2016年12月24日

子供と宴と幸福の日々

太陽が一度死に、再び生まれる日を祝うのだというのが一説だ。贈り物はそもそも、太陽神に捧げるものだともいわれる。けれども多くの人は、諸説あるうちのほんの一握りしか知らないのだとか。今まで行事には疎かったニールでも、これくらいの知識はあって、その日と自分の誕生日は、それなりのお祝いをしてきた。
「ニール君、クリスマスのご予定は?」
でもこんなふうに、予定を人から尋ねられたのは初めてだ。

*ご予定は?*
エイマルと会うのは、大抵大きな公園か図書館だ。人の目のあるところで遊びなさいと、大人たちからは言われている。暖冬といわれるエルニーニャ中央部にもとうとう雪が降り始めた十二月の今は、専ら図書館の児童書コーナーで待ち合わせていた。
好きに本を読んだり、喋っても迷惑にならないホールで家のことなどを話したりするのが定番の過ごし方だ。今日もホールに出て、小声でのお喋りをしていたところ、エイマルが思い出したように言ったのだった。
クリスマスの予定。昨年までなら、母と二人で過ごしていた。仕事から帰ってきた母は丁寧にラッピングされた包みを抱えていて、それをニールに渡してから、いつもより時間をかけてご馳走をつくる。ささやかだけれどとても幸せな時間だった。
もう二度と、訪れることのない時間だが。
「……予定は、まだないかな。でもニアさんの実家のほうで何かやりたがってるみたい。最近よく電話が来るよ」
ほんの少し息が苦しくなったのをごまかすようにニールが笑ってみせると、エイマルは腕組みをして考え込んでしまった。
「そっか。こういうの好きだものね、ニール君のおうちの人たち。何も計画してないはずないよね。でもあたし、どうしてもニール君をクリスマスパーティに招待したいの。どうしよう?」
「パーティ?」
訊き返すと、美少女の輝かんばかりの笑顔が返ってくる。
「おばあちゃんの下宿でパーティをするの。下宿してる軍人さんや学生さんが中心になってやるんだけど、料理はおばあちゃんが作るのよ。賑やかで楽しいから、ニール君もいたらいいなって思ったんだ」
「そうなんだ。そういえば、秋に貰ったお菓子、美味しかったよね。エイマルちゃんのおばあちゃん、すごく料理上手なんだって、ニアさんたちも言ってた」
秋のイベントの時はあまり話せなかったが、エイマルがおばあちゃんと呼ぶその人は、とても綺麗な人だったという記憶がある。けれどもエイマルとはあまり似ていなかったような、と言ったら、ニールの保護者であるニアとルーファは複雑な事情を説明してくれた。
あの人は、実の祖母ではないらしい。エイマルの父を世話していた育ての親であるということで、エイマルも「おばあちゃん」と呼んでいるのだそうだ。実の祖母もちゃんといて、こちらは地方に住んでいるのでめったに会えないという。母方の祖母はエイマルが生まれる前に他界したので彼女は会ったことがないが、その人は雰囲気がエイマルとよく似ていたのだとか。そういうわけで、エイマルには「おばあちゃん」が三人いる。「おじいちゃん」も同じく三人いるのだが、健在なのは母方の一人だけだ。
「毎年おばあちゃんの下宿に行ってお手伝いしたり、一緒にご飯食べたり遊んだりしてるんだけど、いつも言われるの。お友達も連れておいでって。でもあたし、こういうのに誘えるようなお友達っていなくて……。イリスちゃんは時間があれば来てくれるんだけど、お友達とはなんか違う気がするし」
「イリスさんは友達というよりお姉さんだよね」
同年代の友達は、ニールもエイマルも、お互いが初めてだった。エイマルのほうが一歳年上だから少しお姉さんぶっているけれど、一緒に誘って同じ目線で遊べるのは、今のところお互いだけだ。エイマルは他人に臆することなく話しかけられるのに、どうしてニールだけを友達と呼ぶのかは疑問だったけれど、それを尋ねたことはない。
「ほんの少しの時間でいいの。あたしと一緒にクリスマスを過ごしてくれたら、嬉しいなって」
ただ、ニールならこんなことを人にお願いするのは、とても勇気のいることだろうと思った。ニールは、エイマルとは違うけれど。
「わかった。僕、エイマルちゃんのお友達として呼ばれるよ。エイマルちゃんのおばあちゃんが、良いって言うなら」
答えると、またぱあっと笑顔が咲いた。本当に美少女だなあ、とどきどきするニールの手を取って、エイマルは嬉しそうに言う。
「絶対に良いって。おばあちゃん、ニール君ともっとお話したかったって言ってたもの。じゃあ、約束ね。クリスマスは、あたしと一緒に下宿に行く。もう決めちゃったからね。ニール君の予定、もーらい!」
ここが図書館ではなく公園だったら、彼女は走り回って喜んだかもしれない。自分の言葉一つでこんなに喜んでくれる子がいることを、ニールは幸せに思った。
母と過ごした日々と、同じくらいに。

*窓を開けて数える*
立体のカレンダーについた窓を、十二月の最初の日から、一つずつ開けていく。クリスマスまでの日数を数えるためのそれを、ニールは今年になって初めて手にした。それも二つ。
エイマルからクリスマスパーティの誘いを受けた次の日の朝も、二つのカレンダーの窓を開けた。片方は手作り感のあふれる、少し丈夫な紙製。もう片方は来年も使えそうな木製で、裏の隅にフォース社のロゴが入っている。どちらも飾りをたくさんつけた木の形をしていて可愛らしい。しかも開けた窓からは、小さなお菓子が出てくるのだ。二つもあるなんて、一気に贅沢をした気分になる。
「あ、今日の飴同じだ」
クスクス笑いながらお菓子を机の上に並べ、それからリビングに向かうのが、十二月に入ってからの日課になっていた。
「おはようございます」
「ああ、おはよう」
「おはよう、ニール。今朝は何だった?」
「お二人とも同じ飴でした。イチゴの」
「被らないように入れたはずなんだけど、一昨日も同じだったよな。ニアと示し合わせたわけじゃないのに」
カレンダーを用意したニアとルーファは、ちょっとぎこちなく笑いあう。それぞれで用意してしまったので、十一月の終わりの日、ひと悶着あったのだった。きっと毎朝それを思い出しているのだろう。
あの日、夕飯の後の時間。ニールにとっても忘れられない思い出だ。

「お土産。といってもうちの会社で出した商品だけど」
ルーファが勤めているのは家具をデザインから流通まで手掛ける大手企業だ。定番も季節ものも評判が良く、「フォース社の家具」に信頼を置いている人は多い。そんな良いものを「お土産」と言って、自分にぽんと渡してくれて良いのか、ニールはいまだに悩んでいる。だから「開けてみろ」と言われるまでなかなか包装をとることができない。
その日も戸惑いながら包装紙を丁寧に剥がし、現れた箱を見た。側面に、中身の写真がきれいにデザインされている。白地にたくさんの飾りを描いた木の形に、1から24までの数字の書かれた窓がついているそれは、店のディスプレイなどで見たことがあった。
「カレンダー……これって、クリスマスまでのですよね」
「そう、窓を一つずつ開けてくやつ。一日一個のおまけを入れられるようになってるんだ。今中身入れてやるから、ちょっと待っててな」
ルーファが楽し気に笑って、席を立とうとした。ニールも初めて手にするものにわくわくしていた。が、二人で顔をあげて、びくりとした。
ニアが、お茶のカップを載せたトレイを持ったまま、無表情になっていたのだ。
「ど、どうしたんだ? 何かあったか?」
「すすすすすみません、こんな簡単にもの貰っちゃだめですよね」
「ううん、良いんだよ、ルーがくれるっていうなら貰いなよ。お礼はちゃんと言うんだよ」
慌てて笑顔を作ったニアが、テーブルにカップを置いていく。ルーファとニールの分だけ。カップは三つあったのに、ニアはここでお茶を飲まないのだろうか。部屋に戻って仕事をするなら、おかしくはないけれど。
「俺がこういうの持って帰ってくるの、気に障ったか?」
「そういうわけじゃないよ。可愛いね、それ。来年以降もずっと使えそうだし」
そのまま部屋に引っ込もうとしたニアを、しかしルーファは腕を掴んで引き留めた。またいつぞやのような喧嘩になるのではとニールは気が気ではなく、言わなければならないお礼もどのタイミングで言っていいのかわからず、途方に暮れて二人を交互に見る。
「じゃあどういうわけだよ。何でもないなら、あんな顔しないだろ」
「どんな顔かわからないよ、鏡見てないし」
「あ、あ、あの……僕がこんなこと言うのは差し出がましいかもしれないですけど、心配になっちゃうような顔でした」
思い切って発言したら、やっとニアがまともにこっちを見てくれた。ちょっと泣きそうな顔だった。「ごめんね」と言ってカップをテーブルに置くと、ルーファの手を振り払って部屋に行ってしまい。
「……これ、なんだけど」
緑色の樅の木に、飾りと数字が細かく美しく書きこまれたカレンダーを持って戻ってきた。紙製だが立体に組まれていて、数字の部分は窓が開くようにできている。ルーファのお土産と同じく、小さなものなら窓の中の部屋に入れられそうだ。
「すごいな、これ。よく作ったな」
「作っ……、え、ニアさんが?」
感心するルーファに驚いて、ニールはニアに目を向けた。そしてさらに驚いた。顔が真っ赤だったのだ。
「こっそり作って、明日の朝にでもニールの部屋に置いておこうかなって思ってたんだ。そしたらルーが先に持ってきちゃうんだもの、出すのが恥ずかしくて……」
ニアが器用なのは知っている。絵を描くのが仕事だし、細工物を作っていたのも見たことがある。その技術は、どうやら紙工作にまで及ぶらしい。それをどうして恥ずかしがって、隠そうとしたりしたのだろう。
「恥ずかしくなんかないですよ。すごいです」
「いいじゃないか、一点もの。しかも新進気鋭の芸術家が手掛けてるなんて、ニールはよそで自慢できるぞ」
「個人的なものだし、自慢はしないで……。サプライズ失敗したから、余計人に知られると困る。父さんならもっとうまく仕掛けるのに、僕はどうしてタイミングが悪いんだろう……」
ああ、そうか、と腑に落ちた。ニアの「仕事」は、翌朝にニールが驚くところで完成するはずだったのだ。それができなければ未完成で、つまり、完璧主義の芸術家であるニアにとっては、とても表に出せるものではなくなってしまうのだろう。
「変なところカスケードさんに似てるんだよな。ニールが喜ぶ顔、先に見たかったんだろ」
「そうだよ。まさかルーがこんなに立派なの持って来るとは思わなかったし」
「まあ、自慢の商品ではあるけど。実際秋からかなり頑張って売り込んだ。だからこそうちの分買ってきたんだけど」
ルーファが畳みかけるごとに、ニアの肩が落ちる。でも。
「ニアはニールに喜んでほしかったんだろ。俺もそうだ。タイミングとか関係なくないか?」
「……ない、ね。でも僕のは今年しか使えないよ。それならルーのほうがずっと使える」
「使えるとか使えないとかじゃないだろ。ニール、お前は? お前のだから両方とも好きにしていいぞ」
やりとりを一旦始めてしまえば、遠慮なくものを言い合えるのがこの二人なのだと、ニールでもそれはわかってきた。そのたびに戸惑うけれど、こちらの話をまったく聞いてくれないわけではない。それがなんだか本当の家族みたいだとも思う。
だから二つの思いがけないプレゼントは、感激しすぎて何を言ったらいいのか迷うくらいに嬉しかった。
「ルーファさんも、ニアさんも、いつも僕のこと考えてくれて……」
ニアに負けないくらい顔が赤くなっているのがわかる。でも照れてばかりでは伝わらない。
「あの、両方とも部屋に置いていいですか? 毎日両方開けます。ここに来てから贅沢ばっかりさせてもらってますけど、もうちょっと贅沢させてもらっていいですか?」
ルーファが満足気に頷き、ニアがニールを抱きしめる。二人で声を揃えて「もちろん」と言ってくれる。
「ありがとうございます」
その言葉は、おはようと一緒に毎日心の中で呟いている。

カレンダーが二つあることは、その翌日、十二月の最初の日にエイマルが遊びに来て、あっさり知られた。彼女は両方ともに目を輝かせ、両方とも褒めてくれた。
「一点ものと高級品かー。ニール君、いい暮らししてるね」
「うん、おかげさまで」
「あたしも毎年、お父さんにカレンダー送ってもらうの。……でも、たまには手渡しがいいな」
いつも明るく笑っているエイマルが、一瞬だけ寂しそうな表情をしたことも含めて、カレンダーの件は忘れられない記憶になったのだった。

*君のためのプレゼント*
たぶんエイマルにとって一番いいプレゼントは、単身赴任(ということになっているし、事実そう言って間違いではない)をしている父が帰ってくることなのだろうと、ニールは思っている。けれどもさすがに一国のお偉いさんを連れてこられるような権限はただの少年にはなく、当然クリスマスプレゼントは他のものを考えるしかなかった。
いつも遊んでくれるお礼を。クリスマスに誘ってくれたお礼を。とにかくありったけの「ありがとう」を何にどうやって詰め込んだらいいのかは、ニールにとって大きな課題だった。
「それでわたしに相談してくれるなんて、嬉しいなあ」
「イリスさんなら、エイマルちゃんの好きなものをたくさん知っているかと思ったんです。付き合いが長いんですよね」
「あの子が生まれたときから知ってるからね」
クリスマスプレゼントの相談をしたい、と話したら、イリスは駆けつけてくれた。秋の暮れに買い物に連れて行ってもらったときに買ってくれた、コートや手袋を使っているということを教えたかったというのもある。手袋はエイマルと色違いだが、無地なのでお揃いだとはわかりにくい。
ニールの恰好を見たイリスは「かわいい」と言いながら抱きついてきて、それから首周りに違和感がないか心配してくれた。コートの襟ぐりが少し高くなっているのだ。首に物が触れるのが苦手なニールのためにイリスが選んでくれたもので、何もないより温かいし、直接首に当たらないのでさほど気にならない。そのまま伝えると、彼女は満足気に頷いた。
「わたしもニールとエイマルちゃんには改めてクリスマスプレゼントを贈りたかったけど、今年のクリスマスはがっつり仕事なんだよね。良いものが見つかったらお兄ちゃんにでも託すよ」
「忙しいのに、今日は空けてくれてありがとうございます。あと、僕に気は遣わなくてもいいですから」
「気遣いじゃないよ、むしろ押し付け。だからそっちが迷惑じゃなければ、わたしは何でもしちゃう。しつこかったらそう言ってね」
言ってもお風呂に一緒に入るのはやめないんだよなあ、という感想は口に出さずに、ニールは曖昧に笑った。それから話を本題に戻す。
「あの、エイマルちゃんの好きなものって何でしょうか。僕が把握してるのは、色んなジャンルの本と、食べることと、それからねぁーなんですけど」
「大体合ってる。でも本はもう片っ端からニールと一緒に読んでるんでしょ? 食べ物にはあの子はすごく恵まれてるし、ねぁーグッズはダイさんから大量に送られてきてもう置く場所がない」
「そうなんです。だから余計に迷ってしまって」
さすがにイリスは現状をよくわかっていた。さらにいえばこの冬の防寒具は、彼女自身が先日に贈ってしまっている。必要なものはすでに揃っているように思えた。
だが、イリスは歩きながら人差し指を立てる。
「音楽関係のものはどうかな。エイマルちゃん、ピアノも得意だよ」
「そうなんですか? それは知りませんでした」
「アーシェお姉ちゃんに習ってたの。わたしも一時期やってたんだけど、この性格だからすぐに飽きちゃって。でもあの子は続けてた。わたしなんかよりずっときれいにピアノを弾きこなして……だから音楽は好きなんじゃないかな」
本当にエイマルという少女はなんでもできるんだなと、ニールは心底感嘆した。あれで一応は苦手なものもあるというのが、知っていても信じられない。あの木琴が鳴るような可愛らしい声で歌いながらピアノを弾いたら、多くの人が惹きつけられそうだ。
「でも音楽は……本と同じで趣味が分かれますよね。エイマルちゃんはどんな曲を弾くんですか?」
「それがね、わたしは練習用の曲しか聴いたことがないんだ。そういえば、好きな曲ってわからないや」
ごめんね、と言うイリスに、首を横に振って応えた。イリスにもわからないことはあるらしい。でも、ヒントはくれた。ニールが知らなかった情報を、やはりこの人はちゃんと持っていた。
ある店の前にさしかかり、そのショーウィンドウを見て、ニールは立ち止まる。まるで今の会話を知っていたかのように、品物が並んでいた。この季節にぴったりで、音楽が好きかもしれないエイマルが気に入ってくれそうなもの。一目で「これだ」と思った。
「ああ、可愛いね、それ」
「イリスさん、エイマルちゃんはこれも持ってますか?」
「部屋では見たことない。しかもこのタイプでしょ? よそでもあんまりないんじゃないかな」
じゃあ決まりだ。小さくて場所もとらない。物の多いエイマルの部屋にあっても邪魔じゃないのは都合がいい。ニールがそれに見入っていると、イリスが肩を叩いた。
「お店、入ろうか。一番エイマルちゃんのイメージに合うものを選ぼう」
「はい!」
店内には飾られていたもの以外にも、もっとたくさんの種類があった。イリスが店員に話を聞いたところ、どれも一点もので、同じものはないという。そういうわけで当然どれも値が張るものだったが、今まで貰ったお小遣いをコツコツ貯めていたおかげで何とかなりそうだ。
「……うん、一個なら買えそう」
「わたしも買っちゃおうかな。お兄ちゃんたちも好きそうだし、執務室に置いてもおしゃれ。ねえ、お兄ちゃんたちの分はニールとの連名で贈ろうか」
「連名ですか。僕はちょっと余裕が……でもニアさんたちにもお礼したいし……」
財布の中身を確認して、それから値札を見る。一個なら買えると思ったが、一個買ってしまうと他のものは買えなくなる。イリスに丸一日の時間をもらったのは、ニアとルーファへの贈り物も用意できたらと思ってのことだった。
考えが足りなかったか、と落ち込みかけたところへ、イリスが頭を優しく叩いてきた。
「だからこそ連名。お金は年上の余裕でわたしが出す。ニールはこのお店を見つけたんだからいいんだよ。選んでくれればなおよし」
「イリスさん、お財布大丈夫ですか?」
「こう見えて稼いでるのよ。それに、こんな素敵なものにケチるようなわたしじゃありません。エイマルちゃんの分だって、足りなければ出そうと思ってたし」
「それはいいです。……でも連名は便乗してもいいですか?」
にい、とイリスが笑う。こういう笑顔は、兄より父より、上司に似たのではないか。そうして宣言通りに、ニールが選んだものを躊躇なく買ってくれた。
エイマルの分はもちろん、ニールが自分で選び、買った。悩んでやっと決めた一つは、きっと彼女に似合うだろうという確信があった。イリスのお墨付きでもある。
丁寧に包装されたそれをそうっと抱きしめると、胸がほわりと温かくなった。
――誰かのために何かを選ぶって、こんなに楽しくて嬉しいことなんだ。
母もいつか、こんな気持ちになったのだろうか。カレンダーを贈ってくれたニアとルーファも。コートや手袋を選んでくれたイリスも。
「ニールはセンスいいなあ。この調子で、もう何軒か付き合ってくれる? 友達へのプレゼント、一緒に考えてくれたら嬉しい」
「僕で良ければ」
こんな気持ちなら、何度でも味わいたい。
もっと大人になったら自分の力で、と誓って、イリスの隣を歩いた。

*聖夜の宴*
中央司令部に近い下宿には、冬も暖かい光が灯っている。エイマルは朝から行って準備を手伝っているというので、今日の待ち合わせは現地になった。
クリスマス当日。カレンダーの窓も開け切った日、外には雪が積もっていた。人々はどこか浮足立っていて、今月に入ってから賑やかになった街の装飾は一層立派に見える。日が暮れると、イルミネーションが色とりどりの表情で、家へ向かう人々を見送っていた。
「それじゃ、下宿のみなさんによろしくね」
ニアはたくさんの手作りクリスマスカードを持たせてくれた。コピーで申し訳ないけど、と言っていたが、正真正銘の最新作だ。下宿にはニアの絵のファンもいたはずだから、きっと喜ぶだろう。
緊張して下宿の呼び鈴を鳴らす。するとすぐに戸が開いて、エイマルが飛び出してきた。
「ニール君、いらっしゃい! 待ってたよ!」
「こ、こんばんは。今日はお招きいただきありがとうございます」
エイマルはエプロンを着けていた。髪は高いところで結っている。料理を手伝うときの恰好だ、と思ったときには、もう家の中へ連れ込まれていた。
美味しそうな匂いが、家中を満たしている。かと思えば、リビングは木の匂いがする。大人の背丈くらいの樅の木が、きらきらした飾りを纏っているのを見て、溜息が漏れた。
「みんなー、ニール君来たよ!」
エイマルの呼びかけで、そこここに散っていた下宿人が集まってくる。全員が私服だったが、いつもは学生だったり軍人だったりする人たちだ。口々に「いらっしゃい」「よく来たね」と笑顔で言ってくれるので、ニールは律儀にひとりひとりに「こんばんは」と返した。
「エイマルちゃんが友達連れてきたのって初めて?」
「いや、この子秋にも来たよ。お菓子貰いに」
「私のこと憶えてる? 一緒にインフェリアさんの絵の話したよね」
覚えのある下宿人の顔を見て、カードのことを思い出した。取り出して配ると、やはり喜んでくれた。ニアの絵のファンだという人は、悲鳴のような声をあげながら仲のいい下宿人の背中をばんばん叩き出すほどだった。
「騒いでるのは誰? ミキ? 暴れてツリーを倒さないように」
嬉しい悲鳴に反応して現れたのが、こちらもエプロン姿のユロウだった。ニールを見ると、呆れた表情が笑顔になる。
「いらっしゃい。エイマルの我儘に付き合ってくれてありがとう」
「こんばんは。あの、我儘とかじゃないです。僕はエイマルちゃんに誘ってもらって……」
「うん、それならそういうことにしておこう。でもこの子、父親に似て強引なところあるから、断るときははっきり言ってあげてね」
「叔父さんの意地悪。今日そんなこと言わなくてもいいじゃない」
エイマルが頬を膨らませると、みんなが笑ったり、ユロウを宥めたりする。いつものことだよ、とニールに教えてくれる人もいた。喧嘩じゃなくて懐いているようなので、その通りなのだろうと頷く。
そうしているうちに、足元にねぁーがやってきた。この家に住むねぁーたちは、やはり簡単には見分けがつかない。下宿人たちも「長くいるけどぱっと見じゃ判断できない」という。ここにいる人ですぐに名前がわかるのは下宿の主とユロウ、そしてエイマルだけのようだ。
「この子はブラドベリ。ちょっと気難しいんだけど、ニール君のことは気に入ったみたい」
「本当? 触っても大丈夫かな」
「ブラドベリから近づいてきたんだもの、大丈夫よ」
ちょっと屈んで、そうっと丸い頭を撫でてみる。しっとりした手触りが気持ちいい。ねぁーものんびりとした鳴き声をあげた。
「やっぱりニール君が好きなんだわ」
「ブラド様、まだ懐いてない人もいるのに。すごいね、君」
思わぬところで褒められて、ニールはちょっと照れた。ねぁーはさらにすり寄ってくる。しばし遊んでいると、ユロウが慌てたような声をあげた。
「しまった、母さん一人で作業してる! エイマル、戻るよ」
「はーい。ニール君、ちょっと待っててね」
手を振りながら台所へ去っていくエイマルを見送り、ニールはねぁーとのふれあいや周りの人たちとのお喋りを続けた。人見知りだと自覚している自分がこんなにたくさん喋れることに驚きながら。

テーブルの上にご馳走が並んだ。ついでに床にも、ねぁーたちのためのご馳走が並べられている。メインの肉料理はもちろん、サラダもスープも、何もかもが美味しそうだ。自分の皿に自由に取っていいと、ユロウが説明してくれた。
「というか、そうじゃないと食べられないからね。遠慮してたらなくなっちゃうよ」
「き、厳しいんですか」
「ニール君の分はあたしが取ってあげるよ。苦手なものってないよね?」
これだけの人数に、いちいちかまっていられないのだろうということはわかる。そしてエイマルに甘えてばかりいたら、彼女の分がなくなってしまうというのも理解した。
「大丈夫だよ、僕は自分でいただくから」
「でも欲しいものがあったら、近くの人に頼んでいいんだよ。あたしでも、他の誰かでも」
いつもそうだから、とエイマルは笑う。いつもより楽しそうな笑顔だ。ニールが世話になっている家の人たちに負けず劣らず、彼女もこういうお祭りが好きなのだと、改めて感じる。
「飲み物は行き渡った?」
尋ねてきたのは、さっきまでずっと台所に詰めていた、下宿の主だった。秋以来で顔を見るその人は、やはり美人だ。見ただけでは年齢不詳だが、エイマルの祖父の一歳上らしい。
「注いでもらいました」
ちょっと戸惑いながら返事をすると、そう、とさらに綺麗に微笑んだ。
「じゃあ大丈夫か。乾杯するよ。今日は誰が音頭とってくれるんだ」
「はい、俺がやります! えー、クリスマスを祝し、アクトさんの料理に感謝して! 乾杯!」
周りの乾杯の声に少し遅れたニールの頭を、その人は優しく撫でてくれた。この手がいつもエイマルを撫でているのかと思うと、ほんの少しだけ羨ましくなる。もう多くの手に触れられるようになったというのに、今触れた手にはどうしても母を思い出してしまって、欲が出た。
「あ、つい撫でちゃったけど、嫌だった? 小さい頃のユロウ思い出して、つい」
「いいえ、嫌だなんてことないです」
「そう、よかった。料理取っておいで。届かなければ、そこらへんにいるお兄さんやお姉さんに頼むといいよ」
下宿人たちは、すでに料理を好きな分取り分けて、適当な場所に座ろうとしていた。それでもニールがテーブルの傍に近づくと、すぐに戻ってきて、あれこれと世話をやいてくれる。エイマルも一緒になって、ここぞとばかりに年上として振る舞おうとしていた。彼女がニールに対して「お姉さん」でいたがる背景には、ここの人たちの存在もあるのかもしれない。
「ニール君、サンドイッチは四種類だよ。二つだけでいいの?」
「一度にたくさんは食べられないよ。美味しそうだから、ちゃんと味わって食べたいな」
「エイマルは大食いだからってたくさん取りすぎ。少しはニールを見習ったら」
「大食いじゃないもん。叔父さん、意地悪ばっかり言うんだから」
それでも皿の上が少しは気になったようで、エイマルはそうっと自分の皿がニールの視界に入らない位置に持って行こうとした。そんなの気にしないでたくさん食べたらいいのに、と思えども言えず、ニールはただただ苦笑する。だがその顔は、サンドイッチを口に運んだ瞬間に嬉しい驚きに変わった。
「美味しい!」
「ね、たくさん食べたくなるでしょう。これはね、あたしが玉子の味付けしたの」
「エイマルちゃんが? すごいなあ、いつもお手伝いしてるんだよね」
ちょっと照れたように笑ったり、ユロウにからかわれてふくれたり、エイマルの表情はころころと変わる。きっと料理を手伝っているときは真剣だったんだろうと想像できる。何事にも全力の彼女なら、そうに違いない。
ゆっくり食事をしながら、動き回るエイマルを眺めていると、ふと視界に入ったものが気になった。棚に並ぶ写真立てに、四人の人物が映った写真がある。そこにいる一人が下宿の主であるアクトだとわかれば、自然と一緒にいる子供たちも予想がつく。幼い頃のエイマルの父と、ユロウだ。ただもう一人、エイマルの父に似ているがほんの少しだけ恐い顔をした人だけが、誰だかすぐにはわからない。
「どれ見てるの?」
視線の先に気がついたらしいエイマルが、隣に戻ってきた。皿にはさっきとは違う食べ物が載っている。
「ええと……エイマルちゃんのお父さんたちの、昔の」
「持って来る」
皿を置いて、エイマルは素早く棚に向かい、いくつかの写真を持ってきた。さっき見ていたものもちゃんとある。指をさして教えると、一人ずつ丁寧に紹介してくれた。
「これがお父さん。軍に入ったばっかりの頃って聞いたから、十歳くらいかな。でもちょっと大人っぽいでしょ。こっちはユロウ叔父さん。小さい頃はこんなに可愛かったのに、今はあたしに意地悪ばっかり。それからおばあちゃん。今より若いよね。……で、この人がおじいちゃん」
さっきわからなかった人に指先で触れ、エイマルは笑顔のまま言った。
「あたしは、一度も会ったことないの」
そうだ、知っていたじゃないか。エイマルには、会ったことがない祖父がいる。彼女が生まれる前にいなくなってしまった人が。
「おじいちゃんね、大総統補佐やったことあるんだよ。イリスちゃんと同じだね。軍ですごく強かったから、辞めたあとは警備員になったんだって。それで、博物館の警備をしてるときに事件に巻き込まれて、亡くなったの」
表情をそのままに、淡々と、その言葉を口にする。ニールがまだ、言うと胸が痛くてたまらなくなる言葉だ。
そういえば、エイマルに初めて会った場所は、博物館だった。祖父が亡くなった場所を、彼女は案内してくれたのだ。ニールにずっと笑いかけながら。
「……エイマルちゃん、つらくないの? 博物館に行くのとか」
「あたしが生まれる前のことだから、つらいとかあんまり思わないなあ。でもね、おじいちゃんが護ってた場所、あの『赤い杯』のあるコーナーに行くと、いつも考えるよ。会ったことないけど、たしかにここにいた人は、どんな人だったんだろうって。育ての親だからお父さんと直接の血の繋がりはないんだけど、ちょっと似てるでしょう。もしかして性格もそうなのかなって……」
細く白い指が、写真立ての上を滑る。幼い父の上で指先が止まった。
「だけど、よく考えたら、あたしってお父さんの性格もちゃんとわかってないの。おじいちゃんと違って同じ時間を生きているはずなのに、お父さんのことをよく知らないの」
声の調子が、注意しないとわからないくらい微かに、沈んだ。ニールが写真から顔をあげると、エイマルは笑顔のままだったけれど、さっきまでとは違って寂しさが滲んでいる。
「お父さんって呼べるようになったのも、去年くらいからなんだ。それまでずっと、おじさんって呼んでた。大変な仕事をしてるから、他人みたいに振る舞わなくちゃいけなかったの。何度会いに来てくれて、たくさんのお土産をくれても。あたしが本当はあの人はお父さんなんだって知ってても」
エイマルの部屋にはたくさんのねぁーグッズがある。どれも父から贈られたものだが、おそらくはエイマルが父を父と呼べなかった頃からずっと贈られてきたのだ。エイマルはそのたび、どんな気持ちで礼を言ってきたのだろう。
お父さんと呼べるはずの今でも、こんなに寂しそうなのに。
「だからやっぱり、おじいちゃんのこともよくわからないの。おばあちゃんは、恐い顔してるけど優しい人だよって教えてくれるんだけど」
うまく説明できなくてごめんね、とエイマルは立ち上がる。写真を棚に並べ直す後姿は、背中がまっすぐだった。いつだって笑顔で、背伸びをしている。泣き方を知らないんじゃないか、と思うほどに。
生きたまま離れているのと、死に別れてしまうのと、どちらが悲しいかなんて比べてはいけない。きっとその尺度は人によって違うのだろう。悲しみ方、寂しさの表し方だって、いろいろある。そうと知っていても、ニールの心のどこかで叫ぶ声がある。――また会えるんだから、エイマルちゃんはいいじゃない。それに気づいて、唇を噛んだ。
「どうした、ニール。具合悪い? 何かアレルギーとかあった?」
下宿の主――アクトが慌てて、けれども静かに駆け寄ってくる。首を横に振り、なんでもないです、と言ったけれど、声が震えた。表情も歪んでいるのが自分でわかる。
見兼ねたのか、アクトが小さく息を吐いた。
「ちょっと場所を変えようか。おいで」
きっとこんな顔はこの場に相応しくないからだ。ニールは言われるままに、アクトに連れられて行った。

きちんと整えられた部屋は、ほのかに漂う石鹸らしい匂いで、アクトの自室だとわかった。けれども元は一人分の部屋ではないというのも、家具の大きさなどから判断できる。
「この下宿も人間関係とかいろんなことで悩んでる子が多いんだ。だからここは相談室。誰でも本音を言っていい場所なんだよ」
柔らかいクッションを置いた椅子に座らせてもらう。と、膝の上にねぁーが飛び乗ってきた。いつのまにかついてきていたようだ。その子はエリック、とアクトが教えてくれる。
「エイマルが写真見せてたみたいだけど、何か思い出しちゃった?」
「えと、そうじゃなくて……写真は、僕が見てたから、エイマルちゃんが持ってきてくれたんです。おじいさんのこととか、教えてもらって」
「顔恐くなかった? 昔はすぐ子供に泣かれたものだったけど」
「優しい人だって教えてもらったので、そんなに。それよりエイマルちゃんが、お父さんに会いたそうで……」
それを羨ましく思った、なんて言ったら、軽蔑されるだろうか。この人はエイマルの祖母だ、怒るかもしれない。そう思うと続きは言葉にできなかった。
少しの間があって、ねぁーが小さく鳴いてから、アクトがぽつぽつと語りだした。
「生まれたときと、あとは年に数回かな。エイマルが父親と過ごせた時間ってそれくらいなんだ。なにしろ他国軍の上層の人間だから、なかなかこっちに来られなくて。それなのに親子だって認識はあるんだ、お互いにね」
ほんのわずかな時間しか会えないのに、泣き言を口にせず、笑顔で父を待つエイマル。何でもできる上に心が広いなんて、よくできた子だ。ニールのそんな考えを呼んだかのように、アクトが続けた。
「できすぎてるよね。おれだったら帰ってこないで物ばっかり送ってくるような人は、とても父親だなんて思えないけど。でもエイマルには、ちゃんと仕事を頑張って、時間を見つけて会いに来てくれる、お父さんなんだよ」
「……それは、本当にすごいことだと思います。エイマルちゃんも、お父さんも。会えるから、いいなあって……」
滑った口を慌てて押さえた。さっきまで言葉にできなかったことが、こんなにするりと出てきてしまうなんて。どうしよう、怒られるかも、とぐるぐるし始めた頭を、けれども優しい手が撫でた。
「羨ましいよね。忙しいって言いながら、生きて帰ってきてくれる人がいるのは。おれは三歳のときに両親失くしてて、ついそう思っちゃうんだよ。帰ってくるどころか物を送ってくることもない、顔もあんまり記憶にない。どんな形であれ、ちゃんと親子でいられるあの子たちが、羨ましい」
「でも、エイマルちゃんは寂しそうです。だから僕は、羨ましがっちゃいけないんだと思ってました」
手が離れると、言葉が止まらなくなる。零れた言葉は、掬われる。
「羨ましがるくらい、いいんじゃない。エイマルだって、ニールのこと羨ましがってた。カレンダー貰ったんだって? 直接手渡ししてくれて、しかも二つもあるなんていいなあって、ここで言ってた」
「それは……僕もちょっと自慢したので」
もしかして、それもエイマルに寂しさを感じさせていたのだろうか。だとしたら、申し訳ないことをした。そんなふうに考えるニールに、アクトは微笑んだ。
「いいんだ、来年も見せてやって。エイマルの話には続きがあるんだよ。ニールが幸せなのがわかって良かった、大変なことがあったんだからもっと幸せになってほしい、って。ニールに母親の話を振ってもいいのか迷ってたこともある。エイマルにとってニールは初めての同年代の友達だから、あれで付き合い方を考えてるんだよ。ニールと同じ」
「同じだなんて。エイマルちゃんのほうが良い子です」
「お互いにそう思ってるんだ。似たもの同士が仲良くなったな」
全然似ていない。エイマルはいつも笑っているのに、ニールはなかなかうまく笑えない。つらいことや嫌なことはすぐ顔に出る。あんなに明るく振る舞えない。そういう意味で首を横に振ったら、少し暗くなった声が返ってきた。
「エイマルは、笑い方だけ覚えちゃったんだ。これはおれたち大人のせいでもあるけど」
「……笑い方、だけ?」
顔をあげると、困ったように口元だけで笑う人がいた。
「周りが大人だらけの中で、大人を心配させまいとしてきたんだ。つらいときでも、それを言わずに笑ってしまう。悪いことじゃないけどさ」
たしかにエイマルはどんなときでも笑っている。笑っていることのほうが圧倒的に多いし、それが彼女の魅力だとニールも常々思っている。だけど。
「本当に笑い方だけですか? エイマルちゃん、怒ったり怖がったりもしますよ。泣いてるところはまだ見たことないけど……それはたぶん、僕の方が先に泣きそうになるからです」
アクトが言うほどではないだろう。ニールはともかく、イリスならもっとエイマルの表情の変化を見ているはずだ。それをこの人が知らないなんて、そんなことがあるだろうか。
不思議に思っていると、ふきだす声がした。
「ごめんごめん、意地悪なこと言った。なんだ、ニールはわかってるじゃん。それだけエイマルのことわかってくれてるなら、変に気を遣いすぎなくていいことも、もう知ってると思うけど」
途端にニールの脳裏をよぎったのは、エイマルに意地悪ばかり言うユロウと、会うなりこちらに嫌味のような言葉を投げてきたエイマルの父ダイの姿だった。大人に対して失礼かもしれないが、もしや彼らのたちの悪さはこの人譲りなのではないか。
「僕、真剣だったのに……どうして意地悪なんか言うんですか! 僕がエイマルちゃんのこと誤解したらどうするつもりだったんですか?」
「万が一そうなったら訂正するつもりだったよ。でも誤解しないだろうって思ってた。これからも変わらずエイマルと友達でいてくれるだろうって」
「友達はやめません。エイマルちゃんは明るくて優しい良い子です。強引なところもあるし、おばけは苦手だけど、僕はそれにも付き合います。もう意地悪なんかに惑わされないで、自分でエイマルちゃんのこと考えます」
言い切ってから気づく。今、何も考えていなかった。ただ思いつくままに言葉をぶつけてしまった。相手は大人、しかも祖父母の年代の人だというのに。
急に顔が熱くなって、たぶん赤くなっているなというのがわかった。でも不思議と、手が冷たくなったり、頭の先から血の気が引くような感覚はなかった。
「ぜひそうして。自分で言ったこと、忘れないようにね。おれはずーっと覚えてるから」
忘れられそうにない。忘れちゃいけないことを言わされた。抗いようがない、まるで魔女の誓約書だ。
この人が本当は女の人ではないということも、ニールは知っているけれど。

怒りと疲れと恥ずかしさとを抱えてリビングに戻ると、テーブルの上にケーキが現れていた。丸太を模ったタイプを、とても大きくしたもので、本当に切りだしてきたかのような迫力があった。
大きな声を出してしまったからかお腹が空いている。ケーキは十分に食べられそうだった。
「どこ行ってたの、ニール君。残してたご飯食べる? もうケーキ出てるけど」
「食べる」
残したものをきれいに片付けて、ケーキが切り分けられるのをエイマルの隣で待った。さっきまでの寂しそうな表情はどこへやら、今の彼女はケーキに目を輝かせている。
悩んだことを無駄だとは思わない。エイマルとの付き合い方を考えるきっかけにもなったし、きっとこれからも役に立つ。次からは、余計に考えすぎずに済みそうだ。
「エイマルちゃん」
「なあに? ケーキの大きさの注文ならこれからとるよ」
「違うんだ。……あの、ユロウさんってお母さん似だよね。エイマルちゃんのお父さんも」
「そうかな。叔父さんはホワイトナイトのおばあちゃんにもこっちのおばあちゃんにも似てるんだけど、お父さんはどうかなあ」
「似てると思うよ。僕の個人的な感想だけど」
エイマルは首を傾げていたが、やがてケーキに目を戻した。それから。
「ニール君が言うなら、そうなのかも。じゃあ寂しくなったら、いつもどおりにここに遊びに来たらいいね」
我慢していたと思っていた言葉を、さらりと口にして、また笑った。
「エイマル、ケーキ切るの楽しみにしてたでしょう。やる?」
「やりたい! ナイフはチェーンソーの形のがいい!」
ユロウが声をかけると、エイマルは勢い良く手を挙げて立ち上がる。もう片方の手は、ニールの手を握っていた。
「え、そういうのあるんだ……」
「あるんだよ。ねえ、ニール君も一緒にやろう!」
「いいの? 責任重大なんじゃ……」
「だから道連れ。切り間違えると叔父さん怖いの」
エイマルの強引さは、父譲りな気がする。彼女がわからないと言っても、離れている時間が長くても、ちゃんと受け継がれているものがあるようだ。今度、それを教えてみようか。
「ニール、一応確認。エイマルとケーキ切ってるところ写真に撮って、この子に持たせていい? 年明けには父親の目に触れることになると思うけど」
「え、それは」
「写真はちゃんと撮ってね、叔父さん。記念にするんだから」
「はいはい、初めての二人の共同作業だからね」
「あの、ユロウさん確信犯ですか? 僕、顔赤いと思うので、色々と誤解が」
教えて喜んで、さらにその気質が強まるようであれば、止められるのはきっと自分だけだ。そのためにももっと強くなろうと、少年は再び誓う。

*今日が終わる前に*
そろそろ子供たち帰さなきゃね、とユロウが言った。壁掛け時計は、いつもなら寝る準備をする時間を指そうとしている。
「エイマルちゃん、泊まらないの?」
「家でおじいちゃんとお母さんが待ってるから。お父さんから何か届いてるかもしれないし」
それが毎年のことなのだという。次に親戚が集まるのは年始だが、やはり父は忙しいので、時期をずらして帰ってくるのだそうだ。
「お父さんからのプレゼントは手渡しで欲しいって言ってたよね」
「うん、でも帰ってきたらお土産くれるからいいの」
行事ごとと、年に数回の帰宅。エイマルの父との思い出は、そうして積み重なっていく。その一つ一つを大事にしている。ずっと部屋にとってある贈り物は、その形だ。
これも今夜の思い出として、持っていてくれるだろうか。ニールは鞄から手のひらに載るくらいの箱を取り出し、エイマルに差し出した。
「これ、今日のお礼に。エイマルちゃんが誘ってくれたおかげで、すごく楽しかった。ありがとう」
「あたしに? こっちこそありがとう」
箱を受け取り、エイマルは目の前で包装を解いた。ニールのように、開けてもいいかどうか確認をすることはない。すぐに反応を確かめられるのはいいが、緊張する。
「わあ、可愛い!」
中を見たエイマルが、歓声をあげた。それを店で見つけたニールと同じ感想だ。
ついているネジを、本体を逆さにして回し、元に戻す。するとオルゴールの音色とともに、ガラスの球体の中に雪が舞い始めた。赤と白の花が中と台座に咲き乱れるスノードームを、エイマルはうっとりと眺める。
「イリスさんに相談して、一緒に選んでもらったんだ」
「そうだったの……。こんなに素敵なもの、本当にありがとう。今日の写真と一緒に、机の一番目立つところに飾るね」
嬉しそうで幸せそうな笑顔に、ニールは少しだけエイマルの父の気持ちがわかった気がした。こんなふうに笑ってくれるなら、何度だって贈り物をしたくなる。――物だけ送ってくる父親、ではないのだろう。だからエイマルは父が好きで、きっと父もエイマルのことをとても愛しているのだ。
ニールの母がそうしてくれたように、そして今世話になっている人たちがそうしてくれるように。

家に帰ると、ニールにもプレゼントが待っていた。服が一式、読みたかったハードカバーの新刊、遊園地のチケット、それから新品の本棚。小さいものから大きいものまで、一つずつニアとルーファが説明をつけてくれた。
「服は僕の実家。新年の挨拶のときにでも着て行ってあげると喜ぶと思う。本はイリスが置いていった」
「遊園地のチケットは俺の実家から。たまには三人で遊んで来いって言われた。で、本棚なんだけど、これは来年からうちで売り出す商品」
「来年からって、そんなの貰っていいんですか?」
「売り出すまで緊張してるよりは、先にニールに使ってもらって慣れておこうと思ってな。俺がこの人気作家様に頼み込んで実現したアートコラボレーション企画第一弾だ。意見感想は随時受け付ける」
「ルーとの仕事、楽しかったよ。というわけでこれは僕らから」
テーブルにはスノードームが飾ってある。本と一緒にイリスが置いていってくれたのだろう。そのお返しとしては大きすぎるような気がしたが、余計な言葉はもういらない。
「ありがとうございます。ここに来てから、お母さんと暮らしてた頃と同じくらい幸せなことが続いています」
「こっちこそ。うちに来てくれてありがとう、ニール」
「これからもよろしくな」
毎日を大切に過ごして、あの子のように笑いたい。



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2016年12月03日

十二月三日のデート

「母さん、デートしようか」
受話器の向こうから聞こえる声に、シィレーネは固まる。
デート。久しくその単語を聞くことがなかった気がする。夫であるカスケードは秋から忙しくなり、部屋に一日籠ることもあった。現大総統であるレヴィアンス(息子の友達ではあるが、立派になったものだ)の相談を受けたり、過去に大総統を経験しているハルと話したり、他にも多くの仕事を自室の電話を使ってしている。重要で大きな仕事には、シィレーネは関われない。元軍人ではあるが、難しい話はわからないし、もちろん建設的な考えを述べるなどもってのほかだった。禁止されてはいないが、自分の頭では到底追いつけないので、しないようにしている。
忙しくなる前はどうだっただろう。やっぱりデートはあまりしていない。せいぜいが毎日の生活のための買い物で、そのついでに散歩をするとか、軽食を奢ってもらうとか。まあ、デートと言えないこともないけれど、そう表現したことはない。
それが突然、実の息子から告げられた。
「デート……? どういうこと?」
「最近ずっと父さんが忙しいから、母さんも気疲れしてるんじゃないかなと思って。たまには気分転換しようよ」
「でもそんなの、お父さんに悪いわ。大変なのに」
「そろそろ落ち着いてくる頃のはずだよ。僕が誘うんだから、父さんのことは気にしなくていい」
でも、と返しながらも、シィレーネの胸はどきどきと鳴っていた。こんな誘いはいつ以来だろう。この年になってもまだときめくことがあるらしい。
「ね、決まり。三日に出かけよう。家まで迎えに行くから」
しかもその日は。「待って」という一言も発せないまま、予定を決められてしまう。カスケードに報告するべきかと思ったが、今も何やら書きものをしているようなのでやめておいた。仕事の邪魔にならないのがシィレーネの仕事だ。誰もそう言わなくても、自分自身がそう思っていた。

十二月三日、ニアは予定通りに家に迎えに来た。予想外だったのは、イリスも一緒だったことだ。
「イリスも行くの?」
「違うよー。わたしはお父さんに話があるの。レヴィ兄のおつかい」
現役の軍人で、しかも大総統補佐であるイリスは、カスケードとも仕事の話ができる。自分よりよほど役に立つであろう娘が、夫と一緒にいてくれるのは心強い。
「だからお兄ちゃんとのデート、楽しんできてね。いってらっしゃい」
「ええ……。じゃあ、行ってくるわね。家のこと、頼んだわ」
「大丈夫だよ、イリスはしっかりしてるから。ほら、行こう」
いつのまにかシィレーネより大きくなった手が繋がれる。なんだか昔を思い出して、頬が熱くなった。
手を繋いだまま、街を歩いた。あちこちを見て、途中で入ったブティックではワンピースを試着した。ワインカラーの、落ち着いた雰囲気の服だったけれど、気持ちは若返ったようだった。年甲斐もなくはしゃいでいると、ニアが嬉しそうに笑って、そのままワンピースを買ってくれた。「着たまま行こう」とまた手を繋ぐ。
「寒くない?」
「寒くはないけど……ねえ、いったいどうしたの? デートなんて言いだしたり、手を繋いだり。服だって、結構なお値段だったわよ」
「僕がそうしたいからしてるんだよ。値段とか言いっこなし。これでも人気画家だからね」
「それは知ってるわ。よーく知ってる」
子供たちの活躍なら、ほとんど全部知っている。話してくれないこと、教えてくれないことがあっても、どこからか情報は入ってくる。それくらい名前を知られた子たちなのだ。
自分の子であることが自慢だった。自分の子だと言えることが自慢だった。でも優しい子たちに育ってくれたのは、自分がそうしたからではなく、子供たちが自らそうなったのだ。
あるいは、父に倣ったか。
「せっかくだから髪型も変えて、お化粧ももっと華やかにしよう」
「今から? そこまでしなくても……」
「もう美容院予約しちゃったんだ。お願い、僕の我儘に付き合って」
この手際の良さは、やはり父似だ。改めて思い、頷いた。

ここがゴール、と連れてこられたのは、レストランだった。身なりを整えなければ来られない、高級なところだ。建物を見上げていると、ニアが楽しげに言う。
「ここも予約してある。僕じゃなくて、イリスがしてくれたんだけど」
「お食事まで準備してあるなんて、さすがね。最高の誕生日プレゼントだわ」
「あ、気付いてた?」
十二月三日は、シィレーネの誕生日。毎年家で祝ってもらっているのだから、忘れるはずがない。けれどもニアはまだ、いたずらっぽい笑みを浮かべていた。タネがあかされたというのに、どうして。
「これで終わりじゃないし、僕は普段着だから店には入れない。じゃあ、母さんは誰とデートを締めくくるんだろうね?」
そういえばそうだ。ニアは普段から来ているセーターにコートを羽織っただけで、この店のドレスコードに合っていない。引き継ぐ相手がいるとするならば、それは。
「お兄ちゃん、お待たせ」
イリスの声がする。とっさに振り向くと、目に入ったのは長身の、背広姿の男性。顔を顰めながら適当な服を着て、慌ただしく仕事を重ねていたその人は、見違えていた。
「やあ、シィ。綺麗な恰好してるな、よく似合ってるよ」
穏やかに微笑み、カスケードがこちらに手を伸ばした。
「あなた……カスケードさんこそ、どうしたの」
「イリスが、たまには仕事のことを忘れてゆっくりしろって。今日はシィの誕生日だし、な」
息子と娘は目配せをしている。最初から共犯だったのだ。人が驚き喜ぶ顔が好きなのは、やっぱり父似なのだった。カスケードもこういうサプライズが好きな人だ。
「あとは二人でごゆっくり。お兄ちゃん、次はわたしとデートね」
「はいはい、イリスもお疲れ様」
「家族で一緒に食事できるようにしておけば良かったのに」
「父さんは母さんを放って仕事してたんだから、今日くらいは母さんを特別扱いしなよ」
兄妹が仲良く手を振って、遠ざかっていく。空いてしまったシィレーネの手を、今度はもっと大きく厚い、そしてほんの少し硬い手がとった。
見上げれば、昔と変わらずかっこいいと思う、けれどもやっぱり少しは年を感じるしわが刻まれた笑顔。
「じゃあ、行こうか。レディ」
「もうそんな年じゃないわよ」
「俺からすればいつまでもレディはレディだ。俺たちのデートをしよう」
そうだった。この笑顔に、一目惚れしたのだった。少女だったあの頃に。
今夜だけは、戻ってもいいだろうか。



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共歩の結

久しぶりの匂いがする。絵の具と布と木と、他にもいろいろな温かいものが混ざった、昔馴染みの優しい匂いだ。室温もちょうどよく、寒い外からやってきた体を包んでくれる。
それなのに、どうして。
「聞きたいことは山ほどあるんだけど、先にやっておいたほうがいいかなって思うんだよね」
正面に座している兄は、冷笑を浮かべているのだろう。
「やっておくって、何を?」
「それはもちろん」
おそるおそる尋ねたイリスに、ニアはふんわりと微笑む。けれども知っている。これは油断して口に放り込めば激しい頭痛に襲われる、いわばかき氷のようなものなのだ。
「ね、レヴィ。選ばせてあげるよ。右と左、どっちの耳から毟られたい?」
「毟るなよ! 怒ってるなら怒ってるってちゃんと言え! こっちも色々事情があったんだよ、ホント悪かったってば!」
レヴィアンスはあわてて両手で耳を押さえる。以前なら長い髪ごと押さえていたのだが、もうそれができない。すっかり短くなった、けれどもやっぱり人よりは癖っ毛で量の多い髪に、イリスもまだ慣れていない。しばらく直接顔を合わせていなかった兄たちなら、なおさらだろう。
「お兄ちゃん、今回は怒らないであげてよ。レヴィ兄、本当に大変だったんだよ」
「知ってるよ、そんなの。あんなことして、大変じゃなかったわけないじゃない。今日うちに来てくれたのだって、僕の予想より早かったくらいだ」
ニアの笑顔が解けて、かわりに眉根がきゅっと寄る。それを横で見ていたルーファが、仕方ないな、と言いたげな笑みを見せた。
「ずっと心配だったんだよ。でも俺たちじゃもう、力になってあげたくてもできないだろ。自分がもどかしかった。もうちょっと軍にいたら何か違ったかなって思ったこともあった。……でもさ、結局、そんなの何遍考えたって仕方ないんだよな。俺たちはもう、自分の道をとっくに選んじゃってたんだから」
な、とニアに確かめると、こくりと頷いた。眉間のしわは怒っているのではなく、泣きそうになるのを我慢しているのだと、イリスは気づいた。
だってたぶん、自分も同じような顔を、何回もしてきたのだから。
「おかえり、イリス、レヴィ」
顔をあげたニアは、目を潤ませながら、今度はちゃんと笑っていた。
「ただいま、お兄ちゃん。遅くなってごめんなさい」
「……ここオレの家じゃないけど、一応ただいま。妹さんはちゃんとお返ししましたから」
「そんなの当然のことでしょう。レヴィには僕らに話せるだけのことを話してもらわないと」
温かくて、賑やかで、落ち着く場所。イリスたちはやっと、日常に戻って来られた。ここに来てようやく、それを実感できたのだった。


公会堂での戦いが終わった直後、関係各所へ手早く連絡がまわり、まずはエルニーニャの家々に夜の明かりが戻った。電気が止まっていたのは約一時間だったが、様々な面で支障が出ることは免れなかったし、何より国民が混乱していた。そして電気が復活しても、テレビは一時間前の続きを映すことはなかった。
その後のニュースや翌日の新聞は全国規模の停電とその影響について報じ、予定されていた大総統演説にはほとんど触れなかった。しかし人々は「演説はどうなったのか」と不信感を募らせていた。そのために三日前から準備をしてきたのだから。
「鳴りっぱなしだな、電話。電話番には本当に迷惑かけるよ」
戦いの後、足に怪我を負ったレヴィアンスは、他の負傷者とともに病院へ搬送された。両足には大剣の刃が斬りつけた浅くない痕があったが、幸いにして歩けなくなるようなものではなかった。だからこそ明朝には、大総統執務室で仕事を再開していたわけだが。
けれども、痛まないはずがない。立ち上がるたびにちょっと顔を顰めるのを、イリスは見逃していなかった。切られた髪を短く整え直したおかげで、レヴィアンスの表情は以前よりわかりやすい。この髪だって、長く伸ばしていたのは彼なりのこだわりがあったからなのだ。イリスを助けようとして、それらを犠牲にしてしまった。
「……ごめんね、レヴィ兄」
「何回謝ってるんだよ。イリスは何も悪くないから、そんなに気負う必要ないんだって。それより頬の傷、本当に痕残ったりしないんだよね」
「残ったっていいもん、こんなの。レヴィ兄の怪我に比べたら大したことないし」
「良くないよ。お前は自分が女の子だってことちゃんと自覚しろ」
「女だろうと男だろうと関係ないもん。ていうかわたしとの勝負で容赦しなかった人がよく言うよね」
言い合いをしていると、傍でふきだす声がした。肩を震わせて笑っているのは、病院を抜け出したまま戻っていないガードナーだ。念のためクリスに確認したところ、「退院手続きは済ませておきましたから、清算だけお願いします」とのことだった。
「閣下とイリスさんがお話されているのを聞くと、執務室に戻ってこられたんだなと感慨深くなりますね。それはともかく、お二人ともご自愛を」
「お前もね、レオ」
「ずっと病院にいた割には大活躍だったよね、ガードナーさん。ゼンから聞いたけど、しばらく現場に出てないとは思えない動きだったって」
「いいえ、やはり鈍っていました。動けているように見えたのなら、それはルイゼン君のおかげです」
ガードナーが褒めると、レヴィアンスも深く頷く。もちろんイリスの記憶にも、駆けつけてくれたときの凛々しい姿は焼き付いている。
「あいつ万能だよね。フィンやメイベル、現場に出てた全員がよく頑張ってくれたよ。戦うには良くない条件だったのに。この際、みんな階級上げちゃおっかな」
「本当?! わたし大尉になれる?」
「冗談だよ。そんなに大勢一気に上げたら、留守番してた将官から文句出るだろ」
「ちぇー、期待したのに」
「さっきまでのしおらしく謝ってたイリスはどこいったの」
全員で戦えた。そうしてレヴィアンスの命を守りきれた。それは誇っていいのではないかと、イリスは思っていた。けれどもガードナーは、表情を引き締めてレヴィアンスに言う。
「しかし、ここからが正念場です。閣下、演説はいかがなさいますか」
「え、あれってブラフでしょ? 過激派をおびき出すための」
イリスが首を傾げると、溜息交じりに返答があった。
「昨日のはね。でも、昨日のことも含めて、国民にはちゃんと説明しなきゃいけない。それも早いうちにしないと、将官や電話番がまいっちゃうよ。軍全体への不信も大きくなる。オレへの非難はオレを選んだ女王への非難にもつながる」
「かといって時期を見誤れば、再び閣下が襲われることも考えられます」
「でも過激派のリーダーは倒したよね」
「イリスが言ってるのって大剣のあいつ? あれはリーダーじゃないよ。戦闘要員と……もしかしたら執務室の窓を壊したのもあいつかもね。リーダーもエルニーニャ入りしたって情報だったけど、公会堂での戦いには参加してないと思う。こっちの様子を離れて眺めて、劣勢になったら逃げたんじゃない?」
なんてずるい手を、とイリスは憤慨したが、きっとそれが上手なやりかたなのだろう。とにもかくにも、まだ気は抜けないということだ。事件の処理で忙しい日々は続くし、司令部に届く苦情や疑問にもできる限り応じなければならない。当分は休む暇などなさそうだ。
「お前は休んでいいんだよ、イリス。眼を使ったあとで具合も良くないだろうし、それ以前に尉官だし。報告書はルイゼンたち佐官がまとめてくれることになってるしさ」
「今はいい。レヴィ兄とガードナーさんはどうせ休まないだろうし、ゼンが報告書まとめなきゃいけないならわたしも手伝わなくちゃ」
忙しい方が気がまぎれる、というのが本音ではある。どうしたって、レヴィアンスが助けてくれたときのことを思い出してしまうのだ。一瞬でも「負ける」と思った。あんな感覚はあまり経験がなく、イリスは実力不足を今度こそ思い知ることになった。今まではレヴィアンスや兄に勝てなくても、それで死ぬようなことはまずないから、どこかで甘く見ていたのだ。
もっと強くなりたい。けれども焦ってはいけない。敵はまたすぐにやってくる可能性があるけれど、今度は確実に動かなくてはならない。間違っても、自分の代わりに誰かが傷つくなんてことは、あってはならない。

佐官以下が中心の事務室は、事件の処理でてんやわんやだった。もちろん将官たちも停電の対応に追われて忙しい。だが彼らのおかげで、こちらは公会堂で起こった「大総統襲撃事件」――敵をおびき出したのは軍のほうだが、名目上はそういうことになった――に集中することができる。
ルイゼンは外に出る支度をして、自分の席をたとうとした。すると斜向かいから、不機嫌そうな声が呼び止める。
「聴取か」
「そうだよ。メイベルも行くか? イリスと閣下が戦ってた、あの大剣のやつ任されたんだけど」
「思うまま罵声を浴びせていいのか」
「だめ。やっぱりお前留守番してろ。眼鏡ないし」
戦いのさなかに眼鏡を壊されたメイベルは、これでも落ち込んでいる。見せてもらったが、すっかり曲がってしまって、度の入っていないレンズにもひび割れがあった。修理に出せるのは今日の業務終了後で、直るまでも時間がかかるから、それまでは落ち着かずに誰彼かまわず睨みまくるだろう。もともと目はいい彼女なので、本来なら眼鏡は必要ない。けれどもあれは彼女にとって特別なものなのだ。
まだ軍に入って、一年経つか経たないかという頃だった。その頃にはすっかり仲良くなっていたイリスとメイベルが、一緒に買い物に行って帰ってきた日。それまで家族のことを優先にして、自分のために給料を使うことがなかったメイベルが、初めて買った「余計なもの」が眼鏡だった。必要ないよねと言いつつイリスと二人で試着していたら、言われたのだという。
――ベル、眼鏡似合うね。美人が引き立つっていうか。
生まれて初めての衝動買いだ、とメイベルは語り、以来サイズが合わなくなっては直し、誤って壊しては直しを繰り返して着用してきた。おかげで彼女の視力が本当は全く問題ないということを知っている人のほうが、今は少ない。
「イリスの言葉はでかいからなあ……」
メイベルにとってはなおさらかもしれない。だが、それはルイゼンとて例外ではないのだった。剣を武器にしているのは、見た目がかっこいいからというのももちろんだが、入隊前にイリスに言われたことが一番の影響になっている。
――入隊決まったの? じゃあさ、武器は剣にしなよ。絶対かっこいいよ。
今となっては、ルイゼンをかっこいいと言ったのではないことくらいわかる。でも、当時は嬉しかったのだ。かっこよく人を守れるようになれると、信じたのだ。
「実際はあのざまだけどな」
「何があのざまだって?」
ひとりごちたのを、通りかかった部屋からちょうど出てきたフィネーロに聞かれた。上を見れば「情報処理室」のプレート。彼がいてもおかしくはない。
「よ、フィン。そっちも忙しいか?」
「それなりには。協力してもらった施設や機関、他司令部への礼と説明を送る手伝いをしている。ルイゼンは今日は一日聴取なのか」
「時間がかかればな。俺一人じゃないから、遅くても三時ぐらいには戻れると思うけど」
そうだ、上司を待たせているのだった。急がなければ叱られる。じゃあ、とフィネーロに手を振ると、背後から声が追いかけてきた。
「僕は、昨日の君は格好良かったと思う。それともイリスに言われなきゃ不満か」
振り向くと、真顔でこちらを見ているフィネーロがいる。急激に照れがきて頬を熱くしている、こっちのほうが恥ずかしい。
「……いや、どうも。お前こそかっこよかったぞ! これからも期待してるぜ、我が班の戦力!」
親指を立てると、同じサインが返ってきた。これからも一緒に戦ってくれると、そうとっておこう。

押収された大剣の重さを改めて数字で見て、イリスは眉を寄せた。昨日は「軽い」と豪語してみせたが、明らかにイリスの知っている数字より大きい。書類を持ってきたトーリスが深く溜息を吐いた。
「無茶はするなと言っただろう」
「いや、こんなに重いものだとは思わなかったんです。だってあのときは本当に、お兄ちゃんの剣のほうが重いから大丈夫だって……」
「錯覚だったということだな。その場の勢いもあっただろう。短剣にすら負けた私がどうこう言えることではないが」
「実にその通りだな。まったく役立たずな大佐殿だ」
メイベルが横から口を挟んで、トーリスに睨まれる。それを宥めつつ、イリスはとんでもない重量の大剣を片手で扱っていた相手のことを思った。あんなに強い人がいるという事実。彼がどうしてその力を、もっと別のかたちで役立てられなかったのかということ。
――あ、でもわたしだって軍にいなかったら。周りに理解者がいなかったら……。
彼の力は、イリスの眼にも通じるものがある。当人も持て余しかねない、強すぎる力。扱い方は、その人によって変わるのだ。人を変える要因や環境は様々だが、イリスと彼にはたしかに似たところがあるのかもしれない。
「何を考え込んでいる。結果的には持ち主を拘束できたんだからいいだろう。さすがにあれ以上の脅威はそうそうあるまい」
メイベルの声で我に返り、イリスはごまかすように笑う。
「あってたまるかってくらい強かったね。倒しきれなかったし」
「閣下がうろちょろしなければ、私が撃っていたんだが」
「いつものベルなら、レヴィ兄のこと気にしないで撃ってるんじゃない?」
「眼鏡がないと調子が狂うからな、手を出しにくかった」
躊躇も遠慮も容赦もないと評判の彼女でも、躊躇うことはあるらしい。躊躇ってくれてよかった。すぐに決着がついていたら、イリスは自分が戦った相手についてじっくり考えることをしなかっただろう。
「ベル、助けてくれてありがとう。でもちゃんと撃てたし、眼鏡ってそんなに必要? たしか目は悪くないよね」
「気持ちの問題だ。私にだってそういうことはある。……そんなことよりイリス、自分の剣をちゃんと確認したんだろうな。さっきの数字を見る限り、軍支給の剣が耐えられるとは思えないんだが」
「わたしの? そういえば全然気にしてなかった……」
傍らに鞘に収めて置いていた剣を、周囲に気をつけながら抜いてみる。全てを見るまでもなかった。折れてはいなかったが、すぐにそれとわかる大きな傷が刀身に入っている。このまま使うことはできそうにない。
「交換しなきゃだめかー……。すぐ気づいていれば、手続き早くしたのに」
「どうせならフィネーロのように作ってしまえばいい。兄君のようになりたいなら、いっそ押収した大剣を引き取るのはどうだ」
「それは重くて無理じゃないかな。でも、自分の剣は憧れるかも。ねえベル、仕事終わったら眼鏡の修理に行くんだよね。わたしも一緒に行っていい?」
「断る理由がどこにある。イリスとのデートならいつでも歓迎だ」
微笑んだメイベルの手を取って上下に振っていると、トーリスの咳払いが聞こえた。終業後のことを考える前に、少しでも報告書を進めておかなければ。まとめるのはルイゼンでも、みんなで作成しなければならない。
さて、対決相手のことはどのように報告しようか。気づいてしまったからには、被害に剣のことも含めたほうが良いのだろうか。


それから四日ほど、レヴィアンスは相手の出方を慎重に見ていた。この場合の相手は血脈信仰信者過激派だけではなく、ウィスタリア政府、ウィスタリアを中心に動いている裏組織なども含まれる。もちろんただ黙って見ているわけではなく、そのあいだに協力者たちと話し合いを重ね、情報を集め、ときにはこちらから発信するべき情報に手を加えた。
「あんまり時間が経ちすぎるのも良くないわよ。勝手を言わせてもらうと、あたしたちも最新の情報がないと困る」
「そうだよね。オレもエトナにあんまり迷惑かけたくないんだけど、もうちょっとだけ待ってもらえないか。ちょっとでいいから」
大総統付新聞記者エトナリア・リータスは、「ちょっとってどのくらいよ」と呆れる。だが、事情がわからないわけではない。迂闊なことをすればレヴィアンスの命に関わること、国交に影響が出ることなど、承知している。だが国民が「真実の言葉」を欲しがるのも、痛いほどわかるのだった。
「前なら、いい加減にしろ赤もさ! って怒鳴りつけることもできたのに。もう赤もさじゃないからこれも使いにくいわ」
「最初から赤もさって言わなければいいんだよ。ていうか今ちょっと怒鳴ったよね」
レヴィアンスも真実を公表するつもりではあった。だが、そこにウィスタリアの名前を入れることはできない。血脈信仰もしかりだ。だから、ただ「大総統への敵対勢力があった」としか言えない。
実際、真実は混迷していた。一連の事件は第十四代大総統の暗殺になぞらえたものとされていたが、その根は建国の時代にあり、また十八年前の司令部襲撃事件にも関連している。レヴィアンス自身、なぜ自分が命を狙われていたのか、今後もまだ狙われるのか、道を見失いかけていた。
「それぞれを個別の事件にしておいたら? レヴィは公会堂での大総統襲撃について説明するだけ」
「じゃあその前に演説しようとしたのは何だったのかって話になるだろ」
「それも入れたらいいじゃない。あんたは人に何を伝えたかったの? 本当に何にも考えないで、あの場を用意したわけじゃないでしょう」
用意はしていた。だがその中身は、今まで対外的にとってきた行動について、繰り返すだけだった。それでは誰も納得しないだろう。
「煮え切らないわねえ、それでも大総統? レオナルド君、何か良い案ある?」
「私は閣下の考え通りにと思います。たとえ、きちんとまとまらなくても」
何を言ったらいいのか。何を伝えたいのか。四日前と同じ形式をとって、改めて話すべきことは何なのか。新しい情報を取り入れながら、レヴィアンスはずっと悩んでいた。
自分の行動について、ハルやカスケードの先代としての無難なコメントをしてもらう、それだけで繋ぐのはもう限界だ。それは理解している。彼らもレヴィアンスの出方を、けじめを、待っているだろう。それが今後の大総統としてのありかたを決めることにも繋がってくる。
もしかしたら、大総統ではいられなくなる可能性だって、まだ捨てきれてはいないのだ。女王の推薦でこの立場にいる、後ろ盾があるということで、そう簡単にこの椅子を他人に譲るようなことにはならないと思っていた。しかしきっとレヴィアンスがこの立場を降りなければならないと決めたなら、女王は止めたりしないだろう。理由がつけられる今なら。
静寂が落ちた大総統執務室に、ノックの音が響いた。音の感じで、誰が来たのかはわかる。
「入っていいよ」
許可を出すと、扉を開けて、イリスが顔を覗かせた。
「失礼しまーす。エトナさん、こんにちは」
「イリスちゃん! いいところに来てくれたね。ちょっとこの元赤もさに発破かけてやってよ」
「元赤もさってなんだよ……。イリス、どうしたの?」
こちらを指さすエトナリアを軽く押しとどめながら尋ねると、紙の束が差し出された。何かはすぐにわかった。四日で仕上げてくるとはさすがだ。
「聴取内容も含めた、大総統襲撃事件の報告書。大佐が提出してこいって言うから、持ってきた」
「マー坊、まだ忙しいだろうからね。ありがとう、見ておくよ」
「で、発破かけるって何の話? エトナさん」
報告書を受け取ると同時に、話を元に戻されてしまった。エトナリアが憤慨しながら、レヴィアンスが煮え切らないということをまくしたてる。イリスは苦笑いしながらも、「だよねえ」と頷いていた。どこにかかる言葉なのかはわからない。簡単に話をまとめられないのは仕方がないと思ってのことなのか、それともレヴィアンスの決断が遅いことへの同意なのか。両方かもしれない。
「イリスちゃんはどうしたらいいと思う? レヴィの補佐として、何か意見があれば言っていいのよ」
なぜエトナリアが許可を出すのかということはともかくとして、たしかにイリスにもその権利はある。彼女も補佐だ。レヴィアンスが認めてそうしたのだから、考えがあるなら言ってくれたほうが助かる。
「わたしは難しいことはわからない。でもレヴィ兄の立場とか危険とか、考えなくちゃいけないことがたくさんあるってことくらいは、ちゃんと意識してるつもり」
ぼそぼそと、イリスが答える。エトナリアはそれにも頷きながら熱心に耳を傾け、おそらくは頭の中にしっかりと書き留めている。
「……だから、かな。レヴィ兄は、レヴィ兄としての考えとか言葉を、みんなに聞いてもらったほうがいいんじゃないかなって思うんだ」
レヴィアンスの心にも、その言葉が書きこまれたような気がした。
「レヴィとして、なの? 大総統としてのコメントじゃなくて」
確認するようにエトナリアが問い、イリスは今度ははっきりと頷く。
「わたし、レヴィ兄に喧嘩売ったり、不満みたいなことをぶちまけたことがあって。それって、レヴィ兄がわたしに納得のいく説明をしてくれなかったり、本当の気持ちを言ってくれなかったからなんだよね。本音を聞かせてほしかったのに、大総統としての建前ばっかりだったから」
「イリスちゃんはそれが嫌だったのね」
「嫌だよ。だってわたしが話したいのはゼウスァート閣下じゃなく、レヴィ兄だったんだもん。……でも、わたしとみんなは違うよね。事情もまるで違う。閣下の言葉を求めてる人が、今はたくさんいるんだよね」
だからわたしは何も言えないや、とイリスは困ったように笑った。けれどもエトナリアは首を横に振って、それで十分、と言う。さすがに彼女らは、レヴィアンスと付き合いが長いだけあって、よくわかっている。――何を伝えたいのか、と問われれば、その答えはきっと決まっていた。
「エトナ、大総統付記者でいられなくなったら、仕事のあてはある?」
「何よ今更。あるに決まってるじゃない、あたしは超有能記者よ? 他にも担当してるものはあるし、守備範囲だってそれはもう広いんだから」
堂々と胸を張るエトナリアは、心配しなくていいだろう。一つのことに執着することなく、視界を広く持っていることが、彼女の長所だ。では、こちらは。
「レオ、大総統補佐でいたい?」
「私の望みはあなたの補佐ですよ、閣下」
ガードナーは微笑んだまま、口調をほんの少し強くした。
「イリスは? ……大総統補佐じゃなくなるとしたら、どう?」
「意地の悪い質問だね、レヴィ兄」
ちょっとムッとしたイリスが、小さく息を吐く。それから。
「ガードナーさんと答えは同じだよ。わたしはレヴィ兄と一緒に進みたいの。だいたいわたし、そもそもは補佐見習いだもの、今更立場をどうこういったところで意味ないよ」
胸に手を当て、こちらを真っ直ぐに見据えて告げる。幼い頃からこうだった。眼の力が効かないレヴィアンスには、きちんと目を合わせて向き合ってくれていた。イリス自身もそうしたかったのだろう。
「事件が終わっても、同じだよ。わたしたちは一緒にあがいて生きよう。少なくともわたしは、そのつもりでいたんだけど」
目の高さだけが変わった。いつのまにか大きくなって、目線がそうかわらなくなった。もう一度、改めて思う。泣き虫だった幼い少女は、もういない。
「……そういうことなら、悩まなくてよかったな。一応オリビアさんやアーシェには確認してもらうけど、話したいことはだいたい固まった。エトナにはまた、いい塩梅の記事を書いてもらう」
「任せなさい。あんたのダガーより強いこのあたしのペンで、国中に届けてあげる」
大総統レヴィアンス・ゼウスァートを名乗りながらも、心はレヴィアンス・ハイルのままで生きていく。二年前にそう誓ったことを思い出す。これを受け入れない人もいるだろうけれど、受け入れてくれたからこそ手を貸してくれた人が大勢いる。
期待に応えられるかどうかはともかく、言葉を紡いでみよう。慎重さを欠かずに堂々と、レヴィアンスがいつもそうしてきたように。

そして事件からちょうど一週間、修理中の公会堂に再びカメラが備え付けられた。今度は途中で停電になって中止になるということはない、本当の大総統演説中継が行われようとしていた。とはいえ、演説というほど大仰なものではないと、レヴィアンスは思っている。ただ、人々に報せること、伝えることをするだけだ。
だから先日ほどの告知はしていなかったのだが、エルニーニャ王国民は今度こそ大総統の言葉を聞き逃すまいと、一週間前とほぼ同じようにテレビやラジオの放送に注目していた。そのために仕事を詰めたり切り上げたりすることはなくとも、耳に入るようにはしておいているようだ。その様子が街を巡回しているあいだにもわかって、イリスは感心したものだった。
誰もがレヴィアンスの言葉を欲しがっている。それは大総統としての言葉かもしれないし、今回の事態への説明責任を求めているということでもあるだろう。いずれにせよ、レヴィアンスは人々にとって大きな存在なのだ。
映像には入らない、しかしレヴィアンスからほど近い位置に、イリスとガードナーは控えることになった。公会堂の内部と外周は、先日と同じように軍人たちが囲んでいる。異なるところがあるとすれば、少しだけ警備を厳重にしているということか。今度は邪魔が入っては困るし、おびき寄せる意図もない。
開始時間は一週間前の放送と同じ、午後七時に設定した。時計の針がその時刻を指し示すと同時に、中継が始まる。
「やあ、こんばんは。今夜の放送に耳を傾けてくれてありがとう。今度はちゃんと話すから、少しだけオレに付き合ってほしい」
軽い口調に、堂々とした姿勢、不敵な笑みを浮かべた顔。先日とは違う、けれども国民には馴染みのあるレヴィアンスが、ここにいた。
イリスとガードナーは、こっそり目配せして、小さく笑った。これでこそレヴィアンスだ、自分たちが慕う彼だ、と。
まずは先日の停電と放送の中断についての詫びから、話が始まった。国内一斉停電が軍による捕り物の作戦の一環であったことが明かされ、損害補償が始まっていること、まだ行き届いていないことがあればすぐに対処するという旨を伝える。補償については、前もって王宮と大文卿との話し合いで決めていた。
「で、その捕り物についてだが。実のところ、オレはしばらく狙われていた」
大総統としての地位が揺らぐという懸念があって、ずっと言わないでいたことを、レヴィアンスはあえて話すことに決めた。誰に狙われていたのかというような、具体的なことは明かさない。当然ウィスタリアの思惑や過去の事件のことも取り上げない。危機にあったという事実と、それが一週間前の停電のさなかに決行した作戦によってひとまず収まったことを報せた。
解決した、という言葉は使わなかった。まだ気を抜けない状況であることには変わりないし、公開はしないが、首謀者は捕まっていない。
「オレを気に入らない人間がいるのは、おかしいことじゃない。疑問だっていくらでもあるはずだ。だからオレに意見することはまったくかまわない。でも、このことでオレ以外の人間に被害が及ぶようなことは許さない。エルニーニャのみんなには手出しさせないよう、オレはこれからも大総統としてみんなを守っていきたい」
出した答えはこれだ。硬い言葉で伝えるべきことだったかもしれないが、レヴィアンスは自分の言葉で話すことを選んだ。
そして、伝えたいことは。
「オレ、この国のみんなが好きだからさ。たとえ大総統の椅子を降ろされても、それは変わらない。オレはオレのやりかたで、大切なものを守る方法を考えて実行していく」
最初から、そのひとつだった。
「というわけで、これからもよろしく! オレの命が欲しければ、正々堂々と来い。いつでも相手になるぞ!」
レヴィ兄、挑発はだめだって。イリスは呆れながら、彼の背中を見る。髪が短くなってよく見えるようになったその背は、広くてしゃんとしていて、あんな口調でも頼もしかった。


それからの中央司令部は、いやエルニーニャ軍は、国民からの応援や文句や疑問に追われて目まぐるしかった。通常の業務や任務もあり、レヴィアンスはもちろん、イリスらもなかなか自由には動けなかった。レヴィアンスの身辺警護も続いている。襲撃事件以来、音沙汰はないが。
というのも、女王が王宮襲撃の対応に軍の力を借りていたことをウィスタリア政府に打ち明けたようで、ようやく彼らも国内の不穏な勢力の監視に本格的に乗り出したのだった。さらにはウィスタリアで活動していた裏組織が、危険薬物の流通に手を出しているということを理由に大規模な摘発にあった。これにはノーザリアの大将が根回しをしている、ということはウィスタリア軍とレヴィアンス、そして当人くらいしか知らない。
レヴィアンスの命を狙っていた過激派は、戦力が少なくなったこともあり、動きにくくなった。それはどうやらたしかなようだと、ようやく認めることができた。
だからこそ、今夜、イリスとレヴィアンスは揃ってニアたちの家に来ることができた。こうして直接会うのはいつ以来だろう。
「話せるだけのことは、もう放送で話したよ。以降、事態は順調に収束に向かってる」
スコーンにジャムを塗りつけながら、レヴィアンスが言う。イリスは何もつけずに頬張ってみたが、冷めてもそもそしていながらも美味しかった。ニアが作ったというのは本当だろうか。だとしたら、確実に料理の腕は上がっている。
「演説もテレビで見たけど。せめて口調くらいどうにかならなかったの? 大人なのにちゃんとした話し方しないで大丈夫なんですかって、ニールまで心配してたよ」
「オレはあれでいいの」
この家の子供であるニールは、今日はルーファの実家に泊まりに行っているらしい。ニアがレヴィアンスを説教したかったからだ。インフェリア家に預けなかったのは、一連の事件で協力を仰いだおかげで忙しくなったカスケードに配慮してのことだろう。レヴィアンスが落ち着くまでは、あらゆる方法で手を貸してくれるという。
「大人にはできるだけ子供の手本であってほしいんだけどね。大総統ならなおさら。……もう何言っても仕方ないから、演説についてはここまでにしておいてあげる」
ニアが紅茶を一口飲むあいだに、レヴィアンスはホッと息を吐いた。イリスもつられそうになったが、口を開けるとスコーンがぼろぼろと零れそうなので堪える。
「で、髪と足は?」
だが必死の抵抗も空しく、ニアの問いはイリスの口を開かせてしまった。「それは」と言おうとしたのが「ふぉれふぁ」になってしまい、スコーンのかけらがテーブルに落ちる。ルーファが慌てて紙ナプキンを差し出してくれたが、遅かった。
「……髪は見ての通りだから仕方ないとして、なんで足までわかったのさ」
口をへの字に曲げ、レヴィアンスが問う。ニアはこともなげに「歩き方変だったから」と答えた。随分治って、もう走るにもほとんど支障がなくなったというのに、わかる人にはわかってしまうようだ。
「それは、わたしを助けようとしたからだよ」
口の中のものを紅茶で飲み下したイリスが、やっとまともな言葉を発する。レヴィアンスに止められそうになったが、そのまま続けて、公会堂での戦いについて話した。ニアは黙ってそれを聞き、ときどき口を挟もうとしたレヴィアンスを視線で制した。
「……だから、レヴィ兄は全然悪いことなんかない。わたしがもっとしっかりしていれば、こんなことにはならなかったんだよ」
「そう。事情は分かった。別にレヴィが悪いなんて思ってないから安心して」
頷きながらスコーンを割り、「大剣の相手か」とニアが呟く。それからレヴィアンスの髪をまじまじと見た。
「躊躇ったね、彼。髪を切ったならそのまま背中を斬りつけるだろうに、レヴィは実際、足を怪我している。一度手を止めたか、あるいは引いたかもしれない」
「そうなんだよ。わたしはわからなかったけど、ゼンが聴取に行ってそう聞いてきた。レヴィ兄が急に飛び込んできたからびっくりしたみたい」
離れた箇所にダメージがあったのはそういうことだ。あの場でとっさに重い剣を止められるというのもすごいと、イリスは感心していたのだった。
「あの力、良いことに使えたらいいのにね」
「それは本人次第。躊躇えるんだから、大丈夫だと思うけどね」
「軍に勧誘したいくらいだったよ。オレと同い年らしいから、これからの入隊は難しいけど、王宮近衛兵なら年齢制限ないからいけるかも」
「俺なら力仕事に欲しいな。大剣を片手で扱えるなら、荷物運ぶのとか余裕だろ」
チョコチップの入ったスコーンに手を伸ばしながら、イリスは彼の未来を想像する。大総統襲撃の実行犯として、しばらくは外に出られない生活を送るが、そのあとは。――できることなら、彼が胸を張れる人生を歩んでほしい。それはきっと、人を傷つけるための道ではないはずだ。
「荷物……荷物か。リーガル社の御曹司様に話してみるかな」
「リヒト君? あの子、癖のある人雇うの好きだよね。アーシェちゃんに似て」
やっとニアが明るく笑った。イリスはルーファを顔を見合わせる。もう大丈夫だ、と言われた気がした。
心配かけてごめんね、ともう一度言いたかったけれど、きっとニアが欲しい言葉はこれではないだろうと思ってやめた。談笑の中に加わり、スコーンを頬張る。取り戻したかった時間を、今は思い切り味わうことにした。
帰りがけに、ニアがレヴィアンスを呼び止めた。その手が顔の横に伸びてきたのでレヴィアンスは耳を庇おうとしたが、その必要はなかった。
短くなった髪を指先で撫でながら、真剣な声が言う。
「イリスを守ってくれてありがとう、レヴィ」
軽い口調がそれに応えた。
「当然じゃん。大切なものは何が何でも守り抜け、だろ?」
本当に大事なことを言うときの笑みを浮かべて。


手には、柄に紅玉をあしらった細身の剣。振えば長い黒髪が靡き、赤い瞳が不敵に笑う。鎬を削るルイゼンは、負けたくないと思いながらも、その姿に惚れ惚れしてしまっていた。
「ちょっとゼン、真面目に相手してよね。このままじゃわたしに連敗するよ」
「連敗はしたくないな。一度くらいは勝ってみたい。でも申し訳ないけど大真面目だ」
新しい剣を馴染ませるため、忙しい合間をぬって、イリスは頻繁に練兵場へ繰り出していた。同じ剣を扱う者としてルイゼンはよく駆り出され、そしてそのたびに連敗記録を更新している。
「よくやるよ、ルイゼンも。僕なら早々に諦めてる」
観戦しながら呟くフィネーロの隣で、メイベルが新品のように輝く眼鏡を直す。
「イリスに見惚れているうちは勝てないだろうな」
「君もイリスと手合わせしたいんじゃないのか」
「武器なしならしたいんだがな。生憎、私の相棒は銃だ。変えるつもりはないし、新しく剣を覚えようという気にもならん」
結局、今日もイリスが勝った。ルイゼンも強くなってはいるはずなのだが、大総統襲撃事件を機に火がついた、いや、燃料をさらに投下されたイリスの勢いが止まらない。もっと強く、と日々邁進している。そろそろ勝てる佐官がいなくなるのではないか。
「この剣にも慣れてきた。本当にスティーナ鍛冶はいい仕事するよね」
「やっと慣れてきたところかよ。俺はいつになったらお前に勝てるんだろう……」
戻ってきたイリスはメイベルと、ルイゼンはフィネーロとハイタッチを交わす。ちょうどそのタイミングで、トーリスがこちらを見つけた。
「リーゼッタ班、仕事だ。今から外に出てもらう」
「はい。ほら、行くぞ」
「今日は何だろうね」
「地方の視察じゃないのか。停電の補償、まだ終わっていないんだろう」
「しばらくはかかると閣下が言っていたな。西から帰ってきた兄が、面倒なことをするからだと嫌そうな顔をしていた」
事務室で支度をしてから、外へ。本格的な冬が迫り、風が一層冷たくなっている。次の休みこそは買い物に行こうと、イリスは決心した。
車に乗り込むその前に、おーい、と呼ぶ声がする。振り向いた先の窓から、レヴィアンスが顔を出していた。背後にはガードナーが付き添っている。
「気をつけて行けよー!」
「閣下、あなたもですよ。あまり窓から身を乗りだすと危険です」
呆れながら、笑いながら、手を振り返す。帰ってきたら、今度は執務室の仕事を手伝わなければ。レヴィアンスとガードナーだけでは、机の周りが散らかってしまう。
「いってきまーす! 待っててね、レヴィ兄!」
必ず隣に帰ってくる。そして一緒に歩んでいく。認めてくれるのなら、そこがわたしの居場所だもの。



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2016年11月26日

戦駆の刻

今日は風が冷たい。コートを着てもあまり効果はなく、そろそろもう少し厚手のものにするか、と考える。任務に支障が出るといけないので、選ぶのには苦労するのだが。
「落ち着いたら、買い物に行きたいなあ。……そうだ、冬物はエイマルちゃんとニールを連れて見に行こうかな。最近あんまりお金使ってないし、二人にプレゼントするくらいの余裕はあるよね。お揃いにしてあげたら可愛いだろうなあ。あ、でもお揃いだってダイさんにばれたら面倒か」
ぶつぶつと呟きながら、イリスは病院へ向かう。レヴィアンスから言いつかって、ガードナーの見舞いに行くところだった。近況報告もしなければならない。
王宮襲撃事件がようやく落ち着いてきた。表面上は動いていないことになっている軍への批判も、女王オリビアとレヴィアンスが会談の場を設け、ニュースにしてもらうことでなんとか収まってきている。大手新聞が王宮を称えながら軍を擁護する、いい塩梅の記事を書いてくれたことも大きい。これを支持するととれる発言をした大文卿夫妻――公式の場に働きかけたのはアーシェの提案だろう――のおかげもあって、一応は国民は王宮を評価し軍を責めないことになりつつある。個人での考えは違うかもしれないが、そういう姿勢であるとアピールするのが今は有効だと、三派は判断したのだった。
――国民向けじゃなく、外国向けの姿勢。もっといえばウィスタリアを牽制しつつ、他国も黙らせるための動きだよ。三派政はこの程度のことじゃ動じないってね。
苦手な話し合いや公式会談が続いて疲れた様子のレヴィアンスがそう説明した。相槌を打ちながら、イリスの心にはよくわからない違和感が生まれていた。上手く言葉にできなかったので、言わなかったが。
「ガードナーさん、調子どうですか?」
病室を覗くと、ガードナーは新聞を広げていた。イリスを見ると嬉しそうに目を細める。
「わざわざありがとうございます。具合が良いので、エイゼル先生には退院させてもらえないか頼んでるんですけど、なかなか通らなくて」
「だってガードナーさん、退院したら即無理しそう」
「先生もそう仰るんです。私は無理した覚えはないんですが」
それは単にレヴィアンスの傍に付き従っていることが当たり前になりすぎて、無理を無理と感じないようになっているだけではないだろうか。そう言うとそのまま返ってきそうなので、イリスは苦笑いするに留めておいた。
「王宮襲撃事件は、ひとまずなんとかなりそうですね。閣下も苦手なことばかりで大変だと思いますが」
「そうなんです。さっきもアー……大文卿夫人と電話してて、疲れちゃったみたいで。わたしがこっちにいるあいだにエト……いつもの新聞記者さんが来る予定になってるんですけど、それもまともに応対できるかどうか」
「大丈夫でしょう。記者のリータスさんは、その辺もわかっている方です。それよりイリスさんも無理して喋らなくていいんですよ」
「いやあ、補佐を真面目にやるからには慣れておかなくちゃだめかなって思ったんですけど、難しいですね。だってわたしにとってアーシェお姉ちゃんはアーシェお姉ちゃんだし、エトナさんはエトナさんなので」
ひとしきり二人で笑ったあと、新聞記事に目をやった。三派の動きをまとめたものだ。こうして入ってくる情報と、定期的な連絡で、ガードナーは現状を把握している。
「閣下は、王宮襲撃以降の動きを対外的なものだと言っていませんでしたか」
「そうです。他国にエルニーニャの三派政が動じないことをアピールしてるって」
「ええ、これだけ準備をしておけば、三派政に揺らぎはないでしょうね。……たとえすぐに大総統を変えることになっても、地盤は引き継がれる」
ガードナーが目を伏せる。その途端に、イリスは抱えていた違和感の正体がわかった。答えはガードナーが言ったそのままだ。
「レヴィ兄、もしかして自分がいなくなったあとのこと考えてるの? こうしておけば、もしレヴィ兄が大総統じゃなくなっても、三派政は崩れない。少なくとも大総統政に戻したい過激派の思惑通りにはいかない……。わたしはレヴィ兄が大総統でい続けることを考えてたけど、レヴィ兄はそうじゃないってことですか?」
「私には、閣下の今のお気持ちは量りかねます。ですが個人的な感想として、危うい、とは思っています。三派政に揺らぎがなくとも、王宮襲撃とその対応によって、閣下ご自身の地位は疑われたのですから」
――私自身にはいくらでも代わりがいるから、何があっても平気なの。
オリビアの言葉が耳によみがえる。本当に平気なはずがない。オリビアにも、レヴィアンスにも、代わりなんかいない。
「わたしは、レヴィ兄の補佐でいたい。他の誰かなんて考えられない」
「私もです。だからこそ、過激派の目論む次のステージ……閣下の暗殺は、絶対にさせてはならない」
イリスは強く頷いた。

急ぎ足で司令部に戻り、大総統執務室の扉を叩く。まだ客と話をしているかもしれないので、念のため。返事は軽いものだったので、入ってもよさそうだ。
「ただいま、レヴィ兄。ガードナーさん、思ったより元気そうだったよ」
扉を開け、ひょこりと中を覗き込む。と、そこにいた人物と目が合った。レヴィアンスではなく、来るはずだった記者でもなく。
「やあ、イリス。さっき何かぶつぶつ言いながら歩いてたな。考えを全部口に出すのはどうかと思うよ」
なんて爽やかな笑顔。こんなときにそんな笑顔を浮かべていられるなんて。
「ダイさん、どうしてここにいるの?! ノーザリアでの仕事は?!」
「静かに。今日はこっそり来てるんだ。すぐに戻らなきゃいけないから娘にも会えないんだよ。……で、何が誰にばれたら面倒だって?」
「そこまで知ってるってことはすれ違ったってことだよね。全然気づかなかった……」
ノーザリア王国軍大将、ダイ・ヴィオラセント。元はエルニーニャの軍人で、レヴィアンスたちの上司だったこともある。今でも何かとエルニーニャにやってくる。仕事のためだけではなく、こちらにいる家族に会うためでもあるのだが、忙しいときにはそれが果たせない。今回はそのパターンなのだろうか。
「ダイさんはウィスタリア調査の結果を持ってきてくれたんだよ。本来なら外国の要人が来たら三派会を開かなきゃいけないけど、今回は極秘だからしない。女王と大文卿には報せて了承してもらってる」
レヴィアンスがテーブルの上の紙束を軽く叩く。そういえば、ウィスタリアの調査をダイに任せていたのだった。イリスは息を呑んで、そろそろと国軍トップ二人組に近づく。
「オリビアさんたちは知ってるってことは、一般の人たちに対しての極秘ってことだよね。あとは当のウィスタリア……」
いったいどんな結果が出たのだろう。ソファに座って、紙束に目を落とす。表紙は白紙だった。いや、そう見えるだけで、透かしたりコピーをしたりすると、特殊な加工がしてあるのがわかるようになっている。国の偉い人専用の、特別な紙なのだ。
「ついさっきまでエトナが来てたから、オレも聴くのはこれからなんだ。資料の中身を見てもいない」
「彼女は優秀な大総統付記者だよ。俺が来たことは絶対に口外しないって誓ってくれた」
フッと笑って、ダイは紙束に手を伸ばす。表紙を捲ると、そこには紙面が真っ黒に見えるほど文字が並んでいた。レヴィアンスとイリスが思わず眉を顰めると、ダイはマーカーペンを取り出して話し始める。
「大事な部分だけ説明してやろう。まずウィスタリア政府だが、あいつらはレヴィのことが相当気に入らないようだ。あわよくば今回の暗殺騒ぎで大総統を辞めてほしいと思っているけれど、親交がある女王にすらそうは言わないだろうな」
いきなりズバッと言った。この人はオブラートに包むということを、ことにレヴィアンス相手にはしない。だからこそ信用しているということもあるのだろうが、一緒に聴いているイリスはハラハラしっぱなしだ。
「だが、ウィスタリアの思惑はそこまでだ。あいつらと血脈信仰過激派に直接の関係はない。暗殺計画の情報は、ウィスタリア軍が別件の捜査をしているときに手に入れたものだろう。肝心なのはその別件だ」
ダイの目が暗く光る。闇がぐろぐろと渦を巻いているような瞳に、イリスの心臓がどきりと大きく跳ねた。レヴィアンスも「まさか」と口にする。
「ウィスタリア軍が追っていたのは裏組織。危険薬物密売に関わっている連中だ。前に東経由のルートをレヴィと検討したことがあったが、あてが外れていたんだ。もっと早く西ルートに気がついていれば、状況は変わったかもしれない」
危険薬物関連事件はダイの得意、いや、執着する分野だ。これを追うために軍人になり、ノーザリアへ移籍し、大将として君臨している。――だからこそ、自分からウィスタリアの調査を申し出たのだ。危険薬物に対する嗅覚が、彼を動かした。
危険薬物を扱う裏組織が西にあって、ウィスタリア軍はその捜査の過程で血脈信仰過激派の動きを知ることになった。つまり過激派は、裏組織と関わりがある。十八年前の事件のように。
「イクタルミナット協会事件と同じ構図?」
「似てはいるな。ただ、裏組織が過激派を積極的に利用している様子ではない。こちらもウィスタリア政府と同じ、あわよくばレヴィを排除してくれると動きやすくなる、くらいの考えだろう。まあ、一部でそのために手を貸したりはしてるんじゃないか。武器や乗り物、司令部襲撃に使った装置は裏が提供したものだろうな」
「じゃあ、過激派はどうしてレヴィ兄の暗殺にこだわってるんだろう。手順を昔の暗殺事件になぞらえて、歴史を繰り返そうとして。でもよく考えたら、前提は全然そろってない」
王宮襲撃の件で、イリスは気づいていた。暗殺された十四代目大総統が王宮の代わりに政権をとったのは、国王一家が失踪し、取り戻せたのが幼い王子ただ一人だったからだ。今の王宮に子供はいない。そして政治能力がないと思われている現王は、実は国内外の政治や外交関係について、国王として適切な程度には把握していたのだった。事件後、オリビアが「ここだけの話」と、そう語ってくれた。
つまり、過激派がこだわろうとしていた十四代目暗殺になぞらえた手順は、どうしたってとれないのだ。揺らぎが出たのではない。最初から不可能だった。
とすると、過激派はゼウスァートとインフェリアの関係だけに注目していたことになるが。
「もしかしたら十四代目暗殺の歴史を繰り返すというのは建前で、本当の目的があるんじゃないか。それがイリスの考えじゃないか?」
「わたし一人じゃ、そこまで思いつかなかったし、気付かなかった。オリビアさんや、話を聞いて整理してくれたガードナーさんのおかげ。王宮襲撃が失敗して三派政が崩れないことがはっきりしたから、過激派は行動を諦めてくれるんじゃないかと期待したけど、フィンのところには相変わらず、お兄さんからの暗殺計画進行の情報が送られてくる」
「そうなんだよね。やつらはどうしてもオレを殺したい。その答えは、やっぱりウィスタリアにあったんだと思う」
直接の関係はないのではなかったか。イリスが怪訝な顔をすると、「正確にはウィスタリアの国の成り立ちだ」とレヴィアンスが言った。
「大陸戦争の頃、エルニーニャはウィスタリアとも敵対関係にあった。領土だけでなく人も奪われ、ようやく戦争が終わって国を作る段階になったとき、ウィスタリアはかなり疲弊していた。それはどこも同じなんだけど、被害がエルニーニャより大きかったと向こうさんは今でも主張しているんだってさ。これ、ドミノさんから聞いたんだけど」
大陸戦争は、現在の五大国がそれぞれ陣営をつくって戦い、宗教観と領土と権利を争ったものだ。西方で人権を踏みにじられたとされる人々が、中央に逃げてきたという記録もある。建国御三家の一つであるエスト家の人々も、そもそもはそうしてこちらにやってきたそうだ。
だが、西方の人々からしてみればどうだろう。中央が西の民を唆して人手を奪い、彼らを動かして領地をも奪ったという認識が、今でも少なからず残っている。「正しい歴史」は主張する側の主観によって変わるのだと、イリスも少しだが勉強したことがあった。
「ウィスタリアの血脈信仰信者たちの一部は、十八年前の事件をきっかけにエルニーニャから追い出された人々だ。エルニーニャ軍によって信仰の自由を奪われたと感じている人々もいるかもしれない。もちろんそんなことのないように対処したはずだけど、当人たちは居づらかっただろうね」
「その対処をしたはずの、十八年前当時の大総統がハル・スティーナだ。つまりレヴィの親。初代大総統の血を引き、大総統に育てられた子供として、レヴィの存在は一時期話題になったな。それが大総統になってエルニーニャを動かしてるっていうんだから、一部血脈信仰信者にとっては面白くないだろう」
「で、でも、血脈信仰だとレヴィ兄は立派な血を引いてるんだから、崇める存在なんじゃ」
「ウィスタリアではそうじゃない。所属を変えたことで、意識も変わった可能性がある。十八年かけて変えたんだ。過激派の思想にあるのは、ウィスタリアから見た歴史……エルニーニャの始祖が倒すべき敵であるという極端な認識。そういう考えもできるんじゃないか」
これまでの予測が、ダイの調査によって覆る。「正史に従え」とはそういう意味だったのかもな、とレヴィアンスはぼんやりと思った。
「大陸戦争、十四代目の暗殺、十八年前の事件に意味を持たせて複雑に絡ませて、今回のレヴィ暗殺計画に繋げているんだ。これでニアがまだ軍にいたら……事態は完全に泥沼だ、考えたくもない」
ダイが吐き捨てた言葉を、イリスは俯いて聞いていた。そして思う。インフェリアの名をもつ自分も、もしや守る側ではなく守られる側なのではと。ウィスタリアの歴史から見れば、インフェリアは数多の人間を葬った「地獄の番人」なのだ。
「さあ、面倒なことだらけだな。レヴィ、俺ができるのはあと一つ。危険薬物の西ルートを介入して断絶することくらいだ。そのついでに過激派と接触することもあるかもしれないが、直接対決ができるのはお前とイリスだけだろう。そして対決するにも餌が必要だ」
足を組み直したダイが歪んだ笑みを見せる。イリスは首を傾げたが、レヴィアンスには通じているようだった。
「遺恨が五百五十年も昔からのものとはいえ、計画のベースは十四代目……それでも二百五十年前か。やつらがオレを暗殺しやすい環境をつくってやった方が、動いてくれるよね」
「環境をつくるって。レヴィ兄、自分から危ないことするつもり?」
「これまで相手の都合に合わせてきたんだ。今度はこっちから仕掛ける。ダイさん、裏組織を潰すついでにちょっと頼まれてよ」
にやり、とレヴィアンスが口角をあげる。まさかこんな日が来るとはな、とダイが諦めたように笑った。
イリスはしばらく渋い顔をしていたが、やがて覚悟を決めた。大総統補佐として、インフェリアの人間として、最後の戦いに勝つしか道はないのだ。

幸いにして協力者は多い。それだけのものを、レヴィアンスは二年間で、いや、それまでの人生で培ってきた。それを助けるために、イリスも奔走する。
「十四代目暗殺事件は大集会中、国民の目の前で発生したらしい。でも今回は一般人を巻き込みたくないし、わざわざ人を集めなくても大総統の言葉は国民に届けられる。少々面倒で大掛かりだが、こういう仕掛けはどうだろうか」
エスト邸に赴き、ドミナリオから助言をもらった。
「国民への情報規制ね。今回ばかりは仕方ないか。知らないほうが良いことだってあるもの。ええ、私たちに任せてちょうだい。もちろん公会堂も貸すわよ。ただし修繕費は軍持ちでってレヴィ君に伝えてね」
大文卿夫妻を訪ね、アーシェの協力を得た。
「今度はこっちが助ける番ね。国民はしっかり守るから、安心してちょうだい。それがエルニーニャ王宮の役割ですもの」
王宮に出向き、オリビアに計画を聞いてもらった。
「また賭けに出るのか。まあ、レヴィは運が強いし、イリスもいる。いざとなれば俺が出て行ってもいい。……頑張れよ。俺たちは地獄の番人の名を背負ってはいるけれど、頑張るしかない人間だ。頑張って、この困難を乗り越えられると、信じてるぞ」
カスケードに、背中を押してもらった。
「なるほどなるほど。これがうまくいけば、ひとまずは安心できるね。そのあとのことは終わってから考えよう。ボクたちも控えてるから、いくらでも頼って。元大総統としてせいいっぱい働かせてもらうよ」
ハルとアーレイドに、笑顔をもらった。
イリスがまわった人々のみならず、レヴィアンスが電話で協力を仰いだ者もいる。誰もがこちらの味方だった。絶対に我らが大総統を死なせはしないと言ってくれた。
「必要な機材はエトナが集めてくれるってさ。あとは情報がうまくまわってるかどうかだけど……」
レヴィアンスが受話器を置いたところで、ちょうどノックの音がした。返事をすると、フィネーロが端末を持って入ってくる。
「フィネーロ、どうだった?」
「兄からは血脈信仰信者たちが閣下の演説の期日に向けて動いていると。過激派はリーダーを含め、エルニーニャ入りするとのことです」
「おお、すごいじゃん! リーダー倒せばこっちのもんだよね、レヴィ兄!」
「つまりそれだけ本気でくるんだよ。王宮襲撃が失敗したから、黙って待っていられなくなったんだろうね。いいねえ、思った通りに事が運ぶってのは」
餌は三日後に設定した。司令部内にも通達してある。国民にはアーシェらを通じて、偽の情報を流した。もっとも完全な嘘ではない。
公会堂からエルニーニャ国内へ、大総統の言葉をテレビ中継で放送する。王宮襲撃以降は対外的な策しかとってこなかったので、大総統による国民向けの説明はこれが初めてになる。――という予定だが、これは狂うことになる。そこまでが筋書、あとは軍の働きと過激派の行動次第だ。


「本日は大総統閣下の演説があるため、全員が間に合うように帰宅すること。残業や時間外の外回りは控えるように」
フォース社の朝の業務連絡は、こんな台詞で締めくくられた。ルーファは苦い顔をしたまま自分のデスクに向かう。国の都合で急な予定変更が相次ぎ、この会社もバタバタと忙しい。昨日までの二日間は、今日やるはずだった営業と内勤をずらしてぎゅうぎゅうに詰め込み、帰りが夜中になっていた。一方、客のほうも今日の大総統演説の時間に合わせて予定をずらしたりキャンセルしたりしていたので、それを把握するだけでも大変だった。手帳の中身を書き換えるたびに、「おのれレヴィ」と内心恨み言を吐いたのは言うまでもない。
三日前に速報が出て、緊急の大総統演説が行われるということが国民に一斉に知らされた。最近の軍の動向や、謎の残る王宮襲撃事件、普段は静かな大文卿の表立った行動などに違和感や不信感を抱いていた人々は、今回の演説に注目している。国内全てのテレビ局やラジオ局が演説の中継を行うと発表し、その視聴が国民のほとんどの大切な予定となった。
「大総統閣下の演説って、何を話すんでしょうね。シーケンスさん、閣下とお知り合いだって聞きましたけど、内容わかります?」
同僚に話しかけられ、ルーファは首を横に振った。知るわけがない。ここ最近、家にも顔を出していないのだ。レヴィアンスだけでなく、イリスも。
「知り合いでも、もう軍から退いた俺に、そういう話はしないよ。だから閣下の演説なんて見当もつかない」
演説は夜七時から。早い時間に帰れるのはいいが、テレビで友人の真面目な顔を見なければならないというのは、複雑な気持ちだった。
「夕方に帰るの久しぶりだし、子供にお土産でも買っていくかな……」
「それなら早く確保しておいた方がいいですよ。商店街もいつもより早く閉めるみたいです。だからお客さんも買いものをさっさと済ませておくって」
「マジかよ」
三派政だろうと何だろうと、この国は大総統の一声で大きく動くのだ。そこは昔から変わらないんだよな、と過渡期を軍で過ごしたルーファは溜息を吐いた。

電話の子機を左手に、右手でキャンバスに色を塗り重ねる。夜七時までに仕事と家事をひと段落させなければならないので、ニアも休んでいる暇がない。
「相変わらずだね、グレイヴちゃんのところも。レヴィのことならダイさんが何か知ってるかなと思ったんだけど、知ってても言わないよね、あの人」
「そうなのよ。アタシももう一般人だから、言わないのが普通なんだろうけどね。もどかしいけど仕方ないわ、今日の演説とやらを待つわよ。それにしても、レヴィってばちゃんと喋れるのかしら」
「大丈夫だと思うよ。大総統モード入ったレヴィのすごさはイリスもよく話してくれるし」
その名前を口にしてから、ふと寂しさが過ぎる。ここしばらく家に顔を出さず、電話をしても出ないか、出ても曖昧な返事しかしない妹は、今頃どうしているのだろう。それを察したのか、受話器から慰めるような声が聞こえた。
「イリスもきっと大丈夫よ。あの子の強さなら、アンタが一番知ってるでしょう」
「そのつもりだったんだけどね。こうも状況がわからないことなんて、初めてだから。ニールがいてくれなかったらヤケ酒あおってたところだよ」
「本当にニールがいてくれてよかったわ……」
呼ばれたと思ったのか、ニールが部屋を遠慮がちに覗いた。ちょうどそのタイミングで、グレイヴも「そろそろ切るわよ」と言う。
「アタシも予定が詰まってるのよ。エイマルのお昼用意してから軍人学校の実技指導なの」
「そっか、ごめん。僕もそろそろお昼の支度しようかな」
みんなが忙しい。ルーファも遅くまで帰ってこなかったし、実家も電話がなかなかつながらなかった。けれどもきっとレヴィアンスは、イリスは、もっと大変なのだろう。軍が王宮襲撃の対応で叩かれたことも知っている。それを収めるためにレヴィアンスがあちこち駆け回り、苦手な仕事をこなしていたのも、報道を通じて知った。イリスはそれを手伝っただろう。
それが今日の演説で落ち着くのだとしたら……いや、そうであると思いたい。そうしてまたこの家を訪れた友人と妹を、心を尽くして労ってやりたい。
「ニアさん。仕事中なら、僕がお昼ご飯作りますよ」
「ううん、僕がやるよ。もっと上達しておかないと、今度イリスが来たときに呆れられちゃうから。どうせならいい意味で驚かせたいじゃない」
「そうですね。でも、やっぱり僕も手伝います」
軍人ではない今のニアができることは、待っていること。きっとそれだけだ。

公会堂にカメラが設置される。時間になったら回り始めるようにセットされ、人間は軍の指示で速やかに退出させられた。
二百五十年前にはこの公会堂はまだなかったが、野外に集会場が設けられていた。そこで第十四代大総統は王に代わって政治を行うことを国民に説明し、その立場を正式に認められるはずだった。しかし結局はそれを許さなかった者によって、その場で命を奪われたのだ。手を下したのは王宮関係者だったと言い伝えられているが、今となっては真偽は定かではない。今更蒸し返すことでもないと、レヴィアンスは思っている。
「確認終わりました。カメラの電源は全てコンセントです」
「ありがとう。……どうせ壊れちゃうんだろうけどね。もったいないなあ、こんなに良いカメラ」
撮影機器が好きなレヴィアンスが本気で惜しむのを、ルイゼンは苦笑しながら聞く。惜しんだって、この作戦でいくと決めた当人なのだから仕方がない。
集会場に人を集めなくても、大総統が演説を行える。その途中で起こる事件は国中に放送され、混乱が巻き起こる。一般人を直接巻き込むことなく、十四代目の悲劇を再現する方法がこれだった。もっとも、完全再現なんてさせる気はない。そして国民をむやみに混乱させるわけにもいかない。
「ルイゼン、お前はイリスが泣いてるの見たことあるよね」
レヴィアンスから何の脈絡もなく発せられた言葉に、ルイゼンは怪訝な表情を浮かべた。
「急に何ですか。そりゃありますよ、長い付き合いですし。軍に入ってからは泣かなくなったけど……」
「だよね。もしイリスが泣くようなことがあったら、お前に任せた。他のやつはびっくりするだろうからさ」
「泣かせる気ですか。そんなの、いくらレヴィさんでも許しませんよ」
「もし、だ。今のあいつなら、泣くより先に怒るかもしれない」
広い部屋を見渡しながら話していると、イリスが入ってきた。両腕で大きな丸を作っているところを見ると、どうやら外の警備は整ったらしい。正確にはわざと整えていないのだが、その加減が難しかった。
色々な人の助けを借りて立てた作戦だ。失敗は許されない。速やかに終わらせる。
「レヴィ兄とゼンは何の話してたのよ。もうカメラの設置は終わってるんだよね」
「万全だよ。あーあ、残念だな。オレのイケメンっぷりを一瞬しか映してくれないなんて」
「作戦採用したのレヴィ兄じゃん……。ていうか、自分でイケメンとか言う?」
呆れながらも、イリスは緊張していた。あともう少しで、最後の大勝負が始まるのだ。今日もフル活用するつもりの眼は、すでに調整を始めている。一瞬見ただけで、ルイゼンは少し眩暈がした。
「気合入ってるな、イリス」
「入れなきゃこっちがやられるでしょ。わたしの眼はもうあんまり見ない方がいいよ」
「オレはあんまり眼に頼ってほしくないんだけど」
「今度は倒れないように頑張るから」
「そういう意味じゃなくて。……まあいいか、そのときはそのときだ」
どこか不満げなレヴィアンスにイリスは首を傾げたが、結局真意はわからなかった。秋の日暮れは早い。その時は刻一刻と迫っていた。

夜七時の少し前。エルニーニャ王国民のほとんどは家に帰り、ラジオやテレビをつけていた。家がなくとも、ラジオだけは街頭の放送で聴くことができる。むやみに出歩く者のほとんどいない、異様な光景が国中にあった。
公会堂の周りは軍人が取り囲んでいる。だが見る人が見れば、その守りが甘いことに気がつくだろう。ただ、見る人がいないだけで。
やがて時計が七時を告げる。テレビの画面にレヴィアンスの姿が映し出され、人々は見入った。
「予定の時間になりましたので、これより私、レヴィアンス・ゼウスァートより国民の皆様へ話をさせていただきます。貴重なお時間をいただき、ありがとうございます」
そしてごめん。声に出さずに呟いたとき、公会堂の明かりが消えた。国内のほぼ全てのテレビが、電灯が、ぶつりと切れた。電化製品も動きを止め、国中が闇に包まれる。
全司令部、全国内施設の協力をたった三日で得た。どうしても電力が必要なところは、施設の予備電源で賄ってもらっている。この状態を長くは続けられない。
そしてこの国内一斉停電が、公会堂に軍以外の人間が侵入した合図でもあった。
「ただいま停電の原因を確認しております。その場で静かに待機してください」
突然演説の中継が途切れたラジオだけが、国民に語りかけている。
公会堂にいる軍人たちに聞こえるのは、戦う相手の息遣い、走る音。得物を持った手が襲い来る気配が迫る。
「停電程度じゃ動じないか」
間近に立った気配を、レヴィアンスはダガーで一掃する。カメラが倒れる音がして、あーあ、と呟いた。
「お互い夜目は利くようだし、さっさとケリをつけようぜ?」
暗闇の中で、最後の戦いが幕を開ける。


新しい武器に鎖鎌を選んだとき、これしかないという確信があった。扱いの慣れた長い鎖。分銅と鎌の両方を巧みに操る技の型。そもそも主要な武器として用いることは難しいといわれているが、だからこそ自分には似合いだと思った。殺傷能力の低さも、自身と相通ずるところがある。
――相手を確実に仕留めようと思ったら鎌を使う必要があるから、真正面から向き合わなきゃならないのか。分銅にある紅玉といい、どっかイリスみたいなとこあるな、それ。
ルイゼンはそう笑っていた。だが少し違う気がする。イリスという少女は出会った頃からずっとまっすぐで、複雑な駆け引きや技を必要とせずに、最初から物事とちゃんと向き合おうとする。いつも技や躱し手を考えながら行動しなければならない、そうでなければ人に追いつけない自分のほうが、この武器には似ている気がした。
それでももし武器がイリスに似ているのなら、きっと彼女のような強さが欲しかったから、これだと決めたのだ。
班から外されて情報処理担当にまわされたとき、それがレヴィアンスの作戦だったとはいえ、仕方ないと思っていた。自分がただいるだけでは戦力にならないのは、学校に通っていたときから自覚していた。けれども悔しいと感じたのは、軍にいた七年で、仲間と呼べる人を得てから、こんな力でも役に立つのだと希望を持っていたからだ。仲間が希望を託してくれていた。
他の仲間のように、強力な攻撃で敵を倒していくことはできない。訓練しても、それは簡単に変わらない。しかしただのサポーターのままでいるのも、レヴィアンスの言う通りに心苦しい。
――だったら、僕は。
闇の中を、遠心力を纏った分銅が突っ切る。鎖の長さと動きに反応できなかった敵の腕を絡めたのを確かめ、素早くこちら側に引く。バランスを崩した相手の懐に入り、鎌の柄を強く握りしめる。
――せめて彼らと同じだけの覚悟を。主要な力にはなれないなら、徹底的にそれを補佐する。ただのサポーターじゃなく、他には真似できない最高のサポーターになろう。
鎌が人の体に刺さる感触。たぶん剣を扱うイリスやルイゼンならずっと感じてきたものだ。この仕事への覚悟なら、メイベルは一緒に机を並べるその前から持っていた。
相手を倒して鎖を解くまでに時間がかかるが、自分ならその扱いには慣れている。どんなに鎖が複雑に絡んでいようと、常人より早く外せるという自信がある。そのあいだに次の行動を考える。頭の中であらゆるパターンを組み合わせ計算するのは、得意中の得意だ。
短剣を手に襲いかかってきた敵に向かって、外した鎖を投げる。相手の首に絡まり、そのまま引きずり倒す。自分以外にも多くの軍人が戦っているからこそできる、フィネーロの戦い方。仲間ありきの、そして仲間を助けるための方法。
ひとりじゃないから戦える、なんて言えばメイベルには鼻で嗤われるかもしれないが、実際に動けば文句も言わないだろう。
外した鎖を今度はしっかりと手に持ち、分銅を振って回す。もうぶつける相手は決まっていた。フィネーロ自身が走る道、相手に行かせたくない道が並行して脳内を巡る。行く手の壁、それから背後に迫った者と、分銅で殴り鎌で切り裂き次々に退かす。
――今、僕ができる、そしてやらなければならないことは、閣下たちに近づこうとする者を一人でも多く減らすことだ。そして。
躊躇も容赦もしない、最も付き合いの長い仲間の、視界をクリアに。

今回は動かないつもりだ、とメイベルは先に宣言していた。だから一番見晴らしのいい場所を寄越せと、レヴィアンスに直接迫った。
そうして得た公会堂上部のギャラリーは現場を一望できる最高の場所だったが、同時に背後の大窓からの侵入に備えなくてはならず、加えて左右から挟まれても逃げ場がないという、「動けない」場所でもあった。それでも良かった。敵は倒せばいいのだ。
本当ならもっと経験豊富な佐官を置きたいだろう。現に上司連中はほとんどがこの配置に反対だった。問題行動ばかり起こす女性中尉に任せるような場所ではないと怒鳴った者もいる。それでもレヴィアンスは、メイベルの要求を受け入れた。いつもの軽い口調で、「ブロッケン中尉なら何とかなるでしょ」と笑って。――ああ、あの笑顔は、最高に気に食わなかった。あんなふうに笑うから、イリスがよりあの男に懐くのだ。
戦いが始まった今でも、メイベルにとってレヴィアンスの進退や、言ってしまえば生死までもどうでもいい。行動原理がイリスという、自分が惚れ込んだただ一人の少女にあるからこそ、戦おうと思っている。彼女が望むなら相手が死なないよう極力気をつけるし、邪魔者は徹底的に排除する。
侵入者は上司らの懸念通りに、大窓からもやってきた。ギャラリーには他にも軍人が控えていて対処はできたが、メイベルの周りは自分で片付けなければならない。他の軍人とは距離をあけてもらっているので、援護は期待できない。もとから期待などしていない。そもそもここに敵襲があることだって、懸念ではなく予定通りなのだ。
背中にはライフル銃、腰の左右にはホルスターに収まった拳銃、右手に機関銃、足元には弾丸のストックを山と積んでいる。動かないと言ったなら、絶対に動かない。敵襲の瞬間にはもう機関銃を構え、相手が着地する前に盛大な射撃を始めていた。響く轟音の中でかすかに聞こえた驚いたような声は、同じくギャラリーに控えていた上司のものだろう。
「ブロッケン、閣下は聴取のために相手を生かしておけと……」
聞こえない。聞かなくていい。それは先にイリスが言ったのだからわかっている。余計な口出しなんかいらない。自分の領分を守りきったら、ライフルに持ち替えて階下を見る。まだ軍人と敵がごちゃごちゃしているようだ。暗いので、濃紺の軍服と敵の着ている黒服は判別しにくい。目はとうに慣れているが、気持ち良く撃たせてくれそうにない。舌打ちをして、少し様子を見ることにした。
王宮襲撃に失敗して、敵のほうも本気を出すことにしたらしい。いくらかまともに戦える人員が増え、軍側にも押されている者がちらほら見える。暗闇という環境のせいなのかもしれないが、しかし一応は夜目の利く人間を選んでいるはずだ。つまり押されている軍人はよほど自分の階級に胡坐をかいて怠けていたに違いないというのがメイベルの評である。
少しは骨のあるやつが、と思えば、それはすっかり扱いなれた鎖鎌を操るフィネーロであったり、万全を期していたルイゼンであったりした。フィネーロに至ってはこちらを確認すると、合図まで寄越してくる。随分と余裕だ。
「あいつに言われては、もはや快感など期待しないで撃つしかないか。獲物もとられてしまう」
撃つために準備をし、撃つためにここにいる。撃たねば自分の存在意義などないだろう。
的確に標的の足を狙う。もし腹や胸に中れば運がなかったと思うし、頭に中ればこの戦いに参加したのがそもそもの間違いだったのだ。少なくともこちらに外すつもりはないのだから。
続けざまに五人を倒し、再装填しようとして、人がこちらへ来る気配を察した。軍人ではない。どうやらギャラリーに上ってきた敵がここまで辿り着いたらしい。気がつけば最初からギャラリーにいた軍人の半数は姿が見えなかった。倒れているのか、それとも落ちたか。いずれにせよ職務を果たしていない。
「口ばかり偉そうな役立たずどもめが」
舌打ちしながらライフルを置き、腰の拳銃を二挺とも抜く。こちらへ向かってくる敵は一人じゃない。さっさと片付けてしまわなければ次の攻撃ができない。
右から向かってきた一人を倒し、ほぼ同時に左も撃つ。まだいる、と認識したのと、顔面に衝撃があるまでに差はなかった。かしゃん、と音をたてて何か落ちる。二つ。
「どうだ、お嬢ちゃんよ。眼鏡がなきゃ得意の銃も使えまい」
頭の悪そうな声がする。こめかみに手をやると、何かぬるりとしたものに触った。いつも着けているはずの眼鏡は触れない。落ちたものの一つはこれか、と認めた。――敵は認めさせてしまったのだ。
メイベルは躊躇なく、拳銃の引き金を引いた。弾丸は先ほど喋った人物の右手と左足を貫き、耳障りな悲鳴をあげさせる。
「くそ、自棄になったか?!」
「自棄? お前は大きな勘違いをしている」
痛みに呻きながらも叫ぶ相手に、メイベルは実に丁寧に応対した。狙撃手の視界を奪おうと考えたこと、そうして投げた短剣が見事に的中したことは褒めてやってもいいと思ったのだ。この暗闇の中、メイベルが眼鏡をかけていることに気づき、行動できた。普通ならば手柄だろう。
「お前はいい腕を持っているのに頭が悪かったな。そんなに汚い声で喋れば厭でも居場所がわかる。それとこれは気づかなくても仕方がないだろうが、私の眼鏡は補助具ではなくアクセサリーだ。度は全く入っていないから、かけようと外そうと視力や視界にさほど変化はない」
相手が後退る。こちらの種明かしに驚いているのではない。顔には恐怖がべったりと貼りついている。
「だが、あの眼鏡は愛しい者が似合うと褒めてくれた特別なものでな。……したがって、お前の行動は万死に値するものだ」
銃口を相手の頭に向けたまま、メイベルは再び引き金を引く。軽い音と焦げる匂い、人が倒れて響いた振動が伝わる。手を一旦おろし、曲がってしまった眼鏡を拾いながら、嗤った。
「頭のてっぺんを掠めただけなのに、気絶したか。イリスが殺すなというから手加減してやったんだ、感謝しろ。……とはいえ」
拳銃をホルスターに収め、ライフルを階下に向け直す。先ほどより立っている人数は減っていた。
「標準替わりがなくなったから、うっかり外しても知らんぞ?」

フィネーロが鎖鎌を使いこなしているのを見、威勢よく鳴り響く銃撃の音でメイベルの無事を確認する。ここに集った軍人たちは誰もがよくやっていると思う。よくやっているはずなのだが、相手のほうが明らかに王宮襲撃犯たちよりも数段上の腕を持っている。ルイゼンでも一人ずつ相手をするのがやっとだ。
かろうじて後ろをとられないのは、誰かのサポートがあってのことだ。それは上司であったり、部下であったり、フィネーロやメイベルであったりした。
力の足りなさが歯痒い。実力が認められてきたとはいえ、まだ勝ちたい相手には一度も勝ったことがないのだ。そもそも、ルイゼンが順調に階級を上げて小班のリーダーでいられるのは、対人関係の立ち回りが上手かったためというのが最もたる理由だ。力ではイリスに、技術ではメイベルに、頭脳ではフィネーロに劣る。上なのは年齢だけかと嗤われたことだって、仲間が知らないだけで、一度や二度ではない。
だから二年前、ほんの少しだけレヴィアンスに親近感を抱いていたことがあった。ゼウスァートの名を背負って大総統となった彼を呼ぶとき、誰かしらが頭に「名ばかり」とつけて嘲る。その直前に軍を去っていった他の先輩、主にニアやルーファと比べて、実力がないと評する輩も見てきた。表面上は「戦闘スタイルから性格まで何もかも違うのに比べても仕方がない」と言っていたが、ルイゼンだってそう思わなかったことはなかったのだ。
だが、そんな暗い同類意識などは簡単に切り捨てられた。名ばかりと罵られても、兵器と称されるほどの恐ろしい力を持っていなくても、頭脳や技能の安定性が他と比べて低いと評価されても、レヴィアンスは自分の力で大将格に上り詰めている。それどころか先々代大総統ハル・スティーナが現役だった頃は、身内だから贔屓されていると思われないよう、階級がなかなか上がらなかったという話まである。いざ現場に出てみれば、その戦闘センスは計り知れず、もちろん指揮も申し分ない。少しでも自分と似ていると思ったのが恥ずかしかった。そんなのはルイゼンの思い上がりだった。
幼い頃から軍人に憧れ、軍家を尊敬していた。けれども一番憧れていたインフェリア家の、それも一歳年下の女の子に喧嘩で負けた。やっと軍人になった頃、ニアに「これからよろしく」と笑顔を向けられて、いつか彼のように強くなりたいと思った。しかし試しに手合わせをしてもらって、現時点ではあまりに遠すぎる目標であることを思い知らされた。イリスたちが入隊してきて一応は先輩となり、レヴィアンスの提案で班を組んでリーダーに抜擢された。だがその実力は後輩であるはずの彼女らのほうが上で、今もそれは変わっていない。イリスには、まだ一度も勝てたことがない。勝てないからか、男として見られたこともない。
今、戦っているこの瞬間にも、緊張すればするほど「情けない」と心の内から罵られる。「このままじゃ次こそ勝てないぞ」と、自分の声で囁かれる。目標はまだ遠いし、仲間には助けられっぱなしだ。
――だからこそ、俺が真っ先に倒れるわけにはいかないんだよ。
情けなくても先輩だ。佐官だ。リーダーだ。仮にも肩書を持っている以上、せめてそれに恥じないよう、立っていなければならない。さっきまで大総統と並んでいたこの足を折ることなく、剣を振い続けなければ。
短剣一つに負けていたら、それこそ一生勝てない気がする。イリスに、先輩たちに、――何より、自分を罵り続ける自分自身に。
やっとの思いで短剣を振り払ったその相手は、しかし体術に長けていた。あいた両手でルイゼンに掴みかかり、逃れようとする暇も与えずに床に叩き伏せる。これまでに相手をした中で、一番強かった。戦い慣れしていることは明白だ。剣をルイゼンの手から奪い、切っ先をこちらに向ける。
――倒れるわけにはいかないのに。
もがこうとすればするほど、体の自由は奪われる。「ここまでだな」と自分の声がする。いつも一緒にいるせいか、勘がフィネーロとメイベルがこちらに気づいたことを教えてくれた。でも、鎖も弾丸も間に合わないだろう。
「ルイゼン君、何をぼんやりしているんです」
目を閉じかけたとき、急に体が軽くなった。締め付けられていた腕や足は自由に動く。ハッとして立ち上がると、すぐ傍には意外な人物がいた。
穏やかな笑みを口元に、けれども目は鋭く敵を射貫いている。今ルイゼンから除けた相手だけではなく、この公会堂全体を見ているようだった。
「ガードナー大将……まだ病院にいるはずじゃ」
「抜け出してきました。閣下の一番お忙しい時に、寝てなんかいられません」
大総統補佐レオナルド・ガードナーは、手にした剣を美しい仕草で鞘に収めた。そして落ちていた剣を丁寧に拾い上げ、ルイゼンに差し出す。
「閣下のところに、イリスさんもいるのでしょう。だったらあなたも、彼女が存分に戦えるよう、舞台を整えるべきでは?」
「で、でも……俺、イリスより弱いですし。今の見たでしょう、大将が来てくれなかったら……」
「今更何を言っているんです、大総統代理まで務めておいて。閣下から聞いてますよ」
剣を押し付けられ、受け取りながら記憶を探る。何のことだと思ったが、それはわりと最近で、けれどもまるで遠い昔のことのようだった。ガードナーの見舞いにレヴィアンスとイリスが二人で行ってしまったとき、ほんの短い時間ではあったが、あの立派な部屋の守り手はルイゼンだった。
「あんなの代理とはいいません」
「今はあなたの言い分を聞いている時間がありません。ただ確かなのは、あなたはたった小一時間だとしても、イリスさんはもちろん、私よりも立場が上だったんです。それも閣下に直々に任されるなんて、私ならただただ幸せです」
ルイゼンに言葉を返しながら、ガードナーは剣を抜き、また一人倒した。そしてもう一度笑う。
「ね、一介の大総統補佐である私ができるんです。あなたにできないはずはありませんよ、大総統代理」
無茶苦茶なことを言う。もしかしてレヴィアンスがこの人を補佐にした本当のポイントは、清廉さや気配り、忠実さといったところではなかったのではないか。この暴論はまるでイリスレベルだ。
「無理です。大将のようにはできません」
言葉とは裏腹に、口の端が持ち上がる。
「だから俺は、自分のやりかたで頑張ります」
情けないことなんて、弱いことなんて、自分が一番よく知っている。それでも強さを引き出してくれる人がいて、一緒に歩いてくれる仲間がいて、――この手で守りたいものがたしかにある。
「大将、今の俺には自分の背中まで守る余裕がありません。ですから、閣下たちのところへ辿り着くまで頼んでいいですか」
「ええ、閣下の代理を務めあげたあなたの頼みです。何なりと」
対人関係の立ち回りになら、多少は自信がある。使えるものは何でも使えとは、古くは誰に教わった言葉だったか。まあいい、考えるのは後だ。
剣を手に先ヘ進む。目標を定めてしまったのだから、目指すしかない。助けられることの何が悪い。それも全て、自分が培ってきたもののおかげで差し伸べられる手だろう。
その手を頼りに進むのだ、やはり真っ先に倒れるわけにはいかない。

眼の力はいつでも最大出力にできる。制御していても今は効果を発揮していて、少し相手を睨んでから得意の蹴りを繰り出すと、あまり抵抗されずきれいに決まる。暗闇で人や物を認識するのにも役に立つので、卑怯かと思いつつも完全に力を閉じてしまうことはできない。
その状態で、イリスはレヴィアンスの周囲を守っていた。自分でどうにかできる範囲はいいから、と言われたので、ギリギリ手の届かないラインから向こうの敵を倒している。少しでもレヴィアンスに近づかせないように。けれども深追いはしないように。あまり動きまわって自分が邪魔になってはいけない。
レヴィアンスは最初の敵を倒した直後、「オレは自分のことは自分で何とかするから」と傍で控えていたイリスに言った。
――だからイリスは、無理してオレを守ろうとしなくていい。
そのときは、オリビアの言葉やガードナーと話したことが一気に思い出されて、怒鳴りそうになった。代わりがいるから、なんて言いだすんじゃないかと、もしそうなら殴ってやろうかと思ったが、その前に続きが告げられた。
――オレだって動かなきゃ、みんなに申し訳ないじゃん。ただでさえお前が眼の力使っちゃってるから、ニアにばれたら耳引きちぎられるなーとか思ってんのにさ。もちろん最強のオレにも限界はあるから、イリスにはできる限り手前で敵を止めてもらう。お前まで勝てないようなやつが来たら、こっちにまわしてよ。お前よりオレのほうがずっと強いんだから、そのほうがいいだろ。
言い返すことはできなかった。レヴィアンスのほうが強いのは確固たる事実で、その上でイリスにも大役を任せてくれている。とても自分が退くことを考えているとは思えない口調と表情を疑うことはできず、そのまま定められたラインを守って戦っている。
とはいえ、ここまで来るような敵はさすがに強い。イリスは眼の力があるからいいものの、そうではない佐官たちが倒されそうになるのを間近で見てしまうと、この位置にいることがどんなに危険なことなのか痛感させられる。
将官以上は、どんなに腕がたつ者でも、司令部に残された。停電の対応にそれなりの肩書のある者が必要であることと、再び司令部が襲撃されることを想定してのことだそうだ。メイベルが「後釜確保のためじゃないのか」と言ってドキッとしたが、ルイゼンがすぐに「閣下がそんな弱気なこと考えるわけないだろ」と返してくれたので頷いておいた。そうに決まっている。……でも。
「……っ! あぶな……」
考え事をしていたほんの一瞬で、敵は近づいてきていた。短剣の刃がイリスの頬を掠め、ちりっとした痛みが走る。レヴィアンスと対決したときに擦りむいた場所だ。やっと傷がわからなくなってきたところだったのに。
「油断してたわたしが悪い、か」
剣を構え、相手の目の前に飛び込む。イリスの勢いと眼の力に怯んだ相手の腹を蹴り、おまけに斬りつけた。しばらくは起き上がるのが難しいだろう。これで油断の分は取り戻した。
息を吐いて周りを見回す。レヴィアンスはまだ無事のようだ。というか、無事でいてくれなくては困る。景気の良い破裂音がするから、メイベルも動いている。本当に容赦ないな、と少しだけ呆れながら、視線を横に滑らせた。
その瞬間が目に飛び込んでくる。持ち主の手を離れた剣が宙に舞い上がる。剣を弾き飛ばした短剣の切っ先は、標的を人間に定めた。イリスと同じラインで戦っていた、トーリスに。
「大佐!」
イリスは床を蹴り、全速力でトーリスを目指して駆けた。トーリスの剣が床に落ち、衝撃で小さく跳ねる。敵の短剣はイリスの剣に止められ、標的には届かなかった。なんとか届かせなかった。だが。
「インフェリア……お前今どこから」
「いいから大佐、ここから離れて! 早く!」
背後からの呆けた問いに怒鳴るように返す。丁寧に答える余裕なんかない。相手が使っているのはただの短剣だ。きっと今までにも使われていた、ウィスタリアで量産されているものだろう。ここまでいくつも弾き返し床に叩き落としてきたものと同じはずだった。
けれどもかかっている力が、持ち主の使い方が、他とはまったく違う。この相手がはるかに強かった。イリスでも剣に手を添えて受け止めるのがせいいっぱいなのだ、武器を持たないトーリスがここにいるのは危険すぎる。
「早く武器を拾いに行って!」
「わ、わかった」
トーリスが慌ててその場を走り去ったのを確認して、イリスは剣を持つ手に力と少しの捻りを加え、短剣を押し返す。けれども勢い余って後退った。トーリスがいたら一緒に転んでいたところだ。
「なるほど、インフェリア……か。貴様が地獄の番人の末裔なのだな」
相手が低い声で笑う。情報と違うが、と呟いたのは、彼が得ていたのが兄の情報だったからかもしれない。見た目にはイリスは兄とあまり似ていないし、父とも髪や目の色が違う。だがたしかにインフェリアの人間なのだ。
「そうよ。インフェリア家次代当主候補よ」
返答しながらもう一度剣を構え、相手の顔を見る。年の頃はレヴィアンスや兄らと同じくらいだろうか。つまりイリスとは一回りくらい違う印象だ。目を合わせようとしたその刹那に、相手は再び短剣を繰り出してきた。イリスに向かって、真っ直ぐに突いてくる。振り下ろすよりも確実性のある攻撃だ。
それを再び剣で受けて止めた。もちろん切っ先をピンポイントに止めるなんてことはできないから、刃が届く前に柄を捉える。これくらいのことなら、ダガーを扱うレヴィアンスと昔から練習してきた。けれども慣れない一撃は重く、足にも腕にも力が入る。歯を食いしばって押し返そうとするが、さっきよりも強い。びくともしないどころか、逆にこちらが押し出されてしまった。よろけた足を即座に立て直し、イリスは相手を睨んだ。
――ああ、こいつ、すごく強いな。司令部の佐官たちより強い。
トーリスが剣を弾かれたのも納得だ。彼もそこそこ強いはずなのだが、この相手にはきっと敵わなかっただろう。イリスはトーリスと勝負をして勝ってしまったことがある。彼の実力は知っていた。
――でもね、わたしには奥の手がある。誰にだって負けない力が。
相手の目を、自分の眼で捉える。完全に合ったと感じたところで目を大きく開き、最大出力。周囲にいた敵や軍人が、力にあてられてふらつき始める。焦点を目の前の相手だけに合わせ、眼の力を集中させた。
王宮では敵を全滅させた力だ。自分でも化け物じみていると思う。でも、頼れるときには頼って、ことを有利に運ぶのがイリスのやり方だった。そのために敵の目の前に飛び込むという戦法をとってきた。
「どうした、動かないのか」
だが、相手はゆっくりと口を開いた。普通なら眩暈がして立っていられなくなるほどの力なのに、目の前の彼は微動だにしていなかった。それどころか冷静に周囲を見て、もう一度イリスの眼を見返した。
「貴様は今、何かしているのか? 何か魔物じみた……こちらを見たままということは、もしや眼に何かあるのか」
「……そんな」
相手が一歩、こちらに近づく。倒れる気配はなく、眩暈も吐き気も起こしているように見えない。顔を顰めていないから、頭痛もないのだろう。怖いという感覚も持っていないようだった。イリスが力を制御していても、眼を見て怖いと思う人はいるというのに。――彼には、全く効いていないのだ。
「何かあったとしても、俺には通用していないようだな」
再度短剣を構えようとするその前に、イリスは相手の懐に飛び込もうとした。剣で斬りこみ、もっと近付いて力を使おうとしたのだが、短剣に簡単に払われた。やはり眼は効かない。一瞬、かなり距離を詰めたはずなのに、相手は全く怯んだ様子がなかった。
わかった、とイリスは歯噛みする。これがレヴィアンスの言っていた「先がない」だ。眼に頼るための戦法だけにとどまっていれば、眼が効かない相手と戦えない。実際、同じく眼の力が通用しないレヴィアンスや兄らとは、眼を使わない勝負をしなければならなかった。使わずに勝てなければいけないと思って、最初から封印していた。
眼が使えないのなら、他の方法で戦わなければ。イリスは剣を構え、相手に正面から突進した。相手が短剣を構えて剣を防ごうとしたのが見えたその瞬間に、大きく跳躍する。相手の頭上を越え、こちらを見上げる目と眼が合った。眼は全開のままだったが、やはり効いてはいない。頭を切り替え、空中で体を大きく捻り、足を勢いをつけて伸ばした。空気を切るような音の後に、鈍い音と衝撃が伝わる。イリスの渾身の蹴りは、相手の横っ面にきれいに決まっていた。
その一撃で力が抜けたのか、相手の手から短剣が零れ落ちる。しかし床に落ちたそれよりも、イリスの目は彼の背中に惹き付けられていた。今まで正面からしか見ていなかった。相手の目を見ようと必死だった。だからそれに気づかなかったのだ。
彼は、背中に大剣を背負っていた。
イリスが着地したとき、彼は左手で頭を押さえながらも体勢を整えようとしていた。そして右手は、背中の大剣の柄にかかっていた。柔らかな革の鞘から取り出される刃は、暗闇の中にもかかわらず輝いて見える。
兄が持っているそれに、引けを取らないほど美しい。イリスは思わず息を呑んだ。
「インフェリアの娘が本気を出しているのなら、こちらも相応の態度で臨まなくてはなるまい。ゼウスァートを手にかける前に、まずは貴様だ、地獄の番人」
完全に姿を現した大剣が、片手で高く掲げられる。そしてその広い面が、イリスの前に降って、いや、落ちてきた。
「っ?! 重……っ」
かろうじて剣で受け止める。だがこちらは両手でなんとか、一方相手は片手でこの金属の塊を操っている。どんどん体が圧し潰されていくのを感じる。足に力を込め、その場で踏ん張る。この感覚は初めてではない。前にもっと重いものを受けている。受けて、押し返したことがある。
「重いけど……っ、お兄ちゃんのよりは、軽い!」
全身の筋肉とばねを駆使して、大剣を押し返す。少し上に持ちあがったところで、にやりと笑ってみせた。これくらいで負けていたら、イリス・インフェリアの名がすたる。
相手は瞠目したが、表情に乏しい。けれどもイリスに眼以外の力が十分に備わっているということは認めさせられたはずだ。その証拠に、大剣にかかる力がわずかに緩む。その隙を狙って、一気に体を伸ばし、大剣を退かした。
「……俺の剣を押し返した奴は初めてだ」
「どうよ、記念すべき第一号は?」
イリスはすかさず相手に斬り込んだが、大剣の面に防がれる。そうだ、この剣は楯にもなるのだった。おまけにリーチが長いから、こちらが一太刀浴びせたいのなら相手の懐に入る必要がある。その方法を考える暇も与えてくれず、相手は剣を大きく薙いだ。片手なのに、空間を丸ごと切り裂くような勢いだった。とっさに飛び退いて躱したが、あの刃に当たれば体は真っ二つになり、生きて公会堂を出ることはできないだろう。
そんな相手の懐に、どうやって潜り込めばいいのだ。後ろに回り込むにしても、きっと大剣が追いかけてくる。その場から動かずとも、自らが向きを変えるだけで広範囲の攻撃が可能なのがあの武器だ。それは兄を見ていていやというほど知っている。遠心力を味方につければ、先ほど以上の勢いを持った剣捌きが可能だろう。そもそも自分の力だけで、あの巨大な剣を操ることのできる相手だ。兄ともわけが違う。
もしも兄以上の力の持ち主だったなら、イリスは勝てない。
振り上げられた刃が、暗闇でもはっきりと見える。躱さなければならないのに、足はまるで痺れたように、うまく動かない。剣の柄を持つ手が震え、こめかみを冷や汗が伝った。
「あのさあ、オレ言ったよね。勝てないようなやつはこっちにまわせって」
大剣を振り上げていた彼が呻き、わずかにふらついた。反射的にイリスの足は動き、その場から退く。標的を見失った大剣の刃が、どん、と音をたてて床に刺さった。
相手の背中に、何かが二つ突き立っている。イリスの目は、それが柄に紅玉をあしらったダガーナイフであると、はっきりと捉えていた。
「頑張る姿勢は大変よろしい。でもさ、お前はもうちょっと周囲の人間の上手な使い方を覚えないと」
三本目のダガーを手で弄びながら、レヴィアンスがこちらに向かって、にい、と笑った。
「レヴィ兄……。ありがと、助かった」
「たまたまタイミングが良かっただけ。助けてほしいならそうちゃんと言えよ」
イリスが笑い返すと、レヴィアンスは少し呆れたようだった。しかしすぐに表情を引き締め、今なお大剣を離さない彼に一歩一歩近づく。
「軍にいたなら将官レベルだね、もったいない。ここにいる中では、お前がたぶん一番強いよ。単純に力がある上に、大剣の使い方もなかなかだ」
「レヴィ……レヴィアンス・ゼウスァート……!」
真のターゲットが真後ろにいる。彼にとってこれ以上のチャンスはないだろう。イリスが声をあげる前に、彼は大剣を持ち上げ、振り向きざまに薙ぎ払った。――宙を。
レヴィアンスは攻撃をバク転で躱すほどの余裕があり、着地ついでにダガーをもう一本相手に向かって放った。彼の注意がダガーに向いているのを見て、イリスは剣を握りなおした。
――ここで動けなきゃ、わたしじゃない!
刺さったままのダガーを避け、イリスは相手の背中を斬りつける。確実な手ごたえがあった。彼の纏う厚くて丈夫な黒服の、その向こうまで刃が届いた。呻き声とともに彼はこちらを振り向き、イリスを睨み付けた。初めて見せる憤怒の表情だ。
怒りは彼の右手へ。背中に血が滲んでもなお、彼は体勢を崩さなかった。大剣に左手を添えて、言葉にならない声をあげる。獣が吼えるような声とともに、大剣が大きく振られた。
彼を支点に、刃が一周する。空気が裂かれ、その勢いの所為か、それとも見えない圧なのか、大剣を躱そうとしたイリスはよろけて後退り、そのまま後ろに倒れた。
「いたた……。あ、」
尻もちをついていたイリスの目の前に、彼がいた。大剣を両手で掲げ、そしてイリスに向かって振り下ろそうとしていた。もう彼にも余裕はなく、おそらく何の躊躇いもなく、このまま巨大な刃は落ちてくるのだろうと思った。思ってしまった。
――負ける。
その言葉を心の中で呟いてしまったら、もう指先すら動かせなかった。
「イリス――!!」
目の前が真っ暗になる。もともと真っ暗だったが、もっと暗くなった。どんなに目を凝らしても、何も見えなくなってしまった。

背中を思い切り擦った後に転がった、と思い返せたのは随分後だった。気がつけば――そう、気がつけたのだ――視界はもとに戻っていて、体には重いものが覆いかぶさっていた。いや、抱きしめられていた。
「……レヴィ兄?」
頭を動かせば、すぐ横に見慣れた顔があった。けれどもいつもの余裕ぶった笑みではない。汗が浮かび、眉間にはしわがある。もう少し頭を持ち上げて、イリスは目を瞠った。
イリスを抱きしめるレヴィアンスの、長かった髪がない。高く結っていた豊かな髪は、ばっさりと切られていた。そしてもっと向こうを見れば、濃い黒に染まった足。暗闇の中でも、イリスにはすぐに血だとわかった。
「ちょっと、レヴィ兄。なんで……」
「なんでも何もないだろ。お前に何かあったら、どれだけの人間が悲しむと思ってる。オレはニアやカスケードさんたちに、何て言い訳すればいい」
怪我が痛むはずだ。喋る余裕なんかないはずだ。だが、レヴィアンスの言葉には少しもよどみがなかった。はっきりと、イリスの耳に届いていた。
「お前はさ、ちゃんとオレの隣にいてくれなきゃ、困るんだよ」
そんなのはわかっている。イリスだって、レヴィアンスの隣にいたい。だから一緒に戦うと決めた。どこまでもついていくと宣言した。
それができなくて、大総統補佐なんか、名乗れるものか。
右手は剣を握ったままだ。少しも動かなかった指が、ほんの少しの幸いをもたらしていた。そっとレヴィアンスから離れ、イリスは立つ。今立ち上がれるのは、自分だけだ。
相手はまだ大剣を持って立っていた。こちらを見る目がギラギラしている。仕留めそこなった、という微かな悔いも見えた。
「あんたの目的とかはどうでもいい。そんなのはあとで聞き出してやるから」
剣を構えると、相手も大剣を構えた。薙ぐ構えだ、と頭が冷静に判断した。
「ただ、わたしは。……あんたを倒さないと怒りが収まんないのよ!」
大剣が宙を薙ぐ。同時にイリスは跳躍し、大剣の上面につま先で降り立った。そのまま剣を振り上げ、再び跳ねる。
「あぁぁぁあぁぁあああぁぁぁあ!!!」
響き渡る咆哮とともに、イリスの刃が相手を切り裂いた。左肩から袈裟懸けに、一閃が走る。
彼の左手が大剣から離れて、だらんと下がった。
「……見事な戦いぶりだった、インフェリア」
相手はどういうわけか、穏やかな声で言った。心の奥にまで染みるような、低い声。
「だが、やはり俺のほうが上だ」
彼は右手を振り上げる。大剣を持つ、その手を。数歩進めば、そこには動けないレヴィアンスがいる。
「待て……っ」
イリスが左腕を掴んで止めようとしたが、強く振り払われた。まだそんな力が残っているのか、とそんな場合でもないのにどこかで感心してしまった。
あと何歩で、彼はレヴィアンスに辿り着いてしまうだろう。
「やめろおぉ!!」
イリスはもう一度手を伸ばした。だが、それは届かず。
代わりに銃声が響き、鎖が彼の右腕に絡み、その行く手を二人の軍人が阻んでいた。
「遅くなってしまい、申し訳ありません。閣下」
「イリス、お前は無事か? 怪我は?」
「ゼン……それに、ガードナーさん……」
フィネーロが鎖を引いて相手を倒したのと同時に、イリスは床にへたりこんだ。右肩の銃で撃たれた新しい傷から血を流す相手の向こうに、上半身を起こして目を丸くしているレヴィアンスが見える。
「レオ、お前なんでここに」
「エイゼル先生が、病院の抜け道を教えてくださいました。閣下にはお怪我をさせてしまったので、完璧な仕事はできませんでしたが……」
「でもほとんどの敵は大将が倒したんですよ」
いつのまにか、あたりは随分と静かになっていた。敵は床に倒れ、味方も座り込んだり、立っている者も疲れた顔をしている。――どうやら、終わったらしい。
「レヴィ兄」
イリスは呼ぶ。何が何でも守りたいと思った、その人を。
「生きてるよ。……一緒にあがいて、生きたよ。ほらね、わたし、嘘つかなかった」
「うん、お前は……お前らみんな、よくやった。イリス、ここまで来られる?」
頷いて、立って、走った。敵を越えて、腕を広げるレヴィアンスの胸に飛び込む。ぎゅっと抱きしめ、生きている証を、鼓動を、しっかりと聞く。
「良かった……良かったあ……。レヴィ兄が生きてる。わたしも、みんなも。ねえレヴィ兄、生きてるんだから、大総統辞めたりしないよね。わたしとガードナーさんは、レヴィ兄の補佐でいて良いんだよね」
「当然。まだまだやることいっぱいあるし、辞めるわけにはいかないよ。オレを誰だと思ってんのさ」
顔をあげて、目に溢れそうなくらい溜まっていた涙を手でごしごしと拭いたら、笑顔が見えた。明るくて余裕ぶった、昔から大好きなその人の顔が。
「レヴィ兄は、レヴィ兄でしょ」
「そりゃそうだ」
レヴィアンスと笑いあっていると、ルイゼンに肩を叩かれた。フィネーロがぼそりと「狙撃手が閣下を狙ってる」と言うので、イリスは慌ててレヴィアンスから離れた。当のレヴィアンスは苦笑するばかり。
「では、閣下。みなさんに招集をかけて、この場を片付けましょう。怪我人も大勢いますから、すぐに救急隊を呼ばなければなりませんね。電気も復旧させてもらうよう連絡を。分担して行いましょう」
「だね。さあ、これからが忙しいぞ」
「おーい、ベルー! 降りてきて手伝ってよー!」
敵四十八名を確保。軍の負傷者多数も、死者は双方ともになし。
公会堂設備、その他機器等多々破損。
大総統暗殺計画、阻止。



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2016年11月12日

開眼の抗

司令部襲撃の一件は、一般市民には知らされていない。軍内で片付け、一部の「協力者」のみに報告することになった。大総統暗殺未遂事件というかたちで世間に広まると、国をまとめる柱の一つという大総統の地位が揺らいでしまう。第二十八代大総統のときに頻発した司令部襲撃未遂事件やその対応、市民の反応の記録や証言を参考に、レヴィアンスは行動を決めていた。
当の二十八代目――カスケード・インフェリアは、報告を受けて眉を顰めた。いつもなら電話で済ませるところを、今回は直接インフェリア邸を訪ねたので、表情がよく見える。おそらく報告や相談をするたびに、こんな顔をされていたのだろう。
「……というわけで、やつらの予定通りなら、次は王宮が狙われるはずです。近衛兵となにより女王陛下が今までにない強さを誇っているので、まず心配はないと思うんですが」
「うん、今代の王宮のガードが堅いのは俺もよく知ってる。オリビアちゃんも、できれば軍の干渉なしにことを片付けたいと思っているんだろう」
レヴィアンスが頷いたのを見てから、カスケードは傍らにあった瓶を手にしようとする。だが寸前で止められた。
「お父さん、わたしがやるから。飲みすぎたら後が大変でしょう」
「俺は飲みすぎないよ、イリス。レヴィに注いでやろうと思ったんだ」
「一緒に飲んだら、先に潰れるのはお父さんだよ。ほら、貸して」
これまでの二年、レヴィアンスは大総統という立場にあって、多くの人の力を借りてきた。だが、イリスの目の前でカスケードと仕事の話をするのは、これが初めてだ。こういうときのカスケードさんは潰れないから大丈夫、と言っても、イリスはなかなか信じないだろう。なにしろ彼の実の娘だ。父のことはレヴィアンスよりも知っていると思っている。
もっともイリスの中での「酒に酔いやすい」基準が、笊である実兄なので、そもそもあてにならない。あの酒豪と比べればみんなすぐ潰れることになる。
「とにかく心配はしてないんですけど、念のために動く準備だけは。佐官をリーダーとした特別班を作ってます」
酒を注がれたグラスを傾けながら話を元に戻すと、海色の瞳が光った。
「名目は」
「佐官以上には先に裏とは異なる勢力への注意について話してあったので、それをそのまま使ってます。まずかったですか」
「全くの嘘よりいいけど、あまり話が大きくならないようにな。市民の生活を圧迫するようなことがあっちゃいけないし、それにはもちろんのこと軍人も含まれている」
「ですよね。……ううん、やっぱりまずかったかなあ」
「このことに関しては、俺はもう何も言わない。レヴィが判断しろ」
先人への相談はいつもこうだ。レヴィアンスがやったこと、思うことを話す。一言二言は相手も考えを述べるが、適当なところで決断をこちらに委ねる。結局そうしなければならないのだから、と。
だが今日は、それだけで終わらない。カスケードにも一つ、決めてもらわなければならないことがある。
「とりあえずこのままやってみます。今夜はもう王宮に人を遣ってますし、女王の了承も得ました。事後承諾になりましたけど、普段オレを急に呼びつけてるんだから、これくらいの仕返しはしないと」
「誰から習ったんだ、その手口は。……それはそれとして、そろそろ本題に入ってもらおうか」
決めなくてはならないということを、この人もわかっている。
グラスをテーブルに置き、カスケードとまっすぐに向き合って、口を開いた。
「お父さん、わたし、レヴィ兄についてくけど良いよね」
が、開いたまま音を発することはなかった。レヴィアンスが一瞬でも言うのを躊躇ったそれを、イリスはあっさりと、それも反対の余地を与えずに言ってしまった。
さすがにこれにはカスケードも驚いたようで、目をしばたたかせている。そうしてようやく発した言葉には、嘆息が混じっていた。
「……レヴィ、女の子に先に言わせるのはどうかと思うぞ」
「オレもこんなはずじゃなかったんです」
「もう決まってることなのに、今更女だとか関係ある? とにかくわたし、たとえお父さんが止めても聞かないから」
思えば昔から強情ではあった。イリスは兄によく似ていて、そしてたしかにインフェリアの血が流れているのだ。レヴィアンスは血脈信仰信者ではないが、インフェリア家の人々を見ていると、受け継がれているものを意識せざるをえない。
さて、この娘の態度に、父はどう出るのか。相手が息子なら口喧嘩が始まるらしいが。
「聞かないよな、そうだよな。お父さんは止めたいんだけど、元大総統としては止められないんだよな」
ハラハラしていたようなことは、どうやら起こらないようだ。カスケードは腕組みをしながら溜息を吐いて、それから僅かに目を細めた。何か懐かしいことでも思い出すかのように。
「大変なことに巻き込まないように気をつけて、短い間に補佐を何度も変えた俺だけど。それも結局、いいことではなかった。イリスが自分の仕事を全うするつもりなら、俺に止める権利はないと思ってる」
「権利がないとまでは思わない。わたしが仕事を全うできると思ってくれてるならいいよ」
「生きて帰ってくるのが前提の話だからな。その点は昔からあんまり心配してないんだ。俺に似てるし」
ついレヴィアンスも頷いた。激動の時代を生きる猛者に似ているのだから、あの言葉は本物で、実現されるのだろう。――「レヴィ兄とわたしで生きるだけ」。それ以外の道などありえないのだと、イリスは全身全霊で吼えていた。今、この瞬間も。
「そういうわけだ、レヴィ。心配はしてないが、俺と同じで突っ走るところがあるから、それだけ気をつけておいてくれ。いつのまにか立場が逆転してる、なんてことのないように」
「せいぜい気をつけます」
いつかつけた名に偽りはなかった。獅子の子は獅子。レヴィアンスの相棒は、番人の名を背負う娘。エルニーニャの獅子姫だ。千尋の谷を越えて空に咆哮を轟かせるのだ。
「わたしってお父さんに不思議なくらい信頼されてるけど、どうしてお兄ちゃんと扱いが違うの?」
「二人とも信頼してるし、同じように大切だぞ。あ、帰り危ないから今日は二人とも泊まっていけ」
けれども親獅子は一つだけ嘘を吐いたようだ。相変わらず下手な、すぐにばれる嘘を。心配しまくりじゃん、という言葉は思うに留めておいたレヴィアンスだった。


ウィスタリアにいるフィネーロの兄、アルトからの連絡が若干遅い。この問題の答えがようやく見つかったが、判明してもすっきりしなかった。
「エルニーニャとウィスタリアのあいだで、通信障害が発生しているようです。調べてもらったところ、兄がウィスタリアに到着して以降、他の多くの通信機器で同じ問題が起きていました。もっと早くに気づけたら良かったのですが」
「いや、報告ありがとう、フィネーロ。……ウィスタリアから警戒されてるね。直接対決しなきゃいけないやつらにばれてなきゃいいけど」
「ばれていたら、兄から連絡が来るはずがありません」
だよねえ、とレヴィアンスは眉間のしわを揉んだ。これまで西との国交に気を配らなかったツケがまわっている。おそらくウィスタリア側はアルトを学者として受け入れつつも、その経歴――元エルニーニャ王国軍北方司令部の人間だということで、信用してくれなかったのだろう。なにやら通信の可能な機械を持っているということはわかっていて、その上でエルニーニャとの連絡に支障が出るよう仕向けたのだ。
「なんかそれ、卑怯じゃない? ウィスタリアってそんな国だったっけ」
イリスが憤慨すると、レヴィアンスは腕組みをして唸った。
「それを調べてもらってるんだけどね、おなじみ北の大将殿に。政治家の大規模な汚職っていう苦い過去を持ってるノーザリアは、この手の話題に敏感だ。他国に異常があったとき、それを見破るのは得意なんだけど……できたとしても、オレに教えるのが難しい。公になれば、北と癒着しすぎだって、オレはまた西の不興を買うだろうね」
「なんでレヴィ兄も、そういうことをダイさんに頼んじゃうの……」
「頼む前にやり始めてくれたんだよ。あの人、危険薬物関連事件と政治腐敗に執着してるから。ついでに他国に乗り込むのが大好き」
とんでもないことを聞いた気がするが、それはこの際置いておこう。味方がいるとだけとっておく。そして味方の中に、ウィスタリアは含まれていない。
レヴィアンスを狙う血脈信仰信者の過激派連中は、歴史を繰り返したがっている。何のためか、はイリスもレヴィアンスとカスケードの話を聞いて、少しだけ理解した。
ゼウスァート姓の大総統は、大総統政を始めた人物だ。彼が斃れた後も、エルニーニャは長いあいだ、大総統が頂点に立つ政治を行なってきた。そして王宮は王国の名を支えるために置かれた飾り物だった。この状態を歴史通りにつくりだしたいのならば、彼らの目的は大総統単独政治の復活ということになる。
対してウィスタリアの考えは、親交のあるエルニーニャ王宮による王政復古にあるのではというのが、レヴィアンスの予想だった。ウィスタリア政に関わる上層部は、エルニーニャ王宮に情報を流して、迫る危険を回避させようとしている。エルニーニャ軍との接触を避けているのは、その地位が貶められることになっても損がないからだ。これにはカスケードも、明言を避けつつ、ほぼ同意している。
血脈信仰過激派とウィスタリア政府は異なる考えを持っているために、協力はしない。だがどちらもエルニーニャの現体制、軍と王宮と文派による三派政を崩したがっているのだ。
だがレヴィアンスは、何としても現体制を守りきらなければならない。先々代ハル・スティーナが、苦労の末に確立させたものなのだ。三派会は正直言って好きではないし面倒だが、各勢力がバランスを保って協力していくやりかたは間違っていないと思っている。そしてこのやりかたを真の意味で完成させることができるのは、最も三派が協力しやすい状態にある今だ。それを壊されては困る。
「西の動きは続報があれば受け取るとして、遅れている過激派の情報は? このまま遅れっぱなし?」
「いいえ、兄も僕からの連絡が遅いことを不審に思っていたようで、少し時間はかかりましたが対策を整えることができたそうです」
「さすがリッツェの天才学者。で、現状は」
「大陸中の血脈信仰信者過激派に声がかかっています。人員は現在進行で順調にエルニーニャに集まっているようなので、今夜以降は王宮の護りを一層固めたほうがよろしいかと」
前回、三日のうちに行動するという情報があったときには、その晩に襲撃があった。とすれば、今夜以降は今夜だ。はずれても明日。
「それ、そのまま女王に伝えるよ。それとイリス、今夜は王宮警護に就いて」
「レヴィ兄は? 一人で大丈夫?」
「前回の襲撃があるから、オレは将官たちに守ってもらえる。それとフィネーロも戦闘準備を。任務として佐官に頼むから、この後はリーダーの指示に従え」
にやり、とレヴィアンスが笑う。ずっと言いたかったことを、やっと告げられるときがきた。
「今夜がリーゼッタ班の完全復活だ」
イリスも、そしてフィネーロも、この言葉を待っていた。

王宮警護作戦は、軍が大々的に関わっているということを覚られてはならない。王宮では近衛兵たちが、軍と独立した護りを固めている。襲撃者やウィスタリアには、できることなら今回の防衛は王宮単独で成功させたというシナリオを見せたい。
そこに至った背景を、彼もまたレヴィアンスからようやく知らされたのだろう。イリスたちが普段仕事をしている事務室を取り仕切っているマインラート・トーリス大佐が、作戦指揮を務めることになった。――補佐にルイゼンを指名して。
「閣下が王宮と交渉し、作戦中は我々も近衛兵の一員として振る舞うことになっている。従って、私も指揮を担当する身ではあるが、原則として近衛兵長の命令通りに動く」
「近衛兵長……女王陛下ですね。閣下は苦手な相手だと仰ってましたが、大丈夫でしょうか?」
「王宮に入られるまでは軍に所属していた方だ。指示に従って問題はないだろう。それよりリーゼッタ、閣下に言われてお前を補佐に据えたが、覚悟はあるんだろうな。私より先にあの人の考えを知っていたそうだが、それに見合った働きを誓えるか」
トーリスにとって、ルイゼンは部下であり、佐官になりたての半人前だ。その働きぶりを見てきて認めてくれてはいるが、今回は事が大きすぎる。もちろんルイゼン自身もそう考えていた。しかしその大きな事態に備えてきたことも事実で、どこまで通用するか確かめたい。いや、通じなければならないのだ。
「限界を超えても戦います。俺だって、閣下に『手を引け』なんて言われたくないので。あれだけ関わらせてもらったんだ、そのお礼はきっちりするつもりです」
言い切ったルイゼンに、トーリスは瞠目する。それから嬉しそうに笑った。
「軍に入りたての頃は、元気いっぱい暴走しまくりのガキ大将だったお前が……。すっかり頼れる男に成長したもんだ。兄貴分として感激だよ」
「ガキ大将って、もう八年も前の話を蒸し返さないでください。俺だって少しは考えるようになったんです」
ルイゼンが口をとがらせて言い返す。トーリスはしみじみ頷いた。
「インフェリアやブロッケンが入ってきてから、そうせざるをえなかったからな。そうか、あいつらを普段率いているお前なら、閣下に信頼されるのもわかる」
一緒に頑張ろうな、と肩を叩かれ、ルイゼンは「はい」と返事をした。そのたった一言に、尽くしきれない思いを込めて。――ようやくここまでこられた。大佐であるトーリスと並び、レヴィアンスに認められ、働けないはずがないだろう。ずっと望んできたのだ。

メイベルは射撃場にいた。多種にわたる銃を扱える彼女の、もっとも付き合いの長い得物、軍支給銃四十五口径リボルバーは、今日も具合がいい。いつ戦いに出ても役目を果たせる。もちろんメイベル自身の狙いも完璧だ。
「ここにいたのか。図書館じゃなくて良かった、あっちは少し遠いからな」
息を吐いたころを見計らったように、フィネーロが声をかけた。銃をホルダーに直し、メイベルは開口一番に尋ねる。
「出動はいつだ」
「今夜。たった今、兄から詳細の連絡があった。現在レジーナに集っている過激派で、十一時に王宮に乗り込むつもりらしい。人員は約四十人」
「もっと蛆虫のように湧いてくるかと思った。王宮制圧にその人数は足りないだろう」
「僕も疑っているが、閣下はこんなものだろうと。国王夫妻を誘拐できれば、相手の目的は達成できたことになるから」
「ほう。……まあ、無理だろうがな」
鼻で嗤い、続く作戦を聞く。軍から出るのはトーリス大佐率いる十名の班。基本的な行動は王宮近衛兵に倣い、女王の指示が最優先となる。メイベルがいつものように、激情から勝手に銃を抜くということは、まず許されない。
「あくまで上品に、というのがトーリス大佐の頼みだ」
「上品に済めばいいな」
生憎と品などというものは持ち合わせていない、とメイベルは呟く。学校や軍で、仕事に必要だからとある程度は学んできたが、役に立ったことはあまりない。こういうところが、仮にも名家のお嬢さんであるイリスや、上品の見本といえるような育ちをしてきたフィネーロ、他人とうまくやりながら順調に佐官にのぼりつめたルイゼンとの違いだ。所詮自分は下層の生まれだと、認識させられる。
「近衛兵ごっこが失敗したら?」
「速やかに相手の確保につとめ、混乱を避ける。あとは女王の指示に従う」
「女王の判断があてにならなかったり、そもそも指示を仰げないときは?」
「大佐かルイゼンの指揮で動く」
「なるほど、ルイゼンなら安心だ。大佐は、私はあまり好かないが……ルイゼンがそうしろというなら仕方がない」
納得しておくしかないのだろう。班の底辺にできる、それが最良のことならば。肩をすくめたメイベルに、フィネーロが溜息交じりに口を開いた。
「君が頼りなんだぞ、メイベル。トーリス班は遠距離攻撃を得意とする者が少ない」
「大佐が剣技贔屓なのが悪い。私は……」
本当は王宮警護だって、大総統の命だって、どうでもいい。頭が挿げ替えられるなら、それもまた仕方のないことだろう。そして挿げ替えられたとしても、簡単に国のかたちは変わらない。メイベルたちのあり方に大きな変化はない。
でも、それが起きればイリスが悲しむ。メイベルが唯一の正義としているものが涙を流すことは避けなければならない。だから動く。軍人として働く。
「私は、私の判断で引鉄を引く。今は女王に従ってやるかという判断をしているだけだ」
「……変わらないな、君は。何にせよ、これから会議だ。第三会議室に行こう」
フィネーロの後を追いながら、久しぶりだ、と思った。学校に通っていた頃からつるんでいるはずの彼と、しばらく一緒に外に出るような仕事をしていなかったことを、改めて思い出す。
「フィネーロ、お前はどうなんだ。訓練の成果を発揮できるんだろうな」
「状況によるが、がっかりはさせないよ」
ついでに友人の手助けをしてやってもいいか。いつも助けられていたのだから。

第三会議室には、トーリス大佐とルイゼン、イリス、フィネーロ、メイベルのほかに五人。しかし今回の仕事の裏について、よく知っているわけではない。
先日の大総統執務室への襲撃に伴い、王宮の警備を強化する。ただし王宮の顔を立てるため、今回は近衛兵として動く。佐官会議で上がった「裏ではない対軍勢力」への警戒も続ける。それがトーリスから全体への説明だった。
「裏ではなく、その対軍勢力というのが、司令部襲撃に関わっていると?」
「その可能性が高い。リーゼッタ、襲撃犯の聴取内容について報告しろ」
「はい。……先日、司令部を襲撃した四人を聴取済みです。彼らは閣下の地位を貶めることを狙い、犯行を企てました。同じように王宮も狙っているということを証言しています」
嘘はついていないが、かなり削った。襲撃犯が血脈信仰信者であること、彼らが大総統暗殺を目論んでいることは伏せる。襲撃が「手順」をもって行動していること、司令部襲撃の方法がほぼレヴィアンスたちの推理通りであったことなども非公開だ。襲撃方法については、あとでレヴィアンスが将官らに明かすことになるだろうが。
「戦闘能力の程度や現在確認されている裏組織との関わりがないことから、襲撃犯は裏とは異なる対軍勢力と見ています」
「でも、現にガードナー大将が負傷されているのでしょう。王宮も狙っているとすれば、危険度は裏と同等かそれ以上なんじゃないの?」
「だからこそ、今回の王宮警護だ。今代の近衛兵は強いが、私たちも協力したほうが危機回避の可能性が上がる。いや、絶対的なものになる。これは女王も認めているそうだ」
作戦にあたって、レヴィアンスが女王オリビアと連絡をとっている。軍の受け入れに関して、女王はすぐに了承してくれた。自身が軍にいたからこそ軍を信頼してくれているのだと、トーリスは言う。実際の思惑は他にあると、知っているのはレヴィアンスとイリスたちだけだ。
「我々の力を王宮に貸し、この国を守る。この作戦、失敗は許されないぞ。心せよ」
王宮の人々を守ること。襲撃が起こったら、実行犯たちを速やかに足止めし確保すること。相手の人数は――これも聴取から得た情報ということにした――四十人ほどで、近衛兵と協力すれば確保は難しくないはずだ。トーリスはルイゼンの作成した資料をもとにそう話している。今はそれだけしか話してはならないと、レヴィアンスから指示されているのだった。
「今夜の作戦開始に備えるように。九時に出発し、王宮へ向かう」
今日は今日の仕事を全うすること。他のことは考えずに、集中しろ。会議室に来る前にレヴィアンスに言われたことを、イリスは頭の中でゆっくりと繰り返す。噛み締め、解し、染み込ませる。そうでなければ戦えないのだと、自分に言い聞かせる。
今の自分は大総統補佐ではなく、イリス・インフェリア中尉だ。トーリス班の尉官の一人で、特別な存在ではない。レヴィアンスら上層部の思惑や西の動きといった不安はひとまずなかったことにして、任務にあたらなければ。
「イリス、ちょっと提案がある」
会議室から人がはけたのを見計らい、ルイゼンが近づいてくる。本来なら彼もまた今日の任務、つまりは大佐の補佐という仕事を務めあげなければならないので、この後も忙しいはずだ。
「何、ゼン? 大佐についていかなくていいの?」
「すぐ追いつく。それよりお前、閣下と勝負したときに真正面から向かってったよな。普段通りに」
「……そうだね。それじゃわたしの負けだから、他の手を色々考えてたところなんだけど」
「あれは相手が閣下だったのと、一対一だったのが良くなかったんだよ。やっぱり俺は、お前は相手の視界に正面から飛び込まないとだめだと思う」
それでは先がないとレヴィアンスに言われたのだが、ルイゼンはそう思っていないらしい。ずっと考えてたんだ、と言葉を継いだ。
「あの戦い方は閣下、というかレヴィさんから教わったものだろ。お前に一番適した戦い方として教えてくれたはずだ。だからやっぱり、あのやりかたを使わない手はない。お前の最大の武器で、お前にしかできないことなんだから」
レヴィアンスには通用しなかった。だが、今まで他の相手には通じてきた。その力は使おうと思えば、イリスが自由に操れるのだ。――そういえばそうだった、とようやく思い出した。
「そのための道は俺たちが作る。いざとなったら全力で行け」
「……わかった、そうさせてもらう。わたしは相手の真正面に立てば、視界に入ればいいんだね?」
この力が今度の相手にも効くかどうか、それはやってみないとわからないけれど。でも、ルイゼンたちが希望を持ってくれるのなら、このままいってみることにしよう。
先は拓くものなのだから。ここで証明してやろうじゃないか。


エルニーニャ王国女王、オリビア・アトラ・エルニーニャ。彼女が国政に積極的に関わろうとしているのは、若き現王ビーフォルテ・アトラ・エルニーニャが俗世に疎すぎて政治に現実感がないからだと噂されている。それでは大総統単独政治ではともかく、現在の三派協力による政治には合わないだろうと。他にも軍の力を得た女王が王宮を支配し、国を再び軍政に戻そうと画策しているだとか、女王の生家であるパラミクス家による政治台頭を目論んでいるとか、様々な憶測が飛び交っている。
どれが真実でどれがそうでないかを、王宮が明かしたことはない。女王も公式の場ではただ微笑んで、その場の仕事をするだけだ。
たしかなのは、先代までの「国家の飾り物である王宮」はもう存在しないということだ。それを決定づけたのが二年前の、女王による大総統の推薦だろう。このできごと以降、三派の頂点は王宮になりつつあるのではという声もある。
「女王陛下、このたびはどうぞよろしくお願い申し上げます」
トーリスはじめ十人の軍人に傅かれた女王の佇まいは堂々たるもので、この人が国の頂点といわれればたしかに信じるかもしれない、とイリスは思う。それでいて底知れない雰囲気を醸し出しているのだから、レヴィアンスが彼女を苦手としているのも理解できる気がした。
「こちらこそ、王宮の警護にあたっていただき感謝しています。トーリス大佐には、私から色々とお願いをするかもしれません」
温和な言葉の向こうで、女王の緑色の瞳が鋭く光っていた。若草のような色なのに、初々しさは微塵もない。王宮に入って以降、多くの経験によって研ぎ澄まされたのだろう。
「皆さんには王宮近衛兵と行動を共にしていただきます。ここを狙っているという者が王宮の人々に危害を加えないように注意をおねがいします。また、今回は私と王の護衛は必要ないということも付け加えておきましょう」
最後の言葉で、軍人たちは唖然とした。狙われているのはまさに彼らだというのに、まさか女王はそれをわかっていないのか。
「陛下の護衛が必要ないとは、どういうことですか」
尋ねるトーリスに、女王は微笑んで返した。
「私は女王であると同時に、近衛兵の長です。自分の身と国王お一人くらいなら守れましてよ。これは近衛兵にも伝えてあります」
状況をわからないわけではない。彼女は自分で自分と王と守ると決めている。それができると思っている。しかし、と再び口を開きかけたトーリスを、女王は遮った。
「あなたがたの務めは王宮警護。大総統殿も国王の警護とは言っていないはず。それは私が王宮に入ったときから、私の仕事です。お互い、領分は理解しておきましょう」
トーリスは黙り、軍人たちも息を呑む。これがエルニーニャ王国女王かと慄く。イリスもその一人だったが、
「あとは近衛兵に聞いて、配置など確認しておいてくださいな。インフェリア中尉だけ、私についてきてくださる?」
唐突な指名に、「え」と声が出てしまった。

王宮は落ち着かない、とレヴィアンスが言っていた意味が今ならわかる。「小さい部屋だけど」と通されたそこは十分な広さがあり、もちろんイリスが生活している寮の部屋など比べものにならない。絨毯は毛足が長いが、汚れがないので変に固まったりしていない。向かい合わせの一人がけソファに座らされ、その柔らかさに感動した。大総統執務室のものより質が良さそうだ。おまけに花のような良い香りが漂っている。
エルニーニャ王国民が豊かな生活をしている証として、王宮の人間は至れり尽くせりの環境に置かれる。女王オリビアはその言葉のままの暮らしをしているようだった。
「そんなに部屋を見回して、何か面白いものでもあるかしら?」
「いえ、面白いというか……あまりなじみがなくて緊張するというか」
しどろもどろに答えたイリスに、女王はクスリと笑った。
「可愛い反応ね。今度からお仕事の話をするときは、レヴィ君じゃなくてイリスちゃんを呼ぼうかしら」
いや、ここにいる彼女は女王ではなく、オリビアなのだ。イリスが昔から知っているお姉さん。立場は随分違ってしまったが、変わっていないところもある。
「仕事の話は私にはわからないです。レヴィ兄ほど偉くないし」
「レヴィ君、話してくれないの?」
「わたしに必要な話だけしてくれます。オリビアさんとのことは……あんまり話さないです」
「彼らしいわね。私がいつも雑談ばかりするのもよくないんでしょうけれど。それに」
自分はイリスの向かいに腰かけ、オリビアは目を伏せた。憂いを帯びた溜息を吐き、「ごめんなさい」と言う。
「今回の件、元をただせば、私がレヴィ君を大総統に推薦したのが始まりよね。彼にゼウスァートの名を背負わせたのは私。仕事を押し付けるのも私。それがこんなことになるのだから、レヴィ君に嫌われても仕方ないわ」
「嫌ってなんかないですよ」
苦手ではあるようだが、嫌ってはいない。仕事の相手として信頼を置いているし、心配していないと言いながらこうして護衛の命令を出している。オリビアが憂うことはないはずだ。
「もしかして、レヴィ兄に嫌われてるかもしれないと思って、自分たちの護衛は必要ないなんて言ったんですか?」
「ううん、それは別の話よ。王を守るのはもともと私の役目。私は自分の身を自分で守れるし、何かあっても代替えが効く」
「代替えって、そんな。オリビアさんの代わりなんかいないですよ」
「いるわよ。他の王宮付き貴族家や軍家のお嬢さん。王宮関係者とはいえ王家の血を引いているわけじゃないから、私はいなくなっても問題がないの。それどころか今回の事件を起こしたがっていた人たちには、私がいなくなることで二重の得がある。歴史をなぞれること、そして王宮の権力を握って勝手に政治をしていた人間が消えること。王だけをあとで王宮に戻せば、かつてのような政治能力に欠けた王宮がもう一度できあがる。またお妃をもらえば、子供をもうけて王宮を続かせることも可能。エルニーニャを三派政前の状態にできるでしょうね」
イリスが口を挟む間を与えずに、王宮にとっても都合がいいかも、とオリビアは呟く。
「跡継ぎがいないと困るものね。国の運営を勝手に進める女王より、王様とほのぼの暮らしながら世継ぎを産んで育てるお妃のほうが、きっと必要なんだわ」
「そんなことは……」
「世継ぎを産む意思がないのなら、パラミクスから嫁をとるんじゃなかった。そんなふうに言っている人は、王宮にも市井にもいるのよ」
口角をあげたままの唇が紡ぐ言葉は、とても笑って聞けるものではない。返事を探すイリスだが、呻き声が漏れるばかりで、気の利いたことは何も出てこなかった。
オリビアはただ微笑む。
「余計なこと言っちゃったわね。とにかく私自身にはいくらでも代わりがいるから、何があっても平気なの。でも、今の王宮近衛兵長はこの私。だから王は絶対に守るわ。任せて」
自分の胸をとんと叩いて、軍人だった頃、幼いイリスにかまってくれた頃と同じ笑顔を浮かべる。
けれどもこちらは、いつまでも幼いままではない。オリビアの言葉の意味も、完全にとはいわないが理解できる。
「王様は、オリビアさんにお任せします。それが最善だと、王宮近衛兵長であるあなたがいうなら、大佐もわたしたちにそうさせると思います。レヴィ兄も納得するかもしれません」
「ええ、彼が納得するならなおのこと良いわね」
「でもそこだけです。あとはわたしが納得しない」
代わりがいるからどうなってもいいだなんて、そんなことを受け入れられるものか。
「オリビアさんの代わりなんて絶対にいない。オリビアさんがレヴィ兄を選んで、一緒に仕事をしていたからこそ解決できたことがたくさんあった。オリビアさんが王宮にいて良かった。これからもいてほしい。だから、わたしがオリビアさんを守ります」
世継ぎが何だ。今までそんなことを気にせずに采配を振るってきたから、全てが過激派の目論み通りにはならなかった。彼らは歴史の完全再現を成すことはできない。
――王宮に子供がいたら、過去そうだった通りに、過激派は子供だけを生かそうとしただろうね。子供がいないから、政治能力が低いとされている王を生かすしかない。大方、過激派の考えはこんなところだ。
レヴィアンスと話して、すでに過激派の動きは予想できている。彼らの思惑を覆すためには、オリビアの生存が必須条件になる。代替えなんてできないのだ。
「……あなた、それは私の命令に背くことになるわよ」
「レヴィ兄、いいえ、大総統閣下より『臨機応変に動け』と言われているので」
ぽかん、とオリビアはイリスを見ていた。少しのあいだそのままで、それからゆっくりとソファから立ち上がる。「なるほどね」と呟きながら。
「レヴィ君が補佐にしたがるわけよね。……それが確認できて良かったわ。あなたと話す時間を設けた甲斐があった」
「はい? そういえばどうしてわたしを呼んだんですか?」
「だから、話してみたかったのよ。レヴィ君がエルニーニャの獅子姫と呼んで信頼し可愛がっている子の、成長した姿を見たかったの。試すような真似してごめんなさい」
試すって、何を試されていたのだろう。混乱しながらも、イリスは何とか声を絞り出す。
「じゃあ、今のは全部、嘘ですか」
「嘘じゃないわよ。全部本当の話。そうね、それを聞いてほしかったのもあるかも。女の身で大きなものを背負うっていうことは、なかなか大変なことなのよ」
にっこりして、オリビアはイリスの手を取る。「昔は小さかったのにね」と撫でる手は、いつのまにかイリスのほうが少し大きくなっていた。
「今回の作戦、全体指揮は私よ。だから私のいうことをきいてくれなくちゃ困るわ。……でも、ただ私が困るだけ。あなたが私を守ってくれようとするのを、無理に止めることはできない」
そしてきっと誰も止めない。オリビアはイリスの目をじっと見て言う。
「一緒に王宮を守ってくれるかしら、イリスちゃん」
イリスは一度目を閉じ、そしてゆっくり開いて返事をする。今度は言葉が決まっている。
「当然ですよ。そのために来たんですから」
「ありがとう、嬉しいわ」
ホッとしたような笑みで、オリビアはイリスの手を離した。それから少しふらつく。こんなときに立ちくらみかしら、と困った顔をした彼女に、イリスは苦笑した。
「すみません、わたしの目を見てたからだと思います。……今夜は、最大出力の予定なので」

王宮に時計の音が響く。十一時を知らせる鐘の音に、ベージュの制服を着た王宮近衛兵たち――軍の十名を含む――が緊張する。結局予告の時間まで、王宮に不審者が乗り込んでくることはなかった。鐘が鳴り終わり、静寂が落ちる。今日は襲撃がないのではないかと、近衛兵の多くが気を抜きかけた。
王宮付近の巡回でも異常はなかった。敷地内に怪しいものはなかった。全て確認したはずが、兆候を見つけられなかった。
突如響いたガラスが砕ける激しい音の後に、二階にいた近衛兵が叫んだ。
「二階中央より侵入者多数! 十名……二十名超!」
「二階西より侵入者! 二十余名の模様、戦闘に入る!」
「二階東、十余名の侵入者あり! 可能ならば援護を頼む!」
同時多発的に現れた侵入者たちの数は、予想の四十名を超えている。舌打ちするトーリスの隣で、ルイゼンはその理由を探した。だが、そう悠長に構えてはいられない。答えが出ないまま、二階東に向かわされる。トーリスは中央に行った。最も侵入者の数が多く、王の部屋に近い場所だ。公開はされていないが、その真上に王は控えている。――普段ならば。
「どこに隠れたか教えてくれないんだもんな……。本当、閣下の苦労がわかるよ」
呟いたルイゼンの声は、物音にうまく紛れた。誰にも聞こえていない。武器を手に襲い来る侵入者たちを相手に剣を振い、一人を倒す。即座に床に落ちた武器を確認すると、先日レヴィアンスに見せられたウィスタリア製の短剣と同じものだった。
今回の襲撃には各地から人を集めているはずだ。見る限り侵入者のほとんどが同じ得物を持っているということは、ウィスタリアからまとめて運び込まれたものである可能性が高い。中心人物は、やはりウィスタリアに潜んでいたのだろう。
そうしている間に侵入者たちの一部は近衛兵たちをすり抜け、王宮内部へと進んでいく。事前情報より多い人数を食い止めきれない。とっさに追いかけて二人を切りつけたが、間に合わない。
「やつらを追え! 三階に行かせるな!」
叫ぶ声は、近衛兵らと侵入者に届く。周囲にまだ残っていた侵入者を片付け、ルイゼンも後を追った。
二階中央ではメイベルが、慣れない剣技に悪戦苦闘していた。王宮近衛兵は基本的に銃を使わない。流れ弾が王宮の人間にあたりでもしたら大事になるからだが、こういうときくらいはその規制を解いてほしいものだ。おかげで得意の銃は、まだ一丁も抜いていなかった。
「ブロッケン、凌ぎきれ。どちらにせよ近衛兵と侵入者が混戦しているこの状況で、お前の得物を使うのは危険すぎる」
トーリスがすれ違いざまに言う。煩い、の意味を込めた舌打ちは、おそらく聞こえていなかった。
気に入らない。好かない上司に指示されるのも、近衛兵の制服を着なくてはならないことも、剣を使わなければならないことも。このストレスを発散できたら、どんなに気持ちが良いだろう。
いらついていたら、背後に迫る短剣に気づけなかった。いや、持っていたのが銃なら反応できたはずだ。いつものメイベルなら、こんな下手は打たない。切られるのもやむをえまいと防御姿勢をとる。
だが、短剣は相手の手から零れ落ちた。倒れたその背中に、何かが当たった痕がある。奇妙に思うが、次の相手の攻撃を防がなくてはならず、原因を考える余裕がなかった。余裕はなくとも、はずみで上を向いたその瞬間、視界に入ったもので自分を助けたのが誰であったのかはわかった。
天井にはシャンデリア。それが吊られるところから、別のものがぶら下がっていた。鎖と、その先に足。逆さという不安定な体勢のフィネーロがそこにいる。手には刃に鞘をつけたままの鎖鎌。
――大総統執務室襲撃の手口を利用したのか、あいつ。
なんとか一人斬り払いながら、メイベルは答えを導き出した。フィネーロは上から状況を見て、鎖鎌を振り子のようにして侵入者にぶつけたのだ。いつまでも、は通じない手だ。それもきっとわかっているだろう。
案の定、侵入者らはフィネーロの存在に気づき、短剣を上に向けた。それと同時に足から鎖を手早く外したフィネーロが、床へ落ちてくる。着地と同時に一人――侵入者なのか近衛兵なのか、すぐに判別できない――を踏みつけ、そのまま鎖鎌を思い切り振りまわした。錘となった鎌と鎖が、一瞬、遠心力によってピンと伸びる。そうして敵味方かまわずに、気づかなかった者や反応が遅れた者の足を掬っていった。
よろけて倒れた者から近衛兵の恰好をしている者だけを引っ張り出す。それまでの時間はほんのわずか。流れるような、それでいて乱暴な「闘い方」だった。
「フィネーロ、これが新しい戦法か? お前にしては随分粗いじゃないか」
駆け寄ったメイベルに、フィネーロは生真面目な表情で答えた。
「なに、君の真似をしただけだ。それより今なら大佐は見ていないし、君の視界は随分クリアになったと思うが」
人が倒れた分、敵味方の識別は先ほどよりしやすくなっている。これなら余裕をもって狙えそうだ。メイベルは唇の端を持ち上げ、腰のホルダーに提げていた銃を抜いた。両手に一つずつ、合わせて二挺。
「ああ、本領が発揮できそうだ。感謝する」
破裂音が王宮内に連続して響き渡った。苦々しい顔をしている近衛兵が見えたが、かまわない。ようは味方と建物に中てなければいいのだ。調子がいい今日なら、標的がどんなに動いても確実に仕留められる自信がある。
銃声を聞いて、侵入者を二階西まで追っていたルイゼンは苦笑した。仕方ない、あとでトーリスや女王に謝ろう。そもそも、それがリーゼッタ班の日常だった。しかしその前に、三階に人を集めなければ。仕留め損ねた人数を、そこで待つ彼女の目に留まりやすいようにするのだ。
リーゼッタ班最強の「奥の手」を、解放する。

王の部屋を守るようにして、五人の近衛兵が立っていた。三階に辿り着いた侵入者たちは彼らと対面し、瞬きする間もなく刃を交える。近衛兵たちは相手の短剣を叩き落とし、体を斬りつけ、侵入者の足を止めた。だがここまで他の近衛兵たちを掻い潜ってきた彼らは、その程度で屈しない。斬られてもなお、予備の短剣に持ち替えて襲いかかってくる。
三階へ来る人数が増えるごとに、近衛兵たちも手こずるようになる。剣技と体術だけではだんだん間に合わなくなってきて、ついに王の部屋への扉を開かせてしまった。
……と、ここまではシナリオ通り。ここには誰もいない。まさか狙われている人間を、普段と同じ部屋に置いておくはずもない。部屋になだれ込んだ複数の侵入者は、部屋を一通り見まわし、もう一度扉の方へ目をやる。――それが彼らの運の尽き。
扉の前に立つ、近衛兵の制服を着た少女と目が合った。その瞬間、彼らを様々な症状が襲う。頭痛、嘔吐感、眩暈。すぐに立っていられなくなり、室内の侵入者は全員一度に床に伏せた。
「なんだ、あの眼は……っ?!」
一人が呻く。効き目はどうやら抜群だ。普段かけている制限を解除した魔眼は、恐ろしいまでの威力を放っていた。
「なんだ、ってねえ。こっちが訊きたいのよ、本当は」
右手に剣を持ったまま、左手で長い黒髪をはらって、赤い瞳を光らせる。生まれ持った力は疎まれたこともあったが、こういうときに有効利用できるようになったので、嫌いではない。振り向きざまに背後をとろうとしていた侵入者を斬り、ついでに目を合わせてその自由を奪う。
「今のところ、こっちが飛び込んでいく必要はあまりなさそうだけど。眼を使うなら、やっぱり正面からいかなきゃだよね」
不敵に笑い、イリスは次の獲物を見据える。近衛兵をできるだけ見ないよう気をつけながら。なにしろ力を全開にした状態は久しぶりだ。ちらりと目が合っただけでも、どうなるかわからない。
「ここで全部倒したい……けど、ちょっとは動かなきゃ難しいか」
床を蹴る。侵入者の眼前に入り、左手でその胸倉を掴んだ。間近でイリスの眼を見た相手は、泡を吹いて気絶した。
さて、残りは何人だろう。一人としてオリビアのもとへは辿り着かせたくないのだが。

二階中央はメイベルの暴走、いや、活躍もあってほとんど決着がついた。トーリスは渋い顔で頭を掻きながら、負傷し倒れた侵入者たちを集め始めた。
「リッツェ、さっき私を踏んだことは不問にしておく。だから侵入者の数が予想を上回っていた理由を説明しろ」
背中にフィネーロの足跡をくっきりつけたまま問うトーリスの姿に、メイベルが必死で笑いをこらえていた。それを隠すように立ち、フィネーロは「現地の人員です」と答える。
「大佐はすでにご存じでしょうが、王宮に襲撃をかけた人員は各地からの寄せ集めです。それが四十人ほど。エルニーニャの、この近辺にずっといた分は合算されていなかったのでしょう。これは僕も迂闊でした」
血脈信仰信者の全てがエルニーニャから出て行ったわけではなく、十八年前の事件以降もこの首都レジーナに留まっている人々はいた。その中に過激派がいないとは限らない。むしろいたからこそ、時間通りの襲撃が可能だったと考えられる。巡回のときに異常が見られなかったのも、彼らが集まった人員を匿っていたためだろう。
「それから上空にも気を配るべきでした。閣下が襲撃にあったときは、犯人グループは上空からの侵入に成功しています。今回も同様の手口を使った可能性はあるかと。王宮の周りは正規の近衛兵たちが警備していたはずですが、少し我々側の人間を入れてもらうべきでしたね」
「王宮内の護りにこだわりすぎたか。しかし陛下たちが無事なら、作戦は……」
「ええ、ひとまずは成功でしょう。軍が王宮の不興を買うことはあるかもしれませんが、今回の場合は仕方がないものとして閣下に説明していただきます」
「王宮の不興を買うようなことを率先してやったのはお前だがな。私は陛下や閣下になんと謝ったらいいのか……」
溜息を吐くトーリスに、メイベルがとうとう噴き出した。フィネーロは「笑っている場合じゃない」と階上を見上げる。まだ作戦は終わっていないのだ。
「大佐、倒れた者は放っておいて、残った侵入者を倒しに行ったほうが良いです。ルイゼンが向かっていますし、上にはイリスもいます。でも数で不利なのは変わりませんから」
「そうだったな。陛下の無事も確認したい。ところで、陛下の居場所を知っているか」
「……大佐もご存知ないんですか? 僕が知るはずありませんよ。一応訊くが、メイベルは」
「私も知らん。さすがは閣下を選んだ人だ、女王陛下はどうにも食えんな」
いい加減限界だったのか、トーリスがわなわなと震え出したので、フィネーロとメイベルは逃げるように三階へ向かった。

侵入者たちを倒しながら三階に到着したルイゼンの目に飛び込んできたのは、床に倒れ伏す人々だった。無差別にそうなっているわけではなく、近衛兵は無事でいるか、具合が悪そうでも柱に寄り掛かることができている。
ドアの開いた部屋の前には、こちらに背を向けて立つ黒髪の少女。ルイゼンたちが三階に追い込んだ敵を、作戦通りに片付けてくれた。もうここは大丈夫だろう。
「イリス、倒れたやつは動けないだろうから、他へ行こう。他に侵入者がいないかどうか調べないと」
「ごめん、ゼン。先に行ってて。あと、それ以上わたしに近づかないで」
疲れているようだが強い声だった。ルイゼンはその場で立ち止まり、そのまま待つ。先に行ってと言ったのに動かない気配に焦れたのか、イリスが再び言葉を発した。
「久しぶりにこんなに眼を使ったから、ちゃんと制御できないの。今わたしと目が合ったら、ゼンまで倒れちゃう」
「これだけ倒してくれればな。わかった、先に行って大佐に報告しておく」
「そうして。……こんな化け物を利用してくれて、ありがとうね」
前に眼をフルに使ったのはいつだったか。こんなに多くの人数を相手にしたのは、おそらく二年ぶりではないだろうか。自分が作りだした状況に、イリス自身も驚いているようだった。
「誰が化け物だよ。落ち着くまでいくらでも時間かけていいからな」
踵を返し、ルイゼンは階下へ戻ろうとした。階段を降りようとしたところで、こちらへ向かっていたらしいフィネーロとメイベルと目が合う。
「ルイゼン、三階は」
「イリスが片付けてくれた。落ち着くまで時間が欲しいみたいだから、待ってやってくれ」
「力を使いすぎて、イリスが倒れたりしないだろうな。前にあっただろう、大勢に一度に使って、そのあと丸一日起きなかったことが」
「今のところはまだ大丈夫そうだ」
眼の効力と精度が上がっていて、それを制御するイリスの力もまた上がっていると、ルイゼンは感じていた。本人もそれを自覚して、「化け物」なんて言葉を使ったのかもしれない。
まともに受けたであろう侵入者たちは、生きてはいたが動く気配がなかった。以前ならもう少し効力にばらつきがあり、なんとか這いまわれる者もいた。強力になった眼を相手を選んで駆使するのは酷く精神力と体力を消耗するはずだが、イリスはまだ立って、会話をすることができていた。
「あいつが降りてきたら労ってやろう。それまでにできることは、王宮内の再確認。逃した侵入者はいないか、動ける人員を集めて徹底的に調べるぞ。女王が隠れている場所もわからないし」
「ルイゼンも知らないのか」
誰も知らないのならなおさら、一刻も早く安全を確認しなければならない。三人は二階に戻り、トーリスと合流してこの後の動きを確認しようとした。
「陛下! 女王陛下!」
トーリスがルイゼンたちを見止めて号令をかけようとしたその時、王宮近衛兵の誰かが悲鳴をあげた。一階の広間からだと察し、階段を駆け下りる。
いつから戦っていたのか、髪は乱れて衣服の裂けた女王が、棍を手に三人の黒服と対峙していた。
「王の姿はないな。まだ隠れているのか」
「悠長に見ている場合ではない! リーゼッタ、賊を確保するぞ! ブロッケン、銃の使用を許可する。くれぐれも女王陛下には中てるなよ!」
走り出したトーリスを追って、ルイゼンも動く。背後でメイベルが銃を構えたのがわかった。フィネーロも移動したようだ。
しかし何より存在感があったのは、
「……あ?! 待ってください、大佐!」
「何?!」
一瞬足を止めたトーリスに向かって降ってきた、ついさっきまで三階にいたはずの彼女。上司をクッションにして着地を決め、そのまま黒服と女王の間へ突っ込んでいく。
「三階から飛び降りてきたのか……この吹き抜けを?!」
二階以上は広間の上が吹き抜け構造になっているが、二階からでも飛び降りれば怪我をしそうなくらい高い。そこを飛び降りるという発想はたとえあっても、リスク故に実行しようとはしなかった。少なくとも、トーリスやルイゼンは。
しかし彼女ならやりかねない。きっと近衛兵の悲鳴が耳に届いた瞬間から、一刻も早くその場所へ辿り着くことしか考えなかったのだ。
イリス・インフェリアでなければ、この行動には至らない。

――あなたが私を守ってくれようとするのを止めはしないけれど、私も一人でできるだけ頑張るつもりよ。ちょっとは王宮近衛兵長として、そして元軍人として、強いところ見せないとね。
オリビアはそう宣言していた。そしてその通りに、一人で戦ったのだ。誰にも居場所を教えなかったから、応援に駆けつけてくれる者はいない。侵入者の多くを上へ誘導させるよう近衛兵らに指示を出しておいて、自らは地下に身を潜めた。王には隠し部屋にいてもらったが、オリビアはただそこにいるだけで、隠れようとはしなかった。
案の定、軍や近衛兵たちの誘導に引っかからなかった者が地下へ辿り着く。戦いながら、一階まで移動してきた。相手が王を捜すようなことをせず、オリビアだけを狙ってくるのはわかっていた。王はどうせ生かして王宮へ帰すのだから、誘拐するにしても後回しにするだろう。地下へ来た人数がたったの三人だったので、予想は確信になった。
一階の人目につく場所まで倒れずにいられさえすれば、あとは近衛兵と軍がなんとかしてくれる。王は守り切れる。それだけを考えて棍を振るい、攻撃に耐えた。
オリビアの目の前に少女の黒髪が広がった瞬間、耐えきったと、結実したのだと、心の底から安堵した。
「遅くなりました、オリビアさん。すぐに引いて、手当てを受けてください」
「全然遅くなんかないわ。……ありがとう、イリスちゃん」
あとはこの頼もしい子が、引き受けてくれる。
イリスとオリビアが会話をしたのは、ほんの一瞬。相手の目の前に飛び込んだそのとき、イリスはすでに一太刀を浴びせていた。黒服は思っていたよりも丈夫で、傷をつけるには至らない。だがイリスに焦りはなかった。ずっと発動したままの眼の力が、この相手にも有効だということを表情から覚ることができた。
三階での戦いで、イリスは眼の力が想像以上に増幅していることを実感し、若干の恐怖を覚えていた。これは自分に扱いきれるものなのか、もう一度制御することは可能なのかと。我がことながら、まるで化け物でも飼っているかのような気持ちだった。
しかし階下からの悲鳴を聞いて我に返った。今は悩んでいる場合ではない。オリビアを、彼女に危害を加えようとする者から守ると決めたのだ。眼なんかあとでどうにでもなる。どうにでもする。どうせ化け物なら、事が済むまで大暴れしてやろう。――そうだ、まだ終わってはいない。王宮を守り切れたって、まだこの件は続く。
全てを守り抜くのが、イリスの役目だ。
正面の一人が倒れると同時に、もう一人がよろけ、残る一人も後退した。片方はルイゼンが背後から斬りつけ、もう片方はメイベルが狙撃したらしい。イリスは斬りつけられたほうを渾身の力で蹴り、仰向けに倒して馬乗りになった。
「あんたたちは後悔しなさい。オリビアさんに手をかけたこと、心の底から反省しなさい」
黒服はイリスから目を逸らそうとしたようだったが、遅すぎた。最大出力を保ったままの眼に一瞬でも捉えられたら、逃れられない。気絶したのを確かめ、イリスは残る一人に向かっていった。すでにメイベルが足を撃ち抜き、さらに目を離した隙にフィネーロに鎖で捕らえられていた、哀れな最後の一人。
「貴様……何者だ……。王宮近衛兵に、こんな化け物が……いるとは、聞いていない……!」
「そりゃあ、近衛兵じゃないからね」
イリスの一睨みで、彼も意識を失った。


王宮襲撃実行犯は六十六名。王は無傷だが、女王は軽傷を負った。王宮近衛兵は一部が負傷、一部が謎の体調不良で治療を受けることになった。
王宮への損害は小さくはなかったが、修復にさほど時間はかからないと女王が発表した。近衛兵に軍が加わっていたこと以外は、報道機関がこぞって国中、そして他国へも報せた。新聞には「王宮襲撃事件」「近衛兵による防衛成功」の文字が踊り、しばらくは話題になりそうだ。
当然ウィスタリアの人々の耳にも入り、王宮には見舞いの電話や手紙がきたという。
こういったことをイリスが知ったのは、事件の二日後だった。王宮で最後の侵入者を気絶させたあと、自分も倒れてしまったのだ。
「復帰が遅くなってごめんね、レヴィ兄。わたしが寝てるあいだ、何もなかった?」
大総統執務室にやってきたイリスを、レヴィアンスは眉を顰めて迎えた。
「なんだよ、まだへろへろじゃん。眼を使いすぎたから頭痛とか酷いんじゃないの。もう少し寝てろよ」
「ちょっと頭痛いくらい平気だよ」
「寝てたほうが良いと思うけどね。王宮襲撃の件、軍には苦情が殺到してるし。表向きには動いてないことになってるから仕方ないし、もとからそのつもりだったけどさ。あとイリス個人にもマー坊から怒りの声が」
「マー坊? ……ああ、トーリス大佐ね。さっき本人に謝ってきたよ。入院費用はわたしがもつって言ったら断られたけど。そんなことよりあんな無茶は二度とするなって」
三階から飛び降りてきたイリスに踏まれたトーリスは、しばらくの入院を余儀なくされた。不幸中の幸いで、イリスの全体重を受け止めたわけではなかったが、高いところから落ちてきたものに当たればもちろん怪我を負う。普通の人なら死んでもおかしくないんですからね、と病院でクリスにも叱られた。
「普通の人は三階から飛び降りようなんて思わないしね。マー坊の体もだけど、イリスの足もどうなってんだよ。そっちのほうが眼よりよっぽど化け物じみてると思う」
「そう言われてみればそうかも。わたしってすごいんだね」
「褒めないぞ、オレは」
呆れ果てたレヴィアンスを見るのも久しぶりだ。イリスは苦笑しながらお茶を淹れに行こうとして、その前にちょっとだけ振り向いた。
「レヴィ兄、ごめんね」
「まだオレに謝るようなことしてんの?」
「心配したでしょ。あと、忙しくさせちゃってること」
「それはオレの仕事だからいいんだよ。それより頭痛治せ。どうしてもオレの傍にいたいってんなら、医務室から強めの薬もらってこい」
これはよほど心配させたな。素直に返事をして、あとで薬をもらってくることにした。
もう休むわけにはいかない。王宮襲撃のあとは、過激派はいよいよ大総統暗殺にかかるだろう。少しもレヴィアンスから目を離すわけにはいかないのだ。
「イリス、オリビアさんも心配してたよ。何かあったらいつでも連絡くれって。それから、守ってくれてありがとうってさ。あの女王様をたらしこむなんて、お前も相当だね」
「……そっか」
目指すのは最善の未来。次を乗り切れば、守り抜けば、手にすることができると信じたい。



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2016年10月30日

子供とお菓子とおばけの夜

おばけに捕まらないように、おばけの恰好で出かけよう。
子供みんなで連れ立って、美味しいお菓子を集めよう。
今夜はとても、不思議な夜。

*魔女に黒猫*
「ねえ、ニール君。もう仮装は何にするか決めた?」
エイマルはいつものように、自分より少し背の低いニールの顔を覗き込んで尋ねた。
「仮装? ……って、何のこと?」
美少女が突然視界に、しかも近距離に入ってくるので、ニールは毎度のように戸惑う。頬が熱くなるのはどうしようもないので、気にしないふりをして尋ね返した。
「十月の最後の日よ。おばけとか動物とかに仮装して、お菓子をもらいに家々を訪ねるの。もしかして、やったことない?」
「ああ……。やったことないよ。一緒に行くような友達もいなかったし」
そういうイベントがあるのは知っていたけれど、ニールが参加したことは一度もない。正直に答えると、エイマルは「そっかそっか」と頷いて、にんまり笑った。
「じゃあ、今年が初めてだね。お菓子たくさんもらっちゃおう」
「今年もやる予定じゃなかったんだけど……」
「何言ってるの。一緒に行く友達ならあたしがいるし、夜に堂々と出歩けるチャンスなんだよ。それにニール君のおうちの人はこういうお祭り好きだから、行っておいでって絶対に言う」
そんな話はしたことがなかったけれど、エイマルが言うならたしかなのだろう。ニールが世話になっている家の人たちは、危ないこと以外なら大抵のことは許してくれる。むしろニールが多少のわがままを言うのは歓迎してくれているようだった。
夜に出歩くのは少し怖いけれど、友達が、エイマルがいるなら安心だ。――本当は自分がエイマルくらい強くなれたらいいのだが、それはまだ先のようだ。
「ね、一緒に行こう。あたしね、魔女の仮装がしたいんだ」
「魔女かあ。エイマルちゃんならきっと似合うんだろうな。でも僕、一応ニアさんたちに行っていいか訊いてみるね。仮装の準備もあるし」
「オーケーが出たら、うちに電話して教えてね。それと仮装のことは心配しなくていいよ。ニール君にやってほしいことがあるから」
初めてなら好都合、と言ったエイマルは、すでに何か企んでいるらしい。きっとこのまま巻き込まれるんだろうなと思いながら、ニールは家に帰り、イベントの話をした。
相槌を打ちながら懐かしそうに目を細めたニアは、すぐに了承をくれた。
「そうか、初めてなんだね。楽しんでおいで。仮装の道具一式、僕の実家にあるけど……」
「仮装はエイマルちゃんがやってほしいことがあるって言うので、それを聞いてから決めます。ニアさんも昔、イベントに参加したんですか?」
「親がそういうの大好きだからね。ルーやレヴィと一緒にそれぞれの家に行ったり、イリスのお伴をしたり。仮装してると父さんがカメラ離さないから、撮られるのが嫌だったらちゃんと言うんだよ」
「もう写真は大丈夫です。それじゃ、エイマルちゃんに電話してきますね」
ニアが楽しそうだったから、きっとニールも楽しめるイベントなんだろう。なんだかわくわくしてきた。巻き込まれるのもたまには悪くない。どうせおばけの仮装をするなら、ちょっと強そうに見えるものにしたい。そんなことを考えながら、エイマルに電話をかけると。
「……猫?」
「そう。魔女には黒猫、でしょう? ニール君にはあたしの眷属の黒猫をやってほしかったの」
このまま巻き込まれて良いものか迷ったが、結局は強い女の子に負けてしまうニールだった。

*月のない夜、家々の灯*
猫の耳と尻尾と手袋。色は全部黒。これでも交渉の末に妥協してもらったのだ。首輪は断固拒否したし、ファーの服も勘弁してもらった。でもとりあえずは、黒猫だ。
「お前も苦労するな」
そう言いながらも写真を撮ることを忘れないルーファに、ニールは曖昧な笑顔を返した。
相談の結果、スタート地点はニールの住む家、ゴールはエイマルの家ということになった。昨年まではエイマルにイリスが付き添っていたのだが、今年は仕事が忙しいのでできないという。そのかわり、司令部にはぜひ寄ってほしいとのことだった。ついでに最近少々物騒だからと注意を受けたので、移動は歩きではなく車になってしまったが、猫耳を余儀なくされたニールにはそのほうが良かった。エイマル以外の子供たちに見られるのは、やはり恥ずかしい。
「これがお菓子を入れる籠。あっという間に話が広がったから、いっぱいになると思うよ」
ニアに手渡された籠は少し大きいように見えたが、これでも足りなかったら、と袋をおまけにつけられた。いったい大人たちは、どれほどのお菓子を用意しているのだろう。
想像しきれないうちに、玄関の呼び鈴が鳴った。エイマルが到着したらしい。
「こんばんは。今夜はよろしくね」
にっこりと笑うエイマルは、大きな帽子をかぶって、ひらりと翻るマントを羽織っていた。マントの下はワンピースのようで、スパンコールがところどころに散って輝いている。それが彼女にあんまり似合っていて、ニールは本当に魔法を使えるのではないかと思ったほどだ。
「よ、よろしく……」
「歩けないのは残念だけど、ニール君と一緒にまわるの楽しみにしてたんだ。黒猫、とってもよく似合ってるよ」
「ありがとう……」
エイマルの笑顔に負けて、イベントはスタートする。ここが一軒目。魔女と黒猫は、籠にキャラメルと飴の入った袋を入れてもらった。
「気をつけてね。なるべく大人から離れないこと。エイマルちゃん、ニールをお願いね。ニールもエイマルちゃんをしっかり守るんだよ」
守ることなんかできるのだろうか。困った顔をしたニールに、ニアがそっと耳打ちした。
「大丈夫。猫は強い生き物だから」

エイマルは母に送ってきてもらったそうだ。ここからはルーファの運転で次の家へ向かう。大人たちはリレーのように子供を次の家へと運び、子供は仮装を披露してお菓子をもらう。防犯のためにとった対策は、結果的に多くの家をまわることができるというメリットにもなった。
「コースは予習通り。俺の実家に行ってから、アーシェの家、ニアの実家、下宿、司令部、最後にエイマルの家。行った先でちゃんと挨拶しろよ」
「はい」
「イリスちゃんは司令部で待っててくれてるんですよね。最近あんまり会えてないから、楽しみだなあ」
そういえばイリスは仕事が忙しいらしく、ニールもしばらく会っていない。あの明るいお姉さんのことだから病気をしているということはないだろうが、なにしろ大変な仕事だから、怪我などしていないだろうか。
「イリスなら大丈夫だぞ、ニール。何も連絡がないってことは、元気にやってる証拠だ」
心配が顔に出たらしく、ルーファがそう言って笑った。こんなことは珍しくない、何かあれば真っ先にうちに連絡が来る、と教えてくれる。
「ニール君のおうちに連絡がいったら、知り合いみんなに情報がまわるのよ。あたしのうちにだって。だからね、あたしも心配してないの。イリスちゃんはきっと、しっかりお仕事をしてるの」
「そっか……そうだよね」
ニールは頷いて、少し笑う。そうして、今夜イリスに会えることを楽しみに思った。あの人はいつもの眩しい笑顔で、エイマルを抱きしめ、ついでにニールも腕に抱えるのだろう。
話をしているうちに、車が豪邸に辿り着いた。ルーファの実家、フォース邸である。車を降りると、窓から漏れる明かりが、ほのかにオレンジ色をしていて温かそうだ。
「今日は新月だから、おうちの明かりだけが頼りだね」
エイマルの言葉に空を見上げると、深い闇が広がり、その中に星の光がまたたいていた。

フォース家の人々は、使用人たちも総出でニールとエイマルを迎えてくれた。ルーファは彼らに子供たちを預けると、すぐに帰ろうとしてしまう。
「ルーファ様、グレン様たちにお会いにならないのですか?」
メイド長が引き留めようとすると、ルーファは「また今度」と苦笑した。
「会うと長くなるから。でも近いうちに寄るから、その時はよろしく頼むよ、エルファ」
「かしこまりました。……さあさあ、みなさん。ニール坊ちゃまとエイマルお嬢様をお通ししますよ」
ぱんぱん、とメイド長が手を叩くのを聞きながら、ニールはルーファを見送った。少し心細くなったが、それも一瞬のこと。使用人たちに連れられて豪邸の中に入ると、そこにはフォース家の主が待っていた。
「よく来たな、ニール、エイマルちゃん」
「待っていたのよ。お菓子をたくさん用意したから、好きなだけ持って行ってね」
ルーファの祖父母が、言葉通りたくさんのチョコレートや飴、マフィンにクッキーを、テーブルに広げていた。それぞれ可愛らしく容器に盛りつけられている。
「こんばんは。今夜はありがとうございます」
「こ、こんばんは! ……あの、グレンさんとカイさんは、忙しいんですか?」
先ほどから探しているのだが、姿が見えない。二人ともそれぞれに仕事があるので、忙しくて会えないこともよくあるのだった。今夜はもしかしたら、と思ったのだが。
「カイ君は、急ぎで薬の調合を頼まれたらしいね。グレンはそろそろ来る頃だ」
ルーファの祖父、ジョージがそう言って頷くと、使用人たちがお茶を運んできた。二人が来るまでしばらくゆっくりしていなさい、というわけだ。
「おじ様たちもお仕事があるのね。お邪魔だったかな」
「いいえ、お嬢様。グレン様たちは、今日のイベントをそれは楽しみにしていたんですよ。なにしろニール坊ちゃまにとっては、初めてのイベントです。ぜひともご自分の手でお菓子をお渡したいとおっしゃっていました」
エイマルと一緒に、いただきます、と紅茶を飲んだ。胸の奥から温まるようで、ニールはなんだかくすぐったいような感じがした。
ジョージにマフィンを勧められたところで、ようやく部屋の外から二人分の足音が聞こえた。一人は大股に急いでいて、もう一人は上品だがやはり急いでいる。扉の前で止まり、声とともに入ってくる。
「お待たせしました! 今日はもう注文受け付けないって言ったのに、どうしても断り切れなくて……」
「いきなり言い訳をする奴があるか。……いらっしゃい、ニール、エイマル」
申し訳なさそうな、そして優しげな、二つの笑顔が並んだ。ニールとエイマルは椅子から立つと、きちんとお辞儀をした。
「こんばんは、おじ様」
「こんばんは。……あの、会えて嬉しいです。急いで来てくれて、ありがとうございました」
顔をあげた二人の頭を撫でたのは、グレンの手だった。横から差し出されたカイの手には、お菓子がたくさん入った袋がある。どちらも子供たちを心から歓迎している手だった。
「袋の中身は両方同じ。……それにしても、エイマルが魔女でニールが猫か。似合う似合う」
「あまり怖くない仮装で良かった。正直、俺はリアルな仮装が苦手でな。いつだったか、ルーファがニアにゾンビメイクを施してもらっていたことがあったが、あれは心臓に悪かった」
グレンが少し遠い目をしたのを見て、ニールはごまかすように笑った。実はその案も一度出たということは、黙っておこう。
紅茶を飲んでお菓子を食べて、籠に入りきらなかった袋を抱えて、ニールとエイマルはフォース邸を辞した。次の目的地には、グレンが送ってくれる。

当初の予定では、次は大文卿邸だった。しかしアーシェが変更を申し出たため、向かう先は彼女の実家であるリーガル邸だ。
「大方、リアたちも何かしらの準備をしているんだろう。エイマルは知っているだろうが、リアの作るアップルパイは美味いから、ニールは期待しているといい」
グレンがそう言った通り、リーガル邸で待っていたのは大きなアップルパイだった。アーシェが自分の双子の子供たちと一緒に出迎えてくれる。
「いらっしゃい、待ってたよ。今年もお母さんと協力して、張り切って作ったの。ここで食べても、お土産に持って行ってもいいからね」
「こんばんは、おば様。わあ、良い匂い!」
真っ先に巨大アップルパイに向かって走っていくエイマルだったが、ニールはそれについていかなかった。自分たちよりもっと小さい子供が気になったのだ。
「こんばんは。こんなに小さいお子さんがいたんですね……」
「そうよ、二卵性の双子なの。これからよろしくね、ニールお兄ちゃん」
お兄ちゃん、と呼ばれるのは初めてだ。エイマルからも弟扱いなので、自分より小さいものがいるという意識が、今までなかったのだ。にっこりした双子に、ニールも微笑み返す。
「ねこのお兄ちゃん、ねこ似合うね」
「ほんとうのねこみたいだね」
この台詞で、自分が今どんな恰好をしているかというところに引き戻されて、微笑みが苦笑に変わってしまったが。
「でも強そうな猫よ。なんてったって、魔女の猫ですもの」
いたずらっぽく笑うアーシェに連れられて、ニールは双子とともに、アップルパイを食べに行った。
ほんのりシナモンの香りがするアップルパイは、たしかにとても美味しかった。我が家の伝統の味よ、と大きな胸を張ったのは、アーシェの母、つまりはエイマルの大伯母。とてもきれいな人だった。

アップルパイのお土産をもらって、次にやってきたのはインフェリア邸。送ってくれたエイマルの大伯母リアは、「カスケードさんとシィちゃんによろしくね」とウィンクを残していった。
窓の外からもわかる。家の中は今、大変なお祭り騒ぎになろうとしている。扉を開ければパーティの始まりだ、という気配がする。ニールが息を呑んでいるあいだに、エイマルが躊躇なく呼び鈴を鳴らした。
「よく来たな、二人とも! 待ち詫びたぞ!」
「まあ、可愛い恰好! 写真撮りましょう、写真!」
まるで玄関で待っていたかのように、カスケードとシィレーネが飛び出してくる。さすがにエイマルもびっくりしたようで、大きな目がさらに真ん丸になっていた。家の奥でちょっと呆れたような笑顔のサクラが手を振っていたので、もしかして本当に玄関で待機していたのかもしれない。
「こ、こんばんは……」
「おじいちゃん、おばあちゃん、こんばんは。あの、家の中に入ってもいいですか? 僕はともかく、エイマルちゃんがちょっと寒そうで……」
「そうだったな、入れ入れ。お菓子もたくさん用意したんだぞ。シィが腕によりをかけて、なんと甘いものを作ってくれたんだ!」
「カスケードさんが一口でギブアップするくらい甘いから、虫歯にならないようにあとでちゃんと歯磨きするのよ?」
今度はいったい何を作ったのだろう。シィレーネの作る料理は、ときどき極端だ。普通に作れば、普通に美味しいのに。一抹の不安を覚えつつも、ニールはエイマルとともに、甘い匂いの漂うリビングへ向かった。
しっとりしたカステラ、見た目に可愛いメレンゲ、ふるふるのプリンに、ひんやりしたアイスクリームまで。昨日からこつこつ作っていたのだと、サクラが教えてくれた。
「ニールとエイマルちゃんに、たくさん食べさせたかったのよ。私もエッグタルトを作ったから、お土産に持って帰ってね」
「ありがとうございます、サクラ先生。……でもこの甘い匂い、ここにあるどれとも違うような……」
「ニールは鼻がいいな。今、スイートポテト焼いてるんだよ。シィがシェリーちゃんから作り方教わってきたんだ」
どうやらまだまだお菓子があるらしい。持って帰れるものはそうさせてもらうことにして、ニールとエイマルはプリンとアイスクリームを、熱いお茶と一緒にいただいた。コーヒーの代わりに濃い紅茶をバニラアイスクリームにかけたアフォガートが、熱くて冷たくて、ちょっと贅沢な食感だった。
食べている途中でアーサーとガーネットもやってきて、クッキーを置いていった。持参した籠も袋ももういっぱいで、加えてフォース邸で貰ったものもある。
ふと、ニールは「昔」のことを思い出した。まだ母と暮らしていた頃、それからニアとルーファに引き取られたばかりの頃の自分なら、こんなにたくさんのものをもらうのは、なんだか悪い気がしていただろう。もらうたびに罪悪感がちくちくと胸を刺して、こんなことをしていていいのか、自分にそんな資格はあるのかと、自問自答を繰り返していただろう。
けれども今は違う。純粋に、みんながニールに笑顔を向けてくれるのが嬉しかった。エイマルが一緒だからかとも思ったけれど、誰もが平等に笑いかけてくれている。きっと自分も、ここにいていいのだ。
「ニール君、楽しいでしょう?」
エイマルが華やかな笑顔を見せる。ニールは頷いて、できるだけ同じになるように笑った。
その瞬間を、カスケードがしっかりとカメラに収めていた。

カスケードが名残惜しそうに、次の場所へと送ってくれる。エイマル曰く、そこは「おばあちゃんと叔父さんの家」。窓から柔らかな光が零れていた。
「ここのお菓子は美味しいからな。ついでに動物と戯れてこい」
エイマルが呼び鈴を鳴らすあいだ、ニールはずっとカスケードに手を振っていた。
家主が出てくるまで、ほんの少し時間があった。ドアを開けたのは、金髪の青年。エイマルは彼を「叔父さん」と呼んだ。
「こんばんは。おばあちゃんは?」
「下宿生の晩御飯が終わったばかりで、後片付けしてるんだ。ニール君もおいでよ」
「は、はい。こんばんは、おじゃまします」
ここは下宿で、中にはいくらかの人と、それから六匹の生物がいた。ニールもこの生き物のことは知っているが、間近で見るのは初めてだ。
「ねぁーがこんなに……」
「おばあちゃんが好きなの。あたしも大好き。この子はアシモフって名前で、こっちはエリック」
紹介してもらっても、顔がほとんど同じ生き物を見分けるのは難しい。しいていうなら、アシモフと呼ばれたねぁーのほうが、どこか落ち着いた雰囲気を持っていた。
下宿人たちも口々に、いらっしゃい、と声をかけてくれる。そのひとつひとつに挨拶を返して、エイマルについていく。リビングのソファに座るよう、「叔父さん」が勧めてくれた。
「エイマル、今年も大漁だね」
「うん。ニール君のおかげで、まわる場所も増えたから」
「ニール君は今年が初めてだっけ。あ、僕のことはおじさんでもユロウでも好きなようにどうぞ」
おじさんというには若いので、ニールはこの青年をユロウさんと呼ぶことにした。ユロウはねぁーを一匹抱き上げて撫でながら、下宿生と言葉を交わしている。エイマルも顔なじみの下宿生と会話をし、ニールを紹介してくれた。
「ニール君ね、ニアさんのおうちの子なんだよ」
「ニアさんって、画家のニア・インフェリア?! わあ、いいなあ。私ファンなの」
「ぼ、僕もファンなんです。風景画と、海の絵がきれいですよね」
思いがけず好きなものの話ができて、ニールは少し興奮した。どうやら相手はニアの絵をとても好んでいるようで、いつか大きな絵を買うのが夢なのだという。
そんな話をしていると、台所のほうから下宿の主がやってきた。エイマルの「おばあちゃん」である。
「や、いらっしゃい。菓子は準備してあるから、持って行くといいよ。あんまり長居すると後が大変そうだから」
そう言って、美人な「おばあちゃん」はアイシングをかけたパウンドケーキと、小さなフルーツタルトをくれた。ニールとエイマルだけではなく、それぞれの家族分を。
「今度、また時間があるときにゆっくり遊びにおいで。エイマルがいつも、ニールのことを楽しそうに話してくれるから、おれも色々聞きたいし」
「はい。ありがとうございます」
ニールが頭を下げると、ねぁーがすり寄ってきた。しっとりした体毛が手に触れて、気持ち良かった。
ユロウが次の目的地、中央司令部まで送ってくれるという。ここから近いので、ちょっとだけ夜道を歩くことになった。エイマルははしゃいでいるが、ニールは少し怖い。
「大丈夫。司令部までは絶対安全に送り届けるから。そのためのこれだよ」
棍を片手に、ユロウはにっこりと笑った。道すがら聞いたところによると、彼は軍医だそうで、戦闘訓練もちゃんと受けているのだった。

*ホーンテッド中央司令部*
ユロウが送ってくれたのは、司令部の入口まで。今夜は勝手に入っていいって言ってたよ、とだけ言い残して、彼は帰っていった。
新月の下、司令部も真っ暗だ。他の家のように明かりも漏れていない。けれども入口は開いていて、ニールとエイマルはそうっと中を覗いてみた。
しん、と静まりかえった玄関、その向こうの廊下、並ぶ部屋。ぜひ寄ってほしいとイリスは言っていたが、はたして本当に来ても良かったのだろうか。
足を踏み入れ、一歩ずつ確かめるように前へ。そういえば、いつもならいるはずの夜勤の姿さえない。まるで人間という人間が、その存在を丸ごと削り取られてしまったかのようだ。
「急な仕事が入っちゃって誰もいない……とか?」
エイマルが不安げに言う。
「それならユロウさんに連絡がいくんじゃないかな。イリスさんならそうすると思うけど……」
けれども入れ違いになってしまったのなら、その可能性もある。なにしろ忙しいようなのだから。
人気のない司令部内は不気味だ。昼間はたくさんの人がいて、慌ただしく動き回っているのに、夜になるとこうも静かなものなのか。
「なんだか、おばけ屋敷みたいだね」
「……そうね。ニール君、あたしから離れないでね。いざというときは、あたしが……」
ぎゅっと手を握るエイマルに、いつものニールなら嬉しいやら恥ずかしいやらでドキドキして、顔が熱くなるところだ。しかし今は、そうならなかった。エイマルの手が、僅かに震えているのだ。面白い状況にわくわくして震えているならまだしも、これは……。
「ねえ、エイマルちゃん。もしかしてこわ」
「怖くない! だってあたし、お姉さんなんだから。こんなのちっとも」
強い口調で返してきたエイマルの言葉を遮るように、たたたたたっ、と何かが走るような音がした。それからどこかから、かすかな声も聞こえた。――ふふっ。そんなふうに笑ったように思う。
「ひ……っ」
小さく悲鳴をあげ、エイマルはニールに寄り添った。そしてそのまま、立ち竦んでしまった。
――やっぱり、エイマルちゃんは怖いんだ。怖いものなんか、何一つとしてないと思っていたのに。いつも強気で、このイベントだって積極的にニールを誘っていたのに。
驚いたニールは、けれども、エイマルの手を握り返して言った。
「……大丈夫だよ、エイマルちゃん。ここに誰かいるんだよ。怖い何かじゃなくて、人間。それも僕らの知ってる人だよ」
ニールの耳はしっかりと捉えていた。さっきの足音は、いつもと走り方は違うようだったけれど、覚えのあるもの。妙に高い笑い声は、作ってあるけれど、たしかに知っている声。
廊下の向こうから生ぬるい風が吹いてくる。ふふふ……と笑う声がする。しかしこれも、作り物。人間の仕業だ。
おばけ屋敷みたいだけれど、ここにおばけはいない。
「イリスさん、出てきてください! 走ったのも笑ったのも、イリスさんですよね?」
奥に向かって叫ぶと、風と笑い声がぴたりと止んだ。エイマルが目をぱちくりさせたのを確かめたように、屋内に一斉に明かりが灯った。
「うーん、やっぱりニールの耳はごまかせないか」
いつもの調子で、ちょっときまり悪そうに頭を掻きながら、近くの部屋からイリスが顔を覗かせた。彼女だけではない。廊下の奥や他の部屋から、次々にルイゼン、メイベル、フィネーロが姿を現す。階段から降りてきたレヴィアンスは、拍手をしていた。
「かっこよかったよ、ニール。さすが魔女の黒猫、十分に主を守れてたじゃないか」
それぞれの腕には、お菓子のはみ出た袋がぶら下がっている。ぽかんとしているエイマルを見て、ニールはばれないように、ほんの少し笑った。
からかっているのではない。感動したのだ。

「わたしたちも、連日忙しいと息が詰まるからさ。せっかくのイベントだから、ちょっとだけ遊んでみようと思ったのよ。でもおばけ屋敷ごっこの発案はレヴィ兄」
一般人が入ることはほとんどないはずの、中央司令部大総統執務室。ニールとエイマルは、そこでハーブティーを淹れてもらった。鎮静作用があるらしく、エイマルもすっかり落ち着いている。
「まさか怖がられると思ってなかったんだよね。いや、ニールなら多少怖がるかなとは思ったけど。エイマルは予想してなかった」
「……あんまり言わないでください。ニール君には恥ずかしいところ見せちゃったね。ごめんね」
顔を赤くし、困ったように眉を下げているエイマルは、めったに見られるものではない。ニールは首を横に振って、内心、彼女は性格も可愛いんだなと思っていた。今まで知っていたエイマルは、賢くて強くて、どんなものが相手でも怯まず、少し強引なところもある、そんな女の子だった。でもそれはついさっき、覆ったのだ。
エイマルはおばけが怖い。人間の論理で説明がつかない、得体の知れないものが怖いのだという。自分の持っている武器――彼女の場合はいくらかの知識と格闘技――が通じないから。
「人間、怖いものはいくらかあったほうがいい。じゃなきゃ無謀な暴走をするからな。イリスやメイベルみたいに」
「わたしは怖いものあるよ。ゼンってば失礼なんだから」
「人のことを無謀だなんて言える立場か」
「君たちよりは、ルイゼンは言ってもいいと思うが」
わいわいと賑やかな軍人たち。彼らがいてこその司令部だ。ニールはかつて、彼らのことも怖かった。でも今は、本当のことを知ったから、怖くはない。ニールは自分の怖がりを自覚しているが、そのフィルターは徐々にはずれてきているのだった。
「しっかし、ずいぶんたくさんもらってきたんだな、お菓子。オレたちの代に匹敵するんじゃないの。みんな気合入ってただろ」
レヴィアンスが近づいても、もう怯えないし、緊張もさほどない。いっぱいになった籠と袋を、エイマルと一緒に見せた。
「本当にイベントが好きなんだなって、よくわかりました。僕が初めてだったから気を遣ってくれてるのかなとも思ったんですけど、それだけじゃないんですね」
「もともとこんなものだよ。とくに我が家はお祭り好き筆頭だからね。今回のことだってお兄ちゃんから連絡もらったお父さんが、みんなに広めたんでしょう。衣装も貸す気だったみたいだけど、ニールの黒猫がかっこいいから、今年はそれで良かったね」
「……かっこいい、ですか」
最初は乗り気じゃなく、押され流されすることになってしまった黒猫の仮装。もうちょっとかっこいいのが良かったと思っていたのだけれど、イリスから見ればこれも「かっこいい」の範疇らしい。そういえば、レヴィアンスも「かっこよかった」と言ってくれた。
猫の耳と尻尾、手袋。どう考えても可愛い動物だと思うのだが。
「かっこよかったよ、ニール君。あたしが見込んだ通りだった。……一緒に来てくれて、ありがとうね」
どうやらエイマルも、イリスと同じ認識のようだった。

*エルニーニャの猫*
大総統執務室で写真を撮ってから、イリスがゴールのダスクタイト家へ送ってくれた。大荷物を抱えた子供たちの頭を、グレイヴが「お疲れさま」と撫でてくれる。
「荷物は適当に置きなさい。温かい飲み物淹れてあげる。今日はもう遅いから、ニールは泊まっていくといいわ。ニアとそういう約束だったの、遠慮はいらないわよ」
女の子の家に、こんなに堂々と泊まっても良いものなのだろうか。エイマルの父に知られたら大変なことになるのでは。少し怖い想像がニールの頭の中を駆け巡る。しかしエイマルの祖父ブラックが、「心配いらねーよ」と打ち消してくれた。
「せっかく子供なんだから、子供の特権使っとけ。エイマル、先に風呂入って着替えて来い」
「はーい」
帽子を脱いだエイマルは、部屋に入って着替えを持ってきて、風呂場に走っていく。それを見送ったあとで、グレイヴがニールの前に甘い香りのするカップを置いてくれた。
「ホットチョコレートよ。気に入ったらレシピつけてあげるから、家でニアにでも作ってもらいなさい」
「ありがとうございます」
温かくて甘い飲み物は、体中にしみわたるようだった。今夜はたくさん甘いものを食べたり飲んだりしたなと、改めて思い出す。
「楽しかった?」
グレイヴに問われ、ニールは頷く。
「エイマルちゃんのおかげで、楽しかったです。誘ってもらって良かったです」
「ならいいわ。あの子、今回かなり強引だったでしょう。イベントに参加したいけどできないかもしれない、って焦りがあったのよ。ニールがいたからできたの」
「したいけど、できない?」
これまで毎年やっていたようなのに、今年はどうして。首を傾げたニールに、グレイヴが一冊の本を見せた。漫画のようだ。表紙は可愛い絵柄だが……。
「これ、エイマルのお気に入りなんだけどね。こう見えて、内容がなかなかハードなのよ。子供がおばけに襲われるホラー漫画。しかも救いがある話が少ないの」
「ええ……子供向けじゃないんですか」
「子供向け全てに救いがあると思ったら大間違い、だそうよ。アタシとしてはちょっとは救ってほしいものだけど。とにかくこれにはまったエイマルは、夜中に一人でトイレに行けなくなるほど、おばけが苦手になってたの」
そんなことがあったのか。エイマルを怖がらせるほどのその内容が、ニールも気になったが、まずは話の続きを聞く。
「でもおばけの恰好をしてお菓子をもらう、このイベントは楽しいからやりたい。いつもみたいにイリスがいれば心強かったんだけど、あの子も忙しいからね。初めから、今年はお菓子をあげるくらいしか協力できないかもって話だったのよ」
実際はそれ以上のことをしてくれたわけだが。でも、あれがせいいっぱいだったのかもしれない。最近物騒だと言っていたということは、それだけ軍人の仕事は増えているのだ。
「そこでエイマルは、ニールに目をつけたの。……この漫画ね、救いがある話は少ないけど、そのほとんどが魔女と黒猫が活躍する回なのよ」
「魔女と黒猫……」
エイマルが強く希望した、今回の仮装。グレイヴが漫画のページを捲ると、そこには今日のエイマルの恰好とほとんど同じ姿をした魔女と、人間くらい大きな黒猫がいた。……大きすぎやしないだろうか。
「これ、猫ですか?」
「猫よ。この魔女の眷属で、最強の魔獣なの。魔女は登場するたびにピンチに陥るんだけど、必ず黒猫が守ってくれる。エイマルが欲しかったのは、その黒猫の役だったってわけ」
つまり今回の仮装は、とても強いものだったのだ。エイマルにとっては、夜道を歩くための、大切なパートナーだった。猫は強い生き物だから、というニアの言葉を思い出す。グレイヴとはイベントのことで相談をしていたはずだから、このことも知っていたのかもしれない。
「しっかり黒猫の役を果たしてくれたようね。ありがとう、ニール」
「いえ……どういたしまして」
思ったより頼られていた。エイマルは「自分のほうがお姉さんだから」と強がる反面、ニールに強がるための力をもらおうとしていた。そういうことだったのだ。
「カスケードがエルニーニャの獅子、イリスが獅子姫なら、ニールはエルニーニャの猫か。ま、動物としては同じ種だし、いいんじゃねーの」
大層なような、気の抜けるような。ブラックから微妙な称号をもらって、ニールは笑って頬を指で掻いた。称号のお礼に、コーヒーキャンディと「誕生日おめでとうございます」という言葉を渡すのを忘れなかった。

おばけに捕まらないように、おばけの恰好で出かけよう。
子供みんなで連れ立って、美味しいお菓子を集めよう。
今夜はとても、不思議な夜。知らなかった一面があらわれる、ちょっぴり奇妙な子供の夜。



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2016年10月22日

告白の解

気がつくと、ソファの上に横たわっていた。丁寧にブランケットがかけ直されている。寝に入ったときにはちゃんと座っていて、ブランケットも膝にかけただけだったのに。というかそもそも、寝るつもりなんかなかったのに。イリスは自分が普段から早寝早起きの健康体であることを、このときばかりは恨んだ。
「そうだ、レヴィ兄……!」
跳ね起きて部屋を――大総統執務室を見回す。朝の爽やかな風が、割れた窓から吹き込んでいた。床にはガラス片と血痕。昨夜と変わらない、事件後の光景だった。その中で自分の椅子に座り、机に伏せている赤い髪の男が、一瞬息をしていないように見えて焦る。
駆け寄って確認すると、ちゃんと規則正しい呼吸をしていた。怪我はない。イリスは安堵し、時計を確認した。
「始業まで寝かせてあげたいけど……」
そうはいかないだろうな、と嘆息する。ガードナーなら起こすだろう。彼は今日、待っていても来ない。しかし何も連絡がないところをみると、もう二度と会えないというわけではなさそうだ。時間を見て見舞いに行かなければ。
「とりあえず、お茶でも淹れるか。ガードナーさんならきっとそうする。それくらいならわたしにだってできる」
お湯を沸かしながら、今日の予定を確認しよう。そう思ったのだが、こちらへ向かってくる足音のほうが早かった。三人分の、聞きなれた音。
「イリス、無事か?」
「おいメイベル、大総統室に勝手に入るなって」
開いた扉の向こうには、メイベル、ルイゼン、そしてフィネーロ。昨夜のことはもう、メイベルが話しているのだろう。あまりに心配そうだったので、イリスは笑ってみせた。
「無事だよ。レヴィ兄も、わたしも。お茶淹れてくるから座ってて」
彼らも早起きだっただろうから、目が覚めるような一杯を。

人の気配で目覚めたレヴィアンスは、大総統執務室備え付けの資料室に引っ込んでからまた出てきた。抱えたバインダーを来客用のテーブルにどさりと置いて、それから自分も大総統の椅子にどさりと腰を下ろした。
「予定より早いけど、説明を始めるよ。どうせ話すと長くなるし」
「待って、レヴィ兄。お茶淹れるから、そのあいだに顔洗ってきて。できればシャワー浴びてきてほしいんだけど、一人で寮に戻らせるのは危ないかな……」
イリスが止めると、苦笑が返ってきた。心配しすぎ、と。
「でもまあ、それくらいの時間はあるか。イリス、クロゼットにオレの着替えあるから出して。シャワーは寮のじゃなく、練兵場併設のを使う」
「うん。……うわ、ちゃんとシャツが畳んで入ってるよ。下着と靴下まで。徹夜準備万全じゃん」
「お前、あんまり下着とかそういうの見るなよ! 閣下もイリスに注意してください!」
「別にイリスにパンツ見られても、今更なあ」
「それはどういうことだ。場合によっては今回の事件の犯人より先に私が閣下を始末するがそれでもよろしいか」
「メイベル、やめろ。イリスも少し気を遣ってくれ。この場合は自分や閣下にじゃなく、僕らにだ」
少しだけ空気が和んだ。相変わらず涼しい風が入ってくる明らかな事件現場で、それ以前に大総統執務室という重要な場所なのだが、それをほんのわずかでも忘れることができた。レヴィアンスが着替えを持って出ていったあとで、イリスは四人分の紅茶を淹れる。
「で、何もなかったのか」
剣呑な雰囲気を残したまま、メイベルが問う。
「寝ちゃったけど、寝られたってことは何もなかったんだと思う。ガードナーさんに怪我させただけで怖気づいて退散してくれたのならいいんだけど」
状況としてはちっとも良くないけれど、まだマシという意味だ。だがフィネーロが首を横に振った。
「今回の襲撃が別件でなければ、彼らは人員を変えてまた閣下を狙うだろう。むしろ今回は失敗することが前提だった」
「なんかややこしいけど、やっぱりフィンはこうなることを知ってたんだね。レヴィ兄も。予想外だったのは、ガードナーさんを守り切れなかったことくらいか」
「詳しくは閣下が戻ってから話すが、そういうことだ。ただ、ガードナー大将の負傷に関しては、相手にとっても想定外だった可能性がある。本来ならあの人にも重要な役割があったんだ」
フィネーロはずっと小脇に抱えていたものを、テーブルの上に置いた。イリスとメイベルには見慣れないそれを、ルイゼンは「最近こいつが弄ってた端末」と説明してくれる。上蓋を開くと、内側に画面とキーボードが並んでいて、地味な黒灰色がなんだか格好良く見える。
「たんまつ……って、それで何するの? ていうかこんなのあったんだ?」
「長兄が某社と協力して作った、情報収集と暗号化、送受信に特化した機械だ。全く同じものを持っているのは、研究開発に関わったチームと、長兄と僕だけ。プロトタイプは二年前に北方司令部で試験的に運用されていたが、兄の退役とともに回収された」
「もっとわかりやすく」
「兄が僕に寄こしたスパイ専用機器」
イリスがわかる単語で簡潔にまとめられた言葉を、脳内で繰り返す。スパイ、が光って浮かび上がるイメージができた頃には、メイベルがもう口を開いていた。
「それを使ってあの人を小馬鹿にしたようなお前の長兄と密談をしていたのか。持ってきたからには閣下も関係してるんだろうな」
「本当に君に嫌われているな、兄は。もう一度言うが、詳しいことは閣下が戻ってからだ」
「まあまあ、レヴィ兄がいなきゃできない話なら、ちょっと待っていようよ。……でも、そっか、フィンにはそういう仕事があったんだね。スパイなら口が軽いわたしとは離しておいたほうが良かったかも」
「正確にはスパイは兄で、僕は情報を受信するだけ。閣下や兄に比べれば、リスクの少ない仕事だよ」
リスクがない、とは言わなかった。少ないといえる程度に抑えていたのだろう。フィネーロが班から外された本当の意味が、イリスにはようやくわかった。
端末とフィネーロに気をとられている隙に、ルイゼンがいち早く積まれたバインダーに手を伸ばし、中身を確認していた。レヴィアンスがそのまま放置していったということは見てもいいはずだ。
どうやら一番上にあったのは、過去の軍籍簿だったらしい。ずらりと並ぶ名前と性別、入隊年と退役年、そして備考欄。退役年が空欄になっている人物は、まだ在籍しているか、備考欄に「死亡」という記入と年月日があった。
「おい、イリス。これ」
呼ばれて振り向いたイリスの目に、知っている名前が映る。同じページに並んで、ニア・インフェリア、ルーファ・シーケンス、アーシェ・リーガル、レヴィアンス・ハイル。少し離れて、グレイヴ・ダスクタイト。
「十八年前の入隊者だ」
「うん、アーシェお姉ちゃん旧姓だけど、十歳なんだから当然だよね。退役年が空欄なのはレヴィ兄だけか」
「それより、知っている名前全員の備考欄が埋まってる。共通しているのは『身元について個人情報を参照されたし』。ここには書ききれない、けれどもわざわざ書いておかなければならないようなことがあったんだ」
全員親が元軍関係者なので、その注釈に納得できないこともない。だがイリスはもう知っている。「身元」がそれだけの意味では使われない場合を。そのために起きた事件を。
「……ルー兄ちゃんは、実の親のことかも。裏の人だったって聞いたことがある」
「他は」
「詳しくは知らないけど、アーシェお姉ちゃんの母方のお祖父さんは、昔事件を起こしてるらしいよ。イヴ姉はお父さんが昔素行が良くなかったって。今じゃ想像できないけど」
「イクタルミナット協会の名前の由来は覚えてるか。裏と関わりがあるなら血脈信仰信者の『撲滅』の対象になる。お前の知ってる情報じゃ、ルーファさんしか確実には当てはめられないな」
ルイゼンはイリスと全く同じことを考えていたようだ。全員がイクタルミナット協会事件に、より深いかたちで関わっていたのではないか。単なる軍の人間ではなく、彼らのターゲットになっていたのでは。
レヴィアンスが襲われたのなら、かつての仲間たちにもなんらかの被害が及んでしまうのではないか。
「閣下はまだ来ないが、これだけは言っておこう。今ルイゼンとイリスが懸念していることの答えは、否、だ」
不安げな二人に、フィネーロが溜息交じりに声をかけた。なんで、と問う前に、返答がある。
「軍外に被害が及ぶ可能性があるなら、もっと早くに閣下は動いていただろう。軍を効率よく指揮し、僕らにもすぐに話があったはずだ。イリスの兄さんたちにも注意喚起くらいするだろうな」
「それがないってことは、やっぱりレヴィ兄が狙い?」
「ああ。軍籍簿は、本来なら自分から十八年前の事件について話すために、閣下があらかじめ用意していたのかもしれないな。でもそれはもう、先々代のおかげで済んでいる」
そっかあ、とイリスは大きく息を吐いた。何にせよ、兄たちに危害が及ばないだろうということは、ひとまず安心していい。たとえ何かあったとしても、兄たちであれば自分で対処できてしまうかもしれない。……いや、やはり油断は禁物だ。昨夜のガードナーの件がある。
気を取り直して二つめのバインダーを手に取ると、それもやはり軍籍簿だった。今度は二十五年前のものだ。こちらには付箋がある。捲ったところに、イリスしか知らない名があった。
「ダイさんだ」
「だってそれ、ダイ・ホワイトナイトって書いてあるぞ。ヴィオラセントじゃないのか」
「あとで養子になったんだよね。生まれはホワイトナイト家。ユロウさんの名前を思い出してよ」
「あー……たしかにあの人、フルネームはユロウ・ホワイトナイトだな。見た目似てないから兄弟だってこと忘れるんだよ」
たしかに、と笑ってから、イリスはここに付箋がある意味を考える。かつて兄らの上司だったことを考えれば、ダイも過去の事件に関係していることは想像がつく。ただし他の人のようにターゲットだった可能性は低いのではないか。
だが、妙に気になる。血脈信仰、ターゲット、事件は現在に続いている。
「血脈信仰信者共がどういう考えで閣下を狙っているのかは知らないが。フィネーロ、これから起こる可能性のある事件として、奴らが再び十歳以下の子供を狙うというのは考えられるのか」
いつのまにイリスの手元を覗き込んでいたのか、メイベルがすぐ隣で発言した。
「そこまでは僕にもわからないが、閣下を狙うのに何か手順のようなものがあるらしい」
「ではその中に含まれる可能性はあるな。十八年前はイリスの兄君と閣下が攫われたんだろう。今回もおあつらえ向きの子供が近所にいるじゃないか。……ノーザリア王国軍大将の娘が」
その顔を瞬時に思いだし、イリスは背筋が寒くなった。いやしかし、それなら彼女の母のほうに注意を促しているはずだ。それがないのなら、彼女もまた安全では。だが……。
「エイマルちゃん、大丈夫かな……」
呟いて胸を押さえる。今度の不安には、フィネーロも返す言葉がないようだった。

「今度こそ話を始めようか」
大総統の椅子に戻ったレヴィアンスは、イリスが淹れた紅茶を一口飲んでから切りだした。
テーブルの上に資料が広げられているのを見て、部下たちがいろいろと考えを巡らせていたであろうことは察している。イリスの顔が少し青ざめていたので、よくない想像もしたかもしれない。もっと早くに話していれば、こんな表情もさせなかったし、ガードナーも無事だった……と考え出すとキリがないので、それは一旦置いておく。
「フィネーロ、どこまで話した?」
「閣下が来るまで詳細の説明はしないほうがいいと判断しました。ですが、無意識に口を滑らせているかもしれません」
もうこの事態ですので、という言葉を呑みこんだように聞こえた。彼なりの非難なのだろう。
「それじゃ、昨夜の説明から。現場がここだし、想像しやすいだろ」
ちら、と見た床に血痕が落ちている。ここに戻る直前、病院に電話をした。ガードナーはまだ意識がないという。何かあったら連絡します、という言葉を預かってきたが、「何か」が良いことであるよう祈るばかりだ。――軍籍簿の備考欄を埋めるのは、大総統の仕事の一つだ。嫌な仕事はしたくない。
「時刻は日付が変わる少し前。侵入経路は見ての通り窓。何か道具を使って割られたのは間違いないけど、それが何なのかはこれから考える。室内への侵入者は四人。レオはちょうど外に出してていなかった」
「襲撃の瞬間、閣下はお一人だったんですね」
ルイゼンに頷きながら、イリスに目をやった。口が小さく「わざと?」と動いたので、正直に同じ形で返事をした。
「窓を割った直後に侵入してきたから、入ってきた四人以外にも、敷地内への侵入者がいたと思う。カメラを確認してもらってるけど、もし映ってても意味はなさそう。侵入者の目的はあくまで自分たちの存在をこちらにわからせるためで、オレを殺すかどうかは運次第ってところだった」
殺す、と言った途端にイリスの表情が険しくなる。ルイゼンも眉を顰めた。メイベルは表情の変化こそなかったものの、少しは動揺したのか、足を組み直していた。
「相手の武器は短剣。ここにあるけど、見る?」
「あとで」
「じゃああとでな。パッと見た感じ、ウィスタリアで製造されてる量産品だと思う。とにかく四人の相手をしているあいだにレオが戻ってきて、一気に片付けてくれた」
そこまでは良かった。問題はこの後だ。思い出すと吐き気がこみ上げてくるが、我慢する。
「……が、倒した四人を縛っているあいだに、外から発砲された。伏せてって言われたんだけど、完全に油断していたオレは反応できなかった。結果、庇ってくれたレオナルド・ガードナー大将は負傷」
「それから救急を呼んで、私たちの部屋……というよりイリスに連絡をしたと。時間からして、そのあとは特に襲撃犯の追跡などはしていないという認識で間違いは?」
「ない。……あ、やっぱり一つ追加。イリスが寝てから、ちょっと屋上に行った」
「動いてんじゃん! 一人じゃ危ないから、そういうときはわたしを叩き起こしてよ!」
ばん、とテーブルを叩いて、イリスが叫ぶ。ルイゼンがそれを宥めつつ、レヴィアンスに尋ねた。
「屋上には、何を?」
「煙草吸いに」
「いつから煙草なんて吸ってんの?!」
「イリス、話進まないから。……閣下、正直に」
「嘘はついてないよ。煙草吸おうと思って屋上に出たのは本当。でもおかげで、侵入経路はちょっとわかった」
ぴっ、と指でイリスたちに向かって弾いたものは、うまくテーブルの上に落ちた。写真が一枚。複数撮ったうち、一番わかりやすいものがそれだった。
「足跡、ですね。エルニーニャ軍指定の靴とは明らかに違う」
フィネーロの確認に頷く。司令部屋上には人が来ることがほとんどなく、普段は砂埃が積もっている。そこにくっきりと、本来施設にいるはずの人間とは明らかに異なる靴の跡が残されていた。新しいものだということは明確で、襲撃犯に関係していると想像するのは容易だった。
「今朝、兄から『上空に注意』という旨のメッセージが入っていました。昨日の時点ですでにエルニーニャに入っていたようですが、まさかウィスタリアからここまで……」
「うん、空から来た可能性はあると思ってる。ていうかアルト、情報遅くない? ばれてんじゃないの?」
「ばれてはいないと思いますが、たぶん。でもこの時間差は気になりますね」
端末を見ながら話すフィネーロとやりとりをして、ふとイリスに目をやると、酷く機嫌が悪そうだった。文句はたくさんありそうだが、もう少し我慢してもらいたい。
「というわけで、屋上から壁伝いに、この部屋に入ってきたんじゃないかと思う。幸いにも部屋への侵入者の身柄は確保済みだから、調べは簡単につく」
「だとしたら、襲撃犯は最低でも七人組か」
メイベルがさらりと言って、不機嫌そうだったイリスの表情が驚きに変わった。
「え、ベル、どうしたらその計算になるの?」
「部屋に入ってきた四人、これは私たちも見たし、閣下が嘘を吐く必要はない。それから窓を割った奴と、大将を撃った奴。真上からの狙撃はありえない。窓を割ってから移動して撃つということも、空の移動でなら可能かもしれないが、人が乗れるくらいでかいものが長く滞空していれば誰かしらが気づく。残る一人は御一行様を運んできた奴だ」
すらすらとした説明に、感心したように溜息を吐くイリスと、まあそうなるよな、と頷くルイゼンとフィネーロ。いつもこれくらい冷静でいてくれたら、と思いながら、レヴィアンスは礼を言う。
「ホント話早いな。助かる」
「閣下がもったいぶらないでさっさと吐いてくれれば、私が説明する必要もなかったんですが」
毒はもっともなので、おとなしく受けておこう。
「屋上はすぐにまた砂埃が積もります。今のうちに現場を見ておきたいのですが」
「そうだね。レヴィ兄が勝手に行っただけで、わたしたちはまだ直接見てないし。すぐ行こう、レヴィ兄」
「オレも?」
「当たり前でしょ。一人にしておけないし、……とにかくさっさと立つ!」
まだ何か言いたそうなイリスは、不機嫌な顔に戻っていた。

屋上を一通り調べて再び大総統執務室に戻ってから、始業時間がとっくに過ぎていたことに気がついた。レヴィアンスが慌ててイリスたちの上司と情報処理担当に連絡をしてくれたので、このあと叱責されることはなさそうだ。それ以前に、今日は通常の業務に戻れるかどうか。
「屋上、やはり閣下が見落としていたものがありましたね」
「暗いうちだったし、縁ぎりぎりのところなんて見てなかったから。で、何だと思うの、あれ」
足跡とは違う、しかし新しさでいえば同じくらいの、何かの痕跡が見つかった。屋上の縁、もう一歩で落ちてしまうようなそこに、縁に対して直角についた紐状の跡。二つあって、それぞれの太さは違った。
「屋上から執務室に降りてくるとき、ロープをひっかけたんじゃない?」
イリスが任務中のフィネーロを思い出しながら言う。紐といえば彼だ。だが当のフィネーロは肯定せず、腰に装備していた鎖鎌を見せた。
「それだけなら二つもいらない。必要だとしても同じ太さのものでいい。……だから片方は、こういうことじゃないかと、僕は思う」
持ち上げたのは鎌ではなく、鎖を挟んで逆側にある分銅。鎖から下がってゆらゆらと揺れるそれを見て、メイベルが鼻で嗤った。
「なるほど。良かったですね、閣下。より窓に近いところにいたら、本当に死んでいたかも」
「……だとしたら乱暴にもほどがある。でもこれならそれなりの勢いもあるし、道具も回収できるな」
レヴィアンスも頬を引き攣らせながら納得している。イリスは横にいたルイゼンに目配せした。
「なんだよ、自分で言えよ。……ええと、悪いけど説明してくれないか、フィン」
「振り子だ。この鎖を持って揺らすと、分銅が動くだろう。素材や大きさにもよるが、勢いをつければ窓も割れるんじゃないか」
鎖を軽く振り回すと、フィネーロの指を支点に、分銅が大きく振れた。
「跡の一つはここの窓のほぼ真上のようだった。力や距離の問題がクリアにならなければ確定できないが、屋上から窓を割る方法として考えておいてもいいかと」
「へえ。レヴィ兄、おもりみたいなやつ見てないの?」
「ガラス防ぐのにブランケットで視界覆っちゃったからな」
手っ取り早く正確な方法を知るには、捕まった四人から聞き出すのが一番だ。ルイゼンがメモを手に、「聴取は俺が」と引き取った。
「侵入経路についてはひとまずこれくらいにしておくか。……さてイリスさん、オレに何か文句あるんじゃないの? 言うなら今だよ」
レヴィアンスが視線と言葉を投げてくる。本人が今だと言うなら、我慢するのをやめてもいいのだろう。イリスは遠慮なく打ち返すことにした。全力で。
「レヴィ兄、いったいいくつ隠し事してたのよ?! いつから襲撃を予測してたの、フィンに協力してもらったのはどのタイミング、手順がどうこう言ってたってことはまだこれ続くわけ?! 事件が起こっちゃってからも、ご丁寧に寝ちゃったわたしを横たえてブランケットかけ直してくれちゃうし、勝手に屋上なんか行くし! あと足跡の写真、撮ったのレヴィ兄なんでしょ。レヴィ兄しかいないよね。写真得意だもんね、現像まで自分でできるもんね、資料室の奥に暗室作ってるもんね。それに時間を費やしたってことは、全然寝てないんでしょ? ねえ、どこまでわたしに隠すつもりだったの!!」
堰を切ったそのまま、あらん限りに叫ぶ。外にも聞こえているかもしれない。けれどもそんなことはおかまいなしに、本当に尋ねたかったのは。
「……本当にわたしのこと、補佐だと思ってる? 守るためにいたつもりが寝ちゃうような、未熟な子供じゃ、やっぱり務まらないって思った? わたしは、今、全然自信ない。フィンはレヴィ兄から大事な仕事を受けて、しっかりこなしてる。ベルはどんどん考えを言って、私にもわかるようにまとめてくれる。ゼンは佐官だから、事態を把握できれば動ける範囲は広い。でもわたし、わたしだけが、中途半端で先がない。ガードナーさんみたいに、レヴィ兄が何も言わなくても先読みして動けるような、そんな補佐じゃない。所詮は見習いの、尉官の、背ばっかり伸びた子供なんだ」
ここ最近で実感がどんどん深くなっていったことを、だんだん震えてくる声で吐き出す。こんなことをしたら余計に子供みたいで、だから口にするごとに悔しさが増した。
もっと力があれば、もっと頼れるような人間だったなら。早くに事件のことを知って、ガードナーとレヴィアンスをまとめて守ることができたなら。――そうだ、何が何でも守り抜くと言ったのに、少しも実行できていない。こんな情けない自分に、補佐なんか務まるわけがない。
いつもなら真っ先に声をかけてくれるメイベルが、黙ってソファで足を組み直した。フィネーロは何か言いたそうにしていたが、口を開くことはない。ルイゼンはイリスとレヴィアンスを交互に見て、それから呆れたように溜息を吐いた。呆れもするだろう、こんな場面を見せてしまっては。
「……それだけ?」
静寂を破ったのは、レヴィアンスの声。イリスが顔をあげると、彼は鳶色の瞳で真っ直ぐにこちらを見つめていた。いつかの冷たい眼差しではなく、生まれたときから見てきたであろう、ただのレヴィアンスの眼がそこにあった。
「だけ、って……」
「もっと文句言われるかと思ってた。大総統のくせに部下一人守れなかったんだから、思いっきり罵声浴びせてくれてよかったのに。昨夜、情けない姿も見られたし。……なのにイリス、オレの心配と自分の弱音ばっかりじゃん」
困ったように笑うのは、ゼウスァートの名を持つ大総統ではなく。妹分を可愛がっていた、レヴィアンス・ハイルだ。昔から変わらない仕草で手を伸ばし、イリスの頭をくしゃりと撫でる、その人だ。
「昨夜、レオが撃たれたとき。血を流して運ばれていくのを見送ったとき。……自分で超ポジティブだと思ってたのに、生まれて初めて死にたいって思った」
「……え」
レヴィアンスの言葉に目を見開いたのは、イリスだけではなかった。もちろん、今のイリスは気づかなかったが。
「これはもう死んで詫びるしかないなって考えてたところに、イリスたちが来たんだ。お前の真っ青な顔見たら、その前にやることがあるって気づいた。とりあえずはその場で、大総統としてのふるまい。うまくできなくて嫌になったけど。でもイリスが閣下って呼ぶから、なんとか頑張らなきゃって思った。お前に補佐してもらってんだから、立ってなきゃだめだって」
この国の大きな柱がたおれることのないよう、支えるのが補佐。その言葉を再び思い出す。
「でもわたし、レヴィ兄のこと支えられてない」
「まあ、大総統補佐としてはまだ未熟な点もある。でも、オレが育てるつもりだったんだ。今までも、これからも。最初からそのための補佐見習いだ。……でもさ、レヴィアンス・ハイルっていう人間の支えには、お前はずっとなってんだよ。仲間内の末っ子だったオレの、初めての妹がお前なの。絶対強くなって守りたいって思うじゃん」
その気持ちはわからないでもない。イリスにとってのエイマルがそうだ。
しかし、イリスはもう、ただの妹分ではない。いつまでも同じ扱いということは、やはり認めてくれていないのか。唇を噛みかけたとき、レヴィアンスが苦笑した。手もイリスの頭から離す。
「まあ、それじゃだめなんだけどね。フィネーロを班から外すのに、自立を妨げるなって言ったろ。あれは自分にもちゃんと言い聞かせておくべきだった。イリスを補佐にしようって思った時点で、妹扱いはやめるべきだったんだ。それを二年も引きずって、この期に及んで過保護になって。ニアがまだ在籍してたらぶん殴られてるところだよ」
「お兄ちゃんそんな理不尽じゃない……」
「うん、理不尽じゃないよ。だから殴ると思う。お前と本気で勝負するみたいに」
すう、とレヴィアンスが息を吸う。そうして真剣な表情で問う。
「イリス、道連れにしていい?」
「道連れ?」
「襲撃は終わったわけじゃない。むしろこれからが本番だ。今回は存在の主張とレオを負傷させるにとどまったけど、やつらの本当の目的はゼウスァートを名乗る大総統を殺すことだ。それも、インフェリア家のお前が補佐をしている今。フィネーロは関係ないって言い張れば解放できるし、そのためにオレが情報を得た痕跡はできるだけ消させてる。ルイゼンとメイベルは、なんならすぐにこの事件から手を引かせることもできる。聴取だってオレが直接やればいいんだし。でもな、お前だけはどうしても切れない。やつらがオレとお前を結び付けて考えている以上、どうすることもできない。補佐を辞めさせたって同じだ。だからといって軍を辞めさせようとしたら、お前が猛反発するだろう。だからイリス、お前だけはオレと一緒に死ぬかもしれない」
メイベルが立ち上がろうとしたのを、ルイゼンとフィネーロが止める。ついでに口も塞がれたらしく、なにやらもごもご言っている。――言いたいことはだいたいわかる。つくづく愛されているなと、イリスは日頃から思っている。
だから答えはすぐに決まった。大総統が間違ったことを言ったら訂正するのも、補佐の仕事だ。
「一緒に死ぬわけないでしょ」
先がないなら道を拓く。その決意を、もう一度。今度はもっともっと強く。
「切れないのなら、レヴィ兄とわたしで生きるだけ。弱いなら弱いで、あがいてあがいて、あがきまくってやる」
「だよね。お前ならそう言うと思ってた。だからイリスが補佐なんだよ」
レヴィアンスが不敵に笑う。イリスも同じ笑みで返す。
「だったらもう、隠し事なしね。全部話して、レヴィ兄」

エルニーニャ国政に注目し過剰な期待を寄せ、ウィスタリア政府にも同じ対応を求める者たちがいる。そうウィスタリアからエルニーニャ王宮に情報が入り、レヴィアンスに届いてから、彼らのことを調べ始めた。協力者を求めてレヴィアンスがよそに飲みに出るようになった頃、イリスはそれを「大事な仕事が入ったんだな」程度にしか思っていなかった。自分の手の届かないことだろうから、手出しは無用だと。
レヴィアンス自身、多くの人の手を借りて情報を集めていたものの、はっきりとしたことは掴めずにいた。ウィスタリアに血脈信仰信者が集まっているということをようやく突き止め、内情を知るためにアルト・リッツェに協力を要請したが、なかなかとりあってもらえなかった。時間をかけても粘り勝ちできないかと考えていたところに、他の協力者からもたらされたのが、暗殺計画の噂だった。
噂ではあったが、過去に血脈信仰絡みで大事件が起こったのはたしかだ。かつての事件の関係者が再び危険にさらされる可能性を無視できず、レヴィアンスはアルトの出した条件をのみ、そうすることでフィネーロにも協力してもらうことを決めた。
――どうも、オレの暗殺計画があるらしい。早めに真偽を、本当だったなら進行状況を確かめたい。お前の兄さんと連絡をとって、これ以上噂が広がる前に何とかしたいんだ。
これが班を外されたフィネーロに与えられた任務。兄と通じて、事態を秘密裏に収束させる手伝いをすることが、最初の目的だった。しかし、やがて疑惑は確信に変わる。近いうちに暗殺計画に大きな動きがあるだろうと、そういう情報が入ってきた。追って、計画は第十四代大総統の死になぞらえたものになるとまで。ウィスタリアからエルニーニャ王宮に届いたものだった。大きく動けない理由がウィスタリア側にもあるようだが、それを追及している時間はなかった。
これから起こるであろうことへの対処を考えることに、レヴィアンスの日々は費やされていった。
「相手は血脈信仰の教義を歪めて活動している。イリス、イクタルミナット協会事件について調べたんだよね?」
「うん、ハルさんから宿題出された」
「英雄の血を継ぐ者は持ち上げ、罪を犯した人間の血は絶やせ。過激な方針だったけど、今にして思えば裏に利用されるくらい盛り上がったんだよな。現にオレが大総統の地位に就けたのも、ゼウスァートの名前に期待されてのことだ。……まさか更なる期待が、十四代目と同じく死ぬことだとはね」
エルニーニャ王国軍、第十四代大総統。レヴィアンスが出てくるまではゼウスァート最後の大総統といわれていた。大総統がこの国の頂点に立ち政治を行なうようになったのはこの代からだ。それまでは王宮が最高権力とされていたが、国王一家失踪事件のせいで状況が変わったのだった。
十四代目はいなくなった王の代わりに采配を振るい、その穴を埋めようとした。だがその活躍がかえって王宮派の反感を買い、ついに暗殺された。以降、ゼウスァートの名は表舞台から消える。だがそこから始まった大総統を頂点とした政治は、王宮派の意思に反して、つい最近まで残っていた。
「さて、十四代目の暗殺だけど。実は二回起きてるんだ。一回目はもちろん未遂に終わったよ。銃撃されたんだけど、たいしたことはなかったから仕事は続行。その後に発生したのが国王一家の失踪。そしてそれをきっかけとした大総統政があって、二回目の暗殺事件が起きる。……これが手順だ。やつらは歴史を繰り返そうとしている」
レヴィアンスの言葉に、イリスは茫然とした。そんなこと、何のために必要なのだ。血脈を重要視するなら、むしろレヴィアンスは未来のために生かされるべきではないのか。過去にわざわざゼウスァートの末裔として見出しておきながら、今度は歴史のために死ねだなんて。次第に怒りが湧いてくる。
「勝手すぎでしょ……レヴィ兄が死んじゃって、得する人なんかいないでしょ?!」
「イリス、これあんまり言いたくないんだけど、得はしないけど損もしない人たちがいるんだよ。オレたちが普段相手にしてる裏の連中と、それから話を持ってきたウィスタリア」
「なんでウィスタリアが?」
「オレが大総統になってから、向こうが納得するようなこと全然してないの。むしろ西以外の国と親しくしすぎちゃってる。万が一に五カ国会議で、西だけが不利になる展開があったら困るわけ」
そんなことは、これからなんとかすればいい。どうとでもなる。少なくとも、そのためにレヴィアンスが命を落とす必要はない。
「しかしわずかな情報が、西から王宮へ入っていますよね」
ルイゼンが冷静に問う。レヴィアンスは頷きながら、「たぶんだけど」と前置いた。
「王宮には手順を破って生き残ってもらわなきゃならないからじゃないかと思う。手順通りなら国王一家は失踪させられるけど、エルニーニャと西のコネクションは主に王宮が持ってるから、いなくなると困るんだ。まあ、その辺は心配してないよ。女王陛下は王宮近衛兵長だし。だから話を元に戻そう」
憤慨するイリスを宥めて続ける。さらに怒らせることになるだろうなという顔で。
「王宮のことはともかく、それ以外にも計画に綻びができた。レオのことだ」
「ガードナーさん?」
「過去の歴史を再現したいなら、やつらはレオを傷つけるべきじゃなかった。計画がうまくいってオレが死んだら、大総統の役目は滞ることなく補佐に引き継がれるからだ」
怪我のせいでガードナーが戻ってこられなくなることは、相手に都合が悪い。もちろんこちらとしてもガードナーには無事でいてほしかったし、元気に戻ってきてほしいが、穴ができたことには違いない。
「嫌な展開だけど、相手の思惑通りにはなってないんだね」
ずっとレヴィアンスの傍にいたガードナーなら、もしかしてこの展開も予想していたのでは。ついそんなことを考えてしまうイリスだった。

紅茶を淹れ直そうとしたところで、レヴィアンスの机の上に設置してある電話が鳴った。イリスをはじめ、全員に緊張が走る。何かを決意したように受話器をとったレヴィアンスが、「こちら執務室」と平坦な声を作った。
「……わかった、繋いで」
どうやら内線のようだ。外部からの電話をとるのは、通常は外部情報取り扱い係、通称「電話番」の仕事だ。こちらに直接かけてこないということは、そう親しい人ではない。
イリスたちに向かって、レヴィアンスが口をぱくぱくさせる。その形はたぶん「びょういん」、病院なのだろう。ガードナーに何かあったら報せるということだったが。
祈るように手を組んだイリスの目の前で、
「おまたせしました、ゼウスァートです。……ああ、そうでしたか。それはなにより」
レヴィアンスが安堵したように、表情を緩めた。
「レオ……ガードナーと話せますか? あ、無理ならこっちから行くんで大丈夫です。もう一人の補佐をつけているから心配するなと伝えてください」
「ガードナーさん、気がついたの?!」
思わず大声を出して、ルイゼンに窘められる。そういう彼も安心したようだった。受話器を置いたレヴィアンスがにやりと笑って、椅子から立ち上がる。
「イリス、行くぞ」
「うん!」
「ルイゼンたちはここに残ってて。誰か来たら代理として承りますって言っとけ」
「ちょ……っ、それは無茶ですよ、閣下!」
その台詞は、すなわち大総統代理を短時間でも務めるということ。メイベルとフィネーロは尉官なので、ここはなりたてでも唯一の佐官であるルイゼンが責任を負うことになる。部屋を出てから、イリスは苦笑した。二年前、大総統補佐見習いに任命されたときの自分を思い出しながら。
そうして急ぎ足で到着した軍管轄の病院は、相変わらず忙しそうだった。大総統が見舞いに来ようと何だろうと、患者が優先である。そういう割り切ったところが、イリスは好きだ。
「ガードナーさんをお探しですか?」
受付に行く前に声をかけてきたのは、ここで働く外科医だ。今でこそ外科医だが、若い頃は腕利きの軍人で、イリスの父らの仲間だった。
「クリスさん、どうも」
「こんにちは、お久しぶりです。ガードナーさん、大丈夫ですか?」
レヴィアンスが小さく頭を下げ、イリスが縋りつくように見上げたその人は、呆れたように一つ息を吐いた。
「イリスさん、病院ではお静かに。彼はボクが担当しましたから、このまま案内しますよ。……しかし暇ですね、閣下。司令部が襲撃されたというのに、そちらからは何の情報もない。しかもこうして見舞いに来るだけの余裕があるなんて、よほど要領がいいか、物事の順序を間違えるくらい愚かかのどちらかだと思いますが」
たしか彼はイリスの父の四歳下で、それでもすでに五十を超えている。現在軍の医務室を任されている弟子へと受け継がれた達者な口ぶりは、年齢に関係なく健在のようだ。
圧倒されるイリスとは対照的に、レヴィアンスは笑みさえ浮かべながら応じる。
「じゃあ愚かな方かも。ガードナーには怒られる覚悟で様子を見に来ました。一緒に運ばれてきた四人は?」
「ボクが手を出すまでもなく処置が終わりましたので、とっくに勾留されてますよ。そちらに話を聞きに行く方が先では?」
「それは部下に任せてます。オレ、余裕のある大総統ですから」
「どうしてアーレイド君とハル君が育てて、君みたいになるんでしょうね」
移動しながらの会話を、イリスは一所懸命に聞いていた。心の中で、ひえぇ、と悲鳴をあげながら。これもきっと、彼らの情報のやり取りの仕方なのだ。おそらくクリスはレヴィアンスから事件の情報を引き出し、自分たちの助けは今後必要か、と問うている。レヴィアンスもまた、ガードナーの容態を確認しているようだ。事件の解決を優先しろと言われたような気がしたので、つまりは心配しなくてもいいということなのだろう。
はたして病室では、ガードナーが起きて書きものをしていた。こちらに気がつくと立ち上がろうとしたので、レヴィアンスとイリスとで慌てて止めた。
「レオ、もう起きてていいの?」
「申し訳ございません、少々寝坊してしまいました。閣下に一刻も早くお伝えしなければならないことがあるんです」
「ガードナーさん働きすぎ! ちょっとは休んでくださいよ!」
焦るイリスを見て、ガードナーは何故か嬉しそうに目を細めた。イリスが頭にクエスチョンマークを浮かべていると、肩にそっと手を置かれる。
「やっぱり、閣下の隣はあなたが相応しいです、イリスさん。私が惰眠を貪っているあいだに、閣下をお守りしていたのでしょう」
何と答えたらいいのか、イリスにはわからなかった。たしかにレヴィアンスの隣に立ちたいとは思ったけれど、それはガードナーのいた位置に収まりたいということではない。認めてくれるのはありがたいが、こんなかたちで実現されても嬉しいと思えない。
何も言えずにいると、レヴィアンスがすっと手をあげた。そして、ぱん、と音をたてて、ガードナーの後ろ頭を叩いた。
「閣下……」
「何するのレヴィ兄?! 怪我人を叩くなんて……」
「叩きたくもなるよ。オレ、何度も言ったよね。楯になんかならなくていいって。お前は補佐としてよくやってるって」
ガードナーの手が離れたので、イリスはそっと後退った。
レヴィアンスはかまわず続ける。
「オレの頼みは何でも引き受けるくせに、どうしてこれだけは聞かないかな。……たしかにお前の言う通り、イリスはオレの隣に必要だけど。でも、一人だけじゃもう片方が空くじゃん。ゼウスァートの正補佐はな、初代から両脇にいなきゃなんないの。お前だってちゃんと正補佐なんだからな」
「閣下、でも私は」
「一番でっかい仕事の後なんだから、生きてりゃ寝てていいんだよ。ていうかちゃんと休んで、さっさと戻ってこい。……守ってくれて、本当にありがとう。レオは絶対に隣にいてくれなきゃ困る、オレの大事な補佐官だよ」
そうだよ、と口を挟みそうになって、イリスは口を押さえた。レヴィアンスが言えば通じるだろう。余計な言葉はいらない。なにしろガードナーは、レヴィアンスが選んだ補佐なのだ。その器に値すると見込んで、常に隣に置いていた人物だ。
ガードナーは顔を赤くして、叩かれた後ろ頭を撫でていた。それからレヴィアンスに向かい合うと、きちんと頭を下げた。
「こちらこそ、ありがとうございます。閣下に認められた以上、今後も誠心誠意、補佐を務めさせていただきます」
「いや、まず休めよ」
「休んでいたら大事なことを忘れてしまいます。閣下に必要なものを先んじて用意すること、これは私の仕事であると同時に悦びです。そこは閣下もお忘れなきよう」
普段と変わらない調子で言うガードナーに、イリスは安心と呆れを同時に覚えた。苦笑いする横で、クリスが「彼、変態なんですか?」と呟く。頷くことはできないが、完全否定もできない。
先ほどまで書いていたものを、ガードナーはレヴィアンスに手渡す。薄いノートだったが、ページいっぱいにびっしりと文字が、正確には計算式が並んでいた。
「……何これ。オレねえ、数字は苦手なんだよ」
「ですから私がやらなければと思いまして。閣下を狙った銃口の位置と距離を、だいたいですが思い返していました。それから私に撃ちこまれた弾はエイゼル先生が持っていらっしゃるかと。私はすぐには戻れませんが、少しは捜査の役に立つと思います」
イリスもノートを覗き込んで頭が痛くなったが、フィネーロかメイベルに見せればわかるだろう。彼らにも難しければ、先々代大総統という強力な助っ人もいるし、現にガードナーの治療にあたった医者もここにいる。なによりガードナーの強い意志と情熱が伝わってくる。
「少しどころじゃなく、大いに役立ててみせます。しばらくは、レヴィ兄のことはわたしに任せてください」
「やはりイリスさんは頼もしいですね。でも万が一に何か困ったことがあれば、遠慮なく私に言ってください」
「あのですね、水を差すようですが、医者としてはガードナーさんには安静にしていてほしいわけです。大総統閣下へのあくなき執念だか情熱だかで動いているようですが、一応危険な状態だったわけですから。ああ、この際レヴィ君にも言っておきますけれど、今回は偶然奇跡的に助かったんですよ。今後もあまり無茶なことはしないように」
早口で割り込みながら、クリスが小さなビニールのパックをレヴィアンスに渡した。中身は弾丸、ガードナーから摘出されたもので間違いないだろう。
「クリスさん、ありがとうございました。レオのこと、よろしくお願いします」
「こういうのはボクとしては御免被りたいので、問題が起きているならさっさと片付けてくださいね、閣下。君たちならできるんでしょう」
最大の応援を受けて、イリスとレヴィアンスは頷いた。できるだろうと信じてくれているのだ。やらなければならない。

帰ったらすぐにやることとして、レヴィアンスはガードナーに簡単な説明をしていた。
各方面から情報を集めることは続行。ただし今度はより範囲を広げる。司令部襲撃の捜査はしなければならないのだから、もうこそこそする必要はないしできない。協力者を増やすことに関しては、前もってレヴィアンスとガードナーとのあいだで話をしていたらしく、何人かあたりをつけているようだ。過去の軍籍簿が出してあったのは、そのリストアップのためだった。
イリスたちはつい十八年前の事件の関係者としてニアたちに着目していたが、どうやら観点は違うようだ。女王オリビアはもとより、資料提供をドミナリオに頼むほか、現在エルニーニャを支えているもう一つの柱である文派の頂点、大文卿にも協力を要請したいとのことだった。必然的にそのパイプ役を大文卿夫人であるアーシェに依頼することになる。
北の大国ノーザリアの大将、ダイにはもっと早い段階で調査協力をしてもらっていた。これまでは内密に動いていたが、事件が実際に起こった今、それも難しくなるだろう。北が動いていると知った西がどう思うか、そこにも気を配らなければならない。
ダイの家族、すなわちグレイヴやエイマルに危害が及ばないかどうかという心配をイリスが口にしてみたところ、とうにそれも危惧されていて、市中の見回りを強化するかたちで自然に護衛をしているという。ルイゼンも言っていたが、すでに佐官を中心に軍でも裏でもない勢力の動向に注意することは決まっている。
「それだけ決まって動いてたんなら、もっと早く教えてくれればよかったのに」
「悪かったよ。今後は頼りまくるからな、イリス」
「どうぞもちろんいくらでも!」
どんな困難だって悲劇だって、不敵な笑みの前に打ち消してやる。イリスは改めて誓った。



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2016年10月08日

隠匿の変

ぎらりと刃が光る鎌から、長い鎖がのび、その先には分銅がある。分銅には紅玉があしらわれているが、これは本物のサーリシェリア産鉱石だそうだ。エルニーニャ王国首都レジーナで、この装飾を施せる店は一軒しかない。
「さすがスティーナ鍛冶。二代目もいい仕事するな」
「いいなー。わたしも私物の剣持つときは絶対頼もう」
ルイゼンとイリスが口々に褒める新品の鎖鎌は、つい先ほどフィネーロが受け取ってきたものだ。今までは軍支給の鞭を武器として登録していたが、今後はこちらに切り替えて訓練をする。
「情報処理担当になってから武器を変えたら、事務に妙な顔をされた。あまり例がないんだろう」
「しかも私物だしね。普通は変えるにしても、軍支給の無難なやつだろうし。早く使いこなせるようになって、班に戻ってきてよ」
フィネーロはリーゼッタ班から外れている。イリスたちと一緒に行動することは少なくなったが、休憩時間や自主訓練のときには顔を合わせ、言葉を交わす。
そうせざるをえなかった事情を、イリスはまだ知らない。それを決めた大総統レヴィアンスは、未だに何も語っていなかった。
「戻れるかどうかは閣下の意向次第だ。でも努力はする。それより、これを受け取るときに一緒に渡されたものがある。イリス宛てに」
「わたしに? レヴィ兄じゃなくて?」
スティーナ鍛冶はレヴィアンスの実家だ。何かあるとしたらそちらにだと思ったのだが、手にした封筒にはたしかにイリスの名があった。流麗な筆跡は、まさしく先々代大総統ハル・スティーナのもの。首を傾げながら封筒を透かしてみたが、さすがに内容を読むことはできなかった。
「普通に開けて読めよ。事務室にペーパーナイフあるだろ」
「これも気になるけど、フィンと一緒にいる時間も大事なんだよね」
「そういうこと言うと、またメイベルが妬くぞ。そうだフィン、メイベルが体調不良で休みだから、仕事終わったら見舞いに行かないか」
「わかった。あいつの具合が悪いなんて珍しいな、雪でも降るのか?」
どちらにせよ、まもなく休憩時間は終わる。人手不足で忙しいが、手紙に目を通すくらいは許してもらおう。

[イリスちゃん、元気に仕事を頑張っているようですね。噂はいろいろ聞いています。
ガードナー君と一緒にレヴィをいつも支えてくれていること、ボクからもとても感謝しています。
ところで、イリスちゃんはこの一年で勉強もかなりしていると聞きました。元大総統として、エルニーニャのことをきちんと勉強してくれているのは嬉しく思います。喜びついでに一つ、宿題を出させてください。そんなに難しいことじゃありません。
十八年前に起こった、『イクタルミナット協会事件』についておさらいをしてみてください。この事件について調べることが、今のレヴィを助けることにも繋がると思います。
君たちの活躍を心から応援しています。ハル・スティーナより]
丁寧に折りたたまれた可愛らしい便箋に、「宿題」というあまり嬉しくない言葉。複雑な気持ちで手紙をしまうと、ルイゼンに「読み終わったら報告書すぐやれよ」と言われてしまう。口をとがらせながら昨日の視察任務の報告書にとりかかるイリスだったが、頭の中は手紙の内容のことでいっぱいだ。
十八年前の事件について調べることが、今のレヴィアンスを助けることに繋がるとは、どういうことなのだろう。最近は補佐見習いの仕事をあまりしていないのもあって、どんな関係があるのかわからない。
フィネーロが抜けて、リーゼッタ班では主に事務処理での人手不足が深刻になった。おかげでイリスがちょいちょい大総統執務室へ仕事をしにいくという今までのスタイルが困難になり、それをわかっているレヴィアンスもイリスに仕事を頼んでいない。彼としても、しばらくはイリスたちに事務のレベルを上げるよう努めてほしいだろう。これまでフィネーロに頼っていた分は気づいてみればかなり大きく、とりわけメイベルも休んでいる今日は慌ただしい。
なんとか報告書に手をつけながら、事件の名称を反芻する。「イクタルミナット協会事件」、聞いたことがないわけではないが、発生がイリスの生まれる前だ。内容はほとんど知らないも同然である。ただ、十八年前といえばイリスの兄らが軍に入隊した年だ。同期なのだから、もちろんレヴィアンスも。事件の規模にもよるが、関わっている可能性は高い。いや、だからこそ知っておくとレヴィアンスの助けになるのだと推測できる。
「ねえ、ゼン。イクタルミナット協会事件について何か知ってる?」
机でできた島の、真向かいに座っているルイゼンに問う。別件の報告書から顔をあげた彼は、怪訝な表情をしていた。
「それより報告書をさっさと片付けてもらいたいんだけど、どうしてお前がそれを訊くのか疑問だから答えてやる。俺が生まれた年に起こった、中央司令部襲撃事件だな。ニアお兄さんたちが深ーく関係してるだろ」
「お兄ちゃん? なんで?」
「いや、お前こそなんで知らないんだよ。……ああ、でも、お前だから誰も話したがらなかったのかも」
一人納得して作業に戻ったルイゼンに、イリスは首を傾げる。兄が関係していて、しかしイリスには誰も聞かせたがらないような話。そんなものがあったのか。「中央司令部襲撃事件」というからには、規模は大きかったのだろう。ならば幼い頃から軍に興味を持っていたルイゼンなら、知っていてもおかしくはない。では、同じく軍に興味があったはずのイリスが知らない理由は何だ。知らせなかったわけは。
「ゼン、仕事終わったらもっと詳しく聞かせなさいよ」
「イリスこそきっちり仕事終わらせてくれ」
うんざりしたような返事は、イリスがなかなか仕事を進めないからというだけが理由だろうか。気になっても、まずは目の前の仕事だ。やるべきことをきちんとやらねば、フィネーロやメイベルを心配させ、レヴィアンスには会うことすらできない。

なんとか終業時間に仕事を全て間に合わせたが、ルイゼンは佐官での会議があるという。イリスは仕方なく一人で寮に戻ることにした。徒歩二分だが、ずっと誰かと一緒だったのとそうでないのとでは、随分とまとわりつく空気が違う気がする。
「イリスさん、お疲れさまです」
その声を耳にしてホッとしたのは、寂しかったからでもあるし、久しぶりだったからでもある。どうやら顔を合わせないあいだも元気だったようだ。
「ガードナーさん、お疲れさまです!」
大総統補佐、レオナルド・ガードナーは書類を抱えてにっこりしていた。執務室にいるときと何ら変わらない……というより、どこにいてもこの人はあまり変化がないのだが、顔色くらいはわかる。
「そっち、忙しいですか? レヴィ兄は仕事してます?」
「いつも通りですよ。私はこの書類を届けたら帰るように言われていますが、閣下はもう少し仕事をするんだそうです。……ただ、イリスさんが来ない分、机周りはどうしても散らかりがちですね」
ガードナーはレヴィアンスの机を片付けることができない。全て必要なものなのではないかと疑ってしまい、手をつけられないのだそうだ。対策として、いらないものをすぐに分けるための箱を設置してみたようだが、それではどうにも見栄えが悪いらしい。
「目が良い方なら、きっと閣下の背後にある箱の存在にすぐ気がついてしまうと思うんですよ」
「あはは、たしかに大総統の部屋としては威厳がないかも。じゃあ明日の朝にでも片付けに行きますね」
「ありがとうございます。でも閣下は不要なものを私が帰った後に処理してしまうので、朝はきれいだと思いますよ。徹夜をしなければ、ですが」
「じゃあ、鍵がかかってたらいないものとして放っておきます」
片付けもいらなくなったら、今イリスができることはない。自分のことに専念すべきだとわかっていても、レヴィアンスの世話をやけないというのは少々つまらない。こういうとき、正補佐であるガードナーが羨ましくなる。
「私もレヴィ兄と並べるくらい、階級が上なら良かったんですけど。十年早く生まれてたら、正補佐になれたかなあ」
「何を言ってるんです、正補佐はあなたでしょう。閣下は初めから、あなたを補佐にしようと考えていたんですから。私は間に合わせの補佐です」
「そういうこと言ったら、レヴィ兄怒りますよ。ガードナーさんのこと、めちゃくちゃ信頼してるんですから。それじゃ、レヴィ兄をよろしくお願いします!」
大総統就任時のレヴィアンスの思惑がどうであれ、正補佐はガードナーだ。地位も実力もあって、大総統の隣にいるのにふさわしい。ガードナーと別れ、寮に向かって駆けながら、イリスは知らず知らずのうちに胸を押さえていた。
もっとレヴィアンスの役に立てたらいいのに。そのためには全然力が足りないのだ。しかも成長しなければこの先はない。――彼を助けられるであろう方法が、今はたった一つ、ポケットに入っている。胸の苦しさをなくすには、それに縋るしかなかった。

会議を終えたルイゼンがフィネーロを連れて部屋に来たのは、すっかり夕食の準備が整った頃だった。普段は寮の食堂に食べに行くのだが、メイベルの体調を考慮して、今日はイリスが台所に立った。四人前とおかわり分を作ったトマトカレーの鍋が、良い匂いの湯気をたてている。
「お、インフェリア家のカレーの匂い」
「今年最後の夏野菜だよ。お兄ちゃんちでやろうと思ってたんだけど、最近はわたしが作りに行かなくてもよくなってきたし、こっちで食べるのもありでしょ」
「さっきまで自分の体調を恨んでいたが、久々にイリスのおさげ髪とエプロン姿が見られたから良しとしている」
「なんだ、メイベルも元気だな。もともと心配は無用だったか」
トマトをよく煮こみ、スパイスをたっぷり入れて作ったスープカレーを、皿によそう。素揚げした野菜と一緒に食べると、これがまた美味しいのだ。
一口で全員の表情がほころんだのを確認し、イリスは満足気に頷いた。
「上出来だね。さっすがわたし」
「イリスが作る料理ならなんでも食べる所存だが、本当に美味い」
「相変わらずだな、メイベル。仕事中もいつも通りか?」
「変わらないな。フィン、新しい武器見せてやれよ」
今日の仕事、明日の予定と、食べながら一通りの連絡をする。メイベルが仕事を把握し、フィネーロが自分のいないあいだの班の動きを知り、そうしているうちにおかわりも出て鍋は空になった。
そろそろ皿も中身がなくなろうかという頃、イリスは昼間の話をもう一度切りだす。
「ねえゼン、イクタルミナット協会事件のことだけど」
「ああ、覚えてたか」
途端に声が低くなったルイゼンに、イリスはムッとする。態度を問い詰める前に、フィネーロが口を開いた。
「あの事件がどうかしたのか」
「フィンは知ってる? フィンが預かってきてくれた手紙に、この事件について調べるように書いてあったんだよ。それがレヴィ兄を助けることになるって」
「知っているも何も、君の兄さんが関わった事件じゃないか。どうして知らないんだ」
フィネーロはルイゼンと同じことを言う。隙があったら調べに行こうと思っていたのだが、今日は時間がなくてできなかったので、イリスはやはり何があったのか知らないままだ。
「手紙ってなんだ。イクタルミナット協会事件は、私たちが生まれる前にあった中央司令部襲撃事件だろう。それがどうして今更閣下の助けに? むしろ陥れる要素になりそうなものだが」
「陥れる?」
メイベルも何か知っているらしい。説明してくれようとしたのを、しかし、ルイゼンが遮った。
「ちょっと待て。話してやるから、イリス、絶対に怒らないと誓え。この事件はお前の地雷だ」
「地雷って何。隠される方がよっぽどイライラするって」
「そうか」
息を吐いたルイゼンから目を離さないまま、空いた皿を片づけようと手を伸ばした。四枚全部重ねたところで、
「この事件はな、お兄さんが人間兵器と呼ばれるようになったきっかけの事件だ」
その言葉が、イリスの手を止めさせた。
何よりも嫌いな言葉だ。大好きな兄を、まるで物のように扱う呼称。兄が軍にいるあいだ、ずっと囁かれていたもので、そして兄が軍を辞める際にも、この呼称のせいですんなりとはいかなかった。
だが、イリスも知らないわけではない。兄がそう呼ばれる理由を。自我を失うこととひきかえにして振るわれる、超人的な強さを。
「……お兄ちゃん、当時十歳だよ。まさか襲撃犯全部倒しちゃったとか?」
苦々しい顔で、ルイゼンが首を横に振る。メイベルとフィネーロは顔を見合わせ、黙っていた。
「逆だ。お兄さんが襲撃犯に操られて、中央司令部の軍人を倒した。人間兵器なんて呼ばれて軍で監視されてたのはそのせいだ」
言うのがつらいだけではない。本当に知らなかったのか、という呆れも声に混じっている。――そうだとも。今まで誰も、教えてはくれなかった。たぶん、イリスを思ってのことだったのだろう。父や兄はなおさら避けるはずだ。物心ついたときからお兄ちゃんっ子で、一家の仕事に誇りと憧れを持っていたイリスに、そんな事件の話はできなかったに違いない。
「なるほど、イリスだからこそ知らされなかったというわけか。僕は親や兄たちから聞いたが、ルイゼンは自分で調べたんだな」
「私も自分で調べたぞ。なぜイリスの兄君があんなふうに呼ばれるのか気になっていたからな。イリスはあれを聞いただけで怒るから、誰も話題にできなかったんだ」
「……それはわかったよ。わたしに気を遣ってくれたんだよね。でも、レヴィ兄は何の関係があるの? さっきベルが陥れる要素って言ったけど」
ニアと同期だから、親しいから、同じく危険視されたのだろうか。それならルーファやアーシェ、グレイヴもそうだ。「陥れる」理由にはならないように思う。
「事件の主軸となったイクタルミナット協会は、血脈信仰を掲げる団体だ。正しい血統の者が世界を救うと、奴らは本気で信じていた。あまりに熱心に正しい血統を調べ上げたものだから、それまで誰も知らなかった事実に真っ先に辿り着いた。……ゼウスァートの末裔が現代に生きている、ということに」
メイベルの言葉で、イリスも思い出す。ゼウスァート家は大昔に滅びたと考えられていた。しかしレヴィアンスが現れ、その正統な後継者と認められたことで、女王が大総統に指名した。そもそも最初に見出したのは、イクタルミナット協会だったのだ。
「協会が動き事件を起こすことによって、閣下の身元は人々、少なくとも軍関係者には知れ渡ることとなった。しかも当時の大総統に育てられている子供だ。ドラマが大好きな人間という生き物にとって、こんな奇跡をとりあげないのはもったいないだろう」
極端にいえば、その事件がなければ、現在のレヴィアンスの地位はない。
「どうしてそんな事件、ハルさんはわたしに調べさせようとしたんだろう」
周りが教えずにいたことを、あえて今提示する理由は何か。事件当時の大総統だったハルは、この事件について詳細に知っているはずで、だからこそイリスにそれが告げられてこなかったことも承知しているだろう。
「レヴィ兄が大総統になったってことは、事件を起こした側が信じる通りにことが運んじゃったってことだよね。陥れるっていうのはそういうことでしょ?」
「だと、私は思ったんだが。先々代大総統の思惑は違うんだろう」
「事件を知ることが閣下の助けになる、か」
フィネーロが小さく頷く。でも事件と手紙のことで頭がいっぱいだったイリスは、それに気がつかなかった。

早朝の大総統執務室には鍵がかかっていた。レヴィアンスは昨夜のうちに仕事を片付け、ちゃんと寮に戻って寝たらしい。それならそれで、と息を吐きつつも、イリスの気持ちは晴れなかった。
もう何日、直接顔を見ていないだろう。ハルに出された宿題のことは、知っているんだろうか。まだ話せないと言っていた事情は、いつ明かしてくれるのだろう。訊きたいことや確かめたいことがたくさんあるのに、今は全てを重い扉でシャットアウトされているようだった。
「閣下はいたのか」
「ううん、まだ来てないみたい」
「ではプランAだな。始業時間までイクタルミナット協会事件についての資料探しだ」
足早に軍設図書館へと向かうメイベルを追いかけようとして、けれどももう一度だけ振り返った。待ち伏せていれば、部屋の主はそのうち必ず現れる。しかしそんなことをしている暇はない。自分にも、きっと彼にも。
図書館前でルイゼンと合流した。フィネーロはいない。情報処理担当は始業前から、何かと準備しなくてはならないことがあるらしい。
「伝言だけ預かってきた。イクタルミナット協会事件のことを調べるなら、協会がどんな組織だったのか、どのような動機で事件を起こすに至ったのかに着目しろ、だとさ。あくまでお兄さんや閣下が関係したことは結果に付随している事項だから、気にするなって」
「ゼンはいいよね、フィンと同じ部屋にいるんだから。本当はどこまで聞いてるのよ」
「閣下に口止めされている件のことか? それは絶対に言わないんだ。だから俺も知らない」
フィネーロの口が堅いことも、ルイゼンがそれを無理に割らせるようなことをしないのも、イリスはよく知っている。だが何も知らないということは、存外に焦りを呼ぶのだった。少しイライラしていると、メイベルに肩を叩かれる。いつもと立場が逆だ。
「なに、あいつが正しいと信じてやっていることだ。それで良いんだろう。それにいざとなれば責任は全部閣下。イリスが気にすることじゃない」
「……言ってることはいつものベルだね。わたしはレヴィ兄にばっかり責任を押し付けるのはどうかと思うんだけど」
でも、レヴィアンスならきっと言う。それが自分の役割だと。最初から全部背負う覚悟で、この立場にいるのだと。もしそれがハルでも、イリスの父カスケードでも、同じ答えになるのだろう。それがこの国の大総統というものだ。
「閣下は閣下、フィンはフィンの仕事をしてるんだ。俺たちも自分の仕事をするしかないだろ。まあ、今は始業前、この調べ物もプライベートだけど」
「わたしに出された宿題なのに、ゼンとベルを巻き込んじゃってごめんね」
「イリスのものは私のものだ、謝るな。……さて、必要な資料は特別書架にある。一般公開はされていないし持ち出し厳禁。調べるなら早いところやってしまおう」
始業までそう時間があるわけではない。急いで特別書架に行き、十八年前の資料を探す。イクタルミナット協会事件に関してまとめたものは、すぐに、なかなかの量が見つかった。これはイリス一人でクリアするには無理がある宿題だっただろう。ハルはそこまで見越していたのだろうか。
最初に開いたその一ページ目から、イリスは気が遠くなりそうだった。イクタルミナット協会事件は司令部襲撃だけでなく、それまでに起こった一連の事件全ての総称。元をたどれば二十年以上昔にまでさかのぼるものだという。まだイリスは影も形もない。
事件の中心、イクタルミナット協会が掲げていた「血脈信仰」は、簡単にいえば先祖の性質が子孫に受け継がれていると信じるものだった。良い行いだけでなく、悪行までもが血となって代々流れていて、未来に影響する。悪しき未来を避けるためには、偉大な血を持つ者を頂点とした世界を築く必要がある。――かつては子孫に汚点を残さないよう自らを戒める教義だったものが、次第に変質していったのだという。
名家の子供を未来の支配者として育て、犯罪者の子供は間引くべきだ。事件が起こった頃には、そんな極論が血脈信仰の柱となっていた。もっとも、差別思想を極大化させる原因は、裏社会が血脈信仰を利用しようとしたことにある。イクタルミナット協会として組織が立ち上げられた当初は、血脈信仰信者は表立って教義を唱えようとはしていなかった。
裏社会の者によって差別思想を強めた協会は、理想的な支配者をつくるために、名家の子供に接触するようになる。建国御三家の一つエスト家の現当主、ドミナリオもかつて彼らに着目されていた。しかし彼らには、子供に教義を与えるならば十歳までに、という決まりがあったらしい。ドミナリオが結局彼らの手にかかることがなかったのは、その父が我が子を守り抜いたからだ。
十歳という年齢制限は、おそらくはこの国のシステムに基づくものだろう。十歳になれば軍に入ることができる。十歳からこの国をつくる社会の一員として働くことができ、そのための教育を施される。逆にいえば、まだ十歳のうちなら教育によって意識をつくりかえることができる。
協会は暴走を強め、軍に入って間もない名家の血をひく子供を引き入れようと、強硬手段に出るようになった。それが十八年前。彼らはインフェリア家に接触していた。
「……傷害事件被害者、サクラ・インフェリア。接触動機はニア・インフェリアの能力。直前に、ニア・インフェリアは裏組織との戦闘で異様な身体能力を発揮しており、本件はそれを狙ったものとみられる……か。わたしには言わないわけだ、お兄ちゃんも、叔母さんも」
ニアの能力が狙いということは、協会はそれを血筋によるものとみたのだろう。本当のところは今でもわかっていないので、どうとでもいうことができる。とにかくそれがきっかけとなり、軍はようやく協会の存在に気づき、対策を始めたのだった。
しかしその実行は後手に回る。ニアに続き、協会はレヴィアンスにも接触。彼がゼウスァートの血をひく人間であると明かした。インフェリア家での事件と並行、あるいはそれよりも前に、協会は調べをつけていたと思われる。その後、ニアが協会を操っていた裏組織に、レヴィアンスが協会に攫われ、中央司令部襲撃事件へと繋がっていく。
最終的に、事件は軍を壊滅させ、あわよくば国を乗っ取ろうとした裏組織の企みだったと結論付けられている。イクタルミナット協会関係者のうち、誘拐及び襲撃に関わった数名が捕まったが、全ての血脈信仰信者に罪があるわけではなかった。軍は無関係の信者たちが迫害を受けることのないように働きかけている。イクタルミナット協会はこれを機に解散したが、血脈信仰は残り、以降も続いていると考えられる。
「あのまま今も続いてるのかな、血脈信仰って」
始業時間が近くなったので、急いで資料を片付けながら、イリスは苦い顔で呟いた。
「信仰は人間が行動する規範の一つだからな。心に根をはるものが、そう簡単になくなったりはしない。変化はあるかもしれないが、それだってこちらに都合の良いものかどうかはわからない」
メイベルがさらりと答え、しかし、と続ける。
「もし彼らが再びインフェリア家に手を出そうとするなら、私は容赦しない」
「ありがと、気持ちだけ受け取る。わたしも十歳なんてとっくに過ぎたから、もうないとは思うけど」
事件の結末をみる限り、信者たちにはもうそれほどの力が残っていなかった。だからこそ十八年、動きがなかったのではないか。――だが、今になってハルが事件のことを知るように仕向けた理由が気にかかる。十八年もあれば、力を新しく得ることも可能だ。
同じことをルイゼンも考えていたのか、渋い顔をして最後の資料を棚に戻す。
「先々代大総統が事件を調べるように指示し、フィンがヒントをくれた。俺にはこれが閣下の隠してることに繋がっていそうな気がしてならない。それに佐官会議でも、妙な懸念があるんだ」
「懸念?」
「視察任務のとき、裏社会と繋がりがありそうかというだけじゃなく、裏組織と過剰に敵対する勢力の存在にも気をつけろって。下手をすれば軍の方針ともぶつかりかねないって言ってたけど、あれはイクタルミナット協会のことだったんだな。イクタルミナットは古代語で撲滅、協会ももともとは裏社会のような悪を滅ぼすことを理念としてつくられた組織だった。それが逆に裏に良いように利用されて、最終的には反軍勢力になってしまった。……いくらなんでも、タイミングが良すぎる」
佐官会議の内容とハルの宿題が重なるのはありうることだろう、とイリスは思う。注意喚起を促しているもとがレヴィアンスなら、その相談を大総統経験者としてハルが受けることは珍しくない。
「直結してるって判断するのは早いと思う。フィンのアドバイスだって、班にいたときはいつものことだったじゃない。レヴィ兄の傍にいれば、実際何が起こってるのか、わたしもある程度は把握できるんだけどね」
それができない今は、何とも言えない。ただ調べたことを覚えておくだけだ。必要になったとき、いつでも役立てられるように。


情報処理室にいながらも、軍のコンピューターは利用しない。早朝のまだ誰も来ていない部屋に、フィネーロは私物の端末を持ち込んでいた。深夜のうちに、西の大国にいる兄から報告が届いている。一見して何の変哲もない、弟を気遣うような文章が並んでいるが、仕掛けを解けば国家を揺るがす重要機密が現れるようになっていた。
「……やはりか」
解読後、フィネーロは深く息を吐いた。今起こっている事態を、先々代大総統ハル・スティーナは知っている。レヴィアンスから相談を受けた上で、動いたのだ。
十八年前に事件を起こして解散した、イクタルミナット協会と呼ばれていた一味と、彼らが掲げていた血脈信仰の信者たちは、エルニーニャ王国内だけでなく大陸の各地に散らばった。そのなかの一握りが西国ウィスタリアで成長し、活動をしている。
――奴らはエルニーニャの大総統がゼウスァートの名を掲げていることに対し、「我々の言う通りだった」と自信を持った。そうしてゼウスァートにあるべき仕上げとして、その「栄誉ある死」を求めている。十四代大総統と同じように、歴史に名を残せと。
十四代目はゼウスァート家最後の大総統だった。それまで政権を持っていた王宮の人間が突如発生した事件により行方不明となったことで、エルニーニャ王国の頂点を独りで担うこととなった彼は、しかしそれに反対する者の手で暗殺された。だが主を失い、ようやく取り戻すことができたたった一人の王子は幼く、不安定になってしまった王宮には以前通りの政治がままならなかった。
大総統政は結局、そのまま十五代目へと引き継がれた。十五代目も暗殺の危機にあったが、幾度となく阻止され、そのあいだに新体制の地盤を確かなものにすることができた。以降、先々代大総統のときに改革を行なうまで、エルニーニャ王国は大総統が単独で治めることとなる。その称号が軍だけでなく、国家全体に対して責任を負うものとして扱われるようになったのだ。
――せめて大総統がインフェリアを補佐見習いなどにしなければ、暗殺論に及ぶことはなかっただろうに。奴らは本気で歴史が繰り返されていると思い込んでいる。いや、繰り返されるべきだと主張している。
十四代目の死を見て、十五代目を安定まで守りぬいた軍人がいた。インフェリア家の九代目だった。大総統にはならなかったが、その立場にあるものを支えた、有能な補佐候補だ。階級が大将に達する前に、役目は果たしたとして、軍を退いたのだという。
「だから今……イリスがそこにいる、今なのか」
すぐ大総統にはなりえない。正補佐でもない。だが、イリスの存在は大きい。知ってか知らずか、大総統はあまりにも相手の思い通りに動きすぎた。
――気が早い者が、すでにエルニーニャに入り込んでいる。こちらで得た情報通りに動くなら、三日以内に行動に出る。だが今回は失敗するだろう。奴らはまだ手順を踏んでいない。
たとえ失敗するとしても、すぐに報せなければならない。フィネーロは端末を抱え、情報処理室を出ようとした。
だが、
「おはよ、フィネーロ。ありがたいね、言う通りに動いてくれてさ」
「閣下……」
戸口には、いつのまにかレヴィアンス本人が待っていた。
「おはようございます。いつからそこに?」
「んー、昨夜から。入ってくるときに気づかないとダメだろ」
「昨夜って……ここに泊まったんですか」
完全に気配を消していたのもあるが、そもそも情報処理室に人が寝泊まりしているなど思わない。それとも、フィネーロがまだ仕事に慣れていないからわからなかったのか。何にせよ、未熟さが露呈されたことには変わりなかった。
「さて、第一陣が来るまであとどのくらいだって?」
「兄は三日以内と言っています。しかしなぜ第一陣だと?」
「手順を踏んでないから。オレの身元を明かすくらいの奴らが、こだわらないはずないからね」
兄も手順を踏んでいないから失敗すると見ている。レヴィアンスは何を知っていて、この先どこまで予想できているのだろう。兄と連絡をとって暗殺計画の阻止を手伝ってほしい、と頼まれたが、フィネーロにすら語られていないことも多い。
「閣下。先々代を通じてイリスに調べ物をさせたのは、敵がイクタルミナット協会の残党だと知っていたからですか」
初めに動向を調べろと言われた団体にも名前はあった。しかし全く違う名前だったため、フィネーロが彼らとかつての事件を結び付けることはできなかった。
「他の筋の情報と、昔の事件でわかってたことを照らし合わせて、なんとなくそうじゃないかって思ってた。フィネーロに協力を仰いだのはその後。……で、イリスが調べ物って何のこと?」
「ご存知なかったんですか? 昨日、先々代大総統からイリスに手紙が」
「わかった、詳しくは先々代から聞くよ。母さんってば過保護だな」
「人のこと言えませんよ、閣下も。イリスに隠してきましたよね、十八年前の事件を」
「隠してないよ。言わなかっただけ。インフェリア家の人たちも言ってほしくなさそうだったし」
早口に話しながら、レヴィアンスは端末に表示された報告を確認した。最後まで読み終わってからフィネーロに端末を返し、薄く笑う。
「……お兄ちゃんは兵器なんかじゃないよね、なんてまた泣かれたら困る」
「泣かれたことが? あのイリスに?」
「昔の話だよ。端末からオレの指紋消しといてね」
軽く手を振って部屋を出ていこうとしたレヴィアンスを、フィネーロは慌てて引き留める。まだ疑問は山ほどあるのだ。
「手順って何ですか。イリスたちにはいつこのことを言うんですか」
しかしレヴィアンスは人差し指を口もとで立てる。
「なんでもかんでも秘密にさせて悪いとは思ってる。でももうちょっと辛抱してほしい」
「でも三日以内には」
「第一陣は自分で対処するから、まだ言わない」
違うだろう、と返せるものなら返したかった。イリスのように吼えられたら、そうしていた。
言わないのではなく言えないのだろう。自分の選択が招いた戦いに、巻き込みたくないから。もう遅いとわかっていて、それでも少しは遠ざけられないかと思って、あがいているところなんだと、この人は正直に言わない。あるいはイリスの語るとおりの彼なら、あがいていることにすら気がついていないのかもしれない。

大総統執務室に入ってすぐに、受話器に手を伸ばした。が、時計を見て思いとどまる。この時間ではまだ、曽祖父の支度を手伝っていて忙しい頃だ。
ただでさえ今回の件で相談に乗ってもらっている。これ以上心配をかけるわけにはいかないと思っていたが、一足遅かった。
「でも、イリスに直接調べさせなくたってなあ。そのうち全部……」
話しただろうか。話すことができただろうか。いつかの泣き顔を思い出さずに。
「閣下、おはようございます」
物思いに耽っているうちに、入ってきていたらしい。ガードナーの声がすぐ耳元で聞こえた。
「おお、おはようレオ。どうしたの、今日早くない?」
「私はいつもと変わりませんよ。閣下は随分前からいらっしゃったようですが」
「来たばっかりだよ。まだ仕事道具も広げてない」
「証言があります。昨夜から情報処理室に張り込んでいらしたんでしょう」
フィネーロに会ったのだろう。笑ってごまかそうとしたが、ガードナーはつられなかった。
「今は情報を早く得なければならないということはわかっています。私も言われるままに帰ったりせず、こちらで寝泊まりをするべきでした」
「しなくていいよ、そんなの」
「いいえ、閣下の命に関わることです。そうするべきでした。私にはあなたの補佐としての自覚が足りませんでした」
「十分すぎるって」
ガードナーは実際、よくやってくれている。暗殺計画阻止のためにレヴィアンスが方々に連絡をとっているあいだ、平常の仕事を代理でこなしてくれた。何も言わずともちょうどいいタイミングで茶を用意し、いつのまにか溜まっていたごみを片付けてくれるところなど、補佐というより執事だ。
これならイリスがいなくても問題ない、とすら思った。このまま遠ざけておけると。できることならこの甲斐甲斐しい補佐官にも、安全地帯にいてほしい。
しかしまだ何も知らないイリスとは違い、現在進行している事態をレヴィアンスとともに把握している彼は、だからこそこの場所――大総統の隣から離れないだろう。
「私は仮の補佐ですが、閣下の楯になるつもりでいます」
こういうことを簡単に言う人物なのだ、彼は。
「仮じゃないだろ。レオはちゃんと補佐だよ。このオレが選んだ正補佐だ。その肩書に恥じない仕事をしてくれている。だから、これ以上は心配しなくていい。楯になるなんて言わなくていいんだよ」
ガードナーがまだ何か言おうとするので、遮るように受話器を持ち上げた。そろそろ実家も落ち着いている頃だろう。慣れた番号に繋いで、向こう側の声を聞いた。
「はい、スティーナです」
「母さん? レヴィアンスだけど。あのさあ、イリスに何か吹き込んだの?」
ああ、と呟く母、ハル・スティーナの声は落ち着いていた。何でもないことのように、答えを続けた。
「宿題を出したよ。レヴィの助けになると思って」
「それでイクタルミナット協会事件のことを調べさせようとしたの? 当時生まれてもいないあいつには、関係のないことだよ。カスケードさんもニアも話したがらない事件を、どうして母さんが知らせようとするのさ?」
「だからだよ。カスケードさんも、ニア君も、それからレヴィもあの事件を彼女に伝えない。でも伝えなきゃわからないことがある。ボクが動かなくても、いずれは知ることになってたよ」
「それを知ってショックを受けてもいいっていうのかよ」
トーンの変わらない声に苛立ちながら、レヴィアンスは受話器を握りしめた。脳裏によみがえるのはいつかの泣き顔と言葉。兄の変貌に衝撃を受け、恐怖に震える少女の姿。もうあんなのは二度とごめんだと、そう思ったから事件のことはあえて口にすることもなかったし、今回の件も告げることを先延ばしにしている。
ハルは、それを知っている。他でもない、レヴィアンス自身が、今後の対応をどうするべきか相談していた。我が子が暗殺される危険性を、この人は理解し、ともに情報を集めて対策を考えていた。
「レヴィ、君が今まで話してくれたことから察するに、イリスちゃんはもう守るべき小さな女の子じゃないんだよ。君が補佐に選んだんだ。その力を、誰よりも信じてあげなくちゃいけないのは君だよ。あの事件のことを知った彼女は、たしかにショックを受けるだろうね。でもそれを受け止めきれないほど、もう幼くはないんだ。彼女は強い、一人前の軍人だよ」
全てをわかっていて、導き出した答えがこれだ。ハルは、レヴィアンスにはイリスが絶対に必要だと結論を出していた。遠ざけないように、レヴィアンスがそうしようとするならイリスから近づけるようにしようと、動いたのだった。
「君は指揮者なんだよ、レヴィ。従うものがいなければ、その名は意味を持たない。自分からそれを離そうとしてどうするの」
万能の指揮者。ゼウスァートという名には、そういう意味がある。それになぞらえ、レヴィアンスはしばしば「再臨の指揮者」と呼ばれることがある。再びゼウスァートの名を背負い、国に立つ者として、たくさんの想いを向けられている。暗殺計画だって、その一端なのだ。
本当はゼウスァートと呼ばれたくはない。レヴィアンスはハイル家の子供として育ってきたつもりだ。どうせ大総統になるのなら、レヴィアンス・ハイルとしてここにいたかった。けれども求められたのは、かつて大陸を駆けて中央の人々を指揮し導いた、その人物に与えられた名だった。その末裔でなければ、今ここにいることはできなかった。できたとしても、より多くの助力を得ることは難しかっただろう。
たとえその名が自分を殺すことになるのだとしても、レヴィアンスはゼウスァートの名を継ぐ者として、大総統の椅子についていなければいけなかった。そして傍らには、指揮に従う者が必要だった。
イリスを、ガードナーを、選んだのは自分だ。選んだからには責任を負わなければならない。遠ざけるのではなく、傍らに控えてくれる彼らをまとめて守るくらいの心づもりでいなくては。
そうでなくて、どうして大総統が名乗れようか。
「……そんなことは、わかってるんだよ。オレだって、考えた。絶対に、何が何でも守ってやるって。でもさ、もしそれができなかったらどうするんだよ」
「できなかったらどうするかじゃない。やるんだよ。それがボクの仕事だった。そして君の仕事だ」
だった、と過去形にしているけれど、ハルの仕事はまだ続いている。元大総統としてアドバイスをし、レヴィアンスが手を出しあぐねていた場所に駒を動かした。偉大な先輩のすることは、お節介だけれど、きっと間違ってはいないのだ。
本来、レヴィアンスがするはずだった仕事だ。これからは自分でやらなくてはならない。避けている場合ではないのだ。
「うん……そうだね、オレの仕事だ。適切な指揮をして、生き延びて、永く国を導くのがオレの役目だ」
「わかっているならよし。イリスちゃんはきっと仲間の力を借りて、宿題をさっさと済ませてしまうはず。ボクが提示したのはイクタルミナット協会というヒントだけだから、君はその意味を早く明かすことだね。みんなが君の指示を待っているよ」
もちろんボクもね、と付け加えたあたり、まだまだ動くつもりでいるらしい。先々代大総統は、どこまでも気が若いというか、それとも我が子に対して心配性なのか。昔から、なかなかスパルタな心配のしかたをする人ではあるけれど。
頑張るよ、と一言だけ返して電話を切ると、ずっと傍で控えていたガードナーが微笑んでいた。言葉にせずとも伝わってくる。――いつでも何でも、ご命令をどうぞ、閣下。ただし、退くつもりはありません。
「レオ、三日のうちに第一陣が来る。イリスたちにはまだ知らせないつもりだ」
「そんなに余裕のあるふりをしていて大丈夫なのですか?」
一気に表情を引き締めたガードナーに、レヴィアンスはにやりと笑ってみせる。
「ふりじゃないよ。実際、まだ余裕があるんだ。オレとお前の二人いれば、十分対処できる程度にね」
「閣下、あなたって人は……」
呆れたように息を吐いたガードナーは、けれども少し嬉しそうだった。


宿題というからには、済ませたことを報せなければならないだろう。町を見回るついでに、イリスは鍛冶屋に立ち寄った。店では女の人が、展示品を整えていた。
「あの、こんにちは」
「いらっしゃいませ。……あらまあ、珍しいお客様ね」
店の二代目は顔をほころばせ、すぐに奥へ声をかけてくれた。まもなくして、長い髪をきれいに編んだその人が現れる。
「こんにちは、イリスちゃん。しばらく見ない間に大きくなったね」
「お久しぶりです、ハルさん」
彼が大総統という肩書を手放したのは、イリスが入隊して少ししてからのことだった。退任の式典の、新兵代表の挨拶を、イリスが務めたのだ。よく覚えている。
ハル・スティーナには、以降、きちんと顔を合わせる機会があまりなかった。
「出していただいた宿題、取り組んでみました」
「ありがとう。どうだった?」
「まだちゃんと理解したわけじゃないんですけど、イクタルミナット協会って組織があったってことはわかりました。お兄ちゃんやレヴィ兄と、関わりがあったことも」
「うんうん、仕事が早いのは良いことだね」
満足そうに頷いたのは、宿題がちゃんとできたことに対してだけではなさそうだった。それくらい、深かった。
おそらくはこの人でなければ、提示しなかった事件。自らが治める時代に起こった大きな出来事で、しかし他の関係者は誰も語ろうとしなかったこと。レヴィアンスの助けになると判断しなければ、この人もまた、わざわざイリスに教えようとはしなかっただろう。
「イクタルミナット協会はもうないけれど、血脈信仰は残ってる。レヴィ兄が大総統で、わたしが見習いとはいえその補佐をしている。……ハルさん、信者たちはレヴィ兄に対して、何かしようとしているんですか?」
それ以外の事情が、イリスには思いつかなかった。ルイゼンも言っていたが、タイミングが良すぎる。一度は否定しようとしたが、やはり不自然だ。
十八年前の事件を語らなかったレヴィアンスなら、現在何か起こっていたとしても、イリスには言わない可能性がある。できることなら自分一人で、それが難しくてもガードナーや自身の持っている外部のコネクションを使って、解決しようとするだろう。
「血脈信仰信者の全てに悪意があるわけじゃない。むしろ彼らの多くは善意で動いている。それはイリスちゃんもわかるよね」
「わかります。善意が最も相手にすると厄介なものだっていうことも。わたしたち軍も、それは変わらないってことも」
イリスの返事に、ハルは笑顔で首肯した。
「それをわかってくれているのなら、ボクからの宿題はおしまい」
「おしまい、ですか。まだ全部聞いてないのに」
「語るべきはボクじゃないから。……まあ、でも、元補佐としてなにかアドバイスがあるならしてあげてもいいんじゃない、アーレイド?」
名前を呼ばれてやっと出てきたのは――すぐ傍にいることは、イリスも気配でわかっていた――先々代大総統の補佐を務めたその人。そして、レヴィアンスを育てたもう一人。
「レヴィを頼む。この国の大きな柱がたおれることのないよう、支えるのが補佐だ」
まっすぐにこちらを見据え、アーレイドは言う。それを頭の中でゆっくり繰り返してから、イリスは不敵に笑った。
「もちろんです。わたしは大総統補佐、イリス・インフェリアですからね。大切なものは何が何でも守り抜く。後悔なんか、わたしが抱える誰にもさせない」

もしもイクタルミナット協会事件でもっと知りたいことがあったら、とハルは各所に手を回しておいてくれた。最も話をするのが難しいと思われた、イリスの実家にまで。カスケードを説き伏せられる人は少なく、中でもハルはかつての立場を引き継いだ人間であるということもあって、真正面から意見できる貴重な一人だった。
「カスケードさんにとっても嫌な事件だったことには間違いないからね。多少は渋るかもしれないけど、ちゃんと話はしてくれるよ」
「さすがですね。ちなみにお父さん、レヴィ兄の件についてはどれくらい知ってるんですか?」
「ボクほどは知らないと思う。でも対処法はカスケードさんのほうが良い案が出せるはずだから、全く相談をされていないってことはないんじゃない?」
返答もヒントの一つだ。あとでカスケードが大総統だったときに起きた事件も、ざっと見てみることにする。これもイリスが生まれる前のことなので、詳しくは知らないのだ。ある程度調べておいたほうが、直接話を聞くにもいいだろう。
「お兄ちゃんは何か知ってるでしょうか」
「ニア君はもう軍とは関係ないことになってるから、知らないんじゃないかな。それと十八年前の件も、ニア君は記憶があいまいな点がある。僕らは『覚醒』って呼んでた超人的な力も、発揮してるときには本人の自我がないらしいし」
「それはわたしも聞いたことあります。じゃあ迂闊に話題にしないほうがいいですね」
ハルの協力を得て、イリスの今後の方針が組み立てられていく。レヴィアンスが語らないのなら、こちらが調べるまで。場合によっては無理やりにでも吐かせるつもりだ。今のイリスには、最悪の事態も想像できた。
イクタルミナット協会事件は中央司令部襲撃という結末を迎えた。再び同じ事態になるか、あるいはアーレイドの口ぶりから察するに――。
いずれにせよ、情報と、今以上の力は必要になってくる。レヴィアンスがイリスたちの能力の向上を求めたこと、それ自体が重要な鍵だった。
「いつから抱えてたのよ、レヴィ兄……」
見回りの続きに戻り、一人で呟いた。悔しさの滲む問いに、答えはない。


深夜、大総統執務室にはまだ明かりが灯っていた。三日のうちにこの首を狙う者が来るとあっては、寮に戻って寝る気にはなれない。そんなレヴィアンスの思惑をわかって、ガードナーも一緒に待機していた。
「イリスさんたちはもう眠ったでしょうか」
ブランケットを広げながら、ガードナーが言う。
「寝たんじゃない? 寝つき良いし」
欠伸を噛み殺して答えてやると、え、と驚いたような声が上がった。
「一緒に寝たことがあるんですか」
「あいつがちびっこだった頃の話だよ。オレとニアとルーファでつるんでたところに入りたがって、インフェリア家でお泊り会となれば風呂も一緒」
「閣下、それはいつまでの話ですか? まさかつい最近も……」
「最近はさすがにない。あいつが軍に入る前までだって」
「そうですよね。いえ、閣下はともかく、イリスさんはあまり気にしなさそうだったもので」
ホッとした様子のガードナーに、レヴィアンスは苦笑を返す。もともと良い観察眼を持っている彼は、イリスのこともよく見ているようだ。
「あいつ、男っぽいわけじゃないんだけどね。髪が長いのはそのほうが可愛いってニアに言われたからだし、普段着もスカートとか多いし。アクセサリーも結構持ってるんだよ、一時期ニアが細工物にはまってて色々作ってたからさ」
「ブローチなら以前見せてもらったことがあります。お兄ちゃんが作ってくれたんだって、自慢げに」
「お兄ちゃん大好きだからね、あいつは」
胸を張って宝物を見せるイリスは、容易に想像できる。思わず喉を鳴らして笑うと、ガードナーがブランケットをレヴィアンスの肩にかけながら、閣下もですよね、とこぼした。
「閣下も、あの兄妹のことが大好きでいらっしゃる。だから不都合なことは仰らず、退役されたニアさんの代理までするかのように、イリスさんを気にかけていらしたんでしょう」
「……うん、まあ。大好きなのには違いない」
彼らのためなら、どんな危険な目に遭ってもかまわないと思う程度には。
「でもニアの代理だなんて思ったことはない。思っても無理な話だから。だって片やお兄ちゃん、片やレヴィ兄だよ」
「呼び方、そういえば違いますね。意識して変えてるんですか」
「そう。一応あいつなりのこだわりがあるんだ。もともとインフェリア家の人たち、あだ名好きだし」
お兄ちゃん、では呼び分けることが難しいと思ったイリスが、自分で考えた呼び方だ。おそらく最上級形が「お兄ちゃん」で、自分はその逆なんだろうとレヴィアンスは思っている。
こちらが想うほど、相手に想われていなくてもいい。それでも守れれば、自分はきっと満足だ。
「それはそうと、レオに頼みがあるんだけど」
「何でしょう」
「実は第三休憩室に、秘蔵のお茶があるんだよね。棚の一番奥に隠してあるんだ。今飲みたいなあ」
「仕方ないですね。では行ってまいります」
一礼して、ガードナーは部屋から出ていく。独りになったレヴィアンスは、しばらく扉を眺めていた。――これでいい。守りたいのは、イリスだけではないのだから。
気配にはずっと気づいていた。予想よりも早い到着だが、相手をする準備はできている。
椅子から飛び退くように離れると、肩にかけていたブランケットをマントのように翻す。直後に外から割られた窓ガラスを布一枚で防ぎきった。
大きく開いた穴からは、真っ黒な空が見える。そこから降ってきたのは、人だった。黒服を身に纏い、手には短剣を握っている。
「銃で来るかな、と思ってたんだけど。まさか直接乗り込んでくるとは」
「それでは歴史の痕跡を残せない。我らが歴史をつくったのだと示せなければ意味がない」
「なるほどね」
黒服は短剣を振り上げ、レヴィアンスに向かってくる。一人ではない。窓から二人、三人と続く。愛用のダガーナイフを構えて全て避けたが、四人の黒服に囲まれた。狭い執務室では身動きがとりにくい。
「我らの歴史に、正史に従え」
一人がそう唱える。これが今の彼らの教義。十八年前よりさらに歪められたそれは、血脈を歴史に置き換えていた。
「さすが第一陣、よく喋る。自分たちの存在を誇示するためだけの、まあ運が良ければこれで目的達成できるかも、くらいの人たちだもんな。可哀想に、上に捨て駒にされて」
捨て駒、という言葉が気に障ったのか、黒服が次々にレヴィアンスに襲いかかる。だが彼らの短剣は容易く、レヴィアンスの得物に弾かれた。十八年愛用してきたダガーの、柄の紅玉が輝く。
一人がもう一振り、短剣を取り出した。まさか一本では来ないだろうと予想はしていたので、全く驚かない。大きく腕を振り上げることで生まれる隙を見逃さず、レヴィアンスは相手の腹を蹴りあげた。
「ごめんよ。大人しくしててくれれば、手当てはしてやるから」
そのあいだに背後から、短剣を持った手がもう三つ迫っていた。しかしこれは、レヴィアンスが手を下すまでもなく、背中を斬られて一度に倒れる。
「閣下、ご無事ですか?」
こちらのほうがよほど気配を消すのが上手い。いつのまにか戻っていたガードナーが、優雅な仕草で剣を払った。
「全然平気。今だって避けられたし」
「ええ、閣下が余裕を持たれていたのも納得がいきました。彼らはまともな戦闘をしたことがありませんね。しかしながら窓を割って侵入する大胆な手口。暗殺そのものは急務ではなかった、と」
「今倒れてるやつらはね。問題は窓を割ったやつ」
大総統執務室の窓は、そう簡単に割れるものではない。仮にも国の頂点に立つものが使う部屋だ、防御のための工夫は十分になされているはずだった。
ガードナーが落ちているガラス片を拾い上げ、眉を顰めた。
「材質に問題はなさそうです。ということは、破壊できるだけの道具を持っているのでしょう」
「銃じゃないな。音がしなかったし、弾も飛んできてない。外の様子を見に行くにしても、まずはこいつらを縛ってからか」
蹴り飛ばした一人を引きずってきて、ガードナーが倒した三人とまとめる。用意しておいたロープを巻き付けようしたときには、レヴィアンスは油断していた。風が入り込んでくる窓の向こう、漆黒の中に隠れていたものに気づかなかった。
「閣下、伏せて!」
ガードナーの声に顔をあげて反応したのと、破裂音が響いたのは同時。赤い飛沫が舞ったのは、その後だった。
言う通りに即座に伏せていれば、ガードナーもその場に立っていることはなかったかもしれない。彼ならまともに被弾することは避けられた可能性がある。けれどももう、何を言っても遅かった。
「レオ!」
銃で来るかと思ってた、というレヴィアンスの読みは、外れてはいなかったのだ。それなのに。
「……閣下、ご無事で? ……ああ、支えてくださるということは、ご無事ですね」
「喋るな。ごめん、読みが甘かった。すぐに病院に連れてくから」
「人を。……閣下が出ては……危険です、から。ひとを、よんで、」
「だから喋るなって!」
ガードナーが呼吸をするごとに、左胸から血が溢れているように見えた。急いで電話を手に取り、救急を呼び、寮からも応援を呼んだ。――気が動転していても、手は覚えているものだ。いや、冷静ではなかったからこそ、その番号を呼び出したのかもしれない。
巻き込みたくなかった。報せるにしても、もっと余裕を持って事後報告をするつもりだった。こんなことなら、腕を折られたいつかのほうがずっとマシだ。あのときは、泣き顔の女の子を案じることができたのだから。

部屋着のまま駆けつけたイリスとメイベルが最初に見たのは、到着したばかりの救急隊だった。先に執務室になだれ込んだ彼らは、大急ぎで怪我人を運んでいく。軍服の胸を黒く染めたガードナーに続いて、見知らぬ人間が四人。
ようやく入れた執務室のソファに、レヴィアンスが座り込んでいた。床に散らばったガラスの破片と、窓から容赦なく吹き込む風が、部屋に廃墟のような寒々しさを与えているのに、彼は微動だにしなかった。
「レヴィ兄」
イリスが声をかけても、振り向こうとしない。声だけが、やっと聞き取れた。
「……楯になんか、ならなくていいって言ったのに」
ガードナーのことを言っているのはすぐにわかった。閣下の楯になる、とはイリスも聞いたことのある言葉で、それが現実になったのはさっきのとおり明らかだ。
「何があったの、レヴィ兄」
「オレが油断したせいで、あいつが撃たれた。オレのせいで……」
「だから何があったの? どうしてここ、こんなに散らかってるのよ。さっき運ばれていった人たちは何なの?」
「待て、イリス」
メイベルに肩を掴まれ、イリスは黙る。そうしてもう一度室内を見回し、確信した。思ったことをそのまま、メイベルが肯定する。
「見ての通りだ。お前の不安は的中したんだろう。閣下が狙われ、ガードナー大将が身代わりになった」
「ちょっと、ベル」
「もっと早くイリスに話しておくべきだったな。事態を招いたのは閣下の慢心だろう」
「ベル、やめて」
「いや、その通り。話が早くて助かるよ。オレが説明するよりずっと的確だ」
言いすぎを止める前に、レヴィアンスが立ち上がった。イリスは駆け寄ろうとしたが、結局進むことができなかった。
振り向いた双眸は、鳶色よりも暗い。レヴィアンスのこんな表情は見たことがない。それが何を意味するのか、考えようとすると心音が頭にうるさく響いた。
「あ、あのさ、レヴィ兄」
「呼び出して悪かった。メイベルも、イリスに付き添ってきたんだろ」
呼びかけを遮るように、低い声が言葉を紡ぐ。
「詳細は始業と同時に話す。フィネーロのこともあるから、全員揃わないとちゃんとした話ができない。何より今はオレがこのざまだ」
「そう……だね。レヴィ兄、ちょっと休んだほうがいいよ。片付け、やろうか?」
「いや、これはこのまま。一応現場だから」
「そっか……」
「窓が駄目になったから、念のためここで寝る。イリスたちは寮に戻って」
それは危ないのではないか。レヴィアンスが狙われているのなら、現場に一人で残すわけにはいかない。そう思ったが、メイベルが手を引いた。
「戻れというのだから戻ろう。明日から忙しくなりそうだしな」
信頼していた部下が、レヴィアンスのことだからきっと守りたかった人が、おそらくは彼の目の前で、簡単には治らない傷を負った。気持ちを汲むなら、ひとりでそっとしておくべきなのかもしれない。
でもそれは、レヴィアンスの安全が保障されている時だけだ。命を狙われているのだとしたら、イリスが、いや、現時点で動ける唯一の大総統補佐がとるべき行動は、一つしかないのではないか。
――この国の大きな柱がたおれることのないよう、支えるのが補佐だ。
自分はこの言葉に、何と返事をした。
「じゃあ、すぐ動けるように、着替えて戻ってくる」
「いや、話は明日」
「それはわかった。でも今わたしが優先しなきゃいけないのは、レヴィ兄だから。ガードナーさんがいないなら、わたしがやる。ここは譲らないよ、……閣下」
そう呼んだとき、レヴィアンスは一瞬目を見開いて、
「……それなら、しかたないか」
弱々しく、口角をあげた。



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2016年09月24日

咆哮の序

「成長したようね、あの子」
ティーカップを優雅に傾け、女王オリビア・アトラ・エルニーニャが微笑む。名目上、エルニーニャ王国に君臨するのは王であるのだが、今代王宮の実権を握っているのはその妻である彼女だ。昔から王宮に仕えてきた家であるパラミクス家から輩出され、政に関わりながら王宮近衛兵の長としての役割を果たしている。
向かいに座るレヴィアンスを、ゼウスァートの名で大総統の地位に就けたのもオリビアだ。軍と王宮の立場は対等になったことになっているが、そういう経緯がある以上、彼女はレヴィアンスより一段高いところにいる。明言しなくとも、レヴィアンスはそう感じていた。
「あの子って?」
「イリスちゃん。補佐、よく務めているそうね。先日うちの子が視察に行ったら、練兵場でこてんぱんにされちゃったって」
「げ、来てたの……。しかもイリスが暴れてるときに……」
オリビアのいう「うちの子」こそ王宮近衛兵で、ときどき軍施設を訪れている。軍内の動向を抜き打ちで見るためなので、大抵は予告なしに来て挨拶もなく去っていく。レヴィアンスが会えば普段司令部にいる人員ではないと見抜くことができるのだが、イリスはそうもいかない。同じ軍服を着て、国章と階級章をつけていれば、それは等しくエルニーニャの軍人とみなす。全員を覚えてはいないのだから仕方がない。
侵入者であれば挙動でわかることもあるが、王宮近衛兵の仕事に抜かりはないのだった。
「かつて失われた信頼を、あなたたちは着実に取り戻している。そのまましっかりね」
「仰せのままに、女王陛下」
言葉とは裏腹に、行儀を無視して紅茶を飲みほしたレヴィアンスに、オリビアはクスリと笑った。
その表情のまま、次の言葉を聞く。
「……で? 今日の用事ってなんなのさ。本題に入ってもらおうか」
「相変わらず王宮での雑談は苦手なのね。早く帰りたいところを、付き合ってくれてありがとう」
レヴィアンスは最初からこの瞬間まで、とうとう笑みを見せることはなかった。


ジュースにシロップ、ジャムに……それから酒。兄の家のテーブルにぞろっと並んだ瓶を、イリスは今年もうっとりと眺める。
「あーあ、わたしも早くお酒飲める歳にならないかな。お兄ちゃんと一緒に飲みたいなー」
「終わらない酒盛りになりそうだな。その日が来るのが怖い」
ルーファの不安をよそに、瓶の一つを手に取ってみる。果実酒がとぷんと揺れて、きらきらと輝いた。ニアたちが美味しそうに飲むこれは、毎年時期が来ると送られてくる。作っているのはセパル村の村長とその秘書だ。
「今年は特に自信作だぜ、だって。ゲティスさん、毎年そう書いてくるよね。農産物の出来がいいのは良いことだけど」
「ジュースが去年より多めなのは、ニールのこと聞いたからかな。ていうか、報告したの?」
「うちからはまだ教えてない。教えたとすればレヴィじゃないか? しょっちゅう連絡とってるんだろ」
一緒に届いた手紙を読みながら、ジュースをコップに注ぐ。ニールに渡すと、いただきます、と言ってから口をつけた。
「わ、味が濃い」
「この味が癖になるんだよ。シロップは料理に、ジャムはパンやヨーグルトに。色々使ってたらあっという間になくなっちゃう。わたしなんかジュース目当てにここに通い詰めたもんね」
季節の贈り物に感謝して、ニアが早速手紙の返事を書き始める。ルーファは瓶を種類ごとに片付け、その途中で一つだけ蓋にマークをつけていた。ルーファ専用の、酔い覚ましの薬草水だ。これがないと酒豪たちの宴会に付き合えない。
「そういえばイリス、最近レヴィはどうなんだ。うちに来ないってことはかなり忙しいんだろ。ダイさんとやってた仕事は片付いたのか」
「レヴィ兄? うん、それはダイさんがこっちにいるうちにやっつけちゃったみたい。今忙しいのは、また別の仕事」
酒豪の一人は、しばらくここに来ていない。週の半分は飲みに出かける、というのは変わっていないのだが、それがプライベートではなくなった。詳しいことはイリスも教えてもらっていないので、難しい案件なのだろう。大総統補佐見習いといえども、イリスは尉官。大総統であるレヴィアンスとは大きな差がある。特別に仕事を任せてもらうことや、あまりに忙しい時に仕事をいくらか引き受けるということはあるけれど、通常レヴィアンスは階級相応に仕事を振り分けている。大総統に距離が近いからといって全ての情報を知ることができる、というわけではない。
「昔、レヴィが自分で言ってたよね。大総統の子だからって何でも知ってるわけじゃないって。レヴィもそれなりに線引きしてるんだろうな」
「お兄ちゃんの言う通り。でもレヴィ兄の判断基準ってときどきわかんないから、納得できないときはガードナーさんにこっそり聞くんだ。じゃないと変に仕事溜めこむんだもん」
だが今はその時ではない。イリスが踏み込んでもどうにもならない、むしろ邪魔になりそうだと思ったときは、あえて動かない。その加減を二年以上かけて心得てきたつもりだ。
「イリス、良い部下になったな。レヴィも上手く育てたもんだ。ほら、ご褒美」
「え、いいの? ありがとう!」
小さな瓶のジュースを一本。ルーファから受け取って、イリスは喜ぶ。これは明日大総統執務室に持って行こう。誰への「ご褒美」なのか言わなかったのは、きっとそういうことだと思うから。
疲れたときは、甘いものがいい。

夜の街、昔からあるとある店の奥。隠し扉のついた壁に区切られた個室が、最近のレヴィアンスの「仕事場」だ。王宮関係者が利用する特別な店、の噂はかねがね聞いていたが、実際に来たのはオリビアからの話を聞いてからだった。
――本来ならすぐに教えるべきだったのでしょうけれど。報告が遅れてしまって申し訳ないとは思っているわ。
国政など、国を運営する柱に関わることは、王宮と軍と文派の三派で連携をとりあう。そのために定期的に、あるいは少しでも重要だと思われることについては三派会を開くこととする。先々代大総統ハル・スティーナと先王、そして先代大文卿のあいだで交わされた約束だ。もとは王宮と文派が軍の動きを把握するために提案したことだが、それが今回、王宮の側で即座に機能しなかった。
――すぐに話せなかったのは、私たちがどう出るべきかをすぐに結論付けられなかったから。あなたが頑張っているのはよく知っているし、だからこそ結果も出ている。でもね、物事がうまく運びすぎていると、疑う人と信じすぎる人が出てくるの。
それはよくわかっているつもりだった。狂信者、と表現できる一部の人々の動きが警戒レベルに達すると起こりうる危険を、レヴィアンスは身をもって知っている。だからこそ国内に乱立するあらゆる組織を可能な限り把握してきた。国外に目を向けなかったわけでもない。だが、どうやらあと一歩足りなかった。
西の大国から報告があったという。そこで活動していたとある団体が、エルニーニャの動きに注目している。正確にはエルニーニャ軍を。北の大国の軍の長と懇意にあり、南の大国との関係も良好で、東方にも目をかけているらしいというレヴィアンス・ゼウスァートの動向を、異様に気にかけているのだ。
レヴィアンスが何をしたというわけではない。南のサーリシェリアとはもともと友好で、北のノーザリアにはダイがいる。東方諸国とのつながりは親たちの代で得られたものを引き継いでいるのであって、他意はないのだということは東のイリアに説明済みだ。――それを「西がおざなりな扱いをされている」ととられたのかもしれない。
まさかそのウィスタリアの一部団体とやらは、エルニーニャが他国と一緒に攻めてくるとでも思ってんの? 冗談で言ったレヴィアンスに、オリビアは溜息交じりに返した。
――そうではないようなの。むしろその逆ね。あなたのやり方を妄信していて、ウィスタリア政府にも同じ対応を求めたり、エルニーニャの行く末に手出しをすることも考えられるそうよ。あちらが公式のかたちをとらず、私に密かに報告してきたのは、彼らに動向を探られたくなかったから。
大国同士のやりとりは、必ず五カ国会議というかたちをとることになっている。それができないほどの事態を、ウィスタリアの「団体」の目的を正確に把握しておきたい。オリビアとレヴィアンスの考えが一致した結果、こちらも密かに動くこととなった。
それには協力者が必要だ。王宮でも軍の人間でもない、もう一つの立場の協力者が。
「学術目的以外で他国に行くのは気が進まないと、ずっと申し上げているはずですが」
しかし正面に座る男の表情は、相変わらず苦々しい。
「学術調査でいいから、何かヒントをくれると助かるんだよ。女王もオレも動けないし」
「文を他派に、そんなかたちで利用されたくありません。大文卿も同じ考えだと思いますよ。私たちの立場はあくまで対等。王宮から依頼されたとしても答えは同じです」
眼鏡の奥の瞳は冷たい。だが何一つ間違ったことは言っていないので、レヴィアンスの交渉は進まない。
「ただし、弟を今の班から外してくれるのであれば、私個人としては考えないこともない」
「だからそれはできないって言ってるだろ」
「ならば私も了承できません。……いつまで無駄な時間をとるつもりですか、閣下」
顔はそっくりなのに、敬意どころか容赦ない。彼の「弟」との差はどこで生じたのだろう。
研究者であり若くして大学で教鞭を振るう彼、アルト・リッツェ准教授は、レヴィアンスの部下でイリスの同期の、フィネーロ・リッツェの実の兄だ。実際、大学での職についたのは二年前のことで、それまでは彼も軍に属していた。北方司令部の上層にいた彼は、しかし、北方で起こっていた汚職に気づけなかったことの責任を感じ、軍を退いたのだった。
レヴィアンスとは同い年だが、年齢をごまかして入隊したレヴィアンスから見て、アルトは二年後輩になる。だが彼はこちらに少しも敬意をはらっていない。レヴィアンスとてそんなものが欲しいわけではないが、かなり苦手な部類の人間であることには間違いなかった。
「西で何が起こってるのか、ちょっと見てきてくれるだけでいい。資金はもちろんこちらから出す」
「大した利もなくスパイ活動なんかごめんですよ。……このやりとり、何度目か覚えていますか? あまり頭の出来はよくありませんでしたよね、閣下は」
こちらをじとりと睨みながらグラスを傾けるアルトに、レヴィアンスは否定を返せなかった。こちらもグラスを空にして、再び酒で満たす。この個室を使うための鍵、女王のキープボトルは、高級で美味いがどこか苦い味がする。
「弟を閣下お抱えの危険な班から外してくれれば動くと、私は申し上げている。けれども閣下はそれはできないと仰る。弟がいないと班が困るだのなんだの……たしかに困るでしょうけれどね、あの子だけが賢く理性的に動けますから」
このブラコンが、と思いながらも口にはしない。機嫌を損ねることはないだろうが、開き直られる可能性は十分にある。
「今夜ももう遅い。次は弟の今後について決めてから呼び出してください。私も研究や講義の準備があるので、暇ではないんですよ」
何も動かないまま、今日もタイムリミットを迎えた。アルトが出ていった部屋で、レヴィアンスは一人、深い溜息を吐いた。


昼休み、昼食をとっている最中に、フィネーロがぽつりと言った。
「兄が帰ってきているらしい」
「兄ってどの兄だよ」
すかさずルイゼンがつっこむとおり、フィネーロには兄が三人いる。それぞれ地方に行っていたり、首都にいても実家からは離れていたりして、めったなことでは帰ってこない。今回実家に戻っているのは、長兄のアルトらしい。
「父とともにレジーナ大で働いているから、最も家に近くはある。でも、だからこそいつでも帰ることができると言って帰ってこないのがアルト兄さんだ。何かあったのかもしれない」
「フィンの一番上のお兄さんって、たしかレヴィ兄と同い年だよね」
「おそらく、兄のほうが二つ下だが?」
「おっと……そうだったそうだった」
うっかり滑らせた口を、イリスはパンを齧って塞ぐ。レヴィアンスが軍では年齢を二歳ごまかしているということは、一部しか知らない秘密だ。イリスは幼い頃から知っているが、フィネーロたちがそれを知る術は本来ならばない。だいたいにして、大総統が年齢詐称していることなど公になっては困る。
「どれもみんな同じ顔で真面目な、大層な兄君だったな。私のことを快く思っていない人たちだ」
メイベルはフィネーロの兄たちに会ったことがあるというが、印象はよくない。育ちがリッツェ家の人間と付き合うのにふさわしくないと言われたことがあるそうだ。
「全員がそう思っているわけではない」
「どうだか。私が信頼できるリッツェの人間はフィネーロだけだ」
相変わらず、メイベルの褒め方はわかりにくい。呆れたように溜息を吐くフィネーロを見て、イリスは苦笑いした。
「うちのお兄ちゃんたちは平気なのにね、ベル」
「イリスの兄君は男性的な感じがあまりしないからな。ルーファさんはルイゼンと同じ雰囲気ですぐに慣れた。閣下は……まあ、閣下だ。しょっちゅうイリスを一人占めするのは解せないが、存在を許せないわけではない」
いつも通りの少々過激な台詞のあと、メイベルは首を傾げた。ルイゼンとフィネーロも気がついて顔を見合わせる。イリスだけがきょとんとして、パンを咀嚼していた。
「……閣下、最近イリス呼ばないな」
「ああ、一時期はこうして昼食を共にすることすらままならなかったのに」
そういうことか、と飲みこんだ。たしかにイリスが仕事を手伝っているときは、このメンバーで集まることも難しいくらいに、大総統執務室にいる時間が長くなる。それが急に減ったのは、レヴィアンスがイリスに任せられないような大変な仕事に関わっているということなのだが、その詳細は今のところ見えてこない。とりあえず忙しいのだろう。隙を見てガードナーに様子を確認しなければ。
「イリスがとられないのは喜ばしいことだ。私にはイリスさえいればいい」
「ベルってば。四人揃ってこそのわたしたちでしょ。素早く動けるベルがいて、作戦を考えるフィンがいて、この超絶強いわたしがいて、リーダーのゼンがそれをまとめる。レヴィ兄が直々に組んだ、最高の班だよ」
にい、とイリスが笑うと、他の三人も頷いて笑顔を浮かべた。
イリスたちが軍に入隊してまもなく、一年早く軍にいたルイゼンと一緒に行動するように、当時佐官だったレヴィアンスが指示した。年月が経つに従って、上司についてではなく、四人だけで仕事を任されるようにもなった。軍できちんと実力を認められている班になったと誇れる。
それを崩す要素があるなんて、今まで思いもしなかった。
「ああ、いたいた。リーゼッタ少佐、リッツェ大尉。閣下が呼んでいますよ」
食事を終えたところで声をかけてきたのは、つい先ほど話を聞きたいと思っていたガードナー大総統補佐大将だった。だが、用事はイリスにではないようだ。
「俺とフィン……リッツェにですか?」
「わかりました、すぐに参ります」
呼ばれた二人も怪訝な表情で応えている。イリスは眉を寄せ、ガードナーに駆け寄った。
「ガードナーさん。レヴィ兄……じゃない、閣下は忙しいの? ゼンとフィンに何の用?」
袖を引っ張りながら尋ねると、ガードナーは困った表情で、しかし微かに笑みを見せた。よく一緒に仕事をするイリスには、これが慰めのための笑顔であるとすぐにわかる。
「閣下はちょっと難しい問題に取り組んでいます。どうか気持ちを汲んであげてくださいね」
やはり詳細はわからない。けれどもなにか、イリスが納得しなければいけない事態が起こっていることだけは、たしかなようだった。
いってくる、とガードナーについていったルイゼンとフィネーロを見送りながら、イリスは胸騒ぎを感じる。察したメイベルが、「上位二人を呼ぶなら任務じゃないか」と軽い調子で言った。

はたしてレヴィアンスが出した結論は、思った通り、ルイゼンには受け入れられなかった。普段は班員の暴走を止めてくれる、他人を気遣った大人の振る舞いができる彼なのだが、今回ばかりは取り繕えないようだ。
「そうなる理由をちゃんと説明してくださいよ! 俺たちを班にしたのはあなただろう?! それをまた、どうして勝手に……!」
良く通る声は、ここが大総統執務室でなければ、外にも響いていたかもしれない。今は重厚な扉と壁に遮られているが、ガードナーとフィネーロが黙りこくっているこの場では十分すぎる声量だった。
「勝手で申し訳ないけど、班を組ませたときとは状況が違う。リーゼッタ少佐はリーダーとしてよくやってくれてるし、インフェリア、ブロッケンの両中尉は実戦に適応できる力を伸ばしてきた。問題行動を起こさなければもうちょっと階級を上げてもいいくらいだ」
でも、と言葉を切る。憤慨するルイゼンの隣で、フィネーロはただ静かに直立していた。最初の一瞬こそ瞠目したものの、そのあとは冷静そのものだ。もしかすると、敵に回すと兄よりも厄介なのではないだろうか。――少しは喚いてくれた方が、こちらもやりやすかったのに。本当に苦手な兄弟だ。
「……でも、リッツェ大尉は実戦向きじゃない。リーゼッタ班の売りは攻撃力と機動力のつもりだったんだけど、大尉は情報処理班にまわした方が適切なんじゃないか。こう言っちゃなんだけど、武器を扱うのが未だに得意じゃないから、相変わらずあんな特殊なやり方で現場に出てるんだよね?」
フィネーロの武器は「紐状の物」。ロープやチェーン、長鞭などを場合に応じて使っている。足止めや捕縛などに役立ってはいるが、所詮単独では戦力不足なのだ。それは入隊時からわかっていたことで、それでも彼はその頭脳と軍人養成学校出身という経歴を買われてここにいる。
リーゼッタ班の参謀として働いてきたが、現場で動くためには少々他の三人と差が開きすぎてきたと、きっと本人が一番わかっていた。
「フィンは俺たちの仲間です! 絶対にこの班になくてはならない存在なんです! それをなんで今更」
「今だから、でしょう。……ルイゼン、喉が嗄れる。あまり叫ぶな」
フィネーロは自らルイゼンを制止し、まっすぐにレヴィアンスを見返してくる。ここ最近見ている瞳と同じ色をしているのに、それよりもほんの少し感情が見える気がした。
「僕が班から外れるのは、仕方のないことです。リーゼッタ班にはそぐわないと、認めます」
微妙に震えた声も、言葉にせず語っている。――悔しい、と。
「じゃ、今日これから情報処理室に詰めてもらうことになる」
「これから?! あまりに急すぎます!」
「さすがに仕事が迅速ですね、閣下。僕もそのほうが変な感傷に浸ることがなく助かります」
「フィン、お前……」
まだ何か言いたそうなルイゼンを、ガードナーが見やった。それが退出命令の代わりだ。これで用事は終わってしまったのだ。何も言わずに踵を返そうとした二人を、レヴィアンスは呼び止める。
「悪いね」
「……イリスが黙ってませんよ」
「うん、あとで乗り込んでくるだろうなって思ってる。その前に新しい仕事の話をしたいから、フィネーロだけ残って」
ルイゼンだけを外に出し、大総統執務室に再び静寂が訪れる。黙ったままガードナーが差し出したものをレヴィアンスが受け取り、その先を咥えた。
「ちょっと煙いだろうけど」
「かまいません。……ずっと我慢してましたよね。素が出てましたよ。先ほど、僕をフィネーロと」
「お見通しか」
煙草に火をつけながら苦笑いするレヴィアンスに、フィネーロも同じ表情で返した。
「兄が、帰ってきていましたから」

片手に瓶を持ち、もう片方の手で大総統執務室の扉を開け放つ。本来そう簡単には開かないはずの重量の扉を躊躇いなく押せるのは、補佐見習いとして働いてきたイリスならではだ。
「挨拶くらいしろよ。ニアに怒られるぞ」
「怒られたってかまわない。今はわたしのほうが怒ってる」
こちらを見ず、机で何か書きものをしながら軽い口調を飛ばしてくるレヴィアンスに、イリスの瞳はさらに燃えた。ずんずんと前進し、机を挟んでレヴィアンスと向かい合うと、瓶を書類の脇に振り下ろすように置く。中の液体が大きく揺れた。
「フィンを班から外すって、どうして? そんな大事なこと、なんで急に決めるのよ?!」
一人で戻ってきたルイゼンから、事情は聞いた。納得のできない説明のあとに湧き上がってきたのは、すぐに取り消しを求めなければという思いだった。イリスたちに、フィネーロは絶対に必要だ。実力が伴わないなんてはずはなく――たとえ本人がそう言っても、イリスはそうは思わない――だからこそ急に断行された人事を、覆さなければならない。
「大事なことだから決めた。オレにはその権限がある」
「そんなの、レヴィ兄のやりかたじゃない!」
「大総統はより多くの利を考えなきゃいけないの。イリスだってわからないわけじゃないだろ」
小さな班で合わない仕事を与えられて燻っているよりも、特技を生かして軍全体のために働く方が、フィネーロにとっても良いことなのかもしれない。それはイリスも考えた。だがレヴィアンスが突然、それも独断で動くということが信じられなかった。イリスになら、見習いでも大総統補佐である自分になら、一言くらい何かあってもいいと思っていた。距離が近いからといって全てを知ることはできない、ということもわかっていたつもりだったが、それでも今回ばかりは事前にきちんと話をしてほしかった。
「レヴィ兄、フィンを返して」
「もう仕事渡しちゃったから無理」
「今日の分は、だよね。だったら明日からでいい。それもできないっていうなら、力ずくでも取り戻す」
「オレに勝負でも仕掛ける? こっちが勝ったところでメリットがないんだけど」
「これあげるよ。お兄ちゃんのところから貰ってきたジュース。あとわたしがレヴィ兄のいうことを素直にきく」
ないも同然のメリットだが、今はこれしか提示できるものがない。レヴィアンスが瓶を一瞥し、それからやっとイリスを見た。鳶色の瞳がハッとするほど冷たく、後退りそうになる。必死にこらえて見返すと、呆れたような溜息が聞こえた。
「レオ、しばらく留守を頼むよ。小一時間もかからないと思うけど。緊急の用があったら練兵場まで」
「承知いたしました、閣下」
ガードナーが頭を下げると同時に、レヴィアンスが立つ。昔ほど身長差はなくなったはずなのに、妙に大きく見えるのは、逆光のせいだけではないだろう。――そこにいるのは、イリスが昔から知るレヴィアンス・ハイルではない。大総統レヴィアンス・ゼウスァートだ。
「来いよ、インフェリア中尉。叩きのめされないとわからないんだろ?」
「……やられるもんか」
どんなに睨んでも、彼には通用しない。でも負けるわけにはいかないのだ。

練兵場にはギャラリーが集ってきている。大総統閣下と補佐見習いがただならぬ雰囲気で練兵場に向かっているという、それだけで司令部の人間が続々と見物に訪れていた。イリスに誰かが勝負を挑み、次から次へと倒されていく光景はそもそもの名物となっているが、最初から大総統と直接対決するとあっては注目せずにはいられない。
ルイゼンとメイベルも、人混みを掻き分けて見物人の最前列にやってきた。フィネーロは情報処理室で仕事をしているのか、姿を確認できていない。噂を聞いたとしても、積極的に見に来ようとするタイプではないとメイベルが言う。
「しかしもったいないな。いつものイリスの大暴れの仕上げとはわけが違うじゃないか。今回の閣下はどうやら本気でイリスの相手をするつもりらしい。フィネーロも見ればいいのに」
「メイベル、お前やっぱりわかってなかったか。閣下……いや、レヴィさんがイリスに手加減したことなんて、あいつが生まれてこのかた一度もないぞ」
やっぱり、という表現にムッとしたらしいメイベルは、ルイゼンをじとりと睨んだ。
「閣下は幼い頃からやんちゃなイリスの相手をしていたと聞く。まさかひとまわりも年下の女児にまで容赦なかったとでも言うのか」
「そのまさかだよ。イリス本人だけじゃなく、ニアお兄さんまで証言してるんだ。あいつのたたかいごっこ、お兄さんやルーファさんはイリスと遊んでいたけれど、レヴィさんはいつもマジだった。だからイリスも常にそのとき自分にできる最大の力を、遠慮なくぶつけていた。お前たちの代の入隊試験、実技はイリスがぶっちぎりでトップだったのは憶えてるよな。あれを育てたのはもちろんインフェリア家の人たちでもあるけれど、俺は正直、レヴィさんの影響が一番大きいんじゃないかって思ってる」
唖然としたメイベルに、ルイゼンはさらに口早に追い打ちをかける。いつのまにか近くにいた人々もそれに聴き入っていた。そこかしこから「ほう」「本当だとしたらすごいな」と声が上がる。やっと息を吐いたメイベルが口にしたのは、「大人げない」の一言だった。
だがルイゼンは逆だと思っている。軍人一家に生まれて、家族の仕事と姿勢に憧れを持っていた少女に、レヴィアンスは最初からまっすぐ向き合っていたのだろう。これが現実で、さらに上がいる。もっと危険なことだってある。それでも軍人になりたいかと、もっとも早くに問いかけていたのは彼だったのだ。実の兄よりも先に、いや実の兄ではなかったからこそ、イリスの持っている力を認め、彼女が思うように利用できる方法や環境を探っていたのだ。――そうして二年前、大総統になったレヴィアンスは、補佐にイリスを選んだ。
練兵場に立つ二人は、得物も防具もなく向かい合っている。昔からそうしてきたように。今でもときどきそうするように。いつもならレヴィアンスの圧勝だが、今日はイリスが勝てるんじゃないか。そんな声もあがっている。
ギャラリーが騒めく中、彼らは同時に地面を蹴った。気づいたときには動いていたので、同時だと多くが思った。しかし少したりとも目を離さなかったルイゼンと闘い慣れしている者たちには、どちらが先だったのかがはっきりとわかった。
イリスが動いたその刹那を見逃さずに、レヴィアンスが反応したのだ。
飛び上がって蹴りを繰り出そうとしたイリスの脚は、レヴィアンスの横面を狙っていた。しかし宙を切っただけ。空振りして不安定になった体勢を立て直す暇も与えられず、前進していたレヴィアンスに胸倉を掴まれた。
「イリス!」
メイベルの叫びは届いていないだろう。どよめきのためだけでも、イリスの集中力のためだけでもない。そのまま地面に叩き付けられた衝撃が、ほとんどの感覚を麻痺させていた。
「……勝てないよ、イリスは。闘い方を教えて育てたのはレヴィさんで、行動パターンは誰よりも知り尽くしてる。動きだけじゃない。何が一番イリスのダメージになるのか、あの人は全部わかってるんだ」
怯まず真正面から、一撃で。それはイリスの戦闘スタイルだが、レヴィアンスが教えたことでもある。彼は今、それを見せつけたのだ。同じやり方ではイリスに勝算はない。いや、他の方法もきっと見切られている。
イリス自身もそれはわかったはずだ。実際に受けたこの一撃で、ほとんど全てを覚っただろう。――それでも彼女は、立ち上がった。足を震わせながら、手で乱暴に擦りむいた頬を拭って。
「おい、ルイゼン。イリスは立ったぞ。まだやられていない」
「挫けない、懲りないのがあいつの性分だからな。でも今のは心身ともに相当きつかったはずだ」
立ち上がらせたものを、ルイゼンとメイベルは知っている。自分たちも同じ気持ちだからだ。仲間を、フィネーロを、どうしても取り戻したい。たとえそれが困難だとしても、せめて納得のいく説明をしてほしいという、その想い。それからもう一つ、イリス自身がレヴィアンスの行動と考えを信じたい、信じさせてほしいという望み。
だがレヴィアンス、いや、大総統は高らかに言う。
「インフェリア中尉、もう医務室行ったら? まだ仕事残ってるだろ」
「やだ」
「お前は勝てないよ。ジュースだけで勘弁してやるから」
「いやだっ!!」
さっきの攻撃で、背中も強かに打った。声を出すのも苦しいに違いないイリスは、しかし、練兵場全体に響く声で叫んだ。
「大総統じゃなくて、レヴィ兄のっ! 何を考えてんのか、本音を聞かせろって言ってんのよ!! どうしても仕方のない理由があるなら、わたしもどうするのが最善なのか考えるよ!!」
「中尉がどうこうできると本気で思ってるのか」
応えたのは、大抵の者は聞いたことのない声だった。いつも余裕綽々で、軽い口調で笑っている大総統閣下の、低く重い、厳しい声色。
しかし彼女だけは怯まない。その威圧をまともに受けているのに、腕を伸ばして、目の前の相手の軍服を掴む。真っ直ぐに彼を見る。なぜなら。
「ちゃんと呼べ! わたしはイリス・インフェリアだ!! 階級なんか無視してわたしを自分の傍に置いたのは、レヴィ兄、あんたでしょうがっ!!」
無茶の仕方だって、教えたのはレヴィアンスなのだ。
酸欠を起こして倒れ込んだイリスを抱き止め、彼はギャラリーに向かって手を振った。
「ルイゼン、メイベル。……あと後ろのほうで突っ立ってるフィネーロも。この重いの医務室に運べ」
練兵場に立つのは、いつものレヴィアンスだった。

女の子が顔に傷ってのはまずいよね、と苦笑しながら、軍医は丁寧に処置をしてくれた。事前にガードナーから頼まれていたそうで、医務室では手当の準備をして待っていてくれたのだった。
メイベルはイリスをじっと見守っている。ルイゼンは仕事の資料を医務室に持ち込み、それを眺めながら向かいに座るフィネーロに尋ねた。
「イリスにも聞こえるようにはっきり言ってくれ。あのあと、閣下に何を言われた?」
「すまないが、答えられる段階にない。だが僕を振り回しているのが閣下ではないということははっきりさせておこう」
「……それだけでもちゃんと言ってくれれば、イリスがぶち切れることもなかったんだけどな」
たぶん、と付け加える。レヴィアンスにでなければ、自分が班にそぐわないと言ったフィネーロに対して怒っていただろう。案の定、ざらざらした細い声が、「フィンのばか」と呟いた。
「まさかフィネーロがあの場に来るとは、私は思わなかったが。どのあたりから見ていたんだ」
イリスから目を離さずに、メイベルが問う。これには明確な返答があった。
「噂を聞いて気になってはいたんだ。到着した時には、イリスがいやだと叫んでいた」
「じゃあ、一度倒された後か。衝撃のシーンを見逃したな」
「その後も十分衝撃だった。なにしろイリスを個人として扱わない閣下なんて、今まで見たことなかったからな」
「普段が私情で動きすぎなんだ。あの多重人格大総統め、次に対面したときには暗殺未遂事件だ」
「やめろ、メイベル。洒落にならん」
いつものやりとりだった。ルイゼンと会話をし、メイベルを宥める、フィネーロのいる光景。けれどもイリスの手当てが一通り終われば、また失われてしまう。まだそれぞれの仕事が残っているのだ。
「……やだなあ。フィンがいないリーゼッタ班なんて、塩の足りないスープみたい」
ぼんやりした声で言うイリスの手を、メイベルが黙って握る。ルイゼンはちょっと頭を掻いてから、資料の紙束から一枚抜き取った。
「俺、軍の武器リストを簡単に見返したんだけど。フィンが実戦で強くなれるような得物を使えばいいんじゃないかと思って」
「そう単純なことじゃない。武器の扱いだって一朝一夕で身につくわけじゃないだろう。まして僕は」
「おっと、自分を卑下するようなことは言ってくれるなよ。イリスがまた怒るし、だいたい状況に応じて長いものならなんでも使えるお前に、武器の使用が難しいとは思えない。……まあ、条件に合うやつがリストにはなかったんだけど」
「無駄足か。ルイゼンらしくない」
「リストにないってことがわかったんだ。オーダーメイドって選択肢があるだろ。一緒に現場に出たいと思うなら、それも視野に入れてくれ。情報系でやっていきたいなら、俺たちの班の情報担当として動けるようにする。例ならいくらでもあるんだ、フィネーロが一番やりたいことを教えてくれれば、また閣下に訴えに行くさ」
胸を張るルイゼンに、メイベルがほぼ棒読みで「さすがリーダーだな」と言う。イリスもやっと笑って、改めて頬の傷の痛みを感じた。
フィネーロは少し俯き、口を開きかけてから、また閉じる。顔をあげてやっと言ったのは、
「少し……ほんの少しでいい。僕の気持ちはまとまっているからいつでも言葉になるが、今はそれができない事情がある。待っていてくれないか」
どこか必死な、願いだった。
「それ、レヴィ兄のせい?」
イリスが尋ねると、「違う」と即答する。
「とにかく、閣下は悪くない。悪くないのに、わざと悪者を演じている。それを手伝うのが、今の僕の仕事なんだ。だからイリス、あの人の気持ちを、汲んでやってはくれないか」
ガードナーもそう言っていた。だからイリスが納得しなければならない事態が起こっているのだと、そう思ったはずなのに。仲間をとられると思って、その理由を教えてもらえるほど信頼されていないと思い込んで、頭に血が上った。
「……うん。でもさ、仕事が済んだら、ちゃんと帰ってきてよね」
「君にそこまで期待されているなんて、光栄だよ」
フィネーロにもようやく笑顔が見えた。イリスはホッとして、それから、もう一度レヴィアンスと話をしなければと決めた。責めるのではなく、話すのだ。

結局残業になってしまったその日の仕事を終えてから、イリスは大総統執務室の扉を叩いた。すぐにガードナーが出てきて、中へ招いてくれる。まるで待っていたかのように。
執務室の机にはレヴィアンスがいて、昼間と同じように書きものをしている。こちらはまだ仕事が終わっていないらしい。余計な時間をとらせてしまったと、少し後悔した。彼だって、いや、彼だからこそ、イリスが抱えているよりずっと多い仕事があったのに。それを知っていたはずなのに。この訪問すら、邪魔になるかもしれないほどに忙しかったと、誰よりもわかっていなければいけなかったのに。
謝るために、まずは何と声をかけたらいいのか。迷っているあいだに、聞き慣れた声がした。
「何を遠慮してるんだよ、イリスらしくない」
手を止めてこちらを見ているその人の呼び方を、おかげでようやく決めることができた。
「レヴィ兄、ごめんなさい。仕事の邪魔だったよね。フィンのことだって事情が」
「そんなことより、怪我は? まだ痛い?」
用意してきた台詞を、けれども遮られてしまう。昔から変わらない、軽い口調で。
「ううん、大丈夫」
「そっか、ならいい。ていうか、昼間の闘い方は何だよ。お前の動きに慣れてるオレに対して、あんな大きすぎる蹴りはダメだろ。エイマルにはそうやって教えられるのに、なんで自分でやらないかな。あと、弱点知ってるんだから積極的に狙ってこい」
たしかに弱点は知っている。もう随分と昔のことになるが、レヴィアンスは右肩を脱臼し、左腕を折ったことがある。かつてイリスがとある事件に巻き込まれたとき、それを助けようとして負った怪我だ。以来気取られない程度に庇うようになった場所を、イリスには狙うことができない。初めは意識的に、いつしか無意識に、攻撃しないようにしていた。
「レヴィ兄にそんなことできない」
「じゃあオレには一生勝てないな。ずっとオレのいうこときいてろよ」
「ジュースだけで勘弁してやるって言ったじゃん」
「言ったっけ?」
意地悪く笑うレヴィアンスに、イリスは脱力する。何を緊張していたんだろう、この人は昔からこういう人じゃないか。――イリスの兄たちの、一人じゃないか。
「イリスさん、座ってください。閣下、休憩するなら少し栄養をとってはいかがですか」
タイミングを見計らったガードナーが、それぞれのためにグラスを置いた。イリスが持ってきたジュースが注がれている。勧められるままにソファに座ると、レヴィアンスが「レオも飲んだら」と立ち上がろうとする。ガードナーはそれをやんわりと制止した。
「ではご相伴にあずかりますから、閣下はそのまま。大総統としてのお勤めと急ぎの外出で大層お疲れでしょうし」
「今日はいいんだよ、仕事終わったら何もないし。……というわけでイリス、ジュース飲んでちょっと待ってて。片付いたらオレの部屋に行こう。ルイゼンたちも誘わなきゃな」
「部屋って、寮の? ゼンたち……ベルとフィンも?」
「そう。……あー、ゲティスさんとこのジュース今年も美味い!」
きちんと謝ることはできず、そして疑問の答えも与えられない。消化不良だが、濃いジュースはかまわずイリスの胃に落ちていった。
やがてレヴィアンスが本日最後の書類を処理し終え、空になったグラスをガードナーが片付け、誰もいなくなった執務室の明かりが消えた。

レヴィアンスの部屋に初めて入るわけではないのに、ルイゼンもメイベルもフィネーロも落ち着かない様子だ。イリスでさえとても寛げる気分ではない。ただ、部屋にふわりと広がる香ばしい匂いは懐かしかった。
台所からガードナーが、フォークとナイフを持ってきて揃える。あまりにてきぱき動くので、イリスが手伝う隙がない。
「夕飯にはちょっと軽いかもしれないけど、オレこれしかできないんだよね。材料も他にないし」
明るい声に、ぽふ、ぽふ、と音が続いて、今度は皿が現れる。四つを一度に運ぶガードナーは、さながら手慣れたウェイターだ。だがそれよりも、皿の上にあるもののほうが気になる。焼きたてのパンケーキを、ルイゼンは驚いて、フィネーロは感心して、メイベルは不審そうに見た。
「閣下、じゃないや、レヴィさん、料理できたんですね」
「こんな特技があるなんて思いませんでした」
「本当に食べられるのか?」
口々に言う三人に、イリスが当人に代わって返事をする。
「普通に、ていうか、美味しく食べられるやつだよ。レヴィ兄唯一の得意料理」
「イリスは食べたことがあるのか」
「何年も前にね」
最初は四歳の時。ある事件のせいで大怪我をして、外に出られず退屈していた日。同じく怪我をして仕事を休まされていたレヴィアンスが、インフェリア邸までやってきて作ってくれたのがパンケーキだった。曰く、これが好物である彼の母のために練習したのだとか。
以来、忙しくなるまでは、ときどき作ってくれるようになった。今日のようにフルーツソースが添えられるようになったのはだいぶ後、遠くの村からジュースやシロップが送られてくるようになってからだ。
イリスがジュースを持ってきたことで、今年もその時期が来たことを知ったのだろう。ガードナーの言っていたレヴィアンスの「外出」は、おそらくはニアたちのところに届いたシロップを貰いに行ったのだ。部屋を空けていることのほうが多いレヴィアンスのところには、その荷物は来ないから。
「ソースの材料を手に入れるために、閣下は少々怒られてきたようですよ」
「レオ、余計なこと言わない。お前の分作んないぞ」
台所ではまだ追加のパンケーキを焼いている。先に食べてて、と言われたので、そうさせてもらうことにした。柔らかな抵抗を感じながら大きめの一口分を切り分け、頬張る。――うん、懐かしい味だ。
「レヴィ兄、美味しい」
「当たり前だろ。オレが作ってんだよ?」
「唯一の得意料理なのにその自信は何なんだ……美味さは認めるが」
「つっこむなよ、メイベル。美味いものは素直に食おうぜ。お、フルーツソースが絶品!」
「僕はこういうの、初めて食べた。なのに落ち着くな」
「おかわりもすぐ焼けるからな、どんどん食えよ」
「閣下、ご自分のを用意してください。彼らと一緒に食事をするのが目的でしょう」
昼間のことなどまるでなかったかのような、温かな賑やかさ。こんな時間ばかりなら幸せなのに。実際は、食事が終わって部屋に戻り、眠って明日になれば、フィネーロのいないリーゼッタ班の日々が待っている。イリスが望まない日々が。
「食べ終わりたくないなあ」
「もうおかわりか? レオがうるさいから、一枚食べ終わってからでいい?」
「そうじゃなくて。レヴィ兄、いいかげん本題に入ってよ。わたしたちを集めたからには、言うことがあるんだよね」
「あるといえばあるし、ないといえばない」
ここまできてそんないいかげんな、と怒鳴りたくなったが、留まった。レヴィアンスの表情に疲れが見えてしまって、彼を責めるのではなく彼と話すのだということを思い出した。
「大総統として話せることは、現時点ではほとんどない。ルイゼンに説明した通り、フィネーロには班を離れてもらう。それだけだ」
「それは本当に、フィンが力不足だと思ってるから?」
「現時点ではそう判断せざるをえない。ただしそれは戦闘が必要な現場での話で、事務や見回り、単純な視察といった仕事には何の支障も出してない。それどころか非常にうまくやってくれている」
「じゃあ戻してよ」
「戦闘で動けるようになってくれないと困る都合があるからダメ。せっかくの頭脳を小班だけで使うのももったいないし」
力不足どころか、フィネーロの本来の能力はやはり認められている。しかしそれでも、急に班から外されるのは理不尽だ。徐々に仕事の配分を変えるなりしてくれればよかったのに、レヴィアンスは、いや、大総統はそうしなかった。
「情報処理担当を含む班構成ができないわけではありませんよね。どうしてその方法をとらず、突然外すことに?」
ルイゼンが切りこむ。しかし、きっと語られないだろうと思ってのことだ。フィネーロ自身が、待ってくれと言ったのだから。
「それも今後の都合があるから話せない。フィネーロにはそれを少し説明したけど、口止めしてる。時が来たら全部明かすから、それまでお前らは待って……いや、ただ待ってるだけじゃだめだな。各自備えておいてほしい。フィネーロに長所を伸ばして短所を克服してもらうあいだ、お前らも成長しておけ」
「成長、ですか」
レヴィアンスは頷き、息を吐いた。それから思い切り吸って、一気にまくしたてる。
「ルイゼンは統率力はあるが、作戦を立てるという点においてはまだ甘いところがある。これから佐官として働かなきゃいけない場面も増えるんだから、上司から学ぶなりしてもっと勉強しておけ。メイベルは頭もいいし銃の扱いにも長けているのに、すぐ頭に血が上るからそれを生かしきれていない。もっと冷静に動け。イリスはもう言ったけど、あのワンパターンな動きをなんとかしろ。相手をよく見て臨機応変に行動しないと、お前には先がない」
それぞれの胸に言葉が刺さる。だがよく考えてみれば、自分たちの弱点は今まで上手に補われていた。作戦を補強していたのは、熱くなりすぎる性格を諌めていたのは、臨機応変な行動で助けてくれていたのは。
「いつまでもフィネーロを補助にしておくな。頼るなとまでは言わないけどさ、仲間の自立を妨げちゃダメだろ」
もしイリスが、レヴィアンスに勝って、フィネーロを力ずくで班に引き留めることができたとして。その先はどうしただろう。今までそうしてきたように、それが役割だと信じ込んで、フィネーロに負担をかけ続けていたかもしれない。彼が能力を伸ばすチャンスを奪っていたかもしれない。
それだけではない。イリスたち自身が現状に甘えて、成長しようとしなかった。特にイリスには「先がない」。擦りむいた頬がじくじくと痛んだ。
「班全体のレベルアップが必要ということか。そもそも私たちは閣下が、まだ佐官だった頃のこととはいえ、自分で組ませた班だ。使えない人材を特別扱いすれば、閣下の責任問題にもなる」
「メイベルの認識で間違ってない。そういうことだから頑張って」
にやりと笑うレヴィアンスの、これまでの言葉を思い出す。イリスの知るレヴィアンスは、おそらくメイベルの言うような責任問題など考えていない。たとえ非難されたとしても、レヴィアンスが現在の地位を降りることはしばらくはないだろう。彼の立場は女王によって与えられたものだ。
未だ語られない何かがきっかけで、イリスたちが成長しなければならない必要性が急激に増したのだ。条件をクリアできれば、フィネーロはまた戻ってくる。たしかに「仲間」と言ったのだから。
悪者を演じているとしたら、レヴィアンスは大根役者だ。結局彼は彼以外の何者でもない。
「わかった、今はそれで納得しておくよ。フィンをあんまり困らせたくないし、わたしたちが文句を言っている場合でもなさそう」
時が来れば明らかになるならば、その時までに自らを磨いておかなければならない。今日のような敗北は、もう二度とあってはならないのだ。
「オレからはここまで。質問は残念ながら受け付けられないけど、パンケーキのおかわりの注文なら受けるよ」
「閣下、話してばかりで全然食べていないではないですか」
「これに限っては作る方が好きなの」
「じゃあ遠慮なく、おかわり!」
先がないなら、これから拓くまで。


アルト・リッツェがしばしのあいだ、西の大国ウィスタリアに研修に出ることになった。幸い大学の講義に影響を及ぼすことはなく、また資金繰りも考える必要がなかった。エルニーニャを離れる前にすべきことは、たった一つ。
「フィネーロ、情報処理担当も悪くないだろう。お前にはそのほうが合っている」
弟に会い、話をすること。
「……たしかに悪くはないよ。知識も人間関係も広がった」
「そのわりには不満そうな顔をしているが」
「もとの班に戻りたいからね。……兄さんは、本当は僕に軍自体を辞めさせたかっただろうけれど。それだけは何があっても受け入れないから」
「そこまでは考えてなかった。信じてくれ」
もしかしたらとは思っていたが、弟はやはり勘違いをしている。言い訳はあまりしたくなかったが、これも自分の蒔いた種だと思って諦めた。大総統が全て説明してくれれば良かったのだが、彼はそんなに都合よく動いてくれる人間ではない。
「私はお前の可能性を潰させたくなかったんだ。小班に、それもお前が後始末をしなければ成り立たないようなところに、いつまでも置いておくわけにはいかないと思った。あのままでは利用されるだけされて、いつか捨て駒になる。かつての北方司令部の不祥事の一要因と同じになってしまう」
「班の者も閣下も、僕をそんなふうには扱わない。そんなことにさせないという意志で、閣下は兄さんの出した条件をぎりぎりまで受けなかったんだ。それだけじゃない、兄さんが今でも軍に失望せず協力してくれるものと信じていた。閣下がそう言ったわけじゃないけれど、僕はそう思っている」
「どうだか。あの男は軽いようでいて、煮ても焼いても食えない厄介な奴だ。必要とあらば他国と協力して味方すら騙す」
こちらの申し出を受け入れたのだって、それが必要になったからだ。結局、全てが大総統の手の上にある。――それを思うと、弟を軍から引き離したいという気持ちは、やはりあったかもしれない。
「たしかに、閣下が兄さんの要求を受け入れたのは、これ以上交渉を引き延ばすともっとまずいことになるってわかったからだ。閣下は兄さん以外の人にも声をかけていて、必要な情報を少しずつ得ていた」
「そらみろ」
「でも、決定打を得るには兄さんの協力が不可欠だと。元北方司令部諜報部隊長の力がどうしても必要だと結論を出したんだ。そして兄さんが動きやすくなるためには、情報を受け取る僕が閣下から少し距離を置かなければならないということも」
弟の信頼を最も勝ち得ているのは、家族である自分だと思っていた。それなのにあの男は、大総統というだけで、弟の同僚と親しいというそれだけの繋がりで、こんなにも信じられている。弟をとられてたまるかと思った。どうしても手放さないのならそのまま失脚してしまえと呪った。だが、その呪いはきっと、大切なはずの弟を傷つけることになる。
大総統がレヴィアンス・ゼウスァートではなくなったなら、フィネーロが、闘うことが苦手なこの子が、今まで通り軍で生き残ることはできない。それこそアルトが恐れていた切り捨ての対象になっただろう。フィネーロが軍にいることを望む限りは、この子の立場をより良いものにするために、動くしかないと結論付けた。
アルトが得た情報をフィネーロが受け取り、自らの手柄とする。そうして弟が認められることを、アルトは選んだ。だから旅立つのだ。
「私が情報を得られるまで、周りに潰されるなよ、フィネーロ」
「潰されないよ。兄さんは、僕をいつまで子供だと思っているんだ」
けれどもアルトの認識には誤りがあった。弟はいつまでも「幼い弟」のままで、大人の庇護がなくてはならないものと、思い込んでいた。
「イリスの兄さんはイリスを認めてるのに、メイベルだって妹の成長を認めたのに、どうして僕は兄さんに認められないんだろうって思ってた。僕だって闘っているのに。弱いけれど、周りのサポートくらいしかできないけれど、僕だってもう一人前の軍人なのに!」
それが見くびりだと気づかなかった。愛情だと信じて疑わなかった。
「もういいけどね。認められなくたって、僕は僕だ。可能性を潰させたくないと本気で思うなら、兄さんはわざわざ僕のために道を作ってくれる必要はない。ただ、今回は閣下から仕事を引き受けた身として働いてほしい。弟からではなく、エルニーニャ王国軍大尉フィネーロ・リッツェからの頼みだ」
弟から最も目を逸らしていたということを、アルトは認めるしかなかった。成長していなかったのは、自分だ。
大きく溜息を吐いて、弟の頭を撫でるつもりだった手を引っ込める。
「わかったよ、リッツェ大尉。だが今回だけだ。研修期間が終わったらもう二度と頼みごとなどするなと、大総統に伝えてくれ」
「閣下ももう兄さんには頼みたくないって。だから今回の調査依頼も、当初より限定的なものになった」
フィネーロが表情を引き締めた。彼が仲間にも隠さなくてはならなかった、極秘の任務が告げられる。

「レヴィアンス・ゼウスァート大総統閣下の暗殺計画の、進行状況について報告を」



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2016年08月21日

世話焼きさんの晩ごはん

とある晩のこと。いつもなら癒しと美味しい食事を求めて行く場所で、イリスは深く頭を下げていた。その正面には、驚きと呆れが入り混じったような表情のグレイヴと、目をぱちくりさせるエイマルがいる。
「イヴ姉、お願い。こんなこと頼めるの、イヴ姉しかいないんだよ」
イリスは真剣だった。そして切実だった。なにしろ、人の生活がかかっているのだ。今までは他人の厚意に甘え放置していたが、もうその段階から抜け出さなければ。
「お兄ちゃんに料理を教えてあげてください! わたしじゃもうどうにもならないの!」
兄、ニアの料理は味が非常に残念だ。見た目はきれいで美味しそうなのに、口に含めば無味か刺激が強すぎるかのどちらかで、ちょうどいいところがない。イリスは兄が大好きだが、この点だけはどうしても頭を抱えるところだった。
ニアと同居しているルーファは、彼もまた味は普通なのに見た目が残念な料理を作りだしてしまう人で、しかしながらニアの料理を完食することができる数少ない猛者だ。彼と二人の生活なら、知り合いからの差し入れが頻繁にあったこともあり、なんとか乗り切れていた。
だが、現在は状況が違う。彼らの生活はニールという少年を含む、三人暮らしになってしまった。子供にはきちんとした食事をしてほしいと、イリスだけでなくニアとルーファも思っているのだが、今のところそれができているのはよそからの差し入れのおかげだった。あるいは、イリスが出向いて食事を用意することもある。
いつまでもそんなことでは、ニールの安全で快適な食生活は守られない。そう痛感したイリスは、家にいることが多いニアの料理スキルを上げなければならないと結論付けた。そこでダスクタイト邸に出向き、こうして頼んでいるというわけだ。
「頭を上げなさいよ。アタシはかまわないし、今まで通り差し入れをしてもいいんだよ?」
グレイヴが優しく言うが、イリスは首を横に振る。それではだめなのだ。
「お兄ちゃんたちはニールを引き取るとき、責任をとるって決めたんだよ。だからニールが健やかに育つように、自分たちで環境を整えなきゃいけない。なのにいつまでも食事をイヴ姉やアーシェお姉ちゃんに頼ってるなんて、それは違うと思うんだ」
「妹にそこまで言わせるなんて、よっぽどのことがあったのね」
そう、現に食事のことでニアとルーファが喧嘩をして、ニールが困ってしまったことがあった。ニアだって美味しい食事を自分で用意して、ニールやルーファに振る舞いたいのだ。けれども失敗して、ルーファにストップをかけられてしまう。一方のルーファも料理が得意ではないうえに、普段は仕事で帰りが遅い。これでは誰も幸せになれない。
ニアも努力していないわけではないのだが、どうにもうまくいかないのだった。
「わたしが何回教えても、お兄ちゃんの料理って美味しくならないんだよね。イヴ姉ならなんとかできないかなって思ったんだけど……」
「その状況でアタシがなんとかできるといいんだけどね。わかった、やってみよう」
「本当?!」
グレイヴの作る料理は昔から美味しい。その腕を、コツを、ニアに伝授してくれるなら、今度こそうまくいくのではないか。
「イヴ姉、大好き! お兄ちゃんのこと、よろしくね!」
「確実にうまくいくとは限らないわよ。だからそうね、できるだけうまくいくように舞台を作ろうか。エイマル、もしニールを家に招待して、みんなでご飯を食べるってことになったら、お手伝いしてくれる?」
母の頼みに、エイマルも瞳を輝かせる。手伝いができることも、友達を家に招待できるのも、エイマルには至上の幸福なのだ。
「手伝う! ねえ、そのときはイリスちゃんも来るよね」
「わたし? イヴ姉、お兄ちゃんに料理を教えてくれるだけでいいんだよ?」
「だから、そのための設定を作るのよ。ニアが力を発揮するのは、より緊張感のある場面。アタシと二人で作って味見するだけなんて、アイツにはスパイスが足りなさすぎるわ」
ニアの料理はよくスパイス過多になるので困っているのだが、という言葉を呑みこんで、イリスは頷く。
「ポイントはみんなでってところね。ルーファもニールもここに連れてきて、食事会をするの。エイマルもいるから、ちゃんと食べさせなきゃいけない子供は二人。よりたくさんの人に振る舞うというプレッシャーの中、しっかりと料理を覚えてもらう。もし失敗したらアタシと父さんでフォローできるわ。イリスがいてくれると、人手が増えて助かるんだけど」
「そういうことなら……。そういうの、楽しそうだし」
「じゃあ決まりね」
グレイヴが微笑み、エイマルが喜んではしゃぐ。なるほど、この状況なら、そもそもニアは誘いを断れないだろう。逃げ場を封じるところから始めるとは、さすがニアの元同僚だ。それも厳しい方の。
話し合って予定を合わせ、当日は「ダスクタイト家の食事会に招待する」という名目で集まることにした。ニアの仕事も、最近はうまく調整ができているようなので、この食事会が支障になることはないだろう。念のため探りは入れておくけれど。
こうしてニアの料理スキルを上げよう作戦が幕を開けた――のだが。

エルニーニャ王国軍中央司令部、大総統執務室。今日は仕事が残ってしまったので、レヴィアンスが一人で片づけをしている。補佐を帰らせたのは、なにも自分のポリシーのためだけではない。今ここにある仕事が、レヴィアンス一人でなければできないものだからだ。
「……以上三件、最近起こったエルニーニャ国内での危険薬物関連事件だよ。北と通じるルートは今のところ確認できていないけど、東方諸国のほうが気になるね。もしかしたら遠回りをして、ノーザリアとの道を作っているかもしれない」
国内での事件はほとんど全て解決済みということになっている。だが危険薬物関連事件に限っては、詳細を知り、その対応が適切であったかどうかを確かめたいという人物がいる。レヴィアンスは大総統になってから、いや、もっとずっと前から、彼に協力していた。
大陸に蔓延する危険薬物事件に異様な執着を見せる、ノーザリア王国軍大将、ダイ・ヴィオラセントに。
「こっちでは東方経由ルートは確認できていない。だが、調べる価値はありそうだな。そっちで捕まえたという売人から話を聞きたい」
「わかった、手配しておくよ。……てことは、近々こっちに来るんだね、ダイさん」
「ああ。ちょっと時間ができそうだから、娘の顔も見たいんだ。三日は滞在したい」
「一泊はグレイヴのとこにしなよ。もう一泊は仕事の進み具合によりけりだね。いつもみたいにオレの部屋に泊まるもよし、大総統室で夜を明かすのもよし」
「できればベッドに寝たいな。美味い食事と美味い酒も頼む」
「食事はグレイヴに頼みなよ」
笑いながら電話をするレヴィアンスとダイは、もちろんイリスたちの企みを知らない。今のところは。


食事会を翌日に控えたその晩、イリスはとった受話器をを危うく落としそうになった。電話の向こうではグレイヴが溜息を吐いている。
「ダイさん、明日来るの?! レヴィ兄はそんなこと言ってなかったけど……って、それはわたしが遠征任務いってたからか……」
「いつも急に連絡してくるんだから。そういうわけで、明日はダイもいるわ。ニアの緊張感はより高まっていいと思うけど、ニールは大丈夫?」
「人見知りするかもしれないね。レヴィ兄にもいまだに遠慮してるのに、いきなり隣国軍の大将に会うんだもん」
でも、たしかにニアには効果的かもしれない。尊敬する先輩であるダイの前で失敗はしたくないだろう。ニールはイリスが見ていれば良い。エイマルがいてくれるから、彼の人見知りも多少マシになるのではないか。
「まあ、ニールは大丈夫としても……ルー兄ちゃんが胃薬必須になったりして。相変わらずダイさんは苦手みたいだし」
「そう、それはアタシも考えたのよ。だから胃に優しいメニューにしようと思って」
「……そういう問題かなあ。お兄ちゃんが手を加えたら胃に穴開かない?」
「そうさせないようにするわ。父さんとも相談したから、あとはアタシたちを信じなさい」
信じるしかない。そうでなければ未来は拓けない。受話器をぎゅっと握りしめ、相手に見えないのに勢いよく頭を下げた。
「よろしくお願いします!」

ダスクタイト邸もファミリー向けマンションの一室だが、ニアたちが住んでいる部屋より広く、通路に余裕があって、段差がほとんどない。現在、ここに住んでいるのは、ブラック、グレイヴ、エイマルの三人だ。イリスが遊びに行ってもまだ部屋の中はスペースが余っている。
それが今日、一気に埋まる。イリスが来て、ニアとニールが来て、あとから仕事終わりのルーファが合流する。ダイも一仕事してから、レヴィアンスを連れてくるそうだ。どうやらレヴィアンスは、今日の話を聞いて、面白そうだとのってきたらしい。とはいえ、みんなで食事会をするということくらいしか知らないはずだ。
「どうせだからと思ってアーシェも誘ったんだけど、手がはなせないって」
「アーシェお姉ちゃんも来たら、昔の第三休憩室みたいになってたね。わたし、はっきり憶えてるんだよ。お兄ちゃんたちがゲームしたりお茶飲んだりしてるの」
懐かしいなあ、と呟きながら、本日使う材料を用意する。ニアが抱えている問題は味にあるので、切るものは切ってしまう。色とりどりの野菜や、数種類の肉や魚が、小鉢に分けられてずらりと並んだ。
「準備はこんなものかしらね。イリスの出番はここまでよ、ニアを呼んできて」
「はい!」
ニアは居間で、ブラックと話をしていた。その傍らでエイマルが、ニールに勉強を教えてくれている。微笑ましい光景だ。このまま平和が続けばいいのだが。
「お兄ちゃん、イヴ姉が呼んでるよ」
「うん、わかった。それでは話の続きは後で」
席を立って台所へ向かうニアの背中を見送って、かわりにイリスが着席する。エイマルに教わりながら計算の問題を解いているニールに目をやり、しかし声はブラックへ。
「お兄ちゃんと何の話してたんですか?」
「大したことじゃない」
二人の共通の話題といえば、親の話か、子供の話か。

たくさん並べた材料はさておいて、グレイヴがニアの目の前に置いたのは土鍋だった。ニアの家にもあるが、使う機会は冬に鍋物をするときくらいだ。
「今夜はお粥を作るわよ」
「お粥? それで僕を呼んだの?」
「そうよ、一緒にやらなきゃ覚えないでしょ。これなら簡単だし、個々に好きな具をのせたり調味料を足したりして味を調節できるから、アンタでも作れるはず」
最初からそのつもりの食事会だったのか、とニアはやっと思い至った。料理が下手な自分のために、グレイヴが、いや、おそらくはイリスが考えたのだ。さっきから妙にそわそわしていたし。
「そうだね、お粥なら……ご飯ふやかせばいいんだよね」
「あのね、アンタお粥がなんだかわかってる?」
早速呆れられてしまった。謝ってから手順を確認し、指示通りに進めていくことになった。
ところがその指示が、なんとも細かい。ご飯の量、水の量、塩までも「適量」という言葉は絶対に使わない。調理器具で量らないにしても、一つまみの加減を覚えろ、とグレイヴがとった分量を指に覚えさせられる。
「ええと、味見しながらじゃだめなのかな。匂いとか」
「それができれば教えてないわ。アンタは味覚があてにならないんだから、分量をきっちり量って覚えて、その通りに作ることに専念して。頭良いんだから覚えられるわね?」
キ、とグレイヴに睨まれると、「はい」以外の返事は出てこない。まずは分量をしっかりと量るべし。
「今日はお粥自体は薄味で良いの。具材をたくさん作って、食べる人に自分で選んでもらいましょう。もちろんこの具は普段のご飯のおともにもできるから、しっかり覚えなさい」
お粥をコトコト煮こんでいるあいだに、具を用意する。もちろんこちらも調味料はしっかりと量り、記憶していく。
ちゃんとアンタのところの好みは考えたつもりよ、とグレイヴは言う。しょっちゅう差し入れをしてくれるのだから、よくわかっている。それを改めて数値化されると不思議な感じがするが。
「グレイヴちゃんは……アーシェちゃんもか。自分の家のことだけじゃなく、うちのことまで考えて、ご飯を作ってくれてたんだよね。ありがとう」
「放っておけなかっただけよ、だって不器用なんだもの。でも甘やかしすぎたわね。アーシェはともかく、アタシは年上ぶりたかっただけだし。もっと早くに、ちゃんと教えておけば良かったんだわ」
「甘えてたのは僕たちだから。……なんだか最近、いいところないな。イリスには迷惑かけっぱなしだし、ニールも困らせてるし」
「イリスはしっかりしてるわよ。ここ一年は特にね、お兄ちゃんに負けないようにって」
もうとっくに追い抜かされているような気がしていたのに。困ったようにニアが笑ったそのとき、呼び鈴の音とにぎやかな声が聞こえた。

「ただいま」
「お父さん、おかえりなさい!」
久方ぶりに帰ってきたダイの両手は、エイマルを抱きしめるためにあけてあった。荷物は後ろの二人、一緒に仕事をしていたレヴィアンスと、道中で会ったらしいルーファが全て持っていた。
「また少し背が伸びたか?」
「ちょっとね。レヴィさんとルーさんもいらっしゃいませ。イリスちゃんたち来てるよ」
「よっ、エイマルちゃん。おじゃまさせてもらうよ」
「おじゃまします。……ダイさん、エイマルちゃんにお土産渡さなくていいんですか」
「渡すに決まってるだろ。エイマル、ノーザリアの新しいお菓子だ。あとで食べなさい」
ルーファから奪うように受け取った袋を、エイマルに差し出す。元部下の扱いも、娘への愛情も、変わりはないようだ。それを遠くから確認してから、イリスも玄関に出ていった。
「みんな、おつかれさま」
「やあ、イリスも……背が伸びたなあ、また……。もうニア越えてないか?」
「それがもうちょっと足りないみたいで。どーんと抜かしたいんだけどね」
「相変わらず怖い妹だな。エイマルに変なこと教えてくれるなよ」
笑いながら娘に手を引かれるダイは上機嫌だ。一方、普段から電話でダイとやりとりをしているレヴィアンスはともかく、絡まれるのが久しぶりだったルーファには疲れが見える。予想通りの展開だった。
「今日の料理当番は? お母さんか、それともおじいちゃんか? 良い匂いがする」
「ホントだ。この家のご飯美味しいからいいよね」
「イリスも手伝ったのか?」
「ちょっとだけ。今日の夕食を作ってるのは、イヴ姉でもブラックさんでもないんだよ」
居間に全員が揃ったところで、イリスはエイマルと顔を見合わせる。それからニールに目配せして、ダイたちの前に来させた。
緊張して上ずった声で、ニールが言う。
「あ、あの、はじめまして。ニアさんとルーファさんのお世話になっている、ニールっていいます」
「はじめまして、エイマルの父親のダイだ。話には聞いてたけど、本当にもやしみたいな子だな」
「うちの子をもやしとか言わないでくれますか。……あれ? ニール、ニアはどこだ」
「あ、あの、もやしですみません。ニアさんは、台所に……」
あたふたと、ダイとルーファの両方に答えようとしたニールを、しかしブラックが呼び戻した。そして続きを引き取る。
「人んちの子供に大人げねーな、ダイ。アクトに報告するぞ。ニアは台所で、今日の飯当番だ。さっさと席について大人しく待て」
イリスはそのとき、はっきりと見た。一瞬にしてルーファとレヴィアンスの顔色が変わり、「騙された」とでも言いたげに口をぱくぱくさせるのを。そしてダイは、どこにかかるのかわからない呟きを漏らした。
「まいったな」

まもなくして台所から運ばれてきたのは、大きな土鍋。ニアがテーブルの真ん中にそれを置くと、ルーファがおそるおそる尋ねた。
「……鍋物?」
「ううん、お粥」
蓋を開くと、ごく普通の真っ白な米がとろっと煮られていた。これだけならひとまず安心してよさそうだ……とでも思ったのか、ほっと息を吐く声が聞こえた。イリスは兄の表情を盗み見るが、ただただ緊張しているようで、内心を窺い知ることはできなかった。
「ただのお粥じゃないわよ」
グレイヴが大きな盆に、小鉢をたくさん載せてきた。色とりどりのおかずが少しずつ盛られているそれをずらりと並べると、なかなか壮観な光景になる。「なるほどね」とダイが頷くように、この家ではそう特別なメニューではない。イリスも何度かご馳走になっている。
「小鉢のものを、お粥に好きにのせて、一緒に食べて。色々作ったのよ、ニアが」
「これ全部ニアが?」
「見た感じ美味しそうだよね」
でも味は、という言葉をレヴィアンスは呑みこんだのだろう。いつもはそうだが、はたして今回はどうだろうか。こればかりはイリスにも予想できなかったが、グレイヴの不敵な笑みで心配はなくなった。
ここで夕食をいただくとき、いつも見る表情だ。
「いただきます!」
イリスが躊躇うことなく真っ先にかかれば、みんなそれに続く。ニアはその様子を見守っている。こんなに緊張しているのは、いったいいつ以来のことだろう。
よそったお粥に、具をちょんとのっけて、れんげで掬って口に運ぶ。はふはふしながら舌で味を確かめ、それから思わず周りを見た。――たぶんみんな、同じ感想を持っている。
「ど、どうかな。ニール、食べられる?」
あるときはとても咀嚼の難しいものを作ってしまい、またあるときはまったく味のしないものができた。食事の面ではニールに度々苦労をかけてしまっていた。今日のことは、それを見兼ねたイリスが頼んでくれたのだろうが、それが無駄になっていやしないだろうか。余計なことはしていないつもりだが。
ニールはイリスと見合わせていた顔をニアに向けた。
「美味しいですよ」
ふにゃ、と笑った顔は嘘ではない。
「美味しいです。僕、これ好きです」
「……!」
イリスもニールと同意見だった。グレイヴの指示通りに作ったとはいえ、これまでとは比べものにならないものが出てきたことには違いない。そもそもこれは、いつものグレイヴの味とは微妙に異なっていて、……そう、どこか実家の味に近いのだ。
もしかしてそれも織り込み済みなのだろうか。イリスがブラックに視線だけで尋ねると、それだけで言わんとしたことは通じたようで、小声で「聞いてきたからな」と返答があった。
「グレイヴちゃん、やったよ! ありがとう!」
「ね、ちゃんとやればできるでしょう。アンタは数字を味方にできるんだから、自信持ちなさい」
自分で感激するニアに、得意げに言ってから、グレイヴはイリスに微笑んだ。感謝を込めて頷いてから、イリスは二口目を掬う。耳には異口同音に感想が届いた。みんながニアの作ったものを、「美味い」と食べている。そのことが嬉しくて、誇らしい。
「本当に美味いよ、これ。グレイヴ、ニアに何したのさ?」
「何か技とかあるのか? 今後も再現可能なもの?」
「もちろん。そのために教えたんだから」
「でも、教わって本当にできるなんて思わなかった。僕はまだ自分で信じられないよ」
ニアも自分で食べて再び感動している。それを見て、ニールがまた嬉しそうに笑った。これから、こんな機会が増えるんだろう。みんなが幸せになれる、そんなときが。
「……あ、ダイさんはもやしたくさん食べてくださいね。美味しいでしょう、もやし。グレイヴちゃんに教わって、一番美味しくなるように作ったんですから」
「ニア、お前さっきの聞いてたのか」
ダイがニールに「もやし」と言った、あのときだろう。台所はすぐそばなのだから、聞こえていない方がおかしい。ルーファが先に文句を言って、ニールが謝ってしまったので、イリスは口出しできなかったのだが、あれはさすがにカチンときた。
ところが、ニアはにっこりして言う。
「聞こえてましたよ。もやし、美味しいですよね。人に言うからには、ダイさんももやし好きなんですよね」
そうしてダイの器にもやしをどんどん追加していく。ニアなりの仕返しであり、ニールが謝る必要はないという証明もしている。実際、もやしの和え物は美味しかった。
「あれ聞いて、もやしだけはなんとしてでも美味しくしなきゃって、気合入れたのよ。ニアは本当にニールを大事にしてるのね」
グレイヴがそっと耳打ちして、イリスも目を細める。
――やっぱりお兄ちゃんは、わたしの自慢のお兄ちゃんだった。
大切なものは何が何でも守り抜く。昔とやり方は変わっても、根本的なところはそのままなのだ。イリスの大好きな、兄のまま。
だから苦手な料理も克服できたのだろう。そしてこれからも、困難を乗り越えていくんだろう。

食事会を終えて、イリスはニアとルーファ、ニールとともに帰路についた。ルーファの運転する車で、寮まで送ってもらうのだ。同じく寮に帰るレヴィアンスも同乗する。ダスクタイト家の人々はダイと一晩、家族の時間を過ごす。
「今日は楽しかったー。お兄ちゃんのご飯も美味しかったし、ニールとエイマルちゃんの笑顔が見られたし。わたしは大満足」
後部座席でイリスがしみじみと言うと、助手席のニアが振り向いた。
「僕も楽しかったよ。自分が作った料理を褒めてもらえて嬉しかった。またグレイヴちゃんが色々教えてくれるって言ってたから、レパートリーをもっと増やすよ」
この言葉が聞けたなら、作戦は大成功だ。今後はニアの料理の心配は減るだろう。
「期待してるぞ。ニアが頑張るなら、俺も頑張らなきゃな」
「ニアが美味しいの作れるようになったら、オレももっと美味い酒持って遊びに行くよ」
「レヴィは仕事してろよ」
「あ、あの、僕はたくさんの人と一緒にご飯食べるの楽しいです。大総統閣下も来てください」
「ほら、ニールもこう言ってることだし」
「閣下って呼ばれてるじゃないか。距離置かれてるんだぞ、それ」
賑やかな車内、賑やかな食卓。イリスはこの空気が好きだ。いつか何度も加わった、兄たちの集まりの中にいるようで。――実際、そうだ。第三休憩室ではないが、たしかに幸せな場所だった。
「またみんなでご飯食べようね。今度はアーシェお姉ちゃんたちも一緒に。ドミノさんたち呼んでもいいね」
「パーティだね。そうだね、それくらいできるようになりたいな」
未来の夢が、また一つ増えた。



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posted by キルハ制作委員会 at 13:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 小ネタ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする