2016年07月18日

その人を呼ぶこと

軍家インフェリア。建国御三家の一柱であり、この国の頂点である大総統を何度も輩出している名家だ。歴史の文献にも名を遺し、その力は伝説として語り継がれる、「地獄の番人」。
「君がニールか。賢そうな顔をしてるな。まあ、そんなに緊張せずに、そこにあるクッキーでも食べろ。茶はとりあえずアップルティーにしてみたけど、他にもいろいろあるぞ」
施設にあった歴史の本にそう書いてあったから、どんな怖い家なのかと思っていた。けれども自分を引き取ってくれたニアがインフェリア家の人間だと知り、少しイメージが変わった。さらにニアの妹であるイリスがとても気さくで明るいお姉さんだとわかって、インフェリア家が軍家であることを忘れた。
「ああ、自己紹介をちゃんとしておかなきゃな。俺はカスケード・インフェリア。ニアとイリスの父親だ。ニールは気軽に、おじいちゃん、と呼んでくれていいぞ!」
そしてこの現当主に会って、インフェリア家への恐怖は完全に消え去ったのだった。
「え、ええと……」
血の繋がりもないのに、本当におじいちゃんなんて呼んでいいものか。戸惑うニールに、ニアが微笑む。
「気にしないで、好きなように呼べばいいよ。それとクッキーは、ニールの口に合わないかもしれないから、手を出さないほうが無難かも。買ってきたケーキを切るから待ってて」
「は、はい……」
ニール・シュタイナーは、この日初めてインフェリア家を訪れた。先日、もう一人の引き取り手であるルーファの実家に行って、盛大なもてなしを受けてきたところだが、こちらも負けてはいない。大勢の使用人や毛足の長い豪奢な絨毯こそないが、歓迎の度合いはどうやらそう変わらない。
ニアとともに簡単に挨拶をするはずが、いつのまにやら椅子に座らされ、テーブルの上にたくさんのお菓子と良い香りのするお茶を広げられていた。
緊張しながらカップを手に取り、リンゴの香りのお茶を一口飲んで、ようやく息を吐くことができた。お茶の味は、普段生活をしているニアとルーファの家のものと同じだ。
「美味いか?」
しかしそう尋ねてくる声は、さっき会ったばかりの人のもの。ニアと同じ暗い青色の髪と海色の瞳をしているが、体はずっと大きい。年齢は五十をとうに越えて六十に近いというが、もう少し若く見える。だがたしかに、ニアたちよりは年上であり、この大きな家の主らしい風格もどことなく感じるのだった。口調が明るいので、その分だけ、ほんの少しだが、気が楽だった。
「お、美味しいです。クッキーもいただきます」
手を伸ばして、皿に盛られたクッキーを一枚取る。ニアが「あ、だからそれは」と言うのが聞こえたのと、クッキーを口に含むのは同時だった。……食感はたしかにクッキーなのだが、味がおかしい。クッキーとは砂糖が入っているものではなかったか。少なくとも唐辛子や胡椒は入らないはずだが。
「……か、からい……?」
「ほら、だから口に合わないかもって言ったのに。母さん、ニールのは甘くしてって言ったよね」
「もう甘いクッキーの作り方なんて忘れちゃったわよ。またシェリーさんに訊かなくちゃ」
台所から聞こえる可愛らしい声が、恐ろしいことを言う。やっぱりインフェリア家は怖い家かもしれないと、また思い始めたニールだった。

今日はルーファは仕事、いつも遊びに来るイリスも同じく仕事だ。何故かしょっちゅうやってくる大総統閣下ももちろん仕事である。ニアは自由業なので、仕事の調整さえつけば出かけることができる。
インフェリア家訪問も、ニアが引き受けていた仕事を一段落させて、やっと実現できたことだった。ニールについてニアが実家に報告をしてから、一週間が経っている。そのあいだ、ニアのところには「まだニールを連れてこないのか」という実家からの催促の電話が毎日きていた。
「インフェリア家は軍家だけど、父さんと母さんはあんまりそういうの気にしてないから。怖がることはないよ。それより早くニールに会いたいみたい」
半ば呆れて引き攣った笑いを浮かべ、昨夜のニアは言った。軍人はまだ少しだけ怖いが、ニアがそう言うなら行ってみたい。ニールはそう思って頷き、この家を訪れた。実際、カスケードも、ニアの母であるシィレーネも、元軍人とは思えないような、優しくて人懐っこい人物だ。それをいうなら、現役の軍人であるイリスもそうなのだけれど。
「わあ、ニアの小さい頃の服がぴったり! これなら買っておいた新しい服も着られるわね」
シィレーネが古くもきちんと手入れのしてある服をニールにあてて喜ぶ。残念なクッキーを作ってしまう人だが、ニールのことは本当に可愛いらしい。
「やっぱり小さい子はいいわね。成長してももちろん可愛いんだけど、この年頃はまた違うのよ。ニアもイリスも、こんなにちっちゃかったのにね」
ニールには想像ができない。自分が着られるような小さい服を、ニアやイリスも着ていたことがあるだなんて。二人とも、年齢の割に背が低く手足も細いニールから見れば、随分と大きいのに。
「昔のニアは絵を描くのが好きだったな。あ、それは今もか。性格は素直で可愛かったんだぞ」
「はいはい、今は可愛くないね、ごめんね。ニール、新しい服着てみたら? 母さんたち、気合入れて選んだらしいよ」
「新しいの……いいんですか?」
「もちろんよ! それとね、敬語なんかいいわよ。気軽におばあちゃんって呼んで」
おばあちゃんと呼ぶには、シィレーネはまだ若いような。そんな気持ちもあって、ニールはその言葉を口に出せない。とりあえずは「はい」と返事をしておいた。
インフェリア家の人々は、思っていたよりずっと元気で賑やかな人たちだ。顔をよく見れば、ニアはシィレーネに、イリスはカスケードに似ているようだ。そこに全く似ていない自分が入っていいものか、とニールはどうしても考えてしまう。ニアやイリスは、家族だ、と言ってくれるけれど。
新しい服もどうしても不釣り合いな気がしてしまって、嬉しいのに、少し胸が苦しかった。
「おお、よく似合ってるじゃないか。写真を撮っておこう」
喜んでカメラを構えるカスケードに、本当は笑顔を向けるべきなのだろう。でもニールは、うまく笑えている気がしなくて、ついニアの後ろに逃げ込んでしまった。カスケードたちに、こんなに良い人たちに、ぎこちない表情を残すなんてできない。
「写真、あんまり好きじゃなかったか?」
「いきなりカメラ向けられたらびっくりするよ。レヴィもカメラ持って来るけど、未だに撮らせてもらえないんだから」
「まあ、そうだよな。俺が悪かった。写真はもっと慣れてからだな」
カスケードがカメラを下ろすと、ニールはホッとした。そんな自分が嫌になった。
本当に可愛い子供というのは、大人に笑顔を見せるものだろうに、自分はそれができないのだ。母を喪ったあの日に、笑顔は置いてきてしまった。ちょっと笑うくらいならする。面白いことは面白いし、嬉しいことは嬉しい。でも、それを表に出せている気がしないのだ。
ニアの後ろから出てこないニールを、カスケードはしばらく見ていた。それから唐突に、ぱちん、と指を鳴らして、何か愉快なことを思いついたという顔をした。ここ最近見ていた、絵を描くのに良い色を作ることができたときのニアに似ている。
「よし、ニール。今日はいい天気だし、気温もなかなか高い。そんな日にぴったりのいいものを、俺と一緒に食べに行こうか」
「食べに、ですか?」
テーブルの上に、もうたくさんお菓子があるというのに。でもそんなことはまるで気にしていないふうに、カスケードは鼻歌まじりにこちらへやってきた。そして突然、ニールの脇の下に手を入れ、ひょいと頭上に掲げた。
「わ、わ、高い」
「だろ? 足を俺の肩にかけろ。……そうそう、上手だ」
言われるままにすると、肩車になった。建物にあがる以外の方法で、こんな高さでものを見たことはない。誰かの肩に乗るなんて、生まれて初めてだった。
「そっか、それは父さんにしかできないね。ルーだと微妙に低いし。ていうか、よくそんな体力あるね」
「ニールが軽いんだ。ちゃんと食ってるか? ニア、普段の食事はどうしてるんだ」
「グレイヴちゃんやアーシェちゃんの差し入れか、パン食べてる。イリスにはもっと食べさせてあげなよって怒られた」
「それは怒るだろ。ニアは俺とニールが出かけているあいだに、シィに料理を習っておけ。辛くないやつな」
どうやらカスケードは、このまま出かけるつもりらしい。ニールは戸惑った顔をニアに向けたが、「いってらっしゃい」と帽子を渡され、手を振られてしまった。ドアを通るときも言われるままに頭を下げ、玄関で靴を履かされ、そのまま外へ連れ出されてしまう。
「本当にいい天気だな。帽子、ちゃんとかぶっておけよ」
「はい……」
視界が広いおかげで、肩車は、それも二メートルをゆうに超えたものは目立つということもよくわかってしまった。ニールは帽子のつばで顔を隠し、カスケードの肩の上で背中を丸めた。

街は、ニールが母を喪う前と後とで変わっている様子がない。インフェリア邸に向かうときも思ったが、誰も何事もないように歩いている。賑やかに笑い、ある人は怒り、何を考えているのかまったくわからない人もいる。自分と母が巻き込まれた事件は随分と話題になったそうだが、それも一時期のことで、今はみんな忘れてしまっているのだろう。
視線が集まっている気がするのは、肩車が目立つからで、それをしているのがカスケードだからだ。ときどき、「元大総統閣下だ」という囁きが聞こえる。それが耳に届けば、カスケードはすぐにそちらを振り返り、手を振って挨拶をするのだった。
「こんにちは、いい天気ですね」
「ええ、暑いくらいで。あの、そちらのお子さんは?」
「うちの新しい家族です。どうぞよろしく」
普通なら変に思いそうな紹介も、なぜか誰もが「インフェリアさんのとこなら」と納得した。飴をくれる人もいる。「またですか」と笑われることもある。……また?
歩きながら、カスケードが説明してくれた。どうやらインフェリア邸には、ニールがまだ会っていない住人がいるらしい。
「ラヴェンダっていうお姉さんがいるんだよ。見た目はイリスと同じくらいか。お父さんが迎えに来るまで、うちで預かることになってるんだ。パン屋で仕事してるから、ちょっと顔を出していこう」
そう言って、美味しそうな良い匂いのする通りに入り、脇に整然と並ぶ店の一軒に入ろうとした。が、扉の前で止められる。「ちょっと、お客さん」と声をかけた相手を見下ろすと、店の看板と同じデザインの文字が書いてあるエプロン姿の女の人だった。
「店に入るときは肩車禁止。そんなに広い店じゃないからね」
「惜しいけど仕方ないな。そうだ、シェリーちゃんにも紹介するよ。うちのニール」
屈んで、ニールを肩からおろしながら、カスケードが言う。パン屋の人らしい女性は、「ああ、シィが言ってた子」と頷いた。
「可愛いじゃない。エイマルの一つ下だっけ。はじめまして、おばさんはシェリアっていうの」
「は、はじめまして。ニール・シュタイナーです」
「小さい頃のニアを思い出すなあ。似てるよね」
「シェリーちゃんもそう思う? ニアよりちょっと内気だけどな。ニール、シェリーちゃんはニアのお母さんの親友なんだ。うちのパンはだいたいこの店のだな」
道理で親しいわけだ。納得するニールの頭を帽子の上からぐりぐり撫でてから、シェリアは店の中へ通してくれた。
パンの香ばしい匂いと、果物やハーブの香り。以前、ここではない別の店に、母と行ったことを思い出した。大きくて甘いパンを一つだけ買って、二人で分けて食べたのだった。
対してカスケードは、トレイの上にどんどんパンを載せていく。ニールにも好きなものを訊いてくれたけれど、思い出の中のパンはこの店にはないので、なんでもいいです、と返した。実際、どれが美味しいのかわからない。ニアたちのところに来てから食べているパンも、ここのものではないそうだし。どれも美味しいのだろうけれど、ニールの知らない味であることには変わりない。
「持って帰って、ニアたちと一緒に食べるといい。ニアもここのパンは好きなはずなのに、あんまり来ないからな」
「そうね、私がいるからかしら」
カスケードについてレジカウンターへ向かおうとしたところに、突然女性が立ちはだかった。思わずカスケードの後ろに隠れたが、よく見ると店のエプロンをつけている。栗色の髪をまとめた彼女は、カスケードとニールを交互に見た。
「シェリアから連れてきてるってさっき聞いたけど、本当に小さいのね」
「お疲れ、ラヴェンダ。ニール、この人がうちに住んでるお姉さんだ」
イリスと同じくらいの年頃とさっき言っていたような気がするが、ラヴェンダという人は背がさほど高くなく、顔立ちもイリスより少しだけ幼く見える。けれども、こちらをまるで品定めでもするかのような眼は、もっと年上の人のもののように感じた。
「人見知りするんだよ。さっきは俺も逃げられた」
「へえ。……ま、私はほとんど家にいないから、安心しなさい」
笑顔もなんだか妖しい。この人にはまだしばらく慣れることができないかもしれない、とニールは思った。それに、この人がさっき言ったことも気になる。会計をしてパン屋を出て、今度はカスケードと手をつないで歩きながら、ニールはおそるおそる尋ねてみた。
「あの、どうしてラヴェンダさんがパン屋さんにいると、ニアさんが来ないんですか?」
カスケードは困ったように笑って、「なんて説明したらいいかな」と呟いた。
「ニアは、ラヴェンダとどう付き合っていいか、長いこと考えてるんだよ。仲が悪いわけじゃないんだけど、距離をおいてるんだ。一応はルーのいとこみたいなものでもあるから、普通に仲良くしてほしいんだけどな」
「ルーファさんのいとこですか? ラヴェンダさんが?」
「そのあたりの事情は複雑なんだよ。俺も説明に困る。これはルーに聞いたほうが、わかりやすい答えをもらえるかもしれない。……でも、ラヴェンダも今はうちの大切な一員ってことには変わりない。そのうち慣れてくれよ」
ニールはこくりと頷いて、いつになったら慣れられるかな、と思った。ラヴェンダのことだけではなく、ほかのたくさんのことにも。そこには手をつないでくれている、カスケードの存在も含まれている。
おじいちゃんと呼んでくれ、とこの人は言った。でもニアとニールは親子ではないのだから、カスケードはニールの祖父にはなりえない、と思う。そもそも今までおじいちゃんと呼べる人がいなかったニールには、その存在自体を掴みにくい。この人を、これからどうとらえたらいいのだろう。
インフェリア家の人たちは、ニールにとって何なのだろう。

パンの匂いとともに歩いていくと、人だかりができているのに遭遇した。突然乱暴な怒号が響き、ニールはとっさにカスケードにしがみついた。そっとニールの頭を撫でてくれた手は大きくて優しいけれど、いくらかの緊張が伝わってくる。
「あれは……喧嘩、ではなさそうだな。でも穏やかじゃない雰囲気だ。解散させたほうが街のためだな」
背の高いカスケードには、何が起こっているのか見えるようだ。屈んでニールと目線を合わせると、真剣さと心配が混じったような声で言う。
「俺はあの集団をなんとかしてくる。ニール、ここで待っていられるか?」
周りには通りすがる人がいる。みんな人だかりを避けていく。怒鳴る声が、ときどきそんな関係のない人たちにまで飛んだ。――ここは、怖い。
首を横に振って、カスケードにしがみついた。そもそもなんとかするって、どうするつもりなのだ、この人は。
「……そうだよな、待てないよな、ひとりでなんて。もうそんな思い、したくないよな」
抱きしめ返して、背中を優しく叩いてくれる。この人に危ない目に遭ってほしくない。怖いところなんかさっさと通り過ぎて、もう帰ろう。そう言いたかったのだけれど。
「でも、俺は見過ごせないんだ。あの集団を放っておいたら、怖がる人はもっと増える。軍の見回り時間は、このあたりはもうとっくに過ぎているから、誰かが通報しない限り人は来ない。来たとしても、あれをなんとかするには時間がかかるだろう。そうたくさんの人を寄越せるような案件でもないしな」
カスケードはそのままニールを抱き上げた。そして、帽子を深くかぶり直させて、「耳を塞いで目を瞑っていろ」と囁いた。
この人は何をする気なんだろう。言う通りにしていたら、それがわからなくなる。わからないほうが、怖くなくていいのかもしれない、けど。どうにかできるものならば、どうするのかも気になってしまった。
だからほんの少しだけ目を開け、手は耳に軽く触れるだけにしておいた。がなり立てる声がだんだんと近づいてくる。いや、カスケードが声のほうへ歩いていっているのだ。
「お前たち、何やってるんだ?」
騒いでいた集団にかけた声は、ニールに話しかけるそれとは違う。どきりとするような、重さをもったものだった。
「何って、遊んでるだけだよ」
「弱い奴を鍛えてやってんの。おっさんの出る幕じゃねぇから」
品が良いとはとてもいえない笑い声が響く。ちらりと周りを見ると、人だかりになっていたのはみんながそこに群がっていたのではなくて、そこから動けなくなっていたのだとわかった。腕や足を、おさえたり引きずったりしている。屈んでいるのではなくて、体を痛めて立ち上がれないのだ。
「何をして鍛えてたんだ」
「アームレスリングだよ。足も使うけどな」
それはもう、アームレスリングとはいわないのでは。少なくとも、ニールの知っているそれとは違う。そっと振り向くと、カスケードより身長は低いが、腕の筋肉が隆々と盛り上がっている男がいて、足を踏み鳴らしていた。この男と取り巻きが、周りの人たちを痛めつけたのだろう。
「そういう感心しない遊びがあるのは聞いたことがあるけど、往来でやるのはもっと良くないぞ。通る人が怖がってるじゃないか」
「知るかよ。無謀な挑戦してくる小者と逃げてく弱虫なんか、どうでもいいね」
そうだ、そうだと取り巻きたちが騒ぐ。どうでもいいなら放っておいてくれればいいのだけど、彼らの言い分はきっとそういうことではないのだ。「自分たちが何かをした結果、他がどうなろうと、どうでもいい」という、なんとも身勝手な思いがそこにある。その「悪意」を、ニールは知っていた。その「悪意」に大切な人を奪われ、自分も殺されかけたのだ。
やっぱり、言われたように耳を塞いで、目を閉じていよう。怖くないように。
「じゃあ、勝算のある挑戦者ならどうだ。どうでもよくはならないな?」
けれども力強い声に聴き入ってしまった。目を開けて、その表情を見たくなってしまった。
「俺も勝負を申し込もうじゃないか。そして俺が勝ったら、この場から速やかに立ち去るように」
ニールは顔をあげる。男たちを睨むでもなく、ただまっすぐにその海色を向ける人が見えた。
「なんだこのおっさん……」
男の声が震えたのがわかった。気圧されたんだ、と思うと、ニールの胸がどきどきしてくる。怖いからではなく、これから何が起きるのかという期待だ。不思議と恐怖は薄れていて、自分から口を開くことができた。
「あの、僕、おりて見てます」
「見てるのか? ちょっと離れててほしいんだけど……」
「わかってます。道の向こう側にいます」
カスケードが地面におろしてくれたのと同時に、ニールは走ってその場を離れた。そして通りかかった人を思い切って引き留め、頼みごとをした。
道の向こうではカスケードが相手と手を組み、肘を台の上に置いた。取り巻きの合図で、アームレスリングとは名ばかりの、数人がかりでの酷い暴行が始まった。
取り巻きがカスケードの足を、わき腹を、蹴ったり殴ったりする。周りで動けない人たちも、ああして攻撃されたのだろう。そんな中で、腕に力を込めろというのが無茶だ。
「どうした、おっさん。大口叩いてこの程度かよ!」
男がカスケードの腕を倒そうと、力を込めている。それは遠目にもわかる。だがその口調とは裏腹に、どこか焦っているような。ニールの目と耳には、そう感じた。
腕に力を込められているはずなのだ。体中に拳や蹴りも浴びている。だが、カスケードの体は動いていなかった。腕をねじられ倒されることもない。男がリードしているように見えるが、その位置で止まっている。
ついに頭まで殴られるのを見て、ニールは思わず目を瞑った。だがもう一度開いたとき、状況はその前と何一つとして変わっていなかった。――いや、違う。男と取り巻きたちが戸惑っているのが、はっきりと見えた。
「……この程度、ね。俺も同じことを、お前らに訊きたい」
遠くから来る足音も、車のやってくる音も、ニールの意識に入ってこない。聞こえてくるのは、獅子の呻り声のみ。
「この程度で威張っていたのか? 不良一人よりぬるいぞ。まだまだ経験が浅いな、若造ども!」
目に飛び込んでくるのは、腕だけではなく体ごとひっくり返される男と、散って逃げる取り巻きたち、その中心に堂々と立つ、青い大きな獅子の姿。
ああ、これだ、とニールは息を呑む。これが「地獄の番人」、インフェリアなのだ。

逃げようとした取り巻きたちは、すぐに駆けつけた軍人に取り押さえられた。体を打撲や捻挫で痛めていた人たちは、軍と一緒にやってきた救急隊に運ばれた。それを地面に転がったまま唖然として見ていたリーダーの男は、軍人の少女に襟首を掴まれた。
「まったく、この忙しくて暑い日に、変な騒ぎなんか起こしてくれちゃって。元大総統相手に暴れたって、敵うわけないじゃない」
現場にやってきたイリスは大きな溜息を吐き、男を立ち上がらせた。すっかり大人しくなってしまった彼は、されるがままに従う。
「イリス、悪いな。予想より来た軍人が多いみたいだけど、レヴィの判断か? それと救急まで」
服についた土埃を払いながらカスケードが尋ねると、イリスはさらに眉を顰めた。
「レヴィ兄じゃないよ、こんな些細なの。でも、カスケード・インフェリアが大勢の人を相手にしてて、怪我人も何人も出てる、なんて通報受けたら、こっちだってそれなりの対応しなきゃいけないじゃない。わたしは別の仕事があったんだけど、お父さんのために動いてあげたんだからね!」
「名指しの通報? そんなの誰が……」
首を傾げたカスケードに、駆け寄ってしがみついた者があった。イリスも彼を注視する。
「あれ、ニール? なんでこんなところにいるの?」
「俺と一緒に出かけてたんだ。ごめんな、怖かっただろ」
カスケードが屈みこんで、ニールの顔を見た。眉が八の字になってはいたけれど、それは恐怖のせいではない。金の瞳に怯えはなかった。
「あの……僕が、通りかかった人に頼んだんです。今、イリスさんが言ったみたいな通報をしてほしいって。ええと、もしかして変な誤解とかありましたか? イリスさんたちに迷惑かけましたか?」
「ニールが?」
カスケードは目を瞠り、イリスは掴んでいた男を放り投げた。男は他の軍人が受け止め、そのまま連れて行く。それをニールが目で追おうとした瞬間に、イリスが抱きついてきた。
「偉い! よく頑張った! ニールのおかげですぐに駆けつけられたんだもん、全然迷惑なんかじゃない!」
「そうだな。俺も熱くなってて、後のことあんまり考えてなかったから、ニールに助けられたよ。ありがとう」
「あ、あの……ええと、僕、迷惑じゃなかったんですね? イリスさん、別の仕事とか言ってましたけど……」
「そんなの気にしないで。いつだって何度だって人を助けることが、わたしたちの仕事だもの。軍を頼ってくれて、ありがとう」
ご協力ありがとうございました、と敬礼してみせたイリスに、ニールは照れながら、ぺこりと一礼した。その頭を撫でながら、イリスはカスケードに向き直る。
「さて、本件の当事者であるお父さんには、色々と訊きたいことがあるんだけど……」
「あとで必ず行く。だから先にニールを送らせてくれ。アイスクリーム食べさせたかっただけなんだけど、どうしてこんなことになったかな」
「アイスね。今度わたしにも奢ってくれるんなら、待ってあげてもいいよ」
その時はまた、ニールも一緒にね。そう言ってイリスは、仕事に戻っていった。

そこはもう長いこと街で人気のアイスクリーム店だそうで、今日も列ができていた。ニールが近くのベンチに座って待っていると、カスケードは「やれやれ」とアイスクリームのカップを持って戻ってきた。
「老体に鞭打った後の行列はきついな。でもここのアイス食べたら回復するんだ、あっという間にな」
「ありがとうございます」
カップを受け取り、いただきます、と言って一口。なるほど、これは行列もできるわけだ。何のトッピングもない普通のバニラ味のアイスクリームなのに、今まで食べたことのない美味しさだった。
「とっても美味しいです」
「だろ? 子供の頃、親友とよく来たんだ」
嬉しそうに、自分もアイスクリームを食べるカスケードは、さっきとはまるで別人のようで、けれどもたしかに同じ人物だった。彼はニアとイリスの父であり、元大総統であり、そしてニールにとっての。
「……さっき、すごくかっこよかったです。こんなにすごい人をおじいちゃんって呼んでいいのかなって思うと、どきどきしました」
今、その呼称を口にするのも緊張した。けれども最初の戸惑いではなく、あんまり嬉しくて、本当にこんなことがあっていいのかと思っての緊張だ。
カスケードはにんまりと笑って、ニールの頭を撫でる。
「好きなだけ呼べ。いや、呼んでほしい。知り合いがおじいちゃんとかおばあちゃんとか呼ばれてるのが、俺も羨ましくてな」
目元の笑いじわも、おじいちゃんと呼ぶのを許してくれるようだった。もう一度呼んでみようか、と思ったけれど、アイスクリームが溶けてしまいそうだったので、食べることを優先した。
お土産にはパン。話したいこともたくさん。これからこんな日が、もっともっと増えていく。そう考えると、アイスクリームの美味しさも相まって、ニールの表情は自然と緩んだ。

その晩、ニールが出かけた先であったことを話すと、ルーファは喜んで聞いてくれた。さすがにカスケードが乱暴者たちのところへ乗り込んでいったあたりでは、肝を冷やしたようだったが。
「帰ってからカスケードさんはすぐに軍に行っちゃったんですけど。ちゃんと事情を話さないと、イリスさんに怒られるからって」
「それはそうだよな。ニールが無事で良かったよ。インフェリア家にも慣れたみたいだし」
あのあと、ニアたちの祖父母、アーサーとガーネットにも会った。厳しそうな人ではあったけれど、すでにカスケードのおかげでインフェリア家の「獅子」たる側面も見ていたので、さほど怖いとは思わなかった。むしろちょっと怖かったのは、台所をごちゃごちゃにしてしまっていたニアとシィレーネのほうだ。
「……で、ニールが出かけているあいだの、ニアの修行の成果がこのスープか。たしかに辛くはないけど、しょっぱくもないな。甘いわけでも酸っぱいわけでもない」
「無味って言えばいいじゃない。おかしいな、母さんと作ったときは、もうちょっと味がしたんだけど」
「あ、あの、僕も何か作れるようになりますから……イリスさんも今度教えてくれるって……」
「ううん、ちゃんとしたものをニールに食べさせられるようにならないとね」
明日の朝は、お土産のパンでいい。でも、お昼以降は何が出てくるのだろう。それを考えると、カスケードの無茶を見ている時よりはらはらするニールだった。
「そういえば、うちでは父さんと母さんのこと、おじいちゃんおばあちゃんって言わないの?」
「直接会ったときに呼ぼうと思います。ルーファさんの家では、まだ一度も呼んでないので」
「呼んだら呼んだで動揺しそうだけどな」
ニールにとって、インフェリア家の人々とは何なのか。結局その答えはまだ見つかっていないけれど、これからまだ探せる。ルーファの実家にしてもそうだ。
ただ、そこにはニールの居場所がちゃんとある。それだけはたしかなのだ。



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2016年07月17日

少年は強くなりたい

緑豊かな広い公園と、その中に建つ大きな建物。この敷地全てが、国立博物館のもの。エルニーニャの一般国民代表を自称する「文派」のトップ、大文卿の管理下の範囲だ。
かつて第二十九代大総統ハル・スティーナの治世において、エルニーニャ王国では王宮、軍、文派の三派が協力し合って国政を取り仕切るという決定がなされた。それまでは軍の長、大総統が、同時に国政のほとんど全てを任されていた。王宮は国の象徴として飾り物のように存在し、文派は軍政廃止を唱える一派として認識されていた時代は、その取り決めをもって終わったとされている。
それと同時に、国立博物館に関わる責任は文派の長である大文卿が持つこととなった。しかし大文卿には他にも、国内の教育制度や福祉の充実といった様々な仕事がある。これらはもちろん大総統や王とともに行なうものであるが、優先度が高く比重が大きいものであることに変わりはない。
そこで大文卿の仕事のうち、国立博物館の運営などが大文卿夫人に任されている。元は軍に所属していた彼女だが、その頭脳と仕事の処理能力は一流だ。
その名を、アーシェ・ハルトライム。旧姓、リーガル。――ニアとルーファによると、元同僚、ということだ。
「子供たちがたくさん参加してくれて嬉しいわ。今日はみんなで、博物館とその展示品について、楽しく勉強しましょうね」
人差し指をぴんと立て、たくさんの子供たちに向かって微笑むアーシェは、なるほど女神といって差し支えない。軍に所属していた頃、司令部内でそう呼ばれ、数多のファンがいたそうなのだ。
優しそうな「今日の先生」アーシェに、子供たちも安心したのか、元気よく返事をする。ニールも一緒に声をあげた。

子供向けの博物館案内イベント。館長アーシェが自ら教えるという。ニールが参加するきっかけは、彼女が夕食の差し入れと一緒にくれたチラシだった。
もともとアーシェは、料理がそう得意ではないルーファとニアのもとへ、頻繁に差し入れをしてくれる。ニールもその機会に挨拶をしたのだ。
「へえ、子供向けのイベントなんてやるんだ」
「そうなの。企画立案は私自ら。というわけで参加者を募ってるの。ニール君、良かったら博物館に遊びに来ない? 面白いもの、いっぱいあるよ」
「だって。ニール、興味ある?」
ニアに尋ねられ、その後ろで今夜の夕飯が入った容器(このまま温めればすぐに食べられるらしい)を抱えたニールは、少し考えた。
「……それ、お金かかりますか?」
「国立博物館は、子供は入館無料です! イベントだってそうよ」
「もしかして、僕らに負担がかかるんじゃないかなんて気にしてる? そんなの考えなくていいのに。それにね、たとえお金がかかったって、ニールのためなら惜しまないよ。ルーは毎日働いてるし、僕の絵だって売れるんだから、そんな心配はいらない」
それなら行きたい、と思った。面倒を見てくれているニアとルーファに負担がかからず、見たことがない珍しいものを見られる。安心して楽しんでいいのだ。ニールはこくこくと頷いた。
「行ってみたいです。博物館なんて初めてですけど、ちゃんとした服を着たほうが良いですか?」
「服なんて普段着でいいのよ。構えないで、気楽に遊びに来てね。同年代の子たちもたくさん来てくれる予定だから、友達もできるんじゃないかな。じゃあ、待ってるわね」
美しく微笑んで、アーシェはニールの頭を撫でてくれた。

博物館に展示されている様々なものも不思議だったが、こんなにたくさんの、同じくらいかもっと小さな子供たちと一緒に歩くというのも、ニールにはなかなかない経験だ。しばらくのあいだ児童養護施設にいたことがあるが、そこではあまり周囲に馴染めなかった。というよりも、馴染む前に次の行き先が決まっていたので、思い入れがあまりなかったのだ。
同年代の友達だっていたことがない。昔も今も、周りは大人だらけだ。今のところ一番歳が近い知り合いはニアの妹であるイリスだが、彼女だって九歳も年上のお姉さんなのだ。向こうもニールを子供扱いしていて、一緒に風呂に入ろうとする。というか、入っている。ニールとしては恥ずかしいのだけれど。
そんななか、「友達もできるんじゃないかな」と言われた。実際に子供がたくさん周りにいて、仲が良さそうにお喋りをしたり、触ってもいいと言われた展示物を囲んできゃあきゃあとはしゃいでいる。この輪の中に、入れるのなら。
「おい、お前邪魔」
ところが期待は、突き飛ばされて萎んでしまった。ニールよりも体の大きな、けれども年頃は同じくらいだろうと思われる少年数人が、割り込んできて言い放ったのだ。――「邪魔」。何度となく意識はしてきたけれど、実際に言われるとこんなにショックなものなのか。
「ご……ごめん」
なんとか謝ると、少年たちに睨まれた。それから、にやりと笑われた。彼らは触れる展示品にこれでもかというくらいべたべた触ってから、それを離れて見ていたニールのところにやってきた。
「お前さ、何歳?」
「え、ええと、八歳……」
「なんだよ、俺らと同じじゃん。そんなにチビでがりがりなのに」
ぎゃはは、と声をあげて笑った少年たちに、「ちょっと静かにねー」と声がかかる。アーシェだ。どうやら次の展示品を見に行くらしい。ニールが慌ててついていこうとすると、少年たちに腕をがっしり掴まれた。
「な、何?」
「俺らさ、こんな退屈なイベント、別に来たくなかったんだよ。でも父さんと母さんが勉強してこいっていうから、仕方なく参加してんの」
「だからもっと面白いことしようぜ。博物館の周り、公園になってるじゃん。そこで軍人ごっこしよう」
「でも、僕、イベントを……」
「弱っちい奴は強い奴に逆らえないって決まってんの。ほら、行くぞ」
少年たちの言う通り、力ではとてもじゃないが敵わない。遠くなるアーシェは、ほかのたくさんの子供たちに展示の説明をするのに忙しくて、こちらに気づいていない。大声を出せばわかるのかもしれないけれど、それでは周りに迷惑がかかる。そのまま引っ張られて、ニールは子供たちの団体が向かうのとは逆の方向に連れて行かれてしまった。

公園では何人かの人が寛いでいた。子供たちが数人、館内から出てきても、特に気にしてはいないようだ。展示に飽きてしまう子供は珍しくないのだから、いちいち気に留めない。
それをいいことに、少年たちはこっそり公園内の木の枝を折って、ニールを取り囲んだ。折られてぐったりとして見える木の枝がニールにも放られる。
「お前は凶悪な犯罪者だ。その武器を持って、軍人に抵抗しようとしている」
少年がこちらを指さして言う。そんなことはない、と言い返そうとしたけれど、彼らの中ではたった今そういうことになったのだから、それは無意味だとわかってしまった。
「俺たちは軍人だ。悪い奴を倒して、捕まえる。階級は……まあいいや、とにかく偉いんだ」
偉い人ほどなかなか出てこないものだと思うけど、という言葉も口にはできなかった。ただ枝を手にしてこちらに迫ってくる少年たちが怖い。もしも首に――以前本当に悪人に絞められたことのあるこの首に手をかけられるようなことがあったら、気絶してしまうかもしれない。今でも、触られるだけでも怖気が走るのだ。怖いときは、もっと怖いことばかり考えてしまう。
じりじりと近づいてくる少年たちから距離をとろうと、後退りしたら尻もちをついてしまった。げらげらと笑われ、「情けねえの」「本当に弱っちいな」とからかわれる。
ああ、そうか。弱いから、こんな目にばかり遭うのか。じゃあ、仕方のないことなのかもしれない。ニールは諦めて、目を伏せた。
「ねえ、まだ館内の見学終わってないよ?」
きれいな声が前方、少年たちの向こうから響いたのは、そのとき。アーシェが来てくれたのかと思ったけれど、もっと子供の声だ。けれども発音ははっきりしている。
顔をあげると、少年たちも振り向いていた。その先にいたのは、女の子。たぶんニールや少年たちと同じくらいの子供で、ここにいるということは、イベントに参加していたはずの子だった。
赤茶色の髪はふわふわした癖っ毛で、同じ色の大きな目がしっかりとこちらを見ている。美少女と言って間違いないその子に、情けない姿を見られているのが恥ずかしくなって、ニールはまた顔を伏せた。
だが、女の子はもう一度言う。――ああ、この声は、木琴の響きに似てるんだ。ころん、と可愛い、澄んだ音。
「今ならまだ追いつけるよ。アーシェおばさま、説明が丁寧でゆっくりだから。ね、行こう」
「なんだよ、女はあっち行ってろよ」
一番体の大きな少年が返した。でもその声は少しくぐもっていて、たぶん女の子に戸惑っているんだろうということが、ニールにはわかった。
「だって、あなたたち、イベントに来たんじゃないの?」
「あんな退屈なの、やってられるかよ。だいたいお前だって抜け出してきたんじゃないか」
「あたしはいいの。参加者じゃなくて、スタッフだもの」
「はあ? どう見たって子供じゃん。スタッフなんて嘘に決まってる」
それだけは少年たちに同意せざるを得ない。こんな女の子がスタッフだなんてありえない。博物館で働いているのは、そのための勉強をたくさんした大人のはずだ。ニールも思わず、怪訝な表情を彼女に向けてしまった。
しかし女の子は堂々と、もう一度言う。
「ちゃんとアーシェおばさま……館長に認められたスタッフよ。こう見えて博物館には何度も来てるし、展示品の説明だって常設のものならほとんど憶えちゃったんだから。それより、イベントに来たからにはちゃんと参加してもらわないと。最後に記念品、貰えないよ?」
「どうせつまんないもんだろ。いいからあっち行けよ!」
体の大きな少年が、女の子に手を伸ばす。そのまま突き飛ばされる、と思ってニールは思わず目を瞑った。次の瞬間、どすん、という音が地面を伝って響いてきた。……でも、女の子が倒れたにしては、重い音だ。
「……ええ?!」
おそるおそる目を開けたニールが見たのは、信じられない光景だった。倒れていたのは女の子ではなく少年のほう。涼しい顔で手を叩き払っている女の子は、可愛い声で言った。
「動きが単調、勢いつけ過ぎ。そういうの自滅しやすいから、もうちょっと頭使った方がいいよ」
「お前、なんだよ……なんでそんなに強いんだよ、女のくせに!」
別の少年が怯えたように叫ぶと、少女はにっこり笑った。
「女のくせに、は偏見だよ。軍人さんだって女の人はたくさんいるし、活躍してる。やっぱりあなたたち、ちゃんと勉強していったほうが良いんじゃないかな」
なんだか誰かに似ているような。ニールの脳裏をかすめたのは、茶目っ気があるけれどとても強い女性軍人――イリスの姿だった。
少年たちは「おぼえてろよ!」なんて物語に登場する脇役みたいな台詞を吐いて、どこかへ行ってしまった。本当にあんなふうに言う人いるんだなあ、と思っていたニールに、そっと小さな手が差し伸べられる。色白で、指は細くて、少し長い。
「大丈夫だった?」
木琴みたいな声が心配そうに、ころん、と鳴った。
「あ、はい……。僕は、あの、何でもないです。何もされてないので」
「うん、怪我はしてないみたいだね。立てる?」
「立てます。立てるので、手は、大丈夫です」
慌てて立ち上がって、女の子の身長がわかった。ニールより高い。でもきっと、年齢と照らし合わせれば、彼女のほうが普通なのだろう。そして顔が近づいて、彼女が美少女だということを改めて認識してしまった。
「だ、大丈夫、なので。……まだ、イベントに戻れるんですよね」
熱くなった顔を俯いて隠しながら尋ねると、女の子は頷いたようだった。
「戻れるよ。行く?」
「行きます。僕、すごく楽しみにしてたので、本当は全部ちゃんと参加したかったんですけど……」
「それじゃ、アーシェおばさまたちに追いつくまで、あたしが案内してあげる。イベントのプログラムは頭に入ってるし、説明だって真似してできるよ」
さあ、と女の子がニールの手を取った。この小さくて柔らかい手が乱暴な少年を倒しただなんて、やはり信じられない。おまけに、初めて同じくらいの女の子と手をつないでしまった。ニールの頭の中は、激しく混乱していた。

ごちゃごちゃになった頭をすっきりさせてくれたのもまた、女の子のころんと響く声だった。途中から見ることができなかった展示物の説明を、可愛らしい声で簡潔に、けれどもわかりやすくしてくれる。ニールはすぐに夢中になって、彼女と一緒に博物館の中を歩き回った。
ちょうどアーシェが子供たちに、南の大国サーリシェリアとの友好の証である「赤い杯」を紹介していたところで、追いつくことができた。女の子がにっこりして、「良かった」と呟いた。
「あの、ありがとうございました」
ニールが小声で礼を言うと、女の子はゆっくり首を横に振った。
「当然のことをしただけよ。だってあたし、イベントのスタッフだもの」
「さっきもそう言ってましたけど、子供なのにスタッフなんですか?」
「あたしが手伝いたいっておばさまにお願いしたの。ここに何度も通ってるのは本当のことだし、おばさまもそれは知ってるから。でも役に立てて良かった」
役に立った、どころではない。ニールたちを見つけてくれ、助けてくれて、みんなのところに連れてきてくれた。それはまるで、ニールが巻き込まれてしまった事件に関わった人たちと同じだった。そしてニールは、また何もできなかったのだ。
次の展示に移動しながら、女の子に尋ねた。
「あの、どうしてあんなに強いんですか? 頭も良いし」
女の子は癖っ毛をふわふわと揺らしながら、強いかなあ、と首を傾げた。
「あたしのは真似だよ。小さい頃からお世話になってるお姉さんが、もしものときの護身術って教えてくれたの。お姉さんはお兄さんに、変なこと教えるんじゃないって怒られてたけどね」
「へ、へえ……」
なんだか似たようなことを聞いたことがあるような、とニールは記憶を探る。たしかあれは、風呂に入っていたときではなかったか。
――ニールもお兄ちゃんの家族だしねえ。もしものときの護身術、教えてあげようか?
そう言ったイリスは、偶然風呂場の外にいたニアに叱られていた。
――ちょっと、ニールにまで変なこと教えるんじゃないよ。
もう誰かに教えてしまっていたような、そんな言い方だった。
「そういえば、名前を聞いてませんでしたよね。僕、ニール・シュタイナーっていいます」
「え、あなたが噂のニール君? イリスちゃんの新しい家族の?」
女の子は目を丸くして、たしかにその名前を言った。それから、自分も名乗った。
「あたしはエイマル。エイマル・ダスクタイトっていうの」
聞いたことのある名前だった。ニアからも、ルーファからも、イリスからも、……他にも、ちらほら。

「今日はみんな、楽しんでくれたかな? これからも博物館に来て、この国の文化や歴史、科学に触れてくれたら嬉しいです」
アーシェがそう締めて、イベントは終わった。参加した子供たちに配られた記念品は筆記用具のセットで、博物館のマークが入っていた。
エイマルも、ほかの博物館のスタッフと一緒に、記念品を配っていた。小さな子には「また来てね」と声をかけながら。
強くて、頭が良くて、仕事ができて、美少女で。エイマルはなんて自分と違うのだろうと、ニールは貰った筆記用具を握りしめながら思う。聞けば、彼女はニールとたった一歳しか違わないという。向こうのほうが年上だが、それにしても差がありすぎる。自分は弱くて、人の世話になることしかできない。
ぼんやりしていると、不意に肩を叩かれた。振り向くと、一仕事終えたアーシェがいた。
「ニール君、今日はありがとう。それと、ごめんね。途中でいなくなったこと、気付かなくて。本当は大人がちゃんと見ているべきだったのに……」
「いいえ、アーシェさんは忙しかったので、仕方ないです。それにエイマルさんが助けてくれたので、大丈夫でした」
「うん、エイマルちゃんから聞いたよ。一緒に館内をまわったことも。これからも仲良くしてくれると、私はとっても嬉しいな」
「仲良く……」
そんなことをして、いいのだろうか。またニールが弱いばかりに、エイマルに迷惑をかけてしまわないだろうか。あんなに強い女の子と一緒にいたら、自分の弱さが際立つのではないかと、そんな心配をしてしまうのも嫌だ。
仲良くなるなら、もっと強くならなければいけないのでは。そんなことを考えていたら、ひょいと顔を覗き込まれた。
「ねえニール君、これからニール君のお家に一緒に行ってもいい?」
「え、わ、わあっ?!」
驚いてのけぞると、現れたエイマルがくすくすと笑って「ごめんね」と言った。それから大きなバスケットを胸のあたりに掲げる。
「お母さんに頼まれてたの。博物館での手伝いが終わったら、イリスちゃんのお兄さんに晩御飯のおかずを届けてあげてって。だから、一緒に行こうと思ったんだけど……」
「え、おかず?」
「グレイヴちゃん、今日は忙しいのね。そんなおつかいをエイマルちゃんに頼むなんて」
アーシェの言葉で気づいた。グレイヴ・ダスクタイトさんはアーシェと同じように、家におかずを持ってきてくれる一人だ。つまりエイマルは、よく家に来る人の娘なのだ。
「い、いいですけど……」
「よかった、ニール君ともっとお話したかったんだ。あ、そうだ、あたしに敬語はいらないよ」
こちらが遠慮していても、エイマルのほうは仲良くしようとしてくれているらしい。それを無碍にすることはできないし、したくない。
「そ、それじゃあ、行きましょう……じゃなくて、行こうか」
思い切って敬語をやめた。少しでも、自分が強く見えないかと思って。
「うん! おばさま、今日はありがとうございました」
「こっちこそ、ありがとうね」
「ありがとうございました、楽しかったです」
「ニール君もありがとう。ニア君とルーファ君によろしくね」
強くなる方法を、ニアやルーファにも訊いてみよう。イリスも張り切って教えてくれるかもしれない。
隣を歩く女の子には、当分敵わないかもしれないけれど。どう頑張っても、ニールは弱っちく見えるかもしれないけれど。
でもだからって、強くなるのを諦めるわけにはいかなくなってしまった。
「あの、エイマルさん」
「さん、はいらない」
「……エイマル、ちゃん。どうしてイリスさんから護身術を教わったの?」
「イリスちゃんくらい強くなれば、自分の身は自分で守れるでしょう。そうしたら、お父さんが悩まなくても良くなるかなって」
初めてできた同年代の友達と、せめて同じくらいは強くなりたい。そうしたら今度こそ、大切なものを守れるだろうか。後悔しないようになれるだろうか。
「イリスさんくらいって、どれくらい?」
「うーん、たしかこのあいだ、佐官の人たちと勝負して勝っちゃって、お兄さんに叱られたって」
「ああ、そういえば叱られてたかも……」
いつかって、いつになったら手に入るものなのだろう。今日みたいに、追いかければ追いつけるものなのだろうか。
「バスケット、僕が持つよ。うちの夕飯になるんだし」
「そう? じゃあかわりばんこに持とうよ。その角まであたしが持つから、ニール君は次の角まで」
まずは、今日、一歩、いや、半歩だけでも。



