを手伝ってもらう。よく出る酒の種類も一緒に教えるからね」
 頑張りな。背中をばんっと叩かれると、背筋が伸びた。
 大鍋をかき混ぜながら、塩の分量や酒の種類を教わった。どちらも食事には欠かせない。肉と酒は兵士たちの毎日のエネルギー源だ。少し時間が空いたら、座って休んだ。一緒に働いている女性たちとお喋りをし、その流れで端切れと糸をもらえることになった。見せてもらった糸は、野菜の汁で染められているもので、どれも淡い色をしている。
 たった一日の仕事だが、頭の中は新しい知識でいっぱいになり、体はくたくたになった。日が暮れてから女性たちと数人で一緒に帰り、ディンゴの家を温めながら賄いを食べ、片付いたら刺し子をする。ディンゴの言いつけは破ってしまったが、素晴らしい時間だった。こうなったらきちんと話をして、働くことを許してもらわなければなるまい。
「それに……信用してもらって、話を聞かなくちゃ」
 仕事をしているあいだに聞こえてきた、不穏な言葉の数々。東の人々をこちらの兵士が襲ったという話などの真相を知って、姉の無事を確かめたい。今のルネには、ここにいるたくさんの目的があった。



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2018年03月11日

雪の妖精 第一章(3)

 数日後、再び街を訪れたルネを見て、ディンゴはどういうわけか「塩肉」と呟いた。
「あ、あの、今度こそ足は良くなりました」
「歩き方見りゃわかる。もう来るなっつったのに……」
 落胆の中に、安堵が見える。やはりディンゴは良い人だ。真っ当かどうかなんて、そんなあやふやなものはもはや関係ない。ルネは自分の胸に宿った感情を確かなものにしていた。
 そうするべきだからではなく、そうなりたいから願う。この優しい人の傍に、ずっといたい。
「私をお嫁さんにしてください」
「帰れ」
「家のこと、全部やります。あなたが戦いに出ているあいだ、家を守って待ってます」
「いらねぇ」
「ちょっと試してみるのはどうですか。自分が食べる分の食料は持ってきました。ご迷惑にはなりません。食料が尽きるまでにあなたの気持ちを変えられなかったら、今度は諦めます」
 我ながらしつこいと思う。けれど、これくらいしなければ彼をこの世に繋ぎ留められない気がした。死ぬために生きるのではなくて、生きるために生きてほしかった。
――私が、あなたの温かさを失いたくないの。
 今まで生きてきて、一番の我儘だ。末っ子だからいつも可愛がられて、多少のことは聞いてもらえたけれど、それよりももっと、強い気持ち。思いを込めてじっとディンゴを見つめる。目を逸らす気は全くなかった。
 どれくらい見つめ合って、いや、睨み合っていただろうか。先に溜息を吐いて目を閉じたのは、ディンゴだった。
「食料が尽きたら帰れよ」
 尽きたら。それまでは置いてくれるということで、いいのだろうか。そう解釈させてもらう。ルネは笑顔を咲かせ、それから深々とお辞儀をした。
「よろしくお願いします」
 末永く、はまだつけられない。でも、チャンスはまだある。食料はたっぷり持って来たのだ。
 かくして、ルネはディンゴの家に居座ることとなった。まずはこれまで男一人で暮らしていた部屋を掃除し、片付け、自分の生活できるスペースを作る。持参した寝袋で寝る予定だったが、ディンゴが毛布を投げて寄越してくれたので、礼を言って使わせてもらうことにした。
 家を訪れたディンゴの仲間たちは、ルネの姿を見て目を丸くした後、にやりと笑って「ディンゴ、塩肉だぞ」と言っていた。「塩肉」とは、何かの合言葉なのだろうか。首を傾げ、なんですかと訊いても、その答えだけはとうとう教えてもらえなかった。
 二人での生活は、ルネにとっては楽しいものだった。朝は早く起きて、雪をとってきて火にかけ、水をつくる。食事を持参した材料で整え、ディンゴの分は家にあったパンも添える。不機嫌そうな顔で起きてきたディンゴは、顔を洗って戻ってから、朝食に目を瞠った。
「いやに野菜が多いな」
「里から持ってきました。私が姉に習って保存していたものです」
「肉食わねぇと力が入らねぇぞ」
 ディンゴが台所に吊るしてあった肉を削り、ルネの皿にも載せてくれる。薄く切った塩味の肉と、茹でた野菜を一緒に食べると、えもいわれぬ美味しさだった。
「あの、いいんですか。お肉、あなたのお家のものなのに」
「どうせまた獲ってくるんだから、好きに食えよ。あ、お前、パンすらねぇな。野菜だけで腹いっぱいにならねぇだろうが」
「お芋があるので大丈夫ですよ」
 お喋りをしながらの朝食の後、ディンゴは身支度を整えて出かけようとした。戦いに行くのかと思うと胸が痛くなったが、それがそのまま顔に出たらしく、呆れられた。
「出かけるたびに辛気臭ぇ顔されたらたまんねぇよ。今日は作戦会議だけの予定だ。遅くならねぇから、お前は家にいろ」
「あ、そうなんですか。いってらっしゃいませ」
 ホッとして彼を見送ったら、家の仕事が待っている。使った食器の片付けに、洗濯、昨日はできなかった部分の掃除。水仕事が多いが、里にいたときからやっていることだ。手がかじかむなんて日常茶飯事、あかぎれで痛むくらいどうということはない。手際よく進めているうちに、この家の情報もいろいろ頭に入ってくる。
 今まで誰かが一緒に住んでいたような形跡はない。ほとんどのものが一人分しかないのだ。ルネが自分で自分の使うものを持ってきていたのは正解だった。貸してくれた毛布も、ディンゴが使っていたものだろう。さぞかし昨夜は寒かったに違いない。申し訳ないことをしてしまった。
 保存食は肉ばかり。野菜はルネが持ってきたものがほとんどだ。あとは酒の入った容器がある。匂いを嗅ぐだけでくらくらするような、強い酒だ。父が飲んでいたような乳酒や薄くのばした果実酒など、ディンゴにとっては水に等しいのかもしれない。
 部屋の隅には剣と盾。あれは戦いで使うのだろうか。その近くに長い針金や木の蔓など、猟の罠の材料らしきものが揃えてある。たぶん揃えてあるのだろうけれど、ルネには無造作に転がしてあるようにしか見えない。草刈り鎌は日用品だろう。
 見慣れない光景に、他人の家の匂い。この中で暮らしていくのだ――ディンゴが許してくれれば。
「私、家事の他にできることないかな」
 日々を外で過ごし、ときに戦わなければならない彼のために。家事をして待っているだけでは足りないのではないか。彼が家でゆっくりくつろげて、また帰ってきたくなるようにしなければ。そうでなくては、きっと躊躇いなく死にに行く。
 それに里を出てきたからには、街に早く馴染む必要がある。家にいろ、とは言われたが、このあたりのことを知っておいたほうが苦労は随分少なくなるはずだ。
「明日は外に出てもいいか、訊いてみよう。そして私の仕事を探すんだ」
 拳をきゅっと握り、小さく固く決意する。
 けれども帰ってきたディンゴは、ルネの外出を許さなかった。明日も家にいろと言う。
「うろちょろすんな。また罠にかかるぞ」
「こんな場所で罠を仕掛ける人なんていませんよ。私、少しでもあなたの役に立ちたいんです」
「そう思うなら俺の言う通りにしろ。余計な手間かけさせんな」
 ルネが何かしようとすることは、彼の手間になるらしい。あなたの邪魔にはなりませんから、と言いかけて、口を噤んだ。ここに身を置いていること自体が、邪魔になっているのかもしれない。押しかけてきて、拒まれてもしつこく嫁になるというルネが、彼の生活を変えてしまうのは間違いない。一人で気ままに生きてきたかもしれないのに。そうして、死にたいように死んでいくのだ、この人は。――そう考えると、申し訳なさは一瞬で一転して、腹が立ってきた。死なせるものか。たとえ過酷な戦いに向かっても、ここに帰って来たいと思わせたい。
「……明日のご予定は」
「ちっと遠出だ。帰りは夜中になるから、先に飯食って寝てろ。俺の分はいらねぇからな」
 今日もこんなに作りやがって、とディンゴがテーブルの上を見て溜息をつく。ルネが作った野菜多めの食事が並べられた食卓は、冬とは思えないほど華やかだ。ディンゴの分にはちゃんと塩肉がついていて、それもただ切り落として焼いたものではなく、ルネが持って来た香草がすりこんである特製だ。
「あんまり美味そうなもん作んなよ。このご時世に贅沢は禁物だぜ。お前の食料だってすぐなくなっちまうだろ」
「働いてきたらお腹が空くのは当然です。たくさん食べないと。外に出られないなら、私ができることはこれくらいです。姉も言ってました、殿方の胃袋を掴むのは基本中の基本だと」
 えっへん、と薄い胸を張ってみせたルネに、ディンゴはもう一段深く息を吐いてから、食卓に着いた。 それから自分の皿にのっていた肉を半分、ルネに寄こした。



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2018年02月25日

雪の妖精 第一章(2)

 薬はよく効いた。塗るごとに痛みは引き、傷はぴたりと塞がる。魔術みたい、とルネは思った。里でつくる傷薬も効果は抜群だけれど、沁みるし、臭いもきつい。どうしたら臭いのほとんどしない、肌に滑らかな薬ができるのだろう。里の外には、知らないことがまだたくさんある。
 昨日ディンゴたちが帰ってしまってから、ルネの意識は里の外へと向いていた。ここよりも敵に狙われやすく、しかしながら強い人々が守っているところ。戦いつつも日常生活を送る、この地域の中心部。話す言葉のアクセントの違いで、おそらくはそちらの人々だろうと推測することができた。父や自分は、中心部の人々に比べて、古代語の名残が少しばかり強いのだ。
 いつ死ぬかわからない、前線の人たち。だから嫁はとらないと言ったが、そういう人たちにこそ自らの血を引く子孫が必要なのではないだろうか。この地域を、長く守っていくために。
――なんて、理屈をつけてはいるけれど。
 薬を包み直しながら、ルネが思い浮かべるのはあのやぶ睨みだった。人相は良いほうではないかもしれないけれど、あの瞳はきれいだった。そうして、乱暴な言葉ではあったがルネの姉たちを心配してくれた。ルネを優しく助けてくれた。温かな背中に負ってくれた。
――また、会いたいな。
 今度は罠にかからずに。迷惑にならないように会いに行ったら、少しは見直してもらえないだろうか。足の具合が随分いいことも報告したい。
「どうにかしてお礼がしたいな、あの人たちに」
 こちらの考えを読んだかのように、父が言った。
「そうね」
「そしてお前を娶ってくれるといいんだが。あの紳士的な、ラステットという青年が良さそうだ。カルバという青年も、寡黙だがハンサムだったな。多少お喋りではあったが、ベレという彼も、まあ悪くはないだろう」
 どうやら父はまだ、ルネを嫁にやることを諦めていなかったらしい。ディンゴにあれだけ怒鳴られたというのに、ちっとも懲りていない。しかし自分も父のことはいえないので、黙っていた。ただ、父からディンゴの名前が出なかったことは、少しだけ不満だった。
 足の傷に触れながら、罠から救ってくれたときのディンゴの手を思い出す。傷が酷くならないよう、優しく触れてくれた手。鮮明な記憶に、胸がきゅっと締め付けられた。
――やっぱり、会いたい。会いに行こう。足が治ったら、すぐにでも。
 ルネの密かな決意は、しかし、とんでもなく固かった。
 それから四日、もう歩いても痛まなくなった足で、ルネは里の外へと向かった。前日に降り積もった雪を掻き分け、苦手な寒さを我慢して。あの温かな人に会うために。
 地域の中心部のことを、里の人間は「街」と呼んでいる。街には里よりもずっと多くの人がいて、けれどもそのほとんどがこの地域を守る兵士だった。街は兵士たちのつかの間の安息の場であり、帰ってくる場所だった。
 里では手に入らないものでも、街に行けば見つかることがあった。そのため、ルネも何度か街には父や姉とともに来ている。だが、独りで来るのは初めてだ。道に迷わなかっただけでも奇跡である。街はちゃんと、ルネの歩いて行った方向にあった。
 雪の積もった家々の屋根、煙突から流れてくる暖房と煮炊きの煙。一際大きな施設は、兵士たちが休憩する宿舎だ。この地域の至る所から人を集めて、ここに寝泊まりさせている。街出身の人間は自分の家を持っているが、ディンゴたちがいったいどのような経歴の人たちなのかを、ルネは知らない。まずは宿舎をあたってみるのがいいだろう。
 と、思ったのだが。その前に、長距離の移動に耐えかねた足が痛みだした。せっかく治りかけていたのに、無理をして雪の中を歩いてきたものだから、傷が刺激されてしまったのだ。堪えながら宿舎を目指したが、あと少しのところで膝をついてしまう。傷のないほうの足に力を込めて立とうとしたが、こちらには疲れが溜まっていた。知らず知らずのうちに、負傷した足を庇って歩いていたのだ。
「こんなところで……」
 座り込んでいる場合ではないのに。あの人に会わなくちゃ。冷たい空気を吸い込み、もう一度足に力を込める。ふらふらと立ち上がって、一歩、二歩と進む。やっとのことで宿舎に辿り着くと、扉が開いた。
「……あ? なんでお前、ここに?」
 宿舎から出てきたのは、知った顔。忘れようもないあのやぶ睨み。ディンゴと、その仲間たちだった。
 こちらを見て明らかに戸惑っている彼らに、主にディンゴに向けて、ルネはにっこりと微笑む。微笑んだつもりだ。なにしろ足が痛くて、体が寒くて、うまく笑えているかわからない。
「来ちゃいました。あなたに会いに」
 ディンゴが眉根を寄せるのが見えた。この人の眉間のしわは、なかなか深くて解けない。
 次の瞬間、ルネの体は宙に浮いた。軽々とディンゴに抱えあげられ、今度は肩に担がれる。彼の背後が見えるかたちになり、仲間たち――ラステット、カルバ、ベレの表情が目に映った。全員揃って驚愕している。
「俺、一回家戻るわ」
 すぐ近くで重低音が言う。声色は明らかに機嫌が悪そうだった。
「あと頼んだぜ、ラステット。急ぎの用事があったら来てくれ」
「あ、ああ……」
 仲間たちは宿舎のさらに向こうへ、ディンゴはそれと反対方向に歩き出す。家があるということは、彼は街に生まれ育った人間なのだろうか。家に連れていってくれるということは、ルネを嫁として認めてくれるのだろうか。担がれたまま考えていると、まもなくしてその場所に到着した。木造のしっかりとした家の、丈夫そうな扉が開かれる。
 ルネは椅子の上に降ろされた。ディンゴの顔を確かめようとするより先に、見えたのは彼の頭頂部。真っ先に靴を脱がされ、足を見られる。幾分薄くなったはずの傷が赤く腫れている、と思った瞬間。
「馬鹿か! 怪我したんだからおとなしくしてろ! なんだってこんな場所まで来たんだ?」
 凄い剣幕で怒鳴られてしまった。声の圧で吹き飛んでしまいそうなくらいに。
「あ、あの……足はとても良くなったので、お礼を」
 なんとか返事をすると、舌打ちをされた。やっとまともに見た彼の顔は、なんというか、獣も逃げだしそうなくらい凶悪だ。
「どこが良くなってんだ、悪化させやがって。親は止めなかったのか」
「父には置手紙だけしてきたんです」
「輪をかけて馬鹿だな。送ってってやるから二度と来るな」
「家には帰りません。私、あなたのお嫁さんになるために来たんです」
 ここまで言うつもりはなかった。思っていなかったわけではないけれど。でも、帰されたら本当にもう二度と会ってもらえないような気がして、勢いがついた。
 しかし凶悪な顔は崩れない。あのときの言葉をもう一度繰り返す。
「駄目だっつってんだろ。俺は兵士だ。近いうちにまた前線に行って、今度こそ死ぬかもしれねぇ」
「だったらなおさら子供をつくっておくべきではないでしょうか」
「家族はいらねぇ。俺はな、この世に何の未練も残したくねぇんだ。戦って死ぬ、それだけが生き甲斐なんだよ」
 矛盾したことを言う人だ。死ぬのが生き甲斐だなんて、それでは生きたいのか死にたいのかわからない。首を傾げるルネに、だから、と彼は言う。
「お前は帰れ。そんでもっと成長してから、真っ当な人間と家族になれ」
 彼自身も、どうやら自分はまともではないらしいと思っているようだった。
 足に軟膏を塗られ、布をしっかりと巻かれても、ルネの感じる痛みは治まらない。背負われて里に帰されると、それは一層強くなる。腫れが引いても、まだ残った。


 寒さを紛らわすための強い蒸留酒と、塩漬けされた肉、干した野菜。北国の冬では十分なご馳走だ。ありつけるのはここが北軍の本営だからで、食うや食わずの拠点もあると聞いた。支配領土をもう少し南に延ばすことができれば、もっと良い食事が十分に摂れる。そう言われ続けて何十年も、戦争は続いていた。
 発端はもうわからない。ずっと南を支配している「紫の人々」がこの北の地を呪ったからだとか、中央を名乗る勢力が大きくなりすぎたから調整をしようとしたのだとか、東と西の対立を諌めようとしてやっているのだとか、いろいろなことが言われている。つまりは、ディンゴたち若い世代には、まともに語られていない。
 戦争をしている間に北の地を統率する人間も変わり、今上にいる者は大陸統一支配を声高に叫んでいる。大きく分けて五つの勢力がある現状を、一つの代表のもとでまとめれば、みんなが平等に暮らし向きが良くなるはずだということだが、さて。
「ニオ隊って知ってるか、ディンゴ」
「なんか血気盛んな奴らか?」
「血気盛んなのは人のこと言えないけど、たぶん想像してるので合ってる。東で兵士と民間人を殺したそうだ。向こうが先に手を出してきたって、隊の連中は言ってるらしい」
 この北の地に属しているはずの者たちですら志に齟齬があるのだから、一つになるなど到底無理だろう。
 ディンゴら本営の兵士たちの多くは、無駄だと判断した殺生や略奪を禁じている。前線は相手が攻め込んで来ようとする場所であり、守るべき領土の際だ。
 しかしそうは考えない者たちもいる。相手のいる場所に踏み込み、蹂躙して自分たちのものにする、それこそが大陸統一支配への道であると考える人間が集まって、大陸の東や西、中央へ乗り込み全てを奪う。その行動は、数年前から目に余るようになってきた。
「また俺たちが嫌われるな。東は反撃に出ようとしている。もちろん向こうが動くなら、こっちも対応しなきゃならない。なんだってニオ隊なんかの尻拭いをしなきゃならないんだか」
 そう言って、ラステットは深い溜息を吐いた。
 略奪行為が本営の行動でなかったとしても、よそから見れば「北が攻めてきた」ということには変わりない。一部の逸脱行為のせいで、北軍は大陸の主な勢力の中でも特に嫌われものになっていた。北の横暴を許すものかと、「正義」に燃える他領の兵士が対策を練って攻め込んでくる。
 そういう者たちを蹴散らすのは、逸脱行為を働いた当人たちではなく、本営の兵士の仕事だった。
「近々、東とは熱い戦いを繰り広げることになりそうだな」
 ベレが皮肉たっぷりに言い、杯を傾ける。カルバが頷き、肉を齧った。
「……東の、兵士なら。研究ができてる」
「カルバ、口に物入れて喋るのは行儀が悪いぞ。厄介なのが西と、あと中央だ。西の徹底的な人民の統制で、他地域の血筋の人間が迫害されてる。それに異を唱えた者は中央に流出し、あの赤髪……リックはそいつらを全部受け入れている」
 西と中央の動きは、今に始まったことではない。ここ数年で顕著になったというだけだ。中央が勢力を拡大しているというのは、難民を受け入れて味方につけ、これだけの人間を抱えているのだから領土がもっと必要なのだと主張しやすい状況にあるということだった。
「中央の統率力は、こっちとは比べものにならない。リックっておっさんはやり手だよな」
「負けたらあっというまに主導権握られそうだ。俺たちの有利にことを運びたいなら、乗り越えなきゃいけない最大の壁なんだろうな。ディンゴはどう思う?」
 ベレとラステットと、カルバも少し。仲間たちが喋っているあいだ、ディンゴはある点にずっと引っかかっていた。自軍の東への侵略。西の徹底統制。これによって危険にさらされる人間がいる。
「……あのガキ」
「なんだ、上の空だと思ったらあの子のこと考えてたのか。ルネちゃん、だ」
「昨日、よくここまで独りで来たよな。で、ディンゴはそれを追い返しちゃったと」
「なのに気になるのか」
「違ぇよ。あのガキ、姉がみんな他所に嫁に行ったって話だっただろ。東や西では無事なのか」
「可哀想だけど、ディンゴがあの子の父親に言った通りだと思うよ。特に西では、逃げられなければ殺されてる可能性が高い」
 ラステットの即答に、ディンゴの眉間のしわがまた深くなる。――あの父親が考えを改めなければ、残った末娘は、ルネという少女は、どうなってしまうのだろう。
「やっぱり気になってるじゃんか、ディンゴ。お前の顔怖がらない貴重な女の子なんだから、嫁に貰っちまえばいいのに」
「ベレ、無茶言うなよ。あんな小さくて細くて触ったら折れそうな子にディンゴが触れられるわけがないだろ」
 笑いあう仲間たちを睨んだが、実際ラステットの言う通りだった。ルネは小さく、頼りない。体重も軽かった。十三歳といっていたけれど、十歳くらいに見える。見た目を抜きにしても、二十を数える自分に比べたら、まだ子供だ。
 いつ死ぬかわからない身で、未来ある者を預かるわけにはいかない。兵士として生きると決めたとき、この世に未練は残さないと誓った。
「でもあの子、またディンゴを訪ねて来ると思う。塩肉三枚」
「オレも乗る! また来る方に塩肉五枚!」
「それなら俺も一枚かけとく。ついでにディンゴがそれを受け入れるのにも一枚」
「お前らな、勝手に賭けてんじゃねぇよ。さすがにもう来るこたねぇって。塩肉十枚賭けていいぜ」
 来やしない。二度と来るなと言った。こんな賭けは、自分が勝って終わるはずだ。ましてラステットの「受け入れるのにも一枚」が、実現するはずはない。
 あの娘には、ディンゴに関わらずに幸せになる権利と道があるはずだ。



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2018年02月18日

雪の妖精 第一章(1)

 小さな動物を狩るための罠だということには、すぐに気づいた。父も同じものをよく作っては、それで兎や鳥、鼬の類を獲ってくる。ただ、父は罠を仕掛けるのがとても下手で、獲物がかかることは少なかった。こんなに巧妙に仕掛けるものなのだと知っていたら、もう少し気をつけて歩いたかもしれない。
「痛いなあ」
 脚に食い込む罠ばかりではない。冬の北国では、雪の上に長時間座っていることは危険だ。指先は冷たいを通り越してじくじくと痛み、やがて何も感じなくなると、壊死してしまうことも覚悟しなければならない。それくらいの知識は持っている。
 血が滲む足は、引き抜こうとすれば罠がより締まる仕様になっていて、手で外そうにも方法がわからないのでそのままだ。誰かが来てくれなければ、ここで十三年の人生は幕を閉じる。
「痛いなあ」
 こんなまぬけな最期は迎えたくなかった。どうせ死ぬなら、姉たちのように他の支配地域へ嫁に行ってからがよかった。この地域を守るための柱になれるのなら、死ぬことも仕方ない。今はそういう時代だ。
「痛くて、眠いなあ」
 眠ってしまえば目覚められない。けれども寒さは体力と意識を確実に奪っていく。もうじきこの世とお別れか、と瞼をおろしかけた。
「おい、ガキ。じっとしてろよ」
 急に降ってきた声に目が覚めた。雪のせいで足音が聞こえなかったので、いつからこちらに来ていたのかわからない。俯いていたから、周りを見てもいなかった。
 低い声のその人は、大きな体を屈めて、罠に手をかけた。瞬く間に外れた罠をぽかんと見つめていると、今度は足に触れられる。傷には布が丁寧に巻かれた。
 顔を上げて、助けてくれたその人の顔を見た。雪に焼けた肌は浅黒く、無造作に伸びた髪は赤みがかった茶色。目つきは鋭い。少し怖いが、敵ではないようだ。身を包んでいる毛皮がこの辺りの獣のものだから、間違いない。
「薬塗っといたほうがいいな。生憎俺は切らしてるから、ちょっと連れて行くぞ」
 その人は軽々とこの身を抱え上げ、背に担いだ。「ひゃ」と声が漏れるが、気にされない。そのまま連れていかれた。
 向かった先はどうやら狩りのためのキャンプ地のようで、その人の他にも三人の男がいるようだった。
「ディンゴ、何か掛かってたか」
「人間のガキが掛かってた」
 男たちのギョッとした表情が見えた。「マジか」「やっちゃったなー」という声があがる。それでも彼らは全く慌てている様子はなかった。こういうことは、珍しくないのかもしれない。
 自分を背負っている人が言う。
「罠に足をやられてる。放置するわけにもいかねぇし、薬切らしてたからとりあえず連れてきた。ラステット、傷薬寄越せ」
「はいよ。ディンゴは多めに薬持っとけって、いつも言ってるだろ」
「荷物になるだろうが。とにかく手当しろ。これからガキの家を捜しに行くから、テメェらも来い」
「了解。お嬢ちゃん、家まで道案内できる?」
 ラステットと呼ばれた男が、軟膏の包みを取り出しながら問う。頷くと、よかった、と笑った。連れて来てくれた人――ディンゴというらしい彼も、ホッとしたような表情をほんの一瞬見せた。ずっと眉根を寄せていたから怒っているのかと思っていたが、どうやら困っていたというのが正解のようだ。
 男たちが持っていた毛布にぐるぐると包まれて、再びディンゴの背中に収まる。他の者は荷物があるようで、みんな手がふさがっていたから、自然な流れだった。
――この人の背中、温かい。
 毛布のせいだけではない。さっきからずっと、温かくて心地よかった。知らない人だから緊張していたけれど、それでも離れ難かったくらいに。
 本当は、寒いのは苦手なのだ。雪の中、山をうろつくのは本意ではなかった。けれども家の働き手はほとんどいなくなってしまって、それでも家を温めるための薪は使う量が減ったりはしないから、足りなくなってしまった分を外へ探しに来た。そうして罠にかかってしまったというわけだ。
――助けてくれたし、家まで連れてってくれる。親切な人だな。
 広い背中に体を預けて、落ち着いて道案内ができた。だからなのか、それとも単に男たちの歩幅が広いためか、家にはあっというまに到着してしまった。小さな里の、小さな家だ。雪が降る前までは、すぐ上の姉もいたけれど、今では父と二人きりで住んでいる。
 父は娘が屈強な男たちと一緒に帰ってきたのを見て、目も口も大きく開いたまま動きを止めた。
「ここはこの娘の家で合っているか」
 ディンゴの問いに、父はやっとカクカクして頷いた。
「すまねぇが、俺たちが仕掛けた猟罠にはまっちまった。娘に傷をつけたことを詫びる」
「こちらはお詫びの品と、私どもが作りました傷薬です」
 いつのまに用意したのか、脇に控えていたラステットが薪と獣肉の塊、そして先ほどの薬の包みを差し出す。父はおそるおそるといった様子でそれを受け取り、それからハッとしたようにディンゴを、彼に背負われている娘を見上げた。
「傷は、深いのですか。娘の具合は」
「治すにはちょっと時間がかかる。針金が食い込んで擦れたから、もしかしたら傷跡が残るかもしれねぇ。悪かった」
 背中の荷物を落とさぬよう、ディンゴは首だけを屈めるように下げた。父は一瞬だけ眉を顰めたが、すぐに表情を緩めて、一行を家の中へと誘った。
「寒かったでしょう。ここまで娘を送ってくださり、ありがとうございました。温かいものを用意しますよ」
 お構いなく、とラステットが言おうとしたのを、別の男が遮った。鼻をひくひくさせながら「お嬢さんを降ろしてやらないと」と言う彼は、きっと家の中から漂う乳酒の匂いを嗅ぎとったのだろう。父はこれを毎日温めて飲むのが日課だ。
「おう、ガキを降ろしたらすぐ帰るぞ」
「いいえ、せっかくなので休んでいってください。さあ」
「ほら、お家の人もこう言ってくださるし」
「ベレ、お前な……。俺たちはガキに怪我させたんだぞ」
 呆れるディンゴの服を、しかし父が引っ張った。さあさあ中へ、と一行を家の中に連れ込み、そのまま室内に座らせてしまう。手際よく乳酒を用意すると、床に降ろされた娘を呼び寄せた。
「ルネ、傷とやらを見せてごらん」
 無事な足と手を使ってなんとか立ち上がり、父のもとへ行く。引きずる足は痛むが、さっきよりは大分和らいでいた。
 父は巻かれていた布を解いて傷を眺め、ほう、と息を吐いた。
「これは、きれいに治るかどうかはちょっとわからないな」
 そうして男たちに視線をやり、ひとりひとりを値踏みするように見た。この目は知っている。姉たちが嫁に行くごとに、散々見てきた。
 父はこうして相手を選び、姉たちを方々に嫁がせていった。この小さな里が戦に巻き込まれないように、この地域より南側にある四つの地域――それぞれが領土を奪い合い戦争中だ――に一人ずつ。最後に残ったのが、末娘のルネだった。
 姉たちが無事でいるかどうか、ルネは、父ですら、知らなかった。
「どうぞ夕食も食べていってください。あなた方が持ってきてくださった肉です」
 父はにこやかに男たちに語りかけ、彼らを引き留めた。ディンゴは固辞しようとしていたが、ベレという彼らの中でも若そうな男が「お言葉に甘えましょうよ」と留まったのだ。仕方なく座り直したディンゴを見て、ルネは少しホッとした。この温かい人と、もう少しだけ一緒にいられる。
 同時に父の様子を、少し不気味に思っていたのだけれど。知らないふりをして、夕食の準備を始めた。干した野菜を雪を溶かした水で戻し、父が切り分けた肉と一緒に火にかける。この辺りでは、肉を切るのは男の役目だ。
「ルネちゃんはいくつ? 十歳くらいかな」
 ベレが尋ねるので、ルネは戸惑いながら「十三です」と小さく返事をする。たぶん、十三だ。生まれた時の記録をしておらず、だいたい一年が経った頃に柱に傷をつける、それが里での年齢把握の方法なのだった。父が毎年刻んだ柱の傷は、姉たちの分は嫁いだ年で止まっている。
「十三歳かあ。もっと小さいのかと思ってた。もう子供は産めるの?」
「よせよ、ベレ」
 何の遠慮もないベレを、ラステットが窘める。そしてルネには、「答えなくていいからね」と慌てて言った。そうでなければ、ルネはあっさりと「もう産めます」と答えていただろう。初潮は夏、まだ姉がこの家にいるときで、毎月のことだからと対処は一通り教わっていた。以降は子供をつくることができるということも。
 子供を産み育てることは、今の里、ひいてはこの北の地域に住む人々全体にとって重要なことだった。長い戦の只中にあり、どんどん人が死んでいくこの時世で、少しでも人手を増やす必要があった。幸いにして食料に困ることはあまりなかったから、人口は多ければ多いほど良かった。
 そして生まれてくる子供は、より強い血を引いていることが求められた。
 ルネと父、男たちは、出来上がった食事に手を付ける。塩と野菜と肉の出汁の味が、ディンゴの眉間のしわを緩めた。
「うめぇ」
「干した大根が良い。塩加減も丁度。こんな美味しいものをありがとうございます」
「あなた方のくださった肉で作った汁物です。礼には及びません。野菜の良い干し方ならルネがよく知っていますよ、姉に叩き込まれているので」
「へえ、ルネちゃん、お姉さんがいるんだ。で、お姉さんはどこに?」
 きょろきょろと部屋を見回すベレを、ラステットが小突き、ディンゴが睨む。その隙にもう一人の男――歩いているときにカルバと呼ばれていた――がベレの持っている器から肉を盗んだ。賑やかな人たちである。
「この子の姉たちは、嫁に行きましたよ」
「なーんだ。ルネちゃんが可愛いから、きっと美人なんだろうね」
 そう、自慢の姉たちだった。もう会えないのが残念なくらいに。
「この子もそろそろ嫁にやろうと思っていたんです。こう見えて、もう年頃ですから。できれば強い殿方に……」
 ちら、と父が男たちを見る。姉たちが遠くに嫁いだ今、残ったルネには重要な役割があった。この里を守るため、最後にしなければならないこと。それは。
「よろしければ、この子を嫁にもらってくださいませんか」
 地元の強い男に嫁ぎ、この里を優先的に守らせること。そして強い子供を産み、育て、味方を増やすこと。父からずっと言われてきたことだった。この家には娘しかいないから、里を守るためにはそうするより他にないのだと。
「嫁? こんなガキを?」
「幼く見えますが、もう子供も産めます。立派な女です」
 先ほどラステットが気を遣って言わせなかったことを、父はあっさり口にした。ルネは俯いて、客らと父の椀に汁物のおかわりをよそう。
「この子の四人の姉は、敵方に嫁がせました。東、西、中央、南にまで嫁に出したんです。親戚がいれば、この里に手出しはできないでしょう。仕上げはこの子が、この地の強い殿方と一緒になってくれること。娘を差し上げますから、どうぞこの里をお守りください」
 父はそう言って頭を下げた。ルネは父を見、それから男たちを見た。ラステットとカルバはもちろん、軽薄そうだったベレまで戸惑いの表情を浮かべている。唯一、ディンゴだけが再び眉間にしわを寄せていた――今度ははっきりと、怒っているのだとわかった。
「……なんてことしやがる」
 重く低い声が室内を這う。ルネだけではなく、父までもがびくりと肩を震わせた。
「親戚だとか、この状況じゃ関係ねぇ。むしろ他所者は嬲り殺される可能性だってあるんだ。そんだけ領土争いは切羽詰ってる。嫁にやるなんて冗談じゃねぇよ、姉妹同士でいがみ合わせる気か!」
 獣が吼えるよりも激しく、ディンゴは怒鳴った。声の振動が伝わって家が揺れたように感じたほど、その迫力は凄まじい。父は後退り、ルネは頭がぼうっとなる。ぼうっとしながらも、言葉の一つ一つの意味を、確かめるように反芻した。
 この里はまだ無事だ。断片的な情報だけが外から伝わってくる。だから、認識がずれていたのだ。本当に最前線に出る人たちよりも、あまりに暢気だった。人柱を立てさえすれば、この先もずっと無事でいられるだなんて。
「それに俺たちは他の地域の奴らと戦っている。今日はたまたま猟の日だっただけだ。いつ死ぬかわからねぇのに、嫁なんかとれるかよ」
 ディンゴは言い捨て、すっくと立ちあがった。椀の中にはまだ汁物がたっぷり残っている。「行くぞ」と男たちを促すと、真っ先にラステットが、続いてカルバが、最後に汁物を一気にかきこんで椀を空にしたベレが続いた。
 こんなことは初めてだった。少なくとも、ルネが知る限りでは。姉たちを嫁にすることを、先方はとてもありがたがったと父からは聞いている。これでこの里に手出しはされないだろうと。けれども、本当にそうなのだろうか。ディンゴの話を思い返すに、それは認識の大きな誤りなのではないか。
 相手が喜んでいたとしたら、それはこの土地の娘を人質に得たということに対してなのでは。あるいはもっと酷い想像をするなら、姉たちはもう他の土地で嬲り殺されて――。
「あ、あの!」
 痛む足に構わず、ルネはディンゴの前に飛び出した。熊の毛皮でできた外套にしがみつき、やぶ睨みの眼を見上げる。機嫌が悪そうだ。でも、怖くない。この人は、自分を助けてくれた人だ。酷いことはしないはずだ。
「あぁ? 何だよ」
 他の姉たちがどうなっているのかはわからない。でも、せめて自分だけは生き残って、この里を守らなければ。とても小さいけれど、自分が育ってきた場所だ。人々はルネに優しく、父はもしかしたら間違っていたのかもしれないが、里を想っていたのは確かだ。ルネにはこの里を守る理由がある。
 そしてこの小さな体では難しくても、彼らならばできるかもしれない。いつ死ぬかわからないという日々の中、確かにここに生きている彼らなら。
「私のこと、嫌いですか」
 ルネはディンゴの瞳を真っ直ぐに見る。
「私、あなたのお嫁さんになっちゃ駄目ですか」
 一瞬、大雪の後のような静寂が室内を包んだ。ルネ自身、どうしてこんな言葉が出たのか、よくわかっていない。
 ただ、この人と結ばれれば父の願いは叶い、そして自分にも悪くないのではないかと、後になって思考がそこまで追いついた。
「駄目だ」
 静寂を破ったのは、ディンゴの一言だった。そっとルネの体を退けると、そのまま外に出ていってしまう。それをカルバとベレが追いかけた。
 最後にラステットが、丁寧に礼をした。
「温かいものをごちそうさまでした。ルネさん、どうか足を大事に。薬を毎日塗っていれば、傷は薄くなるはずです」
 そうして彼も出ていった。あとには腰を抜かしたままの父と、床にへたり込んだルネが残された。



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雪の妖精 プロローグ

 灰色の空から落ち来る、指先に乗るくらいの結晶。凍る地面に降り積もり、いつしか硬い道となる。そして温かな風が吹く頃に、消え去っていく。
 大陸にまだ大きな国ができていなかった昔、人々が争い生きる場所を勝ち取ろうとしていた時代。そんな生き方をした、一人の女性がいた。彼女の名前はほとんど忘れ去られたが、今でも存在は伝えられている――「雪の妖精」という呼び名で。
 伝わる物語はすでに真実ではなくなっている。彼女は神性化され、美しさと奇跡だけに飾られている。どんな書物を紐解いても、彼女の全てを知ることはできない。
 けれどもたしかに彼女は生きた。ひとりの逞しい人間として、この北の大地に。


 * * *


 映画監督を名乗る男が面会を申し込んできたのは、この国で一番寒い時期だった。最低気温は今シーズンの記録を更新し、道の脇には雪が積み固められている。春はまだ遠そうだ。
「あなたはヴィオラセント家の末裔なのでしょう。何か知っていることはありませんか」
「知りませんね。そもそも俺は養子ですから」
 縋るような彼の言葉をばっさりと切り捨てて、ノーザリア王国軍大将ダイ・ヴィオラセントは口元だけで笑った。本来、このような人物と会うこともない。面会を許可したのは、一応彼の名前を知っていたからだ。
 この映画監督は、これまでに数々の作品を世に送り出してきたが、どれも大きくは流行らなかった。けれども作風は古典的な絵画のような美しさを持っていて、その映像美に惚れ込むコアなファンがついている。ダイの養母もその一人で、一緒に彼の映画を何本か観たことがあった。もっとも、ダイには退屈だったのだが。
 その美しく退屈な映画を作る人物が、大作に着手したいという。それにはどうしてもダイの協力が必要なのだそうだ。映画なんて勝手に作ればいい、と最初は思ったのだが、彼の持つ理由を聞いて、直接会う気になった。――会って、断ろうと思ったのだ。その作品は完成させることができないと思ったし、だからといって勝手なことを描かれても困るのだった。
「過去の記録などに心当たりがあるということも」
「ありません。記録がかつてあったとしても、焼失している可能性が高いかと。ヴィオラセント本家は大昔に燃えてしまいましたし」
 ダイが生まれるよりもっと昔のことだ。このノーザリアという北国にあったヴィオラセントという名の家は、火事でなくなってしまった。そのとき生き残ったたった一人の子供も、四十の頃に亡くなっている。ダイはその生き残りの名前を継ぐ養子で、そのことは多くの人が知っている。
 ただ、全く血縁がないというわけでもない――ということは一部の人間だけが知る真実だ。ダイが生まれたホワイトナイト家は、血筋を辿ればヴィオラセントの分家だった。つまり、遠い親戚なのである。しかし件の映画監督はそれを知らないはずだった。
「本当に、何も遺っていないのですか。お父様から、何か聞いていたことも」
「ありません。ですから、ヴィオラセント家の映画など作れません。諦めてください」
 映画監督は肩を落とす。おそらくは自分でできうる限り手掛かりを探し、最後にここに頼ったのだろう。可哀想だが、こちらから提供できるものは何もなく、そして勝手にヴィオラセント家のイメージを作られるのも避けたかった。あんまり綺麗なものを作られてしまっては、ダイが今後動きにくくなる。自分のやりかたがけっしてクリーンであるとはいえないことは、自らが一番よく知っている。
 メディアの作りだすイメージは強い影響を及ぼす。面倒はごめんだ。
「でも、私は描きたいのです。『雪の妖精』を」
 拳を強く握り、ダイを真っ直ぐに見て、映画監督はなおも訴える。簡単には引き下がらない。彼は自分の人生を賭けている。流行りはしなかったかもしれないが、映画はひとつひとつが彼の命だった。――だからこそ資料がないままに描くのは諦めてほしいのだが。
 どうか諦めてお帰りください、と言って引き取ってもらおうとしたときだった。扉が先に開いて、青年が何の断りもなく応接室に入り込んできた。
「お茶のおかわりをお持ちしました」
「お前……。せめてノックはしろよ」
「あ、すみません。ついいつもの癖で」
 呆れるダイに、青年は舌を出してみせる。客の前だというのに随分砕けた態度に、映画監督はぽかんとした。
「部下が失礼をいたしました」
「いいえ。ノーザリア軍にも、こんな方がいらっしゃるんですね」
「あはは、監督、軍を買いかぶってますよ。これがノーザリア軍の通常運転です」
 ティーカップを置き、青年は気楽に笑う。ダイが睨むのも気にならないようだ。
「あなたは、私をご存知なのですね」
「知ってますよ。俺、監督の映画好きですから。あ、あとでサインもらえます? ウーノ・スターリンズ君へ、って入れてくれると嬉しいです」
「ウーノ、いい加減にしろ」
 とうとうダイが強めに叱り、青年は口を閉じる。表情はどこかいたずらめいたそのままに。映画監督は少し考えてから、もしや、と青年に向き直った。
「あなたは、スターリンズ前大将の」
「はい、息子です」
 あっさりと頷いた青年に、映画監督の目が光った。ダイは額を押さえ、しまった、と内心で呟く。ヴィオラセント家の記録はないが、こちらは現存するはずだ。
 ヴィオラセント家とスターリンズ家は縁が深い。スターリンズ家には代々伝えられている記録があり、そこから窺い知ることができる過去がある。そのことに、映画監督も思い至ったようだった。
「あなたは知りませんか、『雪の妖精』についての物語を。彼女の真実を」
 青年――ウーノに掴みかかるようにして、映画監督は問う。ウーノは目を丸くし、それから。
「真実かどうかはわかりませんけど、その人についてならうちに少しばかり記録があります」
 正直にそう答えた。
「監督、ずっと撮りたかったんでしょう。色々なインタビュー記事も読みましたから、知っています。『雪の妖精』に恋焦がれ、けれどもその本当の姿が掴めなかった。いよいよヴィオラセント姓の人間に直接当たってきたということは、今作を最後にするつもりですね」
 ウーノはダイよりもずっと彼と彼の作品に詳しいようだ。自分が生まれる前の映画や関連する情報も把握しているのだろう。映画監督はただただ頷いていた。
 ダイに振り返り、ウーノは微笑んだ。
「俺、この人の作品が観たいです。きっとダイさんに悪いようにはなりません。うちから記録を提供してもいいですか」
 問いながら選択肢を用意しない、そんな強引さは父譲りで、同時にウーノを部下として育ててきたダイの影響でもある。それを認めているからこそ、ダイは深いため息とともに、返事をした。
「……わかった、制作は許可する。スターリンズ家からの記録提供も。けれども公開については改めて話し合おう」
「わあ、横暴。ね、監督、ヴィオラセント家の末裔ってこういう人なんです。だからもし『雪の妖精』について理想と違うことがわかっても、絶望したりしないでくださいね。それだけ約束してください」
 同じ微笑みを、ウーノは映画監督にも向けた。

 とはいえ、スターリンズ家に残っている記録もごく僅かなものだった。ヴィオラセント家と縁があるといっても、「雪の妖精」について記述があるものは限られる。なにしろそう呼ばれていた人物が生きたのは、約五百五十年前のことだ。そのそも大陸戦争の頃の記録は、ノーザリアの敗戦の歴史ということもあり、あまり遺っていないのだ。
 そのなかで拾い集めた記録から「雪の妖精」の物語を紡ぎ直すことは困難で、だからこそ現実味のないおとぎ話だけが語り継がれてきた。そしてそのほうが、この国の歴史にとっても都合が良かった。
 しかし映画監督が求めているのは真実だ。「雪の妖精」が人間であることを描きたい。その一心で探し当てた、人生のかけらを繋ぎ合わせる。
「ああ、彼女の名は」
 誰もが忘れていた名前を見つけて、映画監督は目を細めた。愛しげにその文字を指先でなぞり、読む。
それがこの物語の始まり。呼ばなければ何も始まらない。



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2017年11月24日

彼女はあまり語らない

エルニーニャ王国立の軍人養成学校には、三種類のコースがある。一つは十歳から入学し、一年間の学習と訓練を経て入隊の準備をするもの。一つは一般の学校で教育を受けた後で、軍人に必要な技能訓練を主とするもの。そしてもう一つは、十歳から軍に入隊するためにその一年前から準備を始めるものである。
十歳入隊を目指すコースは新設されてから十年も経っていない。優秀な人材の早期育成のために、第二十九代大総統ハル・スティーナのときに定められたのだ。同時に軍人養成学校にも特待生制度と奨学金制度が設けられ、入学試験の成績によっては学費の免除や減額が受けられるようになった。
軍人養成学校に限らず、エルニーニャの多くの学校は学費が高いために、裕福な家の子供が通うところという認識がある。制度がどんなに変わろうと、人々の意識はなかなか変わらず、現在も学校に通う子供は家計に余裕がある者ばかりだ。より多くの子供に学習の機会をと創られた私立の学校には、いわゆる中流層の一般市民が通うこともある。だが学校に行って学ぼうという意識を持つ人間は、まだこの国には多くはないのだった。
無論、貧困層には学校に通うなどという考えはなく、それならば子供でもできる仕事を探した方がずっと生活には役立つというのが普通だった。
軍人になるならば、ある程度自分で一般常識と相応の体力を身につけておけば、学校になどわざわざ通う必要がない。それゆえに、軍人養成学校を卒業した軍人のほとんどは、軍家や貴族家、商家といった名家の出である。


リッツェ家は文派の重鎮であるが、軍人も多数輩出してきた名家だ。幼少期からレベルの高い教育を受け、相応の年齢になれば国立学校に入学する。しかし学校は十歳になる前に一度退学し、軍人養成学校へと編入して、そのまま軍人を目指すのが家の習わしとなっていた。
エルニーニャ軍人は若い。三十代ともなれば退役し、第二の人生を歩むこととなる。その道として文派に属することを用意されているのが、このリッツェという家だった。軍人でありながら文派にも通ずるという姿勢を保ち、文派でありながら軍の事情にも精通している人間になる。四男であるフィネーロも、親や兄たちと同様に文武両道であることを求められてきた。
もっともフィネーロは、武というものがあまり得意ではない。身体を動かすよりもおとなしく本を読むのが好きで、机の上の勉強と頭の回転の速さならば、時に兄ら以上の力を発揮する。兄たちはそんな弟の特性をよく理解し、かつ末っ子をとても可愛がっていた。
なので、フィネーロも慣例通りに軍人養成学校に編入させると父が決めたとき、兄たちは反対した。この子にはずっと勉強をさせてやり、ゆくゆくは父のように国立大学で教鞭をとったり、研究にうちこんだりする方が良いはずだと。
しかし父がフィネーロに「どうしたい?」と尋ねると、八歳のフィネーロはおずおずと答えた。
「僕も、お父様や兄さんたちのように、軍人をやってみたいです」
動くのは嫌いではない。それどころか、フィネーロは好奇心旺盛な少年だった。おそらく兄たちが思っていたよりも、ずっと。

かくして九歳になる年の四月、フィネーロは軍人養成学校の学生となった。この学校に運動着以外の制服はないが、誰もが名家の人間らしく仕立てのいい服を着て初日に集まっていた。もちろんフィネーロも例に漏れない。
だからこそ、彼女の姿はとても目立っていた。周囲がひそひそと噂をし、眉を顰めるくらいには。
大勢の視線につられて、フィネーロも目を動かした。視界の端に映ったのは、周りに比べると、いや、フィネーロが知る「一般」に即しても、あまりにみすぼらしい恰好の少女だった。
ぶかぶかのシャツは袖を大きく捲り上げている。ズボンは綻びていて、しかも彼女の足には裾が短い。他に着るものがなかったのだとすれば、明らかな「貧民」だ。本来、軍人養成学校にはいないはずの。
普通はいても学費を懸命に捻出した一般人で、それでも着衣はきれいだ。髪だって整えている。けれども少女は、長く伸びた髪を梳かしもせずに束ねているようだった。せっかく琥珀か蜂蜜かという、綺麗な色なのに。
どうして、という疑問は周囲の声で解けた。あの少女はどうやら、最近になって始まった特待生制度によってここにいるらしい。特待生は入学金が無料で、その枠に入るには入学試験での好成績が必要だ。家柄は問わない、というのは本当の事らしい。
つまりあの少女は「できる」のだ。勉強も、運動も。どんな環境で育ってきたのかはわからないが。
同じ十歳入隊コースの、同じクラスになった彼女の名は、出席をとる際に知った。メイベル・ブロッケン。たしかにブロッケンという名前は聞いたことがない。返事をする声は女の子にしては低く、どこか機嫌の悪さが窺えた。
「態度の悪い貧乏人」というレッテルはたちまち学内に知れ渡る。彼女が特待生であることよりも、金を払わずに入学してきたということのほうが話題としては面白かったのかもしれない。フィネーロにはちっとも面白くはなかったが、彼女がその噂を耳にしているはずなのに特に何も言わないので黙っていた。
もとより、話しかけるきっかけを与えようとしない相手だった。いつも透明で分厚い壁を自分の周りに作っているような少女に、どう接しろというのだ。
そんな人物が同じクラスにいるということは、すぐにフィネーロの家族にも知れた。父は何も言わなかったが、兄たちは口々に弟を心配した。
そんな問題児が一緒で、この先まともにやっていけるのか。今年のクラスは、フィネーロは、気の毒だ。何かあったらすぐに言いなさい、兄さんたちが学校に駆けつけてやるから。
兄たちはまともな人なのだけれど、弟のことになると我を忘れることがある。これからは何があっても黙っていよう、とフィネーロは誓った。

最初の一か月、メイベル・ブロッケンはおとなしい学生だった。衣服がいつも体に合っていなかったり、ぼろぼろだったことを除けば、問題も起こさない。何を言われても反論や反抗はせず、ただ黙々と授業を受け、実習に取り組んだ。成績はさすが特待生というべきか、どれも素晴らしかった。少なくともフィネーロは感心していた。
他人はどうだろう。その瞬間は黙ったようだが、以降も陰口は止まない。貧乏なくせに生意気だとか、軍人になるのもきっと金目当てだろうとか、そんな僻みを含んだ囁きがいつもどこからか聞こえていた。
文句があるなら、実力で示せばいいものの。それができないから僻むのか。そんな人間たちが、これから軍に入ろうとしているのか。そんな根性のまま大人になろうとしているのか。それを考えると、頭が痛くなった。
そうして五月の中旬、フィネーロは初めて彼女と接触する機会を得た。
「隣の席の人と、解答用紙を交換して採点するように」
そう言ったのはたしか、数学の教員だった。優しいと評判だが、やたらと学生同士を仲良くさせたがるので、人見知りをするフィネーロはこの教員の言動に度々困っていた。
他の学生たちからもこのときばかりは文句が出たと記憶している。自分の点数をクラスメイトに、それも大して仲良くない相手に知られるのは、あまり好ましくない。誰もが嫌々ながら解答用紙を机の上で滑らせて、隣の者に渡していた。
座席は決まっているわけではない。教室に来た順に、好きな場所に座ることになっている。彼女はいつも早くに来て一番前の端の席を確保していたが、その隣には誰も座ろうとしなかった。その日、家の都合で遅刻ギリギリに教室に到着したフィネーロには、その空いた席しか残されていなかったのだった。
隣から、解答用紙が差し出される。全ての欄がきちんと埋まった、見事なものだ。フィネーロも同様に空欄のない解答用紙を彼女に渡した。そのとき、案外彼女の字は読みやすいのだな、ということを知った。
「全問正解していた」
採点が終わった解答用紙を彼女に返すとき、フィネーロは何も考えずに一言を添えた。すると彼女は切れ長の目を見開き、こちらを向いた。その瞳は若草の色だった。
「何か問題でも?」
フィネーロが問うと、彼女は「いや」と小さく言った。
「ここに通うようになってから、初めて話しかけられたものだから」
彼女が纏っていた壁が薄くなったと感じた。驚いた顔は無防備で、フィネーロや他の学生と同じ、ただの九歳の少女だった。
休み時間に入ってから、フィネーロは彼女にさらなる接触を試みた。普段なら次の授業の準備と読書で暇を潰すところだが、今日はなんだか彼女と話をしてみたかった。
暇そうに欠伸をする彼女の手元にはノートはなく、代わりにくしゃくしゃになったのを広げたような紙が一枚あった。真新しい教科書と並ぶと、なんだか妙だ。
「まさか、その紙に授業の内容を?」
話しかけると、彼女は横目でこちらを見て、それから頷いた。
「ノートなんてきれいなものを買う余裕はないんだ。本当なら、私も働いて稼がなくてはならない」
低い声で律儀に返事をする。会話ができると判断し、フィネーロはさらにたたみかけた。
「じゃあ、なんで学校に」
「将来的に働いて稼ぐためだ。軍人になればいい稼ぎになる。学校を出れば何もせず試験を受けて入隊するよりも、確実に上の階級からスタートできる。当然貰える給料も多いだろう」
「いや、たしか十八歳までは支給制限があったはずだ。子供のうちは制限以上の給料は軍で管理し、制限がなくなったらまとめて返してもらえる仕組みになっている」
「制限……それは調べていなかった。だが、それまで生きて仕事をしていればいいんだな。制限がかかるといっても、家に金を入れる分には支障がない、……といいんだが」
しきりに金のことを気にするのは、やはり家が貧しいからだろうか。金のために軍人になろうとしている、という噂は間違いではないらしい。周囲は裕福な家の人間ばかりで、育った環境にも恵まれていて、金の心配などしたことがないだろう。フィネーロはそうだ。だから収入のことなど気にしていなかった。けれども彼女は、そこにこだわる。
「金が必要なのか」
「働いて対価を貰うのは当然のことだ。そしてそうでなければ生活ができない。私には、家族を養う義務がある」
そんなものは大人のすることだと思っていた。だが彼女はそうは思っていない。自分にこそその義務があるのだと、本気で考えているようだった。
「不躾で申し訳ないが、君は孤児なのか?」
「まさか。母親がいる。……ただ、あてにならない。あの人も働いてはいるけれど、稼いだ分だけ奪われてしまう。だから我が家には、より多くの収入と、それを守る力が必要なんだ。軍人になれば」
彼女の机の上にあった手が、強く拳を作る。爪が刺さりそうなほど、力がこもっていた。
「軍人になれば、その両方が得られる。私が実現してみせる」
若草色の瞳は宝石でも埋まっているのかというほどにギラギラと光って、ここには存在しない何かを睨み付けていた。そこに決意と怒りを見て、フィネーロは鳥肌の立った腕をそっとさする。
彼女には、確固たる目的がある。自分のように、家族がそうしているから自分もそうしたいなどという、ぼんやりした理由ではなく。もっとずっと先を見据えているかのようだった。
「……喋りすぎた。まあ、貧乏人の理屈だ、忘れてくれてかまわない。お前はこんなことは考えなくてもいいのだろうし、もっと有意義なことに頭を使ったほうがいい。記憶容量というのは限られているそうだからな」
投げやりに会話を終わらせた彼女の声に、授業開始のチャイムが重なる。気が付けばすでに教員が前に出ていた。クラス委員の号令で礼をし、授業が始まる。大総統史担当の教員は、すぐに前回の続きから話し始めた。
横目で確認した彼女は、真剣に授業を聞いている。教員の言葉を一言も聞き漏らすまいとして。

翌日も、さらにその次の日も、彼女の隣は空いていた。フィネーロはその場所を選んで座り、朝は彼女に「おはよう」を、帰りには「さよなら」を言うようになった。彼女はこちらを見ずに、同じ言葉を返す。休み時間にはぽつぽつと、授業のことなどを話した。
「最近、お前の噂を聞くようになったぞ」
何日か経った朝、挨拶の後に彼女が言った。
「リッツェが貧乏人に情けをかけてるって。そうなのか、フィネーロ・リッツェ」
たしかにそんな噂が流れ始めていた。彼女と話すのがフィネーロだけだったから、誰かが言いだしたのだろう。ついでに、女子は恋だのなんだのと言っている。「リッツェ君、趣味良くないね」だそうだ。
「誰かに情けをかけたことはない。僕は僕のしたいようにしているだけだ」
「そうか、お前は私に構いたくて構っているのか。変わった奴だ」
「変わっているか? ただ会話をしているだけなのに」
「普通の人間は、こんな汚い恰好をしている奴と話そうとは思わない。思ったとして、それは同情か恩を着せようとしているかだ」
フィネーロのしていることは、そのどちらでもないつもりだ。しいていうなら、興味だろう。そう正直に言ったら、彼女は「なるほど」と頷いた。
「それなら納得だ。私はお前とは違う人間だからな。お前は名家の坊ちゃん、私はここにそぐわない貧乏人だ。興味はあるだろう」
「そうではないのだが……。周りの声を気にしていなさそうだから、その平常心に感心しているんだ」
「そう見えるか」
彼女は鼻で笑った。子供の顔のまま、大人みたいな表情をする。
「くだらないことにいちいち反応していたら、頭の容量と労力がもったいない。それだけのことだ」
「なるほど。たしかにそうだな」
周囲の声など気にしていたら、彼女の目的を達成する邪魔だ。彼女の労力は、彼女曰く家族を養うために使われるべきなのだから。
「しかし、雑音が多いと集中しにくいのは事実だな」
「すまない、僕が君の邪魔をしているんだろう」
「お前は邪魔じゃなくて気分転換だ」
子供なのに大人びていて、賢くて、気が利いて。なにより家族思いで。フィネーロから見れば、このクラスでメイベル・ブロッケンより出来た人間はいない。末っ子で甘やかされてきた自分が恥ずかしくなるくらいだった。
これからも彼女から学ぶことはたくさんあるだろう。そのために、できるだけ一緒にいたい。誰かの言うような恋とかではなく、きっと憧れが一番近い感情だ。
だから、彼女の頼みには驚いた。
「ところで、私は教科書以外の本というものをまともに読んだことがない。お前は私と話してばかりいるが、本当は読書が好きなんだろう」
「まあ、読書は好きだが」
「何が面白いんだ、教えてくれ。妹たちに話してやりたいんだ。私は何も知らない」
憧れは上の人間に抱くものだ。しかし彼女は、自分は何も知らないのだと言う。教えてほしいと言う。それが不思議だった。
フィネーロはちょうど鞄に入れていた本を取り出し、彼女に差し出した。
「読むといい、自分で。これくらいなら、君はすぐに読み解ける。噛み砕いて家族に話すことだって容易だろう。お薦めはいくらでもあるから、読みたいものがあれば言ってくれ」
彼女は、しかし、本を受け取らなかった。手を伸ばそうとはしたが、すぐに引っ込めてしまった。目が泳ぎ、いい、と答える。
「物を借りたくない」
「じゃあ、学校で読んでしまうのはどうだ。内容を覚えるくらいの容量は、君の頭なら十分に残っているだろう」
自分でも驚くほど強引に、フィネーロは彼女に本を押し付けた。やっと本を受け取った彼女は、その表紙をしばらく眺め、紙の並びをなぞってから、小さな声で「感謝する」と言った。
その日彼女は、授業が終わっても帰らなかった。本を読みふけり、席を立とうとしない。フィネーロは何も言わずに先に帰った。彼女は借りたくないと言ったが、引き上げるわけにもいかない。
遠慮せずに借りていればいい。持って帰って、妹や弟に読み聞かせてやればいい。何日でも、好きなだけ。――そう思っていたのだが。
翌日、本は無残な姿で返ってきた。
「すまない」
千切れた表紙と、破られたページ。汚れて、よれて、ぼろぼろになってしまったそれを、彼女は朝の挨拶よりも先に差し出してきた。
「どうしたんだ」
「……こうなってしまうから、借りたくなかった。しかしお前は先に帰ってしまったし、どうしたものかと考えて、結局持ち帰ったんだ。隠していれば大丈夫だろうと思っていたのだが、甘かった」
答えになっていない。けれども、彼女の家庭で何かあったのだということは予想がついた。妹や弟がやってしまったことならば仕方がないだろう。
「僕は気にしない。本の修復なら、兄さんが得意だ」
「直るのか」
「ああ。どうやら君は、壊れたパーツを全て持ってきてくれたようだし。それより、内容は覚えられたのか」
彼女の手から本と本だったものを受け取り、フィネーロは尋ねた。彼女は瞠目し、「それより?」と低い声で呻く。
「自分のものを壊されて、怒らないのか、お前は」
「僕は別に。壊れるものなら仕方がないだろう」
席に着いたフィネーロを、彼女は睨む。強く、鋭く。そして首を傾げたこちらに告げる。
「やはりお前は坊ちゃんだな。私とは余裕が違う」
透明な壁が、せっかく取り払われつつあったものが、また厚くなってしまったような気がした。

夏になると、訓練の授業が本格的に始まった。各々武器を選び、その扱いを覚える。選択ごとに教員も異なり、いつものクラスとは違うメンバーが顔を合わせるようになる。
フィネーロは武器が決まらなかった。訓練は体術を習う全員共通のものと、武器を扱うものを必ず受けなければならないのだが、武器の適性がわからない場合は無難なものに振り分けられることになる。すなわち、軍で最も使用頻度の高いもの――剣や銃だ。剣はさらに細かく、長剣や短剣などに分かれる。
「武器の適性が見つからなくても、一つ基本を押さえておけば、試験には合格できます。リッツェ君はどうしますか」
「では、ナイフで」
重い剣や衝撃の強い銃は、自分には不向きだと感じた。そこでナイフを選んだのだが、これもまたフィネーロにはなかなか扱いにくい。まず、相手の懐に飛び込む動作が難しかった。
もっと訓練しなければ追いつけない、と悩んでいる間に、彼女の噂が聞こえてきた。迷いなく銃を選んだ彼女は、訓練で優秀な成績を誇っているらしい……というのは聞こえが随分いい方で、周囲の言葉通りなら「鬼気迫っていて怖いくらいだ」という。
基本の拳銃だけではなく、あらゆる火器の構造と扱いを瞬く間に習得し、実践してみせる。彼女一人で的をぼろぼろにし、それが人型ならば確実に急所を狙う。軍人になりたいのか人を殺したいのかわからない、と教員がぼやいていたこともあった。
もちろん軍人養成学校の卒業生がむやみに人を殺すようなことはあってはならない。軍の規則ではやむを得ない場合に限り相手を殺してしまうことになっても罪には問われないことにはなっている。だが、そんな状況は無くしていきたいというのが現在の軍の考えだ。いくら凶悪犯でも、殺してしまえば事件の真相はわからなくなってしまう。
彼女には指導が入った、と聞いたのは汗ばむ日が続く頃のことだった。ちょうどフィネーロが武器の変更を考えたほうが良いと、教員から指導された時期と同じくらいだ。
「ブロッケン、教員から何か言われたのか」
席はずっと隣だった。だが、会話は破れた本を返された日を境に激減していた。だから話しかけるのには、少し躊躇いがあった。けれども彼女はいつもの不機嫌そうな声で返事をしてくれた。
「ああ、もっと落ち着いて訓練に臨めと。実際に任務に就いたとき、今のままだと問題だと言われた」
「問題?」
「手加減を覚えないと死者を出す、だそうだ」
うんざりしたように溜息をついて、彼女はフィネーロに向き直った。久しぶりに真正面から、若草色の瞳を見た気がした。
「なあ、リッツェ。お前はお坊ちゃんだからわからないかもしれないが、一応訊く。性根から悪である人間は、排除すべきではないのか。そのほうが世のためじゃないのか」
いつかのように、ギラギラした眼。彼女は正義感が強いのだろうか。少々、極端な方向に。
「他人の性根なんて、わからないだろう。それに一方的な排除は物事の包括的理解に繋がらない」
「理解する必要が? そもそも理解など可能なのか? お前には、できるのか?」
自分には、と考えるとフィネーロも言葉に詰まる。理解する、というのは難しいだろう。身内でさえ考えを理解したり納得したりすることが困難なのだ。しかし、だからといって考えないというのは、違う気がする。排除するだけでは解決しない。フィネーロは父からそう教わってきた。
「……理解できなくても、物事の原因を探ること、同様の事件を防ぐことは、多少なりともできると思う。僕がなりたいのは、そういう軍人だ」
もっとも今の実力では、それすらも難しいかもしれないのだが。つい唇を噛みそうになったところで、彼女が鼻で笑った。
「いいな、お前は。先のことが考えられて。やはり余裕が違う」
「以前もそう言っていたな、君は。君には余裕がないのか」
「ない」
きっぱりと一言で返す彼女は、もうフィネーロを見てはいなかった。
それから数日が経ち、体術の男女合同訓練があった。普段は体力差や体格差を考え、男女別になっているのだが、実戦ではそうもいかない。ときどきは合同での訓練を行い、互いに対応を学ぶというのが趣旨だ。けれども体力差や体格差の考慮はそのままだ。フィネーロは力のさほど強くない女子を相手にすることになり、彼女は――フィネーロが知る限り、クラスで最も力のある男子と組んでいた。
さすがにあれは可哀想じゃないか、と男子らは失笑する。女子らは「実力で決まったのなら仕方がない」と言っていたので、彼女の成績が女子トップであることは確かなようだ。
合図とともに組手が始まる。初めのうちは男子が手加減しようとするが、次第に本気の女子に押されていく。男だろうが女だろうが、最終的に目指す場所は一緒なのだから、油断は禁物だ。フィネーロなどは手加減などするまでもなかった。相手の攻撃を受け止めるより、かわす方が多くなってしまう。上手に受け身をとることも訓練の一環だというのに。
苦戦しているところで、担当教員が「止め」と号令をかける。ふらつきながらも呼吸を整えようとしていると、大きな音が体育館内に響き渡った。
床に何か叩き付けたようなそれに、教員までもが即座に反応できなかった。受けた当人すら、何が起こったのかわからなかっただろう。周囲は茫然と、音の方向を見ていた。
そこには彼女が仁王立ちになっていた。冷たい眼で見下ろしているのは、クラスで一番強かったはずの男子だ。彼は床に仰向けになって倒れ、手足が不規則に震えていた。
「痙攣?! おい、大丈夫か!」
教員が慌てて駆け寄り、保健委員が体育館の外へと走る。養護教員が体育館に入ってきた頃には男子学生の痙攣は治まり、意識も戻っていたが、様子を見るために体育館の隅で診察が始まった。
「ブロッケン、何をした?」
眉を寄せた教員が問い詰めると、彼女は平然と返した。
「頭を蹴り、バランスを崩したところでさらに腹に頭突きをしました。倒れかかったところでもう一度頭に一発」
「頭部への攻撃は禁止したはずだ! 銃の訓練でもそうだったが、お前の行動は危険すぎる」
「すみません。相手が訓練と関係のないことを言ったものですから、つい頭に血が上ってしまって」
謝ってはいるが、そこに反省の色は見えない。「本気を出して何が悪い」と言う彼女が、フィネーロの脳裏をよぎった。
「訓練と関係のないこととは?」
「私に対して『貧乏人は靴磨きでもしていろ』と。私だけでなく労働への侮辱でもある。こんな人間が軍人になるのだと思うと、ここで頭でも打って諦めさせた方がいい気がした」
体育館中が息をのんだ。教員に向かってあまりに正直すぎる発言をしたことと、相手に重傷を負わせる意図があったこと。彼女のしたこと全てに、教員も学生も絶句した。
だがフィネーロは、やりすぎだとは思ったが、彼女の気持ちはわからなくもない。我慢をしていたのだろう、ずっと。
「彼には病院で検査を受けてもらう。もし異常があり、障害が残るようであれば、相応の処分がある」
そう言われて、彼女はやっとほんの少しだけ動揺したようだった。口元が僅かに歪む。
幸いにも、相手の男子に異常はなかった。処分――もしかすると退学もあり得たかもしれない――を免れた彼女は、しかし厳重注意を受け、またしばらくおとなしくしていた。

夏の盛りの頃に、二週間ほどの連休がある。学校に行かないあいだの学生の過ごし方は様々だが、フィネーロに関していえば読みかけの本を読み終わり、新しい作品に手を出せる期間だ。少しばかり課題が出されているが、それは初日に片付けてしまえばいい。
図書館で勉強をし、本を借りて、ついでに書店にも足を伸ばそう。計画を立てて暑い外へ出た。図書館の前には数人の子供がいて、商店街の催し物についてのチラシを配っている。一枚受け取ると、配っていた女の子がにっこりと笑った。
顔はまるで似ていない。けれども、琥珀色の髪と若草色の瞳は、すっかり馴染んだものと同じ色だった。
「ありがとうございます。ぜひ来てみてくださいね」
年齢は六つか七つといったところだろうか。幼いのに、汗を流しながらチラシの入った籠を抱えている。傍らにはまだ開けていない箱もある。彼女と出会わなければ見過ごしていただろう。
この街には、そこかしこに「働く子供」がいる。中心部からは少し離れた場所に住む子供たちだ。富裕層の住む立派な家が建ち並ぶ区画があるのと同じくらい、古く簡素な家並の低所得者層の住む区画も存在する。働くことにこだわる彼女も、そういうところに住んでいるのかもしれない。
「カリン、まだ残っているか。もう一箱は引き受けるぞ」
図書館のエントランス前で物思いに耽っていると、聞き覚えのある声がした。彼女の事を考えていたから幻聴でも聞こえたのかと思ったが、振り向くと現実だった。琥珀色の髪の少女が、もう一人。
「……ブロッケン」
「ん、リッツェか。こんなところで何をしている」
彼女は同じ髪の色の少女の足元から、箱を持ち上げようとしていた。よっ、と言いながら箱を抱え直したので、少し重いらしい。いったいどのくらいのチラシが入っているのだろう。
「僕は課題をやりに。君こそ何を?」
「せっかく学校が休みなんだ、稼ぎ時だろう」
当たり前のように言って、彼女は去っていこうとする。この場に残った籠を提げた少女が振り返り、フィネーロにもう一度笑顔を見せた。
「お姉ちゃんのお友達ですか?」
「友達……かどうかはわからないが。君は彼女の」
「妹のカリンです。いつもお姉ちゃんがお世話になってます」
ぺこり、と頭を下げてから、続いてやってきた人にチラシを差し出す。――働いて対価を得なければ、生活ができない。こんな小さな子供までもが。
「あの、余計なことかもしれないが、役所に行って生活補助金の申請をしたほうが暮らし向きは楽になるんじゃないか」
思わず口を出したフィネーロに、カリンは困ったように笑って首を横に振った。
「できないです。お姉ちゃんが役所で聞いてきたんですけれど、そういうのって大人が申請しないとだめなんですって。うちだとちょっと、それが難しくて」
見た目よりもしっかりと、はっきりと、少女は答えた。そしてまたチラシを配り始める。何事もなかったように。
そして人が途切れると、フィネーロを振り返って言うのだった。
「できたら、お姉ちゃんとずっと仲良くしてください。お姉ちゃん、学校のお友達の話をするときは、楽しそうだから」

夏期休暇の初日しか、彼女には会わなかった。だが、そのときには彼女は元気そうだった。
少なくとも、顔に大きな青痣などなかった。額と目元と頬が青黒くなり、見る人が思わず短い悲鳴を上げるような、そんな顔ではなかったはずだ。
「おはよう、リッツェ。休みはのんびりできたか」
「おはよう。君、その顔はどうした」
「ああ、夏だからな。化け物は夏が一番流行るだろう」
真顔で冗談めいたことを言う彼女は、それ以上を話さなかった。教員に呼び出されて戻ってきてからは、ずっと不機嫌そうだった。怪我のことを聞かれたのだろうが、おそらく詳細を語ってはいないだろう。
これまで彼女や彼女の妹から聞いた話を思い出す。彼女とのあいだにあった出来事を振り返る。どう考えても、彼女の家に問題がある。だが、他人の家はフィネーロが踏み込んでいい領域ではない。彼女が絶対に踏み込ませない。
彼女は今日もくしゃくしゃの紙に授業の内容を書いていて、傍らの教科書は気づけば破られた表紙を貼りあわせてあった。いつかフィネーロが貸した本を思い出す。
「休みのあいだ、ずっと働いていたのか」
「そうだな。それがどうかしたか」
「課題は」
「やったぞ。そうだ、リッツェに見せてもらえば答え合わせができるな」
そう言って彼女が取り出した紙束も、一度乱暴に破られた跡があった。


怪我をしていても彼女の成績は良く、運動能力は高かった。怪我はそのうちきれいに治り、そしてその頃には軍入隊のための模擬試験や実技試験に備えた本格的な演習が始まっていた。入隊試験は三月。これは軍人養成学校の卒業試験でもある。
クラスでは、筆記試験ならフィネーロ、実技試験なら彼女がトップに立つようになっていた。入隊試験でも好成績があげられそうだと期待されている。学校を卒業すれば入隊時の階級は高くなるが、全体の成績で学卒者がトップに立つことは珍しい。だから成績が良いと、今度こそはと期待がかかるらしかった。
「リッツェの家は名家だから、きっと家族は一番になってほしいと思っているんだろうな」
「そうでもない。家族は僕にはあまり期待していないんだ。頭は良いが、軍で功績を上げるのは難しいだろうと、みんな思っている」
秋になっても――じき入学から半年が経とうとしていた――フィネーロに対する家族の評価は変わっていない。兄らは今でもフィネーロに一般の学校に戻るよう勧めてくる。きっと軍に入っても認識は変わらないだろう。何か大きな功績をあげない限りは。
しかし、例えば北方司令部で諜報部員として成果をあげ、重宝されている長兄と比べられてしまったら、フィネーロなどは何をしてもちっぽけなまま、小さな末っ子のままなのだろう。半ば諦めながらも、自分の選んだ道からおりるつもりはない。
「ブロッケンこそ、家の稼ぎ頭になるんだろう。期待されているんじゃないか」
「妹や弟からはな。早く稼げるようになって、いい服を着せてやりたい。そうしたらチラシ配りや靴磨きだけではなく、どこかの店で販売や案内ができるかもしれない」
彼女が働いても、妹たちもまだ働かなくてはならないようだった。彼女もまた、家の状況がすぐに変わるということはないらしい。もっとも、フィネーロはその状況とやらをいまだによくわかっていないのだが。彼女は依然として、詳しいことは何も語らない。
それからも進展はなかった。彼女はときどき青痣を作って登校してきては、教員に呼び出されている。フィネーロはとうとうその理由を聞けないまま、年を越し、卒業試験――入隊試験の日を迎えた。
結論からいって、トップにはなれなかった。学校に通っていない者がいつも通りに優秀な成績を残し、学卒者はそれに続く形での合格となった。特に実技はずば抜けて高い能力を持つ少女がいて、勝てる者がいなかった。まさに波乱の試験だったのだ。
ともあれ、フィネーロも彼女も、エルニーニャ王国軍中央司令部に伍長として配属が決まったのだった。

事件は入隊後間もなくして起こった。まだ寮の部屋も決まっていない頃、彼女はいきなり謹慎処分を受けた。なんでも上司の許可なく勝手に行動を起こしたそうで、その結果一人の男が捕まったものの、手柄は上司のものになった。
捕まった男の名はブロッケン。正真正銘、彼女の父親だった。
「妻と子供を虐待していたそうだ。酒浸りでよく暴れ、薬にも手を出していたんじゃないかと、余罪を追及中。軍に早くに通報してくれさえすれば、ブロッケン伍長も勝手なことをして謹慎になんかならなかっただろうに」
そう教えてくれた上司の言い分を、フィネーロは納得できず、けれども彼女が軍人になろうとした理由はようやく理解できた。
彼女は家族を守る力が欲しかったのだ。自分の手で家族を苦境から救いたくて、この道を選んだのだ。そしてそんな現実を知らないフィネーロには、知らないままでいてほしかったのだろう。だから本を借りることを拒否したのだ。あれから何を薦めても、彼女は学校で読むようにして、フィネーロが帰る頃には返すようにしていた。
謹慎にはなってしまったが、きっとやり遂げたのだろう。彼女は家族を救えたのだ。――そう思っていたのに、処分期間が終わって戻ってきた彼女は、まったく嬉しそうではなかった。
「私は家を壊してしまった」
明日には寮に入るというその日、彼女はフィネーロの隣でぽつりと呟いた。
「壊した、とは」
「あの男のせいで元々壊れていた家だったが、それなりに均衡は保たれていたんだ、多分。それを私が崩した。母には随分罵られたよ、『お父さんを売るなんて、なんて子だ』って」
ブロッケン家は救われなかった。彼女一人では、子供の手だけでは、どうにもできなかったのだ。そしてそれを聞いたフィネーロにも、何もできない。こちらは完全に部外者だ。手の出しようがない。
それでも、彼女は話した。フィネーロが知ることを許した。
「理解できないだろう、坊ちゃんには」
「……そうだな」
フィネーロは正直に頷いた。だが、彼女について、彼女とともに、考えることはやめたくない。
彼女も寮に入る。実家のことはすぐ下の妹に任せたという。母と一緒に生活することは無理だと判断したためだった。
「お前も寮に入るんだろう。せいぜい先日のように呼び出されて虐められることのないようにな」
「気をつけるよ。もう二度と君に助けられるなんて失態はごめんだ」
「だが、何かあったら手は貸してやる。私はお前に恩があるからな、フィネーロ」
「僕も恩返ししなくてはならないな。これからもよろしく、メイベル」
差し出した手はとられることがなかった。そのかわり、彼女は「恩返しなら」と口角を持ち上げる。
「本を。どうせ寮にも持って来るんだろう、貸してくれ。今度は誰にも破られないし、ゆっくり読める」
彼女と同じ表情で、フィネーロは「もちろん」と返した。



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2017年11月02日

秋晴れの向こうへ

歌姫の声は広い空を渡っていく。街を越え、平原を、山を、あらゆる村や国境を越えて響いていく。それはこの世界への愛であり、祈り。かつて壊してしまった幸せへ向けた懺悔と鎮魂でもある。
美しい旋律を支える楽器の音色は、歌に込められた意味を知らず知らずのうちに、大切に、柔らかに、そっと包んでいた。
人の耳に触れると、涙がこぼれそうなくらいに優しい。心の中にあるあらゆる感情に、じんと沁みていくのだった。


「リーゼッタ、君に仕事だ」
事務室長を務める大佐に呼ばれ、ルイゼンは書類から顔を上げた。じきに片付きそうなので、手を止めてもこの後の仕事に影響することはないだろう。
席を立ち、大佐の座る室長机の前に進むと、仕事の内容が書かれた文書が手渡される。エルニーニャ軍で定められた書式は見慣れていて、すぐに中身を把握することができた。
「この依頼を、俺にですか?」
書面には『先方はルイゼン・リーゼッタ中佐を指名』とある。依頼型任務には、時折このような指定が入ることがあるのだが、ごく稀だ。希望が通る数はもっと少ない。大佐もそれはわかっていて、「都合がつかないなら他の人員にまわす」と言った。
「リーゼッタは室長の私よりも忙しいからな、無理にとは言わないよ」
「いえ、スケジュールに問題はありませんし、それが依頼なら受けます。ただ……」
仕事なら全うする。いつでもその姿勢は変わらない。だが、この任務には疑問があった。――依頼主はルイゼンもよく知っている人物で、しかしこちらのことはあまり信用していないものと思っていた。本当に彼が依頼主なのか、そこからして疑わしい。
「……これが本当に先方の希望なのか、確認したいです」
「その点に関しては確かだ。依頼主はわざわざ司令部に出向き、君の名前を出したらしい」
ルイゼンはさらに困惑したが、事実はどうあれ、これは自分の仕事なのだ。名前がある以上、責任を持ってやり遂げなければならない。
「音楽祭警護任務、承りました」
敬礼してみせると、大佐はホッとしたように頷いた。

エルニーニャ王国首都レジーナの秋は、芸術の秋だ。商店街や大通りは街路樹と絵やオブジェに彩られ、小さな楽隊が毎日のように公園で演奏会を開く。音楽祭はそういった中で生まれたイベントだ。
主催するのは、市民の生活と文化を司る文派の人々。多くは学術機関に属している者で、音楽祭で活躍するのは彼らに教わる学生たち。音楽祭とはいうものの、披露されるのは歌や演奏に限らない。一般市民を対象とした特別講座や、スポーツに分類されそうなパフォーマンスなど、様々な催し物がある。文派が軍や王宮と立場を同等にして以降、このようなイベントが数多く提案され、綿密な計画を練って実行に移されるようになった。
音楽祭に参加するのは「市民」。普段は軍に所属していても、王宮で仕事を得ていても、誰もが等しく「この土地に住む人」として扱われる。警備は軍ではなく、警備会社に委託するのがいつものやり方だ。だが、どうやら今回に限っては勝手が違うようだった。
「今年の音楽祭の目玉は、学生楽団によるオーケストラと歌姫の歌唱だ。ところが学生楽団の運営に宛てて、当日の演奏を妨害する旨の脅迫状が届いた」
任務の内容をさらに詳しく資料にしたものを、ルイゼンは五部用意した。一部は自分でとっておき、あとは自らがリーダーを務める班員に配る。――フィネーロ、メイベル、カリン、そしてイリスに。
依頼主の名前を見て、イリスが首を傾げた。想定通りの反応だった。
「これさ、本当に受けちゃってよかったの? ゼンはまあいいとして、わたしがメンバーにいるのはまずいんじゃない?」
「俺もどうしようか悩んだ。けど、先方は俺を指名して、その俺の直属の部下がお前たちなんだ。先方がこうなることを予想していないはずはないし……」
「それでもわたしは外しといたほうがいい気がするよ。もしトラブルが起きたら、ゼンの責任になっちゃうよ」
いつもなら任務には乗り気のイリスが、今回は自分から「外せ」と言う。カリンが目を丸くして、イリスの袖を引っ張った。
「どうしちゃったんですか、イリスさん。任務は名誉挽回の機会だって、積極的に取り組んでたじゃないですか」
「カリンは中央に来て日が浅いからな、知らなくても仕方ないだろう」
口を挟んだのはメイベルだ。彼女も、そしてフィネーロも、今回の任務の妥当性を疑っている。
「依頼主のシャンテ氏は、リチェスタの親だ。ルイゼンとイリスにとっては天敵ともいえる」
資料を指先で叩き、メイベルがずばりと言う。名前の挙がった二人は苦笑を浮かべた。
リチェスタはイリスとルイゼンの幼馴染だ。現在は女学校の学生で、二人とは別の道を歩んでいるが、頻繁に連絡をとり、たまに顔を合わせる、正真正銘の親友である。
しかし文派の中でも重鎮であるシャンテ家の主人とその妻は、娘の友人のことを昔から良く思っていない。リーゼッタ家は裕福な一般家庭で近所付き合いがあること、インフェリア家は軍の名家であることで、なんとか存在を認めてもらっている状態だ。本当は、昔ガキ大将であったルイゼンや、習い事があるリチェスタを引っ張り遊びまわっていたイリスとの友人関係は、見直してほしいと思っているのである。
上品な友人と、上品な付き合いを。それを幼い頃から聞かされてきたリチェスタは、しかし学校でなかなか友達ができなかったこともあり、ルイゼンとイリスを大切に思ってくれている。学校での人間関係が上手くいくようになっても、初めての友達である二人との関係を切ることはなかった。
そんな事情を改めて説明され、カリンはほう、と息を吐く。
「リチェスタさん、イリスさんやルイゼンさんが怪我したときもすぐに駆けつけてくれて、とても良い人ですよね。でも、親御さんはそういうの、あんまり良く思ってないんですかね……」
「ゼンは親同士がうまくやってるから、わたしほどは風当たり強くないはずだけど」
「親はな。でも俺自身は昔と変わらない。……いや、昔より厄介に思われてるはずなんだ」
イリスは「なんで?」という顔をするが、メイベルは黙って頷き、フィネーロは当然のことのように補足する。
「年頃の男女が一緒にいれば、噂にもなるだろう。ルイゼンはときどき、寮を訪ねてきたリチェスタを送っているからな。それにリチェスタの態度が堂々としてきたから、心の内が親に覚られてもおかしくはないだろう」
「なるほど。リチェのとこ、恋愛も厳しそうだもんね」
イリスはシャンテ家の厳しさを幼少期から痛感している。父親は忙しいせいか会ったことはないが、母親はとにかく娘を「健全に」教育しようとしている人だった。「乱暴な子供」であったイリスやルイゼンを目の敵にして、一緒にいるところを見つかると全員に怒りが向いた。
後にルイゼンはシャンテ家への出入りが許されたが、それは近所付き合いの延長と、ルイゼンが成長して母親も黙るような「紳士」になりつつあったからだ。すでに過去のガキ大将の影は、彼が怒りを爆発させたときくらいにしか見られない。
それでもまだ「恋愛は早い」と思われている可能性は十分にある。ルイゼンにもイリスにも、シャンテ家の人々は接触を避けるはずだった。
「それがわざわざルイゼンを指名するとは。文派の重鎮ならば、軍内のこともわからないわけではないだろう。ましてルイゼンの下にイリスがついていることなんて、親の井戸端会議でわかっていそうなものだが」
「お父さんはゼンのこと信頼してるんじゃないの? 軍のことがわかってるなら、ゼンが評判のいい軍人だって知ってるはず」
「ああ、イリスは知らないのか。リチェの父さん、あんまり家には帰らないけど、娘のことは溺愛してるんだ。俺、何度か『近付きすぎるな』って釘刺されてる」
「おおう……方向性は違うけど、ちょっとうちと似てるね……」
これはますます妙な事態になってきた。はたしてこの依頼に手違いがないと断定できるのか、全員が腕組みをして唸る。そのうちカリンがやっと腕を解いて、にっこり笑った。
「でも、リチェスタさんのご家族は、厳しいけど悪い人じゃないんでしょう? だったら、ルイゼンさんの働きを正当に評価しての指名だったんですよ。文派の人なら、少しでも親交のある軍人の方が依頼をしやすいでしょうし。難しく考えることはないと思います。そしてルイゼンさんがメンバーに選ぶなら、イリスさんのことだって認めるに違いないです」
「そうだね。だといいけど」
困ったような笑みのまま、イリスはカリンの頭を撫でる。悩んでいても仕方がない。これは仕事だ。私情を挟んではいけない。やるべきことをやるしかないのだ。
「ゼン、良い方に考えよう」
「良い方だろうが悪い方だろうが、もう受けた依頼だからな。理由なんかどうだっていい。全力で音楽祭を、学生楽団を護ろう」
ルイゼンも吹っ切れた。ようやく本格的にリーゼッタ班の仕事が始まる。


学生楽団は、レジーナの音楽活動をしている学生から優秀な者が選ばれて結成される。名前が挙がればそれは名誉なことで、同時に失敗が許されないという重い責任を負うことになる。
リチェスタ・シャンテは、幼少期から続けているバイオリンを、女学校の高等部に属する今では、多くの人が素晴らしいと絶賛する領域へと昇華させていた。昔は好きでやっていたわけではなかったのだが、真剣に取り組むうちに、自分になくてはならないものの一つになった。
今回学生楽団の一員に選出されたことは、素直に誇らしく、同時に大役を重く感じた。ただオーケストラに参加するのではなく、国内外に名の知れた「歌姫」と同じ舞台に立つのだ。
――ああ、緊張するなあ。こういうとき、イリスちゃんなら張り切って練習するんだろうけれど。
親友のことを考えるのは、長年の癖だ。知り合ってから十二年、いつも心を動かされるようなことがあれば、大切な人たちはどう思うだろう、どうするだろうと想像する。それで勇気をもらうこともあった。
――私は、まずは音に気をつけながら、丁寧に練習しよう。せっかくの機会だもの、台無しになんてしたくない。
心の中で意気込むと、すぐ傍で親友が応援してくれる気がする。報告すれば、本人の声で「頑張れ」が聞けるだろう。後でこっそり電話でもしてみようか。
同じ学校の友人に声をかけられたのは、そんなことを思っていた矢先のことだった。
「シャンテさん、楽団に選出されたんですってね。おめでとう」
「あ、ありがとう」
「でも、大丈夫かしら? 楽団の運営に脅迫状が届いたそうじゃないの。もしもあなたに危害が及ぶようなことになったら……」
それは初耳だ。楽団の運営のトップにはリチェスタの父がいる。しかしそんなことは少しも言っていなかった。――いや、言わなかったのか。母の耳に入れば、音楽祭を中止しろと騒ぐかもしれない。娘である自分にも、余計な心配はさせたくなかっただろう。
「きっと質の悪いイタズラよ。当日は何事もなく終わるわ。私が演奏を失敗しさえしなければ」
「あら、シャンテさんが演奏を失敗? そのほうが可能性は低そうだわ。音楽祭当日は、念のため警備を例年より強化するそうよ。いつもは頼らないのに、軍にまで話がいったとか」
軍が動く。もしかしたら、ルイゼンやイリスも関係しているだろうか。仕事をしなければならないのなら、音楽祭を見に来てほしいと頼めなくなる。何かと催し物に誘ってくれるから、今度はこちらがと思っていたのに。
どうか無関係でいて、という願いは、その夜イリスに電話をして、見事に打ち砕かれた。
「そっか。リチェが楽団のメンバーなら、これは何が何でも絶対に護りきらないと」
「やっぱり、イリスちゃんたちも音楽祭の警護の仕事があるの?」
「あー……うん、まあね。当日は楽しい盛り上がりだけで済むようにするから、安心して舞台に立って」
イリスが関わっているのなら、その上司であるルイゼンも暇ではないだろう。残念だが、今回は誘えない。落ち込んだのを覚られないよう、明るい声を作った。
「イリスちゃんたちがいるなら、何も心配いらないね。私、全力で演奏する」
それがリチェスタにできること。やらなければならないことだから。


眼鏡の奥の目は鋭く、娘にはあまり似ていない。体つきも思ったよりがっしりしている。イリスが初めて会ったシャンテ氏――リチェスタの父親は、母親とはまた違った意味で厳しそうな人だった。
「先日依頼したように、学生楽団の警護を頼みたい。昨年、大総統閣下の暗殺未遂事件もあったことだ。こんな紙切れ一枚も馬鹿にできないからな」
軍で預かっていた脅迫状――今は机の上に広げて置いてある――をトントンと指で叩き、シャンテ氏は正面のルイゼンを睨んだ。いや、ただ視線を寄越しただけか。なにしろ目つきのおかげで判別しにくい。
「リーゼッタ中佐はその暗殺未遂事件でも閣下をお守りする最前線にいたと聞いた。私は同じくらいの緊張感をもって、この任務にあたってほしいと願う」
「もちろん、どんな任務でも緊張感と使命感を欠くことなく遂行します。今回警護にあたる人間は、先の事件でも活躍した精鋭ですので、ご安心を。……特に」
まるで他人と話すように、ルイゼンは背筋を伸ばして冷静な声色で言葉を発する。視線は真っ直ぐに、シャンテ氏の目に向かっていた。が、それがイリスへと移動する。シャンテ氏もつられるようにして、こちらを見た。
「インフェリア中尉は大総統補佐も務めています」
「知っている。閣下を普段からお守りしているのだから、今回も期待している」
声も言葉も重い。イリスは腹に力を入れて、それを受け止めた。
「もちろんです。学生楽団に余計な心配はさせません」
今回の仕事には、リチェスタの無事もかかっている。あらゆる意味で失敗は許されない。何か起きた時の対処はもちろんだが、一番は「何も起きないこと」だ。不穏な要素があれば即座に取り除き、何事もなかったように処理する。
楽団員は、リチェスタの言葉から察するに、軍の警備が入ることは知っている。その理由が脅迫状にあることも、すでに聞き及んでいるかもしれない。当日はそんなことなどすっかり忘れて、ひたすらに演奏に集中してほしい。
「演奏の妨害が予告されている以上、同じ舞台に立つ歌姫の身の安全の確保にも努めてもらいたい。まだ一般には公開していないが、有名な方だ。何かあればもう二度と音楽祭が開催できなくなる危険をはらんでいる」
シャンテ氏は持参した書類を取り出した。当日舞台に立つ人間のリストらしい。すぐにリチェスタの名前を見つけ、イリスは内心で笑った。
そして最後に記されている「歌姫」の名前を見て、目を丸くし、それから口角が上がった。
「……何をにやついている、中尉」
表情をシャンテ氏に見咎められても、直せない。むしろ不敵な笑みのまま、言葉を返した。
「何もないのが一番です。それはわたしたちもわかっていますし、その状態を保つのがわたしたちの仕事です。でも、もし。万が一何かが起こってしまったとしても。……もしかしたら、歌姫が全部解決してくれるかもしれませんよ」
怪訝な表情をするシャンテ氏に、ルイゼンが慌てて「失礼しました」と頭を下げる。後で叱られるのは必至だなと思いつつも、イリスは笑顔だった。

その晩、イリスは兄たちの家を訪れた。ファミリー向け集合住宅の一室は、今日も子供がせっせと料理をしている。大人たちはそれぞれ仕事中なのだ。
「ニール、お兄ちゃんの新作は音楽祭に間に合いそうなの?」
一緒に台所に立ち、作業を手伝いながら、イリスは尋ねる。曖昧な短い唸り声が返ってきた。
「今回は何も教えてくれないんです。でもずっと部屋にいるので、ちゃんと進んでると思いますよ」
音楽祭には絵も多数出展される。イリスの兄ニアも作品を出すべく頑張っているうえに、当日には他の画家や音楽家と組んでパフォーマンスも行うという。あちらもこちらも忙しいのが、音楽祭の直前だ。
協賛企業も毎日、通常業務に加えて音楽祭関連の仕事をしているらしい。この家のもう一人の大人であるルーファも、最近は帰りが遅いようだ。
「イリスさんは、音楽祭は見に行くんですか?」
「行くけど、仕事なんだ。ゆっくりは見られないなあ」
「軍人さんが音楽祭で仕事なんて、珍しいですね」
食事ができたら、部屋にこもっているニアを呼ぶ。そのタイミングでルーファも帰ってきた。
この四人で食卓を囲むのは久しぶりだ。
「本当にこの時期の忙しさときたら……。軍にいた頃はわからなかったな」
「イベントをやるのは大変だよね。楽しいけど」
肩や首を回すルーファとニアに「お疲れ様」と声をかけ、イリスは料理を並べた。ニアがまだ仕事をするので、今日は酒は出さない。
「でも、だんだん軍も関わるようになってきたみたいだね。レヴィも今年はアーシェちゃんにかなり使われてるって?」
「レヴィ兄の様子は、今はちょっとわかんないな。班の仕事がメインだから、手伝いしてないんだよね」
文派のトップは大文卿、アーシェはその妻で補佐だ。代理も多く務めている。文派の祭りのために忙しくなるのは当然だが、大総統であるレヴィアンスまで使っているとは。
「こうやってだんだん協力体制が強くなっていくんだね」
「レヴィは親の仕事をしっかり引き継いでるよな。それに加えて、自分がやることも進めている。俺も見習わなきゃ」
「へえ、ルーでもレヴィを見習うなんて言うんだ。昔からライバルみたいだったのに」
笑いながら、イリスは思う。自分にできること、やるべきことをしっかりとやる。それは年初めの大失敗以降、ずっと意識してきたことだ。
今回のこともそう。リチェスタの親にどう思われていようと、仕事はしっかりこなさなくてはならない。学生楽団を守れなければ、音楽祭の存続が危うい。音楽祭がなくなれば、兄たちの仕事も減ってしまう。全ては繋がっているのだ。
「わたしも頑張るからね、お兄ちゃん」
「うん、応援してるよ。心配はしてない」
――何より、もっと単純に。
親友の晴れ舞台を、邪魔させてなるものか。

本番が近くなればなるほど緊張するが、奏でる音色は冴えわたっている。完成が近いことを自分で感じられる。これはいい出来だ、とリチェスタは思わず口元を緩ませた。今は一人で練習しているから、誰に見られることもない。
楽団のメンバーとの顔合わせや練習を重ね、全員が自信を高めている。選ばれた学生楽団の一員としての誇りと、レベルの高いオーケストラが自分たちで作れるという喜び。それはリチェスタの胸をも満たしている。
だからこそ、聴いてほしかった。大切な人たちに。昔のくよくよしていた自分を知っている彼らに。
――でも、警備に来るって言ってたもんね。
音は聞こえるだろう。リチェスタが一人で演奏するより何倍も素晴らしい音が、会場いっぱいに響き渡るはずだ。それが少しでも耳に入るなら、それでいい。
――それに、歌姫様と共演できるんだもの。それだけで十分贅沢だよ。
すでにリチェスタは、脅迫状のことなど忘れている。イリスたちが守ってくれるのであれば、忘れてしまっても問題はない。ただ思い切り、舞台を楽しみたい。
こんなふうに思う日が来るなんて。幼い頃は、あんなにバイオリンの稽古を嫌がっていたのに。そういえばイリスと出会ったのも稽古をさぼろうとしたからだった。それから歩んできた道のりを思うと感慨深く、あのときさぼっていたのも完全な間違いではない気がしてくる。
「私がずるをしたから、イリスちゃんと出会えて。イリスちゃんはゼン君と出会った。面白い縁よね」
リチェスタだけが別の道を行っても、二人がいつも気にかけてくれた。恋愛でやきもきすることはあったけれど、それも乗り越えてしまえば良い思い出だ。
「今度は、ずるなんてしないよ」
そっと誓い、顔を上げる。


音楽祭の日は爽やかな秋晴れ。文化の花開くレジーナに、芸術家たちが集う。
歌姫との舞台以外にも演奏の予定がある学生楽団は、朝の早い時間から集合し、最終調整に入っていた。
「何か起きそうには思えないね」
無線通信機と武器を装備した軍服姿のイリスたちは、ここでは目立つ。すれ違う人々が振り返り、時には眉を顰めて去る。嫌がられるのは仕方がない。この恰好が抑止力になればいい。
「まずは楽団に挨拶しよう」
ルイゼンが楽団の控室になっている会館へと向かうのに、フィネーロ、メイベル、イリス、カリンがぞろぞろと続く。
「顔出したら迷惑じゃないかな」
「シャンテさんの許可はとってある。軍人が顔を見せたくらいで動じるような者はいないってさ」
「さすがに才能を認められているだけのことはあるな。度胸もあるんだろう」
「リチェスタはその一人というわけだ。惚れ直したんじゃないか、ルイゼン」
「すごいなとは思ってるよ」
からかったりかわしたりしながら、一行は楽団を訪ねた。こちらを振り返った学生たちは、一瞬驚いた顔をしたが、すぐに丁寧な挨拶を返してくれた。一番動揺していたのはリチェスタだろう。イリスだけでなく、ルイゼンたちまで来るとは思っていなかったのかもしれない。
「本日、楽団の皆さんの警護をさせていただきます。何か気づいたことがあったら、遠慮なく仰ってください」
予定通りの簡単な挨拶を済ませると、すぐに控室から出た。そしてあらかじめ決めておいた配置を確認し、解散する。ここからのやり取りは無線を通じて行う。
基本的には、控室周りと演奏を行うステージ周りの、割り当てられた範囲をくまなくチェックし、怪しい人物がいないか、不審物はないかどうかに気をつける。違和感があったらすぐに無線で班員全員に報せ、行動する。イリスに割り当てられたのは、まずは会館外のちょうど控室の裏にあたる場所。ステージに移動してからは、ステージ裏を担当することになる。あまり目立つところにいると、いざというときに盛大に暴れられないだろう。ルイゼンのそんな配慮が、口にせずともわかる。
「こちら0312インフェリア。控室裏確認完了。不審物、不審者、ともになし。どうぞ」
無線に告げると、ノイズまじりの短い返事があった。――了解、どうぞ。
他の場所も今のところ異常は見られないようだ。会館内控室周りのルイゼン、会館外エントランス前のフィネーロ、会館外東樹上のメイベル、会館外西広報用櫓のカリンからも、それぞれ報告があった。名前の前には打ち合わせで決めたコードを言うこと、という決まりも守られている。
シャンテ氏によると、歌姫はまだ現地入りしていない。舞台に学生楽団とともにあがる直前、一回だけしか合同の練習ができないスケジュールなのだそうだ。忙しい人であることは、こちらもわかっていた。
付近の様子に引き続き警戒しながら、イリスは小さく呟く。
「演奏の妨害って……結局、何の目的でそんなことしようとするんだか」
今回の任務にはわからないことがいくつかあるが、これが最も重要かつ、最大の謎だった。シャンテ氏にも思い当たることはないという。学生楽団の邪魔をすることに、メリットなど一つも見いだせない。単なる愉快犯なのだろうか。
「歌姫が目的だったら、楽団運営に脅迫状を送る意味がわからないよね」
何度も話し合った。班でのミーティングでも、寮の部屋での雑談の中でも。答えは一向に見えず、今日を迎えてしまった。せめて目的がわかれば、もっと確実な対策が練られたかもしれない。
本当は、レヴィアンスにも相談したかったのだ。けれどもそんな暇はなかった。隙を見て大総統執務室を訪ねたイリスを迎えたのは、一人で仕事をしていたガードナーだった。
――閣下は所用で外出されています。言伝があるならお受けしますよ。
――あ、じゃあ、今わたしたちの班が持ってる任務についてなんですけど……。
彼も上司だ。もしかしたら糸口を見つけてくれるかもしれない。そう期待したのだが、事情を聞いたガードナーはゆっくりと首を横に振った。
――それだけでは材料が足りませんね。もう少し、シャンテ氏から話を聞いてみることはできませんか。
それができればそうしている。しかし心当たりがないということに変わりはなかったし、楽団の運営状況などにも問題は見られなかった。
ガードナーはレヴィアンスに話をしてくれると言ったが、以降、何の連絡もない。こちらが訪ねる時間もなくなってしまった。
「わたしたちで何とかしろってことなのかな。小班の任務だしねえ……」
そうそう特別扱いもできないか、と思い直して、目を閉じる。眉間のあたりに意識を集中させ、再び瞼を持ち上げると、さっきより視界がクリアに、周囲の動きに敏感になる。眼の力をほんの少し使って、不穏な気配がないかどうか探る。――まだ、何もないようだ。周囲の人の動きに不審なものは感じられない。
耳をすませると、会館から漏れる楽器の音色が聞こえた。リチェスタの奏でるバイオリンの音までは聞き分けられないが、ほんの少し聴くだけで、胸のあたりが温かくなった。そして会館の向こう側、全体が音楽祭の会場となっている広場のほうからは、賑やかな人々の歓声や音楽。市民の祭りは始まっている。
このまま平和に過ぎてくれたら。自分たちが動くようなことがなければ。願っていると、無線がルイゼンの声を受信した。
「こちら0804リーゼッタ。まもなく学生楽団が一回目の演奏のために動く」
最初の移動の合図だ。歌姫はまだ到着していない。彼女が参加するのは最後の演奏だけなのだ。
「了解」
だが、一度たりとて気が抜けない。どこで妨害が入るのかわからないのだから。

大勢の観客の前。注がれる視線。それを意識するのは最初の一瞬だけ。いつもならそれができる。
しかし今、リチェスタの傍にはルイゼンがいる。正確には近くにいるわけではなく、舞台袖でこちらを見ているのだが、どうあれ同じだ。リチェスタは普段の倍は緊張していた。
心臓の鼓動がリズムを乱すのではないかと不安になる。ルイゼンの前でそんな失敗はできない。思わぬ形で訪れた、自分の成長を示す機会だ。嬉しくて、怖くて、手が震える。
けれども不思議なもので、掲げられた指揮棒が目に入れば、震えはぴたりと収まった。
音楽に真面目に向き合うようになったのは、いつからだったろう。幼い頃は嫌で仕方なくて逃げたのに、それをしなくなったのは。
――俺は軍に行くけど、リチェ、大丈夫か?
泣いてばかり、少ない友人の背中を追いかけてばかりだったリチェスタを心配していた、一つ年上の男の子。本当はどこにも行ってほしくなかったけれど、軍人になることが彼の夢だと知っていたから、目を擦りながら頷いた。
もう一人の同い年の友達も、軍人になると言っている。取り残されるのがわかっていた。寂しいと泣いているだけでは、昔の自分に戻ってしまいそうだった。
友人ほど強い夢は持っていない。けれどもたまに帰ってくる彼らを膝を抱えて待っているだけというのは、あまりにむなしい。手元にあるものを見て、何ができるか考えた。
引き寄せたのは、苦しい思い出がたくさんある弦楽器。
すぐには上達しなかった。友人たちが夢に向かって歩みを進めるごとに、練習量を増やした。リチェスタは彼らと離れてもなお、追いかけることを選んだのだ。別の道から、追いつきたい背中を追った。
同じ道の上には並べない。せめて、遠くからでも並行して走れるようになりたい。その気持ちに楽器は、少しずつ応えてくれるようになった。
そして今、リチェスタはここにいる。自分自身の望みを持って。
盛大な拍手に我に返り、丁寧にお辞儀をする。舞台袖に目をやると、大好きな優しい笑顔。彼の拍手が――この瞬間は彼もきっと仕事を忘れていた――何よりも幸福だった。
私は、あなたたちに並べたでしょうか。

一回目も二回目も、学生楽団の演奏は素晴らしかった。舞台の裏にいたイリスにも、それは十分に伝わっている。仕事を放りだしてリチェスタを抱きしめに行けたらどんなに良かったか。
舞台袖にいるルイゼンが羨ましくて、けれども彼にはそこが相応しいとも思う。
残るは歌姫が参加する一回。そこで何もなければ、音楽祭は無事に終わるはずだ。
会館に歌姫が到着したとき、イリスは会館裏にいた。仲間たちから報告を受けただけなので、彼女の顔はまだ見ていない。そのかわり、気になる顔を見かけた気がした。
「グラン大将……? 音楽祭に来てたの?」
似ているだけだろうか。中央司令部将官室長であるタスク・グラン大将のようだったが。昨年まで軍に頼ることのなかった文派のイベントに来るような人だとは思えないのだけれど。彼は軍頂上主義なのだ。
「一応ゼンたちに報告したほうがいいかな。……こちら0312インフェリア――」
イリスの報告を受け、ルイゼンは眉を顰めた。おそらく、イリスの見たものに間違いはない。彼女は眼の力を使っている。しかし、グランがここに現れるのはやはり不自然だ。春に司令部内で起きた傷害事件――ルイゼンは被害者となってしまったが、その裏にはグランが絡んでいるという話もあった。彼は大総統の地位を狙っていた人物だ。何をするかわからない。
「プライベートだとしたら、閣下はこのことは知らないだろうな。念のため報告して、最近の大将の様子を探っておくか」
そう無線で返事をしたが、司令部にいるはずのレヴィアンスとは連絡がつかなかった。かわりにガードナーが、大総統執務室にいた。
「ガードナー大将、グラン大将の動向をご存知ですか? たった今、音楽祭で姿を見かけたとの情報が入ったのですが」
ガードナーとグランは同期で、かつては友人だった。もしかしたら何か知っているかもしれないと思ったのだが、返答は期待したものではなかった。
「彼は仕事中のはずですよ」
「そうですか……そうですよね」
基本的に、将官室長は部屋から動くことがない。仕事をしているということは、イリスの見間違いだったのだろうか。よく似た人がいただけ? でも、イリスの眼は……。
過去には裏がクローン技術を悪用した例がある。悪いことにならなければいいが。念のため、それらしき人物に気をつけておいたほうがいいだろう。
それにしても、このくらいの考えならガードナーもすぐに辿り着くだろうに、何も言わなかったというのは妙だった。
その頃、会館正面についているフィネーロも、グランによく似た人物を見つけていた。特に隠れるようなこともない。ただ祭りを見ているようだ――ここからは会場の賑わいがよく見えた。グランらしき者は、私服だろう、カッターシャツにグレーのボトムスを身につけている。
――閣下に諭されて改心したなら、プライベートでここに来ることもおかしくはない。
あるいは、レヴィアンス直々にここに来ることを薦めたか。市民の生活を知ることは軍人にとって重要だが、グランはそうは考えていなかったと聞いている。そのあたりは、彼と直接話をしたことのあるルイゼンのほうがずっと詳しいだろう。
そのとき、ルイゼンからの報告が入った。グランについて、司令部に確認がとれたという。
「グラン大将は仕事中だと、ガードナー大将は言っていた。だとしたら、司令部にいるはずだ」
見間違いか、あるいは偽物か。ルイゼンはそのあたりを疑っているようだった。しかし、フィネーロはガードナーの言葉に引っ掛かりを覚える。
「ルイゼン、『仕事中』というのはガードナー大将の言葉そのままだな?」
「ああ、それ以上は何も言わなかった」
いかなる仕事も完璧にこなす優秀な大総統補佐が、その一言で話を終わらせるだろうか。フィネーロの頭の中で、嫌な予感が閃いた。
同じ報告を、メイベルは樹上で聞いていた。ここが櫓以外で会場全体を見渡せる絶好の位置なのである。グランらしい人物を特定することは難しいが、もしそんな人物がいたとして、そこまで気にする必要はないだろうと思う。
怪しい動きをする者がいれば撃つ。メイベルは仕事を実にシンプルに考えている。それがグランの姿をしていようと、全く知らない者だろうと、関係ない。
だがフィネーロがルイゼンに確認をとる声で、彼女にもふと疑問が湧いた。――「仕事中」。その言葉に全く間違いがなく、さらにイリスの眼にも間違いがないとするなら。
大将級が動くというのは、よほどのことがなければありえない。まして、将官室長であるグランが司令部を離れるということは。
――レヴィ兄も忙しいらしいんだよね。アーシェお姉ちゃんに色々と協力してるみたいでさ。
イリスが数日前にそう言っていた。終業後、寮での何気ない会話だ。そのときはどうでもいいと思っていたが、実はそれこそが今回の仕事の裏なのではないか。
大総統が使われている。ならば、その下にいる将官だって、動かすことができるのでは。
メイベルは手鏡を取り出し、対岸――会館西の櫓に見えるよう動かした。
反射による合図を、櫓にいたカリンは正確に捉えていた。姉からの指示は「会場全体を見ろ」。言われるまでもなくそうするのが仕事ではあるが、強調するということは何かがあるのだ。見通しの良い櫓からは、会場の様子が容易に見渡せる。双眼鏡を使えば、歩いている人の顔も判別できる。
グランの話が出ていたから、彼によく似た人物を探せばいいのかと思った。だが、それを見つける前に、他の見知った顔を発見した。カリンたちリーゼッタ班が頻繁に世話になる、トーリス准将だ。五分刈りの頭と精悍な顔つきは、基本的に男性が苦手なカリンからすれば少し怖いのだが、その表情は普段以上に険しい。まるで何かを見張っているような――ちょうど自分たちがしているように。
「1105カリンです。あの、トーリス准将を見つけました。なんだか、プライベートではないようなんですが……」
無線機が、四人分の怪訝そうな声を受信した。

いよいよ音楽祭もクライマックスだ。学生楽団は歌姫との通し練習を終え、舞台に向かう。イリスたちは彼らを大きく囲むように一緒に移動し、舞台での配置についた。
これまでは何事もなかった。参加者同士の小さな諍い程度なら、周囲の人々や警備員が仲裁に入ってすぐに解決している。大きな事件は起こっていない。何かあるとしたら、このタイミングだ。
種類の違う緊張感が、会場全てを包む。演者の、観客の、警護にあたるイリスたちの、そして。
舞台雛壇に学生楽団が並び、指揮者より手前に赤いドレスの女性が進み出る。歌姫の登場に拍手が沸いた。演者たちの美しいお辞儀の後に、指揮者が指揮棒を高く掲げた。
それが合図だったかのように、破裂音が空気を裂いた。一つではない。二つ、三つ――一般市民には捉えられない、複数の銃声。それが会場の至る所からあがっていた。人々が騒めく中、一際異様な台詞が響く。――そこから動くな。地面に膝をついて両手を挙げろ。
戸惑う市民はそれにゆるゆると従おうとした。だが、そうするまでもなく事態は動く。
イリスは舞台裏にいたが、見なくてもわかった。銃声のうち、一つはメイベルの放ったものだ。観客により近いところに控えていたフィネーロは、手から銃を弾き飛ばされた人物を見ていた。すぐにそちらへ駆け寄り、それを確保する。
ルイゼンは舞台袖から出て、歌姫と楽団を庇うように剣を抜いた。無線からはカリンの声がする。
「舞台周辺だけじゃなく、会場のパフォーマンスが行われていたところには銃を持った人たちがいたみたいです。……ただ、もう動きは封じられているようですけど」
リーゼッタ班が守っていたのは学生楽団の舞台だけだ。他の場所には警備員と、そして。
「軍服が舞台付近にしかいないからと、強行したようだが。残念だったな」
私服で潜入していた中央司令部の精鋭たちがいた。指揮をとっていたのはタスク・グラン。彼は本来、座して結果を待つよりも、自ら動くほうが得意だ。
「リーゼッタ、まだ動こうとしている奴がいる! なんとしてでも押さえ込め!」
「突然来て、無茶苦茶言うな、あの人……!」
舞台から飛び降り、こちらへ向かって来ようとした者に剣を振るう。彼らが手にしていた銃やナイフを的確に払い、叩き落とす。正面に集中していられるのは、会場全体を見渡し、敵を確実に捉えられる「目」が二つあるから。東の樹上、そして西の櫓から、銃弾がまだ蠢いていたならず者を倒す。
そして舞台裏から侵入を試みていたであろう者たちは、すでにイリスが相手を終えていた。
「眼を使うまでもないね。でもわたし相手に向かって来た勇気は褒めてあげる」
こちらを知らないはずはないだろう。イリスは有名人だ。
「で、あんたら、何? 音楽祭を狙った目的は?」
胸倉を掴んで問い質すと、相手は歯の抜けた口をぱくぱくさせた。
「……文派に、瑕を。分裂させ、軍との溝を深める……」
「そりゃあ、無駄なことだよ。現にこうして文派と軍は文派は協力してる。皮肉にも、あんたたちのおかげでね」
おそらく、リーゼッタ班に持ち込まれた依頼だけではなかったのだろう。アーシェがレヴィアンスを動かしていたというのは、そういうことだ。脅迫状は一通ではなく、しかしほとんどは文派が大文卿に相談して、内々に処置を決める予定だったのだ。だが事態を重く見た大文卿は、例年通り警備会社に会場の警備を頼むと同時に、軍による会場警護を実施した。――シャンテ氏だけは直接軍に依頼をしたために、学生楽団の警護はリーゼッタ班に一任されたのだ。
見覚えのある顔が、舞台裏にやってくる。将官や佐官たちだ。レヴィアンスの指示で動いていた彼らは、この場を引き受けてくれた。
「インフェリア中尉、君は舞台へ。まだリーゼッタ中佐とリッツェ少佐が戦っている」
「ありがとうございます。お願いします!」
イリスは表へと走る。そこには守るべきものがある。自分の力を必要としている人たちがいる。

観客席にいた一人が、首に腕をまわされ、ナイフを突きつけられた。犯行に及んだ人物が怒鳴る。
「一般人がどうなってもいいのか!? 俺に近づけばただじゃ済まねえぞ!」
だがそんな行動は無意味だ。彼はまだ、現状を把握しきれていない。だからそんな無謀なことをしてしまうのだ。
「安心しろ、何もさせない」
溜息交じりにフィネーロが言うと、銃声とともにナイフを持った男は崩れ落ちた。足から血が溢れ出す。何が起こったのか男がわからないでいる間に、フィネーロは速やかに人質を逃がした。
「……っ、何をしやがった!」
「僕はまだ何もしていない。ただ、すこぶる腕のいい射手がいるだけだ」
落ち着き払った態度が気に障ったのか、男は足を引きずったままフィネーロに襲いかかってきた。それをピンと張った鎖で受け止め、分銅を男の首に巻きつかせながら、さらに鎌の切っ先を頬にひたりとあてる。さすがに動けなくなった男は、近くにいた私服の軍人に引き渡された。
「本当なら、音楽祭会場で銃を使うなんてもってのほかなんだろうけど」
例年通りの音楽祭ならば、メイベルの射撃は文派から軍への非難を呼んだだろう。しかし、今回は感謝はされなくとも、仕方なかったくらいには見てもらえるはずだ。今のところ一発も外していない。襲撃犯以外は、人も物も作品も無事だった。
銃を手に会館西の櫓に上ってきた者もいた。高い場所から乱射すれば、多くの被害が出てしまう。しかし、そこには随分前から先客がいる。
「退け、ガキ!」
軍服を着てはいるが、相手は少女。それもどこか頼りなさそうだと、敵は踏んだのだろう。けれども軍服を着てここにいるということ自体が彼女の強さの証明であるということに、なぜ思い至らないのか。
「あなたこそ、ここに来ないでください!」
カリンは相手の顔のど真ん中に渾身の蹴りを入れ、さらに衝撃に負け櫓から離れた両手に素早く銃弾を撃ち込んだ。これでもう上っては来られまい。落ちて死ぬことはないだろう、櫓の下には親切に安全マットが敷き詰められている。
「わたしがお姉ちゃんみたいな乱暴なことしなきゃいけないなんて……」
ぼやきはスイッチを入れっぱなしの無線に拾われ、「ぶつくさ言うな」という姉の声を受信した。
学生楽団は舞台の奥側に避難している。ルイゼンは舞台の上に戻り、彼らを一人で守っていた。どういうわけか、この場所をしつこく狙ってくる一団がいる。一人も逃してなるものかと剣を振るうが、力の強い相手と押し合いになった瞬間に、敵が脇をすり抜けていった。
――まずい!
やはり一人は無謀だったか。早く誰か、応援を。叫ぶように祈ったその瞬間、どさりと何かが崩れ落ちる音がした。
倒れたのは、たった今ルイゼンの横をすり抜けて、楽団に向かって行った者。それを倒したのは、赤いドレスの女性だった。手には美しいが意匠に年季の入っている短剣がある。
「ええと、リーゼッタ君だったかな。私も戦えるから、安心していいよ」
彼女はにっこりと笑って、さらにもう一人やってきた敵をも伏せた。その動きは、まるで激しい舞だ。対峙していた相手を倒したルイゼンは、つい見惚れてしまった。
「ゼン、ぼけっとしない!」
呼ばれて我に返り、前に向き直る。振り向きざまに一人を斬り、それから声の主を見た。
「イリス、裏は?!」
「大佐たちが来てくれたから、任せちゃった。それより、普段人に散々仕事しろって言っておいて、自分はぼんやりしてるとか……」
「悪かったよ。ちょっとびっくりしてただけだ」
「気持ちはわかるけど」
イリスは喋りながら、かかってきた相手の手から剣を弾き飛ばし、上段蹴りをお見舞いした。折れた歯と鼻血が宙を舞う。
「中央司令部の伝説だからね、あの人も」
正面から来る無謀な者たちは、だんだんと減ってきた。そろそろ学生楽団を舞台から避難させられるだろうかと、ルイゼンが思ったそのとき、舞台袖から人が出てきた。スタッフでも、警備員でも、私服軍人でもない。いつのまにか敵は舞台に侵入していたのだ。
「うわ、裏から入ってきちゃった?!」
任せたはずなのに、とイリスが眉を寄せるあいだに、敵は近くにいた楽団員を一人捕まえた。――よりにもよって、リチェスタを。
「きゃあっ!!」
「リチェ!」
駆け寄ろうとしたイリスを、しかし、まだ残っていた正面からの敵が邪魔をする。相手をしていたら、リチェスタが危ない。歌姫も舞台袖からやってきた敵と戦っている最中で、最奥のリチェスタには届きそうになかった。
今、この瞬間に動けるのは。
「ゼン、行け!」
「言われなくたってやる!」
目の前にいた敵を一瞬にして斬り伏せ、ルイゼンが舞台を駆けた。人を避け、飛び越え、秒を数える間もなく目指す場所に辿り着く。
「リチェ、目ぇ閉じろ!!」
ルイゼンの声に、リチェスタはぎゅっと目を瞑った。近くに行くと、今日のためにあつらえたのだろうワンピースが、よく似合っているのがわかる。汚してしまいたくない、それなら。
得物は剣。大剣ほど大きくなく幅も広くないが、叩きつけるのには適している。そのやり方は、先輩たちから教わってこの身に染みついている。ルイゼンは剣を振り上げ、刃ではなく面の部分を、敵の脳天に力いっぱい振り下ろした。
着地とともに、力の抜けた敵の手から素早くリチェスタを引き離す。そしてそのまま、強く抱き寄せた。
「大丈夫か。怪我は」
「……してない。ゼン君、あっという間に来てくれたもの」
涙で潤んだ目が、嬉しそうに笑った。
横目で親友の無事を確認し、イリスは口の端を持ち上げる。同時に舞台袖から現れた敵を蹴り飛ばした。あと数人。これくらいなら、すぐに片付けられる。
美しく舞う歌姫と一緒なら。
「イリスちゃん、あと半分任せていい?」
「半分もあなたに任せていいんですか? 一応、もう一般人なのに」
「そうだね。まさかこの歳になって、こんな大舞台で踊ることになるとは思ってなかった。でもね、私、鍛えるのはやめてないの」
彼女の笑みは、知らない人が見れば楽しそうだ。にっこりと可愛らしい。だがそれが経験に裏付けされた自信の表れなのだと、イリスは知っている。両親やその知り合いから、よく聞かされたものだ。
かつてのエルニーニャ王国軍中央司令部トップ入隊の実力者。敵の巣窟に潜り込み、たった一人で三十人斬りを果たした伝説の女性。テンポの速い舞を踊るかのような艶やかで華麗な戦いのスタイルは、年月が経った現在も変わっていない。
「最後よ、イリスちゃん!」
「はい、ラディアさん!」
相手が怯んだ隙をついて、二人は同時に床を蹴り、剣を振るった。


襲撃者たちは軍の人員によって連行されていく。もちろんリーゼッタ班も彼らの確保とこれからの聴取に加わらねばならず、会場をあとにせざるをえなくなった。
せっかく、遅ればせながらの歌姫と学生楽団の共演が始まろうというのに。それが見られないのは非常に残念だ。
演奏はやりましょう、とは歌姫ラディア・ローズの提案だった。幸いにして一般人に重傷者はなく、かすり傷ならば救護のボランティアで対処できる。それならば、慰労と詫びの意味も込めて舞台を最後までやりきろうということになったのだ。
学生楽団はすでに落ち着きを取り戻している。直接危害を加えられそうになったリチェスタも。誰もが歌姫との舞台を楽しみにしていたのだ。この機会を逃したくはない。
襲撃犯たちを移送用の車に乗せている途中で、オーケストラの音が聞こえてきた。それに続き、美しい歌声も。見られなくとも、少しだけなら聴くことはできそうだ。
目頭を熱くさせる、美しい旋律。様々な想いを乗せて、音は風に運ばれる。どこまでも、どこまでも。
「いいよな、ラディアさんの歌。いくつになっても衰えることを知らない」
イリスの隣に、レヴィアンスが立った。実はずっと大文卿夫妻とともに、会場にいたという。豊かな髪と見慣れた顔を隠してしまえば、なかなか気づかないものだ。
「レヴィ兄、どうして会場警護に軍が全面協力してるって教えてくれなかったのよ」
「文派の人たちは、まだまだ軍がでしゃばるのを嫌がるからね。でも大文卿はその状況を変えたいと思っている。だから徐々に慣らしていこうとしてるんだ。……もっとも、シャンテさんの行動は予想外だったけど。軍に直接依頼をした唯一の人だから、そこは応えないといけないよね」
脅迫状は学生楽団の運営だけではなく、音楽祭でイベントを行う大きな団体の全てに届いていた。しかしそれを公にしたくなかったほとんどの運営は、大文卿に相談をした――リーゼッタ班が辿り着いた読みは、正しかったのだ。
「アーシェが言ってた。『もう二度と“赤い杯”の悲劇は繰り返さない』って。一般市民だろうと、警備員だろうと、誰かが命を落とすようなことはあっちゃいけなかった。そこでオレに、全力で音楽祭を守れって命令してきたんだよ」
佐官以上を使ったのは、文派に対する敬意だ。自分たちはけっして軍以外を軽く見てはいないということを示す必要があった。そのうち、こんな忖度もしなくて済むようになればいいのだけれど。
「元軍人であるアーシェやラディアさんが、軍と文派の懸け橋になってくれると助かるなあ。その分、オレがめいっぱい使われそうな気もするけどさ」
「使われてなんぼの軍人でしょ。わたしたちは市民のためにあるんだから」
イリスとレヴィアンスは顔を見合わせ、にい、と笑った。

現場から去ろうとするルイゼンを、低い声が呼び止めた。今頃は娘の晴れ舞台を見ているはずの、シャンテ氏だった。
「リチェスタさんの演奏、聴かなくていいんですか」
「聴こえている。だから、君と少し話がしたい」
彼は依頼人でもある。ルイゼンは上司たちに断りを入れ、シャンテ氏と向き合った。
「……最近、娘と頻繁に会っているようだな」
「ええ、まあ」
実際のところは、リチェスタがルイゼンのところにやってくるのだが。顔を合わせていることには変わりないので、否定はしない。
「私は、娘の幸福を願ってきた。仕事で傍にいてやる時間が限られる分、娘の望むことはしてやりたいと思っていた。なにぶん、あの子は体も心も弱い」
「弱くはないですよ。リチェスタさん……リチェは、俺も驚くほど強い女性になりました」
自分の想いを表現できるようになった。堂々と舞台に立ち、見事な演奏を披露できるようになった。幼い頃のリチェスタを知っているルイゼンからしてみれば、あまりに大きな成長だ。もしかしたら、追い抜かされているのではないかと思うほどに。
「そうだな。……うん、そうだ。実力で舞台にあがれるようになったのだから、逞しくなった」
シャンテ氏は深く頷き、それからルイゼンの目を真っ直ぐに見た。やぶにらみにも見える彼の目は、今は優しい光を湛えている。
「君の、そしてインフェリア嬢のおかげだと、私は思っている。妻もはっきりとは言わないが、内心では認めている」
娘を立派に育て上げたい。その思いから、シャンテ家の人々はリチェスタに厳しく当たり、彼女を「良くない道」へ誘惑する存在は切り離そうとしてきた。だが、それはどうやら余計なことだったらしいと、最近になって思い至ったのだった。
娘を励まし、ここまで成長させたのは、友人の存在だったのだと、今回任務を任せて確認した。
「リチェスタを救ってくれてありがとう、ルイゼン君。インフェリア嬢にもそう伝えておいてくれ」
差し出された右手を、ルイゼンはそっととり、握り返す。このペンや楽器を扱う手で、彼は娘も大切にしてきたのだ。それは不器用な方法だったかもしれない。でも。
「伝えておきます。けれども、リチェの親はあなた方です。彼女を俺たちと一緒にいさせてくれて、ありがとうございました」
愛のかたちは様々だ。ときに望まないものになってしまうこともある。けれども、シャンテ家ならば大丈夫だろう。リチェスタの存在が、その証明だ。
「君はやはりいい青年だ。どうだ、将来はリチェスタの婿に」
「それはもう少し考えさせてください。よくできたお嬢さんなので、まだ自分にはもったいないです。もっと俺自身が成長してから、そのとききちんと答えを出します」
笑って返したルイゼンに、シャンテ氏は目を細めた。

襲撃者たちの思惑――文派を襲い、動かない軍を悪者にし、協力体制に瑕をつける――は、大体は外れたが、一部はその通りになってしまった。大勢の一般人がいるところへ銃弾を撃ち込むのは危険だという苦情が、数日後の司令部に何件か入っていた。
軍と文派の溝が埋まる日は遠そうだ。
「ベルの銃は百発百中なのに」
「そんなの、知らない人にはわからないだろ。とにかくここだけはうちの班の責任問題になったから、メイベルは始末書な。俺も書くから」
「理不尽だ。そこは突っぱねてくれないと困るぞ、リーダー様」
「ルイゼンさん、わたしも銃を使いましたけど……」
「カリンは集団に向けては撃ってないから免除」
メイベルと、彼女の実力をわかっているイリスは不満そうだ。だが、これも仕方のないこと。本来であれば軍側が使用武器の配慮をすべきだった。
しかし音楽祭は、来年も開催するという。そして軍は、私服での警護を次回も任されることになった。リーゼッタ班は抑止力を狙って軍服で任務にあたったが、どうやら上層部では目立つばかりであまり意味がないという結論に至ったようだ。
「来年も関われるのはいいけどさ、軍服ぐらい何よ。グラン大将の顔のほうがよっぽど目立ってたじゃない」
「まあ、それは……本人には絶対に言うなよ」
報告書と始末書をまとめたら、今回の仕事は終わり。今夜はリーゼッタ班が揃ってイリスの兄らの家に行き、お疲れ様会をやる予定だ。レヴィアンスも「もちろん行くよ!」と酒の手配をしていた。
「早く仕事を終わらせなければ、予定が狂うぞ。通常の仕事もあることを忘れないように」
「うわ、フィン、その書類何……。なんか多くない?」
歌姫の歌声と、奏でられる音楽のように、しがらみから解放され、調和し、どこまでも遠くにいけるよう。それがイリスたちの目指す、明るい未来だ。



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2017年09月09日

荒野のオアシス

首都は賑わっているが、街を出ると荒野が広がる。五百年以上前に終結した大陸戦争のあと、正式に結成された中央政府は、得た領土の中心から少しずつ開発を進めていった。街が、道路が、整備されていったが、のちに取り込んだ旧小国との間には、いまだに舗装されていない道なき道がある。
エルニーニャ王国首都レジーナを取り囲むその点在する植物と石や砂ばかりの平原には、地域ごとに名前がつけられている。ラミア平原はその一つで、その先には金や石炭の鉱脈を持つ地域がある。それらの資源をうまく利用した村々は栄えており、その分だけ危機も抱えていた。
平原に出没する盗賊たち。首都と村や町を行き来する旅人や商人を狙い、持ち物と奪おうと襲いかかってくる者は後を絶たず、エルニーニャ王国軍もこれには苦慮していた。
従って遠方への視察任務には、盗賊討伐が伴うこともある。あるいは盗賊が集落を狙うことがあるので、それを捕まえてほしいという依頼任務がくる。
いずれにしても荒事だ。任される軍人は、当然戦いに慣れている者になる。

トコルタという小さな村から依頼があったのは、世界暦五〇八年二月のことだった。まだ大陸中央には冬が居座っており、息を吐けば白い靄が目の前に広がる。トコルタは首都からそう離れていない。ほんの少しだけ南東に下る。広いラミア平原の中ほどに位置していて、気候は首都とほぼ変わらない。
「盗賊が出るのだそうだ。トコルタはまだ石炭が出ていて、鉄道事業との繋がりがあり、村としては潤っているほうだ。奴らは石炭と引き換えにトコルタにもたらされる物資を狙っているのだろう」
軍に来る依頼を差配する将官室の見解は、この件をフリーの人員二人に任せることで一致した。二人で足りると判断したのだ。
「ディア・ヴィオラセント中佐、アクト・ロストート少佐。君たち二人に盗賊討伐を任ずる」
依頼任務を任命されたディアはつまらなそうに「はいよ」と返事をし、アクトは黙って敬礼した。
任務へ向かう準備をするために、ディアは部屋に戻ろうとし、アクトは過去の資料を探そうと軍設図書館へ行こうとした。が、ディアは口をへの字に曲げてアクトの腕を掴む。
「現地に行って様子を見ればいいじゃねぇか」
「予習はしておくに越したことない。過去に何かあったなら、それも考慮して調査しないと」
「任務は盗賊の討伐だ。んなもん必要ねぇよ」
言い切るディアに、アクトは呆れたように息を吐いてみせる。この男はいつもこうなのだ。事前調査が苦手で、場当たり的なところがある。そして派手に動いて、あとで上司からの不評を買うのだ。たとえその判断が間違っていなかったとしても、だ。
今回の任務だって、何かあってもディアに押し付けてしまえば済むからという人選だったのだろう。上層部の考えをアクトは見透かしていた。
「おれは調べてから行く。お前は別に銃の点検だろうが荷物の支度だろうがしてていい。どうせ調べ物の役には立たないだろうしね」
「相変わらず随分な言いようだな、オイ」
コンビを組むようになって六年。最初から口の減らないやつだと思っていたが、付き合いが長くなるにつれてさらに遠慮がなくなってきた。アクトのそういうところも、ディアの気にいるところではあるのだが、たまにはもうちょっとだけ言葉を選んでくれてもいいんじゃないかと思う。
「そんじゃ、お言葉に甘えるかね。お前の分の荷物も用意しておくか?」
「おれは自分でやるからいいよ」
相方をあしらいながら、アクトはトコルタについて知っている情報を頭の中で整理する。上司が言っていた通り、炭鉱の町だ。ラミア平原の途中に、大昔に隆起してできた山があり、そこを中心に栄えたという歴史がある。大陸戦争では中央が守るべき場所の一つとされたそうだが、当時の理由は石炭ではなかった。たしかその山にあった植物が、傷によく効くとされていたのだ。
「近年はどんな情報があるやら」
ディアがやらないことはアクトの仕事。アクトにできないことはディアの仕事。二人は常にそうして役割を決め、動いてきた。
その晩には出発の準備が整い、明朝に二人は軍用車両で出かけて行った。

二月の荒野は冷たい風が吹きすさぶ。分厚いダウンを着込んでいるアクトは、車内の暖房が効いているにもかかわらず「寒い」と文句を言っている。北国生まれのディアは暑いくらいだというのに。こちらは上着を脱いでしまっていた。
「こんな寒い時期に遠征任務とか最悪」
「昨夜まで行く気満々だったじゃねぇか。トコルタのことすっげぇ調べて」
「仕事だから。でも寒いものは寒い」
さらに持って来た大判のストールを背中からかぶるアクトを見て、ディアはぼんやりと思う。今度仕事をするときは、できるだけ南のほうに行けるものをもぎ取って来よう。トコルタは首都の南東にあるが、気温が変わるほどには離れてはいない。周囲が荒涼としているだけに、むしろ寒いのだそうだ。それを調べてきたアクトは、最初から防寒具をめいっぱい用意していた。
「そんなに着込んで、いざというときに動けるのかよ」
「いざというときに動くのはディアの仕事だろ」
今はディアが運転を担当しているが、有事の際――たとえば突然車が襲撃されれば、運転はアクトの役目になる。素早く席をかわり、ディアは敵を迎え討つのだ。それがこの六年で確立された、二人のやり方だった。
今回はまだそんな気配はなさそうだ。防寒具でもこもこになっていても、アクトは常に外の様子に意識をむけているし、ディアも神経をとがらせている。アンテナには他者の存在はひっかかっていない。このまま無事にトコルタまで辿り着けそうだった。
「盗賊なんて本当に出るのか?」
「輸送ルート遮断の報告はしょっちゅうだね。最近もあったみたい。中央鉄道の関係者が、トコルタから石炭が届かなかったことが何度もあったって言ってる。ただ、軍が見に行くと奴らはなかなか現れないらしい」
「じゃあ今回も無理なんじゃねぇの」
「かもね。討伐しようにも、対象が出てこなくちゃできないし。だからなかなか班を動かそうとはしないで、フリーの人員を少数で向かわせてるんだよ」
過去にこういうことが何度かあったということだ。ディアは苦虫を噛み潰したような顔をし、ハンドルを操る。その何度かの遠征でも、トコルタと周辺の盗賊たちの確保には至らず、そして。
「トコルタ自体にも疑惑がある。危険薬物の取引が行われていたってね」
「そっちは確かなのか」
「別の事件で捕まった売人の証言だけど、本当かどうかはわかっていない。トコルタには何の証拠も残ってなかった。これまでの調べでは、ってことだけど」
どうやらトコルタそのものにも問題がありそうで、だからこその今回の任務なのだと、ディアも理解する。上層部は、表面上はトコルタを助ける体をとりつつ、この場所の持つあらゆる疑惑について調べたいのだ。何かが出ればその後のことは上層部が引き取るだろうし、何も出なければ誰の手柄にもならない。ディアとアクトに押し付けられたのは、そういう仕事だった。
「やってらんねぇな。観光して帰るか」
「嫌だよ、寒いのに。それなら仕事だって割り切ったほうがいい」
「ホットワインが美味いらしいぜ」
「なんで調べるの嫌いなのに、そういうのばっかり知ってるんだよ、お前は」
まもなく、山の影が見え始めた。その下には家並と、煙突から立ち上る煙。あれが炭鉱の村、トコルタだ。ここまでは何事もなかった。以前までの調査と同じように。

車を適当なところに停め、外に出た。荒野の真ん中よりは暖かく感じるのは、そこに人々が住んでいるからだ。
「小さいけど賑やかだね。マーケットで温かいものでも買おう」
「結構楽しんでるじゃねぇか」
少し機嫌を直した様子のアクトに、ディアは苦笑する。たしかに小さな村にしては、人が多い。冬であるにもかかわらず通りにずらりと並ぶマーケットには、威勢のいい掛け声が飛び交っていて、人々はみんなにこやかだ。平和そのもののこの集落が、盗賊の被害にあっているとはなかなか信じられない。
アクトが戻ってくるまで、その場で周囲を見渡しながら待っていようとしたとき、ディアの足元に近寄ってくるものがあった。
子供だ。短い髪は濃いグレー、こちらを見上げる瞳は深い茶色。あまりにじっと見られるものだから、何か用か、という問いを込めて見返した。だがディアは目つきが悪い。本人が単に相手を見ただけだと主張しても、相手には睨まれたように感じる。子供ならなおさら。
「うわああ! 盗賊だ!」
子供は眉を寄せ、目に涙を一気に溜め、周囲に響き渡る大声で叫んだ。当然注目を浴びる。和やかな空気が一瞬にして剣呑なものに変わり、本当にここの人間は盗賊に悩まされていたのだとわかった。それはともかく、この誤解はとんでもない。
「馬鹿、盗賊なんかじゃねぇ! 俺は」
「嘘だ! こんな凶悪な顔してて、盗賊じゃないわけがない! 早くここから出てけ!」
意外にも子どもは勇敢で、ディアの足を両手でポコポコと殴り始める。店から女性が出て来て「危ないから離れなさい」と言っても、攻撃の手を休めない。わああ、と声をあげながら、凶悪な顔の男をここから追いだそうと必死だ。
「だから俺は盗賊じゃねぇし」
「出てけ! 早く出てけ! オレの親を殺しやがって!」
こちらをしっかと睨む子供の眼に、ディアはハッとする。親を殺す。ここいらに出るという盗賊は、殺しまでやっていたのか。
「あんた、どこから来た。極悪人の面だな」
大人の男たちがぞろぞろと出て来て、ディアを取り囲む。不味いことになった、と舌打ちをしたところで、ようやく救いはやってきた。
「すみません、通して。そいつ、おれの連れです。盗賊じゃありません」
「アクト、お前遅ぇよ!」
両手に湯気を立てるカップを持ち、アクトが戻ってきた。突然現れた美人に、男たちは思わず道を空ける。まったく現金、いや、正直なものだ。
アクトは子供の傍らに屈み、温かい飲み物を差し出す。表情はディアにもめったに見せない、柔らかな笑顔だ。子供も手を止め、アクトを見返した。
「どうしたの? こいつ、たしかに顔は凶悪だけど、盗賊じゃないよ。おれたちはこの村を助けたいと思って来た、軍人だ」
「……軍人」
もごもごと繰り返しながら、子供はアクトとカップを交互に見た。いいよ、とアクトがカップをさらに近づけると、子供はそれを受け取った。温かさにホッとしたのか、表情が緩む。
「ありがとう、ございます」
「うん」
どうやら誤解は解けたらしい。取り囲んでいた男衆も解散し、自分の店や、他の場所へ戻っていく。誰も謝りもしないが、ディアもアクトもこんなことは慣れている。強面のディアは何かと誤解されやすく、今回のような騒ぎは遠征任務では日常茶飯事といっていい。子供が泣くなんてしょっちゅうだ。
子供はおそるおそるカップに口をつけ、喉を上下させた。
「悪人顔の相方を持つと大変だよ」
「うるせぇ」
軍服を着ていれば、もっと早く誤解は解けたかもしれない。しかし今は冬。上着を羽織っているし、その下は冬用のTシャツだ。遠征任務、とくに視察任務の際には、軍人でも私服で行動することが多い。今回は村からの依頼任務で、目的は盗賊の討伐だが、軍人がいると盗賊が現れないという前例を省みて、ディアもアクトも私服だった。
すでに軍人だと言ってしまったため、その意味もなくなってしまったが。そもそも軍用車で来た時点で、身分は隠せていない。何をしようが同じことだ。
カップを空にした子供が、改めてアクトに向き直る。そして、首を傾げた。
「姉ちゃん、本当に軍人なのか?」
「姉ちゃんではないけど、軍人だよ。そこの悪人顔も。おれはアクトで、あっちはディア」
ディアが悪人と間違えられるくらい、アクトが女性に間違えられることもいつものことだ。儚げにも見える色の白さと美しい女性のような顔のつくり、加えてさほど高くない身長は、人々の誤解や侮りを招きやすい。子供にはいまいち否定が伝わっていないようだったが、こちらを少しは信用してくれたらしい。
「コーヒー、ありがとう」
「どういたしまして」
「アクト、お前ガキにコーヒーなんか飲ませたのかよ」
「すっごい薄いコーヒーに、ミルクと砂糖を大量に入れたやつだよ。ちゃんとお前の分は濃いめのコーヒーにしてもらった」
アクトは持っていたもう一つのカップをディアに渡す。黒い液体は、この寒さもあって少々ぬるくなっていた。
「……で、盗賊に親を殺されたって話を詳しく聞きたいんだが。話せるか、ガキ」
ディアが言うと、子供はまた怒りを見せた。
「ガキじゃねえ! オレにはミマって名前があるんだ!」
威嚇する猫のようだ。あまり動物に好かれないディアには慣れたことで、はいはいとあしらう。アクトは再びミマと目線を合わせ、真剣な表情で問う。
「ここに出る盗賊は、人殺しまでするの?」
真面目に話を聞いてくれると思ったのか、ミマはディアを無視して頷いた。目は潤んでいるが、強い意志がある。
「オレの父ちゃんは、この村から町に石炭を運ぶ仕事をしてたんだ。帰りにはお土産を持ってくる。オレみたいな子供にはお菓子とかだったけど、大人にはお酒とか。あと、たくさんのお金。父ちゃんは村に帰ってくる途中で盗賊に襲われて、持ち物を一切合切盗られちまった。オレと知り合いのおっちゃんが、帰りが遅いのを心配して捜しに行ったら、父ちゃんはぼろ雑巾みたいになって荒野に倒れてた」
車すらもなかった、とミマは唇を噛んだ。本当に盗賊は、全てを奪っていったのだ。その事件があったために、ミマには家族がいないという。母親はミマを産んですぐに死んでしまい、ずっと父親と二人で暮らしていたのだった。
「盗賊の目撃証言とかがあれば、それを頼りに捜査をすることができるんだけど」
「襲われて、生きて帰ってきた人を何人か知ってる。でもみんな、言うことがばらばらだよ。それでも何かわかるってんなら、姉ちゃんは案内する」
だから姉ちゃんじゃないんだけど、と普段は否定するところだが、今はそんな場合ではない。アクトはミマに「ありがとう」と返して、屈めていた腰を上げた。
「前回の調査から、被害者が増えてるかもしれない。ミマに手を貸してもらって、一件ずつ当たっていこう」
「地道なやり方だな。それしかねぇんだろうけど」
顔を顰めて頭を掻くディアを見て、ミマはムッとした。アクトのダウンの裾を掴み、不満げに見上げる。
「あの怖いおっさんも一緒じゃないとだめ?」
「誰がおっさんだ、クソガキ」
「ディア、やめろ。あのさ、ミマ。おれとあの怖い顔のお兄さんは、コンビを組んで仕事をしてるんだ。おれにできないことをあいつはできる。だから一緒にいてもいいかな」
お願い、と手を合わせるアクトに、ミマは渋々頷いた。ダウンを掴む手は離さずに、もう片方の手で路地の向こうを指さす。
「まず、村長さんから話を聞いたほうが早いよ。……兄ちゃんもついてきなよ」
さりげなく「お兄さん」と訂正したのを、聞き入れてくれたらしい。アクトはミマに微笑み、ディアも小さく息を吐いた。

村長邸には、四十代ほどの男性と、十代後半と思われる女性がいた。二人は家族ではないという。
「よく来てくださいました、軍人さん方。私は村長のフブ。こちらは秘書のユリといいます」
フブは握手を求め、ユリは丁寧にお辞儀をした。ディアとアクトは順番に握手を交わし、アクトはユリにも会釈をする。
トコルタ村長フブが、今回の盗賊討伐の依頼主だ。もう何度も軍に依頼をしているが、達成されたことがないのだと残念そうに溜息を吐く。その表情は疲れ果てていた。ユリが隣で、彼を労わる。
「今日はマーケットが賑わっていたでしょう。軍に依頼をする前後は盗賊が現れない。だからマーケットもまともに機能できるんです。けれども軍の人々が異常なしと判断して去ってしまった途端に、また村の周辺で奴らが動き出す。軍は任務を終えているから、私たちは礼金を支払わなければなりません。ですがそれも正直苦しいのです。流通がうまくいかないということは、村の経済がきちんと成り立たないということですから」
トコルタの最もたる収入源は石炭だ。これを首都や各地の企業などに売る。けれども運ぶ予定だった石炭が、あるいはこちらに持って帰ってくるはずの代金や物資が奪われてしまうと、村の運営は苦しくなる。軍を常駐させるだけの余裕がないのは、そういうわけだった。
「平原で盗賊に遭っていないでしょう」
「ええ、何事もなく到着できました。でも、村長さんの言う通りならいつもは……」
「マーケットが開けるほどの潤沢な物資は用意できません。奴らに盗られてしまう。けれども根こそぎ奪うということはめったにしないのです。トコルタがなんとか存在できる、その限界のラインを奴らは熟知している。ここがなくなれば自分たちの仕業も成り立たなくなるとわかってやっているんです」
「トコルタは『荒野のオアシス』ですからね」
相槌を打つアクトに、ディアは怪訝な顔をする。下調べをしない彼のことだから、どうせこのことも知らなかったのだろうと、アクトは溜息交じりに補足した。
「ラミア平原の大半は荒野だ。旅支度を念入りに整えておかないと、立ち往生してしまったときになすすべがない。平原を越えるために重要になってくるのが、途中にある村や集落。燃料も食料も生活用品も、そこでなら手に入る。トコルタはその一つなんだ。運転するんだからそれぐらいわかるだろ」
「それでオアシスか。まあ、たしかに遠征任務のときにはそういうところの世話になったりもするな」
なるほど、と本気で感心するディアに、アクトだけでなく、ずっとくっついてまわっているミマも呆れる。ミマはアクトを気に入ったらしく、ずっと腰のあたりに纏わりついていた。
「ところで、根こそぎ奪うことはしないはずの盗賊が、どうしてミマの親を?」
子供の頭を撫でながら、アクトはフブに問う。彼はかぶりを振って「悲しい事件でした」と言った。
「ミマの父親は一人で出かけていたのです。正義感の強い人間でしたから、盗賊とまともにやりあってしまったのでしょう。奴らが人命を含めた全てを奪ったのはあのときだけです。もしかしたら、何か都合の悪いことでも知ってしまったのかもしれない」
ミマは黙ってフブの言葉を聞いていた。ディアを叩いていたときには泣きそうだったのに、ここでは茶色の目を潤ませもしない。かわりに宿るのは、誰にもぶつけられない、怒りや恨み、憎しみだ。
この子だけではない。追い詰められた生活を送るこの村の人々は、みんな盗賊を憎んでいる。いなくなってほしいと願い、軍に一縷の望みを託すが、それも何度も裏切られた。ただひたすら礼金を支払うだけなんて、軍まで嫌いになりそうだ。そんな人がいてもおかしくなかった。
「稼げるのは軍の人が来ているときだけ、なんて生活は終わらせたいのです。ですから今度こそ、せめて手掛かりだけでも掴んでください。情報ならいくらでも提供します」
フブとユリが頭を下げる。ミマがアクトの服の裾を掴む手にも力がこもった。任せてください、と胸を叩いて、この件をあっというまに解決できたらどれだけいいことだろう。けれどもそううまくいくわけではないということを、アクトは資料を読んで思い知っている。だから簡単に返事ができなかった。
「期待に応えられるかはわかんねぇな」
かわりに口を開いたのはディアだった。いつもと何も変わらない乱暴な口調で、腕組みをしたままその場の全員を見下ろす。ミマが顔を上げ、ディアを睨んだ。
「どうしてだよ!」
「今まで何度も軍が来て、何も解決してねぇんだろ。だったら俺たちが来たところで、すぐに片付くとは思えねぇ。情報だってそうでかい変化があるわけでもないだろうしよ。手掛かり掴めってのすら無茶ぶりだぜ」
「それが軍人の言うことかよ! アクト姉ちゃん、こいつ本当に軍人なの?!」
「一応軍人。ああ言ってるけど仕事はちゃんとさせるから、ミマは安心してて。村長さんも」
不安でしょうけど、と付け足すと、フブは苦笑いをした。それから、とりあえず荷物を運んでください、と奥の部屋を示してくれる。任務のあいだは村長邸の客間に泊まらせてもらうことになっていた。
ただし、長くはいられない。期間は今日を含めてわずか三日。この条件で盗賊を引きずりだして捕まえるところまでできるかといえば、かなり難しい。
ユリに案内されて部屋に向かったディアに、ミマが顔を顰めて舌を出した。それに対してディアはからかうように舌を出してみせる。この二人はまだ当分仲良くなれそうにないな、とアクトは思った。

さて、手掛かりを掴むのが全く無理なわけではないということに、アクトはとうに気づいていた。トコルタに来る前、下調べをしているときにはすでにその可能性に辿り着いている。ただ、この村の関係者には、特にずっとくっついていたミマには絶対に聞かせたくないものだった。
部屋で荷物を整理しているそのとき、やっとディアと二人きりになって、それを口にする。
「村に内通者がいる」
「だろうな」
下調べなんかしていないのに、ディアもわかっていた。軍人が来るときには絶対に現れない盗賊なんて、トコルタの内情を知っていなければできない。当日だけではなくその前後も脅威は去っていて、だからこそここに到着した時にはすでに盛大なマーケットが開かれていた。物資が事前に用意できなければ、あれだけ多様に物がある店は準備できない。軍が来ているあいだは鳴りを潜めて村に稼がせ、あとでがっぽり盗んでやろうという作戦なら、トコルタに住む誰かが盗賊と繋がっているはずだ。
「問題はそれ以上をどうやって知るか、だ。内通者の可能性だけなら、今までだって指摘されてた」
「なのに尻尾を掴むどころか影も見えねぇってことは、トコルタの奴らが隠してるんだ。でも隠す必要がわかんねぇ」
「来るときに言ったと思うけど。窃盗とは別にトコルタにはもっと危ない疑惑があるんだよ」
アクトがそっとディアに近づき、耳に唇を寄せる。吐息とともに吹き込まれる言葉には、色気なんか微塵もなかった。
「危険薬物関連」――この国ではもっとも大きな組織犯罪だとされている。裏社会が絡み、多額の金が動く。トコルタには、その取引が行われたのではという疑いがあるのだ。そのことをディアはすっかり忘れていた。
証拠があがっていないから疑惑止まりだが、過去に検挙した裏組織の人間の証言がある。信憑性はさほど高くないそうだが、名前が挙がるということだけでも重要だ。
「トコルタでの疑惑が本当なら、あんまり軍に立ち入ってほしくはないはず。駐在を置けないのも、単なる資金不足ってだけじゃないかもしれない」
「だったら軍を呼ぶことだってねぇんじゃねぇの?」
「いや、イベントとして必要なんだ。あの賑わいを見ただろ。トコルタがこれまで通り、軍の疑いを逸らしながら『オアシス』の役割を果たし続け、なおかつ石炭の流通も止めないようにするには、ときどきは軍を呼んだほうが都合がいい」
「……そこまで思いつくなんて、お前性格悪ぃな」
言葉はともかく、ディアはアクトを認めているし、褒めている。アクトはきちんと役割を果たしているのだ。ディアには難しい、頭脳の部分を。
「盗賊の情報を集めながら、村の様子をよく見ておこう。お前は騒ぎを起こすなよ」
「わかったわかった。よっぽど腹立ったときしか喧嘩しねぇから安心しろ」
本当にわかってる? とアクトは眉根を寄せる。ディアの沸点の低さは、六年の付き合いでよくわかっているつもりだ。ちょっと目を離した隙に誰かと殴り合いになっていたなんてことも珍しくはない。余計なことをして捜査打ち切り、なんてことになったら誰も得をしない。ことに今回のような場合は。
怒らせないためには、まずアクトが自衛を徹底することだ。ディアという男は、相方であるアクトに危害が及んだときに普段以上に激昂する。気持ちはありがたいが、もう少し落ち着いてくれていい。
「おとなしくしてりゃいいんだろ。聞き込みはお前に任せるぜ。俺は悪人面だし」
「はいはい」
僅かな荷物を持って部屋を出る。フブから村の地図を貸してもらい、これで仕事の準備は万端だ。唯一の問題点は、アクトはやはり防寒具を着込んでいて、ディアの顔は当然変わったりしないので、人から話を聞くためにいちいち軍人であることを証明しなければならないということくらいだ。
そのはずだったのだが。

「なんでガキがついてくるんだよ」
「だからガキじゃねえ。オレはミマだ」
どういうわけか、村長邸の前でミマが待っていた。出てきたところで捕まり、今はアクトにぴったりとくっついている。
「ミマ、おれたちはこれから仕事をしなくちゃならない」
「わかってるよ。絶対に邪魔しないから、仕事を見せてほしいんだ」
懇願するミマを突き離せず、アクトはそのまま歩き始める。その後ろから、ディアが「ガキ」と呼びかけた。
「お前、さては俺たちが真面目に仕事をするのかどうか見張るつもりだろ」
「姉ちゃんはともかく、兄ちゃんはまだ信用できないからな」
「あっさり認めやがった。アクト、そいつ引き剥がせよ」
「それができればやってるけど、ミマの手が温かいんだよ」
「ガキの体温に買収されてやがる……」
思いきり顔を顰めたディアを尻目に、アクトはミマの手をぎゅっと握り返した。ミマのちょっと照れた顔が可愛らしくて、心まで温かくなる。
もちろんミマをカイロがわりにするためだけに連れ歩くつもりはない。この子は盗賊の被害者の子供で、この村の一員だ。もちろん情報源になる。それに来たばかりで、しかもなかなか初対面の人間の信用を得られない自分たちには、きっと助けになってくれるだろう。
ただ、村のことに深入りはできない。ミマを傷つけてしまうようなことだって、必要になるかもしれないのだ。ディアの態度がそれを懸念してのことだと、アクトも理解している。
「あのさ、ミマ。仕事についてくるなら、ミマも役割を持たなきゃいけないとおれは思うんだけど」
「役割? オレも仕事をするのか?」
「うん。おれたちはこれから村の人に色々話を聞かなくちゃならない。ミマはそれが本当かどうか、知ってる限りおれたちに教えてくれるかな」
「……村の人が嘘吐くかもしれないってこと?」
ミマは正直な子供だ。喜びも不安も、全部顔に出る。アクトの頼みで、懐いてくれていた目が一気に不審なものを見るそれに変わった。
証言の真偽を確かめるのはもちろんだ。村そのものに疑惑がある以上は、嘘だってありうる。村の子供であるミマは、ここでアクトの手を離してどこかへ行ってしまっても良かった。けれども、手だけは離れない。縋るように、祈るように、しっかりと握られたままだ。
それを確かめてから、アクトは微笑んだ。
「そうじゃないよ。間違いがないかどうか、ミマの記憶と照らし合わせてほしいんだ。おれたちはここに来たばかりだからどんなことがあったのかよく知らないし、誰だって憶え間違いはある。ずれがあったら修正しなければならないから、ミマに手伝ってほしい。それだけのこと」
疑っているわけじゃない、ととってくれたのか、ミマはあからさまにホッとしたような表情になる。
「いいぜ。オレは記憶力には自信があるんだ。盗賊のことだって、大人が話してたのを聞いてるからよく憶えてる。きっと姉ちゃんの役に立つよ」
「おい、俺は」
「そうか、ミマは偉いな。ありがとう、頼りにしてるよ」
アクトに頭を撫でられると、ミマは得意気に笑った。そして「早く行こう」というように手を引っ張る。ちらと振り返ったアクトに、ディアはやぶ睨みをさらに険しくしたような表情を向けていた。
いいのかよ、と無言の問い。単純に「子連れで捜査ができるのか」という意味ではない。「子供を利用していいのか」と言っているのだ。
アクトがディアの考えていることを大抵はわかるように、ディアもまたアクトのことを六年分はわかっているつもりだ。ミマに対して優しく振る舞っているように見えても、実際はより冷淡な人物だと。達成すべき目的のためなら、自身も他人も使えるだけ扱き使う。そうできるものと割り切ってしまう。そこに年齢や社会的地位の序列はあまりない。
そのうえで、答えを受け止める。――今はこれが最善の方法だ。
「……そうかよ」
小さく呟いてから、ディアは上着のポケットから煙草を取り出し、咥える。余計に人相が悪くなり、こちらを見たミマに嫌な顔をされた。
知らない人が見れば奇妙な三人連れだっただろう。子供と美女と悪そうな男。――もっとも「知らない人」などこの村には存在せず、ミマの姿を見れば人々は相好を崩して挨拶をしてくれた。
「おっちゃん、盗賊に遭ったときのこと教えてよ。今度こそ軍人さんがなんとかしてくれるから」
対象人物にもミマが積極的に近づいていき、話をつけてくれる。もう何度もした話だろうに、相手は嫌な顔一つせずに盗賊の特徴や当時の状況、遭遇日時を教えてくれた。主張は一貫しているようで、ミマは初めて聞いたときと違いはないとこっそり告げる。
盗賊の特徴はやはり人によって違った。あるときは髭を生やした屈強な男、あるときは若者らしい集団。共通するのは、荷を根こそぎ奪うということはしないということ。――ミマの父親の場合を除いては。
盗賊は一人ではなく、彼らが繋がっているのかどうかも不明。これはアクトが事前に調べたことと一致している。つまりは被害者の証言としてあがってきているのだ。
「ミマ、素朴な疑問なんだけど」
手帳にチェックを入れてから、アクトが尋ねる。
「ミマのお父さんが見つかったとき、軍へ報告がなかったみたいなんだ。これは誰の判断?」
他の案件に比べて、ミマの父親の被害は明らかに異質だ。しかし、軍にはそれと思われる記録がない。あればすぐにわかる。これまでも「何件か続いたから軍に討伐の依頼をした」ようだが、いつもと違うことが明らかな場合はすぐに連絡があってもよかったはずだ。
ミマは首を捻りながら答えた。
「オレと一緒に父ちゃんを捜しに行ってくれた父ちゃんの友達と、村長さんが話し合って決めたはずだ。父ちゃんの荷物や車がなかったから、きっと盗賊の仕業だろうって。首都から帰ってくるときに襲われたんじゃないかって言ってた。金とか盗られるのはいつものことだから、今度軍が来たときに報告しようってことになったんだ」
「ということは、ミマのお父さんが亡くなったのは最近なんだな」
「ひと月前だよ。そのあとも盗賊の被害が続いたから、また軍に頼もうってことになって、姉ちゃんたちが来た」
いつもと違うことがあったなら、別個の事件の可能性があるのですぐに報せてほしいのだが。そうしないくらいに、この村の人々は盗賊に慣れてしまったのだろうか。それとも。
考え込むアクトを、ミマが真剣な顔で見上げる。
「何度も軍人が来たけど、誰も解決できなかった。盗賊を一人も捕まえられなかった。だから兄ちゃんが無茶ぶりって言うのも、本当はわかってる」
ぐっと拳を握り、だけど、とミマは声に力を込めた。
「でも、諦めたくないんだ。父ちゃんがなんで死ななきゃいけなかったのか、オレはそれが知りたい。盗賊の被害が他人事じゃなくなって、初めてオレも真剣になったんだ。だから」
「うん、わかってる。尻尾くらいは掴めるように頑張る。……でも、これだけは胸に留めておいて」
屈んで、ミマと目線を合わせたアクトは、厳しい眼をしていた。ミマがびくりと肩を震わせたのが、ディアにも見える。
「おれたちが調べた結果は、もしかしたらミマの望まないものになるかもしれない。そういう真実を、今は無理に受け入れなくてもいい。けれどもいつかは納得しなきゃならないと思うんだ。たとえおれたちを恨んでも、それは一向にかまわない。でも過去の事実はどうしたって変えられないものなんだってことは、いつでもいい、わかるようになって」
それは半ば「予告」だった。この事件の真相は、村にとって、村の子供であるミマにとって、都合の悪いものかもしれない。疑惑、聞き込み結果、軍への未通報事項。これらに導かれる推理は、あまり良いものではない。アクトもディアも、すでにただならぬ事態を嗅ぎとっていた。
ミマが人と話をつけてくれているあいだに、村の様子も確認している。賑やかで明るい村だ。だがこれは軍人がいるときの姿であり、普段は盗賊に苦しめられている。そういうことになっているのだが、あまりに不自然だ。
幼い子供が大人たちに可愛がられている光景を見れば見るほど、後のことが気にかかる。内部犯がいる可能性は高い。そのことを知ったミマが、どれほどの衝撃を受けるのか、予想はできた。
大人に裏切られた子供の心の傷は、そう簡単には消えない。傷を傷だと気づかずに過ごし、少しずつ膿んでくることを疑問に思うようになるケースもある。そしてその頃には、なかなか癒えなくなっているのだ。それをかつて大人に裏切られた子供だったディアとアクトは、よくわかっていた。
アクトの言葉を、ミマは黙って聞いていた。頭の中で、意味を必死に整理しているのかもしれない。
「結果がまたわからないことも考えられる。おれたちには三日しか時間がない。ミマの期待に応えられなかったら、ごめん」
「……うん。それは、納得はできないけど、仕方ないと思う。今までの軍人もそうだったし」
よその人間は頼りにならない、とミマも思っている。いくら懐いてくれたって、ミマが本当に大切にしているのは、信頼しているのは、この村の人々だ。
しかしミマを救うのに冷徹な判断が必要かもしれない。その覚悟は、互いに持っていなくてはならなかった。
「今日の聞き込みはこれくらいでいいんじゃねぇか? 腹減ってきちまった」
冷えてしまった空気に割って入った、乱暴だが暢気な言葉。ミマは目を丸くしてから、口をへの字に曲げてディアを睨んだ。アクトは平坦なトーンで「そうだな」と返し、優しくミマに尋ねる。
「ミマのおかげで仕事が捗ったよ。ところでこの村で、ご飯が一番美味しいところはどこだろう?」
「なんでも美味しいけど、やっぱりオレのおすすめは村長さんの家かな。ユリ姉ちゃんの作る飯は村で一番美味い。炭鉱夫たちへの差し入れも大人気なんだぜ」
にかっと笑うミマについて、一旦村長邸に戻ることにした。いずれにせよ情報の整理と、そしてフブとユリの話が必要だった。

丸ごと焼いた鶏肉と、乾燥させ保存してあったらしい色とりどりの野菜が並ぶ。そしてとろとろの芋のポタージュ。さっそく手を付けようとしたミマを、フブが「軍人さんたちが先だよ」と窘めた。父がいなくなって以来、ミマは村長邸で暮らしているらしい。
「いかがでしたか、村の者の証言は」
フブが食事を勧めて言った。アクトは一礼してから答える。
「大方はミマのおかげで聞くことができました。けれども、やはり特徴に一貫性がありませんね。しかしやり方は、ミマのお父さんが襲われたとき以外は、ほぼ一緒。盗賊は大きな組織ということも考えられます」
ディアとアクトが聞いてまわった盗賊たちの外見の特徴は、これまで通りばらばらだ。そしてミマによると、その主張は以前から変わっていない。今までトコルタを調査した軍人たちの報告とも一致する。だからこそミマの父の件は、異常なものとして浮かび上がってくる。
「村長さん」
「フブでかまいませんよ」
「フブさんは、何故ミマのお父さんのことを軍にすぐに報告してくださらなかったんですか。これまでの手口と違うということは、すぐにわかったでしょうに」
突然、しかし落ち着いて切り込んだアクトに、フブも目を眇めつつ静かに返した。
「……麻痺、というのでしょうか。あまりにも盗賊の被害が多く、正しい判断ができなかった。ミマと父親には、申し訳ないことをしました」
ミマは表情を変えずに、鶏肉を咀嚼している。謝罪はもう聞き慣れた、というふうに。
「全く同じ手口なら、麻痺の範囲に入っただろうな。でもよ、人死には一件だけなんだろ」
「荷運びの人間がまた襲われた。私たちの当時の認識はそれきりでした。そのあとも立て続けに盗賊が現れ……」
「その一件は後回しになってしまったのです」
言いにくそうに唇の端を歪めたフブの代わりに、ユリが続きを引き取った。がつがつと肉を食べるミマは、まるで何も聞いていないかのようだ。そんなはずはないのに。
「みんなわかってくれました。ミマも、幼いながら納得してくれています」
ミマの皿におかわりをよそいながら、ユリは言う。だが、そんなものは大人の勝手な言い分だと、ディアもアクトも感じていた。大切な人が突然いなくなったことに、納得なんてそう簡単にできることではない。経験上、二人ともそれを知っていた。
空気が不穏になったのを感じ取ったのか、ミマが急いで口の中の物を飲みこんだ。
「オレ、平気だよ。他の人だって、盗賊が出るのにはもう慣れてるし、何が起こってもどうしようもないって思ってる。軍人が来ても解決したことはないし、オレたちはあるがままを受け入れるだけだ。父ちゃんの事だって仕方ない」
「何言ってんだよ、ガキが。本気でそう思ってんなら、俺を殴ったりしねぇだろ」
即座にディアが返す。村に到着してすぐのできごとと、ミマの今の言葉は矛盾している。何故父が死んだのかを知りたいとも言ったのに、まるでそんなことはなかったかのようだ。世話になっているフブやユリの前ではいい子でいたいのかもしれない。表情を歪めたミマは、小さな声で「余計なこと言いやがって」と呟いた。
「ミマが失礼なことをしましたか」
「いいえ、当然のことだと思います。良い子ですよ、ミマは。……子供が手伝ってくれて、大人がそうしないということはないでしょう。フブさんとユリさんからも、お話を聞かせていただきます」
アクトの視線が鋭くなる。フブとユリは食事の手を止め、顔を見合わせた。
「私どもからは、何を話せば良いでしょう。すでに村の者から聞き込みをされたのですよね」
「フブさんたちから聞きたいのは、軍を呼ぶか呼ばないかという判断についてです。そのあたりの責任は、あなたがたにあったということでいいんですよね。もしもミマに聞かせたくない話であるならば、今でなくても構いませんが」
ちら、とミマを見る。別に構わない、とでも言いたげな表情をしている子供に、しかしフブは眉を八の字にしていた。これは後にしたほうがいいな、とアクトが思うと同時に、口を開いたのはユリだった。
「軍人さんたちは、朝はお早いんですか? もし良ければ、夜中にお茶でも飲みながらゆっくりお話ししましょう。ね、村長さんもそれでよろしいですか」
「軍人さんたちがよろしければ」
「おれたちは一向にかまいませんよ。なあ、ディア」
「俺は逆に夜のほうが頭が働く。ガキを寝かしつけてからじっくり話を聞こうじゃねぇか」
不満げに脹れたミマを、ユリが宥める。デザートを少し多めにしてもらって、ミマはちょっとだけ機嫌を直したようだった。木の実のシロップ漬けはたしかに美味しくて、ほんのりと酒の味がした。ミマの分は別の瓶から取り出されたので、きっと子供用にアルコールを抜いてあるのだろう。
「けれどもまずは、お風呂に入ってくると良いですよ。村中を歩き回ってお疲れでしょうから」
ユリが勧める通りにしたほうが良さそうだ。夜は長い。ミマがアクトと一緒に風呂に入りたがったのはやんわりと断った。
全員の入浴が終わり、歩き疲れたミマがぐっすり眠ってから、大人たちは再びテーブルを囲んだ。ユリがブランデー入りの紅茶を淹れてくれ、それからフブの隣に座る。
「……改めて、いかがですか、トコルタは」
フブが口を開く。口元は笑みを作っているが、眉がミマを気にしていたときと同じ形のままだ。
「先ほど申し上げた通り、皆さん、協力的で助かります。ミマのおかげだとは思いますが。これまでの調査と、今回の証言は一致しています。新たな証言も得られましたが、それらはミマがお父さんを亡くしてからのものでした」
アクトが落ち着いて言う。手元にメモはあるが、内容はすでに頭の中に叩き込んであるので見ない。今見るべきは、人間の顔だ。いつ、どんなときに、相手の表情が動くのか。
「ええ、以前に軍に来ていただいたときは、ミマの父親は生きておりました。悲しい出来事は、それからまもなくのことです」
「ミマの親父さんの件は、それまでとは明らかに様子が違ったはずだ。なのに、どうしてその時点で軍に連絡しなかった? 何度でも言うが、単なる麻痺じゃこっちは納得しねぇぞ」
ディアの詰問に、フブが言葉を詰まらせる。かわりに声を発したのはユリだった。
「軍の調査が何も解決せずに終わったのに、そちらにお金をお支払いしなくてはならなかったので、村は金銭的に困窮していました。立て続けに軍に依頼をというわけにはいきません」
険のある言葉を、フブが窘めようとする。だがディアは黙って頷き、アクトはユリを真っ直ぐに見据えたまま返した。
「殺人事件となれば依頼として扱うことはありませんから、それは考えなくても良かったのですが。しかしそちらからの依頼を軍が解決しきれなかったために、そのような判断を招いてしまったんでしょうね。申し訳ございません」
言葉は丁寧だが、アクトの内心には一つ確信ができた。やはり軍は、信用されていない。村の「イベント」のために利用されているだけだ。それが軍が任務を遂行できなかったために引き起こされたことなのか、それとも……という疑問はまだ残っていたが。
金銭的な困窮というのは、嘘ではないだろう。石炭運びを担っていたミマの父親は、盗賊に全てを奪われた。つまり村の収入は、その分だけ減っていたと考えられる。それにこの村は、軍人が来るたびに物資を出し惜しまないマーケットを開く。
だが、何もミマの父親ひとりだけが働いていたわけではないはずだ。嘘ではないにしても誇張が過ぎる。軍人を遠ざけておきたかった、と考えるのがもっとも自然だ。
「ユリさんは、フブさんの考えをそのまま仰っているのですよね」
「ええ、私は村長さんに恩がありますので、助けになるならなんでもしたいと思っています」
恩、と小さく繰り返したアクトに、ユリは頷き、フブはようやく言葉を発する。
「ユリは盗賊に囚われていたのです。なんとか逃げてきたところを、私どもが保護しました。以来、この村のためによくやってくれていますよ」
「へえ。そんじゃ、一番に話を聞くべきだったのはあんただったってことだな。囚われてたってことは、盗賊の顔も一通り見てるんじゃねぇのか」
ディアの指摘に、しかしユリはかぶりを振る。自分の肩を両手で抱くようにして、震えた。
「あんな恐ろしいこと、思い出せません。思い出したくない」
そう言われては追及できない。受けた痛みを思い出すことがどんなにつらいか、こちらも経験上わかっている。同じように問われたら、ディアなら家族を失ったときのことを、アクトは虐待を受け続けた過去のことを、すんなりとは話せなかっただろう。恐ろしい体験だったなら、本当に思い出せないということもある。
「……言葉にしようとすると、途端に記憶が曇るんです。色々な人が盗賊の特徴を言うけれど、私はそれを目にしたかどうかわかりません。相手が複数だったことはたしかですが、他の人を襲ったのと同じ組織かどうかは……」
「そう。話せないなら仕方ないので、一旦この件は置いておきましょう」
俯くユリに、アクトが告げる。それから突然話題を変えた。
「では盗賊の側は何が目的なのか、心当たりはありますか」
「それは……我々の収入が目的なのでは。あるいは、石炭でしょう」
何を今更、という疑問を浮かべ、フブが答える。ディアも同じことを思ったが、すぐにアクトの狙いに気づいた。最初からその可能性は提示されている。
アクトはメモを一枚千切り、そこにペンで丸を二つ描いた。
「そう、盗賊の狙いは二つある……というより、狙うルートが二つ存在しているとおれは考えています。一つはトコルタからよそへ向かうもの。もう一つはよそからトコルタへ帰ってくるもの。目的は石炭や金品だけではないのでは」
「と、いいますと」
本来なら、もう少し探りを入れて情報が集まってから切り込むべきところだ。しかし、時間がない。眉根を寄せるフブに、アクトは毅然と言い放つ。
「この村で、危険薬物が取り扱われたことがあるのでは」
「……その嫌疑、まだかかったままでしたか」
フブは俯きながら首を横に振った。残念です、と小さく呟いた彼の背中を、ユリが慰めるようにゆっくりさする。こちらを見る目は非難がましいが、そんな視線にたじろぐようなことはない。ディアの知るアクトは非情であり、アクトの知るディアはちょっとやそっとのことでは揺らがない。
「以前にも疑いがかけられていると、軍の方に言われたことがあります。しかし証拠はどこにもない。トコルタと危険薬物の関わりは示されなかった。それなのにあなたがたは、まだ私たちの村をそんな目で見るのですか。だいたい、それと盗賊と何の関係があるというのです」
「盗賊たちの目的が危険薬物である可能性もあるかと。噂を頼りにトコルタの人々を襲ったのでは」
「それならば、そんなおかしな噂を広めた軍にも責任があるでしょう」
「尤もです。ですからはっきりさせたかった」
フブやユリが軍を信用しないのと、質は違えど量れば同じくらいには、アクトもまた軍を信用していない。もとより帰属意識は薄い。軍に非があればそちらを、容赦なく叩くつもりだ。口にせずともそれが通じたのか、しばしの沈黙ののち、ユリが目を伏せたまま言った。
「噂のせいで私たちが被害を受け、ミマのお父さんが死んでしまったのなら、それはとても悲しいことです。あなたたちが盗賊を討ち、軍にこの村の無実を訴えてくれることを望みます。そうすればきっと、不幸は終わる」


明朝、ディアは村長邸の外にいた。普段は寝起きが悪いとアクトに叱られているが、今いるところがよそであり、さらには得意な冬であることで、目はしっかりと覚めている。そうして吐息と煙草の煙を空気に混ぜながら、昨夜のことを思い返していた。
与えられた期限は、今日を含めてあと二日。時間がないのはわかっているが、アクトの態度は少々急ぎ過ぎだ。危険薬物のことなんか持ち出したら、相手が頑なになってしまうのは容易に想像できるだろうに。
「らしくねぇんだよなぁ」
村長らとのやりとりに限らない。腑に落ちないことは山ほどある。こちらにも、あちらにも。ただ、アクトには何か意図があるのだろうと、自分もそれを読まねばならないと思っていたから、ディアは口出しをしなかった。
しかし一晩を越えて、頭どころか全身を冷やしても、何もまとまらなかった。相方は今回、何を考えて仕事に臨んでいるのだろう。
「あ、兄ちゃん。せっかく早起きなのに煙草かよ」
下から呆れたような声。雪を踏む足音に気がつかなかったわけではない。こちらから話しかける用事がなかっただけだ。どこに行っても子供にはまず泣かれるせいで、扱いは苦手なのだ。関わらなくていいのなら、それに越したことはない。
だがこの子供、ミマには、どうにも相方が甘いような気がする。
「早起きしたから煙草なんだよ」
「病気になるぞ」
「そりゃ迷信だ」
鼻を真っ赤にして、白い息を吐く子供は、訝し気に目を眇める。きっと何を言っても信じないだろう。村の人間やアクトには素直そうなのだが。
「兄ちゃんにかまってる暇ないんだ、オレ。水汲みに行かなきゃ」
「必要あんのか。この家、水引いてるじゃねぇか」
「そうだよ。でも、父ちゃんが生きてた頃からやってるから。無駄でもいいから続けてないと、朝が来たって感じがしねえんだ」
子供が両手で抱える大きさの水汲み桶は、箍に錆が浮くくらいには古いもののようだった。もといた家から、これだけ持ってきたのかもしれない。誰かに無駄だと言われても。もういらないだなんて、まだ思いたくなくて。
「ついていってやろうか」
「来るなよ。せっかくのきれいな水に、煙草の灰でも落とされたらたまんねえや」
即座に拒否されたが、妙に気になってしまった。ミマから見えない位置を確認し、煙草を踏みつぶしてから、ディアはこっそり後を追う。思ったよりも遠くへ行くようだ。昨日歩き回った限りでは、水場らしいものは見当たらなかったが、ここは「オアシス」らしいからきっとどこかにあるのだろう。
気がつけば、村長邸からも大通りからも随分離れたところに来ていた。村のはずれに、葉を纏わない木々に囲まれた空間が、まるで貼り付けたように存在している。ミマは幹の太い木の陰に屈んでいた。
もっと雪の深い場所だったなら、音を吸収してくれただろうに。そこまで雪の積もらない地域で、おそらくはよく点検されている場所であろうそこでは、泣き声がよく響いた。
納得しているふうを、仕方がないふうを装っていたのは、大人たちのためであり、自分自身のためだ。聞き分けの良い子供でいることは、集団の中で生きる上で都合がいい。けれども心には、現実や疑問や羨望がいつも浮き上がっては沈み、溜まっていく。それが苦しいのだと、痛いのだと、誰にも言うことができずに、ひとりで隠れて泣いていたのだ。――あれほどまでに泣いた覚えはないが、痛みならわかる。子供が我慢するには、受け入れるには、あまりにつらすぎるものだ。
駆け寄って声をかければ、ミマはもうここで泣けなくなる。気持ちを吐き出せる場所を奪ってしまう。だからディアは、静かにもと来た道を戻った。
村長邸の前で、寒さが何より嫌いな相方が、防寒具を纏って待っていた。こちらに気づくのは早く、しかし歩いては来ない。ただただ怒りの形相でこちらを見るだけ。目の前まで来たところで、強烈な膝蹴りを食らった。
「何してたんだ、お前。人の家の前に吸い殻放置したままとか、最悪」
「それは悪かったって。すぐ戻ってくるつもりだったんだ」
「すぐだろうがなんだろうが、自分で出したごみも処分できないなら吸うな。……で、ミマは?」
何があったのか、アクトはすでにわかっているようだった。じきに戻るだろ、と返す。わざわざ一人で泣きに行ったのを、知られたくはないだろう。
「……意外と子供は逞しいって、おれもよくわかってるつもりだけど。だからって見捨てるわけにはいかないよな」
「別に見捨ててきたわけじゃ」
「わかってる、お前のことじゃない」
アクトは先に家に入っていった。いつから待っていたのかわからないが、寒くてたまらなかったに違いない。呼び止めて考えを聞くまでの時間はなかった。

朝食の準備をしているあいだにミマが帰ってきた。アクトを見つけて元気に「おはよう、姉ちゃん」と言う顔には、涙の跡はない。ユリの用意した食事をみんなで囲み、支度を全て済ませたら、今日の調査の始まりだ。
「今日は村の周りを見て行こうかと。もしかしたら盗賊が出てくるかもしれません」
言いながら、アクトは可能性は低いだろうと思っていた。今までだって、軍がいるあいだには盗賊は出ていない。彼らが慎重ならば、出現はしないはずだ。昨夜のうちに策は講じておいたが、今のところそれも効き目はないようだし。
「アクト姉ちゃん、オレも行きたい」
「こら、ミマ。軍人さんたちの邪魔をしてはいけないよ」
駄々をこねるミマを、フブが宥める。信頼している大人の言うことはちゃんと聞いてくれる子供は、脹れながらもおとなしくなった。
昨日はミマの同行を利用できたが、今度は連れまわすわけにはいかない。万が一のことがあって、ミマを巻き込んでしまうようなことになるのは避けなければ。この子は父親を奪われたという以外、何の関係もないのだから。
「盗賊を見つけたら捕まえて来るから、ミマは待ってて」
「うん……。見つけた軍人は今までいないけど」
ミマは懐いてくれてはいるが、軍を信用しているわけではないのだ。今までに成果をあげられていないものを、信じろというほうが難しい。
だが、アクトは笑みを浮かべる。
「そうだね、いない。でも、可能性はゼロじゃない」
散々聞かされてきた言葉なのか、ミマは「ふうん」と言って足をぶらぶらさせていた。今は信用できなくていい。しなくていいのだ。
ミマに見送られて村長邸を出て、まずは村を歩く。相変わらずマーケットは盛況で、その賑わいの中でディアとアクトはそれぞれ昼食を調達した。それから乗ってきた軍用車で、村の周囲を走り始める。昨日と同じ、寒く静かな平原が広がり、盗賊らしい影は見えない。だが村から離れたこのタイミングこそが重要だった。
「ディア、ユリさんの料理は美味かった?」
「お前ほどじゃねぇな。でもまあ、美味いほうなんじゃねぇ?」
「そう。……あれ、ミマや炭鉱夫たちも食べてるんだよね。一か月前からフブさんの家に住むようになったミマはまだ大丈夫かもしれないけど、もっと長いこと摂取してる人はどうかな」
「どういう意味だ」
話が見えないことに苛立って、ディアが眉間にしわを作る。いいかげん、わかっていることをはっきりと言ってほしい。一方のアクトは平然として見える表情のまま、さらりと言った。
「今朝、台所で危険薬物の原料を見つけた」
「はぁ?! そういうことは早く言え!」
動揺が伝わった車が蛇行する。この辺りには道というものがないが、もし障害物や他の車があれば大惨事になるところだ。しかしアクトは至って落ち着いた様子で続けた。
「あくまで原料だよ。それがそのまま危険薬物になるかどうかは、また別の話。原料っていうのは植物なんだけど、様々な成分を持ってるんだよ。危険薬物だけじゃなく、一般薬にもなる。もちろん、薬学に精通している人間じゃないと正しい加工はできない。危険になり得る根拠は」
大判のストールで口元まで隠しながら、アクトは平原を見渡す。その寒々しさにほんの僅かうんざりした表情をしてから、言葉を継いだ。
「……根拠は、葉と根に含まれる微量の毒性。大量に摂取すると神経が徐々に蝕まれていき、異常行動を引き起こしたり、逆に無気力にしたりすることがわかっている。十年くらい前までは中央でも料理の味を良くする香辛料として使われていたんだけど、その発表があってからは取り扱いがなくなった。国境に近い田舎ではまだ使っているところもあるかもしれないけど、国内では一応規制がかかってる」
「おい、まさかユリは料理に」
「使ってるんじゃない? おれは味でわかったけど」
途端に胃液がこみ上げてくるような感覚があって、ディアは片手で口を押さえる。それを見て、アクトは鼻で笑った。
「直ちに影響があるわけじゃない。少量なら本当に料理が美味しいだけ。ほとんどの場合、毒は吸収されないみたいだし」
「なんだよ、脅かしやがって」
「でもミマが気にかかることを言ってた。『ユリ姉ちゃんの作る飯は村で一番美味い』って。あれがトコルタの常食じゃなくて、ユリさんだけが使っているんだとしたら、故意かそうでないか、毒性のことを知っているかどうかは確かめなきゃいけない。他にもあの人は怪しいところがある」
盗賊のもとから逃げ出してきたと聞いたときには、同情しているふうを見せたのに。あのときは、そのほうが都合が良かったと、それだけのことだったのだ。変に煽って相手を激昂させれば、村から追いだされかねないから。
「アクト、お前が考えてること、全部話せ。憶測でもなんでもいい。俺に理解できるようにしろ」
「珍しく自分で考えてるなと思ってたから邪魔しなかったのに」
「仕事なんだから邪魔も何もねぇよ」
周りには何もなく、ただ荒野が広がっているだけ。今なら何の気兼ねもなく話せる。それがどんなに残酷な推理でも。
傷つく者は、ここにはいない。

手ぶらかつ無傷でトコルタに戻ったのは、とっくに昼を過ぎた頃。やっぱりね、と残念そうに呟くミマが出迎えてくれた。手にはバスケットを抱えている。
「昼飯もまだだろうからって、ユリ姉ちゃんが作ってくれた。サンドイッチだって」
「ありがとう」
アクトは微笑んでバスケットを受け取る。先ほどユリの料理の秘密について話したばかりだったというのに、全く気にしていないかのようだ。ディアは慄きながら煙草を取り出した。
「兄ちゃん、食わないの?」
「腹減ってねぇ」
「食べておいたほうがいい。何があるかわからないから」
わからないから食べたくないのだが、相方が平然としている以上は意地になって断る方が不自然だ。仕方なく一つ貰って、口に運ぶ。何も知らなければ、ただの美味い食事だった。薄い皮のようなパンと、塩に漬けこんだ肉と香草の取り合わせが絶妙なのだが、これが毒だと判明した今は噛むごとに不安になる。
そんなディアの様子を、ミマは怪訝そうに、アクトは呆れて見ていた。どうやら思っていたことは全部顔に出ていたらしい。
「嫌いなものでも入ってたのか、兄ちゃん」
「気にしなくていいよ、ミマ。こいつは何でも食えるから。でもこれ、コーヒー欲しくなるね」
買ってくるよ、とアクトはその場を離れてしまう。きちんと一つ食べきったあとだから、逃げるのか、とも言えない。そもそもそんなことは、ミマの前では口にできない。
車中での推理は、とても子供には聞かせられないものだった。だが、子供のために早く何とかしなくてはならなかった。ミマが負う傷がせめて少しでも軽く済むように――真実を暴けば、どうあがいたってこの子供は巻き込まれてしまう。
「ねえ、兄ちゃん」
ミマに急に顔を覗きこまれ、ディアは思わず後ずさりしそうになった。こちらの考えていることがばれたのか、と思ったが、そうではなかった。
「今まで何人もの軍人がこの村に来たけど、盗賊を捕まえることができなかった。兄ちゃんたちもたぶんそうなるだろうけど、そういうときってさ、軍はどうするの。依頼した村から金取って終わり?」
「……あー、そういうふうに見えるよな。実際解決してないんだから、言い訳しようがねぇけど」
これが意地の悪い質問であると、ミマはわかっている。だからアクトのいない間に、ディアに尋ねたのだ。けれどもそれは、おそらくは多くの人の疑問で、軍が一定層から嫌われる原因でもある。尋ねるのは、悪いことではない。
「一応、ちゃんと記録はとってある。依頼された内容だけじゃなく、その時々で気候はどうだったか、どんな人間がいたかとか。それが次に役立つはずだって思いながら、見てきたことや聞いてきたことを資料にする。俺は見てねぇけどな。アクトと組むときは、あいつが読みこんだ方が仕事が楽だ」
「見てないのかよ。仕事しろよな、金貰ってんだから」
「任務が果たせなけりゃ、礼金は俺たちの懐には入らねぇ。その辺の処理は詳しくねぇんだよな」
「うわ、ダメだこの軍人」
ミマが呆れるのも無理はない。話していて改めて意識したが、ディアはエルニーニャ軍の仕組みをあまり理解していなかった。依頼がどのように受け付けられ、入ってくる金がどう処理されているのか、詳細にはわからない。アクトなら、きっと全部分かった上で行動しているのだろう。
「兄ちゃんは、なんかわかりやすい。軍人っぽくないし、頭も悪そう」
「んだとコラ」
反射的に乱暴な言葉が出るが、ミマの声と表情は、からかっているようなものではなかった。
「でも、アクト姉ちゃんはなんか、ときどき怖いな。優しいけど、何を見てるのかわからない。軍人っぽくないのは、兄ちゃんと似てるけど」
この子供は思っていたよりも鋭い。こいつは、とディアは内心で溜息を吐いた。こいつは――ミマは、きっとこの村で起きている全てを、いずれ察することになる。たとえ、自分たちが今回の任務に失敗しても。それなら、ここできれいに片付けてしまったほうが、この子供のためだ。
たとえ、深く傷ついても。軍を恨むようになっても。恨まれるのが軍だけならば、問題はない。
「ミマ。お前、村長やユリが好きか」
「好きだよ。オレの面倒見てくれるし」
「そうか、わかった」
嫌われるのは慣れている。こんな子供に恨まれたところで、そう大きく人生が変わることもないだろう。
ディアがおそらく毒草入りであろうサンドイッチをもう一つ食べ始めたところで、アクトが戻ってきた。手には器用に、カップが三つ。全て昨日ここに到着した時に飲んだものと同じコーヒーだ。ミマには砂糖とミルクがたっぷり入ったものを、ディアには濃いブラックコーヒーを渡し、アクト自身は薄くて砂糖の入ったものをとっておく。
「炭鉱で働いてる人に会った。石炭、昔ほどは採れなくなってるんだって?」
唐突に切り出すアクトに、ミマは曖昧に頷いた。
「おっちゃんたちはそう言うけど、オレにはよくわかんない。十分たくさん採れてると思うんだけどな」
「資源には限りがあるからね。尽きて炭鉱が閉鎖されるようなことになれば、この村は他の方法で生き残っていかなくちゃならない」
「他の方法って?」
ミマの問いに、アクトは答えなかった。薄く微笑んでから、カップに口をつけ、それっきり。頭に疑問符を浮かべるミマは、しかし黙って自分のコーヒーを飲んだ。
カップとバスケットが空になる頃、アクトはミマに言った。
「ミマ、今夜はマーケットで何か奢るよ。美味しそうなのがあったから、そっちが気になってさ」
「え、でも、村長さんの家にいればユリ姉ちゃんが美味い飯作ってくれるよ」
「マーケットでものを買えば、少しは村に金が入るだろ。盗賊が出てこない以上、おれたちは仕事ができそうにない。だったらせめて、村のためになることをしたい」
村のために。ミマはその言葉に頬を染めた。先ほどトコルタの持つ資源に限りがあるなどという話を聞いたばかりだ。この小さなことも、もしかすると村の活力につながるかもしれない。――と思わせるように誘導したのだと、ディアは少し遅れて気がついた。
本来の目的は、これ以上ユリの料理を口にしないこと。仕事ができそうにないなどというのは嘘だ。アクトは、そしてディアも、意地でも任務を遂行するつもりだった。


月が昇る、冷えた闇。トコルタの人々が寝静まった頃、ディアは軍用車の前にいた。助手席にはすでに防寒具の塊が乗っており、こちらが運転席に座るのを待っている。
――その作戦で本当に良いんだな?
ここに来る前に、相方には何度も確認した。
――夕食をとらなかったことで、たぶん気づかれてる。今夜中に仕掛けてくる可能性は高い。それにお前、有名人だし。
アクトは確信を持っていた。今夜をトコルタで過ごそうとすれば、中央司令部には戻れなくなる。証拠を掴んだ軍人を、敵は逃がしたくないはずだ。
こっそり村長邸を抜け出して、村を出る。何事もなければ中央へ急ぎ、応援を呼ぶ。それで話はまとまった。
エンジンの音が静寂の中に響き、ディアは荒野へと車を走らせる。アクセルはいっぱいに踏むが、この車はさほどスピードが出ない。普段、もっと速く、などと無茶なことを言うアクトの気持ちが、今だけはわかる。さっさとトコルタから離れたい。少しでも遠くに行きたい。
「……ったく、恐ろしいぜ。どうしてこうも、予想通りの展開になるんだろうな」
どうせ行く手を阻まれるなら、罪のない人々を巻き込みたくない。
軍用車よりもスピードを上げ、何台かの車が並走してくる。こちらを追い抜かしたかと思うと進行方向に滑り込んできて、その窓に何かが光る。銃だ、と頭が判断するより先に体が動く。こんなことはよくあることだ。何度修羅場を潜り抜けてきたと思っている。
急ブレーキをかけると軍用車のタイヤは地面を滑った。まだ動きを止めないうちに、一発、二発と銃弾が撃ち込まれ、助手席に命中した。助手席に乗っていたものには穴があいて、ぐったりとしている。
三発目は運転席に命中した。すでに誰もいないそこに。
「けど、こういう展開のほうが俺にとっちゃあ面白ぇな。ようやく思いっきり暴れられるぜ」
軍用車から転がり出て立ち上がったディアの手にはライフル。エルニーニャ軍支給のものだが、使い手の改造によりその威力を増している。放たれた弾丸は冷たい空気を裂いて走り、先ほどこちらを狙って来た車に命中した。激しい音がして、車が煙をあげはじめると、乗っていた者たちが飛び出してくる。
有事の際にはその場で対応し、絶対に逃がさないこと。それがディアに任された仕事だ。荒野の荒事に慣れた人間にしかできない、重要な役割。
他の車も同様に破壊し、敵を全て誘き出す。ここからが本番だ。――左頬に傷のある悪名高き軍人、ディア・ヴィオラセントの本領を、月夜の荒野は最大限に発揮させてくれる。

月を背にしたこの姿を、相手は驚愕の表情で見ている。大方今頃は片付いているだろうと思って外に出てみたのだろうが、その行動も含めてこちらは見通していた。どうしてか、人の行動パターンというものはよく観察すれば予想できるほどにわかりやすく単純だ。
「どうしてここに、って思った?」
冬の空気よりも冷たい声に、相手――ユリは眉を歪ませる。今夜中に軍人たちは村を出ていくだろうと、その読みはなかなか良かった。わざと危険薬物の原料を台所に置いておくことで、そう仕向けたのかもしれない。だが、一つだけ見落としていた。
こちらは二人いるのだということを。
「村の外に盗賊たちを配備しているだろう、ということはわかってた。二人でかかっても相手にするのは難しい人数を揃えるだろうということも。けど、残念だったね。どうせ『中央司令部の傷の男』をリサーチするなら、どれくらい強くて、どれだけ暴れるのが好きかも押さえておかなきゃ」
アクトが微かに笑うと、ユリは怒りの形相を見せる。その手がそっと腰に伸びたのも、見逃してはいない。次の瞬間、冷えた空気に金属のぶつかる音が響いた。
ナイフを振り上げて向かってきたユリを、アクトも愛用の銀細工の施されたナイフで止める。そして、ねえ、と囁いた。
「嘘が多すぎたね、ユリさん。いや、本当の名前はなんだろう。女性名のわけないよね。……お前は男だから」
ナイフを振り払うと、ユリは飛び退いた。そして月夜に、美しくも歪んだ笑みを照らし出す。
「いつからわかっていた?」
「最初から疑ってた。なにしろ、おれをすぐに男だって見抜いた人間は、今までほとんどいなかったから。もしかしたら仲間かなって」
村長邸に到着して、部屋に案内されたとき。ユリは迷わず、何も訊かずに、アクトとディアを同室にした。他にも客室があることは確認済みだ。
大抵の人間はアクトの性別を女性に間違える。ミマが今でもそうであるように。したがって、普段の任務で部屋を借りたときは、いかにも男らしいディアとは部屋を分けるか、異性と同室でも構わないかどうか尋ねられる。だが、今回はそれがなかった。
「盗賊から逃げてきたってのも、あんまり自然だとは思えなかった。男でもひどい目に遭うときは遭う。でもそのあと女のふりをし続けるのは、どうも納得がいかない。盗賊は村の外に出るんだし、やっぱり欺きたかったのは村の人々だったんじゃない? ……って問い質すつもりだったんだけど、思ってたよりお前が短気で助かった」
「さっさと軍人なんか追いだしたかったんでね」
「ほら、また嘘。秘密を知られたから生かしておきたくなかった、が正解だろ。お前は料理にわざと毒性を持つ植物を混ぜていた。規制がかかってるから、今ではめったに手に入らないはずなんだよね、あれ」
この辺りに自然に生えているものでもない、と付け加えようとしたところで、再びユリが斬りかかってくる。それをアクトは素早くかわし、ナイフを構え直した。そしてさらに続ける。
「入手するなら人工栽培するしかない。余分に作っておけば売ることもできる。毒にも薬にもなるあの植物は、結構いい収入になったはずだ。もちろん堂々と売りさばくことはできない。だから盗賊と称した取引組織が必要だった。村の多くの人に協力関係がばれないようにしていただろうけれど、協力者もいたはずだ。それが」
再び攻撃してきたユリを右手の銀のナイフで止め、左手の軍支給のナイフでもう一人の襲撃者の相手をする。そちらを睨むと、冷たい視線が同じように返ってきた。
「……フブさん。以前に軍がここに来たとき、村長邸にいたのはあなたではなかった」
軍の記録では、村長は別の人間だった。アクトたちがここに来る前に変わったのだ。直近のことではない。おそらくは、前回の依頼の直後。資料にユリに関する記述がなかったことから、ユリがこの村に来たのもその頃だろう。
「お前たちは協力関係にあった。邪魔者は軍の目の届かないところで消した。炭鉱での事故に見せかけてもいいし、あるいは平原で盗賊にやられたことにしてもいい」
家のドアが開いている。その向こうに気配がある。アクトは両手にかかる力を跳ね飛ばし、飛び退き、気配に向かって告げた。
「ミマの父親はお前たちが使っていた運び屋だったんだろう。いや、もっと前から村側にいた、取引の協力者だった。けれどもだんだんその仕事に嫌気がさしてきて、一か月前には協力を拒んだ。彼から軍に情報が漏れることを恐れたお前たちは、盗賊を使って始末することにした。一切合切を奪ったのは、取引の痕跡を残さないため。それともう一つ、殺したタイミングを偽るためだろう。ミマは父親が村に戻るときに襲われたと認識しているけれど、そうじゃない。村を出て中央に駆けこまれたら困るから、行かせてはいけない。……お父さんはどこにも行けずに、こいつらに殺されたんだよ、ミマ」
ドアの向こうで、床に何かが落ちたような音がした。わかっている。ずっと話を聞いていたミマが、膝を崩した音だった。

荒野に転がるのは、顔が腫れあがった盗賊たち。それらを集めて縛り上げる。車載無線で、軍にはすでに連絡済みだ。先ほど襤褸切れになってしまったアクトの防寒具を旗代わりに、目印はつけてある。
「逃げられることはねぇだろ、たぶん」
心配なら、すぐに戻って来ればいい。アクトが聞いたら怒りそうな大雑把な仕事だが、仕方ない。早く村へ引き返さなければ、そのアクトが危ないのだから。
軍用車に乗り込み、トコルタへ向かう。今頃はユリとの一騎打ちか、それとも他の協力者とやらも加わっているか。どうか倒れていてくれるなよと、それだけを願う。
――そんなに弱い奴じゃねぇけど、相手の力量がわかんねぇし。
それに危機にあるのはアクトだけではない。村長邸にはミマがいる。アクトは誰よりあの子供を助けたがっていた。最初からずっと。
家族を失った子供に、自分たちを重ねていたのかもしれない。都合のいいように利用してもいたけれど、ミマに危害が及ばないように気をつけていた。だが、傷つけないのは無理だと悟ったのだ。どうあがいたって、真実はミマの心を抉る。
それでも「生き残っていかなくちゃいけない」――あれは村のことではなく、ミマのことだった。心の中のあらゆるものが尽きても、それでも生きていくための術を探しだして、前に進む。大人の押しつけだと言われてしまえばそれまでだが、ミマにはそうしてほしかった。
村に入って、車を停める。村長邸へ走りながら、ディアはライフルを構えた。
――間に合え!
月明かりを頼りに、標的を見極める。まだ戦いが続いていたことに安堵と感心を覚え、それから。
高らかに二発、銃声が響いた。


中央軍と近隣の駐在たちが、ぞろぞろとトコルタに入ってくる。フブとユリを連行してから、彼らは村長邸や他の住宅を隅々まで調べ始めた。
盗賊一味も捕まったらしい。顔面を腫らしているせいで本当の人相がわかりにくい、と偉そうな軍人が文句を言っていた。
その光景を、ミマはぼんやりと見ていた。冬の早朝の空はまだ暗い。けれどもきっと朝日が昇ろうと、寝付くことはできないだろう。頭の中で、聞いたことと見たことがごちゃごちゃになりながら繰り返し再生されている。
どうして父が殺されなくてはならなかったのか、その理由を知りたいと思っていたのは本当だ。けれども、結末を望んでいたわけではない。フブはみなしごになったミマをすぐに引き取ってくれたし、ユリはいつでも優しかった。食事に毒が入っているなんて、考えたこともなかった。しかし彼らは不正をしていた悪人であり、生前の父もそれに加担していたのだ。ただの憶測ではなく、どうやらこれが真実らしいと、軍人たちがフブを問い質す中でわかった。
思えば荷運びをしていた父は、いつも疲れていた。仕事が大変だからだと思っていたが、もしかして、やりたくない仕事をさせられていたからなのだろうか。そうならまだいい。父を、唯一の肉親だった人を、悪人だと思いたくない。
「君、そこにいると邪魔になる。どこかの家に世話になって、少し眠りなさい。子供なんだから」
軍人の一人が声をかけてくる。世話になっていた家は捜索の真っ最中で、他に頼れる家はない。父のことが村の人に知られてしまったら、ミマは可哀想な子供ではなく、犯罪者の子供として扱われるかもしれない。可哀想、も嫌だったけれど、悪者になるのはもっと嫌だ。
それに大人のいうことを聞くのも、今は素直にできない。邪魔になったとしても、足がここを動こうとしない。
「人の家漁っておいて、その言い方はないんじゃないの」
そこに、凛とした声が響いた。先ほどミマにつらい現実を言って聞かせた声と同じものだ。
「ロストート、こちらはお前たちの協力要請通りにしているだけなんだが」
「協力要請通り? おれたちのせいにしないでよ」
戦っているときは上着すら羽織っていなかったのに、今は大きめのコートを着て首にストールをぐるぐる巻きにしている。ミマはいよいよ、このアクトという人間がわからなくなっていた。ずっと女性だと思っていたが、どうやら男らしいということがわかって、そのことにも混乱している。
「ミマ、ここ寒いよ。おれたちの車なら、少しは温かいと思う」
「行かない」
とにかく、大人というものはわからない。わからないから、信用もできない。アクトのほうを見ることなく、ミマはその場に立ち尽くす。そうしていると、どうしてかアクトもそこから動かなかった。
「……姉ちゃん、じゃない、兄ちゃんか。仕事しないの?」
「してるよ。ミマを怖い大人から守る仕事。……おれも怖い大人かもしれないけどさ」
その通りだ、と心の中で返事をする。この人たちさえ来なければ、こんな思いをすることはなかった。そのかわり、父の死の真相を突き止めることもなかったけれど。知りたいという気持ちがいつか絆されて、体中に毒がまわっていくのを知らないまま、暮らしていたかもしれないけれど。
村長邸の脇でアクトと並んで立っていると、強面の男が戻ってきた。盗賊たちを中央軍に引き渡すため、しばらく村を離れていたのだ。
「アクト、こっちは片付いたぜ。なんだミマ、不細工な顔してんなよ」
「うるせえ。悪人面の兄ちゃんには言われたくねえや」
見た目なら十分、ディアのほうが怖い大人なのに。どうしてか、こちらにはすぐに返事ができた。中身は外見ほど悪人っぽくないからかもしれない。わからないことはわからないと正直に言い、言葉が乱暴だからこちらも遠慮しなくていい。そんなところが今ではとっつきやすそうだった。
「俺は悪人面でもいいけどよ。女は愛嬌あったほうが得だぜ」
「余計なお世話だ」
「なんだ、ディア、ミマが女の子だって気づいてたんだ。てっきり男の子だと思ってるかと」
「見りゃわかる」
口調や振る舞いのせいか、幼いミマは男の子と間違えられることが多かった。けれどもこの二人の軍人は、どうやら最初からミマを女の子として認識していたらしい。変な人たちだ。見た目と性格があべこべだし、本来の仕事よりもこんな子供に構っている。
「まあ、損得はおいといてだな。ミマ、お前はこれからどうしたい? この村でなんとかして暮らし続けるか、それとも中央に行って施設に入るか。俺らから提案できるのはこれぐらいだ」
「オレは……」
全部どうでもいい。大人が勝手に決めたら、それに従うしかないのが子供なのだ。それに、誰を信じたらいいのかわからないのに、この先を生きていくことを考えるのは苦しい。どうしても生きていかなければならないのかと、生きていても仕方ないだろうと、そんな思いが頭に居座っている。
「今は何も考えたくないかもしれないけど」
それを見透かしたように、アクトが言う。
「もしかしたらそれは、何年も続くかもしれないけど。でも、その何年か先にちょっといいことが一つくらいはあるかもしれない。たとえば家族全員を亡くした人間が良い人に出会って面倒を見てもらったり、虐待を受け続けてきた人間が十年以上経ってから引き上げられたりするみたいに」
そんな物語みたいなことが都合よく起きるわけがない。そう反論しようとして顔を上げると、アクトとディアが揃ってミマを見ていた。笑顔ではなかったけれど、その瞳は優しい。
「ミマにとっていいことがあるのはもちろんだけど、おれは成長したミマが見てみたい」
「ちんちくりんのガキがどんなふうに育つのか見ものだな」
勝手なことを言う。だけどこの人たちは、嘘を吐かない。黙っていることはあっても、偽ることはない。物語みたいな話も、本当にあったことなのかもしれない。だったら、もしかしたら、自分にも。
期待すればするほど傷つくかもしれない。池のほとりで泣くようなことが、これからもあるかもしれない。でもそんな日々を、越えてきた人がいるのなら。
ミマにも越えられる日が来ると、信じている人が少なくとも二人はいると、ずっと憶えていれば。
「オレは、これからどうしたらいいのかわかんねえ。わかんねえけど、兄ちゃんたちが何とかなるってんなら……」
考えてみてもいい。そう告げると、何年かかってもいい、と言われた。

荒野を走る車内で、はたして何度の「寒い」が出ただろうか。防寒具をほとんどだめにしてしまったアクトは、すこぶる機嫌が悪い。
「だから全部使っていいのかって確認しただろうが」
「あのときはいいと思ったんだよ、勢いで。でも大間違いだった。こんな季節に外での任務なんかするもんじゃない」
時に千里眼でも持っているのかというほど頭の切れるアクトだが、仕事が終われば文句ばかりだ。この口をふさぐ方法はあるが、ディアは運転中なので実行できない。そのためにわざわざ車を停めるより、さっさと中央に戻って温まったほうがいい。
「帰ったらベッドで温めてやるよ。汗かくくらい激しくやろうぜ」
「なんかその下品な台詞も久々に聞いた。一応お前も、子供の前ではちゃんと取り繕うんだよな」
「ガキの前で思ったことそのまま言ったら、お前が怒るだろうが」
当然だろ、と言ってから、また「寒い」の数が増える。首都まではあともう少しなのだが、そう思えば余計に遠い気がするのは何故だろう。
「ディア、一つ嘘ついただろ」
少しの間黙ったかと思えば、唐突にそんなことを言われる。
「嘘?」
「ミマが女の子だって、見りゃわかるって。見ただけじゃわかってなかったくせに」
ディアは正直に言葉に詰まった。たしかに最初、ディアはミマを男の子だと思っていた。女の子なのでは、と思ったのは、アクトの態度を思い返してからだ。子供に接するだけにしては、妙に甘かった。
「お前は最初から気づいてたのかよ」
「もちろん。自分が間違えられて面倒な分、人には気を遣うんでね」
ユリのことだって、ディアはアクトから聞くまでわかっていなかったのだ。喉仏や肩幅、胸などのわかりやすい部分は服で巧妙に隠されていたし、アクトとは違う種類の美人だった。普通はわからないだろう。
「お前が相方で助かった」
「そりゃどうも。おれもディアが相方で良かったよ、ピンチにすぐ駆けつけてくれるし」
「棒読みすんな。良かったと思うならもっと感謝してみろってんだ」
「はいはい、あとでね。いいから早く帰ろう」
うるさい二人を乗せて、軍用車は首都へ向かう。寒々しい荒野から、人里へ。
二人の運命が重なった場所を目指して。



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2017年08月20日

家族の歩み

珍しく客はいない。急ぐような用事もない。今が好機だと、今しかないと思った。呆れられるなら、それはそれで構わない。これが別れのきっかけになってしまったら、仕方がないと受け入れよう。
「ニア、話があるんだ。大事な話」
「大事な話? 仕事と私生活、どっちの?」
「両方」
大事だと言えば、ニアは何をしていても、ちゃんとこちらを向いてくれる。どうしたの、と落ち着いて尋ねてくれる。その声で、ルーファはやっと深呼吸ができるのだった。
「軍を辞めて、母さんの実家の会社で働こうと思うんだ。昔からずっと考えてて、そろそろちゃんと決めるべきだな、と」
ルーファの階級は大将。それも部下を大勢抱えて現場で指揮を執る立場だ。リーダーとしての資質を見込まれ、将官室では次席の扱いになっている。そんな自分が急に辞められるわけがないとわかっていたから、早くに道を決めておく必要があった。
「そっか、もうそういうことを考える時期なんだね。二十代も折り返しちゃったし、そろそろかもとは思ってたけど」
旧知の仲であるニアなら、それはわかってくれる。そのことには確信があった。問題はそれからだ。この提案を、可能性として少しでも考えてくれるだろうか。
「それで、軍を辞めたら当然寮も出ることになるだろ。実家には帰らないで、部屋を借りようと思ってるんだ。計算したんだけど、分譲を買うまではちょっと難しくて」
「うん、それで?」
これが前置きであることも、ニアはちゃんと理解していた。もしかしたらこちらが言う前に、言いたいことを見抜き、答えをとっくに用意しているかもしれない。
どんな答えでも、聞かなければ。そうしなければ前には進めない。もう一度深呼吸をしてから、ルーファはニアを真っ直ぐに見た。
「それでもよければ、だけど。俺と一緒に来てくれないか。一緒に暮らそう、ニア」
見開いた目に海が見えた。風が穏やかで、晴れた日の水面。きれいだ、と思った。どんな答えが返ってきても、この色はきっと忘れないだろうと。
見惚れていると、ニアが口を開いた。
「いいよ」
「そうだよな、普通悩むよな……って、え、何て」
我に返って尋ね返すと、だから、と苦笑された。
「いいよって。一緒に暮らそうって言ったんだよ。今更悩むようなことかな」
普通は悩むだろう。ニアだって大将の地位にいて、軍の中でも癖のある人間をまとめるエキスパートとしての立場を確立させている(そう仕向けたのは他でもないルーファだが)。寮を離れれば仕事がしにくくなるかもしれない。
けれども、彼は笑って続けた。
「実は僕も、辞め時を考えてたんだ。後輩たちは立派に育ったし、イリスだって尉官になった。僕の仕事は、正直ここまでだと思う。それに、絵の仕事を本格的にやりたいんだよね。軍にいるままじゃ、受けたい仕事をきちんととれないから」
二十代になってから、ニアの描く絵が少しずつ認められ始めたのは、ルーファも見てきたので知っている。軍人として働きながら、少しだけ絵の仕事をしていたことも。きっともっと大きな仕事を引き受ければ、それで食べていくことはできる。
「アトリエとか贅沢なこと言わないけど、絵を描く場所はちゃんと欲しかったし。ルーが誘ってくれるなら都合がいい」
「なんだ、そういう都合か」
はは、と渇いた笑いが漏れた。別にルーファと一緒にいたいから了承したわけではなく、ニアにもやりたいことがあったのだ。そこへ提案をしたという点では、たしかにタイミングは良かった。けれどもさすがに、真意までは汲み取ってもらえなかったか。
「なんで拗ねるの。ルーじゃなきゃ一緒に暮らそうとは思わないよ。絵は一人でも描けるんだし」
「いや、拗ねてない。拗ねてないけど、例えばレヴィとかが同じ話を持ち掛けたら」
「まずありえない話だけど、即答はしないだろうね。……ねえ、ルー。一緒に暮らそうって、つまりプロポーズでいいんだよね?」
ほんの少し照れたような笑顔。なんだ、ちゃんとわかってくれていた。顔が熱くなるのを感じながら、ルーファは頷いた。
「そのつもりだった。ちゃんと伝わってたんだな」
「何年一緒にいると思ってるの。だから僕、いいよ、って言ったじゃない」
「だって仕事の話始めるから」
「仕事の話から始めたのはルーのほうでしょう」
十歳のときから同じ部屋で暮らし、惚れ込んでしまった人は、いつのまにか口では勝てない相手になっていた。緊張がどっと解けて、大きく息を吐いたルーファに、ニアは重ねて言う。
「よろしくね、ルー」
言いながら優しく額をぶつけ、それから。


「……夢か」
ついベタな台詞が出た。しかし、懐かしい夢を見たものだ。おそるおそる隣を見て、ホッとする。夢だけど、あれは紛れもなく現実の回想だった。
ルーファのすぐ横には可愛い子供がいて、さらに隣にはニアがいる。この部屋に越してくるまでの苦労と、越してきてからの様々なことは、夢などではない。
実際、ルーファはともかく、ニアを軍籍から外すというのは酷く面倒なことだった。実家が軍家だからということではない。昔起こした事件のために、在籍というよりは軍で身柄を預かって監視しているという扱いだったせいだ。多くの人を説得して回って、やっと辞めることを認められたと思ったら、まもなくして当時の大総統が失踪した。
――気にせず辞めなよ、決めたことでしょ。あとは任せろ。
そう言ってくれた、親友でありライバルでもあったレヴィアンスは、言わずもがな現大総統だ。
あれから三年の月日が流れ、当時と状況は変わった。二人暮らしは三人暮らしになり、仕事も今のところは順調。未だに軍人時代の癖が抜けないことはあるが、ルーファたちは一般市民として幸せな生活を送っている。
これでめでたしめでたし……と終わるわけではない。生活が続いていく限り。
「んー……、ルー、起きた?」
「ニアは寝てていいぞ。どうせあんまり寝てないんだろ。俺も休みだし、ゆっくりしたら」
「そうもいかないんだよ。まだ書類片付いてないんだ。他はなんとかなっても、これは期限破れない」
ニアがベッドからおりると、同時にニールも目を覚ます。
「おはようございます。ルーファさん、もう起きます? できたら朝ごはんの支度を手伝ってほしいんですけど」
家族になって一年経ったこの子は、元々持っていたのであろうしっかり者の性格を、どんどん良い方に伸ばしている。親が育てているというよりは、自分ですくすく育っている。
「手伝うけど、休みだからそんなに急がなくても」
「だめなんです。ニアさんに先に朝ごはん食べてもらわないと」
「そうか、何も食べずに延々と仕事し出すもんな」
三人家族の一日が、今日も始まる。

大急ぎで朝食を作り、三人揃って食べた後、案の定ニアは仕事を始めた。ルーファが休みでも、自由業のニアは一緒に休むというわけにいかない。忙しいときは今日のように、ニールが朝食の支度をしているあいだにニアに身支度を整えさせる。ルーファができる朝食の手伝いといえば、ニールの指示に従ってパンをトースターに入れたり、食器を出したりすることくらいだ。
ニールが来るまでどんな生活をしていたのかは記憶がない。子供を迎えることで、あらゆる意味で生活が一変した。子供のために、と一旦は整えた生活のリズムは、次第に子供によって、よりやりやすいかたちに変えられていった。
「ずぼらな親でごめんな」
「違いますよ。僕が何かしてないと落ち着かないだけです」
その「何か」が大いに役に立っていて、生活に欠かせなくなってしまっている。子離れできるか今から不安になりながら、ルーファは食器を片付ける。その傍らで、ニールはもう昼食の準備をしていた。「すぐに食べられるもの」にしてくれるという。
「お母さんが仕事で忙しい人だったので、こういうのは慣れてるんです」
「全部自分でやってたんだもんな。また全部やらせて申し訳ない」
「半分は趣味ですから。それに、色々なことができたほうが、きっといつか誰かの助けになるんじゃないかなって。僕にはエイマルちゃんやイリスさんほどの体力も、ニアさんみたいな強さも、ルーファさんみたいな丈夫な体もないから、他のことで頑張りたいです」
例に挙げてる人がほとんど普通じゃないだけだぞ、と言うのはやめた。それより、この子を褒めるべきだ。それから。
「ニールはもう色々なことができてて偉いよ。でも、体力とか筋肉とかは鍛えればつくから、今から諦めなくたっていい」
「そうですか? じゃあ、僕も何かやってみようかな」
「やりたいことがあったら言え。できる限り協力する」
ルーファが親としてできることは、それくらいだ。父が剣技を教えてくれたように、自分も何か教えられるようなことがあればいいのだが。
あれこれ考え、そういえば、と一つ思い出した。自分では長いこと役立てていないが、知識としてはなんとか残っている。
「ニール、勉強好きだよな」
「はい。ここに来てから好きなだけできるようになったので感謝してます」
「薬学に興味ないか? 俺がわかるのは、せいぜいが薬草の種類とか効能とかくらいだけど」
これも父に教わったものだ。けれどもルーファ自身は、昔も今もあまり実践はしていない。軍人時代にはもっと詳しい先輩がいたし、今はそれよりも自分の仕事で頭がいっぱいだ。それでも、少しくらいは。
「僕もさわりだけなら、カイさんに教わりましたよ。あとエイマルちゃんが図鑑を暗記してるので、それを話してくれました」
せっかく見つけたものも、先を越されていた。別にルーファに教わらなくても、ニールの周りは博識な人が揃っている。親の出番はなかなかない。
「父さんはともかく、エイマルか。敵わないな、あの子には」
「知識欲がすごいんです。それを誰かに話したいって気持ちも。最近は近所の子に話しかける練習とか、ノーザリアの勉強とかしてるみたいです」
子供はどんどん成長する。色々なものを吸収する。そうしていつかは、親元を離れていく。エイマルは来年、今住んでいるダスクタイトの家を出て、ダイのところへ行くらしい。そういうこともあるんだな、とついこのあいだ感心したばかりだった。

正午をまわる頃にはニアの仕事は一段落していた。いろいろな具が入ったおむすびを食べながら労う。
台所での話をニアはずっと聞いていたらしく、話題はニールの興味関心についてになる。甘い炒り玉子の入ったおむすびをしげしげと見つめて言う。
「料理は好きなの? よそからも教わってくるよね」
「好きなんだと思います。同じ名前の料理でも、家庭によってちょっとずつ味が違うのが面白いです」
にこにこして答えるニールに、ニアがふむふむと頷く。
「違うのに美味しいって不思議だよね。僕が作ってもあんまり美味しくならないのに」
「いや、ニアの飯も食えるようになった」
「ルー、それ褒めてないよね」
うっかり口を滑らせた。しかし本当に、一年前に比べたら上達したのだ。ニールにきちんとしたものを食べさせなければという決意のもとで、ニアはしばらく特訓をしていた。ニールのほうが料理ができるということが判明したのは、忙しくなってきてからである。
「でも僕、ニアさんが作ってくれるごはん、好きですよ」
「ありがとう。また時間ができたら、特訓再開するから」
今年に入ってから――ニールの誕生日を過ぎてすぐの頃から、ニアは仕事の量を増やし、スケジュールをいっぱいいっぱいに詰め始めた。昨年の夏にニールを迎えて以降、しばらく家でできる仕事のみを引き受け、時間に余裕を作っていたのだが、それを辞めたのだ。
心配したルーファに、ニアは「もう大丈夫だと思ったから、元に戻すだけ」と言った。環境に慣れ、一つ歳を重ねたニールを、常に気にしていなくても良いだろう、という判断だった。
ニールは忙しくなるならと、家のことをより積極的にするようになった。負担じゃないか、とルーファが尋ねると、首を横に振った。無理をしているのではと思ったが、そうでもないらしい。家事だけでなくニアの仕事の手伝いもしていて、仕事から帰ってきたルーファに嬉しそうに報告してくれる。
「書類関係が片付いたし、しばらくはのんびりできるかも。明日は僕がご飯作ろうか」
「本当ですか。じゃあ、今のうちにメニュー考えましょう。ルーファさん、何食べたいですか?」
「俺? ……カレーかな」
「今、無難なの探したでしょう」
「そんなことない」
「僕もカレー食べたいです。唐辛子と胡椒は少なめで」
もう少し甘やかしても、とか、世話を焼いても、とか。ときどきそう思うのだが、しっかり者の我が子にはあまり必要なさそうだ。

午後、ニールが出かけていった。エイマルと遊ぶのだという。
ニアは何か描き始め、ルーファはその向かいで新聞を広げる。二人きりの時間は久しぶりだ。
「のんびりできるんじゃなかったのか」
「のんびりしてるよ。これ、急いでないもの」
何かさらさらと描いては首を捻り、また描く。しばらくそれを続けてから、「ルー」と呼ぶ。
「この中だったら、どれがいい?」
顔を上げたルーファの目に、鉛筆画が映る。描かれているのは、三種類の指輪だった。
「作るのか」
「うん、少し時間ができるから。どうかな、好きなデザインある?」
絵を描くだけがニアの仕事ではない。少数ではあるがアクセサリーなどを作ることもする。たとえば、レヴィアンスはニアに結婚指輪を依頼した。何も装飾のついていないシンプルなもののように見えるが、裏に細かい彫りものをしてある、実はかなり凝ったものだ。
アクセサリーは自分で好きなように作る場合と、依頼主とじっくり相談をして作る場合とがある。今回のは、急がないということだし、前者だろうか。
「ニアが好きなの作ったら?」
「僕だけじゃだめなんだよ。ルーとニールと相談しなきゃ」
「ニールも?」
驚いて見た表情は、いつかのような照れた笑み。
「この一年、ニールのために何かしら作ったりしてきたけれど。ルーにはあんまりできなかったから。それと、レヴィの作ってるとき、ちょっといいなって思ったんだよね」
一緒に暮らそうと言って、それが実現してからも、「形」として残るものは持ってこなかった。ルーファは何度か贈ることを考えたのだけれど、ニアが左耳のカフス以外のアクセサリーをつけないのを知っていたから、そのたびに足踏みをしていた。
ニアから持ち掛けて来るなんて、考えもしなかった。
「普段はつけなくてもいいんだ。でも、ルーは会社での付き合いとかあるでしょう。そういうときに、なんというか、役に立つかなって」
ああ、そういうことか。つまりはレヴィアンスが結婚に踏み切った理由と同じようなものだ。周囲に「相手がいる」ということをわかってもらうため。ルーファもときどき困ったことがあって、そのたびに家族がいるのだということを説明しなければならなかったので、少々面倒だった。
一目でわかるものがあれば、気を持たせずに済む。たしかに指輪は便利なアイテムになるだろう。
「……なんてね。本当は、僕が証明がほしいだけなんだ」
「証明?」
そう、とニアが頷く。苦笑しながら、ごめん、と言う。
「そんなものなくても、ルーとニールと僕で家族なんだって、一年で感じてきたんだけど。でも、目に見えるものが欲しいなって思うようになったんだ。僕ら三人、傍目には家族だってなかなかわからない。名前だってみんな違う。だから、お揃いの何かが欲しかったんだ。僕がそういう環境で育ってきたから、そう思うだけかも」
ニアの家はわかりやすい。親子に血のつながりがあるし、容姿は遺伝している。誰が見ても家族だとわかる。でも、この家はそうではない。誰一人として似てはいないし、戸籍もばらばらだ。最初はそれでもかまわないと、ニールは自分の家の名前を持っているべきだと言ってきたニアは、今になって不安になってきたのだった。
見た目だけでも、誰にでもわかるように。「証明」はそのためのものだ。
「三人で同じものを持っていたいなって、そう思ったきっかけはレヴィだよ。羨ましかったんだよね。ほら、あれでいて、レヴィってちゃんとエトナちゃんのこと好きだから。指輪の注文してくるとき、結構楽しそうだったんだ」
「指輪なら、俺に贈らせてくれればいいのに」
ルーファだって思わなかったわけではない。一緒に暮らし始めたときから、そういうことができないかどうか考えていた。けれどもどんな指輪を見てもしっくりこなくて、おまけにニアは物作りをする仕事だから指輪なんて邪魔になるだろうと思い至ってしまって、踏み切れなかった。
しかしニアの描いたデザインは、これ以上ぴったりなものはないと感じた。求めていたものはこれなのだと。そしてこれを作れるのは、ニア本人だけ。結局は、ルーファが贈るということはできなかったのだ。
「……いや、ニアのじゃなきゃだめだな。それじゃ、俺がニアに注文するようにすればいいのか。指輪を三つ」
デザインは迷うな、と言ったルーファに、ニアはにっこりした。嬉しそうで、幸せそうな顔。この顔をずっと見ていたくて、一緒に生きたいと思った。この笑顔を守り続けたいと思った。
「では、承ります」
この笑顔を見て、いつか好きだと思ったんだ。

お土産をたくさん抱えて、ニールは家に帰ってきた。エイマルの家、ダスクタイト家からのお裾分けだ。今日の夕飯はこれで足りてしまうだろう。
「また新しい料理を教わってきたので、明後日作らせてください」
「明後日? 明日でもいいんだよ」
「明日はニアさんがカレーを作ってくれるんでしょう。僕、楽しみにしてるので」
貰って来たおかずを温めながら、ニールは歌うように言う。こんなにニアの作る料理を楽しみにしてくれた人がいただろうか。感激のあまり言葉が出なくなったニアの背中を、ルーファが軽く叩いた。
和やかな夕食の時間、ニアはニールに指輪を作ろうと考えていることを話した。家族三人、お揃いの物を持とうと。するとニールは、喜んで頷いてから、提案した。
「僕のは、大きめに作ってほしいです。将来もずっとつけられるように」
「じゃあ、今はどうするの」
「ブレスレットとか、そういうのにできますか? 本当はネックレスとかが見栄えがいいのかもしれませんけど、僕は首がだめなので……」
「できるよ。そうだね、それならニールのも大人のサイズで作ろうか。大きくなるのが楽しみだ」
それまで、ずっと見守っている。たとえ離れたとしても、家族として想っている。ニアのそんな気持ちがニールにも伝わったようで、二人は笑いあっている。
こんな幸福があるなんて、この生活が始まる前は想像できただろうか。現実は簡単に想像を超えてくる。昨夜の夢が現実だった頃の自分に教えたら、信じるだろうか。ルーファは心の中で独り言ち、笑みを浮かべた。
いつか思った以上の幸せを、明日からも続けていく。
「一緒に暮らして、良かったな」
零れた言葉を、大切な人たちは優しく掬いあげて。
「ね、だから僕、即答したでしょう」
「僕もここに来ることを決めて良かったです。お二人とも、大好きです」
両方の手を優しくとってくれるのだ。
これからも、よろしく。



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2017年08月01日

少女の力は未来を拓く

エルニーニャ王国軍に所属する軍人の多くは若者だ。大総統にでもならない限り、遅くとも三十代の半ばには身体の衰えを察して引退するのが、暗黙の了解となっている。入隊は十歳から可能。まだ子供の時分から、軍という組織で、自らを鍛えつつ仕事をする。入隊前に養成学校に通う者もあれば、諸事情でほとんど何の教育も受けずに軍人となる者も少なくない。
入隊の際には試験が行われる。いかなるいきさつがあろうと、この試験では入隊希望者たちは平等に審査される。筆記試験と実技試験からなり、筆記では事務処理能力を、実技では体力と運動能力を試される。毎月多くの人々が試験を受けるために最寄りの司令部へ赴く。その多くは十歳になったばかりの子供たちだ。基本的には誕生日がくると試験が受けられることになっている。
「あたし、軍の入隊試験を受けたい」
十歳の誕生日をひと月後に控えた少女の発言に、家族は動きを止めた。軍に入りたいという子供に対する家族の反応は様々だが、このダスクタイト家では「いよいよ来たか」といったところだ。むしろ言うのが遅すぎるくらいだ。
「アンタ、一か月でどうにかできると思ってるの?」
母、グレイヴが尋ねると、娘――試験を受けたいと言った張本人であるエイマルは、即座に首肯した。
「だって、お母さんは一か月の訓練で軍に入れたんでしょう」
「それはそうだけど……」
元軍人であるグレイヴは、かつてたった一か月の剣技の訓練と筆記の勉強で、軍に入隊した。しかしそれは父、エイマルにとっては祖父にあたるブラックに、休む暇もなく叩き込まれた結果だった。また同じことができるかと問われれば、年齢を重ねたブラックには難しく、今は軍人養成学校で技能講師を務めているグレイヴでも可能だと断言できない。
けれどもエイマルはしっかりとした目をして言う。
「あたし、真剣だよ。入隊試験に一発で合格するつもりでいる。勉強なら、今までちゃんとしてきたから大丈夫。体力も自信あるよ。あとは技術だけなの」
たしかにエイマルは、同年代の子供たちと比べると、持っている知識量は抜きんでている。応用力もある。体を動かすのも好きだし、得意だ。それに周りは軍人ばかり。両親、祖父、親戚、姉のように慕う人など誰もが軍の関係者だ。憧れ、同じ場所に立ちたいと思うのも当然といえば当然だった。
「お母さん、あたしに稽古をつけて」
「……そりゃあ、アタシができることならそうしたいけど」
しかしグレイヴはすぐに返事ができない。稽古の時間はどうやって作るか、この子には何が適しているのか、そもそもこの子の父親はどう思うか……など、懸念事項がたくさんある。お母さん、と急かすエイマルを止めたのは、祖父、ブラックだった。
「そういうことを急に言われても、母さんだって困るんだ。オレも困ってる。エイマルは一か月で入隊試験に合格できるレベルに達したいんだな?」
「ちょっと違うかな。一か月で技術を磨いて、合格を確実にするの。あたし、今のままでもきっと入隊試験はパスできると思うんだ」
さらりと言い放つ孫に、ブラックは一瞬だけ怯む。その自信の源が何なのか、予想ができないわけではないけれど、本当に言葉にするとは。
「あたしの目的は入隊試験の合格なの。きちんと合格したいの。どんな厳しい訓練でも、しっかりやるよ。絶対に諦めないし、泣き言も言わない。だから一か月、あたしに協力してください」
深く頭を下げるエイマルを見て、ブラックとグレイヴは小さく溜息を吐く。ここまで言われて、協力しないなんて言えるわけがない。この家はそういう家庭だった。
「真面目に訓練するのね?」
「真面目にやるよ」
「一発合格するんだな?」
「するよ。そう決めたんだもの」
だったら急いで計画を立て、速やかに実行に移そう。三世代は頷き合い、まずはテーブルの上に紙を広げた。


「イリス、これに番号を順に振って紐で綴じて。542080001から」
レヴィアンスから九桁の数字とともに渡されたのは、顔写真付きの書類。あどけない子供が真面目な顔をしているのが、何枚も続いている。
「あ、生年月日よく見ておいてね。ちゃんと八月の試験までに十歳になってるかどうか」
「はーい。もうこんなに来てるんだね、来月の試験の申込み」
イリスには一目でわかった。同じものを、自分も昔用意した。これは毎月行われる、入隊試験の申込書。一般受験者は満十歳以上が対象となるこの試験は、毎月一回行われている。申し込みの締め切りは試験前日で、それまで書類整理はずっと続く。実はイリスが大総統補佐として任されている書類整理の多くが、この申込書の整理だった。ナンバリングの意味ももちろん知っている。前半五桁が年と月を表し、後半は受理順だ。
この時期はまだ少ないのでいい。受験者のピークは、軍人養成学校の卒業試験を兼ねる三月だ。したがって前の月である二月は、この作業だけで一日が終わってしまうこともある。処理するほうも大変だが、受験者はもっと大変だ。三月試験は激戦区。養成学校卒業がかかっている者たちと一般の受験者たちがぶつかり合う。人数が多い分、技術や頭脳はより高いレベルを求められる。続く四月、五月くらいまでは、養成学校の浪人生たちが試験に参加するので、一般受験者は気が抜けない。
それに比べたら、八月試験はまだ易しい。この時期に誕生日を迎える一般の子供の受験者と、ときどきわずかに残った養成学校浪人生、とうに十歳は過ぎた少年少女や、ごく稀に大人。求められるレベルは相対的に、春期の試験ほど高いものではなくなる――というのが傾向だ。
もちろん軍人になるための最低限のレベルは必要なので、全員が合格するわけではないのだが。
イリスが書類整理を始めると、ガードナーが思い出したように言った。
「イリスさんは、三月試験の実技トップでしたね」
「ああ、そうですよ。実家に行けば成績と合格証が残ってるはず」
「ぶっちぎりだったもんな。筆記はまあ……ごく平凡だったけど、一応伍長入隊できてるしいいか」
それはイリスの人生における自慢の一つ。入隊試験の実技の成績が群を抜いて良かったので、成績上位者と養成学校卒業者に許される伍長入隊ができたのだ。エルニーニャ軍は三等兵からのスタートが基本だが、伍長入隊は実力や経験を評価してそれを跳び越すことができる制度だ。イリスの兄、ニアも伍長入隊を果たしているが、こちらは実技も上位だったが筆記が誰よりも良かった。
「筆記試験は本当にお兄ちゃんのおかげとしか言いようがないね。お父さんもお母さんも勉強はちょっと苦手だったし」
「ニアは叔母さんに似たんじゃないの。それはそうと、喋りながらやってナンバリング間違えるなよ」
慣れた仕事で、喋りながらでもできるが、気をつけてはいる。生年月日を確認して番号を振る、の繰り返し。生年を偽っている大総統の前での確認作業は、いつもながら妙な感じがする。
ふと、見たことのある数字に目と手が止まった。あまり受験者の名前や顔写真は見ないのだが、それだけはやけに気になって、視線をずらす。そしてそのまま、目を見開いた。ついでに口も大きく開く。
「え、あ、はああ?! 聞いてないよ、こんなの!」
「イリス、うるさい。オレも仕事してんだから静かにやって」
「だってだって、知らなかったんだもん! もしかしてガードナーさん、知ってて急にわたしの入隊試験の成績のことなんかふったんですか?」
ガードナーはにこりと笑う。有能な補佐大将である彼ならば、とっくに申込書には目を通していただろう。そして、先にこのことを把握していた。
真剣な顔の美少女が、こちらをしっかりと見ている。世界暦532年8月1日生まれ。八月の試験を受ける少女の名前は、エイマル・ダスクタイト。
イリスが可愛がっている、大事な大事な妹分だ。

大総統執務室での仕事が終わると、ちょうど終業時間を迎えた。早く寮に戻って、エイマルの受験のことを確かめなければと、イリスは急ぐ。そこへ、事務室での仕事を終えたルイゼンとブロッケン姉妹、情報処理室にいたフィネーロがちょうど出くわした。
「イリス、お疲れ」
「お疲れさまです、イリスさん! 今日はあんまり会えなくて寂しかったです」
「そんなそぶり、今までなかっただろう。調子のいい奴め。で、今日は閣下からどんな面倒を押し付けられていたんだ」
「今の時期なら、そろそろ来月の受験者を確認する頃だな」
仲間たちは賑やかだ。一時期はみんなで集まれないこともあったので、こうして揃うのはいつだって嬉しい。イリスは表情を緩め、頷いた。
「毎月やってるから、フィンはわかるよね。そうだよ、受験申込書のナンバリングやってた。それで、すっごくびっくりしたことがあってね……」
ここには周りに人が多い。誰が受験するかは本来秘密にしておかなければならないので、ここでのネタばらしはまずい。とりあえずは全員部屋での夕食に誘うことにした。もともと今日は、手に入ったばかりの夏野菜でイリス得意のトマトカレーを作るつもりだったので、ちょうどいい。特に初めてイリスの手料理を食べられるカリンが大喜びだった。
全員が私服に着替えてイリスとメイベルの部屋に集合し、夕食の準備をしながら本日の大ニュースを話す。思ったより驚かれなかった。
「エイマルちゃんが軍に入ってくれるなら心強いな。頭良いし、動けるし。ていうかあの子、サラブレッドだろ」
ルイゼンが野菜を切りながら言う。首を傾げるカリンに、メイベルが食器を出しながら説明した。
「エイマル・ダスクタイトは、軍人学校のダスクタイト先生の孫でな。……ああ、グレイヴさんも教えてるから、娘でもあるのか。十歳にしては博識だし、運動能力も軍の伍長入隊組並にはあるんだ」
「軍人学校の先生のお子さんなんだね。できる子なんだ」
「おまけに父親はノーザリア軍大将だ」
「え? ノーザリア軍……てことは、ダイ・ヴィオラセント大将だよね。あれ、なんだかこんがらがってきた」
エイマルの家の事情は、少々複雑だ。イリスもうまく説明しきれない。だが、エイマルがダイとグレイヴの血を引く娘だというのは確固たる事実である。
「とにかく、エイマルちゃんはすごいよ。軍に入れば大活躍できると思う。……でも、本当に大丈夫かな。ただでさえ、今の軍の状況って良くないのに。主にわたしのせいだけど」
季節は夏に入ったが、今年初め以降の事件がまだ尾を引いていた。イリスの持つ異能の眼を狙い、裏組織が暗躍している。軍としては、何があっても適切に、冷静に対処できる人材を育てたい。初めから高い能力を持っていればもっと良い。
それを思うと、たしかにエイマルは期待の大きな軍人になるだろう。その分、負担も大きくなる。まして祖父と母が軍人学校の教師で、さらにあの北の狂犬ダイ・ヴィオラセント大将が父親だとわかったら、軍内だけでなく裏からも注目を集めるのは必至だ。
トマトを煮込む鍋をかき混ぜながら、イリスは複雑な思いだった。嬉しくて心配で、応援したいけれど本当にそれでいいのか疑問で。それはそのまま表情に出る。
「変な顔になってるぞ。野菜、先に炒めたほうが良いのか」
「あ、ううん、それ素揚げにする。ていうか変な顔って何よ、失礼だな」
「だって変な顔だったし。お前のことだから、エイマルちゃんを危険な目に遭わせたくないなんて思ってるのかもしれないけど」
図星を突いてくるルイゼンに、イリスは彼曰く「変な顔」を継続して向ける。切った野菜を受け取りながら、だってさ、と口をとがらせた。
「わたし、エイマルちゃんが生まれたときから、あの子のこと知ってるんだよ。元気で明るくて、でも本当は寂しがり屋で。だからわたしが守るんだって、思ってたんだけど……」
「やりたいことが見つかって、そのために強くなるのはいいことだろ。軍だって危険ばっかりじゃないし、そもそも危険の回避、対応を学ぶための教育機関でもある。そんなに心配することないと思うぞ」
「じゃあゼンは、もしリチェが軍人になるって言ったら、即応援できる? わたしはできない」
「リチェは別だな。あいつ体力ないし。エイマルちゃんとは違う」
そうだ、こんなたとえ話なんか、何の意味もなかった。エイマルは、きっと自分で試験を受けたいと言って申込書を出したのだ。少なくとも親や祖父から勧められることはないだろう。彼らはエイマルを、彼女の思うように生きられるよう育てている。逆に言えば、だからこそ試験を受けることに反対もしなかったのだろうけれど。
わざわざ本人に確認するまでもない。エイマルは八月の試験を受ける。それは確かなことなのだから。やりたいことの邪魔をしようとは、イリスだって思わない。
「……一つ疑問なんだが、エイマルの受験のこと、大将は知ってるんだろうか」
飲み物を冷蔵庫から出しながら、フィネーロが言う。イリスはハッとして手を止めた。
ダスクタイト家はエイマルの自由を尊重している。悪いことは悪いと叱るが、大抵のことは自分で判断してできるようにと、子供の行動に口を出すことはさほどしない。
だが普段家にいない、子供の父親――ダイは少し違う。家にいられないから子供のことにも口を挟めないだけで、実は一番の心配性だ。度が過ぎて離婚し、なかなか元鞘に戻れないくらいの。それ以外にも要因はあるのだが、この認識で間違ってはいない。
「ダイさん、知らないかも。知ってたら反対しそう」
「軍の厳しさを一番知っているだろうしな」
メイベルも頷く。まさか本当に、エイマルの受験はダスクタイト家の人々のみが了承していることなのか。ダイに何も相談していない可能性は十分にある。
「イリス、トマトの鍋焦げるぞ。あと野菜の素揚げって、普通に鍋に油入れていいのか」
「わたしがやるからいいよ。ゼンは座ってて」
だって全然進まないじゃん、と文句を言うルイゼンを台所から追い出して、イリスは再び唸る。
果たして今度の入隊試験、本当に波乱なく終えることができるのだろうか。
不安なまま作ったカレーは、やはり少し焦げていた。


刀、サバイバルナイフ、棍、弓、拳銃、ライフル。ずらりと並んだ道具は、どれも練習用のものだ。刃物は切れないようになっており、銃はエアガンでプラスチック製の弾を撃ち出せる。弓と対になっている矢も先が丸い。だが、いずれも人に向けるのは危険だ。
一つ一つの基本的な使い方を、エイマルは完全に覚えてしまっていた。その講釈を、ニールは先ほどからずっと聞いている。正直なところ、武器として使われるものをあまり長く見ていたくはないのだが。
「やっぱりニール君に聞いてもらうと、ちゃんと覚えてるって実感できる。あとは扱いを完璧にするだけだね」
「うん、僕が役に立てたならいいけど。……ねえ、エイマルちゃん、本当に試験受けるの?」
意気込むエイマルに、ニールは不安を感じていた。エイマルの能力は確かに高いが、それは軍で使うものなのだろうか。確かに軍人は人を救うことができる立派な職業だ。ニールもイリスたち軍人に命を救われ、現在は幸せな日々を送ることができている。けれどもその仕事には大きな危険が伴うというのもよくわかっているつもりだ。春にイリスが大怪我をしたときには、泣くのを我慢するのでせいいっぱいだった。
エイマルまで血を流すようなことになったら。もしかして命にかかわるようなことになったら。それを考えると、胸がしめつけられたようになる。
ところがそんなニールの気持ちをよそに、エイマルは輝かんばかりの笑顔で頷くのだった。
「十歳になったら試験を受けようって、実はずっと前から考えてたことなの。それこそ、ニール君に会う前からね。あたし、このときをずっと待ってたんだよ」
「待ってたんだ……」
無理もない、とは思う。ニールが周りを見ても、軍人や元軍人で溢れかえっている状況だ。生まれたときからこの環境にいたエイマルが、軍を意識しないはずはない。ニールよりも、かっこいい軍人たちの姿をたくさん見てきているだろう。
エイマルとニールにとってはお姉さんのような存在であるイリスなど、その最もたる例だ。身体能力と剣技、おまけに特殊能力まで備わって、エルニーニャ軍の大きな戦力として活躍している。蹴りを繰り出せば華麗、剣を振るえば激烈。情熱をもって任務に向かい、人には優しく手を差し伸べる。子供が憧れる軍人像そのものだ。――イリスが一番力を出し惜しみしないというだけで、インフェリア家の人が大体そうなのも、ニールは知っている。
「エイマルちゃんは、イリスさんみたいになりたいの?」
「そうだね、イリスちゃんはすごいと思う。あんなふうになれたらいいなとは、昔から思ってた。強くてかっこいい女の人に、あたしもなるんだって」
「エイマルちゃんならもうなってるよ。初めて会ったときがそうだったもの」
「そうだっけ? あ、でも、今のあたしが目指してるのは、イリスちゃんじゃないよ。姿勢は見習いたいけど、進路は違う」
「え、そうなの?」
しかし軍の入隊試験を受け、合格するのではないのか。何が違うというのだろう、と首を傾げたニールに、エイマルの顔がずいっと近付く。
「わ、何?!」
「ニール君には教えてあげる。あたしが入隊試験を受ける本当の目的」
「ほ、本当の……?」
ごくり、と息を呑む。そこへエイマルが囁いたのは、まるで呪文のように流れる言葉。ニールの頭の中に沁み込んで、それまでの不安をあっというまに吹き飛ばしてしまう魔法だった。
言い終えてにっこりしたエイマルに、ニールは呆けたまま言った。
「……なんか、すごいね。そんなことまで考えてたんだ」
「結構あたしって計画的でしょう? これはきっとダスクタイトの血ね」
「それはどうかな。エイマルちゃんのお母さんやおじいちゃんは、もっと地道なタイプだと思うよ……」
むしろやっぱりお父さんに似たんじゃ、と言うと、それでもエイマルは喜んだ。誰に似ていようが、そんなのは彼女にとって些細なことなのだ。
入隊試験すらも、彼女の進む道に至るための一歩でしかないように。
「一応訂正するけど、おじいちゃんもお母さんもそんなに地道じゃないよ」
「ええ……その訂正はあんまり聞きたくなかった……」
いずれにしても、ニールにできることといえば、彼女の前途を祈るばかりだ。親友として。

試験日の前に、エイマルの誕生日がくる。八月一日。夏真っ盛りの暑い日に生まれてきたのがエイマルだ。あの日の暑さは一生忘れない、とグレイヴは毎年語ってくれる。
「病院に行く前に死んでたまるかって、根性でおじいちゃんに連絡したんだから」
「うんうん、それでおじいちゃんと一緒に病院に行って、あたしを産んだんだよね。でも、タクシー使って先に病院行ったほうが良かったんじゃないの」
「そういうアンタのコメントが年々大人になっていくのが面白くて話してるのよ」
今日は刀を使った訓練をした後、いつもより豪華な夕食の準備をすることになっている。エイマルが持つ模造刀は、昔グレイヴが入隊試験対策に使っていたものだ。修復が必要な部分をブラックが直してきてくれたので、受け取ったときは新品かと思った。けれどもそれも、試験当月ともなればところどころに綻びが出てきていた。それを自分でメンテナンスするのも含めて、エイマルの訓練である。
「イリスちゃんが言ってた。お母さんの技は、ミナト流を取り入れてるんだって。それって東方の刀術一門だよね」
「取り入れてるなんて大袈裟ね。ちゃんとした技は一つしか使えないわよ。あとはおじいちゃんから習ったのと、自分の経験。おじいちゃんは軍に入ったばっかりの頃、ミナト流を教わってたらしいんだけど、あんまり経たないうちに破門されたし。以来、技は使わないようにしてきたみたい」
刀の点検をしながら、エイマルの頭には自分で調べた一文が浮かぶ。「邪心を持って刀を振るい、人の命を奪った者は、ミナト流の人間とは認められない」――軍人時代の、若かった祖父には、そういうこともあったのかもしれない。性格が随分丸くなったのだと、昔のブラックを知る人はよく言う。
それでも今、エイマルにとって優しい祖父であるならば、過去のことは関係ない。わざわざブラックにその話をさせようとも思わない。ダスクタイトの名は、遠い昔には悪名だったとしても、今は軍人学校の生徒たちに慕われる先生の代表だ。それでいい。
「お母さん、点検終わったよ」
「見せて。……うん、大丈夫ね。これなら本物も扱える」
「やった!」
一か月。その短い期間で、エイマルは順調に力を伸ばしていた。ブラックやグレイヴとの手合わせも、日に日にレベルが上がっている。成長ぶりにはブラックも驚いていて、「うちの生徒だって、こんな急に伸びるヤツはめったにいねーよ」と汗を拭いていた。教え方がいいのは間違いないが、エイマルの吸収率も半端なものではないということだ。
今日は誕生日。実力はお墨付き。頼みごとをするなら、今日しかないだろう。相手は祖父でも母でもない――これまで訓練していることも隠してきた、父だ。
「父さんから電話が来る前に、夕飯の支度をしようか。コロッケ、たくさん揚げようね」
「うん!」
今年も父、ダイはノーザリアから帰ってこられない。向こうは今、短い夏だ。気温は平年通りならエルニーニャほど高くはならないというが、それでも涼しさに慣れているノーザリアの人々には暑いと感じるそうだ。ダイは涼しい顔をしているが暑がりだから、苛立ちながら仕事をしているかもしれない。
「怒られちゃうかな……」
グレイヴに聞こえないように呟く。両親が離婚するに至った理由は、最近になってようやく知った。亡くなった父方の祖父の、その死に不審な点があり、調べが進むとダイの家族を狙った犯行であったことが判明した。再び悲劇が起きることを避けるために、ダイはグレイヴとエイマルの「家族」をやめたのだ。独断だったその行動を、けれどもグレイヴはすんなり受け入れた。引き留めても無駄だと、そういう人と一緒になったのだと、諦めた。エイマルもその日から、ダイは「お父さん」ではなく、たまに家に来てくれる「おじさん」なのだと教えられるようになった。まだ一歳になるかならないかの頃だ。
ろくに結婚生活など送っていない両親の距離が再び近づき、エイマルがダイを「お父さん」と呼べるようになったのが、八歳の誕生日。それからは、いやそれまでも、随分甘やかしてもらった。最近では離婚しているなんて信じられないくらい、この家に帰ってきては「家族」として振る舞うようになっていた。
大切にされればされるほど、ダイのことを知れば知るほど、エイマルは抱いている夢を口にすることができなくなっていった。きっと反対されるだろうと、常に思ってきた。あの人は父親であると同時に、一国の軍の長なのだ。この世界がどんなに過酷なものか、よく知っている。エイマルが本で読んだよりも生々しく「体験」をしている。
けれども、その「体験」を自分もしてみたいと強く願ってしまったら、それ以外の自分をごまかすような夢なんか見られなくなった。反対されたら、押し切るまでだ。
夕飯の支度が終わる頃を狙ったように、電話が鳴った。エイマルが走っていって受話器を取ると、優しいけれど疲れているような声がする。
「エイマルか? 暑いだろうに、元気だな」
「お父さんは夏バテ? それとも忙しかった?」
「どっちも。でも夏は嫌いじゃない」
知ってるよ。それはあたしが生まれたからでしょう。
「十歳の誕生日おめでとう、エイマル」
「ありがとう、お父さん」
毎年電話をくれ、プレゼントを送ってくれた。今年も少し遅れて、荷物が着くはずだ。その優しさを、エイマルはこれから裏切ってしまうかもしれない。父の期待に応えられない、酷い娘になってしまうかもしれない。
「あのね、お父さん。ちょっと大事な話があるの。聞いてくれる?」
「どうした。言ってごらん」
「あたしね、今月のエルニーニャ軍の入隊試験、受けるの」
電話の向こうには、どんな顔があるだろう。こんなとき、離れているのは不便だ。


練兵場に人が集まり始める。少年や少女ばかりで、今回の最年長は十四歳。年齢も体格もそう変わらないおかげで、実技に含まれる対人格闘の組み合わせが楽に決まった。
エルニーニャ軍入隊試験当日。まずは全員が練兵場に集まり、大総統の言葉を聞く。隣に控える補佐は毎月交代しているが、今回はちょうどイリスの番だった。
「わあ、緊張するー……」
「いつも平気な顔してるくせに。ていうか、なんでイリスが緊張するのさ」
「だって、エイマルちゃんがいるんだよ。ほら、あそこで一際輝いてる!」
イリスの表現は多少過剰だが、レヴィアンスから見てもたしかにエイマルは目立っていた。少年の比率が多く、少女は全体の二割程度。中でもエイマルは、特に少年たちの視線を集めているようだった。これから人生が決まるかもしれない試験を受けるのに、突然美少女が現れたら動揺するのかもしれない。でもそれじゃ勝ち抜けないぞ、とレヴィアンスは内心苦笑した。油断をしたら痛い目に遭う。レヴィアンスの代のアーシェが男子どもを実力で黙らせたように。入隊試験時のイリスが圧倒的な強さを見せつけたように。女子を舐めると怖いのだ。
集合時間になるとともに、練兵場は閉められる。事前に申し込みがあった者全員が揃っていた。遅刻をすれば失格になるので、ここまでは上々。
「ただいまより、入隊試験を行います」
気を取り直したイリスがいつもの口上を述べると、ざわついていた場が静まる。先ほどまでのイリス以上に緊張した顔が並ぶのを見渡し、レヴィアンスは口を開いた。
「暑い中、よく来てくれた。これから今月の入隊試験を始めるけど、具合が悪くなったら無理をせずに係の者に申し出ること。体調管理も仕事のうちだからね。それから承知しておいてほしいのは、毎月合格者が必ず出るってわけじゃないこと。今回がうまくいかなくても、そんなに落ち込まないで帰ってね。次があるから」
必ず合格者を出さなければならないのは、三月試験だけだ。毎月新人を採っていたら、軍の人員は膨れ上がってパンクしてしまう。だからこそ超えなければならない最低ラインが設けられ、さらに超えなければならないランクがある。
軽い口調で言うが、レヴィアンスの言葉は「お前ら全員落とすこともあるから覚悟しろ」ということだ。そして実際次があるかというと、よほどの者でない限りは次に受かる可能性は低くなる。こちらでデータが取れてしまっているからだ。自分を超えなければ、未来はない。
――見る側になって改めて思うけど、甘く見せかけた厳しい仕組みなんだよね。
果たして今回は何人が合格できるだろう。エイマルの実力はどうなのか。気になることは多々あれど、イリスが見られるのはここまでだ。筆記試験の監督は大尉以上の階級の者から選ばれるし、実技試験は将官が監督する。大総統と補佐は実技試験を見に来ることができるが、今回イリスは来られない。レヴィアンスからストップがかかったのだ。
「だってイリス、エイマルに声援送りそうだし。それはまずいじゃんか」
そんなことしないと何度も言ったのに、とうとう許可は下りなかった。今日は試験を気にしながら、通常業務に就かなければならない。
筆記試験を受けるために移動する受験者たちを見送りながら、イリスは溜息を吐いた。

筆記試験の内容は一般常識だ。難易度は三月試験、つまり軍人養成学校で学んできた者に合わせてある。しかし一般受験者が解きにくいということもない。出題のバランスは担当将官たちのさじ加減と、大総統の最終決定次第だ。
普通に市井をよく見て生活していれば、特に難しい勉強をしなくても、考え方次第でクリアできる。しかし軍に入隊しようとする者は、実は市井を見るだけの余裕がない者や、市井のことなど高みの見物をしながら育ってきた者がほとんどだ。ようするに、筆記試験でまともに点数をとれる人間は割合少ない。学校でわざわざ常識を学ばなければならないのは危うい。
その点、エイマルは有利だった。普通の子供として育ってきたうえに、日ごろから祖父に勉強を教わっている。おまけにあまりある知識欲で、様々な事柄を頭に詰め込んでいた。たとえば大総統史などは、何代目が誰だったか、どんな政策が有名かなどということは基礎の基礎で、伝記などからその人がどんな人生を送ったのかまで知っているので、要求されればいくらでも語れる。難しいのは情報の取捨選択だ。
――こんな問題じゃ足りない。解答欄がもっと大きければいいのに。
余裕で全問を解き終わってしまい、暇になる。一応見直しもしたけれど、名前と受験番号もきちんと書いているし、解答には間違いがあると思えない。何もすることがなくなってしまうと、電話で聞いたダイの声が頭の中によみがえる。
「もっとよく考えてみろ。そうする必要があるのか。他に方法はないかどうか。じゃないと俺は、賛成できないな」
予想の範囲内だ。いや、随分優しいほうだった。けれども父を納得させるのは難しいと思い知らされた。入隊試験にただ合格するだけでは、やはり足りない。
エイマルは自分に自信がある。それゆえに見えていないものもある。もっと自分の世界を広げたい。これはそのための試験だ。他人と優劣を競うものではなく、自分の進みたい道へ行くためのもの。だから周囲など気にしてはいなかったのだが。
――たぶん、それだけじゃだめなんだ。周りも気にしないと。じゃなきゃ、また見えなくなる。
実技はその意識を確認する機会になるかもしれない。

「聞いた? 入隊試験の話。ダスクタイトって子がいるんだって」
仕事中に聞こえてきた話題に、イリスはどきりとした。話しているのは軍人学校卒の者だ。
「大総統史の先生と関係あるの?」
「女子実技の先生は?」
「それ親子でしょ。だから、大総統史のブラック先生の孫で、女子実技のグレイヴ先生の娘」
「女の子なんだ」
「めっちゃ可愛いって噂だったよな。実際どうなの」
エイマルちゃんは噂通りの美少女だよ! とは言えず、イリスは頬の内側を噛みながら黙々と事務作業を進める。お喋りはまだ続いた。
「学校に通ってたっけ?」
「そんな話は聞かないから、先生から教わってたんじゃないの。筆記の対策とか、実技の指導とか」
「うわー、お得。金払わなくてもプロの指導受けられるんだ」
言い草にイラッとしても、ここは我慢だ。そこまでエイマルの素性が知れているのなら、イリスとも知り合いだとばれればさらに不味いことになる。口の中に血の味が広がるほど耐えていると、ルイゼンが席を立った。
「お前ら、新人候補が気になるのはわかるけど、仕事しないと終わらないぞ」
「リーゼッタ中佐、すみません!」
「でも、あの、ずるくないですか。学校に通ってないのに、学校でやるような対策ができるなんて」
叱られてもなお話を続けようとした一人を、ルイゼンはほんの一瞬だけ睨み付けた。それだけでも十分な威圧感があったようで、相手は竦みあがる。それを確認したうえで、彼は軽い口調で返した。
「あのな、それを俺に言うか。俺は軍人学校には通ってないけど、若かりし頃の閣下に稽古つけてもらってたんだぞ。お前の考えの通りなら超ずるい!」
若かりしって。超ずるいって。今度は笑いを堪えなくてはならなくなったイリスの向かいで、メイベルは盛大にふきだしていた。さすがに噂話をしていた彼らも、こちらの様子に気づく。
「いや、中佐をずるいと言ったわけでは……。そうだ、ブロッケン大尉はどう思いますか?!」
なんとか同意してもらおうと必死なようだが、彼は尋ねる相手を間違えた。メイベルは鼻で笑い、「馬鹿か」とストレートに言った。
「お前たちは親の金で軍人学校に入ってのんびりお勉強をしていた分際で、よくもまあ人をずるいだとかぬかせたものだ。素直に失言を認めていれば、こんな恥をかかずに済んだものを、本当に馬鹿だ。学校に通ってないのに学校でやるような対策? そんなものは学校に行かなくたってできる。学卒のほうが入隊時にちょっと階級を上げられるだけのことだ。たとえお前みたいな馬鹿でも伍長入隊ができるんだから、学卒は楽でいいな。私も楽をさせてもらった一人だが、けれども金は国と学校に出してもらって、ただいま返済真っ最中だ。それすらもしなくていいんだから羨ましいよ」
ずらずらと並べられる言葉に、反論の隙は無かった。ルイゼンが「その辺にしておけ」と言って、やっとメイベルは口を閉じる。すでに相手は涙目だ。
そこへ畳みかけたのが、困ったように笑顔を浮かべるカリンだった。
「お姉ちゃんはちょっと馬鹿って言いすぎだけど、でも憶測だけで人をずるいとか言うのも良くないよ。それぞれにそれぞれの環境があって、みんな努力してここにいるんだから。それはちゃんと認めなきゃだめだと、わたしは思うな」
ずるいと発言した者は、完全に負けていた。涙を拭きながら、ごめんなさい、と頭を下げる。メイベルの言葉だけでは余計に反発したかもしれないが、カリンがそれを上手に抑えていた。ブロッケン姉妹の見事な連係プレーに、イリスは人に見えないよう拍手をした。戻ってきたルイゼンにも礼を言う。
「ありがとね、注意してくれて」
「俺が一人で止めるつもりだったんだけどな。あ、でも、イリスだって言い返して良かったんだぞ。学校に行ってない軍家出身のお前にだって失礼だったんだから」
それもそうか、と今更気づく。イリスも軍人学校に通わず、兄と父と祖父の指導を受けて入隊を果たした。インフェリア家はそういう伝統がある。だがそれはけっして楽な道ではなく、むしろ裕福な分だけ市井に対する正しい理解が及ばず、軍家の人間である分だけ求められる体力や技術の水準が高かった。カリンの言う通り、努力しなければ至れないというのは、環境は違ってもみんな同じなのだ。
ずるいと言ってしまった彼も、それだけきっと大変な思いをしたのだろう。物事の感じ方というのは、本人にしかはかれない。
――エイマルちゃんは、どれほどの努力をしてきたんだろう。あの子、頑張ってるのを人に見せたがらないからな。わたしでもわかんないや。
わからないけれど、エイマルは合格する気がする。家族のことは関係なく、自分の力で。女子軍服を着た彼女を想像して、イリスは思わずにやけた。

実技試験は、基礎体力測定、技能試験、対人格闘の三つで構成されている。基礎体力測定では全員同じ内容のメニューを同時に行ない、技能試験では一人ずつ武器の扱いや体術を見る。対人格闘はあらかじめ決められた対戦相手との勝負になるが、負けても不合格になるわけではない。
再び練兵場に集合した受験生たちは、指示を待ちがてら、周囲を見ている。筆記試験に失敗し落ち込んでいる者、実技に緊張している者と様々なのは毎度のことだが、今回は平然としている美少女に注目が集まっている。
「ずっと思ってたけど、あの子、誰? すっげー可愛い……」
「なんか実技試験やらせるのかわいそうだよな。なんで入隊試験なんか受けてるんだろう」
「親が軍人学校の先生だからよ」
ひそひそと話し合う男子たちに、女子が数名割り込んだ。謎の美少女を軽く睨みながら、一人が言う。
「近所に住んでるから知ってる。あの子、軍人学校の先生の家の子なの。可愛いからって騙されちゃだめだよ、たぶん実技もかなりできるから」
噂の的になっている謎の美少女ことエイマルだが、そんな声はまるで聞こえていなかった。筆記試験中に固まってしまった体を軽くほぐし、これからのことだけに集中している。誰よりも速く走り、高く跳び、長く正しい呼吸を保つこと。それだけ意識していれば良い。
様子を見に来たレヴィアンスにも、エイマルの集中力の高さは窺えた。今回の受験者の中で、最も合格に近いのは彼女だろうと、すでに感じている。素質があるのだ。
「うわ、鳥肌立ってくる。あの雰囲気、まんまダイさんとグレイヴじゃん」
「閣下がそこまで仰るとは。私はダスクタイトさんとは仕事をしたことがないのでわかりませんが、たしかにヴィオラセント大将に似た落ち着きぶりですね。幼いのに貫禄がある」
ガードナーは頷くが、その表情は曖昧だ。どうしたの、とレヴィアンスが尋ねる前に、彼は「しかし」と口にした。
「彼女が軍に入ったとして、集団の中でうまくやっていけるかは心配です。試験は個人戦ですから、問題なくクリアできるでしょう。ですが、例えば彼女を組み入れて班を作るとしたら、閣下はどうなさいますか」
「あー……それを言われると、問題がないわけじゃないよね。同期同士の班だと浮くかも。普段は普通に子供らしいし人懐っこいんだけど、オレたちが大人だからそう思うのかもしれない」
思えばレヴィアンスは、エイマルにイリス以外の親しい友人がいるという話すら、去年まで聞いたことがなかった。仕事と友達付き合いはもちろん違う。親しくなくてもコミュニケーションは必要だし、仲が良くても割り切ることを必要とされる場面は当たり前にある。だが、かつてのエイマルはその前段階から躓いていた節があった。――同年代とコミュニケーションをとること、そこからして彼女は苦手だったのだ。
けれどもその壁は、この一年で崩された。丁寧に、きれいに、穴をあけられた。そのやり方を学んでいれば、おそらく心配はないはずだ。
「今は個人戦だから、ちょっと周りへの警戒心が強くなってるだけだよ。たぶんね」
「たぶん、ですか」
「多少のことは仕方ないよ。個人技特化型人間と人見知りのサラブレッドだから」
「……閣下、そこまで仰ると心配になります」
まあまあ、他の子も見ようよ。レヴィアンスは明るく笑いながらガードナーの背中を叩き、練兵場全体を見渡す。心配はない。過去や未来のことなど、今は考えなくていいのだから。

基礎体力測定でのトップは、最年長の少年だった。だが彼に僅差で迫っていたのがエイマルで、その下とは大きな差がある。それでもエイマルは悔しかった。こんなに悔しくなるなんて、思ってもみなかった。
――自分が全力を出せればいいと思ってたけど、負けるのってこんなにショックなことだったんだ。
自分の中にあった絶対の自信に瑕がつく。エイマルにとって初めての感覚だった。誘拐されたときでさえ冷静に対処できたと思っていたのに。
誰かと本気で競争をするのは初めてだ。周りは年上の、それもエイマルの手の届かないような人ばかりだったし、唯一の同年代の友人であるニールは年下だ。競争しようとは思わなかったし、そんな機会はなかった。
同年代の子たちと関わりがなかったのは、話をしても話題が合わず、遊ぼうとしても興味が違い、自分は他の子とは違うのだと思っていたからだ。「子供」との関わりをやめて、大人たちの話に耳を傾けながら自分の世界に埋もれているのは、とても楽だった。優越感もあったかもしれない。
外の世界への憧れは強いけれど、それは人と関わりたいということではなく、自分の知らないものを見て、経験したいという思いからくるものだ。そこに人がいるということは、知識だけで捉えていて、関わり方なんかまともに考えてこなかった。――ということに、今この瞬間に気づいてしまった。
周りの受験者たちは自分の成績を話し合い、一緒に悔しがったり、比べることを楽しんだりしている。でも、エイマルは独りぼっちだ。誰もこちらに駆け寄ってきてはくれない。いや、違う。エイマルが誰にも話しかけようとしていないのだ。みんなが自然にしているようなことの、やりかたがわからない。急にわからなくなった。
ひとりでいることそのものは悪いことじゃないはずだ。悪くはないけれど、この敗北感の上にさらにのしかかってくる重いものはいったい何だろう。
――だめだ、こんなこと考えてちゃ。すぐに技能試験が始まる。集中しなくちゃ。
雑念はよそへ。代わりに頭の中に展開するのは、次の試験で披露する技の数々。これは一人ずつやるもので、みんなやることは違うから、人と比べるものではない。いつも通りにやればできるはずだ。
自分の順番が来るまで、目を閉じて待つ。基本的には一人一つずつの武器の扱いと、体術がセットになっている。エイマルの前までは、その基本通りに進んでいたようだ。
「次、十八番」
受験番号で呼ばれ、返事をする。そうしてやっと目を開けた。練兵場には六種の武器が用意されている。全てエイマルが使うものだ。係員をつとめる軍人も、表情が引き攣っている。
「武器六種と体術の、合わせて七種目……で、間違いないんだな」
「間違いないです。よろしくお願いします」
どの武器を使うかはぎりぎりまで迷ったが、結局全部見てもらえるならそうしようということになった。種目数の規定はない。というのも、実際に軍では複数の武器を登録して使いこなす者が僅かではあるが存在する。一つを極めるのも、いくつかを器用に使うのも、技能として認められる。
他の誰かの声なんか聞こえない。全て完璧に扱ってみせる。それがエイマルに必要なことだから。
刀は鮮やかに。ナイフは華麗に。棍は流麗に。弓は風のように。銃二種は正確に。扱いを覚えて練習した全ての得物を操る。そして体術も見事に決めてから、監督者に一礼する。顔を上げて見た彼の表情は、笑っているような、怖がっているような、よくわからないものだった。自分ではできていたと思うのだが、何かミスでもあっただろうか。
訝しんでいると、誰かの声が耳に届いた。「すごい」と。
「え、あの子何者? まだ軍人じゃないんだよな」
「だから先生の家の子なんだって。まさか、あそこまでやるとは思ってなかったけど」
「あれ全部使いこなせるなんて、現役の軍人にもいないんじゃない? 鳥肌立った……」
褒められているのだろうか。それより、全員エイマルを見ていたのかというほうに驚く。エイマルは他の受験者が何をしているのかなんて見ていなかったのに。
――自分さえ良ければ、って思ってたけど。
釈然としないまま控えの場に戻り、次の受験者をそのまま眺める。女の子だった。使う得物は剣一種。それと体術で試験に挑む。
「よろしくお願いします」
張った声、真っ直ぐな姿勢、美しい礼。そして何より、勢いのある剣技。力が入りすぎな感はあるが、遠くで見ているだけでも圧倒されるのだから、正面から斬り合う者にはさぞ強大に見えることだろう。息を呑んでいるそのあいだに、体術へ移る。こちらはうってかわってしなやかだ。体が柔らかい。あれに比べると、エイマルの動きは硬かったように思う。
――また、見えてなかったんだ。見てなかった。
エイマルの前の子たちは、どんな動きをしていたのだろう。どんなふうに得物を選び、扱い、どんな表情をしていたのだろうか。気になっても、時は巻き戻せない。
――合格する自信はある。でも、あたしには……。
技術よりも、足りないものがあったのではないか。もっと早く、それに気づくべきだったのでは。
一人一人の素晴らしい演技を見終え、エイマルの胸では感動と恥ずかしさがないまぜになっていた。

対人格闘の予定時間が迫っている。イリスと同じ事務室で仕事をしていた別班の同期が、具合悪そうに眉を歪めた。軍人学校卒で、実技の成績は良かったものの、入隊試験の最後の最後で運が悪かったことを思い出したらしい。
「毎月そんな顔しなくても」
「黙れ、インフェリア! お前と対戦したせいで俺に黒星がついたんだ!」
「わたしが勝っちゃったものはしょうがないじゃん。しつこいなあ」
以来、一緒に行動することはほとんどなかったのだが、この時期になると必ず絡んでくる。ちょっと面倒な昔馴染みだ。
そんな因縁を生むこともある対人格闘で、エイマルはどうなるだろう。噂では、個人技能はあらゆる意味で他を圧倒していたという。誰かが「インフェリアみたいなのが増えるのはちょっとな……」とぼやいていた。
「懐かしいな、対人格闘。防具は重いしエアガンは手応えないしで最悪だったが」
「ベルの『格闘させないスタイル』、なかなか面白かった覚えがあるよ。あのときはまさか寮で同室になるとは思ってなかったなあ。ていうか、格闘なのに相手に近づかないでひたすら撃ってるってどうなのって思ってた」
「そうか、私はイリスをよく跳ねる猿だと思ってた」
「なんでお姉ちゃんとイリスさんが仲良くなれたのか、本当に謎なんだけど」
仲良くなって良かったけどね、とカリンが笑う。こういうこともあるから、人との出会いは面白い。
カリンにも思い出があるようで、仕事をしながら話を聞いた。入隊試験の対人格闘の相手とは、入隊後にカリンは西方、向こうは北方と所属が分かれてしまったが、今でもたまにはがきのやり取りをしているという。ちなみに勝敗は、カリンの負けだった。
「わたしが次の手を考えているあいだに、どんどん拳がくるの。防具がなかったら大怪我だったよ」
「お前、それは……。よくここまで成長したな」
「わあ、お姉ちゃんに褒められた」
「褒めてない。呆れてるんだ」
ブロッケン姉妹のやり取りにほのぼのしていると、イリスの机にバインダーがドサッと置かれた。ルイゼンからの「真面目に仕事をしろ」という圧力かと思ったが、そこにいたのはフィネーロだった。
「頼まれていた資料を持ってきた。君は頼んだことも忘れていそうだが」
「ごめん、その通りでした。あとでなんか奢るね、フィン」
「そんなのはいい。どうせ君はエイマルのことで頭がいっぱいだろう。約束しても忘れる」
ぐうの音も出ない。項垂れるイリスだったが、次の言葉ですぐに顔を上げた。
「評判になってる。エイマルが実はノーザリア大将の娘だって」
「は?! どうしてそんな」
すぐにばれたの、をすんでのところで呑み込む。フィネーロはさらに声を潜めて続けた。
「今年の初めの誘拐事件のせいだ。あのとき、大将もいただろう」
「うわー……わたしのせいか……」
「わかったところで選考に影響はない。合格しても納得するだけの力があるようだし」
ここに来てイリスの迂闊な行動が評判として影響を及ぼしてくるのが、なんとも申し訳ない。反省で再び項垂れるイリスを慰めようと、カリンが背中を優しく叩いてくれた。
「そういえば、あの事件のときもエイマルは肝が据わっていたとか。これは余裕で合格だな」
メイベルが軽く言う。たしかにエイマルは強いから、試験も乗り越えられるし、軍人になっても大丈夫だろうとは思う。でも。
「ここまで噂になったら、大変だよね。いくら強いっていってもさ」
「イリスも期待に応えようと必死だったことがあるのか」
「わたしは……必死だとすれば今かな。インフェリアの妹のほうは残念だっていう汚名を返上しないと、家にも申し訳が立たない」
「そんなに必死にならなくていい。お前は空回りしそうだからな」
どこから話を聞いていたのか、室長の手伝いをしていたルイゼンがいつのまにか戻ってきていた。持っていたバインダーでイリスの頭を叩くと、当たり前のように言う。
「前も言っただろ。お前はもっと周りを頼って味方をつくれ。そうしたら些細なことに必死になる必要はなくなる」
「ゼン……。そうだね、まずはそこからだよね」
エイマルにも、軍人の極意として教えてあげよう。この試験が終わったら。

急遽、対戦表を作り直した。三月試験は人数が多すぎて不可能だが、今回くらいならばそういうこともできる。実技項目の二つが終わり、受験者の大体の実力はわかった。わかった上で、予想以上だと判断した。
「いったい娘に何してんのさ……」
レヴィアンスは、いつかの両親と同じ感想を持っていた。グレイヴがたった一か月の訓練で、その年に入隊した女性軍人の中ではトップの実技成績を叩き出したときのことだ。やはりエイマルはサラブレッドだった。今のところ、三月試験入隊者よりも成績がいい。
「閣下、対戦表はこれでよろしいのですか」
「うん、決定。ちょっと見に行ってもいいかな」
ガードナーの了承を得て、レヴィアンスは休憩中の受験生を見に行った。彼らに姿は見せないで、そっと覗くだけだ。
受験生にはもうグループができていて、このあと戦わなくてはならないもの同士が和気藹々と言葉を交わしている。勝敗は関係なく、対応力を見たいので、仲良くなるのは一向にかまわない。これで遠慮がなくなって、互いに本気を出せるならそのほうがいい。
その中で、エイマルは独りだった。少し離れたところから、楽しそうな集団を眺めている。試験を受けに来たばかりのときとは、まるで雰囲気が変わっていた。
――なんで自信なくしてんの? 成績いいのに。
この後、すぐに最終試験なのに。あんなにしょんぼりして、戦えるのだろうか。
心配しても仕方がない。こればかりはエイマルが自分でなんとかするしかない。――ここでなんとかできなければ、合格してもそのあとが難しい。

思い知ったのは、自分の世界の小ささ。それから気づかないようにしていた心の狭さ。
――あたし、全然強くなんかなかったんだな。
ぼうっと眺める世界は、エイマルが知らないものでできたそこは、眩しいくらいに輝いている。明るすぎて近づけない。手を伸ばしたら火傷をしてしまいそうだ。
――こんなんじゃ、夢を叶えるどころか、その一歩さえ踏み出せないや。
父に「賛成できない」といわれた意味がわかった気がした。考えが足りなかった。視野が狭かった。せっかく十歳になって、大人に近づいたと思ったのに、まだ全然子供だった。
俯いたまま溜息を吐くと、肩を叩かれた。顔を上げると、受験者の中でも顔を覚えていた少年がいた。最年長で、基礎体力測定ではエイマルより上にいた唯一の人物だ。
「対戦表が出たよ。見に行かないの?」
「対戦……」
「それとも誰が相手でも負ける気がしないから、見に行かない? さっきの技能試験みたいに」
ぎくりとした。自分の番が来るまで他の人を見ていなかったことが、ばれている。返事ができないでいると、少年は「ごめん」と笑った。
「あんまり他人に興味ないみたいだったから。ちなみに君の対戦相手は俺だよ、ダスクタイトさん」
「……あなたが」
「だから俺のことくらいは、ちゃんと見ててね」
まるで口説き文句だ。本で読んだだけで、実際に言われたのは初めてだけれど。思っていたほど嬉しくはない。どうしたらいいのか考えていると、構わずに彼は続けた。
「君には楽勝の試験かもしれないけど、俺は、きっと他の人も、頑張ってるんだ。どうしてか落ち込んでるみたいだけど、もしやる気をなくしたんだったら、棄権したほうがいい。迷惑だから」
刺すような言葉に襲われる。たしかに落ち込んではいたけれど、やる気がないわけではない。頑張らなかったこともない。持てる力を全て出してきたのに、それがそんな言葉で片付けられてしまうなんて。
「違います、棄権なんかしません!」
気づけば叫んでいた。他の受験者が振り返り、こちらに注目する。顔が熱くなるけれど、ここで言い返さなければ誤解されたままだ。いや、言い返してもまだ信じてもらえないかもしれない。本気を見せなければ。もとより自分の気持ちを言葉にするのは、それほど得意ではない。いつもよそから得た知識を借りるばかりになってしまう。でも、動くことなら。
「あたし、勝ちますから」
「……そう。じゃあ、お互い頑張ろう」
世界が何だ、視野が何だ。そんなことを今更振り返って何になる。進む方向は前だ。

刀と剣が激しくぶつかる。火花が弾けたようなちかちかした光は、実際の衝撃なのか、対峙する二人の気迫なのか。打ち合いは間合いをとったり近づいたりを繰り返しながら、何度も繰り返される。重い防具を全身に纏っているはずなのに、動きは軽やかだ。どちらの防具にも、今のところ刃は当たっていない。
初等教育終了後に二年間の訓練を経て試験に臨んだ、最年長十四歳。対するはたった一か月半で急成長を遂げた、天性の勘と身体能力を具えた少女。二人の勝負は互角で、決着が見えない。
二人とも全身全霊をかけて戦っていた。一人は親の反対を押し切り、自分の力で生きる世界へ飛び込もうとしている。そして一人は、この戦いによって実力を示し、新たなステージに立つことを望んでいる。どちらも譲れない。一歩も引けない。勝つと宣言したならば、果たしてみせなければ。
対人格闘では武器の使用が可能だが、使えるのは一つだけだ。エイマルが扱ってみせた六種の得物から何を選ぶかには注目されていた。手にしたのは、母から受け継いだ刀。
相手の剣は軍で用意されたものだ。だが、もうずっと使っているかのように馴染んでいた。エイマルの攻撃を受け止め、さらに一太刀浴びせようとする。しかしエイマルも強力な一撃をかわし、再び素早く斬りつける。それは見ている側からも溜息が漏れるほど、鮮やかで烈しい戦いだった。
「技はグレイヴだけど、あの攻め方はまるでダイさんだね。おー怖」
「あの剣の扱いは素晴らしいですね。隙がない。彼も間違いなく合格候補でしょう」
大総統と補佐は、受験者たちからは見えないところで戦いを見守る。後ほどあがってくる報告次第だが、まず今対戦している二人は合格だろう。他にも候補者は数名いる。どうしても合格者を出さなければならない三月試験を除いて、今月の試験は最も有望な人材が集まっていた。
合格定員を決めていないということは、採れるだけ採るということでもある。今後のことを考えると、レヴィアンスも楽しみだ。今回入ることになる新人の、人との関わりや仕事適正はどうだろう。彼らはどのように成長していくのだろう。
思い切って斬りつけた少年の刃を跳んでかわし――その高さは昔のイリスに引けを取らない――宙で体を捻りながら、少女は刀を構えた。そして少年の頭に、その刀身を叩き付けた。防具がなかったら、と思うとゾッとするようなことを、躊躇いなくやってのける。彼女は間違いなく、軍人の娘だった。


五日後、イリスは試験結果の文書と成績表、そして合格証を封筒に入れる作業をしていた。これを間違えると大変なことになるので真剣だ。一方ではガードナーが来月の受験者をもう確認している。結果の郵送が終わったら、すぐさま申込書のナンバリングが始まる。毎月その繰り返しだ。
「見たかったな、エイマルちゃんの戦いっぷり。イヴ姉譲りの技に、ダイさん並の度胸かあ。聞いただけでゾクゾクしちゃう」
「実物を見たらゾクゾクどころじゃ済まないぞ。筆記はパーフェクトだったし、たぶん今年最高の成績だね。これ以上が出てきたらすごい」
封筒詰め作業のために、イリスもエイマルの成績を見た。筆記は数年見られなかった満点。実技は年間トップ。女子が実技で年間ランクのトップに立つのは、イリス以来の快挙だ。
「文句なしの合格ってやつだね」
「エイマルだけじゃないよ。今回は有望株を他に六名も獲得できた。しかも七人中三人が伍長入隊レベルなんて、超豊作」
ホクホクしているレヴィアンスに、イリスもにまにまと笑う。大総統閣下の機嫌が良いのも何よりだが、春に後輩を一人失ってしまったイリスには、また後輩が増えることが嬉しい。
「ねえレヴィ兄、エイマルちゃんの指導、わたしがやりたいな」
「イリスはだめ。私情が入りまくるだろ。それに指導にあたるやつ、もう候補決めてるから」
「なによ、ケチ」
口をとがらせていると、電話が鳴った。ガードナーが速やかに受話器を取り、応じる。「わかりました、お繋ぎします」と言ってから、レヴィアンスに告げた。
「ノーザリアのヴィオラセント大将からです」
「お、ちょうどいいタイミング。結果に影響が出るの嫌で、こっちからは連絡してなかったんだよね」
受話器を受け取り、軽快に挨拶をする。イリスにも「ひさしぶりだな」というダイの声が微かに届いた。
娘が軍の入隊試験に合格したと聞いたら、どんな反応をするだろう。受験を知っていたとしても、知らなかったとしても気になる。もしかしたら反対しているかも、と思っていたが、ダイからも一切エイマルに関する連絡はなかった。
相槌を打つレヴィアンスの声を聞きながら、イリスは封書を一つ一つ仕上げていく。そのあいだに、聞こえてくる声の調子は少しずつ変わっていった。
「……え、そうなの? じゃあ、ずっと知ってて、結果に影響出ないようにって言わなかったんだ」
ダイはエイマルの受験を知っていたようだ。反対せずに受けさせるのだから、それはいいだろう。だが、レヴィアンスの声色には困惑が混じっていた。
「まあ、結果的に合格はしてるわけだけど。あとはそっちでちゃんと話し合いなよ」
電話を切る間際には、「まいったな」と呟いて、苦い顔をしていた。イリスは手を止め、レヴィアンスに近づく。
「ねえ、何かあったの? ダイさん、エイマルちゃんの受験をあんまり良く思ってなかったとか?」
「いや、受験すること自体には反対しなかったらしいよ。エイマルが決めたことだし。でも、入隊しないんだって」
「……え」
入隊試験に合格した者は、軍への入隊が許される。だが、合格した当人が必ず軍に入らなければならないという規定はない。諸事情により辞退するケースは、そう珍しいことではない。
だが、エイマルのようなパターンは、レヴィアンスやイリスにとっては初めてだった。
「エイマルは最初から入隊しようと思って試験を受けたわけじゃないんだ。だから合格しようがしなかろうが、軍人にはならないんだってさ」
「じゃあ、なんで……」
「力試し。ダイさんに、夢を叶えるための証明をするためのね」
軍人になることは、エイマルの夢ではなかった。彼女の望みはなんなのか。それはイリスも聞いたことがない。――ずっと妹のように思って見てきたのに、知らなかった。

合格証がダスクタイト家に届いたその日、エイマルは電話の前をうろうろしていた。ダイに電話をかけるか、それともやめようか。最初は合格したらすぐに父に報せるつもりだったのだが、今は悩んでいる。
だって、知ってしまったのだ。自分の知っている「世界」というものが、どんなに狭かったか。人との関わりが不足していて、そのために成長できていなかったことに気づいて、試験以降ずっとショックを受けていた。
恥ずかしくてニールにも話せなかったくらいだ。彼にだって、今まで散々失礼な態度をとっていた。「弟みたい」だなんて、どれだけ自分は上に立とうとしていたのだ。そんなのは思い上がりだった。
深くて重い溜息を吐くと、電話が鳴った。
「はい、ダスクタイトです」
「エイマルか?」
かけてきたのは、話すことを迷っていた、ダイだった。
「お父さん。……あの、あたし」
「入隊試験、合格したんだってな。おめでとう」
どうして知っているのだろうと思ったが、よく考えてみればおかしくはない。大総統とダイは仕事仲間だ。何かのついでに話したのだろう。
「ありがとう。でも、あたしね」
「大したもんだな、トップだったなんて。筆記の満点なんか初めて見たって、レヴィがびっくりしてた」
穏やかな父の声。エイマルの頼み事を、忘れているかのような。けれども忘れていれば、電話をかけてきたりはしないだろう。
エイマルは受話器を握りしめ、声を絞り出した。
「あのね、試験はトップでも、だめだったの。あたし、全然わかってなかった。自分の周りと本の世界だけを見て、全てをわかった気になってたけど、それじゃだめなんだね。試験を受けて、周りの人たちを見て、初めて気がついたの」
なんらかのかたちで他の誰かと関わらなければ、人は生きていけない。気づいていないだけで、エイマルが生活をするのにも、たくさんの人たちが手助けをしてくれている。見えない場所からも、手を貸してくれている。十歳になるまで、そのことに思い至らなかった。自分の力だけでおおよそのことはなんとかできると、本気で思っていた。
「お父さん、あたし、勉強が足りなかったみたい。お父さんの言う通り、もっと方法をちゃんと考えてみるべきだった。あたしだけじゃなく、周りのことも含めて、一から考え直さなきゃ」
「……じゃあ、やめるか? 頼み事」
考えなくてはならないのはわかっている。でも、一度そうしたいと思ったことを、ダイに協力してもらいたいと強く望んだことを、取り消したいとは思わなかった。いや、取り消そうかと思ったけれど、改めて問われて、強い思いが胸に湧きあがった。
諦めたくない。やりたいことがあるんだ。あたしには、大きな夢がある。
「やめたくない。あたし、やっぱりノーザリアに留学したい。それで今度こそもっと広い世界を、広い視野で見て、たくさんのものを見たり、聞いたり、探したりしたい」
軍の入隊試験を受けたのは、ダイに迷惑をかけないで自分の身を自分で守れると、証明したかったから。ただ合格するだけじゃなく、上を目指したのは、より力があることを示すため。でも結局、それだけではまだまだ足りないということを思い知った。自分の力だけでは、達成できないこともある。道具一つ持つのだって、誰かがそれを考案し、作り、届けてくれなければ成り立たない。
世界は、エイマルが思っているよりずっと広く、深い。ただ留学をして一人きりの勉強を続けるだけでは、きっと見たいものを見ることすらできない。
「したいけど、今のあたしじゃだめだなって、思ったの」
「そうか、今のエイマルじゃだめか」
電話の向こうで、ふ、と笑う声が微かに聞こえた。馬鹿にしているような、呆れているような、そんな笑い方ではない。どうしてか、安心したようだった。
「じゃあエイマル、来年からってのはどうだ」
「え?」
「年始に父さんがそっちに帰るだろう。ノーザリアに戻る日に、一緒に来たらいい。もちろん、エイマルがそれまでに足りなかった分の勉強をして、しっかり準備をしておくことが前提だ」
そんな提案があるなんて、思ってもみなかった。ダイはこのまま賛成してくれないだろうと、そればかり考えていた。けれども今日までの期間、ダイにだって考える時間があったのだ。そうして、この答えを出したのだろう。
「どうだ、できるか?」
「やるよ! あたし、もっともっと自分のいる世界について知る。そのために、いろんな人と関わりたい。無謀なことをするんじゃなく、いいことに積極的に挑戦したい!」
即答だった。これしか答えはない。もう何年も前から、エイマルはしたかったのだ――冒険を。世界中を旅して、いろいろなものに出会うことを。
「じゃあ、約束だ。経過報告はいつでも受け付けるからな」
「うん! お父さん、ありがとう」
――あのね、あたし、冒険家になりたいの。そのためには、まずお父さんに認めてもらって、お父さんの傍で勉強をしたいんだ。
それが叶う日は近い。予想よりももっと大きなかたちで、エイマル自身が成長した状態で、叶えられる。その日が待ち遠しい。それまでにやることがたくさんある。
これから忙しくなると思うと、嬉しかった。

夢に向かって、進むのは前。駆けて、ときには歩いて、周りをよく見てみれば、果てしなく広がる世界がある。いつかそこに、行けることを信じて、少女は再び動き出す。


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posted by キルハ制作委員会 at 20:19| Comment(0) | 小ネタ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月22日

両片思いは後からくる

「写真撮ってこいって」
溜息交じりに言う彼女に、しかしレヴィアンスは一瞥もくれない。「何の」と言いながら、急ぎの書類を捌いている。本当は来客予定時間前に終わるはずだったのだが、急な任務受理などでおしてしまい、まだ残っているのだった。
その状況に慣れている彼女――大総統付記者エトナリアは、こちらもぎっしりと情報の詰まった取材ノートだけを見ながら続ける。
「大総統閣下のプライベート写真、奥さんを添えて」
「そんな料理みたいに。プライベートは大総統じゃないから嫌だ」
「だよね。今回も適当にごまかしておくわ。幸い、事件記事ならどれから手を付けたらいいのかわからないほどあるし」
そんな二人の様子を、ガードナーは大総統執務室備え付けの小さなキッチンからこっそり覗いている。お茶を淹れるふりをしてここに下がったのだが、相変わらずレヴィアンスとエトナリアは仕事の話ばかりだ。ここがレヴィアンスの職場で、エトナリアも仕事のために来ているのだから、当然といえば当然なのだけれど。
だが、二人の左手薬指には同じ指輪がある。シンプルで、宝石の一つもついていない、銀細工。二人は紛れもなく夫婦である。それが互いが主張するような「仕事に都合がいいから」というだけの関係ではなく、それなりに愛情を持ったものであるはずなのに、そんなそぶりはあまり見せない。いつもエトナリアが仕事に来て、レヴィアンスがそれに応じ、その日のうちに解散する流れだ。
――もう半年以上になるんですけれどね……。
少しは閣下も態度を示せばよろしいのに、とガードナーは嘆息する。けれどもこちらがいくら心配したところで、どうしようもない。これは二人の問題であり、夫婦が何もしなければそれまでのことだ。これ以上話すこともなさそうなので、ガードナーは仕方なくキッチンから出てくる。
「お茶をどうぞ。今日は暑いので、アイスティーです」
「わあお。レオナルド君、いつもありがとう。きれいな色ねえ、あたしじゃこんなきれいに淹れられないよ」
「せっかくいただいたので、より丁寧に淹れるよう心がけました。東方のお茶なんて、こちらではめったに手に入りませんから」
カップには透き通った薄い緑色。東方で好まれるグリーンティだ。中央では紅茶が主流なので、緑茶は珍しい嗜好品である。フォース社の社長はこのお茶が昔からお気に入りだという。
レヴィアンスも礼を言って、カップに口をつけた。
「美味いね。エトナ、今度また買ってきてよ。代金出すから」
「いいけど、今日持って来たのはクレリアからのお土産よ。あんた、またあの子に何か仕事させたでしょ。便利に使える人材が増えたからって、あんまり無理させないでよ」
「無理はさせてない……と思うんだけど、気を付ける」
お茶を出してみても、空気は和やかになったが、夫婦感はまるでない。これが彼らの普通であるとガードナーもわかってはいるのだが、なんだかもやもやする。もっと仲睦まじくできないものか。いや、あれで本人たちは仲が良いはずなのだが……。
「でさ、手が空いたなら、先日の事件の続報を書きたいから、いろいろ話してもらいたいんだけど」
「ごめん、もうちょっと。レオが淹れた美味い茶でも飲んで、ゆっくりしていきなよ」
この態度から、ガードナーは察している。レヴィアンスはエトナリアのいる時間を長引かせたいのだ。今日に限って急な仕事が入ってきたのは、単に運が悪かっただけではない。今日に引き延ばしていたこともいくつかある。
そしてエトナリアは、ガードナーから見るに確実にレヴィアンスのことが好きだ。それもずっと昔から。仕事以上の恋はない、と公言している彼女だが、内心は結婚相手にべた惚れなのだ。
お互いが自分の仕事に集中するための策略結婚。二人は夫婦ではなく協力及び共謀関係。それが表向きの姿だが、実は両片思い状態が続いたままであることを、有能な大総統補佐は見抜いている。それゆえにもどかしいのだ。
閣下にも、閣下が選んだ方にも幸せになっていただきたい。それが大総統補佐レオナルド・ガードナーの願いです。

レヴィアンスの仕事が一段落すれば、今度はエトナリアの取材が始まる。
何とかして軍の持っている情報の「見える」部分を拡大し、裏の技術や知識を国全体、もっといえば大陸全体で有効利用できるようにしたいというのが、レヴィアンスの大総統としての目論見だ。そのためには国内に存在する格差を可能な限りなくし、裏に暮らす人間が悪事を働く必要のないようにしていかなければならない。第一段階は裏の情勢の把握と彼らのおかれている環境の底上げだ。これは先々代大総統から引き継がれている仕事でもある。
しかし裏社会は広大で、彼らのルールは根強い。エルニーニャ王国建国からあと数年で五百五十年、そのあいだにつくられてしまった格差や生まれてしまった差別の解消は難しく、「裏がいなければ軍の仕事がなくなる」という極論をいう者まで現れる。まだまだ目指す場所への道のりは遠そうだ。
大総統付記者エトナリア・リータスは――仕事のときは旧姓を使い続けている――大総統の仕事を適度に記事にし、伝えている。ときには文派や王宮、そしてエトナリア自身の批判も入れる。大総統付とはいえど、あくまで「摺り寄らない」ことを念頭において取材をするのがエトナリアのやり方だ。ただし、場合に応じて情報の規制はやむを得ないとする。不安をあおるような記事は避けるべきだ。真相を捻じ曲げるのではなく、伝えるべきことだけを伝える。その塩梅を任されているのだから、エトナリアは確かに優秀で力のある記者なのだった。
「裏を含めた全国的な調査が改めて必要である、と。でも、それってどうやってやるの? 住所不定の人たちまで調査が及ばないのは、これまでだって問題だったわよね」
「いくつか考えてることはあるんだよ。たとえばさ……」
取材によって考えの問題点や解決法が見つかることもあり、レヴィアンスはこの時間を大切にしている。エトナリアが訪れているときは、基本的にもう一人の大総統補佐であるイリスを執務室に呼ばない。いれば、女の子同士のお喋りになってしまうからだ。互いに仕事であることをわきまえてはいるはずなのだが、イリスが口を挟んだり、納得のいかないような表情をすると、エトナリアはそちらにも話を振る。そうすると、次の話をするための時間がとれなくなってしまう。
――というのは、建前で。本当はエトナリアとの時間を邪魔されたくないのではないかというのが、ガードナーの見立てである。
策略結婚の話が出たとき、ガードナーは何度もレヴィアンスの相談に乗っていた。相談をするということは、その段階ですでにレヴィアンスの心は決まっていたのだろう。エトナリアが縁談があると打ち明けた時の狼狽ぶりは――本人は平然としているように見せかけてはいたが――今でも忘れられない。
「なるほどなるほど。で、それどこまで記事にしていいの? 裏の技術に関係することには、まだ触れられないんだよね」
「確定できる段階にないし、まずイリスの眼の問題をある程度のところまで片付けないとね。むやみに使いまくるからこういうことになる」
「あんたも助けられてるくせに。……さて、こんなもんかな。じゃあホテルに戻って仕事するね」
本日の取材は済んだようだ。これからエトナリアは、定宿に行って原稿を書き、新聞社に送る。新聞社の本社はレジーナにあるので直接行って仕事をすることもできるのだが、可能な限り会社の人間に会うことは避けている。通信の発達が、彼女の仕事と立場を大いに助けていた。
立ち上がったエトナリアは、空のカップをキッチンに持っていこうとする。それをいつものようにやんわりとガードナーが制し、カップを受け取る。「ありがと」と微笑む彼女は、ガードナーから見ても可愛らしい。
「それじゃ、また。仕事頑張ってね、レヴィ」
「エトナもね。また今度」
手を振って別れれば、今度は後日。二人が一緒にいる時間は、あまりにも短い。もう少し時間があれば、と惜しむのはガードナーの仕事ではないのだが、レヴィアンスが何も言わないので代わりに惜しむ。
「次はいつでしょうね」
「順調なら来週でしょ。大きな事件が起こればすぐにでも」
大総統閣下は平気なふりをする。あくまでこれは仕事なのだと。
しかし事件はすぐに起こった。三十分も経たないうちにエトナリアから電話があったのだ。
「いつものホテル、部屋が空いてなかった! なんか予約に不備があったみたい。ねえ、今日だけレヴィの部屋に泊めてもらえない?」
レヴィアンスの部屋は軍人寮にある。二人部屋を一人用にした、少し広い部屋だ。しかし仕事が忙しいので、ほぼ寝に帰るだけの状態になっている。そのことは、以前からエトナリアに愚痴を言っていた。
「男子寮でもかまわないなら、オレはいいけど。一回戻っておいでよ、鍵貸すから」
「ありがとう!」
これはチャンスではないか。せっかくエトナリアが泊まるのであれば、少し話でもしたほうがいい。幸いにして、今日の夕方以降のスケジュールは空いている……と、ガードナーは把握していた。このまま平和なら余計な仕事はなく、レヴィアンスを部屋に帰すことができる。
「閣下、先ほどエトナリアさんが仰ってましたね。閣下のお写真が欲しいと」
「プライベートのは嫌だって」
「公開するものではなく、閣下個人の趣味として、お写真を撮られてはいかがですか。エトナリアさんとのお写真は、ご結婚以降まだ一度も撮影されていないでしょう。個人的な記念撮影くらいはなさってもよろしいのでは」
写真を撮ることは、レヴィアンスの趣味である。大総統執務室に暗室を作るほどだ。趣味は人に指図されてするものではないと、ガードナーもわかっている。だが、ここはあえて言わせてもらった。誰かが言わなければ、レヴィアンスもエトナリアも動けない。
目を泳がせ、頬をわずかに赤くしたレヴィアンスは、しばらくして口を開いた。
「……まあ、記念撮影くらいしてもいいか」
ちょっと背中を押せば、そのあとは行動が速い。レヴィアンスはガードナーにいくつか指示を飛ばし、ガードナーは見事にそれを遂行してみせた。
そのあいだにエトナリアが鍵を取りに来て、軍人寮に向かったが、彼女には彼らが何をしているのか、その時は見当もつかなかった。


レヴィアンスが仕事を終えて部屋に戻ると、ここでは嗅いだことのない香りで満ちていた。そもそもこの部屋で料理をすることなんてめったにないのだから、食べ物と判断できる匂いがすること自体が珍しい。
「あ、おかえりー。ご飯もうすぐできるよ」
台所には鍋を菜箸でかき混ぜるエトナリア。きちんとエプロンまで身につけている。だがその鍋とエプロンはどこから持って来たのだろう。この部屋にそんなものはない。
「あんたの部屋、相変わらずなんにもないのね。道具から食材から色々買ってきちゃった」
「わざわざそこまでするか。仕事は片付いたの」
「うん、まだ校了までもうちょっとかかるけど、あたしがやることは大体」
テーブルの上には開きっぱなしのノート型端末がある。新聞社にも普及しつつあるんだな、いやエトナが個人的に手に入れたのかな、高いだろうに、などと考えつつ、レヴィアンスは着替えを持って脱衣所に向かう。いつもならその場で着替えてしまうのだが、今日は女性がいるので気を遣った。
夫婦、という実感は今でも湧いていない。そもそもが策略と謀略の上に成り立った結婚だし、仕事が優先なのは変わっていない。レヴィアンスは大総統としてレジーナに留まっているし、エトナリアはレジーナに通いつつもいまだにハイキャッシの実家に自分の部屋を持っている。生活は別々で、戸籍と指輪が二人を夫婦であると証明している。
それ以外は、仕事をしているときの名前だって違うのだ。レヴィアンスはゼウスァートを、エトナリアはリータスを名乗り続けている。双方、現在の本名であるハイルを名乗る機会は少ない。それなのに夫婦だとか言われても、どうすればいいのかわからない。
自分から言いだしたことなのにな、とレヴィアンスは苦笑する。あのとき、それなりに緊張はしていたのだが、それが何から来る緊張だったのかは実はよくわかっていない。自分は今でもニアが好きなのだと思っているし、思いが叶わなければ仕事一筋に生きるつもりでいた。ニアには家族ができてしまったから、今では完全に後者の気持ちであるはずだった。
「何作ってくれてんの」
「今日は麺類。キノコで出汁をとったスープをかけて食べるんだよ」
それなのに、胸には新たな感情が芽生えている。麺を茹でながらこちらに振り向いた顔は、可愛いとも思うし、綺麗だとも思う。肌に触れたらすべすべしてるんだろうなとか、エプロンの紐を結んである腰が健康的にくびれているなとか、ぼうっとしているとそんなことばかり考える。
まいったな、と声に出さずに頭を掻いた。これじゃまるで、本当にエトナリアに恋をしているようではないか。
「野菜たっぷり入れたからね」
「そういうのが好きなの?」
「ささっと作れて、食べるにもあんまり時間のかからないものがいいかな。まだ仕事残ってるし」
「お疲れさん。忙しいのにありがとう」
心の内は上手く隠したつもりで、いただきますと手を合わせ、野菜たっぷりのうどんを啜る。出汁がきいていて美味しい。肉が好きなレヴィアンスだが、キノコと野菜だけを使って出した味も悪くない。エトナリアにこんな特技があったとは。
「美味いね。よく作るの、これ」
「夜食にしてるの。肉とか魚とかはさ、付き合いで結構いいのが食べられるから。仕事の合間に、こういう素朴なのが恋しくなったりするのよね」
「へえ、オレなんかは断然肉とワインだけど。でもこれは本当に美味い」
褒めるたびに、エトナリアの目が笑う。ちょっと顔が赤いのは、もしかして照れているのか。これだけのものを作れるのなら、褒められたことだって一度や二度ではないだろうに。
――いや、わかんないか。オレたち、似たもの同士だもんな。
思うほど、褒められた経験はないのかもしれない。親が忙しくて祖父に育てられたという共通の過去を持ち、成長するにしたがって自分の世界を作り上げていった者同士。寂しいという気持ちを抱えながらも、それを言葉にできない日々があったから、出会ってすぐに意気投合した。
あれから十八年以上。まさか結婚するなんて、あの頃は思いもしなかったが。
「本当は、旦那の健康管理は奥さんがしてあげなきゃいけないのかもしれないけど」
「そんなことないんじゃない。お互いちゃんと気をつけてるに越したことないよ」
「それもそうだね。でも、さすがにいっつも肉とワインは、あんまり体によくない。あと、レヴィはストレス溜まると煙草吸うでしょ。あれもできればやめたほうがいいんだよね。いくら医療にも使われてるからって、なんでもやりすぎは毒」
「はいはい、もっと気をつけるよ。不甲斐ない夫で悪かったな」
自分で言って、どきりとした。今のレヴィアンスは大総統ではない。エトナリアの夫、レヴィアンス・ハイルなのだ。
エトナリアは取材ノートを脇に置いて、視線をそちらにやりつつ食事をしている。彼女はまだ仕事中なので、記者のエトナリア・リータスだ。けれどもレヴィアンスに小言をくれているあいだは、たしかに彼女は、レヴィアンスの妻であるエトナリア・ハイルだった。
「エトナ、明日時間ある?」
「昼の列車で東方に戻るから、それまでなら。何か用事?」
「うん、プライベートの写真が欲しいって言ってただろ。あんまり公にはしたくないけど、プライベートでプライベートを撮るなら構わないよ」
「なにそれ、どういうこと」
こちらに尋ねてから、エトナリアは麺を一気に啜った。よく咀嚼して飲みこんだのを確認してから、レヴィアンスは続けた。
「オレの趣味に付き合ってよ。オレが写真を撮って、あとでエトナに送る」
「それじゃあたししか写らないんじゃないの」
「一緒に撮れるよ。タイマー機能がついたカメラも持ってる。使えそうなツーショットを一枚だけなら、仕事に提供してやらなくもない」
使えそうな、というのは、顔が見えないということだ。レヴィアンスはともかく、エトナリアが本人だとはっきりわかるように写ってしまうのは都合が悪い。大総統が結婚した、という報道はしているが、相手については言及していない。エトナリア自身も告白していない。彼女を守るためなのだが、レヴィアンスには別の理由もある。
「モデル、引き受けてくれない?」
レヴィアンスが、にい、と笑ってみせる。エトナリアは少し考えるような素振りを見せてから、口角を上げた。
「いいわよ。やるからには最高のモデルになってあげる。だから全力で撮ってよね」
互いに、全力で。これができるから結婚という契約を交わした。でも、本当にそれだけなのか。レヴィアンスは自分の気持ちを、おそるおそるながら確かめてみたかった。

泊まりの予定が上手くいかず、レヴィアンスの部屋を借りるのは初めてではない。今回のようなトラブル――学生とのダブルブッキングならこちらが譲るしかない――ならば、年に二回は経験する。一年のほとんどを東方と中央との往復で過ごすのだから、そのうちの二回なんて大した数字ではない。レジーナはそれだけ人が混んでいるし、定宿は安い分サービスを削っている。
――高いホテルでも泊まれるんだけど、それを使わないのは、あたしも期待してるからなんだろうな。
シャワーを浴びながら、エトナリアは自分に呆れていた。仕事が一番だと言いながら、レヴィアンスへの恋心を捨てきれない。結婚の提案は、驚いたが嬉しかった。けれどもすぐに虚しさに襲われた。お互い仕事のためにこの契約をするのであって、恋が実ったわけではないのだと。
けれども、レヴィアンスがエトナリアのことをある程度は好きでいてくれていることはわかっていたし、こちらは言わずもがなだ。本当に仕事のことしか考えていなかったら、結婚なんて荒業には及ばない。あのレヴィアンスだとしても、だ。
だから毎回期待して、そしてひっそりと裏切られる。部屋に泊まるのは初めてではないが、いつもエトナリアが一人で部屋を使っていた。レヴィアンスは仕事や友人たちの家に向かってしまい、ここには帰ってこない。
でも、今日はどういうわけか、ちゃんと部屋にいるらしい。ガードナーに何か言い含められたのかもしれない。あの補佐は、ものすごくよく気の回る人だから。
身体を拭いて、持って来た寝間着を着て、居間へ戻る。シャワーを浴びているあいだに消えているのではないかと思った彼は、座って本を読んでいた。
「読書なんて珍しい」
「勉強しろって、ドミノさんが貸してくれるんだよ。確かにオレが今持ってる知識だけじゃ、法整備は難しいし。でもちゃんとした提案をするにはオレがその実現可能性をわかってないと」
「そうだね。じゃないとアーシェさんや女王様にバッサリ斬られちゃう」
「それだよ。二人とも頭良いから、こっちが何言ってもなかなか通じなくてさ」
結婚前なら、この後に「女って怖いよね」と続く。けれどもあれ以来、少なくともエトナリアの前で口にすることはなくなった。意識してくれているのだろうか――「女性」として。
「エトナ、髪乾かしてくれば」
「あ、うん。ドライヤー借りるね」
いやいや、いくら今日は部屋にいるからといって、仕事をしているのには変わりがない。どうせ夜通し本を読んで、テーブルに突っ伏してちょっとだけ寝るつもりだろう。せめてベッドに寝ろと言わなければ。エトナリアは別に、毛布さえ借りられるのなら、床で寝たってかまわないのだ。
乾いて天然の癖を取り戻した髪を手櫛で整え、また戻る。仕事のメールを確認して、問題がないようなら毛布を勝手に借りて眠ろう。明日の午前中、写真撮影をするというのは、態度には出していないつもりだが、かなり楽しみだった。
「……うむ、問題なし。無事に今回の原稿も記事になります」
「良かったね。じゃあ休もうか、明日もあるし」
「それなんだけど、レヴィ、たまにはベッドで寝なさいよ。あたしは床でも椅子でもかまわないから」
「え?」
本を閉じて顔を上げた、レヴィアンスの目が真ん丸になっている。心なしか赤面しているような気もする。部屋の明かりのせいだろうか、いや、さっきまでは気にならなかった。
首を傾げるエトナリアに、レヴィアンスはもごもごと何かを言う。
「え、何」
「……だから、最初からそのつもりだったんだけどって言ったんだよ」
「ああ、あたしが床で寝るって話」
「そっちじゃなくて。……オレはてっきり、ベッドに一緒に寝るものだと思ってた」
万が一にもありえない。だって、策略と謀略のための契約としての婚姻関係のはずだ。レヴィアンスが顔を真っ赤にしてまでこんなことを言うなんて、そんな現実は想定外だ。
いやいや、単に公平性の問題だろう。そこまで深く考えてはいけない。そうは思いつつも、エトナリアの顔は湯気が出ているのではないかというくらい熱かった。
「悪い、馬鹿なこと言った。大丈夫だよ、オレが床で寝るから、エトナはベッド使って」
「だめだよそんなの。あたしが床」
これでは埒が明かない。二人で適当に床に転がる羽目になってしまう。それなら、……それよりは。
意を決して相手を見たのは、同時。目が合って、逸らせない。
「やっぱり二人でベッド使おう」
「そうだね。それがいいわ」
シングルサイズだから、狭いけれど。大人二人では、くっつかなければならないけれど。疚しいことなんか、何一つとしてない。


おそらく、昨夜のことを人に話したら。ニアなら聞き流すかもしれないが、ルーファやアーシェは呆れるかもしれない。グレイヴは励ましてくれるかもしれないが、ダイはまず間違いなく爆笑するだろう。
緊張でなかなか寝付けず、すぐにすやすやと眠ってしまった妻(一応)の顔を見ることすらできず、気がついたら寝落ちていて、目が覚めたときにはすでに隣は空だった。台所からは何かを焼いている香ばしい匂いがして、「おはよう、よく寝てたね」なんて言われてしまう、そんな朝。
何かをしようと思ったわけではない。最初からそんなつもりはなかった。「ベッド一つしかないけど一緒に寝るのか?! 一応夫婦だから自然だよな?!」とかなんとか考えていただけだ。だが、これではあんまり情けないではないか。
「昨夜、肉食べたいって言ってたでしょ。だからってわけじゃないけど、BLTサンドに目玉焼き付。飲み物はちょっと組み合わせとしては変だけど、あたしが持って来た緑茶。レオナルド君に倣ってアイスティーにしてみたんだけど、やっぱりあれほどきれいには淹れられないね」
そんな食材もこの部屋には用意していなかったはずだ。いったいどれほど買い込んできたのだろう。たった一日、泊まるだけのために。……たった一日では、ないからか?
一緒に暮らすことなんか想定していなかったから、レヴィアンスは相変わらず寮生活だし、エトナリアは実家に帰る。自分たちの仕事の仕方を考えれば、そのほうがいいと思っていた。でも、普段使わない大鍋と、可愛らしいエプロンは、きっとこの部屋に置かれることになる。これらの道具は、いつでもエトナリアの帰りを待つのだ。
「……オレは目玉焼きより、スクランブルエッグのほうが好きだな」
「そう? じゃあ、また今度ね」
「うん、また今度。いただきます」
今度、だ。毎日にはならない。二人とも仕事が第一で、相手のことまで気がまわらない。だから家庭を持つことを避け続けてきた。例えば他の多くの家庭のように、結婚して一緒に暮らし、子供が産まれたとして、自分はきっと家族に寂しい思いをさせてしまう。置いてけぼりにして、本来なら同じ秤に載せられないものを比べるようなことをして、みんな苦しむくらいなら、独り身でいたほうがいいと思っていた。
エトナリアとなら、結婚しても独り身に近い状態でいられる。双方ともに仕事に集中できる。幼い頃のように寂しい思いをすることはなく、周囲に言い訳もできて、都合が良い。そんな打算を、彼女は良しとした。後の不利に目を瞑ってくれた。
だからこそ、今更好きだなんて、一緒にいたいだなんて、言えない。
――いや、何考えてんのオレ。エトナのことは好きだけど、そういう「好き」ではなかったじゃんか。
でもこんな美味しい朝食を二人でとれるのは、良いことだ。胸がじわりと温かくなって、頭の中がふわふわしたもので満たされて。この状態がなんとも心地よい。
「ねえ、写真いつ撮るの? 急がないとお昼の列車に乗れなくなっちゃう」
「そうだった。ちょっと準備があるから、そのあいだに荷物まとめるなりしておいてよ」
発する言葉の一つ一つが、せっかく温まった胸を刺す。離れなければならないから、急がなければならない。どんな時間も永遠ではないとわかってはいるが、これはあまりにも短すぎる。
食器を片付けるのはエトナリアが引き受けてくれた。レヴィアンスは自分の支度を素早く済ませると、部屋を飛び出していった。

仕事の後だったので頭が疲れていて、すぐに眠ってしまったが、起きるのは早かった。寝返りをうつと、赤い髪――短かった時期があったが、ようやく以前に近いくらい伸びてきた――があって、少し手を伸ばせば広い背中に触れる。出会った頃はお互い小さな子供だったのに、いつのまにこんなに大きくなったのだろう。
こちらに背を向けているということは、手を出そうなんて気はなかったのだろう。そもそも布団に入った時だってそうだった。あのときはエトナリアもレヴィアンスに背を向けてしまっていて、相手がどんな様子なのかは全くわからなかった。
そっと体を起こして、こちらを向かない顔を覗き込む。昔はそう思わなかったけれど、改めて見るとなかなか整った顔立ちをしている。豊かな前髪から僅かに覗く額、すうっと真っ直ぐ通った鼻筋、少し痩せた頬。唇は、笑っている形のときのほうが好きだ。不敵な笑みは頼もしくて、かっこいい。
「これは、大総統じゃなくたってモテるよね。一緒にいたいと思う人がどれだけいても、仕方ないや」
自分もその一人だった。けれども恋より仕事を選んだはずだった。それで十分満たされていたと思っていたのに、今のエトナリアはそれ以上を求めている。レヴィアンスが面倒だと言って遠ざけていた、彼を想う人たちと同じだ。
告白したら、失望されるだろうか。失望されても、契約は継続されるのだろうか。それはあまりにもひどい地獄だ。
「……だめだ、センチメンタルは性に合わない。こんなあたしはあたしが許せない。さっさと支度して、朝ごはんでも作ろう」
ちょっと大きな独り言だったが、レヴィアンスは気づかずに眠っている。それでいい。知らないままでいてほしい。そのほうがきっと、幸せは長続きするから。
そうして朝食を作り、そのあいだに起きてきたレヴィアンスと一緒に、食事をした。きっとこれも、当たり前ではないから、楽しくて嬉しいのだ。食事の後の片付けだって、実家では面倒がりながらやっている。だからたとえ仕事を諦めたとしても、レヴィアンスとは一緒には暮らせない。
荷物をまとめて、すっかりこの部屋を出る準備ができた頃に、外に出ていたレヴィアンスが戻ってきた。
「ただいま。エトナ、ごめん、ちょっとドア押さえてて」
「うわ、どうしたの、その大荷物。どこから運んできたのよ」
「色んなとこで融通してもらった。こういうとき、大総統の肩書って便利だね」
「乱用するのやめなさいよ……」
箱やら袋やらを大量に抱えたレヴィアンスに、エトナリアは大いに戸惑っていた。これはただの荷物ではない。どれもこれも、有名店の名前が入っている。ほとんどが女性ブランドだ。
「撮影用にしては気合入りすぎじゃないの?」
「これがオレの本気だよ。まあ、手配してくれたのはレオだけどね」
「それは補佐の正しい使い方ではないわね……」
呆れている隙に、大きな袋から服が取り出された。サテン地のワンピース。淡いグリーンのそれを、レヴィアンスが広げ、エトナリアに当てる。
「サイズはこんなもんでいいかな。着てみてよ。帽子とか靴とか一式あるから、全部合わせて」
「合わせてって……こんなの着たことないわよ。だいたい、靴のサイズとか知ってたっけ?」
「正直言ってオレは知らなかった」
ほんの一瞬、レヴィアンスの表情が不機嫌そうになった。けれどもすぐに次の品物を取り出しにかかったので、よく見えなかった。
「……あの、用意してくれて申し訳ないんだけど、こういうの着るのにもちゃんとした下着が必要でね。あたしはそんなもの当然持ってきてないわけで」
「それもあるんだなあ。うちの補佐有能だからさ」
下着類は袋ごと渡された。こちらもエトナリアがちょっと勇気を出さなければ買えないような値段のものだ。写真を撮るとなったら、そこまで本気になるのか、この人は。ていうか、なんでレオナルド君があたしのいろんなサイズを把握できてるの。
「オレも自分の準備するから、とりあえず着替えてくれる?」
頷くしかない。物が多いので、脱衣所ではなく寝室を借りた。

自慢の補佐は慧眼に過ぎる。洋服や靴、下着のサイズまで迷わず淀みなく指定して、衣装一式を注文してくれた。レヴィアンスのために揃えてくれたものがぴったりだったのはまだありがたいで済むが、人の妻について夫より把握しているとはどういうことだろう。
――うん、妬いたさ。ちょっとどころじゃなく妬いた。自分で意外だったけど。
ガードナーの場合、単に目が良すぎるだけなのだというのはわかっている。きっと他の人について頼んでも、彼なら同じようにするだろう。
もやもやした気持ちで撮影の用意をしていると、レヴィ、と寝室から呼ぶ声がした。
「どうしたの。サイズ合わなかった?」
「ううん。びっくりするほどぴったりだった。でも似合ってるかどうかわかんないから、見に来てくれる?」
ぴったりなのか、となぜか残念に思う。三脚とスクリーンをそのままに、寝室に向かった。
入るよ、と一応念を押してから足を踏み入れる。少し前まで寝ていた狭い寝室には、袋や箱が丁寧に重ねてまとめてあった。そして。
「ねえ、変じゃない? 仕事で食事会とかあっても、あたしっていつもスーツだから……」
不安げだが上品な佇まいの女性が、そこに立っているのを見た。
「……って、あんたも結構良いの着てるじゃない。似合うよ。レオナルド君の見立てすごすぎるね」
レヴィアンスを見てパッと笑った顔は、化粧をし直したのか、さっきまでと雰囲気が違っていた。もうこだわりのスクリーンだとか、思い切って買ったが置き場に困る照明一式だとかはどうでもいいから、この場でシャッターを切りたかった。そしてちょうど、いつもの癖で、カメラは今手に持っている。
「待って、動かないで、そのまま」
「今撮るの? 変じゃないかどうか訊いたのに」
「あーもう、困った顔すんな。悔しいくらい似合ってるんだから笑ってろ」
シャッター音の合間に、声。
「何で悔しいのよ」
こんな音でごまかせやしないけれど、今なら言える。
「選んだのがオレじゃないから。他の男に任せたのを後悔してんだよ」
ああ、悔しいけれど、役得だ。エトナリアが一気に赤面してから花のような笑顔に変わるまでの全てを写真に収められて、その瞬間に立ち会えるのは、レヴィアンスただ一人なのだから。


後日、新聞に写真が掲載された。司令部の掲示板に貼られたそれを見てから、イリスは大総統室に走る。
「失礼しまーす。レヴィ兄、みんな写真の話題でもちきりだよ」
「ああ、あれね。よく撮れてるだろ」
「そりゃあ、レヴィ兄の持ってる道具全部惜しみなく使ったら、よく撮れるよね」
広めの部屋をさらに改造して、スタジオのように使えることを、妹分はよく知っている。大総統を引退したら写真屋でもやればいいのではないか。
掲載された写真が、レヴィアンスが急に午前休みを取った日のものであることは、イリスも承知している。そのためにガードナーに呼び出され、二人で午前の仕事を片付けたのだ。
――午前休みって、レヴィ兄、どうしたんですか?
――閣下は夫人とデートです。ですから私たちが代わりに頑張りましょう。
まさか部屋で写真を撮っただけで終わったデートだなんて、そのときは思っていなかったわけだが。
「エトナさんが顔出し厳禁なのがちょっと残念だけど、いい写真だった。そのために買った衣装全部プレゼントしたのもまあかっこいい。これでコーディネートをガードナーさんに全任せじゃなければもっと良かったね」
「やめろよー。オレだってそこ気にしてるんだから。でもいいだろ、あの恰好」
「うん、さすがガードナーさん。新聞だとモノクロになっちゃうのがもったいない。あれ、カラーで見られない? レヴィ兄、もとの写真持ってるんだよね」
新聞に載ったのは、大きな帽子をかぶったエトナリアとレヴィアンスが並んだ、その後姿。それだけでも十分きれいな写真だったのだけれど、やっぱりカラーで、できれば正面から撮ったものを見てみたい。
けれどもイリスがどんなに頼んでも、レヴィアンスは首を縦に振らなかった。「だめー」「やだー」とかわし続け、とうとう写真は見せてもらえなかった。
「いつもなら、自分で撮った写真はすごく自慢してくるのに。なんで今回のだけだめなのよ」
脹れるイリスに、ガードナーが冷たいお茶を持ってきてくれた。そしてこっそり囁く。
「私も見せていただいていないんですよ。あの日のことは、閣下と夫人の秘密なんです」
「……あー、そういうこと」
ようやくイリスにも合点がいった。つまりレヴィアンスは、エトナリアを独占したいのだ。一番きれいな瞬間は、自分と相手以外の誰にも見せまいとしているのだろう。ニヤニヤしながらレヴィアンスを見ると、「いいから仕事」と書類を寄越された。
――なんだ、レヴィ兄、新しい恋できてんじゃん。順番がめちゃくちゃだけど。
今日もレヴィアンスの左手の薬指には、銀のシンプルな指輪がある。そしてきっと、どこかで忙しく働いているエトナリアの指にも。
あたしたち、たぶん周りが思ってるより、お互いが好きよ。――あのときは本人たちにとっても「たぶん」だったのかもしれないけれど、今は確かだ。



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2017年07月16日

希望と願いの剣

インフェリア家はエルニーニャ王国建国の英雄の末裔、軍御三家の一つ。代々軍人を生業としてきた。しかしその十七代目にあたるカスケード・インフェリアは、大総統を務めた祖父と同じ名前を持っているにもかかわらず、軍人にはなりたがらなかった。そうなることを強要する父への反発だったが、結局は父の出した条件をのんで軍籍に入った。高い身体能力と、何より家名が入隊の決め手だった。
ジューンリー家は特に歴史に名を遺すこともない、平凡な一市民だった。あえていうなら代々手先は器用で、細かい作業を必要とする仕事や、細工物を作ることで生計を立てる者が多かった。ニア・ジューンリーの親も銀細工を作って売ることを仕事にしていたが、そんな平和で平凡な日々は、ある日突然炎に包まれ、跡形もなく燃え尽きてしまった。唯一生き残り、行き場をなくしたニアが選んだのは、軍に入ることだった。
そんな二人が出会い、手を取り、一緒に「人を助ける軍人」を目指すことになった。ニアはカスケードを家名で特別視するようなことはしなかったし、カスケードはニアがみなしごであることを必要以上には気にしなかった。ただ、二人で同じ方向へ歩いていられれば、それで良かった。
「親友」でいられれば、それで。
二人が始まった夏の盛り、それから時間は流れ、十五歳の夏。誕生日が近い二人が一緒に出掛けて、ニアが大剣を手に入れた、これはその後の物語。


重い大剣を引きずる親友の姿を、カスケードはかれこれ一時間眺めていた。もちろんそのあいだ、自分も射撃訓練をしたりしていたのだが、ニアが新しい相棒と格闘しているのが気になって仕方がなかった。
「ニア、やっぱり無茶じゃないか。今まで通り細い剣を使ってたほうがいいって。そんな重いの、扱いにくいだろ」
少し離れたところから声を飛ばす。するとニアは、ムッとして返事をした。きれいな形の眉が寄る。
「そんなの、やってみなきゃわからないよ。使ってたら、扱えるようになるはず。なにかコツが掴めるかもしれない。僕は絶対に諦めないからね」
今まで、ニアの得物は軍支給の細身の剣だった。軽くて扱いやすい、女性が選ぶことも多いものだ。ニアは見た目が華奢で、実際十五歳男子としては少々非力ではあったので、それが最も扱いやすかったはずだ。それが急に大剣を持つことになったのは、十五歳の誕生日に、それに出会ってしまったからだ。
カスケードとともに商店街へ出かけ、そこで見つけた、幅の広い大きな刃にしっかりとした柄の剣。巨大なそれに、ニアはあろうことか一目惚れしてしまった。しかもその店の主は、「コツを掴めば使える」とニアにそれを譲ってしまったのだった。
店主の親友の、最後の作だという大剣。ニアは店主の親友への思いを代わりに受け取り、それを使いこなすことを目指して特訓を始めた。カスケードも「使えると信じてくれたのだから、大切に使うのがニアの義務だ」などと励ましたが、実際に訓練しているところを見ると、やはり不安になる。
ニアの体格と大剣は、どう見ても不釣り合いだ。引きずっている時点でアウトだろう。今になって、カスケードは自分の発言を後悔していた。余計なことを言って、ニアに期待を持たせるのではなかった。
「諦めないにしても、今日はもうやめとこうぜ。腹も減ってきたし」
今は終業後。練兵場には見張りの上官がいて、残って訓練をしている下級兵たちの様子をチェックしていた。その視線も、こちらへ向くと苦笑いするのだ。誰もが、ニアに大剣を扱うのは無理だろうと思っている。
できると信じたいと思ったカスケードでも無茶だと思うのだから、他の人はもっと「無理だ」「不可能だ」と思っているかもしれない。
それでもニアは、そんな視線や声など無視して、大剣を必死に持ち上げて振るおうとし、耐え切れずに地面に落とすことを繰り返していた。
「カスケードは先に戻ってていいよ。僕はもう少しやっていく。筋力トレーニングにもなるし」
「お前を残してくくらいなら待ってるよ」
「そう? じゃあ、あと五分だけ」
ニアは頑固だ。強情だ。それは実は、出会った時から変わっていないのだった。笑顔と穏やかな声で、他人にはそうとわかりにくかっただけで。

上司と二人の軍人寮の部屋で、カスケードはぼうっとしていた。ニアは別室で、他の上司と一緒に暮らしている。同じ部屋だったらいいのに、と話したことはあるけれど、それは実現されていなかった。カスケードの同室は軍家出身の者、ニアの同室は子供の頃に身寄りをなくした、つまりは同じ境遇の人間だ。
「インフェリア、ぼーっとしすぎ。暇なら武器の手入れするなり、ちょっと勉強するなりしたら? お前、趣味とかないんだし」
同室は悪気なくそんな言葉をかけて、自分は飴を舐めながら漫画本を読んでいた。瓶にいっぱい入った飴を、カスケードに分けてくれたことは一度もない。欲しいとも思わないが。
「別に、なんにも考えてないわけじゃない。ニアのことを考えてたんです」
「ジューンリーのことなら四六時中考えてるじゃんか、お前。あいつのこと好きなんだろ? 同室になれるよう、セレスさんに言っといてやろうか」
コロコロと飴を口の中で転がしながら、同室は笑う。この同室が「わざわざ部屋替えまでして同室になるようなやつらは、寮管理人のセレスさんに付き合ってるんだと思われてる」なんて言うものだから、カスケードからニアに同じ部屋になれたらいいなと話すことはなくなった。気恥ずかしくて、できなくなってしまった。
「あー、でも、最近のジューンリーに関しては俺も思うところがあるかな」
同室は漫画本から目を離さないまま言う。
「どういうことですか」
「お前もわかってんじゃない? あの大剣だよ。突然手に入れて、すぐに武器登録して。あんなでかいの、ジューンリーみたいなひょろひょろに使えるわけないじゃん。大剣ってのは、もっと鍛え上げたやつがぶんぶん振り回して使うんだよ。周りの敵を一振りで一掃する、その光景は超かっこいい。でもさあ、ジューンリーにはそんなの無理無理。だってそもそも、まともに持ち上げられないし」
あいつチビだしなあ、と同室は鼻で笑い、漫画のページを捲った。カスケードは無性に腹が立ったが、言い返すことはしなかった。自分もニアにあの武器は無茶だと思っていた一人なのだから、言い返せない。
「インフェリアも、友達ならはっきり言ってやったら? もとの武器に戻せって。じゃないと任務のときも足手纏いになる。お前らよく組むんだし、諦めさせるのも優しさだよ」
確かにカスケードとニアはよく組む。二人とも今はフリーの人員だが、そのうちどこかの班に組み込まれて仕事をすることも増えてくるだろう。軍の多くの人間は大なり小なり班に所属して、任務には極力まとまった人数で臨んでいる。ニアが大剣を使いこなせなければ、その班でもうまく立ち回れなくなってしまうだろう。カスケードとニアが同じ班になるという確証はない。今、寮での部屋が別々であるように。
一緒ならサポートできる。ニアがその頭の良さを生かして作戦を立てて、カスケードが動けばいいのだ。今もそうしている。でも、別れてしまったら。
諦めさせるのも優しさ。ニアがこれから上手く立ち回るためには、彼の憧れを断ち切らせることも必要なのかもしれない。カスケードは組んだ腕に顔を埋め、ニアの笑顔を思った。大剣を苦労して持ち上げながら、それでも彼は希望を湛えて笑っていたのだ。

翌日もニアは、空き時間には練兵場で大剣を手にしていた。昨日持ち上がらなかったものが今日になって突然軽々と扱えるということはもちろんなく、重い鋼の塊との格闘は続いている。柄を何度か握り直しては少し持ち上げることを繰り返している様子からは、とても実戦で動けそうにない。
カスケードは自分の訓練をしながらニアを見て、何度か口を開きかけた。もういいんじゃないか、と。大切なものを譲り受けただけでもすごいことなんじゃないか、と。それとも、扱えると信じているだなんて無責任に発言したことを謝るべきだろうか。
結局何も言えないまま訓練の時間は終わり、二人で事務仕事なり簡単な任務なりに向かう。視察任務のときにニアが持っていくのは、大剣ではなく、軍支給の細身の剣だった。
「そっちも使うんだな」
「登録を解除したわけじゃないからね。今はまだ、こっちの方が役に立つ」
それを聞いてホッとした。つまり、いつニアが諦めても、武器で困ることはない。しかしニアはキラキラした瞳で続けた。
「でも、やっぱり大剣を実戦で使えるようになりたいな。あっちのほうがリーチがあるし、力も大きい。例えば、他の先輩たちがやっているような大型獣の退治なら、大剣のほうが断然都合がいい」
諦めるつもりなんか毛頭ない。きっとカスケードが無理だと言っても、ニアはあの大剣へのこだわりを捨てないだろう。あれはニアの願いの象徴だ。人を助ける軍人になりたいという、変わらぬ願いの。
一緒に同じものを目指すと約束した自分が、ニアの願いを否定しようとしている。そう思うと、カスケードの胸はじくじくと痛んだ。
「カスケード、そんな変な顔してどうしたの」
「変……失礼だな、変な顔なんかしてない。むしろ俺はかっこいい! と、よく言われる!」
「ええ、絶対今変な顔してたよ。何かまた、面倒なこと考えてるんでしょう。僕にはわかるんだよ」
ニアにはお見通しだ。こちらが悩んでいることも、もしかしたらその内容も。それでも大剣を使おうとしているのであれば、もう止める手立てなんかない。彼に中途半端な「優しさ」なんて必要ないのだろう。ニアは最初から、カスケードより強かった。胸に抱く、魂ともいえる心の形が、全然違った。
「あのさ、ニア。もし……もしも、だぞ。大剣が使えなかったらどうするんだ」
嘘がつけない、ごまかしが下手なカスケードだから、尋ねてしまう。胸をしめつけられるような思いで、声を絞り出して。するとニアは振り返って、にこ、と笑って答えるのだ。
「使えるって店主さんが言ってたから、そのもしもはない。だから僕は、考えてない」
いつだって物事を考えてから動くニアが、大剣を使えないという未来を考えていないのなら、その未来はないのだ。彼はきっと、あの重い剣を使う。考えるのは、それを使うためにクリアしなければならないハンデをどう乗り越えるかだ。
「心配しなくても、ヒントは見つけたんだ。僕みたいに非力でも、あれを使える方法。まだ実践してないから、うまくいくかどうかはわからないけどね」
「本当か?! どうやって」
驚くカスケードに、ニアは唇の端を持ち上げ、人差し指を立てた。
「内緒」


その任務は、十五歳の年末に入ってきた。
「貴族家を狙った盗難事件が相次いでいる。一件は傷害もついていて、貴族たちはいよいよ怯えている。何とかしろと軍に詰めかけてくる者も後を絶たない状況だ」
「住宅街の見回りの強化と、一部貴族家の護衛をします。護衛対象になるのは、年配の方や小さな子供、心身に障碍を持つ人を抱えている家庭。それぞれ交代で行なうので、持ち回りを確認しておいて」
事件のために大班が結成された。カスケードたちの上には、日ごろから世話になっている上司、マグダレーナがいる。よほど大事にならない限りは、彼女の指示に従うことになる。
「よろしくね、カスケード君、ニア君。あなたたちのコンビネーションには、みんな大いに期待しているんだから」
マグダレーナのウィンクに、カスケードとニアはしっかりと頷いた。また二人で組んで仕事ができるという嬉しさと、それ以上の使命感。もう二度と、昨年の春に出くわしてしまった事件のようなことはごめんだった。
昨年の四月、裕福層の住む住宅街で殺人事件が起きた。家の中も荒らされ、金品が持ち去られていたので、強盗殺人事件として処理されている。家主の男性が行方不明、女性が亡くなっており、三人の娘たちがかろうじて生き残っていた。その凄惨な現場を見てしまってから、そこにいた少女の涙を見てから、二人にとってこの手の事件は必ず防がなければならないものとして刻み込まれている。
「俺たちの担当は?」
「まずは見回りに加わってもらうわね。あなたたちはまだ階級が高いとはいえないから、護衛をさせるのは難しいの。実力はあっても、肩書がより重視されてしまうのが、こういう仕事だから」
だから頑張って出世してね、とマグダレーナが二人の背中を強めに叩いた。カスケードは嫌な顔をするが、ニアは笑って「はい」と返事をする。
見回りは今夜から始まる。カスケードとニアには、裕福層の住む住宅地の一画が割り当てられた。見回りの日は午前休みをとってもいいらしいが、第一陣である今日は朝から夜中までずっと仕事ということになる。十五歳の成長にはあまりよくないが、これも軍人としての務めだ。
見回りの時間になって外に集合したとき、カスケードはギョッとした。他の軍人たちも戸惑っている。ニアがあの大剣を背負っていたのだ。細い体に、あまりにも似合っていない。
「ニア、お前、それ使う気か?」
「使わないで済むといいよね。もし何か起こそうなんて人がいても、これを見たら驚いてやめるかもしれないでしょう」
むしろ見た目には弱そうなニアに、これ幸いと襲いかかってきそうなものだが。上司らに説得されても、ニアは首を縦に振らなかった。意地でも大剣を持って行くつもりだ。
「インフェリア、やめさせろよ」
ついにカスケードに助けを求め始める。けれども簡単に頷けない。ニアの頑固さは、ここにいる誰よりも知っている。そうと決めたら、梃子でも動かないのだ。
「俺がついてるんで、今日は許してもらえませんか。そうだ、いざとなったら俺がこの大剣使いますよ」
とっさに思いついたことを口にすると、上司たちは渋々と頷いた。まあ、インフェリアが一緒なら。ジューンリーもそれほど馬鹿ではないし。そう会話が飛び交う中で、カスケードはホッと胸をなでおろした。
しかし、ニアはそんなカスケードをじろりと睨む。
「カスケード、今の何? これは僕の武器だよ。カスケードには銃があるじゃない」
「そうだけど。でもさ、やっぱり大剣を扱うのって力がいるだろ。ニアは俺より非力だし……」
「だから僕には無理だっていうの? その認識は大きな間違いだ。僕には僕の、この剣との付き合い方がある」
ふい、とそっぽを向いたニアは、どうやら本気で怒ったようだ。そんなつもりじゃなかった、なんて白々しいことは、カスケードには言えない。喧嘩になってしまった今でも、戦わなければならなくなったら自分がニアから大剣を奪って振おうかと思っている。それが最も確実な、この剣の利用法だと。
険悪な雰囲気のまま、見回りが始まった。カスケードたちは指定された区画に、上司たちとともに向かう。冬のエルニーニャは、まだ暖かいほうだというが、ずっと住んでいる身にはやはり空気は冷たく感じる。コートをしっかり着込んでいても、体は震えるし、吐く息は白かった。
「ニア、寒くないか?」
「……平気」
まだ機嫌が直っていないらしく、返事は短い。どうしたものかと思っていると、手に温かいものが触れた。ニアが小さな白い布袋のようなものを、カスケードの手に押し当てている。
「これ、持ってれば温かいよ。僕はもう一つ持ってるから、あげる」
「サンキュ」
こんなときなのに、ニアはカスケードを思いやってくれていた。もっと怒ってもいいのに、ニアの怒りはいつも長続きしない。ことカスケードに対しては、頑固なくせに、別の部分で譲ってくれることが多かった。
揉むと熱を発するらしい布袋を、コートのポケットにしまう。時折、ポケットに手を入れて温めた。ニアがそうしているように、カスケードも真似る。冬の夜の一日目は、そうしているうちに何事もなく終わった。

二日目、三日目も、カスケードたちには何も起きなかった。他の区画に行った班は、怪しげな人物を捕まえることもあったようだが、いずれも貴族家を狙う者ではなかった。しかし事件は、軍を嘲笑うかのように続いている。見回りの目をすり抜け、軍が護衛をしていない家を巧妙に狙い、盗みは繰り返されていた。そうなると貴族たちの不満はいよいよ膨らみ、軍への苦情や不信感が今にも爆発しそうになっている。この事態を重く見たマグダレーナら上司たちは、より見回りを強化するよう計画を立て直した。見回りの時間は長くなり、一晩あたりで歩く距離も増える。他の仕事に支障が出ないギリギリのラインで動き、なんとかして事件を解決しようと尽力していた。
カスケードとニアも、欠伸を噛み殺しながら日々の仕事をこなし、見回りに参加する。ニアの背中には毎回大剣があったが、今のところ一度も抜かれてはいなかった。相手がいないのだから、抜く必要はない。
大剣を使わないことに、カスケードもニアも安堵していた。けれども理由はそれぞれ違う。カスケードはニアの身を案じ、ニアは自分の見回る場所が無事であることに安心した。
「でも、そろそろ窃盗犯は捕まえないとね。あんまり被害が増えて、もっと酷い事件になったら困る」
「そうだな。貴族は軍に頼らないで自分でなんとかしたほうがいいんじゃないかって言いだしたらしいし、怪我人がまた出る前に決着をつけたいって上司連中も言ってる」
もう二度と惨劇が起きないように。カスケードとニアの想いはそれだけだ。今夜も武器を手に、町中の見回りが始まった。
十二月ももう下旬。安心して新しい年が迎えられるよう、物騒な事件は片付けてしまいたい。貴族も軍も、その気持ちは同じだった。
「止まって。……今、屋根の上を何かが走っていった」
班を率いていたマグダレーナが、腕を伸ばして立ち止まる。見上げた班員たちは、遠くに微かに移動する影を見た。
「こちらマグダレーナ班、東区画にて不審者を発見。追います」
無線で他班と連絡をとった、それが合図。通信が終わるや否や、カスケードとニアも他の班員とともに走り出した。途中の道で半分ずつ分かれ、次の道でまた半分。影の走る方向を追ううちに、いつのまにかカスケードとニアは二人きりになっていた。
「カスケード、みんなと分かれちゃまずいんじゃない? これはちょっと分散しすぎだよ」
警戒するニアを気にしている余裕も、カスケードにはなかった。だって、不審者には確実に近づいているのだ。もうすぐで追いつくところまで来ているのだ。あれを他の仲間が来るまで放っておくわけにはいかない。
「行き先はみんな同じだ。合流できるだろ」
「相手が僕たちと同じように複数人だったら? 考えているよりも、もっと大きな組織だったら……」
そんなはずはない。見えた影は一つだった。相手は一人、あるいはこちらと同じように少人数に分散しているはずで、もしものときでも二人もいれば対処できる。カスケードは考えたままに、ニアに告げようとした。だが、できなかった。
「やっとガキどもだけになった」
「階級章の色はよく見えねえが、そんなに高くはなさそうだ。さっさとやっちまおう」
「軍の目を掻い潜るのも、いい加減面倒になってきたしな」
いつのまにか、二人は囲まれていた。周りには柄の悪そうな大人たちがいて、手には棍などの入手しやすい武器が見える。どうやらニアの懸念通り、相手は大人数で、カスケードたちを罠に嵌めたようだった。
「おいおい、チビのほうが何かでかいの持ってるぜ。使えんのかよ、あれ」
「ただの荷物だろ。でかいほうには気をつけておけ。暗くてよく見えねえが、ありゃあもしかすると、建国御三家の人間かもしれねえ」
カスケードの額に青筋が浮いた。家のことをどうこう言われ、それと自分を結び付けられるのが、カスケードは何よりも嫌だった。軍の人々はそれをわかっていて、あまりインフェリア家の話題は出さない。しかし相手は、何も知らない人間だ。
「カスケード、冷静に」
「わかってる」
ニアの声で深呼吸をし、落ち着いて銃を構える。射撃の腕は悪くないつもりだ。ニアが大剣を使えるかどうかがわからない今、頼れるのはカスケード自身の力だけだった。
相手が一斉に棍を振り上げて襲いかかってくる。こちらに到達するよりも早く、カスケードは引き金を引いた。弾丸が一発、二発と放たれるごとに、相手の手や足を撃ち抜いていく。けっして殺してはいけない。奴らを捕まえ、これまでの事件と関係があるのかどうか証言をさせなければならないからだ。もとよりカスケードには、殺すための技術も心構えも足りていないのだが。
ニアは攻撃をひたすら避け、勢いづいた相手の自滅を誘っている。大剣を背負っているというのに、足取りは重く見えない。そういえば一緒に訓練をしていて、足運びが随分良くなっていたなと、カスケードは思い出した。
気が反れた、ほんの一瞬。カスケードの手から銃が弾かれた。相手も銃を持っていたのだ。弾丸は手には当たらなかったが、しっかりと握っていたはずの銃を遠くに飛ばすくらいの威力はあった。暗闇も不利に働き、カスケードは自分の武器を完全に見失ってしまう。
「くそ……っ、ここからは体術だけで頑張るしかないか」
体術にもいくらか自信はある。そもそも実技能力の高さをかわれて軍に入隊したカスケードだ。ニアとの訓練の中で、その技術も力も、当時より格段にあがっている。近くにいた敵を蹴り飛ばし、殴り倒し、なんとか凌いだ。だが相手が銃を持っているとわかった以上、それもどこから狙われたのかがわからないままでは、その対抗策が見つからない。さすがに徒手空拳で立ち向かうことは難しいだろう。
どうする。ニアだって、いつまでも逃げていられるとは限らない。――俺がニアを守らなければ、やられてしまう。
「カスケード、あっちには今、誰もいない」
不意にニアが囁いた。示された方向には、たしかに敵がおらず、頑丈そうな塀がそびえていた。
「あっちに離れててくれる? ここは僕に任せて」
「任せてって、どうするんだよ」
大剣は満足に扱えないはずだ。扱えたのを見たことがない。カスケードよりも力の弱いニアでは、格闘でも不利だ。しかし、ニアは笑顔を浮かべていた。
「大丈夫。突破口は見えてるんだ。でも君を巻き込みたくないから、早く離れて」
馬鹿なことを言うな、と叱り飛ばすべきなのかもしれない。でも、そんな余裕はなかった。それに何より、大剣を背からおろして柄を握るニアが、とても自信に満ちていて。
気がつけば、カスケードはニアの指示に従っていた。
「さあ、いくよ。……僕には、僕の戦い方がある!」
嘲笑いながら襲いかかってくる人々と、どこかから聞こえた銃声。危ない、とカスケードが叫ぼうとしたその刹那。
大剣の刃が、宙に輝いた。大きな弧を描き、その軌道にいた者と、ついでに銃弾までも、跳ね飛ばした。
あの細い腕で、カスケードより小さな体で、ニアは大剣を完全に使いこなしていた。
両手で柄を握り、それでも持ち上がらなかったはずの大剣が、ふわりと浮き上がって、その鋼の広い面で周囲の敵を叩く。動きが大きく、その分だけ攻撃範囲も広い。たしかにカスケードが近くにいれば、巻き添えを食うだろう。呆然としていると、手に何かが当たった。触れてみると、慣れた感触。どこに飛んだのかわからなくなっていた、カスケードの銃だった。ニアの周りは彼がどうにかする。誰だって、今のニアには近づけない。だったら離れたところにいる者は、カスケードの担当だ。再び銃のグリップを握りしめ、身体は体術の姿勢をとる。素早くあたりを見回すと、不思議なことに、遠くからニアを狙おうとしていた狙撃手がはっきりと見えた。近くにいた敵に拳を浴びせた直後、弾丸を放つ。闇の中で小さな影が膝を崩した。
突破口はある――ニアはずっと、このときを見据えていた。大剣を自在に操る、そのコツを掴んでいた。ただ日々を大剣を持ち上げては置くだけの繰り返しに費やしていたわけではない。どう扱えば自分の力でもこの大きな武器が振るえるのか、彼はずっと頭の中で計算していた。それがニアの得意なことであり、器用に道具を使うことはもっと得意なことだった。どうしてそれを忘れていたんだ、とカスケードはにんまり笑う。やっぱりニアは、すごいやつだ。
他の人員が現場に到着する頃には、カスケードたちを囲んでいた集団は壊滅していた。大剣を手にするニアに、誰もがぽかんとする。そんな軍人たちに、ニアは、えへ、と照れたように笑った。
同時に、他の班が窃盗団の確保に成功したようだ。その晩、窃盗事件は終息を迎えたのだった。


明日から新しい年を迎える。それと同時に、カスケードとニアの年齢は十六歳になる。満年齢はまだ十五歳だが、この国では一般的に年が変われば年齢も上がる扱いだ。
例のごとく実家に帰るのを嫌がったカスケードは、ニアの暮らす部屋に入り浸り――年末年始は二人とも同室の上司がいないのだ――インスタント食品と炭酸飲料と菓子を大量に持ち込んで年を越そうとしていた。
「ニアの部屋の人って、休みの日いつもどこ行ってんの」
柑橘の皮をむきながら、カスケードは興味なさげに尋ねる。
「お世話になってた施設の手伝いに行ってるんだよ。前に言わなかったっけ」
「んー、忘れた」
果物の実を口に放り込む。酸っぱい味が広がって、そこに炭酸飲料を流し込んだ。
「なあ、ニア」
「何?」
「あの大剣、どうやって使えるようになったんだ。店主が言ってたコツっての、掴んだんだろ」
ずっと訊きたかった。どうしてあの瞬間、ニアは大剣を振るうことができたのか。掴めば使えるようになるという「コツ」とは何だったのか。身を乗りだすカスケードに、ニアは首を傾げて微笑んだ。
「知りたい?」
「もちろん」
「でも、カスケード、信じてなかったでしょう。励ましてくれたけど、本当は僕に大剣を使うのは無理だって思ってた」
ぎくりとした、感情がそのまま顔に出る。しかしニアは怒らずに、代わりにいたずらが成功した子供のような顔をした。
「だから今は教えない。どうしても知りたかったら、いつか突き止めてごらん」
「ええー、それ余計気になる……」
テーブルに突っ伏したカスケードの頭を、ニアがぽんぽんと優しく叩く。きっといつかはわかる。カスケードも、あの大剣を使ってみればいい。
それは少し遠く、けれどもあまりに近すぎる未来の話。それまで二人は、並んで歩いて行くのだ。



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2017年07月04日

大切な世界を描く魔法

エルニーニャ王国首都、レジーナにあるギャラリー。企業が簡易な展示に使うこともあれば、個人がレンタルして小規模の個展を開くこともある。用途はさまざまである。
本日そこで行われているのは、新進気鋭の人気画家の個展だ。ファンだけでなく、通りすがりの人も出入りし、盛況の様相を見せている。
しかしそれを狙って、怪しい動きをする者がいた。どんな結果が待っているかも知らないで。


「イリス中尉、例のものが欲しいのですが……」
そっと近づき囁きかけるのは、イリスと同じ軍人の女の子二人組だ。緊張した面持ちで、こちらを見上げている。
「例の、ね。いくつ欲しいの?」
「私とこの子と、あともう二人欲しいって子がいます。四で」
「まいどあり。たっぷり楽しんでね」
にい、と笑ってポケットに手を入れたイリスの頭は、後ろからスパンと叩かれた。
「お前は司令部内で、何怪しげなことしてるんだ」
「いったあ……。ゼン、本気で叩いたでしょ。頭割れたらどうするの」
「割れてもこぼれるほど中身入ってなさそうだけどな」
ぎゃあぎゃあと騒ぐルイゼンとイリスを目の前に、女子二人は戸惑っている。気づいたイリスは、慌ててポケットから四枚の紙を取り出した。短冊状のそれには、鮮やかな絵が印刷されている。
「はい、チケット四枚。合計四八〇〇エアーだけど、大丈夫?」
「ちゃんと準備してきました。ありがとうございます、中尉!」
チケットと引き換えに受け取ったお金は、イリスの普段使いの財布ではなく、お札も入る便利なコインケースへ。そこにはちゃんと「お兄ちゃん用」と書かれている。ルイゼンは呆れ果てて、大きな溜息を吐いた。
「お兄さんの個展のチケットなら、もっと堂々と捌けよ」
「宣伝は堂々としたもん。声かけてねって言ったら何組かこうやって来てくれたの。だからついノリで」
「ノリで怪しい売人ごっこするんじゃない。お兄さんにも迷惑だろ」
軍の人々がイリスのところへ買い求めに来ていたのは、イリスの兄、ニアが開く個展の前売りチケットだ。題して『海の瞳が見る世界〜ニア・インフェリア個人展〜』。ちなみにこのタイトルを考えたのは父、カスケードである。個展を開く当人は散々恥ずかしがった後に「それでいいよもう」と諦めたように言い放っていた。
それはともかく、前売りチケットの売れ行きは好調だ。軍では伝説の人として、巷ではここ数年でよく見るようになった芸術家として、ニアの名は有名である。春に出版された、装画を担当した小説がベストセラーになっていることも手伝って、今度の個展は大入りが見込まれている。イリスも楽しみだった。
「個展のための新作もあるんだよ。ここでしか手に入らないオリジナルグッズも」
「お前、いい広告塔だなあ……」
大好きな兄のためなら、気合が入るというものである。作品だって大好きだ。好きなものを知ってもらえる、触れてもらえる喜びで、イリスはキラキラしていた。その輝きに惹かれて、もともとイリスのファンだった女性軍人たちがチケットを買いにやってくる。本当に良い広告だ。
「でも、それとこれとは別だ。仕事溜まってるからな、働け」
「だよね。ゼンがわたしを呼びに来るってことは、そういうことだよね」
しばらくはこの状態が続きそうだ。まあ平和ならいいか、とルイゼンはイリスを事務室へと引きずっていく。


一方、ニアは個展の準備に忙しい日々を送っていた。自分一人の作品を展示するとはいえ、動くのは自分だけではない。方々に連絡して協力を得て、必要な人手や費用のことを常に考え、会場に施せる工夫はもっとないものかとアイディアを出し続ける。出展する作品はほぼ揃っているので問題はないが、まだ何かできるのではないか、足りないものはないだろうかとずっと動き回っていた。
「ニアさん、お昼ご飯にしましょう。お腹が空くと考えがまとまらないですから」
こんなとき、ニールというサポーターがいるのはとてもありがたいことだった。一年前までは根を詰めすぎてイライラしていたであろうところを、この子がスマートに助けて癒してくれる。子供に気を遣わせてしまうのは申し訳ないと思いつつ、今は少しだけ甘えさせてもらうことにしていた。
「ありがとう。あ、なんか香草の良い匂い」
「アーシェさんに教わったんです。ご飯と野菜とひき肉を炒めて、味と香りをつけるんですよ」
そもそも食事は、ニアよりも、同居しているルーファよりも、ニールが一番できる家なのだった。こういうときの美味しい食事は素直に嬉しい。ニア独りでは、どうせあまり味のしないものを食べるよりはと、食べないことが多かった。
「うん、すごく美味しいね。ニールはよくできた子だなあ」
「上手にできて良かったです。食べ終わったら、食器はそのままでいいですからね。ニアさんは運送屋さんとの打ち合わせを済ませてください」
「あ、それそれ。早くやらないとって思ってたんだ。言ってくれてありがとう」
スケジュール管理は得意な方だが、やらなければいけないことが重なると何かを忘れてしまうことがある。それを手伝ってくれるのも、この有能な息子だ。いつのまにかこちらの予定や進度を把握していて、随所で声をかけてくれる。ニール曰く「お母さんがちょっと忘れっぽい人だったので」とのことだが、そのために自分がしっかりしていようという姿勢が素晴らしい。すでに逝去したニールの母親にも、ニアたちは間接的に大いに救われていた。
「手伝えることがあったら何でも言ってくださいね。僕、頑張りますから」
「そんなに頑張りすぎなくてもいいよ」
「頑張りたいんです。だって、僕もニアさんの作品のファンですから。個展、絶対成功させたいです」
にこ、と笑う小さなスタッフに、感謝のあまり涙が出そうだった。ニアは大きく頷く。
「そうだね、絶対成功させよう。イリスの話だと、結構たくさんの人が来てくれるみたいだし」
過去にも個展は何度かやった。グループ展も。回を重ねるたびに訪れる人は増え、おそらく今回は最大になる。ニールが来てからしばらくは外での仕事を控え、個展は一年以上やっていなかった。そのあいだにも、次はいつやるんですか、楽しみにしています、という声があった。そういう人たちが、今回を応援し、盛り上げてくれている。前評判は上々だ。だったら期待に応えなければ。
「運送屋さんとの打ち合わせが終わったら、そろそろ雑誌のエッセイにも手を付けたほうが良いと思います。ニアさんは筆が速いですけど、さすがに今回は後に詰まってくると大変でしょうし」
「エッセイかー。あれもそろそろ連載一年になるんだね」
しみじみと予定を整理しながら、昼食を終えた。エネルギーを充填したら、活動再開だ。

ところがその晩、予想していなかった事態が発生した。帰宅したルーファが、テーブルの上に封書を置いたのだ。
「郵便受けに入ってた。ニア宛だから、個展関係かも」
「なんだろう。手続きは順調なはずだけど」
軍人時代からの癖で、ニアは封筒をまじまじと眺めてしまう。消印あり、ちゃんと郵便局を通して届けられたものだ。宛名書きは印刷。そして差出人は――どこにも記載がない。
「個展関係者ならちゃんと名前書くよ。やだなあ、こういうの開けるの」
「ニアさん、ペーパーナイフ持ってきました」
ファンレターが届くことはまれにある。絵を買ってくれた人がうっかり自分の名前を書き忘れることも、ときどきある。だが、嫌がらせもごくわずかにある。作品への文句は感想として受け取るのでともかくとして、ニアの軍人時代を掘り返して難癖をつけてくるのが、最も質が悪い。
ニールからペーパーナイフを受け取って開封すると、嫌な予感は当たった。
『人間兵器が芸術などおこがましい。今度の個展はせいぜい気をつけろ』
便箋に印刷された文面に、ルーファとニールが顔を顰める。ニアは溜息を吐いて、便箋をテーブルに落とした。
「たぶん、同時期に軍にいた人だね。じゃなきゃこんな書き方はしない。人がたくさん来るから、一応対策をしておかないと」
「どうしましょう。警備は一応頼んでますよね。軍にも相談しますか?」
「イリスに言ってみたらどうだ。動いてくれると思うけど」
しかしニアは首を横に振る。イリスは今回、一般の来場者として来てくれることになっている。せっかく楽しみにしてくれているのに、台無しにはしたくない。とすると、警備を少し厳しくしてもらうか。あるいは。
「……ちょっとこっちも準備しておこうか」
静かに怒るニアに、ルーファとニールはぞっとする。これが一番怖いということを、差出人は知らないのだろうか。
「二人にお願い。この手紙のことは絶対、誰にも言わないで。警備会社にだけ連絡しておくから」
「わかった。でも、俺にできることは協力するからな」
「本当に軍に言わなくていいんですか? これ、犯罪ですよね。ただのいたずらならまだいいですけど、何か起きたら……」
「大丈夫」
口元だけで、ニアは笑う。瞳は、グロテスクな魚が泳ぐ深海の色をしていた。――ああ、本気だ。
「何か起こそうものなら、僕が絶対に許さない」
邪魔する者を、本気で潰そうとしているのだ、この人は。


怪文書が届いたこと以外は順調にことが運び、個展の前に発売された雑誌には無事にニアのエッセイが掲載された。もちろん個展の宣伝もしてある。
何も知らないイリスはその雑誌を買い、兄が担当した箇所だけを何度も読み返していた。いよいよ明日から、個展が始まる。
「イリス、兄君の個展は九日間だったか。まさか全日程行く気ではないだろうな」
メイベルが疑いの眼差しを向けてくる。本当はそうしたかったところだが、仕事がある身としてはそうもいかないのが現実だ。
「休みとってる日だけだよ。逆に言えば、休みの日は全部通い詰めるんだけど」
「イリスさん、自分でチケット四枚くらい買ってましたよね」
クスクスとカリンが笑う。そういう彼女らもチケットを買ってくれていた。一日はイリスと見に行き、そして別の日にもう一度、家族で行くのだという。こういう機会でもないと出かけられないからな、と大量のチケットを購入してくれたブロッケン姉妹に、イリスは頭が上がらない。
「九日間か。お兄さん、忙しいだろうな。迷惑かけないようにしないと」
ルイゼンが書類に視線を落としたまま、さりげなくイリスを牽制する。ルイゼンも一日は行く予定だ。リーゼッタ班は一番忙しいルイゼンの予定に合わせて、全員で個展を見に行く日をつくっているのだった。これにリチェスタも誘ったので、六人で行くことになっている。
「一日は僕たちと行くとして、あとの三日は?」
情報処理室から新たな書類を持って来たフィネーロが尋ねる。イリスはちょっと視線を逸らしながら答えた。
「一日はエイマルちゃんとニールと一緒に。まあ、ニールは家族特権で全日程行くんだけどね。で、一日は一人でゆっくり見たいんだ」
「あとの一日は」
「まさか」
フィネーロが詰め寄り、メイベルは不機嫌そうな表情になり、カリンは困った顔をし、ルイゼンは書類に集中しようとする。イリスに嘘はつけないことを、同じ班の人間なら当然知っている。結局、耐えられずに白状してしまった。
「ウルフにもチケット買ってもらったから、一緒に行くことになった……」
全員が、やっぱり、と肩を落とす。ウルフとはまだ付き合ってもいないが、認められてもいないのだ。
「変態盗人を連れて行ったら、作品を盗まれないか。展示品は絵だけではないんだろう」
「しないよ。警備の人、ウルフの勤め先の人たちだし。ウルフもシフト入ってるはず」
「イリスさんとデートするなんて、盗人さんずるいです」
「いや、だから盗まないって」
「イリスの兄さんの作品は、今とても相場が良いらしいな。気をつけろよ」
「フィンまで疑ってる……」
事務室は一気に賑やかになった。室長はこちらを苦笑いして見ていて、周囲も「また始まった」と生温かい視線をくれる。そこにルイゼンの一喝が飛んだ。
「お前ら、いいから仕事しろ!」
副室長ルイゼン・リーゼッタは、今日も胃が痛い。みんなで出かけるとなったら、いったいどうなってしまうのだろうか。

会場設営はほぼ完璧だ。準備の段階では何事もなく、無事に明日の初日を迎えられそうだった。今夜から警備がついて、たくさんの人とともに作り上げたギャラリーを守ってくれる。まずは一段落だ。
「設営のご協力、ありがとうございます。案内スタッフさんは、明日からもよろしくお願いします」
にこやかに挨拶をして、スタッフたちを見送ってから、ニアは警備会社の担当者に向き直った。この個展期間中に何かあるかもしれないと、知っている一人だ。
「何かあったら、来場された方の安全の確保を最優先してください。作品のことは気にしなくていいですから」
「何言ってるんですか。来場者も作品も、それからインフェリアさんも、全部守ってこその我々の仕事です。うちの社員の半数は元軍人ですからね、心得てますよ」
「それでは、頼らせていただきます。でもいざとなったら、僕のことは本当に構わないでいいですから。元軍人なのはこちらも同じです」
ニアの笑みに、警備員が震える。その表情に宿る底知れないものを、同じ元軍人だからこそ感じ取ったのだった。――人間兵器、ニア・インフェリア。もし、その本領が発揮されてしまうようなことがあったら、一大事だ。そのようなことがないように、警備を厳重にしなければ。
決意を固めているところへ、警備員の同僚がやってきた。ひょろりと背の高い青年だ。ギャラリー周りの確認をしてきたらしい。
「戸締りは問題ありません。不審物も見当たりませんでした」
「おう、ご苦労。お前、今夜はシフトだったよな。しっかり守れよ」
「もちろんです」
青年はにっこり笑い、ニアのほうへ向き直った。そういえば、とニアは気づく。この警備会社には、要注意人物がいたのではなかったか。
「今夜からよろしくお願いしますね、『お義兄さん』」
元怪盗だが、現在は物の盗みはやっていない。その代わり、妹を盗まれた。警備員ウルフ・ヤンソネンの差し出す右手を、ニアはぎこちなく握る。
「よろしく。でも、『お義兄さん』になった覚えはないよ」
彼だけは外してもらうべきだっただろうか。しかし、もしもの際にはその身体能力が頼りになるのも、ニアは知ってしまっていた。
かくして、怒涛の九日間が幕を開ける。


初日は大盛況。祝いにと詰めかけたお世話になった人々と、個展を心待ちにしていたファンで、ギャラリーは溢れかえった。対応に追われながらも危険はないか確認していたニアだったが、その日は何事もなく終えることができた。
ホッとしたのもつかの間の二日目、本日は知り合いがぞろぞろとやってくることになっている。
「お兄ちゃん、来たよ!」
イリスは一日おきに来ることになっている。どうやって休みをとったのだか。一緒に来てくれたルイゼンにそれとなく確かめると「そのために頑張ってもらいました」ということだ。
「本当は初日と最終日に来たかったんだけど、ちょうど外での仕事が入っててね」
「仕事を優先しなよ。ここに来ているあいだは、ゆっくり見ていって」
イリスたちには案内はつけなくても大丈夫だろう。イリス本人が十分に案内できる。案の定、最初の作品から説明を始めていた。メイベルとカリンは、その説明を覚える気らしい。弟や妹を連れてきたときに、紹介したいのだそうだ。
「ああ、これは以前に雑誌で見た。イリスの兄君が描く海は素晴らしい」
「本当に海の中にいるみたい。展示の仕方も、光が工夫してあって素敵ですね」
カリンが気づいてくれたポイントは、ニアの自慢でもある。アイディアを出し、設営スタッフと相談を重ねて作り上げたのだ。
「お、銀細工だ。これもお兄さんの得意な分野だよな」
ルイゼンは、実は絵よりもこちらが好きだ。手先の器用なニアが一つ一つ丁寧に仕上げる細工物。初めて作ったのは今もイリスがつけているカフスで、けれどもその事実は身近な人しか知らない。
「家具まであるのか。そういえば、フォース社からアートデザインシリーズが出ていたな」
「さすがフィンだね、よく知ってる。ルー兄ちゃんとのコラボなんだよ。これのおかげでルー兄ちゃん、ちょっと出世したんだ」
実際は手当てが多く出ただけで、何か役職に就いたとかそういうわけではない。だが、ルーファとタッグを組んで発売まで漕ぎ着けたアートデザイン家具のシリーズは、ニアとしても自信作だった。これを褒められると、ルーファも一緒に褒められたようで嬉しくなる。
「昔から見てるけど、イリスちゃんのお兄さん、なんでもできるよね。学校でも人気で、美術の模写課題ではみんな参考にするの。私も一度だけ、人物画を模写させてもらったのよ」
学生からの評判というのはあまり聞かないので、リチェスタの言葉は嬉しかった。できればその模写課題というものも見せてほしい。
「その人物画のコーナーがここみたいだね。プロのモデルさんを描くこともあるけど、見ての通りほとんどは身近な人」
そこは少し恥ずかしいコーナーで、ギリギリまで展開するかどうかを迷った。なにしろ、ニアがその人をどう思っているかがほとんどそのまま出てしまうのだ。描線や色使いが、描く対象によって異なるのは、見る人が見ればすぐに気づいてしまう。
「ほう、これは父君だな。実物より凛々しく見える」
「んー……そうだね、ベルの言う通りかも。お兄ちゃんが描くお父さんって、かっこいいんだよね。本人も真面目にしてたらかっこいいけど」
「あ、レヴィさんだ。大総統執務室に飾るのに、描いてもらえばいいのに」
「閣下の雰囲気が良く出ているな。なんかこう……適当な大人という感じが」
大総統執務室に肖像画を、という話が今までになかったわけではない。だが、そのたびにニアは断っている。あの部屋に相応しい絵は、ニアの画風では難しいのだ。個人的にならよく描かせてもらっているのだが。そういうとき、レヴィアンスには写真で返してもらっている。
「わあ、これ、とても素敵」
カリンが声をあげた。リチェスタもうっとりと溜息を吐く。なになに、と近づいたイリスが、ぴたりと足を止めた。それは説明できないだろう。誰にも内緒で描いていた新作だ。
ソファに腰かけ、そのまま眠っている三人の姿。真ん中にルーファ、左にニール、右にイリス。平和な時間を描いた一枚だった。見たままをスケッチし、それを時間をかけて仕上げた。この絵を描いているときのニアは幸福だった。
「寝顔描くなんて恥ずかしいよ、お兄ちゃん」
イリスの少々嬉しそうな抗議に、ニアはただただ笑みを浮かべていた。
ギャラリーを一周した六人は、アンケートまでしっかり記入して、ニアに挨拶をして帰って行った。今日も、何事もなかった。ただ嬉しいことがあっただけだ。

三日目も順調。四日目はイリスがエイマルを連れて再度来てくれた。ニールも一緒に見てまわる。
ニールは毎日ギャラリーに入り浸っている。スタッフ腕章をつけさせたので、出入りは自由だ。実際、日々の仕事をいくらか手伝ってもらっている。掃除の手際が良い子供として、他のスタッフにも評判が良かった。
「いつもはあたしがニール君にいろいろ話してるけど、今日は逆だね。ニアさんの作品なら、ニール君のほうが知ってるもん」
エイマルに頼られて、ニールは照れている。イリスは子供たちをにまにまと笑って見守りつつ、一度見たはずの展示をじっくり眺めていた。
「そう何度も見て、楽しい?」
手が空いたニアが声をかけると、即座に首肯される。
「楽しいよ。お兄ちゃんの作品は、何度見ても飽きない。小さい頃から見てるからかな、あると安心するものの一つなんだよね」
イリスが産まれたのは、ニアが十一歳のとき。物心つく頃にはすでに画用紙とクレヨンが友達だったニアは、そのくらいの年頃には絵を描くことがもっとも情熱を傾けられる趣味となっていた。エルニーニャ軍人として仕事をするかたわら、休みの日には絵に没頭することもあった。立体に手を出したのはその後のことだが、これも楽しかった。
そんな兄の姿を見て育ったイリスだから、兄の作るものが好きなのだ。
「そっか、安心する、か。そう言ってもらえると、作ってきた甲斐があるよ」
作品を作り上げるとき、それは楽しいだけではないこともある。思うようにいかないことや、プレッシャーに押しつぶされそうになることもしょっちゅうだ。できたものを発表するのも緊張するし、名が知れれば知れるほど様々な評価がつきまとう。
けれども何を言われようと、イリスの言葉を思い出せば、また作り続けられる気がした。いや、イリスだけではない。
「僕、ニアさんの風景画が好きなんだ」
ニールがエイマルに語るのが聞こえた。
「初めて見たのは、はがき大の、花畑の絵だった。きれいだったな。僕が涙で滲ませちゃって、ダメにしちゃったんだけどね。でもね、あの絵を見なかったら、僕はこうやってエイマルちゃんと話をすることもできなかったかもしれない」
ふわりと笑うニールは、ニアの絵を初めて見たあの頃にはいなかった。花畑の絵は、あの涙で滲んでしまった小さな水彩画は、悲しみにくれていたあの子を笑わせることができなかった。しかし前を向くきっかけにはなれたのだ。
「ニール君にとって、ニアさんの絵は特別なんだね。あたしとの出会いまで繋がった絵、か。それって、とっても素敵な魔法みたい」
「そう、魔法なんだよ。とっても地道で、いろんな道具や呪文が必要な、でもすごく大きな効果を持ってる魔法なんだ」
そうなったらいい、といつかニアは思っていた。泣いていた子供を笑顔にできるような、魔法のような絵が描けたらと。それはほんの一年ほど前。その気持ちを、子供たちは知らないはずなのに。
伝わっていた、と思うと、目頭が熱くなる。なんて幸福な一年だったろう。

五日目も無事に終えて、六日目が始まった。今のところ、異常はない。予想以上の来場者数があっただけだ。本当にあの封書は、ただのいたずらだったのかもしれない。
それはともかくとして。ある意味不穏な封書よりも見過ごせない事態が、本日は発生していた。
「こんにちは、お義兄さん。今日は仕事じゃなく、プライベートでおじゃまします」
「その『お義兄さん』っていうのやめてくれるかな。僕、弟を持ったつもりはないよ」
何を考えているのかわからない笑顔と、氷の微笑が対峙する。そのあいだで、三回目の来場となったイリスは頭を抱えていた。
ウルフも前売りチケットを入手していたということは、ニアの耳にも入っていた。イリスを介してではなく、警備会社の社長が引き受けてくれた分を買ったらしい。チケットが手に入ったから一緒に見に行かないか、とウルフがイリスを誘ったのだ。単純に兄の作品を見てくれるということが嬉しくて、イリスは即座に了承してしまったのだが、やはりもう少し考えるべきだった。
ニアがウルフをあまり快く思っていないということには、イリスも気づいていた。なにしろ過去にイリスに危害を加え、今年の頭には利用しようとした人物だ。そんな人と恋人になるかどうかにかかわらず付き合うことを疑問に思っているニアは、今、すこぶる機嫌が悪い。それをウルフが煽るものだから、さらに気まずくなっているのだ。
「お兄ちゃん、ウルフもお兄ちゃんの作品を見に来たんだよ。他の人と同じ。だから、あんまり刺々しい態度は……」
「そうですよ、お義兄さん。僕はあなたの作品、好きですよ」
「ありがとう。でも『お義兄さん』はやめてほしいな」
「ウルフ、頼むからお兄ちゃんを煽らないで。ほら、作品が好きなら見なきゃ!」
イリスに引っ張られて、ウルフは順路を進んでいく。その様子が、今日のイリスが特にめかしこんでいるのも相まって、余計にカップルらしく見えてしまう。あれが他の人なら微笑ましいのに、とニアは小さく息を吐いた。
他の来場者に挨拶をしながら、ときどきイリスたちのほうを確認する。どうやら作品は真剣に見てくれているようだ。ウルフが作品について何か述べると、イリスは柔らかく笑って返事をしている。あんな表情はめったにない。好きな人を見る顔だな、と思うと、一層複雑な気持ちになるニアだった。
「憂鬱そうだね、芸術家」
たった今入ってきた者が声をかける。振り向かずとも誰だかわかった。
「ああ、大総統閣下、いらっしゃい。仕事は?」
「ちょっと休憩。一応あいつ、要注意人物のリストから外れてないし」
レヴィアンスが遠くにいるウルフを小さく指さす。なるほど、見張りというわけだ。あの二人をたきつけたのもレヴィアンスだから、いくらか責任を感じているのかもしれない。
「しかしまあ、楽しそうにしちゃって。今回は公認デートだから、堂々とできるし」
「僕は認めてないよ」
「いい加減、認めてやりなよ。せっかく妹が幸せそうにしてるんだからさ」
オレも見て来るね、とレヴィアンスは行ってしまう。見送りながら、本当は認めるべきなんだろうな、と心の中で呟く。過去にいろいろあったとはいえ、今はウルフもイリスも自分のやるべきことをきちんとやって、大人になろうとしている。だったらニアも、大人として二人を見守るべきだろう。どうしても納得がいかないのは、きっと寂しいからだ。超お兄ちゃんっ子だった妹に、他に大切な人ができて、離れていってしまうのが。
「素晴らしかったな。見てるだけで癒されるというか、心が洗われるというか。これはちゃんと仕事をして、作品に何事もないようにしなきゃ」
「頼むよ、ウルフ。……あ、お兄ちゃん、まわってきたよ。ウルフね、細工物だけじゃなくて、絵の具とかにも結構詳しいの」
「へえ。それも昔取った杵柄?」
「ええ、まあ。でも材質に関係なく、お義兄さんの作品はどれも良いものだと思います」
「『お義兄さん』呼びは許してないけど、ありがとう」
まだ完全に認めることはできない。でも、そのうちこんなやりとりが当たり前になるのだろう。寂しいけれど、厭ではない。可愛くはないけれど、そこまで憎くもない。
イリスが産まれる前、ニアは少しだけ弟が欲しかったことがある。目の前にいるような、自分より背の高い、へらへら笑う生意気そうな弟を望んだことはないが。それでもいいかと思う日が、来るのだろうか。

七日目も異常はなかった。日数が残り少なくなると、先に来てくれた人が、まだ来ていない人を伴って再び来場してくれることもあった。評判が評判を呼び、来場者数は順調に増え、アンケートも箱一杯だ。
そして迎えた八日目、イリスが一人でやってきた。最終日は来られないので、この日のうちにじっくり見納めをしておくつもりだという。
「いくつかは持ち主に返しちゃうんだよね。だったらちゃんと見ておかないと」
展示されている作品の何点かは、購入してくれた人に連絡をとって借りている。家具のコーナーに展示してあるものは、ほとんど全てがフォース社のものだ。明日の最終日を過ぎれば、見る機会がなくなってしまうものもある。
この個展に出したことがきっかけで、売約の決まったものも数点。もちろん信頼できる筋だ。
「あの海のコーナーは、大体が売約済みです。細工物もこれから売りに出します。人物画は頼まれても商談に応じませんでした」
「実在の人物ばっかりだしね。レヴィ兄にとっての写真、お兄ちゃんにとっての絵で、あれは全部思い出だから。ニールも成長するごとに描かれるよ」
「照れるけど、嬉しいです。ニアさんがそれだけ僕のことを見てくれてるってことですから」
歩くイリスにニールがついていき、順路をゆっくり進む。このギャラリーで急ぐ人は、基本的にはいない。誰もが作品に見入って、ゆったりとした時間を過ごす。
明日で終えてしまうのがもったいないくらい、ニアにとっても心地よい時間だった。――その時までは。
「……あれ? ねえニール、これなんかおかしくない?」
ニアの代表作である、海を描いたシリーズの一枚の前で、イリスは足を止めた。少し遅れて追いついたニールが、イリスと並んで絵を見つめる。そして、あ、と声をあげた。小さな声だったが、それが良くない驚きを含んだものであることが、ニアにはわかった。
「どうしたの」
駆け寄ったニアの袖を、ニールが引っ張る。屈めというのだ。イリスも眉を顰めて額を突き合わせた。
「この絵、これまでと違います。今朝確認した時には、たしかにニアさんの絵だったのに」
「よく見るとお兄ちゃんの描き方じゃない。これ、偽物だよ」
ずっと絵を見てきた二人には、すぐにわかったらしい。ニアも慌てて顔を上げ、絵を見た。小さなサイズの絵だ。描線、着色の仕方などは、遠くから見れば気づかないだろう。けれどもたしかにニアのものではない。ここにあった本物によく似せてはいるが、別物だ。
「そんな……こんなに人がいるのに、いつ、どうやって入れ替えたんだろう」
そして本物はどこへ消えたのか。鞄に入る大きさの絵ではあるが、周りには人も多く、警備員の監視も常にある。入れ替えられるとすれば、よほど手際が良く、会場を把握している者だ。タイミングは今朝の確認より後。今は昼を過ぎた頃だ。もう外に持ち出されているかもしれない。
「どうしよう……。本物は、展示が終わったら人に譲ることになってたのに」
今朝からの人の流れや、警備員の配置などを思い出す。どこかに隙があれば、そのときに持ち去られたのだ。だが、ニアもずっとそのコーナーだけを見ていたわけではない。
「お兄ちゃん、今日のスタッフのシフトがわかるものは?」
「名簿を預かってるよ。でも、イリスを巻き込むわけには」
「何のためにわたしが一日おきに来たと思ってるの。こういうことがあるかもしれないからだよ」
気まぐれに来ていたのではなかったのか。ニアがつい感心していると、ニールが名簿を持って来た。
「これがスタッフの名簿です。でも、どうして?」
「ずっと見に来てたけど、お兄ちゃんの展示は人気で、開場から人が集まってた。人目があったら犯行には及べない。だとすれば、確認から開場までのあいだに絵がすり替えられた可能性が高いんじゃないかな。今朝のスタッフは……」
イリスはシフト表をざっと見て、顔を顰めた。そこにあった名前は、ウルフ・ヤンソネン。今朝は隣のコーナーを、今は外を担当している。
「まさか、彼が?」
「ウルフさん、もう悪いことはしないんじゃ……」
ニールが泣きそうな顔になる。ニアはそれを抱きしめ、眉間にしわを寄せた。
「しないよ、あいつは。でもこういうことなら、あいつが詳しい」
話を聞いてくる、とイリスがその場を離れようとしたときだった。来場者の一人が、偽物の絵をじっと眺め、おや、と言う。
「インフェリアさん、もう取りおいてくれているんですか。しかし本物を出しておかないと、勿体ないですよ」
「ハーバーさん……いらしてたんですか」
ニアが無理やり笑顔を作る。ニールがイリスにそっと耳打ちした。この人が、ここにあった本物の絵を買い取る予定になっているのだ。相当絵が好きらしく、目利きでもある。だからこの絵が自分が欲しいものではないということも、すぐにわかったようだった。
「見たところ、他の絵はレプリカではないようですが」
知らないうちに絵がすり替えられていたなんてことが、他人に知られては大変だ。ニアは「ちょっと気になることがありまして」などとごまかしているが、いつまでももつわけがない。
「ニール、わたしはウルフのところに行ってくる。ここから離れないで、会場をできるだけよく見ておいて」
「わかりました」
イリスは人の合間を上手にぬって、外へ出て行った。ニアは相手に言い訳をしながら、会場の様子を思い出す。今朝の確認から、開場までのあいだ。スタッフの配置はどうだったか。今とどのような違いがあるか。人員は――変わっていない。そしてそろそろ交代の時間になる。
――もし、イリスの言うことが本当だとしたら。
容疑者はスタッフの中にいる。そして、もうすぐ逃げられてしまうかもしれない。
前科があるウルフなら、簡単に盗むことができるかもしれない。速やかに偽物を用意することだって。だが彼は、もう足を洗っている。それにニアに取り入ろうとすることはしても、嫌がらせをする理由が見当たらない。
届いた封書との関係はあるのだろうか。『せいぜい気をつけろ』とあったが、今日まで無事だったので油断していた。でも。
――準備をしていないわけじゃない。もしものときは……。
「絵はここにありますよ、お義兄さん」
呼ぶ声がした。いけ好かないが、今このときだけは確かめたかった声。
「ヤンソネン君、それ」
振り向いたニアが見たものは、本物の絵を持ったウルフだった。隣でイリスが頷いているので、間違いない。スタッフや来場者たちも一斉にそちらに注目した。
その中で、全く別の動きを――そこから立ち去ろうとしている人間は、よく目立った。イリスがすぐさま駆け寄り、彼を捕まえる。
「絵はスタッフの控室で見つけた。もうすぐシフト交代の時間だから、それに合わせて持ち去ろうとしたんでしょう。お兄ちゃんに偽物の絵を売らせて、恥をかかせようとした。違う?」
「――っ、そんなのでたらめだ!」
叫んだのは、警備員の制服を着た男。年齢はニアより少し上だろう。準備の段階からこの展示を手伝ってくれていた者の一人だった。
「でたらめじゃない。あなたの荷物から発見したんですよ」
「ヤンソネン、言いがかりはやめろ! そんなこと言って、お前が盗んで仕込んだんじゃないのか。お前は前科者だからな!」
男はウルフを指さす。会場がざわついた。前科者を雇っていたのか、インフェリアは認識が甘かったんじゃないのか、まあお坊ちゃんだから仕方がない――などという声があちこちから聞こえる。違う、と言おうとしたイリスの手から、男が隙を見て逃れた。その動きは俊敏だった。
ウルフらが所属する警備会社の、社員の半数は元軍人。この男もまた、元軍の人間なのだ。逃げた男は近くにいたニールを捕まえ、首に腕を回した。途端にニールの顔が真っ青になる。
「あ……!」
ニールは首を触られるのが大の苦手なのだ。最悪の場合、それだけで失神してしまう。しかし男は、そんなことなど知らない。
「インフェリア、俺じゃないぞ。犯人はヤンソネンだ。さっさと妹に、その盗人を確保させるんだ。そうしたら息子は返す」
「今すぐニールを離して。その子は何の関係もないでしょう。早く!」
「こうでもしないと、お前の妹が妙なことをするだろう。赤眼の悪魔だったか、その力を使われると困るんでね」
男はニールさえ近くに置いておけば、イリスに能力を使わせることができないはずだと思っているようだ。たしかに、いつもなら躊躇いなく力を使い、男を捕まえ直すだろう。だが今、ここにはたくさんの無関係の人々がいる。そしてニールは首に触れられたことで、パニック状態になっている。イリスの眼が悪影響を及ぼしてしまう可能性は十分にあった。
「……ヤンソネン君、犯人は君じゃないんだね」
ニアは問う。凪いだ水面のような、起伏の少ない声で。
「僕じゃありません」
「そうだよね。君ならもっと巧くやるだろうね。ニールの目が良いことも、イリスが今日ここに来ることも、君は知っていただろうし」
それに男が元軍人なら、手紙とのつじつまも合う。ニアを人間兵器と称するのは、ニアの軍人時代を知っている者だ。彼ならきっと知っている。
彼はきっと、現役時代は優秀な軍人だったのだろう。だが、ニアの存在が彼の地位を揺るがしていたのかもしれない。そういう人間は彼だけではなかった。ニアには軍人も、一般人として生きることも相応しくないと、そう思っている者は少なくない。それだけのことをしてしまった自覚はある。
だが、それが他人を巻き込んでいい理由にはならない。
「イリス、カウンターの下に音声レコーダーがあるんだ。再生ボタンを押せば録音してあるものが流れるから、あとはよろしく」
「レコーダー?」
イリスが戸惑えたのは一瞬だった。瞬く間にニアの雰囲気が変わる。穏やかな青年の瞳は深海の色に染まり、静かに怒りを纏う。
「これ、やばい……! すみません、みなさん、離れて! 警備の方、誘導を!」
慌ててイリスが叫んだのと同時に、ニアが動いた。その場からいなくなったのだから、動いたはずだ。男までは距離があったはずなのに、もうそれがなくなっている。瞬時に片手でニールを奪い返し、もう片方の手で男の胸倉を掴み、持ち上げ、床に叩き付けた。その間、一秒も数えられず。
ニア・インフェリアは軍に在籍していた頃、「人間兵器」と呼ばれていた。その所以が、何をきっかけにして発動するのかわからない超人的な身体能力。ただしこれが発揮されているあいだ、彼は自分で自分の力を制御することができない。
顔面から床に落ちた男の歯が折れる。イリスは急いでカウンターに行き、その下の棚をまさぐった。音声レコーダーはすぐに見つかった。再生ボタンを確認し、素早く押す。
『やめろ、ニア!』
大音量で響いたのは、ルーファの声だった。――自我を失ったニアを元に戻す、唯一の鍵だ。
ニアの手が男から離れ、代わりにニールを強く抱きしめる。男はすっかりのびていた。

人間兵器が芸術だなんておこがましい。どうせ金持ち軍家のお坊ちゃんの道楽だ。そう思う人は残念ながら少なくなかった。けれどもニアが作品を世に送り出し、それが人々の目に留まるようになると、そんな心無い誹謗中傷は減ってきた。今では騒ぎを企てた男のほうが、むしろ少数派になってきている。
男はそのまま軍に連行され、イリスが状況説明のために仕事に戻ることになった。
「せっかく来てくれたのに、ごめん」
「お兄ちゃんのせいじゃないよ。明日、撤収だけでも手伝いに来るね」
手を振って去っていく妹を見送ってから、ニアはすぐにギャラリーに戻った。騒然としていた会場は、けれどもまだ人がいた。全体のチェックのために一時的に外に出された人々は、ほぼ全員が入場し直して、作品を見ている。さっきまでのことなど、まるでなかったように。作品は全て無事だった。すり替えられた絵も、元の場所に戻っている。
事件発生時に辛辣なことを言っていた人々も、警備員やスタッフになだめられて、すっかり大人しくなっていた。それどころか、「やはりこれは良い作品だ」などと手のひらを返したように褒めている。
「ニアさん、ここは大丈夫ですよ。ヤンソネンさんがみなさんを説得してくださったので」
「それにほら、ニアさんの作品って癒し効果があるから。みんなさっきのことよりも、作品の美しさに心を奪われてます」
スタッフに背中を押され、ニアは礼を言ってから控室に向かった。ソファの上に、クッションを枕にして横たわるニールがいる。顔色はさっきより良いようだ。ホッとすると、目を開けて微笑んだ。
「……ニアさん、会場は大丈夫でしたか。作品は、全部無事ですか」
「うん。みんなのおかげでなんでもなかった。ニール、気分はどう?」
「僕ももう大丈夫です。でも、もうちょっと強くなりたいなあ」
小さな手が伸びて、ニアの手を握る。さっき、ニールを男から取り返した手だ。
「さっきのニアさん、かっこよかったです。僕もあんなふうに、誰かを助けられる強さがあったら……」
「ニール……」
本当は、あんな姿はこの子に見せたくなかった。人の暴力に傷ついた子に、自我を失って他人に暴力を振るうような自分は見せまいと、一年前にこの子を引き取ったときに誓ったのに。
だから、怖い思いをさせてごめんと、あんな親でごめんねと、謝るつもりだったのだ。でもこの子は、あの自分でも恐ろしいと思うニアを、かっこいいと言う。誰かを助けられる強さだと言ってくれる。
「イリスさんと、ウルフさんもちょっとかっこよかったな。僕の周りには、憧れの人がいっぱいです」
にこ、と笑うニールに、ニアは微笑み返した。目の端に浮かんだ涙を拭って、小さな体を、いや、一年前より少し大きく逞しくなった少年を抱きしめる。
「ありがとう、ニール」
「お礼を言うのは僕のほうですよ。ニアさん、助けてくれてありがとうございました」
抱きしめ返すその手は子供の体温で、けれども声はまるで優しい大人のように穏やかだった。

事件があったにもかかわらず、いや、むしろそれが更なる話題を呼んだのか、最終日は一番の大入りだった。買い取る予定だった絵を盗まれかけた人は、付加価値がついてラッキーですよとまで言ってくれ、今日も来場して知人らに昨日のことを自慢していた。ニアとしてはちょっとだけ恥ずかしい。
この日は撤収まで、一日を通してギャラリー内の警備にウルフがついている。隙を見て、ニアは彼に近づいた。
「今日はちゃんと見ててよね」
「見てますよ。お義兄さんの作品は、今度こそちゃんと守ります」
「頼んだよ。……昨日は、ありがとう。ちょっとだけ君を信用することにした」
「ちょっとですか」
意地悪を言ってしまったけれど、本当は大いに感謝している。イリスから話を聞いて、すぐに手紙と結び付け、動いてくれたのだろう。おまけに、本物の絵を扱う手は丁寧だった。そもそも、彼は本当に美術品が好きなのだ。
「今回の評判が結構いいから、またそのうちに個展をやれると思う。そのときはまたよろしくね、ウルフ君」
目をしばたたかせるウルフに一瞬だけ笑みをくれ、ニアはギャラリーを見てまわる。多くの人が作品を楽しみ、ニアに声をかけてくれた。なんて幸せだろう。自分が作りだしたものが、こんなにたくさんの笑顔を生み出せるなんて。
「ニアさん、ルーファさんが来ましたよ!」
ニールがルーファの手を引いてやってくる。まだ仕事中のはずだけど、と首を傾げると、呆れたように溜息を吐かれた。
「昨日の今日だからな、様子を見に来た。録音でも役に立って良かったけど、本当は昨日も俺がちゃんといたかった。それに、最終日くらいちゃんと見たい……と、社長に直談判済みだ」
「協賛ありがとうございましたって改めて挨拶に行かなきゃね」
ニアがにっこりすると、ルーファも笑顔で頷く。この個展を開くための最大のバックアップが、ルーファが勤めるフォース社だった。協賛のための企画や計画をルーファが主体になって出して、動いてくれていたのだ。そのために今日までずっと忙しかったのだけれど。
「さて、行くか。ニール、案内頼む」
「はい!」
手を繋いで、親子が順路を進んでいく。この個展が終わって、後片付けまで済んだら、家族でどこかに出かけよう。慌ただしかったから、少しのんびり、三人で過ごそう。
そして、また幸せに満ちた一年を始めるのだ。色とりどりの優しい景色を、大切な人たちとともに描いていこう。続きを読む
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2017年07月02日

同じ空の下、道を拓く

春風がそよそよとカーテンを揺らす、白い部屋。全部で六台のベッドがあり、それぞれに時折、見舞い客が来ている。軍設病院の病室は、怪我の種類や程度に関係なく、人が詰め込まれていた。共通するのは、いずれも昨日に中央司令部で発生した事件で負傷した者だということだ。
エルニーニャ王国軍中央司令部で起きた事件は、四つということになっている。一つは軍施設敷地内で多数の負傷者を出した傷害及び器物損壊事件。実行犯の少年は逃走中だ。これが最も被害が甚大である。一つは司令部門前における傷害事件で、加害者である大佐はすでに拘束されている。一つは司令部施設内で起きた傷害及び殺人事件だが、こちらは状況がややこしい。そして一つは大総統執務室での傷害事件。この加害者は敷地内の傷害及び器物損壊事件と同一人物で、発生したのはこちらが先だ。
本当はもう一つ事件があったのだが、大総統が非公開を決めた。司令部屋上での大総統補佐と将官室長の戦いは、本人たちと大総統だけが知るものとなった。
多数の負傷者が出たが、死者はたった一人……と思われる。というのも、事件が複雑に関連しており、また関係者のうち二人も行方不明なので、明確にはできないのだ。
報告を聞いたルイゼンは、しかしどうすることもできず、ただ呆然と窓の外を眺めていた。どんなに目を凝らしても、探す姿は見つからないので、忙しなく目を動かすのは一時間もしないうちに諦めた。
隣のベッドではフィネーロが横になっている。数か所の骨折は軽度だったが、痛み止めが切れるとやはりつらいのだそうで、おとなしく目を閉じていた。
この部屋には他にも四人の軍人がいて、いずれも深い切り傷や打撲を負っている。やったのは、仲間だと信じていた少年、シリュウ・イドマルだ。それだけでも十分信じがたいというのに。
「失礼しまーす。みなさん、具合はいかがですか」
病室の引き戸が開き、穏やかな声がした。途端に動けず退屈していた軍人たちは目を瞠り、フィネーロも瞼を動かした。ルイゼンは振り返って思わず立ち上がろうとして、腹の痛みに蹲る。
「いたたたた」
「ゼン、無理しちゃだめだよ。君の傷、結構深いって聞いたよ。おとなしくしなさい」
「無理とかじゃなくて、条件反射です。まさかニアお兄さんが来てくれるなんてびっくりですよ」
病室を訪れたのは、ニア・インフェリア。軍はすでに退役しているが、数々の功績をうちたてた伝説の人である。軍人たちが沸くのも当然のことだった。
ニアは部屋の一人一人に見舞い品の小さな焼き菓子を配り、フィネーロを気遣いながらリクライニングベッドをそっと起こして、それからルイゼンのベッドの傍らに腰を下ろした。
「みんな忙しくてね。ルーやグレイヴちゃんは仕事があるし、アーシェちゃんは三派会の準備。レヴィは言わなくてもわかるよね。ちょうど手が空いてたのが僕一人だったから、代表で来たんだ」
ずらずらと並べられる先輩たちの名前に、軍人たちは焼き菓子を食べながら感心する。レヴィアンスが大総統ではなかった頃、つまりニアたちが現役の頃は、軍の活躍がめざましかった時期でもある。現在の佐官以上の人間は、かつてニアたちについて仕事をしたことがある者も多い。当然元部下たちの心配をしているよ、と伝えるために、わざわざその名を告げたのだ。しかし。
「……本当に、代表ってだけですか」
ルイゼンとフィネーロには、ニアが来た本当の理由がわかっている。ルイゼンの一言でそれに気づいた軍人たちは、一礼してからベッド周りのカーテンを閉めた。
「そうだね、ちゃんと言わなきゃね。謝りに来たんだ、あの子の代わりに」
「お兄さんが謝る必要はないですよ。だって、イリスの独断でしょう」
「事件そのものが、あの子を中心にしていたようなものだ」
「俺が刺されたのは関係ないです」
これは本当のことだ。現在はまだ聴取の段階だが、ネイジュがルイゼンを刺した一件は、「魔眼」とは一切関係ないことがほぼわかっている。だが、ニアが謝りたいのはそのことではないらしい。
「フィンにはもちろん事件に巻き込んだことを詫びたいんだけど。ゼンには、これからのことを先に謝らせてほしいんだ」
「これから?」
「そう。なにしろ、僕や父さんがイリスを叱ったところで、説得力に欠けるからね」
苦笑して、溜息を一つ。それから、海色の瞳がルイゼンを真っ直ぐに見た。
「イリスは必ず帰ってくる。父さんも僕もそうだったから。だからそのときは、ゼンがあの子を叱ってやって」
ニアの後ろで、フィネーロまでもが頷く。ルイゼンは困って頭を掻いたが、返事は一つしかなかった。だって、イリスがこちらに生きて帰ってくると、信じていることが前提の話なのだ。
「わかりました。俺が兄貴分として、あいつのことをがっつり叱ってやります。だからお兄さんは、もう謝らないでください」
「でも、ごめんって言わずにはいられないんだ。父さんは昔、敵と戦いに単身で出て行ったし。僕も自分から敵方に行って、挙句の果てに司令部を破壊したし。こんなふがいない一家の一員のことを、よその人に任せるのは情けないから」
「いくらでも任せてくださいよ。俺はお兄さんの後輩で、イリスのライバルで、インフェリア家に憧れる一人です。頼ってもらえるのは、すげえ嬉しいことです」
ルイゼンが笑ってみせると、ニアもやっとホッとしたような笑みを見せた。フィネーロもよく見なければわからないが微笑んでいる。
けれども、心から笑えるのはもう少し先だ。リーゼッタ班が全員揃って、やっとこの事件は終わるのだと、ルイゼンは思っている。
イリスは昨夜から失踪中だ。深手を負ったはずの彼女は、簡単な手当しか受けていないのに、夜の闇に消えた。軍ではイリスの行方も捜索中だが、手掛かりはたった一つしかない。
『シリュウのところに行ってくる』――走り書きしたメモだけが、彼女のいた病室に残されていた。

一晩を聴取に使い、メイベルは目の下にくまをつくっていた。取り調べられる側というのはあまり気持ちの良いものではない。特に普段の素行から信用があまりないメイベルに対する聴取は、厳しいものだった。「本当のことを言っているんだよな」と何度も確認され、キレて椅子を持ち上げ、聴取担当の軍人を殴るところまで想像した。すんでのところで実行には至っていない。
わかったこと――ミルコレスのクローンが喋った内容は、全て話したつもりだ。ジンミがそれと知らずに彼に利用されていたことも。ジンミの聴取から整合性はとれるだろうと思ったが、混乱しているであろう彼女から正確な証言が取れるかどうかはあまり期待できないと思い直した。
メイベルの証言を支えたのは、ユロウが提出した焼死体とミルコレスの遺体それぞれの検分結果と、レヴィアンスが調べたミルコレスの動向だった。これにフィネーロの証言が加われば、いくら疑い深い者でも信じるだろう。
「お姉ちゃん、聴取お疲れ様」
寝不足からくる頭痛に顔を顰めていると、カリンが駆け寄ってきた。こちらも一晩中聴取を受けていたので、目の下が黒くなっている。
「お前もよく耐えたな。色々訊かれただろう」
「うん。ロスタ少佐のことと、イリスさんたちを発見するまでのこともね。イリスさん、酷い怪我だったのに、どうしていなくなっちゃったんだろう……」
イリスの失踪は、聴取の途中で入ってきた情報だった。これのおかげで目が覚めたのだ。一刻も早く聴取を終わらせて捜索隊に加わりたかったが、日ごろの行いが邪魔をした。かといってこれからおとなしく生きようなんて気にはならないのだが。
「私はイリスに会っていないから知らないが、そんなに酷かったのか」
「だって、シリュウ君の刀が胸にぶっすり刺さってたんだよ。左側だったかな、でも心臓は避けてたと思う。あのあと動けてるってことは、たぶん肺までは達してない……と思いたいけど、相当血を吐いてもいたからなあ……」
「シリュウか。まったく、今まで巧く騙してきたものだな。私まで柄にもなく信じてしまった」
疑い出せば結論まで早かったが、彼は適度に軍人らしく、適度に道から外れていた。ちょっと問題はあるが想定の範囲内、というところをずっと保ってきたのだろう。そもそも軍人が完璧な人間であるというのがおかしな話だという現実を、彼は利用していたのだ。
メイベル自身、軍の「理想」からは外れた軍人だ。だから簡単にシリュウを信用した。お人好しのイリスはともかくとして、もしかすると自分こそがシリュウを妄信していたのかもしれない。
「でも、お姉ちゃん、シリュウ君が怪しいってちゃんと気づいたよね」
「確認しただけだ。ジンミの証言と矛盾があった場合、どちらがより通りやすいか。カリンこそ、シリュウを怪しんでいたんじゃないのか」
「そこまでじゃないよ。ちょっと違和感があっただけ。お姉ちゃんのおかげで確信した」
本当は信じていたかった。シリュウはブロッケン家の人間と同じく、苦境を乗り越え打破するために軍人になったのだと。仲間たちはみんな裕福な家に生まれ育った、メイベルやカリンとは別の世界の人間だったから。けれども、シリュウもまた違ったのだ。彼は苦境を生き方にした。そもそも苦しいとすら思っていなかったかもしれない。
「イリスはシリュウのところに行くと言って消えたんだったな」
「そうみたい。シリュウ君がどこに行ったのか、知ってるならみんなに教えてくれれば良かったのに」
「どうだろうな。シリュウの居場所を知ったところで、軍にできるのはあいつを捕まえて牢屋に放り込むことくらいだ。だが、人生に裏の生き方を刷り込まれた人間が、そう簡単に心を入れ替えられるとは思えない。私がイリスの立場なら放っておくところだが……」
それを放っておかないのがイリス・インフェリアなのだと、メイベルだって厭になるくらい知っている。生き方がまるで逆の彼女が、シリュウに対してどうするのかは全くわからない。これ以上関わるのは余計なお世話で、ただ自分の命を縮めるだけの無謀なことだと思う。
それでもなんとかなるかもしれないという一縷の望みに縋るのは、イリスのことをすっかり信じてしまったからだ。メイベルの正義は――いや、正義などではない。正しさなど役には立たないし、それを振りかざすのは愚行だ。ただ、自分の人生に光を与えた少女のことを信じたい、それだけのことなのだ。
「ねえ、お姉ちゃん。これからどうする? イリスさん捜索に無理やり加わるか、体力温存のためにとりあえず眠っておくか、ルイゼンさんとフィネーロさんのお見舞いに行くか」
「そうだな、見舞いに行ってから寝るか。どうせ捜索ったって、手掛かりなんかないんだろう。捜してほしくない奴を捜すほど、今は気持ちに余裕がない」
「じゃあ、先にシャワー浴びてこようよ。髪もぐちゃぐちゃになっちゃったから整えたいし」
「お前はまだ余裕がありそうだな」
いくら信じたところで救われないことのほうが圧倒的に多いと、メイベルは知っている。イリスだって、きっと無事では帰ってこない。でも無事ではないだろうというだけで、彼女は必ずここに帰ると、それだけは信じている。

大総統執務室の片付けは、主にガードナーの働きによって滞りなく終了した。しかしさすがにソファの破れや机の傷まではどうにもできない。歴史ある机はともかく、客用のソファは買い替えるしかなさそうだ。はみ出したクッション材を軽く叩きながら、レヴィアンスは苦笑いした。
「派手にやってくれたなあ。こんな狭いところでも動けるんだから、イリスもシリュウも大したもんだ」
「閣下もここで戦われたでしょう。先々代もこの部屋で襲撃犯を迎え討ったことがあると聞きます」
「そういえばそうだ。でも、思っちゃうよね。もうちょっと動きやすかったら、二人ともあそこまでの怪我はしなかったんじゃないかって」
そして、怪我を負ったまま逃げるという無茶もしなかったのでは。……いや、もともと無茶をする性格だから、そこまでは考えすぎだ。
それにしても、大怪我をしてなお大技を使って逃亡したり、それを追いかけて失踪したりするとは、命知らずというしかない。
「イリスさんはイドマル准尉を追ったのですよね。彼がどこに向かったかさえわかれば、イリスさんも保護できるはずですが」
「そうだね。たぶん、シリュウはイリスにだけ行き先を教えてたんじゃないかな。単純に考えれば、イリスを自分のホームにおびき寄せるため。アウェイ、つまり軍では、シリュウは本領を発揮できないし、イリスに来てもらったほうが眼の確保もしやすい」
捜索隊が動けているのは、レヴィアンスが大体のあたりをつけているからだ。まずは東方。シリュウは東方司令部にいたのだから、東方にある裏の組織と繋がっていたことが考えられる。問題はそこまでの交通手段や、怪我の程度が大きいことによる体力切れが想定されること。可能性はあまり高くないだろうと思ったが、東方司令部に協力を仰ぎつつ捜索を進めている。東方司令部准将で義妹のクレリアはショックを受けていたが、責任をとるとして、東方捜索の指揮を引き受けてくれた。
中央にも可能性はある。犯罪者の巣窟といわれる場所がエルニーニャ国内には点在しており、首都レジーナにも例外なく「裏の常識がまかり通るところ」はある。多くは小犯罪で生計を立てるチンピラや、国の保障から漏れてしまっている貧困層の住むところだ。先々代大総統ハル・スティーナの治世のもとで随分減ったのだが、無くすことまではできなかった。その生活はただただ苦しいというだけではなく、彼らにとっては国の定めた法から自由になれるという側面も持っていたからだ。「裏」というものがある理由の一つでもある。
法律は国という組織の秩序を整えるが、同時に人々を縛りもする。思想や信条の異なる人々がともに暮らしていくために必要なものだが、時代によっては法の解釈が変わったり、適さなくなったりする。そもそもそこに当てはめることが難しい人々も、幾度の統合政策を経てきたエルニーニャには存在する。「裏」を無くすというのは、国家の一側面を消してしまうことであり、絶対に不可能なことなのだ。
法律を破っていいということではない。だからこそ取り締まる役割としての軍がこの国にはある。しかしそれに異を唱える者を全て捕まえていたら、それはすでに「人々のもの」としての国の崩壊だ。
国を治める者たちには、そのバランスをとるという役目がある。レヴィアンスは両親を見てそう学んでいた。だがそれを実行するのは、想像以上に難しい。
「人が行っていないところが、まだたくさんありますね。各地の駐在も動いていますが、カバーしきれていません。中央司令部の人材も今は足りておりませんし……」
「そんなに遠くには行けないと思うんだよね。レジーナ周辺を重点的に見てまわるようにすれば、見つかるはずなんだけど」
軍が守り法の下にある「表」の世間と、守るものも縛るものもない「裏」の世界。シリュウは軍に潜入することで「表」を見て、それでも「裏」の人間として生きることを選んだ。逆ではどうだろう。「表」を体現しているようなイリスが、「裏」を見てこちらへ戻ってこられるのか。
「では、周辺の捜索に人を割くようにしましょう。……一応確認しますが、閣下、見つけるのはイリスさんだけでもよろしいのですね」
「うん。シリュウは最悪仕方ないよ」
ガードナーの問いに、レヴィアンスは躊躇うことなく答える。長きにわたる情報漏洩も、剣技が奪われてしまったことも、今更どうにもならないことだ。今後対処していくしかない。それにシリュウの傷は浅くはない。放置すれば命を落とす。裏には発達した技術や豊富な知識があるが、それが「もう使えなくなってしまった」人間に適用されるかどうかはわからない。
だからといって、「表」の人間がシリュウを救えるとも思えない。こちらがどんなに手を伸ばしたところで、シリュウがそれを掴まなければ何もできない。だから、シリュウに関しては「仕方ない」。
ガードナーがレヴィアンスの指示を方々に伝えるあいだ、大総統としては別のことも考えなくてはならなかった。タスク、ネイジュ、ジンミの処分についてだ。しかしこちらはさほど悩んでいない。
タスクには引き続き将官室長を務めてもらう。ただ、やり方は変える。よりタスクが動きやすいようにし、そのうえでレヴィアンスも細心の注意をはらって彼の動向を見張る。とにかくタスクが自棄になって裏に行ってしまうことを避けたかった。もちろん、彼のこれまでの三年間を評価しての待遇でもある。これはガードナーの希望でもあった。
ネイジュは傷害事件の加害者だ。相応の罰を受けることになるが、それが終わった後は軍に戻すつもりだった。もちろん、彼が市井で生きるというのであれば止めない。けれども精神的な弱さが露呈してしまっては、裏では生きられないだろう。
ジンミはもともと中央での仕事が一段落すれば東方に帰すことになっていた。彼女も人を手にかけているが、相手は犯罪者で、クローンだ。軍人の犯罪者に対する処分は、長く使われている現行法では罪に問われないことになっている。クローンに関する規定も、軍規や国法にはない。本物のミルコレスがすでに死者であり、中央にいたのがクローンであったと判明した今、彼女を裁く要素はなかった。
レヴィアンスが目指すもののためには、大きな法整備や、場合によっては改正が必要だった。これから動いていかなければならない。長い時間をかけて――それが成せるかどうかは、わからないけれど。
「忙しくてみんなのお見舞いにも行けやしない」
「この件に決着をつけることが、何よりのお見舞いです。ともに頑張りましょう、閣下」
「……ん、そうだね。よっしゃ、やるかあ!」


息苦しい要因はいくつかある。ここが地下水路で、湿気が多く空気の通りが良くないのももちろんだ。それから胸の傷。左胸の刺し傷は、幸いにして肺には達していなかった。自分で動けることがわかった段階で、大丈夫だと勝手に判断した。しかし重傷には違いない。
あとは、時折感じる視線や、この場所に満ちた不穏な雰囲気、そしてこれからしなければならないことへの緊張だろう。ここはたしかに、「裏」の領域なのだ。
――もしあなたがどうしてもおれを裏から抜けさせたいというのなら、レジーナ南区画住宅街の地下水路へ来てください。水の流れに逆らうように歩いて行けば、いずれ裏組織が使用している施設に出ます。
シリュウに囁かれた言葉通りに、イリスはこの場所を訪れた。急がなければ間に合わないかもしれない、と思うと誰にも報告できなかった。怪我をしている自分は、きっと止められてしまうだろう。残してきた書置きに何の意味もないことはわかっているし、むしろすぐに居場所を突き止めてもらっては困る。せめてシリュウを見つけるまでは、行く手を阻まれるわけにはいかなかった。たとえ、軍であろうとも。
「あはは……、これじゃ、まるでわたし、悪人じゃん」
軍から逃げる者は悪。大仰なことでなくても何か疚しいことがあるのだろう。そう考えるように教わってきた。それがイリスの、軍の常識だった。だが、それはここでは通用しない。
地下水路は管理局の整備士などがよく入り、怪しいものが見つかれば軍に報告がいくことになっている。だがそのタイミングさえ知っていれば、地上から物資を確保しやすく、隠れて暮らすには悪くない場所だった。この先に裏組織の施設があっても、それを密告するような者はいないだろう。それをしたところで、得はない。あるのは住処を失うというリスクばかりだ。
この国には、まだ特定の住居や、戸籍すらもない人々が存在する。ごく少数ではあるが、それゆえに国の制度から零れ落ちてしまった人々だ。イリスの父らの代で随分減ったというが、完全にいなくなったわけではない。彼らは生きているにもかかわらず、存在しないことになっているのだった。
裏は、そんな人々の拠り所としての機能を持っていた。ただし生活のために必要なものは、正規の方法では手に入らない。だからこそ盗みや、違法な金のやり取りや、危険薬物の取引が発生する。イリスたちの暮らす世間とは違う形の「秩序」がある。
元は裏の人間ではなかった、という人々もいる。自らの能力を認められなかった人々が、それまでの世を捨てて裏にやってくるのだ。そういう人々が高度な技術と知識を持った組織をつくり、倫理と引き換えに自由を手にする。裏の研究者の多くがそうだったと、かつて裏で天才科学者と呼ばれた本人から聞いた。
彼らは自らの成果を試そうとする。自分たちをあぶれさせた、裏ではない世間の人々を使って。彼らにとっては最大悪である、この国の実質的な支配者――軍に復讐をしようとする。単純な考え方ではあるが、それが軍と裏との一番わかりやすい対立構造だ。実際はもっと複雑に物事が絡み合い、きれいに二面に分かれるということはない。
だが、選ばされてしまうのだ。軍か、裏か。明確な所属を持たない子供にとっては、選んだ先が人生になる。よほどのことがない限り、その運命は変わらない。
「シリュウ……どこにいるの」
粗い呼吸と掠れた声で呼んでも、返事はない。彼はずっと先へ行ってしまった。追いつかなければ、間に合わない。二度と話ができなくなる。そんな気がしていた。
関わったものから手を離せない、それはたぶん良くない癖なのだろうという自覚はある。仕方のないものとして切り捨てられ、忘れることができたほうが、前に進むにはいいのかもしれない。けれどもイリスにはそれができなくて、何度騙され裏切られても放っておけなくて、そういうものを大切だと思い込んでしまう。きっとこれは相手にも良くないのだと、わかっていても再び手を伸ばしてしまう。片方の手が傷つけられて失われれば、もう片方を差し出そうとしてしまう。
善人ではない。ただの愚か者だ。それでもいいと思ってしまう。
ぜえ、と息が漏れた。その瞬間に、それまでこちらを窺っているだけだったたくさんの視線が、一斉に向かってきた。明らかに敵意を持っている。あっというまにイリスを取り囲んだ彼らは、どうやって手に入れたのか、剣や棍を持っている。離れたところには銃も見える。暗い水路を歩くために力を解放している眼には、どれもはっきりと判別ができた。
「なんだあの眼。気持ちが悪い」
「あれが『魔眼』じゃないのか。組織が求めていた、例の……」
「じゃあ、あれを手に入れれば組織から優遇されるのか」
思った以上にこの眼は有名らしい。ここを切り抜けなければ、進めない。
「そこ、退いて。……わたしは、あんたたちに、かまってられないの」
「怪我してるみたいだぞ。今なら生け捕りにできるんじゃないか」
「組織は眼以外の検体も欲しがってたから、ちょうどいい」
傷は痛む。出血が多いせいで、頭はくらくらする。眼を酷使すれば、確実に倒れるだろう。でも。
「退いてって言ってんだ!」
剣を抜き、注目が集まったところで、眼の出力を上げる。ほんの一瞬目が合えば、相手は膝を崩す。ぐるりと見渡すだけで、ばたばたと人が倒れた。その隙に水路を一気に駆け抜ける。シリュウに会って話せるまで、体力が、精神が、もってくれるといいのだけれど。
しかし障害は続々と現れる。目的地が近い証拠かもしれないが、喜んではいられない。眼の効力が薄い者は、躊躇いつつも斬った。さほど傷は深くない、せいぜいが足止め程度だ。
駆ける足が重くなっていく。一歩が全身を震わせる。剣の柄を握る手の、感覚がなくなっていく。胸は赤く染まり、汗と一緒に血が流れた。
走ることを、跳ねることを、眼を使うことを、斬ることを、どんなに身が削られてもやめなかった。この先には、彼がいる。諦めたくない人がいる。
世界の誰が、本人さえも、「仕方がない」と手を伸ばさなくなっても。
「シリュウ……っ!」
イリスが伸ばしたこの手だけは、絶対に引かないと決めたのだ。
「……本当に来たんですね」
異能の弱者。吼えるくらいしかできない、世界一の愚か者。そんなことは誰よりも、自分自身が知っている。

シリュウという名前は、いつのまにか与えられていた。イドマルという家名は、書類を作るための仮のもので、本名ではない。
実の親の顔は知らない。他の多くの子供たちとともに育てられ、裏での暮らし方を学んだ。育った場所は施設というかたちをとってはいたが、国に認められていたわけではない。この国には私設の児童養護施設も多いから、どんな教育をしていても、よそに知られなければ怪しまれることはなかった。
人を信じないこと。考えを読ませないこと。ほしいものはどんな手段を使ってでも手に入れること。上の人間に逆らうと酷い目に遭うこと。それから必要であれば人を殺すことを、幼い頃から叩き込まれた。体は小さかったが、教わった暗殺術は他の誰よりも覚えが早かった。
「シリュウ、お前、軍に行く気はないか」
ある程度成長してから――誕生日も仮のもので、実年齢を知らなかった――大人からそんな話を持ち掛けられた。シリュウたちの生活で、けっして逆らってはならない部類の、要はこの世界での偉い大人の一人だった。普段は軍を潰すための話をしている人だったから、この提案には幼心に驚いた。
「軍は倒さなければならないのでは」
「そのために内部を知ることのできる人材が欲しい。入隊して、情報を流してくれると、こちらとしては大変助かる。お前の実力ならできそうだ」
子供のうちから軍に入隊していれば、怪しまれる可能性は低い。ただし、暗殺術を容易に使ったり、裏の人間としての振る舞いをすればわかってしまうから、軍の人間に相応しい行動と思考が自然にできるようにならなくてはならない。これまでとは違うことをしなければならないことに、シリュウは戸惑った。戸惑いはしたが、拒否はしなかった。
元来器用だったシリュウが、「裏出身ではない子供」の仮面を作り上げるのは、大人が想像していた以上に早かったらしい。それも裏との使い分けができるので、ひどく感心された。
「お前は優秀だな。これなら軍にも入れるだろう。入隊できたら、こちらからの指示に従ってくれればいい」
シリュウは期待通りに、エルニーニャ軍に入隊し、東方司令部に配属された。怪しまれない程度の実力しか出さなかったので、三等兵からのスタートだった。それでいい、と組織の大人たちは言った。まさか三等兵の子供が裏のスパイだなんて、誰も思わないだろうと。実際そうだった。
軍に入ってまずやったことは、利用しやすい人間を探すことだった。身寄りのない子供と聞けば、軍の人間はこぞって「何でも相談してね」「家族だと思っていいからね」と声をかけてくる。なんて軽い言葉だろう、という軽蔑も表には出さなかった。無表情を貫いても、「かわいそうな子供だから仕方ない」と相手が勝手に解釈する。楽ではあるが、屈辱だった。彼らは善意のつもりで、こちらを見下している。それがありありとわかるこの軍社会が、シリュウには不快だった。
ただ、万事がそうというわけでもなかった。軍の戦闘技術についての情報を求められ、様々な武器やその扱いを会得する中で、ミナト流剣術に出会った。国内では東方が最も優れているという刀を使った技だ。人を斬るための道具で故意の人斬りを禁ずるという妙な規則は気に入らなかったが、動作は美しく、威力は凄まじい。当時のミナト流師範であったトウゲン・ミナトは、老人ながらもその型を自在に使いこなす、生ける芸術だった。この剣術を目にし、シリュウは初めて自分から興味を持った。
実際に剣術を伝授してくれたのは、トウゲンの孫であるクレリア・リータスだった。まだ年若い女性軍人だったが、その腕は祖父に引けを取らない。そしてなにより、シリュウを特別扱いしなかった。
「ミナト流の使い手になりたいなら、精神から鍛えますからね。それまでの育ちがどうであろうと、関係ありません」
そう言ったクレリアに、一度だけ訊いてみたことがある。
「育ちが関係ないのなら、それがたとえ裏で育った人間だとしても、技を教えるんですか」
ともすれば組織を裏切りかねない、すれすれの問いだった。だが、その意図を問い返されることはなく、クレリアは答えだけを言った。
「人を殺すことを目的としないのであれば、誰にだって教えるわ。人斬りが禁止って言ったって、これは戦うための剣術だし、私たちは軍人ですもの。いつか必ず、人を斬らなければならないときはくる。戦わなくてはならないという点は、この国に生きる者ならば、軍であろうと裏であろうと同じです」
自分が生き残るための、そして大切なものを守るための、手段としての剣術。そのための道具としての刀。クレリアはそのことにこだわっていた。だから人を斬ることそのものを目的として刀を振るった者は容赦なく破門にしていたし、どんなに捻くれた者でも精神的な強さを求めるのであれば受け入れた。
シリュウはもちろん、自分が裏の人間であること、技に関する情報を裏に流していることは隠していた。それを後ろめたいとも思わなかった。けれどもクレリアの信条は相対的に好ましいと感じていた。技を盗むためだけではなく、自分自身がミナト流を極めるために、人を斬ることは極力避けた。
多少の問題は起こしてしまってもかわせるように、わざと「賭け事の悪癖」をつくったのも、裏の仕事を遂行するためと同時にミナト流を破門にされないためという目的があった。クレリアはシリュウの問題程度ならば、少々のお仕置きをするだけで許していた。それだけは、彼女が甘かったと思う。おかげでとうとう、ミナト流の奥義まで会得することができてしまった。
もう一人、入隊当初から利用していた人間がいる。一年早く入隊していたジンミ・チャンだ。彼女は宝石商の末娘で、家業は兄が継ぐとされていたために、軍に預けられた子供だった。家から余されたのだという自覚を持っており、軍も自分の本当の居場所だとは思っていない。その思考は軍よりも裏に近かった。だから簡単に操ることができたのだ。
人を取り込む話術も、シリュウは裏で学んでいた。相手の置かれている状況を引き出し、それに合わせた態度をとり、いかにも自分が相手にとって手放しがたい味方であるように錯覚させる。家から追い出された末娘であるジンミに、「姉さん」と呼びかけることは非常に効果的だった。
「おれには家族がいないので、そう呼ばせてもらいたいと思ったのですが。いけませんか」
「……構わないわよ。あなたが家族ごっこをしたいなら、お好きにどうぞ」
本当は、家族ごっこをしたいのはジンミのほうだった。跡継ぎではない子供として放任されてきた彼女は、物語のような「家族の絆」に憧れている節があった。さほど大切にはされず、末っ子だから頼られることもない。その彼女を姉と慕う存在となることで、シリュウは自らの軍における立場を確立させ、情報源を得た。
もちろん、操りやすいからというだけでジンミに近づいたわけではない。彼女は物の真贋を、特に宝石を見分ける才能を持っていた。宝石の扱いも裏では重要だ。指定品目に入っているものは、危険薬物とともに大きな資金源になっている。宝石に関わることが能力的に許されたジンミは、非常に都合のいい存在だったのだ。
「姉さんは、いつも宝石のピアスをつけていますね」
シリュウが入隊したときには、ジンミはすでに指定品目関連案件に関与できるように教育されていた。宝石に関係する事件には、末端で関わっていた。能力と出身のおかげだった。
「広告みたいなものよ。軍で専門職に関わっているという証でもあるし、家で良質な宝石を取り扱っているという宣伝でもあるの。軍も親も、私をいいように利用しているのよ」
「納得しているんですか」
「こっちがどう思おうと、大人には関係ないもの。反抗したところでメリットはないしね。私の居場所はないけれど、身元が保証されているだけましだわ」
「その身元を、逆に利用してやろうとは思わないんですか」
「そうねえ……。もう少し階級が上がれば、それもできるかもしれないわ。宝石関連の案件が増えれば、自然に私の仕事も増える。そうやって功績をつくっていけば、いつかは家も軍も利用する立場になれるかもしれないわね」
野心がないわけではない。それがわかれば十分だった。シリュウは裏から手をまわし、ジンミの仕事をほんの少しだけ増やした。そしてその傍らに、いつもついてまわった。
宝石に関連する事件ばかりが起きては怪しまれるので、別の仕事もちゃんと用意していた。ジンミは年齢の割に顔や体つきが大人びていたし、実際数人の上官から誘われたこともあった。最初はそれを嫌がっていたジンミに、シリュウは「でも姉さん」と囁いた。
「それって、姉さんのアドバンテージでしょう。大人を惹きつけられるということは、姉さんは姉さんの持つ魅力で、そういう人たちを利用する立場にまわれるってことじゃないですか。おれなら、武器は上手に使おうとします」
面白いほどに、ジンミは堕ちた。シリュウを信じ切っていた彼女は、その言葉を聞いてから、上官からの誘いを受けるようになった。彼女が他人に体を開いたのは十二歳のときだ。少女に手を出したことを隠蔽したい上官たちは、ジンミの頼みを――それはつまりシリュウの目論見だったのだが――よく聞いてくれた。そのうち美貌を利用した囮捜査に関わるようになり、彼女の階級は順調に上がった。常に彼女と行動を共にしていたシリュウも、特に自分で功績をつくらずとも地位を上げることができた。裏での仕事こそが本来の自分の仕事であると考えるシリュウにとって、「功績をつくらない」ことは重要だった。
ジンミが「指定品目の違法輸出入」案件を本格的に任されるようになった頃、ミルコレス・ロスタが現れた。南方司令部で指定品目を専門に扱う、その道のプロ。一方で変わった性癖を持つ変人でもあった。宝石への強い執着と、隠そうともしない性欲。当然のように、彼はジンミに近づき、あっという間に彼女を篭絡してしまった。
シリュウにとっては、ジンミに「優先すべき人間」が他にできてしまうことが不都合だった。ミルコレスと恋仲になることで、「仕事」を減らされても困る。だが、それらは杞憂だった。ミルコレスという男はこちらが思っていた以上の人物だったのだ。
「え、ジンちゃん? 確かに体はすごく良かったよ。若いのに使い込まれてたのがまた良いよね。おまけに宝石が似合う。宝石にしてあげたい子は今までにも何人かいたけど、宝石が似合っちゃう子はめったにいないから、貴重だよね」
こっそり近づいてジンミのことを尋ねると、ミルコレスはあっさりとそう言ってのけた。そしてそのまま、人間の死体から宝石を作ってみたいという願望を語ったのだった。彼の興味は、あくまで宝石にあった。肉欲はそのついでの娯楽らしい。
「あなたは、軍の人間らしくないんですね」
「そうかな。仕事をちゃんとしていれば、軍人なんじゃない? あくまで職業であって、人間性じゃないんだから。それをいうなら、君のほうこそ軍人じゃないでしょ」
表情を動かさないでいることには慣れていたが、さすがにこの発言にはぎくりとした。わずかに肩が震えたのを見逃さなかったミルコレスは、シリュウを壁際に追い詰めると「やっぱりね」と囁いた。
「こういう趣味だから、裏の人ともちょっとは親交があってね。裏から軍に入隊した優秀なスパイがいるって話を、一度だけ聞いたことがある。ああ、安心してよ、口を滑らせたやつはとっくに処分されてるはずだから。詳しく話を聴きたいなら、俺の部屋においで」
この男がどこまで知っているのか知る必要がある。そう判断して誘いに乗ると、ジンミと同じ目に遭った。こちらにその気はなかったので殺してやろうかと思ったが、そうしてしまうとシリュウの立場も危ない。そもそも見た目よりずっと力が強かったミルコレスに、抵抗することができなかった。散々体を弄ばれた後で、告げられた。
「イドマル君、裏に口利きしてくれないかな。俺ね、どうしても人間の死体がほしいんだよ。できれば新鮮なやつ。今の軍での立場じゃ、自力でやるのはちょっと難しいんだよね。死体がすぐには無理なら、偉い人とコネクションを作ってくれるだけでもいい」
「……あなたは、それで不利にならないんですか。裏との繋がりがばれれば、軍を辞めることになって、捕まってしまうかも」
「大丈夫。だって君も誰にも言えないでしょ。俺も誰にも言うつもりはない。それに軍の専門部署の人間との繋がりは、裏にとっても悪い話じゃないと思うよ」
今までそうだったし、とミルコレスは軽い口調で言い放った。この男は、軍も裏も、自分が好きなように利用できるものだと思っているらしい。シリュウも自分の欲望を満たすための道具に過ぎない。軍よりも、裏よりも、この男一人のほうがよほど悪人らしかった。
いや、この世には正義も悪も存在しない。あるのは、利用するかされるかという立場だけだ。
「……いいですよ、話はしてみます。少しだけ時間をください」
「さっすがー。やっぱり君に接触して正解だったよ。体もなかなか良かったし。本気で嫌がられるのも、なかなかそそるねえ」
ミルコレスはシリュウを利用できるつもりでいる。だが、そういうわけにはいかない。シリュウは常に利用する側でいなくてはならないのだ。この男も例外ではない。
ちょうど裏組織はクローン検体を欲しがっていた。ミルコレスの話をすると、「噂はかねがね」という言葉のあと、すぐに返事があった。「彼を使おう」――健康体で、仕事という名目で大陸中に移動しても怪しまれない彼は、組織の求める「理想」に限りなく近かった。
ミルコレスが東方での仕事を終えて南方に戻るその間際に、シリュウは彼を呼び出して言った。
「人間の死体から宝石を作りたいと仰っていましたね。それが自分自身から作り出せるとしたら、どうでしょうか」
思った通り、ミルコレスは大いに興味を持ち、クローン検体の話に乗った。クローンを本人にほぼ完璧に似せるための教育にまで協力してくれるという。
ジンミがミルコレスとシリュウの関係を勘違いして嫉妬する、ということ以外は、上手く事が運んでいた。そうして昨年の初め、ついに計画が動き出した。
「『魔眼』を手に入れるためのプロジェクトを、本格的に始動したい」
「サーリシェレッドのことですか。それならジンミ・チャンから融通しますが」
「そんな簡単な話のわけがない。我々が欲しいのは本物の『魔眼』だよ。中央司令部のイリス・インフェリアを知っているか」
その名前ならシリュウも知っていた。軍家インフェリアの血を引く「エルニーニャの獅子姫」。他を圧倒する身体能力と剣技で、尉官ながらも佐官以上の人間との手合わせで勝つことができる。「でも大総統閣下には勝てないらしいですよ」とクレリアが笑いながら話していた。
しかし彼女の強さの秘密は、異能の眼にこそあった。見るだけで相手の心身に異常をきたすことのできる、魔性の赤眼。その力は年々順調に育っており、組織の幹部曰く、これから数年のうちが「収穫のとき」なのだという。
「あの眼をこちらで利用したいものだ。人間兵器もそうだったが、軍ばかりが異能の者をかこっていてはいけない。だいたい、軍のやり方では有効に使えない」
裏ではいくつかの異なる組織が、魔眼を手に入れるべく動き始めていた。大総統暗殺の計画にも、その一端が含まれていたという話がある。シリュウがイリスの名を覚えてから一年、直接魔眼を狙おうとしていた別の組織が軍に検挙された。以来軍は魔眼を守ることを意識し始めたようだが、ずっと軍にいるシリュウならば、その守りを突破できる。
裏はシリュウが動くための準備を進めてくれ、ついに大総統を動かすことに成功した。クレリアからの信頼を得て、ジンミの片腕として働いてきたシリュウは、中央司令部への異動を言い渡された。
ほぼ同時に、ミルコレスの役割が終わっていた。自身のクローンに記憶と思考と性癖をほぼコピーさせ、実働にも成功させている。原本を残しておく必要はなくなり、シリュウも知らぬ間に彼は裏によって処分された。だが、シリュウが少しでも関わっていれば、もっと上手に死体を処理できただろう。
今目の前にいる満身創痍の少女――イリス・インフェリアを、ここまで苦しめることもなかったはずだ。事故のふりでもして、眼さえ奪ってしまえば良かったのだ。

シリュウの体には包帯が雑に巻かれていた。傷の縫合などはされていないのか、血が濃く滲んでいる。出血のためか顔色は悪く、倒れてしまっていてもおかしくはないのに、彼は立って待っていた。
「あんた、傷は大丈夫なの」
イリスが問うと、薄い笑みが返ってきた。
「あなたがつけた傷なのに、それを訊きますか」
「そうか、ごめん」
「なぜ謝るんです。だって、これが軍人の仕事なのでしょう。……おれのことを放っておけば、あなたは裏の人間の一人を葬ることができ、自分の持つ魔眼を守れた。なのに馬鹿正直に追いかけて来るなんて」
こんなときばかり、イリスの頭は理解が早い。シリュウは裏にとって、もう用済みになったのだ。ここにいるのは最後の仕事――イリスをおびき寄せる囮になるためにすぎない。丁寧に傷の手当てをする必要もないし、放っておいて死んでしまっても問題はない。むしろ死んでくれたほうが、裏はこれまでしてきたことを隠蔽できて都合がいい。
「酷い恰好ですね。血塗れで、泥だらけで。そこまでしておれを追う、その必要がどこに?」
どこにもない、と判断する者もいるだろう。それが正しいと言い切る人だっているかもしれない。レヴィアンスは、仲間たちは、きっと「仕方ない」と言う。
でも、必要性はここにあるのだ。イリスは確かに聞いた。自分だけが、ここに来るだけの理由を持っている。
「シリュウ。あんた、生き続けるって言ったよね。わたしの眼を、狙い続けるって。それが何よ、その恰好は。自由に生きられるんじゃなかったの」
彼の言葉を聞いた。頭に焼き付けた。意識が途切れそうになっても、ずっと繋ぎ留めていた。
胸の痛みを我慢したのも、息が切れても駆け続けたのも、全てはこのためだ。
「どうしても裏から抜けさせたいというのなら、ここに来いって、あんたは言った。わたしは、あんたを捨てようとしてる裏から、あんたを抜けさせたい。引っ張って、連れて帰りたい」
シリュウから笑みが消える。眉と口元を歪ませて、イリスを睨む。
「無理でしょうけど、一応言ってあげます。あなたが連れ帰ったところで、おれはそこでは生きられません。あなたたちが理想とするかたちの『真っ当』には、おれはなれません。そんなのは意味がないです」
「ここで死ぬより、生きてたほうが断然良い! これからどうなるかなんてわからないじゃん! 別に真っ当なんかじゃなくたっていい。わたしが、あんたに、生きててほしいの」
声を張り上げたイリスに、シリュウは僅かに怯んだ。でも、まだだ。まだ届かない。
「そんなの、あなたの勝手じゃないですか」
「そうだよ、わたしは勝手なの。勝手ばっかりして、いつもレヴィ兄に叱られてる。さらにお兄ちゃんにばれたりなんかしたら、それはもう恐ろしいお説教が待ってる。でもね、わたしは懲りないんだ。利用されようが、裏切られようが、懲りずに勝手に信じる。それでみんなに、迷惑かけることもあるけど……」
呼吸がしにくい。声を出すのがつらくなってくる。口の中は、血の味しかしない。
それでもせいいっぱい、手を伸ばして。
「あんたを諦めて後悔するのは、絶対に嫌なんだ」
咳き込んで、足がふらついた。吐いた血が地面にぼたぼたと落ちる。視界が霞んで、頭は霧がかかったようだ。
けれどもわかった。シリュウが刀を握り、こちらへ向かってくるのが。イリスを殺して眼を奪うなら、今が絶好のチャンスだった。
周りに裏の人間が控えているのも、ここに到着した時から察知していた。たとえシリュウを諦めて逃げようとしたところで、そんな体力は残っていない。
理想は、シリュウを連れ出して、もと来た道を走ること。けれどもそんなの、夢みたいな話だ。
――わたしの力、お兄ちゃんみたいだったらなあ。
どんなに傷ついていても、超人的な身体能力を発揮できる兄の特性。自我は失うが、シリュウを攫うことさえできれば、今はそんなものはいらなかった。強力な眼よりも役に立っただろう。
刃物が空を斬る音が、微かに聞こえた。


大総統執務室の扉が勢いよく開かれた。駆け込んできた軍人は盛大に転び、ガードナーに起こされる。
「ちょっと、大丈夫?! 何か見つかった?」
駆け寄ったレヴィアンスに、彼は顔を上げて「みなみ」と言った。
「南? 南方から何か連絡があった?」
「ち……違います。南区画です。インフェリア中尉の痕跡が見つかりました!」
レヴィアンスはガードナーと顔を見合わせる。絶対の信頼を置いている補佐は、一度だけ頷いた。それで十分だ。
「ありがとう!」
礼だけを言って駆ける。告げられた内容だけで、それがどこなのかレヴィアンスにはすぐにわかった。レジーナ南区画の住宅街、その地下は、過去に軍が捜査に入ったことがある場所だ。まだレヴィアンスの両親がイリスくらいの階級だった頃、つまりはかなり昔のことだが、裏組織の研究所として使われていたのだ。もちろん、当時は閉鎖し、しばらく軍の管理下にあった。だが、それも先代大総統が解除している。
そのあとは地下水路の管理局の管轄となり、定期的に報告が入ってくるのみとなっていた。その間隔も徐々に空き、現在では年に四回程度となっている。つまりそのときだけを乗り切りさえすれば、あそこには人が入って使うことができるのだ。
あたりをつけていた場所の一つだった。水路が広く長いことで、手掛かりを掴むまで時間がかかったのだろう。司令部で無線の受信ができないので、報せるのも遅れた。
「生きてろよ、イリス……シリュウも」
シリュウのことを諦めるというのは、最悪の場合の話だ。そうでなければ身柄を確保し、「表」のやり方で裁くつもりだった。罰を受けたシリュウがどうするかは自由だ。裏に戻って生き残れるのなら、レヴィアンスはそれを止めない。こちら側の人間として生きることを選ぶのなら歓迎する。一番都合がいいのは、軍に取り込んでしまうことだ。ミナト流剣術の使い手がいるのは頼もしい。けれどもそれはあくまで軍にとって都合がいいということで、シリュウにとって最善でないのなら選ぶべきではない。軍を自由を奪う檻にはしたくない。
子供の頃に選んだ道が、そのまま一生のものになってしまうことも、たしかにあるだろう。それしか選べなかった事情だって、当然誰にでもありうる。けれども選択の機会は一度ではない。生きていれば何度だって、道を選ばなくてはならない。そして道は増えるし、増やせるのだ。シリュウにも、それを知ってほしい。イリスが道を知って、拓いて増やし、選ぼうとしているように。
生きていればこそ進めるはずなのだ。
「閣下、こちらです!」
南区画住宅街には、数名の軍人が待っていた。地下にも人がいるという。
「どうしてここにイリスがいるって?」
「水路に血痕がありました。調べるまでに時間がかかってしまい、申し訳ございません」
「いや、よくやった」
確認しながら地下へ下りる。湿った水路は居心地が悪く、怪我をしていないレヴィアンスでも具合が悪くなりそうだった。最初に見つかったという血痕まで導かれ、その小ささに眉を顰める。
「よく気づいたね、これ。お手柄じゃんか」
「そもそもは閣下の指示です。これより奥に、すでに他の人員が入っています」
注意して見ていくと、ところどころに血痕らしきものがある。それを追うように奥へ進み、ある場所で足が止まった。軍人たちが人々を拘束している。近くには武器がかためて置いてあった。
「これはどうしたの」
「閣下! 彼らは裏の者です。ここに倒れていました。証言によると、インフェリア中尉に会ったそうです」
正しくは「妙な眼の女が怪我をしてここにやってきた」「裏組織が欲しがっていたやつだと思って襲いかかろうとしたが、眼を見た途端に具合が悪くなった」ということらしい。しかし、十分すぎる説明だ。
「まあ、間違いなくイリスだね」
「ここから奥まで、倒れている者はだんだん増えています」
「あっちには裏が研究所として使っていた場所があるんだ。イリスはたぶんそこにいる」
より最悪なパターンが頭をよぎる。それを打ち消すように走る途中、一際大きい血の跡があった。壁にも血のついた手で擦ったような跡がある。このあたりで、イリスは限界を迎えていたはずだ。それを超えて、さらに前へ進んだのだろう。
その先には倒れる人々と、剣や棍、銃などの武器と、見覚えのある姿が転がっていた。
名前を叫んでも、ぴくりとも動かなかった。


刀が斬ったのは、見知らぬ誰かだった。イリスに襲いかかろうとしていたその人物を、シリュウは乱暴に斬りつけていた。型が定まっていないから、ミナト流ではない。
「シリュウ・イドマル、裏切る気か!」
誰かが叫んだ。だが、シリュウは冷静に答える。
「最初から信じてもいないのに、裏切るも何もないでしょう」
「お前はインフェリアの娘をおびき出せば良かったんだ!」
怒号を響かせた者も、シリュウは斬った。ぼんやりする頭で、イリスは思い至る。あれはミナト流ではなく、裏の者がよく使う暗殺術だ。一息に相手を仕留める、そういうやり方だ。
「まさか、娘に情が湧いたか。それとも軍に染まったか」
「いや。おれは裏でしか生きられません。このまま死んでいくよりは、自分の力でもう少し動いてみようと思っただけです」
二人、三人と次々にシリュウに斬り捨てられる。イリスがその光景を呆然と見ていると、すぐ横に気配を感じた。ぎこちなくはあるが、反射的に体が動いて、剣で相手の動きを止める。
「まだ動けるのか」
「……そう、みたい。思ってたよりも、わたしは丈夫なのかも、ね!」
一度相手を弾き飛ばすだけの力が出せると、急に楽になった。呼吸も自然と整う。シリュウに負けるものかと、イリスも襲い来る者たちを斬った。
「なんだ、まだそんなに体力があるんですか。せっかくあなたを研究員に差し出して、傷薬くらいは貰おうと思ったのに」
呆れるシリュウに、イリスは笑う。傷だらけ、血塗れの顔で。
「いいね、生きる気力が湧いてきたなら、何でもいいよ」
「こんなときに笑えるなんて、バケモノですか、あなたは」
「どうかなあ」
背中合わせに立ち、それぞれに得物を構える。相手はまだまだ湧いてくるようだ。しかし、ちっとも恐怖や焦りを感じない。背後にいるのは敵同士のはずなのに、妙に安心した。
「一緒に生きてみれば、わたしがバケモノかどうかもわかるかもよ」
「興味はありますが、生憎あなたと同じ場所で生きられる気はしません。おれにはやっぱり、裏が合う」
同時に駆けて、一閃。同時に斬り伏せ、また一太刀。眼に頼れない分、技で勝負するしかない。それがなぜか、こんなときなのに、無性に気持ちが良い。本気に本気を重ねなければならない、手強い相手もいた。どれだけ打ち込んでも動かないような相手には、全身を使って挑む。疲れ切っているはずの足は、相手を蹴るとなると頑強さを取り戻した。シリュウもあらゆる攻撃で相手を翻弄し、倒している。けれども絶対にミナト流の技は使わない。
イリスがやっとのことで最後の一人を倒すと、途端に静かになった。二人分の粗い呼吸ばかりが、地下空間に響く。止まってしまうと、もう動けなかった。シリュウに眼を奪われないよう、抵抗する力も残っていない。
しかしそれはシリュウも同じだったようで、血と汗でどろどろになった体は、どっと地面に倒れ込んだ。
「シリュウ、大丈夫?」
「あなたのほうこそ、声を出すのがやっとのようですよ」
「うん、まあ、そんな感じ」
急に足から力が抜けて、イリスもへたりこむ。頭が重くて、そのまま横になった。
「……このままじゃ、死にますね。おれも、あなたも」
「それは……困るなあ」
「組織の人間が、ここに来れば、あなたの眼を抉っていくでしょう」
「やだな、それ……」
もう指の一本も動かせない。これでは負けてしまう。何か、奇跡でも起きないだろうか。イリスもシリュウも生き残れるような、素晴らしい奇跡が。
地面につけた耳に、足音が響く。誰かが来たのだ。でも、もう。
何かを考える力さえ、使い果たしてしまった。


軍設病院の病室は、少しだけ賑やかになっていた。仲間を見舞いに来たブロッケン姉妹と、ルイゼンが怪我をしたということを聞いて慌ててやってきたリチェスタが鉢合わせたのだ。
「ゼン君のお母さんから、いろいろ預かってきたの。お花でしょう、果物でしょう、タオルでしょう、それと……」
「わかったわかった、ありがとな。俺まだ食えないから、果物はみんなで分けてくれ」
あれこれと取り出すリチェスタを、ルイゼンはやんわりと止める。その光景に、カリンは目をぱちくりさせていた。
「お姉ちゃん、こちらの可愛い人はルイゼンさんの彼女?」
「未来の嫁だ」
「そ、そんな、お嫁さんだなんて。夢は見てますけど、ゼン君にまだその気がないので……」
「変なこと言うなよ、メイベル。幼馴染のリチェだ。実家が近所でな」
顔を真っ赤にしたリチェスタと、あまり動じていないルイゼンを見比べて、カリンはにっこり笑う。二人はお似合いですよ、という台詞は心の中だけに留めた。
少し落ち着いたリチェスタは、果物ナイフとリンゴを取り出し、器用に皮むきを始める。そして作業をしながら尋ねた。
「イリスちゃんは、忙しいの? なんだか大きな事件があったみたいだから、きっと大総統補佐は大変なんだろうけれど」
ルイゼンは言葉に詰まる。メイベルとカリンも、どう説明したものか、そもそも言っていいのかと顔を見合わせる。フィネーロが「まあ、忙しいよ」と答えたので、どうにかその場は切り抜けられた。
「でもイリスちゃんのことだから、きっとゼン君たちのお見舞いは来たいよね。とっても強いけど、本当は誰よりも心配性で、友達思いだもの」
だからこそここにはいないのだが、リチェスタには本当のことを言えない。言えば彼女も心配する。軍のことに、できる限り一般人は巻き込みたくない。ましてリチェスタは、イリスの大親友だ。
「そ、そういえばお姉ちゃん、ずっと訊きたかったんだけど」
いたたまれなくなったのか、カリンが話題を変えた。
「フィネーロさんを助けに行くとき、全然居場所を迷わなかったよね。候補はいくつかあるって言ってたのに。どうして?」
「……ああ、私は別に話してもいいんだが、フィネーロはどうだ」
「僕も構わない。昔のことだし」
今はそれしか話題がないんだし、とは思っても言わなかった。一応許可は得たとして、メイベルが話し始める。
「あの場所はな、フィネーロが入隊したばかりの頃に虐められていた場所だ。中央の陰険な奴らは、あの中庭にひょろい奴を連れ込んでいたぶるんだ」
「ええ、なにそれ。軍でもそんな酷いことをする人がいるの?」
リンゴの皮を繋いだまま、リチェスタが真っ先に憤慨した。集団にはありがちな側面だ、とルイゼンが宥める。
「私は当時、まだイリスとも出会っていなかった。寮に入る前だったからな。だから気軽に話せるような人間がフィネーロしかいなくて退屈していたんだ。なのに、その唯一のオモチャに手を出す奴らがいる。腹が立ったんで、連れ込まれる後を追って、陰険野郎ども全員の急所を蹴り潰した」
「わあ、メイベルちゃん、かっこいい……」
「さすがお姉ちゃん」
女性陣は絶賛しているが、ルイゼンはほんの少しだけ陰険野郎どもに同情してしまった。それを視線だけでフィネーロに謝ろうとしたら、同じ視線が返ってきた。被害者でも同情したらしい。
「フィネーロが知っていて、密会に使えそうな場所といったら、あの場所が真っ先に思い浮かんだまでだ。あのときはカフェオレで手を打ったが、今度は何で借りを返してもらうかな」
「僕の怪我が治るまで待ってくれ。それからなら、できる限りのことはするから」
楽しそうに目を細めるメイベルと、苦笑するフィネーロ。二人を見て、リチェスタは頷きながらにやけている。また何か誤解をしているな、とルイゼンは思ったが、否定はしない。
ここにイリスがいたら、もっと楽しかっただろう。わたしが知ってたら応戦したのに、なんて言って悔しがったかもしれない。そんな光景が見たかった。
「おい、リーゼッタとリッツェは起きているか」
少し寂しくも平和なひとときを途切れさせたのは、病室に入ってきたトーリスだった。メイベルとカリンの姿を見止めると、慌てた様子ながらも「ちょうど良かった」と息を吐いた。
「閣下から連絡があった。インフェリアが見つかったぞ。イドマルも確保した」
「イリスが?!」
「シリュウも一緒だったのか」
反応してしまってから、ルイゼンはハッとした。ここにいるのはリーゼッタ班の人間だけではないのだ。きれいに皮をむいたリンゴを切りかけていたリチェスタが、困惑を浮かべている。
「……見つかったって、どういうこと? イリスちゃん、今までどうしてたの? ねえ、ゼン君」
リチェスタに経緯を説明するのは難しい。これは軍の問題であり、イリスの問題だ。何も関係がないはずのリチェスタまで巻き込めば、それこそイリスが怒るだろう。
トーリスはやっとリチェスタの存在に気づいたようで、ばつが悪そうな顔をしていた。話にはまだ続きがあるが、どうする。そんな問いを無言でこちらに投げかけている。
迷った末に、ルイゼンは顔を上げ、口を開いた。
「イリスとシリュウは、どうしていますか。二人の状態を教えてください」
巻き込みたくはない、が、リチェスタもいずれは知ってしまう。それなら今ここではっきりさせておいたほうがいい。
フィネーロとメイベルが息を呑む。カリンは祈るように手を組んだ。
「これは、閣下から補佐大将へ連絡があったものだ。お前たちも知っての通り、インフェリアとイドマルはそれぞれ負傷している。そのうえで激しく動いたようで、二人とも失血が酷い。ここに運ばれてきたら、すぐに治療と輸血を行なうが、どうなるかはわからない」
語られたのは、現状と、これからの話。これからがあるということは、二人はまだ生きている。予断を許さない状況ではあるが、ちゃんと命を持って帰ってくる。持ち続けるはずだ。
「……トーリス准将、ありがとうございます。少し安心できました」
「そうか。そちらのお嬢さんは、リーゼッタとインフェリアの友人だったな。驚かせてしまって申し訳ない」
リチェスタは黙って俯いたまま、小さく首を横に振った。衝撃も混乱も大きいだろう。親友が知らぬ間に大怪我をしているのだから。ただでさえ、ルイゼンの怪我を心配してきてくれたのに。そっと髪に触れ、撫でると、震えているのが伝わってくる。
「リーゼッタたちと、お嬢さんも、続報を待っていてくれ。じきにインフェリアたちは、閣下とともにここに到着して、治療を受ける。あれが逞しいのは、私よりもお前たちのほうが知っているだろう」
「そうですね。イリスはそう簡単にやられるようなやつじゃない」
「シリュウもしぶとそうだ。二人とも何日かすれば、元気になるだろう」
頷きあうリーゼッタ班の面々に、トーリスは微笑み、リチェスタも胸を押さえて顔を上げる。きっと続報は、明るいものになるはずだ。
部屋を出て行こうとするトーリスを、メイベルが呼び止めた。これだけは確認しておかねばなるまい。
「イリスが負傷しているとしか聞いていないのか。例えば目に損傷があるとか、そういう話は」
ガードナーから伝えられた話であれば、イリスの眼には触れているはずだ。だが、トーリスは「いや」と返した。
「私は聞いていない。だが、あの眼は重要なのだったな。何かあれば言うはずだから、何もないということは手を出されてはいないのではないか」
「ならいい」
眼が奪われていないのなら、希望はさらに大きくなる。イリスは守り切ったのだ。自分の仕事をやりきって、おまけまでつけようとしている。それでこそイリス・インフェリアだ。あとは誰もを魅了する笑顔を見せてくれればいい。

怪我人が次々に搬送されてくる。昨日は軍の人間が、今日は裏の者たちが大量に。軍設病院の医師であるクリスがイライラと頭を抱えているところに、レヴィアンスが頭を下げた。
「本当にご迷惑おかけしてます」
「全くです。ボクが全てを診るわけではありませんから、労力については構いませんよ。けれどもベッドが無限に置いてあるわけではありませんからね、傷や症状の軽い人から、さっさと出て行ってもらいます。それからはあなたがたがどうにかしてください」
「もちろんです。……それで、あの」
おそるおそる顔を上げると、クリスはさらに眉間のしわを深くした。この人も年をとったが、眉間にもっとも年齢を感じる。
「イリスさんと、イドマルという少年のことが聞きたいのでしょう。失っている血が多すぎて、何ともいえませんね。カスケードさんに連絡は?」
「もうしています。そろそろ来るかと」
「着いたら、覚悟しておいてくださいとお伝えください。ボクは処置に戻ります」
行ってしまうクリスを見送り、レヴィアンスは深く息を吐く。イリスたちを発見してからここまで連れてくるのに、急ぎながらも気をつけていた。微かで浅い呼吸が止まっていないことを何度も確認し、手の冷たさにぞっとしたのでずっと握って離さなかった。昨日の戦いの後に見たよりも顔が青白くて、イリスでもこんなことになるのかと思った。
どのタイミングで何をすればこの事態を防げたのか、いくら考えたところで怪我が治るわけでもない。回復力を信じると言っても、あれほどの状態になったのは初めてだ。不安は止まなかった。
「レヴィ」
声をかけられて、我に返る。振り向くと、ニアとカスケードがいた。ニアは今日、すでに一度病院を訪れている。それをまた急に呼んだのだった。
「イリスは、処置の最中かな」
「うん。切り傷とか打撲とか……なにより昨夜の刺し傷が開いちゃって酷くて」
血と泥で汚れた部屋の中に倒れ込んでいたイリスを思い出して、くらっとした。別に血が苦手なわけでもないのに。
「なんだか、お前も顔色悪いぞ。少し休んだらどうだ。仕事のほうはレオがやってくれてるんだろう」
カスケードが心配そうに顔を覗き込むので、首を横に振って、口元を歪める。笑おうとしたのだが、できていないのはレヴィアンス自身わかっていた。
「レオだって、疲れてるのに。オレだけ休むわけにはいかないです。ていうかさ、イリスがちゃんと目を覚まさないと、安心して休めないよ」
「あの子が意識失うのなんて、そう珍しいことじゃないよ。前は眼を使うたびにそうなってたじゃない。きっとまたへらへら笑って起きるに決まってる」
こんな言い方をしていても、ニアは妹が心配でたまらないのだ。その証拠に、手の震えをごまかそうとして、シャツをきつく握りしめている。
「……そうだ、シィさんは? 置いてきちゃっていいの?」
「母さんも来るよ。おばあちゃんと一緒に、イリスの入院に必要なものを揃えてからね」
「俺は先に行くように言われたんだ。女の子の荷物だしな。それに、お前のことが心配だった」
大きな手がレヴィアンスの頭をくしゃりと撫でた。大総統の後輩として、息子の友達として、娘の兄役の一人として、カスケードはいつもレヴィアンスのことを気にかけてくれている。娘が大変なときでも、それを引き起こしたのがレヴィアンスのミスでも、けっして責めたりしない。
「……ごめんなさい」
「レヴィが謝ることじゃない。とりあえず、イリスの様子を見に行こうか。家族だったら、会えるよな」
レヴィアンスがイリスを医者に任せなければならなかったのは、上司で兄役ではあるが、本当の家族ではないからだ。処置が終わるまでは会えない。けれども家族ならば、処置中でも様子を見に行くことができる。行こう、とニアがカスケードの腕を引いた。
「早くイリスの顔を見て、レヴィに大丈夫だって教えてあげなきゃ。もしかしたら、もう目を覚ましてるかもしれないし」
そうであればいいのに、誰かがそれを知らせに来るような気配はなかった。


見渡す限り真っ白だった。何かがあるということもなく、本当に何もない空間だ。花畑や川なんかどこにもないじゃん、と思って、気付いた。妙なことだが、死の際だという自覚がある。
このまま死ぬのかな、とぼんやり考えてみる。両眼で真っ白な空間を見ているつもりだが、実際のところ、眼は守りきれたのだろうか。いや、それよりシリュウだ。彼は生きているのだろうか。気になることがありすぎて、死んでしまうのが惜しい。
どうしたらここから抜け出せるのだろう。現実に戻って、確かめたいことがいろいろある。こんな夢を見るということは、まだぎりぎり生きているのだ。ほんのわずかでも目を開けさえすれば、最期に一言くらいは残せないだろうか。気になることを聞いて安心すれば、何の心残りもなく……。
「何言ってるの、十八歳ぽっちで。そんなことですっきり死ねるわけないよ」
ふいにすぐ隣から声がした。自分の姿が、手すらも見えないので、隣だと感じただけだ。けれども声のほうを見ると、そこにはこの空間で唯一の色が――人がいた。
長い髪は濃い緑色。瞳も緑。着衣は黒いローブだ。その顔は、いつか見たことがあったが、それは直接ではなかった気がする。誰、と問う前に、彼はまくしたてた。
「あのね、未練なく死ねる人間なんてそうそういないよ。僕なんか、未練ありまくりだったからクローンになって大暴れしたんだし」
「クローン、なんですか」
返事をして、自分も声が出ることがわかった。彼と会話ができる。
「まあ、今君が見ている姿はクローン体だね。でも、本物と同じだよ。僕は僕だ。で、話は戻すけど、人生に完全に満足できる人間なんていない。何の心残りもなく逝けるなんて、簡単に思っちゃだめだ。それは甘いよ、甘すぎる。君がいなくても世界は続いて、君を憶えている人がいる限り君の存在は遺り続けるんだから。だから死んでもなかなか死ねない。気になって、こうやって話しかけに来てしまう」
自分の知っている誰よりお喋りだが、口調はなんだか兄に似ていた。呆けていると、彼はふわりと笑みを浮かべた。それで、思い出す。この人は――。
「若くして死ぬことの全てが不幸だとは、僕は思わないけれど。でも、君はまだまだ生きたほうがいいと思うな。僕が力を貸してあげてもいい。君のためっていうよりは、君を大切に思っている、僕の大切な人のためにね」
「あの、あなたは、」
その人の名前を口にする前に、どっと押し寄せてくるものがあった。それは激しい水の流れのようにこの体を包み、その一瞬一瞬に「景色」を見せてくる。抱きしめてくれる母の柔らかな表情、肩にのせてくれる父の楽しそうな顔、手を繋いでくれる兄の優しい瞳と口元。生まれてから今まで、出会ってきた人たちとの場面が波となり渦となり、この見えない体をどこかへ押し流していく。
仲間たちが手を差し伸べているのが見えた。仕方ないな、という顔をして。――みんなが、待ってる。


個室に人がなだれ込んできた。ルイゼンとフィネーロは車椅子に乗っていて、それをメイベルとカリンが押している。その後ろにはリチェスタの姿まであった。一瞬呆けたが、すぐに我に返って、イリスはベッドから起き上がろうとした。だが、痛くて動けない。
「ゼン、フィン、怪我したとは聞いてたけど、自分で動けないほどなの? 大丈夫?」
言葉だけでもと案じると、仲間たちの焦り顔は一気に呆れ顔になった。
「お前がそれを言うか! なんだよ、その頭と顔の包帯は。まさか眼を」
少し抑えてはいるが、ルイゼンが怒鳴るように尋ねた。呆れていたかと思ったら、もう表情は真剣だ。イリスの顔の右半分には包帯が巻かれていて、目も隠れている。だから驚かせてしまったのだろう。
「違う違う。これはあんまり顔に細かい傷が多いから、大袈裟に包帯巻かれちゃっただけ。眼はちゃんと守り切って無事だよ。検査はこれからだけど、視力にも問題ないと思う」
笑ってみせると、安堵の息が揃った。カリンとリチェスタは涙目だ。二人の頭を撫でて、大丈夫だよ、と言ってあげたい。けれども今は、腕を上げるのも難しい。
イリスが目を覚ましたのは、ちょうど傷の処置が全て終わったときだった。最初に見たのは心配そうに顔を覗き込む両親と兄で、まだ感覚がおぼろげな手を、三人で握ってくれていたようだ。何を言っていいのか迷ったが、怒られるのを覚悟で口にした言葉は、母を泣かせ、父を困ったような笑顔にし、兄に溜息を吐かせた。
それを、仲間たちにも言う。
「ただいま」
反応はそれぞれだったが、異口同音に返事をしてくれた。
「おかえり」
涙をぼろぼろとこぼしながら、カリンとリチェスタが駆け寄ってくる。ルイゼンとフィネーロは自力で車椅子を動かすのが難しいのか、ドアの前から動かない。メイベルは無事のようだが二人に合わせている。やっとリーゼッタ班のメンバーが揃いつつあった。
あと一人だけ、足りない。
「ねえ、シリュウは? 別の部屋で手当てを受けてるんだよね?」
途端に、カリンとメイベルの表情がこわばる。ルイゼンとフィネーロはもごもごと口を動かし、返事を探していた。シリュウの容態は良くないのだろうか、不安がこみあげてくる。
「シリュウなら、先に目を覚まして、拘置所の医療施設に移送されたよ」
遅れて部屋に入ってきた声に、イリスは左目を見開いた。
「レヴィ兄。……それ、本当?」
「見送ってきたから確かだよ。あいつのほうが、イリスよりは怪我が軽かった。お前より戦うの上手いんじゃないの」
車椅子組をそれぞれベッドの近くに押して、レヴィアンスは自分もスツールを引っ張り出してくる。それと入れ替わりに、両親はそっと部屋を出て行った。兄はリチェスタに何か耳打ちして、一緒にその場から離れる。これで部屋には、現役の軍の人間だけが残った。
「……さて、イリス。またまた勝手なことをしてくれちゃったわけだけど」
腕組みをするレヴィアンスが、真面目な顔で言う。完全にではないが、ほぼ大総統モードだ。しかしイリスは怯まず、焦らず、小さく頷いた。
「今度こそ軍を辞めさせられるつもりで、シリュウのところに行った。どうしても放っておけなくて」
裏で生きてまた眼を狙う、とシリュウは言った。けれどもイリスには、それができるとは思えなかった。だからこそ彼の後を追い、そして案の定捨てられかけていたのを見た。裏はシリュウの言う通り、国の決まりからは自由であるかもしれないが、失敗の代償も全て自分に降りかかってくる。それが組織に影響するとなれば、存在は抹消されてしまう。そんなケースは何度も見てきた。
「シリュウを助ける、なんて偉そうなことは言えない。でも、なんとかしたいと思ったんだ。裏があの子の生きるところなら、それは仕方のないことかもしれない。でも、わたしは、できることなら……」
一緒に生きたい。そう強く願ったから、シリュウに手を伸ばし続けた。結局、それはまだとられてはいない。だが、どうやら逃げられてもいないようだった。あの傷では、さすがに逃げられないだろうが。
レヴィアンスは、ゆっくり語るイリスと、ずっと目を合わせていた。彼は、どんなにイリスの眼を見ていてもその影響が出ることはない。この世界で異質なイリスを受け入れてくれる一人だ。そして班の仲間たちは、イリスが眼の力を抑えているから普段は平気だが、彼らは多少は影響を受けてしまう。それでもイリスの存在を認めて、一緒にいてくれる。
イリスは、シリュウにとっての彼らのようになりたかった。それは我儘で傲慢な考えかもしれないけれど、せめてひとときの拠り所に、できることなら帰る場所になりたかった。
「……勝手なことしたよ。みんなにも迷惑かけたし、シリュウにだってきっと余計なお世話だった。わたしのせいでシリュウは怪我をして、わたしのせいで軍のみんなは普段通りの仕事ができなかった。ごめんなさい。もう、わたし、軍には」
「イリスには軍にいてもらう。いてもらわなきゃ困るんだ」
言いかけた言葉を、先回りされて遮られる。俯きかけたイリスが見上げたレヴィアンスの表情は、怒っても呆れてもいなかった。大総統のそれでもなく、そこにいるのは昔からの兄役、レヴィアンス・ハイルだった。
「あのさ、今回の件に関しては、オレが何言っても説得力ないんだよね。オレも昔、単身で敵方に乗り込んだことがある。操られたふりをして、ルーファとガチで戦ったりもした」
「え、マジですか」
つい反応したルイゼンに、レヴィアンスは「マジだよ」と笑った。
「勝手な行動はもちろんダメだよ。せめてちゃんと報告が欲しかった。そしたらさ、みんなここまで心配せずに済んだんだ。でもシリュウがどうなったかはわからない。オレが今動ける人員にシリュウの捜索を任せたとして、正直なところ、生かして連れ帰ることができるって保証はなかった」
そのまま逃がしてしまっていたかもしれないし、連れてくることはできても生きているとは限らない。レヴィアンスだって、それを「仕方ない」と思っていた。そうなってしまっても、それがシリュウ・イドマルの選んでしまった運命で、軍にできることには限界があったのだと。
だが、イリスはその限界を超えた。傷だらけで壁をよじ登り、その向こうにいるシリュウに手を伸ばし続けた。この手をとれ、と叫び続けた。たとえシリュウが手をとらなくても、そこに留めることはできたのだ。
「シリュウの確保に尽力し、生きて帰ってきた。ついでに裏の、主に武器の無登録所持者たちの確保も手伝ってくれた。だから今回の件はプラマイゼロってことでどうかな」
「……プラスにはならないんだね」
「当たり前じゃん、あれだけ迷惑かけといて」
イリスが苦笑し、レヴィアンスがいつものようににいっと笑う。日常が戻りかけている――と誰もが思いかけたが。
「いや、マイナスだ。自分の怪我の程度も考えずに勝手に出ていって、お兄さんに心配かけて、俺たちだってどれだけ気をもんだか」
全員がルイゼンの発した台詞に目を丸くした。いや、フィネーロだけは「そういえば」と息を吐いた。ルイゼンには、託されたことがある。――ゼンがあの子を叱ってやって。
「ふらっと出ていって、ぼろぼろになって帰ってきて。お兄さんや閣下は自分も昔やったからって、甘いこと言うかもしれないけど、俺はお前を甘やかしたりしないからな。何も言わないでいなくなるなんて、軍人の仕事じゃない。冬の事件で随分反省したと思ってたのに、お前本当に懲りてないのな」
「ゼン……。うん、そうだね。それが、普通の反応だよ」
叱られているのに、イリスは安心していた。これも受け入れてくれているからこそのことだ。イリスを軍人として、部下として、正当に扱っている。
「だから、ゼロに戻すためにも、ちゃんと休んで怪我を治せ。そんで、今度こそ軍人として働け。報告、連絡、相談を徹底しろ。俺たちが動けなくても、軍にはたくさん信頼できる人がいる。イリス、もっと人に頼れよ。味方をつくれ。そうやってお前がもっと楽に動けるようになって、はじめてプラスだ。もちろん俺たちだって協力する。だいたい、お前の眼を狙うやつがいなくなったわけじゃないし」
腹の傷が痛むはずなのに、ルイゼンはイリスに渾身の思いで言い聞かせる。その気持ちを、教えを、イリスは胸に刻み付けた。でも、やはりルイゼンだって甘いと思う。だって、プラスにしようとしてくれているのだから。思わずこみあげる笑いをこらえていると、レヴィアンスがしみじみと言った。
「ルイゼン、やっぱりお前、リーダー向いてるよ。叱る役を引き受けちゃうとことか、オレたちのリーダーにそっくりだもん」
「……そうですか。そんなつもりはなかったんですけど」
ルイゼンが照れて口をとがらせると、イリスはとうとう我慢できなくなった。吹き出しながら、胸の痛みに悶絶する。
「いたた。ゼン、ルー兄ちゃんみたい。あたた……。ちょっと、お兄ちゃんにも似てる」
「痛いなら笑ってないでおとなしくしてろ」
「この分なら、イリスもルイゼンもすぐ回復するな」
「フィンもちゃんと治すんだよ」
一人が拘束され、怪我人が三人。無傷の二人もしばらくは聴取や事件のまとめを他の班に入ってやらなければならない。リーゼッタ班は、一時休業だ。

シリュウからの聴取は、彼の回復を待ちながらということになった。中央で起きた事件なので、そこまでは中央司令部の仕事だ。そのことを、レヴィアンスは東方司令部のクレリアと確認し合った。
「聴取が終わったら、シリュウはこちらに帰してくださいね」
クレリアが電話の向こうで、真剣な表情をしているのがわかる。できればこちらに戻せだとか、そんな曖昧なことではなく、彼女は本気でシリュウを取り戻す気でいるのだ。
「中央で傷害事件を起こしてるし、裏に流した情報は膨大だよ。なにしろ六年間だからね。本来なら、中央で裁かれるべきだ。罪を償ったあと、裏に戻っていくかもしれないし」
「中央で決めた処分をこちらで行ないます。そうすれば、裏に戻るかどうかの判断も、東方に戻ってからになるでしょう」
「それはシリュウが決めることだからなあ。……ていうかクレリアは、シリュウが裏に戻ってもいいと思ってるの?」
軍としては、一度罪を犯して捕まった裏の人間は、また裏に戻ることのないようにするべきだ。レヴィアンス個人としては、刑罰を受けたならあとは自分の道は自分で決めてほしいと思っているので、その選択が「裏で再び生きる」ということでもかまわない。一部の者には冷たいと思われるかもしれないが、他人が誰かの人生を決めてしまうというのはおこがましいという考えに基づいている。
では、クレリアは。彼女は、シリュウを自分の手もとに置きたいと思っているのだろうか。
「義兄さん。あたしは自分の弟子が、軍人であろうとそうでなかろうと、そこには拘らないのよ」
きっぱりとした声が、耳に届く。へえ、とレヴィアンスは相槌を打った。
「ミナト流が裏にとられてもいいの」
「もちろん悪用されては困りますけれど。もともと不殺の流派ですからね。けれどもあたしは、この技があり、実戦に使われるかぎり、相手を斬らないということはないと思っています。あたしたちの周囲も、裏も、同じ世界のうちだわ。技を磨きたい人がいれば、あたしは教えます。おじいちゃんの理想とは違うかもしれないけれど、あたしは現ミナト流師範として、シリュウを破門にはしないつもり」
彼女の祖父トウゲンならば、シリュウが事件を起こした時点で破門にするだろう。けれどもクレリアは別の道を行くという。いや、新しい道をつくるのか。彼女もまた「切り拓く者」なのだ。
「破門にはしませんけど、徹底的に叩き直すつもりではあります。ミナト流の根本にある精神は、変える気はありませんから」
「そっちのほうが怖いと思うの、オレだけ? まあいいや、クレリアがそう言うなら、東方に帰す手配も進めるよ。懲役刑ならそっちでも可能だし」
レヴィアンスが告げると、クレリアは満足そうだった。嬉しそうに笑う声が聞こえ、それから。
「で、イリスちゃんの具合はいかが?」
「心配してくれてたの。順調に回復してるよ。もう話もできるから、病院でちょっとずつ聴取を進めてる。あ、そうそう、これはクレリアに伝えなきゃと思ってたことがあるんだ」
イリスには、怪我をするに至った経緯と、単独行動中のことを聞いていた。その中で、彼女が強調していたことがある。裏での戦いのとき、シリュウが特殊な技を使っていたということだ。
「イリスによると、シリュウはミナト流を、裏では絶対に使わなかったって。たぶん裏でよく使われてる暗殺術で戦ってたんじゃないかなって思ってる。イリスを裏の研究者たちに引き渡す手柄を独り占めするためって名目で、あいつは自分が属してるはずの裏の人間と戦った。クレリアから引き出したはずの技を明かさずにね」
「……そう。それならなおさら、あたしが鍛え直してあげなくちゃ。だってあの子は、あたしの大切な弟子ですもの」
自慢の弟子は、クレリアの大切にしているミナト流を守った。イリスも、師も、そう解釈している。シリュウが実際はどう考えているのか、それはこれから聞くことだが、おそらく本当のことはあまり話してくれないだろうとレヴィアンスは思っている。
ただ確かなのは、裏で生きてきた少年には、裏の人間ではない味方がいて、彼を信じてくれているということだ。どんなに傷ついても、裏切られても、まだ手を伸ばし続けるお人好しが一人ではない。
それを迷惑と思うか、ちょっとは甘んじてみようと思うか、それはシリュウ次第だ。
「了解。それじゃ、こっちでの手続きが済んだら、シリュウを移送するということで」
「あ、中央がわざわざ動いてくださる必要はありませんからね。あたしが迎えに行きます。ジンミも」
「マジ? 大丈夫なんだろうな、また逃げられたり」
「しませんよ。させませんから。義兄さん、あたしを誰だと思って?」
ミナト流師範にして東方司令部准将、有能記者を姉に持つ、大総統の義妹。彼女の声は自信に満ちていた。まったく、レヴィアンスの周囲の女性は揃いも揃って強者ばかりだ。

強者の一人は、病室で退屈を持て余している。ルイゼンとフィネーロは同じ部屋にいるが、イリスは個室だ。しかも常に監視がついている。怪我が良くなるまでは自由になれない。
「あー……暇……」
ベッドを操作して体を起こすことができるようになり、手が動くようになったので本が読めるようになった。けれども顔の半分はいまだに包帯が巻かれていて、片目だけでは読書もすぐに疲れてしまう。ニアが持ってきてくれた、彼が装画を担当した新刊小説は、せっかく面白いのにまだ四分の一も読めていなかった。表紙の色は、イリスの眼と同じ赤を基調としている。
狙われている赤。裏が求めている赤。悪魔の色と呼ばれた赤。だが兄の絵は、そんな赤に幸福を滲ませている。純粋に美しいと思える赤を、イリスはそっと撫でた。
この眼も、ただの赤なら。何の能力もなく、裏の標的にならなければ、不幸なことは何も起きなかった。イリス自身も、苦しむことはなかっただろう。
――でもさ、なくなっちゃえばいいのに、とは思わないんだよね。
包帯の上から、右目を押さえる。この眼のおかげで救えたものもあるのだ。この眼を活用して人を救おうと、イリスはいつだってそうしてきた。この眼には、とても大きなことができる。
貴族の違法オークションを潰した。大型キメラを足止めした。暴漢を気絶させた。殺人事件の生き残りを見つけた。女王を狙う者を倒した。軍人としてやってこられたのは、たしかにこの眼のおかげだった。
この眼と身体能力がなければ、イリスは騙されやすい弱者だ。シリュウが指摘したことに、間違いはない。でも一つだけ言い返せることがある。この力は、自分が逃げるためのものではない。もとより逃げるつもりなどイリスにはない。
――それを、伝えたいなあ。また会えないかな、シリュウに。
こうしているあいだにも、シリュウの聴取が少しずつ進められている。彼は何を話すだろう。もしかしたら、何も話さないかもしれない。また嘘を吐くかもしれない。けれども、聴取にあたる者はきっと、イリスほどは絆されたり騙されたりしないだろう。
聴取が終われば、裁かれる。刑罰が決まって、そうしたらもう会えないかもしれない。刑務所に入ってしまえば、原則として会えるのは家族とそれに準ずる者、そして佐官以上の軍人だ。尉官であるイリスは、会うことを許されていない。
――チャンスが欲しいな。でも、この状態じゃなあ……。
うう、と呻いていると、急に病室のドアが開いた。無遠慮なその行動は、寮で同室の彼女のものだ。
「イリス、お前宛てに見舞いの品が届きすぎて事務室が軽くパニックだ」
「お、ベルお疲れー。ごめんね、いろいろ任せちゃって」
メイベルは箱や紙袋などを大量に抱えている。紙袋の一つは、中身がカードでいっぱいだった。何枚か見て見ると、女の子らしい字で「早く良くなってください」「待ってます」「イリス中尉がいないと寂しいです」などと書かれている。
「さすがわたし。無茶したのにモテモテだね」
「まったくだ。お前の人気ぶりに室長も呆れている」
「あれ、今室長って誰がやってるの? ディセンヴルスタ大佐は捕まっちゃったし、ゼンは入院してるから、他の大佐とか?」
「いや、業務の引継ぎがまともにできていないから、一時的にトーリス准将が仕切っている。将官室から追い出されたというのに、暑苦しいまでの働きぶりは健在だ」
暑苦しいと評してはいるが、メイベルは機嫌が良さそうだ。上司としては、おそらくルイゼンやフィネーロとそう変わらないくらいには、トーリスを信頼しているのではないか。少なくともネイジュよりは馬が合うだろう。
トーリスが仕切る事務室で、各班は真面目に仕事をしているという。カリンの働きぶりなどは評判がとても良く、他班で仕事をしていても可愛がられているらしい。姉とは大違いだ、なんて言われて。
「実はそうでもないのにね。カリンちゃん、やっぱりベルに似てるよ。ディセンヴルスタ大佐に立ち向かったとき、かっこよかったもん」
「似てるか? あいつのほうがよほど人に取り入るのが上手い。意外と強かなのは認めるが」
「それだよ、その強かさ。姉妹だよね」
メイベルはまだ納得がいかないという顔をしている。イリスはそれが面白くて笑う。ここが病院じゃなくて、怪我さえ治っていれば、日常の光景だ。
事務室の様子以外にも、司令部全体の動きや、町での軍の評判なども確認しておく。どうやら司令部での騒ぎはニュースにはなっていないようで、しかしながら人々のあいだでは噂程度に「また襲撃があったらしい」と囁かれている。報道がなかったのは、女王や大文卿が規制をかけ、大総統付記者であるエトナリアが巧くごまかしたからだろう。
司令部では欠けた人員の分を埋めるように仕事が分配され、誰もが忙しい。メイベルが抜けてこられたのは、今が昼休みだからだ。もともと小食の彼女は、一食くらいなら抜いても生活に支障はない。たとえ業務時間内だとしても、イリスの様子を見に行くと言えば、短時間であれば許可は出るはずだ。
「だいたいこんな感じだな。ああ、それとミルコレス・ロスタのことで追加情報があるが聞きたいか」
「それ大事なことじゃん、聞くよ。裏との繋がり、何かわかったの?」
「奴は自分の立場を利用して、大陸中の裏の人間と少なからず関わりを持っていたらしい。だが大きな組織や幹部級の人間との繋がりは、おそらくクローン製造を専門としていたところだけだったんだろう、だとさ。そしてその組織は、私たちがサーリシェレッドだの焼死体だのと騒いでいる間に解散していた可能性が高い。カリンを使おうとしてたのはまた別の組織で、ミルコレスとは関係がなく、それももう追跡が困難なんだと」
ミルコレス・ロスタについての調査は、佐官以上のチームが引き継いだ。裏の深いところまで調べられる者たちのはずだが、それでも真相はほとんどわかっていないのだった。これ以上は、シリュウが喋らなければ、詳細を知ることができないとみられている。
「……で、こんな事態になったものだから、ミルコレスの親族は遺体の引き取りを拒否。確認すら嫌がってしていない。軍で葬ってやってくれと、奴との縁を切った。死んだ人間と改めて縁を切るというのも、おかしな話だが」
「そっかあ……。死んじゃったからってやったことが帳消しになるわけじゃないのはわかるけど、そうやって切られちゃうのも、なんだかやるせないね」
「他人の家のことだ、気にするな」
他人の家。イリスが関わることのできない部分。それを意識するたびに、自分は何も知らないのだと、知らないままぬくぬくと育ち、それが許されてきてしまったのだと思い知る。ミルコレスの親族の決断は、メイベルのほうが理解できているだろう。深く溜息を吐いたところで、病室のドアがコツコツと音をたてた。
「ん、誰だろう。どうぞー」
声をかけると、引き戸がすうっと開いた。そこに立っていたのは、片手に花を抱えたジンミだった。失礼します、と会釈をした彼女は、以前と変わらず色気のある美人だ。
「何の用だ」
メイベルが声色に険を含ませる。しかしジンミは至って落ち着いた様子で、こちらへ歩いてきた。
「お見舞いです。先の件では私の部下がお世話になりましたので」
「ああ、とんだ世話だったな」
「待って、ベル。ジンミ、そこの椅子に座りなよ。花は後で活けてもらうから」
にこ、とイリスが笑いかけると、ジンミは今度は深く頭を下げ、それからスツールに腰かけた。改めて話をするのは、そういえば初めてだ。
「インフェリア中尉、部下が……シリュウがしたことは許されることではありません。申し訳ありませんでした」
初めてがこんなに真剣なものになるなんて、思ってもみなかった。
「ジンミが謝ることじゃないよ。そっちだって傷ついてるよね。ずっと一緒にいた子が、あんなことになっちゃったんだから」
シリュウが大総統執務室で話したことの大方は嘘だった。だが、東方にいた頃からジンミといつも一緒に行動していたというのは本当らしい。そこはレヴィアンスが裏をとってくれている。二人は本当に姉弟のようだったと、東方司令部の人々は証言していたという。
「それに、ロスタ少佐のこともあるし。好きだったのに、裏切られちゃったんだよね」
「いいえ、彼は裏切ってなんかいません。初めから私は、利用できる遊び相手だったんですもの。私の片思いなんですから、裏切られるはずもありませんわ」
ジンミは妖艶に、けれども切なげに微笑んだ。彼女がしたことは、イリスも知っている。レヴィアンスとメイベル、それぞれから話を聞いた。彼女が咎められることなく東方に帰る予定だということも、すでに耳に入っている。
「男の遊び相手に甘んじて、甘えてくれていたと思っていた子も本当はそうではなくて。何も知ろうとしなかった私へも、ちゃんと罰は与えられてます」
「罰?」
「東方に帰されること。あそこには、いいえ、もうこの世界のどこにも、私の居場所はない」
イリスは首を傾げた。そんなことはないはずだ。ジンミは東方では優秀な人材で、必要とされていたから帰さねばならないと、レヴィアンスは言っていた。それなのに、居場所がないとは。疑問は何も言わずとも汲み取られた。
「私が軍にいるのは、たまたま実家が宝石商で、ちょっと目が良かったから。宝石の真贋なんて、ちょっと調べればわかること。私の目なんか必要ない。実家だって継ぐのは兄だから、私はいらない。だからこそ軍に追いやられたんですもの。誰にも必要とされない、自分に価値がない、それならどこに行ったって同じ。生かされているのが、私の罰」
胸に手をあて、ジンミは薄い笑みを浮かべていた。細められた目に光はない。裏切られるはずもないと彼女は言ったが、多くのものを失ったのはたしかだった。だからこんなに絶望している。
けれども、イリスは首を横に振った。ジンミの言うことには誤りがある。それは正さなくてはならない。
「いらないなんてことないよ。本当にジンミが必要ないなら、レヴィ兄やクレリアさんが苦労することなかったはずだもん」
「苦労? 閣下と、准将が?」
どうして、と今度はジンミが首を傾げる。彼女は知らないらしい。知らないから、こんなにも落ち込んでいるのだ。
「ジンミを中央に引き抜くとき、東方司令部長とチャン家が猛反対したんだって。東方にいてもらわなきゃ困るって。ジンミが有能で、認められてるから、司令部長は引き留めた。そして家族は、きっとジンミを遠くにやりたくなかったんじゃないのかな。家族が遠くに行ってしまうと、気にかかるものだよ」
「でも、家族は私を軍に厄介払いしたわ」
「本当のところは、わたしはわからない。でもさ、ジンミのこと大切じゃなかったら、中央行きを反対するかな。仕事が多くてきつくて重くて、大変なところだって評判の職場に、家族をやるのは反対だって人、結構いるみたいだよ」
イリスは他人だ。人の家の事情なんかわからない。誰よりもわかっていないかもしれない。でも、事実だけは知っている。ジンミは東方に必要で、本来なら中央にはとられたくなかった人材なのだ。
「ジンミの引き抜きは、中央での仕事が終わったら東方に帰せって条件付きだったんだよ。レヴィ兄から聞いたんだもん、間違いない。ねえ、こんなに必要とされてるし、価値があるんだから、もうちょっと胸張って生きていいんじゃないの」
にい、と笑うと、ジンミは呆けたようにイリスを見ていた。何も返事をしない彼女の背中を、メイベルが叩く。
「しっかりしろ、ジンミ・チャン。お前は今度こそ自分の考えで行動し、自分の力で生きなければならないんだぞ。別に死にたくても私は止めないが、まあ、イリスはしつこいくらい止めるだろうな。お前が東方にいてもだ」
なにしろコネクションが多くて強い、とメイベルも目を細めた。ジンミは丸めていた背中を伸ばされ、イリスとメイベルを交互に見る。そして、ふ、と笑った。
「そうね、あなたたちがそこまで言うなら、胸を張ってみるわ。わざわざ張らなくても、あなたたちよりボリュームはあるつもりだけれど」
妖艶な笑みの彼女の胸は、相変わらず大きく膨らんでいて、たしかに張りがある。イリスは「だよねえ」と声をあげて笑い、メイベルは「将来垂れろ」と悪態をついた。
空気が幾分清々しくなったところで、イリスはジンミの耳に気づく。ピアスがない。いつもそこには、高価な宝石が光っていたのに。
「今日はピアスしてないんだね」
「見せる相手がいないので。でも、またすぐに新しいのをつけますわ。今、加工待ちなの」
「加工? 中央だし、金とか?」
「もっともっと、貴重なもの」
そのとき、イリスはぞっとした。シリュウと戦ったときのことを思い出したのだ。彼があのとき見せた笑み、三日月のように割れた口元は、今のジンミにそっくりだった。二人は本物の姉弟以上に姉弟なのかもしれない。
「ミルの最期の願いだけは叶えてあげても良いって、閣下の了承も得ているわ。どうせ誰も引き取らないなら、せめて一部だけでも私が持っていてもいいでしょう」
裏の人間ではなくとも、一筋縄ではいかない者は存在する。軍人というのはただの職業で、肩書だ。人格を表す言葉ではない。
メイベルまでも絶句しているそのうちに、ジンミは立ち上がり、「失礼しました」と部屋を出て行った。

シリュウの聴取の、最後の日が決まったと聞いたのは、さらに日が経ってからのことだった。回復を考慮しながら進めようとしていたのだが、シリュウが一向に裏のことを話そうとしないために、結果的には時間切れということだそうだ。
「何も聞けなければそれまでで、シリュウは傷害で裁かれて、東方管轄の刑務所に行くことになる。機密漏洩は厳密には疑いの段階だけど、イリスの証言から長いことやってたんじゃないかって思われてるから、これも刑の対象になるだろうね。大人になるまで出てこられないと思うよ」
レヴィアンスが見舞い品のリンゴを手で弄びながら、そう語った。つまり、それがラストチャンス。シリュウに会いたいなら、それ以降はない。
イリスはレヴィアンスに掴みかかる。もう体は随分自由になり、頭と顔の包帯もとれていた。胸にはまだ違和感があるが、始終痛むということはない。もっとも、それは痛み止めの点滴のおかげなのだが。
「レヴィ兄、聴取にわたしも立ち会わせて」
真っ直ぐに見上げた瞳は、そうくることを予想していたかのように静かだった。
「怪我人を立ち会わせる馬鹿がどこにいるのさ」
「馬鹿になってよ、レヴィ兄。シリュウと話さなくちゃいけないの」
「何を話すっての。何を訊いても答えない相手に、イリスが一方的に考えをぶつける? それは聴取じゃないよね」
いくら推理を披露したところで、相手が認めないのであれば事実にはならない。こちらの勝手を押し付けることは、シリュウという人間を無視することにもなる。それはイリスもわかっている。そして会って彼を懐柔できるという自信も、まったくといっていいほどない。
けれどもイリスは知りたかった。シリュウがどうやって生きてきたのか、何を思っているのか、そしてこれからどうやって生きていきたいのか。シリュウは裏でしか生きられないと言っていたが、本当にそうなのか。イリスから自分のことを話すことで、シリュウのことも聞けないかと、できるとすればこれが最後だと思っている。
「シリュウと個人的に話す場は設けられないんだよね」
「無理。それができるとしたら、佐官以上の人間だ」
実際、シリュウの聴取をしているのも佐官以上の者だった。あるいは、ガードナーやレヴィアンスがその場に赴いている。その誰にも、シリュウは黙秘を貫いていた。
イリス・インフェリア中尉は、シリュウ・イドマルに会えない。これは仕方がない。だが。
「ねえ、レヴィ兄。やっぱり馬鹿になって」
「しつこいなあ。オレが馬鹿になったところで、尉官はこの事件を担当できないの」
「だったら、大総統補佐イリス・インフェリアとしてはどう? 階級に関係なくこの肩書をくれたのは、レヴィ兄だよね」
攻めるなら正々堂々と、正面から。それがイリスのスタイルだ。これはレヴィアンスに教わったことでもある。真っ向から、真剣に。そうすれば拓ける道がある。イリスならばそれができると、最初に認めたのは。
そもそも、何も手の打ちようがないなら、こうして話すことだってしないだろう。ヒントをくれるなんてもってのほかだ。
「……レオには、任せてみたんだよね。でも何も引き出せなかった。むしろレオのほうが、勝手に決めつけた推理をして悪かったって謝ってきたくらい」
「決めつけた言い方はしない。できるだけ引き出せるように努力はする。シリュウが黙ったままなら、潔く諦める」
だから、お願い。イリスは必死の思いで、レヴィアンスの眼を覗き込んだ。――いつか見た、冷たい眼ではなかった。
「聴取は二時間。それ以上はお互い疲れるからできない。一時間半はオレがやる」
ぴ、と三本、指が立つ。三十分。それが与えられた時間の限界。
「頭の時間をイリスにやる。時間になったら強制的に退去させて、オレが続きを引き取る。譲れてこれだけだ」
「……上等」
これがイリスの、シリュウとの最後の戦いだ。

痛み止めを打ち、久しぶりに軍服に着替える。ぼろぼろになってしまったものはとうに処分したので、今日のはおろしたてだ。傷一つない生地の、肩に肩章を、左胸に国章と階級章をつける。
左耳には銀のカフス。軍に入隊が決まったとき、記念にと兄が作ってくれたお守りだ。触れると、何かを思い出しかけた。夢で誰かに会った。けれどももう、その姿は見えなかった。だからそれは、もういい。
長い黒髪に魔性の赤眼。与えられた名は「エルニーニャの獅子姫」。大総統補佐イリス・インフェリアは、この瞬間復活を遂げた。
「完全復活じゃないからな、三十分もたなければそこで立ち会いは終了。話が途中でも三十分が限度。これは絶対譲らない」
迎えに来たレヴィアンスに、イリスは力強く頷いた。そして、自分の足で歩き出す。ふらつきでもしたら、聴取に立ち会うまでもなくベッドに逆戻りだ。
それくらいの気持ちでいたのだが、目の前に手が差し出される。
「手助けするわけじゃないぞ。女性をエスコートするのは当たり前のことだからな」
「それエトナさんにやりなよ、レヴィ兄」
笑って手を取り、すぐに表情を切り替える。き、と前を向いたイリスは、現役時代の父に似ている。
病院から出て、車に乗り、中央拘置所へ。その医療施設に、シリュウはいる。イリスと同じく、傷が完治したわけではないのだ。こちらの病室はすべて個室で、脱走ができないよう厳重な警備が敷かれている。窓にも鉄格子がはめられ、なんだか寒々しい。
シリュウはベッドに起き上がり、レヴィアンスとイリスを迎えた。
「最後の聴取に来たよ。真実だろうと嘘だろうと、何か言うならこれっきりだ」
「言い訳はありません。以上です」
事前にイリスが来ることは聞いていたらしい。シリュウは眉一つ動かさずにこちらを一瞥し、レヴィアンスの言葉に短い返事をした。このままでは三十分も無駄に終わるが、そうしないためにイリスがいる。
「シリュウ、怪我の具合はどう? 点滴、栄養剤と痛み止めだよね。わたしと同じだ」
ベッドの脇のスツールに腰かけ、イリスはつとめて明るく言った。レヴィアンスはドア付近に立ち、離れて二人の様子を見ている。三十分の間は何もしないつもりらしい。
シリュウはイリスから視線を逸らし、黙り込んでいた。
「でもほら、わたし、随分良くなったでしょ。シリュウの怪我も良くなるよ。なんかね、昔に比べたら、医療格差ってのが中央と地方であんまりなくなってきてるんだって。だから東方に行ってもちゃんとした治療が受けられるはずだよ」
こんなに近くにいるのに、声が届いている気がしない。これまで聴取を行ってきた者もそう感じてきたのだろう。裏で生まれ育ち、徹底的に裏の人間としての生き方を仕込まれてきたシリュウには、懐柔も恫喝も通用しない。それが彼の当たり前だったのだ。
「……あのね、本当は一方的に話すのは、聴取じゃないんだけど。つまり軍人としてちゃんと仕事ができてないってことになるんだけど、わたし、勝手に話すね。レヴィ兄に頼み込んで連れてきてもらったのは、わたしがシリュウに伝えたいことがあるからなんだ」
レヴィアンスは何も言わない。後で叱られても構わない。時間が限られているのなら、まずはこちらが伝えたいことを言ってしまおう。届かなくても、いい。
「地下の施設でさ、一緒に戦ったじゃない。あのとき、助けてくれてありがとう」
シリュウの眉が微かに歪んだ。
「……助けてなんかいません。おれは自分により得がある選択をしようとしたまでです」
相変わらずこちらを向いてはくれないが、初めて声が返ってきた。嬉しくなってしまうが、ここで気を抜いてはいけない。
「結果的には助かったよ」
「結果的におれは損をしています。だから今は、せめてあなたを確実に殺しておけば良かったと後悔しています」
最初の戦いでは胸を突いたが、心臓は狙っていなかった、シリュウなら狙えたはずなのだ。あの一撃が肺にまで届いていてもおかしくはなかった。けれども、そうはならなかった。そうしなかった。
地下施設でも、イリスを殺すチャンスはいくらでもあった。いくらシリュウも大怪我を負っていたからといって、あれだけ動けたのだから、混乱に乗じてイリスを斬ることは可能だった。
シリュウには、これまでイリスを殺害しようという意思がなかった。これにはイリス自身、確信を持っている。こちらから言うことはできないが。
「ねえ、シリュウ。手合わせ、楽しかったね」
手合わせのときだって、イリスを騙して真剣を使えばよかった。さっさと事故でも何でも起こして、目を抉ってしまえば済むことだった。でもあのときは、本当に楽しかったのだと、イリスは思っている。シリュウほどの実力があれば、東方には相手ができる者は少なかっただろう。イリスが中央でそうであるように。ましてシリュウは、ジンミやクレリア以外の人間とはあまり接点がなかったと聞く。
だからこそ互角の戦いができたあの手合わせは、少なからず心が躍ったのではないか。剣を交えること、それ自体が愉しくて――「賭け」なんか持ち出していたけれど、そんなことは忘れていた。
「わたし、またあれ、やりたいな。きっとゼンだってそうだと思う。あいつも剣にはこだわってるもん。……命を懸けた真剣勝負も、それはそれで、わたしはわくわくしちゃうんだけどさ。シリュウは、どうだった?」
背後にレヴィアンスがいることも忘れて、イリスは尋ねる。答えは別になくてもいい、と思っていた。シリュウが沈黙を貫くなら、それは仕方がないと。しかし。
「……悪くなかったです、あなたとの戦い」
シリュウは静かに返してきた。
「あなたがもう少し本気で、おれを殺すくらいの勢いで来てくれたら、きっと、もっと。あなたは、騙されやすくて、絆されやすくて、甘すぎる。それなのに、あんなにも強い。弱い人間のくせに、どうして」
この傷だって浅い、とシリュウは左肩に触れた。イリスはもっとやれたはずだと、彼は思っている。
でも、それはイリスの戦い方ではないのだ。絆されて騙されても懲りず、それでも強くあろうとするのは、自分が招いてしまった災難から逃げるためではなくて。
「わたしは弱いよ。まだまだ子供で、お兄ちゃんたちからも呆れられっぱなし。だけど必死で戦って、強くなりたいって思うのは、わたしには大切なものがあるから。守りたいものがあるからなんだ。この世界にはわたしの宝物がたくさんあって、それを誰にも奪われたり、壊されたりしたくない。だからわたしは戦う。大切なものを何が何でも守り抜いて、後悔しないための戦いなの」
それはいつか父が親友から受け継いだ魂。兄が父から受け継いだ精神。そして、イリスが自分を取り巻く全てから受け取り、育てようとしている心。
もう一度手を伸ばす。今度は、とても近くで。
「わたしの宝物にはね、シリュウ、あんたも含まれてるんだよ。出会った時から、勝手に決めてた」
目の前にあるイリスの手をシリュウはじっと見つめていた。そのまま穴が開くのではないかというほど、真っ直ぐに視線を落としている。イリスは手を差し伸べたまま話し続けた。
「それってわたしだけじゃないと思うんだ。クレリアさんだって、シリュウを迎えに来るって言ってるみたいだし。優秀な弟子だから手放したくないみたいだよ」
「それは、軍にいろということですか。おれには合わないって言ったでしょう」
「ちょっと違う。軍にいてくれたら嬉しいし頼もしいけど、シリュウが嫌なら辞めていい。自由でいていいんだよ。わたしたちは、シリュウがどこで何をしてたって、ずっと大切に思ってる。何かあったことを察知できたら駆けつける」
もちろんその前に刑罰があるんだけどさ、とイリスがちょっと口をとがらせると、シリュウはやっとこちらを見た。そしてイリスと目を合わせる。
「あなたは、自由になりたいと思わないんですか。その眼のせいで、軍に縛られているのでは」
「わたしは十分自由で、勝手に動き回ってるよ。軍にはいたいからいるの。そしてそこには、なんとわたしみたいな自分勝手なやつでも全力で守ろうとしてくれる人がいる。だからわたしは、安心して軍にいられるんだ」
イリスには居場所がある。シリュウにもきっと、一番心地よい居場所があるはずだ。そこがどこだって関係ない。シリュウはイリスにとって、守りたい大切なものだ。そして所属がどこであろうと、生きるルールが違おうと、同じ世界の同じ空の下にいることには変わりない。
「わたしたちは、『違う世界の人間』なんかじゃない。『違って当然』の、『ここに生きている』人間なんだよ」
にんまりとイリスが笑う。シリュウは目を見開いたまま動かない。――ほんの少ししか言葉を交わしていないのに、時計の針は休むことなく動き続けていた。
「時間だ」
壁に寄り掛かっていたレヴィアンスが、こちらへ歩いてくる。三十分ちょうどで、イリスの出番は終わりだ。頷いて、立ち上がっても、手はなかなか引けなかった。
「じゃあね、シリュウ。またいつか、会いに行くから」
有益なことは何も引き出せなかったから、聴取としては失敗だ。でも、伝えたいことは全部伝えた。
レヴィアンスと交代するように、イリスはそこを離れようとした。
でも、背を向けることはできなかった。伸ばしていた手にはたしかな感触があって、それは少し冷えてはいたけれど、ちゃんと人間の体温だった。
「……シリュウ」
「いつかまた、手合わせを」
榛色の瞳が、中央に来てから最も大きくはっきりと見える。彼はこんなにも――いや、もともと表情は豊かだったのだ、きっと。
「あなたは、おれがどこで何をしていようと、相手をしてくれるんでしょう」
ああ、もう少し時間があったなら。あと五分、いや一分、三十秒でもいい。そうしたらシリュウを抱きしめて、そのいつかくる未来について話すことができたのに。
「もちろんだよ。それまでに、もっと腕を磨いておくから」
未来のことは、未来の楽しみに。離れた手は、また繋がる。イリスの笑顔に、シリュウも穏やかな微笑みで応えた。
無理して無表情でいる必要などない。もう、思い切り笑っていいのだ。彼の表情で生きていいのだ。

数秒オーバーは、その後の一時間半の聴取がスムーズだったことで不問となった。
「不問ったって誤差の範囲内じゃん、あんなの」
「三十分は三十分だ。最初に言ったじゃんか」
病院に戻り再び入院患者となったイリスは、聴取を終えて帰ってきたレヴィアンスに脹れてみせた。そうしながらも、報告は全てちゃんと聞いた。
シリュウは、軍に入るまでの生活のこと、そして軍に入ってからの六年間のことを打ち明けた。裏からどんな指令を受けたか、それに対してどう動いたか、誰を利用し何をさせたか。裏に流した情報の内容も、聴取票が細かい字で真っ黒になるくらい話した。
だが、レヴィアンスによると、今ではそのほとんどが取り締まれなくなっているらしい。情報を利用して動いたと思われる組織の多くは解散しているか、内部分裂によって壊滅している。軍がすでに把握して取り締まっていたものはともかくとして、どうにもできない取りこぼしが多いのは痛手だった。
軍内部での問題も浮き彫りになった。たとえばジンミが受けていた性的虐待は、彼女が望めば今からでも当事者を処分することができる。すでに軍を辞めたものに関しては取り締まることが可能だ。この件はクレリアが引き取るという。
そして南方司令部設置の特別任務担当班にも、見直しがかかる。ミルコレスはすでに死亡しているので、余罪を追及することができない。書類を作っておしまいになる。けれども軍全体の特殊任務に対する動き方は、考えなくてはならないだろう。死んだ男の割を食う形になってしまうのが情けないが、いずれは改革が必要だった部分だ。
イリスの眼を狙う裏組織の数は、シリュウも把握しきれていないほど存在しているという。組織ではなく個人で動いている者もいるようだ。まだまだ気は抜けない。
「ということで、やっぱりイリスには軍にいてもらわないと困るんだよね。じゃなきゃ守りきれない」
「うん、わたしも自分の身は自分で守りたいからね。軍にいさせてくれるならありがたいよ」
「不自由だと思わない?」
「わたしが不自由に見える?」
大総統と補佐、いや、兄役と妹分は、いたずらを仕掛けたときのように笑いあった。
明日にはクレリアが中央にやってきて、シリュウと、謹慎処分というかたちで保留されていたジンミの身柄を引き渡すことになっている。シリュウが正式に抜けることで、リーゼッタ班は五人体制になる。
「ちょっとのあいだだったけど、後輩が二人もいるのは嬉しかったな。これからはカリンちゃんをめいっぱい可愛がろう」
「そんな悠長なこと言ってられないぞ。カリンはお前たちが入院しているあいだに事務といくらかの任務で功績を作りまくってるから、このままいくと今年中には昇進できるかもな」
「おおう、さすがカリンちゃんだ……。うかうかしてると、後輩なんて言えなくなっちゃうね」
「なんなら、ネイジュをつけてやろうか。刑期満了後は中央で引き取って再教育の予定になってるから。もちろん降格するしさ」
「あの人は正直、ちょっと……」
一つの事件が終わる。いや、これはイリスを狙う者たちとの戦いの、一端に過ぎない。忙しい日々はまだまだ続く。むしろ退院して再開してから、地獄のような忙しさが待ち受けている。
イリスは中尉として、そして大総統補佐として、自分の仕事をこなすことに集中しなければならない。勝手をした分、今度こそ、だ。
フィネーロは再び情報処理室の要として働くという。そしてルイゼンは、おそらく彼がもっとも苦労する。トーリスから不在のあいだの仕事を引き継ぎ、ネイジュの仕事に不備がなかったかを再度チェックし、新しい室長にさらに引継ぎを行なう。新室長には同じ事務室の他班の大佐が就任するが、だったらトーリスがそのまま仕事を教えてくれればいいのに、わざわざルイゼンを介するのだ。彼は副室長を引き続き務めることになるが、ゆくゆくは確実に室長になるだろう。レヴィアンスがそう育ててしまっている。
メイベルとカリンは、入院組に早く戻ってこいと催促している。とくにメイベルは、他班に混じっているのは落ち着かないのだ。それでもなんとか問題を起こさずにやっているあたり、彼女もまた軍人なのだった。
「ゼンとフィンは明日退院するんだよね。いいなあ、わたしも早く復帰したい」
「あいつらもすぐには復帰させられないけどね。少し実家に帰すよ。フィネーロは実家に居づらいからルイゼンの家に世話になるってさ」
「わあ、いいなあ。ねえレヴィ兄、わたしも退院して実家で休めない?」
「お前は変に無茶するからダメ。それともインフェリア家の家族会議で丸一日説教聞く?」
「……それは遠慮しようかな」
けれども、早く日常へ。そうしてイリスは、前に進んでいかなければならない。勝手をしたからまたもや大人にはなりそこねたけれど、日々成長しなくては、未来の約束が果たせない。
この道は困難かもしれないけれど、その向こうには守りたいものがある。この手で、この眼で、自らの強さで。そうして「いつか」に辿り着いたあかつきには、握手をして、互いの力を披露しよう。
軍の者。インフェリア家の娘。エルニーニャの獅子姫。――いろいろ認められるものはあるけれど、それ以前にイリスは、イリスたちは、この世界に生きていく人間だ。
「何があっても生き抜くよ。わたしの大切な世界のために」
誓いを胸に、少女は再び歩き出す。道を探して、選んで、切り拓いて。



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2017年06月25日

強者と弱者

エルニーニャ王国軍科学部の車両が、地方に建つ病院に到着する。これから、崩れやすくなってしまった真っ黒焦げの遺体を運び、中央司令部にある科学部の施設で検分の準備をするのだ。それにはユロウも立ち会うことになっている。顔色は一向に良くならないのに、彼はまだ働くつもりのようだ。
ルイゼンは先ほどからレヴィアンスに連絡しようとしているのだが、電話が繋がらない。一刻も早く重大な情報を伝えたいのに、相手はずっと話し中だ。軍用無線での通信も試みたが、こちらは何故か混線しているようで、うまく繋がらなかった。
「くそっ、どうなってるんだ。今回に限っては電話番を通すと不味いしな……」
「レヴィ兄も情報を集めてるんだと思うよ。ユロウさん、カルテの件はもうレヴィ兄に話してるみたいだし。南方からロスタ少佐の情報を引き出してるのかも」
「それにしてもタイミングが悪いな。無線が繋がらないのもおかしい。車同士はちゃんと通信できたのに、受信設備が整っているはずの司令部にはどうして……」
メイベルがイライラしているのをカリンが宥める。しかし彼女も不安そうな表情をしていた。こんなときに役に立てたらいいのだが、残念ながらイリスには通信のスキルがない。
「一応、閣下の使っている端末にメールを送っておいた。暗号化しているから、僕と閣下しか内容がわからないようになっている」
「フィン、ありがとう! でも、いつ見るかわかんないよね、それ。ていうか、レヴィ兄も端末持ってたの?」
「兄に融通してもらったんだ。そんなことより、これ以上の通信がだめなら、戻ったほうがいいかもしれないな。どうせ遺体も移動させることだし」
それが最善の策だ。一旦中央司令部に戻り、レヴィアンスには直接報告しよう。来たときと同じように分かれて車に乗り込み、イリスたちは出発した。
司令部で何が起こっているのかは知らない。知ることができない。このためにリーゼッタ班は任務にかこつけて司令部から遠ざけられ、無線には障害を生じさせられたのだから。


大総統暗殺未遂事件以来、中央司令部は少々の改装がなされている。大総統執務室を上からの侵入から守るため、庇をつくったのもその一環だ。人間の大人がなんとか一人分寝そべることができるほどのそこに、ガードナーはうまく体をひっかけることができた。体勢によっては体を強かに打って動けなくなっていたかもしれないが、それを回避できるだけの訓練は日々積んでいた。
「レオ、大丈夫?」
庇の下の開いていた窓から、レヴィアンスの声がした。ガードナーたちが出て行ってから、執務室の大窓をずっと開けていたのだろう。
「無事です。それよりタスクが」
「うん、何はともあれ、レオが助かって良かったよ。こっちに下りてこられる?」
ガードナーは庇からぶら下がり、大総統執務室の窓へ器用に飛び移ってきた。上出来上出来、とレヴィアンスが軽く拍手をしたが、目は笑っていなかった。
「てっきり、タスクは私の代わりに補佐を務めるつもりなのだと思っていましたが……」
「レオが大怪我してたら、順当にいけばそうせざるをえないよね。向こうは『事故』って言い張って、悔やんでみせるつもりだったんでしょ」
「聞いてらしたんですか」
「あんまり良くないことなんだけど、屋上にはマイクを付けさせてもらってる。オレしか聞けないようにしてるけどね」
話してなくてごめん、と言ったあと、レヴィアンスは腕組みをして、またか、と呻いた。
「ちょっと地位脅かされすぎじゃない、オレ?」
「インフェリア氏……二十八代目ほどではないと思いますが。あちらは八年の任期で十数回に渡る襲撃を経験していらっしゃる」
「そうだね。だったらこれくらい、乗り切ってみせなきゃだよね」
伸びをしてから、レヴィアンスは執務室備え付けの無線機に向かう。ガードナーがタスクと対峙しているあいだに、南方からいくつかの情報を受け取っていた。それをリーゼッタ班に伝え、できるだけ早く戻ってきてもらおうとしたのだが、無線機はスイッチを入れた途端に雑音を響かせた。
「混線かな」
「いいえ、ここまでひどくはならないはずです。設備の故障とみていいでしょう。ここではなく、管理室のほうかと」
「まいったなあ。担当者はどうしたんだろう、すぐに直してもらわなきゃ」
「閣下」
ガードナーが眉を顰めて手帳を見る。予定ではなく、その日ごとの司令部内の主要施設の管理担当者が書かれているものだ。チェックしなければならない事項が多いので、用途ごとに使い分けているのだった。その全てを把握するのも、ガードナーの重要な役目だ。だからすぐに気がついた。
「本日の無線管理室担当はタスクです」
「……ルイゼンたちに仕事を任せたのは、ネイジュだったよね。ああ、もう、後手後手じゃんか!」
そもそも、死体遺棄事件はリーゼッタ班に任せるつもりではなかった。あれはレヴィアンスの判断ではない。ユロウが遺体の状態に違和感を覚えて報告に来たのだって、たまたまタイミングが良かっただけのことだ。担当する者が誰であろうと、ユロウは遺体を確かめに行こうとしただろう。
条件を揃えたのは、ネイジュ・ディセンヴルスタ。彼がリーゼッタ班を司令部から追いだしている間に、タスクの訪問があり、無線機も故障した。
「たしかに偶然にしてはできすぎています。タスクとディセンヴルスタ大佐が手を組んだのは間違いないでしょう。しかしイリスさんの件には関わっているかどうか……。ルイゼン君の話通りなら、大佐は面倒を避けている傾向がありますから、単にチャンスが訪れたとしか考えていないかもしれません」
関係性はわからない。だがたしかなのは、イリスを狙う者と、レヴィアンスとガードナーを狙う者が存在しているということ。
「あいつらが早く戻って来てくれればな。タスクの処分も考えないと」
「タスクについては、もう少し待っていてくださいませんか。彼はあれで、三年間将官室長を務めあげています。そのあいだに私のことをよく思っていなかったとしても、行動は起こさなかった。まだ、引き戻せます」
「レオ……」
親友ではなかったと、ずっと疎まれていたのだと知っても、それでも同期を引き戻せるとガードナーは信じていた。たとえこの手が二度と届かなくたって、声が聞き入れられなくたって、彼の持っている軍人としての資質は本物なのだからと。これがガードナーの選んだ、「タスクを認める」ということだった。
やっぱり強いや、とレヴィアンスは口角を持ち上げた。あの日、彼を補佐に選んだ判断は間違っていなかった。そういう強さが欲しかった。かつての仲間たちが持っていたものと同質の、心の強さが。
「わかった、タスクについては後回しだ。レオは無事だったんだし、タスクがあれは単なる喧嘩だと言い張れば、数日の謹慎程度で済む。二人とも剣を抜いたなら、両成敗の適用でレオまで謹慎させなきゃいけなくなっちゃうから、それは避けたいし」
「閣下もなかなか勝手なことを仰る」
「何を今更。押し付けられた立場の分、やり方は好きにさせてもらう。女王に出した条件通りに動いてるだけだよ」
にい、と笑うレヴィアンスに、ガードナーは小さな溜息とともに微笑んだ。


司令部に戻ってきたリーゼッタ班を待ち受けていたのは、ネイジュだった。それもわざわざ、門前でのお出迎えだ。怪訝な表情をすぐに隠し、ルイゼンは敬礼した。
「リーゼッタ班、ただいま戻りました」
「早かったね、本当に調べたのかい? 状況はどうだった、遺体の損傷具合は?」
本当なら、それらはレヴィアンスに報告したいところだ。ネイジュには遺体がミルコレスのものだったなどと言うわけにはいかない。ここを通してもらうための方便が必要だった。
「遺体は損傷が激しく、身元は歯型の照合をもって判断することになりそうです。これより閣下に検分許可をいただきに参ります」
「ならば私が行こう。君たちに仕事を任せたのは私だ。じき就業時間も終わるし、君たちはこのまま帰って休んでくれてかまわない」
にこりと優しそうに微笑むネイジュを、メイベルが睨む。イリスがまずいと思ったときには、もう言葉が出ていた。
「随分と態度が違いますね。午前まで、あんなに面倒そうにお仕事をなさってたのに」
しかしその声がメイベルではなく妹のカリンのものだったので、思いがけず瞠目した。ネイジュの頬が引き攣るが、予想もしなかった反撃に返答ができないようだった。
「リーゼッタ班に実務を任せて、楽そうな部分だけ自分が引き取ろうなんて。そんなことをして、あなたは卑怯だと思わないんですか」
「卑怯? 乱暴な言葉を使うね、ブロッケン准尉。部下からの報告を受け取って上にまとめたものを渡すのは、そもそも私の仕事だよ」
「それすらしなかったくせに。報告を受け取る? それだってルイゼンさんに任せっぱなしだったじゃないですか」
「カリン、やめておけ。ここで無駄な時間を使うな」
メイベルがカリンを止めるという珍しい光景に、イリスはつい見入ってしまった。ぼうっとしていると、フィネーロに腕を引っ張られる。戸惑っていると、そのままネイジュの横をすり抜けて司令部内に入っていった。あとにシリュウも続く。
「ちょ、ちょっとフィン、ゼンたちは」
「ルイゼンには頭と胃の痛い思いをさせてしまうが、場を収める役としてあそこに残ってもらったほうがいい。カリンとメイベルではいつ囮が本気になるかわからない」
あれは囮だったのか。メイベルが怒っていたのは本気に見えたが。そう言うと、フィネーロはしれっと「いつもと同じじゃ目を引かないだろう」と答えた。フィネーロの運転する車に乗っていたメンバーは、移動中に打ち合わせができていたのだ。
「大佐が待ってるだろうって予想してたの?」
「いや、そこまでは。ただ無線の不具合はあまりにも不自然だったから、何かは仕掛けられる可能性があると思っていた」
それだけでも思いつけば十分だ。実際、ネイジュは動いていた。カリンの芝居だって、とっさのものだったとしてはあまりに上出来だった。
「それにしても勇気あるなあ、カリンちゃん……。なんか、昨日と雰囲気が全然違う」
「もう気にするものが何もないからな。これからは自分の思う通りに動ける。いつまでも君の知っている可愛い妹分だと思うなよ、あれはメイベルの身内で、リーゼッタ班の新しい頭脳だ」
たしかに、今日のカリンはメイベルの妹といわれればすぐに納得ができる。父親という枷がなくなり、能力を存分に発揮できるようになった彼女の、あれが本領なのだ。
カリンが、メイベルが、ルイゼンが頑張っている。そして、フィネーロも。
「僕はこれから、ロスタ少佐に会う。ユロウさんが言っていたことが気になっているからな、一刻も早く確かめたい。イリスは閣下のところに行って報告を。検分許可は閣下が直々に科学部に出してくれるはずだ」
「わかった、レヴィ兄に報告するのはわたしに任せて。シリュウはどうする?」
「おれは正直、あの人と顔を合わせるのは気まずいです。インフェリア中尉に同行したいのですが」
「だろうな。安心しろ、もともとロスタ少佐には僕が独りで会うつもりだった」
あっさりと頷くフィネーロに、イリスは眉を寄せる。先に行こうとするその手を引き留めると、怪訝な顔をされた。どうしてそんな、当たり前のように言うのだ。
「最重要容疑者に、独りで会うの? それでクローンかどうか確かめるの? 危ないよ」
「最重要容疑者にその標的を会わせるわけにはいかないし、今ではシリュウの立場も危険だ。それに僕は一番あの男に近い。妥当な判断だ」
「でも」
「君は君の仕事をしろ。シリュウを守り、閣下に報告を。急げ」
なんだって、みんなどんどん強くなって、前に進んでいくのだ。ルイゼンも、メイベルも、フィネーロも、カリンも。シリュウまで、早く行きましょうと歩き出す。
もっと強くなろうと決めて、だからこそ自分自身が関わっているこの件に立ち向かおうとしたのに、どうして置いていかれるのだろう。覚悟は、約束は、どうした。
フィネーロから手を離すと、心配するな、と優しい声がした。僕だって闘える、と言われてしまったら、信じないわけにはいかないだろう。だって、それはもう、十分に知っているのだから。
「絶対後で合流だからね」
「当然だ。リーゼッタ班の仕事は全員でまとめなければ、ルイゼンに叱られる」
笑みを浮かべて拳をぶつけ合う。それが、スタートダッシュの合図だった。フィネーロは情報処理室へ、イリスは大総統執務室へ向かって走る。終業間際の軍人たちが驚いて振り返るのも気にしない。追い越したシリュウのほうを振り返ると、一定の距離を保ってついてきていた。
終業を知らせるチャイムが鳴り響く。けれども、今日の仕事はまだ終わらない。

「ほら、もう仕事は終わりの時間だ。君たちは寮生だろう、寮に帰りなさい」
呆れたようにネイジュは言うが、カリンは引かない。それどころか、チャイムが鳴り終わると今度はメイベルまで口を開き出した。
「なあ、大佐様。どうしてイリスたちは通した? 閣下に報告に行くのは、私たちのうち誰でもいい。ということは、手柄を横取りするつもりなら、貴様は私たち全員を留める必要があったはずだ」
あんなに堂々と、三人もの人間が横を通って行ったのだ。いくらカリンが囮になったとはいえ、気付かないなんてことはない。つまり、あの三人には用がなかったと考えられる。
「……あなたのターゲットは俺ですか、大佐」
ルイゼンは真っ直ぐにネイジュの目を見る。眇められたその奥は、暗い紫色をしていた。本人はサーリシェリア人の血を引いていると言っていたが、正しくサーリシェリア人の血統を持つ先々代大総統とはまるで印象が違う。
「君とは考え方が違いすぎる。だから一度、きちんと話をしたかった。私のほうが君より立場が上で、君は私に従うべきだと、はっきりさせておきたかったんだ」
思えば、最初から気に食わなかったのだろう。中佐でありながら一時期の事務室長を務め、同じ部屋にいる他班の者たちからも信頼が厚い、ルイゼンのことが。ネイジュが北にいてできなかったことを、階級も年齢も下の人間に任されているということが我慢ならなかった。
もっとも、ルイゼンがネイジュに従順であれば、溜飲が下がったのかもしれない。これからはネイジュが中央司令部第一大班事務室の長として君臨し、かつ尊敬するタスクを押し上げ、目をかけてもらい、中央での成功を収めるという道筋を立てられたのかもしれなかった。それは北にいた時から夢見ていた、理想のありかただったのだ。
頂点に名ばかり大総統のレヴィアンスが、その傍らに無功績のガードナーが、彼らの信頼する部下としてルイゼンがいる現在の状態は、ネイジュが理想とするエルニーニャ軍からは程遠い。あまりにお気楽でぬるくて、とてもこの国の力を示す存在たりえない。
北で危険薬物関連案件ではなく指定品目の違法輸出入案件を任されたときから、自分の立場に納得していなかった。何故この国で最も大きな事案を担当できないのか。何故発生件数も大したことがないような、つまらない仕事に携わらねばならなかったのか。苛立ちながらの杜撰な指揮は、どうせ大したことになりはしないと油断していた心は、いざ事件が起きたときにミスとなって現れた。
北方司令部長からは叱責され、不貞腐れていたところへ、どういうわけか中央への異動の話が舞い込んだ。大総統が人手を欲しがっている、できればサーリシェレッドに関わったことがある人間がいい。そう聞いて、ネイジュは真っ先に手を挙げた。今回は失敗しましたが、次こそは。そう司令部長に猛アピールして、異動が認められた。
レヴィアンスの本当の思惑なんて知りはしない。中央に行けさえすれば、出世の道が開ければ、そうしていつかあの頂点の椅子を自分のものにできたなら。そのためには上の人間からの信頼が必要で、どうせなら尊敬する人間に認めてほしかった。この国の力として、相応しい人間に。
「ルイゼン・リーゼッタ。君は私の道を邪魔する石ころだ。砂利だ。足に纏わりつく砂粒だ。家名だけの大総統や無功績補佐に認められているからといい気になるな、庶民が」
「ああ、庶民だよ。どうしてその庶民にムキになるんだ」
「庶民のくせに、私のやり方に指図をするからだ。無駄を排除し、純粋な力によって、頂点たるエルニーニャ軍を取り戻す。この私の崇高な理念を、何故君は解さない?」
司令部門前には誰も現れない。ルイゼンたちが到着したときから、ここにはネイジュしかいなかった。その立場を使って人払いをしていたのだろう。しかし彼も所詮は佐官だから、おそらくはもっと上の人間が関わっている。レヴィアンスやガードナーでなければ、可能なのは一人だけ。
「あんまり崇高すぎるからかな。大佐のやり方は現実的じゃないんですよ。エルニーニャ軍が純粋な力だったことなんて、ただの一度もない。タスク・グラン大将にだって不可能だ」
「なんだと! 君にあの人の何がわかる!」
「わかんねえよ! 将官以外の部下に姿も見せない、引きこもりの将官室長のことなんか、わかるもんか! それで仕事ができたとしても、あんたみたいな考えのやつがくっついてるようじゃ、申し訳ないけど信じられないね」
「愚か者めが。やはり君の軍人生命は絶っておいたほうがいいな」
ネイジュが剣を抜く。ゆるく弧を描く刃は、軍支給武器の目録にはないものだ。ルイゼン自身、これまで一度も相手にしたことがない。しかしどんな得物であろうと、抜かれたならば対することを避けられない。門前の人払いも、初めからこのためだったのだろう。
軍人生命を絶つ――殺しはしないが、軍という組織からは消す。ルイゼンはいつか見た軍籍簿の備考欄を思い出していた。「退役」と書かれた横に「職務不可能」と足されている、あの中に加わるというのは考えたくなかった。そんなことを、レヴィアンスに書かせたくなかった。
ルイゼンも使い込んだ剣を抜く。軍支給のシンプルなものだが、厳しい任務とイリスとの激しい訓練を乗り越えてきた、今となっては唯一無二の相棒だ。
「庶民に似合いの汚らしい剣だな」
そんなふうにネイジュに嗤われるいわれなどない。そんな言葉で、磨き上げたこの剣を無駄に振るったりはしない。
「メイベル、カリン。お前たちはフィンたちを追ってくれ。行き先はわかるな」
「当然だ。行くぞ、カリン」
「はい。ルイゼンさん、またあとで、必ず」
返事はできなかった。その前にネイジュは斬りかかってきた。振り下ろされた刃はよくしなり、ルイゼンの剣とぶつかって不思議な金属音を奏でる。
「見たことがないだろう、海外製だ。はたして君の頭で対策が練られるかな」
「……うるせえ」
対策は頭で考えるものではない。少なくともルイゼンにとっては、その場で見つけるものだ。剣技も、実戦での判断力も、先輩たちに鍛え上げられた。
「俺はこれでも、大総統の代理をやったんだ。てめえなんかに負けるかよ」
無理やりに笑ってみせると、ネイジュの表情が歪んだ。

情報処理室はまだ人がまばらに残っていた。飛び込んできたフィネーロに、驚きながらも「お疲れ」などと挨拶をしてくれる。その中に、暢気に笑うあの男もいた。
「リッツェ君、おかえり。たまに外に出るのは楽しいだろう。俺もちょっとでいいから外で仕事がしたいな。また大陸中を回れるような任務があればいいんだけど」
ミルコレスに不審な点は見当たらない。お喋りで、にやけていて、周囲とももう打ち解けていて。部屋を出ていく仕事終わりの仲間たちに「また明日」と手を振っている彼を、怪しむ人間はいないだろう。むしろ突然いなくなれば、どうして彼が、と惜しまれる。
南方でもそうだったのだろうか。問題点は多々あれど、それを差し引いてもあまりある愛嬌で親しまれる人物。それが死んだ者なのか、生きている者なのか、確かめてみなければわからない。
「ええ、外の任務はいいですね。良かったら、土産話でも聞いてくれませんか」
「珍しいね、君から誘ってくれるなんて。嬉しいよ」
「興味を持たれていたようなので、僕の武器も改めてお見せします。外に出ましょう」
「なになに、随分サービスがいいんだねえ」
にこにこと笑いながら、ミルコレスはフィネーロの肩を抱いた。情報処理室には、あと二、三人が残っているが、いずれも自分の作業に没頭している。こちらを見てもいないし、話を聴いてもいないだろう。
「もしかして、俺の相手をしてくれる気になってくれたりして?」
耳元で囁かれるその意味を、フィネーロは正しく解釈していた。誘えば食いついてくるだろうと思って、独りで彼に接触することを選んだのだ。
「望むならお相手しますよ」
返事をすると、ミルコレスの雰囲気が変わる。同じ笑みでも、今は舌なめずりでもしそうだ。こっちへ、と導くふりをして、彼から少し離れる。そうでもしないと冷や汗が流れそうだった。
先日イリスに言われた通り、得物はロッカーに保管している。取り出してしっかりと握りしめると、手汗が滲んだ。――わかっている。この男には、一人では勝てない。相手は同じ階級とはいえ、フィネーロよりも経験を積み、専門部署にも所属していた者だ。本物ではないとしても、同等以上に鍛えられているだろう。でなければ軍に平気で潜入することなどできない。ジンミやシリュウには、雰囲気で別人だと悟られるはずだ。
「どこでするの?」
「外に良い場所があります。ときどき憂さ晴らしをしたい連中が人を呼び出していたぶっていますが、この時間なら誰もいないでしょう。周囲は壁で囲まれ奥まっているので、気づかれにくいんです」
「まるで悪いことでもするみたいだね。もっと楽しんでいいのに」
新人だった頃、その場所にフィネーロ自身が呼び出されたことがあった。そこに柄の悪い連中が集まるのは、どうやら暗黙の了解だったらしい。上層部も特に対策をすることがなく、大総統自らが出向いて閉鎖しても破られた。現行犯なら罰せられるが、証言だけなら数の暴力に覆される。軍の中の「悪」を象徴するような、狭い中庭だ。
着いた途端、ミルコレスはそこが気に入ったようだった。「陰気だねえ」とは言っていたが、鼻歌が漏れている。
「中央にもあるんだね、こういうところが。みんな大総統のお膝元で、明るくぬくぬくしているものだと思っていたよ」
「裏表あってこその人間ですから。全員同じなんて気持ちが悪いでしょう」
「うん、もっともだ」
頷きながら、ミルコレスは片手でフィネーロを抱き寄せる。もう片方の手は、こちらの武器を乱暴に奪った。全く別のことをそれぞれの手でできる器用さに、ほんの一瞬だけ感心する。
「せっかく鎖があるんだったら、活用しなきゃ損だよね。美しいもので美しいものを縛れるなんて最高だなあ」
「そんなことを考えてたんですか。自分の欲望に忠実すぎて、詰めが甘いんですね、あなたは」
だが、一瞬だ。それ以上はこの男に興味を持つ必要はない。フィネーロは片腕を――初めから鎖を巻き付けておいた側を思い切り引いて、ミルコレスから武器を奪い返した。これの扱いなら、自分より強い者にだって負けない。
「銀歯をどうしたんですか、ロスタ少佐。あなたには銀歯があると聞いていましたが、確認したところ一本も見当たらない。まあ、上手く似せたところで調べればぼろが出たでしょうね。本物のミルコレス・ロスタの銀歯は成分が特殊なようですから」
ユロウが示した「特徴」は、銀歯の有無や加工の痕だけではなかった。銀歯そのものも、国内ではめったに見られない珍しいものだったのだ。治療歴に関わるので、カルテにもそのことは記載されていた。
「クローンをつくるには、人選を誤ったのでは?」
「……まいったな、そんなこと聞かされてないよ。記憶までうまくコピーできたと思ったのに。所詮俺は、記憶継承型ではないからなあ」
笑顔を浮かべたまま、偽物のミルコレスはフィネーロの腹に膝蹴りを入れた。倒れ込んだところで、さらに胸を踏む。しかし何をされても、フィネーロは自分の武器だけは手放さなかった。
「やっぱり半端な焼死は美しくなかったね。ミルコレス・ロスタ本人の美学からいっても、骨までちゃんと砕くべきだった。ついでに宝石に加工してくれたら浮かばれただろうに」
「やはり……あれは……!」
焼死体はミルコレス本人に間違いなかったのだ。いつ入れ替わったのか、彼の記憶をどうやって手に入れたのか、問い質したいのに声が出ない。フィネーロの胸にはさらに重みが加わる。
「聞きたいことは色々あると思うけど。でもほら、俺が今まで喋ってあげた分の対価を、まだ貰っていないよね。それがないと続きは教えてあげられないな。希望としては体で払ってほしいね。本物のミルコレスが死んでも手に入れられなかった、人間から作った完全人工の宝石がほしいんだ。それができなきゃ魔眼だな。イリス・インフェリアの眼を抉ってほしい」
「……っ、誰が、するか……、そんな」
「だよねえ。でもさ、ほしいものは全部手に入れたいミルコレスとしては、君がインフェリアの眼を抉ってくれたあとで、君を殺してよく焼いて宝石をつくるのが一番良いんだよ。ね、今死ぬか、もうちょっと生きるか、それだけの違いしかないんだから決めようよ」
優しく甘い声だが、していることと噛み合っていない。ジンミはこんな男のどこがいいのだろう。
鎖鎌を持っている手を動かそうとすると、足が胸から離れた。代わりに腕を折れそうなくらい強く踏まれ、思わず呻きが漏れる。
「諦めなよ。俺の体ってね、結構筋肉あるんだよ。君が思ってるより重いんじゃない? リッツェ君さ、頭は良いし技術もあるかもしれないけど、体格はその辺の一般人と変わらないよね。だから情報処理にまわされたんじゃない?」
「だから、どうした」
「君は軍人としては底辺だ。失格だ。塵だ。でも宝石になれば輝ける。魅力的な提案だと思うんだけど、残念ながら生前のミルコレスはこのナンパを成功できた試しがない。人を殺すっていう、そのたった一押しができなかったのが敗因だ」
先ほど偽ミルコレスは、自分は記憶継承型クローンではないと言った。だからこそ歯を加工した記憶もなかったのだ。しかし会話の内容、持っている情報量は、本人とあまり違わないようだ。おそらくは本人くらいしか知らないであろうことまで、詳細に知っている。
生前に成功できた試しがないというのは、生前の本物も同じことを誰かに、それも複数回にわたり言っていたということではないか。もともとミルコレス・ロスタには特殊な嗜好があり、それを叶えるために裏と通じていて、結果的にクローンを生成されることになったのでは。ぼんやりする頭でフィネーロは考えたが、それを言葉にすることができない。
――イリスに、嘘を吐いてしまったな。
闘えると言ったのにこのざまだ。情報を持ち帰ることすらできないかもしれない。
「……リッツェ君、意外と強情だね。それとももう返事できないくらい弱っちゃったかな。それじゃ、魔眼のほうは無理かもね。そっちは仕方ないか、俺じゃなくてもいいし。でも人工宝石のほうは俺がやらなきゃ誰もやってくれないから、もう殺すね。はい、決まり」
一人では、不可能だ。

情報処理室にはフィネーロもミルコレスもいない。カリンがまだ残っていた者に尋ねると、二人で出て行ったという。
「最近、仲良さそうだったからね。ロスタ少佐は女も男も好みならいけるって噂だし、リッツェ少佐も狙われてたかも」
なんてね、とごまかされたが、冗談に聞こえない。ミルコレスが本物だろうと偽物だろうと、フィネーロが危ないのは確かだった。
「お姉ちゃん、どうしよう」
カリンが焦って振り向くと、メイベルは舌打ちした。今更どうしようも何もない。
「車で打ち合わせをしたときからこうするつもりだったんだろう。イリスを変態に近づけないためにも、まあベターな選択だ」
「良くないよ、こんなの!」
「最善手だとは言っていないだろう。とにかくここには用がない。他を当たるぞ」
先に部屋を出てしまう姉の分も、カリンは部屋にいた人たちに礼を言った。再び廊下に出ると、もうメイベルは歩き出している。
「どこ行くの、お姉ちゃん。心当たりあるの?」
「来たばかりのお前は、本当は知らなくてもいい場所だ。この条件だけなら、お前と変態は同じだな」
「一緒にしないで……って言えない立場だったね、わたし。イリスさんのもの勝手に持ちだそうとしたんだから」
自分で言っておいて落ち込むカリンの頭を、メイベルがぺしんと叩く。痛みに頭を押さえた妹に、姉は平常と変わらぬ口調で言った。
「変態は中央司令部の構造を完璧に知っているわけではない。中央でも、知らない奴は知らないまま過ごしていられる。フィネーロならそういう場所に変態を誘い込むことができるんだ。利用するとしたらそこだな」
「そんな場所があるの?」
「いくつかある。だからあいつが使いそうな場所を片っ端から調べる。はぐれるなよ、カリン」
「! はい、大尉!」
「気持ち悪い呼び方はやめろ」
嬉しくて敬意を表したのに、メイベルはそれが嫌だという。だからお前と同じ班は嫌なんだ、とぐちぐち言いながらも、ちゃんとカリンがついてきているかどうかを確認してくれる。かといってそれはカリンを甘やかしているわけではない。
「変態を見つけたら即撃て。躊躇は許さん」
命令は真剣で、かつカリンの能力を信じていた。これまで何度も失敗してきて、姉を怒らせたことも幾度となくある。しかしメイベルは、上司として部下を使うことを優先した。切り捨てるのでも甘やかすのでもなく、ただ任務の遂行に必要だと、それだけを思ってくれている。
だからカリンの動き方も自然に決まる。期待に応えるためでも、罪を償うためでもない。軍人としてすべきことを、逃さず躊躇わずに全うする。もう迷いの元は何一つとしてないし、何より今日のためにこれまでを積み重ねてきたのだ。
覚悟を決めると、感覚が研ぎ澄まされる。ただメイベルについていくだけでなく、途中で何が動いたか、誰とすれ違ったか、よく見ることができた。だから彼女にも気づくことができたのだ。
「お姉ちゃん、待って。あそこにいるの、チャン中尉じゃない?」
メイベルが通り過ぎた部屋のドアが開いていた。部屋の窓辺に佇む彼女は、間違いなくジンミ・チャンだった。
戻ってきたメイベルはそのまま部屋に入ってしまう。そこは男性用のロッカールームだったが、そんなことは気にしない。カリンがおそるおそる後に続いて部屋を見渡しても、ジンミ以外の人物はいなかった。
「何をしている、色目女」
「あら、随分なご挨拶。お仕事はもう済んだのかしら、ブロッケン大尉?」
「生憎なかなか終わらなくてな。ちょうど人手がほしかったところだ」
相手が誰であろうと色っぽい笑みを浮かべるジンミに、カリンは少しどきどきする。一方メイベルはジンミを見下ろし、冷たい声で尋ねた。
「ミルコレス・ロスタがどこにいるか知らないか」
「ミル? あなたもミルに口説かれたの?」
「誰があんな変態軟派野郎に口説かれるか。質問に質問で返すな」
も、ということはジンミも口説かれたのだろうか。そうしてミルコレスと深い関係になって、手を組んだのだろうか。シリュウの話だとそういうことになっている。だが、その話にもカリンは違和感を覚えていた。あのときに限らず、シリュウが話をするときはいつでもそうだった。無表情だからか、まるで台詞を棒読みしているかのように聞こえるのだ。
「ミルが今どこにいるかについては、私は知らないわ。今日は別に会う約束はしていないし」
「今日以外なら約束をしていたのか。……ああ、あの変態と情報処理室で淫らな行為に耽っていたのだったな。奴とはどんな関係なんだ」
「東方にいた頃、ミルが任務で来たのよ。指定品目の違法輸出入にお互い関わっていたから、仕事を一緒にして、それから親しくなったの。気がついたら二人ともベッドで裸になってたわ。……あら、お嬢ちゃんには刺激が強すぎたかしらね」
くす、と笑うジンミに、カリンは少し腹が立った。たった一つしか年齢が違わないのに、お嬢ちゃんとは失礼だ。
「平気です! お二人は、それから恋人同士に?!」
カリンがムキになって尋ねると、ジンミはすうっと目を細め、笑顔を消した。
「いいえ、恋人なんかじゃない。あの人は大陸中を仕事でまわって、ついでに宝石を手に入れて好みの子を抱くの。東方司令部で私を選んだのは、私が宝石商の娘で、顔と体もまあ悪くなかったからでしょう。その程度よ」
ミルコレスにとってはそうだったかもしれない。でも、ジンミは本当は、彼の特別になりたかったのかもしれない。カリンには色恋沙汰はまだよくわからないが、ふとそう思った。
「というわけで、あの人がどこにいるかは知らない。嘘じゃないわよ」
再び薄く微笑んだジンミだったが、カリンにはもう笑っているように見えなかった。彼女が嘘を吐いているとも思えない。同時に疑問が湧きあがってくる。しかしそれを口にする前に、メイベルがジンミの腕を掴んで引っ張った。
「何? まだ何か用が?」
「お姉ちゃん、何してるの」
「ここで油を売っていると最悪フィネーロが死ぬ。話は歩きながらにしようと思ってな」
「フィネーロ、ってリッツェ少佐よね。どうして彼が死ぬの」
ジンミは本気でわからないようだった。それが普通だ。突然話の中に登場人物が増えて、説明もされないまま結び付けろというほうが無茶なのだ。
だが、ミルコレスが何者であるかを知っていれば、そんな疑問は湧かないか、もっとごまかすような反応があっていい。カリンはある可能性と、それによって生じる矛盾に気づきかけていた。
「率直に訊こう。ジンミ・チャン、お前は中央司令部にいるミルコレス・ロスタに違和感を持ったことはないか。以前にも性交をしているのなら、そのときと違うと感じたことは」
率直すぎる問いだが、ジンミは素直に首を横に振った。
「意味がわからないわ。ミルに違和感……久しぶりだったから考えてもみなかった」
「では次だ。東方にいた頃、ミルコレス・ロスタと複数回一緒に仕事をしている。このことに間違いはないか」
「ええ、それは何度か。私と組むと仕事がスムーズだからって、ミルが指名してくれるの。実際うまくいったわ。私の功績にもなるから、お礼としてつけていたピアスをあげたりもした」
それは随分と高額で、しかもミルコレスにはたまらない報酬だっただろう。今日もジンミがつけているピアスは、本物の宝石だ。
「もう一つ。シリュウ・イドマルとはよく任務を共にしていたか」
カリンが目を見開くのに気付かないまま、ジンミは答える。
「シリュウは私の後輩よ。私のことを姉さんって呼んで、あの子が入隊してからずっと慕ってくれてた」
「今は? 話しているところすら見ないが」
「それは……班が分かれたのに一緒にいるのは変でしょう」
「そうでもない。現にお前は他班の人間であるルイゼンに絡んでいる。答えにくいなら質問を変えてやろう」
いつのまにか、カリンは知らない場所にいた。メイベルだけはここがどこで、今どこに向かっているのかを知っている。すでに明かりが落ちたそこは薄暗く、閉塞感があった。
「お前とシリュウ、中央では離れて行動するよう言いだしたのはどっちだ」
知らない場所で不安なのに、たしかなものを掴んだと思えたのは、メイベルの問いの意図がカリンにはとうにわかっていたからだ。カリンも、同じことを問おうとしていた。
ジンミは美しい柳眉を歪め、どうして、と呟く。どうしてそのことを知ってるの。
「……拒絶されたの、あの子に。中央では姉さんとは組まないって。姉さんは好きなだけミルといなよって。あの子、自分がミルの本命だってわかってて言うのよ!」
最後は絶叫に近かった。暗い廊下にわんと響いた声に、メイベルが目を細めて頷いた。
「そうか。こちらの聞きたかったことはそれだけだ。それさえわかれば、決められる」
ジンミの手を解放し、メイベルは銃を抜く。両手に一丁ずつ構え、カリンにも促す。
「十秒以内に終わらせるぞ、カリン。ミルコレスを撃ったらすぐに来た道を戻ってイリスを捜せ」
姉の無茶もこなさなければと思うくらいに危機が差し迫っている。カリンは頷き、銃を手にした。情報処理室を訪れたのがフィネーロ一人だったことはわかっている。本当の最重要容疑者は、最も近づけてはいけない人間の傍にいる。
狭い中庭に飛び込んで、姉妹は同時に弾丸を放った。

大総統執務室には誰もいなかった。部屋に鍵をかけないで離れるなんて、レヴィアンスはともかくガードナーまでもがそんなことをするだろうか。
「おかしいな……。二人ともどこ行っちゃったんだろ……」
無線の調子が悪かったことといい、ネイジュが待ち受けていたことといい、中央司令部の様子はずっとおかしかった。全てをネイジュが一人でやったとは考えにくい。まさか、ミルコレスと手を組んでいたのだろうか。
「シリュウ、レヴィ兄を捜しに行こう。ガードナーさんでもいい。とにかく現状を把握しないと」
幸いこちらも二人だ。手分けして捜しに行ける。イリスは単独行動を避けるように言われているが、すでにシリュウと二人きりなのだから、そんなことにこだわってはいられない。
「無線がおかしかったから、片方は無線管理室かな。シリュウ、場所はわかる?」
「いいえ。行く必要もありません」
聞き違いかと思って、首を傾げる。あるいは、もう戻ってきそうな気配がしたのか。――そこまで考える暇もなかった。思考は後でやっと追いついて、遅れた混乱が頭を満たす。
鍛えた体だけが反射的に飛び退いて、刃をかわした。それでも軍服が切れてしまった。真一文字に裂けた丈夫な布地の、切り口はそれは見事なものだった。
「シリュウ、あんた」
刀を構える少年は、それまでの無表情ではなかった。いや、一度だけこの視線を感じた。こちらを獲物と認識し、仕留めようとするその眼。けれども、今の彼は「あなたを超えたい」どころではない。ここにはたしかな殺気がある。イリスに向けられた、目の前の存在を消してしまおうという明確な意思が。
「インフェリア中尉、これはおれの想像ですが」
ゆっくりと構えを変えながら、シリュウが近づいてくる。イリスは後退るが、すぐに逃げ場はなくなった。大総統のための立派な机が、こんなに邪魔なものだとは。
「あなたには弱点が多すぎる。すぐに人を信じ、学習能力も欠如している。そのままだとあなたは一般の中でも弱者の部類になってしまう。だからこその身体能力と、その眼なのでは。性懲りもなく騙されても、ある程度は逃げられるように備わった機能なのではと思うんです」
「何言ってるの」
「しかしそれは宝の持ち腐れというものです。せっかくの『魔眼』なんですから、より有効に活用すべきでしょう。たとえばおれには、それが可能です。あなたの眼をサンプルとしていただき、技術によって殖やし、移植すれば……うまくいけば、この国に巣食う屑どもは一掃できるでしょうね」
「なんでそんな、裏みたいなこと言うのよっ!?」
叫んだイリスの目の前に、刀の切っ先が突きつけられる。その向こうで、シリュウは当然のような、ほんの少しこちらを嘲るような、薄い笑みを浮かべた。
「裏の人間なんですから。おれは至極真っ当なことを述べているだけです」
軍服を着た少年が、まるで違うことを言う。ここに来て初めての笑顔で。
「やめてよ、そんな冗談」
「その台詞を言うタイミングが間違っています。せめて、おれがここでみなさんに作り話をしているときに言うべきでしたね」
全部嘘だったというのか。シリュウはジンミとミルコレスに指示され、やむをえず関わることとなってしまったのではなかったのか。
「もっとも、あの作り話だって、急いで考えたんですよ。ガードナー補佐大将が勝手に、ジンミ姉さんがおれに指示を出していたことにしたでしょう。話を合わせるのが大変でした。あなたの弱点は人に伝染するんですか? 中央のみなさんは思い込みが激しすぎる」
「賭け事の悪癖っていうのは」
「ああ、それはちょっと長い期間をかけて作り上げたイメージです。そういうことにしておけば、多少の無茶もちょっと叱られるだけで済みます。そうして軍の人間は、おれのことなんかろくに調べもしないまま、情報も技術もどんどん与えてくれた」
「だって施設出身って」
「信じるに値する根拠にはなりません。出身は自己申告です。たとえその施設があったとしても、運営をあなたがたが裏と呼ぶ人々が行なっていて、その常識のもとに育てられれば、あなたがた軍の常識からは外れた子供が出来上がります」
そのとき、シリュウのカルテのことを思い出した。入隊当初は、発育不良気味だった。まともな施設で育てられればそうはならないはずだと思っていたが、シリュウのいた環境に問題があったとすれば、おかしいことではない。
「おれは初めのうちに、あなたに真実をお話しているはずです。身寄りのなくなった子供の行きつく先は、施設か軍か、あるいは裏社会。裏の子供は、自分のやっていることが善だと信じているために、いわゆる一般的な意味での更生は難しい。……軍を一般にした話で、裏が普通なら逆になります」
「逆だろうと何だろうと、シリュウは今まで軍人だったじゃない」
「必要なものを手に入れるための仮の姿です。力も、情報も、金銭も、軍でなら十分に手に入る。軍人の仮面をかぶるのに、良心なんか必要ありません。地を隠せるだけの演技力があればいい」
呆れたような表情で、シリュウが首を横に振る。こんなに表情が豊かな子だとは思わなかった。
「インフェリア中尉は軍家の人間ですからね、軍が正義で裏が悪であると勘違いしていても、仕方のないことです。それも育った環境の問題ですから、おれは責めませんよ。別に他人を責めるために裏にいるわけじゃない。単に、おれにはおれの生活があったという、それだけのことです。そしてあなたは、あなたがたの属するコミュニティの人間の中でも特に運が悪かった」
こんなに喋るような子だとも。けれども、普通の――いや、こちら側の人間だと思っていた。同じ思いを持っていると、自分で軍を選択したのだと、勝手に思い込んでいたのだ。
シリュウ・イドマルは、十六年の人生を、ただの一度も「軍」の人間として生きたことはない。
「おれはあなたの眼を抉り、研究組織に提供します。あなたはどうしますか。このままおとなしく、片目くらいなら差し出そうと思いますか」
それで全てが終わり、それ以上の被害が出ないならそれでいい。けれども、そうではないとわかっているからイリスは守られてきた。この眼を悪用される危険があり、それでイリスたちの社会が破壊されることになるかもしれないから、軍のトップまで動いていた。
「できない」
大切なものを守ると約束した。絶対に破ることのできない約束だ。それを果たすためには、イリスが戦うよりほかにない。ここにいるのは自分と、シリュウだけだ。
「わたしの眼はわたしのもの。誰にだって渡せない」
イリスは剣を抜き、目の前にあった刃を払った。額が少し切れて、つう、と一筋血が滴る。力を少しだけ解放した眼に映るシリュウは、三日月のように割れた口で笑っていた。

レヴィアンスは無線管理室にいた。叩き壊された機械はどうしようもなく、復旧は少し先になりそうだ。今度は管理を分散させよう、と溜息を吐きながら、耳では屋上の音声を拾っている。
ガードナーは再びタスクに会いに行っていた。レヴィアンスも行こうとしたのだが、もう少しだけ自分が粘りたいのだと、ガードナーにここに留められてしまった。
「これは私……いや、僕とタスクの決着なんです。喧嘩別れになってしまった三年前のけじめです。だから閣下は、待っていてください」
そうなってしまう原因をつくったのはレヴィアンスなのに、そう言わない。レオナルド・ガードナーは自分の誇りとレヴィアンスの正しさの証明のために戦いに行った。
屋上から落としたはずの男がほぼ無傷で戻ってきたことに、タスクは驚いただろう。しかしすぐに思い直したはずだ。大総統補佐とはそういう人間がなるものなのだと。そしてこうも思ったはずだ。誰がそこまで育ててやったと思ってる、と。
タスクはガードナーを認めたのだろうと、レヴィアンスは本気で思っていた。それまで本当に、将官室長を真面目に務めていたのだ。だが考えてみれば、あれも彼にとっては閑職だったのかもしれない。本来、実地での任務に向いていた男だ。暴れることが取り柄で仕事の、一時期のイリスのような人間だったのだ。それを椅子から離れられない立場に置いたのだから、レヴィアンスの采配ミスだ。不満が徐々に溜まり、限界まで膨らんだところを針で突かれただけのこと。それをずっと勘違いしていた。
「指揮者失格だね」
与えられた名前の通りにできたら良かったのに、とこんなにも思ったことがあっただろうか。ゼウスァートの名はいつだってレヴィアンスが捨てたいものの上位にあったのに、今ではその力を欲している。それで全て解決したら、もう一つも文句を言わずに職務を全うする。だが、それは無理な話だった。
万能の指揮者は一度死んだ名前だ。名前で嘘を吐いている。もはや「名ばかり大総統」という蔑称すらふさわしくない。
「三年も、よくもったよ。レオも、タスクも、頑張った。もう十分……」
振り回し続けたものは、もう解放してやるべきなのかもしれない。けれども、そのあとは。それが全く、思いつかないのだ。今まで、自分の周りだけを理想的に固めた状態がベストだと信じてやってきた。それ以上のことが、考えられなかった。
耳に剣が交わる音が響く。タスクの猛攻に、ガードナーが耐えているのがわかる。そうして耐え続けたために、それができてしまったために、タスクに練習台として使われるようになってしまったのだ。結果、タスクはガードナーを下に見るようになった。――けれどもそれは、昔の話だ。
「……あ」
一瞬で、音が変わる。ガードナーが打ち返したのだと、すぐにわかった。それをきっかけに形勢が逆転し始めた。ガードナーは、タスクの粗い攻撃の隙を見切ったのだ。そう、本来はこちらが彼の本領。物事の好機を見定め、自分の動きを決める。反撃の機会を強かに窺える人物なのだ。
「どうしてオレが、それを信じないのさ」
必要としていたのは、耐える補佐ではない。適切な機を逃さない補佐だ。それこそがレヴィアンスを補える人物だと思ったから、ガードナーを選んだ。
けれどもタスクの力も必要だった。彼の持つ圧倒的な存在感と求心力が、おとなしくなってしまいがちな将官たちを動かせると思ったのも本当だ。
ガードナーの強さを、タスクの力を、危うく「十分」などという言葉で否定するところだった。彼らを選んだ自分が、それをしてはいけない。すべきことは、伝えそこなっていた言葉を伝えること。それで解決するかどうかはともかく、レヴィアンスにしか言えないのだから。
それが、大総統レヴィアンス・ゼウスァートの選択なのだと。

勝利こそまだないが、ルイゼンの訓練相手はイリスが最多だ。尉官でありながら、佐官をも凌ぐ戦いのセンスと技術。戦略が甘い分粗削りではあるが、それでも強い。どんなにこちらが腕を磨いても、彼女はさらにその先を行ってしまう。
その向こうには、先輩たちがいた。技術を、戦術を、丁寧に叩きこんでくれた人たちだ。イリスに勝てないということは彼らにももちろん勝てないのだけれど、頼めば相手をしてくれた。
経験はルイゼンの血や肉や骨となり、この体を動かしている。見たことのない武器も、何度か打ち合えば、どんな使われ方をしているのか、何が得意で何が弱点なのかがわかってくる。イリスや先輩たちに比べれば、ネイジュは実に理解しやすく、かつ制することが十分に可能だ。
よくしなる奇妙な剣は、しかしその材質ゆえか軽い。その特徴をネイジュは持て余していた。かつては彼も軍支給の剣を使っていたのだろう、力の入り方がルイゼンとよく似ている。しかし、彼の剣にそれほどまでの力は必要ない。叩き付けるのではなく、斬り落とすのでもなく、刻むのがちょうど良さそうだ。こういう剣が手に入っていれば、いつぞやのフィネーロの戦闘力不足問題ももっと早くに解決できたかもしれない、と冷静に考えるだけの余裕がある。
「なぜだ、なぜ届かない!? 中佐ごときが、若造が、どうして私の剣を弾くんだ!」
焦れば焦るほど、ネイジュの手は滑る。そうなんだよな、とルイゼンはいつかの自分を重ねた。焦るとそこから全部崩れていってしまう。
「勿体ないですね、大佐。その剣、入手してからまだ日が浅いのでは? 訓練不足なら、うちの血気盛んなやつ貸しましょうか」
「うるさい!」
柔らかな刀身をルイゼンの剣に叩き付けては、いくらしなるとはいえ向こうが先に折れてしまいそうだ。それは本当に勿体ない。
「グラン大将に言われたんだ。ルイゼン・リーゼッタに軍を辞めさせてしまえばいいと。だからそうすれば、私の道は開けるはずなんだ」
「ああ、大将に。根に持たれたかな」
ネイジュの精神状態は、おそらく限界に近い。重要なことを思わず吐いてしまうほどに、彼はルイゼンに対して焦りと、本人がまだ気づいていない恐怖を持っている。相手が敵ならば今こそ倒すところだが、お互い軍の人間である以上はむやみに傷つけられない。
そう、ネイジュは本当に軍人だ。軍で上を目指し、軍で生きようとする人間だ。イリスを狙っている者たちの仲間ではない。彼は邪魔者を排除したいだけで、取り締まり対象という意味での「悪人」ではないのだ。
「そんなことしなくても、閣下がもう大佐を認めてたのに。そうでなきゃ、事務室長にしたりしません。俺もきっと、あなたから学ぶことがあったんだ。でも、こうなったら仕方ないですよね」
素早く剣を引き、ネイジュがバランスを崩したその瞬間を狙い、大きく一振り。ルイゼンの一撃はネイジュの剣を手から弾き飛ばし、遠くへと放った。地べたに倒れ込んだネイジュは、すぐに起き上がる気配を見せない。彼はもう、戦えないだろう。
「……どうして、お前なんかが」
絞り出すような声に、ルイゼンは真剣に答える。
「俺にもわかりません。でも、何かを見出してくれているのなら、それに応えようと思います。そもそも俺がここにいるのは、立場ではなく、大切な人を守りたいからなので」
だから、どんなに恨まれても、妬まれても、負けるわけにはいかなかった。
「俺は絶対に辞めません。グラン大将にも、そうお伝えください」
寮のほうから人が来る。門前でこれだけ暴れれば、何事かと駆けつけることもあるだろう。ネイジュのことは他の者に任せ、ルイゼンは早くイリスたちに追いつきたかった。こちらに気づいて走ってくる軍人たちに手を振り、ネイジュには背を向けた。
「……お前だけ、ここに居続けられると思うなよ」
ゆらりとネイジュが立ち上がり、よろける。ルイゼンは振り返って、思わず彼を支えようとした。いつも仲間にそうしているのだから、反射的に体が動くのだ。しかし。
「どうせ地獄に落ちるなら、お前も道連れだ」
こちらの目を覗き込む、歪んだ笑みが、だんだん霞んでいく。痛みというより、熱かった。今まで受けたどんな傷よりも深いということは、かろうじて察することができる。
腹に深々と刺さったナイフに思うのは、まいったな、ということ。これじゃ、約束通り合流できないや。――ああ、そういえば、約束はしそこなっていたんだっけ。

両肩と左脇腹に銃弾を受けたミルコレスが地べたに座り込む。それを一瞬のうちに確認すると、カリンはもと来た道を引き返した。姉の言いつけ通り、イリスを助けに向かうため。
メイベルは中庭に足を踏み入れ、フィネーロを一瞥した。
「腕は折れてないか」
「わからない。でも動かないから、あとは頼んでいいか」
「独りで戦おうなんて無茶をするからそうなるんだ。……さて、変態」
脇腹を押さえるミルコレスを見下ろすと、痛みに歪んだ表情が見えた。変態とは呼んでいたが、彼も案外普通の人間だった。人間と、そう変わりはなかった。
「お前はクローンなんだな」
「……そうだよ。ミルコレス・ロスタのクローンだ。でも、本人とそんなに違いはないよ。俺の記憶や仕草は本人から仕込まれたものだ。ミルコレスはもともと、裏に加担している軍人だった」
やはりそうか、とフィネーロが呟く。いや、まともに喋ろうとしたのだが、掠れた声しか出なかったのだ。メイベルは一言「喋るな」と告げてから、ミルコレスに再び問う。
「いつから入れ替わっていた」
「南方にいた時から、実験的にときどき入れ替わってたよ。誰も気づかないのが面白くて、ミルコレスとはよく笑いあったものだ。だからあいつを殺すのは、ほんのちょっと惜しかった」
「殺したのはいつのことだ」
「あいつが中央に向かった日だよ。組織の人間とともに、切り刻んで意識を失わせてから、焼き殺したんだ」
これくらいはもうわかっているんだろう。そんな口調で、ミルコレスのクローンは語る。時系列などに不明な点はあるが、調べればすぐにわかるのだろう。それはメイベルたちの仕事だった。
「もう一つ問おう。お前に指示を出していた人間は、シリュウ・イドマルか」
フィネーロが驚愕するのが見えた。それまでの容疑はジンミにかかっていたのだから、無理はない。だが、ジンミはシロだ。この計画そのものを知らずにいたかもしれない。あるいは、彼女も無意識のうちに操られていたことも考えられる。
シリュウにはおそらく、それができるのだ。中央の人間に、それもトップにいる者たちにまで間違った推理をさせ、信じ込ませる。
ミルコレスは首肯し、笑った。
「そうだよ。地方で指定品目の違法輸出入取り締まりを失敗させるように仕向けたところから、本物のミルコレスを殺すよう指示したこと。もちろん俺をつくる過程に、ミルコレスを参加させたのもシリュウだ。あの子はミルコレス曰く、宝石と同じくらい魅力的で恐ろしいって。あっというまに虜になったってさ。実際に会って、なるほどと思った」
弾丸が三発も命中している割にはよく喋る。しかし、おかげで事件が見えてきた。黒幕はシリュウ。ミルコレスのクローンはその手下。全ては彼らによって仕組まれていたのだ。カリンに送られた手紙も、シリュウの関係者が用意させたものだろう。ネイジュの行動まではわからないが、エルニーニャ中を仕事という名目でまわっていたミルコレスを使えば、そうとわからないように手を回すことは可能なのかもしれない。
「あいつは本当に十六歳か。実は記憶継承型クローンで、何十年も生きているのではあるまいな」
「んー、たぶん普通の人間だと思うよ。組織で英才教育受けて、何年も軍人のフリしてれば、それなりの人材に育つんじゃない? 軍人だって、十歳から決められた生き方を叩きこまれるんだから、できないことじゃないだろう」
たしかに、とメイベルは頷き、再び銃を構えた。ミルコレスには同じことを、今度は聴取で喋ってもらわねばならない。来てもらおうか、と言おうとしたとき、横から銃を奪われた。
「何をする、ジンミ」
駆け寄ってきたジンミが、メイベルから取り上げた銃を構えた。標準を合わせ、彼女は泣きそうな顔で微笑んだ。
「私が殺してやりたかったのに。でも、それも結局できなかったのね。私は、最後まで騙されたままだった」
破裂音が響き、ミルコレスがゆっくりとくずおれる。その額の真ん中には穴があき、クローンといえど、もう二度と喋ることはできなくなってしまった。
身体を起こしたフィネーロが、眉を寄せてジンミを見た。
「君は、なんてことを。……証言者を、殺すなんて」
「クローンでしょう。死んだってかまわないんじゃないの」
「しかし」
「あなたたちが聞いたのだから、もういいでしょう。……彼を、死なせて。無理やり生かして、喋らせないで」
ああ、とメイベルは嘆息する。きっと自分がジンミの立場なら、同じことをしただろう。愛した人間の、それも殺されてしまった者の複製など、見ていられない。殺してしまったほうがましだと思う。だが、それでは何の解決にもならないのだ。真実は明らかにならないし、やるせなさや悲しみはけっして消えることがない。
ジンミがミルコレスに近づき、その亡骸の頬を撫でる。こんなに似ているのに、と呟く声には、慈しみと憎しみの両方が混じっている。
「やっぱりあなたは、私を愛してはくれなかったのね。生きていても、死んでからも」

剣戟は疾く、高い音を響かせる。型の決まっているミナト流剣術に裏の暗殺術が加わったシリュウの動きは、知っているようで知らない動きだ。一度手合わせしたとき、あのときはやはり手加減をしていたのだ。イリスの剣技がどれほどのものなのか、見定めるために。
ぴ、と刀の刃先がイリスの頬を掠める。頬を拭うと、手が赤く染まった。呼吸を整える間もなく、次の攻撃が来る。飛び退いて大総統の執務机の上に乗ると、口元に笑みを浮かべるシリュウが見えた。ここに来て一番楽しそうな表情に、イリスはつい苦笑する。
――どうやって笑わせようか、考えてたのにな。
まさか、殺し合いが一番効果があるとは。模造刀での手合わせなんかではなく、本気の命の奪い合いが、シリュウと心をかわす最短の方法だったのだ。
「インフェリア中尉、この期に及んでまだ躊躇っているんですか。裏の人間が相手なんですから、本気にならないと死にますよ」
「そうだね。どうやらあんたには、わたしの眼も効かないようだし」
先ほどから少しずつ出力をあげている眼は、しかしシリュウには効果が見られない。むしろ彼の動きは、イリスと打ち合いをするごとに洗練されているようだった。刃の描く軌跡は美しく、それが自らに降りかかる災いとなるとわかっていても見惚れそうになる。
下から上へ、掬いあげるように刀を振るうミナト流の技をなんとか止めると、全身に痺れが走るようだった。だがイリスは間髪入れずに刀を弾き、机の上から飛び上がってシリュウに斬りかかる。狙いは肩から胸にかけての袈裟懸け斬り。動けなくするだけで、致命傷は与えないつもりだった。シリュウには真実を証言してもらわなければならないし、イリス自身、若い彼を殺してしまいたくはない。できれば裏から抜けて、「真っ当な」生活ができるようになってほしい。
――でも、シリュウとわたしでは「真っ当」が全然違うんだ。
シリュウ自身が言っていた。裏で育ってきた彼にとっては、裏での暮らしこそが常識なのだ。幼い頃からそう育てられてきたものを、今更変えることは難しい。イリスがいまだにメイベルたちの暮らしがわからないのと同じだ。
一瞬考え事をしたせいで、シリュウにはこちらの攻撃を完全に読まれ、避けられた。すぐに次の刃が来る。横一直線、真一文字に薙ぎ斬る技。イリスはとっさに屈んでかわし、今度はシリュウの足を斬りつける。剣は軍服の生地を裂き、たしかに狙い通りに届いた。けれどもシリュウは、傷を気にすることもしない。一歩後退り、今度は真上に振り上げた刀をイリスの頭に向かって一気に叩き落としてくる。刀を見ずに、気配だけで刃を察知し、剣で受け止めると、シリュウがくつくつと笑った。
「惜しいな。インフェリア中尉、こちらで働きませんか。眼も剣技も生かせる、最高の環境だと思いますよ」
「お断り。わたしは軍人、イリス・インフェリアなの」
「そうですか。あくまで軍の人間だと、そう言い張るわけですね」
刀を引き、シリュウがぱっくりと開いた三日月の口で言う。
「『赤眼の悪魔』のくせに、それをいつまでも軍の『正義』のために使えると。もっと楽に、自由に、その力を使ってもいいんですよ。あなたがたはどうしてか裏を敵視し滅しようとするけれど、おれには意味が解りません。裏はあなたがたが思うより、ずっと解放されたところです」
赤眼の悪魔。そう呼ばれた者は、最後には退治されてしまった。物語の中でのことだけれど、彼は存在を許されなかった。その眼で人を操った代償は、柔らかな表現で包まれてはいるけれど、きっと命だった。そして現実も、物語と同じくらい、いや、それ以上に厳しい。
この眼が疎まれたことは忘れていない。同じ眼を持つ母はかつて苦しみ、イリスもまた人々から気味悪がられ、自らもその力の大きさを恐れた。上手く扱えるかどうか、あるいは隠せるかどうか、不安の日々を過ごしてきたのは確かだ。
だが、この眼を認めてくれる人がいる。母は父らに丸ごと受け入れられ、イリスと兄を産んだ。イリスもたくさんの人に、ここにいろと言ってもらえる。強大な力のことなど気にせずに、イリスという人間を認めてくれる人たちがいる限り、ここを離れず、守ると決めた。
それがイリスの、力の使い方だ。それを捻じ曲げる気はさらさらない。
「たとえ軍がわたしを縛っていようと、それはそれでいいんだよ。シリュウが裏で生きてきたっていうなら、わたしは軍の中で生きてきたんだ。今あるこの世界が、わたしを自由にしてる。わたしは裏にはいかない。そこがどんなに自由だとしても、わたしの居場所じゃないから」
再びシリュウが斬りつけるのを、イリスは手にした剣で迎え討つ。鍔迫り合いをする両者の距離は、限界まで近くなる。
「シリュウは、どうしても裏にいるつもりなの? あんたの世界は、本当にそこでいいの? 利用されるのが、あんたの自由なわけ?」
「それはあなただって同じだ。軍に利用され、その身を縛りつけられている。軍はあなたを脅威だと思っているから手放さないと、わかっていてどうしてそこにいるんですか」
その答えは、実にシンプルだ。イリスは父を、母を、兄たちをこの眼で見てきたのだ。彼らの背負った苦しみや悲しみ、痛みやつらさ、使命の重さをよく知っている。インフェリアの名のもとに生まれたからには、知らないでいられるはずもない。
だからこそ、この道を選んだ。背負うなら、真っ直ぐに立って、前へ進もうと思った。ときには転んだり、迷ったり、道を間違ったりすることもあるけれど。そんなときは仲間が手を差し伸べ、導いてくれる。イリスの世界は、そんな場所だ。
「わたしは恐れられても、縛られても、わたしの周りだけは守るって約束したの。大切なものを何が何でも守り抜くために、わたしはここで生きる!」
シリュウの刀を押し返し、剣を高く振り上げる。距離をとったシリュウは突きの構えをとる。おそらくはシリュウのほうが速いだろうと、一度手合わせをしたイリスにはわかっている。しかし、この少年を立ち止まらせることができるのならなんでもいい。イリスの大切なものたちを守れるのなら、それでいい。
振り下ろした剣は、シリュウの肩を叩き斬る。細身の剣だから斬り落とすことはないけれど、傷は浅くないはずだ。
そしてシリュウの刀は、イリスの胸を的確に突いていた。切っ先は深く突き刺さり、けれども背中に通りはしなかった。
部屋の外からたくさんの足音が走ってくるのが聞こえる。騒ぎに気づいた軍人たちのものだろう。聞き慣れた靴音だった。
「シリュウ、裏で動くのはこれでおしまいだよ。わたしの眼を持ち帰れなければ、あんたは裏に戻ったって、生きられるかどうかわからないんでしょ?」
血を吐きながらも、はっきりと喋るイリスに、シリュウはほんの僅か瞠目して、それから目を眇める。
「言ったでしょう。裏のほうが自由なんです。あの世界はあなたが思うより広い。いくらでも生き方はあります」
シリュウもまた、呼吸が粗かった。大きく斬られた傷は、その場から立ち去ることができないほどのダメージになったはずだ。
「おれは生き続けます。あなたの眼を狙い続けます。もしあなたがどうしてもおれを裏から抜けさせたいというのなら――」
告げられた言葉に、イリスは眉を顰める。その瞬間、軍人たちが部屋に入ってきた。ここが大総統執務室であろうとお構いなしだ。戦闘の現場ならば関係ない。
「イドマル准尉を確保しろ! そして速やかにインフェリア中尉の手当てを!」
軍人たちの後方には、カリンがいた。彼女が味方をここまで導いてくれたのだ。イリスはホッとして、その途端に胸が激しく痛むのを感じた。これはどれくらいの傷なのだろう。上手に肋骨の間をぬっていた。呼吸をするたびに血が口から溢れて、なんとなく、肺かな、と思った。もう少しちゃんと勉強しておけばよかった。

レヴィアンスが大総統執務室に――シリュウが取り押さえられ、負傷したイリスが応急処置を受けている現場に戻ってきたのは、軍人たちがそこに乗り込んでから数分後のことだった。屋上でのガードナーとタスクの戦いに割って入り、止めさせ、それから来たのだ。
それまで、執務室が戦いの舞台となっていることも、門前や隠れ中庭での状況も、何も把握できていなかった。
「司令部門前ではルイゼン・リーゼッタ中佐がネイジュ・ディセンヴルスタ大佐にナイフで刺され、重傷を負いました。司令部施設内でも、フィネーロ・リッツェ少佐が肋骨、鎖骨、および右尺骨を折る重傷。ミルコレス・ロスタ少佐が額、両肩、左脇腹を撃たれて死亡。ロスタ少佐に関してはリッツェ少佐への暴行があったとの証言があり、致命傷となった額の銃創はジンミ・チャン中尉によるものだということで、本人も認めています」
急遽集まった軍人たちからの報告と、目の前の光景に呆然となる。だが、すぐに気を取り直して、レヴィアンスは報告をした将官に礼を言った。
「ありがとう。そんなにたくさんあったら、まとめるの大変だったでしょ。苦労人だね、マー坊も」
「仕事ですので。……申し訳ありません、閣下。つい最近まで私が彼らの直属の上司だったというのに、こんなことを引き起こしてしまうなんて」
トーリスが深く頭を下げるので、レヴィアンスはそれを労うように軽く叩いた。この状況は、全く彼のせいなんかではない。レヴィアンスの無茶が招いたことだ。もっと慎重になるべきだった。イリスを狙う者の尻尾は掴めたが、その代償があまりに大きい。
先ほどまで戦っていたガードナーとタスクが協力して場を鎮めようとする、その姿が唯一の救いだった。
「リーゼッタはもう病院に運んだのか。怪我の具合はどうなんだ」
「ただでさえ深い刺し傷をさらに抉られたようで、治るまでには時間がかかりそうだとのことです。幸いにも意識はあるようですが」
「リッツェ少佐とロスタ少佐については、ブロッケン大尉が詳細を知っているそうです。これから聴取を始めます」
「お願いします。しかし、くれぐれも彼女を煽るようなことはしないでください」
客用のテーブルやソファは元あった位置から大きくずれ、重厚で丈夫なはずの執務机にも傷が刻まれている。柔らかかったソファは無残にも中身がはみ出していて、この場所での戦いの激しさを物語っている。レヴィアンスはそれらを横目に、イリスのほうへと歩みを進めた。
壁に寄り掛かっている彼女は、晒した肌に包帯を何重にも巻き、口から零れる血を拭っている。粗い呼吸を整えながら、掠れた声で「レヴィ兄」と言った。
「みんなのこと、聞こえた。……ゼンやフィンは、治るんだよね。ベルとカリンちゃんは、無事なの? シリュウの傷は、大丈夫?」
この期に及んでも、自分のことは後回しだ。やはりイリスは、あの父の娘で、あの兄の妹だった。レヴィアンスは大きく溜息を吐いて、喋るな、と告げた。
「みんな大丈夫だよ。だから、お前も休んでろ。軍に入ってから、一番でっかい傷じゃんか」
「……へへーん。傷は、軍人の、勲章だよ」
「だから黙ってろって。ちゃんと治さなきゃ、勲章にしたって意味ないだろ」
救急隊が部屋にぞろぞろと入ってくる。同時に、ルイゼンとフィネーロが無事に病院へ送り届けられたという報告があった。ミルコレスも一応運ばれたそうだが、もう息がないことは確実だという。
「あ、レヴィ兄。ユロウさんが、検分の、許可を……」
担架に載せられる間際、イリスが再び口を開く。レヴィアンスは急いで頷いた。
「それはもう了解して、頼んである。焼死体が本物のミルコレスだって、すぐにわかるんじゃないかな。あいつの足取りもオレのほうで調べた。だからもう休めよ。お前にあんまり無理されると、オレがニアとカスケードさんに叱られる」
「だい、じょうぶ、だよ……。お兄ちゃんと、お父さんには、わたしから、頼んでおく。……あんまり、レヴィ兄を、叱らないでって、さ」
にい、と笑う顔は真っ青で、イリスらしさに欠ける。もうおとなしくして、傷を悪化させないようにしてほしい。けれどもそうしないのは、レヴィアンスが怪我人と同じくらいに酷い顔をしているからだというのも、自分でよくわかっていた。
シリュウも担架で運ばれていく。軍服を左肩から真っ直ぐ縦にばっさりと裂いた、その切り口が真っ黒だった。軍服が紺色なので、血に染まると真っ黒になってしまうのだ。イリスは覚悟して剣を握ったのだろう。普段から活発でよく暴れる彼女だが、人を傷つけることはめったにない。こうしなければならないと、それこそ血を吐くような思いで斬ったに違いなかった。
「シリュウ、傷を治したら全部喋ってもらうからな」
声をかけたが、答えなかった。目は開けているが、こちらの言うことを聞いていないらしい。裏の人間が、軍の頂点の人間の言うことを、聞くはずもない。
「私が迂闊でした、閣下。シリュウ・イドマルを信じ切って油断し、そのうえ自分のことに囚われてしまったせいで……」
いつのまに傍に来ていたのか、ガードナーが俯いていた。もう「申し訳ございません」は聞き飽きたので、言われる前に首を横に振った。
「仕方ないよ。シリュウは、何年もかけて軍に入り込んでいたんだ。オレやクレリアだって見抜けなかったんだから、油断したのはみんな同じ」
それより、と大総統執務室を見回す。これからこの部屋を現場として検証し、それが終われば片づけをして、同時に今回の事件をまとめなくてはならない。各司令部への報告をし、タスクやネイジュ、ジンミの処分についても考えなくては。やるべきことはたくさんある。レヴィアンスは大総統として、ガードナーは補佐として、俯いて立ち止まっている暇はない。
「まずは現場の写真かな。レオ、カメラ持ってきてくれる?」
「また閣下が撮られるんですか」
半分呆れたガードナーが資料室に向かったのを待っている、そのときだった。突然、外から轟音が響き、悲鳴が続く。何事かと窓際に集まった軍人たちを掻き分けて、レヴィアンスも外を見た。――先ほどよりももっと信じがたい光景が、日の暮れた闇の中に広がっている。
壊れた車や割れた石畳と、折れた木々。そして倒れている軍人たち。中心には空の担架が、折れ曲がって落ちていた。そこにいたはずの人物の姿は、どこを見回しても見当たらない。
レヴィアンスは弾かれたように走り出し、廊下を駆け抜け、外へ出た。ちょうど大総統執務室の下に、惨状が広がっている。血塗れになった軍人の一人が、閣下、と苦しげに呻いた。
「何があった?! シリュウは?!」
「……逃亡、しました。武器を、……剣を奪われて……」
一瞬の出来事だったという。大怪我を負っていたはずのシリュウが体を起こし、担架から飛び降りてすぐ傍にいた軍人から剣を奪った。彼が得物を一振りしただけで、周囲の全てが割れたのだ。
「しまった……ミナト流か!」
このとてつもない威力の技を、レヴィアンスは知っている。かつて間近で見たことがある。堅固な牢の鉄格子をも飴細工のように砕くことのできるこの技は、ミナト流の破壊の奥義だ。本来ならば対物のみに使われるものだが、脆い人間が巻き込まれればもちろんのこと甚大な被害を受けることになる。
「レヴィ兄っ!」
あらん限りの声をあげて、イリスが駆け寄ってくる。とはいえ、こちらも大怪我のために今にも倒れそうなくらいふらついている。動けるのが不思議なくらいだ。
「バカ、何動いてるんだ! 巻き込まれなかったみたいで良かったけどさ」
「シリュウは、逃げたの?」
とっさに支えたイリスの表情は、泣きそうなのを我慢しているようだった。痛みのせいではないことは、レヴィアンスにもわかっている。きっと、同じ気持ちだから。
「……逃げた。止められなかった。姿も見えない」
「あんな、怪我させたのに……。まだ、これだけの、力が、残ってたなんて……」
「とにかく、手分けして怪我人を運ぶ。シリュウも捜す。あとは全部オレが大総統として責任もってやるから、お前は病院に行け。今のでまた出血しただろ、バカだな」
真っ赤になった包帯と、まだ口から流れている血。しかしイリスの眼が、そんなものはどうでもいいと言っていた。その時点で、嫌な予感はしていたのだ。
無理やりイリスを無事だった車に乗せて、レヴィアンスは軍人たちに指示をとばす。怪我人の処置をし、運ぶ者。拡大した事件現場の検証にあたる者。そして、シリュウ・イドマルの捜索にあたる者。夜の中央司令部は騒がしかったが、軍人たちは指揮者の命令通りに手際よく動いていた。
メイベルとカリンはそれぞれ聴取を受ける。タスクは自ら、ネイジュとジンミは軍の者によって拘束された。ルイゼンとフィネーロは病院で治療を受けている。ミルコレスのクローンの遺体は、本物と同様に速やかに検分にまわされた。
そして、イリスは。
その日の晩のうちに、姿を消した。



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2017年06月17日

解け蠢くものたち

発見したのは、鉄道関係者だった。線路から五十メートルほど離れた場所に不審物があるとの連絡を受け、軍を待つ間にそれに近づいた。
黒い大きな袋に見える。懐中電灯で照らしても、一目見た限りではそれだけの情報しか得られなかった。袋の口は縛っただけで、簡単に開けられそうだ。
好奇心に負けた手は袋に伸び、その結び目を解く。少し持ち上げようとしたが、重かった。中身を覗き、照らし出して、彼の頭は真っ白になった。
悲鳴をあげてから、ようやく思考が追いつく。果たしてこれは作り物か、それともまさかの本物か。なにしろ真っ黒に焦げているので、判別がつかない。
遅れて到着した軍の人員も顔を顰め、けれどもじっくりとそれを眺めた。そうして下されたのは、「おそらく本物だろう」という判断だった。
男とも女ともつかない、ただ成人だろうということだけがわかる、焼死体。これは厄介な案件になるぞと、軍人は深い溜息を吐いた。


熱い紅茶をテーブルに並べてから、口火を切ったのはフィネーロだった。
「閣下、僕は個人に関するデータを私物の端末に持ち出しました。規則を破ったことを謝罪します」
イリスが口をあんぐり開ける向こうで、自分の椅子に座ったレヴィアンスは苦笑する。
「きっとそうするだろうなと思った。手間が省けていいや。だから今回だけ不問にしてあげるよ」
今回だけね、と繰り返してから、目を細めた。これは本当に次はないなと、フィネーロは肩を竦め、イリスは頭を抱えた。
「フィンがそういうことしたのは、わたしのせい?」
「いや、イリスや閣下からは、待っていればいずれ何らかの指示があるだろうと思っていた。だがそれに先んじて、僕に情報を押し付けてきたやつがいる」
「ミルコレス・ロスタだね。フィネーロと話す機会がある人物なんて、あいつくらいだ」
「やはり閣下は意図的に彼らを異動させたんですか」
レヴィアンスは首肯し、き、と表情を引き締めた。
「意図的じゃない異動なんかあるもんか。今回地方司令部から集めた五人は、オレが有能な人材を求めて各地方司令部長に打診したんだ。……というのが表向きの事情で、実際は最近立て続けに起こっていた『指定品目の違法輸出入』案件に関係し、かつ逃亡した実行犯たちと接触した人間を呼び出した。対象品目はいずれの事件もサーリシェレッド。裏では『魔眼』と呼ばれて取引されている」
これくらいわかってるよね、と言いたげなレヴィアンスに、ルイゼンとフィネーロとメイベルは当然のように同時に頷いた。ここまでは掴まれていると、イリスもわかっている。が、問題はその先だ。
「宝石だけならまだ良かったけど、ここ最近は『魔眼』にもう一つの意味がある。裏の人身売買をやってるやつらや、生体技術の悪用を目論んでるやつらが狙っている、そのものずばりの『魔眼』。イリスみたいな異能の眼だね。裏で動いてる複数の組織が同じ符丁に別の意味を込めて使っていて、実際わざと混乱させてるみたいなんだ」
これはイリスにも言ってなかったけど、と明かされたのは、大佐階級以上の一部の人員が調査を続けていた人身売買案件の話だった。確保された裏組織の人間が、符丁の扱いについて白状した。人身売買及び生体技術を扱う組織は指定品目の違法輸出入を主にしているふりをし、中央の目を欺こうとしている。指定品目に関わる案件は地方司令部で扱われることが多く、それも数が少なかったため、中央はこれまであまり関わってこなかった。ノウハウが十分とはいえなかったのだ。
「サーリシェレッドを隠れ蓑にイリスを狙ってるってのはそういうこと。だからこそ『指定品目の違法輸出入』も今まで以上に厳しく取り締まらなくちゃならなかったんだけど、失敗が続いたよね。発生件数が多くなったのはともかく、検挙率がそれ以上に下がったのが気になって、地方に相談して関係者を寄越してもらうことになったら、取引がぴたりと止まった」
そういえば、と呟いたのはルイゼンだ。異動からはまだ三日目ではあるが、中央に人が来ると決まった頃から、たしかに地方からの報告はあがってきていない。
「軍の担当者が裏と通じている疑いは濃厚になった。本当の目的はサーリシェレッドではなく、イリスの眼なんじゃないかっていうのも。全地方で一斉に取引が止まったから、全員がグルって可能性も考えた」
「それはないでしょ、レヴィ兄。カリンちゃんとシリュウは」
「例外とは言えない。たしかに裏と通じている可能性は低かったけれど、本人も知らないうちに利用されているということもありえた。隠れ蓑のほうに関わるか、中身のほうに関わるかの違いだよ。……お前たちの行動はそういうことじゃないの。カリン・ブロッケン、シリュウ・イドマル」
イリスがおそるおそる見たカリンの顔は蒼白だった。シリュウは表情こそ変えないが、実際にイリスに「賭け」を挑んでいる。彼らを擁護するものは何もない。
「……関係あるなんて、知らなかったんです」
先に細い声で言ったのは、カリンだった。メイベルが足を組み直し、妹を見つめる。
「イリスさんが狙われてるなんて今日初めて聞いたんです。だから、危ないなら味方にならなきゃって思ったのは本当で……。でも、サーリシェレッドの横流しをしようとしたのも、本当です」
あの日、と語りだしたのは、昨日の朝に聞いたカリンの失敗についてだった。あの任務の話には、隠したことがあった。
宝石の売人にいきなり腕を掴まれ、連れ去られそうになったのは事実だ。だが、そのときカリンは抵抗できたのだ。売人を押さえ込もうとしたときに告げられた一言に、ほんの一瞬、気をとられた。
――俺に命令したのはお前もよく知っている人間だぞ。
それをきっかけに形勢は逆転し、カリンは上司に助けられたが、売人は逃亡した。質の悪い冗談だろうと思い直して上司に謝り、例の言葉は黙っていた。
その翌日、西方司令部軍人寮のカリン宛てに、封書が届いた。中の便箋には家族の名前が書き連ねられ、サーリシェレッドを一粒でもいいから横流ししろという指示が添えてあった。乱暴な筆跡は、忘れたくても忘れられないものだった。
唐突に中央への異動が決まったのは、その後だ。レジーナにはサーリシェレッドを扱うスティーナ鍛冶があることは知っていた。そのセキュリティをいかに突破するかを考えるより先に目に入ったのが、イリスの剣だった。
「どうして手紙のこと、誰にも言わなかったの? 大体、カリンちゃんが従わなきゃいけないほどの何が……」
「イリス、話を聞いていてわからなかったのか。手紙を書いたのはあの男だな。それをどうしても私の耳に入れたくなくて、馬鹿なことをしようとしたんだろう」
イリスの疑問は、メイベルがバッサリと斬り捨てた。カリンは弱々しく頷き、軍服の内ポケットから封書を取り出す。差し出されたそれを奪ったメイベルは、中身を出して目を走らせ、机に叩き付けた。
「カリンに接触した売人がイリスを狙うやつらと繋がっていたことはたしかなようだ。身辺調査もどうやら万全のようだぞ、閣下」
「やられたな。カリンが絶対に抗えない相手を、向こうはもう確保してたのか」
額を押さえたレヴィアンスには、すぐに状況がわかったようだ。戸惑うイリスに、フィネーロが一言告げた。
「父親だ」
「……あ、ああ!」
ブロッケン姉妹の父親は、あまり良い人物ではなかった。以前カリンから聞いた話では、家族の虐待やその他の犯罪に手を染め、軍に入ったばかりだったメイベルによって捕まえられたのだった。だが、拘束されていた期間はそう長くはなかっただろう。現在の彼の行方を、メイベルもカリンも知らなかった。
「お父さんから手紙が来たって言ったら、お姉ちゃん、またお父さんを追うでしょう」
「ああ、今度こそ殺す自信がある」
いつもの物騒な冗談ではなく、メイベルは本気でその言葉を口にしていた。カリンが手紙のことを隠していたのは、そんな姉の執念と性分を誰よりも知っていたからだ。いくら酷い父親だったからといって、姉に手を下させるのは、カリンには我慢できなかったのだろう。それなら、自分一人が罪を被ったほうがいい――という考えは、やはり姉に似ていた。
「イリスの味方になりたいのも本当、メイベルの手を汚さないようにしたかったのも本当だったのか」
ルイゼンが言うと、カリンの目から涙があふれた。結局、どちらの気持ちも台無しにしてしまった。
「……処分を。閣下が妥当だと思う処分をしてください。わたし、馬鹿なことをしました」
「うん、じゃあここで決めちゃおうか。カリンはリーゼッタ班で身柄預かり。今後は上司の監視下に置かれる。もちろんオレも見張ってる。以上」
あまりにもあっさりとレヴィアンスが言ったので、カリンは顔を上げて目を瞠った。
「どうして……」
「だって全部未遂じゃん。売人を逃がしたのは完全にミスだったんだしさ。それにたぶん、もうメイベルが手を下す必要もないよ」
カリンがサーリシェレッドの横流しに失敗し、全てを明らかにしたこの時点で、敵方にいるであろう彼女らの父親はもう用済みになった。いや、もしかしたら手紙を書かせたらもう終わりだったかもしれない。メイベルの言った「今度」は、おそらく永遠に訪れない。
「西は調査結果を待つだけになったな。タイミング的に引っかかるところがあるから、他に内通者がいないかどうか気をつけてもらおう。で、次はシリュウ。お前の悪癖について話をしようか」
すぐに矛先を変えたレヴィアンスに、イリスはカッとなりかけた。だが、視線でガードナーに制される。今はただ、進めるだけ前に進むしかないのだ。メイベルが背筋を伸ばし、カリンが涙を拭いたのなら、イリスが口を挟むことは何もない。

シリュウ・イドマルには「賭け事」の悪癖がある。その情報は彼が中央へ来る前に、レヴィアンスに届いていた。
「至極真面目って話はどうなったのさ。賭け事って遊びじゃないの」
「いいえ、彼は本気なんですよ、義兄さん。相手がまともに取り合ってくれるのなら、命だって賭けかねない。これまで任務中でも相手に賭けを持ちかけたことが何度もあるんです。大抵は、シリュウに勝てたら見逃してやる、負けたらおとなしく連行されて何をされても文句を言うな、という内容なんですけど」
異動人員を決めるとき、東方司令部准将クレリア・リータスは電話口でそう語った。
一口に賭け事といっても様々あることは、レヴィアンスだってわかっていないわけではない。それで生計を立てている者もいるのだし、特に悪質でなければ取り締まることもない。だが、仕事の現場で大真面目に賭けをするというのは危なっかしいにもほどがある。
「問題の案件だってそうです。シリュウが相手といつもの賭けをして、でも途中で逃げられたので約束が果たされなかったんです。いつかはそういうこともあるかもしれないと思って、周りの子にも気をつけるように言っていたんですけれどね。あの子は妙な自信があって、勝つことは考えていても、相手が逃げるかもしれないということまで思い至ってないんです」
エルニーニャ軍は十歳から入隊者を受け入れている。そのためレヴィアンスも様々な子供を見てきたが、シリュウのようなタイプはなかなかいない。それもミナト流の教えなのか、と意地悪く言うと、義妹は「まさか」と少し怒ったようだった。
「だからね、義兄さん。シリュウには気をつけてあげて。あの子はあたしの弟子ですけれど、何をしでかすのか読めないのよ。もしも心が通じてしまうような裏の人間がいたら、つけこまれてしまうかもしれないわ」
そういう前置きのあとに実際にシリュウに会って、納得した。たしかに真面目そう、というよりは、無感情に見える。何を考えているのか底が知れない。しかし扱いようによっては化けるだろうなという期待がほんの少しあった。
その期待は、きっと裏の人間の誰かと同じだったに違いない。
「シリュウからイリスに勝負を申し込んだってことでいいんだよね」
「相違ありません」
「正統派の剣術を身につけてる子と手合わせできるって思って、わたしもノリノリで引き受けちゃったんだよ。だから練兵場を勝手に使ってた件は、全部わたしの責任ってことで……」
「もちろんイリスの責任だよ。あとでニアにも報告するから覚悟しとけ。そんなことより、悪癖……賭けの対象だ。どうしてイリスのサーリシェレッドだったんだ? フィネーロだって持ってるのに」
「そうなんですか、知りませんでした。リッツェ少佐は事務室にはほとんどいらっしゃらないので。その点、インフェリア中尉はわかりやすかったんです。いつも傍らに剣を置いていましたし、剣技を含む強さは東方にも知られていました。勝負をしてみたいと思うのは自然なことだったと思います」
答えは実に滑らかだ。だが、はぐらかしたことに気づかないレヴィアンスではない。そしてイリスも、シリュウの言葉への疑問を素直に表情に出していた。
それを気にしているのかいないのか、シリュウは無表情のまま言葉を継いだ。
「サーリシェレッドってきれいですよね。東方にいた時から思っていました。縁あって色々な宝石を見ることができましたけれど、何よりも美しかった。欲しかったんです、ずっと」
気にしていたのか、とレヴィアンスが思うと同時に、イリスがホッとする。違和感の正体がだんだん見えてきた。シリュウのことはわからないが、妹分のことならわかりやすい。
「イリス、シリュウの言葉に間違いはない?」
「本人がそう言うなら、間違いないんじゃないかな」
「本当に? 一言一句?」
追及すると言葉に詰まる。やはりそうか、とレヴィアンスが溜息を吐いたところで、イリスも降参したらしい。言いにくそうにその言葉を口にした。
「……『魔眼』って言った。わたしに手合わせを申し込んできたとき、シリュウはサーリシェレッドが欲しいなんて言ってない」
そうだろう。でなければ、立ち会いなしに練兵場を使うなど、今のイリスはしないはずだ。仲間の疑いを晴らしたかったのに、もしやと思うような言葉を突きつけられ、誰にも話せなくなったのだろう。
「でも、わたしの『魔眼』をくれって言ったのがサーリシェレッドって意味なら、いくらか安心だと思ったんだ。だから今、ちょっとホッとしてた。ねえ、本当にあれは、わたしの眼のことじゃないんだよね」
イリスの縋るような問いに、シリュウは何も答えなかった。一言肯定してくれればいいのに、それをしない。嘘がつけないのか、あるいは彼もまた混乱しているのか。見た目だけでは判断できない。
「イリスさんの『魔眼』を奪うよう、指示をした人物がいるのですか」
沈黙を破ったのは、ガードナーだった。これにはレヴィアンスも驚いた。彼はただ傍らにいて、話の内容をまとめているものだと思っていたのだが、この様子ではずっと考えていたのだろう。単なる思い付きで発言するような彼ではない。
「あなたに指示ができるような人物は限られています。その意味が解っていたかどうかは別として、『魔眼』という言葉を使ってイリスさんに勝負を申し込むよう、指示をしたのは……同じ東方司令部に在籍していた、ジンミ・チャン中尉ではありませんか」
シリュウはガードナーを見上げ、僅かに目を見開いた。それが返事だ。状況からの推理は、ほぼ当たっていたのだろう。レヴィアンスがなるほどと思ったのと同時に、フィネーロが「それなら」と口を開いた。
「ロスタ少佐が異様に絡んできたことにも頷ける。チャン中尉とロスタ少佐は指定品目関連の捜査で以前から面識があり、密接な関係を持つようになっていた。彼らは共犯であると、僕は考えます」
「共犯? だって片や東方、片や南方から来た人でしょ。どうして面識があるの」
「南方には指定品目に関わる特殊捜査班がある。その班員はエルニーニャ全土をまわって捜査に当たるため、各地方の担当者とは一度ならずとも会ったことがあるはずなんだ。中でもロスタ少佐とチャン中尉は仕事上だけでなく、プライベートでも深い関係にあるのだと思う。さっき情報処理室で性行為に及んでいるのを見た」
フィネーロがさらりと言い放つと、ルイゼンは紅茶を吹き出し、メイベルは眉間のしわを深くし、イリスは手をばたばたさせながら「後輩がいるのにそんなこと」などと言って顔を赤くしたり青くしたりしている。「平気ですよ」と苦笑いしたのはカリンで、シリュウは平然としている。
そんな若者たちの様子を、レヴィアンスは頬を引き攣らせながら見ていた。まさかそこまでとは。
「なんというか……災難だったね、フィネーロ」
「おそらく偶然ではありません。ロスタ少佐はチャン中尉と親密であるということを、わざと僕に見せつけたかったのでしょう」
「フィン、お前なんで平気な顔してんの……」
冷静さを保ったままフィネーロに、ルイゼンが呆れながら尋ねる。ガードナーが濡れたテーブルと服を拭いてくれるのには、きちんと礼を言った。
「平気なわけがあるか。あの男は僕の隣の席に陣取っているんだ。それはそうとして、シリュウ。君はチャン中尉のことをよくわからないと言っていたが、あれは嘘だろう。君は彼女と同じ仕事を任され、彼女についてもよく知っていたはずだ。だから宝石に縁があったと言った、違うか」
フィネーロの追及に、反論する気はないようだった。シリュウはすうっと目を細め、皮肉めいた笑みを浮かべた。
「ロスタ少佐は何のつもりで情報を喋ったんでしょうね。あの人の考えることこそよくわからない。ジンミ姉さんはあの男と付き合うようになってから様子がおかしくなったんです」
親しみを込めた呼び方に、イリスたち全員がハッとする。注目を浴びたシリュウは笑うのをやめ、「そうですよ」と続けた。
「軍に入隊して以来、ジンミ姉さんには良くしてもらっていました。同じ仕事、つまり指定品目関連ということですが、姉さんがおれを片腕として使ってくれたおかげで随分と関わっています。特にサーリシェレッドは違法取引が多いものですから、よく目にしていました」
その捜査の中で、ジンミとミルコレスは出会った。シリュウは彼らが親しくなる一部始終を、近くで見ていた。先ほどフィネーロが言ったようなことをしていたのも、当然のように知っていた。ジンミはそれを、「あの人と仲良くしておけば得だから」と言って、シリュウに聞かせていたのだった。
「姉さんとロスタ少佐は、実際いいコンビだと思います。二人が組んで、解決できなかった事件はなかった。ついこのあいだまでは」
「東方での取引の、検挙失敗の件だな」
「はい。あのとき、姉さんがおれに言ったんです。売人と対峙したら、賭けを持ち掛けろと。そうして時間を稼いでくれれば、あとは自分がなんとかする、と。しかし実際は……」
実行犯は取り逃がした。シリュウの賭けから逃げたのだ。レヴィアンスはそう聞いていたが。
「……実際は、姉さんは見ていただけでした。だからおれは、姉さんが売人が逃走するための手引きをしたのではないかと、ずっと疑っていました」
「見ていたのか、ジンミが」
彼女もまた取り逃がしたのだと聞いていた。だが、その認識は誤っていたらしい。
「姉さんは宝石を不正に取り扱う者を嫌っているはずでした。宝石を扱うのは自分の家業なのですから、当然です。しかし売人を見逃したのは……おれはロスタ少佐の指示ではないかと思うのです。あの人は、サーリシェレッドに異様な執着を持っている。軍人として危険なくらいに」
疑いは、中央に来ることが決まってから一層濃くなった。ミルコレスも中央に行くことを知ったシリュウがジンミに何気なく「今度は一緒に働くんですね」と言うと、彼女は笑みを浮かべて返したのだ。
――中央に行ったら、私とは他人のふりをしてね。私はあの人といるから。
どうして、と問い詰めた。それまでずっと姉のように慕い、弟のように扱われてきたのに。ミルコレスがいると、シリュウが邪魔になるのか。直接そう問うと、ジンミは答えず、代わりに頼みごとをしてきた。
――中央でのあなたのお仕事はね、「魔眼」を手に入れることよ。あの人が欲しがってたの。私に手を貸してくれるというなら、イリス・インフェリアの持つ魔眼を私たちに頂戴。
インフェリアの名も、その評判も知っていた。高い身体能力と、異例ともいえる大総統補佐への抜擢。そして、その眼がもつ魔性の力。実際に本人に会って、噂の意味を理解した。見ただけでぞくりと震える、サーリシェレッドと同じ色の眼は、たしかに「魔眼」だった。
「ということは、閣下」
「うん、確定だね。狙われたのはサーリシェレッドじゃなく、イリスの眼だ。手に入れたがっているのはミルコレス・ロスタ。裏と通じているかどうかはこれからもっと調べなくちゃならないけど、最低限イリスへの接触は防ごう」
現時点ではまだ彼を確保することはできない。決定的なことは何一つとしてしていないからだ。シリュウの証言だけでは足りない。任務の失敗がわざとであったという証拠もない。
あの変態め、というメイベルの悪態に、今回ばかりは全員が同意した。
ミルコレスとジンミは組んでいて、シリュウは彼らの言う通りにしていた。これまでの話が本当ならば、今のうちにシリュウの話を聞けたのは良かった。対象人物をマークし、決定的な証拠を掴めば、司令部内の問題はひとまず片付く。――そう思われた。
「閣下、ディセンヴルスタ大佐にも注意しておいたほうがよろしいかと」
ガードナーが言葉を発すると、全員が顔を上げた。いつもと変わらず冷静に、彼は続ける。
「先ほど、執務室を訪ねてきました。閣下の人事に異論があるようです」
「あ、それ、事務室でも言ってました。でも、わざわざここに来てまで言ったんですか?」
訝しむルイゼンに、レヴィアンスは苦笑する。わかってたよ、とでも言うように。
「ネイジュ・ディセンヴルスタには『大総統はかくあるべき』という理想がある。それと違っていれば、せっかく中央に来たんだ、文句くらい言いたいだろ。でもオレは今の状態がベストだと思ってるから、あいつには頑張って納得してもらうしかないな。納得できなくても、中央に来た以上は中央の人間として適切に振る舞ってもらわないと」
さらりと流すあたり、ネイジュは問題にしないということなのだろうか。しかし、それならわざわざガードナーがこの場で進言するだろうか。イリスの胸に、一点の染みのように疑問が残った。
「さてと、やるべきことはわかった。しばらくはフィネーロがミルコレス・ロスタを、ルイゼンがジンミ・チャンを見ていてほしい。二人とも苦手なタイプなのは重々承知しているけど、確実に尻尾を掴むまではなんとか頑張って。で、イリスはとにかく無茶しないこと。次やったら昇進までの道がまた遠のくよ」
「はーい」
これで解散、とレヴィアンスが手を叩き、イリスたちは立ち上がる。しかし大総統執務室を出る直前に、レヴィアンスはシリュウを呼び止めた。
「ミルコレスとジンミに何か言われたら、速やかに報告してほしい。身の危険を感じたら、こちらで出来る限りの対処はするつもりだ」
「……わかりました」
シリュウは深く頭を下げ、部屋を出る。一気に静かになった執務室で、レヴィアンスはガードナーに向き直った。
「レオ、ディセンヴルスタ大佐は何だって?」
「私が閣下の補佐であることに納得していないようです」
「なんだ、そんなこと」
鼻で笑ったレヴィアンスに、ガードナーは微笑みを返した。


翌日から、通常の仕事がまた始まる。ただしレヴィアンスの命令通り、ルイゼンはジンミに、フィネーロはミルコレスに注意を払っている。特にフィネーロは最も容疑の濃い人物の側にいるとあって、片時も気を抜けない。もちろん、昨日見てしまった不適切な光景のこともある。
イリスはフィネーロを心配していたが、情報処理室まで見に行くことは許されていない。ミルコレスとの接触は避けるように言われているし、なにより一度暴れてしまったら、おとなしくしているよりほかにないのだった。
「何かあったら、フィンがすぐに来てくれるから。落ち着けよ、イリス」
「何かって、ロスタ少佐に動きがあったらってことでしょ。フィンに何かあったらどうするの」
「白昼堂々と手出しはしないだろう」
「施設で堂々と汚らわしい行為に及ぶような変態だ、わからないぞ」
ひそひそと話し合うルイゼン、イリス、メイベルは、これでも一応同じ事務室にいるジンミを気にしている。彼女は今日はずっと内勤のようで、同じ班の者から仕事を教わったり、調査継続中の事件について聞いたりしていた。至って真面目な仕事ぶりだ、とイリスは思う。
しかし、彼女の傍にいる男性軍人はずっとそわそわしている。ジンミが髪を耳にかける仕草や、そうすることできらりと光る宝石のピアスの艶っぽさ、そして意識してそうしているのかわからない流し目に翻弄されているのだった。あれが色目を使うってやつか、とつい感心してしまう。もちろん、イリスにはとてもできない芸当だ。メイベルにはできるかもしれないが、彼女のことだ、すぐに人見知りの本性が出てしまうだろう。それも威嚇するタイプの。
別段変わったところがないので、ネイジュにも目を向けてみる。彼はとうとう事務室長机に「優先」「無駄」と見出しを付けた箱を設けて、渡される書類を一瞥してはそこに放り込んでいた。折を見て、ルイゼンが「無駄」の箱の中身を確かめる。
「失礼します。……大佐、この報告は二か月前から継続して調査している事件のものです。必要なものですよ」
「しかし事件そのものは解決済みなのだろう。もう人を割く必要も、紙を無駄にすることもない。中央の仕事は大仰で古い。もっと先進的なやり方でなければならない」
そうして振り分けられた「優先」の箱には、新規の仕事ばかりが入っている。たしかに新規の仕事は重要だが、事件の経過も大切だとルイゼンは教わってきた。だが、ネイジュにとってはそれも「古い」らしいのだ。
「リーゼッタ中佐のやり方は非効率で前時代的だ。大総統閣下やその昔の仲間に教わったものが、今、この瞬間、本当に役に立つのか考えてみてはどうかな」
心底馬鹿にしたような笑みを浮かべたネイジュを見て、イリスは立ち上がろうとした。だが、カリンに止められる。叱られたばかりなのにまた騒ぎを起こすのは得策ではない。それにレヴィアンスのやり方を否定するネイジュに、大総統補佐であるイリスが食って掛かるというのは、間接的に大総統の品位に関わってしまう。
「イリスさん、ここは我慢です。わたしが言うのもなんですけど」
「いや、ごめん。ちょっと熱くなった。だってあんな、レヴィ兄だけじゃなくてお兄ちゃんたちまでバカにするような態度はわたしだって腹立つよ」
「気持ちはわかります。でも……」
堪えなければならない。文句があるなら、ルイゼンを通すしかない。リーゼッタ班男性陣ばかりが頑張らなくてはならないのがもどかしく、イリスは溜息を吐いた。
と、同時に息の音が聞こえた。ふうっと吹くような微かな音だが、注意しているために気づいてしまった。ジンミを盗み見ると、彼女は仕事を教えてくれていた男性軍人の耳に息を吹きかけたところだった。されたほうは真っ赤になっている。
「いやらしさ満点のご挨拶だな」
苦々しい表情をしたメイベルに、向こうも気づいたようだった。イリスが「やばい」と思ったときには、もうジンミがこちらに来ていて、妖艶な微笑みを浮かべていた。
「何か? 先ほどから視線を感じるのですけれど、私、生憎女性は守備範囲外なの」
「それは安心だ。イリスにまで色目を使われたらたまったもんじゃない」
即座にメイベルが返答する。室長机からこちらを見るネイジュの視線が冷たい。また先日のような騒ぎになる前に、なんとかしなくては。
「ベル、ちょっと。教えてほしいことがあるんだけどな」
「……わかった、色目女は放っておくよ」
「まあ、随分な言い草ですこと。リッツェ少佐はうぶだったのに、ブロッケン大尉は遠慮がありませんのね」
気を逸らせようとしたイリスの作戦は、失敗どころか余計な方向に持っていかれてしまった。メイベルの眉間のしわはいよいよ深くなり、ジンミを睨み付ける。口を開き、あわや暴言が飛び出るかというその寸前。
「チャン中尉、あまりうちの班の人間を刺激しないでいただきたい。もうわかっているだろうが、うちは少々カルシウム不足でね」
ルイゼンがあいだに割って入り、メイベルの悪態を封じた。彼女だけではなく、フィネーロのことについても牽制している。それが面白いのか、ジンミはクスクスと笑いながら、ルイゼンの顎に細い指を伸ばした。
「だったら骨まで食べられるお魚がおすすめですわ。脳の働きも良くなるそうですし」
つうっと輪郭をなぞり、首から胸へと降りてきた白い人差し指に、しかしルイゼンは全く動じない。指が腹部に到達しようかというところで、バサバサっと大きな音がした。
「ご、ごめんなさい、バインダーの山を崩してしまって。ルイゼンさん、すみませんけど拾うの手伝ってください。これちょっと重くて……」
先ほどカリン自身がしっかり安定させて積んだバインダーだった。急に落ちるはずがない。裏に協力しようとしてしまったことを悔やんでか、今日のカリンは大活躍だった。
今行く、と踵を返したルイゼンの背中に、ジンミが、あら残念、と呟いた。そして自分の机に帰っていく。ひとまず風紀の乱れは抑えられたらしい。
イリスは再び溜息を吐き、バインダー拾いを手伝った。カリンに小声で「ありがとう」と言うと、困ったような笑みが見えた。
「わたしにはこれくらいしか、お詫びすることができませんから」
ここにいる限り、カリンは昨日したことをずっと詫び続けるつもりだ。レヴィアンスも彼女を退役以外で解放するつもりはないだろう。罪の意識が、彼女のしてしまったことへの罰だ。あんまりだ、とイリスは思ってしまうが、当事者である自分が何を言っても、カリンの救いにはならない。ただただ同情と憐れみを受け取って、より萎縮してしまうだろう。
言葉を返せずにいると、ルイゼンがバインダーを机の上に置き、真剣な表情で告げた。
「詫びでも名誉の回復でも何でもいい。仕事をきっちりやってくれれば、俺はかまわない」
やんわりとした口調だが、つまりは、感情で仕事をおろそかにするなということだ。カリンは真意をきちんと汲み取ったようで、さっきよりも力強い目で「はい」と頷いた。
「さっきから何をこそこそしているんだい、リーゼッタ班諸君は。無駄話は仕事にとって最もたる害悪だよ」
そこに水を差したネイジュにイリスはムッとするが、それが見えないようにルイゼンが進み出て、「申し訳ありません」と頭を軽く下げる。そして再び「無駄箱」に向かい、本来であればやらなければならない仕事を拾いにかかった。
「あのルイゼンの態度は、閣下やルーファさんやイリスの兄君から教わったものだな。古いも新しいもないから安心しろ、イリス」
わざと声を潜めずにメイベルが言うと、少しだけ胸がすく思いがした。けれどもネイジュがまた嫌な顔をしたので、慌てて唇に人差し指を当てた。
ちょっとした、けれども事務室内ではそれなりの騒動だったはずだ。他の班の人間もこちらに注目していたし、そうでなくてもちらちらと窺っていた。だがその中で、たった一人、何のアクションも起こさなかった者がいる。
――シリュウ……。あんたって、肝が据わってんのか、それとも……。
イリスが気にしているのは、ジンミやネイジュばかりではない。昨日全てを話してしまったのだから、もっと動揺していてもおかしくはないはずなのに、シリュウはこれまでと同じで微動だにしていなかった。単にジンミの行動に慣れているのか、仕事のみに集中できる精神力を鍛えられているのか。その感情は、ここにきてもまだ読めなかった。

昼休みには、リーゼッタ班の全員で第三休憩室に集まった。昼食は食堂から軽食を入手し、ここまで持って来た。加えてここにはレヴィアンスが隠し持っていた良質な茶葉があるので、美味しい紅茶も淹れられる。イリスが人数分のカップを用意しているあいだに、フィネーロはもう話し始めていた。
「何事もなかったように振る舞っていたよ、ロスタ少佐は。真面目に仕事をしている。お喋りが多めなのは……まあ、あの人の性格なんだろう。しかし適切な内容の雑談だった」
「雑談に適切も何もないって、ディセンヴルスタ大佐なら言いそうだけど」
苦笑いをしたルイゼンの前にサンドイッチを差し出して、だが、とメイベルが言う。
「雑談から進展が見えることもある。フィネーロ、今日は変態はどんな話を?」
「レジーナ近郊の村に点在する、金鉱脈の話がメインだ。今回の件に関わりはなさそうだった」
「中央は金の産出が多いんだよな。他国に比べてもよく採れる」
「鉱物なら何でもいいのか、あの変態」
こちらも雑談をしながらサンドイッチを食み、イリスが紅茶を振る舞う。そしてやっと会話に参加した。
「ジンミも特に目立った行動はないよ。ゼンを誘惑しようとして失敗してたくらいかな」
「ほう。さすがだな、我らがリーダーは」
「いや、カリンに助けてもらわなきゃまずかった。あの子、たしかに妙な色気がある。俺はああいうタイプって苦手だけど、好きなやつはコロコロ転がされるんだろうな。東方ではどうだったんだ、シリュウ」
それまで無言だった彼に話が振られ、何故かイリスのほうがドキドキしてしまった。シリュウが何を答えるのか、それは十六歳の少年に答えさせていいものなのか、様々な思いが湧いてくる。
「姉さんはいつもああです。男の人に粉をかけてはあしらうのが趣味なんですよ」
さらりと、姉さん、と口にした。親密であることを知られた以上、わざわざ他人行儀に表現することもないと判断したらしい。けれどもそれ以上は言わなかった。おまけにサンドイッチには手を付けていないし、紅茶のカップにも触れさえしない。
「シリュウ君、何か食べたほうがいいよ。午後から合同訓練があるでしょう、お腹空いちゃうよ」
カリンが勧めるが、頷くだけで手は出さない。こうなったら無理やりにでも口に突っ込んでやろうかとイリスが考え始めたとき、フィネーロが言った。
「シリュウ、君が何を考えてるのかは知らないし、僕はどうでもいいとすら思っている。だがルイゼンやイリスは聞きたがりだから、話したいことがあれば大抵は聞いてくれる。うちにはすでに自分の事情を意地でも話すまいとしている人間がいるから、言わないのももちろん自由だ」
必要であればこちらから暴きにいくが、と付け加えて、自分もサンドイッチに齧りついた。いつもは食べないような、揚げた鶏肉とタルタルソースがたっぷりのものだ。驚くイリスの横で、今度はメイベルが肉厚のハムで作ったハムサンドを手に取る。いつもは食が細い二人の態度による説得で、シリュウはようやくサンドイッチに手を伸ばした。
「おお、食べた……!」
「イリス、動物じゃないんだから。まあでも、食っとくに越したことはないし、育ち盛りなんだから、食事はちゃんとしろよ」
ルイゼンがきれいにまとめれば、この場は和やかさを取り戻す。もくもくと口を動かすシリュウに、イリスも安心した。
やがて皿の上に何もなくなった頃、ルイゼンは改めて切り出した。
「さて、雑談のおかげでロスタ少佐がチャン中尉にとってどれだけ特別かはわかったな」
「え、さっきので何がわかるの」
「粉かけてあしらうのが、チャン中尉の趣味なんだろ。だったらまともに相手をしているロスタ少佐は、趣味の範疇を超えているってことだ。少佐は喋りすぎるからともかくとして、チャン中尉に動きがあったら、二人ともに何かがあると思っていいかもな」
なるほど、とイリスが頷くと、いい加減それくらいわかれよ、と小突かれた。
「しかし再確認に過ぎないぞ。やはり決定的な証拠が欲しいな」
「だよなあ……。ロスタ少佐も話題を変えたなら、今は引き出すのが難しいかもしれない」
「あるいはもう喋りきったから、あの中からヒントを洗い出すしかないのか。フィネーロ、今までのやり取りは憶えているんだな?」
初めはイリスに関わることだったのに、今では班の全員がこの件を自分のものとして捉えている。それだけではなく、考えるのも理解するのも速い。とんでもなく頼もしい仲間たちだ。だからシリュウにも、遠慮なく先輩たちを頼ってほしいのだが、まだ時間がかかるだろうか。無表情の横顔と減っていないカップの中身を、イリスはもどかしい思いで見つめた。
「午後の確認だけしておくか。イリスは閣下から呼び出されてないし、俺は室長机の例の箱を見ておきたいから事務室にいる。メイベルもだな。フィンは引き続き情報処理室で、通常業務とロスタ少佐の見張り。カリンとシリュウは練兵場で合同訓練。それぞれ終わったら、また事務室で合流しよう」
ルイゼンがその場を締めてから、イリスはすぐにカップと皿を片付けにかかる。一つだけ残った紅茶を捨てるのは、気が重かった。

事件の情報が入ってきたのは、午後の仕事が始まってからまもなくのことだった。内線をとったネイジュがしばらく相槌を打っていたかと思うと、ルイゼンを呼んだ。
「リーゼッタ中佐、死体遺棄事件に関わった経験は?」
「状態にもよりますけど、一応あります」
「黒焦げで身元不明だそうだ。中央管轄の路線の側で発見されたという。君に任せる」
突然放られた案件だが、ルイゼンはすぐに受けた。ネイジュからもう少し情報を引き出したところによると、現地駐在の軍人が発見して担当していたが、結局は中央司令部にまわさざるをえなくなったのだという。身元がわからないほど黒焦げなら仕方がない。
ミルコレスとジンミの監視は一時中断して、リーゼッタ班全員でこの死体遺棄事件にあたることになった。イリスはカリンとシリュウにそのような状態の死体を見せても大丈夫なのか心配したが、二人とも落ち着いていた。
「西でも、けっこうご遺体は見ちゃうんです。さすがに黒焦げは初めてですけど」
「同じく。この仕事をしている以上は、人の死は避けて通れないでしょう」
「悪いな、来て早々に変な事件に付き合わせて。でも、シリュウの言う通り仕事だからな。せめて身元がわかるよう、最善を尽くそう」
「最善と言ったって、私たちは行方不明者リストを調べたり、現地での聞き込みをするくらいしかできないが」
合流の予定は早まり、リーゼッタ班は外へ出る。人員が増えたので四人乗りの車では動けず、運転手はルイゼンとフィネーロがそれぞれ務めることになった。ルイゼン、イリス、シリュウで一台、フィネーロ、メイベル、カリンで一台を使う。運転手二人が、それぞれで引き取る人員をさっさと決めてしまった。万が一の際のパワーバランスにも問題はないだろう。ただ、イリスと離れるブロッケン姉妹が不満げなだけだ。
車に乗り込もうとして、「待ってください」と呼び止められた。声はガードナーだったが、走ってきたのはもう一人。立ち止まった途端にぜえぜえと息をする人物に、一同はギョッとした。パーカーのフードを被り、顔の大半を覆うマスクをしたその人が、誰だかわからない。
「あなたは急がなくてもよろしかったのに」
「いいえ、急ぎですから。どっちか、僕も乗せていってくれる?」
ガードナーが慌てて気遣うのに答えた声は、医務室の主だった。マスクをしていても顔が蒼いとわかる。そもそも彼にとって、陽の光と激しい運動は控えるべきもののはずだ。
「ユロウさん、なんで? すごく具合悪そうだけど……」
「遺体の身元特定に協力してくださるそうですが、閣下も無理にとは言っていません。しかし」
「イリスちゃん、カルテ見たよね。その中で気になることがあるんだ」
カルテを見たのは、直近では一度。異動してきた五人のものをユロウに見せてもらった、あのとき以外に思いつかない。しかし、それが今回の仕事と何の関係があるというのだ。――関係なければ、レヴィアンスは絶対に止める。それをしなかったということは。
「ゼン、行ける?」
「任せろ。ユロウさん、こちらの車に。具合悪ければ袋か何か用意しましょうか」
「大丈夫、持参した。でも君の運転は信頼してるよ。兄さんがおとなしく運ばれるんだからね」
ユロウを先に車に乗せ、続いてシリュウとルイゼンが乗り込む。イリスはそれを確認しながら、ガードナーに問う。
「レヴィ兄は何て言ってるんですか」
「可能性があるなら確かめねばならないと仰っています。ですがホワイトナイト先生はあの状態ですし、イリスさんたちが様子を見て差し上げてください」
「わかりました。では、いってきます。レヴィ兄によろしく!」
多くを語らないのは、これが急ぎだからだ。任務としてももちろんだが、イリスたちに関わることかもしれない。一つでも可能性があれば、足がかりがあればと、考えていた矢先なのだ。
車内では、ユロウは説明もままならなかったので、寝かせておいた。シリュウが「本当にこの人は役に立つのか」という表情をしていたので、イリスは助手席から、苦笑しながらフォローを入れる。
「身体は弱いけど名医なんだよ。きっと見つかった遺体の身元に心当たりがあるんだと思う」
とはいえ、その内容は想像もつかない。焼死体では、心当たりがあったとしても、確かめるすべがあるのだろうか。それにカルテがどう関わっているのかもわからない。
「イリスが見たカルテは、異動してきた五人のもので間違いないんだよな」
「うん、それしか見てない。前に別の事件で確認させてもらったことはあったけど、今関係ありそうなのはそれしかないはず。……でも、カルテだけで何がわかるんだろう。それも生きてる人のだよ」
「フィンの車に乗せて、ちょっとずつでも聞き出した方が良かったかもしれないな。あいつならすぐに見当がつきそうだ。メイベルとカリンもいるし」
パワーバランスに問題がない、というのは訂正しなければならないだろう。今この瞬間、大いに偏っている。シリュウにも尋ねてみたが、無表情のまま首を横に振られた。
遺体発見の現場は、首都から南側に伸びた線路の近くだ。中央司令部所属の軍人が交代で勤務している現地駐在所からは少々距離がある。発見されたのは本日未明で、第一発見者は鉄道関係者だという。線路の確認の時間は決まっているから、遺棄できる時間も限られている。駐在所にいた軍人も、昨夜十一時以降とあたりをつけていた。
「目撃者は見つかっていません。首都中心部と違って監視機能もほとんどありませんし、犯人を特定するのは難しいかと」
「なるほど。ディセンヴルスタ大佐、これがすぐに功績にならないと思って俺に任せたんじゃないだろうな……」
わからない尽くしではすぐに結果が出ない。だからといって調べなければ、わからないままで葬られてしまう。そんなことが許されていいはずがない。犯人はともかくとして、死んでしまった人をそうとは知らずに待っている人がいるかもしれないのだから。
歯噛みするルイゼンの後ろで、イリスはユロウの背中をさすっていた。もう大丈夫だよ、と本人は言うが、とてもそうは見えないのだ。フードにマスクといういでたちは駐在員たちに怪しまれてしまい、しかしながら本人は車から降りるのがやっとで言い訳もできず、先んじてルイゼンとイリスで必死の説明をしたところだった。
「あの、そろそろ遺体を見たいな。メイベルちゃんたち、もう行ってるんだよね」
「もう動くんですか? でも顔色……」
「こんなのいつものことだよ」
「こっちは話聞いておくから、イリス、連れて行ってあげてくれ。シリュウは俺の手伝いをしてほしい」
いつまでもここにいるよりは、という声なき言葉を察して、イリスは頷く。ユロウを支えながら駐在所を出て、ここからさらに離れた病院に向かうために車に乗り込んだ。フィネーロたちとは車内無線で連絡を取り合い、先にそちらへ向かってもらっている。
二人きりになった車内で、イリスはユロウの様子を見つつ尋ねた。
「カルテと今回見つかった遺体、何か関係があるんですか」
「……うーん、僕は本当は専門じゃないんだけど。でもずっと気になってはいたんだよ」
シートを倒して横になったユロウの手には、いつのまにかあのカルテがあった。車の中で読むと余計に具合悪くなりますよ、と言おうとしたところで、内容が読み上げられる。五人のうちの一人の名前と、その人物が持つある特徴。それを聞くうち、イリスは自分まで具合が悪くなってきた。
そんなことはありえないだろう。そう言いきれないのは、イリス自身が可能性と実例を知っていたからだ。むしろだからこそ、ユロウは二人きりになった今を狙ってカルテを取り出したのかもしれなかった。
「閣下……レヴィ君から、僕も話は聞いてるからね。だからこそ遺体の特徴について情報をもらったとき、ピンときた。いかにも裏がやりそうなことでしょう」
「考えたくないけど、そうかも」
今でこそレヴィアンスが何とか有効活用できないかと目論んでいるが、そもそもは裏で発展していた技術というのが、この大陸にはいくつか存在する。ことエルニーニャ王国においては、発展させられるだけの土壌とそれを利用できるだけの能力を持つ人材が揃っていた。今回もそれを悪用されたのだとしたら、イリスはなおのこと放っておけない。
「こんなことなら、二手に分かれればよかった。そうしたらすぐに追い詰められたかもしれないのに」
「ちゃんと分かれてるじゃない。司令部にはレヴィ君とレオナルド君がいる。一番心強いでしょう」
口をとがらせるイリスにもっともなことを言って、ユロウは不敵に笑った。まだ少し弱々しくはあったが、確実に彼の兄と同じ血が流れていると思わせる笑みだった。

真っ黒な、かろうじて人間だとわかる丸まったものを、カリンはじっくりと観察する。メイベルが感心して覗き込むと、くるりと振り向いて「きっと男性」と言った。
「性別の判断がつきにくかったのは、この体勢のせいだと思う。見た目にもよく焼けてるし。でも体型からして、男の人なんじゃないかな。一番判別しやすいところは切り取られてるから、事故や自殺じゃなくて殺人かも」
「西では随分物騒な方向に鍛えられたんだな。事務メインのくせに」
「お姉ちゃんに物騒って言われたくない。わたし、頑張って勉強したんだよ。全部無駄にするようなことしちゃったけど……」
「閣下が無駄にしなかったし、実際君の能力は高い。遺体の検分はプロが来てから、と思っていたが、カリンだけでも問題ない日が来るかもしれないな」
持ち込んだ端末に情報を入力しながら、フィネーロも褒める。少しだけ照れたカリンを、メイベルが優しく小突いた。
遺体を安置するために用意されたのは、病院の地下だった。首都中心部には軍が持っている専用の施設があるのだが、ここでは代わりに病院の霊安室の一部を利用している。もっときれいな状態の遺体ならば中心部に輸送することもできたのだろうが、すでにカサカサになって崩れかけている焼死体では難しい。
そして地方の病院には、死体にかまっている暇がない。結果、このように中央から人員が来るまで転がされることとなってしまった。
「酷なことを訊くが、それが君たちの父親である可能性は?」
「ないと思います。体格が違いますし、そこまで裏が手をかけるとも思えません」
「そうだな。カリンへの見せしめにしては手回しが早いし、それなら身元がわかるようにしているだろう。あの男だったところで、どうとも思わないが」
フィネーロの中にあった可能性の一つは潰れた。あとはユロウが気にしているという事項だ。わざわざカルテを持ちだしてきた、それもイリスが見たものを、とすれば異動してきた五人のうちの誰かに関係する人物であると考えられる。まさか本人ということはあるまい、全員生きて中央司令部にいるのだから。
「フィン、ベル、カリンちゃん。お待たせ」
部屋の戸が軋みながら開き、イリスが顔を覗かせる。その後ろには、いまだ病人のような顔をしたユロウがいた。フードもマスクもないのは、ここが陽の入らない地下だからだろう。
「ルイゼンは」
「駐在員からもうちょっと話聞いてくるって。シリュウはゼンのサポート。……で、それが例の?」
「はい、こちらが被害者の方です」
イリスが見やった黒い塊を、カリンが手で示す。生きている人間を紹介するかのように。イリスとユロウは並んで近づき、短い祈りをささげた。
「……カリンが言うには、被害者は男性。殺人の可能性が高いのではないかと」
「カリンちゃんが見たの? すごいねえ……」
「万が一ということもありましたから。でも、おそらく父ではありません」
驚くイリスの横で、ユロウがさっそく動いた。遺体の顔を覗き込みながら、フィネーロに問う。
「フィネーロ君って、ミルコレス・ロスタ少佐と一緒にいる時間が長いんだってね。彼の口の中を見たことがある?」
「さすがにそこまでじっくり見たことはありません。しかしなぜ口の中……」
言いかけて、はっとした。身元特定の材料になりうるもので、全身が焼けても残っているかもしれないものがある。
「そうか、歯だ。焼死体の身元特定に有用とされていますね」
「うん。僕は法歯学は専門じゃないけど、歯の所見ならカルテである程度わかる」
「でも個人識別の話ですよね。詳しく調べれば身内だとわかるかもしれませんが、ユロウさんが持っている判断材料はカルテだけでは」
「だから、個人の特定の話なんだ。この遺体はミルコレス・ロスタ本人のものである可能性が高い」
ユロウはまだ遺体の口の中を覗いている。けれども絶句しているフィネーロのことが見えているように、信じられないよね、と呟いた。
「……では、中央司令部にいるのは偽物だと? しかし顔見知りであるはずのジンミやシリュウは何も言っていない」
「わからないんじゃないかな。体を構成する組織とその形状が全て本人と同一なら、整形だって必要ないし」
メイベルがイリスをつつく。説明しろ、というのだ。カリンも戸惑っている。ユロウではなくイリスに確認するということは、メイベルはいくらか察しがついているのだろう。この件に一番詳しいのはイリスだった。
「つまり、司令部にいるのは、ロスタ少佐のクローンなんじゃないかって。過去にも事例はあるから、ありえない話じゃない。それならジンミやシリュウだって、気付かないかもしれないよね」
裏組織によるクローン生成研究は、表向きの研究よりもはるかに歴史が長い。そもそも表立っては、クローンの存在は「ない」ということになっている。軍がひた隠しにしているあいだに、裏ではさらに研究が進んでいた。
イリスの両親が軍に在籍していた頃には、すでに自立して行動ができる人間のクローンが、裏に利用されている。そしてその祖であり、究極ともいわれる記憶継承クローンが、イリスと親しいラヴェンダだ。
「ラヴェンダみたいな人は、生命維持のための特別な装置が必要なんだけど。でももっと研究が進んでるなら、そんなものはなしに、記憶を持ったまま自由に動けるタイプがつくられているかもしれない。それに記憶を短期間分植え付けただけなら、ラヴェンダほどの処置はいらないみたいなんだ。そういうのなら、お父さんが十代のときにはもうできてたんだって」
ブロッケン姉妹の表情は、顔はあまり似ていないのに全く同じだった。死体遺棄事件や、指定品目の不正取引や、イリスの眼といったものよりももっと根が深くて底が暗い、そんなものに自分たちが関わっていいものなのかという疑問と恐怖。カリンはともかく、メイベルまでがそんなふうだ。
あまりに手が届かないようならば、レヴィアンスは佐官以上のベテランを集めて、改めてこの件を仕切るだろう。ユロウがついてきたのは、そのラインを見極めるためだ。
「……銀歯をしてたんだよね」
ぽつりとユロウが言う。
「銀歯ですか? ロスタ少佐が?」
「うん、カルテ上はそうなっていた。そしてこの遺体は、特徴が酷似しているんだよね。レヴィ君から別の許可を貰って、きちんと調べてもらった方が確実だけど、僕の見立てではミルコレス・ロスタ本人」
治療か趣味かはさておき、歯に全く同じ加工の痕ができるはずはない。クローンでも傷の完全再現までは不可能だ。
「念のためカルテも本物かどうか調べないと。南方から中央に来るまでの彼の動きを調べるのは、君たちの仕事だね。頑張って」
生きているほうと死んでいるほう、どちらが本物のミルコレスでも、彼は裏に関わっていることになる。今ここにあるのが本当の彼ならば、被害者として。
「もし巻き込まれただけだったら、わたしのせいだ」
「イリスのせいなものか。余計な責任を感じるより、でかい証拠を掴めたのだと思え」
「シリュウの証言通りなら、ただ巻き込まれただけということはない。もともと怪しかったんだ」
メイベルとフィネーロに肩を叩かれるが、イリスは俯いたままだった。死人が出てしまったことを、仕方ないとは思えない。けれども防ぎようがなかったのもたしかだ。唇を噛んでいると、部屋の扉が開いた。
「悪い、遅れた。何か手掛かりはあったか」
「ルイゼン、ややこしい話になったぞ」
リーゼッタ班の全員が揃ったところで、フィネーロとユロウが説明をした。イリスはそれを聞きながら、各々の表情を見ていた。驚きつつも納得した様子のルイゼン。機嫌の悪そうなメイベル。少し疲れが見えるフィネーロ。顔色は悪いが落ち着いているユロウ。真剣な目をしたカリン。動じることのないシリュウ。彼らと一緒にいて、情けない顔をしている暇はない。
「遺体の情報公開の件もあるし、閣下に相談だな。すぐに連絡をとろう」
「早く動いたほうがいいよね。ロスタ少佐がクローンなら、あの人は黒幕じゃない。裏にボスがいるなら、きっと尉官のわたしは動けないだろうし……」
引き続き事件にあたれるのは、リーゼッタ班ではルイゼンとフィネーロの佐官組だろう。イリスは自分ができることを捜し、かつ余計なことはしないように慎重に行動しなければならない。何ができるか、考えなければ。


中央司令部では、レヴィアンスが南方司令部と連絡をとっていた。
ユロウが「発見された遺体の特徴とミルコレス・ロスタのカルテの内容が似ている」というので、その行動や南方での様子をより詳細に聞き出そうとしたのだ。南方司令部長はミルコレスを信頼していて、それだけに彼が中央に引き抜かれたことを惜しく思っていた。それだけ優秀な人物だったのだ。
ただ、性格には少々難があった。宝石への異様なこだわり。そして女性との派手な付き合い。南方にいた頃から、これは変わっていないようだ。
「東方に彼女がいたという話は聞いたことがある?」
「さあ……。ロスタはエルニーニャ各地に足を伸ばして、そのたびに現地の女性を口説いていたようですから。関係を持ったのも、一人だけではないでしょう」
ミルコレスの相手はジンミだけではない。彼は知り合いをいくらでも作れた。それが軍や一般の人間だけではないかもしれないということは、容易に想像がつく。
「そういうところはちょっと問題かもしれませんが、仕事には真面目ですよ。中央への異動も、前日には現地入りしたいと言って、随分と早く出発しましたし」
「前日に?」
妙だ、と思うと同時に、横でガードナーが手帳を捲った。そして、頷きながらページを見せてくれる。五人の軍人がエルニーニャに来たのは、いずれも着任当日の朝ということになっていた。ならば、ミルコレスには南方から中央に来るまでに空白の時間がある。南方司令部のあるマードックから首都レジーナまで、列車一本。たしかに数時間はかかるが、列車のダイヤから考えて、ミルコレスの動きは不自然だった。
「……ロスタ少佐が南方司令部にいるあいだ、来客はあった?」
「各地に知り合いがいますから、訪ねて来る人も多かったですね。司令部を通さずに会っている人もいますから、こちらで全てを把握することはできていません」
「わかるだけでいい、データを寄越してくれない?」
ミルコレスがマードックを出発する日を知っている人物の中に、彼と手を組んでいる、あるいは彼を利用した人間がいるかもしれないのだ。南方司令部長が電話の向こうで指示を出しているのを聞いていると、執務室の扉がノックされた。
私が、とガードナーが出る。細く開けた扉から、覚えのある顔が見えた。
「失礼。閣下は仕事中か」
「……珍しいですね、グラン大将」
そこにいたのは、タスク・グラン。将官室長となって三年経ったが、あまり大総統執務室に来たことはない。そしてガードナーと直接話すのも、実に三年ぶりのことだった。
「閣下は別に仕事中でもかまわない。俺が用があるのはお前だ、ガードナー大総統補佐大将」
瞠目したガードナーに、タスクは笑みを見せた。昔と変わらない、自信に満ち溢れた勝気な笑顔。だがそれは見る人から見れば、気持ちの良いものではないようだった。
「外で話せないか? レオナルド」
昔のように呼ぶ声色は、こちらを下に見るそれだった。
「閣下」
「いいよ、こっちはまだかかるから。行って来なよ、レオ」
レヴィアンスが笑みを浮かべる。ここは大丈夫。そして――。言わんとしていることは、もうすっかりわかってしまうようになっていた。
「では、失礼します。すぐに戻りますから」
一礼して部屋を出たガードナーの目の前には、すでに笑顔の消えたタスクがいる。彼が歩き出した方向には、話し合えるような部屋などはない。あるのは階段だ。最上階まで登れば、屋上に辿り着く。案の定、行き先は春の強い風が吹き付ける、中央司令部の広い屋上だった。
「こうして話すのも久しぶりだな、レオナルド」
伸びをしながら、タスクが言う。こちらに背を向けているので、表情は見えない。ただ、声は昔のまま、大きくてよく響いた。
「大総統補佐、よく務めているそうじゃないか。あの閣下の手綱を握るのは、大変じゃないか? なにしろやることがめちゃくちゃだ。自ら現場に出向くことも多い。貴重な血が流れているせいで命まで狙われる。その相手をするのは面倒だろう」
「面倒はない、といえば嘘にはなるかな」
ガードナーも言葉を崩す。かつてはこんなふうに、彼と話していたのだ。その日はとうに懐かしいものになってしまったと思っていた。
「でも、僕は閣下が好きだから、苦ではないよ。あの人は黙って椅子に座っていることができない性分なんだ。たまにすごい集中力を発揮して、誰の声も聞こえないことがあるけれど。一緒にいれば、魅力がわかるよ」
「さすが、一緒にいられるやつは言うことが違う」
タスクが振り向き、こちらを見る。軽く眉を寄せ、目を眇めて。口元だけがまだ笑みを作っていた。
「補佐様ならではの自慢だな。お前がそんなことを言えるようになるなんて、俺は感激だよ」
補佐を務めることに不安のあったガードナーに、誰も何も言わないなら認めてくれているんだろう、とレヴィアンスは言っていた。だが、そうではない。ガードナーもタスクも、それなりに大人になって、本心をそのまま態度に出すことをしなくなっただけだ。タスクには将官室長という立場が与えられている。補佐までとはいかないが、十分に大きな力を持つ地位だ。そこに就けたレヴィアンスに文句は言えない。レヴィアンスの選んだガードナーとも、衝突を避けていたのだ。
「暗殺事件のときは驚いた。レオナルドのことだから、てっきり閣下のお茶汲みばかりやっているかと思ったが、案外まともに戦えるんだな。病院を抜け出したのも、閣下のためか。楯にされたのに、どうしてそこまでできる? それほどまでにあの男が大事か」
「楯にされたんじゃないよ。僕が自分でそうなると決めた。閣下はそんなことはしてほしくないと、ずっと言ってくれている」
「そんなだから利用されるんだよ、お前は」
ガードナーを憐れむように、タスクが嗤う。もう避けるのはやめにしたらしい。その場所を狙うのならば、そこにいる者を叩きのめし、引き摺り下ろさなければならない。黙っているだけでは、何も動かせない。かつてそうだったように、自ら掴みに行かなければ。
「お前が良い人なのは、友人だった俺がよく知っている。それがどんなに利用されてきたか、お前自身がそれにどれほど甘んじてきたかも。閣下だって同じだ。レオナルドを利用するために補佐にした。それ以外に、お前が補佐になれる要素なんて見当たらない。何年経っても、俺には理解できない」
肩を竦める元友人を、ガードナーは無言で見つめた。――認めてくれている。そのレヴィアンスの見立ては、そして自分がそうかもしれないと期待したものは、ただの妄想だった。結局、タスクは今でもガードナーを見下し、大総統補佐にはふさわしくないとみなしていたのだ。
「そのうち限界を感じるようになるよ、お前も。あの閣下と、お前みたいな補佐と、ついでに家柄だけのお嬢ちゃんじゃ、この国の頂点として立っていられなくなる。王宮と文派にうまく丸め込まれておしまいだ」
「……じゃあ、タスクは誰が相応しいというんだ」
「力のある人間でなければだめだ。名前に頼ることなんかしないで、実力で勝負できる人間が頂点にいて、この国をまとめるべきだ。俺の考えは、昔から変わっていない。それに賛同してくれるやつもいる」
同期として軍に入隊したときから、タスクはガードナーに常々言っていた。いつか自分が大総統になりたいと。当時その地位にいたハル・スティーナは、タスクには儚く見えたらしい。実直な姿勢は、つまらなかったという。その前、カスケード・インフェリアの治世から軍は崩壊しつつあり、ハル・スティーナが三派政を始めたことで、軍のあるべき姿は失われてしまったと嘆いていた。
俺ならこんなことにはさせなかったのに。寮の、ガードナーと同じだった部屋で、タスクはそうぼやいていた。昔の話だと思っていた。
「賛同者とは、ネイジュ・ディセンヴルスタ大佐かな。まさかタスク、彼に唆されたわけじゃないよね」
「唆された? あんなガキに、この俺が? 違うな、俺があいつを使うんだ。あの単純さは便利だ」
「単純だから危険なんだよ。……タスク、何か物騒なことを考えているなら、やめたほうがいい。それは君の破滅に繋がる」
「忠告のつもりか、レオナルド。随分な身分になったな!」
予備動作はほとんどなく、タスクが腰の剣を抜いた。溜めずにそのまま薙いだ刃を、ガードナーはとっさに飛び退いて避ける。それと同時に、自身も剣を抜く。そして正道の構えでぴたりと止まった。
「タスク、無駄な戦いはやめよう。僕らは今、こんなことをしている場合ではないんだ」
「無駄かどうかは勝者が決める。俺たちは、昔からそうだったじゃないか、レオナルド!」
ガードナーの手から剣を弾き飛ばすような勢いで、タスクが斬りかかる。激しい音が響くが、ガードナーは柄をしっかりと握りしめたままだ。動きはあくまでしなやかに、タスクの技を受け流し、次の一撃をも止める。苦々しい表情の元親友に、ガードナーは冷静に言う。
「僕が強くなったのは君のおかげだ。君が僕を相手に訓練をしてくれていたから、僕もここまで自分の技を磨くことができた。……けれども、その力の使い方は、君を手本にすることはできない」
「偉そうに……っ! たかが雑用の分際で!」
「その雑用を認めてくれたんだよ、閣下は。だから僕は、閣下に恥じるような負け方だけはできない」
カッとなったタスクがめちゃくちゃに斬りつけてくるのを、ガードナーは全て止めた。だが、威力だけなら圧倒的にタスクのほうが強い。ガードナーは少しずつ後退っていた。そして。
「なあ、レオナルド。俺たちがしているのは喧嘩だ。ただの喧嘩なんだ。そして俺たちは、遺恨はあれど親友だった」
突然何を言いだすのだ、と返すことはできなかった。次の一振りを受けた瞬間、ガードナーの体は宙に浮いた。
「これは事故だ。俺はこのことを後悔する。周りが憐れんでくれるくらいに悔いてやる。だから安心して消えるといい」
昏い笑顔がどんどん小さくなっていく。自分が下へと落ちているのだ。
――残念だよ、タスク。
後戻りのできなくなってしまった元親友に、ガードナーは哀しみと憐憫を向けた。



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2017年05月07日

敵か、味方か

ニア・インフェリアは基本的には画家であるが、その活動は多岐にわたる。そしてそのなかには、一般には知られていないものもあった。宝石を使ってアクセサリーを作るというのも、その一つだ。その技はかつて旅行で訪れた南の大国、サーリシェリアで身につけたのだという。
「一週間くらい休みとって、スキューバダイビングしたり、宝石の加工の勉強したりしてきたんだ。向こうではサーリシェレッドの入手も加工もこっちよりはずっと手軽にできるから。ただ、エルニーニャに持ち込むときに、すごく高いお金をとられるんだけど。それは仕方ないよね、法律で決まっているから」
夕食の準備をしながら簡単に語る兄を、イリスは感心しながら見ていた。手元はちゃんと兄の危なっかしい手つきを支えている。食器をテーブルに出して戻ってきたニールがわくわくきらきらした目でニアを見上げた。
「やっぱりニアさんってなんでもできるんですね。宝石の加工って、カッティングとかも?」
「さすがに専門職の人しかできない部分はやってもらったよ。それでも宝石の扱いは難しくて、本職の人にも売り物にはできないなって言われたけど。そんなでもよければって、イリスのお土産にしたんだ」
「改めて考えると、超高価なお土産だったんだね。お母さんに贈った珊瑚石のブレスレットも、結構したと思ったけど。あれ、珊瑚石って指定品目だっけ」
「サーリシェリア以外でも、海外輸入品があるから、指定には入っていなかったはず。海外もいつか行ってみたいな。長い船旅、ちょっと憧れない?」
憧れるかもしれないけれど、その時はちゃんと家族も、せめてルーファとニールは連れて行ってあげてほしいとイリスは思う。以前に急にサーリシェリア旅行にでかけたとき、ニアはまだ軍人で、イリスは入隊していなかった。しかし当時の状況を知っている人々から聞いたところによると、出発が急だったために、突然一人で残されたルーファが落ち込んでしまって、常にどんよりとした空気に包まれていたとか。
苦笑いするイリスの服の裾を、ニールがくいっと引っ張った。
「イリスさん、サーリシェレッドのアクセサリー持ってるんですね」
「うん。お兄ちゃんが作ったやつ、売り物にならないなんて信じられないくらいきれいなんだよ。お気に入りのブローチなんだ。今度ニールにも見せてあげるよ」
「わあ、見たいです。それって、エイマルちゃんも見たことあるんですか?」
「何度か見せたと思うけど……あの子、宝石の硬度がどうのとかそういう話になっちゃうんだよね。図鑑と名のつくものは何でも読み込むからなあ」
お喋りをしながら夕食の準備を終えた頃、ルーファがレヴィアンスを伴って帰ってきた。途中で会ったそうだ。レヴィアンスの手には酒とジュースの瓶がある。
恒例となった、雑談報告会が幕を開けた。
「ああ、スキューバダイビング事件な……。あれはショックだった。当時もう入隊してたルイゼンにものすごく心配された記憶がある」
ルーファはグラスを傾けながら遠い眼をした。ごめんって、と謝るニアの表情は笑っている。
唐突に南国の海の絵が描きたくなって、実物を見にいくという名目で一週間ほど単独で国外に出ていた思い出は、ニアにとっては楽しいものだが、ルーファには寂しいものだ。あまりの落ち込みように、入隊したてだった(けれどもルーファとはすでに親しかった)ルイゼンや、部下たちが戸惑っていたのを、レヴィアンスも記憶している。「あれは笑ったな」と言うレヴィアンスをルーファがじろりと睨んだ。
「当時の直属の部下は今やほとんどが将官や上級佐官だもんね。今でもルーファを尊敬してるやつらは多いし、スキューバダイビング事件のことも憶えてるよ。直属じゃないはずのレオも憶えてた」
「忘れてほしいな。でも俺も、遠慮がちに声をかけてくるルイゼンとか、大将が落ち込んでるって大騒ぎするタスクのことは忘れられないんだけど」
「タスク?」
ルーファのグラスに薬草水を注ぎながら、イリスは首を傾げた。ルーファは部下が多かったが、個人の名前を出すことは退役して以降はめったになかった。それでも出てくるこの名前は、たしか。
「将官室長のタスク・グラン大将。オレがオリビアさんに指名されたせいで大総統になれなかった悲運の人物で、俺が選ばなかったために補佐にもなれなかった。でも実力は認めてたし、できると思ったから将官室長を任せた。本人がそれに納得してるかどうかはわからないけど、文句がないからまあいいんだろ」
ああ、それで聞き覚えがあったのか。在籍している大将級とは、ガードナー以外は馴染みがないために、あまり名前を覚えていられないイリスだった。それでもいくらか印象が残っているのは、彼が任務でうちたてた数々の功績のためだ。
「俺が最後に関わった人身売買組織の検挙のときも、タスクは連れて行ったよ。正義に燃える熱血漢、派手な行動が目を引く。だから誘導には最適だった。あいつが動いてくれているあいだに、俺たちは監禁されていた人々を保護することができたしな」
「でもサンプルになりそうだったものをいくらか台無しにしてくれたのもタスク君だよね。何度思い返しても、僕はあの件に関してはルーの作戦ミスだと思ってる」
ルーファはタスクを評価しているようだが、ニアはあまり彼を好ましく思っていないのだろうか。「僕たちの領分にまで口出ししてくるし」と呟いて、自分のグラスに追加の酒をどぼどぼと注いでいる。
「そうは言うけど、お前の部下なんか癖が強すぎて連れていくことすらできなかっただろ」
「癖が強い人を僕に軒並み任せたのはルーでしょう」
「まあまあ、過ぎた話はもう良いだろ。ニアもルーファも、今は一般人なんだしさ」
「優秀な人材を真っ先に引き抜いていったやつがよく言うよ。レオナルドのことだって、自分が大総統になるタイミング見計らって近づくなんて」
最初に目をつけたのは俺だったのに、と恨めし気に呟くルーファに、イリスはクラッカーの皿を差し出しながら「そうなんだ」と相槌を打った。
「ルー兄ちゃん、先にガードナーさんを見つけたのに自分の班員にしなかったの?」
「特定の班に所属させるよりは、フリーの人員として事務関係を徹底的にやっていたほうが、あいつの性に合ってるんじゃないかと思ってな。レヴィもずっとそう思ってたと、俺は認識してたんだけど」
「だってさあ、ルーファならわかるだろ。オレの性格なら、絶対レオみたいなタイプが補佐にいないと困る。もし周りの期待通りにタスクを登用してたら今みたいな仕事はできなかったよ」
「それはそうだね。タスク君、暑苦しいもの」
さっきからニアのタスクに対する評価が厳しい。クラッカーでチーズを挟み、ニールに渡している表情は、穏やかな笑顔なのに。
しかし、イリスのかろうじて知るタスク・グラン大将は、確かに活躍は多かったものの、人と衝突していたようなイメージはない。今だってプライドの高い人間をまとめなければならない将官室長という立場をしっかりと務めているように思う。悪い噂がないということは、そういうことではないのか。兄と印象が一致しないことで、イリスは大いに首を傾げた。
「ねえ、なんでお兄ちゃん、そんなにグラン大将のこと気に入らないの?」
「気に入らないわけじゃないよ。ただ、僕とは合わないんだ。ああいう自分より下だとみなした人間に対して常に上から目線の子、苦手なんだよね」
上から目線なのは、どの将官も大抵そうではないだろうか。ガードナーのような腰の低いタイプのほうが珍しいくらいだ。階級が上がれば上がるほど、軍人たちは自らを偉く見せようとすることに躍起になってしまうきらいがある。指示をする立場になるから、というのもあるのだろう。威厳がない上司のいうことは、部下もなかなかきかない。
けれどもイリスがそう言えば、「そもそもそれがおかしいんだよ」とニアが返し、ルーファとレヴィアンスも頷く。クラッカーをよく噛んで飲み込んだニールが、金色の目をきらりと光らせた。
「上司に威厳があるかとかじゃなく、やっていることが本当に適切なのかを見極めて、命令の意図や是非をみんなが自分で考えて行動しなきゃいけないってことですよね。エイマルちゃんが言ってました」
「おおう……エイマルちゃんってばそんなことまで言ってたの。さすがあの両親の娘だわ……」
「指揮系統はもちろん必要だし、団結しなきゃいけない場面だって当然あるけどね。でも立場が上の人間だからってその暴走を止めずに放置したら、それこそとんでもないことになる。それに威厳なんてしっかり仕事をしてようやくついてくるものなのに、肩書やちょっとした印象だけでそれを当てにして尻尾を振ったりそっぽを向いたりするのもおかしいだろ」
豆のさやを振り回しながら語るレヴィアンスに、イリスはふむふむと頷く。明らかな「威厳」がなくとも、人がついてくることはある。逆に威光ばかり気にしてろくな仕事をしない者もいる。
「上に立つってのは大変だね、レヴィ兄」
「オレは肩書と仕事用の家名があるから、文句を言いながらも従うやつは多いよ。だからレオよりはずっと楽。あいつには……本当、最初から苦労かけっぱなしだ」
溜息を吐きながら空のグラスを持ち上げたレヴィアンスに、イリスは瓶の口を差し出した。けれども次の瞬間、危うく取り落とすところだった。
「レオとタスクの仲をぶち壊しちゃったのは、いくら反省してもしきれないよ」
「は?! ……ガードナーさんとグラン大将が、何?」
知らなかったか、とレヴィアンスは目を半分伏せたまま言った。
「レオとタスクは同期だよ。オレたちの二年下。で、二人は三年前までは友達で、寮でも同室だった。その関係が変わるきっかけになったのが、オレの大総統就任だったんだ」
ルーファが黙って薬草水を飲み、ニアは「レヴィのせいじゃないよ」と追加の酒を取りに立った。

ルイゼンと、独りは退屈だからと男子寮に来ていたメイベルは、フィネーロの話に唖然とした。彼が語るあまり事務室に顔を見せない新入り――ミルコレス・ロスタの人物像は、問題があると判断するに十分だった。
「いやあ……世の中にはいろんな性癖の人がいるけど、宝石フェチか……」
「気持ち悪いな。しかもサーリシェレッドがお好みとは。絶対にイリスに近づけたくない」
メイベルの言葉には二重の意味がある。サーリシェレッドの裏での別名は「魔眼」であると聞いてから、彼女はずっと嫌そうに表情を歪めていた。
サーリシェレッドがあしらわれた武器を持ち、瞳にもその色を持つ少女。彼女の持つ能力も「別名」と同じ表現をされる。イリスがミルコレスに目をつけられるまでに、そう時間はかからないだろう。
「全く、新入りはどいつもこいつも信用ならない」
「カリンとシリュウ以外な。大佐は苦手だし、チャン中尉はよくわかんないし、今回の人事は本当にどうなってるんだか」
「君たちがそう言うと思って、僕もちょっと調べてみた」
憤慨するメイベルと疲れた顔のルイゼンに、フィネーロは端末の画面を見せた。兄から譲り受けたものを、そのままずっと使っているのだ。スパイ道具を持ち歩いて大丈夫なのかとルイゼンが問うたことがあるが、一応は大総統閣下の許可を得ているらしい。寛容なのではなく、利用価値があると判断されたのだろう。
「個人データの持ち出しは、俺は感心しないけど」
「しかし役に立つかもしれん。室長大佐様の弱点は載っていないのか」
「弱点になるかどうかは、データを見て判断してほしい。ただ僕はやはり今回の異動に目的があるように思えてならない」
ネイジュ、ミルコレス、ジンミ。三人分の簡単なデータが端末に表示されている。この国の軍人であれば容易にアクセスが可能なものだが、それは軍の情報端末での話であって、個人的に持ち出すことは非常に危険だ。それでもフィネーロがそれをしたのは、三人に共通点を見つけたからだった。
「ロスタ少佐はさっき話した通り、宝石マニアで指定品目輸出入の取り締まりに携わっていた。チャン中尉は宝石商家の出身で、宝石関連の事件では真贋を見分けられる特技を発揮している。そしてディセンヴルスタ大佐は、指定品目輸出入の取り締まりを指揮していた。……そして最近になって、地方司令部の管轄で指定品目の違法輸出入や宝石を違法に売買する事件が立て続けに起こっている。地方に必要なはずのエキスパートたちが、何故今中央に集められているのか。僕はまた閣下が何か掴んでいるのだと思う」
これくらいなら、仕事の片手間に簡単に調べられる。フィネーロが提示した資料と疑問に、ルイゼンは感心し、メイベルは呆れた。
「イリスがやたらと外に出されているのも、指定品目、たぶん宝石についての情報を集めさせられているせいじゃないか。今日の午後に向かったのは、ウルフ・ヤンソネンのところと国立博物館だろう。あの男は貴族の持ち物には詳しそうだし、博物館には指定品目についての資料がある」
「閣下も余計なことをしてくれる」
「宝石かー……。たしかに危険薬物と並ぶ、裏の取引材料なんだよな。てことは、閣下は大佐たちを疑ってるのかな。本人たちを動かさずにイリスに調べさせてるってことは、中央司令部にチェックが入ってるわけじゃなさそうだし」
地方で起こっていた事件については、ルイゼンも一時期の室長仕事のおかげで、多少の心得があった。危険薬物、人身売買、違法輸出入と、事件が盛り沢山で頭が痛くなった日々が思い出される。けれどももしかすると、その一時期ですらもレヴィアンスの計算のうちだったのかもしれない。
ふと、メイベルが眉を顰めた。そして大きな舌打ちをして、部屋を出て行こうとした。
「どうした、突然に」
「カリンを問い質す。あいつもサーリシェレッドの売人と接触している。ルイゼンもシリュウから話を聞いておいた方が良い」
「こんな時間にか? それに、なんでシリュウまで?」
「三人が宝石に関係している、という認識は間違ってはいないが正確じゃない。正しくは、異動してきた五人中四人が関わっている、だ。イリスだって五人分のカルテを確認したがっていた。だったら残る一人も疑ってかかるべきだろう」
「お前、いくらなんでも身内まで……」
ルイゼンが止めようとするのを振り払って、メイベルは行ってしまった。これからカリンが責め立てられるのは間違いない。身内だろうが他人だろうが、彼女は容赦しないのだ。
「……やっぱり、見てきたほうがいいよな。それともこの場合はフィンが行ったほうがいいのか?」
「僕が行こう。もっとも、明日にしろとしか言えないが。ルイゼンはここに用意したサーリシェレッドについての資料でも読んでおくといい。何はともあれ、イリスに関係していそうなことだ」
イリスに関わっていそうなことを、彼女自身に調べさせる。レヴィアンスが何を考えているのか、ルイゼンは目を閉じて想像する。あの人を理解できるとはいわないが、思考の一端くらいはわかるつもりだ。
一つ思いついたのが、汚名返上だった。イリスがいつまでも「大失態を犯した軍人」とみなされているのは、レヴィアンスにとっても都合が悪いだろう。強引な手段を使ってでも、彼女に挽回の機会を与えたいと思ったのかもしれない。
けれども、本当にそれだけか。ここで叩いておかなければならない何かがあるのではないか。
「サーリシェリア産鉱石サーリシェレッド、裏での通称は『魔眼』か……」
ルイゼンだって忘れてはいない。イリスは狙われているのだ。今この瞬間も、裏の者たちは彼女の眼の力を欲している。


翌日、リーゼッタ班は午後から外での任務にあたるようにとネイジュから言い渡された。ルイゼン、イリス、シリュウの三人で、近郊の村に向かう。だがこの指示がネイジュの本意ではないことを、ルイゼンはよく知っていた。
「前に危険薬物の取引があったから、しばらくは定期的に様子を見に行かなくちゃならないって、トーリス准将が言ってたよね。それをディセンヴルスタ大佐が引き継いだんだ」
「一応。でもすっごく嫌そうだった。あの人は極力無駄だと判断したことを省きたいんだろうし」
「レヴィ兄が許さないでしょ。危険薬物関連は情報を専門家に渡す約束になってるもん」
この仕事はシリュウと話をするきっかけになるかもしれない。イリスは期待して彼を見たが、やはり今日も無表情で黙々と机に向かっていた。
留守番組になるメイベルの機嫌はすこぶる悪く、カリンも困ったような表情をしている。あとで事務室の様子を見に戻ってくると約束してくれたフィネーロも、仕事量によってはあまり頼れない。
昨日の今日だ、何事もないことを祈るしかない。
「それはそうとして、閣下のところには行かないのか」
「昨日のことは昨日のうちに報告したからね。今日はこっちに専念するよ」
「そうか。調査中の案件は、俺たちにもまわしてくれそうなものなのか?」
「たぶんそうじゃないかと思うけど……」
それがいつ、どんなかたちでルイゼンたちの耳に入るのか、イリスにはまだわからない。けれども確信めいた表情から、イリスが何も言わずとも探っていそうな気はしていた。こちらの準備が整う頃には、すでに仕事にかかる手筈が整っているという未来が、ありありと想像できる。なにしろイリスは迂闊で、仲間たちは優秀なのだ。
「じゃあ、午前の仕事だ。俺とイリスは午後に行く現場の下調べ。シリュウにもこれまでの調査結果を覚えてもらわなくちゃな。メイベルは今日も訓練指導があるから、ちゃんと教えてくるように。カリンは今から俺が教える資料を持ってきてくれ。軍設図書館との往復になると思うけど」
「大丈夫です。午後のお仕事に関わってるんですか?」
「ああ。別件もあるけど、優先度が高い順に言う」
ルイゼンが羅列した資料は、一人で扱うには少々多すぎるように思えた。けれどもカリンはそれをきちんと書き止め、それでは行ってまいります、と事務室を出ていく。イリスは心配だったが、ルイゼンは逆にホッとしたようだった。
「なんでそんなホッとしてるの」
「ひとまず姉妹喧嘩を回避できたから。な、メイベル」
「そうだな、あいつを問い質すのは午後に延期だ」
問い質すって何を、と尋ねる前に、ルイゼンが詰め寄ってきた。仕事の件だけど、と言いながら、イリスの机にメモを置く。少々乱暴な字に息を呑んだ。
――異動してきた人間全員と宝石には何か関係があるのか。
思ったよりも、事態は知られている。迷った末に、イリスは小さく頷いた。やっぱり、と呟きが返ってくる。答えを予想していたように、ルイゼンは二枚目のメモを置いた。
――サーリシェレッドが裏で「魔眼」と呼ばれているそうだが、お前の眼と関係があるのか。
メモを置くあいだにも、あくまで午後の仕事の話を続けるルイゼンに、不覚にも慄いた。彼の向こうには、ネイジュとジンミが会話をしている光景がある。そしてイリスの背後には机で作業を続けるシリュウがいる。誰もルイゼンの動きに不審感は持っていないようだ。
レヴィアンスがルイゼンを高く評価している理由が、また少しわかった。このやり方は兄たちのものなのだ。ルーファとニアが現役時代にしていた、そしてレヴィアンスが現在も用いている方法を、彼は上手く自分のものにしている。
イリスは頃合いを見て、「そうだね」と相槌を打った。その言葉を聞くと同時に、ルイゼンは二枚のメモを回収する。手品師のごとき鮮やかな手つきに、溜息が出そうになるのを我慢した。
「……じゃあ、シリュウも交えて打ち合わせをしよう」
自分の名前が出たことで、シリュウがこちらに意識を向ける。ルイゼンが手招きをしてこちらに呼び寄せ、本当の午後の打ち合わせを始めた。シリュウにとって、初めての中央での任務だ。身になるものにしてやりたい。
「中央は、危険薬物取引の取り締まりには特に力を入れていると聞きます」
一通りの話を聞いて、シリュウが言った。そのとおり、とルイゼンが頷く。
「地方司令部で担当していた危険薬物関連事件も、最後には中央で処理して、情報を他国と共有する。最も多い犯罪の一つだし、こうすることで未然に防いだり、取引のルートを潰したりしていきたいっていうのが閣下の考えなんだ」
「なるほど。たしかに危険薬物関連事件は大陸全体での問題ですね。他を差し置いても優先されるのはわかります」
いくら取り締まっても尽きない事件は、常に最重要事項に置かれる。他の事件にあまり人や時間を割いていないように見えるのはたしかだった。イリスがちょっと苦い顔をすると、シリュウは気づいて頭を下げる。
「すみません、閣下のやり方を非難しているわけではありません。インフェリア中尉は補佐ですから、気にしますよね」
「ううん、わたしもそこまでは思ってないよ。……シリュウは、他にもっとちゃんと調べてほしいこととかがあるの?」
優先されるべきことに埋もれてしまって、見逃されていること。これがのちに大きな問題になってしまうことを、イリスも知っている。たとえば、本来滅多に起きないはずの指定品目の違法輸出入だとか。シリュウも何らかの形で、これには関わりがあるはずだった。
「いいえ、そういうわけではありません。今は目の前の仕事に集中します」
シリュウがどうやってサーリシェレッドに関わったのか、彼の口から聞きたい。だが、まだ聞けるタイミングではなさそうだった。ルイゼンは午後の仕事についての説明を改めてし始め、イリスはシリュウの表情を窺った。変化は、やはり見られなかった。

ミルコレスは結局、フィネーロの隣の席に腰を落ち着けてしまった。仕事もそこで進めている。たしかに手際は良く、自分に任された分は順調に片付けていた。事務仕事には自信があったフィネーロよりもスピードが速い。ちらりとディスプレイや作成した書類などを見たが、雑であったりいいかげんであったりすることもなかった。
「リッツェ君、中央への異動は栄転だと思うかい?」
しかも喋る。手を動かしながら、何気なく。フィネーロも自分の仕事をしながら、それに答えた。
「閣下に召集されたなら、栄転なのでは?」
「閣下の召集というか、地方司令部長の推薦というか。まあ、一見して仕事ぶりを認められているような感じがするけれど、実のところ俺は栄転だとは思ってないんだよね。だって、俺にとって仕事の最前線は南方だから」
彼の所属していた指定品目輸出入の取り締まりを担当する特別任務の班は、南方でできたものだ。南方司令部が最もノウハウを持っているし、仕事量も多い。中央に来れば他の仕事にまわされ、指定品目関連よりも危険薬物関連のほうが重要な課題になる。今までミルコレスが専門としてきた仕事には、あまり関われなくなるかもしれない。
「では、ロスタ少佐は今回の異動をどう思ってるんですか」
「左遷だね」
ずばりと正反対のことを言うので、フィネーロは一瞬手を止めかけた。だが、気にしないふりをして相槌を打ち、自分の仕事を続けた。耳だけを隣に傾ける。
「ここに来る前の仕事で、サーリシェレッドの違法取引を押さえるのに失敗してるんだよ。南方司令部がマードックにあるのは君も知っての通りだけど、まさにそこで起こった事件を、俺たちは解決できなかった。違法に輸入されたサーリシェレッドも未回収だし、関係者の確保にも至っていない。大失態を犯したのに、どうして中央に来たのが栄転だと思えるのかな。それとも、他の人たちは栄転なんだろうか。ディセンヴルスタ大佐はもしかしたら栄転だと思ってるかもしれないね」
そういえば、集めた情報ではそうなっていた。直近で発生した指定品目の違法輸出入や違法売買は、未解決が続いている。専門の班であるはずのミルコレスたちですら、任務に失敗しているのだ。
「ディセンヴルスタ大佐について何か知っているんですか」
「んー? 大佐はね、北方司令部で指定品目の違法取引に関わっていたんだよ。でも、ついこのあいだ、犯人を取り逃がして、取引対象の回収もできなかった。指揮を執っていた者として責任を負うってかたちで、北方の違法取引の仕事からは手を引いたはずだけど、まさかそれで中央に来られるなんてねえ。あの人、中央に配属されることを強く望んでいたから、今回の人事は願ったり叶ったりだったんじゃないのかな」
歌うように楽し気に言うミルコレスだが、その内容は重大だ。彼がこのことを知っているのは、南方で特別任務に就いていたからこそだろう。各指令部をまわっての任務もあったはずの彼なら、事件関係者を知っていてもおかしくはない。だが、その情報をフィネーロにもたらす意味は何だろう。
「もしかして、チャン中尉のことも知っているのでは?」
考えながら、さらに情報を引き出そうと試みる。ミルコレスはしばし鼻歌を歌っていたが、ごまかすことはしなかった。
「知ってるよ。ジンちゃんは俺の大切な仕事仲間だもの。きれいな宝石を見せてくれるいい子だよ。仲良くしておいて損はない」
「彼女も仕事でミスを?」
「大佐と同じだよ。犯人を逃がして、取引対象の完全回収ができなかった。同じ任務にイドマル准尉も関わっていたから、一緒に来たんじゃないの」
シリュウとジンミはともに仕事をしていたのか。同じ東方司令部から来たのだから、それは十分にあり得ることではあった。だが、やはり「中央に左遷」というのはおかしい。シリュウなどは、異動に伴って昇進もしている。
やはりこの人事には裏がある。確信したフィネーロがすぐに考えたのは、このことをいつルイゼンに伝えるか、そしてどのタイミングでイリスを問い詰めるかということだった。
すぐ隣の人物がここまで喋る理由は、後回しにして。

訓練指導を終えて戻ってきたメイベルと、何度目かの資料室との往復から戻ってきたカリンが鉢合わせたのは、事務室までまだいくらか距離のある廊下のど真ん中でのことだった。バインダーを抱えながら、カリンは姉に笑いかける。
「お姉ちゃん、お疲れ様」
「……お前」
何事もなかったような妹の表情に、メイベルの頬が引き攣った。昨日ネイジュに叩かれたのが、やっと腫れがひいたところだった。
「ちょうど良かった、カリン。お前に聞きたいことがあったんだ」
「どうしたの?」
「昨日の朝、イリスに話していたことだ。宝石の違法売買をしていた奴を取り逃がしたという話、あれは全部が本当の話か?」
廊下には他にも多くの軍人がいる。メイベルを見て逃げる者、カリンに珍しそうな視線を向ける者と様々だったが、ここにいることが目立っているのには変わりない。
「お姉ちゃん、こんなところでその話は……」
「いいから答えろ。一言で良い」
周りを気にしながらも、カリンはメイベルの眼力に負け、頷いた。
「本当だよ。わたしのミスで売人を捕まえられなかった」
「あの話が全てなんだな。話していないことはないか」
「……お姉ちゃん、何が言いたいの?」
カリンは怪訝な表情で、バインダーを抱え直した。手に少し力が込められたのを、メイベルは見逃さない。見逃すものか、生まれたときから見てきた妹のことだ。
「お前はここに来たとき、強くなったと言った。私は、それは本当のことだと思った。だからわざわざ失敗談を、それも重大なミスをしたことを自分から白状するなんて、おかしいと思っている」
姉妹の様子がおかしいことに、周囲も気づき始めた。二人のことを知っている誰かが、リーゼッタ中佐を呼んだほうが良いんじゃないか、と言った。だが、来たところで、メイベルに止めるつもりは毛頭ない。納得のいく答えが得られるまで、カリンを問い詰める。
「何もできなかったわけじゃないだろう。いや、言い方を変えようか。売人は、本当はお前に何をした。お前が何もできなくなるようなことをしたはずだ」
「だから、急に腕を掴まれて……」
「それしきで無抵抗になるようなら、中央になんか来られるはずがない。お前もそれは疑問だと言っていただろう。全部話したふりをして、イリスを欺くような真似をしてはいないだろうな」
首を横に振るカリンの肩を、メイベルが強く掴んだ。痛い、と呻く声にも怯まない。もしも何か隠しているのなら、たとえ妹だとしても、いや、妹だからこそ許さない。
「メイベル!」
背後から駆けつけてきたのは、ルイゼンだ。だが焦った声を無視して、メイベルはカリンの目をじっと見ていた。カリンもまた、しっかりと見返していた。――何も話すことはない、というように。
「おい、何やってるんだ。訓練指導が終わったらすぐに報告に来い。だいたいこんな廊下の真ん中で」
「煩い、黙れ。私はカリンと話をしている」
肩に置かれた手を、メイベルは見もせずに振り払う。それでもルイゼンは退かない。
「ここですることじゃないって言ってるんだ。今日の昼は第三休憩室に集まろう。どうせ俺とイリスとシリュウは、仕事の話をしなくちゃならないし」
「私がカリンを追及するのを、イリスは止めようとするだろう。それじゃだめだ。私はイリスのために真実を知ろうとしているのに」
「だったらもうわたしは話したよ、お姉ちゃん。わたしは失敗をした。けれどもそれまでの貯金があったから中央に来られた。あるいは失敗したわたしをより厳しいところに置いて鍛え直そうとしているのかもしれない。この答えでも納得できない?」
眉間にしわを寄せるメイベルに、カリンは毅然とした態度で応える。それ以上のことはないと言う。だが、メイベルには姉としての勘があった。まだ何かある、妹は何かを言っていない。それは遠い昔、彼女が父からの暴力を隠そうとしていたときに似ていた。
「……発言に矛盾があるぞ、カリン」
吐き捨てて、メイベルは踵を返した。姉からの追及から逃れられたカリンは、ほう、と息を吐いてバインダーを抱きしめる。そして唇を噛んだその表情に、ルイゼンも違和感を覚えた。だが、ここではその正体を確かめられない。
「カリン、まずは事務室に行こう。資料はそれで最後だから、次の仕事の指示をする」
「わかりました」
カリンは頷き、ルイゼンの後についてきた。周りから見れば、彼女は真面目な軍人に見えるだろう。実際そうなのだが、やはり、メイベルの妹でもあるのだ。

呼ばれて出て行ったルイゼンを見送った事務室には、イリスとシリュウが残されていた。あの慌てようはメイベルあたりが何かしたのだろう、とイリスは予想をつけて、一緒に行きたいのを我慢して待っている。シリュウを一人で残していってはいけない。
「慕われているんですね、リーゼッタ中佐は」
ぽつりとシリュウが言う。イリスは笑って頷いた。
「わたしたちのリーダーだからね。何かと責任をとらされることも多いから申し訳なくも思うけど、本人は仕事としてきちんとやってくれるから。きっとそういうところ、レヴィ兄やうちのお兄ちゃんたちから教わったんだと思う」
もともとお兄ちゃん気質ではあるけど、と付け加えると、シリュウは小さく相槌を打った。
「インフェリア中尉のお兄さんは、ニア・インフェリアさんですよね。元中央司令部大将の」
「うん。シリュウもやっぱり知ってるんだね」
「有名人ですから。それに師匠……リータス准将からも話は聞いています。東方司令部で事件を解決に導いたこともあると。なのに、どうして画家になったんですか。軍にいれば、大総統にだってなれたかもしれないのに」
昔東方司令部で起きたという事件のことは聞いて知っているし、兄がどうして軍を離れたのかという質問も何度も受けた。それだけ兄の退役は惜しまれたものだったのだと、そのたびに実感し、いつもと同じように答える。
「昔から絵はお兄ちゃんの大好きなことで、上手かったからね。大陸全土規模のコンクールで評価されて、絵が売れるようになってから、軍を辞めることは考えてたみたいなんだ。最初は名家の子の道楽だ、なんて言われてたこともあったみたいだけど、素性を隠して発表した作品が話題になってからはそんなふうに言う人もほとんどいなくなった」
本当はそれだけじゃない。ニアが大人になって、自分の持つ「兵器」とも称される力を抑え込めるようになり、軍の監視下に置かなくても大丈夫だろうと、やっと認められたということもある。一緒に生きていこうと言ってくれた人がいたということも、もちろんだ。
大総統やそれに準ずる地位なんて、全く望んではいなかった。本当はレヴィアンスだって、ゼウスァートではなくハイルの名でそこに立つのが一番だと思っていた。けれども、全てが思い通りにはいかない。彼らには彼らの背負ってしまったものがある。
「インフェリア中尉は、いつか大総統になりたいと思いますか」
「え、わたし? レヴィ兄の忙しさを見てると、積極的になりたいとは今は思えないかな。でもその立場にある人を手伝うことができたらいいとは思ってるよ。それがきっと、軍家インフェリアの務めだから」
そしておそらくは、自分の背負ってしまったものの最も有効な使い道だから。イリスの言葉を、シリュウはじっとして聞いていた。やがて、イリスの目を真っ直ぐに見て、口を開く。
「おれと手合わせをお願いします、中尉」
「手合わせ? いつでも歓迎だよ」
「では、今夜でいかがでしょう。練兵場は終業後もしばらく使えますよね」
「そうだね、ちょっとなら。でも尉官同士だから、佐官以上の立ち会いが必要だなあ」
誰に頼もうか、と考えているあいだに、その言葉は告げられた。聞き逃しそうだったが、たしかに耳に入ってきた。
「そしてもし、おれがあなたに勝てたら。あなたの持っている『魔眼』を、おれにください」
裏で使われるその符丁。サーリシェレッドを表すそれを、彼は知っていた。異動でここに来た者なら、サーリシェレッドに関わったことのある人物だということはイリスもわかっている。符丁を知っていてもおかしくはないのだが、シリュウの言葉は妙に鋭い。それにわざわざ「魔眼」という言葉を、イリスに向かって使うとは。
「……それって、どういう意味?」
「あなたがおれに負ければわかりますし、おれがあなたに負ければわからないままでいいんです」
息を呑んで、頭をよぎったのは、立ち会いはいないほうがいいのではないかということだった。

昼の第三休憩室には、緊張した空気があった。仕事の話をしながらも、ルイゼンの意識はメイベルとカリンに向いているし、イリスはシリュウを気にしている。メイベルは苛立っていて、フィネーロは仕事中に聞いた話を頭の中で何度も繰り返していた。
「午後イチの任務が終わったら、俺たちは司令部に戻ってきて報告書を作る。が、何もなければたぶん大佐は目を通すこともしないだろうな。この仕事自体、あの人にとっては無駄だし」
溜息を吐くルイゼンに、フィネーロが眉を顰めた。
「無駄な任務をわざわざあの大佐がさせるだろうか。君を司令部から離れさせるための、厄介払いなんじゃないか」
「その可能性はあるな。現状、大佐様に意見できるのはルイゼンだけだ。いないあいだに何かしようと企んでいるのかもしれん。カリン、お前は何か知らないか?」
「知らないよ。わたしだって、ディセンヴルスタ大佐が何を考えてるのかわからないんだもん。なんでわたしにそんなこと訊くの?」
姉妹の関係に飛び火してしまったので、ネイジュについてはひとまず置いておくことにする。ルイゼンは話を元に戻そうとして、イリスの様子に気がついた。思えば、自分たちが事務室に戻ってから、ずっと何か考えているようだった。
「イリス、気になることでもあるのか」
「え? ううん、何も」
笑みを浮かべて否定するイリスの嘘が、ルイゼンには手に取るようにわかる。彼女の兄の嘘はなかなか見抜けなかったが、妹は父似で実にわかりやすい。
今のうちに追究しておいたほうがいいだろうか。それとも話してくれるのを待つべきなのだろうか。迷うルイゼンを一瞥して、先に口を開いたのはフィネーロだった。
「なあ、イリス。君は閣下の命令で、先頃頻発しているサーリシェレッドの違法取引検挙の失敗と、その関係者である今回の異動人員について調べているんだろう」
瞠目したルイゼンの向かいで、イリスが驚嘆した。どうして知っているのか、ではなく、ここでずばりと言われたことに対する反応だろう。カリンも微かに表情を変え、シリュウは肩がピクリと動いた。
「フィン、情報速いねえ……。しかもそれ、言っちゃうんだ」
ルイゼンが思ったことを、イリスはそのまま口にする。それから小さく息を吐いて、両手をあげた。降伏のサインだった。
「その通りだよ。異動してきた五人全員のカルテも、そのために確認しに行った。サーリシェレッドについて詳しく知りたかったから、ウルフやアーシェお姉ちゃんに話を聞きに行った。わたしもサーリシェレッドについては知らないことが多いんだよ。でも、はっきりしてるのは、あの宝石とわたしの眼が裏では同じ呼ばれ方をしているってこと」
「『魔眼』だな。イリスも狙われているし、サーリシェレッドも各地で違法に取引されている。このままじゃ裏の狙いがどっちなのかわからないし、どちらかでごまかされる可能性がある」
ようやく口を挟んだルイゼンに、イリスは正直に頷いた。
「イリスの眼をサーリシェレッドでごまかすほうが圧倒的に可能性が高い」
「そう、ベルの言うことを、レヴィ兄も考えてる。それで関係があった人員を各地方司令部から集めたの。もちろん実力を評価して、中央司令部にいるわたしの味方を増やすっていうのが最大の理由だよ」
困惑するカリンとわずかに眉を顰めるシリュウを見て、慌てて付け加える。カリンとシリュウは確実に味方であるはずだった。――さっきまでは。
メイベルが舌打ちをして、しかし、と言った。
「よそから人員を集めるほうがよほど怪しいし危険じゃないのか。それも任務に失敗した人間ばかり。もしかして失敗したのではなくて、わざと取引を見逃したのかもしれんぞ」
どいつもこいつも、と呟くメイベルの中では、妹すらも容疑者から外れてはいない。姉に睨まれたカリンは黙っていたが、俯いてはいなかった。
「ロスタ少佐は今回の人事を『左遷』と表現していた。あの人は中央に来たことを、サーリシェレッドを含む指定品目の違法輸出入案件から遠ざけられたと感じているらしい。イリスの味方にはなりそうにないと僕は思うが」
「大佐とチャン中尉も、あんまり味方っぽくはない……てのは俺の偏見かもしれないけど」
「わたしもレヴィ兄も、よくわからないことが多いんだ。何もなければそれでいいし、もしわざと任務に失敗していたとしたら、裏についての情報を引き出す。不確かなことばかりだから、まだゼンたちには話してなかったんだよ」
できれば疑いは晴らしたい、というのがイリスの考えだ。けれども彼女の中で容疑が濃くなってしまった人物がいる。それをここで言うわけにはいかず、とにかく、と言葉を継いだ。
「当面は何も知らないことにしてほしい。カリンちゃんとシリュウも」
正式にレヴィアンスから命が下るまでは、普段通りに、おとなしく。難しいとわかっていても、今はそうするよりほかはない。イリスだけではなく、ルイゼンもそう考えていた。だが。
「大佐様と色目女とシリュウにルイゼン、軟派男にフィネーロ、カリンに私。閣下もうまく監視体制を整えたものだな」
メイベルはそうはとっていなかった。彼女だけではなく、フィネーロも静かに頷く。カリンとシリュウが再び緊張した。
イリスは慌てて否定する。
「そんなんじゃないよ。ていうか、それじゃゼンの負担が大きすぎない?」
「一応室長補佐だ、妥当なところだと私は思うぞ。なあ、ルイゼン」
頭を掻きながら、ルイゼンはこれまでのことを思い返す。一時的にでも室長になったこと、あまり補佐はさせてもらえないがネイジュのしない仕事は自分が引き受けていることを考えると、たしかに事務室全体を見られる立場ではある。監視だと考えれば、異動してきた全員があの事務室かフィネーロのいる情報処理室に配属されたのも筋が通る気がしてしまう。
頷きかけたそのとき、カリンが勢いよく立ち上がった。
「わたし……、わたしはっ! イリスさんが狙われているというのが本当なら、絶対に味方です!」
叫んだ声に嘘はないようだ。イリスは嬉しそうに笑みを浮かべ、メイベルは目を細めた。疑い深い姉もこの言葉は信じたらしい。
「では、僕たちは知らないふりを……と言いたいところだが。イリス、僕の情報源はロスタ少佐本人なんだ。僕はそのまま彼から話を聞いていていいだろうか」
フィネーロはまだ渋い顔をしていたが、イリスは一瞬瞠目してから頷いた。情報が向こうから来るのなら、どうしようもない。
「ロスタ少佐が何を考えてるのかは、もしかしたらフィンが掴めるかもしれないね。わたしもそろそろ、大佐やチャン中尉に直接あたってみようかと思う。ちょっと難しそうだけど」
「根気が必要になりそうだな。なにしろあの大佐と、何考えてるのかわからない中尉だ。そういえばシリュウはチャン中尉と同じ東方司令部にいたんだろ、何か知らないか?」
苦笑いしながらルイゼンが尋ねると、シリュウは無表情のまま「いいえ」と答えた。
「一緒に仕事をする機会はありましたが、おれもあの人のことはよくわかりません。宝石商の娘で、やたらと宝石に詳しいこと、それが好きであることは誰の目にも明らかでしたが」
ここでもすでにわかっていることだ。「だよなあ」と口にしながら、ルイゼンは全員の顔を見渡した。
イリスの表情がこわばり、フィネーロが怪訝そうに眉を顰めていた。


午後の視察任務は、何事もなく終了した。普段通りに振る舞えたはずだ。ルイゼンはこちらの様子に何も言わなかったし、シリュウは指示通りに仕事をしていた。
しかし、よく冷静でいられるものだ。シリュウという人間が、いよいよ恐ろしい。終業後の練兵場で、イリスは深く溜息を吐いた。
距離をとった正面には、刀を構えたシリュウがいる。本来の得物ではなく、武器庫から借りた模造刀だ。イリスが手にしている剣も、本物ではない。
これはあくまで手合わせなのだ。ちょっと、賭けているものが特殊なだけの。本当にイリスを狙っている人間が仕掛けてくるはずの、殺し合いではない。だからシリュウは裏と繋がっていない……と思いたい。
「始めましょう、インフェリア中尉」
痺れを切らしたのか、シリュウが低く言った。覚悟を決めなければ。勝てなければ「魔眼」は彼の手に渡る。――それははたして、宝石なのか、眼なのか。判断はとうとうつかず、必要なはずの立ち会いは誰にも頼むことができなかった。
ルイゼンやレヴィアンスに知れたら、叱られるだろう。けれども、シリュウが疑われることに比べたら、そんなことは大したことじゃない。
「勝負は三本。刃が体に触れれば有効ね」
「承知しています」
この若者を、せっかく来てくれた後輩を、この期に及んでもイリスは疑いたくないのだった。
地面を蹴るのは同時。互いの刃は一瞬で接近し、ぶつかった。中段から振り上げるようなシリュウの斬軌を、イリスが剣を振り下ろして止めた。ミナト流剣術を熟知しているわけではないが、似たような斬撃は過去にグレイヴと手合わせをしたときに経験済みだ。
一撃目はそれでよかった。だが、すぐに一歩引いたシリュウから、次の技が繰り出される。イリスの胴を真っ直ぐに狙った、鋭い突き。当たればたとえ模造刀でも激しい痛みは免れない。すんでのところでそれをかわし、イリスはそのまま剣を真横に薙いだ。得物が大剣ならば、兄の得意な技の一つの模倣になる。
シリュウの反応がわずかに遅れ、剣が彼のわき腹に当たった。
「……やはりお強い。沢山の方と、様々な訓練を積まれたんでしょう」
刃の当たった箇所を撫でながら、シリュウは言う。口調はまだまだ落ち着いている。とても追い詰められたようには思えない態度だ。
「シリュウこそ、容赦ないね。模造刀でも突きは怪我する可能性高いんだよ」
「本気でやらなければ、あなたには勝てません。それに、失礼でしょう」
なんて真面目で、真っ直ぐな子だろう。これがただの手合わせであれば、イリスは喜んで、心置きなく相手をすることができた。実際、手応えのある相手にわくわくしていた。だからこそ、彼から「魔眼」の名が出たことが惜しい。
続く二本目は、イリスから斬りかかっていった。上段に剣を振りかぶって跳び、勢いをつけて袈裟懸けに斬りつける得意戦法だったが、シリュウは完全にこちらの動きを見切ってそれを止めた。そしてイリスが着地をする直前の、バランスが危ういところを的確に狙って、空いていた足を屈みこんで斬り払った。刃を受けた足は上手く地面につかず、イリスはそのまま倒れ伏す。兄や、同じく剣を使うルーファに、よく同じ負け方をしていた。
「これで一勝一敗です。次で決めます」
「こっちの台詞よ」
にい、と笑ったイリスに、シリュウはただただ無表情で向かう。イリスが立ち上がって、すぐに三本目が始まった。
もう足を駆使した戦法はとれない。シリュウの攻撃は速い上に強く、先ほどの一撃はイリスの足から無茶ができるだけの力を奪っていた。もとより足の強さが取り柄だったイリスだ、これでは本領発揮は難しい。でも、だからといって諦めるわけにはいかない。
いくら正統流派の剣術であっても、その使い手がどれほど優秀であっても、年季はこちらのほうが勝っている。「魔眼」のやりとり以前に、イリスはシリュウよりも先輩なのだ。ここで負けては。
「ここで負けちゃあ、イリス・インフェリアの名が廃る!」
中段の薙ぎを防ぎ、弾く。隙ができた体面に上段から打ち込もうとしたが、止められた。が、そのまま力を込めてシリュウの手を下させる。離れれば反動が来ることはよくわかっているし、シリュウもきっとそれを狙っている。だから無理にでも足のばねを働かせた。
斬られる前に、飛び退く。そしてすぐにまた前へ。急接近にも少しもたじろぐことのないシリュウは、やはり見事だ。精神力ならルイゼン並か、それ以上かもしれない。
上段に構えた刀を弧を描くように下段へと振り下ろし、掬いあげるようなシリュウの技を、イリスは斬られるより先に彼の手を剣で打ち、止めた。
「……はい、わたしの勝ち」
「……やられました」
寸分の差しかなかった。シリュウの刃は、ほんのわずか、イリスに届いていなかっただけだった。
「危なかったあー……。尉官でこれだけ手応えのある相手って珍しいよ」
「おれも、ミナト流が通用しない相手は、今まであまりいませんでした。やはりインフェリア中尉は強いです。こんなことなら、『魔眼』を引き合いに出す必要もありませんでした」
そもそもどうしてそんな条件を、と問おうとした。しかし、できなかった。
「こらあ!! 何やってんだ、バカイリス!!」
勝手に勝負をしただけで、こんなに怒鳴られたことはない。命令を無視して対象人物と二人きりになったのがいけなかったのだ。
いつのまにかやってきて、怒号を飛ばしたレヴィアンスに、イリスはぎこちなく笑った。もちろん通用しなかった。
「ごめんって、レヴィ兄。だって剣術使いって聞いたら勝負してみたくなるじゃん」
「少しはいうこときけっての。オレの命令破るだけならまだしも、基本的なことすら守れてないなんて、全然反省してないな!」
頬を抓まれるイリスに反論は不可能だ。そのまま大総統執務室まで引っ張られるかと思ったら、シリュウがそれを止めた。
「閣下、おれがインフェリア中尉に手合わせをお願いしたんです」
「後輩に頼まれようと何だろうと、時間外の練兵場の使用は上司の許可と立ち会いが必要なんだよ。シリュウも覚えとけ」
「上司に言えないような理由を、おれがわざとつけたんです」
ぱ、とレヴィアンスの手がイリスの頬を放した。イリスが制するより早く、シリュウは「理由」を口にする。
「手合わせをしておれがインフェリア中尉に勝てたら、中尉の剣の柄にあるサーリシェレッドをくれるように頼みました。おれの馬鹿な頼みを、中尉は断れず、おれのために人に言うこともできず、こっそり相手をしてくれたんです」
レヴィアンスも黙ったが、イリスも閉口した。これは、そういう勝負だったか。「魔眼」とはそちらの意味だったのか。――それにしては、とってつけたような。
「……なんでサーリシェレッドが欲しかったのさ?」
怪訝な表情で問うレヴィアンスに、シリュウは少しも表情を変えることなく答えた。
「おれの悪い癖です」

午後の任務の報告書は、「異常なし」という結果を口頭で伝えた時点で、ネイジュには不要のものとなった。しかしルイゼンはこれまで通りにきちんと報告書を仕上げ、考えた末に将官室へと持参した。トーリスなら事情を話せば、代わりに見てくれないかと思ったのだ。
将官執務室を訪ねたときには終業時間になっていたが、トーリスら将官はまだそこにいた。将官は一人でいくつかの班や大班の面倒を見なければならず、常に報告書や資料と向き合わなければならない。仕事を選び部下に任せたり、重要任務について会議を行なったりと、外に出ずともやることは多い。訓練の時間がとれず、実戦では役に立たなくなると言われるのは、仕方がない部分もあった。将官になっても現場の第一線で活躍していたレヴィアンスやかつてのニアやルーファは、稀有な例なのだ。
「失礼します。トーリス准将、お願いがあって参りました」
「おお、リーゼッタか。なんだか久しぶりだな。何やら大変だったそうだが」
書類から顔を上げて、トーリスは嬉しそうに笑った。まだ傍らには未処理分が積まれているので、あなたこそ、と返す。
「お忙しいところ、申し訳ないのですが……今日行ってきた定期視察任務の報告書の確認をしていただけますか」
「私がか? 新室長はどうした。ディセンヴルスタとかいう……」
「大佐は、何もなかったのなら報告書は時間と紙の無駄だと。まずは事務室内の無駄を徹底的になくすことから始めようという方針らしいです」
ルイゼンは声を潜めたが、近くの他の将官には聞こえていた。眉を顰める者もいれば、言い分はわからなくもない、というように頷く者もいる。トーリスは前者だった。
「北方出身だったな。無駄を省くのは結構だが、あまりやりすぎると以前の不祥事の二の舞になりそうで、私は不安だ」
「俺もそう思います。とにかくそういうわけで、報告書は見てもらえませんでした。他の報告書も、大体は俺が処理している状態です」
「道理で私に上がってくる報告書のサインが、お前のものばかりなわけだ。随分仕事を任されているんだなと思っていたが、面倒を押し付けられているだけか」
ルイゼンたちの事務室から上がってくるものは、引き続きトーリスがまとめているようだ。渋い顔をしながら報告書を受け取ってくれ、ざっと目を通し、サインをくれた。このまま引き受けてくれるというので、ルイゼンは礼を言った。
「しかし、ディセンヴルスタ大佐の判断は問題だ。ちょっと意見を仰ごう。お前も来い」
誰に、と問う前に、ルイゼンはトーリスに腕を掴まれ引っ張られていった。向かう先を見てギョッとする。そこには、机に向かって書類に判を捺す将官室長、タスク・グラン大将の姿があった。大総統補佐を除く将官のトップに「ちょっと」意見を聞けるのだから、トーリスはやはり偉くなったのだ。
「グラン大将、第一大班事務室長に就任したディセンヴルスタ大佐について、ご報告申し上げます」
「ディセンヴルスタ大佐?」
肩眉を上げてこちらを見る男には、かつて大暴れをしてまで功績をあげてきたような勝気さは感じられない。ただ他の将官らしい、静かな威厳が存在する。近寄るだけで鳥肌が立った。
「リーゼッタ中佐の報告によりますと、ディセンヴルスタ大佐は無駄を省くとして報告書の確認を怠っているようです。事務室長としての職務を放棄しているのでは?」
トーリスの進言にも、低い声で淡々と答える。
「放棄ではないだろう。問題があると判断したものは確認している。ただでさえ仕事量の多い第一大班の見直しを行うことは、悪いことではない。なんでもかんでも受け入れて仕事が滞る方が問題だと、私は思うがね」
その言葉は、とても噂通りのタスク・グランのものとは思えなかった。三年前までなら、こんなにおとなしくはしていないだろう。それとも将官室長として考えを改めたのだろうか。疑問に感じたのはルイゼンだけではないらしく、トーリスも怪訝そうにしていた。
「トーリス准将、君もあまり第一大班に仕事を任せすぎないよう気を付けなさい。ここにいるリーゼッタ中佐含め、たしかに彼らは優秀だ、閣下も特別に目をかけるほどな。しかし物事には限度というものがある」
「彼らの技量に合わせ、適切に割り振りをしているつもりでしたが」
「だったら些細なことは他の班にまわしてやったらどうだ。リーゼッタ中佐も、負担は軽いほうがいいだろう」
そんなことはない、とは言えなかった。忙しいときにはレヴィアンスを多少なりとも恨めしく思ったこともあったし、仕事は全体に行き渡らなければ不公平だ。仕事の質と量のバランスは士気にも影響する。
「ディセンヴルスタ大佐は他でもない閣下が室長に任命しているんだ。少し任せて様子を見てみればいい。リーゼッタ中佐も、もっと柔軟に考えたらどうだ。閣下にいつまでも子供扱いされ、いいように使われるのは、君も本意じゃないだろう」
ここにきて、ようやく目の前にいる人物は間違いなくタスク・グランなのだと実感が湧いた。かつての大総統候補で、あのネイジュが贔屓する者。レヴィアンスの人事を良く思っていないことは今の言葉ではっきりした。
「いいように使われているとは思っていません」
言い返したルイゼンに、トーリスはじめ将官たちが一斉に注目する。タスクは目を眇めはしたが、無言だった。
「大将の仰ることは尤もですが、自分は閣下の言いなりになっているつもりはありません。ディセンヴルスタ大佐ではなくトーリス准将を頼ったことも、閣下が聞けばきちんと段階を踏めと仰るでしょう。これは自分が考え、自分がとった行動です。それに子供扱いなんて、閣下は部下に対して一度たりともしたことはありません。自分は昔からあの方を見てきましたが、そういうことができない人なんです」
失礼しました、と頭を下げる。もう用事は済んだ。この後の処分がどうなろうと、知ったことか。将官執務室を辞する前に、もう一度トーリスに会釈をした。巻き込んでしまった詫びを込めて。

胸ポケットに見慣れないペンが入っていた。こんなものを入れられるのは、一時的に軍服の上着を脱いで席を離れた時。やるのは隣の席の彼くらいだ。フィネーロは寮へ向かっていた足を、渋々と司令部の情報処理室へ戻した。他人の物を持ち続けているのは、気分のいいものではない。
情報処理室にはまだ人の気配がした。合図も遠慮もなく扉を開けると、せめてノックくらいすればよかったと後悔するような光景があった。
フィネーロの隣の席には、一つの椅子に二人が座っていた。一人はミルコレスだが、彼と向かい合うように密着しているのは、ジンミ・チャンだ。軍服はスカートまでもが床に脱ぎ散らかされ、彼女はブラウス一枚だったが、その前もはだけて豊満な肌色が見えている。
「あ、リッツェ君。おかえり」
ミルコレスはにっこりと笑い、ジンミも紅潮した顔で妖艶な笑みを浮かべてこちらへ振り返る。状況が把握できるまでその場から動けなかったフィネーロだが、しかし、やっとのことで顔を顰めて二人に歩み寄った。
「情報処理室にも監視カメラはついているんですが」
ペンを差し出すと、ミルコレスは片手でジンミを抱きしめたまま、もう片方の手で受け取った。
「わざわざありがとう」
「わざわざ? わざとでしょう。こんなものを見せつけるために呼び出したんですか」
「呼んでないよ。ペンの一本くらい、明日でもよかったのに、君はここに来た。それだけのことじゃないか。すぐにここを立ち去ることもできたのにそうしなかったってことは、君も仲間に入りたい? 俺は全然かまわないけど、ジンちゃんは?」
行為と口調がめちゃくちゃだ。激しい嫌悪感を覚えて踵を返そうとしたフィネーロの袖を、白く細い指がつまんで引っ張った。
「私はいいのよ、二人でも三人でもお相手できるわ。私を無視してもかまわない。ミルから今まで散々情報をもらったのだったら、彼に体で返してあげたらどう?」
「馬鹿なことを」
指を振り払うときに、赤で塗られた長い爪が見えた。耳には宝石、唇には艶。これはさぞや、とフィネーロは思わず笑ってしまった。色目を使われたというルイゼンには、さぞや苦手なタイプだろう。
「そういうことは自室でやっていただきたい。その隣は僕の席だ。少しでも汚したら、たとえあなたが年上だろうと承知しません」
「ジンちゃんは君より年下だよ」
「もちろんチャン中尉もです。……情報をべらべら喋ってくれたことに対して対価が欲しいなら、あとで正当な形でお返しさせていただきます」
「俺は君の体かサーリシェレッドがいいな。両方でももちろん歓迎だ。もしくは……」
最後まで聞かずに、早足で情報処理室を出た。こみ上げる吐き気と粟立つ肌は不快の極みだ。明日からも隣にあの男がいるのかと思うとげんなりする。
「いい仕事仲間、ね」
彼らが思った以上に深い関係であることだけははっきりした。

終業後に姿を消したイリスを探して、メイベルは司令部内をうろついていた。大総統執務室かと思ったが、ガードナーが来ていないと答え、レヴィアンスが「じゃあオレも捜す」と部屋から出てきた。
「閣下と二人で歩きたくはない」
「じゃあ二手に分かれよう。どうせ異性の更衣室とか入れないし」
なぜ更衣室、と思ったが、気がつけば練兵場近くの更衣室に来てしまっていた。従ったわけではない、と心の中でぐちぐち言いながら、メイベルは女子更衣室を覗き込む。明かりはついていないが、誰かがいるのか、がたごとと音がする。ロッカーを探る音だ。
電気をつけると、音がぴたりと止んだ。中を進んで一通り見回っても、人の姿はない。その代わり、ロッカーの一つから呼吸音が聞こえた。驚いて、急に息を吸ったような。かすかに漏れた声が、メイベルの知っているものだった。
眉を顰め、逡巡する。あの言葉は嘘ではないと感じた。だが、結局隠れなければならないようなことはしている。言っていないことがあるという勘は正しかった、ということが残念でならない。激情型であるというのは自覚しているが、不思議と怒りは湧かなかった。
「カリン」
ロッカーの中にいるはずの、妹の名を呼ぶ。返事のように、かたん、と音がした。
「そこで何をしている。お前は何をしにここに来た。更衣室に、という意味ではない。中央司令部に、という意味で尋ねている」
そっとロッカーが開いた。出てきたカリンは俯いていて、その手には剣が一振り握られていた。柄には紅玉――スティーナ鍛冶製である証のサーリシェレッドがあしらわれている。見間違えるはずがない、イリスの剣だった。
「イリスの味方なのではなかったか」
「……」
返事を待つ間に、練兵場のほうから怒号が響いた。レヴィアンスがイリスを見つけたらしい。ここに剣などの荷物があるということからも、つまり練兵場にいたのだ。
「閣下の前で白状してもらおう。私はもう、お前を怒鳴るのは疲れた」
「お姉ちゃん、ごめんなさい。閣下にはちゃんと話すから、お姉ちゃんは寮に戻って」
「お前の不祥事は私の責任でもある。周囲がそう言うのだから、そうなんだろう。ロッカーの鍵をこじ開けるくらいの技術は、そもそも私が昔お前に教えたものだ」
疑いは全員にあると言いつつも、メイベルだってどこかで「カリンは関係ないはずだ」と思っていた。それが覆されてしまうことは、存外にショックだった。――自分のような者でも、ショックは受けるらしい。きっと周囲は「意外だ」と言うのだろう。
カリンを引っ張ってきてレヴィアンスと合流すると、イリスと、なぜかシリュウも一緒だった。これから大総統執務室に向かうというので、メイベルもついていくことにした。
「ベル、どうしてカリンちゃんを?」
「どうもこうも、こいつがイリスの荷物を漁ってたんだ。標的は剣、いや、剣についているサーリシェレッドといったところか」
イリスとカリンが同時に息を呑んだ。こんな展開、少しも望んでなんかいなかったのに。
レヴィアンスを先頭に、メイベルがしんがりを務めて進む。その途中で、疲れた表情のルイゼンと、蒼い顔をしたフィネーロと、それぞれ別の方向からやってきて出くわした。
「どうした、みんな揃っちゃったな」
「閣下……。すみません、ちょっと面倒なことをやってしまいました」
「僕は嫌なものを見てしまって。ですが、一つ可能性を提示することができます」
全員の顔を見回し、レヴィアンスが苦笑した。
「みんなまとめて聞くよ。おいで」

レヴィアンスが出て行った大総統執務室で、ガードナーは一人で書類を整理していた。これが終われば、今日の仕事はきれいに片付いて、自分もレヴィアンスも寮に戻ってゆっくり休める。さっきまでは、そういうことになっていたはずなのだが。
「……ノックもなしにこの部屋に入ってくるのは、マナー違反ですよ」
予定は狂うものだ。それも込みで計画は立てなければならない。そもそもレヴィアンスがイリスを捜しに行ってしまった時点で、すぐには帰れないことがわかっていた。今更用事が増えたところでどうということはない。
「マナーが必要なんですか、無茶しかしない大総統のための部屋に」
「ええ、もちろん。もう二十歳を過ぎた大人なら、身につけているべきことですよ。ディセンヴルスタ大佐」
窘められても、ネイジュは不敵な笑みを浮かべていた。というよりも、これはこちらを侮っている表情だなと、ガードナーにはわかった。
「あなたはマナーで伸し上がったんですか。そうやって閣下に取り入って、補佐の座を手に入れたんですか。ご友人を蹴落としてまで」
「取り入った覚えはありません」
「大切なご友人を蹴落としたのは事実でしょう。本当はご友人のほうが補佐に相応しいと、ご自分でもわかっていらしたくせに」
鼻で嗤うネイジュに、ガードナーは静かに瞳を向けた。この不遜な態度の部下の言うことは、間違ってはいない。彼は知っているのだなと、ただそれだけを思った。
「どうして閣下は、何の功績もないあなたを補佐に起用したんでしょうね。雑用には向いていると思ったんでしょうか。もう一人の補佐は名前と義理ですかね。もしかして下心もあったのでは」
「私はともかく、閣下たちへの無礼な発言は許しませんよ」
「許さない、ですか。だからって何ができます? 今すぐ私に何かできるというのならしてみてくださいよ。さあ!」
初めて見たときは、落ち着いた青年だと思っていたのに。見た目というのは当てにならないものだ。挑発的な語調には、かすかに友人だった男を感じた。
「そうですね、ここでは私は何もできません。あなたは敵ではありませんし、その様子では閣下の脅威とも思えません」
ネイジュが整った顔を怒りに歪める。このくらいで感情をあらわにするとは、やはりまだ若い。若いからこそつけこまれやすい。もしも裏の人間が彼に巧みに接触していたとしたら、簡単に引っかかりそうだ。
「ディセンヴルスタ大佐、出ていきなさい。閣下が戻ってこないうちに去ったほうがいい」
「ご忠告ですか? 閣下が戻れば、私は軍を辞めさせられるのでしょうか」
「いいえ、あなたのような人を簡単に外に出しては、どうなってしまうかわかりません。閣下の『教育』は、きっとあなたが考えるよりもずっと厳しいですよ」
たとえ彼が裏と通じていたとしても、レヴィアンスは彼を手放さない。情報を搾り取れるだけ搾り取り、軍人としての心得を叩き込み直し、一生逆らえないように手をかけて育てるだろう。他でもないガードナー自身が、あの人に惚れ込んでしまったのだ。
「私としてはそれもお薦めの道ではありますが、あなたが耐えられるかどうかはわかりかねますので」
「……っ、思ったより口も達者ですね、大総統の狗が。だが到底グラン大将には及ばない」
捨て台詞を吐いてしまった時点で、相手の負けだ。これで大佐になれるとは、北ではさぞ行儀よくしていたのだろう。つい笑みがこぼれた。
「閣下の忠犬であり番犬であることは、私の誇りです」
激昂して言葉が出てこなくなったのか、ネイジュは歯ぎしりしながら執務室を出て行った。つい手を振って見送ってしまってから、彼の出した名前を思い返す。
タスク・グラン――同時に軍に入隊し、生活をも共にした、かつての友人。ガードナーがこの地位を得ることで昔のような関係は断たれてしまったが、彼の功績は今でも認めている。彼こそが補佐に相応しいと思っていたことも、たしかにその通りだった。
ネイジュのように、彼を慕う者もいる。中央にも、口にしないだけでそう思っている人間が多い。それでもタスクが我こそという主張を収めた理由を、ガードナーは正しくは知らないが、少しばかりの希望は持っている。ガードナーを直接罵倒して気が済んだだけではなく、三年経っていくらかは今の立場を認めてくれたのではないかと。
もしもそうなら、彼の気持ちに恥じないような働きをするのが、自分の役割だ。
気を引き締めて片付けの続きをしていると、部屋の外から複数人の足音が聞こえてきた。一つはレヴィアンス、一つはイリス、そしてメイベルと……ルイゼン、フィネーロまで? それにあとの二つは。
「これは大変なことになりましたね……」
呟きながらすぐに取り掛かったのは、お茶の準備だった。落ち着いて話ができるように、香りのよい紅茶を。


「思っていたより愚かだな、お前は」
自室に戻ってすぐに訪れた客人を、タスクは溜息交じりに迎えた。悔しそうに口を引き結んだネイジュは、俯いたまま返事をしなかった。
「レオナルドを舐めていたんだろう。あんなやつでも、大総統補佐を務めて三年だ。部下をあしらうくらいには立場に慣れているだろうに、どうして直接当たったんだ」
「補佐とは言いますが、あの人は結局、閣下の言うことに従うばかりの犬にすぎない。そう思っていたのですが……」
「昨年の暗殺未遂事件では、怪我をしたレオナルドがわざわざ病院から駆けつけて、公会堂での戦いを征した。あの閣下がそうしろと命令するとは思えんから、やつの独断だろう。三年前までの腑抜けと同じままではないということだ」
そう言って笑みを浮かべたタスクは、見惚れるほど清々しかった。台詞を聞かなければ、誰も彼が大総統とその補佐に対して下剋上を企てているとは思わないだろう。
「ネイジュ。その階級に見合うよう、もっと上手にやつらを引っ掻き回すことだな。レオナルドはこっちに任せろ。お前は大総統のお気に入りたちをよく見て、潰せ」
「リーゼッタたちをですか」
「そうだな、お前ならリーゼッタを狙うほうがいいかもな。ブロッケンは扱いにくいし、リッツェとはあまり顔を合わせない。インフェリアは……あれは手を出すまでもない。むしろ権力を得るには不利な状況を作りかねないから、放っておけ」
タスクはグラスを二つ並べ、酒を注いだ。にっこり笑って、片方をネイジュに差し出す。
「甘いくせに生意気なリーゼッタを、徹底的に潰せ。何なら、軍を辞めさせてしまえ。どうせ甘いやつは、俺たちが理想とするエルニーニャ軍には不必要な存在だ」
強さこそ至高の正義。逆らう人間は排除する。タスク・グランの「理想」は入隊した子供時代から変わっておらず、それこそネイジュの求める国軍の頂点の姿だった。



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posted by キルハ制作委員会 at 13:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 小ネタ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月23日

魔眼の物語

美しいでしょう。血にはない赤い輝きは、きっとあなたを虜に――ああ、もうなっていますね。その恍惚とした表情が見たかった。
魔眼、の由来ですか? 人を狂わせる悪魔の眼、そう、かつて発禁になった物語ですね、それが元だといいますよ。物語は、たしか差別に繋がるからといって、本になったものはすべて回収されたのでしたね。三十年ほど前でしたか。
でも、魔眼はたしかに存在するんです。その眼を見ただけで狂ってしまう。多くの場合は嫌悪感です。身体にも影響が出ることがあります。平気な人もいますが、本物の魔眼は、大抵の人間には害となります。
ですがその眼も使いようですよ。サーリシェリア鉱石と同じです。力や物質は使う人間によってその役割を変化させる。
あなたは、この魔力を使いこなす自信がありますか? どういうことかって、それは……そうですね、サーリシェリア鉱石の取り扱いもそうなのですが。あなたにお願いしたいのは、魔眼についてです。符丁としての「魔眼」ではなく、本物の。
私どもは、魔眼の生成を目指しています。あなたもご存知でしょう。こちらで大きく発展した、細胞複製技術を利用します。そのためにはサンプルが必要だ。
現在、その存在が確認されている魔眼の持ち主がいます。強力で、生かすにも殺すにも申し分ない。私どもは生かす方向で進めたいのですが、持ち主からの許可はおそらく得られないでしょう。残念ですが。
そこであなたにお願いがあります。魔眼のサンプルを、持ち主からいただいてきてください。実物が欲しい。片目くらいなら、抉りだしても問題ないでしょう。
そして得た魔眼の完全複製に成功したあかつきには、あなたに魔眼を使ってもらいます。すなわち、移植です。そうしてあなたは、この世界でもっとも強く美しいものになれます。この宝石のように。
どうです。一枚噛んでみる気は、ありませんか?


「カリンちゃんは違う。接触したといっても一瞬のことだし、何か吹き込まれたようなことも言ってなかった。だからもし裏と深い関わりを持った人間がいるとしたら、カリンちゃん以外だと思う」
大総統執務室で書類の整理をしながら、イリスは今朝のことをレヴィアンスに報告した。そもそも、カリンが裏とつながりを持っているのであれば、自分から話をすることはないだろう。
「彼女は最も可能性の低い人物だったから、まあそうだろうなとは。売人と二人きりになった時間がある、という報告しか受けていないんだよね、オレも」
「しかしカリンさんの場合、西方司令部の誰かがカモフラージュのために彼女を推薦したという可能性のほうが高いんです。西方の調査は、向こうで閣下が信頼のおける人々が進めてくれています」
レヴィアンスは頷き、ガードナーは詳細を補足する。西方司令部は、以前にいざこざのあった西国に一番近い。潜入されていることも視野に入れているという。
人を疑い続けるのは、イリスにとって大きなストレスだ。そもそもイリスを守るために人を集めたというのなら、できれば早々に、全員の容疑を晴らしてしまいたい。残りは四人。まだ十分に話もできていない人物もいる。他班の人間となれば、接する機会は限られる。不自然に近づけば警戒されるだろう。
「カリンがその話をしているあいだ、シリュウも近くにいたんだよね。あいつの様子はどうだった」
「話を聞いてるのか聞いてないのか、よくわからなかったなあ。ずっと無表情だからね、あの子」
「だよな。ここに来たときも、緊張してるのはわかったけど、表情は少しも変わらなかった。東方での評価も、冷静で物事に対して動じない、至って真面目な人物だそうだし。准尉になったばかりとは思えないほど落ち着いているとは、オレも思ったよ」
「十六歳、ですか。イリスさんが十六歳のときとは、勝手が違いますね」
「はいはい、どうせ十六歳当時のわたしはやんちゃしてましたよ。……あ、でも」
ふと、思い出した。練兵場を案内したとき、剣技の訓練ができることを確認し、イリスを強いと言ったあのときのこと。彼の言葉から感じた、真っ直ぐに切っ先を突きつけられたような、ひやりとした感覚。
「剣技に関しては、たぶん自信とか誇りとか……そういうのがあるんだと思う。あの子、わたしを超えるべき相手として見てた」
本当にそれだけだろうか、とはイリス自身も思った。超えるべき相手、ではなく、仕留めるべき相手なのではないかと。それくらい彼の視線は鋭く、こちらを射貫いていたのだ。ただ、殺気とは違うようだったから、シリュウもシロではないかと考えている。彼は純粋に強さを求めているのだろう。
「あとの人は、まだよくわからない。ディセンヴルスタ大佐は、ゼンは付き合いにくいって言ってるけど、仕事はちゃんと手際よく進めてるみたいだし。昨日引継ぎしただけでもう室長らしくできてるんだから、やっぱりすごい人なんじゃないかな、とは思ってる」
「うん、あいつは超優秀だよ。ていうか、今の北方司令部って優秀な人材を集めて育てるのがうまいんだよね。その分癖も強いけどさ。フィネーロの兄さんのアルトだって、元は北方司令部の人間だ」
すんなりと認めるレヴィアンスだが、その隣ではガードナーが少し苦い顔をしている。他の人が褒められて嫉妬をするような人ではないので、イリスはちょっと首を傾げた。
北方司令部の人材が優秀なのは、過去にあった裏や条項違反貴族との癒着の解消に努めるべく、内部をきれいに入れ替えたためでもある。上の立場にいたアルト・リッツェはそれ以上に跡を濁すことなく、責任をとって軍を辞した。反省をもとにつくりあげられた現体制と人員は、中央よりも厳しく現場を律しているともいわれる。
その中で育ってきたネイジュ・ディセンヴルスタが、優秀でないはずがなかった。
「でもまあ、ルイゼンとは合わないだろうなとは、オレも思ってたよ。完璧が過ぎるし、理想も高い。でもルイゼンは、ちょうどいいところを模索しながら少しずつ全体を高めていきたいタイプだよね。そのうち真っ向から対立しそう」
「なのに大佐を室長にしたの? 相変わらずレヴィ兄の人事ってわけわかんないんだから」
大総統になったときからそうだよ、とイリスが口をとがらせると、レヴィアンスは、にい、と笑う。
「ネイジュには功績至上主義がいいことばかりじゃないってことを知ってもらいたいし、ルイゼンにはちょっとは仕事で成果を上げることを意識してもらいたいんだよ。足してちょうどいいと思ったから、ネイジュが室長、ルイゼンが副室長ってかたちにした。他の大佐階級は、考え方がどちらかといえばネイジュに近いんだよね。そのわりにルイゼンが室長だったときには頼る、というか仕事を押し付けてたから、彼らにはちょっと考え直してほしい」
事務室の様子はほとんど見ていないはずなのに言い切った。でも、実際その通りだ。上司からは重い仕事を与えられ、後輩からは頼られるルイゼンの立場は、とてもイリスには真似できないほどの忙しさだった。手伝いたくてもその隙がなく、結局最後までルイゼンはほとんど一人で繋ぎの室長をやりきった。少しだけフィネーロが補佐に入ったものの、尉官であるメイベルとイリスには「自分の仕事があるだろ」といって触らせなかった。
しかしそれは室長になったからには責任を果たさなければならず、またイリスたちには本当にそれぞれの仕事があったからであって、彼は功績や実績といったことなどはまるで考えていないのだ。
「ディセンヴルスタ大佐は、功績とかにこだわってるの? あんまりそうは見えなかったけど」
「こだわったから中央行きを望んだんだよ。表向きはね。本当は何を考えているのかまでは、オレにはわからない」
これからそれも見えてくるだろうか。まだまだ謎の多い人だ。
「じゃあさ、ジンミは? わたしと同じ階級の、ジンミ・チャン。まだまともに話してないんだけど」
こちらは別班に所属した女性中尉だ。肩の上で切りそろえたコーヒー色の髪と、切れ長の黒い目。異国の雰囲気を漂わせる美貌は、さっそく中央司令部の話題になっているらしい。たしかにすごい美人だよね、とイリスが呟くと、レヴィアンスとガードナーも正直に頷いた。
「映画とかの謎の女スパイってあんな感じだよね」
「閣下、その先入観はあまり適切ではないかと。しかし、彼女が東方で囮捜査を専門にしていたというのは事実です。尉官で、それも十七歳という若さでというのは、あまり例がありません」
年齢が一つ下だったことをたった今知って、イリスは溜息を吐いた。あんまり大人っぽい、言ってしまえば色っぽいので、年上かと思っていた。それに。
「着けてるピアス、今日のも本物の宝石だった。昨日の赤いのは、きっと渦中のサーリシェレッド。今日は青かったけど、あれ、ノーザリアの指定鉱石だよね。北極星って呼ばれてる……」
「目が良いお前が言うんだから、そうなんだろう。そっか、あれだけじゃなかったか。さすが、堂々としたもんだ」
まさか裏から流れたものではないだろう。だが、普通なら若者がそう簡単に手に入れられるようなものでもない。一応は名家の娘であるイリスでさえ、アクセサリーとして持っているのは一つきりだ。
「ジンミは宝石商の子。東方での功績は、囮のほかに目利き。不正取引された品物を見極められる。もちろん現場に出て、裏の人間と直接会うことも多かった」
「本人が重要かつ貴重な人材じゃん」
中央に引き抜かれたら、東方司令部は困るのではないか。イリスの懸念を見抜くように、レヴィアンスは苦笑した。
「東方司令部長とチャン家を説得するのに、クレリアには随分苦労かけたよ。あとでどうやって埋め合わせたらいいと思う?」
「しっかり休み取らせてあげたほうがいいよ……」
ジンミも高い能力と身分がある。家に傷がつくようなことは避けそうなものだ。
「あとはミルコレス・ロスタ少佐か。たぶんこの人は、フィンのほうが近いよね。情報処理室に挨拶しに行ってたし、今日もそっちで仕事みたい」
強い癖のある赤い髪と、健康そうな褐色の肌が特徴の彼は、フィネーロと同階級で仕事も同じだ。目が合うと愛嬌のある笑顔を向けてくれたので、今のところイリスの印象は良い方だった。
「うん、オレがそう指示したからね。南方の情報処理と特別任務の担当だったんだ」
特別任務、というあいまいな表現を復唱する。ガードナーがすぐに補足してくれた。
「『指定品目の違法輸出入』の対策です。専門の班が南方にありまして、ロスタ少佐はその一員でした。サーリシェリアからの持ち込みが最も多かった時期に結成されたのですが、仕事の内容はそのときからほとんど変わっていませんね。他の地方での事件にも何度か派遣されています」
「こっちもスペシャリストかあ……。優秀な人ばっかり入れちゃって、わたしが埋もれたらどうしてくれるのよ、レヴィ兄」
「埋もれてもいいけど、食われるなよ。イリスも違法輸出入案件について勉強してくれるとありがたい。サーリシェレッドについてはアーシェも詳しい。あとはその価値をよくわかっていて盗んだことがあるやつ、とか」
たしかに知識が足りないままではいけないだろうとは思っていた。隙を見て事件記録を調べたり、アーシェのいる国立博物館にあたってみることも考えのうちに入っていた。けれども、最後のはなんだ。レヴィアンスに怪訝な表情を向けると、にやりと笑い返された。
「利用されっぱなしは癪じゃない?」
「わたしは別に。でも、確かに何か知ってそうではある。でもって、きっとわたしが行かなきゃ話してくれないことも予想がつくよ」
サーリシェレッドの別名を考えれば、いつかは行きつく心当たりでもあった。彼はイリスの眼を、最初にその名で表現した人物だ。
会うことを考えると、複雑な気持ちになるけれど。

事務室での仕事はネイジュが一人で取りまとめようとしていて、実際彼はそれができる人物だ。それはルイゼンも認めるところであったが。
「大佐、俺もやりましょうか」
「いや、遠慮するよ。リーゼッタ中佐は自分の班のことに集中してくれてかまわない。私は余計な手出しをされるのが好きではないんだ」
この態度はやはり簡単には受け入れられるものではなかった。「失礼しました」と笑顔で返しつつ、ルイゼンは内心でイライラしている。こんなとき、トーリスならばすぐに仕事を分けてくれ、より高いレベルの知識や技能を伝授してくれただろう。思えばあの人は部下を育てるのがうまかった。
溜息を吐くのを我慢しながら自分の机に戻ろうとしたところで、街の巡回に行っていた者たちが帰ってきた。ついジンミに目がいく。正確には、彼女の耳に青く光る宝石に。
――ありゃあ、相当なお嬢だな。イリスとは別の意味で。
半ば呆れていたのだが、彼女と目が合ってどきりとした。慌てて目を逸らそうとすると、彼女は口の端を持ち上げて妖艶に笑った。それからネイジュに、巡回の報告に向かう。何事もなかったように。
「大佐、レジーナは賑やかですね。喧嘩騒ぎを一つ止めてきました」
「ご苦労。中央は人が多いしちょっとした事件もよく起こるようだ。全部報告していたらきりがない」
報告を受けたネイジュは鼻で嗤う。するとジンミが微笑んだまま「いやですわ、はしたない」と言い放った。会って間もないはずの上司に随分な言いようだが、異論はない。
「報告書は規定通りに提出いたします」
「内容のない報告書など、作っても意味がない。だが規則を守るためというなら、提出はリーゼッタ中佐に頼むよ。彼は副室長として仕事が欲しいようだ」
近場にあった椅子を蹴り倒しそうになった足を、ぐっとこらえる。ここで怒りをあらわにしては、相手の思うつぼだ。
「そうですか。では、後ほどお渡してもよろしい? 中佐」
「ああ、受けとるよ。最近は何が重要になるかわからないし、喧嘩のこともちょっと詳しく書いておいてほしい」
「わかりました」
ジンミはジンミで、苦手なタイプの、というよりこれまでに周りにいなかったために接し方がわからない女性だ。上目遣いは媚びず、むしろ挑戦的。軍服の上からでもわかる体の線は美しく、同年代であるはずのイリスやメイベルよりずっと色っぽい。周りが注目してしまうのもわかる……が、ルイゼンの好みではない。こんなこと、絶対に口にできないけれど。
少し遅れて、もう一人の美人が事務室に戻ってきた。だがこちらは見た目よりも性格のインパクトが大きすぎて、おまけに本人が男性嫌いということもあり、めったに話題にのぼることはない。
「おいルイゼン、私はもう下級兵指導はごめんだ。奴ら、ちっとも私の命令を聞きやしない」
「メイベルの言い方が悪いんじゃないか。あと求めるレベルが高すぎるとか。ちゃんと見てやれよ」
残念な美人メイベルは、しかしそんなことは全く気にせずに舌打ちをして自分の席に戻る。いつものように訓練報告を書いて提出するつもりなのだが、その肩にぽんと手が置かれた。
「ブロッケン大尉、訓練の報告書はよほどのことがない限りは作成しなくてよろしい。無駄は積極的に省いて、効率のいい仕事をしよう」
笑顔を浮かべるネイジュの提案は、メイベルには都合のいい話だと思われるかもしれない。だが、彼女にはよく知りもしない男に気安く触れられることそのものが嫌悪の対象だった。ネイジュの手を振り払うと、彼を思い切り睨む。
「……なぜ、そのような態度を?」
「そっちこそどういうつもりだ。仮にも大佐様、室長様が、これまでの慣例を無駄だと? まあ、たしかに私も無駄なことだと思ってきたさ。だがな、何がどう役立つかわからないのが中央司令部の現状だ。部下とのスキンシップをはかるよりも、ちょっとは勉強してきたらどうだ、大佐様」
もっともらしいことを言ってはいるが、ルイゼンには「気安く触るな、気持ち悪い」と聞こえた。フォローをしようと二人に近寄ろうとしたとき、ぱん、と音が響いた。
誰もが目をむいた。そんなこと、今まで誰もしなかったし、しようなんて考えたことがない。突然頬を平手で打たれたメイベルも呆然としていた。
「君は少し、上司への態度を改めたほうが良い、ブロッケン大尉。君がそんなことでは、妹である准尉にまで影響が出てしまう」
ネイジュの瞳は冷たくメイベルを見下ろしている。我に返ったルイゼンは、メイベルの前に立ち、ネイジュに迫った。
「今のはあんまりです、大佐。叩く必要がありましたか」
「リーゼッタ中佐、君は優しすぎたんだよ。躾のなっていない者には、ちゃんとわからせてやらないとだめだろう。……それとも女性に手をあげることは許さないという、フェミニストなのかな、君は」
否定しようとルイゼンが口を開いたが、声を出す前に腕を掴まれた。手を伸ばしたメイベルが、もう片方の手で髪を耳にかけ直しながら、息を吐く。
「ああ、その通り。うちの班長は女はおろか、男にすらまともに手をあげられないんだ。室長様と違って、可能な限り暴力に訴えないのがルイゼン・リーゼッタという人間だ。ルイゼン、こいつはお前にとっていいお手本になるぞ」
赤くなった頬を押さえようともしないメイベルに、ネイジュが眉を顰めた。反省していないことは歴然だった。ルイゼンは一瞬戸惑ったあと、やっと喉を震わせた。
「メイベル、医務室で手当てを」
「いらん、そんなもの。これくらい昔は日に何十回と浴びせられた。……私が叩かれるのはかまわん。態度を改めるつもりもない」
「ブロッケン大尉、慎め」
「生憎と慎みなんてものは大昔に捨てた。新人室長様も、どうか中央の癖のある人間に慣れてくれ。こちらも物を知らない室長様に慣れる努力をしようじゃないか」
ふ、と息を漏らしたのは、おそらく笑ったのだとルイゼンにもわかった。自分の机に向き直ったメイベルは、何事もなかったように報告書の作成を始める。ネイジュも諦めたように大きく溜息を吐くと、室長の椅子に座った。
この空気をなんとかする、というのはきっと無理なことだろう。メイベルが他人と相容れるということはまずほとんどの場合で見込めない。かといって上司であるネイジュが譲歩するわけがない。ルイゼンにできることは、慣れること、そして騒ぎを最小限に止めることだった。

情報処理室のフィネーロの隣の席には、よく誰かがいる。大抵は愚痴や相談を持ち込んだリーゼッタ班の人間なのだが、昨日から勝手が違ってきた。今隣でにこにこ笑いながら、勝手にフィネーロ愛用の鎖鎌を弄っているのは、ミルコレス・ロスタ少佐だ。
「はー……。本物のサーリシェレッドっていうのは、なんてきれいなんだろう。レジーナには正しく認定された職人がいて羨ましいよ。スティーナ翁には残念ながらとうとう会えずじまいだったけれど、ちゃんとその跡継ぎがいる。しかも師に匹敵する腕前だ」
恍惚とした表情で装飾を眺める、いや、愛でる彼に、フィネーロは先ほどから鳥肌が立っていた。自分もスティーナ鍛冶の仕事の証である紅玉の装飾は気に入っているが、ここまでではない。
「ねえねえ、リッツェ君。情報担当の君がどうしてこんな立派な武器を持つことになったんだい?」
「閣下をお守りするのに必要だったからです。僕は非力なので、せめて相手の意表を突くような技が使えたらと思いまして。……そろそろ返していただけませんか」
「俺も中央に来たからには、スティーナ鍛冶で何か作ってほしいな。いつまでも軍支給の短剣じゃダサいよ。柄にサーリシェレッドを上品にあしらった、芸術品みたいな短剣……ああ、それじゃ使うのがもったいない」
一向に返してくれそうになかったので、フィネーロは一旦手を止め、ミルコレスの手から鎖鎌を奪い取った。相手のほうが年上だが、話を聞いてくれない場合は強硬手段もやむをえない。返してもらった武器を机の下に隠すようにしまうと、ミルコレスは「ごめんごめん」と笑った。
「サーリシェレッドがきれいだからさ、仕方ないよ。サーリシェリアとエルニーニャの友好の証である“赤い杯”も、サーリシェレッドをカットして作られたものなんだよね。あれを完成させるには相当大きな原石と高度な技術が必要だ。人々を魅了する魔性の宝石に手を加える……はー、なんだかエロチックだと思わないかい?」
「思いませんが」
変態なんですか、という言葉を呑み込み、フィネーロは仕事に戻る。だが、その集中はすぐに乱された。
「赤い輝きはまさに『魔眼』と呼ぶにふさわしい。見たものを狂わせてしまう」
その言葉を知っている。まさにこの紅玉のような瞳を持つ少女がいる。彼女の眼もまた「魔眼」と呼ばれた。仕事の続きをできないでいると、ミルコレスは話を聞いてくれると思ったのか、機嫌良く続けた。
「赤眼の悪魔って物語を知っているかい? 赤い眼をした魔物が、人々の心を虜にして狂わせてしまい、最後には目が覚めた人々によって倒されてしまう話だ。赤い眼を持つ人々からは、差別を助長する、なんて言われていて、三十年ほど前に本になったものはほとんどが発禁となってしまった。けれどもサーリシェレッドの美しさを表す言葉として、『魔眼』は残ったんだ。表立っては言われない。この言葉を使うのは裏の人間と、俺たちのような特別な仕事をする軍人くらいだね」
特別な仕事、と心の中で繰り返す。ミルコレスのいた南方司令部には指定品目の違法輸出入案件を専門にする、特殊な部署があったはずだ。とすると、彼がまさしくそうだったのか。サーリシェリア鉱石は違法輸入されるものの代表といわれるから、それはさぞ楽しい仕事だっただろう。
「よく扱うんですか、サーリシェレッドは」
「うん。サーリシェレッドも、ノーザンブルーも、フォレスティリアやウィスティエロウだって見てきた。リッツェ君は全部知ってるよね」
「はい。ノーザリアのノーザンブルーは北極星ともいわれますね。フォレスティリアはイリアおよびその周辺の地層から出る美しい緑の宝石、ウィスティエロウはウィスタリアの火山地帯で、一定の条件の元でしか生成されない貴重な黄味の強い宝石でしょう。どれも輸出入が厳しく制限された、指定品目の宝石です」
「さっすがー。文武両道のエリート、リッツェ家の人だけあるね」
家のことを知られているのは想定内だ。ミルコレスも南方で情報担当として働いてきたのだし、そもそもリッツェ家がそれなりに有名になっている。どうも、と返して、冷静に尋ねる。
「それだけ多くの宝石に携わっていて、何故サーリシェレッドには特別な執着を? 僕の気のせいならそれはそれでかまわないのですが」
「サーリシェレッドはさ、他の宝石が星や草木なんかにたとえられたりするのに、これだけは『眼』なんだよ。動物の体の一部なんだ。広い意味でいえば自然物かもしれないけれど、一般的な自然とは一線を画す。それが俺にとってはロマンなんだな。わかる?」
「わかりません」
口ではそう答えたフィネーロだが、ミルコレスの感じているものはなんとなく理解できた。動物と彼は表現したが、つまるところ、それは「人」なのだ。人体の一部――思い出すのは、裏の人身売買組織の所業だ。フィネーロは現場を見ていないが、ルイゼンの話と資料から、至る所に人体の一部が生々しく置かれた光景を想像することはできていた。
「ロスタ少佐が興味を持っているのは、宝石だけですか」
「んー……一番惹かれるのは宝石だね。どうして?」
「いいえ、なんとなく」
この人の「ロマン」は、どことなく危なっかしい。あまりイリスを近づけたい人間ではないなと、フィネーロは心の中で呟いた。

イリスが事務室に戻る頃には、班に任された事務仕事のほとんどは順調に片付いていた。だが、室内に漂うどこかよそよそしい空気から、何かあったのだと想像することは十分にできた。嫌な予感は、メイベルの顔を見て確信に変わる。
「ちょっと、どうしたの。頬腫れてるよ」
「わかるほど腫れてるのか。鏡を見ていないからわからなかった。だが大したことはない」
何でもないように、けれども何かあったことを否定しないメイベルに唖然としていると、ルイゼンが近寄ってきて合図をした。外に出ろ、という指示に従うと、こちらを睨むいくつもの視線を感じた。複数あることがすでに異常だ。
「大佐に叩かれたんだ。メイベルは普段通りだった……のがいけなかったんだけど」
事務室を出て聞かされた事情に、イリスは頭を抱えた。ネイジュは優秀だと聞いていたのに、まさかこんなことになろうとは。だが、きっと「優秀」の定義が、こちらとは違ったのだろう。ネイジュは彼のやり方で仕事を効率化しようと試みていた。メイベルはそれに対して、常日頃と同じく「無礼に」振る舞った。たとえばトーリスなら半ば諦めつつ軽く叱って終わりにしただろう。けれどもネイジュは、彼女の態度を罰するべきものとして捉えたのだ。
「メイベル本人は反省の色も見せないけどな」
「まあ……叩かれたくらいでベルが変わるとは、わたしも思わないけど。それにしても、その場にカリンちゃんがいなくて良かった」
「タイミングよく資料室に向かわせてたんだ。戻ってきてすぐ、メイベルの顔には気づいたけど。心配はしてたが、詳細は知らない」
メイベルが本当のことを話すわけがない。ネイジュだって誰だって、説明の手間を省くだろう。男性の暴力に敏感なカリンに、わざわざ聞かせるような内容ではない。
「ごめんな。俺がしっかりしていれば、こんなことにはならなかったのに」
「ゼンはしっかりしてるよ。だって、止めようとしてくれたんでしょう」
「今はとっさに大佐を殴り返すくらいすれば良かったと思ってる」
「何言ってんの、立派な中佐が。ぶち切れたあんたを見るのは、わたしだけで十分。とりあえず、みんなでお昼食べに行こうよ。レヴィ兄に使われまくって、お腹ペコペコなんだ」
昼を挟めば気持ちが切り替わるかもしれない。イリスが笑ってみせると、ルイゼンもなんとか笑みを浮かべた。事務仕事の進捗がいいために、すぐにでも食堂に向かえるのは、ありがたいことだ。
再び事務室に入ると、ちょうどネイジュも席を離れようとしていたところだった。イリスと目が合うと微笑み、こちらへ向かってきた。
「インフェリア中尉、閣下の仕事を手伝っているのだろう。まだ尉官なのに、大変だね」
「わたしができることをやらせてもらっているだけです」
「そうかい? でも尉官にできることなんて、ごく限られているんじゃないか。閣下の人事は、私には理解不能だ」
言葉だけなら同意する。初めから言われてきたことだ、今更反論などない。だが、そう思っている者が他人の揚げ足取りに夢中になり、逆に自らの足元を掬われているのだって何度も見てきた。ネイジュはどうだろうか。
事務室を出ていく彼を見送ってから、イリスはメイベルに駆け寄った。
「ね、ベル。今からでも医務室行って、手当てした方がいいよ。わたしも一緒に行くからさ。ゼンは班のみんなを集めて、食堂に行ってて」
「手当なんかもう遅い。それに平気だと言っているだろう」
「じゃあベルがわたしについてきてよ。ユロウさんに確認したいことあって、医務室に行くから」
「……それなら行ってやらないこともない」
返事を引き出してからカリンに目配せをすると、ホッとした表情で小さくお辞儀をしていた。やはりずっと姉のことが心配だったのだ。そしてメイベルも、そんな妹の気持ちを無碍にできなかったから、イリスの言葉に折れたのだ。普段なら意地でも医務室には行かない。
実際、イリスが医務室に用があることは本当だ。新入りのカルテがあるはずなので、それを確認しておきたかった。メイベルの手当ての間に、軍医から話を聞けるだろう。
「ベルは、異動で新しく入ってきた人たちにどんな印象を持ってる? カリンちゃん以外で」
廊下を並んで歩きながら、イリスはメイベルに尋ねた。無表情で答えが返ってくる。
「どいつもこいつも気に食わん。見どころがあるのはシリュウくらいだ」
「シリュウは認めちゃうよね。あとはどのあたりが気に食わないの?」
「室長大佐様は存在自体。情報処理室に行った奴はよく知らないが、軟派な雰囲気が気色悪い。それからジンミ・チャンだったか、あの女はルイゼンに色目を使っていたぞ」
「まさか。ゼンだって引っかからないでしょ」
それに色目を使う理由も見当たらない。彼女なら、立っているだけでたくさんの人が惹かれる。たしかにルイゼンは見向きもしなかった、とメイベルが相槌を打つので、ちょっとだけ苦笑した。
それにしても、ネイジュとメイベルは当分穏やかに仕事ができそうにない。これはレヴィアンスに報告するべきか、と迷っているうちに医務室に到着した。
軍医はメイベルの顔を見るなり「兄さんじゃないんだから」と言いながら手当てにかかった。なすがままになるメイベルは、けれども「兄君と一緒にされるなら光栄ですね」と返答していた。
「ユロウさん、昨日異動してきた五人分のカルテってある?」
棚を眺めながらイリスが訊くと、軍医ユロウは小さな冷蔵庫をあさりながら「あるよ」と言った。
「昨日のうちに目は通したけど、イリスちゃんが気にするような病歴や怪我の記録はなかったな。特にディセンヴルスタ大佐は超健康。羨ましいくらいだったよ」
「やはり図太いんですね、あの室長大佐野郎様。足でも捻ればいいのに」
「さっそくそんなに恨んでるの? さてはこの頬も、大佐にやられた?」
メイベルは黙っていたが、ユロウは鋭い。現場に居合わせていないのはもちろん、本人にも会っていないだろうに、原因を特定してみせた。
「しいてあげるなら、イドマル准尉が入隊当初は発育不良気味だったみたいだね。カリン准尉は僕から言わなくても君たちの方が知ってるだろう」
「シリュウが発育不良……。施設にいたって聞いたし、今は普通の十六歳男子に見えるけど」
「軍に入ってから鍛えられたんじゃないかな。メイベルちゃん、冷却シート貼っておいたから、剥がさないでおとなしくしててね」
あとは問題ないのだろう。イリスは頷きながら、得られた情報を頭の中に入れておいた。
「ありがとうございます。ユロウさんから見て、他に気になる点は?」
「特には。ロスタ少佐が銀歯入れてるから、歯は大事にしてほしいなって思ったくらい」
見た目にはわからないが、差し歯や銀歯などはわりとよくあることだ。歯に関する治療はユロウの専門外なので、病院に行ってもらうために、彼は少し気にしている。
医務室での用を終えて食堂に向かうと、ルイゼンたちは先に食べ始めていた。イリスたちも自分の昼食を持ってきて席に着くと、フィネーロが感心したように息を吐いた。
「本当に医務室で手当てを受けたんだな」
「してくれと頼んだわけじゃない。……ところでイリス、さっきのはなんだ。新入りについて気になることでもあるのか」
あえてその新入りたちの前で、メイベルが尋ねる。カリンが緊張し、シリュウが手を止めた。
「過去に怪我とかしてて、後遺症があったら嫌だなと思ってて。レヴィ兄も肩が弱いから」
「ならば確認はこの二人だけでいいだろう。なぜ五人分のカルテについて訊いた?」
半端な言い逃れは、メイベルには通用しない。たとえルイゼンやフィネーロが聞き流してくれても、彼女はそれをよしとしていない。イリスは周りを見てから、声を潜めた。
「レヴィ兄が色々気にしてるんだよ。詳細は今は省くけど」
「わたしたち、閣下に心配されてるんですか?」
「ちょっとだけね。優秀が故の心配だから、カリンちゃんとシリュウは気にしなくていいよ」
とはいえ、全く気にしないわけにはいかないだろう。カリンは困った顔で首を傾げ、シリュウは無表情のまま視線を俯けた。
そして長く一緒にいる三人は、ちっとも納得していなかった。何も言わずとも表情でわかる。ただ、メイベルはこの場で聞き出すのをやめてくれた。
――お父さんに似てごまかすの下手だからな、わたし……。
早く彼らに話が届く段階にしなければ。そのためにイリスがしなければならないのは、引き続きの情報収集だ。
「わたしは午後からも外に出ちゃうけど、仕事は大丈夫そうだね」
「たぶんな。どこに行く予定だ」
「レヴィ兄のおつかいで、例の警備会社に。あいつとちょっと話さなきゃならない」
あくまで仕事であることを強調したつもりだが、メイベルはあからさまに不機嫌そうになり、ルイゼンも軽く眉を顰める。まだ「彼」が絡むと疑われてしまうのは仕方がない。フィネーロだけが頷き、さぼるなよ、と言った。
「もう後がないんだからな、君は」
「さぼらないよ。今日はあいつの上司も立ち会うから、二人にはならないし。帰りに博物館に寄ってアーシェお姉ちゃんと話して、それから仕事が終わったらお兄ちゃんのところに行くつもり」
「やっぱり大総統補佐って忙しいんですね。イリスさんが事務室にいないと寂しいです」
しゅんとしてしまったカリンに、デザートにと持って来たイチゴを分けてやる。ついでにシリュウにも。しかし彼の表情が変化することはない。
「ごめんね、ちゃんと班の仕事に手がまわればいいんだけど」
「閣下の無茶ぶりは今に始まったことじゃないし、こっちは任せてくれていい。俺も余裕ができたしな」
後輩の前では頼もしく笑うルイゼンに、イリスは心の中で、強がり、と言った。

午後の業務が始まる直前、つまりはイリスが司令部を出ようとしたとき、フィネーロに呼び止められた。これから会う人間のことで追加の注意でもあるのかと身構えたが、予想していなかった名前が出てきた。
「ロスタ少佐に単独で近づくなよ」
「え、なんで?」
もとより対象に単独接近することのないよう、レヴィアンスからは言いつかっている。だが、それを知らないはずのフィネーロがどうしてわざわざこんなことを言うのだろう。
「少し話して、変態だと判断した。スティーナ製の武器、というよりその装飾にご執心のようだから、念のため忠告しておく」
「フィンが変態って言うなんて、よほどだね。わかった、気をつけておくよ」
スティーナ鍛冶で作られた武器を持っている者は、中央司令部でも少数だ。非常に高価ということもある。フィネーロとイリスも、それぞれ貯金や給与と相談して、思い切って購入している。その原因の一つが、装飾。サインの代わりにあしらわれるサーリシェレッドだった。
それにロスタ少佐が「変態」と言われるほどこだわっている。やはりサーリシェレッドに近く、手を出しかねない人物なのだ。まさか彼がわかりやすくクロだとは思わないけれど。
「ねえ、フィンの武器に何かされた?」
「気がついたら勝手に弄っているから、正直迷惑だ」
「休み時間だけじゃなくて、情報処理室にいるあいだは、ロッカーに鍵かけて管理しておいたほうがいいかもね。使う前によく点検するとか」
何にしろ、武器を勝手に弄られるのはあまり気持ちの良いものではない。イリスの言葉にフィネーロは頷き、送り出してくれた。
歩きながら得た情報を整理する。頭の中だけではまとめきれないので――こういうとき、兄ならもっと上手くできるのだろう――手帳に少しずつ書きこんでいくが、どれも容疑者たちが「裏と繋がっている」という証明にはならない。当人たちにだって、まだ十分なコンタクトをとっていないのだ。
「こういうアプローチの仕方って、レヴィ兄にしては珍しいし。あ、でも、暗殺未遂事件の前情報はこうやって周りからちょっとずつ集めてたのかな」
イリスとしては本人にがつんと当たりたいところなのだが、そうする前に事務室で衝突が起きてしまった。ネイジュから情報を引き出すのは難しそうだ。中尉で大総統補佐という特殊な立場にあるイリスのことも、好ましくは思っていないだろう。さらにミルコレスは「変態」、ジンミは「色目を使う」ときた。仲間たちもまた、彼らに良い印象を持っていない。
このままでは「何の問題もなかった」場合、先が思いやられる。別班の人間とも、共に動く機会はあるのだから。いや、その前にルイゼンのストレスが心配だ。
「まいったなあ」
「僕に会うのが?」
溜息を吐いたところで、顔を覗き込まれる。イリスが反射的に大きく後退ると、相手は朗らかに笑った。
「相変わらずいい反応だ。悩みはありそうだけど、元気そうで安心したよ」
「あんたねえ……いるならいるって言いなさいよ」
「話を聞きたいって人の職場まで来たのはそっちなのに」
顔を合わせるのは冬以来だ。向こうも変わっていない。ウルフ・ヤンソネンは微笑んだままこちらに手を伸ばしていた。だが。
「今日は仕事。本当に仕事しかしないって決めてるから、あんたには一切触らない」
「エスコートくらいさせてくれても」
「ついていくから大丈夫」
自分が大人になったという自信が持てるまで、恋心は封印する。そう決めたイリスだったが、ウルフはそれを簡単に解いてしまいそうだった。いや、こちらの意志がまだ弱いのだ。絶対に近づきすぎてはいけない。
「君って人は、単純で可愛いね」
しみじみと言いながら、ウルフが先に歩き出す。頭の中から「可愛い」と言う声を追い出しつつ、イリスはその後についていった。
初めて入る警備会社の社屋は、中央司令部よりもかなりすっきりしたつくりだった。応接室に通されて少し待つと、ウルフが上司とともに入ってきた。顔にしわを刻んだ上司は、おそらく父と同年代だろう。互いに挨拶をしてから、早速本題に入ろうとする。
「本日はヤンソネンさんにお話を伺いたいと思っているのですが、彼の経歴についてはご存知ですか」
わざと硬い声をつくったイリスに、ウルフが肩を震わせていた。イリスが睨むまでもなく、上司が彼をつついて言う。
「ほとんど全部知っているつもりですよ。こいつが盗みをやってた時代のことも、入社時に話してもらっていますから。おまけに二か月前の事件がありましたし」
「それはわたしの責任でした。彼に非は……ちょっとしかないです」
「正直だな、インフェリアのお嬢さんは。ああ失礼、今は中尉とお呼びしなければ」
「構いませんよ。父を知っている方にはよくお嬢さんって言われます」
こういう環境でウルフは働いているのか、と確認して、少しだけ遠慮が解けた。
「今日は彼が盗みをやっていた頃に得た知識を拝借したいんです。宝石関係、詳しいよね」
「多少は。何を聞きたい? 真贋の見分け方とか?」
「サーリシェレッドと違法輸出入について知りたい。盗む側としての意見と知識を話してほしい」
すでに社会復帰を果たしている人間を、元犯罪者として扱うのは心苦しい。けれども、ウルフはイリスになら答えるだろう。少し考えるように目を眇め、彼は再び口を開いた。
「……説明するにあたって、君や親族への差別発言があるかもしれないけれど」
「差別の意図はないんでしょ。だったらそのまま言っていい」
「わかった」
サーリシェリア産鉱石サーリシェレッドは、生産国ではそう高く取引されないが、国境を越えるとその価値を跳ね上げる。外国での高値の取引を狙って活動する裏社会の人間が後を絶たない。エルニーニャ王国立博物館にある“赤い杯”も厳重に守られているが、かつてその守りは突破され、奪われたことがある。それを完全な形で取り返したのがウルフだった。
サーリシェレッドが特に狙われやすい理由は二つあると、ウルフは語った。
「一つは価値の差。他の指定品目鉱石に比べ、サーリシェリアとエルニーニャとでのその価値の差は大きい。その原因は誰でも調べられるから割愛するよ」
「わかった、それは自分で調べる。もう一つは?」
「サーリシェレッドそのものの魅力。他にはない赤い輝きに、人々は惹かれた。エルニーニャでその人気をより高めたのが、『赤眼の悪魔』という物語だった」
どきり、と心臓が跳ねる。昔の記憶がよみがえろうとするのを押さえて、イリスは先を促した。
「それってわたしはよく知らないんだけど、どういう話なの?」
「三十年ほど前に、差別を助長するとして発禁になったからね。けれども発表された当時は話題になったんだ。赤い眼をした人物が、次々に人々を惑わせ翻弄していくという内容の戯曲だった」
その眼には魔力が宿っていて、人を虜にして操ることができた。操られた人々は彼の思うままに動き、失敗を成功に変え、身分を高めることすらできた。だが、それらは全て非合法的な行動によるものだった。赤眼の彼によって出世した人々は、その意のままに彼を優遇する。
このままでは国が堕落してしまう、と目を覚ました人々によって、赤眼の彼は最後には、討たれてしまうという物語。戯曲は本で読める物語として出版され、国内に広く知れ渡り、人気を博した。
だが一方で、赤い瞳を持つ人々が差別されることとなる原因ともなったという訴えも出てくるようになった。「赤眼の悪魔」という言葉に苦しめられた人々がいたということで、戯曲の上演は禁止され、本は回収された。しかしその物語は、人々の記憶からいまだに消えてはいないのだった。
「物語そのものにも、差別の意図はなかったはずなんだけど。物語を読み違えて差別に走った者に非があるのは明白だ。ただ、人を惑わす赤い瞳……『魔眼』がサーリシェレッドの符丁となったのは、そういう経緯があってのことだよ」
物語が発禁となったのは三十年前。ということは、イリスと同じ眼を持つ母はすでに生まれている。胸が苦しくなったが、手はペンと手帳をそれぞれ握ったままだ。
人を狂わせるものとして同じ名前を持つことになった、赤い瞳と赤い宝石。宝石は「眼」の名をもって違法に取引されている。そして。
「今は『魔眼』という呼び名に本来の意味が当てられることもある。君がよく知っているように、裏の生体研究者たちは、見ただけで他者に影響を及ぼすような強い力を持った『眼』を欲している。サーリシェレッドの取引をしていると見せかけて、君や、他にいるかもしれない同じような力を持つ人の『眼』を狙っているということも、十分に考えられる」
「やっぱり、ウルフもそう思うんだ」
レヴィアンスが気にしているのはそちらのほうだ。ただ「指定品目の違法輸出入」の取り締まりを強化したり、その調査をするだけならば、今までのように各指令部や専門のチームに任せた方が良い。軍全体の仕事量や能力のバランスをとるために、中央に集中させてはいけないはずなのだ。
だが、あえてそれをしようとしているのは、やはりイリスが狙われていることを懸念しているからだ。いや、わざわざ容疑者を集めて、裏に繋がる道をあぶり出そうとしている。イリスが自分で納得のいくように、関わらせているのだ。
「僕ならサーリシェレッドを狙うふりをして、君の眼を奪いに行く。同じことを考えている人がいるのかな?」
「まだはっきりとはわからない。でも、どっちにしても解決しなきゃいけない問題なら、立ち向かう」
ウルフに詳細は話せない。彼は協力してくれたが、部外者だ。もう巻き込むわけにはいかない。絶対に自分で調べたりしないように、と念押しして、彼からの聞き取りを終えた。
「また聞きたいことができたらおいで。そうじゃなくても、デートのお誘いならいつでも歓迎する」
「ありがとう。でもデートはまだまだ先かな」
軽口を叩きあう二人の脇で、ウルフの上司が咳払いをした。途端に恥ずかしくなって、イリスは慌てて警備会社を辞した。

エルニーニャ王国立博物館で、アーシェは待っていた。博物館の主として、そして“赤い杯”の守り手として、サーリシェレッドとその歴史について語ってくれることになっている。
「指定鉱石にはね、それぞれ国の思惑が絡んでいるの。サーリシェレッドには民族意識や大陸全土の宗教が大きく関わっているのよ」
すでにレヴィアンスから話を聞いていた彼女は、すぐに話を始めてくれた。イリスはメモをとりながら、拾った言葉の意味を問う。
「民族意識……ってどういうこと? 宗教って?」
「サーリシェレッドはサーリシェリアでしか採れないということになっているけれど、最初はもっと限定されていたの。古くは純正サーリシェリア人にのみ触れることが許された、特別な品だった。今では純正サーリシェリア人とみなされる人々のほうがかなり減ってしまって、サーリシェレッドは大陸中に流通しているわけだけれど……」
純正サーリシェリア人は、大陸南部の赤紫の髪と青紫の瞳をもつ人々のことだ。この血は遺伝しにくく、他の民族との混血になってしまうと特徴が発現しなくなる。つまり現代に生き残っているこの特徴の持ち主は、先祖代々ずっとサーリシェリア人だけの血を受け継いできた人間なのだ。
身近なところでいうと、先々代大総統ハル・スティーナがそれにあたる。彼の祖父はかつて南の大国から家族を連れて中央にやってきた。こうして移動するサーリシェリア人も増えたことから、純正の人々はもうほとんど見られなくなっている。
「サーリシェレッドは、数が少ないサーリシェリア人たちの、よその人との貴重な交易材料だったの。昔の中央の人々はサーリシェレッドを高く買い取ったり、こちらも貴重な金や青銅、改良した農作物なんかを差し出したりして、互いに利益が得られるようにしていたのだけれど。それは大陸戦争やその後の時代の流れを経て、だんだんと整合性がとれなくなってきたのね」
合わなくなっても変えられなかったのは、サーリシェリア人が少なくなっても民族としてのプライドを高く持っているからであり、またエルニーニャの人々もサーリシェリア人に余計すぎるほどの憐れみを持っているからだ。時代が変わった今でも、緩やかで無意識な差別は残り続けている。
「根付いた差別は、そう簡単にはなくならない……」
「そうね。刷り込まれた認識を変えることは、とても勇気と気力がいることなんだと思う。現に、レヴィ君のお母さんが大総統になったとき、サーリシェリア人だということで反発があったそうよ。けれども立派にその仕事をやり通して、エルニーニャの政治体制だけじゃなく福祉や教育のあり方をも大きく変えたから、多くの人から認められることになった」
人って現金なものよね、とアーシェは困ったように笑った。
「そしてね、サーリシェレッドがそこまでエルニーニャをはじめとする他国や他民族に求められるようになった理由が、宗教にあるの。この大陸で一番メジャーなのは、太陽神信仰でしょう。真っ赤なサーリシェレッドは、『太陽の石』として偶像崇拝の対象になった。そして純正サーリシェリア人に見られた特殊能力、予知夢を見ることが、彼らを太陽神の宣託を受けるものとして位置付けていた。大陸戦争の始まりは大陸北部の不作が原因の一つと言われているけれど、太陽神から見捨てられてたまるか、太陽の力を得なければ、という思いが少なからずあったというわ。希望を目指して南に向かおうとして、長い戦争に繋がってしまったという説もある」
サーリシェレッドは古くは神聖なものだった。南の人々にとっては、今でもそうなのかもしれない。信仰を支える「太陽の石」をエルニーニャに友好の証として贈った“赤い杯”がどれほど重要な意味を持っているのか、イリスは改めて思い知った。それは最大の表敬だったのだろう。
それがどうして、「魔眼」になってしまったのか。その神性を貶めるようなことになってしまったのか。その疑問にも、アーシェは答えてくれた。
「太陽神信仰にもいろいろな解釈があってね、偶像崇拝を良しとしない宗派もあるの。それにこの大陸には、もっとたくさんの宗教や信仰があるでしょう。今でも新たに生まれたり消えたりしている。そういう考え方の違いがぶつかり合って、結果的に神性を貶めることに発展することがあるのよね」
「何だか変な話。そういうのもあるんだなって、認めればいいのに」
「そうね。でも、なかなかそうはならない。できないのね、きっと」
自分の信じてきたものが揺らぐというのは、心の平穏が保たれないということだ。それを恐れる気持ちは、わからなくはないけれど。だからといって、何かを貶めてまで守ろうとするなんて。
不満げなイリスに、アーシェは薄く微笑んだ。
「これは考えればきりがない問題よ。だからといって考えるのをやめてはいけない。考え続けて、自分の答えを持とうとするということが大切なんじゃないかな。人間って、きっとそういうものだよ」
言葉を切って、それから続けた。
「揺らぎが刺激になるのも、たしかではあるのよね。だから『魔眼』が広まるのは早かった。批判する意味でも、面白がる意味でも。どちらにせよ、話題になることには変わりないでしょう」
それがエルニーニャ国内でのサーリシェレッドの価値をより高めたことも事実なのだ。サーリシェリアとエルニーニャ両国の宝石商は、双方ともに利益を上げることができ、裏社会ではより多くの違法取引が行われた。
民族と信仰と物質と金。これらが組み合わさって、問題が生まれている。そしてその大きな問題で覆い隠すようにしながら、本物の「魔眼」が狙われている。
「アーシェお姉ちゃん、わたしたちはこの案件を解決できるのかな」
「時間がかかっても取り組むしかない。そしてそのためには、イリスちゃんは何が何でも自分を守らなきゃならないわ。もちろん、私たちもあなたを全力で守る」
そのための準備は、整いつつあった。


エルニーニャ王国軍大将であり、将官室長を務めるタスク・グラン。数々の大きな功績を持ち、大総統になるのではないかと噂された男は、しかしその横に立つこともできないままだ。
だが、彼に憧れる人間は多い。ネイジュもその一人だ。功績と効率こそが軍人にとって重要であるという考えは、タスクの活躍に基づくものだった。
「グラン大将。私はずっとあなたにお会いしたかった」
終業間際の中央司令部の廊下で、ネイジュは彼に接触していた。タスクは一瞬怪訝な表情をしたが、すぐに「異動してきた者か」と眉間のしわを緩めた。
「ディセンヴルスタ大佐だったか。北方での活躍は聞いている」
「光栄です。あなたの行動こそが正しいと信じてやってきたものですから」
ネイジュが微笑むと、タスクは苦笑した。自分が正しいと――昔はそう思っていたが、今は誰もそう言ってくれなくなった。三年前、大総統はおろか、補佐にすら名前が挙がらなかった、あのときから。
正しいのは、それまで軍人の癖に何もしていないと思っていた、同僚のほうだった。大総統が認めれば、この国では何でも正しくなる。
「このままで良いとお思いですか、大将」
だからネイジュの言葉に、そんな人間もいたのだと、感心させられた。
「私はあなたこそが軍の頂点に立つべきだと思います。大きな力を持っているのだから、それを活用するべきだ。邪魔があれば、この私が排除しましょう」
感心すると同時に、若かった頃の自分を思い出して、苦い思いが胸に広がった。
「邪魔を排除する、とはたとえばどういうことだ。まさか閣下に反旗を翻すわけでもないだろう」
「場合によってはそうなってしまうかもしれませんが、直接手を出すつもりはありません。変えるべきは補佐です。導く者によって、指揮は変えることができる」
それはいつか、タスクも考えたことだ。けれども、そのうち諦めたことだ。自分はどうしても、あの男のようにはなれなかったし、なるつもりもなかった。
どうしてあの男が補佐になったのか、今ではいくらか理解できているつもりだ。けれどもやはりいくらかは納得していないのだと、ネイジュに気づかされてしまった。
「私はあなたのお手伝いができます。その自信があります。……いかがです、大将」
濃紫の瞳が、タスクを誘う。これまで目を背けてきた道へと。
「一枚噛んでみる気はありませんか?」
もしも友人だった男ではなく、自分が大総統補佐であったなら。その仮定を、今からでも現実にできる方法があるのなら。
ごくりと、つばを飲み込んだ。三年ぶりに、野心が胸に灯った。



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2017年04月09日

輝きの名

サーリシェリア鉱石「サーリシェレッド」。その真紅の輝きに魅せられる者は数知れず。大陸の南でしか採掘されないそれを扱うことができるのは、南国サーリシェリアの職人たちと、彼らに認められた国外のわずかな専門職人たちのみ。
エルニーニャ王国に鍛冶屋兼武器工房を持っていた、名匠スティーナ翁が去り、たった一人の弟子が店を継いだ。彼女もまたサーリシェレッド加工の資格を持ち、スティーナ鍛冶の営業は変わらず続くこととなった。
だが、サーリシェレッドを扱える職人は、エルニーニャでは彼女を含む数人しかいない。サーリシェリアから鉱石や原石を持ち込むことも規制されており、加工物の持ち出しや輸入には相応の額をサーリシェリア税関に支払わなくてはならない決まりがある。
それを潜り抜けようとする者、不正にサーリシェリア鉱石を扱おうとする者、偽物を流通させようとする者は後を絶たない。その取り締まりも、各国の軍が中心となって行っている。
大陸中、あるいは海外と呼ばれるよその大陸の人々をも魅了するその輝きを、こう呼ぶ者もいるそうだ。――「魔眼」と。


大総統執務室に、七人の男女が揃った。そのうち二人は、大総統レヴィアンス・ゼウスァートと、その補佐官であるレオナルド・ガードナー大将である。
あとの五人は、新しく中央司令部に配属となった軍人たち。それまでは地方にいたが、最も事件が多く仕事が厳しいといわれる中央に引き抜かれた精鋭だ。
「ようこそ、中央司令部へ。君たちの活躍に期待しているよ。なあに、周りは良いやつばっかりだから、すぐに慣れるさ。気楽に行こう」
ニッと笑ったレヴィアンスを見て、五人の肩から少しだけ力が抜けた。ガードナーはそれを確認したように、「それでは」と中央司令部規律を読み上げ始める。地方とは異なる部分があるので、覚えてもらわなくてはならない。
今回配属されたメンバーは次の通り。
元北方司令部大佐、ネイジュ・ディセンヴルスタ。元東方司令部中尉、ジンミ・チャン。同じく准尉、シリュウ・イドマル。元南方司令部少佐、ミルコレス・ロスタ。元西方司令部准尉、カリン・ブロッケン。
もちろんのこと、レヴィアンスは彼ら全員のデータを頭に入れ、どのように仕事を任せるかを決めている。ガードナーが「以上です」と言葉を切り、目配せをした。
「わからないことがあったら訊いてよ。今でもいいし、あとでもいい。……うん、ないようなら、早速仕事の話をしようか」
鳶色の瞳を光らせ、レヴィアンスはもう一つ、考えを巡らせていた。五人の挙動を見逃すまいと、目を離さずに、それぞれの持ち場を告げる。
この五人の中の誰かが、軍の脅威となり得る、要注意人物なのだ。


エルニーニャには花の咲き誇る春が訪れている。空気も柔らかく、風が運ぶ葉擦れの音は耳に心地よい。窓を開け放った事務室は清々しい。――が、仕事中の軍人たちには、それを甘受するほどの余裕はなかった。
「リーゼッタ中佐、書類のチェックをお願いします。それからこちらの資料ですが……」
「ただいま戻りました。リーゼッタ中佐、今回の任務の報告をしてもよろしいでしょうか」
「市中巡回の結果、異状はありませんでした。リーゼッタ中佐が懸念していた事項についても、引き続き調査中です」
飛び交う慣れない呼ばれ方に、ルイゼンの処理能力はぎりぎりで追いついている。事務室長というのは、かくも忙しいものだったのか。溜息を吐く暇もない。この激務をこなしてきたマインラート・トーリスを思い出しては尊敬する日々だ。つい先日まで大佐だった彼は、准将への昇格に伴って、将官部屋に移ってしまった。
トーリスが事務室長の任を解かれた今、事務室を取り仕切るのは他の大佐階級の人間になるはずだった。しかし大総統たるレヴィアンスは、どういうわけか中佐に昇格したばかりのルイゼンをその立場に任命した。そうして文句の一つも言えないまま今に至る。
「巡回ありがとうな。資料と報告書には目を通しておく。ええと、遠征任務の報告だっけ、お疲れさん。とりあえず口頭で簡単に報告頼む」
素早く優先順位を決め、仕事をこなしていく。その様子を、イリスとメイベルは自分たちの任務の報告書を作成しながら見守っていた。
「ゼン、やっぱりリーダー向いてるんじゃないの。レヴィ兄よりてきぱきしてるよ」
「少なくとも、前任のトーリス大佐……おっと、今は准将だったか。奴より親しみやすそうだな。だから誰も彼も、余計なことまで報告したがる。急ぎじゃなければ報告書にまとめれば良いものを」
イリスは相変わらず中尉のままだが、メイベルは大尉に昇格した。仕事が増えて面倒だ、とぼやくメイベルのサポートをしたり、リーゼッタ班の下っ端として雑用を積極的にかって出るのが、イリスの仕事だ。
だが、ルイゼンの忙しさも、イリスの下っ端生活も、予定では今日までだ。ルイゼンに事務室長を任されたのは後任の者が異動してくるまでの繋ぎ。そしてイリスたちには、後輩ができることになっていた。リーゼッタ班の人員が、増えるのだ。
「午後から後輩が二人かー。楽しみだね、ベル」
「楽しみなものか。面倒が増えるだけだ。カリンめ、まんまと中央異動を果たしおって……」
後輩のうち、一人はすでにわかっている。メイベルの妹、カリンが実績を認められてこちらへ正式に配属となったのだ。フィネーロが少佐に昇格し、ますます情報処理室の要として求められるようになってしまったために、事務仕事をする人間が手薄になってしまったこの班の助けとなることが期待されている。
もう一人はどんな人間なのか、イリスもまだ知らない。レヴィアンスは「当日になればわかるんだから待ってなよ」と教えてくれなかった。
ただ、中央に人員を集める理由は聞かされた。これはイリスに直接関わる問題なのだ。
三か月前に、裏の人身売買組織を検挙したとき。現在裏社会の関心が、イリスに集まっていることが判明した。正確には、イリスの眼だ。
イリスの眼には原因不明の特殊能力がある。意識して見つめた対象の心身に影響を及ぼす力。ときには巨大な生物や、大勢の人間の意識を奪うことすらも可能なそれを、裏は狙っている。
イリス本人を捕らえて裏に引き入れ、力を良いように使わせる(これが一番難しい)。あるいはイリスの眼を抉って奪い、クローン技術を応用して殖やす(だが実用できるかどうかは不明だ)。もしくは脅威をなくすために、イリスの眼を潰してしまう(これがもっとも実行可能性が高い)。裏の思惑通りにならないために、レヴィアンスは味方を増やすことを選んだ。
もちろん、たった一人でも高い戦闘能力を持つイリスを、信用していないわけはない。だが、その絆されやすい心につけこまれるといけないので、彼女を囲むものは多い方が良いのだった。
人員を増やすのは、イリスを守るため。そして、イリスに「軍を」守らせるためなのだと、レヴィアンスは言う。それほどまでに、イリスの眼は敵にまわると厄介な代物なのだった。
イリスも自覚している。この眼で何人もの敵を倒してしまったときに、使い方を間違えてはいけないと深く心に刻んだ。普段は封じることのできている力だが、何かのはずみで制御しきれなくなることもある。そのときのために、「眼が効かない仲間」が必要だ。
「そろそろ昼だ。食堂で新入りが待っているそうだ……が、まだ手が離せそうにないな」
事務室のドアを開け、フィネーロが迎えに来た。だが、ルイゼンは苦笑いしながら書類を手にし、イリスとメイベルは報告書をキリのいいところまであげてしまいたかった。
「悪い、もう少しかかりそうだ」
「仕方ないな、僕も手伝おう。どれから目を通せばいい?」
「こんなに忙しないのも、もうちょっとの辛抱だよね。早く新しい大佐来るといいね、ゼン」
「その新しい大佐とやらも、マシなやつが来るといいんだがな」
「イリス、メイベル、お前たちは手を動かせ!」
結局、食堂に向かうことができたのは、昼を告げる時報から十分ほど経った頃だった。

「イリスさん、お姉ちゃん、お久しぶりです!」
食堂に到着したイリスたちを出迎えたのは、メイベルと同じ琥珀色の髪の少女。しかし、幼い顔立ちはあまり姉には似ていない。
「カリンちゃん、久しぶり。元気そうで良かったよ」
「イリスに抱きつくんじゃない。全く、先が思いやられるな」
妹をイリスから引き剥がし、メイベルは溜息を吐く。襟首を掴まれたカリンは、姉にいたずらっぽく笑ってみせた。
「ちゃんとお仕事はするもん。去年の研修と違って、今日からは正式にリーゼッタ班の一員だもの。それに、わたし前より強くなったんだよ」
「ほう、ならば私に勝ってみるんだな」
膨れる妹と大人げない姉はひとまず置いといて、イリスとルイゼンとフィネーロはもう一人の後輩に視線を移す。背筋を伸ばして立っている少年は、背中まで伸びた黒髪を束ね、榛色の瞳でこちらを見ていた。
「そして君が、もう一人の新入りだな」
「東方司令部より異動してまいりました、シリュウ・イドマルです。異動に伴って准尉になったばかりです。よろしくお願いします」
真面目そうな態度はフィネーロと同等かそれ以上。やっとまともな人材をまわしてくれた、とルイゼンはこっそり安堵していた。カリンも真面目なのだが、やはりそこはメイベルの妹で、イリスが絡むと少々暴走するきらいがある。
「こちらこそよろしくね、シリュウ。わたしはイリス・インフェリア。階級は中尉」
「ルイゼン・リーゼッタ中佐だ。一応、班のリーダーってことになってる。いつもはイリスのほうが目立つけどな」
「僕はフィネーロ・リッツェ。少佐だ。普段は事務室にいないことが多いが、班員だ。よろしく頼む。それから、あそこでカリン准尉とじゃれているのが、メイベル・ブロッケン大尉だ」
こちらの自己紹介を、シリュウは頷きながら聞いていた。そして話の切れ目を見計らい、改めて「よろしくお願いします」と頭を下げた。
メイベルとカリンはイリスが宥め、シリュウはルイゼンに促され、六人で食堂のテーブルを囲む。食事をしながら、イリスたちはカリンとシリュウそれぞれのいきさつを聞くこととなった。
「わたしは去年の研修の成果と、あれから一年の働きを認めてもらえたみたいです。閣下が直々に褒めてくださいました」
えへへ、と照れて笑うカリンの頭をメイベルが「調子に乗るな」と軽く叩く。
「あの閣下に褒められたからといって何だ。あてにならんぞ」
「いや、去年の研修がドタバタした原因のほとんどはお前にあるからな、メイベル。それから巻き返した妹を褒めてやれよ」
呆れたルイゼンに、メイベルは反論しなかった。むすっと黙ってサラダを咀嚼する。
「シリュウはどうして中央へ?」
イリスの問いに、シリュウはよく噛んでいたパンを飲み込んでから短く答えた。
「推薦です」
「推薦?」
「上司……クレリア・リータス准将がおれの名前を挙げてくださったんです」
その名前にイリスはハッとした。東方司令部准将クレリア・リータスは、大総統付記者エトナリアの妹だ。イリスは直接会ったことはないが、現在の東方司令部において大きな力を持つ存在であることは、情報として知っている。
その彼女が推挙した人物が、リーゼッタ班に配属された。相当な実力者であることは間違いない。それも、強力な後ろ盾付き。東方准将と、レヴィアンスの二枚立てだ。
「もしかしてレヴィ兄、最初からクレリアさんに相談してたな……。今や義妹だもんね」
呟きはルイゼンに捉えられ、なるほど、という言葉が漏れた。
「東方出身、リータス准将の推薦ってことは、得意なのは剣技か?」
「はい。准将はおれの師でもあります。得物は刀、ミナト流剣術を使います」
ルイゼンが問うと、シリュウははっきりと答えた。それに誇りを持っているというように、胸を張って。
ミナト流剣術は、東方司令部のあるハイキャッシで伝えられる、刀の技だ。会得すれば、細い刀身で岩をも砕くことができるという。ただしその刃は、人を殺すにあらず。その技をもって故意に人間を斬り殺したとき、その人物はミナト流を破門になる。
中央司令部のあるレジーナにも、ミナト流を使う者はいる。ただし、直弟子だった者は遠い昔に破門されており、その娘は技の一部だけを伝えられているという、中途半端なものだ。
「ちゃんと学べば、ミナト流ってすごく強いんだよね。イヴ姉は破壊の奥義を一つだけ習ったらしいけど、シリュウはもっと色々できるんだ?」
「破壊の奥義は、最近になってようやく会得したところですが。基礎からずっとミナト流なので、名に恥じない働きはできるつもりです」
イリスの知るミナト流は、グレイヴとその父ブラックが使えるそれだけだ。剣を使う者として、正式な動作にはちょっと、いや、かなり興味がある。
「カリン、どうやらシリュウはできるやつらしいぞ。お前はどうなんだ」
「わたしは銃の腕を、ちょっとでもお姉ちゃんに近づけるように磨いてきました。でもやっぱり、事務仕事のほうが得意かな」
妹をつつくメイベルは、少し楽しそうで、少し悔しそうだ。無表情ながらも妹贔屓なのである。カリンは自分の領分をきちんと考えているようで、煽りには乗らなかった。
「ブロッケン准尉も、事務仕事の手際はかなりのものだと閣下が仰っていましたが」
「ありがとう、シリュウ君。でも、ブロッケンはこの班に二人いるから、わたしのことはカリンって呼んで。お姉ちゃんはメイベルね」
「そうですね。……では、今後はカリンさんと」
名前を呼ぶときに顔が少し赤くなるのが初々しい。イリスはシリュウとカリンをにまにまと笑みを浮かべながら見ていた。可愛く頼もしい後輩たちのおかげで、これから楽しくなりそうだ。
しかしルイゼンは、笑ってはいるが姿勢が硬い。それに気づいたフィネーロは、しばらく黙って考え込んでいた。

午後の始業時、事務室は新しい室長を迎えた。正式にその肩書がつくのは、ルイゼンからの引継ぎを終えた明日からだが、その佇まいはすでに何年もそこで仕事をしていたかのようだった。
ネイジュ・ディセンヴルスタ大佐。遠目には白髪にも見える薄い青紫色の髪と、そこから覗く濃い紫色の瞳が印象的だ。北方司令部から来たが、元を辿ればサーリシェリア人の血が流れていると、彼は自己紹介をした。
「それにしても、中央は仕事が多いね。明日からは私が引き受けるから、リーゼッタ中佐は安心するといい」
「しばらくは俺が補佐につきます。ただでさえ、この事務室は他に比べて扱う仕事が多く重いので、一人でまとめるのはとても難しいです」
室長机に積まれたバインダーや書類を見て溜息を吐いたネイジュに、ルイゼンは笑みを浮かべながら言った。しかし、ネイジュの表情は明るくならなかった。
「……どうしてそんな事務室の室長を、繋ぎとはいえ君がしていたんだ、リーゼッタ中佐」
それはルイゼンが訊きたいことだったが、口にはしなかった。ごまかす言葉を探しているあいだに、ネイジュは続ける。
「この事務室には、他にも大佐階級の人間がいる。それなのに閣下は君を室長にし、重い仕事を押し付けた。私は閣下のやり方に賛成できない。補佐にあの無功績の人を選んだ頃から、ずっと」
「無功績?」
その言い方に違和感を覚えたルイゼンに、ネイジュは薄く嗤って、室長の椅子に座った。
「補佐にするなら、もっと適切な人物がいた。大きな功績を幾つもあげているのに、どうして……」
ルイゼンは笑顔を保っていたが、内心は穏やかではなかった。何故この人物が中央にやってきたのか、レヴィアンスが彼を選んだ理由は何か、読み取ることができない。それに、大きな功績をあげたという、ガードナーよりも大総統補佐に相応しいといわれた人物。それはいったい、誰なのだろう。
ともあれ、ネイジュという人物は、ルイゼンとはあまり馬が合うとはいえないようだった。仕事の引継ぎは順調にできたが、今日受け取った報告書や関連資料を見るたびに眉を顰める彼の思うところは「どうして中佐になって間もない人間がこんな仕事を任されるのだ」といったところだろう。
現在抱えている仕事は残業になってでも今日中に終わらせてしまおう。でなければややこしいことになりそうだ。ルイゼンはこっそりと溜息を吐いた。
一方、イリスとメイベルは、カリンとシリュウに司令部内を案内していた。カリンは昨年の研修ですでに知っているが、シリュウが来るのは初めてだ。どうせなら、二人ともに現在の司令部の様子を知っておいてもらいたい。
「ここが第三休憩室。休憩のほかにも、小班で会議したいときに会議室が空いてないときとか、あんまり表立って話せないようなことを話すときにも使うよ」
イリスたちも頻繁に使う第三休憩室の前で、カリンが目をくりくりさせて首を傾げる。
「表立って話せないことって?」
「ルイゼンがイリスを叱り飛ばすときとかだな」
メイベルがにやりと笑って言うと、シリュウが目を丸くした。
「リーゼッタ中佐は穏やかそうに見えるのに」
「うーん……怒らせたのはわたしが馬鹿なことをやらかしたせいだから。普段は優しいし頼もしいお兄さんだよ。そういえば、シリュウには兄弟はいるの?」
「いいえ、家族はいません。東方の施設で育ち、十歳になってから軍の試験を受けて、以降はずっとお世話になっています」
もう慣れた回答なのか、シリュウは淡々と言う。イリスが「ごめん」と謝ると、彼は首を横に振った。
「この国では、そう珍しいことではないでしょう。身寄りのなくなった子供の行きつく先は、施設か軍か、あるいは裏社会です。幼すぎれば軍という選択肢はなくなり、施設と縁がなければ裏社会で裏のルールのもとで育てられる。そうした子供は、自分のやっていることが善だと信じているために、いわゆる一般的な意味での更生は難しい」
そうでしょう、と確認したシリュウに、メイベルが頷いた。目を細めたところを見ると、彼女はこの少年を気に入ったらしい。イリスだけではなくカリンもそうとったようで、にっこり笑った。
「シリュウ君はそういう選択肢の中から軍を選んだんだね。わたしとお姉ちゃんもね、もしかしたら路頭に迷ってたかもしれないんだよ」
「カリン、余計なことを言うな」
こつん、と姉に頭を叩かれ、カリンは舌を出して口を噤んだ。シリュウもそれ以上聞こうとはしなかった。――そうか、彼らは似ているのだ。自らの置かれた境遇が、ほんの少しではあるけれど。
メイベルとカリンの場合、親はいるが、頼れる状態ではなかった。その状況を、メイベルが軍に入ることで打開したのだ。カリンが後に続くことで、ブロッケン家の生活はかなり安定した。しかしもしメイベルの選択が軍ではなく裏だったなら、彼女らはそれを正しいと信じて今も生きていたのかもしれない。
シリュウとブロッケン姉妹の間にあるのは、一種の共感だった。それも、イリスには到底わからないものだ。それが少しだけ寂しく、しかし安心のもとでもあった。シリュウの味方になれる人間がここにいる。
いつのまにか案内は、カリンがシリュウにあれこれと話しかけ、メイベルがときどき口を挟むようなかたちになっていた。イリスはその光景をほのぼのと眺めながら歩いて行く。そうして、中央司令部内の設備で最も広い場所に辿り着いた。
「ここが中央司令部が誇る、国内最大級の施設。練兵場だよ!」
他司令部からもわざわざ使用しに来るほどの巨大施設。武器庫に揃っている道具も豊富で、軍外の人間も見学に来ることができる。イリスにとってもわくわくする場所だ。ここでなら堂々と、存分に力を振るえるのだから。やりすぎれば叱られてしまうが。
今日もそこかしこで訓練が行われている練兵場に、イリスが現れると空気が変わる。誰もが手を止めてこちらに注目し、それから近くの者と顔を見合わせる。今度は誰が勝負を仕掛けたんだ、と。
「さすがは悪名高いイリス・インフェリアだな」
「悪名とは失礼な。ベルだって銃の訓練してる人たちに見られてるじゃん」
「注目浴びちゃうイリスさんかっこいい……」
互いをつつきあうイリスとメイベル。憧れの先輩にうっとりするカリン。シリュウは周囲を見回し、それから一点を見つめた。
「剣技の訓練も、当然できるんですよね」
視線の先では二人の軍人が向かい合っていた。それぞれの手には軍支給の剣がある。イリスたちが来るまで打ち合っていたようだ。
「もちろん。備品を使ってもいいし、自分の得物でもいい。組手もわたしは好きだけど、剣の訓練は格別だよね。ゼンとの訓練が一番楽しい」
「ええ、東方司令部でも評判でした。インフェリア中尉は佐官をも倒せる実力の持ち主だと。それなのに、何故階級は中尉のままなんですか。閣下の暗殺未遂事件の解決など、功績もあげているでしょう」
そうか、他司令部でも噂になっていたのか。イリスは苦笑し、メイベルは呆れて息を吐く。怪訝な表情のシリュウに、イリスは頭を掻きながら答えた。
「それねえ、全部ふいにしちゃったんだ。わたしのせいで女の子が誘拐される事件が起きちゃって、そのペナルティで階級がしばらく上がらないの。だから班でも下っ端なんだよ」
自分のせいでこうなった。だから仕切り直すことにした。今では清々しいはずなのに、やはりまだうまく笑えないのは、何度思い出しても情けない自分の行動が頭をよぎってしまうからだ。イリスのぎこちない笑みを、けれどもシリュウは気にしていないようだった。
「班での立ち位置がどうであろうと、インフェリア中尉が強いことには変わりありません。身体能力の高さ、剣技のセンスはおれの師であるリータス准将も認めていました。……だからおれは、あなたを超えたい」
誉め言葉を喜ぶ間もなく、真剣な眼差しに射貫かれた。身動きが取れなくなったイリスの代わりに、メイベルがずいっと前に進み出る。
「随分生意気な口をきくな。その心意気は嫌いではないが、あまりイリスをジロジロ見るんじゃない」
「それは失礼しました」
「いやいや、失礼ではないけど……。そんなにはっきり言われると、なんか照れちゃうな」
超えたい、とはっきり言われたのは初めてだ。いつも一緒に訓練をしていて、未だにイリスに勝てたことのないルイゼンだって、「次こそ勝ってやる」くらいしか言わない。どちらの気持ちもまっすぐであることには変わりないのに、シリュウのそれはあまりにも鋭かった。本当に刀の切っ先を突きつけられたような感覚に、ひやりとした。実際のところ、照れる、なんてとんでもなかった。
「なんか危なっかしいなあ、シリュウ君」
カリンの密かな呟きは、イリスにも聞こえなかった。

終業時間も間近になって、イリスは大総統執務室に呼ばれた。いつも通りに入室すると、ふわりと花が香る。レヴィアンスの机に、あまり似つかわしくない花束があったのだった。
「うわ、どうしたのこれ。もう結婚発表してるんだから、ファンからってことはないよね」
「結婚していようがいまいが、そのへんは関係ないよ。まあ、ファンからじゃないんだけどさ」
うんざりしたように息を吐いたレヴィアンスに、ガードナーがお茶を出した。イリスにもカップをくれる。今日はミルクティーだった。
「各地方指令部からいただいたんです。紅茶は南方司令部、ミルクは北方司令部、花は西方司令部、それから東方司令部からはこちらの焼き菓子を。異動のご挨拶ですね」
ガードナーが出した焼き菓子は、表面がこんがりとした、一見してパイのようなものだった。勧められるままにイリスが齧ると、中に癖のある甘さの餡が入っている。ガードナーが、ドライフルーツを潰してよく練り合わせたものだと説明してくれた。
「いかがです? 私は食べても何も感じませんでしたが、イリスさんは舌が痺れたりということはありませんか?」
「ないですけど……って、もしかしてレヴィ兄に食べさせる前の毒見ですか」
「申し訳ありません。閣下に何かあっては一大事なので」
「イリスに何かあっても一大事なんだけどね。なにしろオレたち、各方面から狙われてるから」
レヴィアンスも菓子を摘み、無造作に口に放り込む。癖のある味があまり好みではなかったのか、少しだけ顔を顰めた。
しかし、挨拶の品を毒見するとはどういうことだろう。イリスは菓子の残りを食べながら、視線でガードナーに尋ねる。彼はすぐにこちらの意を察して説明してくれた。
「今回異動してきた方々の中に、裏と通じている人物がいる可能性があるのです。というより、その可能性が高い人物を各指令部で調査してもらい、こちらに差し出していただいたというのが正しいです」
ごくん、と大きな塊を呑み込む。のどに詰まったものを通すようにミルクティーを一気飲みして、口の中をやけどした。だが、そんなことを気にしている場合ではない。
「それって、カリンちゃんやシリュウも? 功績が認められたんじゃないの?!」
やっとのことで叫ぶと、レヴィアンスが自分の唇に人差し指を当てた。静かに、ということは、これは極秘事項なのだ。カリンたちの様子を思い出してみたが、おそらくはそんな意図で選ばれたとは思っていないだろう。
「裏が利用するなら、ある程度力をつけている人材じゃないとね。入隊したての子供とかは洗脳しやすいけど、動かしにくい。あまり長いこと軍にいる人間だと、勝手な判断をしがち。イリスたちと同年代くらいがちょうどいいんだよ」
「でも、だからって……少なくとも、カリンちゃんとシリュウは違うよ」
一緒に行動していて、怪しいとは思わなかった。カリンはメイベルの妹だし、シリュウは軍人という立場に真摯に向き合っているように見えた。あの子たちが裏と通じているとは考えられない。眉を顰めるイリスに、レヴィアンスは落ち着いて静かに言う。
「もちろん、ここに来たから即容疑者ってわけじゃない。本当に優秀な人材が集まった。地方で活躍していたんだから、そのまま残していても良いはずだった。それなのに各指令部長やそれに準ずる者が、彼らを中央に送り込んだ。経緯は様々だけどね」
執務机に、顔写真付きの書類が並べられる。今回中央に移動してきた人物の個人データだ。全部で五つ、イリスは今日中に全員の顔を見ていた。
西方司令部で主に事務での仕事ぶりが認められ、司令部長から推薦を受けたカリン・ブロッケン。東方司令部での事件解決の功績と剣技の能力の高さが評価され、上司から推薦を受けたシリュウ・イドマル。この二人以外には、事務室で会った。
南方司令部から来たミルコレス・ロスタとシリュウとともに東方司令部から来たジンミ・チャンは、同じ事務室の別の班に配属されている。それぞれ各指令部長からの推薦を受けていた。そしてネイジュ・ディセンヴルスタは新しい事務室長だ。ルイゼンが「付き合いにくい人だ」とこっそりぼやいていた。彼だけは自ら志願して中央に来ている。
一見して、彼らには優秀であるということ以外の共通点はないように見える。けれども個人データの備考欄には、すでに印がつけられていた。
「サーリシェレッド」――五人全ての但し書きに、その単語が入っている。事務仕事が主であるはずのカリンすらも。
「軍では『指定品目の違法輸出入案件』としてまとめている。すでに大きなジャンルとなっている危険薬物を除く、勝手に国内に持ち込んだり、国外に運び出したりしちゃいけない貴重品に関わるものだ。その国独自の特産品や工芸品なんかが、正式な手続きを踏まずに国境を越えるとこれに抵触する」
実は危険薬物に並ぶ、裏の資金調達の手口の一つなのだと、レヴィアンスは説いた。危険薬物はあらゆる方法を用いて運びやすくすることができるが、こちらはそれよりも扱いにくく、それゆえに事件としてあがってくることは少ない。だが、成功すれば莫大な金が動くことになる。
「サーリシェリアの特産である鉱石、サーリシェレッドは特に狙われやすい。取り扱いの資格を得れば動かせるし。現にうちのじいちゃんやシルビアさんが取り扱いと加工の資格を持ってて、だからこそスティーナの武器である証拠としてサーリシェレッドの装飾を施せた」
「サーリシェリアの国家資格で、非常に難易度が高く、また少しでも規定違反をすれば剥奪される資格です。ですから大陸中で資格を持っている人間はごくわずかで、それもサーリシェレッドを貴重なものにしている要素となっています」
そんな貴重品の扱いに、この五人が関わった。違法取引の取り締まりで活躍していたり、偽物の売買を見抜いて中止させたり。全員が一度はサーリシェレッドに触れている。
「でも、それがどうして裏と通じることになるの」
「サーリシェレッドの違法取引に関わったってことは、裏と直接接触したってこと。若者を唆して仲間に引き入れるのは、奴らの得意技、常套手段だ。それこそ一瞬でも時間があれば十分。裏がイリスを狙っていることが明らかである以上、接触した人物は調べあげて監視下におかないと」
「暴論だよ。接触しなきゃ捕まえられないでしょ」
「接触して捕まえきれなかったんだ。優秀な彼らの、珍しいミス。それを怪しんだ各指令部長が、中央に対象人物を送ってくれたんだよ」
それでも説明不足だ、とイリスは思う。たとえばカリンなどは、そもそも外での任務が苦手なのだから、失敗くらいするだろう。不満を込めてレヴィアンスを睨んでいると、ガードナーに宥められた。
「イリスさん、閣下が言っている可能性は五十パーセントに満たないものです。人員を集めた理由のほとんどは、先に説明した通り、あなたを守るために相違ありません」
「それはありがたいけど……」
「それより、少し状況を整理してみましょう。『指定品目の違法輸出入案件』は、あがってくることがとても少ないものです。いつもなら年に数えるほどしかないものが、ここ最近地方で立て続けに起き、実行犯の完全確保に至らなかった。少しばかり急な話ではありませんか」
穏やかな声が、イリスの頭に上っていた血をよく巡らせ、視点を変えさせた。裏ですら難しいとしている案件が、こうも続いて起きるものだろうか。しかも中央以外の各地方全てで。サーリシェリアに最も近い南方司令部だけではなく、遠いはずの北方でまで事件は起きている。
「ディセンヴルスタ大佐は、自分から中央に来たんですよね」
「ええ、彼はもともと中央で働くことを望んでいました。今回の異動は、先だってのサーリシェレッドの違法取引を取り締まったリーダーとしての責任をとりたいとのことです」
「取引が中央に来る絶好の機会になった、とも考えられるよね。人を募ったのはオレなんだけどさ」
イリスは考え込み、客用のソファにどっかりと腰を下ろした。とりあえず、サーリシェレッドと裏社会に関係がありそうなこと、そしてそこに触れた誰かが裏に取り込まれている可能性があるということは把握した。
だがレヴィアンスの性格からいって、彼らを集めた目的は、「誰か」をあぶり出すことではないだろう。それとわからないように軍側に引き戻し、何事もなかったことにする。それが一番良い手だ。もちろん、裏の情報があれば引き出すのだろうけれど。
「……うん、わかった。今はそれで納得しておく。わたしたちは、それとなく異動してきた人たちの様子を見ていればいいんだね」
「イリスは自分の身の安全も確保すること。あんまり単独行動をとらない、対象人物と二人きりにならないことを心掛けてよ。サーリシェレッドにはちょっと気がかりな別名があるんだ」
レヴィアンスが口にしたその言葉に、イリスは息を呑んだ。たぶんこれが本題だったのだろうと、でなければわざわざ自分が呼び出されて話を聞かされる理由にならないと、判断した。これは大総統補佐のイリスではなく、イリス・インフェリアという人間に対する警告だった。
サーリシェレッド。主に裏で使われるその別名は、「魔眼」。

軍の男子寮の一室で、フィネーロはその名を口にした。
「目立った多功績者といえば、閣下を除けばタスク・グラン大将だろうな。三年前、大総統候補にも挙がっていた。ゼウスァート閣下がその立場に決まってからは、大総統補佐になるのではないかとしばらく噂になっていた」
すぐに覆されたがな、という結末は、ルイゼンも知っての通りだ。大総統補佐にはガードナーが選ばれ、タスク・グラン大将は三年前から現在に至るまで将官室長を務めている。
名前を聞けばすぐに顔が浮かんだ。たしかに功績は多く、よく目立つものばかりだ。キメラ討伐に、大規模な裏組織の検挙。危険薬物事件にもよく関わっている。将官室長になる前は実地での大立ち回りが注目されていたなと思い出した。とにかく、彼の行動は目立っていたのだ。圧倒的な存在感は、イリスにも似ている。
「グラン大将って、ルーファさんが引退するまで直属の部下だったんだよな。それもあって結構有名だったのに、なんで忘れてたんだろう」
「おそらく、ルイゼンが閣下に近くなったからだろう。将官たちとの関わりは、僕らはあまりない。だが閣下とガードナー補佐大将とはかなり親密になっている。普段は将官室から出られないグラン大将に気がまわらないのも無理はない」
なるほど、と頷きながら、ルイゼンはネイジュの言葉を思い返していた。――無功績の人を選んだ。これは間違いなくガードナーのことで、より多くの功績を上げた「補佐に適切な人物」はきっとグランのことだろう。
「ディセンヴルスタ大佐は、グラン大将贔屓なんだろうな。俺はガードナー大将が無功績だとは思わないけど、あの人はそう言った」
「ガードナー大将が補佐に就任した当初は、そういった反発があったそうだからな。しかし見事に補佐の役割を果たし、周囲を黙らせたのだから、やはり適任だったのだろう」
「だよなあ……」
まさか今になって、文句を言う者が現れるとは思わなかった。立派に務めを果たしているガードナーを見て、無功績なんて言葉が出るはずはない。彼がいなければ、暗殺未遂事件だって未遂に止められなかったかもしれない。
「……フィン、俺、あの大佐苦手だ。うまくやれなかったらごめん」
「うまくやろうと思わなくていい。閣下がわざわざあの人を事務室長にしたのも、何か理由があるんだろう。これまでと全く違うタイプの人間を置いて、ルイゼンの力を伸ばそうとしているとか」
「それこそ贔屓だろ。俺、そこまで贔屓される人間じゃないよ」
贔屓ではない、とフィネーロは言おうとして、やめた。そのうちルイゼンもわかるだろう。
話題を変えようとして、ふと思い出した。情報処理室にも新入りが来たのだ。リーゼッタ班と同じ事務室を使っている別班に、情報処理担当として配属されたということだった。
「ロスタ少佐と少し話した。彼は僕の武器に興味を示していたな」
「鎖鎌なんて珍しいもの持ってるからだよ。誰でも気になるだろ」
「いや、本体ではなく装飾に。スティーナ鍛冶であつらえてもらったから、サーリシェリア鉱石が使われているだろう。それを羨ましがられた」
「そういえば珍しいんだっけ、それ」
返事をしてから、ルイゼンも思い当たった。ロスタ少佐と同じ班にチャン中尉も配属されていたが、彼女の右耳には赤い石のピアスが光っていた。あれは本物のサーリシェリア鉱石――サーリシェレッドではないだろうか。だとすればかなり値の張るものだ。
「いや、まさかな。とてもアクセサリーとして持てるものじゃない」
フィネーロの訝し気な表情をよそに、首を横に振る。そんなものをアクセサリーとして気軽に持っていられるのは、よほどの人物だ。
たとえば、名家のお嬢様とか。あまり言葉は似合わないが、イリスはサーリシェリア鉱石のブローチを持っている。彼女にとって大事なものなので、めったに使うことはない。
「……あれ? あいつ、そういえば剣にも紅玉ついてんじゃん。贅沢だな」
「なんだ、イリスのことを考えていたのか。君も大概諦めないな」
「そっくりそのまま返す。あと、今のはそういう意味で考えてたんじゃないから」
スティーナ鍛冶が店を構えているレジーナでは、サーリシェレッドはさほど珍しいものではない。だからこそ価値を忘れがちだ。それは、国を動かすことのできるものなのだと。ゆえに「魔眼」と呼ばれているということも、知られていない。


翌日から、いよいよ本格的に新体制が動き出した。ネイジュの事務室長としての仕事ぶりに問題はなさそうだ。引き継がなければいけないものは昨日のうちにルイゼンが全て片付けた。もちろん、ルイゼンでなければわからないものも処理済みである。
同じ部屋の別の島では、ジンミ・チャン中尉が巡回の準備をしている。元から中央にいる者と行動を共にするようだ。ミルコレス・ロスタ少佐は早々に情報処理室へ向かっていた。
そしてリーゼッタ班。カリンが朝早く来て机を拭いてくれたのを褒めながら、シリュウの様子を確かめる。落ち着き払った態度は、イリスが見る限り、怪しいところなどない。
――やっぱりレヴィ兄の考えすぎじゃないのかな。
とはいえ、サーリシェレッドに関係する事件については気になっていた。メイベルはカリンの仕事について知らないということだったので、本人たちに直接尋ねようと思っている。どう切り出したものか、と考えながら今日の予定を確認していると、カリンのほうから話しかけてきた。
「イリスさん、武器変えたんですよね。私物の剣を登録したんだとか」
「そうそう、前に使ってた軍支給のは壊しちゃったから。良い機会だと思って奮発したんだよ」
机の側に立てかけておいた剣を指さすと、カリンは柄をじっと見つめた。スティーナ鍛冶で作られたものなので、サインの代わりのように紅玉があしらわれている。正真正銘のサーリシェレッドだ。
「剣、気になる?」
「剣が、というより、柄の装飾がちょっと。中央に来ることが決まる少し前に、わたし、あれで失敗をしていて」
やはり該当する事件があったのだ。イリスは少し身を乗りだし、何があったの、と何気ない風を装って訊いた。カリンは困ったように眉を寄せ、ぽつぽつと話し出す。
「ひと月くらい前でした。視察のための遠征任務に連れて行ってもらったんですけれど、そこで会っちゃったんです。違法輸入した宝石の売人に」
「あれと同じ、サーリシェレッドの?」
「はい。他にも国外でしか採掘されないものや、特別な許可がないと扱えないような宝石を幾つも持っていました。許可を得ている人なら問題がないのですが、念のためわたしたちの上司が調べて。相手が許可証を持っていなかったので、本来ならそのまま連行するべきだったんです」
本来なら。ということは、そうならなかったのだ。カリンが悔しそうに小さく息を吐くさまは、姉にどこか似ていた。
「上司がその場を離れなくてはならなくなり、わたしはその人を見張っているようにと言われました。一人での見張りでした。相手はわたしの態度を見て判断したんでしょうね、ポケットから突然許可証を取り出したんです」
勉強不足でした、と歯噛みした妹を、メイベルが睨んでいた。話を全て聞いていたのだ。口を出される前にカリンが視線に気づき、もうわかってるよ、と言った。
「宝石の種類が複数あったなら、その分だけ許可証が必要。そして指定鉱石の許可証は、とてもポケットから取り出せるようなものじゃない。その時のわたしはそれを知りませんでした。ただ、思い出したように提示された許可証が本物かどうかは疑いましたよ。その隙をついて、相手は逃亡を図りました。……わたしの腕を掴んだまま」
視察のための遠征任務の際は、たいてい私服での行動になる。装備の薄い状態でも、軍人なら多くの者は対応できるはずだ。だがイリスは、そしてメイベルも、カリンの弱点をよく知っていた。
「売人は男だな。お前はまた男が怖くて、対応できなかったのか」
メイベルの冷たい声に、カリンは目を伏せて頷いた。幼少期の経験がもとで、彼女には少々男性恐怖症のきらいがある。乗り越えようとはしているものの、とっさに反応できないことがまだあるようだった。
「上司がすぐに気づいて助けてくれたんですけれど、売人は逃がしてしまいました。まだ捕まっていません。完全にわたしのミスです」
「痛恨のミスだな。私が上司なら罵倒しているところだが、どういうわけかお前はその後中央へ栄転が決まった」
「お姉ちゃんならそうするよね。わたしも中央への異動が決まったのはおかしいなと思ってる」
裏の人間と思われる者に接触していたのは事実のようだ。連れ去られそうになったのは、裏に引き入れるためだったかもしれない。だが、唆されるなどといったことはないようなので、カリンはシロだろう。
「それ以上にカリンちゃんが今まで頑張ってきたことが認められたんだよ、きっと。ベルはあんなこと言ってるけど、わたしたちはカリンちゃんの味方だからね」
「ありがとうございます」
にこ、と笑ったカリンにホッとしてから、イリスはシリュウの様子を窺う。こちらの話を聞いていたのかいないのか、彼は黙って机に向かっていた。中央に移ってきて、提出しなければならない書類がいくつもあるらしく、それを片付けているようだった。
他の四人にも、サーリシェレッドが絡む事件との関わりがある。カリンのようにほんのわずかな接触かもしれないし、もっと深い関係があるのかもしれない。ネイジュは担当事件の責任をとろうとしたというから、裏との関わり方はより深いだろう。それはいったい、どんな事件だったのか。
「メイベル、そろそろ新兵訓練に行け。イリスは閣下の手伝いが入ってるんだろ。カリンとシリュウは俺と一緒にここでの仕事をしようか」
ルイゼンから指示が飛んだ。返事をしながら、イリスはこれからのことを考えていた。



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posted by キルハ制作委員会 at 15:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 小ネタ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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