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posted by キルハ制作委員会 at 13:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 小ネタ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月10日

歴史の中の一筆

エルニーニャ王国軍中央司令部に、とある依頼が舞い込んだ。ときどき「軍は何でも屋じゃないんだけど」と言いたくなるような無茶なものまで入ってくるが、これはそう無碍にすることもできず、かといって調べるとなるとそれもまた難しい、扱いに困る案件だった。
人を探してほしい。けれども、その人は確実にもう生きてはいない。なぜならその人の名があったのは、大昔の記録の中なのだった。それでもその人の行方を知りたいのは、先祖が世話になったからだ。その人がいなければ、この家は自分の代までもつどころか、家名を与えられることもなくひっそりと滅びていた――らしい。
わざわざ軍に依頼を寄越したのにも理由があった。その古い恩人は、どうやら建国御三家にゆかりのある人なのだ。つまり大昔の資料や文献を片っ端からあさって探すよりも、直接現代の御三家に渡りをつけたほうが、早くて確実だろうという、そういうことらしい。それは、たしかにそうなのだけれど。
「……というわけで、協力してください」
「そういう頼みはたまにあるけど、まさか軍を通すなんてね」
手を合わせて拝んだイリスと向かい合っているのは、ドミナリオ・エスト。元軍人で、建国御三家の一つエスト家の現当主である。呆れたように溜息を吐いているのは、おかしな依頼に辟易しているというわけではない。いや、少しはうんざりしているかもしれないが。
最たる原因は、イリスの隣で一緒に手を合わせている、現大総統だ。
「イリス一人が来るなら、まあ納得できなくもない話だけど。どうしてレヴィアンスまで?」
「だってさ、職務上とはいえゼウスァートを名乗ってるのって、今オレだけじゃん。ここは一度、現御三家全員で調べてみようよ」
「君、仕事はどうしたんだ。……ああ、やっぱり答えなくていい。要領が良いから、ちゃんと終わらせてきてるんだろう。こんな時間だしな」
すでに日は暮れている。軍は一応、通常業務を終えている時間だ。つまりこの依頼は軍として受けたわけではなく、レヴィアンスとイリスが個人的に引き取ってきたものなのだ。自分たちを頼ってきた人を、放っておけなくて。
「ドミノさんのところなら、昔の史料たくさんあるでしょ? 前に貸してもらったもんね」
「インフェリア家にも保存してあるはずだって、前にも言わなかった?」
「エスト家のほうがいろんな記録が残ってるって、おじいちゃんに言われたの。うちでも探してくれてるから、そのあいだにこっちでも調べられないかなと思って」
「……そう思ったなら、先に連絡をくれないと」
ドミナリオはけっして、非協力的なわけではない。昔の文献などが良い保存状態で見られるということで、研究者たちからは頼りにされている。軍にいるよりもそういったレファレンスのほうが好きなドミナリオは、案外この生活が気に入ってもいる。
断りはしないだろうと思って連絡を怠ったのは、イリスのミスだ。それは素直に謝罪する。これで許して、と酒瓶を取り出したレヴィアンスは、ドミナリオに余計に睨まれた。飲みたいのは君だろう、と。
「まあいいや。玄関で話すのもなんだし、入りなよ。書庫もすぐに開ける。夕飯はうちのケータリングを利用しよう。僕が準備をしているあいだに、そっちも持ってきた資料を用意しておいてくれ」
やることを決めてしまえば、というより今回の場合諦めてしまえば、行動は早い。淀みなく指示をして、ドミナリオは書庫へと向かって行った。
「……なんか昔より喋るようになったな、ドミノさん。イリスのせいかな」
「そう? とりあえず甘えさせてもらおうよ。早く資料出しておかないと、本当に機嫌悪くなっちゃう」
感心しているレヴィアンスを引っ張って、イリスは家にあがらせてもらった。

建国御三家とは、エルニーニャ王国建国の際、軍の設立に深く関わった三つの軍家を指す。
初代大総統ゼウスァートと、その補佐を務めたインフェリアとエスト。それぞれの初代当主は、大陸戦争における中央軍の中心人物でもあった。
ワイネル・ゼウスァートがリーダーとなって兵を指揮し、ガロット・インフェリアが先陣を切って強敵を倒していった。そのための作戦を立てる参謀が、ヴィックス・エストだ。彼らの子孫は代々軍人として、この国を守ってきた。
しかし現在、ゼウスァート家はすでに軍家の体を成しておらず、公に認められている子孫はレヴィアンス一人となっている。エスト家は当主であるドミナリオが軍を退き、跡継ぎになるかもしれない子供たちはまだ小さい。イリスはインフェリア家の人間として軍に籍を置いている。けれども兄のニアは家を継がないとは言っていないが、現在の仕事は画家だ。もはや元の御三家とは、事情が違う。
レヴィアンスは昔とある事件に関わって、イリスは自分で勉強する必要があって、すでに建国御三家についての基本は学んでいる。しかし彼らが関わった人々についてまでは、よく知らない。
リビングのテーブルに持参した資料を広げさせてもらったところで、ドミナリオが二人を呼びに来た。ついていくと、屋敷の奥、膨大な史料や資料が詰まっている書庫に案内される。
「相変わらずすごい光景だな……」
「レヴィ兄も来たことあるの?」
「結構前に。ドミノさんのとこの資料はエルニーニャ王国の歴史が凝縮されてるから、軍に認知されてなかった事件なんかを調べるのに利用させてもらった」
「大総統は政治経済もおさえておく必要があるから、その勉強もしに来ていたな」
喋りながら奥に進み、イリスははたと気づく。レヴィアンスが大総統になったのは、前大総統が職務を放りだして失踪したからだ。その事件にはドミナリオの元妻も関わっていて、当時の彼は世間の同情あるいは非難を浴びて引きこもっていたはずだ。レヴィアンスにも合わせる顔がないと、そう言っていたのではなかったか。
いや、本当に会えなかったわけではないのだろう。責任を感じていたからこそ、レヴィアンスに協力したということも、ドミナリオならば考えられる。何にしろ、彼らはそれ以前からの長い付き合いなのだ。
「それで、探し人というのはいつ頃の人なんだ。関わったのは誰だ?」
「家名すら与えられなかったかもしれない……ってことで、時期は戸籍が整う前じゃないかな。御三家はもう家名があって認知されているから、建国後であることには間違いなさそう」
「じゃあ、このあたりだな」
レヴィアンスの推理に応じてドミナリオが指し示した棚には、ずらりと背表紙が並んでいる。分厚いそれの一冊をイリスは手に取り、捲ってみた。古い紙に薄くなった文字が、几帳面に書かれていた。全て手書きだ。
「おお、印刷じゃないよこれ。本なのに」
「元はただの紙束で、それを昔のエスト家当主が綴じた。さらに製本したのは、ここ何十年かだ。当時使用されていた木の皮を古い技術で加工した紙に、直接文字を書いたものだから、慎重に扱わないとすぐにぼろぼろになる」
「ひええ……そんなすごいの触っちゃったよ……」
「現代技術でコーティングしてあるが、一応専用の手袋をはめてほしい」
差し出された手袋を受け取ってはめながら、もっと早く渡してほしかったと、イリスは心の中で文句を言った。そうして改めて紙を捲り、書かれた文字を睨む。――世界暦元年、とあった。
世界暦はこの大陸にエルニーニャ王国ら五つの大国が成立した記念に制定された、現在も使われている暦だ。今年は世界暦五四一年。つまり、元年ということは。
「これ、五百四十年も前に書かれたものなの? よく残ってたね……」
「世界暦制定以前のものも残っている。当時は植物を磨り潰してインク代わりに使っていたらしく、かなり変質しているが、まったく読めないということはない。これはエスト家の知恵の賜物だな。当時の記録や図録の作成は、後にエストの名を頂く者が中心となって行っていた」
説明しながら冊子を棚から抜き取っていくドミナリオは、どこか誇らしげだ。軍家エストにはさほど興味のない彼だが、歴史の記録者としてのエスト家の役割は強く意識している。だからこそ、自身の来歴を知ろうと勉強しに来たイリスに、優しかったのかもしれない。
ひとまずこれだけ、とドミナリオがレヴィアンスに持たせた冊子は、言うわりには量が多く重そうだ。いったいどれだけの資料を読みこもうというのだろう。
「オレ、肩脱臼しやすいんだけど……。ところでこれ、何の資料? 建国直後の何が書いてあるのさ?」
つらそうなレヴィアンスの問いに、ドミナリオは眼鏡をかけ直しながら答える。
「主に初代当主、ヴィックス・エストの身の回りのことやその日考えたこと、やらなくてはいけないことのメモかな。ようするに日記だ」
戸籍が整うまでなら二代目のも読むことになるかもね、という言葉に、レヴィアンスは不味いものでも食べたような顔をし、イリスは目を輝かせた。

歴史はそう苦手ではない。自分の家のことを調べてから、イリスはそう思うようになっていた。入隊試験の大総統史は、勉強が得意ではなかったイリスの強敵だったというのに。一度苦手意識がなくなってしまえば、ちょっとした話題にもできる。エイマルと遊ぶためにダスクタイト家を訪問したときは、特に役に立つ。
「そうそう、エイマルちゃんが『こどものためのエルニーニャ王国の歴史シリーズ』にはまっててね。わたしも読ませてもらったんだけど、あれすごくおもしろいよ」
「そうか、父に伝えておく」
エスト家の歴史書編纂や保存の役目は、今でも続いている。『こどものためのエルニーニャ王国の歴史』というイラスト付きの子供向け歴史本は、ドミナリオの父セントグールズの著書で、これを完成させるのが現在の彼の仕事となっている。そのために国中を調査する旅に出ているのだが、今はちょうどレジーナ近郊にいるそうだ。ドミナリオの子供たちは、今日はそちらに遊びに行っているためにいないという。
「イリスは歴史好きかもしれないけどさ、オレはそうでもないんだよね。今回みたいな依頼でもなきゃ、普段は考えもしないなあ」
「レヴィアンスは大総統閣下様なんだから、少しは考えたほうが良いんじゃない。……ふむ、この巻に登場する人名は一通り出たな。幇助関係にある人物も何名か出てきた」
「ドミノさん仕事早い! ……ええと、わたしはやっと半分かな。この巻、あんまり人は出てこないんだけど、読みこんじゃって」
会話を挟みながら、本来の仕事を進めていく。探すのは「恩人」だ。依頼では「サイモン」という名前らしいが、今のところぴったり該当する人物は見つからない。なのでもしかしたらサイモンかもしれない、という人も調べている。
頭を使うと腹もへる。ちょうど夕飯時でもあったので、資料を汚さないよう注意しながら、具がごろごろしているカップスープとパンを少しずつ摘む。作ってくれたシェフは台所で甘いものを用意しながら、こちらの仕事をちらちらと見ていた。
「ドミノさんがいう、うちのケータリング、ってホリィさんのことだったんだね。相変わらずだな」
「食べ物を持って来るんじゃなくてホリィさんが来て料理をするんだね。それ、ケータリングっていわないんじゃ……」
「頼んだら来るんだから似たようなものだよ。こういう忙しい時にはありがたい。……ほら、レヴィアンスも進めて。イリスも」
ドミナリオとホリィはこういう状況に慣れているんだろう。昔から一緒にいたせいもある。だがイリスとレヴィアンスは申し訳なさがあって落ち着かない。食事が美味しいのが、それに拍車をかける。
そうして資料を捲り人名を書き連ねる作業をひたすらやっていたが、いつまでたっても「サイモン」なる人物は出てこなかった。だが、御三家当主の動向については妙に詳しくなってしまった。彼らはとても親しい友人同士だったようだ。
「……新しい法律について、ワイネルと相談する。王に進言しつつ、ホルを遣ってガロットにも報せる……」
イリスはぶつぶつと、開いたページを読み上げる。


新しい法律について、ワイネルと相談する。王に進言しつつ、ホルを遣ってガロットにも報せる。
今回考えたのは、首都となるこの土地の街づくりについてだ。近頃、むやみに豪奢な邸宅を作ろうとする輩が増えてきている。取り締まらなければ、全員が快適には暮らせなくなってしまう。
「まあ、そうだよな。当然日当たりがいい場所はみんな欲しい。独占するのは良くないな」
ワイネルは頷きながら、まったく別のことをしていた。軍を組織するにあたり、仕事をどのように割り振るか、そもそも当分は何を仕事にすべきか、このところずっと考えている。当然だ、こいつは大総統、軍の指揮者なのだから。
「そこで各々の敷地の取り分を制限する法律を提案しようと思う」
「うん、ヴィックスが言うなら王様も認めるだろ。みんながそれをどう思うかは別だけど」
「反対する者が出るのは初めから承知だ。……ホル、この文をガロットのもとへ。頼んだぞ」
ホルの足に文を結び付け、空へ放つ。この優秀な鷹は、ガロットがどこにいても、必ずこちらからの文を届けてくれる。そしてガロットもホルに返事を預ける。――奴は旅の途中だ。北の国にはまだ着かないのだろうか。野垂れ死にだけはしてくれるなよ。
ワイネルは国の規律については、私と陛下に任せようと考えているようだ。私を信頼してくれているのだと周りは言うが、そうではない。奴は私のことはどうでもいいのだろう。この新しい国がうまく機能しさえすれば。ワイネルが本当に信頼し、かつ心配しているのは、ガロットのほうだ。必ず戻ってくると信じていながら、どこで何をしているのかいつも気にしている。
所詮、私は後から入ってきた人間だ。生まれたときから一緒にいる、ワイネルとガロットのようにはなれない。そんなふうに馴れ合う必要もないだろうが。
午後にナナさんから差し入れをもらう。パンは毎日何かしらの工夫を凝らして、どんどん美味しくなっている。民も作り方を教わり喜んでいるようだ。


史料、もとい日記を読みこんでいるうちに、いつのまにか日付が変わっていた。読み終わった冊子は積み上げられ、出てきた人名の数も随分と多くなったが、まだ「サイモン」は現れない。それでもこの仕事に飽きなかったのは、ドミナリオがこの作業が好きで、イリスが日記に記された「物語」を楽しんでいて、レヴィアンスがワイネルという人物の動向を気にするようになっていたからだった。
エルニーニャ王国は少しずつつくりあげられていった。土地に名前を与えられ、人々が生活し、そこに秩序が生まれ始めた。当時はまだまだ小さかったこの国の人々に、自分たちはエルニーニャ王国民なのだという意識が根付いたと思われた頃に、変化は訪れた。とても小さく、けれども日記の書き手にとってはとても重要な出来事があったのだ。
「あ、ガロットさん帰ってきた!」
突然叫んだイリスに驚いて、ドミナリオとレヴィアンスは顔をあげた。ドミナリオはさらにその先を、レヴィアンスはそれより前の日記を読んでいる最中だった。
「ああ、そこで帰ってきたのか。土産をたくさん持ち帰ってきたと記されているだろう。エルニーニャの文化が、彼の帰還を境にさらに豊かになっていく」
「うんうん、お土産のこと書いてあるよ! ……うわあ、こんなものまで……」
「どんなものだよ」
レヴィアンスもイリスの手元を覗き込む。字体から、書き手がいくらか興奮しているのがわかった。しかし書き手が見た周囲の人々は、もっと盛り上がっていた。


ガロットが帰ってきた。
最初に見つけたのはワイネルだ。突然走りだしたかと思うと、大量の荷物を抱えたでかい奴を引っ張って戻ってきた。それを見た人々の歓声といったら、戦のときに吼えた兵たちと何ら変わりがないように思えた。
暗い青の髪と、リックさん曰く海の色をしているという青い瞳は変わっておらず、ただ表情は旅立ちの時よりも随分引き締まっていた。これでやっと、死んだローザも浮かばれるというものだ。生きていたら惚れ直すかもしれない。「さすが私のガロットね」くらいは言いそうだ。きっと言う。
北国に向かうときは、あれが中央の地獄の番人だ、大殺戮の中心だ、などと石を投げられたこともあったというが、帰りはどうだ。辿ってきた道がわかるくらいに、各地の農産物や干し肉を背負ったり抱えたりして。奴の謝罪が受け入れられたのだと、誰にも明らかだった。私は、奴が謝る必要はないと思っていたが。あの戦争は仕方がなかったし、武器を振るうことが奴の役割だった。そういう時代だったのだ。
その時代に終わりを告げたのは、間違いなく奴の働きだった。
「ええと、ただいま、ワイネル」
「おかえり! ずっと、ずっと待ってたんだからな! ちゃんとお前の場所はとってある。これからは本当に、オレの片腕として働いてもらうぞ」
ガロットの背中をバンバンと叩くワイネルは、ずっと見せなかったような喜びようだった。もう私の存在は必要ないのかもしれないな、とも思うくらいに。
私は二人と、それを囲む人々を外側から見ていた。見ていたら、人が割れた。道を作ってこちらにやってきたガロットは、やはり腹が立つくらい体躯がでかくて、それ以上に腹立たしい、弱々しい笑顔を浮かべていた。
「ヴィックス、ただいま」
泥だらけで肉刺だらけの手を差し伸べてくる。私に右腕がないので、左手を。こんなに逞しくなったのに、笑い方は変わらないんだな。ローザがいれば、もっと明るく笑ったのだろうが。
「おかえり、ガロット」
握った手は硬かった。けれども驚いたのは向こうのほうで、「ペンだこすごいな」と私の手をしげしげと見つめていた。全く、どこまでも、腹立たしい。帰ってきたなら、早く休めばいいのに。
手を離した瞬間に、ガロットの背中から動物の鳴き声が聞こえた。道中で保護してきたという。毛むくじゃらだが手触りがしっとりしているそれに、ワイネルが名前をつけようと言いだした。


ここから大総統ワイネル・ゼウスァートと、補佐ガロット・インフェリア、ヴィックス・エストによるエルニーニャ王国の整備が本格的に進むことになる。建国御三家は、戦いの中心から国政の中心へと、その立場を変えていくのだ。
「まさに歴史の一ページだねえ……。ガロットさん、めちゃめちゃ強くて、でも優しいって、やっぱりお父さんやお兄ちゃんに似てるかも」
「僕が読んでいる辺りでは、もうそれぞれに家族を持っている。子供たちの成長も書かれている。そうして家は続いてきたようだ」
「このときはゼウスァートが真っ先に途切れるなんて、考えてもいないだろうな。……ん?」
イリスが感嘆し、ドミナリオが頷いているあいだに、レヴィアンスはある記述に気がついた。それはずっと探していた名前で、しかし、人ではなかった。
「……あのさ、イリス。もうちょっと読み進めて。まさかとは思うけど、サイモンって人間じゃないんじゃない?」
「え? だって依頼してきた人はサイモンさんに助けられたって、恩人だって言ってたじゃない」
「だからそれが勘違いだった可能性があるんだよ。名前があるから人間だって思ってた。でも、鷹にホルって名前がついてたように、飼育している動物に名前がついてたっておかしくない。人間じゃないなら、ドミノさんが見落としてた可能性はある」
ドミナリオも目を瞠った。だが、すぐに冊子を手に取り、記録を遡り始めた。イリスもその先に目を走らせる。――そして、見つけた。サイモンという名前を。
「でも、これって……」


ガロットが拾ってきたねぁーは、ワイネルによってサイモンと名付けられた。
呼ばれれば返事をして人に駆け寄っていくあたり、ちゃんと自分の名前だと認識しているらしい。
ねぁーは賢い動物だが、実際に近くで見てみると、人間と変わらないくらいの知能があるのではと思うときがある。


さらにページを捲る。慎重に、しかし、少し早めに。その名前を探して。


サイモンが妙に鳴くので、ガロットとワイネルとともに後をついていった。すると人が倒れていたので、急いで看病をする。
彼は栄養失調気味ではあったが、生きていた。途切れ途切れに言うには、どうやら東方の小さな国からやってきたらしい。五大国以外にも、国ができつつあるのだ。
それにしても、サイモンはお手柄だった。サイモンには質の良い肉を、東方からやってきた彼には私たちの王から、ここに住むための土地と家名を与えることにした。これでゆっくり療養できるだろう。


恩人ならぬ、恩ねぁー。他に記述がないところをみると、どうやらこれが真相のようだ。
ずっと日記と格闘していた三人は、思い切り脱力した。
「……これ、どうやって報告しような……」
レヴィアンスが顔を手で覆いながら、渇いた笑いを漏らす。
「ねぁーは寿命が長いから、たぶんこのあたりに……。あった、ワイネルらがその地位を次世代に渡すのとほぼ同時に寿命を迎えている。その墓は、現在の軍の墓地の片隅にあるようだ。たぶん軍に関係した生き物らをまとめて供養しているあの墓碑が、そもそもはサイモンという名のねぁーの墓だったんだろう」
素早く記録を探しだしたドミナリオが、その部分をイリスにも見せた。今はキメラや任務に関わった動物たちの魂を鎮めるための慰霊碑となっているものがあるのを、もちろんイリスも知っている。
「あれかあ……。建国御三家に縁があって、人を助けていて、その行方もはっきりした。この通りに伝えて、軍の墓地にでも来てもらうしかないんじゃない?」
「来られるならな。依頼人が高齢だっていうこと、忘れてないか?」
「あ、そうだった。じゃあ迎えに行くよ。サイモンを連れてきたインフェリアの人間の代表として、わたしが」
依頼人が先祖のことについて知ることになったのは、自分が高齢で、跡継ぎもいないことで、身辺の整理をしなければと家の片づけをしたのがきっかけだった。何代か前の者が、先祖代々言い伝えられてきた家名にまつわる物語を書き記していたのを、そうして見つけた。
あとどれくらい生きられるかわからない身、この家最後の人間として、この家のことを心に持っておきたいのだという切なる願いを、イリスとレヴィアンスは拾い上げたのだ。
話したら、どんな反応をするだろうか。笑ってくれるだろうか。喜んでくれるだろうか。なにしろその家を救ったのはねぁーという、小さく賢い、一匹の動物だ。まず、納得してくれるだろうか。
大きな名前とともにあった、たくさんの人々の物語。現在のエルニーニャは、その物語の積み重ねでできている。
欠伸を噛み殺しながら、イリスとレヴィアンスは出してきた日記を書庫に戻す。ドミナリオの指示通りに並べ直し、改めてその数に溜息を吐いた。
「ねえ、ドミノさん。うちにもこれだけの日記があると思う?」
イリスの問いに、ドミナリオは少し考え込んだ。
「……ガロットからの文も、うちには残っているのだが。逆にこちらからの文が、インフェリア家にあったはずだ。日記は、旅のあいだに書いたものが残っていると聞いたことがある。興味があるなら、調べてみるといい」
ふ、と微笑んでから、思い出したようにレヴィアンスに向き直ったドミナリオは、「しかし」と続ける。
「ワイネル・ゼウスァートは自分の視点からの記述を全くと言っていいほど残していない。残らなかったんじゃない、最初から書かなかったのだと、ヴィックスら代々のエスト家当主が語っている。思い立って書き始めてもいつも三日坊主だと、何度も記してあった。君はそうならないように、大総統としてしっかりと国の動きを記録しておくように」
「うわ、耳に痛い……。オレも記録関係はみんなが出してくれる報告書と、補佐に任せっきりだからなあ……」
残ろうと残るまいと、歴史は紡がれ、続いている。これまでも、これからも。



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2016年07月09日

眠れぬ夜の。

ニア・インフェリアの睡眠時間は不規則だ。軍にいた頃は毎日決まった時間に寝起きしていたが、退役して絵を本業にしている今は、描ける時に描いて眠れるときに眠るのが普通になっている。
とはいえ、同居人が規則正しい生活をしているので、起床時間と朝食、夕食は合わせている。夜は客が来ることも多いので、大抵は仕事にならない。深夜になってから仕事をすることもしばしばだ。
そんな生活をしているところに、ニール・シュタイナーがやってきた。新しい同居人は子供で、生活時間帯は同居人であるルーファに合わせるのが好ましい。それに慣れるまでは様子を見ていたい。
しばらくは一日の生活を調整しなければ、と思っていた。

「……あ、まだ起きてたんですか? すみません」
深夜、ニールがリビングに現れた。ニアが寝かしつけたはずだが、やはり慣れない環境では目が覚めてしまうのだろう。描きかけだったラフをテーブルに置いて、ニアは立つ。
「眠れなかった? 喉が渇いたかな」
「あ、ええと、それもありますけど……。すみません、まだ落ち着かなくて」
「謝らなくていいよ、当然のことだから」
この小さな子は、すぐに謝る。ニア自身が彼と同じ八歳だった頃より随分としっかりした子ではあるのだが、心に刻まれた大きく深い傷が、彼を俯かせてしまっている。
目の前で唯一の肉親であった母親を殺され、自分も殺されかけた。その体験がどんなに恐ろしいことだったか、現役軍人時代にたくさんの凄惨な事件を見てきたニアにも想像しきれない。一度殺した心を取り戻し、こうしてニアたちのところにやってきてくれたということは、きっとほとんど奇跡に近い。
「ミルクを温めようか。僕は眠りたいのに眠れないとき、いつもそうしてるんだ」
「……ありがとうございます」
やっと謝る以外の言葉が聞けて、ニアは安堵する。ミルクパンにカップ二杯分のミルクを入れて、火にかけてから、ニールを椅子に座らせた。ずっと立ったままだったことに、作業を一通り終えてから気づいたのだ。
「遠慮しないで、座っていいんだよ。ここは君の家なんだから」
「でも、お仕事の邪魔になるんじゃ……」
「ならないよ。ここに住む前は、傍でルーがせわしなく動き回ってるところで絵を描いてたんだから。それに比べたらニールはおとなしすぎる」
それに、遠慮しすぎる。たぶん彼にとって、ニアがまだ「他人」だからなのだろうけれど。いくらか時間をかけて話し合いを進めてきたつもりでも、そう簡単にこの壁は崩れないし、乗り越えるのも難しい。
小さい子供の相手は慣れていると思っていたけれど、それは相手が実妹で、しかも元気いっぱいだったので、さほど気を遣わずに済んでいたおかげだ。この子はまるでタイプが違う。
「よし、温まった。……はい、ニールの分」
ミルクパンからマグカップへ、ホットミルクを移して、テーブルへ。ニールは頭を下げて、カップに触れる。
「ありがとうございます」
「どういたしまして。……眠くなったら一緒に部屋に行こうか」
「お仕事中じゃないんですか?」
「もうある程度は進んでるから大丈夫。見る?」
テーブルの上の何枚かのラフを指さすと、ニールは小さく頷いた。ありがたいことに、この子はニアの絵を気に入ってくれている。まだはっきりとかたちになっていないラフも、興味深げに見ていた。
「これも、どこかの風景ですか?」
「そうなる予定。昔、仕事で行った場所を思い出しながら描いてるんだ」
「すごいなあ……」
絵を見ることで、ほんの少しずつ目の輝きを取り戻していくニールに、今のニアは勇気づけられている。この子と暮らしていく自信が持てる。なにしろ子供を引き取って面倒を見るという決断が、見切り発車もいいところで、周りの人々に叱られたばかりだ。
これで良かったんだ、と思える瞬間が、絵を見てもらうときだった。
「僕は、どこかに行った思い出があんまりないので。こんなにたくさんの風景を見たことがあるニアさんが、羨ましいです」
「じゃあ、どこか行こうか。ルーが休みの時にでも、連れて行ってもらおう」
「あ、ええと、そんなつもりじゃなかったんです。せっかくの貴重な休みを使わせるなんて……」
「ルーも僕も、出かけるのは好きだからいいんだよ」
ニールと一緒に生きたい。たくさんのものを一緒に見たい。そう思うことがどれほど幸せか、この子にも伝わるといいのに。この子も、幸せだといいのに。
でも、たぶんそうなるには、もう少し時間が必要なのだ。
「……出かけて、ちゃんとみんなで帰ってこられますか?」
呟いたニールの瞳は、暗い色をしている。金色の綺麗な眼なのに、いつも不安で翳っている。おそらくは、母と出かけて、一緒に帰ってこられなかった、その日から。
その不安を取り除いてやらなければならないのに、ニアにはまだできずにいる。
「帰って来るよ。この家に、みんなで。心配しないでいいんだよ」
どれだけ言葉を重ねても、ニールを完全に癒すことはできない。
「さっきも、夢を見たんです。……お母さんが、苦しそうにしてて、こっちに手を伸ばしてるのに、僕は何もできない。気がついたら真っ暗な場所にいて、傍には冷たくなったお母さんがいる。……おかしいですよね、電気をつけたまま寝ていたはずなのに、夢の中は暗いんです」
このつらい記憶からは、簡単には逃れられない。壕に閉じ込められて暗闇を恐れるようになったニールは、部屋の電気を消して寝ることができない。寝られたかと思っても、こうして起きてきてしまう。
怖くて、つらくて、眠れないとき。ニアはどうしていただろう。どうしてもらっていただろう。
「夢は、見るよ。……僕もね、小さい頃から、とても怖い夢をよく見るんだよ」
「ニアさんも?」
頷いて、思い出す。自分の持つ力が大きすぎて止められず、自我を失って大切な人を傷つけたこと。もう少しでこの国までも壊してしまいそうだったこと。あのとき、意識はほとんどなかったはずなのに、目に映っていたものは夢というかたちをとって記憶の底から取り出される。さあよく見ろ、これがお前の業だ。そんなふうに言われているかのように。
「怖い夢を見たときや、不安で眠れないときは、ルーに一緒に寝てもらうんだ。手をつないでね」
「今でも、ですか?」
「今でも、だよ」
どうしようもない状態から引き上げ、受け止めてくれるのが、パートナーだった。彼がいなければ今のような生活はできていない。その彼を傷つける夢を、ニアは繰り返し見ているのに。
「ルーと一緒だと安心するんだ。何があっても大丈夫だって思える。それくらい強い人だから、ニールもどんどん頼っちゃいなよ。もちろん僕にも。それでも不安なら……そうだな、イリスやレヴィとか」
「イリスさんはともかく、閣下に頼るなんて畏れ多いです」
「うーん……ニールは気を遣いすぎなんだよね。うちに来るのはレヴィだよ。大総統閣下としての仕事を終えた、ただのお兄さんなんだけど。もっと気楽にしていいのに」
苦笑いしていたら、ふあ、と欠伸が漏れた。それはニールに伝染する。目も擦り始めたから、ホットミルクがうまい具合に効いてくれたのかもしれない。
「眠くなってきた? ルーの部屋で寝ようか」
「え、でもルーファさんが寝てるの、邪魔しちゃ悪いですよ」
「ルーは一緒に寝るの大歓迎だって言ってるよ。ああ見えて、彼だって寂しがりなところがあるんだ」
空になったマグカップを片付けて、ニールの手を引き、寝室へ。普段はルーファが使う部屋になっているのでそう呼んでいるが、もともとはニアも一緒に寝るために用意した部屋だ。ニアの部屋は画材と絵と、絵の具の匂いに満ちていて、当人以外はなかなか眠れない。ニールの部屋は今まで客間だったところを彼のために改装した。
ルーファの部屋には、本棚と机と、大きなベッドがある。明かりをつけると、寝入っていた彼が薄く目を開けた。
「……一段落したのか」
「まあね。ニール、先に入って。ルー、電気つけたままで大丈夫だよね?」
「問題ない。おいで」
寝転がったまま腕を広げたルーファに、ニールはおずおずと近づいて、躊躇いながらもその隣に体を横たえる。この子をあいだに挟むようにしてニアもベッドに入ると、ルーファは二人をいっぺんに抱きしめようとした。手が届かなくて、ニアに添えるだけになってしまっているけれど。
「子供の頃、父さんと母さんが、俺を真ん中にしてこうやって寝てたなあ。懐かしい」
「僕も。ニールのおかげで嬉しい思い出がよみがえってきたよ」
二人で囁くと、ニールは照れたようにちょっと笑って、目を閉じた。それを確かめてから、ニアとルーファも。
おやすみなさい。どうか良い夢を。もし怖くても、すぐ傍にいるから、どうか安心して眠って。何度だって、いつだって。

規則正しい寝息が三つ、部屋を静かに満たしていく。



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2016年07月03日

獅子たちの会議

一家団欒。そのかたちは数あれど、一般的には平和で賑やかで楽しい、そんな家族の様をいうのだろう。
インフェリア家も普段はその典型だ。独立している息子と軍の寮で生活している娘が帰って来れば、居候している娘も含めて、家族で温かな時間を過ごす。それは厳しい親を持った父とあまり幸福とはいえない幼少期を送った母の、こうありたいと願う一家の姿でもある。
だが、そんな家もときとして凍りつくような空気が流れる。一家にとって重大なことが起こったときに発生するイベントだが、大抵は祖父と父、場合によっては父と子が対立することでそうなってしまう。
今回の場合はどちらなのだろう。いや、三代揃って別の方向を向いているような気がする。こうなると面倒なので、本当は知らないふりをして母や叔母、祖母、実家の同居人と女性だけの穏やかなお茶会でもしていたいところなのだが、そうはいかなくなってしまった。
イリスもこの件には、多少なりとも関わってしまっているのだから。
「では、議題はニアが引き取ってきた子供の処遇ということでいいな」
「何の相談もせずに引き取ったことから、そもそも問題じゃないのか。一言くらい俺に言ってくれれば、なんとかできたかもしれないのに」
「いいかげん、子供扱いはやめてよ。僕、もう二十八なんだけど。当然自分で責任取るつもりで行動してるんだから、わざわざ大事にする方がおかしい」
祖父の重い声、父の珍しく怒っているような口調、静かだが棘のある兄の言葉。イリスはどれも苦手だ。こうなると誰が窘めようとしても無駄だということは、十七年の人生で嫌というほど思い知った。
――結局のところ、おじいちゃんもお父さんもお兄ちゃんも、根っこはそっくりなんだよね。
だから余計に厄介なのだ、インフェリア家の家族会議というものは。

事の発端は……さて、どこだっただろう。とある事件でイリスたちが、子供を一人助けたところからが始まりといえるかもしれない。
その子は目の前で、たった一人の肉親だった母親を殺された。身寄りがなくなった子供は、十歳に満たなければ病院その他の機関または私立の養護施設に送られる。その子も事件の際に負った怪我が良くなれば、そうなる予定だった。実際、病院を退院した後に、三週間ほど施設で暮らした。
だが、そのあいだ、彼のもとに通い続けた者がいた。最初から彼を引き取り、一緒に暮らすつもりで。それがイリスの兄、ニアだ。
ある日、イリスがニアの暮らすアパートを訪れると、彼はすでにそこにいた。イリスの姿を見るとニアの後ろに隠れて俯いてしまったが、間違いなく助けた子供であるということはわかった。
「ちょっと、どういうことよ、お兄ちゃん。この子、ルー兄ちゃんが通報してくれたあの事件の……」
「その話は後で。まずは挨拶が基本でしょう、イリス。年上の君が手本を見せないでどうするの」
「いや、それはそうだけど……」
とりあえず、こんばんは、と言うと、彼は小さく頭を下げて、完全にニアの後ろにまわってしまった。事件関係者という経緯もあって怖がられているのは知っているが、もともと人好きのするイリスは、何度だってショックを受ける。しかも相手は子供だ。
「ニール、この人は僕の妹だよ。必死な顔が印象に残ってるかもしれないけど、普段はそうでもないから大丈夫」
「お兄ちゃん、それあんまり大丈夫に聞こえないし、わたしはちょっと傷を抉られるよ。ていうか、その子がどうしてここにいるのかを聞きたいんだけど」
「説明するからあがりなよ。今日、レヴィは? まとめて話したかったんだけどな」
「レヴィ兄は仕事だよ。来たところでその子、怖がると思うけど」
「それもそうだね。でも他人に慣れて貰わないと、これから困るから」
今この瞬間、妹が大いに困っていることなどそ知らぬ兄である。いや、わかってやってるのか。ともかく説明をしてもらわないことにはどうにもならないと判断し、イリスはいつも通りに部屋に上がり込んだ。
もう一人の住人であるルーファは、まだ帰ってきていなかった。ニアから話を聞き出すより、彼がいたほうがよほど話が早いのだが、あちらも仕事だろうから仕方がない。そもそも、この事態を知っているのだろうか。
淹れてもらったお茶を自分用のマグカップで飲みながら、斜向かいに座る子供を盗み見ると、眉を八の字にしていた。彼の前には初めて見る新しいマグカップが置いてある。たぶんニアが用意したのだろう。
「ニールは今日、僕が施設から引き取ってきた。その時はルーも一緒にいてくれたけど、仕事を休めなかったからすぐ戻った」
話は唐突に始まった。危うくお茶をふきだすところだったのを堪え、イリスは「待って待って」と手を突き出す。
「引き取ったって……え、なんで?」
「ルーが気にしてた。僕も気になってた。ニールはそれをゆっくり考えてくれた」
ルーファが身寄りのない子を気にするのはわかる。彼自身がこの子供の救出に関わっているし、何より彼もかつては同じ身寄りのない子供だったのだ。良い大人に手を差し伸べられ、それをとることで、家族を得て育ってきたという経緯がある。
ならば、ニアはそれをわかっていて、ルーファと子供のことを考えたということか。
「でも、突然連れてくる?」
「施設にはここ最近ずっと通ってたよ。だからニールに納得してもらったんじゃないか」
「その子……ニールを養子にしたの? ルー兄ちゃんみたいに」
「いや、戸籍はそのまま。ルーの家はともかく、うちは大事にされかねないし。それにお母さんの名前をちゃんと持っていたいよね」
ということは、この子供の名前はイリスが救出した時のまま、ニール・シュタイナーなのだ。だが、問題はそこではない。
「されかねないっていうか、もう大事確定でしょ……。その口ぶりだとお父さんたちに報告してないのね?」
「これからだよ。だから、ちょっと面倒に巻き込むよってイリスには説明しようと思って」
ちょっとじゃない。ちょっとなどではなかったから、家族会議に発展した。そうなることは、イリスよりもニアのほうがわかっているはずなのに。

ニールという少年が巻き込まれた事件のことは、イリスらの父であるカスケードも、祖父であるアーサーも当然知っている。イリスが捜査と救助にあたった事件ということもあり、その発生と経過についてははっきりと憶えていた。
「だが、あんな事件はいくらでもある。この国で毎年何人のみなしごが出るか、お前も知らないわけではないだろう。関わった者の面倒をいちいち見るつもりか。たった一例が多くの基準を揺るがすこともあると、賢いお前なら理解できるな」
アーサーの言葉に、ニアが頷く。だがカスケードが苦い顔をした。
「そういう言い方はないだろう、親父」
「ならばどう言えばいい? 担当した事件の関係者を調査期間が終了しても足繁くまわり、ついには人間一人の世話をするまでになったお前なら、何と言う」
「それは……」
すぐに答えが出ないのは、アーサーが至極当たり前のことを、ただストレートに言ったに過ぎないからだ。きっとカスケードが言えたとしても、言葉の端々を曖昧にしただけの内容になっただろう。ただアーサーの言葉を柔らかくするということではなく、言ってしまえば自分自身の行いと言動の矛盾を指摘されることになるからだ。
いちいち深入りしていてはきりがない。それは誰もがわかっていることで、しかしなおも深く関わろうとしてきたのがカスケードのやり方だった。その極め付けが、クローン少女ラヴェンダ・アストラの身柄を引き取るという行動だ。かつて自らの祖父を、子供らを、そして自身をも傷つけたはずの人物を、その親代わりの男が刑期を終えて帰ってくるまで預かろうと決めた。彼女がマカ・ブラディアナと名乗っていた頃のことを、一切水に流して。
「俺はそういう、統計だとか基準だとかの話をするつもりはない。ただ、そういうことをするなら、俺たちに一度相談してほしかった」
「ラヴェンダ嬢を引き取るときに何の相談もなかったお前がそれを言うか」
「親父には関係ないと思ったからだ」
「私にはたしかに関係の薄いことだ。だが、ニアはどうだ。当人が納得していないのを、あのときお前は有無を言わさずそうすると決めたのではなかったか」
たしかにそういう過去はあった。だが、今の議題は。
「ちょっと待ってよ。おじいちゃんも父さんも、どうして僕を置いて勝手に話をするの。ラヴェンダのことは今は関係ないし、別に僕は父さんの真似をして子供を引き取ったわけじゃない。それに軍人時代ならまだしも、僕はもうとっくに退いてるんだよ。一般市民が一般の子と暮らすだけのこと、何を相談しろっていうの。身寄りのない子の全てを抱えられるなんて、僕だって思ってないし。だからおじいちゃんの言うことは元軍人の一般論として受け取ってはおくけど、そこまでだ」
本来ならば話の中心にいるべき自分が差し置かれたことにも腹を立てたのか、ニアはアーサーとカスケードの両方をはねつける。――このあとに何が起こるか、傍で聞いていたイリスにも容易に想像がついた。
「軍家インフェリアに生まれたからには、軍を退いたとて一般市民にはなれない」
「親父はいつまで軍家にこだわるんだよ。ニアはもう軍人じゃないんだから、それでいいだろ」
「軍人扱いはしないけど、家族って枠にはめようとするのは父さんもおじいちゃんと一緒でしょう」
「だって家族は家族じゃないか。何かあったときに対応して協力できるようにするのは、当然のことじゃないのか」
軍家インフェリア、はアーサーの口癖。ニアはもう軍人じゃない、はカスケードの口癖。それを浴びるのが嫌で、ニアは報告を後回しにしたのではないか。しかしどちらも間違いではないのだ。ただそれがニアを置いてけぼりにして語られるのが我慢ならないということで。
思えば、ニアはイリス以上に彼らの対立に振り回されてきている。軍に入隊するときもそうだったと聞くが、退役すると決めたときにも家族会議は行われたのだ。その経験から、今回もまた面倒なことになると踏んで、先に動かしがたい既成事実を作ったのでは。イリスはやっとその考えに辿り着いた。
引き取った子供を放りだすわけにはいかない。この家にそんなことをする人はいない。だからニアは先回りした。いや、後回しか。このあたりを考え始めると、またややこしい。
「なあ、ニア、引き取った子供の生活はどうするつもりだったんだ。ルーは昼間仕事でいないし、ニアだって家を出て仕事をしなきゃならないことがよくあるだろう。そのあいだ、その子の世話は誰がするのか、ちゃんと考えてるのか。そもそも今日はどうした」
カスケードの話は続いていた。これまた真っ当な疑問で、イリスもすでに同じ質問をしている。
「ルーには普通に働いてもらって、僕が当分家でできる仕事を中心に受ければいい。あと、今日はルーが休みだから大丈夫」
「それができないことだってあるだろう」
「ちょっとのあいだなら留守番してもらっても大丈夫だよ。八歳だよ、ニールは。幼児じゃないんだ。レヴィならもう軍に入ってた頃だよね」
「あいつとはわけが違うだろう。ニアにしては珍しく、考えが足りなかったんじゃないのか」
「何、その言い方。僕は父さんみたいに過保護にするつもりはないんだよ」
ああ、それを本人に言うか。先に同じ言葉を聞いていたイリスとしては、再びは聞きたくなかったのだけれど。正直なところ、三すくみよりもアーサーとカスケードの対立よりも、ニアとカスケードがぶつかる方がイリスには怖い。
「過保護とか過保護じゃないとか、そういうことじゃないだろう! その子が置かれた状況を考えろ。お前が負うべき責任をわかっているか。そういうことを含めて、相談しに来いと言ったんだ!」
「十分に考えて、責任をとるって決めたからそうしてるんじゃないか! そんなに全部把握してなくちゃ気が済まないの?! まだ僕を保護下に置きたい?!」
「そんなことを一言でも俺が言ったか?! どうしてそう曲解しようとするんだ!」
一族三代の中で、おそらくはニアが最も素直ではないのだ。年が離れすぎているからか、アーサーと正面からやりあうことはほとんどない。だが相手がカスケードになると、互いに譲りどころを忘れることがあった。
放っておけばそのうち、言葉が尽きておとなしくなる。険悪さは時間が解決してくれる。だが、今回はそれで済ませてはいけないということを、彼らはわかっているのか。せめてニアには忘れないでいてほしかったのだけれど。
それまで黙って聞いていたが、イリスはついに顔をあげた。
「いいかげんにしなさいよ!」
頑丈なはずのテーブルが、壊れそうなほどの音をたてる。壊れてもかまわないと思って殴りつけた。拳の痛みなど後回しだ。
今すぐこの場をおさめなければならない。そのためにわざわざ、自分たちだけで話すからという、男性陣の中に入りこんだのだ。祖母では父との関係が危ぶまれ、母に負担をかけるわけにはいかず、叔母を巻き込むわけにはいかない。今回の彼女らの役目は他にある。この言い合いが終わった後に、頑なになってしまった男性陣を諌めるという重要な役目だ。その前に精神力を削るようなことがあってはならない。……というのがイリスの判断だった。
――わたしはみんなより事情を知ってる。だから今日はわたしに任せて。
始まる前にそう宣言した。言ったからにはやってやろう。祖母と母は心配したが、叔母は苦笑して頷いてくれた。
――まあ、イリスが適任ではあるんじゃない? 誰も逆らえないし。現時点においては一番冷静だろうからね。
冷静というのとはちょっと違う。ただちょっと、展開が読めるだけ。軌道が逸れたときに修正できる誰かがいなければ、本当に中心とすべき人が傷つくことになると思っていただけ。
「さっきから黙って聞いていれば、みんな自分のことばっかりだよね。いつもはそうじゃないのに、どうして興奮するとそうなっちゃうかなあ?」
椅子の上に立ち上がり、片足をテーブルにかける。行儀が悪いのは承知だが、三人がかりでそれを叱ってくれればそれはそれでいい。
「今日の議題は何よ? いったい何の話をしてるわけ? 毎度思ってたけどね、こんな状態で会議なんて大層な名前背負ってんじゃないわよ!」
真に冷静なら、どうして吼えることができようか。
「……イリス、降りなさい。はしたない」
「おじいちゃん、悪いけどこのまま言わせてもらうよ。こうでもしなきゃ、またわたしの存在なんか忘れるでしょ?」
アーサーの表情の変化はわからなかったが、カスケードが決まり悪そうに俯き、ニアがぎくりとしたのが見えた。ニアの反応の理由ならわかる。イリスの言い回しが、普段の自分のそれを真似たものだと気づいたのだろう。
「おじいちゃんは、心配ならそうとはっきり言えば良かったんだよ。お父さんはおじいちゃんに反発するのとお兄ちゃんにむきになるのやめて。でもね、一番しっかりしなきゃいけないのはお兄ちゃんだったんじゃない? 今日のこと全部、ルー兄ちゃんとニールに話せるの?」
「話せるわけないだろう、こんなの……」
「そうだよね。お兄ちゃんが過保護にされたことを気にしてるなんて、二人には関係のないことだもの。でもこれからはそうはいかないって、わかってるの? 人間一人の一生に影響与えるんだよ。ここでちゃんと話をしておかなくてどうするのよ」
そう何度も、妹の口から言わせないでほしい。――これは、二度目なのだ。一度目はニールが来た日、ルーファの帰宅後。実家への連絡を面倒がっていたニアに、でも、と呈した苦言。あのとき、もしうまくいかなかったらもう一回言ってと頼まれ、そう何度もあってたまるかと思った。
「おじいちゃんとお父さんはさ、一旦家のこととか相談しなかったこととか置いといて、お兄ちゃんの話を聞いてくれないかな」
「うん……ろくに話も聞かずに喧嘩になったからな。悪かった」
「では、イリスの言う通りにしよう。だから降りなさい」
イリスが椅子から降りて座り直してから、アーサーは戸口を見やった。つられるようにして視線を移すと、扉がわずかに開いていた。
「お前たちも、覗き見るなら入ってきなさい。もう誰も怒鳴りはしない」
いつからそこにいたのか、応えるように、祖母ガーネット、叔母サクラ、母シィレーネが連れ立って部屋に入ってきた。戸惑うイリスに、サクラが「お兄ちゃんとニアが喧嘩始めたあたりから」と耳打ちする。そういえばその頃から、アーサーの発言がほとんどなかった。
「もう気は済んだわね。それじゃ、今度こそ家族会議しましょうか」
「カスケードさんたちが喧嘩してるあいだに、こっちはニール君へのプレゼントとか一通り決めちゃったんですからね。ああ、でも服のサイズがわからないんだった。ニア、それも教えてね」
ガーネットとシィレーネが着席し、サクラはそれに続くと同時に書類――小児科医である彼女がニールを診察した時の記録だ――を用意した。女性陣はすっかり、真の会議の準備を済ませていたのだった。イリスだけに任せてはおけないと、それでは大人としての立場はどうなると、彼女らは彼女らの会議をしていた。

絵で、あの子を助けることができるなら。それならこの手にもできることがあると思った。――それが話の始まりだった。
イリスがニールを救出してから、五日ほど経った頃。ルーファが仕事に行っているあいだに部屋を掃除していたニアが、机の上に広げたままにしてあった本を見つけた。子供の心に関するその本は真新しく、最近買ってきたものであることがわかった。わざわざこんなものを用意する理由は、一つしか思い当たらない。
自分が関わってしまった事件の生き残りである子供のことを、ルーファはずっと気にしている。レヴィアンスやイリスの話もあったせいだろう。事件の状況を淡々と証言し、以降は全く話さなくなった。軍人を見ると怯えるようになった。けれども怪我が良くなって病院を退院したら、施設に入ることになる。軍にいた頃、そんな事例は幾度となく見てきたのに、今になってその流れがどうにも引っかかるようだった。
施設に入ることは悪いことではない。心にできた大きく深い傷も、生活しているうちに少しずつ、痛みが和らいでいくかもしれない。けれどもそれ以上に、ルーファの中には「救われた日のこと」が強く残っていたのだろう。大人が自分に「家」を与えてくれた日のことが。
本を見つけてからさらに二日、ルーファがニアの絵を買いたいと言いだした。譲ってくれ、ではなく、買う、というところが彼らしいと思った。そのときにはもう、例の本に絵と心に関する項目があることを知っていた。しかしそれ以前から――描いた絵が認められるよりも前だ――絵が人の心に与える影響などは、様々なかたちで聞いていた。
自分の絵も誰かの助けになるだろうか。傷ついた心を瞬く間に癒すような魔法は使えないけれど、一瞬でも忘れられるような、それくらいのことはこの手にできるだろうか。逆に楽しいことや嬉しいことを思い出させることは。その一瞬が何度も続けば――。
ニアがニールという子供のことを気にかけるようになったのはそれからだから、初めて会ったときにかけた言葉はほとんど勢いだった。本当に彼を迎える覚悟と準備をするまでが、三週間。
「それじゃ足りなかったね。今日、父さんとやりあってよくわかった。自分の意地が先じゃだめだ」
そうして息を吐いたニアに、イリスはかける言葉が見つからなかった。せっかく落ち着いたのに、また波をたててはいけないと思うと、何を言っていいのかわからない。
だがそれはイリスだけで、頷きながら話を聞いていたシィレーネは笑って言った。
「なんだかんだで親子ねえ。そういうところは父さん譲りなんだから」
「ちょ、ちょっとお母さん」
「仕方ないわね、親子三代意地っ張りってことは、きっとその前もだし。あ、でもおじいちゃんってもっとおおらかな人だったんだっけ」
「叔母さんまでそんな」
「比較的おおらかではあったけど、変なところで意地っ張りだったと思うわ。インフェリア家が意地っ張りの家系なのよ。イリスもサクラも覚えがあるでしょう」
「おばあちゃんも……」
誰も何も言い返さない。よく考えれば、さんざん喧嘩したあとに言い返すもなにもない。ついでに巻き込まれたので、イリスはサクラと顔を見合わせて苦笑した。
こほん、と一つ咳払いをして、カスケードがやっと切りだす。
「とにかくだな。……あんまり急だと驚くから、どうあれ連絡はちゃんとしてくれ。俺が把握してないと嫌だとか、そういうことじゃないぞ。母さんたちのことも考えろ。これはニアのことを子供扱いして言っているわけではなく、大人として対等でいたいからこその頼みだ」
イリスは、そしてもちろんニアだって知っている。カスケードは、父は、嘘を吐かない。性格上吐けないのだ。それはアーサーも、言い方こそ異なるが、よく似ているのだった。
「わかった。意地張ってちゃルーやニールにまで迷惑がかかるから、何かあったら連絡はするよ」
「それと、近いうちに一度ニールを連れてくること。みんなを紹介しなきゃいけないだろ」
「そうだね。うちの家族は多いから、憶えきれるかどうか」
「すぐに憶えるさ。おじいちゃんって呼ばれるの楽しみだなー」
結局はそれを期待していたんじゃないか、とイリスは呆れたが、安心もした。これなら大丈夫だ。ニールはこの大仰な家に歓迎される。それも盛大に来てくれたことを喜ばれる。たくさんのものを一度に手に入れて戸惑うかもしれないけれど、きっと慣れるだろう。
アパートで会ったあの日、イリスが帰るときには、こちらを向いて小さく手を振ってくれたように。


インフェリア家であったことをルーファに正直に報告したニアは、しこたま叱られたようだ。無責任だとか勢いだけで動きすぎだとかそういうことではなく、どうして思ったことを正直に話してくれなかったのか、ということで。そうしたら二人でもっと考えて相談をして、ニアが悩まずに済んだかもしれないのにと。
イリスはそのやりとりのあいだ、別室でニールの話を聞いていた。小さな声で一所懸命に話してくれたのは、ニアが実家に行っているあいだに、ルーファと出かけたことだった。
「ルーファさんの、お父さんとお母さんに会ってきました。おじいさんとおばあさん、それからたくさんの使用人の人たちにも。ルーファさんの家って、大きいんですね。びっくりしました」
どうやらルーファの実家に挨拶に行っていたらしい。みんなに可愛がられたようで、頭を撫でられた、美味しいものをたくさん食べた、など嬉しそうに語っていた。
話し合いを終えたニアが改めてその話を聞いて、心底羨ましそうだった。
「ずるいよ、ルー。僕もそっちに行きたかった」
「ちゃんと家に話しておかないからそうなるんだろ。次はお前の番だ」
片手でニアの、もう片方の手でニールの頭をくしゃりと撫でるルーファを見て、イリスは思った。意地っ張りでも、一人で悩んだ末に突飛な行動をとるようなことがあっても、ニアにはルーファがいるから大丈夫なのだ。これからは、ニールも。
思い出すのは、話合いを終えて実家を辞する直前。一度席をたったイリスが、戻ろうとしたときに聞こえてきた、密やかな会話。
「子供の面倒を見るのはいいが、自分自身を制御できるのか。お前の兵器と呼ばれた力は、消えたわけではない。だからわざわざうちに来て大剣を振い、発散しているんだろう。たまにやるらしいイリスとの勝負、名目上は当主継承のためのものだったか。あれも口実の一つなのだろう」
アーサーが「兵器」という言葉を使うのは、ニア当人の前でだけだ。カスケードやイリスは、その呼称を仕方がないとわかっていながらも不快に思う。ニアは物ではないのだから。
イリスが隠れて唇を噛んだのは、そのせいだけではない。ニアが今でも軍人時代の強さを保っているその理由が、力の制御のためだということを、初めて聞いてしまったからだった。
しかしニアは、「大丈夫」と微笑んだ。声で、笑っているのがわかった。
「ニールにはもう、傷を負わせないよう尽くすよ。ただでさえ恐ろしい思いをしたのだから、危ない目には絶対にあわせない。僕の力はあの子に見せない。……もし危なくても、僕には僕を止めてくれる絶対のパートナーがいるから、おじいちゃんは心配しないで」
ニアが暴走してしまったら、止められるのはルーファだけ。退役してもルーファと一緒にいるから大丈夫だ、という理由で、軍を辞めるのを、つまりは軍の監視から外れることを許されたニアだった。
だがそれ以外の理由でも、ニアはもう大丈夫なのだ。ルーファがいて、ニールがいて、家族がいる。その中にはイリスも、たぶんいる。
「ね、ニール。ルー兄ちゃんの家もすごいけど、うちもすっごいからね。おじいちゃんは顔は怖そうだけど優しいし、おばあちゃんは明るくて美人なの。お父さんは子供が大好きで家族をとっても大事にするし、お母さんは可愛くて芯の強い人。叔母さんは会ったことあるよね、病院でニールを診てくれたお医者さんだよ。頭良いの。他には一緒に住んでるお姉さんとか、お母さんの叔父さんとか。全員わかるようになるかな?」
「……憶えるの、大変そうですね。でも頑張ります。ニアさんと、イリスさんの家族ですから」
はにかんで笑うニールを、イリスは抱きしめた。兄と自分の、だけじゃない。これからは、彼だって。
「ニールも家族だよ。……ようこそ、わたしたちの家へ」
ニールをインフェリア家に迎える今度こそ、一家団欒の時間を過ごそう。優しくて、温かな。自分たちが育まれてきたあの場所に、彼を迎えよう。



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2016年07月02日

椅子に在る者

この国でたった一人だけが座る椅子に、今は彼が居る。豊かな緋色の髪は炎のようであり、鳶色の瞳は全ての罪をさらけ出し射貫くかのよう。左胸に輝くのは、国章と金色の階級章。この色を身につけられるのもまた、椅子に座れる人間だけだ。
その目は今、真正面に立つ人物を見つめている。左胸の階級章は、中将を表す銅。彼は唇を噛みながら目を逸らしていた。この場所に呼び出された時点で、疚しいことがあったのだ。
「現在、司令部内の備品を一新しているわけだけど。君もそれに関わってるよね」
問えば、肩がぴくりとはねる。一瞬のことだったが、鳶の眼は見逃さない。
「それが何か」
「君の上司が出した発注数を、オレは認めた。そうしてそのまま戻して任せた……と思ったら、その後の処理は君に任されているという。君が実際に発注した数字は、元のものより随分と多くなっている。……これ、どういうことかな」
「さあ? 数字が大きくなっているというのも、初めて聞きましたが」
「そりゃそうだ。君が勝手に大きくしてるなら、聞くこともないよね。でも司令部に入ってきたのは元の数字の通り。けれども備品を扱っている会社が受け取った数字と、こっちが請求された金額が、元のものと異なっている。じゃあ、ものはどこに流れたんだろうね」
「知りませんよ。あちらの会社都合では?」
「そうじゃないのは確認済みだよ。それに関わっている人間が知らないなんて言葉を使うのもどうなのさ」
口調はさほど重くはない。だが確実に責めている。中将のこめかみを、汗が伝った。
「じゃ、質問を変えようか。……水増しした備品、どこに流した?」
この男はすでに調べ尽くし、知っている。この呼び出しは確認のためではなく、処分のためのもの。答えようが答えなかろうが、この先の展開は決まっている。中将もそれを察し、椅子に座る男を睨んだ。しかし男は狼狽えない。こんな場面は、残念ながら何度となく経験済みだ。
「……くそっ」
中将は小さく吐き捨て、それから軍支給の短剣を抜いた。
「名前だけの大総統のくせに、偉そうにしやがって!」
叫んで床を蹴る。短剣を振り上げ、一足で男に迫る。とっさに、それまで男の脇に控えていた者が、腰の剣を抜こうとした。
「閣下、私が」
「いいよ。一瞬だけ相手してやるから」
控えていた者を制し、男は飛び込んできた中将を素早く避けた。しかし椅子から立ち上がった男を、中将は再び狙う。
「なめんじゃねぇ!」
大きく振り上げられる短剣。それが下ろされる前の一瞬で、男は中将の懐に入った。その手にはいつのまにか紅玉を柄にあしらったダガーナイフがあり、切っ先は中将の左胸へ突き刺さる。
目を見開いた中将に、衝撃はあれど傷はない。ナイフは左胸の階級章を割り、肌に触れる前に止まっていた。中将の手から短剣がこぼれ、足がよろけて後退した。
「……見逃したつもりかよ」
憎々しげに吐かれる言葉は、しかし男には全く響かない。そもそも見逃すわけがない。
「いいや。でもその階級章、もう使えないよね。新しいのあげるよ」
割れた銅の替わりに放られたのは、真新しい白の階級章。二階級下の、准将のものだ。――つまりは、それが処分。
「その階級章つけ直して、一か月謹慎。その間の手当なし、給与減額。……もののルートは割れてるし、そう危険なものでもないから、それくらいでいいかな」
元中将がへたり込んでしまうと、脇で控えていた者が彼を引きずって、部屋の外へ出した。
全てが済んでから、控え、いや、大総統補佐大将レオナルド・ガードナーは嘆息する。
「閣下、処分が甘くはありませんか。たった今、ご自身が危険な目に遭ったんですよ。それに彼がものを流したルートは裏でしょう。資金調達などに利用されていたら……」
「割れてるんだから、潰すのもそんなに時間はかからないよ。何だったらオレが直接出向く」
それよりさ、と男――エルニーニャ王国軍大総統、レヴィアンス・ゼウスァートが振り向いた。右手に収まっているダガーナイフを、軽く振りながら。
「今のでちょっと、こいつの刃先やっちゃったんだよね。メンテナンス行ってくる」
苦笑いする大総統に、補佐はまた大きな溜息をもらす。
「……ついでに、ちゃんと休んできてはいかがですか。本日の残りの仕事は私がやりますので」
「悪いね、留守番よろしく。何かあったらすぐに、鍛冶のスティーナに連絡のこと」

第三十一代大総統は、ゼウスァートの名を持っている。この名はエルニーニャ王国建国に際し、設立された軍の初代大総統に与えられたものだ。古代語より、「万能の指揮者」という意味を当てはめた。
しかしゼウスァート本家はとうに断絶していると思われていた。はるか昔、当時十四代大総統を務めていたゼウスァート姓の人間が、軍による政権台頭に反対する者の手で暗殺されて以来、歴史の表舞台からはその名がしばらく消えることとなる。そのあいだ、ゼウスァートの末裔がどこで何をしているかは全く世間に知らされず、そのまま絶えてしまったものだと誰もが認識していた。
ところがそれが覆る事件が、二百五十年の時を経て発生する。エルニーニャの事件史ではイクタルミナット協会事件と名付けられている一連のできごとで、ゼウスァート家の末裔が現代に存在していることが発覚した。――彼こそが、レヴィアンスである。
建国記にあるとおりの緋色の髪と鳶色の瞳、そして現代科学が、それが真実であると裏付けた。三十代大総統の失踪を機に、それに目をつけた女王が、レヴィアンスにゼウスァート姓を名乗り大総統として立つように命じた。名ばかり大総統、と非難されるいわれはここにある。ゼウスァートの人間だから、運よくトップに立つことができたのだと考える人間は少なくない。
だが女王もそこまで愚かではない。彼女はレヴィアンスの元上司であり、彼の活躍を間近で見てきた一人だ。その上で、この人物はゼウスァートと国という重圧を背負うことができると判断した。それを知る者はわずかだが、実際、レヴィアンス・ゼウスァートが大総統に着任して二年のあいだに、その実力は国民の多くに認められることとなった。名前の力ではない、彼自身の力がそうさせた。
いや、要素は他にもいくらかあるにはある。レヴィアンスという人間を育てたのは、二十九代大総統とその補佐なのだ。親の背中を見てきた彼には、自分の目指す国の姿が見えていた。
なるべくしてなった大総統。指揮者の再臨。人々の目に映る現在のレヴィアンスは、そう呼ばれている。
だが一方で、レヴィアンス・ゼウスァートという人間は軍にしかいない。「一国民」としてのレヴィアンスには、彼が本当に名乗りたい名があった。

「シルビアさん、ナイフ一本直して」
レヴィアンスに声をかけられ、赤毛を頭の上でしっかりとまとめた女性が振り返る。そうして、ぱっと花が咲くような笑顔を見せた。
「まあ、レヴィ君じゃない! 最後にここに来たのはいつだったかしら。お仕事忙しいの?」
「うん、まあまあ。一日椅子に座ってるだけなんだけど。で、ナイフを預けたいんだよね。ついさっき刃先がやばいことに」
「さっきって、何をしたの?」
「階級章をぶっ壊した」
「ちょっと見せて。……あら、しかもこの具合、一個じゃないわね。噂には聞いてたけど、本当に軍人さんを降格させるときに、階級章壊しちゃうのねえ……あんなに硬いのに……」
レヴィアンスの愛用するダガーナイフを受け取ったシルビアは、その刃を様々な角度で眺めはじめる。そうしながら考えるのは、これをいかに直し、かつ以前よりも耐久性のあるものにするかだ。この鍛冶屋の本来の主、名匠スティーナ翁も、同じようにするだろう。もっとも、判断は彼女より早いだろうが。
長年、エルニーニャの首都レジーナで鍛冶屋を営んでいたスティーナ翁は、国で最高齢ともいわれる現在はよほどのことがない限り店には出てこない。主な業務は唯一の弟子である、シルビア嬢に任せている。この女性、元の素性ははっきりしないのだが、スティーナ翁の作品をこよなく愛して、鍛冶屋という仕事に情熱を傾けている、腕と熱意は確実に信頼できる人物なのだ。
「しばらく預かるわよ。早めにはするけど。すぐに持って来るってことは、近々使う予定があるんでしょうし」
「お願いね。……で、まあそれはそうとして、じいちゃん元気?」
「出てこないだけで元気よ。腰が痛むから鎮痛剤は使ってるけど、本当はそれも嫌みたい。食事ももっと味がする物にしろって、ハルさんと毎朝のように口喧嘩」
「母さんのことだから、適当にあしらってるんだろうね。父さんは胃が痛いだろうなあ」
「さすが、よくわかってるじゃない。アーレイドさんは逃げるように、うちの品物の配達に行ってるわよ。本当は重いものを持つなら、ハルさんのほうが得意なのにね」
シルビアと笑いあってから、レヴィアンスは店の隣へ目をやる。そこに立つ一軒家が、この店を営む一家が寝起きをする場所であり、レヴィアンスが育った場所だ。鍛冶屋を訪れる際には、実家にも立ち寄るようにしている。どうしても長居してしまうので、仕事の目処が立っているときに限るけれど。
「じゃ、母屋行ってくるから。あとはよろしく」
「任せて。丈夫に直すからね」
店を一旦出て、隣へ。呼び鈴を鳴らすと、そう待たずに家の者が出てくる。明るい赤紫色の長い髪は、今日もしっかり三つ編みだった。
「あ、レヴィだ。おかえり。直接顔見るの久しぶりだね」
「ただいま、母さん。間接的には見てるんだ?」
「新聞とかテレビとか。アーレイドが全部保存してるよ。軍人学校に寄贈して資料にしてもらっても良いくらい」
「……それ、母さんのときにもやってたんだろうなあ……」
レヴィアンスが母さんと呼ぶその人が、ハル・スティーナ。かつて二十九代大総統を務めた人物であり、現在は実家で仕事をしている。スティーナ翁の身の回りの世話から、鍛冶屋の手伝い、そして政治に関わる様々なこと。元大総統という肩書は、つまり当時のこの国を知り尽くしているという証明であり、ゆえに現在の政への意見を仰がれることも多い。レヴィアンス自身、この人に何度助けられたことか。
ちなみに政治に関する相談はハルに、軍の動向に関わることは二十八代大総統カスケード・インフェリアに相談することが多い。肩書は同じだが、得意分野は違うのだ。もっと複雑なことになると、より多くの人の手を借りることにもなる。なにしろレヴィアンスが大総統になって、まだ二年だ。
「父さんは配達?」
「うん。寄り道してることを考えても、そろそろ帰ってくると思うけど。おじいちゃんの薬、もっと飲みやすくしたからってカイさんから連絡があったんだよ」
「じゃあ話しこんでるかもね」
父はアーレイド・ハイル。ハルが大総統だったときに補佐をしていた。この二人に育てられたレヴィアンスの、プライベートでの名はレヴィアンス・ハイルだ。自身はこちらの名のほうが落ち着くし、本来の自分であると思っている。大総統の任に就くまでの人生二十四年間、そう名乗っていたのだから。いや、今だって友人知人のあいだでは、レヴィアンス・ハイルのままだ。
「これ、お土産。新しいケーキ屋ができたってイリスが教えてくれたから、さっき寄ってみた。店の人に確認したから、じいちゃんも食べられると思う。シルビアさんにもあとで言っといて」
「わあ、ここ気になってたんだよ。そうだよね、見回りにでも出なきゃ、新しい店なんてわからないよね。大総統って大枠を見る仕事だから、細かいことはなかなか気づけないし」
「母さんはどうやって知ってたのさ。店に行く機会は少なかったかもしれないけど、美味しいお菓子とかには昔からそこそこ詳しかったよね」
「そこは仲間内の情報網。甘党グループで連絡とりあって、仕事上で使えそうならチェックして。レヴィのお酒の付き合いと同じかな」
なるほど、そうやって人付き合いをしてきたのか。今更気づかされることもたくさんある。代々、それぞれの大総統にそれぞれのやり方があって、エルニーニャという国を動かしてきた。国を作るのは人だ。上の選ばれた人間だけではなく、そこに生きる全ての人が、この国の動力であり礎であり、守るべきものだ。やり方は違っても、それだけは忘れてはいけないと、レヴィアンスもハルから教わっている。
自分がそれを実行できているかは、未だに他人にきちんと見ていてもらわないと、わからないけれど。
「……あのね、レヴィ。アーレイドが心配してたよ。ちゃんと休んでるのか、睡眠はとれているのかって。また仕事に集中しすぎて、補佐のガードナー君を困らせてないかって」
茶の準備をしながら、ハルが言う。アーレイドが、とは言うが、本当のところは自分も気にしているということは、レヴィアンスもよくわかっている。ハルが大総統だった頃は、レヴィアンスが「おじいちゃんが心配してたよ」と同じことを言ったものだ。
あの頃はレヴィアンスが子供だったから、ハルもアーレイドも「大丈夫」と笑っていた。どんなに疲れても、子供に本当のことは話さなかった。でも今は、レヴィアンスだって大人だ。そしてかつてのハルと同じ立場にいる。だから正直に自分のことを話すようにしていた。
「さっき困らせてきたところだよ。だからこっちに顔出してるんじゃん。でもさ、休めっていうけど、オレはちゃんと休んでるつもりなんだって。しょっちゅうニアたちのところに遊びに行くし、三時間は寝るようにしてるし」
「うわー、三時間か……。アーレイドには言わないでね、それ。ボクも現役のときは三時間も寝ればいけるって思ってたけど、アーレイドはせめてその倍くらい睡眠時間をとってほしいっていつも言ってたから。ボクが寝たら、自分が睡眠時間を削って仕事進めるくせに。二人で完徹もよくやったな」
懐かしみながら用意してくれたのは、薄めに淹れたコーヒーだった。現役時代はもっと濃い、それこそ泥のようなコーヒーをおともに、仕事に励んでいたのだろう。ドリップなんて悠長なことはしていられないから、インスタントの粉をさっとお湯で溶かすのだ。今のレヴィアンスもよくやっている。
「母さんたちはさ、大総統と補佐っていうより、大総統が二人って感じだよね。オレは徹夜になりそうなら、さっさとレオやイリスは帰して、翌日に備えさせるけどさ」
「ガードナー君はともかく、イリスちゃんはそもそも正補佐じゃないんだから帰さなきゃだめでしょう。そんなことしたらカスケードさんがなんて言うか」
「いや、情報が伝わるのが早い分、ニアのほうが怖いかな。イリスに何かあったら、耳がちぎれそうなくらい引っ張られる」
舌に広がるまろやかな苦みと、かすかな酸味。仕事用ではなくおもてなし用の、それもレヴィアンスのためのコーヒーを、ハルはいつ突然訪ねても用意してくれる。全く同じものを、アーレイドも淹れることができる。両親は幼少期のレヴィアンスのことをあまりかまうことができなかったのに、好みや考えはよく把握していた。忙しい中でも、常に子供のことを忘れなかった。自分が大人になった今、それがどれだけ大変なことかよくわかる。
レヴィアンスは歴代大総統の中でも余裕があるというのが、周囲からの評判だ。週の半分はさっさと仕事を終わらせて、友人宅や店に飲みに出かける。練兵場に出ていって、階級の低い軍人たちとともに訓練をすることもある。最近は少なくなったが、ときどき大暴れする妹のような補佐見習いを止めに行くことだってする。部下は補佐までも定時に帰らせて、自分は大総統執務室で酒を飲みながら誰かと電話していることがあるというのも、司令部内ではもっぱらの噂だ。
ゼウスァートの血を引いているから、親も大総統だったから、才能があるのだろう。そう教育されてきたからこそ余裕も生まれるのだろう。そんなふうに言う人もいる。
ゼウスァートの名で大総統という立場にいるからこそ、そう見える努力をしているということを、知る者は少ない。そういう人々は、本当にごく限られている。レヴィアンス当人でさえ、自分の行動を努力や頑張り、ときにはあがきであると、さほど思わない。初めのうちこそ考えていたが、二年も経てばそれらはやって当たり前、できて普通のことになってしまっていた。
余裕があるかのように振る舞うために、力を残して、使っている。力の配分は、実はとても危ういバランスなのだということは、ほとんどの人が知らないし、気付くこともない。
もし今のバランスのまま、レヴィアンスが妻や子供を持ったとする。常に考えなくてはいけない事項を増やしたら、たぶん、どこかから崩れていくだろう。完全に崩れてしまったとき、レヴィアンス・ゼウスァートか、レヴィアンス・ハイルのどちらかが、いなくなるかもしれない。
自分ではそう思わなかった。これをはっきりと言葉にして教えてくれたのは、一日のうちもっとも長い時間を共にしている人。正補佐レオナルド・ガードナーと、補佐見習いイリス・インフェリアだった。
最初に言ったのはレオナルドだ。そのときどう考えても仕事を詰め込みすぎていたレヴィアンスが、いつもと変わらない調子でレオナルドを帰らせようとしたときに、彼は切れた。
――そうやって余裕ぶって全部抱え込もうとしていたら、閣下はいつか壊れますよ。
口調は穏やかだが、強かにレヴィアンスを打つ言葉だった。そんなことないよな、とイリスに冗談めかして尋ねると、彼女もまた真剣な表情で返した。
――ガードナーさんの言う通りだと思う。少なくとも今は、一人で何とかできる状態じゃないんじゃないの。
それから時間をかけて、仕事を進めながらの説教が続いた。地道な仕事が得意で周囲によく気を配っているから、という理由で補佐に採用したレオナルドは、レヴィアンスの見立て以上の人物で、本人よりレヴィアンスの仕事のやり方を知っていた。イリスは長い付き合いだが、その分レオナルドの言葉に同意すると重みがあった。
そのときのことを後に実家でハルとアーレイドに話し、やはり同意されて、レヴィアンスはようやく自らを省みたのだった。
そうすることで、かつての両親の大変さや、それでも我が子を愛していたということを、より深く理解できた。
自分にはまだ、そこまでの器はないということも。
「……最近さ、ちょっと失敗して。内部での連携とかチェックとか、オレがちゃんとできてなかったせいで、未然に防げたかもしれないことをとりこぼした。少し大きめの案件が続いたから、そっちに気をとられすぎた。イリスは無理でも、せめてレオにもっと仕事を割り振らせてもらえばよかったなって反省してる」
口の中の苦みが消えないうちに言う。ハルはそれに頷き、微笑んだ。
「わかってるなら大丈夫。レヴィたちでちゃんと解決できるよ。みんなそうしてきたんだから」
危ういバランスのものが、どうして今まで崩れずにいられたのか。言うまでもなく、支えてくれる手があったからだ。レヴィアンスだけではなく、誰だってそうだった。
大総統の椅子に座れるのは一人だけ。でも、大総統執務室には、司令部には、この町、この国には、たくさんの人がいる。
「そうだよね。オレには優秀な部下と、尊敬する相談相手がたくさんいるし。取り返せる失敗だから、さくっと片付けてくるよ」
「お前のさくっとは雑なところがあるから気をつけろよ」
意気込んだところに、突然声がかかる。驚いて振り向くと、アーレイドが腕組みをして立っていた。
「父さん、いつから?!」
「今帰ってきた。ただいま、ハル」
「アーレイド、おかえり。薬貰ってきた?」
「ああ。ちょっと話しこみすぎたけどな。年取ると昔話が多くなる」
それも何度もした話なんだけど、と言いながら、テーブルの上に箱を置く。レヴィアンスが買ってきたケーキの箱と同じものだ。
「あ、父さん、オレも同じの買ってきちゃった」
「マジ? 中身は?」
「ちょっと失礼。……あー、やっぱりうちの好み考えるとかぶるよね」
「じゃあそれ、レヴィが持って帰れば? どうせ執務室で食べるだろ」
「食べる。イリスが喜びそう」
思いがけず土産を手に入れ、時計を確認する。そろそろ戻らなければ、レオナルドの仕事が大変だ。いくら残りはやっておくと言ってくれても、そもそもはレヴィアンスの仕事である。もう弱音も吐いたし、十分休んだ。
「じいちゃんに会ってから、司令部戻ろうかな。どうせナイフもすぐには直らないだろうし」
「シルビアさん、明日の夕方にはって言ってたぞ。近々動く予定なんだろ、間に合うのか」
「うわ、早っ! 十分間に合うよ。夕方なら、明日の晩には動けるってことだし。……じいちゃーん、腰大丈夫ー?」
スティーナ翁の部屋へ向かうレヴィアンスを、ハルとアーレイドは笑みを浮かべて見つめる。あの小さかった子は、あんなに大きくなって、とても重いものを背負って立つようになった。
「しかし、得物が直ってすぐに出るつもりなところは、ハルに似たな。もうちょっと考える時間とかいらないのか」
「もうたくさん考えたんだよ、きっと。そもそも本当にすぐに動きたかったら、今頃はそうしてるんじゃない? レヴィのダガーナイフ、いっぱいあるんだし。たった一つを待つことなんてない」
「それもそうだな」
ハルとアーレイドの入隊当時の大総統は、アレックス・ダリアウェイド。補佐はルーク・ルフェスタ。ここ百年で最も大総統の名に相応しく、補佐もそれをよく助けた「完璧な国長」といわれる。それを引き継いだのが「青き獅子」カスケード・インフェリアで、彼の最初の補佐はディア・ヴィオラセント。互いの長所と短所をわかりあった、力強い二人だった。ディアの退役後は補佐を何度も変えたカスケードだったが、それは自分が大総統でいることで降りかかる危険から、補佐という立場になってしまった人間を守るためだ。次がハル・スティーナと補佐アーレイド・ハイル。最終的な決定権はハルにあったが、互いを支え合い背中を預ける、当時のエルニーニャの「双璧」だった。次代の大総統は職務を半ばで放棄してしまい、国民に大総統不信を生んだ。しかしレヴィアンス・ゼウスァートは見事にそれをひっくり返した。それは彼の実力であり、彼の視界を補うレオナルド・ガードナーとイリス・インフェリアがよく働いてくれているためでもある。「指揮者」はたしかに再臨したが、彼を「万能」たらしめるのは、指揮をよく見ている人々だ。
大総統の椅子は一つ。一人だけが座れるもの。だがその椅子に不具合が生じたときに対応する人々がいなければ、唯一のそれは壊れてしまい、もう直らない。
「……今の大総統の椅子には、二人座ってるかも」
「なんだよ、突然。昔から唐突に妙なこと言うよな、ハルは」
「半ばボクの、そうだったらいいな、っていう希望なんだけどね。今の大総統は、レヴィアンス・ゼウスァートとレヴィアンス・ハイルなんだよ。指揮者はゼウスァートだけど、その指揮についてくるのは、ハイルに魅力を感じた人たちだと思うんだ」
「でも、それってどっちもレヴィだろ?」
「そうだけど……ボクはアーレイドの育て方も褒めたかったんだけどなー」
「それを言うならハルの育て方も良かったんじゃないか。……忙しくてレヴィをほったらかしにしてたあいだは、じいちゃんだけど」
「だよね。おじいちゃんはさすがだよ」
大総統の座に着くまでに、人脈と実績をつくりあげてきたのは、レヴィアンス・ハイルだ。だからこそレヴィアンスは、その椅子を用意された。
求められたのはレヴィアンス・ゼウスァートだった。だからその名を冠するに相応しくあるよう、現在のレヴィアンスがいる。
重なる二つで、一つ。それを取り囲む人垣。それが今のエルニーニャ。
「じいちゃん、長生きしてよ。オレが大総統やってるあいだは見ててほしいな」
「そりゃあ、百五十は目指さにゃならんな。お前、儂の年知っとるか」
「え、……百歳の誕生日祝ったの、いつだっけ」
その歴史を見てきた者は、ひ孫を見て実に嬉しそうに笑った。



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2016年06月04日

変わらぬ誓いで走れ

エルニーニャ軍の訓練は、様々なところで行なわれる。練兵場、市街地を想定した専用施設、平地、森、川べりに山。海にはほとんど縁がないが、夏に避暑を兼ねてプールで救助訓練が行なわれることがある。
軍で山を一つ、訓練用に持っている。一般人は基本的には入れないことになっているが、時折侵入者や迷い人が現れるので、軍の者が頻繁に見回りをしている。ごくまれに、軍の最大の敵ともいえる裏社会の人間が、そこで捕まることもある。
見回りが行なわれないのは、天候により地盤が緩んでいる可能性があるだとか、危険が想定される日くらいなものだ。だが、そういうときに限って、部外者が巻き込まれているというケースもある。したがって、天候悪化のあとの見回りは、通常より注意しなくてはならない。
「おい、足元気をつけろ。……そこ、遅れるな!」
「気をつけて遅れるなって、無茶言わないでくださいよ」
「無茶は承知の軍だろう」
例によってバケツをひっくり返したような雨が降った翌日、山中の見回りが慎重に行なわれていた。ぬかるみに足をとられながら歩く隊の、その先頭が、山を下りる途中でふと足を止めた。
ほぼ土色の地面に、ぽつりと鮮やかな色がある。植物や茸の類ではない。人工的な、明るい青色。よく目を凝らせば、それは靴の形をしていた。軍支給のブーツではない。それに、小さい。
この国の軍は十歳の子供から入隊が可能だが、それにしてもあれは。
「待て! この付近に人はいないか、確認するぞ!」
「さっき見たじゃないですか。俺たち以外に誰がいるって……」
「いいから! 子供の姿を捜すんだ。泥で汚れていたり、怪我をしている可能性もある!」
見回りから帰るのが遅れる、と司令部に連絡をとり、彼らは捜索を開始した。


大陸の中央にして大部分を占めている、エルニーニャ王国。現在の土地は、幾度も施行された統合政策により、かつて周辺にあった小国や、他の大国との交渉で得た地域によって構成されている。かつて大陸戦争で、人々が暮らすためにと確保した土地は、もっと狭かった。
建国から、生活のために法と街を整備し、国が栄えるまで。そんな歴史の中で、商売をする者も動き、富を得てきた。
この国の大手家具会社、フォース社もそのひとつだ。有名優良企業として、多くの商品と雇用を生み出し、庶民から貴族、王宮までも味方につけている。その現社長は若い頃軍人であったが、引退して家業を継いでからは、最初からそのための修行でもしていたかのように辣腕を振るっていた。実際、彼は軍に入るまでは、そういう教育を受けていた。そして引退後は、商業の世界に生きるために猛勉強をしたのである。
――という親を持つのが、ルーファ・シーケンスだ。彼も二年ほど前までは軍人であり、しかしながらこの国の軍人の退役時期が三十歳前後であること、いつかは親の仕事を継がなければと思っていたことから、自分も会社勤めになった。
勤務先こそ親の会社ではあるが、軍以外の仕事についてはまだ素人寄りだ。いくら必死で勉強しても、他の者に追いつけない部分がある。つまり、経験だ。それを着実に積んでいくために、ルーファは研鑽の日々を送っている。
「軍ほど簡単に伸し上がれるとは思わないことだな。……まあ、軍も簡単ではないが。昇進は早かったから、しばらくはこのなかなか上に行けない世界に戸惑うだろう」
入社時に親が告げた言葉は、会社で働くようになって二年経った今、痛感している。だがこれはルーファだけの感覚ではなく、この国の多くの人間が感じることでもあった。
「軍では将官だったのに、退役したら一番下っ端だぜ? やってられるかよ」
同じ境遇の同僚がぼやくのを、ルーファは苦笑しながら聞いていた。そう思わなかったことがないとは言いきれないが、社長の息子がそんなことを口にすることはできないのだった。
「シーケンスは将来が約束されてるからいいよ。そのうち役員になって、社長になっちゃうんだろ」
「いや、そうとは限らないよ。俺がどうして平社員から出発したかって、それは社長の意向だからだ。ちゃんと経験積んで、仕事ができるようになって、その上で跡を継がせるかどうか考えてやるって。つまり俺以外に良い奴がいたら、そっちに役目がまわることも可能性として十分にあるんだよ」
やっかみを避けるため、というのもあっただろうが、嘘を吐かない親が言っていたことだから、これが本当のことなのだろう。ルーファが真面目に仕事をしなければ、親――社長は認めない。
「じゃあ、オレが社長になれる可能性もあり?」
「お前が真面目にちゃんと仕事をして、認められればな。実力主義だぞ、社長は」
その人に育てられたから、誰よりもわかっているつもりだ。だが、だからこそ、自分が努力して、この大会社をまとめられるような人物にならなければと思う。親の顔に泥を塗るわけにはいかないのだ。

仕事を終えて帰る先は、実家ではない。実家は豪邸で、使用人も多く雇っている、至れり尽くせりの環境なのだが、ルーファはそれに甘んじることができなかった。と、いうのも。
「ただいま」
「ルー、おかえり」
一般的なファミリー向けのアパートの一室で、パートナーは待っていてくれる。元軍人、現画家であるニア・インフェリアと一緒にいたいがために、ルーファはこの暮らしを選んだ。いつまでも実家に甘えて、ニアもそれに巻き込むなんて、それでは誰のためにもならない。
「おかえり、ルーファ。先に飲んでたぞー」
「ルー兄ちゃんおかえり! わたしも先にご飯食べてた!」
「……お前ら、また来てんの? イリスはともかく、レヴィは仕事しろよ。大総統閣下様だろ」
ただ、実家ならばこのような事態にもならなかっただろう、とは思う。
ニアと二人暮らしをしているはずの部屋には、毎日のように来客がある。軍人時代の同期で友人であるレヴィアンス・ハイルと、ニアの実妹であるイリス・インフェリア。この二人が来ると賑やかだとニアは喜んでいるが、ルーファとしてはもう少し、ニアと二人きりの時間が欲しいのだった。
「仕事はちゃんと終わらせて来てる。面倒な案件続いてて、毎日忙しいんだよな」
「だったらもっと忙しそうにしろよ……」
「わたしもレヴィ兄手伝ってたけど、今度こそ死ぬかと思ったね。あの書類の量ときたら、思い出すだけで眩暈がするよ」
「イリスはもうちょっと断っていいんだぞ。大総統補佐っていうけど、まだ中尉だろ」
「そうだよ。レヴィはもっと将官を働かせることを考えないと。イリスが過労で倒れたら訴えるからね」
ルーファが喋りながらジャケットを脱ぎ、ネクタイを緩めているあいだに、ニアは夕飯を用意してくれる。何かハーブらしき匂いがするので、今日もアーシェあたりが何か差し入れてくれたのだろう。大文卿夫人アーシェ・ハルトライムは、仕事と子育てで忙しいはずなのに、誰も料理ができる者のいないこの家に頻繁におかずを持ってきてくれるのだった。ちなみに、ハーブ系ではないソースの匂いがすると、グレイヴが何か持ってきてくれたのだなと思う。グレイヴ・ダスクタイトは、こちらも仕事と子育てを両立させている。そろそろヴィオラセント家に籍を入れ直すだとか言っていた気もするが、それはどうなったのだろうか。
「お兄ちゃん、わたしは倒れないから安心してよ。それよりルー兄ちゃん、最近仕事忙しくない? 今、軍で備品の入れ替えしてるから、受注多いでしょう」
考え事をしていたら、不意に話を振られた。ああ、と返事をして席につくと、やはりハーブで香味をつけた鶏肉があった。「アーシェちゃんが」とニアが言うので、予想はあたっていたようだ。
「いただきます。……その、軍からの受注だけどな、数字おかしくないか? ちゃんと確認してるのかよ、大総統」
「今はプライベートだから大総統じゃないって。ちゃんと確認して書類通してるから、大丈夫だと思うんだけど。……やっぱり一部の将官が上乗せしてるのかなあ」
「ほら、ちゃんと見ておかないからそういう疑いがでる。私的流用させないように、しっかり管理しなきゃ駄目じゃない」
「うわー、早く将官になりたいなあー。そうしたら、ずるいことなんか絶対にさせないのに」
「イリスが手を出すまでもなくレヴィがちゃんとしていればいい話だろ。……うん、美味い。これもアーシェのところの自家製ハーブ?」
「みたいだね。双子ちゃんが摘むの手伝ってくれるって言ってたよ。いいね、子供がいるって」
仕事の話と、それを和らげるように食事の話。そしてまた、仕事の話。いつもこの繰り返しだ。軍を辞めても、軍との関わりは切れない。この国がそういう社会であり、ルーファが元軍人で、友人と義妹(といっていいものか)が現役軍人である限り、たぶんこの話は終わらないのだろう。
夕飯をきれいに平らげ、ごちそうさま、と言ったとき、ニュースが聞こえてきた。
「――軍所有の山林で捜索が続いています。引き続き情報提供を求めているとのことです。心当たりがある方は、司令部に情報をお寄せください」
いつのまにか、レヴィアンスとイリス、そしてニアの表情も硬くなっていた。ルーファもこの事件を不安に思っているので、客先を訪問した際に、世間話のひとつとして持ちだして、情報を集めようとしている。だが、今のところ収穫はない。あればすぐに軍に連絡している。
軍が訓練用に所有している山で、片方だけの子供の靴が見つかったのは、昨日のことだった。一昨日の雨で地盤が緩くなっている。万が一土砂崩れに巻き込まれていたら。その懸念のもと、山での捜索と、行方不明者の情報収集や整理が行なわれていた。
人員の割り振りは、時間、気候や地盤の条件などをもとに決められている。今日の午前は、イリスも捜索に加わったらしい。
「靴があった場所を中心に捜してるんだけどね。ゼンたち男は、穴掘ったりもしてた。わたしも他に何かないか目を凝らしてみたけど、手掛かりはなし。犬かなにかが、どこかから拾ってきた靴を置いていったんじゃないかっていう話も出てる」
「明日何も見つからなければ、そういうことになりそうだな。ニアとルーファはどう見る?」
「敷地内に子供が入り込んでたって話はたまにあるから、心配だよね。靴に獣の痕跡はあったの? ていうか、その獣に襲われた可能性もあるよね」
「周辺にそういう形跡はあったか? ちゃんと調べてるのかよ」
「報告にはあがってきてないな……。靴は科学部にまわしたけど、結果はまだ出てない。出たとしてもオレまで情報が来るのが遅いんだよな。犬が運んできた説は、まだ信じられるような段階にない」
「周辺は、今度はもうちょっと範囲を広げて調べてみるよ。わたしは明日も出動するから」
現場の状況も、寄せられる情報も、決め手に欠けるようだ。ぎりぎりまで調べるけどね、とレヴィアンスは言うが、いつまでもその件に人を割いていられないというのが現実だということも、軍人であったルーファにはわかってしまう。ニアも同じことを考えているようだった。
捜索のために早く帰る、というレヴィアンスとイリスを見送ってから、ルーファは茶を淹れて、ニアと話をした。
「本当に子供が迷い込んだんだろうか。無事ならいいんだけどな」
「そうだね。……あの山は小さいけど、子供には広大に見えるから。ある程度訓練してないと、軍人でも迷子になるし」
「ニアも迷子になったっけな、昔。レヴィと勝手にどっか行って」
「ああ、あったね。あのときは引率してたダイさんにすごく怒られたっけ」
「俺も心配したんだからな。アーシェなんか泣きそうになってたし、グレイヴはそれ見て焦るし」
自分たちにとっては懐かしい思い出だ。もう過ぎたことだから。無事に帰ることができたから。でも、あの靴の持ち主は、どこにいて何をしているのかわからないのだ。今、この瞬間も。
「一番良いのは、靴を失くした子が普通に元気にしてて、軍に連絡をくれることかな」
「そうだな。俺も営業のとき、心当たりないか訊いてみるよ。今日も何か情報ないかって思ってたんだけど、何もなかったからな」
「ルーってば、全然軍にいた頃の癖が抜けてないね。あのまま軍にいたほうが良かったんじゃないの?」
ニアが微笑む。嬉しそうなのと、心配そうなのとが、混じった笑みだ。
「いや、一般市民にしかできないことだってあるだろ。それに、いつかは親の仕事を継ごうって、ずっと前から決めてた。いつまでも軍にいたら……それこそ、良くない将官の一人になってたかも」
「ならなかったよ。だって、もしそうなら真っ先にレヴィに使われるはずだもの」
「それもそうか」
軍人なら、山に直接入って捜しに行けた。それを考えなかったわけではない。でも、今のルーファはそうではない道を選んだのだ。できることを、するだけだ。

全部の仕事を経験しろ。それが跡を継ぐための条件の一つだ。そういうわけでルーファは、経理もやれば営業にも行き、その他一般事務もこなす。部署をまたいで業務にあたり、社長の息子、という肩書以外の部分でも存在を覚えられている。
そもそも名乗る姓がフォースではなくシーケンスなので、社長の子だと気づかない者も、とくに勤務歴がさほど長くはない人々には多い。家庭が多少複雑なのもたまには役に立つものだ。社長の子というだけで態度を様々に変えてくる輩もいるのだから。
だがそこは、軍にいてもそう変わらない。将官だからおもねる、大総統の子だからと、名のある軍人と繋がりがあるからと、全く関係のない者から贔屓や嫉妬を向けられる場面は、よくあることだった。ニアやレヴィアンスと付き合いがあるルーファには、はっきりと見えていた。
今はルーファ自身が、当時の彼らの立場だ。社長の子はいいよな、という言葉には、良い意味も悪い意味も含まれる。社長の子だから何をしても将来が約束されている、と勘違いしてほしくはない。こっちはこっちで、その社長に迷惑をかけないよう必死なのだ。
だがその気持ちをうっかり口にしてしまうと、何かの機会に社長本人から叱責が飛ぶ。本当に必死になるべきはそこじゃないだろう、と。客を相手にするのだから、そちらに目を向けろと、至極当然のことを言う。――それは、軍と一緒だとも。
いつかニアと約束した、「人を助ける軍人になる」というそれが、軍人ではなくなっただけのこと。だが、軍人時代もそうだったが、それはなかなか大変なことなのだ。
「外出てきます。店舗じゃなく、個人宅ですけど」
「ああ、例の貴族家だろ。時間も時間だし、長引くだろうから、終わったら直帰していいぞ」
仕事によってはそういうこともある。どれくらい時間がかかるかはわからないが、現場から直帰はありがたい。ちょっと癖のある客なのだ。
ルーファが向かったのは、とある貴族家。貴族認定されている家には貴族条項というものが適用されており、それに違反すると、貴族として得られる特権などが剥奪される。一時期には一気にこの貴族条項違反が増え、国内の貴族家は減った。他にも、貴族家は悪人にその財産などを狙われやすく、いつ突然滅ぼされてもおかしくないという危険にさらされている。
かつては狙われた貴族を守ったり、起こってしまった事件を解決するのがルーファの仕事だった。ときには貴族を取り締まることもあった。だが、今は貴族家に課されたつとめをサポートする立場にある。貴族家はその財産で、庶民を助けなければならない。持てる者は与えよ、という精神が、貴族条項に反映されているのだ。それは多くの場合、財産のうち何割かを慈善活動に使うということで、クリアされることになる。
ルーファが担当する貴族の客は、新しく児童養護施設を作ろうとしていた。そこで使う家具一式を、フォース社のものにするつもりなのだとか。正確には施設をつくるならうちの家具を使いませんか、という営業をかけて、それがうまくいきかけているのだ。
「こちらの製品なら角に緩衝材を使っているので、子供がぶつかっても怪我をしにくく、家具自体も倒れにくいです。高さも調節できますから、フリースペースに本や遊び道具を置くのに良いかと」
「さすがにフォース社の製品はバリエーションが豊かだね。……おや、こっちの棚はどうなんだ? デザインが美しいじゃないか。美しいものを見て育った子供は、感性が豊かになる。私はこちらを採用したいね」
「彫りものがきれいですからね。これもオプションでより良い事故防止用の加工ができます」
「シーケンス君は随分と安全性を推すねえ」
客は苦笑いをしたが、ルーファが安全面を気にするのは実体験からのことだ。自分自身、幼い頃に今の親に引き取られるまでは、施設に入っていた。そこで、喧嘩をして家具にぶつかり、怪我をした子供を見てきた。それ以外にも、子供が危険にさらされる可能性というのはいくらでもある。こちらで防げるものなら防ぎたい。
「安全性能だけにこだわっているわけではありませんよ。こちらは丸みがあるので、見た目にも実用面でも優しいです」
「ああ、それもいいね。じゃあこれと、さっきの棚とを発注しようか」
「ありがとうございます」
やっと発注を決めてくれたことにホッとしたルーファは、ふと、客の座るソファの向こう側にある袋に目を留めた。透明の、大きなビニール袋。ごみが雑多に入っているその中に、鮮やかな青い色が見えた。それが子供の靴だととらえるまでに、時間はかからなかった。
「……お子さん、いらっしゃいましたっけ」
「子供? 私に実子はいないよ。だから施設を作って、子供たちを笑顔にしたいと思ったんじゃないか」
元の職業のせいかもしれない。どこにでもあるようなものだから、普通の人は気にも留めないかもしれない。けれどもルーファは、妙な胸騒ぎを覚えていた。ニュースで、心当たりのある方は連絡を、と呼びかける声とともに流れていた、写真を思いだす。山の中で見つかった、泥だらけのわりに新しそうな、その靴を。
軍人時代と、自分が引退してからも現場に残った仲間から得た、様々な事件の知識が頭の中を駆け巡る。子供が関わった事件も何件かある。――もう自分はそれらを取り締まれる立場にはない。だが市民として、情報を確認し、提供するくらいはできる。
「子供といえば、今、軍所有の山で子供の靴が見つかった事件が話題ですよね。立ち入り禁止ではありますが、入り込んでしまったんじゃないかって」
「知らんね」
あまりに早い反応だった。心配ですよね、などと続けるまでもなく、相手ははっきりと「知らん」と言った。施設を作ろうと思うくらい子供を気にしているのなら、この事件にも関心をもっていていいはずなのに。それとも、ルーファが気にしすぎているのだろうか。
「そんな話をしている場合じゃないだろう、君も仕事中なんだから」
「……そうでした。すみません」
謝りながらも、袋の中に見える青い靴から目が離せない。仕事の話の続きができない。そうしているうちに別室にいた奥方がやってきて、ごみ袋を持ち上げた。
「あなた、こんなところにごみを置いて……人目につくのに、恥ずかしいでしょう。捨ててきますわ」
「その人前でごみとか言うんじゃないよ。まあいい、捨てるのは任せた」
奥方に運ばれ、青い靴は視界から消えた。この近くの廃棄場はどこだったか、軍人時代に頭に叩き込んだ付近の地図を探る。
「それではシーケンスさん、頼みましたよ。一日も早く、子供たちを良い環境に置いてやりたいのです」
客が笑う。思わずその瞳の奥を覗き込みながら、ルーファも笑顔を作って返した。
「はい。こちらこそよろしくお願いします」
その家を辞した後、ルーファが真っ先に向かったのは、ここから一番近い廃棄場だった。今日、この時間なら、直近に持ち込まれたごみはまだ放置されているはずだ。
――軍にいた頃の癖が抜けてないね。
思い出したニアの言葉に、そうだな、と小さく呟いた。
親に憧れ、その背中を見て、子供の頃から携わってきた仕事だ。すでにこれは、性になってしまっているのだ。


エルニーニャ王国軍中央司令部はまもなく通常業務を終えようとしていた。山の捜索は、本日分はすでに終了していて、入り込んだ子供などいなかったのではないかという結論に達しようとしていた。もっともそれはトップたるレヴィアンスの意向ではなく、仕事が詰まりに詰まっている将官、佐官たちの判断だったが。彼らが忙しいということは当然レヴィアンスも忙しいのだが、この件についてはどうにも気になることがあって、捜査の打ち切りを決めかねていた。
「しかし閣下、山の捜索には、もうこれ以上人員を割けませんよ。せめて明日からは縮小しては?」
「今日の時点でかなり削ったのに? どうにも気になるんだよな、あの靴……山に入ったにしてはきれいすぎるというか……」
「泥がついていたじゃないですか」
「歩いて付いた泥じゃなさそうだって、科学部も言ってる。実際、靴底はほとんど汚れていなかったわけだし」
正補佐と問答をしていると、割り込むように内線が入った。口をとがらせながら電話をとると、困ったような声がした。
「山捜索についての情報提供だそうですが……閣下と直接話がしたい、と」
「オレと? 相手はなんて名乗ってる?」
「ええと、シーケンスと言えばわかる、と」
レヴィアンスの知っているシーケンス姓の人間は二人いる。一人は薬屋で、もう一人は元同僚だ。とりあえず繋ぐように指示をし、少しの間があった後に、昨夜も聞いた声がした。
「レヴィ、突然悪い。調べてほしいことができた」
「何だよルーファ、情報提供じゃなかったの?」
「情報提供になるといいんだが……今から言う住所の近辺で、最近おかしなことがなかったか調べてほしい。たとえば、誰かの姿が見えなくなったとか、逆に見慣れない人が訪ねてきたようだったとか」
そうしてルーファは、住所を伝えてきた。それと調べる内容をメモして、その下に「インフェリア中尉にまわせ」と書いてから、正補佐に渡す。彼はすぐに大総統執務室を出て行った。急がなければ、終業時間になってしまう。
「調べる根拠は? 元軍人なら、それを先に言ってくれないと」
「ああ、そうだった。俺もちょっと焦ってて……。実は、山で見つかった靴と同じものを、うちの客の家で見つけたんだ。片方だけごみ袋に入ってて、今それを確保したところだ。山で見つかったのは左右どっちだっけ?」
「右だ」
「俺が見つけたのは左だった。ほとんど新品なのに、片方だけ捨てられてるって変だろ?」
ルーファは軍を辞めた人間だ。もう二年経っている。しかし十歳で入隊し、十六年のあいだ軍人として培ってきた勘は、未だに侮れるものではない。それを抜きにしても、今はもうこれに賭けるしかない、重要な情報だった。
「今、イリスに行くように頼んでる。ルーファはどこにいるのさ?」
「さっき言った住所に一番近い廃棄場……の近くの公衆電話だ。イリスたちを見つけたら声をかける」
「仕事はどうしたんだよ」
「ちゃんと終わらせたよ、お前と同じに」
電話の向こうで、少しだけ笑ったのがわかった。かつてともに現場に出ていたときに見せていた、緊張感のある笑みだ。だからレヴィアンスも、にやりとする。

「汚れを確認した時点で、自分で歩いてきたわけじゃないってわかってるべきだったよ。ていうかこんなに大事な情報を、なんでレヴィ兄もちゃんと教えてくれないかな」
「現場に来られなかったからだろ。担当してたのはあくまで佐官以下、指示は将官。科学部からの報告も、閣下にいくのは遅れたんだろうな」
文句を言いながら聞きこみ情報をまとめるイリスを、ルイゼンが宥めながら分析する。靴が発見された当日に、発見者たちが焦ってしまったということもあるだろうが、それにしても情報伝達が悪かったのは否めない。
イリスたちが住所のメモを受け取ったのは終業時間直前、聞き込みを開始したのは、完全に終業後のことだった。だが、もちろん事件性のあるものを放っておくわけにはいかない。それがこの国の軍人というものだ。
到着してすぐに、ルーファとは合流できた。が、状況説明をしてもらい、靴を受け取ってから、すぐに帰らせた。ごみの廃棄場に長い時間いたおかげで、臭いが染みついてしまっていたのだ。今日はもう職場に戻らなくていいというから、さっさと家で風呂に入るように、イリスが言った。ちゃんと「ありがとう、お疲れさま」と添えて。
「ルーファさんが訪ねたという家の、向かいの人の証言が一番はっきりしているな。見慣れない女性と子供……おそらく親子だろうと思われる人たちが、一昨日の朝に目撃されている。このあたりは貴族家が多いが、その人たちは貴族風ではなかった。しかし身なりは小奇麗だった……ということだったな」
「フィン、よく憶えたね。でもそれ以降、その人たちは目撃されていない」
「だが、この貴族家の主人の車が家を出て行ったのは、見た人がいる。山中見回りの前だな。貴族様のくせに、よほど冒険好きと見える」
「ごみから見つかった靴は、山で発見された靴とサイズが同じ。一組だった可能性はある。……とすると、この家をつついてみるしかないな」
大総統閣下の許可は下りている。貴族家の住人は逃れられない。何があったのか、きっちりと説明してもらおうではないか。
イリスたちはその貴族家に乗り込んだ。


帰宅して、ニアには会わずにすぐにシャワーを浴びたルーファだったが、結局は服の臭いを問い詰められて、事情を説明することになった。
ニアは話を真剣に聞き、それから息を吐いた。
「もし直帰が許されてなかったらどうしてたの。完全に仕事放棄だよね」
「そうだな。レヴィに冗談でも仕事しろなんて言えなくなった」
だが、後悔はない。少しでも真相究明に近づけば、いや、事件に全く関係なかったとしても、ルーファは自分の行動を間違っていないと思っていた。もちろん、正しくもなかったけれど。
あれから続報はまだない。イリスたちが、捜査を続けてくれているのかもしれない。終業直前に連絡をしたのは、少しだけ申し訳ないと思う。しかしかつての自分なら――実際は今でも――動かずにはいられない。人を助けたいと思う気持ちが先に立つ。
「いずれにせよ、今回みたいな場合は、ルーのお母さんも許してくれるんじゃない? 直属の上司にちょっとは怒られるかもしれないけれど、それだってルーは後悔しないでしょう」
「しないな、きっと」
「そうだよね。僕はルーのそういうところが好きだよ。さすが僕らの隊長」
そう言ってから、ニアが小さな声で付け加える。それから、僕の大好きなパートナー。それだけで今日一日が報われたような気がした。
そして翌日の朝、事件は急展開を迎えていた。ルーファが訪問した貴族家の主人が、殺人の容疑で捕まったのだ。仕事に遅刻しそうになるのも忘れて、ルーファは、ニアも、ニュースに集中した。
貴族家の主人は、浮気をしていたのだという。靴が見つかったあの日の朝に、浮気相手は子供を連れて、貴族家を訪れていた。親子は貴族ではなかったが、新しい服に新しい靴と、身綺麗にして彼のもとへやってきた。男が妻と別れて自分たちと一緒になってくれるよう、妻がいないところを見計らって話し合いをする予定だった。そもそも彼女らを呼び出したのは、男のほうだったのだ。
しかしそれは男の罠だった。これから慈善事業を始めるにあたり、クリーンなイメージを保ちたかった男にとって、子供のいる浮気相手は邪魔になってしまったのだ。彼は浮気相手を家で殺害し、その血を風呂場で洗い流し、死体を遺棄するために車に積み込んだ。
子供は一部始終を見ていた。拘束されていたが、一時はそれを解いて逃げ出そうとした。だが玄関で靴を履いたところで、男に捕まり、首を絞められて同じく車に詰め込まれた。靴はその時、左だけが玄関に落ちた。
軍に知人がいた男は、それを通じて、軍の所有する山のことを知っていた。見張りがいない時間帯、昔訓練用に造られた壕があるが今では点検もされていない、そもそも存在すら知っている者がほとんどいないということなど。もちろん部外者にそんなことを喋った者も処分されるだろう。とにかく遺体はそこに放り込まれた。子供のもう片方の靴は、そこへ向かう途中で落ちた。ぬかるむ山を、よく重い死体を担いで歩けたものだが、貴族の男は趣味で登山を含むあらゆる活動をしていたという。
ちなみに、当日に軍が見回りをするということは知らなかったようで、たしかに彼は「冒険」をしたのだろう。
――以上の顛末は、ニュースだけではなく、後のレヴィアンスからの報告で全容を知ることができた。
「子供に手をかけておいて、何が児童養護施設だ」
「ルーが気づいてよかったよね。もし気づかなかったら、もっと酷いことになってたよ」
「まあね。……子供が助かっただけでも、少しはましだったんじゃない?」
いつものようにアパートに来たレヴィアンスは、そう言って、酒の入ったグラスを傾けた。
子供は壕に放り込まれたあと、息を吹き返したのだ。だから事件のことを証言することができ、真相が明らかになった。イリスたちの追及だけではわからなかった部分を、子供はつらいだろうに、全て軍に話したのだった。
「でもね、その子お母さんと二人暮らしだったから、身寄りがなくなっちゃったんだよ。今は入院してるけど、そのあとは信頼のおける施設……たぶん昔レヴィ兄やルー兄ちゃんが入ってた施設になると思うんだけど、そっちに預けられる予定。十歳になってないから、軍にってわけにもいかないし」
イリスが神妙な顔をして溜息を吐いた。この結末は、ましではあっても、良くはない。一人の命が奪われ、子供の心には深い傷が残った。
ルーファは自分が施設にいた頃のことを思い出す。職員は良くしてくれたが、ルーファ自身が他人とうまく関われず、孤立した日々を過ごしていた。それを救ってくれたのが、今の親だ。
「……あのさ、その子に会うことってできないか?」
「ルーファが? ……ちょっと難しいかな。事件の状況説明は妙にはっきりしてたけど、そのあとは喋らなくなっちゃったんだよ。オレも行ってみたけど、大総統は軍の人間、軍といえばあの事件を思い出す、って感じで怖がられちゃって。子供に怖がられたの初めてだよ……」
「レヴィ兄、子供受けいいのにね。わたしは助けたときに一回会ってるけど、むしろそれが駄目なのかな、お見舞いに行ったら怯えられた」
「イリスでも駄目だったの? それはたしかに難しいね……」
しばらくはそっとしておいたほうがいい、とニアも言う。だが、ルーファは放っておくことができなかった。子供が退院を翌日に控えていたその日、仕事で外に出たときに、病院に立ち寄った。
来てはみたものの、会えないだろうと思っていた。だが、顔見知りの看護師に話を聞くと、どうやら今は庭にいるらしい。大きな中庭の、木の下にあるベンチに、黒髪の子供はぽつんと座っていた。
話しかけても答えないかもしれない、と看護師は言っていた。だがかまわずに、ルーファは子供の前に立った。
「ニール君、だね」
名前を呼ぶと、子供は顔をあげた。表情はない。金色の瞳も暗い。
「はじめまして。俺はルーファっていうんだ。……ええと、具合は大丈夫?」
尋ねると、俯いてしまう。それでもいい。それが彼の返事だ。
「……ニール君は、絵は好きかな。いくつか持ってきてみたんだけど」
鞄から、ニアの描いた絵――はがきサイズのものを譲ってもらった――を取り出す。彼に見える位置に差し出すと、少しだけ目を開いた。
「俺はあんまり絵に興味ある方じゃないんだけど、この人の描いた絵はすごく好きなんだ。見てると、懐かしいような、胸のあたりが温かくなるような、そんな絵。これは全部風景画だけど、人物とかも描くよ。どれもすごくきれいなんだ」
「……うん」
彼は小さく声を出した。そして、絵をそっと手に取り、見つめた。花でいっぱいの、野原の絵を。しばらく見つめて、そして、そこにぽたりと雫を落とした。
「……来年になったら。一緒に行くって、約束してたのに」
涙声で言うそれは、母との約束だったのだろうか。こんな景色を、見に行こうとしていたのだろうか。でも、その人は、もう。
「なんで……ぼくだけ生き残ったの……。なんでお母さん、あんなことされなきゃいけなかったの……」
残酷な場面を見せつけられ、母の遺体と一緒に閉じ込められて、この子は本来なら言葉にできないような苦しみを味わった。でも、軍の人間には、見たこと全てを淡々と語ったという。泣きもせずに、ただ起きたことを順番に。
消された感情が、そうしなければいけなかった心が、戻ってきたのかもしれない。それが良いことなのかどうかはわからない。わからなくても、ルーファは彼を抱きしめた。このまま思い切り泣いてもいいと、泣いてしまえと思った。
この子は一度殺されてしまった。泣いて生きかえるなら、生きてほしい。――それはルーファ自身が救われるための望みだったかもしれない。
彼は、ニールは、声を出さなかったけれど。それでもルーファの胸をぐしゃぐしゃになるくらい濡らした。そうして顔をあげてから、とても申し訳なさそうに言った。
「絵、濡らしちゃった。服も。ごめんなさい」
「服なんか良いって。絵はまあ、大丈夫だろ」
「でも、にじんだ……」
きれいだったのに、とニールは顔を歪ませる。ルーファが何と言っていいかわからずに困っていると、背後から足音と、声が聞こえた。
「また描けばいいんだよ。……全く同じにはならないけど」
振り向くと海色の瞳が笑っていた。濃い青色の髪を、風に揺らして。
「ニア、なんで……」
「僕がルーの行動を読めないと思う?」
絵を持って行ったときからわかってたよ、と、ニアもニールに近づいた。戸惑う彼に、「はじめまして」とにっこり笑う。
「この絵の作者、ニア・インフェリアです。気に入ってくれた?」
「……うん、でも……」
「濡らしたのは、元には戻らないね。それは一枚しかないし、さっきも言ったけど、全く同じものは二度と描けない」
そんな言い方をしてはニールが傷つくのではないかと、ルーファはハラハラした。だが、当のニールにその様子は見られない。ニアをじっと見て、話を聞いていた。
「だけど、絵そのものが描けなくなったわけじゃない。僕は生きてるし、君も生きていれば、僕は君に次の絵を見せることができる」
絵を持つニールの手を、ニアが片手でそっととる。もう片方の手はルーファに伸びて、同じように手を重ねさせた。
「見たものを思い出すことも、生きていればできる。つらいことも一緒に憶えてることにはなってしまうけれどね。……つまり結論としては、僕は君にもっと生きてほしいわけだけど。もし良かったら、僕らと一緒に」
「え、ニア、それは」
ルーファが驚く横で、ニアは全く口調を変えずに、「ゆっくり考えていいよ」と言う。ニールはニアを見て、絵を見て、それからルーファを見た。戸惑いながらも、しっかりと目を見られるようになっていた。
「さて、ルー、そろそろ仕事に戻ったほうがいいんじゃない?」
「いや、とても仕事に戻れるような感じじゃ」
「戻って稼いでくれないと困るよ。ほら、行った行った」
ニアに背中を叩かれて、ルーファは仕方なくニールに別れを告げた。「さよなら」ではなく「またな」と。――また近いうちに、会えると思った。今度は「初対面のよく知らない人」ではなく、もっと別のかたちで。
そしてその予感は、ちゃんと当たるのだった。



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2016年05月14日

少女の力は誰が為に

無力なままではいけないと思った。真っ先に力を持てるのは、それを行使できるのは、自分だと思った。だからこそ使えるものは何でも使って、這い上がったのだ。
しかし。
「どうしてお父さんを売るような真似をするの? あなたは、なんて娘なの……!」
やったことは間違っていないはずなのに、それが全てを救える方法だったはずなのに、降りかかった言葉は深く深く突き刺さった。
認めてほしかったわけではなかったけれど、それでも痛かった。今でも傷は、ときどき引き攣る。


エルニーニャ王国軍中央司令部の女子寮。その二人部屋に並んだベッドの片方に寝転びながら本を読んでいたイリスの耳に、同室のメイベルの声が入ってくる。
「……そうか、異動になるわけじゃないのか。でも家には顔を出せよ。そのときは私も行こう」
電話の相手は、イリスも知っている人物だった。以前、メイベルの実家に遊びに行った時に会っている。彼女のすぐ下の妹だ。――メイベルの家は他にも妹や弟たちがいる大家族なのだ。
「今の、カリンちゃんでしょう。どうしたの?」
通話を終えたメイベルに尋ねると、無表情で頷きが返ってくる。いや、顔色が少し良くなっているから、嬉しいのだろう。わずかな表情の変化だが、長いこと一緒にいればわかるようになる。
「研修で中央にくるんだそうだ。一週間世話になる、と」
「おお、久しぶりに会えるんだね! あのカリンちゃんが軍人になったって聞いたときはびっくりしたけど、順調にやってるんだろうなあ」
「そうらしい」
ふ、とメイベルの口元が緩んだ。目も少し細くなる。これが彼女の笑顔なのだと、そういえばわかるまでには時間がかかった。
イリスとメイベルの出会いは、十歳の頃に遡る。軍に入隊してまもない頃は、こんなに親しくなるなんて思わなかった。なにしろ元気の塊のようなイリスと、傍から見れば静かで冷たそうにも見えるメイベルでは、互いに近寄りがたかった。だが、寮の部屋を共にすることになり、それぞれの気持ちを真正面からぶつけることで、角が取れて丸くなった。つまりは良いコンビになったのだった。
ときどきメイベルからの想いが強すぎて引き気味になることもあるイリスだが、彼女はきっと生涯の友になるだろうという、その気持ちは今日まで変わっていない。
メイベルとは何もかもが違うが、だからこそイリスは、彼女を大切に思うのだ。

数日後、西方司令部から中央へ数名の研修生がやってきた。年に数回、各地方司令部からこうして、優秀な人材や優先的に育成していきたい者を呼び、もっとも仕事の内容が多くかつ濃いといわれる中央司令部での仕事にあたらせる。それが当人の昇進のきっかけになることもあるし、中央にいるのが適していると判断されれば異動になることもある。昔から、それこそイリスが生まれるずっと以前からの慣例だ。
研修生たちは中央での事務仕事、市中の見回り、実働班に配属されて任務にあたるなど、様々な経験を一週間のうちにすることになる。中央司令部に所属する人員は、これに協力しなければならない。
「……というわけで、俺たちも一人預かることになった。全員知ってるけど、一応簡単に挨拶しようか」
ルイゼンが連れてきたのは、琥珀色の髪に若草色の瞳の少女だった。いや、連れてきたというよりは、おそらくは押し付けられたのだ。
「西方司令部曹長、カリン・ブロッケンです! 一週間、よろしくお願いします!」
理由は「身内がいるから」。評価が極端にならないように、本来なら離されるべきところを、彼女の場合はわざと姉のいるリーゼッタ班に組み入れられた。何かあったときの責任を、誰も取りたがらなかったのだろう。カリンのせいというよりは、メイベルの評判に起因する。
自らが敵だと判断したものには、容赦なく銃口を向け、引き金を引くことを躊躇わない。ストッパーとなりうるのは、リーゼッタ班の人間だけ。いわゆる厄介者の扱いをされているメイベルの妹だから、何をしでかすかわかったものではないし、何かあったら姉に責任をとらせたい。上層部の思惑はそんなところか。大総統レヴィアンス・ゼウスァートの決定ではなく、その下の将官連中の判断だろう。
何はともあれ、カリンは一週間限りではあるが、イリスたちの仲間となる。
「よろしくね、カリンちゃん。背も伸びたし、髪型も変えた? 縦巻き可愛いね」
「はっ、はい! イリスさんに会えるので、今朝、張り切って巻いてきました! イリスさんも一層かっこよくなってて……わたし、気絶しそうです……」
目をきらきらさせ、手を祈るように組んで、カリンはイリスを見つめている。初めて会ったときから、彼女はイリスのファンなのだ。男性陣には目もくれないが、ルイゼンとフィネーロはいつものことだと諦めている。
だが、実の姉はそうもいかない。
「カリン、ここには仕事で来ているんだろう。この班は特殊な任務を受けることが多いから、浮ついていては死ぬぞ」
カリンの襟首を掴んでイリスから引き離し、メイベルは厳しい口調で告げる。自分が一番イリスに心酔しているくせに、と男性陣が思っても口にしなかったのは、ややこしいことになるのを避けるためだ。
「お姉ちゃん、大袈裟」
頬を膨らませるカリンは、姉とはあまり似ていない大きな瞳を不満げに上方へ向けた。だがメイベルはまったく怯むことなく、冷たく返す。
「大袈裟じゃない。先日は危険薬物取引の現場で、ルイゼンが相手の大将と戦って死ぬところだった」
「いや、そこまでじゃなかったけどな。途中でイリスが割り込んできたし」
「イリスがいなかったら死んでいただろう」
「死なないって」
「つまりイリスさんが強くてかっこいいってことですね! 一週間といわず一生ついていきたいです!」
「馬鹿を言うな、カリン。イリスと添い遂げるのは私だ」
たった一人増えるだけで、実に賑やかになった。冷ややかだったメイベルの言葉も、いつのまにか普段の調子に戻っている。フィネーロが頭を抱えて、溜息を吐いた。
「これから一週間もこの状態なのか……?」
「大丈夫だって、フィン。カリンちゃんは真面目にやらなきゃいけないときはちゃんとするよ。ベルと同じにね」
「なおさら不安になることを言うな」
一週間が無事に過ぎれば、何の問題もない。要はカリンの評価に悪影響がなければいいのだ。
実際、仕事を始めてしまえばカリンはよくできた娘で、事務仕事も見回りも難なくこなしていた。任された仕事をしっかりとやることで、ルイゼンやフィネーロ、そしてなによりイリスに褒められるのが嬉しいらしい。しかし、どんなに張り切っても、うまくやっても、メイベルは一言も妹を褒めなかった。

イリスがブロッケン家について知っていることは、それほど多くはない。家族が多くて、メイベルが長子であること。それから母親がほぼ独りで子供たちを育ててきたことくらいだ。父親は「いろいろあって」家にはいない。メイベル曰く、「そんなものは存在しない」そうだ。
だがその人のせいで、メイベルは男嫌いになった。とくに粗暴で無責任で必要最低限の労働もしようとしない、ろくでもない男が大嫌いだ。彼女の「父親」がそういう人だったのだと、直接言われなくてもわかる。そうではない、たとえばルイゼンやフィネーロ、イリスの兄などには親し気に振る舞うことができるが、初めて会う男性には必ずといっていいほど警戒を見せる。
イリスの知っている「家族」の像と、メイベルの認識している「家族」は、大きく違う。だから初めの頃は、なぜメイベルが父親を否定するのかを理解できなかったし、家族とはかくあるべきだ、という考えを押し付けてしまうこともあった。十歳の子供だったせいもあったけれど、おそらくはイリスがメイベルを深く傷つけてしまった、今となっては後悔しかないできごとだ。
両親に愛され、守られて育ってきたイリスと、親であるはずの人から妹や弟を守らなければならなかったメイベルでは、当然考え方が違うということを、時間をかけて学んだ。そうしたからこそ、イリスは今、メイベルと並んでいられる。
「カリンちゃん、頑張ってたね。ちょっとくらい褒めてもいいんじゃないの」
こうしたことを、変に気を遣うことなく口にすることもできるようになった。
「あまり調子に乗りすぎるのは良くないだろう。それにカリンは、イリスが褒めれば満足だ」
「そんなことないよ。やっぱりお姉ちゃんからの言葉は欲しいんじゃない? わざわざ研修のこと、事前に教えてくれるんだからさ」
「どうだろうな。……そもそも、褒め方がわからないんだ、私は。イリスの兄君のように、そういうことが自然にできたら、良い姉だったのかもしれないが」
無表情のなかに、きまり悪そうな、困っているような、そんな気配を読み取る。メイベルはごまかそうとしているのではなく、本心で「褒め方がわからない」と言っているのだ。軍に入ってからは妹や弟と会う機会は減っていて、ましてそれが七年も続いていれば、無理もないかもしれない。
「お兄ちゃんは褒め上手だけど、厳しいときは本当に厳しいよ。あれ、誰に似たんだろうね。お父さん……よりは、おじいちゃんに似てるかも」
「しっかりしていていいじゃないか」
「うちのことはともかく、ベルだってわかんないわけじゃないと思うよ。だって、わたしのことはよく褒めてくれるじゃん。こっちが照れるようなことも平気で言うし」
「それはイリスのことであって、カリンのことではない。……だが、善処しよう。カリンが思った以上に器用だったのはたしかだ」
「そうそう、それだよ。そうやって言えばいいの」
イリスが笑うと、メイベルは目を細める。――こうして笑ってくれるようになったのは、同室になって随分経ってからのことだった。そしてそれが笑顔だと気付いたのは、もっと後だ。

翌日、メイベルとフィネーロ、そしてカリンを見回りに出したら、とんでもないことになって帰ってきた。不機嫌そうに眉を寄せるメイベルが早足に行ってしまうのを、フィネーロが泣きそうなカリンを連れて追っている。男兄弟の末っ子であるフィネーロは、自分より小さな女の子――とはいえ同じ仕事をしているという点を考えるとむやみに子供扱いはできない――の慰め方がわからず戸惑っていた。
「イリス、メイベルを追って話をしてくれ。俺はフィンのサポートするから」
「了解。あ、このハンカチ、カリンちゃんに」
ルイゼンにきれいなハンカチを押し付けて、イリスはメイベルを追いかける。何があったのかは連絡が入っているので知っているが、予想以上の険悪さには正直焦っていた。せっかく再会した姉妹が、こんなかたちで仲違いするのはつらいし、嫌な話ではあるが、このままだとカリンの評価に響いてしまう。
すでにあちこちから、噂する声が聞こえていた。ブロッケンの妹がミスをしたらしい、姉がそれを叱責し、市中を騒がせたらしい。やはりブロッケンには問題がある。――囁く口を塞いでやりたかったが、それよりもメイベル本人から正確な話を聞くのが先だ。
「ベル! ちょっと待って、ちゃんと報告しなさいよ!」
人が少なくなったのを見計らって、振り向かない背中に大声で問う。不機嫌な返事だけがあった。
「……なぜイリスに? 班長はルイゼンだ。報告書はこれから作る」
「ゼンがわたしに任せたの。班長代理として、話を聞くのがわたしの仕事」
「それは偉くなったな。話も何も、すでに連絡した通りだが」
「詳細を言ってよ。ベルが何に怒って、カリンちゃんがどうして泣いてるのか、説明してくれないと納得できないじゃない」
「泣いてる? 五年も軍にいて、まだ泣いて済むと思っているのか、あいつは」
吐き捨てるメイベルの表情が見えない。せめてこっちを向けと思い肩に手をかけたが、振り払われた。だがその一瞬、怒りだけではない別の何かが混じった瞳に気づいた。感情をなかなか表にしないメイベルの、もっともわかりやすい態度が怒りなのだが、それには様々な種類がある。
「ベル、何があったの」
もう一度尋ねる。こちらも怒って返してはいけないと、長い付き合いで知っている。立ち止まったメイベルが、溜息を吐きながら眼鏡を直した。
「……あいつは軍人に向いていない。それを確認して、腹が立った」
見回り中に起こった事件はこうだ。カリンの目の前でひったくりがあり、慌てた彼女はメイベルとフィネーロを呼んだ。そうしてすぐに走り、ひったくり犯に追いついたはいいものの、カリンは容易く突き飛ばされ、なかなか起き上がらなかった。メイベルがそのあいだにひったくり犯を捕まえて抑え込んだのだが、そのままカリンを罵倒したのだという。――何をしている、役立たず!
「ベル、言いすぎだよ。捕縛に失敗することなんて、誰にでもあるじゃない」
「誰にでもあるで済ませられるか。あのひったくり犯は武器を所持していた。あのまま逃がしたら、何をしでかしていたかわかったもんじゃない。カリンの得物は銃なのだから、すぐに撃てば良かったんだ」
「無茶だって……人がたくさんいるのに撃ったら危ないよ。ベルだって武器を使わない方法を選んだんでしょう」
「私には可能だったからな。力で敵わないと判断したなら、すぐに道具を使うべきだ。カリンにはそれができなかった。その上、私に怒鳴られた程度で泣くだと? ふざけるな、そんなことで軍人が務まるものか」
メイベルはいつもその判断が早いし、躊躇わない。それはたしかだが、同じことをカリンにも求めるのは違うと、イリスは思う。できなかったからといって、役立たずと罵るなんて。もともと口調に関しては厳しいことの多いメイベルだが。
「らしくないよ、ベル。本当は何を思ってたの? つい酷いことを言ってしまうほどの、何があったっていうの?」
「全て話した。とにかく、私はもうあいつの面倒は見きれないからな。どうしても軍に置いてやりたいというなら、イリスが助けてやったらいい。あいつはイリスを気に入っているし、イリスもそうだろう。小さくて愛らしい子がお気に入りだものな」
昔に戻ったようだ、と思った。現在のメイベルはイリスの行動を基準に物事を考えるほどに、イリスのことを気に入っている。だからこんな発言は、本当に久しぶりだ。まだそれほど仲が良くなかった頃、寮の部屋で口喧嘩をしてばかりいたが、今ここにいるメイベルはそのときの彼女と重なる。
当時のイリスなら、かっとなって言い返していた。しかしメイベルの態度に含みがあるとわかったときから、何が含まれるのかをまず考えるようになった。今回もきっと、メイベルの本当の気持ちが隠されている。
「カリンちゃんと実家に帰るんじゃなかったの? そういう約束してたよね」
「やめだ。私はいつでも帰ろうと思えば帰れるんだから、カリンが一人で行けばいい」
再び歩き出したメイベルを、イリスは止めなかった。メイベルからは、これ以上無理に聞き出せない。姉妹の仲を余計に拗らせてしまってもいけない。来た道を戻って、一旦ルイゼンに報告することにした。
それから、カリンの話を聞いておきたかった。メイベルの態度が急変した原因が、彼女にならわかるかもしれない。話すのがつらそうなら、無理には聞かないけれど。

カリンは医務室にいた。ひったくり犯に突き飛ばされたときに、転んで手足を擦りむいていたらしい。イリスの姿を見ると、泣きそうな顔で笑った。
「イリスさん、お姉ちゃんはどうでした? 何か言ってましたか?」
「いや、あんまり話してくれなかった。あ、でも、今日のは何かの間違いだとわたしは思うよ。だって、ベルはカリンちゃんが中央に来るの楽しみにしてたし、絶対に嫌いになったわけじゃないから」
「いいですよ、無理して取り繕わなくても」
とうとうこぼれた涙を拭って、カリンは俯く。
「お姉ちゃんがわたしを役立たずって思うの、仕方ないです。昔からちっとも変わってないんだから、呆れられて、怒られて、当然なんです。……軍に入った意味がないって、きっと思ってるんでしょう」
「昔?」
「お姉ちゃんが軍人になるって決めた頃……ううん、もっと前からですね。未だに男の人に抵抗できないわたしに、お姉ちゃんは怒ったんです、たぶん」
それはまた随分と昔の話だ。イリスが怪訝な表情をしたのを見て、カリンは話を続けようとする。そのタイミングで、軍医はさりげなく部屋を出ていった。気を利かせてくれたのだろうけれど、あの体の弱い軍医がまた廊下で倒れたりしないだろうかと、少し心配になる。
「イリスさん、お姉ちゃんが軍人になった理由って、まだ聞いてないですか?」
「家族を養うためって説明されて以来、それっきりだね。他に何かあるの?」
「それは表向きの理由です。お姉ちゃんがわざわざ特待生として養成学校に入って、奨学金をやりくりしながら確実に軍人になろうとしたのは、お金のためじゃないんですよ。……確実に軍人にならないと、そうして即戦力にならないと、父を捕まえることができなかったからです」
メイベルからはけっして聞くことのできない言葉が、耳に入る。そんなものはいない、いないから話すこともないと、彼女は言っていた。だが、カリンの認識は違うようだ。それとも、イリスにわかりやすいように言葉を選んでいるのだろうか。
「お父さんを、捕まえる? あんまり良くない人らしいっていうことは想像ついてたけど……」
「自分で働かず、母が稼いだお金でお酒を買っては飲みすぎ、酔って家族に暴力を振るう人でした。母は、それからわたしたちも、父の言うことをきかなければ叩かれました。今日、ひったくり犯にされたみたいに突き飛ばされることも、わたしたちにはよくあることでした」
イリスにはうまく想像ができない。父が不必要に暴力を振るうなど、自分の常識では考えられないことだった。だが、ブロッケン家ではそれが日常だったのだ。――軍に通報しようなんて、それで助かるなんて、思わなくなるほどに。
「母も、わたしたちも、諦めてたんです。それと、ちょっとは希望がありました。母が優しかった頃の父の話を聞かせてくれましたから。いつかはそういう父が戻ってきてくれるんじゃないかって、神様が改心させてくれるんじゃないかって、そう考えて耐えていたんです」
でも、とカリンが継ぐのと、それがイリスの頭に浮かぶのは、同時だった。――でも、たった一人だけ、その考えを捨てた者がいた。
「お姉ちゃんだけは、母と同じようには思っていないようでした。母の収入だけでは生活をするどころか、父の酒代さえ賄えないと、お姉ちゃんは早くに気づいたんです。……少しでも家計の足しにしようと、街頭に立っていたこともあったので、そのときに認識が変わったんじゃないかな」
貧しい子供や身寄りのない子供が生きていく術の一つに、物乞いをするという方法がある。福祉がはるか昔に比べればずっと充実してきたとはいえ、救いきれない、そもそも見つけてすらもらえない、苦しみを抱える子供たちがいなくなったわけではない。裕福な家に育ったイリスも、教えてもらわなければ彼らの存在に気づけなかった。
ブロッケン家の子供たちも、そうだったのだ。とくにメイベルは長子だったから、自分がなんとかしなくてはいけないという気持ちもあったのだろう。母に代わって弟妹の世話をしながら、自分も街に立って、子供にできる「仕事」をした。
「街で、軍に入ればたくさんのお金を得られることや、当時始まったばかりだった養成学校の奨学制度などを知ったんだと思います。それから、父のような人は本来ならば、軍によって取り締まられるべきだということも。父の暴力からわたしたちを庇ってくれたのは、母ではなくお姉ちゃんでしたし」
貧しい家の子でありながら軍人学校に行くことを志し、弟妹を守りながらそれを成した。学校に行っているあいだに弟妹らが父から暴力を受けることのないように、家の中に上手に隠れることと、可能ならば「働き」に出ることを教えた。そうしてメイベルは、ずっと狙っていたのだ。――自らが軍人になり、父を自力で抑え込んで、捕まえることができるようになる日を。自分の手で家族を救うことを。
「家庭内暴力は、軍に訴えてもなかなか改善されることがない。むしろ中途半端に通報だけするようなことでは、もっと酷くなる。そういう現実もあったんだと、今になって思うんです。だからお姉ちゃんは自分で父を捕まえることにこだわり、……軍に入隊してすぐに、実行したんです」
「実行? でも、そんな権限、新人には……」
「軍人学校を出た即戦力ですから、全くないというわけではなかったみたいです。ただ、勝手に行動したから、お姉ちゃんの実績にはなっていません。それどころか謹慎処分になりました。寮に入る前だから、イリスさんとはまだ会ってないですね。フィネーロさんは知ってるかも」
他人の家庭の事情だから、フィネーロは何も言わなかったのだろう。メイベルとは軍人学校時代からの付き合いだから、知っていてもおかしくはない。今でもメイベルを最も理解しているのは、たぶんイリスでもルイゼンでもなく、彼だった。
「……でも、ベルは家族を助けられたんだよね。お父さんを捕まえることは、できたんだよね」
「はい。お姉ちゃんを止めに来た上司の人の手柄にはなりましたけど、お父さんは刑務所に入ることになりました。わたしたちは知らなかったんですけど、よそでも暴力を振るったり、盗みをしたり、余罪がいろいろ見つかったみたいです。……ただ」
「ただ?」
「母は、いつか優しい父が戻ってくると信じていましたから。軍を動かした、というより自分で父を捕まえようとしたお姉ちゃんの行動を、認めませんでした」
暴力を振るい、家族を不幸に貶める者は、メイベルが自分の力をもって排除しようとした。そうして家族は救われた。それでめでたし、になれば良かったのだが、現実はそうではなかった。謹慎を言い渡されて家に帰ってきたメイベルに母がかけた言葉を、カリンはよく憶えている。
――なんで軍人になんかなったの? どうしてお父さんを売るような真似をするの? あなたは、なんて娘なの……!
それを聞いたメイベルは、何を思っただろう。自分は間違ったことはしていないと、初めのうちは訴えたそうだが、母が耳を貸さないとわかってからは何も言わなくなった。ぼろぼろになってしまった生活をなんとか改善させるために、軍をやめることはしなかった。今ではメイベルの稼ぎで、小さかった弟や妹は学校に行くこともできるようになっている。そうして立て直された家族を、イリスは見ていたのだった。
「わたしも、お姉ちゃんに言われたんですよ。学校に行けって。そうしたら、いい仕事に就けるようになるからって。……イリスさん、昔うちに遊びに来たときに、聞いてますよね」
「うん、憶えてる。だからカリンちゃんが軍に入るなんて思ってなかった。そういえばあのとき、カリンちゃんは商店街にあるお店の手伝いをしに行ってたんだっけ」
「はい。お姉ちゃんのおかげで、表立って働けるような身なりができるようになっていましたから。お姉ちゃんが家を離れているなら、二番目のわたしがしっかりしなきゃって思って。軍に入ったのもそうです。十歳になったら入隊して、お姉ちゃんみたいに頑張るんだって、思ってたんですけど……」
今日ので、がっかりされちゃいましたね。そう言うカリンの目に、また涙が溜まる。イリスはハンカチを取り出そうとして、さっきルイゼンに預けたことを思いだした。あれはどうしたのだろうと思っていたら、ちゃんとカリンが持っていた。
「あの、これ……」
「そのまま使っていいよ。なんだったらあげちゃう。義兄が会社で配ったもののサンプルだってくれたものだから、同じのいっぱい持ってるんだよね。安心と信頼のフォース社が扱ってるものだから、長く使える優れものだよ」
「あ、そうなんですか……。でも、洗って返します。貰ったら、またお姉ちゃんに怒られちゃいます」
頭の中が混乱していて余計なことまで口走ったイリスに、しかしカリンは涙を拭きながら微笑んだ。そんな彼女を見ていて、そしてメイベルが話したがらなかった過去を知って、今日の事件の裏側が、イリスにはほんの少しではあるが見えてきていた。
ただ、メイベルは絶対に真相を話さないだろう。その確信も強くなった。こういうことは話さない人物なのだと、こちらも付き合う中でわかってきている。こちらが察して動くしかないのだ。メイベルには、彼女にあとで怒られるくらい、余計なおせっかいをしておくくらいがちょうどいい。
「実の妹に言うのは失礼かもしれないけど、ベルは素直じゃないし口も悪いよね。今日のこと、たぶんカリンちゃんに怒ったんじゃないよ」
「いいですよ、気を遣わなくて。それとイリスさんは、お姉ちゃんから聞かなかったことは、今後も知らないふりをしていたほうがいいです。お姉ちゃんと仲良しのままでいてほしいから」
「仲良しでいたいよ。でも、同じくらいベルとカリンちゃんにも仲良しでいてほしいの。ベルは本当に、カリンちゃんに会うの楽しみにしてたんだから」
そのためには、どうしたらいいのだろう。メイベルもカリンも、みんなが幸せになれる方法はないものか。考えだしたイリスに、カリンは笑顔を作って言った。
「イリスさんは悩まなくていいんです。お姉ちゃんは、わたしが弱いから、軍人として役に立たないから、怒ったんです。つまりわたしのせいなんです」
「違うよ。ベルは……」
「わたしが強くなれば、いつかはお姉ちゃんも認めてくれるはずです。わたしは諦めませんから、大丈夫ですよ」
そう言いきられてしまっては、こちらは何も返せなかった。
カリンはきちんと礼をして医務室を出ていき、入れ替わりに軍医が入ってくる。ずっと廊下に立っていたせいか、顔色が少し悪い。
「ユロウさん、大丈夫?」
「平気だよ。……立ち聞きしてしまって申し訳ないけど、メイベルちゃんとカリンちゃん、結構面倒だね。でも僕にも覚えがあるよ、ああいうの」
「どうやって解決したらいいですか? カリンちゃんはユロウさんみたいに、年上に遠慮なく毒吐いたりとかできないよ」
「言うなあ。大丈夫、毒なんか吐かなくても、当人たちで解決できる問題だから。雨降って地固まる、ってね。前よりもっと良い関係になれるかもしれないよ」
君とニア君だってそういうことがあったでしょう。そう言われても、イリスにはいまいちピンとこなかった。

メイベルは本当にカリンと口をきこうとしなかった。仕事上必要なことだけを一方的に告げるか、書き出して渡すかするくらいで、それ以外は徹底的に無視しようとした。
イリスは何度も口出ししようとしたが、そのたびにカリンと、フィネーロにも止められた。ルイゼンは「やりにくいけど、これ以上ややこしくするのも得策じゃない」と言う。たしかにことが深刻になって表に出るほど、カリンには不都合なことになってしまう。上司としては妥当な判断だった。
寮に帰れば、メイベルはあからさまにカリンの話を避けようとする。結果的にイリスとまともに喋らなくなった。取り付く島もない。こっそりカリンが滞在している部屋を訪ねると、実家に帰っているという。本当に一人で帰ってしまった。
このまま一週間が過ぎてしまうのはだめだ、と思いつつもイリスにはどうにもできず、ついにカリンの研修は最終日を迎えた。
「カリンちゃん、今日で最後だな。事務仕事が完璧だから助かったよ」
「ありがとうございます」
「わたし、事務苦手だから、カリンちゃんがいてくれて良い一週間だった。こんなに気が利く良い子、本当にうちの班員になってくれたらいいのに」
「イリスさんにそう言っていただけると、嬉しいです。わたしも憧れの人と一緒に仕事ができて、この一週間、本当にいい経験になりました」
カリンを褒めまくってから、イリスとルイゼンはちらりとメイベルを見る。何の反応もない。フィネーロが小声で「今は期待しても無駄だ」と言った。そうかもしれないが、歯痒い。だって、イリスの認識では、カリンが一番褒めてもらいたい人は、カリンの一番の憧れは、メイベルに違いないのだ。
「ゼン、どうしたら……」
「仕方ないだろ。いつか自然に修復するのを待つしかない」
「えー……」
メイベルが折れれば一気に解決しそうだが、とうとうそんなそぶりは見せてくれなかった。外野がなんとかできることではないのかもしれないが、それでも気になるものは気になるのだ。
イリスが気にしてカリンの話題を出す限り、メイベルはイリスとも話をしてくれないだろう。
「あのな、イリス。全部の家族が完全にうまくいくなんてことはないって、お前もわからないわけじゃないだろ」
一人で黙々と仕事を続けるメイベルと、フィネーロに教わりながら書類をまとめているカリンをこっそり眺めながら、ルイゼンは言う。
「ましてお前が介入して絶対にうまくいくなんてこともないんだから。たまたまうまくいったほうが特殊だと思え」
「そうかもしれないけど……」
いつか、似たようなことを言われた覚えがある。そして傲慢になってはいけないと、心に刻んだつもりだった。……つもり、だったのだろうか。イリス自身は一般的に見ても恵まれている家庭に育ち、それが理想形だと思い込んでしまっていると、そういうことなのだろうか。理想を押し付けるのは、良くないことだとわかっているはずなのに。
任務に使った資料を軍設図書館に戻しに行かなければならないのだが、メイベルとカリンが気になって、なかなか動けない。資料は重いので、イリスとルイゼンが運ばなければならないのだが。
「ほら、さっさと行って戻ってくるぞ。もしかしたらそのあいだに、フィンがなんとかしてくれるかもしれないし」
「それができるフィンの手腕も見てみたいよ」
バインダーが詰まった段ボール箱を渋々持ち上げ、事務室を出ようとした、そのときだった。内線をとった大佐が、部屋のものに早口で呼びかけた。
「緊急の通報が入った! 傷害事件だ! すぐに動ける者はいるか?!」
ルイゼンが抱えていたダンボール箱を置き、大佐のもとへ駆け寄る。現場の住所を告げられた後に、こう続いた。
「通報してきたのは子供だったようだ。父親による家庭内暴力から、なんとか逃れてきたらしい。急いでくれ」
がたん、と大きな音がした。椅子が倒れたのだとわかったときには、そこにいたはずの人物は部屋にいなかった。イリスの横を素早くすり抜け、彼女は真っ先に走っていったのだった。
「ベル……!」
イリスもダンボール箱を放りだし、走りながら聞こえた住所を頭の中で復唱する。後を追ってきた足音は三人分で、振り返るとルイゼンとフィネーロ、そしてカリンの姿があった。
「カリンちゃん、危ないよ?!」
先日は事件現場に偶然居合わせたが、今回はもう内容がわかっている。ひったくり犯に突き飛ばされて動けなくなってしまった子が、まさに過去の自分と重なるような事件に関わって、大丈夫だろうか。そう思ったのだが。
「今はまだわたしも、この班の一員です!」
そう言われては、置いていけなくなってしまった。リーダーであるルイゼンにも、おそらくは過去のことを知っているはずのフィネーロも、彼女に留守番をさせる気はないようだ。
この声は、メイベルに届いただろうか。まったく振り返らないけれど。
現場まではそう遠くない。司令部を出た五人は、そのまま走った。現場の近くに公衆電話があり、フィネーロだけはそこで立ち止まった。指示された場所には、このあたりでは珍しくない形の一軒家があり、中の音は聞こえない。メイベルが乗り込もうとしたのを、イリスはぎりぎりで腕を掴んで止めた。
「離せ! 現場はここだろう!」
「静かに。ちょっとは中の状況がわからないと、最悪、誰も助けられないよ」
いつもならそうだ。だが、追いついたフィネーロが首を横に振った。
「いや、すぐに入るぞ。公衆電話付近に血痕があった。通報してきたのは子供だというが、その姿は見当たらない」
それを聞くや否や、メイベルはイリスの手を乱暴に引き剥がして、玄関へ突進した。鍵がかかっていて開かないとみるや、銃を構える。
「待って、戸口に誰かいたら」
「それはない。絶対に奥に引きずり込んでいる」
はたして、メイベルの判断と狙いは正しかった。鍵を壊して戸を開けると、家の奥へと血の跡が続いている。それを真っ先に追ったのはメイベルで、次は。
「カリンちゃん?!」
「おい、イリス、止まってんな! 行け!」
ルイゼンの声で我に返り、二人を追いかけて家に上がり込んだ。どこに人が、と捜し始めたその瞬間、男のものらしい低い呻き声が聞こえた。そちらへ向かうと、メイベルが体格のよい男を床に倒し、カリンが座り込んで男の子を抱きしめていた。男の子の額は、ちらりとしか見えないが、血に塗れている。
「カリンちゃん、その子」
「頭を切っているみたいです。意識はあります」
額の傷は、思ったより深くはなさそうだ。だが、体のあちこちに打撲や火傷の痕があり、痛々しい。おそらくは床に伏したこの男が、何度もこの子を痛めつけてきたのだろう。
「なんだお前ら……ここは俺の家だぞ! ……ひっ」
喚く男は、メイベルに銃口を突きつけられて、小さく悲鳴をあげた。
「誰の家だって?」
低く囁くメイベルの指は、引き金にかかっている。かちゃん、と金属音がした。
「自分でぶち壊しておいて、そんな口が叩けるのか。二度とふざけたことが言えないように、この獣以下の脳みそをふっ飛ばしてやる」
「ベル、ちょっと……」
意識のある子供の前だ。イリスが慌てて止めようとしたとき、普段は柔らかな声が厳しく言った。
「お姉ちゃん、子供の前だよ」
「……そうだったな。すまない」
カリンの言葉で、メイベルは男から銃口を離す。同時に力も緩めたのか、今を好機と見た男が勢いよく起き上がって、メイベルを床に倒した。
「……っ!」
「お姉ちゃん!」
「さっきなんつった、お前。女が偉そうにしやがって!」
男は怒鳴り、メイベルに襲いかかろうとする。だが、その前にイリスがあいだに入り、男の顔を両手で押さえ、目を合わせた。
「おじさま、少し大人しくしててよ。そうすれば怪我なく、軍に連れて行ってあげられるから」
イリスの眼は相手の体調や精神に影響を与える。普段は調整して隠している能力だが、適切に使えば、体格差のある相手からも力を奪うことができる。男から力が抜けたのを確認し、床に転がして、メイベルの無事を確認した。
「怪我は……してないね。さすがベル」
「いや、イリスこそ。見惚れるよ」
「お姉ちゃんたち、静かに。この子、何か言いたそう」
男の子の額の傷をハンカチで押さえながら、カリンは耳をすませている。イリスとメイベルもそれに倣うと、彼の声が途切れ途切れに聞こえた。
「お……かあ、さん、は……?」
「お母さん?」
他の部屋にいたのだろうか。イリスが捜しに行こうとすると、フィネーロがやってきた。
「あ、フィン。この子のお母さんが」
「ああ、それを伝えに来た。リビングで女性が倒れていたので、救急車を呼んだところだ。意識はある」
「そっか……」
ホッとしたイリスの後ろで、メイベルが息を吐いたのがわかった。
カリンは男の子に、優しく語りかける。
「お母さんを守ったんだね。勇気を出して、軍に連絡をしてくれたんだよね。よく頑張った。君は偉いよ」
男の子が泣き笑いし、メイベルが目を見開いていた。どちらも、穏やかな笑顔のカリンを見ていた。

「一週間、お世話になりました」
事件の処理はイリスたちが行なうことになり、カリンは予定通り、その日の夕方に中央での仕事を終えた。これから列車に乗って、西方司令部へ帰ることになる。到着するのは夜中だ。
「カリンちゃん、最後にお手柄だったね」
「そんな、わたしは何も。お姉ちゃんが先に行ってくれたから、怖くなかったんです」
「何を言ってる」
照れるカリンだったが、メイベルの声に姿勢を正した。緊張した面持ちで、しっかりと姉を見る。
「……まだ、軍人としては情けないよね。わかってるよ」
もっと頑張るから。たぶん、そう言おうとしたのだ。けれどもメイベルが先に続けたから、聞こえなかった。
「現場において適切な行動をとった。よくできたな。……役立たず、は撤回する。許してほしい」
「お姉ちゃん……」
メイベルが目を細める。わかる人にしかわからない笑顔は、妹にはちゃんとわかっていたようだった。嬉しそうに頬を染め、姉に抱きつく。
「今度は、一緒に帰ってよね。お母さんも待ってるよ」
「そうか。じゃあ、また来いよ」
本当は、メイベルはカリンを軍に入れたくなかったのだろう。自分で自分の身を守れそうだと思えなくて、それではとても軍に居続けることなんてさせられないと思って、辛辣な言葉が出たのだと、イリスは解釈している。彼女が怒っていたのはカリンにではなく、カリンを突き飛ばした男と、それを防ぐことのできなかった自分自身にだ。
ただ、やはり本人は弁解しないだろう。カリンに謝っただけで十分なのだから、それ以上は聞き出さなくていい。
それほど大切に思っている妹に、メイベルもまた救われたのではないか。カリンが男の子にかけた言葉は、もしかしたらいつかのメイベルが欲しかったものなのかもしれない。カリンもずっと、幼いメイベルにそう言いたかったのかも。
そんな都合のいい想像をしながら、イリスはカリンを見送った。次にまた会うときは、もっと立派な軍人になっているだろうと思って。メイベルもきっと、そう思っている。
「ねえ、ベル。カリンちゃんさ」
「しばらく見ないうちに強くなってたな。……もう、私には面倒を見きれない」
まるでニュアンスの変わった台詞を聞いて、イリスはニッと笑った。メイベルも目を細めた。
無力な少女はもういない。



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2016年03月12日

海を捲る

エルニーニャ王国首都レジーナの、とある大型書店。そこにその月の新刊が、平台にずらりと並べられていた。立派な装丁のハードカバーもあれば、ちょっとおしゃれをした単行本、サイズも見た目も可愛らしい文庫本も揃っている。
なかでも訪れる人々の目を引いていたのが、国内ではそこそこに名の知れた作家の新作。表紙は海を描いた透明感のある水彩画で、あまり海には馴染みのないはずのエルニーニャの人々でも、なぜか「懐かしく」思い、手に取るのだった。
商店街をとことこと歩いてきた少女も、その本を見つけた。母とつないでいた手をぱっと離して駆け寄り、その本をとても壊れやすい宝飾品であるかのように、そうっと持ち上げる。なにしろ紙の束で、しかもなかなかの長編であったので、その重さは壊れ物を圧し潰してしまいかねないものではあったのだけれど。それを落とさないように抱えながら、そっと表紙の海を撫でた。
「きれいねえ、お母さん」
追いついた母に、少女はうっとりとして言った。
「この町からは見られないけれど、この世界には、こんなに美しいところがあるんだね。お父さんの住んでいるところなら見られるかな」
絵であるそれを、少女は実際にあるものとして、すぐにとらえていた。彼女もまた多くの人と同じく、この海に「懐かしさ」を感じたのだ。それはまだ、見たことがない景色だけれど。波が奏でる音も知らないけれど。
「そうね、父さんの職場からなら、海が見られないこともないかもしれないわ。ただ、向こうは雪が降るから、こんなにきれいな青色をしているかしら」
「夏は? 夏ならきっとこんなふうになるんじゃない? お父さんに頼んで、写真送ってもらおうかな」
「写真ねえ……。お父さんはあんまり上手じゃないから、他の人に撮ってもらった方がいいかも。それか我らが大総統閣下に出張ついでに撮ってきてもらうか。アイツはなかなかいい腕してるわよ」
「もう、お母さんってばすぐお父さんはあれが下手これが下手って言うんだから」
頬を膨らませながら、少女はもう一度本の表紙をじっと眺め、それから丁寧に棚に戻した。少女の持ち合わせではこの本は買えないし、母にねだろうなんて気は少しも起きなかった。そんな気は今までだって起こしたこともない。
貯金箱にいくら残してきただろうか、と思いながら、今日のところはそこを離れることにした。


休日を過ごす人々も、彼らを迎え入れるために働く人々も、町を賑わせている。もちろん軍人だって、町の見回りを欠かさない。こんなときだからこそ、町に自然に溶け込みながら、人々の平穏や町の安全を守るのだ。
「いい天気ー! 仕事じゃなくて普通に買い物とかしたかったな」
青空の下、思い切り伸びをしながら、軍服姿のイリスがぼやく。その隣を歩いていたルイゼンは、苦笑いで答えた。
「それはお前だけじゃないって。一般の休日と非番がぶつからなかった奴が、毎日嘆いてることだろ」
「むしろ非番が突然なくなった人とか。よくあるじゃん、休みだと思って浮かれてたら、急に遠征行くぞーって叩き起こされるパターン」
いずれも「軍人あるある」と称される、彼らにとっては日常茶飯事の光景である。けれどもそれで誰かの助けになるなら、というあまりに真っ当すぎる理由で、イリスは本当に動いている。軍家インフェリアの娘だから、名ばかりだが大総統補佐見習いという立場にあるから、と周囲は言うが、本人は本気で誰かのために常に考え、行動していたいと思ってやっている。
じき、彼女が軍人になって七年。それ以前からも数えて、生きているあいだのほとんどを一緒に過ごしたルイゼンは、幼馴染であり好きな女の子でもあるイリスの成長を、日々眩しく思っている。逞しくなったし、賢くもなった。それでいて根っこの部分は幼い頃からずっとしっかりしているのだ。
「今日一日、平和だといいなー。こんな見回りなんか無駄になるくらいの平和……に、ちょっとスパイス程度に大立ち回りができればわたしは満足なんだけど」
「お前が大立ち回るほどのことがあったら平和っていえなくなるから。絶対に暴れてくれるなよ」
あんまり強いから、多少自分がつっこみを入れられるくらいでちょうどいい、とルイゼンは思う。悔しいことだが、訓練ではイリスに勝てたことがないし、身長の差も昔ほどなくなってきた。ルイゼンも逃げるように伸びてはいるが、イリスの追い上げはすさまじかった。
「冗談だよ、冗談。本当に事件が起こってほしいわけないし、たぶんこの発言をお兄ちゃんに知られたらまたお説教タイムだから内緒にしておいてね」
いたずらを見つかった子供のように笑うと、まだまだ「少女」なのだけれど。

「きゃっ」
どこかから悲鳴があがった。イリスとルイゼンはその声を聴き逃さず、すぐにそちらへと走っていく。周囲の人はそ知らぬふりだが、特に疚しいこともないようなので、おそらく事件性はないと判断した。
ただ、突然転んだ女性に気づかないだけ。気づいていても、大したことはないだろうと思えば、次の瞬間には忘れてしまう。
「大丈夫ですか?」
小柄な女性に、イリスが片膝をついて屈み、手を伸ばした。女性は照れたように笑って頷く。
「大丈夫です……ちょっと靴がですね、引っかかってしまって、ドジを」
「そうでしたか。怪我はされていませんか? よろしければ、広場中央のベンチまで、わたしにエスコートさせてください」
手をとって微笑めば、相手の女性の心を奪ってしまう。それもこれも、イリスの笑顔から仕草まで、彼女の父親に似ているせいだ。実の兄よりも似ている。そういうことで軍の女性陣からもイリスは人気があるのだった。ルイゼンは溜息を吐きながら女性の荷物を持って、広場中央まで付き従う。こちらも慣れたものだ。
女性をベンチに座らせ、ルイゼンから受け取った荷物に不足がないか確認してもらう。金品や身分証もすべて揃っていたため、スリというわけでもなさそうだ。だが、事件性がないからこれで終わりというわけにはいかない。大抵の軍人なら終わりかもしれないが、イリスはこれで終わらせない。
「先ほど靴が引っかかったと仰ってましたね。お足もとを確認させていただいても?」
「え、はい……」
失礼します、と一声。女性の足にそっと触れ、怪我がないか改めてチェックする。さらに靴も見る。踵が折れたりということはないようだが、傷がどれも妙に新しい。
「靴、おろしたてなんですね。よく似合ってます。でも今日の人出では、履き慣れていない靴だとちょっと大変だったでしょう。せっかく新しい本も買われたようですし、どこかで休みながら、ゆっくり読まれたらいかがです? なんだったらお茶の美味しいお店も教えちゃいますよ」
「そ、それは軍人さんは一緒に行ってくれます?」
「すみません、わたしは仕事なので。残念です」
このやりとりができるのはイリスならではだ、とルイゼンは常々思っている。男の自分などがやったら、司令部にセクハラされただのナンパされただのといった苦情が舞い込みかねない。しかも背の高い男前(女だが)にこんな扱いをされるのだから、大多数の女性は喜ぶのではないか。
もちろん喜ばない女性がいることも知っている。けれどもイリスは、相手を見てすぐに、どう接するべきか判断できている。今のところ成功率百パーセントなのだから、そうとしか思えない。
女性と別れてから、それまでの態度は一変するというのに。
「今の人可愛かったね! 服とか靴とか髪型とか、エイマルちゃんがもうちょっと大きくなったら似合いそうだなあ」
「あー、うん、そうな」
イリスが一瞬にして目を輝かせたただの(シスコン気味な)女の子に戻るのを、ルイゼンはいつも呆れて見ているのだった。
「それに、本! あの人、本買ってくれてた!」
「ああ、書店の紙袋が鞄に入ってたな」
「中身透けて見えたの! あの本だったよ。わたしが間違えるはずないもん!」
あの本、と突然言われても、ルイゼンにはすぐにどの本のことを言っているのかわかった。近々発売になると聞いていたが、もしや今日だったのか。
改めて女性が出てきたと思われる大型書店の店先を見てみると、たしかにそこには、その書籍が一番大きく展開してあった。――平台に広がる、青い青い海。透明で、底のほうまで覗けそうなのに、そうすると引き込まれて浮いてこられなくなりそうな、あまりに美しい海の表紙。あまり小説の類は読まないルイゼンでも、名前くらいは聞いたことがある作家の、最新作。
イリスはこの本のタイトルを、たぶん今、初めて見た。けれどもこの本の話は、ずっと前からしていた。こんなふうに人々の目に触れて、喜ばれる日を、ずっとずっと待ち詫びていたのだ。
「……やっぱり、きれいだ。すごくきれいな本になった」
表紙を眺め、捲り、また戻し。イリスは繰り返し、その本を確かめる。心の底から嬉しそうに。
けれどもそのうち棚に戻し、店には背を向けた。
「買わないでいいのか?」
「欲しそうにしてる人、いるから。それに、もっと小さい本屋さんで、でも確実に置いてくれてるところ知ってるの。どっちにしろ、わたしじゃ読めないだろうけど」
イリスはあまり本を読まない。同室のメイベルがかなりの読書家なので、薦められてはいるらしいが、どうやら「読めるレベルが違う」ということだった。小説でたとえるなら、難解な文体で綴られた長編小説を呼吸をするように読みこなすのがメイベルなら、イリスはヤングアダルトのエンターテインメント小説をなんとか最後まで読み通すのが精いっぱいだという。
「ベルがね、読みたがってるんだよ。図書館で予約待ちが……三十、とちょっとだっけ。そうしたらわたしにも、内容教えてくれるから。今はあの絵で本が出たってことだけで胸がいっぱい」
「……そっか」
すれ違う人が、本を見つけて嬉しそうにそちらへ向かい、手に取る気配。それだけでイリスは満足だった。そう、今は。

見回りを終えて司令部に戻り、簡単な報告書を作ったら、今日やらなければならない仕事はおしまいだ。ただしそれはルイゼン達リーゼッタ班の仕事という意味で、イリス個人の仕事はまだ残っている。
「失礼します。レヴィ兄、生きてるー?」
遠慮なく覗いた大総統執務室の、重厚なつくりの事務机の上に、赤い髪が広がっている。返事はない。昨夜は徹夜だったのだろう。イリスたちは関われなかったが、最近大きな事件が立て続けに起きていて、処理がなかなか追いつかないという。
大総統になって二年、忙しさには慣れたはずのレヴィアンスだが、いつまでも体力と気力が続くわけではない。続いた案件のうちの一つは、直接出向いてもいる。
正補佐は外出中のようだ。書置きがある。つまりそれ以前から、彼は机の上に伏しているのだった。
「レヴィ兄、寝るにしてもソファとかに移動した方がいいよ。体痛くなるよ」
軽く揺すっても、反応がない。呼吸はしているようで、少し安心する。安心ついでに周囲に丸めて捨てられたメモを拾って片付け、まばらに積み重なった書類を直す。大総統補佐見習いを言い渡されて二年、すっかり手馴れた、「イリスの仕事」だ。
「……なにこれ」
仕事用のメモとは異なる書き方の、そしていずれの事件とも関係がなさそうなポストイットが、大切そうに机に貼ってあるのを見つけた。まだレヴィアンスが目を覚まさないのを確認してから、しっかりと読み直す。
――三月十二日発売。いつもの路地裏の書店から連絡が入り次第引き取りに行く。
今日の日付と書店という情報から、これはあの本のことだ、と思い当たる。レヴィアンスはあの本を買う気でいたのだ。
「言ってくれればおつかいしたのに。……ねえレヴィ兄、そろそろ起きないと」
「ん……」
やっと返事があった。ぼさぼさの髪を持ち上げ、かきあげて、ゆっくりと体を起こしたレヴィアンスは、低い声で「今何時?」と呻いた。
「昼過ぎ」
「そっか……じゃあ二時間は寝られたな。イリス、昼飯は?」
「わたしはここ来る前に、ベルたちと済ませてきた。レヴィ兄の分、何か頼もうか? レヴィ兄は部屋に戻って、お風呂入ってくるといいよ」
二時間、と頭の中で復唱する。午前はほぼ起きて、仕事をしていたのだ、この人は。そして仕事はどれだけ進められたのだろうか。
「いや、頼まなくていい。仕事は終わらせたんだ、全部終わって安心して寝落ちた。これで今夜は飲みに行ける」
「飲みに行くつもりだったの? 呆れた」
「……まあいいけどね、今は呆れてて」
含み笑いをして、実にさりげなく、机のポストイットを剥がして捨てる。用事はもう済んだのか。でも、いつ済ませたのだろう。本屋に行く時間などあったのか。
「レヴィ兄、いいの? 書店……」
「ああ、見たの。開店と同時に連絡が来ることになってたから、仕事一旦置いて行ってきたよ」
「わたしに言ってくれたら代わりに行ったのに」
「だってイリス、仕事あっただろ。どうだった、街の様子は」
さっきまで机に伏せて微動だにしなかったとは思えない要領で動くレヴィアンスに、イリスは首を傾げる。落ち着いているようなのに、どこか違和感がある、けれども具体的にそれが何なのかわからない。仕事がうまく片付いて機嫌がいいにしては、いつものそれと何かが違う。
「さて、仕事は終わりだよ、イリス。あとは寮でおとなしくしてろ」
「えー……」
レヴィアンスは何かを企んでいる。無理やり仕事を終わらせてまで、企むようなことがある。


不審な行動をとっているのはレヴィアンスだけではなかった。寮の部屋に戻ってみたら、メイベルがいない。男子寮に乗り込むと、ルイゼンとフィネーロも不在だった。みんながイリスを置いてどこかに出かけているなんてこと、あるだろうか。
「でもゼンは何も言ってなかったしなあ……」
午前中のルイゼンに、特に変わったところはなかったはずだ。昼食をとっているときの、メイベルとフィネーロにも。みんなどうしたかなあ、と呟きながら布団に寝転び、目を閉じた。
瞼の裏には、水彩画の海。いつでも思い出せる、美しい景色。あれがたくさんの人々の手元へと渡っていると思うと、自然に口元が緩んでくる。そしてあの絵の持つ他の誰も知らない姿を、イリスは知っているという事実に、ちょっと得意になる。
なにしろ、下書きから見てきたのだ。出来上がっていく過程を、時間さえあれば見に行った。あの幸福な時間が、今日のこの日をつくったのだ。
「やっぱり、買えばよかったかな。内容は少しずつ、辞書ひきながらでも読むことにして……」
独り言が午後の日差しにすっかりとけてしまう頃。イリスはもう、夢の中だった。

目覚ましは電話の音。いつのまにやら日も落ちかけていることに一瞬焦りを感じつつ、イリスは慌てて受話器をとった。メイベルはまだ帰っていないようだ。
「もしもし、どなたですか?」
「イリス、もしかして寝てたか? 声がまだ寝ぼけてる」
「……なんだ、お父さん。何か用?」
父からの電話は珍しくはない。大抵はたまに実家に顔を出せという話で、そう言われた日には必ず帰って近況報告をするようにしている。「お父さん過保護だ」と思わず言ってしまったとき、母が笑って「寂しがり屋なのよ」と返した。人との別れが多いから、だと。
それなら絶対わたしは寂しがり屋なんかにならない、と誓ったのは、いつのことだったか。とりこぼさない、助ける、守ると、強く胸に刻んだのは。
父は自分では、寂しがっているふうを見せないけれど。
「何か用、とは冷たいな。ディナーの誘いなのに」
「いつ? まさか今夜?」
「そのまさか。せっかく例の本も出たことだし、お祝いしよう」
明るい声にそう言われては、そうでなくとも、断る理由がない。あの本に関することならなおさら。急だなと思いながらも、電話を切ってすぐに支度をした。メイベルが帰ってきたときのために書置きを残し、部屋の鍵をかけて。
寮から実家まではバスを使うのが常だが、今日はタイミングが良くないので車を拾う。乗り込んで目的地を告げてから、ラジオの音に耳を傾ける。あの本のタイトルが聞こえてきたからだった。
『――本日、三月十二日発売です。さっそく当番組にも、感想第一弾が届いてまいりました。表紙がきれいで引き込まれました、という声が多いですね』
小さくガッツポーズをしたイリスの耳に、続いて情報が入ってくる。
『話題となっている表紙ですが、こんなお話が届いていますよ。この本を作るにあたって、著者のエゴン氏と装画担当のインフェリア氏が約束をしたんだそうです。絶対に、三月十二日に世に出るようにスケジュールを進めたいと。……異例のことですが、それがインフェリア氏を起用するための条件だったということです。なぜならこの日が、彼のご家族の――』
どうしてこんな情報が、先に世に出てしまったのか。いや、どうしてこんなことを、誰でもない自分が忘れてしまっていたのか。
運転手が声をかけるまで、イリスは茫然としていた。


インフェリア邸にはたくさんの人が集っていた。大人も子供も、来られる人はみんなやってきて、今日を祝おうとしていた。
知らない人が見れば、どんな要人を迎えるパーティかと思うだろう。大総統、大文卿夫人が顔を揃え、隣国軍の大将まで妻と娘を伴い出席している。しかし、内実はもっともっと気軽なものだ。
ただ、誰もが一度は彼女と関わり、ときに世話になり、ときに手を差し伸べた。それだけのこと。
壁には本の表紙にもなった、透明で広い海の絵が、複製ではあるが大判で貼ってある。描いた本人は絵を見上げながら、待っていた。
たくさんの人々に愛される、このパーティの主役がやってくるのを。

「ちょっとお兄ちゃん! 今ラジオで――」
ドアを開けて、ただいまよりも先にそんなことを言おうとしたら。
「イリス。――誕生日、おめでとう!」
波のような声が幾重にも重なって、迎えてくれた。
あんなに日付を見ていたのに、その意味に全く知らない声に教えられるまで気づかなかった、十七歳になった少女は。
「……ありがとう」
この十七年と、そのために描かれた絵の真相を知る。

母と叔母が用意してくれた新しいワンピースに着替え、幼い頃から実の姉のように慕ってきた人たちから贈られたメイクセットできちんと化粧をし、改めて祝いの席に迎えられる。イリスがその動向を訝しんでいたレヴィアンスは当然このために仕事を終わらせており、余裕の表情で酒瓶を開けていた。
ルイゼン、メイベル、フィネーロは、先にここに来て父や母の手伝いをしてくれていたという。必要になるだろうから、と今日専用のアルバムもくれた。
「みんななんで言ってくれなかったの……」
「本人が気づいてなかったら言わなくていいって、俺たちに言ったのは閣下」
「ルイゼン、こら、誤解を招くようなこと言うんじゃない。最初に提案したのはニアだし、本作ってるときから言ってたんだからな」
そうだ、本だ。あの本はイリスの誕生日にわざわざ合わせて出版されたのだ。それも、装画を担当したニアが著者に出した条件だった。
「お兄ちゃん」
絵の前に佇み、独りで飲んでいたニアのもとへ走り寄り、イリスは尋ねようとした。でも、何から尋ねたらいいのか、最初の一言が出てこない。
「待ってたよ、イリス」
それをただ微笑んで、もう受け止めたよ、わかってるよ、という顔をして。ニアは海の絵を仰いだ。
その横顔は、もうイリスのほぼ真横にある。この家の生まれにしては、さほど背の伸びなかった兄とは、もうほんのわずかの身長差しかなかった。昔はあんなに大きく感じたのに。
「……君には、この絵の制作過程を見せてきたよね」
「うん。下書きから、筆が入って、色が重ねられていくのを、わたしはお兄ちゃんの斜め後ろでずっと見てた」
本の表紙を描くことになったんだ、とニアから聞いたときは、自分のことのように胸が高鳴った。各方面に様々なかたちで作品を発表、提供してきたニアだったが、本の装画は初めてだった。
この海が描かれる過程を、イリスは頻繁にニアのもとを訪れ、見せてもらった。育っていくのを見てきたからか、だんだんとこの絵に特別な愛着がわいてきた。
「イリスが、この絵ができて今日たくさんの人の手に渡るまでを見ていてくれたそのあいだ。感じてくれていたことは、たぶん僕が君の成長に感じていたことに近いんだ」
「お兄ちゃんが、わたしの成長に?」
「そう。君が生まれるってことを知った日から、この世に生まれて、どんどん大きくなっていくまで。とてもとても、幸せな時間だったよ」
絵が完成して世に出るまでの、イリスが感じていた幸福感。それはイリスの知らないニアが感じてきたものと、限りなく似ているのだという。そしてその幸せの中で、イリスと、本は、生まれた。
「こんな無茶なスケジュールに付き合ってくれた著者はね、僕が絵を大きなコンクールに出すようになってから知りあった人なんだ。いつか二人で本が作れたらいいねって約束して、やっと叶えた。この絵はもちろん、その彼の作品世界を表すために描いたものだけれど……イリスに僕の気持ちを伝えるためでもある。彼もそれは知っている」
「そっか、なんかラジオで、お兄ちゃんが著者に条件を出してとか言ってたから……」
「そんなこと言ってた? まあ、間違ってはいないな。その代わり、作中に僕をモデルにした人物が出てくるよ。僕のことを徹底的に取材して、彼が描き出した僕が、この中にいる」
にっこりと笑って、ニアが丁寧に包装されたものを差し出す。受け取ると重くて、けれども初めて感じるような重さではない。今日の午前中に、見回りのついでに立ち寄った書店で、もうこの感じは経験している。
「イリスは本を読むのが苦手だっていうけれど、いつか自分で家のことをちゃんと勉強しようとしたことがあったでしょう。あれくらいできれば大丈夫。それに、この中には僕がいるから、退屈はしないと思うよ」
「お兄ちゃん、もう読んだの? あ、内容は知ってるんだよね」
「知ってたけど、ちゃんと読んだよ。とても面白いし、実はもう続編の話も出てるんだ。次の装画も僕がやる。……今度のテーマは赤だって。サーリシェリアの鉱石か珊瑚あたりを描かないかって彼は言うんだけど、僕なら珊瑚かな」
青と赤。海と珊瑚。遠い昔、南の海の絵葉書を見せてくれたニアが、言っていた。――海は僕とお父さんの、珊瑚はイリスとお母さんの色だね。
本を抱きしめ、イリスは思う。ここに兄がいるのなら、会いに行こう。難しくても諦めないで、この美しい海に漕ぎ出してみよう。
今日は旅を始めるのに、とても良い日だ。
「ありがとう、お兄ちゃん」
「どういたしまして。あ、本のお礼はレヴィにね。オレが買ってやるんだって言ってたから任せちゃったんだ。妙な事件が続いたから徹夜明けだろうに、本当に用意してくるんだから」
「レヴィ兄ってば……」
そうか、あのポストイットは自分用ではなかったのだ。だとしたら見られたとき、内心どんな気持ちだったのだろう。少しは慌ててたのかな、と考えると、思わず笑みが漏れた。


「そりゃ、美しいと評判なわけだ。純粋な兄妹愛なんてものでできた絵なんだもんな」
今日のためにわざわざ隣国から帰ってきた父親がしみじみと言うのを、少女はその横に立って聞いていた。振り返れば姉のように思ってきた彼女、本日の主役が、仲間たちと談笑している。
「イリスちゃんのための絵かあ。だからかな、懐かしい感じがしたの」
「それもそうかもしれないけど、人間はもともと自分の体の中に海が流れてるからな」
「自分の体の、海?」
「血だよ」
そこに広がるのは、自分たちも持っているもの。遠く遠く、はるか昔から繋がる、たしかな「海」。
少女と父にも、同じものがちゃんと流れている。
「さて、お父さんは後輩たちとお酒を飲んでこようかと思うけど、エイマルはどうする?」
「イリスちゃんのところに行く。お父さん、またあとでね」
ここにいる人たちには海があって、受け継ぎ、分け合い、人を繋げている。
絵の海もきれいだけれど、人の中にある海も負けないくらい深く美しいのではないかと、少女は幼くも思う。その手に父から貰った、海が表紙の本を抱えて。



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2016年01月29日

散れども記憶に

怪物退治――現代、この国の軍人にとってこれ以上に心躍る仕事があるだろうか。
大昔からある神獣信仰。伝説の生物は神の使いとして崇められているが、それが科学者たちによって顕現されると、暴走し手の付けられない化け物となることがある。多くの場合「神獣」をつくった張本人は責任を逃れようとするか、自分ではどうにでもできなくなってしまって、その処分は軍人の仕事になる。
経緯はどうであれ、凶暴な怪物から地域の人々を救うというのは、見た目にわかりやすくかっこいい。怪物退治はエルニーニャ軍の花形任務なのであった。
大けがや、ときには死者が出ることもある、危険な任務でもあるのだが。

「依頼任務だ。場所はセルフォート村、内容は最近出現するようになった大型獣の調査と駆除だな」
「つまり怪物退治?!」
ルイゼンが書類を読み上げると、イリスは身を乗りだした。一部からは魔眼とも称される赤い瞳は、今は期待にきらきらと輝いていた。魔性などちっとも感じられない。
この反応は予想できていた。兄に一度と言わず数え切れないほど諌められたが、やはり派手に動くのが好きなイリスだ。さすがに最近は同じ軍人の喧嘩をかったり勝負と称して何人ものしたりということはなくなったが、かわりに外に出る任務で張り切るようになった。思い切り暴れられそうな任務は久しぶりだ。
「……イリス、無茶するなよ。あくまで調査がメインで、遭遇したら駆除するんだ。今のところ被害は畑を荒らされたくらいらしいし」
「でも人里に現れるってことは、いつ誰かが襲われてもおかしくないんだよね。大型獣っていうのははっきりしてるわけだしさ。わたしたちが助けなくちゃ!」
「まあ、そりゃそうだけど……」
息巻くイリスに、呆れるルイゼン。いつものことだと落ち着いているメイベルとフィネーロ。任務を担当するのはこの四人、リーゼッタ班と人は呼ぶ。表面上は一番階級の高いルイゼン・リーゼッタ大尉がリーダーだが、最も目立つのは魔眼を持つ軍家出身の少女、イリス・インフェリア少尉だ。メイベル・ブロッケン少尉とフィネーロ・リッツェ中尉は軍人養成学校を出ていて、その頭脳で班をサポートしている。
これまでに様々な事件に――それこそ小さなものから国を揺るがす大事件まで――関わってきた四人だが、怪物退治だけはまだ取り組んだことがない。尉官に任されることの多い仕事ではあるが、なにしろ件数が少ないのだった。連続して起こることもごくまれにあるが、それは大抵同じ流れの中のもので、関わる人員が限られる。事が思ったより重大であると判断されれば、尉官が担当していた仕事でも、佐官へと回されることもある。
「子供の冒険ごっことはわけが違うんだぞ。俺たちは軍人として、この件を処理しなくちゃならない。大型獣と対峙して殉職した軍人だって過去に何人もいるんだから、浮かれるなよ」
怪物退治は尉官の大仕事。最悪の場合死者が出る。心してかからなければいけないのだということを、イリスはわかっているのだろうかと、ルイゼンは不安になった。
しかし、その思いはもう一度イリスを見たときに霧散した。さっきまで期待に輝いていた瞳は、いつのまにか静かに任務概要のコピーを見ている。その表情はどこか、いややはり、彼女の兄や父に似ていた。――これなら大丈夫だ。
「誰も傷つけないで、任務を完遂すればいいんだよね。じゃあ、やろうか」
獅子の笑みに、ルイゼンは、メイベルとフィネーロも、頷いた。

任務を依頼してきたセルフォート村には、かつて神獣信仰があった。かつて、というのは、ここ数十年は祭事がなく、神獣を崇めていたということすら知らない世代も増えてきているのだった。
ところが最近になって、神獣信仰について研究しているという人間が村を訪れ、古い文献やいまやただの石となってしまっている碑などを調べていった。不思議に思う村人たちが彼らを送りだしてから一週間ほどが経った頃、畑が荒らされ始めたのだという。
獣の足跡が残っていたので、熊や大型の狼かと思い見張り番をたてた。猟銃を傍らに、うつらうつらしながらそれが現れるのを待った。――まさか、そのいずれとも違う巨大な生き物がやってくるとは、誰も予想できなかった。
その姿は闇の中で影となっており、正確なかたちはわかっていない。ただ、古い文献にあった伝説の生物にどことなく似ていたような気がすると、村人たちは囁き合っていた。
神獣様の復活。誰かがそんなことを言いだして、畑を荒らされたのは長いこと供物を奉げもせず祭りも開かなかった村の者たちへの罰だということになり始めた。とくに年寄りには、そう思う者が多かった。だが神獣信仰があったことすら知らなかった若い者たちは、大型獣をどうにかするのは軍の仕事であると判断し、中央司令部に依頼を持ち込んだのだった。
「で、その神獣ってのは何型なの?」
がたごとと揺れる軍用車の助手席で、イリスは資料を読み返す。依頼の経緯と任務の内容は把握したが、肝心の神獣――大型獣がどのようなものなのか、詳細は出てこない。
運転をしながら、ルイゼンは溜息を吐いた。
「それなんだよな。村の人から文献とやらを見せてもらうか、証言を聞くかしないと、はっきりとわからないんだよ。伝説上よく出てくるやつなら、弱点とかもわかるかもしれないんだけど」
たとえばケルベロスとか、とぼやいたルイゼンに、フィネーロがそれなら中央の頭だな、と返した。伝説上の生物にこだわっていればいるほど、弱点も再現性が高いというのがこれまでのセオリーだ。
初めての怪物退治ということで、一応過去の大きな事件を復習してきている。最も悲惨なのが、イリスたちが生まれるずっと以前に起きた、しかしながら親の世代の記憶にははっきりと残っているという、「センヴィーナの悲劇」と呼ばれる事件。軍の人間が到着したとき、そこはすでに村ではなかった。人間は一人としておらず、ただ荒れ果てた建物の残骸と、一頭の大きな獣がいたという。地獄の番犬と云われる伝説上の大型獣、ケルベロスが。
「ケルベロスは倒したけれど、その痕跡は消えてしまった。村が一つ壊滅してしまったという最悪の結果だけが残った……という話だったな。まさかイリスがこの事件のことを知っていたとは思わなかったが」
記録を丸暗記したメイベルに、イリスは「まあね」と返事をする。「センヴィーナの悲劇」は、イリスの知人が昔担当した事件だ。怪物退治と聞いて真っ先に思い浮かぶくらいには、話を聞かされていた。
「他にも、軍人が殉死した事件のことも見てきたよな。だから今回の任務は、何度も言うけど、くれぐれも無茶をしないように。相手には理性がなくて力ばかり有り余ってるんだから、加減なんかしてくれないぞ」
「わかってるよ。わたしに何かあったら、お父さんやお兄ちゃんが黙ってないもんね。心配かけたくないから、ちゃんと真面目にやりますよ」
頬を膨らませながらも、イリスは本当に真剣に任務のことを考えている。彼女の脳裏には「センヴィーナの悲劇」ともう一つ、怪物退治絡みの事件があった。――父が親友を、その事件で亡くしている。だから怪物退治の任務にあたるなんて報告できなかったし、もしかすると大総統であるレヴィアンスから話を聞かされているかもしれないので、父に会うことすらできなかった。最もつらい思い出を想起させたくなかった。
「でも、神獣信仰って珍しいものじゃないんだな。フィネーロたちは学校で習ったのか?」
進行方向だけを見ながら尋ねるルイゼンに、フィネーロは「ああ」と答えた。軍人養成学校では、軍に入るため、軍人として生きていくために必要だと思われる知識や技術を叩き込まれるという。宗教に関しても、その範疇だった。
「エルニーニャに限らず、大陸各地に太陽神信仰を柱とした神獣信仰がある。ただ空想の生物を偶像崇拝するだけなら良かったんだが、科学技術が進み、人間が命を容易く扱うことができるようになってから、神獣は具現化されるようになった。その結果が現在の怪物退治だ。結局、それらは人間の手に余ったということだな」
「愚かな奴らだ。傲慢にも神を勝手につくりだし、自分の無努力の結果を神のせいにする。そんな奴らが真っ先に神獣とやらに食われればいいのに」
うんざりした表情で毒を吐くメイベルに、イリスは苦笑する。人間の傲慢さは認めざるを得ないが、大きな力に憧れてしまう気持ちも、わからなくはない。できればそれが何の苦労もなしに得られるものであったなら、という希望も。けれどもそんなふうにして手にした力は、やはり正しく扱うのがとても難しいものなのだろう。
神獣――具現化されたものはキメラといわれる、人工の獣。人の手によって生み出され、人の手によって命を奪われる。あまりにも勝手だとわかっていながら、軍はキメラを退治するのだ。それはあってはいけないものだから、と。人間に害を及ぼす恐れがあるからと。
幼いイリスに、兄が言ったことがあった。「可哀想だよね」と、「何のための命なんだろうね」と、悲しげに。
「……それでも神獣殺しは、言い換えて怪物退治は、任務の花形でなくちゃならない。軍の威信と名誉が誰の目にもわかりやすいしあまり敵を作らないから。実際、うまくいけばかっこいいし。だからわたしも憧れてたんだよなあ」
「イリス、それ、ニアお兄さんの言葉?」
「ううん、レヴィ兄。でもお兄ちゃんたちと話してて、そういうふうに考えたんだろうね」
少年少女の思惑を載せて、軍用車は荒野を走る。点在する村を通り過ぎながら、目的地に到着したのは正午を過ぎた頃だった。

村の人々の多くはイリスたちを歓迎したが、年配の者たちは眉を顰めて遠巻きにこちらを見ていた。彼らは神獣を信仰しているがゆえに、現れたそれを退治することに反対しているのだ。だが、畑の作物が荒らされると村の生活が苦しくなるのはたしかなので、直接文句を言うことはできないといったところだろう。これはフィネーロの推測だが。
「お願いします、怪物をやっつけてください! いつ人が襲われるかもしれないと心配で……」
イリスの兄とそう年の変わらない青年が頭を下げる。彼にはどうやら、妻も子供もいるらしい。家族のことを守りたいが、自分にはその力がないと感じているので、軍人であるイリスたちを頼っているのだ。それを引き受けるのが、こちらの仕事である。
「わかりました。まずは調査にご協力願います。その怪物の姿や、現れた時間帯、残された足跡の記録なんかも教えていただけるとありがたいです」
調査の結果、人に害をなさないと判断できれば、それでこの仕事は終わる。けれども大抵の場合、そんな甘い判断はできない。そもそも生きる糧に手を出された時点で、相手は危険だという見方をしなければならないのだ。
姿は村長宅にあった、研究者たちも見たという文献からわかった。キマイラ型――大地の獣たちが融合している、本来ならば守り神であるはずのそれ。この土地で信仰されていたものは、山羊の頭に獅子の鬣と胴、そして足。尾は蛇。各地で様々な形態が見られるキマイラ型だが、共通しているのは基本的に空を飛んだり水中を泳いだりしない生き物で体が構成されているというところだ。
過去、ロックフォードという場所で確認されたキマイラは、尾が蛇の熊だったという。なににせよ「地上の強いもの」から想起されたものであることには変わりない。
「強そうだね……大きさは農具小屋くらいっていうし、これは気をつけないとまずいかも」
そう言いながらも、イリスの表情はわくわくしていた。久しぶりに思い切り強いものと戦える、そんな期待が透けている。
「下手すりゃ死ぬかもしれないな。独りで立ち向かって殉職した軍人も、昔いたらしいし。単独行動は厳禁、全員で対抗できる作戦をしっかり練っておこう」
イリスを牽制するようにルイゼンがわざと不吉な発言をし、ここから作戦会議が始まった。四人の息が合わなければ、巨大な敵を倒すことは不可能だ。――そう、現れたら倒すことに決めたのだ。それが脅威であると判断したから。
たとえそれが人間の勝手な都合でつくりだされた、哀しい生き物だったとしても。

村人たちは夕飯を振る舞ってくれたが、そこここからひそひそと陰口が聞こえた。「神獣様を倒すなんて」「軍人どもには罰が当たるぞ」「いっそあの娘らを生贄にしてしまおうか」――囁く人々は古い信仰を知っている、しかしながら祀ることをやめてしまった当人たちだ。神獣に対する後ろめたさもあるのだろう。
「生贄とは物騒だな。まずあいつらから片付けるか」
「ベル、抑えてね。わたしたちの仕事は村の人たちを助けることだよ」
たとえ生贄にされたって、村の人が助かればそれでいい。イリスの言い分を、メイベルは渋々呑みこむ。生贄にされたところで、神獣とやらを倒してしまえばいいだけの話だと思いながら。
「神獣信仰って歴史が古いものなんだよな。ここの人たちは、どうして信仰をやめたんだろう?」
「エルニーニャ中央政府による、周辺小国の統合政策が影響しているといわれている。中央は新興の自由を認めてはいるが、基本的には宗教にこだわらない生活をしている。現に僕たちも、太陽神を意識する機会なんて商業イベントくらいだろう」
「なるほどな。ここも昔は、国だったのか……」
ルイゼンとフィネーロは、いつも寮の部屋でそうしているように会話をする。ここがよそだということは、あまり気にしていない。遠征任務のときは大抵こんな調子だ。どこにいっても変わらない態度でいることが、たとえば身分を隠して行なう視察任務のときも役に立つ。堂々としていれば怪しまれない。
「軍人さんたち、おかわりはいりますか? これから怪物と戦うかもしれないのですから、しっかり食べて力にしてください」
「ありがとうございます」
「神獣に食わせる栄養にもなるしな」
「ベル……」
良くも悪くも人の声に満ちた夕食の時間を過ぎれば、いよいよ大型獣が現れるという時間が迫ってくる。陽は完全に落ち、人々は息をひそめる。子供は早々に寝かしつけられた。
大人たちにも休むように言って、イリスたちは外に出た。辺りは雑木林になっているが、はたしてそこに大型獣が隠れられるかどうかは怪しい。そもそも林に潜んでいるのなら、昼間のうちに行って調べたときに、見つかっていいはずだ。
「調査に来たっていう人たちが明らかに怪しいよね。わざとキメラを放しに来てるんじゃない?」
「そう思って、周辺に応援を呼んでおいた」
「えー……」
無線を振ってみせるルイゼンに、イリスはあからさまにがっかりした。応援に来た軍人がキメラを放す現場を押さえれば、この件はそこで解決する。イリスたちの出番はなく、至って平和的に済む。それが一番良いことなのだろうけれど、体を動かしたいイリスには物足りない展開だ。
「被害がないのが一番だろ。村の人にも、俺たちにも。……それともイリスは、親父さんのトラウマ抉りたいのか?」
「それはやだ」
早く確実に、安全に解決するのなら、そのほうがずっといいのだ。暴れたい気持ちはしまっておくことにして、自分たちは村で待機する。
夜が更けていく。一緒に待っていて、ときどき毛布や飲み物を差し入れてくれた村人たちも、次第に寝静まっていった。まだ感じる人の活動の気配は、おそらくはこちらの様子が気になって眠れない人たちのものだ。外部の人間ではない。
温かな毛布と飲み物のおかげで、イリスもうつらうつらしてきた。メイベルにわき腹をつつかれてハッとしては、また意識が遠のいていく。長距離の移動と調査で、頭が先に疲れてしまっていた。
「ちょっと寝ててもいいぞ、イリス。見張りは交代ですればいいし。フィンも疲れてるだろ、俺とメイベルはまだ平気だから少し休め」
「万が一のことがあっても、私が銃声で起こしてやる」
「うーん……そうさせてもらおうかなあ」
「なら、僕は少し休む。悪いな、ルイゼン」
「こういうときは年長者と夜更かし慣れしてるやつに任せとけ」
メイベルが眠くならないのは、普段から遅くまで本を読んでいることが多く、睡眠時間が短くても生活に支障がないからだ。ルイゼンは軍人をやっている期間が他の三人よりも一年長く、その分鍛えられている。リーダーであるという自負もある。
ここは言葉に甘えようかと、イリスも目を閉じた、まさにその瞬間だった。ルイゼンが手にしていた無線が、ノイズ交じりの音をたてた。
『リーゼッタ大尉、聴こえるか。こちら分署のドミニク。たった今、セルフォート村周辺で不審車両に接触した。異様に大きな荷箱を積んだ車両だ。どうぞ』
応援を頼んでいた彼らからの連絡だ。イリスは目を開け、フィネーロは億劫そうに眼鏡をかけなおす。
「こちらリーゼッタ。乗員から聴取をよろしくお願いします。荷箱の中身には気をつけてください」
もしもその車両が大型獣を運んでいるもので、応援隊がそれを押さえられたのなら、この仕事は終了だ。車両を取り囲み、そのまま分署に連れていったところを、中央司令部に連絡して荷箱の中身ごと引き取ればいい。
安堵の息を吐こうとしたルイゼンたちの耳に、しかし、次の瞬間悲鳴が届いた。
『わああ?! なんだ、何を……! しまった、逃げたぞ!』
「どうかしましたか?!」
何が起こったのか。何が逃げたのか。そしてこちらに響いてくる、重い足音は。四人は毛布を引き剥がし、立ち上がる。
『リーゼッタ大尉、すみません! 車両はやはり大型獣を運んでいました。乗員の一人が何か操作して、荷箱の大型獣を逃がしました!』
獣の習性か、そう躾けられたのか。足音は真っ直ぐにこちらへ向かってきていた。「役立たずめ」とメイベルが舌打ちをしたのと、大きな影が林から現れたのは同時。歪な形をした、巨大な獣が、暗闇を割って飛び出した。
どこからか押し殺したような悲鳴が聞こえた。まだ起きて、こちらを窺っていた村人たちのものだろう。それを聞いているのかいないのか、獣は顔を一度そちらへ向けたあと、近くの畑をその前足で掘り始めた。まもなく収穫を迎えるはずだった作物が散らされる。
「いくぞ、フィネーロ!」
「了解した」
先にルイゼンとフィネーロが、獣の前に出る。山羊の頭が、それに似つかわしくないギラギラした瞳で、二人を見下ろした。
「これはまた、よく文献を再現したもんだ……」
「思っていたより大きいな。これは動きを止められるかどうかわからん」
フィネーロの手には長縄がある。先を輪にした、巨大な投げ縄だ。獣の首にかけて木に縛りつけるつもりだったが、あまりにも浅い考えだったと知る。
「せいぜいが口に引っ掛けるくらいか」
「そう簡単にはいかないよな。でもまあ、物は試しだ。フィネーロ、頼む」
ぐわっと大きく口を開けた獣――キマイラに向かって、フィネーロは長縄を投げた。輪が口に引っ掛かったのを確認してから、走ってキマイラの後方の木へ向かう。持っていた縄の端を木の幹に縛りつけると、獣の首が反り、上体が持ちあがった。そこにルイゼンが剣を持って飛び込んでいく。切っ先は、獣の胸へ。
しかし目標に到達する前に、剣は綱を力ずくで引きちぎった獣の前脚に弾かれた。
「メイベル!」
「まったく、最初からこうすれば良かったものを……回りくどい!」
できるならキマイラをさほど苦しませることなく葬ってやりたい。ルイゼンの一太刀で終わらせることができれば良かったのだが、どうやらそれは無理なようだ。そう判断したとき、初めてメイベルとイリスが動くことになっていた。
発砲音が一発、二発。メイベルの両手の銃から放たれた銃弾は、キマイラの両の前脚にそれぞれ当たる。獣の吠える声が村中に響き、人々が目覚めた。その中にはキマイラを神獣と崇める人々もいる。その人たちの目の前で、イリスは高く飛び上がり、自分の剣を姿勢を低くしたキマイラの眉間に突き立てようとした。
しかしキマイラは長い蛇の尾を振り、イリスの体を簡単に弾き飛ばしてしまった。
「大丈夫か、イリス?!」
地面に落ちたイリスに、フィネーロとメイベルが駆け寄る。獣の目の前には、剣を拾ったルイゼンが一人で立っていた。――独りでは、巨大な獣には立ち向かえない。そうやって死んでいった軍人が、過去にいた。
「ゼン!」
声を張り上げ、体を起こそうとするイリスに、ルイゼンは一瞬だけ顔を向けた。口の形がたった一言、素早く言葉を伝える。「そこにいろ」と。
剣を構え、標的を目の前の人間に定めたキマイラと対峙するルイゼンは、すでに覚悟を決めていた。
「……バカじゃないの」
独りで行動するなと、彼自身があれほど言っていたのに。イリスたちにはそれをさせないで、自分だけ立ち向かおうとするなんて。
「くそっ、もう一度撃つ!」
「メイベル、駄目だ! 今キマイラを刺激したら、ルイゼンが危ない!」
再び銃口をキマイラに向けたメイベルを、フィネーロが制止する。そのあいだにイリスは剣を支えに立ち上がり、唸る獣とそれを見据える人物を見た。
――ベルがキマイラを攻撃してもしなくても、ゼンは逃げない。きっと真正面から斬りこむ。
だが、それでは勝算があまりに低い。不意を突いたはずのイリスの攻撃ですら、あのキマイラは防いだのだ。山羊の頭に光る眼と、かま首をもたげる尾の蛇の眼。両方を封じなければ。今はどちらもルイゼンを見ている、その眼を。
「ベル、撃って」
「イリス?! だが、ルイゼンが……」
「わたしが走る。だからベルはあいつの尾の付け根を狙って」
「承知した」
メイベルは即答する。イリスの言うことならば、彼女は聞き入れてくれる。フィネーロはちぎれた縄をちらりと見てから、「頼む」と言った。
破裂音より一足早く、イリスは剣を利き手と逆の手に持ち、全速力で地面を蹴った。連続して放たれた銃弾は正確にキマイラの尾の付け根を撃ち抜き、胴体から尾をちぎり取る。キマイラはその痛みに大きくのけぞり、吠える。それから巨大な体はルイゼンに向かって倒れてきた。
それより速く、イリスはルイゼンのもとに辿り着き、利き手でその体側を思い切り突き飛ばした。驚いて瞠目したルイゼンとともに地面に勢いよく転げ、背中でキマイラの倒れ込む重い音と唸り声を聞く。間髪入れずに立ち上がり、振り向きざまにまた駆け出し、のたうち回っていたキマイラの尾に利き手に持ちかえた剣でとどめをさした。
そして今度は、自分がキマイラの目の前に立つ。目と目がしっかりとかち合うように。
「まさか、あいつ……眼をキマイラに使う気か?」
起き上がりながら、ルイゼンはイリスの動向に注視する。そんなことがうまくいくとは思えない。獣に眼の力を使ったことなんて、一度もないはずだ。
イリスの眼は、見た者の体調や精神に影響を与えることができる、特殊な力を持つ。ときに忌み嫌われ、ときに武器にもなるその力を、普段は制御して生活している。逆にいえば、行使しようと思えばその最大の力を発揮することができるのだった。
キマイラは動かない。イリスを見たまま、ピクリともしない。吠えることもなくなった。まさか本当に効いているのか、とルイゼンが思ったそのとき、イリスがキマイラから目を逸らさずに叫んだ。
「フィン!」
動かないキマイラの背にフィネーロが駆けあがり、細い金属の紐をその首に巻きつける。その先は木へ――先ほどキマイラの力に耐えたほどの頑丈なものだ、今度も大丈夫だろう――素早く結びつける。キマイラがまた急に動けば、首にワイヤーが食い込んで痛みを与える。だがそれはあくまで保険だ。あまり苦しまない、今のうちに。
「ゼン、ちょっとつらいかもだけど、お願い。わたしの剣じゃ細くて、一撃では決められないから。……この子を、終わらせてあげて」
このまま手なずけられるのではないかと思うほどに、キマイラはおとなしかった。それでも終わらせなければならない。あるはずのない命を、つくってしまったのだから。その終わりもまた、決めてやらなければならないのだ。
「わかった」
ルイゼンがキマイラに近づき、その首に向かって剣を構え、振り下ろした。それでも一度では足りなくて、キマイラは酷く暴れた。首の傷にワイヤーが深く食い込むのが手伝って、決着は二度目の刃でついた。歪な形の獣は、胴体から離れた頭のその口から舌をだらりと垂らし、すっかり獅子のそれと違わないものになってしまった四つ足の動きを止めた。
きっと痛かっただろう。苦しかっただろう。けれどもたぶん、イリスが細い剣で何度も切り刻むよりは、ずっとましな最期だった。

朝になってから、キマイラの体は中央司令部の科学部が引き取りに来た。興味や畏れの入り混じったざわめきの中を、その巨大な体が運ばれていく。それに続いてイリスたちも、司令部に帰った。
キマイラを村に放していた者たちは、応援に来てくれた軍人たちによってすでに身柄を司令部に送られている。車内で無線を通して聞いたことによると、彼らは神獣信仰があるといわれている各地で信仰対象となっている伝説の獣について調べ、それを再現しようとしていたそうだ。それが彼らの、自身の技術を示す方法だったのだ。もとは軍の科学部や民間の研究所などに所属し、しかしながら居場所を得られないと感じていた者たちの集まりだったという。
「……なんか、すっきりしない仕事だったね」
村人を助けたのはたしかなのに、望み通りよく動けたはずなのに、イリスの心は晴れなかった。真正面から見たキマイラの目が、どうしても忘れられなかった。憎しみや恨み、嫌悪といったものを一切感じなかったそれを、イリスはあのとき倒さねばならないと判断した。間違ってはいなかったはずなのに、正しいとも思えない。
「老人たちが最後までこちらを罰当たりだと言っていたのは腹が立ったな。自分たちだって信仰を忘れていたくせに。そもそも神そのものだって、人間が自分の心の安寧のためにつくりだした概念だ。そんなものに縋っているのも馬鹿馬鹿しい」
メイベルは村を出発してから、ずっと文句を言っている。感謝の言葉が全くなかったわけではないし、多くの人は「村を救ってもらった」と認識してくれたが、一部はやはり「神獣」にこだわっていた。
「そう言うな、メイベル。人間にはよすがが必要なんだ。それに、イリスを熱心に信奉している君が言えることか」
「イリスは実在するだろう」
「それなら神獣も、一時的にではあるがあの人たちの前に実在した。だから信仰が戻ったんだ」
それがいいことなのかどうかはわからないが、と付け加えながら、フィネーロはメイベルを宥めた。いつもと変わらない調子で。
そんなやりとりを車を運転しながら聞いていたルイゼンは、苦笑しながら言う。
「まあ、きれいに終わって全部すっきり、なんて仕事はなかなかないだろ。感謝されるのも恨まれるのも、全部承知の上での仕事だ。……でもイリス、上司の命令違反はいただけないな?」
「だって、ゼンの言う通りにしてたら、ゼンが危なかったでしょ。……わたしはお父さんのトラウマを抉るようなことにはなりたくなかったけど、自分がお父さんみたいにトラウマ抱えるのも嫌なんだから。幼馴染だから、あんたの考えてることはだいたいわかってたつもりだしさ」
万人の幸せというのは、難しいものだ。大切なものを、守らなければならないものを救おうとすると、別の何かをこぼしてしまう。あの哀しい命は、いったいどうしたら救えたのだろうか。神獣を信じた人々は、それを目の前で殺されて、今度は何を信じればいいのだろうか。
「怪物退治も、実際にやってみるとそうかっこいいものじゃないね」
「期待はずれか? 俺はイリスが助けに入ってくれたとき、かっこいいと思ったぞ」
「さっきは命令違反はいただけないって言ったくせに。ゼンってたまにめちゃくちゃだよね」
「お互い様だろ」
運転席と助手席の二人がようやく笑うと、後部座席の二人が割って入ってくる。
「ルイゼン、イリスと喋って笑わせるなんてずるいぞ。私もまぜろ」
「メイベルが拗ねるから、仲間に入れてくれ。僕も話がしたい」
誰かにとっての幸せが誰かにとっての不幸になってしまう、因果な仕事だけれど。それでもほんの一握りでも誰かを救いたいから、イリスは、彼らは、動き続けようとする。花形任務が期待外れでも、思ったほどの爽快感がなくても、そんなことは関係なく。
その目で誰かの傷や何かの綻びを見つけたならば、そこへ飛び込んでいくのが自分たちだから。きっといつか似たような経験をした人々も、そうだったはずだから。



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2016年01月11日

冠のゆくえ その3

一週間でわかったことがある。
当主とは、単に家を続かせるための立場ではないこと。ことにイリスの生まれた家はあまりに重い宿命を背負っていて、それを受け止めきれるほどの器が必要であるということ。
その器をつくるためには、経験することと思考することを止めてはいけないということ。あらゆる物事からヒントを得て、自分で物事を差配し、決めていく力を見につけなければならないということ。
けれどもそのことばかりにこだわって、本来の自分を見失ってはいけないということ。
当主は簡単に継げるものではない。けれども難しいからやらせない、という道理もない。
「当主継承権を巡って兄妹で闘うなんて、そんなの駄目だ。そんなことをさせるくらいならインフェリア家は俺の代で終わらせる」
案の定、事情を聞いた父はそう言った。ニアは一人の絵描きとして生き、イリスはいつか誰かのもとへ嫁いで平穏な暮らしを手に入れればいいと。予想していた通りの考えだった。
「終わらせないよ、お父さん。インフェリアの名を冠することで降りかかる危険も、わたしは承知してるんだから。……まあ、継承するのなんてまだまだ先のことだろうけど」
イリスは剣を手に、練兵場へ向かう。追いかけてくる父を振り返り、笑顔で言う。
「大丈夫、争ってるわけじゃないから。わたしはわたしの気持ちにけじめをつけたいだけだし、お兄ちゃんはわたしに大事なことをわからせたいんだと思う。……お父さんは、見てて。わたしたちの覚悟を」
自分の子供たちがどれだけ育ったか、今はそれさえ見届けてくれればいい。

「さて、お兄ちゃん。始めようか」
約束の時刻、ニアは練兵場ですでに待っていた。
その手に大剣を握り、耳には銀色のカフスを光らせて。――本当は、それも羨ましかった。兄ばかり父から色々なものを受け継いで、認められているような気がして。だから、その兄に認められたかったところもある。
イリスは今、自分で自分を認めていた。
「本気で良いんだね?」
ニアの最後の確認に、イリスは獅子の笑みで応えた。
「当然」

大きく振られた大剣の勢いに吹き飛ばされないよう、イリスは足を踏ん張る。自分の剣を弾き飛ばされないように、手にも力を込める。
大剣は刃ではなく、広い面の部分を相手に叩きつけるように使うのだと、いつかニアに教わった。それを実際に受けると、なるほど、一度当たっただけで気絶してしまう者がいるのも無理もないことだと思い知る。
だが受け止めているだけではこちらが攻撃できない。一旦飛び退いて体勢を立て直し、いかにしてニアの懐に入るかを探る。リーチの長い大剣は、しかし至近距離に飛び込まれると対応が難しいというデメリットを持っている。
狙うなら背後か、上か。いや、ニアの反応速度に追いつけるかどうか。――やってみなければわからない。地面を蹴り、跳ぶ。こういうとき、軽い剣を得物にしていると都合がいい。
だがやはりニアには届かない。大剣の面は楯でもある。イリスの攻撃はあっさりはね返された。おまけに宙返りして着地したところを、さっきまで防御に使われていたその面で押しつぶされそうになる。金属の塊は、ニアのけっして丈夫そうとは思えない腕にそぐわないほど重い。よくもこんなものを、ときには片手で扱えるものだ。
かつての大将格の力はまるで衰えていない。全盛期と闘いたかったなんて、甘い考えだった。今でもニアは十分すぎるほどに強い。もしかしたら、いつもイリスを簡単に負かしてしまうレヴィアンスよりも。
「軍から、離れて……一年以上、経つのに……っ」
「そのあいだ僕が何もしてないとでも?」
ニアは軍を辞めても、力を保つために鍛錬を怠らなかったのだ。それもインフェリア家を継ぐことを見据えてのことだったのか、それともインフェリアの名を持つがために戦いから逃れられないと悟っていたのか。いずれにせよ、イリスが敵う相手ではない。
――ここで諦める?
屈すればニアも力を緩めてくれるだろう。そうすれば楽になる。でも。
――抜けられればまだいける。体力も精神力も、まだ尽きてない。
降参なんかしたくない。根競べなら負けない。足と腕、腹に力を込め、大剣を少しずつ押し返す。すると突然負荷がなくなって、イリスは前につんのめった。が、地面には伏せない。勢いのままに剣を振り、何かを切った手ごたえを感じた。
体勢を整えニアを見ると、シャツが裂けていた。やっと一太刀届いたのだった。
「……本当に切られるかと思った」
「本気だったよ。だって、お兄ちゃんが本気だったから」
けれども怪我をしていないことにはホッとしていた。傷つけたいわけではない、ただ勝負を決めたいのだから。
剣を構え直し、相手を見据える。向こうはまだ構える様子がない。今、素早く切り込めば、勝てるかもしれない。――イリスは地面をもう一度、蹴った。
「さっきより跳躍力はなくなってる。腕も痺れがあるんじゃないかな。真っ向から正々堂々は結構なことだけど、自分の状態も考えて闘わなくちゃ」
ニアの呟きが耳に届いたとき、すでにイリスは切り込んでいた。さっきまでニアがいたはずの、空中に向かって。全速力で向かっていったはずなのに、それでも追いつけないなんて。
「次に期待してるよ、イリス」
瞠目した瞬間に、体側から全身へ大きな衝撃が走った。そしてイリスの体は、宙に舞い、地面に強かに叩きつけられた。

「KO負けかあ……」
気がついたイリスが見たものは、寮の自室の天井だった。傍らには無表情の――これでも心配してくれていることは十分にわかっている――メイベルがいて、台所からはチーズが焦げる匂いがする。
「兄君はやはり強かったようだな。もう少し寝ていろ」
「そうだね……ちょっと体が痛くて動けないや。台所に誰かいるの?」
「兄君が。実家から食事を持ってきたそうだ」
「お兄ちゃん、いるんだ……」
熱っ、と声が聞こえた。台所に立つと途端に不器用になるニアが心配になって、イリスは痛む体を無理やり起こし、よろよろと歩いた。メイベルが支えようとする前に壁に寄り掛かり、ニアと、その手にある耐熱皿を見た。
「お兄ちゃん」
「あ、イリス、大丈夫? 明日は休みでいいってレヴィが言ってたから、無理して起きなくていいよ。これは母さんがグラタン作って持たせてくれたんだ。僕の料理じゃないから安心して食べて」
まるで何もなかったように笑う。でも体はたしかに痛くて、あの闘いが夢ではなかったことを教えてくれる。穏やかなニアと、容赦のないニアは、同一人物だ。そういう人なのだということを、イリスはよく知っている。
「お兄ちゃん、やっぱりわたしに当主は無理かな」
いくつもの面を持ち、使い分けることが、大人にはときに必要になる。イリスにはそれができない。そんなに器用じゃない。子供扱いされても、仕方ないのかもしれない。
でも。
「イリスが負けたのは、普段から闘い方を周囲に見せて、手のうちを明かしていたから。僕がレヴィから話を聞いてイリスの動きを予想できたからだよ。……それでも、大剣を押し返されたときはびっくりしたけど。だからつい、その後の攻撃を避けるのを忘れた」
「そっか……わたしが負けたのはわたしのせいか」
「今度はよく作戦を練って、それを秘密にしておいて、僕をもっと驚かせてごらん。挑戦はいつでも受けるから」
覆すチャンスはまだいくらでもある。何度だって勝負してやる。大人になったねと、兄に言わせるまで。

お腹がいっぱいになってまた寝てしまったイリスを撫でてから、あとをメイベルに任せ、ニアは寮を出た。思い出すのはイリスの机の上にあった、数冊の書物だ。レヴィアンスがいうことには、当主を継承するということについて勉強していたらしい。
ニアが思うよりずっと、イリスは真面目に家を継ぐことについて考えていた。その重さを理解しようとしていた。そのことを説明すれば、今回のことも、父は渋々ではあっても納得してくれるだろう。――イリスを気絶させたときは、本当に久しぶりに怒られた。
本気で闘ったのは、そうでなければイリスに失礼だと思ったからであり、これまでむやみに力をひけらかしていたことを戒めるためでもあった。それでもなお、妹は強かった。いつのまにか幼かった女の子は、実力を具えた軍人に成長していた。
ニアはイリスを認めていないわけではない。むしろ認めているからこそ、その力は大切な時に使ってほしかった。あんなに立派になったのなら、なおさらだ。
そのことをイリスが勝負を提案したその日に、ルーファが言おうとしてくれたらしいが、あのときは届かなかった。けれども今のイリスは、ちゃんと辿り着いてくれている。
「……まあ、次期当主を簡単に譲る気はないけどね」
インフェリア家を背負って立つということは、イリスが学んだように、その歴史を背負うこと。妹には身軽であってほしいと、そうしてどこまでも飛び立っていってほしいと思うのは、ニアの兄としての希望だった。けれどもイリスが自らそれを引き受けようというのなら止める気はない。相応の試練は与えるが。
頂点に立つなら、せめて自分は越えてもらわなければ。
「すぐに追いつかれそうだな。僕も頑張らなくちゃ」
次の勝負が楽しみだ、なんて言ったら、また父に怒られてしまうだろうか。それとルーファにも、どんなことになっても同居を解消するつもりはないことを、改めて説明しなければ。
まだまだニアは、そしてイリスも、冠を手にする日は遠い。近付いてはいるかもしれないが、それまでの道のりは長い。



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2016年01月10日

冠のゆくえ その2

イリスがニアと当主の座をかけて争うという話を聞いて、ルイゼンは唖然とし、フィネーロとメイベルは顔を見合わせて怪訝な表情を浮かべた。
「兄君は軍を辞めて、当主も継承しないものだと思っていたが……」
「やはり長男だから、継承権はニアさんのほうが上なのだろうか」
「インフェリア家がどんなシステムなのか知らないけど、ニアお兄さんとマジバトルはやばいって! イリス、お兄さんに勝ったことないだろ! ただでさえ伝説だらけの人なのに……」
首を傾げ合う眼鏡二人組に対し、兄妹を幼い頃から見てきたルイゼンは信じられないといった反応を見せる。インフェリア家に憧れ続けて軍人を志した彼にとって、ニアもまたヒーローだ。妹に負ける人だとは思えない。知略はもちろん、力でも。
「伝説ならわたしだってあるじゃん。今まさに進行中の、尉官以下なぎ倒し記録更新っていうやつが。佐官にだって負けてないよ」
「でも将官には敵わないだろ。現に閣下には負けてるし」
「そ、それは、レヴィ兄はさすがに格が違うっていうか……」
「ニアお兄さんだってその格の人間だぞ」
ルイゼンの指摘に、イリスは言葉を詰まらせる。たしかに本気で闘えば、勝算はほとんどない。嫌な表現ではあるが、周囲に「人間兵器」と言わしめたその実力は、まさにエルニーニャ王国軍の伝説だ。それを本気で相手にしようというのだから、ルイゼンが止めようとするのもわからなくはない。だが、イリスはそれが悔しいのだ。ニアには負けても仕方がないという認識を、覆したい。
「そもそも当主って何なんだよ。家長って認識でいいのか?」
「それは……軍家であるインフェリアの代表になるってことじゃないの」
「当主になって、イリスは何がしたいわけ?」
ルイゼンに問われ、イリスは答えに詰まった。独り立ちして当主にならなくてはならないだろうとは思っていたが、なって何をするかというところまでは、考えが及んでいなかった。これまでの当主は、何を考えてその地位を継いだのだろう。何をしなければならないのだろう。
「なんだ、答えられないのか」
「だって、その代によってやることが違う……と思う。とりあえず家を継ぐことが最優先でしょ。存続させなきゃ、滅びちゃうんだから」
「それなら別にニアお兄さんが継いだって良いわけだ。たとえ血筋は途絶えても、家が続けば滅びることにはならないはずだろ」
家の名を残すだけなら、なにも血脈にこだわる必要はない。ニアが当主を継いで、その先へと家を続かせたいのなら、養子をとればいい。イリスが無理に家を継がなくても、インフェリア家は途絶えない。
結局イリスは当主になりたいのではなく、当主になれる器があると、ニアに認めてほしいだけなのだ。けれどもそれだけではやはり、ニアが「任せられない」と思っても仕方がないということになってしまう。
勝負の前に負けを認めるのは嫌だ。せめてイリスが自分なりの答えを持たなければ、ニアには対抗できない。
「じゃあ、当主になって何をするかをはっきりさせようじゃないの。わたしがインフェリア家を継ぐことにどんな価値があるか、語れるようになればいいんだよね」
勝負まではまだ時間がある。それまでに考えをまとめてみせようじゃないか。――そのために必要なのは、情報だ。歴代の当主と呼ばれた人々が何をしたのか、知らなければ。

軍家の歴史はエルニーニャ王国建国以降の歴史に等しい。その情報を最も有しているのが、エスト家だ。個人の日記から手続きを踏んで編纂された歴史書まで、たくさんの文書や書物が書庫に保管してある。学者もそれを参考に研究をするので、エスト家は軍家でありながら、文士たちにも頼られている。
ついこの間まで、軍と文派は相容れない存在だと言われていたのに、双方に双方の立場を理解する人間がいるために、そのわだかまりは解消されつつある。このことはイリスの知人らも関わっているので、わざわざ勉強しようとしなくても、自然と頭に入っていた。
「ドミノさん、書庫見せてください!」
まずはここから当たってみよう、と思うのも自然なことで、頭を下げられたエスト家現当主ドミナリオも何の疑問もなくそれを受け入れる。何か仕事で必要になる情報でも求めているのだろうと解釈して、イリスを二つ返事で招き入れてくれた。
だが、エスト家に保管されている膨大な資料を前に、イリスのほうがフリーズしてしまった。いったいどこから手をつけていいのやら。
「……ドミノさん、インフェリア家の当主が何をしてきたかがわかる資料ってない? できればわたしにもわかりやすいやつ」
「当主? 君の家に限定するなら、自分の家の書庫とか見たほうがいいと思うけど」
「ううん、家に帰るのは、今はちょっとね……」
家に帰れば、事情を話さなければならなくなる。当主継承絡みでニアと喧嘩になっているなんてことを父が知ったら、狼狽えられて「考え直せ」とか「そんなことする必要ない」とか言われるに決まっている。それはそれで面倒だ。
その思いを読み取ったのか、ドミナリオは眼鏡を上げ直すと、ずらりと並ぶ棚からほとんど迷うことなく数冊の本やバインダーを取り出した。「重いから気をつけて」とイリスに渡してくれたそれは、けれどもそんなに重いと感じない。表紙には『軍家入門』や『代表軍家資料』といったタイトルがあり、子供向けらしいイラストが添えられているものも見られた。
「軍人学校で使ってるテキストと、副教材。基礎の基礎だね」
「……わたし、基礎からやらなきゃだめかあ……」
「だって、ちゃんと勉強したことないだろう。インフェリアはそういう家柄じゃないし。ニアは別だけど……あいつは頭が良いから」
また兄に比べて劣っているようなことを言われて、イリスは少しムッとする。しかし一方で兄を褒められて嬉しいという気持ちもある。複雑な気持ちが顔に出ていたのか、この家の幼い双子のきょうだいがイリスの顔を見て口々に「へんなかお」と言った。
居間に戻ってテキストをぱらぱらとめくると、なるほど、イリスでもわかりやすい言葉で軍家について説明がされていた。主な軍家の名前も出ている。建国御三家と呼ばれるインフェリア家ももちろん並んでいた。
「……インフェリア。地獄の番人の意味を持つ古代語を名として持ち、軍における『武』を司っているとされている。……へえ、エスト家は『知』で、ゼウスァートは『統』なんだ。面白いね」
初めて見るテキストは、勉強が苦手なイリスの興味を意外にもそそる。両脇から双子も覗き込み、目を輝かせていた。たぶんこの二人は、純粋に勉強することが好きなのだろう。
「ドミノさんのとこは、次の当主はどうするか考えてる? センテッド君とマリッカちゃんのどちらかが継ぐことになるんでしょう。やっぱりより頭の良い方が継ぐとか、基準があるの?」
ページをめくる手を止めずに、何気なく尋ねてみる。するとドミナリオは何故か不機嫌そうな声で答えた。
「うちは代々、双子が生まれることが多いんだけど。その場合は両方ともに当主継承権がある。二人で家を継ぐように教育することになっているんだ」
「あ、そうなんだ? 二人でって、どうやって継ぐの?」
「さあね。規則上そうなってはいるけれど、二人当主制が実行された例はないんだ。なぜなら、エスト家に双子が生まれると、片方が必ず当主を継げなくなるような事態に陥ったからね」
なんだか、聞いてはいけないことを聞いた気がした。実際、ここには双子であるドミナリオの子供たち、センテッドとマリッカがいるのだし。これ以上突っ込んだことを訊くのはやめようと思ったが、ドミナリオが先に続けた。
「次の代はそんなことにはさせない。センテッドもマリッカも、無事に成長して、……そうだな、別にこの家を継がなくてもいいようにしたい。そんな義務はいらないと思っている。自分自身が、エストの名を継ぐのにかなりの抵抗があったから」
「あ、そうなの……」
そういえばドミナリオは、軍が嫌で辞めようとしたこともあったと、いつかに聞いたことがある。彼は本当は、文派につきたかったのだと。けれども軍にいることで文派とのバランスを保つことができるということで、軍家エストを継いだのだ。
「テキストは持って行っていい。用が済んだら返しに来てくれるか、ホリィに渡してくれても大丈夫」
「うん、ありがとうございます」
家を継ごうとする子供がいる一方で、継ぐ必要はないと思う親がいる。――もしかしたら父もそうかもしれないと、イリスは思った。なにしろ、かつては兄が軍人になるのを反対していたそうだから。イリスのときはまったく反対などしなかったけれど、それでも怪我などすればものすごく心配される。
ただ名を継ぐのではないということを、家を継ぐということはその歴史を背負うことなのだと、ほんの少し考えただけで胸のあたりが重くなった。いや、今までがあまりに軽く考えすぎていたのだ。

熱心にテキストを読むイリスを、寮で同室のメイベルは不気味がった。今まで薦めた小説すらまともに読まなかったのに、突然勉強なんかし始めたものだから、奇妙に思ったのだろう。
「私は家を継ぐとか家名にこだわるとか、そういう感覚はわからない。だから思うのかもしれないが、イリスは自分が継がなければということを意識しすぎてはいないか?」
「そうだねえ……お兄ちゃんが家を出たならわたしが、っていうのはあったな。去年お兄ちゃんが軍を辞めて、ルー兄ちゃんと一緒に暮らし始めてから、意識するようになったかも」
情報に触れ、人に話していくうちに、イリスの気持ちも整理されていった。インフェリアの名前は継がれて当然のものであるとこれまで思い込んでいたということ、けれどもイリスがその名を継ぎたいと思うのは、ニアに認めてもらいたいからという単純な理由であるということ。歴史を背負う覚悟なんて持っていなかったということにも、やっと気づいた。
なかでもインフェリアの名は一等重い。地獄の番人と呼ばれる所以は、初代の恐るべき強さにあるとテキストにはあったが、副教材だといって渡された資料には、初代当主ガロット・インフェリアがどれほどの敵を倒したかという想定人数が書かれていた。エルニーニャという国ができる前は、大陸全体が戦争状態にあり、戦闘は容赦のない殺し合いだった。つまり倒したという表現はかなりやさしいもので――。
今の自分の存在が数多の屍の上にある。それを思うだけでもぞくりと鳥肌が立つのに、その歴史を背負わなければならない当主に、簡単になれるものなのか。
いや、当主になるだけなら誰でもなれる。問題は、当主として何を背負い、何を成すか。
「ちゃんと勉強してみたら、考えなくちゃいけないことが次々に出てきちゃった。自分の家のことを常に考えて、いかに弟妹たちの生活を支えるかを重視してるベルは、やっぱり偉いよ。わたしよりずっと現実的に物事を見てるんだもん」
「それは私がそういう環境で生きてきたからだ。……と、フィネーロやルイゼンあたりが言うだろうな」
環境と、それから経験だ。環境はともかく、経験がイリスには圧倒的に足りていない。拉致されたり、大総統補佐見習いになったり、大事件の一端に関わったりといったことはあるけれど、周りの「大人」たちが通ってきた道には及ばない。これでは「子供」扱いされてもしかたがないと、認めざるを得なかった。

翌日、イリスは大総統室で、レヴィアンスの仕事を手伝っていた。一応は大総統補佐見習いなので、呼ばれればそちらの仕事をする。休憩も大総統執務室でとることが多い。いつもは茶を飲みながら雑談をして過ごすところを、今日はイリスがドミナリオに借りた本を持ち込んで読み始めたので、レヴィアンスは読んでいた書類を落としそうになった。
「イリスが本読むなんて珍しいね」
「本っていうか、軍人学校の教科書らしいよ。軍家に関するやつだって。ゼウスァート家についても書かれてるけど、読む?」
「いや、いいよ……」
先日ニアに勝負を挑んでいたから、てっきり日々の訓練に力を入れるものと思っていた。まさか、あのイリスが勉強を始めるとは。レヴィアンスが感心していると、不意にイリスが本から顔をあげた。
「レヴィ兄は、別にお母さんの跡を継いで大総統になったわけじゃないもんね」
「親を見て目標にしたのはたしかだけど、大総統にしたのはオリビアさんだからね。今この地位にいられるのはオレの力じゃなく、たまたま持ってた要素のおかげで、親はむしろオレを大総統にしようと思わなかったから」
「だよねえ……。実際、レヴィ兄はレヴィ兄のやり方で、一年大総統やってきたもんね」
教科書とやらを読んで、イリスはイリスなりに考えたのだろう。先日より随分冷静になっている。今ならニアと勝負をするという考えを取り下げるかもしれない。
「イリスはさ、どうしても当主になりたい?」
「うーん……なりたいかなりたくないかっていうより、なってもいいのかなってところで悩んでる。だってわたし、お兄ちゃんに認めてもらうことしか考えてなかったから。実際に当主になったとして、インフェリア家の歴史を背負っていけるかといったら、それは今のままのわたしには難しいなって思う」
どうやら、ニアに言われたことを少しずつ受け入れ、解そうとしているらしい。でもきっとそれはニアに言われたからではなくて、自分で勉強してみてわかったのだろう。
レヴィアンスが心配するまでもなく、イリスは自分自身のことを見つめ直していた。もしかしてニアがそれを狙ったのかと、一瞬そんなことが頭をよぎったほどだ。
「じゃあ、今回の勝負はとりあえずなしに」
「それはしない。一度やるって決めたからには、しっかりけじめはつける」
だがそれはイリスの中では、いや、たぶんニアでも、勝負を辞める理由にはならない。なにしろ頑固な兄妹だ、前言撤回は信条が許さない。
「当主が重い責任を持つものだってことはわかったけど、だからってわたしがそれを背負わないってことにはならないよ。だって私がインフェリアの娘だっていうことは事実なんだし。それに、お兄ちゃんに認めてほしいって気持ちは変わらない。もう軽い気持ちで当主になるなんて言わないってことは、わかってもらわなくちゃ。その上で当主の座をぶん奪る」
「また女の子にあるまじき発言を……。でも、それならオレが口を出すこともないね。ちゃんと場所は用意するから、納得のいくようにすればいい」
頑固なところがいい。苦難の道を知ってもなお、挑戦的に前へ進めるところが好きだ。レヴィアンスはイリスとニアの、そういうところをいたく気に入っているのだ。
そもそもニアもイリスも、当主の重みを背負えるだけの気概は持っていると、レヴィアンスは思っている。最終的にどちらが当主になっても大丈夫だという確信がある。今日のイリスの態度で、その思いはさらに強くなった。
「ありがと、レヴィ兄」
父親によく似た笑顔で、この子はこれからもっと成長していくのだろう。兄がそうだったように。

その日の業務が終わった後、ほんの少し自主訓練をしてから、イリスは外出した。行き先は可愛い妹分の住む家だ。もともと「遊びに来て」と誘われていた。
「イリスちゃん、いらっしゃい!」
呼び鈴に応えて飛び出してきた癖っ毛の可愛い女の子を、イリスはしっかりと抱き止める。最近さらにパワフルになったなと思いながら。
「こんばんは、エイマルちゃん。良い子にしてた?」
「今日はね、計算の勉強してたんだ。さっきおじいちゃんが花丸くれた!」
「すごいすごい! エイマルちゃんは頭良いなあ。イヴ姉に似たのかな?」
少し遅れて、そのイヴ姉ことグレイヴが奥から出てくる。エプロン姿で微笑む彼女もまた、以前より随分と落ち着いたように見える。イリスにはそれが嬉しい。
「いらっしゃい、イリス。晩御飯、食べていくよね?」
「いただきます。エイマルちゃんとご飯、久しぶりだね」
一年前、ダスクタイト家の抱えていた問題が解決に導かれ、以降少しずつ家族が修復されてきた。イリスの目指していた「幸せ」に、一家は確実に近づいている。エイマルは実の父を「お父さん」と呼べるようになった。父のほうも、ようやく仕事机に家族の写真を置くことができるようになったと聞いている。
人生経験の少ないイリスだが、この一家を救えるように動いたことは、胸を張って誇れるのだった。
「当主の継承? どうしていきなりそんな話になったの。カスケードさん、怪我でもしたの?」
夕食をいただきながら今回の件について話すと、グレイヴと、その父ブラックは怪訝な表情を浮かべた。当主がどうこうというよりも、イリスの父に何かあったなんて聞いてないけど、という疑問だ。普段仲間同士で情報がまわるのがあんまり早いので、少し知らないことがあると不思議がるのだ、この人たちは。
「お父さんは何でもないんだけど、わたしとお兄ちゃんがね」
夕食用のずっしりしたパンをちぎりながら、ことのあらましを説明する。するとよく似た親子は同じ表情で納得したように頷き、エイマルはちょこんと首を傾げた。
「たしかにニアなら、イリスには当主をやらせたがらないかも。そうじゃなくても、そういうアクションはするわね」
「うん、わたしお兄ちゃんに反発したけど、今思うと仕方ないことなんだなって思う。インフェリア家の当主になるってことがどういうことなのか、ちゃんとわかってなかったもん」
「気づけただけ偉い。世の中には惰性で家を継いで、そのまま悪い方向に進む奴もたくさんいるからな」
だから貴族家や軍家の汚職が出てくるんだ、とブラックが言う。貴族家の違反にはイリスも関わったことがあるので、その例えはわかりやすかった。同時に、何も知らないまま自分が家を継いでいたらどうなっていたか、少し怖くもなる。
「イヴ姉もやっぱり、わたしじゃ当主には力不足だって思うよね。お兄ちゃんが継いだ方がいいって」
その点は経験の差と人間的な賢さで、兄に利があって当然だとイリスは思う。きっと兄が継げば、インフェリア家は安泰だろう。
「アタシはイリスの方が向いてると思うけど」
しかしグレイヴは、あっさりとそう言った。
「え、なんで? だってお兄ちゃんのほうが家の責任もきっとわかってて、頭もいいし、闘えば強いよ」
「そりゃそうよ。アンタより十一歳も年上なんだから。おかわりいる?」
スープのおかわりをもらいながら、イリスはグレイヴの言葉の意味を考える。自分が兄より勝っているところなんてあっただろうか。あるとすれば、魔眼と称されたこの瞳の力くらいだが、それと当主とは関係がないだろう。
しかしスープとともに出された答えは、勝ち負けも関係がなかった。
「イリスは助けたい、どうにかしなきゃと思ったものに、まっすぐ取り組むでしょう。正攻法で挑んで、ちゃんと結果を出してくれる。アタシたちの家を助けてくれたみたいに」
「それは、お兄ちゃんだって……」
「こう言っちゃなんだけど、ニアは頭が良いせいか、ときどきずるい手を使うようになっちゃったのよね。たぶん上司が良くなかったんだわ、悪影響を受けたのよ。アタシはもっと素直で熱い心を持った人に、建国御三家っていうこの国の柱を継いでほしいの」
まさかそこまで応援してくれるとは思わなかった。イリスを認めてくれる人も、ちゃんといたのだ。そのことに、今までどうして気づかなかったのだろう。――おそらくは、イリスがニアしか見ていなかったからだ。周りにはちゃんと、イリスのしてきたことを正しいと、単純な気持ちを熱く頼もしいものだと思ってくれる人がいたのに、そちらには目を向けていなかった。
一年前は、エイマルのために必死だった。この可愛い子が、父を父と呼べるようにと、そればかり考えていた。自分が得をするかどうかなんて二の次で、一つのことを必死に追いかけていた。
一年経って、それが少しずれてきた。自分を認めさせることに一所懸命になってしまって、そのせいで誰かの抱える痛みや、誰かからの応援に気づかなかったのかもしれない。
「アタシはイリスを信じてるよ。アンタはインフェリアの当主として、たくさんのものを抱えていけるだけの力がある。だから、遠慮なくニアにぶつかっておいで。まっすぐに、ね」
「そうだよ! イリスちゃん、がんばれ!」
当主は重いものを背負う宿命にあり、歴史を胸に刻みつけていかなければならない。それはきっと痛みを伴う道で、今のイリスにはとても行くことのできないものだと、諦めかけていた。だから当主なんてこの際関係なしに、とりあえずニアに挑んでみようと思っていた。
でも、イリスが当主になることに期待をしてくれている人もちゃんといる。今のままでも大丈夫だと思ってくれている人がいる。
「自信、持っていいのかな」
「自信がないとニアには勝てないわよ」
立ち竦んでいた背中を、ぽん、と押された気がした。



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2016年01月09日

冠のゆくえ その1

練兵場は死屍累々。本当に死んでいるわけではないけれど、きっとしばらくは動けない。円を描くように倒れている彼らのその中心には、少女が一人立っている。
艶やかな黒髪、そこから覗く耳に光るカフ、得意気に笑う唇、魔の宿っていそうな赤い瞳。威風堂々たるその姿は、いつからかこう呼ばれている――「エルニーニャの獅子姫」と。
「さあ、次の相手は誰? それとももうギブアップ?」
イリス・インフェリア、十六歳、エルニーニャ王国軍少尉。実力は確かで、ある種異様ともいえる存在感を放つ彼女は、しかし。
「まーた全勝か。そろそろ骨のある奴が出てきてもいい頃だと思うんだけど」
「そうだな。例えばオレみたいな奴とか」
「そうそ……う?!」
学習能力はあまりよろしくないらしい。
誰かが呼びに行ったのか、それともずっと見ていたのか。いずれにせよ事実として、軍の仲間をばったばったと倒してしまったあとに、大総統であるレヴィアンス・ゼウスァートが真横に立っているということは、イリスにとっては非常にまずい。過剰で一方的な「訓練」は禁止されていて、イリスの場合はそれをしてしまうと兄に叱られる。
「……レヴィ兄、このことお兄ちゃんには……」
「今月三回目だからな、ちょっと見逃せないなあ」
「お願いします! 言わないでえぇ!」
最強に限りなく近い少女の弱点は、大好きな兄である。

その夜、イリスはレヴィアンスに連れられて、司令部から少し離れたところにある集合住宅にいた。
「イリス、君が強いのはみんな認めてるし、事実だよ。けれどもそれをむやみに誇示するのは良くないって、何度も僕は言っているよね。そんなことで怪我をしたりさせたりするのは、君の力の使い方として正しくない」
確かに何度も聞いた台詞だ。耳にタコができるほど繰り返された説教を、イリスは懲りずに受けている。同じことを飽きずに滔々と説くのは、イリスの兄、ニアだ。今は一介の絵描きだが、ほんの一年と少し前までは軍の大将格だった実力者である。イリスはこの兄に、まだ一度も勝てたことがない。
幼い頃は「たたかいごっこ」に付き合ってもらって、いつもイリスが勝ったことにしてもらっていたが、あくまでそれは遊びだ。訓練など、本気に近い闘いではやはり兄が格上で、しかもイリスでは到底敵わないほどに頭が良いのだった。そんな兄をイリスは尊敬しているし、それ以前に好きで好きで仕方がない。
だから兄に叱られるのは本意ではないのだが、勝負を挑まれればつい受けてしまうし、体を動かすのが好きなのもあってやりすぎてしまうのだ。ここまでくると本能として認めてくれないだろうかと思ったこともあったが、それを言ったところで「人間には理性があるんだから抑えなさい」と諭されるのがオチだ。
そう言われたら「だってわたし、『エルニーニャの獅子姫』だもん」と返してやろうかと思ったこともあったが、本気で兄を怒らせるとどれほど怖いかもよく知っているのでやめた。
そしてたぶん、それを口にすると、兄の小言はレヴィアンスに飛び火する。かの呼び名を広めたのは、他でもない彼なのだ。
「聞いてるの、イリス? 叱られたくなかったら必要な時以外には闘わないでよ」
「はーい……」
返事はしたものの、きっと言いつけを守ることはできない。体のほうが先に動いて、刺激を求めてしまうのだから。いつも気がついたときには、挑戦者全員をのしている。――最後に現れるレヴィアンス以外。さすがに現役大総統に勝てるほどの力はまだない。
「ニア、そのくらいにしてやったら? オレがきっちり倒して、仕事もがっつり押し付けたからさ」
「僕はそのレヴィのやり方にも説教したいんだけど。いくら大総統補佐見習いだからって、仕事は少尉に相応しいだけにしないと、やっかみと疲労はイリスに来るんだから」
「はいはい。やっぱりニアは妹が大事なお兄ちゃんだよね」
ニアやレヴィアンスが、イリスをそれぞれのやり方で大事にしてくれているのはわかる。けれどもいつかはその保護を離れて、一人で立たなければならない。一体その日はいつになったらやってくるのだろうか。彼らが、イリスを本当に認めてくれる日は。
「やっぱり、わたしが当主にならないとだめかなあ……」
ニアが茶を淹れるあいだに、テーブルに突っ伏しながら呟く。ニアが軍を辞めて、パートナーであるルーファと暮らすようになってから、ずっと考えていることだ。ニアが家を出た以上、次のインフェリア家の当主はイリスということになるはずだ。いずれ父から家を継ぎ、インフェリアの血統を次の世代へと続けていくことになるだろう。
その段階にならなければ、ニアはイリスを認めてはくれないのかもしれない。そうすることでしか、兄を越えられないのかもしれない。そうであれば、それはまだまだ先のことだ。――もっと早く、追い越したい。大好きで、尊敬しているけれど、兄は目標であり超えるべき存在でもあるのだ。
暴れるのは強くなりたいからというのもある。誰よりも、もっともっと強くなって、インフェリア家当主に相応しい人間になりたい。それがイリスの運命なのだから。
「え、イリス、当主になるの?」
空になった酒瓶を振りながら、レヴィアンスが言う。何をいまさら、と思いながら、イリスは顔をあげた。
「当たり前じゃん。お兄ちゃんが家を継がないなら、わたしが継ぐしかないでしょう」
「僕がいつ継がないなんて言ったの」
あまり広くはない、集合住宅の一室だ。普通に声を出せば、台所にも届く。そのこと自体はおかしくはないのだけれど、兄は今、何と言っただろうか。
「……だってお兄ちゃん、ルー兄ちゃんと一緒にいるじゃない」
目を見開くイリスを振り向き見返して、ニアは落ち着いて答える。
「ルーと一緒に住んではいるけど、インフェリアの籍を外れたわけじゃない。軍は辞めたけど、そもそも父さんは僕を軍人にしたくなかったんだから、当主を継ぐかどうかということに職業は関係ない。イリスがいつまでも子供のままなら、僕はインフェリア家の次期当主を譲る気はないよ」
用意していたかのような、淀みのない言葉だった。イリスが何も言えずに、思わずレヴィアンスへ目をやると、彼もこんなことになるとは予想していなかったようで、酒瓶をテーブルに置いて口をあんぐり開けていた。
静まりかえった室内の、その空気を破ったのは、玄関が開く音と同時に聞こえた「ただいま」の声。仕事を終えたルーファが帰ってきた。そしてあまりに静かすぎる室内に、驚いてたたらを踏んだ。
「うわ、レヴィとイリスがいるのになんでこんなに静かなんだよ……。何かあったのか?」
「ルーファ、おかえり。ニアが実家に帰るってさ」
「は?!」
レヴィアンスの語弊のある答えに、ルーファが身を乗りだす。いつもならイリスがすぐに訂正するところだが、今日は声すら出ない。先ほどの台詞が、頭の中をぐるぐるとまわっている。
――次期当主を譲る気はないよ。
そんなことを兄が考えていたなんて、少しも思っていなかった。自分は自動的に当主になるものだと思い込んでいた。
「……子供って、何よ」
やっと声を絞り出すと、レヴィアンスとルーファの視線がこちらへ集まった気配がした。ニアはずっとイリスを見据えたままだ。ただ、静かに。凪いだ水面のような瞳で。
「お兄ちゃんはいつになったら、わたしを子供扱いしなくなるの? わたしがおとなしくなったら? もっと頭が良くなったら? お兄ちゃんが認めなきゃ、わたしは一生子供のままじゃない!」
一度言いだすと、今度は止まらない。ぶつけるように放った言葉は、しかしニアの溜息に勢いを打ち消される。
「そういうことじゃないよ。……そういうふうに思ってるうちは、やっぱり当主は任せられないね」
「――っ」
何が大人になることなのか、イリスにはわからない。将官級の人間には敵わないが、強さにはそこそこの自信があるし、人望だってそれなりにあるつもりだ。年ももう十六歳、そろそろ大人として扱ってもらってもいいんじゃないか。――でも兄は、イリスを認めない。当主は任せられないという。
拳を強く握り、キッと兄を睨み――こんなことをしたのは生まれて初めてじゃないだろうか――叫ぶように宣言する。
「……もういい。お兄ちゃんに継承権があるっていうなら、わたしはそれを奪ってやる。絶対に、わたしがインフェリアを継いでやるんだから!」
レヴィアンスがうわぁ、と呻き、ルーファが瞠目する。しかし当のニアは極めて落ち着いて、淹れた茶をテーブルに運んできた。
「具体的には、どうやって?」
「お兄ちゃんに勝負を申し込む。訓練では手を抜かれてたけど、今度はホントの本気で闘ってよ。わたしが本気のお兄ちゃんに勝てたら、次の当主はわたし」
「……イリスがそれでいいと思ってるならいいけど。日時と場所は?」
「一週間後、通常業務終了後! レヴィ兄、練兵場おさえといて」
「え、軍の施設使うの? ……まあいいか、建国御三家の当主継承権がかかってるんだし。ニアはその日で大丈夫?」
「予定は今のところないね。その勝負、受けてあげるよ」
上から目線の返答に、イリスはまたカチンときた。自分の前に置かれたカップの茶を一気に飲み干すと、「今日はもう帰る!」と玄関へ向かってしまう。ルーファが慌ててそれを追いかけ、「考え直せ」と宥めようとするが、もうそんな言葉は届かない。
「あれ、いいの?」
玄関を指さしながらレヴィアンスが問うと、ニアは表情を変えることなく自分のカップを持ち上げた。
「うん、良い機会かもしれないし。いつまでも勢いだけで進めるなんて思ってちゃ、これからの仕事にも支障が出るでしょう。それより巻き込んじゃってごめんね、レヴィ」
その答えに、レヴィアンスは息を呑んだ。こちらはこちらで、負けてやるつもりなど毛頭ないのだ。

軍人寮へ向かう車の中、イリスは助手席でむくれていた。いいと言ったのに、ルーファが「送る」と無理やり車に乗せたのだった。
「当主継承権を奪うって……どうしてそんな穏やかじゃないことになったんだよ」
途中から話に加わったルーファは知らない。詳しい事情を聞けばきっとルーファはニアに味方するだろう。彼もまた、イリスをいつまでも子供扱いする一人だ。
「……ルー兄ちゃんは、お兄ちゃんがインフェリア家を継ぐって言ったら、やっぱり認める? わたしよりお兄ちゃんのほうが当主に相応しいと思う?」
それでも尋ねてしまう。もしかしたらイリスのほうがいいと言ってくれることを、少しだけ期待して。
「ニアが継ぐっていうなら、認めざるを得ないかな。俺と一緒に住んでるのも絵を描くのに都合がいいからだと思うし、その時が来たら家に戻るのかも。でもイリスとどっちが相応しいかっていうと、それは判断できないな」
「そう?」
「ニアにもイリスにも、インフェリアっていう歴史のある家を継ぐ権利はあると思う。どっちが継いでも大丈夫だろうなとも。……ただな、それってまだ先の話だろ。カスケードさん、バリバリ現役だし。今もときどきは軍の仕事手伝ってくれてるんだろ?」
そう、父カスケードはまだインフェリア家の当主であり、軍とも強いコネクションがある。現大総統であるレヴィアンスも、難しい案件はカスケードに意見を仰ぐ。それを差し置いて当主継承について話すのは、確かに気が早すぎたかもしれない。だが。
「こんなこと言うのは娘としてどうかと思うけど、人間、いつどうなるかわからないでしょ。こういうのははっきりさせておかなきゃ」
「とか言って、イリスはただニアに実力を認めてほしいんじゃないのか」
そう、それが本当のところだ。当主がどうこうではなく、ニアに大人として認めてほしい。ニアが「イリスに任せるよ」と言ってくれればいい。けれども真っ向から逆のことを言われてしまったのが、ひどくショックだった。
だから勝負するなんて無謀なことを言ってしまったのだ――そうだ、一度も勝てたことなどないのに、無謀だった。
「今からでも取り消せるんじゃないか?」
「それはやだ」
かといってここで退いてしまうという選択肢はない。それに軍から離れて久しいニアに、今なら勝てるかもしれないという僅かな希望があった。本当は全盛期に勝ちたかったけれど、それには年齢が離れすぎている。目標である兄に勝ちたいというのは嘘ではないので、勝負を取り消すわけにはいかない。
「お兄ちゃんに勝って、すごいねって、強いねって言わせる。だからルー兄ちゃん、お兄ちゃんや私を説得しようなんて思わないでね」
車を降りようとしたときに、ルーファが何か言おうとしたのを、イリスは聞かなかった。



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2015年12月25日

エイマルの願い事

一年で一番、夜の時間が長くなる頃。北の国から魔法使いがやってきて、子供の願いを一つだけ叶えてくれるといいます。
一年に一度きりのことですから、子供たちはみんな、一所懸命に願い事を考えます。欲しいものが手に入りますように、なりたいものになれますように、魔法使いにつながっているという空に向かってお祈りします。手紙を書く子もいます。
エイマルにも願い事がありました。魔法使いが北の国から来るというのなら、お父さんを連れてきて欲しいと思ったのです。
エイマルのお父さんは、北の大きな国で仕事をしています。その土地の平和を守るための、大切な仕事なのです。そのため、なかなかエイマルに会いに来られませんでした。
お父さんが北の国を離れたら、平和を守るための仕事は、一体誰がするのでしょう。代わりの人はいるけれど、一番えらいのはやはり、お父さんなのです。
エイマルはそんなお父さんを誇らしく思っています。北の国の子供たちが笑っていられるように、毎日懸命に仕事をしているお父さんが、エイマルは大好きです。
そのお父さんが魔法使いに連れられてエイマルのところへ来てくれたら、エイマルは嬉しいです。でも、北の国の子供たちは、そのあいだ笑顔でいられるでしょうか。
もう一度よく考えて、エイマルは魔法使いへの願い事を決めました。空に向かって、願い事を唱えます。
どうか北の国の子供たちが、ずっと笑顔でいられますように。そのためにお父さんが、元気で、正しい仕事ができますように。それさえ叶えば、エイマルは少しくらい寂しくたって平気です。
夜空を星が流れていきました。まるでエイマルの願い事を聞き入れてくれたかのようです。エイマルは安心して、ベッドに入りました。
きっと今夜も、北の国の子供たちは、お父さんに守られて、暖かい布団で眠ることができるでしょう。お父さんがそうしてくれるでしょう。

「エイマル、寝ちゃったのか」
電話の向こうで、お父さんが言いました。
「うん、だから明日、もう一度電話してちょうだい。寂しくても平気だなんて言ってるけど、やっぱりお父さんの声は聞きたいだろうから」
お母さんが相槌を打ちます。するとお父さんは、ははは、と小さく笑いました。
「うん、俺もエイマルの声が聞きたいよ。年末は仕事が忙しくなるからな、帰れなくてごめん」
北の国で、エイマルのお父さんは今日も一所懸命に働いています。北の国の子供たちの笑顔を守るために、それを知ったエイマルが笑顔になるように、仕事をしています。
この仕事が終われば、年が明けたら、少しだけ家に帰ることができます。そうしたら、一番にエイマルを抱きしめようと、お父さんは思っていました。
お父さんにも願い事があります。それは、エイマルとお母さんが、笑顔でいてくれることです。
エイマルもちゃんと、それを知っています。
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2015年09月23日

Dependence B.B 後編

世界暦四八三年。アレックスとアーサーが二十歳、ガーネットと双子が十九歳、ルークが十六歳のときだった。その任務は遠征視察で、とある集落が裏社会に関係している可能性があるので調査をしてくるという内容だった。ごくありふれた任務の一つである。
エルニーニャ軍の視察の規定として、一目では軍人とわからない格好をするのが基本だ。女の子同士仲の良いガーネットとマリエンヌは一緒に服を選んだようで、シンプルで動きやすくも、どこか可愛らしく見える恰好をしていた。動きやすさを考慮しなければ完全に普段着である男性陣は、それに見惚れたものだった。アーサー以外は。
「いやあ、マリエンヌもガーネットも可愛いなあ。そう思わないか、アーサー」
「ショートパンツは動きやすそうだが、肌の露出は怪我が心配だな。少し多めに救急セットを持って行こう」
「……アーサー、お前さ……」
誰のために二人が服装を吟味してきたと思ってるんだ、とアレックスは嘆いた。ガーネットと、わかりにくいがマリエンヌも、アーサーのことが好きだった。けれどもアーサーには、ことあるごとに「だからアーサーって好きよ」とストレートに愛情表現をしてくるガーネットの気持ちも、つい素っ気ない態度をとってしまいあとで悩んでいるマリエンヌの気持ちも、通じてはいなかった。当時はそうだったのだ。
「マリエンヌのことをいやらしい目で見るのはやめろ、アーサー」
それでもヴォルフィッツはアーサーを睨む。何を言われているのか理解できないアーサーは首を傾げながら、「それはどんな目だ」と問う。
ルークはそれを聞いて堪え切れずに吹き出し、アレックスと一緒に笑いだした。
そんないつもの光景を繰り広げてから、彼らは出発したのだ。なにしろこんな仕事だから多少の危機感はあったが、きっと無事に帰ってこられると信じて疑わなかった。
「ちょっとアーサー、一言くらいマリーのこと褒めなさいよ。こんなに可愛いんだから」
「や、やめてくださいませ、ガーネット。この人にそんなこと求めても仕方のないことです」
中継地点でこんなやりとりをするくらい、ガーネットとマリエンヌは親しかった。お互いアーサーを好きなことはわかっていて、それでもなお彼女らは親友だった。
「褒める……? ああ、似合っていると思う」
「そんなの褒めたうちに入らないわよ!」
「もういいです。わたくしだって期待してたわけではありませんもの」
そう言いながらも少しだけがっかりした表情を見せたマリエンヌに、アーサーはただただ首を傾げていた。それを見ていたヴォルフィッツはイライラし、アレックスは苦笑いをする。ルークは「でも可愛いなんていったらマリエンヌさんが否定するんだろうな」と思っていた。それが常なのだ。
賑やかで、退屈しない班。そんな彼らも、任務地が近づけば緊張感を持ち、冗談も言わなくなる。だからこれが、彼らが笑える最後のときだった。
任務地に到着したアレックスたちは、早速三方向に分かれて任務を開始した。すなわち、集落の状態の見回りと聞きこみである。軍人だとばれないよう、ただの旅人を装って話を聞く。集落は、各地から人が集まってできた一時的なもののようだった。交易のためだけにこのような場が設けられることは珍しくなく、旅人として紛れ込んでも自然だ。
「また西方の芸術品のようなものを売っている商人がいましたわね。偽物ですが」
マリエンヌは周囲をよく観察し、記憶にとどめるのが得意だ。殊に美術品や装飾品に関しては造詣が深く、一目見てその真贋を判断することができた。
「さっきから偽物って言ってるけど、ここで開かれている市にあるものは、偽物が多いのか?」
アレックスが尋ねると、彼女は即座に頷いた。
「ええ、中途半端な偽物をみんなで売りあっているようですね。それも高額で……」
怪訝な表情で、マリエンヌは「あれも偽物」と呟く。たしかに偽物を売る商人が、別の偽物を高値で買うというのはおかしな話だった。物の価値がわからない連中なのか、それとも偽物でもかまわない理由があるのか、そのどちらかだろう。
そもそもこの集落は、あまり雰囲気が良くない。人々が燻らせる煙草の煙は、市販のものとは違う奇妙なにおいがする。商人たちの目はみな妙にぎらついていて、しかしながらこちらに強引にものを買わせようとする気配はない。
「マリエンヌ」
「はい」
「アーサーと一緒じゃなくてよかったのか」
仕事の話をするのと同じ調子で訊くと、マリエンヌは顔を真っ赤にしてアレックスを睨んだ。
「どうして今、そんな話をしますの? こっちは真剣にお仕事をしているんですよ!」
「悪かったよ。だから静かにしようか」
なんとか彼女を宥めると、しばらくして、かすかな声で問いに対する答えがあった。普段色白な頬は薔薇色に染まり、伏せた目は潤んでいた。
「……だって、抜け駆けはできません。それ以前にガーネットのほうが、女の子らしくて魅力的です。わたくしなんて、アーサーに『父に似ている』だなんて言われたのですよ。……女性として、見られていないのですから。一緒にいたって、仕方がありません」
今、ガーネットはヴォルフィッツと行動している。互いに「抜け駆け」はできない状況だ。そんなことを考えて組み合わせを考えたわけではないのだが。
それからマリエンヌは勘違いをしている。アーサーが彼女を「御父君に似ているな」と言ったのは事実だが、それは彼女の真面目さや勤勉さを指して表したことで、彼女を女性として見ていないわけではない。彼がいざとなったらマリエンヌとガーネットを真っ先に守らなければと考えていることを、アレックスは本人から聞いて知っている。
二人とも真面目すぎて、互いに気持ちが伝わっていないんだよな、とアレックスはいつも苦笑するのだった。

その夜は、集落のほかの人間がしているように、テントを張ってキャンプをすることになった。六人が余裕で入れる大きなテントは、軍の支給品ではあるが、それとはわからないようにシンプルなつくりになっている。
ランプを灯して吊り下げ、小声での報告会が始まった。
「俺とルークは集落東の、煙草商と話をした」
アーサーからそう切り出した。報告会の内容は、ヴォルフィッツとルークが書き留める。
「表に出ているのは合法の煙草だった。だが、町では手に入らないような珍しいものだ。商人は東方の小国から仕入れたものだと言っていた」
「この集落で多くの人が吸っていたのは、この煙草のようです。サンプルとして少量買いました」
ルークはペンを一旦置いて、ポケットから紙包みを取り出す。この町に漂う独特のにおいが、テント内に広がる。ヴォルフィッツが咳き込み、「そんなもの片付けろ」と顔を顰めた。
「強烈だな。これなら何を混ぜ込んでも隠せそうだ」
換気をしつつ、アレックスが呟く。続いてガーネットが発言した。
「西側は飲食物の提供をしていたわね。肉類と香草、それからお酒が主だったわ。見る限り、質はあまり良さそうではなかったけれど」
「くずを集めて固めた肉に香草をたっぷり混ぜ込んで、傷みかけているのをごまかしているようだったな。それをこれまた酷い出来の酒で流し込むのが、ここの食事の仕方のようだ。あれなら非常食をひたすら食っていたほうがましだ」
補足するというよりも悪態をつきながら、ヴォルフィッツはまだ鼻と口を手で覆っていた。書記をしながらきまり悪そうな顔をしたルークの頭を、アレックスがぐしゃぐしゃと撫でる。それからまた、「混ぜ込む、か」と口にした。
最後にマリエンヌが、この集落で売られている美術品や装飾品は偽物ばかりであることと、それがやたらと高価であることを報告した。しかしながらそれをやりとりする人々は、文句も言わずに取引を成立させていたことも付け加える。
「参考までに、サーリシェレッドの首飾りを模したものを買ってまいりました。実際はただの赤硝子。単なる偽物を通り越して粗悪品です」
サーリシェレッドは大陸南部の国サーリシェリアでのみ採掘される、希少な鉱物だ。本来なら正規の手続きを経て、認可を受けた職人が加工し、専門家を置いた店で販売される。だから確認するまでもなく、このような集落で売られているものは例外なく偽物だ。ただし、ここまで粗悪なものは逆に珍しい。もっとよく似た鉱物はあるし、それだって本物と見紛うような立派な加工が施されている。
「これが本来のサーリシェレッド製のものとそう変わらない値で出されているなんて、とんでもないことです。こんなものにお金を払うのは勿体ないと申しましたのに、アレックスは交渉もせずに買ったのですよ。自費ならともかく、経費で落とすなんて……軍のお金は国民のお金でしてよ?!」
憤慨するマリエンヌに、アレックスは苦笑いこそすれど謝りはしなかった。ということは、彼はこれが必要なことであると判断しているのだ。そうアーサーにはわかった。
「アレク、考えがあってのことなんだろう。これをどうするつもりだ」
「もちろん考えはあるし、すぐに実行してみるつもりだ。まずはその首飾りを女性陣がつけてみてくれないか。そしてその姿を、アーサーはよく見ておいてくれ」
怪訝な顔をしつつ、まずはガーネットがかけてみる。胸元に赤い硝子が、ランプの光を受けて輝いた。けれどももちろん本物には遠く及ばない。偽物をつけているところを好意を持っている相手に見られるというのは思ったよりずっと恥ずかしくて、ガーネットは困った顔をした。
「アーサー、ちゃんと目に焼き付けたか?」
「ああ」
「じゃあ次はマリエンヌだ」
首飾りは、ガーネットからマリエンヌに渡される。不満げな表情でそれをつけたマリエンヌは、こちらをじっと見つめるアーサーから目を逸らした。どうせならサーリシェレッドなんて希少品じゃなくていいから、本物の宝石をきちんとした衣装とともに身に纏っているところを見てほしかった。
「マリエンヌを舐め回すように見るのはやめてもらいたい」
「そんなふうに見たつもりはないが。ただアレクの指示通りにしただけだ」
ヴォルフィッツの文句に、アーサーは平然と答える。首飾りを外しながら、マリエンヌは少しだけ表情を曇らせた。
「さて、アーサー。二人の姿はどうだった? 首飾りは似合っていたか?」
付き返された首飾りを片手で弄びながら、アレックスが尋ねる。似合っていると言われても似合っていないと言われても、どちらも嫌だと女性陣が思っているのを、知ってか知らずか、アーサーは返答する。
「どうせ身につけさせるのなら、もっと上品なものをつけさせたらどうだ。ガーネットもマリーも、気品の高い女性なのだから」
問いの答えにはなっていない。はいでもいいえでもなく、ただ二人についてアーサーの思うことを述べた。だがアレックスはそれに満足そうに頷き、二人の女性は頬を染めた。
「やだ、アーサーったら。私、そんなんじゃないわよ」
「アレックスの質問をちゃんと聞いていまして? それから、マリーと呼ぶのはやめてくださいと何度も言っています!」
言葉とは裏腹に嬉しそうな二人を、アレックスは微笑ましく思う。ルークも同じことを考えていたのか、にこにこしていた。ヴォルフィッツは舌打ちし、アーサーは一瞬だけきょとんとしてから、もう一度アレックスに言った。
「それで、どういう考えなんだ」
「うん、本番はここからだ。これが偽物で、とっておく価値がないことは改めて確認できたからな」
首飾りがアレックスの手から滑り落ち、地面に落ちる。いつのまに装備していたのか、アレックスは腰から下げていた金槌を手にすると、すっとしゃがみこみ、首飾りに向かってそれを思い切り振り下ろした。
脆い首飾りはぱんと弾けた後、石の破片がこすれ合うじりじりという音をたてる。金槌を退けると、砕けた赤い石とその土台に混じって、白い粉が見えた。硝子かと思ったが、それにしては粒が細かい。ヴォルフィッツがルーペを取り出し、その粉を観察した。
「……なるほどな。ルーク、荷物の中から危険薬物の検査キットを出せ」
「はい!」
赤硝子の中は空洞になっていた。そこにぎっしりと粉が詰まっていたらしい。粉を持ってきた薬品につけると、それが危険薬物であるという反応を示した。
「アレックス、いつから気づいてましたの?」
「店に並んでいるのを見たときには。同様の手口は、他の班の調査でも報告されている。料理に香草とよく似た危険薬物原料を混ぜ込むのも、危険薬物の使用を煙草のにおいでごまかすのも、やつらの常套手段だ。……だろ、アーサー」
「ああ、事前に調べておいたとおりだった。この集落は、危険薬物の取引と使用のために用意されたものだ」
軍人寮で同室であるアレックスとアーサーには、初めからここが「潰さなければならない場所」であるという予測ができていた。だが情報だけでは確信には至らず、視察というかたちをとったのだ。実状がわかったら、無線で応援を呼び、一斉に摘発するつもりだった。
「そういうわけで、経費は首飾りの購入ではなく、危険薬物の押収にかかった分だ。贋作美術品の値段が異様に高かったのも、それがその中に含まれる危険薬物の価値としては妥当だったから。成分を詳しく調べないとわからないけど、ここらじゃ簡単に手に入らないような『いいもの』なんだろう」
種明かしは終わった。説明しながら無線を手にしたアレックスは、しかし、自分でそれを使わなかった。無線をルークに向かって投げると、自分の背後、テントの向こうに、素早く銃を向ける。
「危険薬物が目的で集まったやつらだ。当然そうではないやつに集落のことを知られては困る。こっちが軍人であることに気づいていようといなかろうと、どうせ襲ってくる!」
破裂音とともに、テントに穴が開く。だが、同時に丈夫に作られているはずのテントは向こう側から引き裂かれてもいた。侵入してきた鋭い刃物と倒れ込んできた屈強な男に、一同は緊張する。
だが、それも一瞬のこと。軍人がいちいちそんなことを気にしていたら、仕事にならない。現に今だって、ここは取り囲まれてしまっている。
「ルークは司令部に連絡。ヴォルフィッツはルークを守れ。二人はついでに荷物を車に積むこと。アーサーとガーネットとマリエンヌは、今のうちにできるだけ危険薬物の回収だ」
「アレクは」
「俺はお前らの道をあけてやる」
アレックスがランプをとって、テントを切り裂いてできた大穴の向こうへ投げる。光に照らされて、何人もの影ができた。
「行くぞ!」
テントは内側と外側の両方から破壊され、夜の闇の中で戦いが始まった。

アレックスは銃弾を全て放ち切った後、すぐに剣に持ちかえる。本来は剣技こそが戦闘スタイルだ。敵を薙ぎ払い、アーサーたちが進む道をつくった。
もちろんアーサーとて闘わないわけではない。銃と体術の両方を駆使しながら、託された仕事を遂行するために走る。別の方向に、ガーネットとマリエンヌも向かった。ガーネットは短剣を片手に、舞うように襲いくる者を撃退する。マリエンヌは両手に一丁ずつ銃を構え、立ちはだかるものの動きを止めた。
ヴォルフィッツはライフルでこちらまでやってきた者を倒し、連絡を終えたルークとともに荷物を背負って車へ走る。だが荷物を積み終えたところで、舌打ちした。タイヤがパンクさせられ、車はすでに使えなくなっている。応援が来なければ、ここから離れることはかなわない。
「ルーク、貴様は荷物を死守しろ。応援が来るまで堪えろよ」
「わかりました!」
ヴォルフィッツが戦闘に向かった後を託されたルークは剣を構え、車の周囲にいる敵を掃った。
アーサーが煙草売りの店に入り明かりをつけると、煙草のほかに、積まれた袋を見つけた。一つを開けてみると、中身は先ほど硝子から出てきたものと同じと思われる白い粉だった。他にも煙草とは違うさまざまな植物が置いてあり、全て危険薬物の原料であると判断できた。
「お客さん、営業時間は終わったよ!」
商人、いや、危険薬物の売人がナイフを手にとびかかってくる。アーサーは振り向きざまに相手を蹴りをくらわせ、その手からナイフを奪った。代わりに手錠をかけて、テーブルの脚につなげてやった。
「俺は客じゃない」
律儀に答えてから、次へ向かう。
元貴族のガーネットは、一見すると細腕の、弱々しい女性に見える。だが、それは見た目だけだ。彼女は軍人として現場に出るために、努力を怠ったことは一度もない。
そもそもは、貴族家襲撃という珍しくない事件で家族を喪い、一人で生きるために軍に入った。いつか家族を殺した犯人をこの手で捕まえようと、そして同じ思いをする人を二度と出さないようにと、願いながら戦ってきた。その彼女を甘く見る者が目にするのは、地獄だ。
女ひとり、あわよくば手籠めにしてやろうと襲ってきた敵共を、ガーネットは冷たく一掃した。
ヴォルフィッツとともにエスト家の次期当主として育てられてきたマリエンヌには、賢者の血を引く軍人としての理と力が備わっている。拳銃を一丁ではなく二丁同時に扱えるよう鍛え、男にも負けない戦闘力と、一度現場に出れば簡単には折れない心を培ってきた。
襲いくる敵はみんな動きが遅く見える。養成学校で、練兵場で、そして実戦で常に最大限の力を発揮できるようにしてきた彼女には、相手が何人いようと同じことだった。
周囲をあらかた片付けて、危険薬物を回収する。正確には、危険薬物が混入されている美術品や装飾品をだ。大きなものを運ぶのは一人では難しいので、小さく軽いものを集めていく。こういうものをさっさと回収しなければ、持って逃げられる可能性もある。まして、宝石ほどの価値があるものなら、一つ持ち去られただけでも大問題だ。
「これくらいかしら……。あとは応援が来てから、司令部に運んでもらうしかありませんね」
折りたたんでポケットに入れておいた袋は、中身は軽いものばかりのはずなのに、もうずっしりと重くなっている。これを車まで持って行くのにも一苦労だ。溜息を吐いてそこを離れようとしたとき、何かが視界の端でゆらりと動いた。
とっさに銃を向けたが、荷物の重さで速さが鈍る。次の瞬間、後ろから体を羽交い絞めにされ、口を塞がれた。
「――!」
しまった、まだ撃ち損ねていたか。装飾品の入った袋が、音をたてて地面に落ちた。

軍が来るまで時間がかかるのは仕方がない。だが、この小さな集落をまわってくるのに、それほど時間はいらないはずだ。まして、あの三人なら。テントを囲んでいた敵を倒したアレックスとヴォルフィッツは、顰めた顔を見合わせた。
「アーサーめ、何をしている……」
「ガーネットやマリエンヌに何かあったのかもしれない。俺たちも行こう」
アレックスが一歩踏み出した、そのときだった。叫び声と破裂音が、三、四発。
音はマリエンヌが向かった方角から聞こえ、声はたしかにこう言った。
「マリー」と。

合流したアーサーとガーネットの目の前に現れたのは、痩せこけた背の高い男と、彼に後ろから拘束されたマリエンヌだった。
「お前ら、軍人だろう? おれは知ってたよ。昼間、ここを見回ってたときから知ってた」
男は血走った目をして、ひひひ、と笑い声を漏らしていた。痩せた体といい、様子といい、重度の危険薬物依存者であることは想像に難くない。
「別にさ、軍人だろうとなんだろうといいんだよ。どうでもいいんだ。ただ、お前だけはどうしても気に入らなくてさあ、……インフェリア」
「俺が?」
銃を構え、隙を探しながら、アーサーは尋ね返す。この男に覚えはなかったと思う。過去に会ったことがあるとしても、変わり果ててしまったのなら判断のしようがない。
「その青い髪、青い眼、間違いなくインフェリアの人間だろ。あのクソ忌々しい先代大総統の関係者だろ」
先代大総統――インフェリア家第十五代当主、カスケード・インフェリア。その容姿を、アーサーは見事に受け継いでいた。性格は正反対と言われるほど違うが、見た目には父の若い頃にそっくりだ。
「昔、入隊試験受けたときにさあ。あいつ、おれ見て何て言ったと思う? 首振りながら、『君には無理だ』だってさ。せっかく軍人になろうとしたのに。いつかは強くなって、誰も彼も見返してやろうと思ったのに。そして案の定、あいつはおれを不合格にした。不合格になったおれを、親は裏組織に売った。おれが死にたくなるような人生送ってきたのも、今こんなになっちまったのも、全部インフェリアのせいだ。インフェリアが途絶えなきゃ、おれは満足して死ねねえ」
不幸な境遇だったらしい。その結果、危険薬物に溺れてしまったのだ。だが、軍に入隊できなかったことについては、逆恨みだ。
「薬のせいで混乱してるんだわ。耳を貸しちゃ駄目よ、アーサー」
ガーネットの言葉に頷き、銃を構え続ける。だがこの暗闇の中、しかもマリエンヌを人質に取られている以上は、迂闊に引鉄を引けない。ガーネットが見かねて動こうとすると、また男が笑った。
「動くなよ。今、この子には、背骨に沿って特殊な爆弾を仕掛けてある。おれが火をつければあっという間に爆発するぞ。……でも、インフェリアが自殺するなら、解放してやってもいい」
死んでマリエンヌを救うか、マリエンヌを犠牲にして男を確保あるいは殺害するかの二択。ライターの火をちらつかせる男を前に、アーサーは考える。
ここにはガーネットがいる。こちら側が一人欠けたところで、マリエンヌを救うのには支障がない。銃声に気づけば、アレックスたちも来るだろう。
男に向けていた銃口を、アーサーはゆっくり、自分へ向け直した。
「アーサー、何やってるの?! 耳を貸しちゃ駄目って言ったでしょう!」
「マリーの安全が最優先だ。この体はどうにでもなる」
「馬鹿なこと言わないで!」
「死んでくれるなら確実に死ねよ! 腹や胸じゃない、頭に銃を突きつけろ!」
アーサーは男の指示通りに腕をあげた。闇の中で、男が笑っているのが、ガーネットが泣きそうな顔をしているのが見える。
それから、マリエンヌが。
「……っ、こんなやつの言いなりになんか、なる必要ありません!」
口を塞いでいた男の手に噛みつき、あらん限りの声で叫んだ。
「いってえ……いてえな、このアマ!」
逆上した男に、判断力などない。すぐさま火を灯すと、マリエンヌに近づけた。
「マリー!」
銃を捨てて走り寄ろうとしたアーサーに、マリエンヌは笑って言った。
「それでもう、死にませんね。よかった」
導火線は燃え尽き、マリエンヌと男の間で三、四発の破裂音が響いた。

応援に来た軍によって、集落は徹底的に調べ上げられ、そして解体された。危険薬物も全て押収され、事件は解決ということになった。
しかし、マリエンヌの容態は深刻だった。爆弾の破片は彼女の背中に深く突き刺さり、背骨の数か所を傷つけていた。一命はとりとめたものの、もう自分で体を動かすことは難しいかもしれないと、医師は告げた。
「貴様がいながら、どうしてマリエンヌが……っ!」
掴みかかってきたヴォルフィッツに、アーサーは何も抵抗しなかった。それどころか、ヴォルフィッツを止めようとしたアレックスを制止した。
「貴様のせいだ! 貴様のせいで……」
怪我によって、マリエンヌは多くのものを失ってしまった。体の自由、軍人という仕事、そして、エスト家次期当主の座。双子として生まれたヴォルフィッツとマリエンヌは、二人で当主となる予定だった。
彼女の誇りを、そして彼女そのものを、誰よりも大切にしていたヴォルフィッツに、アーサーは返す言葉がなかった。どれだけ謝っても、彼女はもとの彼女には戻れない。
「……いっそ、消してくれ」
ヴォルフィッツは呻いた。
「マリエンヌは最初から、軍人ではなかった。貴様とは出会わなかった。そういうことにしてくれ。二度とマリエンヌのことを口にすることは……思うことすらも許さんぞ、アーサー」
そのときは、混乱と怒りから出た、一時的な言葉だと思った。誰もがそう思った。
だが、その翌日にはマリエンヌの私物は軍施設から一切消え、彼女は軍籍から外された。
それだけではない。建国御三家の末裔という立場を利用して、ヴォルフィッツは大総統に、マリエンヌを全ての事件に「関わらなかった」ことにさせた。彼女が入隊していたという記録すらも消させた。
本当に、全てをなかったことにしてしまったのだった。
それを知ったアレックスがヴォルフィッツを問い詰めると、ただ「何もなかったんだ」とだけ返事があった。そのことはアーサーとガーネット、ルークにも伝わり、それがヴォルフィッツの意向なら、と受け入れることを選んだ。


「そんな……そこまでする必要があったんですか?」
カスケードの問いに、ダリアウェイドは静かに頷いた。
「それから一生マリエンヌを看ることになる人間が、そういうことにしたんだ。あの事件以来、私たちは彼女の顔を見ていない。生きているのかすらも知らない。……彼女はヴォルフィッツだけのものになったんだ」
脳裏に、セントグールズに会ったときのことがよみがえった。――軍に存在を認められていれば、こうして弔ってもらえる。彼は墓地に訪れ、そう言ったのだ。もしかしたら、マリエンヌという人は、もう生きてはいないのかもしれない。
そして事件の真相を、彼女が軍から消えることとなった経緯を、セントグールズも詳しくは知らないのかもしれない。ダリアウェイドの話がすべて真実かどうかも、カスケードにはわからないのだけど。
「あの事件で変わってしまったのは、マリエンヌやヴォルフィッツだけではない。アーサーとガーネットもだ。ガーネットはあんなに仲の良かった親友のことを一切口にしなくなり、アーサーは軍家インフェリアを続かせることにこだわるようになった」
「親父が?」
「カスケード君が生まれてからだがね。インフェリアの血筋のせいで何かを失わないように、守れるものであるように、子供を軍人にすると誓ったんだ。……君は拒否したが、結局はアーサーの思い通りになった」
カスケードが幼い頃、父は我が子を軍人にすることにこだわった。どんなに嫌がろうと、その道を行かせようとした。その陰に、彼にもまた「大切な人を失った記憶」があったのだ。
「私たちは大切なものを手放してしまった。なかったことにしてしまった。……君は、ちゃんと抱えていなさい」
日常だと思っていた日々は、当たり前だと思っていたことは、ある日突然消えてしまうかもしれないから。この国を見つめる者として、一人の人間として、それを覚えておきなさい。
ダリアウェイドはそう言い残して、去った。彼が苦しめていたのはセントグールズでも、友人たちでもなく、他でもない自分自身だった。

年季が入っているにもかかわらず、豪奢で重厚な、しかし凭れれば柔らかな感触が背中に伝わるその椅子。この国でたった一人だけが座ることのできる特別な椅子に、カスケードは身を沈めた。
頭の中を巡るのは、昔話と、初めて知った父の想い。何かや誰かを失くすのは、軍人であるならば、たとえそうでなくても、いずれ経験することだ。
カスケードもそうだった。そのはずなのに、父やダリアウェイドたちも「失くした者」であることに、どうして今まで思いいたらなかったのだろう。
特に父のことなんて、考えようともしてこなかった。何年経っても、再び顔をあわせるようになってからも、カスケードの中の父は「この道を強制した強情な人物」だったから。
「気は晴れたかよ」
す、と横から煙草が差し出される。そちらへ目をやると、ディアが自分もそれを口に咥えようとしていた。カスケードは差し出されたものと、ディアの口元にあったものの両方を取り、握り潰した。
「大総統室は禁煙だぞ、不良」
「あ、もったいねぇ!」
強制された道を歩きはじめ、出会いと別れを繰り返して、今、ここにいる。国の長として、「正しく」あることを求められる立場に。
けれども今まで正しいと思ってきたものすらも、自らの過ちを悔いてきたことを知ってしまった。――「正しい」ことなんて、もしかしたら、この世のどこにもないのかもしれない。
「……晴れることは、一生ないのかもな」
後悔は、したときにはいつも手遅れだ。そして人間は、後悔が大きければ大きいほど、それに固執する。その出来事に依存してしまう。そうして自分をつくりあげていってしまうのだ。
それが大きく根を張ったとき、枝葉はとうに広がっていて、新しい道へと思いを引き継いでいってしまう。良いことであっても、そうでなくとも。
「そう簡単に晴れるほど、人ってのは楽じゃねぇよな。……でも、お前はそのトップに立つんだぜ、カスケード」
カスケードも、ダリアウェイドも、かつての父らも、後悔でできている。それを経験として積み重ねて、現在を生きている。誰かを失いながら、誰かを生かしている。
カスケードはこれから、生かさねばならない。自分にできるだけの、より多くの人を。両手にたくさんの命や想いを抱えて、大総統という地位を名乗るのだ。
「ディア。俺には、正しい大総統なんてできない」
椅子に座りながら、言う。補佐官はそれに、頷いた。
「正しい奴なんかいねぇよ。ただより良い方を選んでいくことしかできねぇだろ」
これだから、補佐官は彼で良かった。カスケードは改めてそう思い、笑った。
「さすが、国王ぶん殴って国を出てきたやつは言うことが違う」
「褒めてんのか、貶してんのか」
――君は、ちゃんと抱えていなさい。
ダリアウェイドの言葉に、カスケードはようやく頷ける気がした。一人じゃなければ、抱えられる数は、重さは、増える。だからきっと、大丈夫だ。
そしてもう一つ、心に決めた。血筋による痛ましい連鎖は、断ち切らなくてはならない。生まれたばかりの自分の子供は、ニアは、軍人にはしない。あの子には、自分も他人も喪ってほしくない。いずれそのときが訪れるなら、できるだけ平和な方がいい。守るなら、この手で守り抜く。
いつか、親友にそう誓ったように――何が何でも、守り抜け。あとで後悔しないように。
「ディア、俺の隣は頼んだぞ」
「はいよ、大総統閣下」
この国の全てを背負い、前を向いて、己の道を行こう。先人たちの想いを、胸に抱きながら。

* * *

自分の誕生と同時に、母は命を落としたのだと聞かされてきた。母を一度も見たことがないから、それはきっと本当のことだ。
父はあまり母について語らなかった。だが、軍人としての経験を話すとき、怒ったような口調で、けれどもどこか楽しそうにしていた。
アレックス・ダリアウェイドは気の良い先輩だった。ルーク・ルフェスタは素直な後輩だった。ガーネット・クォートレインは愛嬌のある人だった。……アーサー・インフェリアとは、よく口喧嘩をした。やつは永遠のライバルだ。
けれども話したあと、必ずどこか遠くを見つめるのだ。そして、ぽつりと呟いていた。
――その誰もが、忘れてしまった。誰もに忘れさせた。
その言葉の真意がわかったのは本当に最近のことだ。忘れられたのは、母のことだった。
母は軍から存在を抹消されていた。友人たちにも語られなくなっていた。誰も母のことを「知らない」ことにしていた。――父ですらも。
思い出の中から母だけを切り取って、いなかったことにしていた。
母は本当に父の中でだけ生きる人になって、父の中で死んでいったのだろう。
そうでもしなければ、父と母が結ばれることはなかったのだ。父は、誰よりも母を愛していたのに。
母が確かに生きていたということは、どうか思い出してほしい。当時を知る人にしか、できないことだから。けれども父の想いは、永遠に封じたい。そうしないと、父が救われないから。
それが彼らの子として生まれてしまった、自分の願いだ。



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2015年09月22日

Dependence B.B 前編

世界暦五一三年七月三日、第二十八代大総統に、カスケード・インフェリアが任命された。先代大総統アレックス・ダリアウェイドは以前からその機会を窺っていたが、とうとうその時がきたのだった。
ダリアウェイドは名将だった。歴代大総統の中でも最もその地位に相応しい振る舞いをしていた一人であるなどと評価は高く、在任期間も二十年という異例の長さを誇っていた。その間、交代の話が全くなかったわけではないが、彼を支持する声が圧倒的に多かったのはたしかだ。
そのときに必要な判断を、的確に。エルニーニャ王国に住む王宮関係者や貴族、一般市民といった様々な層に拘らず、とにかくより多くに利益がある選択を。それが彼の目指した国政であり、示してきた態度だった。
それを、カスケードが引き継ぐ。重圧は大きいが、それでも引き受けようと思ったのは、ダリアウェイドからの信頼と彼への恩のためだけではない。たしかに幼い頃から世話になってきたが、それだけではこの役目を引き継ごうと思う理由にはならない。――それこそ、生まれた直後から成長を見られてきた。ダリアウェイドは、カスケードの父アーサーの友人なのだから。
カスケードが大総統になるのは、ダリアウェイドから、そしてその以前から代々繋がれてきた、エルニーニャという国の地盤を、次の世代へ渡すためだ。そのためには自らも、国民に恥ずかしくない務めをしなければならない。
その決意をもって、今、カスケードはこの場所にいる。軍施設の片隅にある、軍人墓地。殉職した軍人は、基本的にはここに眠ることになる。軍人になる者には、親を亡くすなどして身寄りのなくなった者が多いからというせいもある。
カスケードの目の前にある墓碑にも、身寄りがなく、軍人として生きていくことを選び、そして死んでいった者の名前がある。――ニア・ジューンリー。僅か十八歳にして任務中に命を落とした、聡明な少年だった。カスケードの親友であり、現在のカスケードの根幹をつくっている人物だ。彼がいなければ、カスケードは大総統を引き受けられるほどの器を持つことはなかった。それどころか、早々に軍を辞めていたかもしれない。
もともと、親に強制されて入隊したのだ。入隊当時の態度は悪く、訓練をさぼるなんて当たり前。ただ籍だけを置いている状態で、目標も希望もなかった。そんなカスケードを変えたのが、ニアだった。軍人としての希望を――人を助ける軍人になりたいという強い望みを持っていた彼は、カスケードに大きな影響を与えた。
だから、大総統になることが決まったとき、まずは親友に報告した。その墓前で誓った。
「ニア、俺は人を助ける軍人になれたかどうかわからないけれど。これからは、人を助ける大総統を目指すから。まだまだ見守っててくれよ。息子ともどもよろしくな」
奇しくもこの日は、カスケードの子供が生まれた日だった。子供には親友と同じ、ニアという名をつけた。彼と同じように、誰かの傍にいつも寄り添えるような子になりますように。そんな願いを込めて。
大総統になると同時に親になったカスケードだが、かつては、自分を軍に入れた親には、結局入隊後十三年も会おうとしなかった。父との確執は、カスケードにとっては深いものだった。それでもなお、父の友人であるダリアウェイドは、カスケードに目をかけていてくれたのだった。
彼が在任していた二十年には、カスケードの成長を待っていた分も含まれているのだろう。思えばその期待は時に大きすぎて、カスケードにたくさんの仕事を与え、そして責任をとらせた。エルニーニャ軍を一時的に離れたこともあったが、結局はここに戻された。
きっかけが望まぬことであっても、成長が親友のためであっても、先代大総統によって導かれた道だったとしても。今ここにいるカスケードは、大総統カスケード・インフェリアに間違いなかった。

ニアの墓前で感慨に耽っていると、背後から地面を踏みしめる音がした。誰か墓地に来たのかと振り向いてみると、真後ろに意外な人物が立っていた。
「……センちゃん」
「その呼び方はやめろ。……いや、やめていただきたいというべきか。大総統閣下」
エルニーニャ王国軍大将、セントグールズ・エスト。ともに活動したことはほとんどなく、接点は少なかったが、もともとインフェリア家とエスト家には因縁がある。初代はともに建国に関わり、家同士は長くライバル関係を続けていたという。もっとも、ライバルということにこだわっていたのはエスト家のほうだったが。
セントグールズもカスケードを一方的に意識していたらしいが、ここに現れたのもそのためだろうか。大総統にはエスト家ではなく、インフェリア家の人間が選ばれたのだから。
「どうした、センちゃん。俺が大総統になることに不満があるなら聞くけど」
「語り切れないほど不満だらけだが、ダリアウェイド氏が選んだのならば、これが正しいのだろう。あの人はいつだって公共と大衆の利益になる行動を選択する」
言いながら、セントグールズはカスケードの隣でそっと膝をつき、ニアの墓に向かって祈ってくれた。見かけたことぐらいはあるかもしれないが、会ったことのない人物のために祈ってくれるのだから、やはりセントグールズは優しいのだ。口はあまり良くないが、それは単なる照れ隠しであると、カスケードは勝手に思っている。
だが、次にセントグールズが発した言葉には、優しさなどというものは含まれていなかった。
「身寄りがなくとも、軍に存在を認められていれば、こうして弔ってもらえる。認められなければ、あのダリアウェイド氏ですら、その人物が存在していたという事実をなかったことにする。軍人としてのデータはおろか、人間として生きていたという証拠すら隠滅される」
突然何を言いだすのか、それがどういう意味なのか、カスケードにはわからなかった。尋ね返す前に、セントグールズはさっさと立ち上がり、背を向ける。
「貴様がインフェリアの人間として大総統になるのなら、一つだけ忠告しておいてやる。……悲劇を、人生が滅されるようなことを、繰り返すな」
「ちょっと待て、それはどういう……」
とうとう答えが得られぬまま、セントグールズの姿は墓地の出口へと消えていった。人生が滅されるような悲劇とは、なんだったのだろうか。
エルニーニャでは毎日、裏社会の組織との抗争やその他の犯罪などで、誰かが何かしらのかたちで心身に傷を負ったり、何かを失ったりしている。それは事実であり、大総統の立場としてはそれを止めなければならない。直接止めに行くわけではなく、軍人という人々を使うことによって、上手に事態を収めるのが仕事だ。
誰かの人生が、どこかで終わっている。だがそんな哀しくも当たり前のことよりももっと重要な意味が、セントグールズの言葉には含まれているような気がした。
「軍に存在を認められていれば……」
彼の言葉を思い出し、繰り返す。何か大切な事実を、ダリアウェイドが葬っていたのかもしれない。それを思うと、胸がぎしりと音をたてて痛んだ。
あんな立派な人が、そんなことをするはずはない。でも、セントグールズはそれがあったという。わざわざそれを言いにきたのであれば、大総統が変わった今、その真相を突き止めてほしいのかもしれない。いや、もしかしたら彼はもうそのことを知っていて、カスケードにも事実を受け入れてほしいのかもしれない。
だったらやることは決まった。カスケードは墓地を離れると、仕事場へ向かった。――これからどれくらいそこにいるのかはわからないが、今、その椅子に座るのは自分だ。
大総統執務室の、あの歴史の詰まった重厚な椅子は、カスケードのものになったのだ。

誰かが新しく国の重要な地位に就くと、形式として式典が執り行われる。国民や国外に、その事実を知らしめるためだ。それは大総統も例外ではなく、現在はその準備が急速に進められている。
カスケードの大総統としての最初の仕事は、その式典のための挨拶を考えたり、式次第を覚えたりすることだった。その指導をするために、先代大総統ダリアウェイドと、その補佐であったルーク・ルフェスタは、まだしばらくは中央司令部を出入りする。
ダリアウェイドと式典での挨拶を考えている最中も、カスケードの頭の中にはセントグールズの言葉がこだましていた。ときおりぼうっとして、ダリアウェイドに叱られる。
「こら、カスケード君。大総統に任命されたのだから、もっとそれらしくきちんとしなさい」
「はい、すみません……。って、ダリアウェイドさんも俺のこと大総統として扱ってないじゃないですか」
「君が生まれたときから見てきたからな。なんとまあ、体ばかり大きくなって。それなのに国の頂点のみならず、父親にまでなってしまって……」
「失礼な。あ、ニアは可愛いですよ。俺が名前呼ぶと、ちゃんとわかってるのか、手足を動かすんです。ニアを抱いてるときのシィもまさに聖母で」
「わかったわかった。いいから、早く挨拶文を書きなさい」
我が子と妻の話題でごまかしたが(とはいえ半分以上本気ではあった)、やはりダリアウェイドが「なかったこと」にしたことが気になる。彼の二十年の経歴を見れば、都合上そういう処理をした事件などはたくさんあるはずだった。現にカスケードが関わったいくつかの事件も、軍の人間に不利益が生じて国内の軍への信頼が下がってしまうと判断され、内々に済ませたことがある。
だが、セントグールズのいう「なかったこと」にされたものは、それだけでは済まないようなものであると感じた。――人が生きていたという証拠を隠滅される、と彼は言ったのだ。そこまでのことを、ダリアウェイドがしたとは、カスケードにはとても思えなかった。
昔から彼は、カスケードにとっては優しく頼もしい「おじさん」であり、国をまとめる「頂点の人」であった。立派な人物だという印象が強く、加えて人を国の財産として大切にしようとする、理想の大総統だったのだ。
挨拶文を書く手は止めず、しかし思考は巡らせ続けていると、大総統室に隣接する特殊資料室からうんざりした表情の二人が出てきた。片方は前大総統補佐のルーク・ルフェスタ、もう一方は新たな大総統補佐となるディア・ヴィオラセントだ。たしか式次第の確認をしていたはずだが、どうなっているのかはだいたい予想がつく。
「インフェリア、何故ヴィオラセントを補佐にするんだ。式次第は全然覚えないし、仕草はがさつだし、このままではとても式典に出せるものではないぞ」
呆れ果てているルフェスタに、ディアは「うるせぇな」と頭を掻きながら小声で返す。自分でもこのままでは不味いと思っているのだろう。カスケードは苦笑しながら、ルフェスタに言った。
「俺の補佐にはそいつが最適なんです。不良だけど、隣国とのつながりはあるし、腕っぷしも強いし」
「不良だけどはいらねぇよ」
「けれども補佐としての仕事が今後できるかどうか不安だ。大総統にもしものことがあったら、代わりを務めるのは補佐の役目なのに……」
ルフェスタは優秀な補佐だった。名将に名参謀ありといわれ、指示を出す前にすでに望むとおりの行動ができているという、そんな人物だ。ダリアウェイドとの付き合いが長いため、それが可能だった。それこそ、彼が大総統になる前からの付き合いらしい。
その点はカスケードとディアも同じだ。だから良いコンビになれるとカスケードは踏んでいたのだが、ディアのほうは「なんで俺が補佐なんか」とまだぐちぐちとこぼしている。
「俺がエルニーニャにいなかったとき、ちゃんと班をまとめてくれていましたから。不良なら大丈夫ですよ」
「だから不良っていうんじゃねぇ」
「大丈夫だと信じたいが……」
「ルークは最初からよくできた部下で補佐だったからな。私たちや市民の言うことをよく聞いて、よく動く、まさに公僕の鑑みたいな人物で……そうだな、その点はヴィオラセントとは真逆かもしれない」
カスケードたちのやり取りに、ダリアウェイドもそう言って笑った。ディアが舌打ちして、それをルフェスタがまた「礼儀がなってない」と叱る。叱ってから、こほんと一つ咳払いをした。
「アレックスさんが言うほど、私はできてませんでしたよ。ただ、アレックスさんに従っていて、そうしているうちに思考がわかってきて、先回りすることができたというだけです。アーサーさんたちに対してもそうでした」
「親父に?」
そういえばそうだ、と思い至る。ダリアウェイドはカスケードの父アーサーと友人であり、同期だ。同じ班で仕事をしていたと聞いたこともある。ルフェスタも班の一員で、そのために補佐となったのだ。
「アーサーさんの考えは読みにくかった。あの人、天然すぎて何考えてるかわからないときもよくあったから。その点、アレックスさんとガーネットさんははっきりしててわかりやすかった」
そしてガーネット――カスケードの母も、元軍人で彼らと同じ班だった。それが縁で結婚したのだと、話してくれたのは当人たちではなくダリアウェイドだったように思う。
「親父が天然って嘘でしょう。我が強すぎて何言ってるかわからないの間違いじゃないですか」
「いや、天然だったぞ。大真面目にずれたことを言う、そんな面白い人だった」
カスケードの知っている父アーサーの人間像からは想像もつかないが、昔はそうだったらしい。カスケードには軍に入ることを強要した融通の利かない人物としての認識しかないので、なんだか別人の話をしているようだ。
「アーサーさんの発言にヴォルフィッツさんが食ってかかって、アレックスさんとガーネットさんが面白がって、私がおろおろと成り行きを見ている……ダリアウェイド班はそんな班だったな」
懐かしそうに語るルフェスタに、ディアが感心しながら頷いていた。たぶん、どこも似たようなもんなんだな、とでも思っているのだろう。インフェリア班も、もっと大所帯ではあったが、そんな感じの班だった。誰かが衝突して、それを面白がる者と止めに入る者、おろおろと動向を見る者がいて。それがとても楽しかった。
今ではほとんどが退役してしまって、各々の事情により全員揃うこともなくなってしまったけれど、たしかにあの頃は今でも記憶の中で輝いている。
ダリアウェイドの中でもそうなのだろうかと、カスケードはその表情を覗き見る。そして、ぎくりとした。――彼はたしかに笑っていた。笑ってはいたが、瞳の色は底知れない悲しみを湛えているのがわかってしまったのだ。
親友を喪ったカスケードにはわかる。あれは、大切なものを失くした者の目だ。

その日の夜、ダリアウェイドたちもいなくなった静かな大総統執務室で、カスケードは行動を開始した。
ディアたちが使っていた特殊資料室には、大総統とその側近くらいしか見られない機密資料が保管されている。それは国政に関わるものだったり、これまでの軍の活動記録だったり、提出された報告書のまとめだったりと様々だ。
カスケードは、今後これらの資料を自由に閲覧することができる。ここから過去の事例などを探して、国と軍を動かしていく参考にするのだ。
その膨大な資料の中から、世界暦四七〇年から九〇年代の事件報告書と軍籍簿を引っ張り出す。これを見つけるだけでも目が疲れた。もうすぐ日付が変わる時間ということもある。それはともかく、この期間がちょうど、ダリアウェイドが入隊してから大総統に就任するまでになっている。
ダリアウェイドたちが関わった事件は、四七〇年代後半から四八〇年代前半に集中している。なるほど、そこには大抵、アーサー・インフェリアの名前が連なっていた。ルーク・ルフェスタも少し後になって出てくる。他にはガーネット・クォートレイン――カスケードの母の旧姓だ――や、ヴォルフィッツ・エストといった名前があった。どうやらヴォルフィッツとは、エスト家の人間らしい。父同士で関わりがあったのなら、セントグールズがカスケードを気にしていた理由も頷ける。
「……ん? なんだ、これ」
よく見ると、任務に当たった人員の欄に、不自然な空白があった。そこに書いてあったものを、削り取ったような感じだ。しかもそれが一か所だけではなく、ダリアウェイド班と呼ばれていた彼らが関わっていたもののほとんどに施されている。
そして四八三年のあるときを境に、ぱったりとその痕跡はなくなった。最初から書かれていなかったのだったら、消す必要もない。
「どうして消されてるんだ? 明らかにあともう一人いたような……」
手書きの報告書を電灯に透かしてみるが、名前と思われるものはきれいに削られていて、何が書いてあったのかはわからない。ならばと軍籍簿を開いて、ダリアウェイドとアーサー以降に入隊した者を調べた。ダリアウェイド班なのだから、おそらく削られたのは部下の名前だろう。
ひとつひとつ丁寧に探して、ようやくそれらしいものを見つけた。ダリアウェイドたちより一年後に入隊した者の中で、一人分だけ不自然に削られた箇所がある。ただし、光に透かすとそこにあった字はかろうじて読めた。
「……エスト。……マリ……エンヌ……エスト?」
マリエンヌ・エスト。間違いでなければ、それが削られた名前だった。
しかし、削られているというのはどういうことだろう。もし退役あるいは殉職しても、名前は残り、備考欄に退役や死亡の文字とその年月日があるはずだ。しかしこの人物は、存在がそのまま消されてしまったかのような扱いだ。
エストという名前。名簿や報告書から存在が消されているということ。――セントグールズが言っていたのは、もしやこのことなのではないか。
名前からして、おそらくは女性。彼女はダリアウェイドたちと深く関わっている可能性がある。エスト家に関係する人間なら、名前だけでも知っているはずだ。ダリアウェイド班には、エスト家と因縁のあるインフェリア家の人間がいるのだから。
それなのに、ルフェスタは一度もその名前を出さなかった。あんなに懐かしそうに、思い出を話していたのに。もしかしたら、班の一員だったかもしれないのに。
「どういうことなんだ……」
――人間として生きていた証拠まで隠滅される。
あの冷たく痛みを含んだ言葉が、また頭の中で再生された。

大総統就任の式典は、着々と準備が進められ、あっという間に当日を迎えた。
すでに大総統の地位はカスケードに譲られているが、公式の場で紹介されるのはこれが初めてだ。各国の首脳や軍関係者、国民の前で、カスケードはいよいよ大総統と認められる。
だが、こんな場でも考えてしまうのは、例の削られた名前のことだった。なぜ名前を削り、存在自体をなかったことにしなければならなかったのか。そのことをダリアウェイドたちが一言も口にしない理由は何なのか、どれほど考えてもわからなかった。
セントグールズを探して訊いてみようかとも思ったが、彼も式典の準備や任務などで忙しくて捕まらなかった。そうして今日を迎えてしまったのだ。
今日を過ぎれば、ダリアウェイドとルフェスタは完全に軍を退役する。二人に真相を尋ねることはできなくなる。今までそれができなかったのは、ダリアウェイドの目を思い出してしまうからだった。あの、あまりにも悲しそうな目を。
「……深く国民を愛し、いつも忘れぬよう……」
ダリアウェイドと一緒に考えた挨拶を読み上げるときも、どこか違和感があった。国民だったはずの、軍人だったはずの者を忘れるようなことをした人間と作った言葉だ。けれども忘れなければならない理由があるのだろう。そうでなければ、ダリアウェイドがあんなことを許すはずがない。
それとも名前を削られたマリエンヌ・エストは、存在することで多数の人々の不利益になるような人物だったのだろうか。例えば、裏社会に通じていたとか。――それでも、あんな処分の仕方はしない。
「上の空で挨拶読んでんじゃねぇよ」
就任の挨拶を終えた後、真っ先にディアがそう言った。ばれていたか、と思いながら、笑顔でごまかす。
「いやあ、ニアのこと考えてたらぼんやりしちゃってな」
「それは親友の方か? それともお前のガキの方か? ガキの方なら、あんなしかめっ面しねぇよな」
そんな顔をしていたのか。さすがは補佐、よく見ている。もともとカスケードは隠し事や嘘が下手な性質だが、それを即座に見抜けるのは昔からの仲間ならではだ。
「まあ、真面目そうに見えたから良いんじゃねぇの。でも、悩んでるんならさっさと吐き出しちまえよ。鬱陶しいから」
「……そうだな」
こういう心配りができるあたりが、カスケードがディアを補佐に選んだ所以だ。彼ならこちらの考えをわかってくれる。わかってくれた上で、納得のいくようにすればいいと言ってくれる。もちろんこちらが間違っていれば全力で止めてくれる。そんな人物だからこそ、補佐をしてほしいと思った。いつか、彼に班を任せて旅立ったときと同じ理由だ。
「吐き出した方が、いいよな」
カスケードは腹をくくることにした。いつ何時、自分が同じような選択を迫られるかわからない。大総統として、誰かを切り捨てなければならない日がくるかもしれない。だから。

「お疲れさま、カスケード君。いや、大総統閣下」
式典の後、ダリアウェイドはいつもと同じように微笑んでいた。昔からカスケードを見てくれていた、優しい目をしていた。これを今から歪ませてしまうのかと思うと、心が痛む。
それでも、知っておかなければならないことがある。
「ダリアウェイドさんも、お疲れさまでした。……最後に、一つだけ聞いておきたいことがあります」
「何だね」
大多数の利益を優先して、物事を進めてきた彼が、ある人を苦しめている。両方を救う道があるのなら探したいと、その道を行きたいと、カスケードは思う。
それはとても難しい道だと、わかっているけれど。
「マリエンヌ・エストとは、誰ですか」
その名前を口にした途端、ダリアウェイドから笑顔が消えた。顔色はすっと蒼くなり、唇が震える。
「……どこで、その名を」
「軍籍簿と過去の報告書を見ていて、気になることがあったので。自分で調べました」
ダリアウェイドは、しばらく逡巡しているようだった。唇を噛みながら、目を泳がせながら、言葉を、眠らせた記憶を、探しているように見えた。
しばらくして告げたのは、ある約束だった。
「カスケード君」
「はい」
「その名前をアーサーとガーネットの前では絶対に口にしないと、約束してくれるか」
今度はカスケードが、顔を蒼くする番だった。
しかし、今は頷くほかに、話を聞く術はない。


ダリアウェイド班、と呼ばれていた。
明るく人好きのする、しかし計算高いところもあるアレックス・ダリアウェイドが、リーダーに適していたからだ。
半面、名家出身であるはずのアーサー・インフェリアは不愛想だった。母に似て生真面目に育った彼は、人付き合いがそう上手ではなく、入隊してすぐの頃はアレックスが唯一の友人だった。
その一歳年下の後輩たちが、三人。一人はガーネット・クォートレインという、貴族家出身の少女だ。しかし家は潰えてしまい、身寄りはなかった。
あとの二人がエスト家の出身で、少年をヴォルフィッツ、少女をマリエンヌという。双子として生まれた二人に、どちらが上という概念はなく、見た目もよく似ていた。インフェリア家出身であるアーサーに対して、ヴォルフィッツはよく突っかかっていて、マリエンヌもそれに応戦していた。
最後に、一番年下のルーク・ルフェスタ。アレックスやアーサーの軍内での活躍に憧れ、彼らと行動することを志願した。
六人で、いくつもの任務に関わった。周辺の村の視察から、このときすでに度々現れていた「怪物」の退治、裏社会に関わる少々危険な仕事まで、六人で力を合わせれば怖いものなどなかった。
班はいつだって賑やかで、ヴォルフィッツがアーサーに食ってかかれば、アーサーがそれにずれた反論をする。その天然っぷりにアレックスとガーネットとルークが笑い、マリエンヌが呆れる。そんな忙しくも楽しい日常が、いつまでも続くと思っていた。



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2015年02月28日

女子力ってなんだ

「女子力って何なんですかね」
昼の第三休憩室に、ぽつりと落とされた一言。落とし主はカイだったが、すぐにアーレイドに拾われた。
「そういえば、下級の女の子たちが話してました。軍人でも女子力を鍛えなきゃって」
「そうか、力だから鍛えるものなんだ。でも何をどうしたら鍛えたり身に付けたりできるんだろう」
「それは……どうなんでしょう」
不思議そうに首を傾げる後輩たちに、待ったをかけるのはカスケードだ。そもそもどうしてそんなことを突然話題にしたんだろう。
「女子力なんてどうしたんだ? また悪友の入れ知恵か?」
「そうですね、ライアン情報です。なんでも、リアさんは女子力が高いらしいですよ」
軍きっての情報屋がいうのであれば、話題になっているのは間違いないのだろう。しかし、その力の根本がなんであるかはわからない。
「女子力ってことは、女の子らしさとか? でも何をもって女の子らしいとするんだろうな……お淑やかさとかか?」
それならリアさんは高そうだ、とツキが言うが、カイは首を横に振る。
「意外に大雑把なところありますよ、リアさん。お淑やかな人が鞭振り回して、悪人や怪物と戦いますかね」
「それは軍人だから仕方ないだろ。あ、でも、だからこその『軍人でも女子力を鍛えなきゃ』発言があるのか」
しかしただのお淑やかさで説明できるのだろうか。だいたい、淑女然と振舞わなくとも女の子らしい女の子は沢山いる。
悩み始めたところで、第三休憩室に人が増えた。下級兵教練を終えてきたらしいディアが、伸びをしながら部屋に入ってくる。
「あー疲れた。教練監督めんどくせぇ。……なんだ、なんで静かなんだよ」
「ちょうど良かった。不良、女子力ってなんだと思う? 最近では軍人でも鍛えなきゃいけないようなものらしい」
最も女子力とは縁遠そうな男に尋ねることで、なにかヒントが得られるかもしれない。カスケードはそう思ったのだが。
「女子力……胸のでかさか?」
ろくな答えが得られなかった。
「不良はすぐそっち方面に行く……だからアクトに肘打ちと蹴りのコンボ喰らわされるんだぞ」
「だって、それ以外に何があるってんだよ。女といえば胸だと俺は思う」
「最低ですね」
ディアを散々非難したあとで、再び男性陣は考え込む。女子力とは。女子が鍛えたいものとは。
「……可愛さとかはどうでしょう。女の子ってなんでも可愛いっていいますし、可愛いものは好きですよ」
アーレイドがそう言って、一同はハッとする。たしかに自分たちの班の女子も、可愛いものは大好きだ。ねぁーですら可愛いという。
「じゃあ女子力持ってるのって、女子に限らないんじゃないですか。可愛いならグレンさんだって可愛いですよ」
「カイ、落ち着け! グレンはわりと男前だと思うぞ! 可愛い物好きなら、アクトやハルは?」
「アクトは女子通り越して姐御だ」
「ハルは可愛いですよ。甘いものも好きです。わりと女子っぽいかも……あ、でも怪力」
そもそも女子力が何なのか、わからないうちは話にならない。こうなったら女性陣に直接訊いてみるしかなさそうだ。

しばらくしてやってきたリアたち女性陣に、まずはカスケードが尋ねた。
「リアちゃん、女子力って何だ?」
「突然ですね。ええと、端的に言えば、女性が自らの魅力を高めようとする力でしょうか。きれいになりたいと思ったらお化粧に気を配るとか、スタイルよく保ちたいなら食事に気をつけるとか。センスを良くしたいなら衣服や小物なんかにこだわると、女子力が高まりますよ」
なるほど、納得のいく説明だった。つまり、自分の理想の形なのだろう。道理で女の子がこぞって女子力を鍛えようとするわけだ。
「女子力を鍛えるっていうのは、自分を高める勉強をすることなんだな。だったら女子に限らないんじゃないか」
「はい。男性にも女子力高い方はいますよ。例えば家事全般が得意だと、女子力高いです」
フォーク君とかそうですね、とリアが言うと、ツキが同意した。
「そうだな、フォークは朝起こしてくれるし、起きたらもう朝飯ができてるし、出勤の時は見送ってくれて、昼には弁当届けてくれて、帰ったら迎えてくれて、夕食も風呂の準備も整ってるんだ」
「ツキ。それもう奥さんかお母さんだぞ」
「奥さんや母さんは女性ですよ」
「やっぱり女子力……!」
その後もわいのわいのと語り合う男性陣を、女の子たちは首をかしげて見ていた。
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2015年01月24日

守りたい場所

本日のスケジュールも滞りなくこなし、オレはお気に入りの場所に向かっていた。
自室でもない。バーでもない。ただのアパートの一室なのだけれど、とても暖かくて、居心地の良い場所だ。
到着したらまずは呼び鈴を鳴らし、それから勝手にドアを開ける。開くのだから、家主はいるはずで、せっかく土産を持ってきたのだから、オレを追い返すなんてことはできないはずだ。
「こんばんはー! 遊びに来たよ、ニア!」
玄関に足を踏み入れつつ言うと、出迎えたのは呼んでいない方の家人。毎度嫌そうな顔をしている。
「レヴィ、遊びに来る暇なんかどうやって作ってるんだよ。大総統としての職務はどうした」
「よ、ルーファ。仕事ならちゃんとやってるよ。今日も面倒な案件をしっかり片付けてきた」
「それならゆっくり休めよ、自分の部屋で」
「ここの方が落ち着くんだって」
事実を述べてやると、ルーファは深いため息をついた。こいつは、ニアと二人きりの時間を邪魔されるのが嫌なのだ。でも邪魔してやらないと気が済まないのもオレなんだよね。まだニアのこと好きだし。
お馴染みとなったやりとりをしていると、奥からふわりとスパイスの香りがした。と、同時にニアがやっと現れる。
「レヴィ、いらっしゃい。お仕事お疲れ様」
「や、ありがとう。ところでいい匂いだね、今日はカレー?」
「そうだよ。食べてく?」
カレーの匂いというのは不思議なもので、食欲をいい具合に刺激してくれる。まだ夕飯を食べていないこともあって、オレは喜んで相伴にあずかることにした。
ニアが丁寧に盛り付けてくれたカレーライスは、まるで店で出しているもののようで、いつもながら見た目は良い。
「いただきまーす! ……ん?!」
だが、忘れてはいけなかった。この家には頻繁にアーシェやグレイヴ、その他いろいろな人からの食べものの差し入れがある。それはニアもルーファもまともに料理ができないからなのだ。
他の人が作った物ならいい。大抵は美味しいから。だが、たまにニアが作ったとんでもないものが出されることもあるのだった。
「……み、みず、水を……」
「ほら、水」
口の中が熱くて痛い。必死で水を求めたら、予想はできていたとでもいうように、ルーファがすぐに用意してくれた。
オレは水を口に流し込んで、少しのあいだ含んだままにしておいたけれど、口内の刺激はなかなか消えない。このカレーは、辛すぎる。激辛を通り越しているんじゃないだろうか。
「……これ、作ったの、ニアだろ……」
やっとのことで水を飲み込んで、息も絶えだえに言うと、ニアは首を傾げた。
「うん、僕だよ。でも、今日のはうまくできたと思ったんだけど」
「辛すぎる! インフェリア家基準で刺激物を作るな!」
「そんなに辛かった? ルーは普通に食べてくれたけど……」
そう言って、ニアはルーファを見る。オレもつられてそちらに目をやると、少し青くて赤いルーファの顔があった。
オレより前に、このカレーを食べてしまったんだろう。しかもきっと、皿に盛られた分を完食した。この超激辛カレーを、平気なふりをして。
「なんでもなかったの……?」
一応訊いてみた。
「もう慣れたからな」
遠い目をしながらの返事があった。これは慣れていない。ていうか、慣れちゃだめだ。
同じ家で育ったはずの、ニアの妹のイリスは、割とまともに料理ができるし、味覚も正常なのに。どうやったら兄妹間でこんなに差が出るんだろう。
「この辛すぎのカレーは、ニアにはちょうどいいんだね」
「うん。そんなに辛いかなあ」
「辛いよ!」
この味覚、どうにかならないものか。水を飲みながらなんとか皿のカレーを完食し、オレはさっきのルーファくらい深いため息をついた。
今度から、この家のカレーには気をつけよう。せめて、誰が作ったものか把握してから食べるかどうか決めよう。オレはそう誓ったのだった。
カレーだけじゃなく、ニアの料理は万事こんな感じなので、気を付けなければ。
「とりあえず、ごちそうさま。今度は唐辛子や胡椒を控えるように」
「わかった、もうちょっとだけ甘くするよ」
だからってあれに砂糖ぶち込むなんて真似はするなよと願いながら、オレは土産の包みを開ける。ニアには悪いが、口直しをしなければ。
「それじゃ、今日も飲もうか!」
「やった! レヴィの持ってきてくれるお酒、いつも美味しいんだよね」
オレとニアは酒好きだ。二人とも、いろいろな種類を楽しめる。成人してからまずハマったのは、今は首都を離れているパロットさんが作ってくれた果実酒だったっけ。
ルーファはあまり飲めないので、酒盛りをするオレたちにいつも苦笑している。「程々にな」と言いながら止めないのは、ニアの楽しみを邪魔したくないからだ。
乾杯をして、美味いワインを飲む。選りすぐりの品は、ニアに気に入ってもらえたようだった。
「レヴィが持ってきてくれるお酒は、いつもすごく良いよね。何かお礼ができればいいんだけど」
「じゃあ、今度オレとデートしてよ」
「ふざけんなレヴィ。ニアは俺のだ」
いつもどおりの楽しみが、いつもどおりに更けてゆく。こんな日常を守りたいから、オレは大総統の仕事も頑張れるのかもしれない。
でも、やっぱり、カレーは中辛程度にしてほしいな。うん。
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2015年01月04日

週一コラムの大総統

エルニーニャ王国で発行されている主要新聞には、週一のコラムとして「大総統インタビュー」がある。大総統に取材をし、小さな記事にするというものなのだが、特に真面目なものというわけではない。むしろ国民に、大総統という存在をより近く感じてもらうために、俗っぽい話題のほうが多い。
今日の見出しは、「大総統閣下の好みのタイプは『家庭的な女性』!」というものだった。イリスは寮の掲示板でそれを見て、鼻で笑った。――このコラムはあまりに俗っぽくて、しばしば事実とは異なることを前面に押し出すことがある。
そんなときは、大総統室に行った時に、笑い話にしてしまう。
「レヴィ兄。今日のコラムの見出し、絶対嘘でしょ」
一応は大総統補佐見習いという肩書を背負っている、というよりは背負わされたイリスは、頻繁に大総統室へ呼び出される。大事な仕事のときもあれば、本当にくだらない用事だったりもするのだが、大抵は雑談の時間が設けられる。
「今日のコラム? ……ああ、好みのタイプとかいうやつか」
大総統レヴィアンス・ゼウスァート――この椅子に座っているときはそう名乗ることになっている――は、コラムの話題になると苦笑しながら応じる。
「あの取材のとき、ちょうど腹減ってたんだよな。それで『料理とか作ってくれる人って良いですね』みたいなことを言ったら、ああいう見出しになった」
「やっぱり。レヴィ兄があんなこと言うはずないと思ったんだ」
記事の真偽はともかく、国民に大総統も人の子なのだと知ってもらうことが目的の記事だ。興味を引くような見出しであればいいのだろう。だが、これは新聞だ。当然のことながらそれを真に受ける人もいる。
「でもさ、良かったんじゃない。これで家庭的なお嫁さん候補、いっぱい出てくるよ」
「自称、だろ。まだ結婚する気ないし、来られても困るんだけどな。……ていうか、イリス、妬いてくんないの?」
「なんで妬く必要があるのよ。わたしはお兄ちゃん一筋だもん」
「うわ、ぶれないブラコン」
以前も似たような、けれども別のタイプをあげられて「大総統の好みはこんな人!」とやられたことがあった。そのときも「我こそは」と立候補してくる女性が次々に中央司令部を訪れ、レヴィアンスを困らせていた。今回もきっと来るのだろう。
イリスはただ、業務の邪魔にだけはなってくれるなと思っている。レヴィアンスと、というよりは大総統と結婚したい女性が何人いようとかまわないが、仕事に支障をきたすような人は勘弁願いたい。
「……実際さ、オレは家庭的な人より、自分のやるべきことに全力で取り組むような子が好みなんだよな。それこそイリスみたいな」
「ばかなこと言ってないで仕事してね、大総統閣下」
「まあ、本命はやっぱりニアだけどね!」
「好みどころかライバルじゃん。お兄ちゃんはわたしのですー」
軽口を叩きながら、しかし、イリスは思うのだ。地位とか、好みとか、そういう事は関係なく、自然体のレヴィアンスは十分魅力的だと。昔から見てきたから、よくわかる。だからもしも誰かと結ばれることがあるなら、本当のレヴィアンスをわかってくれる人がいい。
妹分としては、兄貴分の幸せが第一なのだから。
「コラムも、エスカレートしてきたら担当変えてもらわなきゃな。いつも真面目な記事のほうの記者じゃダメなんだろうか」
「エトナさん? そうだね、エトナさんだったらいい加減なこと書かないもんね。でもこのコラムは国民を楽しませるためにあるんでしょ?」
「エトナの記事も十分楽しめるし、ていうか楽しませるんじゃなくて身近に感じてもらうためのコラム欄だし」
「まあ、もうちょっと楽しませてちょうだいよ。わたしもレヴィ兄と雑談するの楽しいんだから。とにかく仕事しちゃおう、どうせあとで仕事にならなくなっちゃうんだろうしね」
新聞の週一のコラムは、国民に大総統を身近に感じてもらうためにある。けれども、現在この国を守っているその人は、そのままで十分国民に近い人なのだ。



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2014年12月07日

ある冬の日の道端で

買い物の帰りに、とある老婦人に会った。昔、仕事で関係を持った人だ。こちらのことを憶えていてくれて驚くと同時に、嬉しくもあった。
「もう軍は引退なさったんでしょう」
あれからもう随分と経っているし、その予想は大当たりだ。おれは頷いてから、改めて彼女と会ってからの年月を数えてみた。……年をとったものだ。当時はまだ、彼女ももう少し若かったと思う。もちろん、おれも。
そしてあの頃、隣にはあいつがいた。
「今は下宿をやってます。若い軍人と、学生向けに。始めて何年かはほとんど人が入らなかったんですけど、最近は賑やかです」
「まあ、そうなの。それはいいわねえ」
「よかったら、今度、旦那さんと遊びに来てください」
老婦人には、夫がいたはずだった。妻を気遣う、とても紳士的な人だったと記憶している。
けれども彼女は首を横に振り、困ったような笑顔を浮かべて言った。
「夫はもう、いないんです。先日、先に逝ってしまいました」
「……すみません」
「いいえ。寧ろ嬉しいわ、夫のことを憶えていてくれて」
あの人は控えめな人だったから、と老婦人は表情をほころばせる。その人のことを、本当に好きなのだろう。別れてしまった今でも、思い出せば幸せになれるほどに。
「一人でも、お邪魔してよろしいかしら」
「はい、是非。賑やかですから、寂しくないですよ」
「でしょうね。……ああ、そういえば、あのちょっと怖いお顔の軍人さんはお元気かしら。彼も引退したのでしょう」
おれが彼女の連れ合いを憶えていたように、彼女もまたあいつのことを憶えていてくれた。いや、忘れようがないだろう。なにしろあの強面は、軍内外で有名だったのだから。
「引退して、警備員になりましたよ。……去年、仕事で死にました」
「あら、ごめんなさい……。まだお若いのに、残念でしたわね」
あいつがいなくなったことを惜しんでくれる人がいる。それだけで十分だった。あいつも浮かばれるだろう。天国なんてものがあるなら、そこで笑っているかもしれない。
連れ合いを亡くした者同士、おれたちはしばらく語り合った。彼女の夫の話もたくさん聞けたし、こちらもあいつの話を久しぶりにすることができた。こんなに落ち着いて話せるようになったんだなと、改めて思うくらいに。
「……最後のおれの誕生日、あいつは珍しく花なんか買ってきたんです。いつもは酒なのに。あ、もちろん酒もあったんですけど」
話し続けるうちに、そんなことまで思い出してしまった。あいつが祝ってくれた最後のおれの誕生日。似合わない花束を腕いっぱいに抱えて、玄関まで迎えに出たおれに渡したんだっけ。
――誕生日おめでとさん、アクト。
あの時の笑顔は、今でも鮮明に思い出せる。
「素敵な方だったのね」
「そうですね。あの見た目からは想像できないかもしれませんが、意外と繊細で、ロマンチストだったかもしれません」
もう、あいつが誕生日に花を抱えて帰ってくることはない。二度とそんな日は訪れない。それでも少しだけ、期待してしまう。誕生日くらい、奇跡が起きないかな、なんて。
「わたくしも、もうすぐ誕生日なんですのよ。夫はわたくしの誕生日に、毎年クリスマスローズを贈ってくれたんです。時期的に近いからだったんでしょうね」
「へえ、いつなんですか、お誕生日」
「十二月十七日」
「偶然ですね、おれも同じ日なんですよ」
まあ、と老婦人は目を丸くして、それから明るく笑った。わたくしたち、素敵な運命を持っているのね。そう言っておれの手をとった。
「じゃあ、少し早いけれど言わせてくれるかしら。……お誕生日おめでとうございます、アクトさん」
「では、おれからも。お誕生日おめでとうございます」
「ふふ、やっぱり祝ってもらえるのは嬉しいわね」
「そうですね」
あいつはもういないけれど、おれが生きている限り、誕生日は巡ってくる。生まれてきて良かったのか悩んだ日々は、いつのまにか幸福な人生に変わっていた。
あいつもそうだっただろうか。おれに「愛している」と言い残してこの世を去ったあいつは、幸せな人生を送れたのだろうか。
ただひとつだけたしかなのは、おれもあいつを愛していて、それはこの先も変わらないということだ。
老婦人が夫を愛しているように。おれも命の続く限り、あいつを愛し続ける。
そうしていつか、誕生日にでも花を持って迎えに来てくれたら、それはきっと幸福な結末なのだろう。
posted by キルハ制作委員会 at 02:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 小ネタ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする