2016年09月24日

咆哮の序

「成長したようね、あの子」
ティーカップを優雅に傾け、女王オリビア・アトラ・エルニーニャが微笑む。名目上、エルニーニャ王国に君臨するのは王であるのだが、今代王宮の実権を握っているのはその妻である彼女だ。昔から王宮に仕えてきた家であるパラミクス家から輩出され、政に関わりながら王宮近衛兵の長としての役割を果たしている。
向かいに座るレヴィアンスを、ゼウスァートの名で大総統の地位に就けたのもオリビアだ。軍と王宮の立場は対等になったことになっているが、そういう経緯がある以上、彼女はレヴィアンスより一段高いところにいる。明言しなくとも、レヴィアンスはそう感じていた。
「あの子って?」
「イリスちゃん。補佐、よく務めているそうね。先日うちの子が視察に行ったら、練兵場でこてんぱんにされちゃったって」
「げ、来てたの……。しかもイリスが暴れてるときに……」
オリビアのいう「うちの子」こそ王宮近衛兵で、ときどき軍施設を訪れている。軍内の動向を抜き打ちで見るためなので、大抵は予告なしに来て挨拶もなく去っていく。レヴィアンスが会えば普段司令部にいる人員ではないと見抜くことができるのだが、イリスはそうもいかない。同じ軍服を着て、国章と階級章をつけていれば、それは等しくエルニーニャの軍人とみなす。全員を覚えてはいないのだから仕方がない。
侵入者であれば挙動でわかることもあるが、王宮近衛兵の仕事に抜かりはないのだった。
「かつて失われた信頼を、あなたたちは着実に取り戻している。そのまましっかりね」
「仰せのままに、女王陛下」
言葉とは裏腹に、行儀を無視して紅茶を飲みほしたレヴィアンスに、オリビアはクスリと笑った。
その表情のまま、次の言葉を聞く。
「……で? 今日の用事ってなんなのさ。本題に入ってもらおうか」
「相変わらず王宮での雑談は苦手なのね。早く帰りたいところを、付き合ってくれてありがとう」
レヴィアンスは最初からこの瞬間まで、とうとう笑みを見せることはなかった。


ジュースにシロップ、ジャムに……それから酒。兄の家のテーブルにぞろっと並んだ瓶を、イリスは今年もうっとりと眺める。
「あーあ、わたしも早くお酒飲める歳にならないかな。お兄ちゃんと一緒に飲みたいなー」
「終わらない酒盛りになりそうだな。その日が来るのが怖い」
ルーファの不安をよそに、瓶の一つを手に取ってみる。果実酒がとぷんと揺れて、きらきらと輝いた。ニアたちが美味しそうに飲むこれは、毎年時期が来ると送られてくる。作っているのはセパル村の村長とその秘書だ。
「今年は特に自信作だぜ、だって。ゲティスさん、毎年そう書いてくるよね。農産物の出来がいいのは良いことだけど」
「ジュースが去年より多めなのは、ニールのこと聞いたからかな。ていうか、報告したの?」
「うちからはまだ教えてない。教えたとすればレヴィじゃないか? しょっちゅう連絡とってるんだろ」
一緒に届いた手紙を読みながら、ジュースをコップに注ぐ。ニールに渡すと、いただきます、と言ってから口をつけた。
「わ、味が濃い」
「この味が癖になるんだよ。シロップは料理に、ジャムはパンやヨーグルトに。色々使ってたらあっという間になくなっちゃう。わたしなんかジュース目当てにここに通い詰めたもんね」
季節の贈り物に感謝して、ニアが早速手紙の返事を書き始める。ルーファは瓶を種類ごとに片付け、その途中で一つだけ蓋にマークをつけていた。ルーファ専用の、酔い覚ましの薬草水だ。これがないと酒豪たちの宴会に付き合えない。
「そういえばイリス、最近レヴィはどうなんだ。うちに来ないってことはかなり忙しいんだろ。ダイさんとやってた仕事は片付いたのか」
「レヴィ兄? うん、それはダイさんがこっちにいるうちにやっつけちゃったみたい。今忙しいのは、また別の仕事」
酒豪の一人は、しばらくここに来ていない。週の半分は飲みに出かける、というのは変わっていないのだが、それがプライベートではなくなった。詳しいことはイリスも教えてもらっていないので、難しい案件なのだろう。大総統補佐見習いといえども、イリスは尉官。大総統であるレヴィアンスとは大きな差がある。特別に仕事を任せてもらうことや、あまりに忙しい時に仕事をいくらか引き受けるということはあるけれど、通常レヴィアンスは階級相応に仕事を振り分けている。大総統に距離が近いからといって全ての情報を知ることができる、というわけではない。
「昔、レヴィが自分で言ってたよね。大総統の子だからって何でも知ってるわけじゃないって。レヴィもそれなりに線引きしてるんだろうな」
「お兄ちゃんの言う通り。でもレヴィ兄の判断基準ってときどきわかんないから、納得できないときはガードナーさんにこっそり聞くんだ。じゃないと変に仕事溜めこむんだもん」
だが今はその時ではない。イリスが踏み込んでもどうにもならない、むしろ邪魔になりそうだと思ったときは、あえて動かない。その加減を二年以上かけて心得てきたつもりだ。
「イリス、良い部下になったな。レヴィも上手く育てたもんだ。ほら、ご褒美」
「え、いいの? ありがとう!」
小さな瓶のジュースを一本。ルーファから受け取って、イリスは喜ぶ。これは明日大総統執務室に持って行こう。誰への「ご褒美」なのか言わなかったのは、きっとそういうことだと思うから。
疲れたときは、甘いものがいい。

夜の街、昔からあるとある店の奥。隠し扉のついた壁に区切られた個室が、最近のレヴィアンスの「仕事場」だ。王宮関係者が利用する特別な店、の噂はかねがね聞いていたが、実際に来たのはオリビアからの話を聞いてからだった。
――本来ならすぐに教えるべきだったのでしょうけれど。報告が遅れてしまって申し訳ないとは思っているわ。
国政など、国を運営する柱に関わることは、王宮と軍と文派の三派で連携をとりあう。そのために定期的に、あるいは少しでも重要だと思われることについては三派会を開くこととする。先々代大総統ハル・スティーナと先王、そして先代大文卿のあいだで交わされた約束だ。もとは王宮と文派が軍の動きを把握するために提案したことだが、それが今回、王宮の側で即座に機能しなかった。
――すぐに話せなかったのは、私たちがどう出るべきかをすぐに結論付けられなかったから。あなたが頑張っているのはよく知っているし、だからこそ結果も出ている。でもね、物事がうまく運びすぎていると、疑う人と信じすぎる人が出てくるの。
それはよくわかっているつもりだった。狂信者、と表現できる一部の人々の動きが警戒レベルに達すると起こりうる危険を、レヴィアンスは身をもって知っている。だからこそ国内に乱立するあらゆる組織を可能な限り把握してきた。国外に目を向けなかったわけでもない。だが、どうやらあと一歩足りなかった。
西の大国から報告があったという。そこで活動していたとある団体が、エルニーニャの動きに注目している。正確にはエルニーニャ軍を。北の大国の軍の長と懇意にあり、南の大国との関係も良好で、東方にも目をかけているらしいというレヴィアンス・ゼウスァートの動向を、異様に気にかけているのだ。
レヴィアンスが何をしたというわけではない。南のサーリシェリアとはもともと友好で、北のノーザリアにはダイがいる。東方諸国とのつながりは親たちの代で得られたものを引き継いでいるのであって、他意はないのだということは東のイリアに説明済みだ。――それを「西がおざなりな扱いをされている」ととられたのかもしれない。
まさかそのウィスタリアの一部団体とやらは、エルニーニャが他国と一緒に攻めてくるとでも思ってんの? 冗談で言ったレヴィアンスに、オリビアは溜息交じりに返した。
――そうではないようなの。むしろその逆ね。あなたのやり方を妄信していて、ウィスタリア政府にも同じ対応を求めたり、エルニーニャの行く末に手出しをすることも考えられるそうよ。あちらが公式のかたちをとらず、私に密かに報告してきたのは、彼らに動向を探られたくなかったから。
大国同士のやりとりは、必ず五カ国会議というかたちをとることになっている。それができないほどの事態を、ウィスタリアの「団体」の目的を正確に把握しておきたい。オリビアとレヴィアンスの考えが一致した結果、こちらも密かに動くこととなった。
それには協力者が必要だ。王宮でも軍の人間でもない、もう一つの立場の協力者が。
「学術目的以外で他国に行くのは気が進まないと、ずっと申し上げているはずですが」
しかし正面に座る男の表情は、相変わらず苦々しい。
「学術調査でいいから、何かヒントをくれると助かるんだよ。女王もオレも動けないし」
「文を他派に、そんなかたちで利用されたくありません。大文卿も同じ考えだと思いますよ。私たちの立場はあくまで対等。王宮から依頼されたとしても答えは同じです」
眼鏡の奥の瞳は冷たい。だが何一つ間違ったことは言っていないので、レヴィアンスの交渉は進まない。
「ただし、弟を今の班から外してくれるのであれば、私個人としては考えないこともない」
「だからそれはできないって言ってるだろ」
「ならば私も了承できません。……いつまで無駄な時間をとるつもりですか、閣下」
顔はそっくりなのに、敬意どころか容赦ない。彼の「弟」との差はどこで生じたのだろう。
研究者であり若くして大学で教鞭を振るう彼、アルト・リッツェ准教授は、レヴィアンスの部下でイリスの同期の、フィネーロ・リッツェの実の兄だ。実際、大学での職についたのは二年前のことで、それまでは彼も軍に属していた。北方司令部の上層にいた彼は、しかし、北方で起こっていた汚職に気づけなかったことの責任を感じ、軍を退いたのだった。
レヴィアンスとは同い年だが、年齢をごまかして入隊したレヴィアンスから見て、アルトは二年後輩になる。だが彼はこちらに少しも敬意をはらっていない。レヴィアンスとてそんなものが欲しいわけではないが、かなり苦手な部類の人間であることには間違いなかった。
「西で何が起こってるのか、ちょっと見てきてくれるだけでいい。資金はもちろんこちらから出す」
「大した利もなくスパイ活動なんかごめんですよ。……このやりとり、何度目か覚えていますか? あまり頭の出来はよくありませんでしたよね、閣下は」
こちらをじとりと睨みながらグラスを傾けるアルトに、レヴィアンスは否定を返せなかった。こちらもグラスを空にして、再び酒で満たす。この個室を使うための鍵、女王のキープボトルは、高級で美味いがどこか苦い味がする。
「弟を閣下お抱えの危険な班から外してくれれば動くと、私は申し上げている。けれども閣下はそれはできないと仰る。弟がいないと班が困るだのなんだの……たしかに困るでしょうけれどね、あの子だけが賢く理性的に動けますから」
このブラコンが、と思いながらも口にはしない。機嫌を損ねることはないだろうが、開き直られる可能性は十分にある。
「今夜ももう遅い。次は弟の今後について決めてから呼び出してください。私も研究や講義の準備があるので、暇ではないんですよ」
何も動かないまま、今日もタイムリミットを迎えた。アルトが出ていった部屋で、レヴィアンスは一人、深い溜息を吐いた。


昼休み、昼食をとっている最中に、フィネーロがぽつりと言った。
「兄が帰ってきているらしい」
「兄ってどの兄だよ」
すかさずルイゼンがつっこむとおり、フィネーロには兄が三人いる。それぞれ地方に行っていたり、首都にいても実家からは離れていたりして、めったなことでは帰ってこない。今回実家に戻っているのは、長兄のアルトらしい。
「父とともにレジーナ大で働いているから、最も家に近くはある。でも、だからこそいつでも帰ることができると言って帰ってこないのがアルト兄さんだ。何かあったのかもしれない」
「フィンの一番上のお兄さんって、たしかレヴィ兄と同い年だよね」
「おそらく、兄のほうが二つ下だが?」
「おっと……そうだったそうだった」
うっかり滑らせた口を、イリスはパンを齧って塞ぐ。レヴィアンスが軍では年齢を二歳ごまかしているということは、一部しか知らない秘密だ。イリスは幼い頃から知っているが、フィネーロたちがそれを知る術は本来ならばない。だいたいにして、大総統が年齢詐称していることなど公になっては困る。
「どれもみんな同じ顔で真面目な、大層な兄君だったな。私のことを快く思っていない人たちだ」
メイベルはフィネーロの兄たちに会ったことがあるというが、印象はよくない。育ちがリッツェ家の人間と付き合うのにふさわしくないと言われたことがあるそうだ。
「全員がそう思っているわけではない」
「どうだか。私が信頼できるリッツェの人間はフィネーロだけだ」
相変わらず、メイベルの褒め方はわかりにくい。呆れたように溜息を吐くフィネーロを見て、イリスは苦笑いした。
「うちのお兄ちゃんたちは平気なのにね、ベル」
「イリスの兄君は男性的な感じがあまりしないからな。ルーファさんはルイゼンと同じ雰囲気ですぐに慣れた。閣下は……まあ、閣下だ。しょっちゅうイリスを一人占めするのは解せないが、存在を許せないわけではない」
いつも通りの少々過激な台詞のあと、メイベルは首を傾げた。ルイゼンとフィネーロも気がついて顔を見合わせる。イリスだけがきょとんとして、パンを咀嚼していた。
「……閣下、最近イリス呼ばないな」
「ああ、一時期はこうして昼食を共にすることすらままならなかったのに」
そういうことか、と飲みこんだ。たしかにイリスが仕事を手伝っているときは、このメンバーで集まることも難しいくらいに、大総統執務室にいる時間が長くなる。それが急に減ったのは、レヴィアンスがイリスに任せられないような大変な仕事に関わっているということなのだが、その詳細は今のところ見えてこない。とりあえず忙しいのだろう。隙を見てガードナーに様子を確認しなければ。
「イリスがとられないのは喜ばしいことだ。私にはイリスさえいればいい」
「ベルってば。四人揃ってこそのわたしたちでしょ。素早く動けるベルがいて、作戦を考えるフィンがいて、この超絶強いわたしがいて、リーダーのゼンがそれをまとめる。レヴィ兄が直々に組んだ、最高の班だよ」
にい、とイリスが笑うと、他の三人も頷いて笑顔を浮かべた。
イリスたちが軍に入隊してまもなく、一年早く軍にいたルイゼンと一緒に行動するように、当時佐官だったレヴィアンスが指示した。年月が経つに従って、上司についてではなく、四人だけで仕事を任されるようにもなった。軍できちんと実力を認められている班になったと誇れる。
それを崩す要素があるなんて、今まで思いもしなかった。
「ああ、いたいた。リーゼッタ少佐、リッツェ大尉。閣下が呼んでいますよ」
食事を終えたところで声をかけてきたのは、つい先ほど話を聞きたいと思っていたガードナー大総統補佐大将だった。だが、用事はイリスにではないようだ。
「俺とフィン……リッツェにですか?」
「わかりました、すぐに参ります」
呼ばれた二人も怪訝な表情で応えている。イリスは眉を寄せ、ガードナーに駆け寄った。
「ガードナーさん。レヴィ兄……じゃない、閣下は忙しいの? ゼンとフィンに何の用?」
袖を引っ張りながら尋ねると、ガードナーは困った表情で、しかし微かに笑みを見せた。よく一緒に仕事をするイリスには、これが慰めのための笑顔であるとすぐにわかる。
「閣下はちょっと難しい問題に取り組んでいます。どうか気持ちを汲んであげてくださいね」
やはり詳細はわからない。けれどもなにか、イリスが納得しなければいけない事態が起こっていることだけは、たしかなようだった。
いってくる、とガードナーについていったルイゼンとフィネーロを見送りながら、イリスは胸騒ぎを感じる。察したメイベルが、「上位二人を呼ぶなら任務じゃないか」と軽い調子で言った。

はたしてレヴィアンスが出した結論は、思った通り、ルイゼンには受け入れられなかった。普段は班員の暴走を止めてくれる、他人を気遣った大人の振る舞いができる彼なのだが、今回ばかりは取り繕えないようだ。
「そうなる理由をちゃんと説明してくださいよ! 俺たちを班にしたのはあなただろう?! それをまた、どうして勝手に……!」
良く通る声は、ここが大総統執務室でなければ、外にも響いていたかもしれない。今は重厚な扉と壁に遮られているが、ガードナーとフィネーロが黙りこくっているこの場では十分すぎる声量だった。
「勝手で申し訳ないけど、班を組ませたときとは状況が違う。リーゼッタ少佐はリーダーとしてよくやってくれてるし、インフェリア、ブロッケンの両中尉は実戦に適応できる力を伸ばしてきた。問題行動を起こさなければもうちょっと階級を上げてもいいくらいだ」
でも、と言葉を切る。憤慨するルイゼンの隣で、フィネーロはただ静かに直立していた。最初の一瞬こそ瞠目したものの、そのあとは冷静そのものだ。もしかすると、敵に回すと兄よりも厄介なのではないだろうか。――少しは喚いてくれた方が、こちらもやりやすかったのに。本当に苦手な兄弟だ。
「……でも、リッツェ大尉は実戦向きじゃない。リーゼッタ班の売りは攻撃力と機動力のつもりだったんだけど、大尉は情報処理班にまわした方が適切なんじゃないか。こう言っちゃなんだけど、武器を扱うのが未だに得意じゃないから、相変わらずあんな特殊なやり方で現場に出てるんだよね?」
フィネーロの武器は「紐状の物」。ロープやチェーン、長鞭などを場合に応じて使っている。足止めや捕縛などに役立ってはいるが、所詮単独では戦力不足なのだ。それは入隊時からわかっていたことで、それでも彼はその頭脳と軍人養成学校出身という経歴を買われてここにいる。
リーゼッタ班の参謀として働いてきたが、現場で動くためには少々他の三人と差が開きすぎてきたと、きっと本人が一番わかっていた。
「フィンは俺たちの仲間です! 絶対にこの班になくてはならない存在なんです! それをなんで今更」
「今だから、でしょう。……ルイゼン、喉が嗄れる。あまり叫ぶな」
フィネーロは自らルイゼンを制止し、まっすぐにレヴィアンスを見返してくる。ここ最近見ている瞳と同じ色をしているのに、それよりもほんの少し感情が見える気がした。
「僕が班から外れるのは、仕方のないことです。リーゼッタ班にはそぐわないと、認めます」
微妙に震えた声も、言葉にせず語っている。――悔しい、と。
「じゃ、今日これから情報処理室に詰めてもらうことになる」
「これから?! あまりに急すぎます!」
「さすがに仕事が迅速ですね、閣下。僕もそのほうが変な感傷に浸ることがなく助かります」
「フィン、お前……」
まだ何か言いたそうなルイゼンを、ガードナーが見やった。それが退出命令の代わりだ。これで用事は終わってしまったのだ。何も言わずに踵を返そうとした二人を、レヴィアンスは呼び止める。
「悪いね」
「……イリスが黙ってませんよ」
「うん、あとで乗り込んでくるだろうなって思ってる。その前に新しい仕事の話をしたいから、フィネーロだけ残って」
ルイゼンだけを外に出し、大総統執務室に再び静寂が訪れる。黙ったままガードナーが差し出したものをレヴィアンスが受け取り、その先を咥えた。
「ちょっと煙いだろうけど」
「かまいません。……ずっと我慢してましたよね。素が出てましたよ。先ほど、僕をフィネーロと」
「お見通しか」
煙草に火をつけながら苦笑いするレヴィアンスに、フィネーロも同じ表情で返した。
「兄が、帰ってきていましたから」

片手に瓶を持ち、もう片方の手で大総統執務室の扉を開け放つ。本来そう簡単には開かないはずの重量の扉を躊躇いなく押せるのは、補佐見習いとして働いてきたイリスならではだ。
「挨拶くらいしろよ。ニアに怒られるぞ」
「怒られたってかまわない。今はわたしのほうが怒ってる」
こちらを見ず、机で何か書きものをしながら軽い口調を飛ばしてくるレヴィアンスに、イリスの瞳はさらに燃えた。ずんずんと前進し、机を挟んでレヴィアンスと向かい合うと、瓶を書類の脇に振り下ろすように置く。中の液体が大きく揺れた。
「フィンを班から外すって、どうして? そんな大事なこと、なんで急に決めるのよ?!」
一人で戻ってきたルイゼンから、事情は聞いた。納得のできない説明のあとに湧き上がってきたのは、すぐに取り消しを求めなければという思いだった。イリスたちに、フィネーロは絶対に必要だ。実力が伴わないなんてはずはなく――たとえ本人がそう言っても、イリスはそうは思わない――だからこそ急に断行された人事を、覆さなければならない。
「大事なことだから決めた。オレにはその権限がある」
「そんなの、レヴィ兄のやりかたじゃない!」
「大総統はより多くの利を考えなきゃいけないの。イリスだってわからないわけじゃないだろ」
小さな班で合わない仕事を与えられて燻っているよりも、特技を生かして軍全体のために働く方が、フィネーロにとっても良いことなのかもしれない。それはイリスも考えた。だがレヴィアンスが突然、それも独断で動くということが信じられなかった。イリスになら、見習いでも大総統補佐である自分になら、一言くらい何かあってもいいと思っていた。距離が近いからといって全てを知ることはできない、ということもわかっていたつもりだったが、それでも今回ばかりは事前にきちんと話をしてほしかった。
「レヴィ兄、フィンを返して」
「もう仕事渡しちゃったから無理」
「今日の分は、だよね。だったら明日からでいい。それもできないっていうなら、力ずくでも取り戻す」
「オレに勝負でも仕掛ける? こっちが勝ったところでメリットがないんだけど」
「これあげるよ。お兄ちゃんのところから貰ってきたジュース。あとわたしがレヴィ兄のいうことを素直にきく」
ないも同然のメリットだが、今はこれしか提示できるものがない。レヴィアンスが瓶を一瞥し、それからやっとイリスを見た。鳶色の瞳がハッとするほど冷たく、後退りそうになる。必死にこらえて見返すと、呆れたような溜息が聞こえた。
「レオ、しばらく留守を頼むよ。小一時間もかからないと思うけど。緊急の用があったら練兵場まで」
「承知いたしました、閣下」
ガードナーが頭を下げると同時に、レヴィアンスが立つ。昔ほど身長差はなくなったはずなのに、妙に大きく見えるのは、逆光のせいだけではないだろう。――そこにいるのは、イリスが昔から知るレヴィアンス・ハイルではない。大総統レヴィアンス・ゼウスァートだ。
「来いよ、インフェリア中尉。叩きのめされないとわからないんだろ?」
「……やられるもんか」
どんなに睨んでも、彼には通用しない。でも負けるわけにはいかないのだ。

練兵場にはギャラリーが集ってきている。大総統閣下と補佐見習いがただならぬ雰囲気で練兵場に向かっているという、それだけで司令部の人間が続々と見物に訪れていた。イリスに誰かが勝負を挑み、次から次へと倒されていく光景はそもそもの名物となっているが、最初から大総統と直接対決するとあっては注目せずにはいられない。
ルイゼンとメイベルも、人混みを掻き分けて見物人の最前列にやってきた。フィネーロは情報処理室で仕事をしているのか、姿を確認できていない。噂を聞いたとしても、積極的に見に来ようとするタイプではないとメイベルが言う。
「しかしもったいないな。いつものイリスの大暴れの仕上げとはわけが違うじゃないか。今回の閣下はどうやら本気でイリスの相手をするつもりらしい。フィネーロも見ればいいのに」
「メイベル、お前やっぱりわかってなかったか。閣下……いや、レヴィさんがイリスに手加減したことなんて、あいつが生まれてこのかた一度もないぞ」
やっぱり、という表現にムッとしたらしいメイベルは、ルイゼンをじとりと睨んだ。
「閣下は幼い頃からやんちゃなイリスの相手をしていたと聞く。まさかひとまわりも年下の女児にまで容赦なかったとでも言うのか」
「そのまさかだよ。イリス本人だけじゃなく、ニアお兄さんまで証言してるんだ。あいつのたたかいごっこ、お兄さんやルーファさんはイリスと遊んでいたけれど、レヴィさんはいつもマジだった。だからイリスも常にそのとき自分にできる最大の力を、遠慮なくぶつけていた。お前たちの代の入隊試験、実技はイリスがぶっちぎりでトップだったのは憶えてるよな。あれを育てたのはもちろんインフェリア家の人たちでもあるけれど、俺は正直、レヴィさんの影響が一番大きいんじゃないかって思ってる」
唖然としたメイベルに、ルイゼンはさらに口早に追い打ちをかける。いつのまにか近くにいた人々もそれに聴き入っていた。そこかしこから「ほう」「本当だとしたらすごいな」と声が上がる。やっと息を吐いたメイベルが口にしたのは、「大人げない」の一言だった。
だがルイゼンは逆だと思っている。軍人一家に生まれて、家族の仕事と姿勢に憧れを持っていた少女に、レヴィアンスは最初からまっすぐ向き合っていたのだろう。これが現実で、さらに上がいる。もっと危険なことだってある。それでも軍人になりたいかと、もっとも早くに問いかけていたのは彼だったのだ。実の兄よりも先に、いや実の兄ではなかったからこそ、イリスの持っている力を認め、彼女が思うように利用できる方法や環境を探っていたのだ。――そうして二年前、大総統になったレヴィアンスは、補佐にイリスを選んだ。
練兵場に立つ二人は、得物も防具もなく向かい合っている。昔からそうしてきたように。今でもときどきそうするように。いつもならレヴィアンスの圧勝だが、今日はイリスが勝てるんじゃないか。そんな声もあがっている。
ギャラリーが騒めく中、彼らは同時に地面を蹴った。気づいたときには動いていたので、同時だと多くが思った。しかし少したりとも目を離さなかったルイゼンと闘い慣れしている者たちには、どちらが先だったのかがはっきりとわかった。
イリスが動いたその刹那を見逃さずに、レヴィアンスが反応したのだ。
飛び上がって蹴りを繰り出そうとしたイリスの脚は、レヴィアンスの横面を狙っていた。しかし宙を切っただけ。空振りして不安定になった体勢を立て直す暇も与えられず、前進していたレヴィアンスに胸倉を掴まれた。
「イリス!」
メイベルの叫びは届いていないだろう。どよめきのためだけでも、イリスの集中力のためだけでもない。そのまま地面に叩き付けられた衝撃が、ほとんどの感覚を麻痺させていた。
「……勝てないよ、イリスは。闘い方を教えて育てたのはレヴィさんで、行動パターンは誰よりも知り尽くしてる。動きだけじゃない。何が一番イリスのダメージになるのか、あの人は全部わかってるんだ」
怯まず真正面から、一撃で。それはイリスの戦闘スタイルだが、レヴィアンスが教えたことでもある。彼は今、それを見せつけたのだ。同じやり方ではイリスに勝算はない。いや、他の方法もきっと見切られている。
イリス自身もそれはわかったはずだ。実際に受けたこの一撃で、ほとんど全てを覚っただろう。――それでも彼女は、立ち上がった。足を震わせながら、手で乱暴に擦りむいた頬を拭って。
「おい、ルイゼン。イリスは立ったぞ。まだやられていない」
「挫けない、懲りないのがあいつの性分だからな。でも今のは心身ともに相当きつかったはずだ」
立ち上がらせたものを、ルイゼンとメイベルは知っている。自分たちも同じ気持ちだからだ。仲間を、フィネーロを、どうしても取り戻したい。たとえそれが困難だとしても、せめて納得のいく説明をしてほしいという、その想い。それからもう一つ、イリス自身がレヴィアンスの行動と考えを信じたい、信じさせてほしいという望み。
だがレヴィアンス、いや、大総統は高らかに言う。
「インフェリア中尉、もう医務室行ったら? まだ仕事残ってるだろ」
「やだ」
「お前は勝てないよ。ジュースだけで勘弁してやるから」
「いやだっ!!」
さっきの攻撃で、背中も強かに打った。声を出すのも苦しいに違いないイリスは、しかし、練兵場全体に響く声で叫んだ。
「大総統じゃなくて、レヴィ兄のっ! 何を考えてんのか、本音を聞かせろって言ってんのよ!! どうしても仕方のない理由があるなら、わたしもどうするのが最善なのか考えるよ!!」
「中尉がどうこうできると本気で思ってるのか」
応えたのは、大抵の者は聞いたことのない声だった。いつも余裕綽々で、軽い口調で笑っている大総統閣下の、低く重い、厳しい声色。
しかし彼女だけは怯まない。その威圧をまともに受けているのに、腕を伸ばして、目の前の相手の軍服を掴む。真っ直ぐに彼を見る。なぜなら。
「ちゃんと呼べ! わたしはイリス・インフェリアだ!! 階級なんか無視してわたしを自分の傍に置いたのは、レヴィ兄、あんたでしょうがっ!!」
無茶の仕方だって、教えたのはレヴィアンスなのだ。
酸欠を起こして倒れ込んだイリスを抱き止め、彼はギャラリーに向かって手を振った。
「ルイゼン、メイベル。……あと後ろのほうで突っ立ってるフィネーロも。この重いの医務室に運べ」
練兵場に立つのは、いつものレヴィアンスだった。

女の子が顔に傷ってのはまずいよね、と苦笑しながら、軍医は丁寧に処置をしてくれた。事前にガードナーから頼まれていたそうで、医務室では手当の準備をして待っていてくれたのだった。
メイベルはイリスをじっと見守っている。ルイゼンは仕事の資料を医務室に持ち込み、それを眺めながら向かいに座るフィネーロに尋ねた。
「イリスにも聞こえるようにはっきり言ってくれ。あのあと、閣下に何を言われた?」
「すまないが、答えられる段階にない。だが僕を振り回しているのが閣下ではないということははっきりさせておこう」
「……それだけでもちゃんと言ってくれれば、イリスがぶち切れることもなかったんだけどな」
たぶん、と付け加える。レヴィアンスにでなければ、自分が班にそぐわないと言ったフィネーロに対して怒っていただろう。案の定、ざらざらした細い声が、「フィンのばか」と呟いた。
「まさかフィネーロがあの場に来るとは、私は思わなかったが。どのあたりから見ていたんだ」
イリスから目を離さずに、メイベルが問う。これには明確な返答があった。
「噂を聞いて気になってはいたんだ。到着した時には、イリスがいやだと叫んでいた」
「じゃあ、一度倒された後か。衝撃のシーンを見逃したな」
「その後も十分衝撃だった。なにしろイリスを個人として扱わない閣下なんて、今まで見たことなかったからな」
「普段が私情で動きすぎなんだ。あの多重人格大総統め、次に対面したときには暗殺未遂事件だ」
「やめろ、メイベル。洒落にならん」
いつものやりとりだった。ルイゼンと会話をし、メイベルを宥める、フィネーロのいる光景。けれどもイリスの手当てが一通り終われば、また失われてしまう。まだそれぞれの仕事が残っているのだ。
「……やだなあ。フィンがいないリーゼッタ班なんて、塩の足りないスープみたい」
ぼんやりした声で言うイリスの手を、メイベルが黙って握る。ルイゼンはちょっと頭を掻いてから、資料の紙束から一枚抜き取った。
「俺、軍の武器リストを簡単に見返したんだけど。フィンが実戦で強くなれるような得物を使えばいいんじゃないかと思って」
「そう単純なことじゃない。武器の扱いだって一朝一夕で身につくわけじゃないだろう。まして僕は」
「おっと、自分を卑下するようなことは言ってくれるなよ。イリスがまた怒るし、だいたい状況に応じて長いものならなんでも使えるお前に、武器の使用が難しいとは思えない。……まあ、条件に合うやつがリストにはなかったんだけど」
「無駄足か。ルイゼンらしくない」
「リストにないってことがわかったんだ。オーダーメイドって選択肢があるだろ。一緒に現場に出たいと思うなら、それも視野に入れてくれ。情報系でやっていきたいなら、俺たちの班の情報担当として動けるようにする。例ならいくらでもあるんだ、フィネーロが一番やりたいことを教えてくれれば、また閣下に訴えに行くさ」
胸を張るルイゼンに、メイベルがほぼ棒読みで「さすがリーダーだな」と言う。イリスもやっと笑って、改めて頬の傷の痛みを感じた。
フィネーロは少し俯き、口を開きかけてから、また閉じる。顔をあげてやっと言ったのは、
「少し……ほんの少しでいい。僕の気持ちはまとまっているからいつでも言葉になるが、今はそれができない事情がある。待っていてくれないか」
どこか必死な、願いだった。
「それ、レヴィ兄のせい?」
イリスが尋ねると、「違う」と即答する。
「とにかく、閣下は悪くない。悪くないのに、わざと悪者を演じている。それを手伝うのが、今の僕の仕事なんだ。だからイリス、あの人の気持ちを、汲んでやってはくれないか」
ガードナーもそう言っていた。だからイリスが納得しなければならない事態が起こっているのだと、そう思ったはずなのに。仲間をとられると思って、その理由を教えてもらえるほど信頼されていないと思い込んで、頭に血が上った。
「……うん。でもさ、仕事が済んだら、ちゃんと帰ってきてよね」
「君にそこまで期待されているなんて、光栄だよ」
フィネーロにもようやく笑顔が見えた。イリスはホッとして、それから、もう一度レヴィアンスと話をしなければと決めた。責めるのではなく、話すのだ。

結局残業になってしまったその日の仕事を終えてから、イリスは大総統執務室の扉を叩いた。すぐにガードナーが出てきて、中へ招いてくれる。まるで待っていたかのように。
執務室の机にはレヴィアンスがいて、昼間と同じように書きものをしている。こちらはまだ仕事が終わっていないらしい。余計な時間をとらせてしまったと、少し後悔した。彼だって、いや、彼だからこそ、イリスが抱えているよりずっと多い仕事があったのに。それを知っていたはずなのに。この訪問すら、邪魔になるかもしれないほどに忙しかったと、誰よりもわかっていなければいけなかったのに。
謝るために、まずは何と声をかけたらいいのか。迷っているあいだに、聞き慣れた声がした。
「何を遠慮してるんだよ、イリスらしくない」
手を止めてこちらを見ているその人の呼び方を、おかげでようやく決めることができた。
「レヴィ兄、ごめんなさい。仕事の邪魔だったよね。フィンのことだって事情が」
「そんなことより、怪我は? まだ痛い?」
用意してきた台詞を、けれども遮られてしまう。昔から変わらない、軽い口調で。
「ううん、大丈夫」
「そっか、ならいい。ていうか、昼間の闘い方は何だよ。お前の動きに慣れてるオレに対して、あんな大きすぎる蹴りはダメだろ。エイマルにはそうやって教えられるのに、なんで自分でやらないかな。あと、弱点知ってるんだから積極的に狙ってこい」
たしかに弱点は知っている。もう随分と昔のことになるが、レヴィアンスは右肩を脱臼し、左腕を折ったことがある。かつてイリスがとある事件に巻き込まれたとき、それを助けようとして負った怪我だ。以来気取られない程度に庇うようになった場所を、イリスには狙うことができない。初めは意識的に、いつしか無意識に、攻撃しないようにしていた。
「レヴィ兄にそんなことできない」
「じゃあオレには一生勝てないな。ずっとオレのいうこときいてろよ」
「ジュースだけで勘弁してやるって言ったじゃん」
「言ったっけ?」
意地悪く笑うレヴィアンスに、イリスは脱力する。何を緊張していたんだろう、この人は昔からこういう人じゃないか。――イリスの兄たちの、一人じゃないか。
「イリスさん、座ってください。閣下、休憩するなら少し栄養をとってはいかがですか」
タイミングを見計らったガードナーが、それぞれのためにグラスを置いた。イリスが持ってきたジュースが注がれている。勧められるままにソファに座ると、レヴィアンスが「レオも飲んだら」と立ち上がろうとする。ガードナーはそれをやんわりと制止した。
「ではご相伴にあずかりますから、閣下はそのまま。大総統としてのお勤めと急ぎの外出で大層お疲れでしょうし」
「今日はいいんだよ、仕事終わったら何もないし。……というわけでイリス、ジュース飲んでちょっと待ってて。片付いたらオレの部屋に行こう。ルイゼンたちも誘わなきゃな」
「部屋って、寮の? ゼンたち……ベルとフィンも?」
「そう。……あー、ゲティスさんとこのジュース今年も美味い!」
きちんと謝ることはできず、そして疑問の答えも与えられない。消化不良だが、濃いジュースはかまわずイリスの胃に落ちていった。
やがてレヴィアンスが本日最後の書類を処理し終え、空になったグラスをガードナーが片付け、誰もいなくなった執務室の明かりが消えた。

レヴィアンスの部屋に初めて入るわけではないのに、ルイゼンもメイベルもフィネーロも落ち着かない様子だ。イリスでさえとても寛げる気分ではない。ただ、部屋にふわりと広がる香ばしい匂いは懐かしかった。
台所からガードナーが、フォークとナイフを持ってきて揃える。あまりにてきぱき動くので、イリスが手伝う隙がない。
「夕飯にはちょっと軽いかもしれないけど、オレこれしかできないんだよね。材料も他にないし」
明るい声に、ぽふ、ぽふ、と音が続いて、今度は皿が現れる。四つを一度に運ぶガードナーは、さながら手慣れたウェイターだ。だがそれよりも、皿の上にあるもののほうが気になる。焼きたてのパンケーキを、ルイゼンは驚いて、フィネーロは感心して、メイベルは不審そうに見た。
「閣下、じゃないや、レヴィさん、料理できたんですね」
「こんな特技があるなんて思いませんでした」
「本当に食べられるのか?」
口々に言う三人に、イリスが当人に代わって返事をする。
「普通に、ていうか、美味しく食べられるやつだよ。レヴィ兄唯一の得意料理」
「イリスは食べたことがあるのか」
「何年も前にね」
最初は四歳の時。ある事件のせいで大怪我をして、外に出られず退屈していた日。同じく怪我をして仕事を休まされていたレヴィアンスが、インフェリア邸までやってきて作ってくれたのがパンケーキだった。曰く、これが好物である彼の母のために練習したのだとか。
以来、忙しくなるまでは、ときどき作ってくれるようになった。今日のようにフルーツソースが添えられるようになったのはだいぶ後、遠くの村からジュースやシロップが送られてくるようになってからだ。
イリスがジュースを持ってきたことで、今年もその時期が来たことを知ったのだろう。ガードナーの言っていたレヴィアンスの「外出」は、おそらくはニアたちのところに届いたシロップを貰いに行ったのだ。部屋を空けていることのほうが多いレヴィアンスのところには、その荷物は来ないから。
「ソースの材料を手に入れるために、閣下は少々怒られてきたようですよ」
「レオ、余計なこと言わない。お前の分作んないぞ」
台所ではまだ追加のパンケーキを焼いている。先に食べてて、と言われたので、そうさせてもらうことにした。柔らかな抵抗を感じながら大きめの一口分を切り分け、頬張る。――うん、懐かしい味だ。
「レヴィ兄、美味しい」
「当たり前だろ。オレが作ってんだよ?」
「唯一の得意料理なのにその自信は何なんだ……美味さは認めるが」
「つっこむなよ、メイベル。美味いものは素直に食おうぜ。お、フルーツソースが絶品!」
「僕はこういうの、初めて食べた。なのに落ち着くな」
「おかわりもすぐ焼けるからな、どんどん食えよ」
「閣下、ご自分のを用意してください。彼らと一緒に食事をするのが目的でしょう」
昼間のことなどまるでなかったかのような、温かな賑やかさ。こんな時間ばかりなら幸せなのに。実際は、食事が終わって部屋に戻り、眠って明日になれば、フィネーロのいないリーゼッタ班の日々が待っている。イリスが望まない日々が。
「食べ終わりたくないなあ」
「もうおかわりか? レオがうるさいから、一枚食べ終わってからでいい?」
「そうじゃなくて。レヴィ兄、いいかげん本題に入ってよ。わたしたちを集めたからには、言うことがあるんだよね」
「あるといえばあるし、ないといえばない」
ここまできてそんないいかげんな、と怒鳴りたくなったが、留まった。レヴィアンスの表情に疲れが見えてしまって、彼を責めるのではなく彼と話すのだということを思い出した。
「大総統として話せることは、現時点ではほとんどない。ルイゼンに説明した通り、フィネーロには班を離れてもらう。それだけだ」
「それは本当に、フィンが力不足だと思ってるから?」
「現時点ではそう判断せざるをえない。ただしそれは戦闘が必要な現場での話で、事務や見回り、単純な視察といった仕事には何の支障も出してない。それどころか非常にうまくやってくれている」
「じゃあ戻してよ」
「戦闘で動けるようになってくれないと困る都合があるからダメ。せっかくの頭脳を小班だけで使うのももったいないし」
力不足どころか、フィネーロの本来の能力はやはり認められている。しかしそれでも、急に班から外されるのは理不尽だ。徐々に仕事の配分を変えるなりしてくれればよかったのに、レヴィアンスは、いや、大総統はそうしなかった。
「情報処理担当を含む班構成ができないわけではありませんよね。どうしてその方法をとらず、突然外すことに?」
ルイゼンが切りこむ。しかし、きっと語られないだろうと思ってのことだ。フィネーロ自身が、待ってくれと言ったのだから。
「それも今後の都合があるから話せない。フィネーロにはそれを少し説明したけど、口止めしてる。時が来たら全部明かすから、それまでお前らは待って……いや、ただ待ってるだけじゃだめだな。各自備えておいてほしい。フィネーロに長所を伸ばして短所を克服してもらうあいだ、お前らも成長しておけ」
「成長、ですか」
レヴィアンスは頷き、息を吐いた。それから思い切り吸って、一気にまくしたてる。
「ルイゼンは統率力はあるが、作戦を立てるという点においてはまだ甘いところがある。これから佐官として働かなきゃいけない場面も増えるんだから、上司から学ぶなりしてもっと勉強しておけ。メイベルは頭もいいし銃の扱いにも長けているのに、すぐ頭に血が上るからそれを生かしきれていない。もっと冷静に動け。イリスはもう言ったけど、あのワンパターンな動きをなんとかしろ。相手をよく見て臨機応変に行動しないと、お前には先がない」
それぞれの胸に言葉が刺さる。だがよく考えてみれば、自分たちの弱点は今まで上手に補われていた。作戦を補強していたのは、熱くなりすぎる性格を諌めていたのは、臨機応変な行動で助けてくれていたのは。
「いつまでもフィネーロを補助にしておくな。頼るなとまでは言わないけどさ、仲間の自立を妨げちゃダメだろ」
もしイリスが、レヴィアンスに勝って、フィネーロを力ずくで班に引き留めることができたとして。その先はどうしただろう。今までそうしてきたように、それが役割だと信じ込んで、フィネーロに負担をかけ続けていたかもしれない。彼が能力を伸ばすチャンスを奪っていたかもしれない。
それだけではない。イリスたち自身が現状に甘えて、成長しようとしなかった。特にイリスには「先がない」。擦りむいた頬がじくじくと痛んだ。
「班全体のレベルアップが必要ということか。そもそも私たちは閣下が、まだ佐官だった頃のこととはいえ、自分で組ませた班だ。使えない人材を特別扱いすれば、閣下の責任問題にもなる」
「メイベルの認識で間違ってない。そういうことだから頑張って」
にやりと笑うレヴィアンスの、これまでの言葉を思い出す。イリスの知るレヴィアンスは、おそらくメイベルの言うような責任問題など考えていない。たとえ非難されたとしても、レヴィアンスが現在の地位を降りることはしばらくはないだろう。彼の立場は女王によって与えられたものだ。
未だ語られない何かがきっかけで、イリスたちが成長しなければならない必要性が急激に増したのだ。条件をクリアできれば、フィネーロはまた戻ってくる。たしかに「仲間」と言ったのだから。
悪者を演じているとしたら、レヴィアンスは大根役者だ。結局彼は彼以外の何者でもない。
「わかった、今はそれで納得しておくよ。フィンをあんまり困らせたくないし、わたしたちが文句を言っている場合でもなさそう」
時が来れば明らかになるならば、その時までに自らを磨いておかなければならない。今日のような敗北は、もう二度とあってはならないのだ。
「オレからはここまで。質問は残念ながら受け付けられないけど、パンケーキのおかわりの注文なら受けるよ」
「閣下、話してばかりで全然食べていないではないですか」
「これに限っては作る方が好きなの」
「じゃあ遠慮なく、おかわり!」
先がないなら、これから拓くまで。


アルト・リッツェがしばしのあいだ、西の大国ウィスタリアに研修に出ることになった。幸い大学の講義に影響を及ぼすことはなく、また資金繰りも考える必要がなかった。エルニーニャを離れる前にすべきことは、たった一つ。
「フィネーロ、情報処理担当も悪くないだろう。お前にはそのほうが合っている」
弟に会い、話をすること。
「……たしかに悪くはないよ。知識も人間関係も広がった」
「そのわりには不満そうな顔をしているが」
「もとの班に戻りたいからね。……兄さんは、本当は僕に軍自体を辞めさせたかっただろうけれど。それだけは何があっても受け入れないから」
「そこまでは考えてなかった。信じてくれ」
もしかしたらとは思っていたが、弟はやはり勘違いをしている。言い訳はあまりしたくなかったが、これも自分の蒔いた種だと思って諦めた。大総統が全て説明してくれれば良かったのだが、彼はそんなに都合よく動いてくれる人間ではない。
「私はお前の可能性を潰させたくなかったんだ。小班に、それもお前が後始末をしなければ成り立たないようなところに、いつまでも置いておくわけにはいかないと思った。あのままでは利用されるだけされて、いつか捨て駒になる。かつての北方司令部の不祥事の一要因と同じになってしまう」
「班の者も閣下も、僕をそんなふうには扱わない。そんなことにさせないという意志で、閣下は兄さんの出した条件をぎりぎりまで受けなかったんだ。それだけじゃない、兄さんが今でも軍に失望せず協力してくれるものと信じていた。閣下がそう言ったわけじゃないけれど、僕はそう思っている」
「どうだか。あの男は軽いようでいて、煮ても焼いても食えない厄介な奴だ。必要とあらば他国と協力して味方すら騙す」
こちらの申し出を受け入れたのだって、それが必要になったからだ。結局、全てが大総統の手の上にある。――それを思うと、弟を軍から引き離したいという気持ちは、やはりあったかもしれない。
「たしかに、閣下が兄さんの要求を受け入れたのは、これ以上交渉を引き延ばすともっとまずいことになるってわかったからだ。閣下は兄さん以外の人にも声をかけていて、必要な情報を少しずつ得ていた」
「そらみろ」
「でも、決定打を得るには兄さんの協力が不可欠だと。元北方司令部諜報部隊長の力がどうしても必要だと結論を出したんだ。そして兄さんが動きやすくなるためには、情報を受け取る僕が閣下から少し距離を置かなければならないということも」
弟の信頼を最も勝ち得ているのは、家族である自分だと思っていた。それなのにあの男は、大総統というだけで、弟の同僚と親しいというそれだけの繋がりで、こんなにも信じられている。弟をとられてたまるかと思った。どうしても手放さないのならそのまま失脚してしまえと呪った。だが、その呪いはきっと、大切なはずの弟を傷つけることになる。
大総統がレヴィアンス・ゼウスァートではなくなったなら、フィネーロが、闘うことが苦手なこの子が、今まで通り軍で生き残ることはできない。それこそアルトが恐れていた切り捨ての対象になっただろう。フィネーロが軍にいることを望む限りは、この子の立場をより良いものにするために、動くしかないと結論付けた。
アルトが得た情報をフィネーロが受け取り、自らの手柄とする。そうして弟が認められることを、アルトは選んだ。だから旅立つのだ。
「私が情報を得られるまで、周りに潰されるなよ、フィネーロ」
「潰されないよ。兄さんは、僕をいつまで子供だと思っているんだ」
けれどもアルトの認識には誤りがあった。弟はいつまでも「幼い弟」のままで、大人の庇護がなくてはならないものと、思い込んでいた。
「イリスの兄さんはイリスを認めてるのに、メイベルだって妹の成長を認めたのに、どうして僕は兄さんに認められないんだろうって思ってた。僕だって闘っているのに。弱いけれど、周りのサポートくらいしかできないけれど、僕だってもう一人前の軍人なのに!」
それが見くびりだと気づかなかった。愛情だと信じて疑わなかった。
「もういいけどね。認められなくたって、僕は僕だ。可能性を潰させたくないと本気で思うなら、兄さんはわざわざ僕のために道を作ってくれる必要はない。ただ、今回は閣下から仕事を引き受けた身として働いてほしい。弟からではなく、エルニーニャ王国軍大尉フィネーロ・リッツェからの頼みだ」
弟から最も目を逸らしていたということを、アルトは認めるしかなかった。成長していなかったのは、自分だ。
大きく溜息を吐いて、弟の頭を撫でるつもりだった手を引っ込める。
「わかったよ、リッツェ大尉。だが今回だけだ。研修期間が終わったらもう二度と頼みごとなどするなと、大総統に伝えてくれ」
「閣下ももう兄さんには頼みたくないって。だから今回の調査依頼も、当初より限定的なものになった」
フィネーロが表情を引き締めた。彼が仲間にも隠さなくてはならなかった、極秘の任務が告げられる。

「レヴィアンス・ゼウスァート大総統閣下の暗殺計画の、進行状況について報告を」



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2016年08月21日

世話焼きさんの晩ごはん

とある晩のこと。いつもなら癒しと美味しい食事を求めて行く場所で、イリスは深く頭を下げていた。その正面には、驚きと呆れが入り混じったような表情のグレイヴと、目をぱちくりさせるエイマルがいる。
「イヴ姉、お願い。こんなこと頼めるの、イヴ姉しかいないんだよ」
イリスは真剣だった。そして切実だった。なにしろ、人の生活がかかっているのだ。今までは他人の厚意に甘え放置していたが、もうその段階から抜け出さなければ。
「お兄ちゃんに料理を教えてあげてください! わたしじゃもうどうにもならないの!」
兄、ニアの料理は味が非常に残念だ。見た目はきれいで美味しそうなのに、口に含めば無味か刺激が強すぎるかのどちらかで、ちょうどいいところがない。イリスは兄が大好きだが、この点だけはどうしても頭を抱えるところだった。
ニアと同居しているルーファは、彼もまた味は普通なのに見た目が残念な料理を作りだしてしまう人で、しかしながらニアの料理を完食することができる数少ない猛者だ。彼と二人の生活なら、知り合いからの差し入れが頻繁にあったこともあり、なんとか乗り切れていた。
だが、現在は状況が違う。彼らの生活はニールという少年を含む、三人暮らしになってしまった。子供にはきちんとした食事をしてほしいと、イリスだけでなくニアとルーファも思っているのだが、今のところそれができているのはよそからの差し入れのおかげだった。あるいは、イリスが出向いて食事を用意することもある。
いつまでもそんなことでは、ニールの安全で快適な食生活は守られない。そう痛感したイリスは、家にいることが多いニアの料理スキルを上げなければならないと結論付けた。そこでダスクタイト邸に出向き、こうして頼んでいるというわけだ。
「頭を上げなさいよ。アタシはかまわないし、今まで通り差し入れをしてもいいんだよ?」
グレイヴが優しく言うが、イリスは首を横に振る。それではだめなのだ。
「お兄ちゃんたちはニールを引き取るとき、責任をとるって決めたんだよ。だからニールが健やかに育つように、自分たちで環境を整えなきゃいけない。なのにいつまでも食事をイヴ姉やアーシェお姉ちゃんに頼ってるなんて、それは違うと思うんだ」
「妹にそこまで言わせるなんて、よっぽどのことがあったのね」
そう、現に食事のことでニアとルーファが喧嘩をして、ニールが困ってしまったことがあった。ニアだって美味しい食事を自分で用意して、ニールやルーファに振る舞いたいのだ。けれども失敗して、ルーファにストップをかけられてしまう。一方のルーファも料理が得意ではないうえに、普段は仕事で帰りが遅い。これでは誰も幸せになれない。
ニアも努力していないわけではないのだが、どうにもうまくいかないのだった。
「わたしが何回教えても、お兄ちゃんの料理って美味しくならないんだよね。イヴ姉ならなんとかできないかなって思ったんだけど……」
「その状況でアタシがなんとかできるといいんだけどね。わかった、やってみよう」
「本当?!」
グレイヴの作る料理は昔から美味しい。その腕を、コツを、ニアに伝授してくれるなら、今度こそうまくいくのではないか。
「イヴ姉、大好き! お兄ちゃんのこと、よろしくね!」
「確実にうまくいくとは限らないわよ。だからそうね、できるだけうまくいくように舞台を作ろうか。エイマル、もしニールを家に招待して、みんなでご飯を食べるってことになったら、お手伝いしてくれる?」
母の頼みに、エイマルも瞳を輝かせる。手伝いができることも、友達を家に招待できるのも、エイマルには至上の幸福なのだ。
「手伝う! ねえ、そのときはイリスちゃんも来るよね」
「わたし? イヴ姉、お兄ちゃんに料理を教えてくれるだけでいいんだよ?」
「だから、そのための設定を作るのよ。ニアが力を発揮するのは、より緊張感のある場面。アタシと二人で作って味見するだけなんて、アイツにはスパイスが足りなさすぎるわ」
ニアの料理はよくスパイス過多になるので困っているのだが、という言葉を呑みこんで、イリスは頷く。
「ポイントはみんなでってところね。ルーファもニールもここに連れてきて、食事会をするの。エイマルもいるから、ちゃんと食べさせなきゃいけない子供は二人。よりたくさんの人に振る舞うというプレッシャーの中、しっかりと料理を覚えてもらう。もし失敗したらアタシと父さんでフォローできるわ。イリスがいてくれると、人手が増えて助かるんだけど」
「そういうことなら……。そういうの、楽しそうだし」
「じゃあ決まりね」
グレイヴが微笑み、エイマルが喜んではしゃぐ。なるほど、この状況なら、そもそもニアは誘いを断れないだろう。逃げ場を封じるところから始めるとは、さすがニアの元同僚だ。それも厳しい方の。
話し合って予定を合わせ、当日は「ダスクタイト家の食事会に招待する」という名目で集まることにした。ニアの仕事も、最近はうまく調整ができているようなので、この食事会が支障になることはないだろう。念のため探りは入れておくけれど。
こうしてニアの料理スキルを上げよう作戦が幕を開けた――のだが。

エルニーニャ王国軍中央司令部、大総統執務室。今日は仕事が残ってしまったので、レヴィアンスが一人で片づけをしている。補佐を帰らせたのは、なにも自分のポリシーのためだけではない。今ここにある仕事が、レヴィアンス一人でなければできないものだからだ。
「……以上三件、最近起こったエルニーニャ国内での危険薬物関連事件だよ。北と通じるルートは今のところ確認できていないけど、東方諸国のほうが気になるね。もしかしたら遠回りをして、ノーザリアとの道を作っているかもしれない」
国内での事件はほとんど全て解決済みということになっている。だが危険薬物関連事件に限っては、詳細を知り、その対応が適切であったかどうかを確かめたいという人物がいる。レヴィアンスは大総統になってから、いや、もっとずっと前から、彼に協力していた。
大陸に蔓延する危険薬物事件に異様な執着を見せる、ノーザリア王国軍大将、ダイ・ヴィオラセントに。
「こっちでは東方経由ルートは確認できていない。だが、調べる価値はありそうだな。そっちで捕まえたという売人から話を聞きたい」
「わかった、手配しておくよ。……てことは、近々こっちに来るんだね、ダイさん」
「ああ。ちょっと時間ができそうだから、娘の顔も見たいんだ。三日は滞在したい」
「一泊はグレイヴのとこにしなよ。もう一泊は仕事の進み具合によりけりだね。いつもみたいにオレの部屋に泊まるもよし、大総統室で夜を明かすのもよし」
「できればベッドに寝たいな。美味い食事と美味い酒も頼む」
「食事はグレイヴに頼みなよ」
笑いながら電話をするレヴィアンスとダイは、もちろんイリスたちの企みを知らない。今のところは。


食事会を翌日に控えたその晩、イリスはとった受話器をを危うく落としそうになった。電話の向こうではグレイヴが溜息を吐いている。
「ダイさん、明日来るの?! レヴィ兄はそんなこと言ってなかったけど……って、それはわたしが遠征任務いってたからか……」
「いつも急に連絡してくるんだから。そういうわけで、明日はダイもいるわ。ニアの緊張感はより高まっていいと思うけど、ニールは大丈夫?」
「人見知りするかもしれないね。レヴィ兄にもいまだに遠慮してるのに、いきなり隣国軍の大将に会うんだもん」
でも、たしかにニアには効果的かもしれない。尊敬する先輩であるダイの前で失敗はしたくないだろう。ニールはイリスが見ていれば良い。エイマルがいてくれるから、彼の人見知りも多少マシになるのではないか。
「まあ、ニールは大丈夫としても……ルー兄ちゃんが胃薬必須になったりして。相変わらずダイさんは苦手みたいだし」
「そう、それはアタシも考えたのよ。だから胃に優しいメニューにしようと思って」
「……そういう問題かなあ。お兄ちゃんが手を加えたら胃に穴開かない?」
「そうさせないようにするわ。父さんとも相談したから、あとはアタシたちを信じなさい」
信じるしかない。そうでなければ未来は拓けない。受話器をぎゅっと握りしめ、相手に見えないのに勢いよく頭を下げた。
「よろしくお願いします!」

ダスクタイト邸もファミリー向けマンションの一室だが、ニアたちが住んでいる部屋より広く、通路に余裕があって、段差がほとんどない。現在、ここに住んでいるのは、ブラック、グレイヴ、エイマルの三人だ。イリスが遊びに行ってもまだ部屋の中はスペースが余っている。
それが今日、一気に埋まる。イリスが来て、ニアとニールが来て、あとから仕事終わりのルーファが合流する。ダイも一仕事してから、レヴィアンスを連れてくるそうだ。どうやらレヴィアンスは、今日の話を聞いて、面白そうだとのってきたらしい。とはいえ、みんなで食事会をするということくらいしか知らないはずだ。
「どうせだからと思ってアーシェも誘ったんだけど、手がはなせないって」
「アーシェお姉ちゃんも来たら、昔の第三休憩室みたいになってたね。わたし、はっきり憶えてるんだよ。お兄ちゃんたちがゲームしたりお茶飲んだりしてるの」
懐かしいなあ、と呟きながら、本日使う材料を用意する。ニアが抱えている問題は味にあるので、切るものは切ってしまう。色とりどりの野菜や、数種類の肉や魚が、小鉢に分けられてずらりと並んだ。
「準備はこんなものかしらね。イリスの出番はここまでよ、ニアを呼んできて」
「はい!」
ニアは居間で、ブラックと話をしていた。その傍らでエイマルが、ニールに勉強を教えてくれている。微笑ましい光景だ。このまま平和が続けばいいのだが。
「お兄ちゃん、イヴ姉が呼んでるよ」
「うん、わかった。それでは話の続きは後で」
席を立って台所へ向かうニアの背中を見送って、かわりにイリスが着席する。エイマルに教わりながら計算の問題を解いているニールに目をやり、しかし声はブラックへ。
「お兄ちゃんと何の話してたんですか?」
「大したことじゃない」
二人の共通の話題といえば、親の話か、子供の話か。

たくさん並べた材料はさておいて、グレイヴがニアの目の前に置いたのは土鍋だった。ニアの家にもあるが、使う機会は冬に鍋物をするときくらいだ。
「今夜はお粥を作るわよ」
「お粥? それで僕を呼んだの?」
「そうよ、一緒にやらなきゃ覚えないでしょ。これなら簡単だし、個々に好きな具をのせたり調味料を足したりして味を調節できるから、アンタでも作れるはず」
最初からそのつもりの食事会だったのか、とニアはやっと思い至った。料理が下手な自分のために、グレイヴが、いや、おそらくはイリスが考えたのだ。さっきから妙にそわそわしていたし。
「そうだね、お粥なら……ご飯ふやかせばいいんだよね」
「あのね、アンタお粥がなんだかわかってる?」
早速呆れられてしまった。謝ってから手順を確認し、指示通りに進めていくことになった。
ところがその指示が、なんとも細かい。ご飯の量、水の量、塩までも「適量」という言葉は絶対に使わない。調理器具で量らないにしても、一つまみの加減を覚えろ、とグレイヴがとった分量を指に覚えさせられる。
「ええと、味見しながらじゃだめなのかな。匂いとか」
「それができれば教えてないわ。アンタは味覚があてにならないんだから、分量をきっちり量って覚えて、その通りに作ることに専念して。頭良いんだから覚えられるわね?」
キ、とグレイヴに睨まれると、「はい」以外の返事は出てこない。まずは分量をしっかりと量るべし。
「今日はお粥自体は薄味で良いの。具材をたくさん作って、食べる人に自分で選んでもらいましょう。もちろんこの具は普段のご飯のおともにもできるから、しっかり覚えなさい」
お粥をコトコト煮こんでいるあいだに、具を用意する。もちろんこちらも調味料はしっかりと量り、記憶していく。
ちゃんとアンタのところの好みは考えたつもりよ、とグレイヴは言う。しょっちゅう差し入れをしてくれるのだから、よくわかっている。それを改めて数値化されると不思議な感じがするが。
「グレイヴちゃんは……アーシェちゃんもか。自分の家のことだけじゃなく、うちのことまで考えて、ご飯を作ってくれてたんだよね。ありがとう」
「放っておけなかっただけよ、だって不器用なんだもの。でも甘やかしすぎたわね。アーシェはともかく、アタシは年上ぶりたかっただけだし。もっと早くに、ちゃんと教えておけば良かったんだわ」
「甘えてたのは僕たちだから。……なんだか最近、いいところないな。イリスには迷惑かけっぱなしだし、ニールも困らせてるし」
「イリスはしっかりしてるわよ。ここ一年は特にね、お兄ちゃんに負けないようにって」
もうとっくに追い抜かされているような気がしていたのに。困ったようにニアが笑ったそのとき、呼び鈴の音とにぎやかな声が聞こえた。

「ただいま」
「お父さん、おかえりなさい!」
久方ぶりに帰ってきたダイの両手は、エイマルを抱きしめるためにあけてあった。荷物は後ろの二人、一緒に仕事をしていたレヴィアンスと、道中で会ったらしいルーファが全て持っていた。
「また少し背が伸びたか?」
「ちょっとね。レヴィさんとルーさんもいらっしゃいませ。イリスちゃんたち来てるよ」
「よっ、エイマルちゃん。おじゃまさせてもらうよ」
「おじゃまします。……ダイさん、エイマルちゃんにお土産渡さなくていいんですか」
「渡すに決まってるだろ。エイマル、ノーザリアの新しいお菓子だ。あとで食べなさい」
ルーファから奪うように受け取った袋を、エイマルに差し出す。元部下の扱いも、娘への愛情も、変わりはないようだ。それを遠くから確認してから、イリスも玄関に出ていった。
「みんな、おつかれさま」
「やあ、イリスも……背が伸びたなあ、また……。もうニア越えてないか?」
「それがもうちょっと足りないみたいで。どーんと抜かしたいんだけどね」
「相変わらず怖い妹だな。エイマルに変なこと教えてくれるなよ」
笑いながら娘に手を引かれるダイは上機嫌だ。一方、普段から電話でダイとやりとりをしているレヴィアンスはともかく、絡まれるのが久しぶりだったルーファには疲れが見える。予想通りの展開だった。
「今日の料理当番は? お母さんか、それともおじいちゃんか? 良い匂いがする」
「ホントだ。この家のご飯美味しいからいいよね」
「イリスも手伝ったのか?」
「ちょっとだけ。今日の夕食を作ってるのは、イヴ姉でもブラックさんでもないんだよ」
居間に全員が揃ったところで、イリスはエイマルと顔を見合わせる。それからニールに目配せして、ダイたちの前に来させた。
緊張して上ずった声で、ニールが言う。
「あ、あの、はじめまして。ニアさんとルーファさんのお世話になっている、ニールっていいます」
「はじめまして、エイマルの父親のダイだ。話には聞いてたけど、本当にもやしみたいな子だな」
「うちの子をもやしとか言わないでくれますか。……あれ? ニール、ニアはどこだ」
「あ、あの、もやしですみません。ニアさんは、台所に……」
あたふたと、ダイとルーファの両方に答えようとしたニールを、しかしブラックが呼び戻した。そして続きを引き取る。
「人んちの子供に大人げねーな、ダイ。アクトに報告するぞ。ニアは台所で、今日の飯当番だ。さっさと席について大人しく待て」
イリスはそのとき、はっきりと見た。一瞬にしてルーファとレヴィアンスの顔色が変わり、「騙された」とでも言いたげに口をぱくぱくさせるのを。そしてダイは、どこにかかるのかわからない呟きを漏らした。
「まいったな」

まもなくして台所から運ばれてきたのは、大きな土鍋。ニアがテーブルの真ん中にそれを置くと、ルーファがおそるおそる尋ねた。
「……鍋物?」
「ううん、お粥」
蓋を開くと、ごく普通の真っ白な米がとろっと煮られていた。これだけならひとまず安心してよさそうだ……とでも思ったのか、ほっと息を吐く声が聞こえた。イリスは兄の表情を盗み見るが、ただただ緊張しているようで、内心を窺い知ることはできなかった。
「ただのお粥じゃないわよ」
グレイヴが大きな盆に、小鉢をたくさん載せてきた。色とりどりのおかずが少しずつ盛られているそれをずらりと並べると、なかなか壮観な光景になる。「なるほどね」とダイが頷くように、この家ではそう特別なメニューではない。イリスも何度かご馳走になっている。
「小鉢のものを、お粥に好きにのせて、一緒に食べて。色々作ったのよ、ニアが」
「これ全部ニアが?」
「見た感じ美味しそうだよね」
でも味は、という言葉をレヴィアンスは呑みこんだのだろう。いつもはそうだが、はたして今回はどうだろうか。こればかりはイリスにも予想できなかったが、グレイヴの不敵な笑みで心配はなくなった。
ここで夕食をいただくとき、いつも見る表情だ。
「いただきます!」
イリスが躊躇うことなく真っ先にかかれば、みんなそれに続く。ニアはその様子を見守っている。こんなに緊張しているのは、いったいいつ以来のことだろう。
よそったお粥に、具をちょんとのっけて、れんげで掬って口に運ぶ。はふはふしながら舌で味を確かめ、それから思わず周りを見た。――たぶんみんな、同じ感想を持っている。
「ど、どうかな。ニール、食べられる?」
あるときはとても咀嚼の難しいものを作ってしまい、またあるときはまったく味のしないものができた。食事の面ではニールに度々苦労をかけてしまっていた。今日のことは、それを見兼ねたイリスが頼んでくれたのだろうが、それが無駄になっていやしないだろうか。余計なことはしていないつもりだが。
ニールはイリスと見合わせていた顔をニアに向けた。
「美味しいですよ」
ふにゃ、と笑った顔は嘘ではない。
「美味しいです。僕、これ好きです」
「……!」
イリスもニールと同意見だった。グレイヴの指示通りに作ったとはいえ、これまでとは比べものにならないものが出てきたことには違いない。そもそもこれは、いつものグレイヴの味とは微妙に異なっていて、……そう、どこか実家の味に近いのだ。
もしかしてそれも織り込み済みなのだろうか。イリスがブラックに視線だけで尋ねると、それだけで言わんとしたことは通じたようで、小声で「聞いてきたからな」と返答があった。
「グレイヴちゃん、やったよ! ありがとう!」
「ね、ちゃんとやればできるでしょう。アンタは数字を味方にできるんだから、自信持ちなさい」
自分で感激するニアに、得意げに言ってから、グレイヴはイリスに微笑んだ。感謝を込めて頷いてから、イリスは二口目を掬う。耳には異口同音に感想が届いた。みんながニアの作ったものを、「美味い」と食べている。そのことが嬉しくて、誇らしい。
「本当に美味いよ、これ。グレイヴ、ニアに何したのさ?」
「何か技とかあるのか? 今後も再現可能なもの?」
「もちろん。そのために教えたんだから」
「でも、教わって本当にできるなんて思わなかった。僕はまだ自分で信じられないよ」
ニアも自分で食べて再び感動している。それを見て、ニールがまた嬉しそうに笑った。これから、こんな機会が増えるんだろう。みんなが幸せになれる、そんなときが。
「……あ、ダイさんはもやしたくさん食べてくださいね。美味しいでしょう、もやし。グレイヴちゃんに教わって、一番美味しくなるように作ったんですから」
「ニア、お前さっきの聞いてたのか」
ダイがニールに「もやし」と言った、あのときだろう。台所はすぐそばなのだから、聞こえていない方がおかしい。ルーファが先に文句を言って、ニールが謝ってしまったので、イリスは口出しできなかったのだが、あれはさすがにカチンときた。
ところが、ニアはにっこりして言う。
「聞こえてましたよ。もやし、美味しいですよね。人に言うからには、ダイさんももやし好きなんですよね」
そうしてダイの器にもやしをどんどん追加していく。ニアなりの仕返しであり、ニールが謝る必要はないという証明もしている。実際、もやしの和え物は美味しかった。
「あれ聞いて、もやしだけはなんとしてでも美味しくしなきゃって、気合入れたのよ。ニアは本当にニールを大事にしてるのね」
グレイヴがそっと耳打ちして、イリスも目を細める。
――やっぱりお兄ちゃんは、わたしの自慢のお兄ちゃんだった。
大切なものは何が何でも守り抜く。昔とやり方は変わっても、根本的なところはそのままなのだ。イリスの大好きな、兄のまま。
だから苦手な料理も克服できたのだろう。そしてこれからも、困難を乗り越えていくんだろう。

食事会を終えて、イリスはニアとルーファ、ニールとともに帰路についた。ルーファの運転する車で、寮まで送ってもらうのだ。同じく寮に帰るレヴィアンスも同乗する。ダスクタイト家の人々はダイと一晩、家族の時間を過ごす。
「今日は楽しかったー。お兄ちゃんのご飯も美味しかったし、ニールとエイマルちゃんの笑顔が見られたし。わたしは大満足」
後部座席でイリスがしみじみと言うと、助手席のニアが振り向いた。
「僕も楽しかったよ。自分が作った料理を褒めてもらえて嬉しかった。またグレイヴちゃんが色々教えてくれるって言ってたから、レパートリーをもっと増やすよ」
この言葉が聞けたなら、作戦は大成功だ。今後はニアの料理の心配は減るだろう。
「期待してるぞ。ニアが頑張るなら、俺も頑張らなきゃな」
「ニアが美味しいの作れるようになったら、オレももっと美味い酒持って遊びに行くよ」
「レヴィは仕事してろよ」
「あ、あの、僕はたくさんの人と一緒にご飯食べるの楽しいです。大総統閣下も来てください」
「ほら、ニールもこう言ってることだし」
「閣下って呼ばれてるじゃないか。距離置かれてるんだぞ、それ」
賑やかな車内、賑やかな食卓。イリスはこの空気が好きだ。いつか何度も加わった、兄たちの集まりの中にいるようで。――実際、そうだ。第三休憩室ではないが、たしかに幸せな場所だった。
「またみんなでご飯食べようね。今度はアーシェお姉ちゃんたちも一緒に。ドミノさんたち呼んでもいいね」
「パーティだね。そうだね、それくらいできるようになりたいな」
未来の夢が、また一つ増えた。



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2016年07月23日

受け継がれるもの、受け継ぐ人々

任務が続いて、なかなか休みがとれなかったので、今日は久しぶりの非番だ。だがいつものメンバーは仕事なので、一人だけすることがないと暇になる。こんなときは、最近では本を読むのもなかなか面白くなってきたのだけれど、やっぱり外に出たい。
行くところがないわけではないのだが、それまでの時間があいてしまうので。
「……そうだ、お兄ちゃんのところに行けばいいんじゃん!」
さっと支度を済ませ、イリスは寮を飛び出した。目指す先は、兄のいるアパート。
……だったのだが。
土産を買ってから目的地を訪れると、そこには珍しい光景があった。珍しいが、楽しくはない。
「イリス、いらっしゃい。今日は休み?」
兄、ニアの笑顔は穏やかなようで、どこかよそよそしい。イリスにはわかる、これは機嫌が悪い時のニアだ。けれども原因がイリスにはないので、こうして笑っているのだ。
「うん、お休みもらった……。あ、でも、忙しいならお土産だけ置いてくよ」
「上がっていけよ、茶も淹れるから。ニアも茶だけは美味く淹れられるし」
奥からこちらを覗いたルーファ(どうやら彼も休みだったらしい)が、「だけ」を妙に強調して言う。ニアがピクリと眉を動かし、返した。
「そうだね、お茶を淹れるのは得意だと思ってるよ。誰かさんが淹れるみたいに薄くないし」
「はっきり言えばいいだろ、俺の茶が不味いって」
「不味くはないよ。味と香りがないだけで」
ニアとルーファの喧嘩は珍しい、というのがイリスの認識だ。大抵の場合、何かあっても先にルーファが折れるので、ここまでピリピリした空気にはならない。ところが今日はルーファのほうにも、そう簡単に引き下がる気配がない。
玄関で立ち竦んでいると、奥から少年が困った顔をしてやってきた。とある事情でこの家に住むことになった、ニールという彼にとって、たぶんこんな状況は初めてだろう。
「イリスさん、いらっしゃいませ」
「おはよ、ニール。……ねえ、お兄ちゃんとルー兄ちゃん、何かあったの?」
声を潜めて尋ねると、ニールは半分泣きそうになりながら、こちらも小さな声で言った。
「朝ごはんのときに、ちょっと」
ことは朝食のときに起こった。普段はパンとインスタントのスープなどで軽く済ませるのだが、今日はサラダや卵料理、ちゃんと作ったスープなど品数が多かったという。
たまにはちゃんとやらなきゃね、とニアは笑っていた。そのときは朝食の準備をやりきった、清々しい笑顔だった。
ところが遅く起きてきたルーファは、食卓を見るなり難しい顔をした。これは全部ニアが作ったのか、と怪訝な表情で尋ねる。まだ何か用意しようとしていたニアに代わって、ニールが頷いた。
いつもならきちんと席について、「いただきます」と食事を始めるところだ。だがルーファはパン以外の料理――サラダ、スクランブルエッグ、スープを少しずつ口に含んで、そのたびに咳き込んだ。そしてニールに言ったのだ。「食うな」と。
「僕は結局食べてないんですけど、なんだか味が……その、普通と違ったみたいで。ニアさんはそれを聞いてちょっと機嫌が悪くなったんです。でもそのあとがもっと大変で……」
美味しくないっていうなら、ルーがやってみてよ。機嫌を損ねたニアがルーファに場所を譲った。残った材料で、ルーファはテーブルに並んでいるのと同じメニューを作ろうとした……のだと思う。なにしろ出来上がったのがなぜか全て彩りが悪く、卵に至っては真っ黒になっていたので、本当のところがわからなくなってしまった。それを見たニアが、「ほら、ルーだってできないじゃない」と溜息を吐いたところから、状況はより険悪になった。
味はお前のよりマシだよ。見た目がきれいじゃなきゃ食べる気すら起きないじゃないか。だいたい料理の練習してるっていうけど、全然上達してないだろ。人の苦労も知らないで自分のことを棚に上げて、今日だって寝坊したくせに、そんな言い方ないんじゃない。
あからさまに騒いでいるわけではないのだけれど、二人のやり取りがどんどん激しくなっているのが、ニールにもわかった。あいだに入っていこうにも、どうしたらいいのかわからない。どちらかの味方をしようにも、そうすればどちらかと拗れてしまう。
そうして困っていたところにやってきたのが、イリスだったというわけだ。
「あー……ついにこの話題で爆発しちゃったのね。みんな揃ってゆっくり朝ごはん食べられると思ったから、お兄ちゃんってば頑張りすぎちゃったのか……」
イリスもわかっている。ニアは料理が下手だ。見た目はとてもきれいに作ることができるのだが、味に関しては本人の味覚が少々性質の悪い方向におかしいのもあって、食べるのは難しい。
食事の相手がルーファ一人なら、黙って完食しただろう。だが、子供であるニールがいるとなれば別だ。子供にはまともなものを食べさせてやりたいというルーファの気持ちは、イリスにはよくわかる。けれども子供がいるからこそはりきって食事を準備したニアの気持ちも、同じくらい理解できる。
「あの、僕がいるから喧嘩になっちゃったんでしょうか……」
結局ニールが狼狽してしまうということに、二人は気づいているのかどうか。
「ニールは悪くないよ。いずれはこうなると思って、わたしもお兄ちゃんに料理教えてたんだけどね。やっぱりまだだめだったか」
イリスは溜息を吐いて、それからニールに彼の靴を差し出した。首を傾げる少年に、にっこり笑ってみせる。
「わたしと朝ごはん食べに行こう、ニール。お兄ちゃんたちの機嫌が直ってから帰って来ればいいよ」
「え、でも」
「だてに幼馴染やってないから、そのうち仲直りするでしょ。でもそれまでニールがお腹空かせてるなんて道理はない。というわけで、お兄ちゃん、ルー兄ちゃん、なんとかしておいてよね。ニールはわたしが預かった! あと今日の予定、忘れないでよね!」
ええ、とか、なんだと、とか、そんな声を聞きながらニールに靴を履かせ、手を引っ張って外へ連れ出す。行くあてはある。どうせ行こうと思っていた。
「本当にいいんでしょうか……」
「いいのいいの。たまに喧嘩させないと、あの二人もすっきりしないし」
振り返り振り返り歩くニールを連れて、イリスが向かったのは慣れ親しんだ場所。

「ごちそうさまでした。あの、食器はどこに」
「いいのよ、私が片付けるから。普段からちゃんとお手伝いしてるのね、ニール君偉いわ」
パンにベーコンエッグという簡単だが美味しい朝食を平らげたニールに、シィレーネは嬉しそうだった。彼女も料理が得意というわけではないが、それはアレンジが酷いというだけで、まともに作ればごく普通のものが出てくる。
イリスがニールを連れてきたのは、実家であるインフェリア邸だった。正確に言えばインフェリア邸と呼ばれる建物は現在このあたりに二つ存在していて、一つはイリスの生家であるここ、もう一つは祖父母が住むところだ。イリスはこの両方に用事があった。
「ニアもルーもしょうがないな。みんなまとめて、うちで飯食わせればよかったのに」
腕組みをするカスケードに、イリスは首を横に振る。それではだめなのだ。兄たちの本音を封じ込めてしまうことになりかねない。
「それに、お兄ちゃんは自分の作ったものをちゃんと片付けないと。ルー兄ちゃんも、自分だけなら食べるでしょ。一番は二人ともがまともに料理できるようになることなんだけど、もうちょっと先のことだろうね」
「どうしたんだろうな、あの味覚……。俺、辛いのは平気だし好きだけど、ニアほどじゃないぞ」
カスケードが遠い目をしているあいだに、湯が沸いた。すかさずイリスが茶葉を用意し、熱い茶を淹れる。こっちに持ってきた土産のクッキーとよく合うはずだ。
「本当はアイスクリームかなって思ったんだけど、まだ店開いてないよね」
「そうだな、まだだ。それは後で、出かけたときにしよう」
朝食を食べたばかりのニールの前で、茶会の準備を着々と進める。クッキーは食べられそうだったら摘めばいい。
全員の前にそれぞれのカップを置いてから、誰もいないところにもう一つ、湯気の立つカップを置いた。クッキーも一枚添えておく。それを見て、ニールが不思議そうにしていた。
無理もない。彼は知らないのだから。誰も教えていないことだし。
「それ、誰の分ですか? ニアさん、来るんですか?」
「うーん……お兄ちゃんはまだ来ないけど、ニアさんの分ではあるよ」
「?」
ややこしい。イリスでさえいまだにそう思うのだから、ニールはもっとわからないだろう。そう、これはたしかにニアの分であって、ニアの分ではない。――その名が指す人が違うのだ。
にんまりと笑ったカスケードが、ニールに向かって言った。
「今日はニアの誕生日なんだ。……が、ニールの知っているニアじゃない」
「どういうことですか? ニアさんの誕生日も、たしかもう過ぎたはずじゃ……」
「ニアはニア・インフェリアだけの名前じゃないんだよ。この名前のもとになった人物がいたんだ」
カスケードの笑顔が少し切なげになる。イリスはこの表情をずっと見てきた。兄の名前の由来を知る前から、ずっと。
「俺には幼馴染がいたんだ。そいつの名前が、ニアっていうんだよ」
いつかも、そうして語ってくれたっけ。イリスはその物語を聞きながら細めた目で、ニールを眺めた。

ニア・ジューンリー。それがカスケードの幼馴染であり、親友である人の名前だ。今はもうこの世にはいない。イリスが生まれるよりもずっと前、まだカスケードが少年といえる年だった頃、亡くなっている。
曰く、聡明で、強い人だった。光に透かすと緑色にきらきらと輝く髪を靡かせ、笑ったり怒ったりしながら、いつだってカスケードの隣にいた。
喧嘩だって何度もしたけれど、すぐに仲直りして、離れることはなかった。
「一緒に出掛けたときに、俺が忘れ物をして戻ったことがあったな。ニアが止めるのも聞かずに。また合流した時には、すっかり機嫌を損ねてて、アイスを奢ってやっと許してもらえたんだった」
親友のニアの話をするとき、カスケードは幸せそうで、けれどもどこか寂しそうだ。否が応にもそれが過去のことであり、もうその人はいないのだということを、認めることになってしまうから。
その幸せな時間を終わらせてしまったのが、自分の不注意だったということを思い出してしまうから。
イリスもその事件のことはよく知っていて、任務にあたるときにはいつも心に留めておく。気づけなかった、救えなかった後悔はしたくない。けれども他の誰かに同じ後悔をさせるのも嫌だ。必ず無事でいようと、そうして誓う。
ニールに対しても同じことを思っていた。気づいて、救えて、本当に良かった。そしてこれからも守り続けなければならないと決めている。後悔をしたくないから、何が何でも守り抜きたい。
その思いはもちろん、兄であるニアも同じだ。だから彼は、カスケードの親友であるニアが目指したものと同じものを目指したのだ。――「人を助ける軍人」。今はもう軍からは退いたけれど、人を助けたいという思いは変わらない。ニールと暮らしているのも、そのためだ。
一緒にそれを目指そうと誓ったパートナーと一緒に。

カスケード、もっとよく注意しなくちゃだめだよ。集中して物事に取り組まなくちゃ。そんな小言に彩られた日々のことを、ニールは真剣に聞いていた。ときどき笑いながら、でも、そこに何かを重ねながら。
イリスもそうだった。ニア・ジューンリーは、どこかニア・インフェリアと似ている。そう思って何度も話を聞いてきた。主に誕生日と命日に。カスケードは飽きずに、何度でも語るのだった。
「おじいちゃんの親友のニアさんは、すごい人なんですね。頭が良くて、明るくて」
「ちょっと強情なところもあったけどな。俺には見せなかった、ほんの少し我儘な部分もあったみたいだ。本当はそういうのも受け止めてやれてたら良かったんだろうけど」
「やっぱり似てますね、ニアさんと」
くつくつとニールが笑う。そうだろう、とカスケードも笑う。シィレーネも、イリスと顔を見合わせて微笑む。言葉にせずに、この話を楽しそうにするお父さんが好きなのよ、と言っている。
ニア・ジューンリーに関して語れる人物は少ない。彼は軍に入ってカスケードと会ったとき、すでに両親を亡くしていた。身寄りのない子供が十歳を迎えると同時に軍に入ることは、この国では珍しくない。
カスケードは自分の知っているニア・ジューンリーを人々に語ることで、彼をこの世界に遺そうとしている。彼が生まれ、軍に入り、自分と出会ったことを、忘れられないように。
それが親友としてできる最後のことだと思っているのだ。
自分にもいつかそんなふうに思う日が来るのだろうかと、イリスはときどき考える。ニールは、どう感じただろう。

カスケードがニアの墓参りに行くというのを――今日の一番の予定はこれだったのだ――少し待ってもらって、イリスは祖父母宅に向かった。インフェリア家に関する史料を探してもらっていたのを、受け取ろうと思っていたのだ。ニールも祖父母に会いたいからとついてきた。
「イリスさん、昔からあの話知ってたんですよね。ニアさんも」
「お父さんの親友の話? そうだね、暗記するくらい聞かされたから」
「だったら、ニアさんとルーファさんも、仲直りしますよね。二人も、幼馴染で親友で、パートナーなんですから」
同じことを考えていたな。イリスはにんまり笑って、ニールの頭を撫でた。それが返事。あんな些細な喧嘩なんて、今頃はもうおさまっているだろう。
増えた荷物を抱えて、カスケードとともに軍人墓地に向かうと、やはり二人はもう来ていた。とうに喧嘩は解決したようで、ごめんね、とニールを抱きしめた。喧嘩をしていても今日のことはちゃんと覚えていて、ニールのことも大切に思っていたのだ。それでいい。それがわかれば、イリスは安心だ。
「お父さん、ニアさんはこの光景をどう思うだろうね?」
「賑やかだねって笑ってるかもな。きっとニールのことも、大好きになってくれるさ」
「そっか。……そうだよね、お父さんが言うなら」
ニア・ジューンリーは十八歳でこの世を去った。けれどもその思い出と志はこの世界にたしかに遺り、受け継がれている。
「ちなみに、お父さんとニアさんのよくある喧嘩の原因は何だったの?」
「俺が訓練を真面目にやっているかいないか、ニアの分のアイスを勝手に食べてないか」
「なんだ、お父さんが原因なんじゃん。親子そろって、まったく」
「まったく、だな。……そういうしっかりしたところ、イリスもニアに似てるよ」
顔を見合わせて笑ったら、もう一つ、かすかな笑い声が重なった気がした。



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2016年07月18日

その人を呼ぶこと

軍家インフェリア。建国御三家の一柱であり、この国の頂点である大総統を何度も輩出している名家だ。歴史の文献にも名を遺し、その力は伝説として語り継がれる、「地獄の番人」。
「君がニールか。賢そうな顔をしてるな。まあ、そんなに緊張せずに、そこにあるクッキーでも食べろ。茶はとりあえずアップルティーにしてみたけど、他にもいろいろあるぞ」
施設にあった歴史の本にそう書いてあったから、どんな怖い家なのかと思っていた。けれども自分を引き取ってくれたニアがインフェリア家の人間だと知り、少しイメージが変わった。さらにニアの妹であるイリスがとても気さくで明るいお姉さんだとわかって、インフェリア家が軍家であることを忘れた。
「ああ、自己紹介をちゃんとしておかなきゃな。俺はカスケード・インフェリア。ニアとイリスの父親だ。ニールは気軽に、おじいちゃん、と呼んでくれていいぞ!」
そしてこの現当主に会って、インフェリア家への恐怖は完全に消え去ったのだった。
「え、ええと……」
血の繋がりもないのに、本当におじいちゃんなんて呼んでいいものか。戸惑うニールに、ニアが微笑む。
「気にしないで、好きなように呼べばいいよ。それとクッキーは、ニールの口に合わないかもしれないから、手を出さないほうが無難かも。買ってきたケーキを切るから待ってて」
「は、はい……」
ニール・シュタイナーは、この日初めてインフェリア家を訪れた。先日、もう一人の引き取り手であるルーファの実家に行って、盛大なもてなしを受けてきたところだが、こちらも負けてはいない。大勢の使用人や毛足の長い豪奢な絨毯こそないが、歓迎の度合いはどうやらそう変わらない。
ニアとともに簡単に挨拶をするはずが、いつのまにやら椅子に座らされ、テーブルの上にたくさんのお菓子と良い香りのするお茶を広げられていた。
緊張しながらカップを手に取り、リンゴの香りのお茶を一口飲んで、ようやく息を吐くことができた。お茶の味は、普段生活をしているニアとルーファの家のものと同じだ。
「美味いか?」
しかしそう尋ねてくる声は、さっき会ったばかりの人のもの。ニアと同じ暗い青色の髪と海色の瞳をしているが、体はずっと大きい。年齢は五十をとうに越えて六十に近いというが、もう少し若く見える。だがたしかに、ニアたちよりは年上であり、この大きな家の主らしい風格もどことなく感じるのだった。口調が明るいので、その分だけ、ほんの少しだが、気が楽だった。
「お、美味しいです。クッキーもいただきます」
手を伸ばして、皿に盛られたクッキーを一枚取る。ニアが「あ、だからそれは」と言うのが聞こえたのと、クッキーを口に含むのは同時だった。……食感はたしかにクッキーなのだが、味がおかしい。クッキーとは砂糖が入っているものではなかったか。少なくとも唐辛子や胡椒は入らないはずだが。
「……か、からい……?」
「ほら、だから口に合わないかもって言ったのに。母さん、ニールのは甘くしてって言ったよね」
「もう甘いクッキーの作り方なんて忘れちゃったわよ。またシェリーさんに訊かなくちゃ」
台所から聞こえる可愛らしい声が、恐ろしいことを言う。やっぱりインフェリア家は怖い家かもしれないと、また思い始めたニールだった。

今日はルーファは仕事、いつも遊びに来るイリスも同じく仕事だ。何故かしょっちゅうやってくる大総統閣下ももちろん仕事である。ニアは自由業なので、仕事の調整さえつけば出かけることができる。
インフェリア家訪問も、ニアが引き受けていた仕事を一段落させて、やっと実現できたことだった。ニールについてニアが実家に報告をしてから、一週間が経っている。そのあいだ、ニアのところには「まだニールを連れてこないのか」という実家からの催促の電話が毎日きていた。
「インフェリア家は軍家だけど、父さんと母さんはあんまりそういうの気にしてないから。怖がることはないよ。それより早くニールに会いたいみたい」
半ば呆れて引き攣った笑いを浮かべ、昨夜のニアは言った。軍人はまだ少しだけ怖いが、ニアがそう言うなら行ってみたい。ニールはそう思って頷き、この家を訪れた。実際、カスケードも、ニアの母であるシィレーネも、元軍人とは思えないような、優しくて人懐っこい人物だ。それをいうなら、現役の軍人であるイリスもそうなのだけれど。
「わあ、ニアの小さい頃の服がぴったり! これなら買っておいた新しい服も着られるわね」
シィレーネが古くもきちんと手入れのしてある服をニールにあてて喜ぶ。残念なクッキーを作ってしまう人だが、ニールのことは本当に可愛いらしい。
「やっぱり小さい子はいいわね。成長してももちろん可愛いんだけど、この年頃はまた違うのよ。ニアもイリスも、こんなにちっちゃかったのにね」
ニールには想像ができない。自分が着られるような小さい服を、ニアやイリスも着ていたことがあるだなんて。二人とも、年齢の割に背が低く手足も細いニールから見れば、随分と大きいのに。
「昔のニアは絵を描くのが好きだったな。あ、それは今もか。性格は素直で可愛かったんだぞ」
「はいはい、今は可愛くないね、ごめんね。ニール、新しい服着てみたら? 母さんたち、気合入れて選んだらしいよ」
「新しいの……いいんですか?」
「もちろんよ! それとね、敬語なんかいいわよ。気軽におばあちゃんって呼んで」
おばあちゃんと呼ぶには、シィレーネはまだ若いような。そんな気持ちもあって、ニールはその言葉を口に出せない。とりあえずは「はい」と返事をしておいた。
インフェリア家の人々は、思っていたよりずっと元気で賑やかな人たちだ。顔をよく見れば、ニアはシィレーネに、イリスはカスケードに似ているようだ。そこに全く似ていない自分が入っていいものか、とニールはどうしても考えてしまう。ニアやイリスは、家族だ、と言ってくれるけれど。
新しい服もどうしても不釣り合いな気がしてしまって、嬉しいのに、少し胸が苦しかった。
「おお、よく似合ってるじゃないか。写真を撮っておこう」
喜んでカメラを構えるカスケードに、本当は笑顔を向けるべきなのだろう。でもニールは、うまく笑えている気がしなくて、ついニアの後ろに逃げ込んでしまった。カスケードたちに、こんなに良い人たちに、ぎこちない表情を残すなんてできない。
「写真、あんまり好きじゃなかったか?」
「いきなりカメラ向けられたらびっくりするよ。レヴィもカメラ持って来るけど、未だに撮らせてもらえないんだから」
「まあ、そうだよな。俺が悪かった。写真はもっと慣れてからだな」
カスケードがカメラを下ろすと、ニールはホッとした。そんな自分が嫌になった。
本当に可愛い子供というのは、大人に笑顔を見せるものだろうに、自分はそれができないのだ。母を喪ったあの日に、笑顔は置いてきてしまった。ちょっと笑うくらいならする。面白いことは面白いし、嬉しいことは嬉しい。でも、それを表に出せている気がしないのだ。
ニアの後ろから出てこないニールを、カスケードはしばらく見ていた。それから唐突に、ぱちん、と指を鳴らして、何か愉快なことを思いついたという顔をした。ここ最近見ていた、絵を描くのに良い色を作ることができたときのニアに似ている。
「よし、ニール。今日はいい天気だし、気温もなかなか高い。そんな日にぴったりのいいものを、俺と一緒に食べに行こうか」
「食べに、ですか?」
テーブルの上に、もうたくさんお菓子があるというのに。でもそんなことはまるで気にしていないふうに、カスケードは鼻歌まじりにこちらへやってきた。そして突然、ニールの脇の下に手を入れ、ひょいと頭上に掲げた。
「わ、わ、高い」
「だろ? 足を俺の肩にかけろ。……そうそう、上手だ」
言われるままにすると、肩車になった。建物にあがる以外の方法で、こんな高さでものを見たことはない。誰かの肩に乗るなんて、生まれて初めてだった。
「そっか、それは父さんにしかできないね。ルーだと微妙に低いし。ていうか、よくそんな体力あるね」
「ニールが軽いんだ。ちゃんと食ってるか? ニア、普段の食事はどうしてるんだ」
「グレイヴちゃんやアーシェちゃんの差し入れか、パン食べてる。イリスにはもっと食べさせてあげなよって怒られた」
「それは怒るだろ。ニアは俺とニールが出かけているあいだに、シィに料理を習っておけ。辛くないやつな」
どうやらカスケードは、このまま出かけるつもりらしい。ニールは戸惑った顔をニアに向けたが、「いってらっしゃい」と帽子を渡され、手を振られてしまった。ドアを通るときも言われるままに頭を下げ、玄関で靴を履かされ、そのまま外へ連れ出されてしまう。
「本当にいい天気だな。帽子、ちゃんとかぶっておけよ」
「はい……」
視界が広いおかげで、肩車は、それも二メートルをゆうに超えたものは目立つということもよくわかってしまった。ニールは帽子のつばで顔を隠し、カスケードの肩の上で背中を丸めた。

街は、ニールが母を喪う前と後とで変わっている様子がない。インフェリア邸に向かうときも思ったが、誰も何事もないように歩いている。賑やかに笑い、ある人は怒り、何を考えているのかまったくわからない人もいる。自分と母が巻き込まれた事件は随分と話題になったそうだが、それも一時期のことで、今はみんな忘れてしまっているのだろう。
視線が集まっている気がするのは、肩車が目立つからで、それをしているのがカスケードだからだ。ときどき、「元大総統閣下だ」という囁きが聞こえる。それが耳に届けば、カスケードはすぐにそちらを振り返り、手を振って挨拶をするのだった。
「こんにちは、いい天気ですね」
「ええ、暑いくらいで。あの、そちらのお子さんは?」
「うちの新しい家族です。どうぞよろしく」
普通なら変に思いそうな紹介も、なぜか誰もが「インフェリアさんのとこなら」と納得した。飴をくれる人もいる。「またですか」と笑われることもある。……また?
歩きながら、カスケードが説明してくれた。どうやらインフェリア邸には、ニールがまだ会っていない住人がいるらしい。
「ラヴェンダっていうお姉さんがいるんだよ。見た目はイリスと同じくらいか。お父さんが迎えに来るまで、うちで預かることになってるんだ。パン屋で仕事してるから、ちょっと顔を出していこう」
そう言って、美味しそうな良い匂いのする通りに入り、脇に整然と並ぶ店の一軒に入ろうとした。が、扉の前で止められる。「ちょっと、お客さん」と声をかけた相手を見下ろすと、店の看板と同じデザインの文字が書いてあるエプロン姿の女の人だった。
「店に入るときは肩車禁止。そんなに広い店じゃないからね」
「惜しいけど仕方ないな。そうだ、シェリーちゃんにも紹介するよ。うちのニール」
屈んで、ニールを肩からおろしながら、カスケードが言う。パン屋の人らしい女性は、「ああ、シィが言ってた子」と頷いた。
「可愛いじゃない。エイマルの一つ下だっけ。はじめまして、おばさんはシェリアっていうの」
「は、はじめまして。ニール・シュタイナーです」
「小さい頃のニアを思い出すなあ。似てるよね」
「シェリーちゃんもそう思う? ニアよりちょっと内気だけどな。ニール、シェリーちゃんはニアのお母さんの親友なんだ。うちのパンはだいたいこの店のだな」
道理で親しいわけだ。納得するニールの頭を帽子の上からぐりぐり撫でてから、シェリアは店の中へ通してくれた。
パンの香ばしい匂いと、果物やハーブの香り。以前、ここではない別の店に、母と行ったことを思い出した。大きくて甘いパンを一つだけ買って、二人で分けて食べたのだった。
対してカスケードは、トレイの上にどんどんパンを載せていく。ニールにも好きなものを訊いてくれたけれど、思い出の中のパンはこの店にはないので、なんでもいいです、と返した。実際、どれが美味しいのかわからない。ニアたちのところに来てから食べているパンも、ここのものではないそうだし。どれも美味しいのだろうけれど、ニールの知らない味であることには変わりない。
「持って帰って、ニアたちと一緒に食べるといい。ニアもここのパンは好きなはずなのに、あんまり来ないからな」
「そうね、私がいるからかしら」
カスケードについてレジカウンターへ向かおうとしたところに、突然女性が立ちはだかった。思わずカスケードの後ろに隠れたが、よく見ると店のエプロンをつけている。栗色の髪をまとめた彼女は、カスケードとニールを交互に見た。
「シェリアから連れてきてるってさっき聞いたけど、本当に小さいのね」
「お疲れ、ラヴェンダ。ニール、この人がうちに住んでるお姉さんだ」
イリスと同じくらいの年頃とさっき言っていたような気がするが、ラヴェンダという人は背がさほど高くなく、顔立ちもイリスより少しだけ幼く見える。けれども、こちらをまるで品定めでもするかのような眼は、もっと年上の人のもののように感じた。
「人見知りするんだよ。さっきは俺も逃げられた」
「へえ。……ま、私はほとんど家にいないから、安心しなさい」
笑顔もなんだか妖しい。この人にはまだしばらく慣れることができないかもしれない、とニールは思った。それに、この人がさっき言ったことも気になる。会計をしてパン屋を出て、今度はカスケードと手をつないで歩きながら、ニールはおそるおそる尋ねてみた。
「あの、どうしてラヴェンダさんがパン屋さんにいると、ニアさんが来ないんですか?」
カスケードは困ったように笑って、「なんて説明したらいいかな」と呟いた。
「ニアは、ラヴェンダとどう付き合っていいか、長いこと考えてるんだよ。仲が悪いわけじゃないんだけど、距離をおいてるんだ。一応はルーのいとこみたいなものでもあるから、普通に仲良くしてほしいんだけどな」
「ルーファさんのいとこですか? ラヴェンダさんが?」
「そのあたりの事情は複雑なんだよ。俺も説明に困る。これはルーに聞いたほうが、わかりやすい答えをもらえるかもしれない。……でも、ラヴェンダも今はうちの大切な一員ってことには変わりない。そのうち慣れてくれよ」
ニールはこくりと頷いて、いつになったら慣れられるかな、と思った。ラヴェンダのことだけではなく、ほかのたくさんのことにも。そこには手をつないでくれている、カスケードの存在も含まれている。
おじいちゃんと呼んでくれ、とこの人は言った。でもニアとニールは親子ではないのだから、カスケードはニールの祖父にはなりえない、と思う。そもそも今までおじいちゃんと呼べる人がいなかったニールには、その存在自体を掴みにくい。この人を、これからどうとらえたらいいのだろう。
インフェリア家の人たちは、ニールにとって何なのだろう。

パンの匂いとともに歩いていくと、人だかりができているのに遭遇した。突然乱暴な怒号が響き、ニールはとっさにカスケードにしがみついた。そっとニールの頭を撫でてくれた手は大きくて優しいけれど、いくらかの緊張が伝わってくる。
「あれは……喧嘩、ではなさそうだな。でも穏やかじゃない雰囲気だ。解散させたほうが街のためだな」
背の高いカスケードには、何が起こっているのか見えるようだ。屈んでニールと目線を合わせると、真剣さと心配が混じったような声で言う。
「俺はあの集団をなんとかしてくる。ニール、ここで待っていられるか?」
周りには通りすがる人がいる。みんな人だかりを避けていく。怒鳴る声が、ときどきそんな関係のない人たちにまで飛んだ。――ここは、怖い。
首を横に振って、カスケードにしがみついた。そもそもなんとかするって、どうするつもりなのだ、この人は。
「……そうだよな、待てないよな、ひとりでなんて。もうそんな思い、したくないよな」
抱きしめ返して、背中を優しく叩いてくれる。この人に危ない目に遭ってほしくない。怖いところなんかさっさと通り過ぎて、もう帰ろう。そう言いたかったのだけれど。
「でも、俺は見過ごせないんだ。あの集団を放っておいたら、怖がる人はもっと増える。軍の見回り時間は、このあたりはもうとっくに過ぎているから、誰かが通報しない限り人は来ない。来たとしても、あれをなんとかするには時間がかかるだろう。そうたくさんの人を寄越せるような案件でもないしな」
カスケードはそのままニールを抱き上げた。そして、帽子を深くかぶり直させて、「耳を塞いで目を瞑っていろ」と囁いた。
この人は何をする気なんだろう。言う通りにしていたら、それがわからなくなる。わからないほうが、怖くなくていいのかもしれない、けど。どうにかできるものならば、どうするのかも気になってしまった。
だからほんの少しだけ目を開け、手は耳に軽く触れるだけにしておいた。がなり立てる声がだんだんと近づいてくる。いや、カスケードが声のほうへ歩いていっているのだ。
「お前たち、何やってるんだ?」
騒いでいた集団にかけた声は、ニールに話しかけるそれとは違う。どきりとするような、重さをもったものだった。
「何って、遊んでるだけだよ」
「弱い奴を鍛えてやってんの。おっさんの出る幕じゃねぇから」
品が良いとはとてもいえない笑い声が響く。ちらりと周りを見ると、人だかりになっていたのはみんながそこに群がっていたのではなくて、そこから動けなくなっていたのだとわかった。腕や足を、おさえたり引きずったりしている。屈んでいるのではなくて、体を痛めて立ち上がれないのだ。
「何をして鍛えてたんだ」
「アームレスリングだよ。足も使うけどな」
それはもう、アームレスリングとはいわないのでは。少なくとも、ニールの知っているそれとは違う。そっと振り向くと、カスケードより身長は低いが、腕の筋肉が隆々と盛り上がっている男がいて、足を踏み鳴らしていた。この男と取り巻きが、周りの人たちを痛めつけたのだろう。
「そういう感心しない遊びがあるのは聞いたことがあるけど、往来でやるのはもっと良くないぞ。通る人が怖がってるじゃないか」
「知るかよ。無謀な挑戦してくる小者と逃げてく弱虫なんか、どうでもいいね」
そうだ、そうだと取り巻きたちが騒ぐ。どうでもいいなら放っておいてくれればいいのだけど、彼らの言い分はきっとそういうことではないのだ。「自分たちが何かをした結果、他がどうなろうと、どうでもいい」という、なんとも身勝手な思いがそこにある。その「悪意」を、ニールは知っていた。その「悪意」に大切な人を奪われ、自分も殺されかけたのだ。
やっぱり、言われたように耳を塞いで、目を閉じていよう。怖くないように。
「じゃあ、勝算のある挑戦者ならどうだ。どうでもよくはならないな?」
けれども力強い声に聴き入ってしまった。目を開けて、その表情を見たくなってしまった。
「俺も勝負を申し込もうじゃないか。そして俺が勝ったら、この場から速やかに立ち去るように」
ニールは顔をあげる。男たちを睨むでもなく、ただまっすぐにその海色を向ける人が見えた。
「なんだこのおっさん……」
男の声が震えたのがわかった。気圧されたんだ、と思うと、ニールの胸がどきどきしてくる。怖いからではなく、これから何が起きるのかという期待だ。不思議と恐怖は薄れていて、自分から口を開くことができた。
「あの、僕、おりて見てます」
「見てるのか? ちょっと離れててほしいんだけど……」
「わかってます。道の向こう側にいます」
カスケードが地面におろしてくれたのと同時に、ニールは走ってその場を離れた。そして通りかかった人を思い切って引き留め、頼みごとをした。
道の向こうではカスケードが相手と手を組み、肘を台の上に置いた。取り巻きの合図で、アームレスリングとは名ばかりの、数人がかりでの酷い暴行が始まった。
取り巻きがカスケードの足を、わき腹を、蹴ったり殴ったりする。周りで動けない人たちも、ああして攻撃されたのだろう。そんな中で、腕に力を込めろというのが無茶だ。
「どうした、おっさん。大口叩いてこの程度かよ!」
男がカスケードの腕を倒そうと、力を込めている。それは遠目にもわかる。だがその口調とは裏腹に、どこか焦っているような。ニールの目と耳には、そう感じた。
腕に力を込められているはずなのだ。体中に拳や蹴りも浴びている。だが、カスケードの体は動いていなかった。腕をねじられ倒されることもない。男がリードしているように見えるが、その位置で止まっている。
ついに頭まで殴られるのを見て、ニールは思わず目を瞑った。だがもう一度開いたとき、状況はその前と何一つとして変わっていなかった。――いや、違う。男と取り巻きたちが戸惑っているのが、はっきりと見えた。
「……この程度、ね。俺も同じことを、お前らに訊きたい」
遠くから来る足音も、車のやってくる音も、ニールの意識に入ってこない。聞こえてくるのは、獅子の呻り声のみ。
「この程度で威張っていたのか? 不良一人よりぬるいぞ。まだまだ経験が浅いな、若造ども!」
目に飛び込んでくるのは、腕だけではなく体ごとひっくり返される男と、散って逃げる取り巻きたち、その中心に堂々と立つ、青い大きな獅子の姿。
ああ、これだ、とニールは息を呑む。これが「地獄の番人」、インフェリアなのだ。

逃げようとした取り巻きたちは、すぐに駆けつけた軍人に取り押さえられた。体を打撲や捻挫で痛めていた人たちは、軍と一緒にやってきた救急隊に運ばれた。それを地面に転がったまま唖然として見ていたリーダーの男は、軍人の少女に襟首を掴まれた。
「まったく、この忙しくて暑い日に、変な騒ぎなんか起こしてくれちゃって。元大総統相手に暴れたって、敵うわけないじゃない」
現場にやってきたイリスは大きな溜息を吐き、男を立ち上がらせた。すっかり大人しくなってしまった彼は、されるがままに従う。
「イリス、悪いな。予想より来た軍人が多いみたいだけど、レヴィの判断か? それと救急まで」
服についた土埃を払いながらカスケードが尋ねると、イリスはさらに眉を顰めた。
「レヴィ兄じゃないよ、こんな些細なの。でも、カスケード・インフェリアが大勢の人を相手にしてて、怪我人も何人も出てる、なんて通報受けたら、こっちだってそれなりの対応しなきゃいけないじゃない。わたしは別の仕事があったんだけど、お父さんのために動いてあげたんだからね!」
「名指しの通報? そんなの誰が……」
首を傾げたカスケードに、駆け寄ってしがみついた者があった。イリスも彼を注視する。
「あれ、ニール? なんでこんなところにいるの?」
「俺と一緒に出かけてたんだ。ごめんな、怖かっただろ」
カスケードが屈みこんで、ニールの顔を見た。眉が八の字になってはいたけれど、それは恐怖のせいではない。金の瞳に怯えはなかった。
「あの……僕が、通りかかった人に頼んだんです。今、イリスさんが言ったみたいな通報をしてほしいって。ええと、もしかして変な誤解とかありましたか? イリスさんたちに迷惑かけましたか?」
「ニールが?」
カスケードは目を瞠り、イリスは掴んでいた男を放り投げた。男は他の軍人が受け止め、そのまま連れて行く。それをニールが目で追おうとした瞬間に、イリスが抱きついてきた。
「偉い! よく頑張った! ニールのおかげですぐに駆けつけられたんだもん、全然迷惑なんかじゃない!」
「そうだな。俺も熱くなってて、後のことあんまり考えてなかったから、ニールに助けられたよ。ありがとう」
「あ、あの……ええと、僕、迷惑じゃなかったんですね? イリスさん、別の仕事とか言ってましたけど……」
「そんなの気にしないで。いつだって何度だって人を助けることが、わたしたちの仕事だもの。軍を頼ってくれて、ありがとう」
ご協力ありがとうございました、と敬礼してみせたイリスに、ニールは照れながら、ぺこりと一礼した。その頭を撫でながら、イリスはカスケードに向き直る。
「さて、本件の当事者であるお父さんには、色々と訊きたいことがあるんだけど……」
「あとで必ず行く。だから先にニールを送らせてくれ。アイスクリーム食べさせたかっただけなんだけど、どうしてこんなことになったかな」
「アイスね。今度わたしにも奢ってくれるんなら、待ってあげてもいいよ」
その時はまた、ニールも一緒にね。そう言ってイリスは、仕事に戻っていった。

そこはもう長いこと街で人気のアイスクリーム店だそうで、今日も列ができていた。ニールが近くのベンチに座って待っていると、カスケードは「やれやれ」とアイスクリームのカップを持って戻ってきた。
「老体に鞭打った後の行列はきついな。でもここのアイス食べたら回復するんだ、あっという間にな」
「ありがとうございます」
カップを受け取り、いただきます、と言って一口。なるほど、これは行列もできるわけだ。何のトッピングもない普通のバニラ味のアイスクリームなのに、今まで食べたことのない美味しさだった。
「とっても美味しいです」
「だろ? 子供の頃、親友とよく来たんだ」
嬉しそうに、自分もアイスクリームを食べるカスケードは、さっきとはまるで別人のようで、けれどもたしかに同じ人物だった。彼はニアとイリスの父であり、元大総統であり、そしてニールにとっての。
「……さっき、すごくかっこよかったです。こんなにすごい人をおじいちゃんって呼んでいいのかなって思うと、どきどきしました」
今、その呼称を口にするのも緊張した。けれども最初の戸惑いではなく、あんまり嬉しくて、本当にこんなことがあっていいのかと思っての緊張だ。
カスケードはにんまりと笑って、ニールの頭を撫でる。
「好きなだけ呼べ。いや、呼んでほしい。知り合いがおじいちゃんとかおばあちゃんとか呼ばれてるのが、俺も羨ましくてな」
目元の笑いじわも、おじいちゃんと呼ぶのを許してくれるようだった。もう一度呼んでみようか、と思ったけれど、アイスクリームが溶けてしまいそうだったので、食べることを優先した。
お土産にはパン。話したいこともたくさん。これからこんな日が、もっともっと増えていく。そう考えると、アイスクリームの美味しさも相まって、ニールの表情は自然と緩んだ。

その晩、ニールが出かけた先であったことを話すと、ルーファは喜んで聞いてくれた。さすがにカスケードが乱暴者たちのところへ乗り込んでいったあたりでは、肝を冷やしたようだったが。
「帰ってからカスケードさんはすぐに軍に行っちゃったんですけど。ちゃんと事情を話さないと、イリスさんに怒られるからって」
「それはそうだよな。ニールが無事で良かったよ。インフェリア家にも慣れたみたいだし」
あのあと、ニアたちの祖父母、アーサーとガーネットにも会った。厳しそうな人ではあったけれど、すでにカスケードのおかげでインフェリア家の「獅子」たる側面も見ていたので、さほど怖いとは思わなかった。むしろちょっと怖かったのは、台所をごちゃごちゃにしてしまっていたニアとシィレーネのほうだ。
「……で、ニールが出かけているあいだの、ニアの修行の成果がこのスープか。たしかに辛くはないけど、しょっぱくもないな。甘いわけでも酸っぱいわけでもない」
「無味って言えばいいじゃない。おかしいな、母さんと作ったときは、もうちょっと味がしたんだけど」
「あ、あの、僕も何か作れるようになりますから……イリスさんも今度教えてくれるって……」
「ううん、ちゃんとしたものをニールに食べさせられるようにならないとね」
明日の朝は、お土産のパンでいい。でも、お昼以降は何が出てくるのだろう。それを考えると、カスケードの無茶を見ている時よりはらはらするニールだった。
「そういえば、うちでは父さんと母さんのこと、おじいちゃんおばあちゃんって言わないの?」
「直接会ったときに呼ぼうと思います。ルーファさんの家では、まだ一度も呼んでないので」
「呼んだら呼んだで動揺しそうだけどな」
ニールにとって、インフェリア家の人々とは何なのか。結局その答えはまだ見つかっていないけれど、これからまだ探せる。ルーファの実家にしてもそうだ。
ただ、そこにはニールの居場所がちゃんとある。それだけはたしかなのだ。



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2016年07月17日

少年は強くなりたい

緑豊かな広い公園と、その中に建つ大きな建物。この敷地全てが、国立博物館のもの。エルニーニャの一般国民代表を自称する「文派」のトップ、大文卿の管理下の範囲だ。
かつて第二十九代大総統ハル・スティーナの治世において、エルニーニャ王国では王宮、軍、文派の三派が協力し合って国政を取り仕切るという決定がなされた。それまでは軍の長、大総統が、同時に国政のほとんど全てを任されていた。王宮は国の象徴として飾り物のように存在し、文派は軍政廃止を唱える一派として認識されていた時代は、その取り決めをもって終わったとされている。
それと同時に、国立博物館に関わる責任は文派の長である大文卿が持つこととなった。しかし大文卿には他にも、国内の教育制度や福祉の充実といった様々な仕事がある。これらはもちろん大総統や王とともに行なうものであるが、優先度が高く比重が大きいものであることに変わりはない。
そこで大文卿の仕事のうち、国立博物館の運営などが大文卿夫人に任されている。元は軍に所属していた彼女だが、その頭脳と仕事の処理能力は一流だ。
その名を、アーシェ・ハルトライム。旧姓、リーガル。――ニアとルーファによると、元同僚、ということだ。
「子供たちがたくさん参加してくれて嬉しいわ。今日はみんなで、博物館とその展示品について、楽しく勉強しましょうね」
人差し指をぴんと立て、たくさんの子供たちに向かって微笑むアーシェは、なるほど女神といって差し支えない。軍に所属していた頃、司令部内でそう呼ばれ、数多のファンがいたそうなのだ。
優しそうな「今日の先生」アーシェに、子供たちも安心したのか、元気よく返事をする。ニールも一緒に声をあげた。

子供向けの博物館案内イベント。館長アーシェが自ら教えるという。ニールが参加するきっかけは、彼女が夕食の差し入れと一緒にくれたチラシだった。
もともとアーシェは、料理がそう得意ではないルーファとニアのもとへ、頻繁に差し入れをしてくれる。ニールもその機会に挨拶をしたのだ。
「へえ、子供向けのイベントなんてやるんだ」
「そうなの。企画立案は私自ら。というわけで参加者を募ってるの。ニール君、良かったら博物館に遊びに来ない? 面白いもの、いっぱいあるよ」
「だって。ニール、興味ある?」
ニアに尋ねられ、その後ろで今夜の夕飯が入った容器(このまま温めればすぐに食べられるらしい)を抱えたニールは、少し考えた。
「……それ、お金かかりますか?」
「国立博物館は、子供は入館無料です! イベントだってそうよ」
「もしかして、僕らに負担がかかるんじゃないかなんて気にしてる? そんなの考えなくていいのに。それにね、たとえお金がかかったって、ニールのためなら惜しまないよ。ルーは毎日働いてるし、僕の絵だって売れるんだから、そんな心配はいらない」
それなら行きたい、と思った。面倒を見てくれているニアとルーファに負担がかからず、見たことがない珍しいものを見られる。安心して楽しんでいいのだ。ニールはこくこくと頷いた。
「行ってみたいです。博物館なんて初めてですけど、ちゃんとした服を着たほうが良いですか?」
「服なんて普段着でいいのよ。構えないで、気楽に遊びに来てね。同年代の子たちもたくさん来てくれる予定だから、友達もできるんじゃないかな。じゃあ、待ってるわね」
美しく微笑んで、アーシェはニールの頭を撫でてくれた。

博物館に展示されている様々なものも不思議だったが、こんなにたくさんの、同じくらいかもっと小さな子供たちと一緒に歩くというのも、ニールにはなかなかない経験だ。しばらくのあいだ児童養護施設にいたことがあるが、そこではあまり周囲に馴染めなかった。というよりも、馴染む前に次の行き先が決まっていたので、思い入れがあまりなかったのだ。
同年代の友達だっていたことがない。昔も今も、周りは大人だらけだ。今のところ一番歳が近い知り合いはニアの妹であるイリスだが、彼女だって九歳も年上のお姉さんなのだ。向こうもニールを子供扱いしていて、一緒に風呂に入ろうとする。というか、入っている。ニールとしては恥ずかしいのだけれど。
そんななか、「友達もできるんじゃないかな」と言われた。実際に子供がたくさん周りにいて、仲が良さそうにお喋りをしたり、触ってもいいと言われた展示物を囲んできゃあきゃあとはしゃいでいる。この輪の中に、入れるのなら。
「おい、お前邪魔」
ところが期待は、突き飛ばされて萎んでしまった。ニールよりも体の大きな、けれども年頃は同じくらいだろうと思われる少年数人が、割り込んできて言い放ったのだ。――「邪魔」。何度となく意識はしてきたけれど、実際に言われるとこんなにショックなものなのか。
「ご……ごめん」
なんとか謝ると、少年たちに睨まれた。それから、にやりと笑われた。彼らは触れる展示品にこれでもかというくらいべたべた触ってから、それを離れて見ていたニールのところにやってきた。
「お前さ、何歳?」
「え、ええと、八歳……」
「なんだよ、俺らと同じじゃん。そんなにチビでがりがりなのに」
ぎゃはは、と声をあげて笑った少年たちに、「ちょっと静かにねー」と声がかかる。アーシェだ。どうやら次の展示品を見に行くらしい。ニールが慌ててついていこうとすると、少年たちに腕をがっしり掴まれた。
「な、何?」
「俺らさ、こんな退屈なイベント、別に来たくなかったんだよ。でも父さんと母さんが勉強してこいっていうから、仕方なく参加してんの」
「だからもっと面白いことしようぜ。博物館の周り、公園になってるじゃん。そこで軍人ごっこしよう」
「でも、僕、イベントを……」
「弱っちい奴は強い奴に逆らえないって決まってんの。ほら、行くぞ」
少年たちの言う通り、力ではとてもじゃないが敵わない。遠くなるアーシェは、ほかのたくさんの子供たちに展示の説明をするのに忙しくて、こちらに気づいていない。大声を出せばわかるのかもしれないけれど、それでは周りに迷惑がかかる。そのまま引っ張られて、ニールは子供たちの団体が向かうのとは逆の方向に連れて行かれてしまった。

公園では何人かの人が寛いでいた。子供たちが数人、館内から出てきても、特に気にしてはいないようだ。展示に飽きてしまう子供は珍しくないのだから、いちいち気に留めない。
それをいいことに、少年たちはこっそり公園内の木の枝を折って、ニールを取り囲んだ。折られてぐったりとして見える木の枝がニールにも放られる。
「お前は凶悪な犯罪者だ。その武器を持って、軍人に抵抗しようとしている」
少年がこちらを指さして言う。そんなことはない、と言い返そうとしたけれど、彼らの中ではたった今そういうことになったのだから、それは無意味だとわかってしまった。
「俺たちは軍人だ。悪い奴を倒して、捕まえる。階級は……まあいいや、とにかく偉いんだ」
偉い人ほどなかなか出てこないものだと思うけど、という言葉も口にはできなかった。ただ枝を手にしてこちらに迫ってくる少年たちが怖い。もしも首に――以前本当に悪人に絞められたことのあるこの首に手をかけられるようなことがあったら、気絶してしまうかもしれない。今でも、触られるだけでも怖気が走るのだ。怖いときは、もっと怖いことばかり考えてしまう。
じりじりと近づいてくる少年たちから距離をとろうと、後退りしたら尻もちをついてしまった。げらげらと笑われ、「情けねえの」「本当に弱っちいな」とからかわれる。
ああ、そうか。弱いから、こんな目にばかり遭うのか。じゃあ、仕方のないことなのかもしれない。ニールは諦めて、目を伏せた。
「ねえ、まだ館内の見学終わってないよ?」
きれいな声が前方、少年たちの向こうから響いたのは、そのとき。アーシェが来てくれたのかと思ったけれど、もっと子供の声だ。けれども発音ははっきりしている。
顔をあげると、少年たちも振り向いていた。その先にいたのは、女の子。たぶんニールや少年たちと同じくらいの子供で、ここにいるということは、イベントに参加していたはずの子だった。
赤茶色の髪はふわふわした癖っ毛で、同じ色の大きな目がしっかりとこちらを見ている。美少女と言って間違いないその子に、情けない姿を見られているのが恥ずかしくなって、ニールはまた顔を伏せた。
だが、女の子はもう一度言う。――ああ、この声は、木琴の響きに似てるんだ。ころん、と可愛い、澄んだ音。
「今ならまだ追いつけるよ。アーシェおばさま、説明が丁寧でゆっくりだから。ね、行こう」
「なんだよ、女はあっち行ってろよ」
一番体の大きな少年が返した。でもその声は少しくぐもっていて、たぶん女の子に戸惑っているんだろうということが、ニールにはわかった。
「だって、あなたたち、イベントに来たんじゃないの?」
「あんな退屈なの、やってられるかよ。だいたいお前だって抜け出してきたんじゃないか」
「あたしはいいの。参加者じゃなくて、スタッフだもの」
「はあ? どう見たって子供じゃん。スタッフなんて嘘に決まってる」
それだけは少年たちに同意せざるを得ない。こんな女の子がスタッフだなんてありえない。博物館で働いているのは、そのための勉強をたくさんした大人のはずだ。ニールも思わず、怪訝な表情を彼女に向けてしまった。
しかし女の子は堂々と、もう一度言う。
「ちゃんとアーシェおばさま……館長に認められたスタッフよ。こう見えて博物館には何度も来てるし、展示品の説明だって常設のものならほとんど憶えちゃったんだから。それより、イベントに来たからにはちゃんと参加してもらわないと。最後に記念品、貰えないよ?」
「どうせつまんないもんだろ。いいからあっち行けよ!」
体の大きな少年が、女の子に手を伸ばす。そのまま突き飛ばされる、と思ってニールは思わず目を瞑った。次の瞬間、どすん、という音が地面を伝って響いてきた。……でも、女の子が倒れたにしては、重い音だ。
「……ええ?!」
おそるおそる目を開けたニールが見たのは、信じられない光景だった。倒れていたのは女の子ではなく少年のほう。涼しい顔で手を叩き払っている女の子は、可愛い声で言った。
「動きが単調、勢いつけ過ぎ。そういうの自滅しやすいから、もうちょっと頭使った方がいいよ」
「お前、なんだよ……なんでそんなに強いんだよ、女のくせに!」
別の少年が怯えたように叫ぶと、少女はにっこり笑った。
「女のくせに、は偏見だよ。軍人さんだって女の人はたくさんいるし、活躍してる。やっぱりあなたたち、ちゃんと勉強していったほうが良いんじゃないかな」
なんだか誰かに似ているような。ニールの脳裏をかすめたのは、茶目っ気があるけれどとても強い女性軍人――イリスの姿だった。
少年たちは「おぼえてろよ!」なんて物語に登場する脇役みたいな台詞を吐いて、どこかへ行ってしまった。本当にあんなふうに言う人いるんだなあ、と思っていたニールに、そっと小さな手が差し伸べられる。色白で、指は細くて、少し長い。
「大丈夫だった?」
木琴みたいな声が心配そうに、ころん、と鳴った。
「あ、はい……。僕は、あの、何でもないです。何もされてないので」
「うん、怪我はしてないみたいだね。立てる?」
「立てます。立てるので、手は、大丈夫です」
慌てて立ち上がって、女の子の身長がわかった。ニールより高い。でもきっと、年齢と照らし合わせれば、彼女のほうが普通なのだろう。そして顔が近づいて、彼女が美少女だということを改めて認識してしまった。
「だ、大丈夫、なので。……まだ、イベントに戻れるんですよね」
熱くなった顔を俯いて隠しながら尋ねると、女の子は頷いたようだった。
「戻れるよ。行く?」
「行きます。僕、すごく楽しみにしてたので、本当は全部ちゃんと参加したかったんですけど……」
「それじゃ、アーシェおばさまたちに追いつくまで、あたしが案内してあげる。イベントのプログラムは頭に入ってるし、説明だって真似してできるよ」
さあ、と女の子がニールの手を取った。この小さくて柔らかい手が乱暴な少年を倒しただなんて、やはり信じられない。おまけに、初めて同じくらいの女の子と手をつないでしまった。ニールの頭の中は、激しく混乱していた。

ごちゃごちゃになった頭をすっきりさせてくれたのもまた、女の子のころんと響く声だった。途中から見ることができなかった展示物の説明を、可愛らしい声で簡潔に、けれどもわかりやすくしてくれる。ニールはすぐに夢中になって、彼女と一緒に博物館の中を歩き回った。
ちょうどアーシェが子供たちに、南の大国サーリシェリアとの友好の証である「赤い杯」を紹介していたところで、追いつくことができた。女の子がにっこりして、「良かった」と呟いた。
「あの、ありがとうございました」
ニールが小声で礼を言うと、女の子はゆっくり首を横に振った。
「当然のことをしただけよ。だってあたし、イベントのスタッフだもの」
「さっきもそう言ってましたけど、子供なのにスタッフなんですか?」
「あたしが手伝いたいっておばさまにお願いしたの。ここに何度も通ってるのは本当のことだし、おばさまもそれは知ってるから。でも役に立てて良かった」
役に立った、どころではない。ニールたちを見つけてくれ、助けてくれて、みんなのところに連れてきてくれた。それはまるで、ニールが巻き込まれてしまった事件に関わった人たちと同じだった。そしてニールは、また何もできなかったのだ。
次の展示に移動しながら、女の子に尋ねた。
「あの、どうしてあんなに強いんですか? 頭も良いし」
女の子は癖っ毛をふわふわと揺らしながら、強いかなあ、と首を傾げた。
「あたしのは真似だよ。小さい頃からお世話になってるお姉さんが、もしものときの護身術って教えてくれたの。お姉さんはお兄さんに、変なこと教えるんじゃないって怒られてたけどね」
「へ、へえ……」
なんだか似たようなことを聞いたことがあるような、とニールは記憶を探る。たしかあれは、風呂に入っていたときではなかったか。
――ニールもお兄ちゃんの家族だしねえ。もしものときの護身術、教えてあげようか?
そう言ったイリスは、偶然風呂場の外にいたニアに叱られていた。
――ちょっと、ニールにまで変なこと教えるんじゃないよ。
もう誰かに教えてしまっていたような、そんな言い方だった。
「そういえば、名前を聞いてませんでしたよね。僕、ニール・シュタイナーっていいます」
「え、あなたが噂のニール君? イリスちゃんの新しい家族の?」
女の子は目を丸くして、たしかにその名前を言った。それから、自分も名乗った。
「あたしはエイマル。エイマル・ダスクタイトっていうの」
聞いたことのある名前だった。ニアからも、ルーファからも、イリスからも、……他にも、ちらほら。

「今日はみんな、楽しんでくれたかな? これからも博物館に来て、この国の文化や歴史、科学に触れてくれたら嬉しいです」
アーシェがそう締めて、イベントは終わった。参加した子供たちに配られた記念品は筆記用具のセットで、博物館のマークが入っていた。
エイマルも、ほかの博物館のスタッフと一緒に、記念品を配っていた。小さな子には「また来てね」と声をかけながら。
強くて、頭が良くて、仕事ができて、美少女で。エイマルはなんて自分と違うのだろうと、ニールは貰った筆記用具を握りしめながら思う。聞けば、彼女はニールとたった一歳しか違わないという。向こうのほうが年上だが、それにしても差がありすぎる。自分は弱くて、人の世話になることしかできない。
ぼんやりしていると、不意に肩を叩かれた。振り向くと、一仕事終えたアーシェがいた。
「ニール君、今日はありがとう。それと、ごめんね。途中でいなくなったこと、気付かなくて。本当は大人がちゃんと見ているべきだったのに……」
「いいえ、アーシェさんは忙しかったので、仕方ないです。それにエイマルさんが助けてくれたので、大丈夫でした」
「うん、エイマルちゃんから聞いたよ。一緒に館内をまわったことも。これからも仲良くしてくれると、私はとっても嬉しいな」
「仲良く……」
そんなことをして、いいのだろうか。またニールが弱いばかりに、エイマルに迷惑をかけてしまわないだろうか。あんなに強い女の子と一緒にいたら、自分の弱さが際立つのではないかと、そんな心配をしてしまうのも嫌だ。
仲良くなるなら、もっと強くならなければいけないのでは。そんなことを考えていたら、ひょいと顔を覗き込まれた。
「ねえニール君、これからニール君のお家に一緒に行ってもいい?」
「え、わ、わあっ?!」
驚いてのけぞると、現れたエイマルがくすくすと笑って「ごめんね」と言った。それから大きなバスケットを胸のあたりに掲げる。
「お母さんに頼まれてたの。博物館での手伝いが終わったら、イリスちゃんのお兄さんに晩御飯のおかずを届けてあげてって。だから、一緒に行こうと思ったんだけど……」
「え、おかず?」
「グレイヴちゃん、今日は忙しいのね。そんなおつかいをエイマルちゃんに頼むなんて」
アーシェの言葉で気づいた。グレイヴ・ダスクタイトさんはアーシェと同じように、家におかずを持ってきてくれる一人だ。つまりエイマルは、よく家に来る人の娘なのだ。
「い、いいですけど……」
「よかった、ニール君ともっとお話したかったんだ。あ、そうだ、あたしに敬語はいらないよ」
こちらが遠慮していても、エイマルのほうは仲良くしようとしてくれているらしい。それを無碍にすることはできないし、したくない。
「そ、それじゃあ、行きましょう……じゃなくて、行こうか」
思い切って敬語をやめた。少しでも、自分が強く見えないかと思って。
「うん! おばさま、今日はありがとうございました」
「こっちこそ、ありがとうね」
「ありがとうございました、楽しかったです」
「ニール君もありがとう。ニア君とルーファ君によろしくね」
強くなる方法を、ニアやルーファにも訊いてみよう。イリスも張り切って教えてくれるかもしれない。
隣を歩く女の子には、当分敵わないかもしれないけれど。どう頑張っても、ニールは弱っちく見えるかもしれないけれど。
でもだからって、強くなるのを諦めるわけにはいかなくなってしまった。
「あの、エイマルさん」
「さん、はいらない」
「……エイマル、ちゃん。どうしてイリスさんから護身術を教わったの?」
「イリスちゃんくらい強くなれば、自分の身は自分で守れるでしょう。そうしたら、お父さんが悩まなくても良くなるかなって」
初めてできた同年代の友達と、せめて同じくらいは強くなりたい。そうしたら今度こそ、大切なものを守れるだろうか。後悔しないようになれるだろうか。
「イリスさんくらいって、どれくらい?」
「うーん、たしかこのあいだ、佐官の人たちと勝負して勝っちゃって、お兄さんに叱られたって」
「ああ、そういえば叱られてたかも……」
いつかって、いつになったら手に入るものなのだろう。今日みたいに、追いかければ追いつけるものなのだろうか。
「バスケット、僕が持つよ。うちの夕飯になるんだし」
「そう? じゃあかわりばんこに持とうよ。その角まであたしが持つから、ニール君は次の角まで」
まずは、今日、一歩、いや、半歩だけでも。



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2016年07月10日

歴史の中の一筆

エルニーニャ王国軍中央司令部に、とある依頼が舞い込んだ。ときどき「軍は何でも屋じゃないんだけど」と言いたくなるような無茶なものまで入ってくるが、これはそう無碍にすることもできず、かといって調べるとなるとそれもまた難しい、扱いに困る案件だった。
人を探してほしい。けれども、その人は確実にもう生きてはいない。なぜならその人の名があったのは、大昔の記録の中なのだった。それでもその人の行方を知りたいのは、先祖が世話になったからだ。その人がいなければ、この家は自分の代までもつどころか、家名を与えられることもなくひっそりと滅びていた――らしい。
わざわざ軍に依頼を寄越したのにも理由があった。その古い恩人は、どうやら建国御三家にゆかりのある人なのだ。つまり大昔の資料や文献を片っ端からあさって探すよりも、直接現代の御三家に渡りをつけたほうが、早くて確実だろうという、そういうことらしい。それは、たしかにそうなのだけれど。
「……というわけで、協力してください」
「そういう頼みはたまにあるけど、まさか軍を通すなんてね」
手を合わせて拝んだイリスと向かい合っているのは、ドミナリオ・エスト。元軍人で、建国御三家の一つエスト家の現当主である。呆れたように溜息を吐いているのは、おかしな依頼に辟易しているというわけではない。いや、少しはうんざりしているかもしれないが。
最たる原因は、イリスの隣で一緒に手を合わせている、現大総統だ。
「イリス一人が来るなら、まあ納得できなくもない話だけど。どうしてレヴィアンスまで?」
「だってさ、職務上とはいえゼウスァートを名乗ってるのって、今オレだけじゃん。ここは一度、現御三家全員で調べてみようよ」
「君、仕事はどうしたんだ。……ああ、やっぱり答えなくていい。要領が良いから、ちゃんと終わらせてきてるんだろう。こんな時間だしな」
すでに日は暮れている。軍は一応、通常業務を終えている時間だ。つまりこの依頼は軍として受けたわけではなく、レヴィアンスとイリスが個人的に引き取ってきたものなのだ。自分たちを頼ってきた人を、放っておけなくて。
「ドミノさんのところなら、昔の史料たくさんあるでしょ? 前に貸してもらったもんね」
「インフェリア家にも保存してあるはずだって、前にも言わなかった?」
「エスト家のほうがいろんな記録が残ってるって、おじいちゃんに言われたの。うちでも探してくれてるから、そのあいだにこっちでも調べられないかなと思って」
「……そう思ったなら、先に連絡をくれないと」
ドミナリオはけっして、非協力的なわけではない。昔の文献などが良い保存状態で見られるということで、研究者たちからは頼りにされている。軍にいるよりもそういったレファレンスのほうが好きなドミナリオは、案外この生活が気に入ってもいる。
断りはしないだろうと思って連絡を怠ったのは、イリスのミスだ。それは素直に謝罪する。これで許して、と酒瓶を取り出したレヴィアンスは、ドミナリオに余計に睨まれた。飲みたいのは君だろう、と。
「まあいいや。玄関で話すのもなんだし、入りなよ。書庫もすぐに開ける。夕飯はうちのケータリングを利用しよう。僕が準備をしているあいだに、そっちも持ってきた資料を用意しておいてくれ」
やることを決めてしまえば、というより今回の場合諦めてしまえば、行動は早い。淀みなく指示をして、ドミナリオは書庫へと向かって行った。
「……なんか昔より喋るようになったな、ドミノさん。イリスのせいかな」
「そう? とりあえず甘えさせてもらおうよ。早く資料出しておかないと、本当に機嫌悪くなっちゃう」
感心しているレヴィアンスを引っ張って、イリスは家にあがらせてもらった。

建国御三家とは、エルニーニャ王国建国の際、軍の設立に深く関わった三つの軍家を指す。
初代大総統ゼウスァートと、その補佐を務めたインフェリアとエスト。それぞれの初代当主は、大陸戦争における中央軍の中心人物でもあった。
ワイネル・ゼウスァートがリーダーとなって兵を指揮し、ガロット・インフェリアが先陣を切って強敵を倒していった。そのための作戦を立てる参謀が、ヴィックス・エストだ。彼らの子孫は代々軍人として、この国を守ってきた。
しかし現在、ゼウスァート家はすでに軍家の体を成しておらず、公に認められている子孫はレヴィアンス一人となっている。エスト家は当主であるドミナリオが軍を退き、跡継ぎになるかもしれない子供たちはまだ小さい。イリスはインフェリア家の人間として軍に籍を置いている。けれども兄のニアは家を継がないとは言っていないが、現在の仕事は画家だ。もはや元の御三家とは、事情が違う。
レヴィアンスは昔とある事件に関わって、イリスは自分で勉強する必要があって、すでに建国御三家についての基本は学んでいる。しかし彼らが関わった人々についてまでは、よく知らない。
リビングのテーブルに持参した資料を広げさせてもらったところで、ドミナリオが二人を呼びに来た。ついていくと、屋敷の奥、膨大な史料や資料が詰まっている書庫に案内される。
「相変わらずすごい光景だな……」
「レヴィ兄も来たことあるの?」
「結構前に。ドミノさんのとこの資料はエルニーニャ王国の歴史が凝縮されてるから、軍に認知されてなかった事件なんかを調べるのに利用させてもらった」
「大総統は政治経済もおさえておく必要があるから、その勉強もしに来ていたな」
喋りながら奥に進み、イリスははたと気づく。レヴィアンスが大総統になったのは、前大総統が職務を放りだして失踪したからだ。その事件にはドミナリオの元妻も関わっていて、当時の彼は世間の同情あるいは非難を浴びて引きこもっていたはずだ。レヴィアンスにも合わせる顔がないと、そう言っていたのではなかったか。
いや、本当に会えなかったわけではないのだろう。責任を感じていたからこそ、レヴィアンスに協力したということも、ドミナリオならば考えられる。何にしろ、彼らはそれ以前からの長い付き合いなのだ。
「それで、探し人というのはいつ頃の人なんだ。関わったのは誰だ?」
「家名すら与えられなかったかもしれない……ってことで、時期は戸籍が整う前じゃないかな。御三家はもう家名があって認知されているから、建国後であることには間違いなさそう」
「じゃあ、このあたりだな」
レヴィアンスの推理に応じてドミナリオが指し示した棚には、ずらりと背表紙が並んでいる。分厚いそれの一冊をイリスは手に取り、捲ってみた。古い紙に薄くなった文字が、几帳面に書かれていた。全て手書きだ。
「おお、印刷じゃないよこれ。本なのに」
「元はただの紙束で、それを昔のエスト家当主が綴じた。さらに製本したのは、ここ何十年かだ。当時使用されていた木の皮を古い技術で加工した紙に、直接文字を書いたものだから、慎重に扱わないとすぐにぼろぼろになる」
「ひええ……そんなすごいの触っちゃったよ……」
「現代技術でコーティングしてあるが、一応専用の手袋をはめてほしい」
差し出された手袋を受け取ってはめながら、もっと早く渡してほしかったと、イリスは心の中で文句を言った。そうして改めて紙を捲り、書かれた文字を睨む。――世界暦元年、とあった。
世界暦はこの大陸にエルニーニャ王国ら五つの大国が成立した記念に制定された、現在も使われている暦だ。今年は世界暦五四一年。つまり、元年ということは。
「これ、五百四十年も前に書かれたものなの? よく残ってたね……」
「世界暦制定以前のものも残っている。当時は植物を磨り潰してインク代わりに使っていたらしく、かなり変質しているが、まったく読めないということはない。これはエスト家の知恵の賜物だな。当時の記録や図録の作成は、後にエストの名を頂く者が中心となって行っていた」
説明しながら冊子を棚から抜き取っていくドミナリオは、どこか誇らしげだ。軍家エストにはさほど興味のない彼だが、歴史の記録者としてのエスト家の役割は強く意識している。だからこそ、自身の来歴を知ろうと勉強しに来たイリスに、優しかったのかもしれない。
ひとまずこれだけ、とドミナリオがレヴィアンスに持たせた冊子は、言うわりには量が多く重そうだ。いったいどれだけの資料を読みこもうというのだろう。
「オレ、肩脱臼しやすいんだけど……。ところでこれ、何の資料? 建国直後の何が書いてあるのさ?」
つらそうなレヴィアンスの問いに、ドミナリオは眼鏡をかけ直しながら答える。
「主に初代当主、ヴィックス・エストの身の回りのことやその日考えたこと、やらなくてはいけないことのメモかな。ようするに日記だ」
戸籍が整うまでなら二代目のも読むことになるかもね、という言葉に、レヴィアンスは不味いものでも食べたような顔をし、イリスは目を輝かせた。

歴史はそう苦手ではない。自分の家のことを調べてから、イリスはそう思うようになっていた。入隊試験の大総統史は、勉強が得意ではなかったイリスの強敵だったというのに。一度苦手意識がなくなってしまえば、ちょっとした話題にもできる。エイマルと遊ぶためにダスクタイト家を訪問したときは、特に役に立つ。
「そうそう、エイマルちゃんが『こどものためのエルニーニャ王国の歴史シリーズ』にはまっててね。わたしも読ませてもらったんだけど、あれすごくおもしろいよ」
「そうか、父に伝えておく」
エスト家の歴史書編纂や保存の役目は、今でも続いている。『こどものためのエルニーニャ王国の歴史』というイラスト付きの子供向け歴史本は、ドミナリオの父セントグールズの著書で、これを完成させるのが現在の彼の仕事となっている。そのために国中を調査する旅に出ているのだが、今はちょうどレジーナ近郊にいるそうだ。ドミナリオの子供たちは、今日はそちらに遊びに行っているためにいないという。
「イリスは歴史好きかもしれないけどさ、オレはそうでもないんだよね。今回みたいな依頼でもなきゃ、普段は考えもしないなあ」
「レヴィアンスは大総統閣下様なんだから、少しは考えたほうが良いんじゃない。……ふむ、この巻に登場する人名は一通り出たな。幇助関係にある人物も何名か出てきた」
「ドミノさん仕事早い! ……ええと、わたしはやっと半分かな。この巻、あんまり人は出てこないんだけど、読みこんじゃって」
会話を挟みながら、本来の仕事を進めていく。探すのは「恩人」だ。依頼では「サイモン」という名前らしいが、今のところぴったり該当する人物は見つからない。なのでもしかしたらサイモンかもしれない、という人も調べている。
頭を使うと腹もへる。ちょうど夕飯時でもあったので、資料を汚さないよう注意しながら、具がごろごろしているカップスープとパンを少しずつ摘む。作ってくれたシェフは台所で甘いものを用意しながら、こちらの仕事をちらちらと見ていた。
「ドミノさんがいう、うちのケータリング、ってホリィさんのことだったんだね。相変わらずだな」
「食べ物を持って来るんじゃなくてホリィさんが来て料理をするんだね。それ、ケータリングっていわないんじゃ……」
「頼んだら来るんだから似たようなものだよ。こういう忙しい時にはありがたい。……ほら、レヴィアンスも進めて。イリスも」
ドミナリオとホリィはこういう状況に慣れているんだろう。昔から一緒にいたせいもある。だがイリスとレヴィアンスは申し訳なさがあって落ち着かない。食事が美味しいのが、それに拍車をかける。
そうして資料を捲り人名を書き連ねる作業をひたすらやっていたが、いつまでたっても「サイモン」なる人物は出てこなかった。だが、御三家当主の動向については妙に詳しくなってしまった。彼らはとても親しい友人同士だったようだ。
「……新しい法律について、ワイネルと相談する。王に進言しつつ、ホルを遣ってガロットにも報せる……」
イリスはぶつぶつと、開いたページを読み上げる。


新しい法律について、ワイネルと相談する。王に進言しつつ、ホルを遣ってガロットにも報せる。
今回考えたのは、首都となるこの土地の街づくりについてだ。近頃、むやみに豪奢な邸宅を作ろうとする輩が増えてきている。取り締まらなければ、全員が快適には暮らせなくなってしまう。
「まあ、そうだよな。当然日当たりがいい場所はみんな欲しい。独占するのは良くないな」
ワイネルは頷きながら、まったく別のことをしていた。軍を組織するにあたり、仕事をどのように割り振るか、そもそも当分は何を仕事にすべきか、このところずっと考えている。当然だ、こいつは大総統、軍の指揮者なのだから。
「そこで各々の敷地の取り分を制限する法律を提案しようと思う」
「うん、ヴィックスが言うなら王様も認めるだろ。みんながそれをどう思うかは別だけど」
「反対する者が出るのは初めから承知だ。……ホル、この文をガロットのもとへ。頼んだぞ」
ホルの足に文を結び付け、空へ放つ。この優秀な鷹は、ガロットがどこにいても、必ずこちらからの文を届けてくれる。そしてガロットもホルに返事を預ける。――奴は旅の途中だ。北の国にはまだ着かないのだろうか。野垂れ死にだけはしてくれるなよ。
ワイネルは国の規律については、私と陛下に任せようと考えているようだ。私を信頼してくれているのだと周りは言うが、そうではない。奴は私のことはどうでもいいのだろう。この新しい国がうまく機能しさえすれば。ワイネルが本当に信頼し、かつ心配しているのは、ガロットのほうだ。必ず戻ってくると信じていながら、どこで何をしているのかいつも気にしている。
所詮、私は後から入ってきた人間だ。生まれたときから一緒にいる、ワイネルとガロットのようにはなれない。そんなふうに馴れ合う必要もないだろうが。
午後にナナさんから差し入れをもらう。パンは毎日何かしらの工夫を凝らして、どんどん美味しくなっている。民も作り方を教わり喜んでいるようだ。


史料、もとい日記を読みこんでいるうちに、いつのまにか日付が変わっていた。読み終わった冊子は積み上げられ、出てきた人名の数も随分と多くなったが、まだ「サイモン」は現れない。それでもこの仕事に飽きなかったのは、ドミナリオがこの作業が好きで、イリスが日記に記された「物語」を楽しんでいて、レヴィアンスがワイネルという人物の動向を気にするようになっていたからだった。
エルニーニャ王国は少しずつつくりあげられていった。土地に名前を与えられ、人々が生活し、そこに秩序が生まれ始めた。当時はまだまだ小さかったこの国の人々に、自分たちはエルニーニャ王国民なのだという意識が根付いたと思われた頃に、変化は訪れた。とても小さく、けれども日記の書き手にとってはとても重要な出来事があったのだ。
「あ、ガロットさん帰ってきた!」
突然叫んだイリスに驚いて、ドミナリオとレヴィアンスは顔をあげた。ドミナリオはさらにその先を、レヴィアンスはそれより前の日記を読んでいる最中だった。
「ああ、そこで帰ってきたのか。土産をたくさん持ち帰ってきたと記されているだろう。エルニーニャの文化が、彼の帰還を境にさらに豊かになっていく」
「うんうん、お土産のこと書いてあるよ! ……うわあ、こんなものまで……」
「どんなものだよ」
レヴィアンスもイリスの手元を覗き込む。字体から、書き手がいくらか興奮しているのがわかった。しかし書き手が見た周囲の人々は、もっと盛り上がっていた。


ガロットが帰ってきた。
最初に見つけたのはワイネルだ。突然走りだしたかと思うと、大量の荷物を抱えたでかい奴を引っ張って戻ってきた。それを見た人々の歓声といったら、戦のときに吼えた兵たちと何ら変わりがないように思えた。
暗い青の髪と、リックさん曰く海の色をしているという青い瞳は変わっておらず、ただ表情は旅立ちの時よりも随分引き締まっていた。これでやっと、死んだローザも浮かばれるというものだ。生きていたら惚れ直すかもしれない。「さすが私のガロットね」くらいは言いそうだ。きっと言う。
北国に向かうときは、あれが中央の地獄の番人だ、大殺戮の中心だ、などと石を投げられたこともあったというが、帰りはどうだ。辿ってきた道がわかるくらいに、各地の農産物や干し肉を背負ったり抱えたりして。奴の謝罪が受け入れられたのだと、誰にも明らかだった。私は、奴が謝る必要はないと思っていたが。あの戦争は仕方がなかったし、武器を振るうことが奴の役割だった。そういう時代だったのだ。
その時代に終わりを告げたのは、間違いなく奴の働きだった。
「ええと、ただいま、ワイネル」
「おかえり! ずっと、ずっと待ってたんだからな! ちゃんとお前の場所はとってある。これからは本当に、オレの片腕として働いてもらうぞ」
ガロットの背中をバンバンと叩くワイネルは、ずっと見せなかったような喜びようだった。もう私の存在は必要ないのかもしれないな、とも思うくらいに。
私は二人と、それを囲む人々を外側から見ていた。見ていたら、人が割れた。道を作ってこちらにやってきたガロットは、やはり腹が立つくらい体躯がでかくて、それ以上に腹立たしい、弱々しい笑顔を浮かべていた。
「ヴィックス、ただいま」
泥だらけで肉刺だらけの手を差し伸べてくる。私に右腕がないので、左手を。こんなに逞しくなったのに、笑い方は変わらないんだな。ローザがいれば、もっと明るく笑ったのだろうが。
「おかえり、ガロット」
握った手は硬かった。けれども驚いたのは向こうのほうで、「ペンだこすごいな」と私の手をしげしげと見つめていた。全く、どこまでも、腹立たしい。帰ってきたなら、早く休めばいいのに。
手を離した瞬間に、ガロットの背中から動物の鳴き声が聞こえた。道中で保護してきたという。毛むくじゃらだが手触りがしっとりしているそれに、ワイネルが名前をつけようと言いだした。


ここから大総統ワイネル・ゼウスァートと、補佐ガロット・インフェリア、ヴィックス・エストによるエルニーニャ王国の整備が本格的に進むことになる。建国御三家は、戦いの中心から国政の中心へと、その立場を変えていくのだ。
「まさに歴史の一ページだねえ……。ガロットさん、めちゃめちゃ強くて、でも優しいって、やっぱりお父さんやお兄ちゃんに似てるかも」
「僕が読んでいる辺りでは、もうそれぞれに家族を持っている。子供たちの成長も書かれている。そうして家は続いてきたようだ」
「このときはゼウスァートが真っ先に途切れるなんて、考えてもいないだろうな。……ん?」
イリスが感嘆し、ドミナリオが頷いているあいだに、レヴィアンスはある記述に気がついた。それはずっと探していた名前で、しかし、人ではなかった。
「……あのさ、イリス。もうちょっと読み進めて。まさかとは思うけど、サイモンって人間じゃないんじゃない?」
「え? だって依頼してきた人はサイモンさんに助けられたって、恩人だって言ってたじゃない」
「だからそれが勘違いだった可能性があるんだよ。名前があるから人間だって思ってた。でも、鷹にホルって名前がついてたように、飼育している動物に名前がついてたっておかしくない。人間じゃないなら、ドミノさんが見落としてた可能性はある」
ドミナリオも目を瞠った。だが、すぐに冊子を手に取り、記録を遡り始めた。イリスもその先に目を走らせる。――そして、見つけた。サイモンという名前を。
「でも、これって……」


ガロットが拾ってきたねぁーは、ワイネルによってサイモンと名付けられた。
呼ばれれば返事をして人に駆け寄っていくあたり、ちゃんと自分の名前だと認識しているらしい。
ねぁーは賢い動物だが、実際に近くで見てみると、人間と変わらないくらいの知能があるのではと思うときがある。


さらにページを捲る。慎重に、しかし、少し早めに。その名前を探して。


サイモンが妙に鳴くので、ガロットとワイネルとともに後をついていった。すると人が倒れていたので、急いで看病をする。
彼は栄養失調気味ではあったが、生きていた。途切れ途切れに言うには、どうやら東方の小さな国からやってきたらしい。五大国以外にも、国ができつつあるのだ。
それにしても、サイモンはお手柄だった。サイモンには質の良い肉を、東方からやってきた彼には私たちの王から、ここに住むための土地と家名を与えることにした。これでゆっくり療養できるだろう。


恩人ならぬ、恩ねぁー。他に記述がないところをみると、どうやらこれが真相のようだ。
ずっと日記と格闘していた三人は、思い切り脱力した。
「……これ、どうやって報告しような……」
レヴィアンスが顔を手で覆いながら、渇いた笑いを漏らす。
「ねぁーは寿命が長いから、たぶんこのあたりに……。あった、ワイネルらがその地位を次世代に渡すのとほぼ同時に寿命を迎えている。その墓は、現在の軍の墓地の片隅にあるようだ。たぶん軍に関係した生き物らをまとめて供養しているあの墓碑が、そもそもはサイモンという名のねぁーの墓だったんだろう」
素早く記録を探しだしたドミナリオが、その部分をイリスにも見せた。今はキメラや任務に関わった動物たちの魂を鎮めるための慰霊碑となっているものがあるのを、もちろんイリスも知っている。
「あれかあ……。建国御三家に縁があって、人を助けていて、その行方もはっきりした。この通りに伝えて、軍の墓地にでも来てもらうしかないんじゃない?」
「来られるならな。依頼人が高齢だっていうこと、忘れてないか?」
「あ、そうだった。じゃあ迎えに行くよ。サイモンを連れてきたインフェリアの人間の代表として、わたしが」
依頼人が先祖のことについて知ることになったのは、自分が高齢で、跡継ぎもいないことで、身辺の整理をしなければと家の片づけをしたのがきっかけだった。何代か前の者が、先祖代々言い伝えられてきた家名にまつわる物語を書き記していたのを、そうして見つけた。
あとどれくらい生きられるかわからない身、この家最後の人間として、この家のことを心に持っておきたいのだという切なる願いを、イリスとレヴィアンスは拾い上げたのだ。
話したら、どんな反応をするだろうか。笑ってくれるだろうか。喜んでくれるだろうか。なにしろその家を救ったのはねぁーという、小さく賢い、一匹の動物だ。まず、納得してくれるだろうか。
大きな名前とともにあった、たくさんの人々の物語。現在のエルニーニャは、その物語の積み重ねでできている。
欠伸を噛み殺しながら、イリスとレヴィアンスは出してきた日記を書庫に戻す。ドミナリオの指示通りに並べ直し、改めてその数に溜息を吐いた。
「ねえ、ドミノさん。うちにもこれだけの日記があると思う?」
イリスの問いに、ドミナリオは少し考え込んだ。
「……ガロットからの文も、うちには残っているのだが。逆にこちらからの文が、インフェリア家にあったはずだ。日記は、旅のあいだに書いたものが残っていると聞いたことがある。興味があるなら、調べてみるといい」
ふ、と微笑んでから、思い出したようにレヴィアンスに向き直ったドミナリオは、「しかし」と続ける。
「ワイネル・ゼウスァートは自分の視点からの記述を全くと言っていいほど残していない。残らなかったんじゃない、最初から書かなかったのだと、ヴィックスら代々のエスト家当主が語っている。思い立って書き始めてもいつも三日坊主だと、何度も記してあった。君はそうならないように、大総統としてしっかりと国の動きを記録しておくように」
「うわ、耳に痛い……。オレも記録関係はみんなが出してくれる報告書と、補佐に任せっきりだからなあ……」
残ろうと残るまいと、歴史は紡がれ、続いている。これまでも、これからも。



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2016年07月09日

眠れぬ夜の。

ニア・インフェリアの睡眠時間は不規則だ。軍にいた頃は毎日決まった時間に寝起きしていたが、退役して絵を本業にしている今は、描ける時に描いて眠れるときに眠るのが普通になっている。
とはいえ、同居人が規則正しい生活をしているので、起床時間と朝食、夕食は合わせている。夜は客が来ることも多いので、大抵は仕事にならない。深夜になってから仕事をすることもしばしばだ。
そんな生活をしているところに、ニール・シュタイナーがやってきた。新しい同居人は子供で、生活時間帯は同居人であるルーファに合わせるのが好ましい。それに慣れるまでは様子を見ていたい。
しばらくは一日の生活を調整しなければ、と思っていた。

「……あ、まだ起きてたんですか? すみません」
深夜、ニールがリビングに現れた。ニアが寝かしつけたはずだが、やはり慣れない環境では目が覚めてしまうのだろう。描きかけだったラフをテーブルに置いて、ニアは立つ。
「眠れなかった? 喉が渇いたかな」
「あ、ええと、それもありますけど……。すみません、まだ落ち着かなくて」
「謝らなくていいよ、当然のことだから」
この小さな子は、すぐに謝る。ニア自身が彼と同じ八歳だった頃より随分としっかりした子ではあるのだが、心に刻まれた大きく深い傷が、彼を俯かせてしまっている。
目の前で唯一の肉親であった母親を殺され、自分も殺されかけた。その体験がどんなに恐ろしいことだったか、現役軍人時代にたくさんの凄惨な事件を見てきたニアにも想像しきれない。一度殺した心を取り戻し、こうしてニアたちのところにやってきてくれたということは、きっとほとんど奇跡に近い。
「ミルクを温めようか。僕は眠りたいのに眠れないとき、いつもそうしてるんだ」
「……ありがとうございます」
やっと謝る以外の言葉が聞けて、ニアは安堵する。ミルクパンにカップ二杯分のミルクを入れて、火にかけてから、ニールを椅子に座らせた。ずっと立ったままだったことに、作業を一通り終えてから気づいたのだ。
「遠慮しないで、座っていいんだよ。ここは君の家なんだから」
「でも、お仕事の邪魔になるんじゃ……」
「ならないよ。ここに住む前は、傍でルーがせわしなく動き回ってるところで絵を描いてたんだから。それに比べたらニールはおとなしすぎる」
それに、遠慮しすぎる。たぶん彼にとって、ニアがまだ「他人」だからなのだろうけれど。いくらか時間をかけて話し合いを進めてきたつもりでも、そう簡単にこの壁は崩れないし、乗り越えるのも難しい。
小さい子供の相手は慣れていると思っていたけれど、それは相手が実妹で、しかも元気いっぱいだったので、さほど気を遣わずに済んでいたおかげだ。この子はまるでタイプが違う。
「よし、温まった。……はい、ニールの分」
ミルクパンからマグカップへ、ホットミルクを移して、テーブルへ。ニールは頭を下げて、カップに触れる。
「ありがとうございます」
「どういたしまして。……眠くなったら一緒に部屋に行こうか」
「お仕事中じゃないんですか?」
「もうある程度は進んでるから大丈夫。見る?」
テーブルの上の何枚かのラフを指さすと、ニールは小さく頷いた。ありがたいことに、この子はニアの絵を気に入ってくれている。まだはっきりとかたちになっていないラフも、興味深げに見ていた。
「これも、どこかの風景ですか?」
「そうなる予定。昔、仕事で行った場所を思い出しながら描いてるんだ」
「すごいなあ……」
絵を見ることで、ほんの少しずつ目の輝きを取り戻していくニールに、今のニアは勇気づけられている。この子と暮らしていく自信が持てる。なにしろ子供を引き取って面倒を見るという決断が、見切り発車もいいところで、周りの人々に叱られたばかりだ。
これで良かったんだ、と思える瞬間が、絵を見てもらうときだった。
「僕は、どこかに行った思い出があんまりないので。こんなにたくさんの風景を見たことがあるニアさんが、羨ましいです」
「じゃあ、どこか行こうか。ルーが休みの時にでも、連れて行ってもらおう」
「あ、ええと、そんなつもりじゃなかったんです。せっかくの貴重な休みを使わせるなんて……」
「ルーも僕も、出かけるのは好きだからいいんだよ」
ニールと一緒に生きたい。たくさんのものを一緒に見たい。そう思うことがどれほど幸せか、この子にも伝わるといいのに。この子も、幸せだといいのに。
でも、たぶんそうなるには、もう少し時間が必要なのだ。
「……出かけて、ちゃんとみんなで帰ってこられますか?」
呟いたニールの瞳は、暗い色をしている。金色の綺麗な眼なのに、いつも不安で翳っている。おそらくは、母と出かけて、一緒に帰ってこられなかった、その日から。
その不安を取り除いてやらなければならないのに、ニアにはまだできずにいる。
「帰って来るよ。この家に、みんなで。心配しないでいいんだよ」
どれだけ言葉を重ねても、ニールを完全に癒すことはできない。
「さっきも、夢を見たんです。……お母さんが、苦しそうにしてて、こっちに手を伸ばしてるのに、僕は何もできない。気がついたら真っ暗な場所にいて、傍には冷たくなったお母さんがいる。……おかしいですよね、電気をつけたまま寝ていたはずなのに、夢の中は暗いんです」
このつらい記憶からは、簡単には逃れられない。壕に閉じ込められて暗闇を恐れるようになったニールは、部屋の電気を消して寝ることができない。寝られたかと思っても、こうして起きてきてしまう。
怖くて、つらくて、眠れないとき。ニアはどうしていただろう。どうしてもらっていただろう。
「夢は、見るよ。……僕もね、小さい頃から、とても怖い夢をよく見るんだよ」
「ニアさんも?」
頷いて、思い出す。自分の持つ力が大きすぎて止められず、自我を失って大切な人を傷つけたこと。もう少しでこの国までも壊してしまいそうだったこと。あのとき、意識はほとんどなかったはずなのに、目に映っていたものは夢というかたちをとって記憶の底から取り出される。さあよく見ろ、これがお前の業だ。そんなふうに言われているかのように。
「怖い夢を見たときや、不安で眠れないときは、ルーに一緒に寝てもらうんだ。手をつないでね」
「今でも、ですか?」
「今でも、だよ」
どうしようもない状態から引き上げ、受け止めてくれるのが、パートナーだった。彼がいなければ今のような生活はできていない。その彼を傷つける夢を、ニアは繰り返し見ているのに。
「ルーと一緒だと安心するんだ。何があっても大丈夫だって思える。それくらい強い人だから、ニールもどんどん頼っちゃいなよ。もちろん僕にも。それでも不安なら……そうだな、イリスやレヴィとか」
「イリスさんはともかく、閣下に頼るなんて畏れ多いです」
「うーん……ニールは気を遣いすぎなんだよね。うちに来るのはレヴィだよ。大総統閣下としての仕事を終えた、ただのお兄さんなんだけど。もっと気楽にしていいのに」
苦笑いしていたら、ふあ、と欠伸が漏れた。それはニールに伝染する。目も擦り始めたから、ホットミルクがうまい具合に効いてくれたのかもしれない。
「眠くなってきた? ルーの部屋で寝ようか」
「え、でもルーファさんが寝てるの、邪魔しちゃ悪いですよ」
「ルーは一緒に寝るの大歓迎だって言ってるよ。ああ見えて、彼だって寂しがりなところがあるんだ」
空になったマグカップを片付けて、ニールの手を引き、寝室へ。普段はルーファが使う部屋になっているのでそう呼んでいるが、もともとはニアも一緒に寝るために用意した部屋だ。ニアの部屋は画材と絵と、絵の具の匂いに満ちていて、当人以外はなかなか眠れない。ニールの部屋は今まで客間だったところを彼のために改装した。
ルーファの部屋には、本棚と机と、大きなベッドがある。明かりをつけると、寝入っていた彼が薄く目を開けた。
「……一段落したのか」
「まあね。ニール、先に入って。ルー、電気つけたままで大丈夫だよね?」
「問題ない。おいで」
寝転がったまま腕を広げたルーファに、ニールはおずおずと近づいて、躊躇いながらもその隣に体を横たえる。この子をあいだに挟むようにしてニアもベッドに入ると、ルーファは二人をいっぺんに抱きしめようとした。手が届かなくて、ニアに添えるだけになってしまっているけれど。
「子供の頃、父さんと母さんが、俺を真ん中にしてこうやって寝てたなあ。懐かしい」
「僕も。ニールのおかげで嬉しい思い出がよみがえってきたよ」
二人で囁くと、ニールは照れたようにちょっと笑って、目を閉じた。それを確かめてから、ニアとルーファも。
おやすみなさい。どうか良い夢を。もし怖くても、すぐ傍にいるから、どうか安心して眠って。何度だって、いつだって。

規則正しい寝息が三つ、部屋を静かに満たしていく。



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2016年07月03日

獅子たちの会議

一家団欒。そのかたちは数あれど、一般的には平和で賑やかで楽しい、そんな家族の様をいうのだろう。
インフェリア家も普段はその典型だ。独立している息子と軍の寮で生活している娘が帰って来れば、居候している娘も含めて、家族で温かな時間を過ごす。それは厳しい親を持った父とあまり幸福とはいえない幼少期を送った母の、こうありたいと願う一家の姿でもある。
だが、そんな家もときとして凍りつくような空気が流れる。一家にとって重大なことが起こったときに発生するイベントだが、大抵は祖父と父、場合によっては父と子が対立することでそうなってしまう。
今回の場合はどちらなのだろう。いや、三代揃って別の方向を向いているような気がする。こうなると面倒なので、本当は知らないふりをして母や叔母、祖母、実家の同居人と女性だけの穏やかなお茶会でもしていたいところなのだが、そうはいかなくなってしまった。
イリスもこの件には、多少なりとも関わってしまっているのだから。
「では、議題はニアが引き取ってきた子供の処遇ということでいいな」
「何の相談もせずに引き取ったことから、そもそも問題じゃないのか。一言くらい俺に言ってくれれば、なんとかできたかもしれないのに」
「いいかげん、子供扱いはやめてよ。僕、もう二十八なんだけど。当然自分で責任取るつもりで行動してるんだから、わざわざ大事にする方がおかしい」
祖父の重い声、父の珍しく怒っているような口調、静かだが棘のある兄の言葉。イリスはどれも苦手だ。こうなると誰が窘めようとしても無駄だということは、十七年の人生で嫌というほど思い知った。
――結局のところ、おじいちゃんもお父さんもお兄ちゃんも、根っこはそっくりなんだよね。
だから余計に厄介なのだ、インフェリア家の家族会議というものは。

事の発端は……さて、どこだっただろう。とある事件でイリスたちが、子供を一人助けたところからが始まりといえるかもしれない。
その子は目の前で、たった一人の肉親だった母親を殺された。身寄りがなくなった子供は、十歳に満たなければ病院その他の機関または私立の養護施設に送られる。その子も事件の際に負った怪我が良くなれば、そうなる予定だった。実際、病院を退院した後に、三週間ほど施設で暮らした。
だが、そのあいだ、彼のもとに通い続けた者がいた。最初から彼を引き取り、一緒に暮らすつもりで。それがイリスの兄、ニアだ。
ある日、イリスがニアの暮らすアパートを訪れると、彼はすでにそこにいた。イリスの姿を見るとニアの後ろに隠れて俯いてしまったが、間違いなく助けた子供であるということはわかった。
「ちょっと、どういうことよ、お兄ちゃん。この子、ルー兄ちゃんが通報してくれたあの事件の……」
「その話は後で。まずは挨拶が基本でしょう、イリス。年上の君が手本を見せないでどうするの」
「いや、それはそうだけど……」
とりあえず、こんばんは、と言うと、彼は小さく頭を下げて、完全にニアの後ろにまわってしまった。事件関係者という経緯もあって怖がられているのは知っているが、もともと人好きのするイリスは、何度だってショックを受ける。しかも相手は子供だ。
「ニール、この人は僕の妹だよ。必死な顔が印象に残ってるかもしれないけど、普段はそうでもないから大丈夫」
「お兄ちゃん、それあんまり大丈夫に聞こえないし、わたしはちょっと傷を抉られるよ。ていうか、その子がどうしてここにいるのかを聞きたいんだけど」
「説明するからあがりなよ。今日、レヴィは? まとめて話したかったんだけどな」
「レヴィ兄は仕事だよ。来たところでその子、怖がると思うけど」
「それもそうだね。でも他人に慣れて貰わないと、これから困るから」
今この瞬間、妹が大いに困っていることなどそ知らぬ兄である。いや、わかってやってるのか。ともかく説明をしてもらわないことにはどうにもならないと判断し、イリスはいつも通りに部屋に上がり込んだ。
もう一人の住人であるルーファは、まだ帰ってきていなかった。ニアから話を聞き出すより、彼がいたほうがよほど話が早いのだが、あちらも仕事だろうから仕方がない。そもそも、この事態を知っているのだろうか。
淹れてもらったお茶を自分用のマグカップで飲みながら、斜向かいに座る子供を盗み見ると、眉を八の字にしていた。彼の前には初めて見る新しいマグカップが置いてある。たぶんニアが用意したのだろう。
「ニールは今日、僕が施設から引き取ってきた。その時はルーも一緒にいてくれたけど、仕事を休めなかったからすぐ戻った」
話は唐突に始まった。危うくお茶をふきだすところだったのを堪え、イリスは「待って待って」と手を突き出す。
「引き取ったって……え、なんで?」
「ルーが気にしてた。僕も気になってた。ニールはそれをゆっくり考えてくれた」
ルーファが身寄りのない子を気にするのはわかる。彼自身がこの子供の救出に関わっているし、何より彼もかつては同じ身寄りのない子供だったのだ。良い大人に手を差し伸べられ、それをとることで、家族を得て育ってきたという経緯がある。
ならば、ニアはそれをわかっていて、ルーファと子供のことを考えたということか。
「でも、突然連れてくる?」
「施設にはここ最近ずっと通ってたよ。だからニールに納得してもらったんじゃないか」
「その子……ニールを養子にしたの? ルー兄ちゃんみたいに」
「いや、戸籍はそのまま。ルーの家はともかく、うちは大事にされかねないし。それにお母さんの名前をちゃんと持っていたいよね」
ということは、この子供の名前はイリスが救出した時のまま、ニール・シュタイナーなのだ。だが、問題はそこではない。
「されかねないっていうか、もう大事確定でしょ……。その口ぶりだとお父さんたちに報告してないのね?」
「これからだよ。だから、ちょっと面倒に巻き込むよってイリスには説明しようと思って」
ちょっとじゃない。ちょっとなどではなかったから、家族会議に発展した。そうなることは、イリスよりもニアのほうがわかっているはずなのに。

ニールという少年が巻き込まれた事件のことは、イリスらの父であるカスケードも、祖父であるアーサーも当然知っている。イリスが捜査と救助にあたった事件ということもあり、その発生と経過についてははっきりと憶えていた。
「だが、あんな事件はいくらでもある。この国で毎年何人のみなしごが出るか、お前も知らないわけではないだろう。関わった者の面倒をいちいち見るつもりか。たった一例が多くの基準を揺るがすこともあると、賢いお前なら理解できるな」
アーサーの言葉に、ニアが頷く。だがカスケードが苦い顔をした。
「そういう言い方はないだろう、親父」
「ならばどう言えばいい? 担当した事件の関係者を調査期間が終了しても足繁くまわり、ついには人間一人の世話をするまでになったお前なら、何と言う」
「それは……」
すぐに答えが出ないのは、アーサーが至極当たり前のことを、ただストレートに言ったに過ぎないからだ。きっとカスケードが言えたとしても、言葉の端々を曖昧にしただけの内容になっただろう。ただアーサーの言葉を柔らかくするということではなく、言ってしまえば自分自身の行いと言動の矛盾を指摘されることになるからだ。
いちいち深入りしていてはきりがない。それは誰もがわかっていることで、しかしなおも深く関わろうとしてきたのがカスケードのやり方だった。その極め付けが、クローン少女ラヴェンダ・アストラの身柄を引き取るという行動だ。かつて自らの祖父を、子供らを、そして自身をも傷つけたはずの人物を、その親代わりの男が刑期を終えて帰ってくるまで預かろうと決めた。彼女がマカ・ブラディアナと名乗っていた頃のことを、一切水に流して。
「俺はそういう、統計だとか基準だとかの話をするつもりはない。ただ、そういうことをするなら、俺たちに一度相談してほしかった」
「ラヴェンダ嬢を引き取るときに何の相談もなかったお前がそれを言うか」
「親父には関係ないと思ったからだ」
「私にはたしかに関係の薄いことだ。だが、ニアはどうだ。当人が納得していないのを、あのときお前は有無を言わさずそうすると決めたのではなかったか」
たしかにそういう過去はあった。だが、今の議題は。
「ちょっと待ってよ。おじいちゃんも父さんも、どうして僕を置いて勝手に話をするの。ラヴェンダのことは今は関係ないし、別に僕は父さんの真似をして子供を引き取ったわけじゃない。それに軍人時代ならまだしも、僕はもうとっくに退いてるんだよ。一般市民が一般の子と暮らすだけのこと、何を相談しろっていうの。身寄りのない子の全てを抱えられるなんて、僕だって思ってないし。だからおじいちゃんの言うことは元軍人の一般論として受け取ってはおくけど、そこまでだ」
本来ならば話の中心にいるべき自分が差し置かれたことにも腹を立てたのか、ニアはアーサーとカスケードの両方をはねつける。――このあとに何が起こるか、傍で聞いていたイリスにも容易に想像がついた。
「軍家インフェリアに生まれたからには、軍を退いたとて一般市民にはなれない」
「親父はいつまで軍家にこだわるんだよ。ニアはもう軍人じゃないんだから、それでいいだろ」
「軍人扱いはしないけど、家族って枠にはめようとするのは父さんもおじいちゃんと一緒でしょう」
「だって家族は家族じゃないか。何かあったときに対応して協力できるようにするのは、当然のことじゃないのか」
軍家インフェリア、はアーサーの口癖。ニアはもう軍人じゃない、はカスケードの口癖。それを浴びるのが嫌で、ニアは報告を後回しにしたのではないか。しかしどちらも間違いではないのだ。ただそれがニアを置いてけぼりにして語られるのが我慢ならないということで。
思えば、ニアはイリス以上に彼らの対立に振り回されてきている。軍に入隊するときもそうだったと聞くが、退役すると決めたときにも家族会議は行われたのだ。その経験から、今回もまた面倒なことになると踏んで、先に動かしがたい既成事実を作ったのでは。イリスはやっとその考えに辿り着いた。
引き取った子供を放りだすわけにはいかない。この家にそんなことをする人はいない。だからニアは先回りした。いや、後回しか。このあたりを考え始めると、またややこしい。
「なあ、ニア、引き取った子供の生活はどうするつもりだったんだ。ルーは昼間仕事でいないし、ニアだって家を出て仕事をしなきゃならないことがよくあるだろう。そのあいだ、その子の世話は誰がするのか、ちゃんと考えてるのか。そもそも今日はどうした」
カスケードの話は続いていた。これまた真っ当な疑問で、イリスもすでに同じ質問をしている。
「ルーには普通に働いてもらって、僕が当分家でできる仕事を中心に受ければいい。あと、今日はルーが休みだから大丈夫」
「それができないことだってあるだろう」
「ちょっとのあいだなら留守番してもらっても大丈夫だよ。八歳だよ、ニールは。幼児じゃないんだ。レヴィならもう軍に入ってた頃だよね」
「あいつとはわけが違うだろう。ニアにしては珍しく、考えが足りなかったんじゃないのか」
「何、その言い方。僕は父さんみたいに過保護にするつもりはないんだよ」
ああ、それを本人に言うか。先に同じ言葉を聞いていたイリスとしては、再びは聞きたくなかったのだけれど。正直なところ、三すくみよりもアーサーとカスケードの対立よりも、ニアとカスケードがぶつかる方がイリスには怖い。
「過保護とか過保護じゃないとか、そういうことじゃないだろう! その子が置かれた状況を考えろ。お前が負うべき責任をわかっているか。そういうことを含めて、相談しに来いと言ったんだ!」
「十分に考えて、責任をとるって決めたからそうしてるんじゃないか! そんなに全部把握してなくちゃ気が済まないの?! まだ僕を保護下に置きたい?!」
「そんなことを一言でも俺が言ったか?! どうしてそう曲解しようとするんだ!」
一族三代の中で、おそらくはニアが最も素直ではないのだ。年が離れすぎているからか、アーサーと正面からやりあうことはほとんどない。だが相手がカスケードになると、互いに譲りどころを忘れることがあった。
放っておけばそのうち、言葉が尽きておとなしくなる。険悪さは時間が解決してくれる。だが、今回はそれで済ませてはいけないということを、彼らはわかっているのか。せめてニアには忘れないでいてほしかったのだけれど。
それまで黙って聞いていたが、イリスはついに顔をあげた。
「いいかげんにしなさいよ!」
頑丈なはずのテーブルが、壊れそうなほどの音をたてる。壊れてもかまわないと思って殴りつけた。拳の痛みなど後回しだ。
今すぐこの場をおさめなければならない。そのためにわざわざ、自分たちだけで話すからという、男性陣の中に入りこんだのだ。祖母では父との関係が危ぶまれ、母に負担をかけるわけにはいかず、叔母を巻き込むわけにはいかない。今回の彼女らの役目は他にある。この言い合いが終わった後に、頑なになってしまった男性陣を諌めるという重要な役目だ。その前に精神力を削るようなことがあってはならない。……というのがイリスの判断だった。
――わたしはみんなより事情を知ってる。だから今日はわたしに任せて。
始まる前にそう宣言した。言ったからにはやってやろう。祖母と母は心配したが、叔母は苦笑して頷いてくれた。
――まあ、イリスが適任ではあるんじゃない? 誰も逆らえないし。現時点においては一番冷静だろうからね。
冷静というのとはちょっと違う。ただちょっと、展開が読めるだけ。軌道が逸れたときに修正できる誰かがいなければ、本当に中心とすべき人が傷つくことになると思っていただけ。
「さっきから黙って聞いていれば、みんな自分のことばっかりだよね。いつもはそうじゃないのに、どうして興奮するとそうなっちゃうかなあ?」
椅子の上に立ち上がり、片足をテーブルにかける。行儀が悪いのは承知だが、三人がかりでそれを叱ってくれればそれはそれでいい。
「今日の議題は何よ? いったい何の話をしてるわけ? 毎度思ってたけどね、こんな状態で会議なんて大層な名前背負ってんじゃないわよ!」
真に冷静なら、どうして吼えることができようか。
「……イリス、降りなさい。はしたない」
「おじいちゃん、悪いけどこのまま言わせてもらうよ。こうでもしなきゃ、またわたしの存在なんか忘れるでしょ?」
アーサーの表情の変化はわからなかったが、カスケードが決まり悪そうに俯き、ニアがぎくりとしたのが見えた。ニアの反応の理由ならわかる。イリスの言い回しが、普段の自分のそれを真似たものだと気づいたのだろう。
「おじいちゃんは、心配ならそうとはっきり言えば良かったんだよ。お父さんはおじいちゃんに反発するのとお兄ちゃんにむきになるのやめて。でもね、一番しっかりしなきゃいけないのはお兄ちゃんだったんじゃない? 今日のこと全部、ルー兄ちゃんとニールに話せるの?」
「話せるわけないだろう、こんなの……」
「そうだよね。お兄ちゃんが過保護にされたことを気にしてるなんて、二人には関係のないことだもの。でもこれからはそうはいかないって、わかってるの? 人間一人の一生に影響与えるんだよ。ここでちゃんと話をしておかなくてどうするのよ」
そう何度も、妹の口から言わせないでほしい。――これは、二度目なのだ。一度目はニールが来た日、ルーファの帰宅後。実家への連絡を面倒がっていたニアに、でも、と呈した苦言。あのとき、もしうまくいかなかったらもう一回言ってと頼まれ、そう何度もあってたまるかと思った。
「おじいちゃんとお父さんはさ、一旦家のこととか相談しなかったこととか置いといて、お兄ちゃんの話を聞いてくれないかな」
「うん……ろくに話も聞かずに喧嘩になったからな。悪かった」
「では、イリスの言う通りにしよう。だから降りなさい」
イリスが椅子から降りて座り直してから、アーサーは戸口を見やった。つられるようにして視線を移すと、扉がわずかに開いていた。
「お前たちも、覗き見るなら入ってきなさい。もう誰も怒鳴りはしない」
いつからそこにいたのか、応えるように、祖母ガーネット、叔母サクラ、母シィレーネが連れ立って部屋に入ってきた。戸惑うイリスに、サクラが「お兄ちゃんとニアが喧嘩始めたあたりから」と耳打ちする。そういえばその頃から、アーサーの発言がほとんどなかった。
「もう気は済んだわね。それじゃ、今度こそ家族会議しましょうか」
「カスケードさんたちが喧嘩してるあいだに、こっちはニール君へのプレゼントとか一通り決めちゃったんですからね。ああ、でも服のサイズがわからないんだった。ニア、それも教えてね」
ガーネットとシィレーネが着席し、サクラはそれに続くと同時に書類――小児科医である彼女がニールを診察した時の記録だ――を用意した。女性陣はすっかり、真の会議の準備を済ませていたのだった。イリスだけに任せてはおけないと、それでは大人としての立場はどうなると、彼女らは彼女らの会議をしていた。

絵で、あの子を助けることができるなら。それならこの手にもできることがあると思った。――それが話の始まりだった。
イリスがニールを救出してから、五日ほど経った頃。ルーファが仕事に行っているあいだに部屋を掃除していたニアが、机の上に広げたままにしてあった本を見つけた。子供の心に関するその本は真新しく、最近買ってきたものであることがわかった。わざわざこんなものを用意する理由は、一つしか思い当たらない。
自分が関わってしまった事件の生き残りである子供のことを、ルーファはずっと気にしている。レヴィアンスやイリスの話もあったせいだろう。事件の状況を淡々と証言し、以降は全く話さなくなった。軍人を見ると怯えるようになった。けれども怪我が良くなって病院を退院したら、施設に入ることになる。軍にいた頃、そんな事例は幾度となく見てきたのに、今になってその流れがどうにも引っかかるようだった。
施設に入ることは悪いことではない。心にできた大きく深い傷も、生活しているうちに少しずつ、痛みが和らいでいくかもしれない。けれどもそれ以上に、ルーファの中には「救われた日のこと」が強く残っていたのだろう。大人が自分に「家」を与えてくれた日のことが。
本を見つけてからさらに二日、ルーファがニアの絵を買いたいと言いだした。譲ってくれ、ではなく、買う、というところが彼らしいと思った。そのときにはもう、例の本に絵と心に関する項目があることを知っていた。しかしそれ以前から――描いた絵が認められるよりも前だ――絵が人の心に与える影響などは、様々なかたちで聞いていた。
自分の絵も誰かの助けになるだろうか。傷ついた心を瞬く間に癒すような魔法は使えないけれど、一瞬でも忘れられるような、それくらいのことはこの手にできるだろうか。逆に楽しいことや嬉しいことを思い出させることは。その一瞬が何度も続けば――。
ニアがニールという子供のことを気にかけるようになったのはそれからだから、初めて会ったときにかけた言葉はほとんど勢いだった。本当に彼を迎える覚悟と準備をするまでが、三週間。
「それじゃ足りなかったね。今日、父さんとやりあってよくわかった。自分の意地が先じゃだめだ」
そうして息を吐いたニアに、イリスはかける言葉が見つからなかった。せっかく落ち着いたのに、また波をたててはいけないと思うと、何を言っていいのかわからない。
だがそれはイリスだけで、頷きながら話を聞いていたシィレーネは笑って言った。
「なんだかんだで親子ねえ。そういうところは父さん譲りなんだから」
「ちょ、ちょっとお母さん」
「仕方ないわね、親子三代意地っ張りってことは、きっとその前もだし。あ、でもおじいちゃんってもっとおおらかな人だったんだっけ」
「叔母さんまでそんな」
「比較的おおらかではあったけど、変なところで意地っ張りだったと思うわ。インフェリア家が意地っ張りの家系なのよ。イリスもサクラも覚えがあるでしょう」
「おばあちゃんも……」
誰も何も言い返さない。よく考えれば、さんざん喧嘩したあとに言い返すもなにもない。ついでに巻き込まれたので、イリスはサクラと顔を見合わせて苦笑した。
こほん、と一つ咳払いをして、カスケードがやっと切りだす。
「とにかくだな。……あんまり急だと驚くから、どうあれ連絡はちゃんとしてくれ。俺が把握してないと嫌だとか、そういうことじゃないぞ。母さんたちのことも考えろ。これはニアのことを子供扱いして言っているわけではなく、大人として対等でいたいからこその頼みだ」
イリスは、そしてもちろんニアだって知っている。カスケードは、父は、嘘を吐かない。性格上吐けないのだ。それはアーサーも、言い方こそ異なるが、よく似ているのだった。
「わかった。意地張ってちゃルーやニールにまで迷惑がかかるから、何かあったら連絡はするよ」
「それと、近いうちに一度ニールを連れてくること。みんなを紹介しなきゃいけないだろ」
「そうだね。うちの家族は多いから、憶えきれるかどうか」
「すぐに憶えるさ。おじいちゃんって呼ばれるの楽しみだなー」
結局はそれを期待していたんじゃないか、とイリスは呆れたが、安心もした。これなら大丈夫だ。ニールはこの大仰な家に歓迎される。それも盛大に来てくれたことを喜ばれる。たくさんのものを一度に手に入れて戸惑うかもしれないけれど、きっと慣れるだろう。
アパートで会ったあの日、イリスが帰るときには、こちらを向いて小さく手を振ってくれたように。


インフェリア家であったことをルーファに正直に報告したニアは、しこたま叱られたようだ。無責任だとか勢いだけで動きすぎだとかそういうことではなく、どうして思ったことを正直に話してくれなかったのか、ということで。そうしたら二人でもっと考えて相談をして、ニアが悩まずに済んだかもしれないのにと。
イリスはそのやりとりのあいだ、別室でニールの話を聞いていた。小さな声で一所懸命に話してくれたのは、ニアが実家に行っているあいだに、ルーファと出かけたことだった。
「ルーファさんの、お父さんとお母さんに会ってきました。おじいさんとおばあさん、それからたくさんの使用人の人たちにも。ルーファさんの家って、大きいんですね。びっくりしました」
どうやらルーファの実家に挨拶に行っていたらしい。みんなに可愛がられたようで、頭を撫でられた、美味しいものをたくさん食べた、など嬉しそうに語っていた。
話し合いを終えたニアが改めてその話を聞いて、心底羨ましそうだった。
「ずるいよ、ルー。僕もそっちに行きたかった」
「ちゃんと家に話しておかないからそうなるんだろ。次はお前の番だ」
片手でニアの、もう片方の手でニールの頭をくしゃりと撫でるルーファを見て、イリスは思った。意地っ張りでも、一人で悩んだ末に突飛な行動をとるようなことがあっても、ニアにはルーファがいるから大丈夫なのだ。これからは、ニールも。
思い出すのは、話合いを終えて実家を辞する直前。一度席をたったイリスが、戻ろうとしたときに聞こえてきた、密やかな会話。
「子供の面倒を見るのはいいが、自分自身を制御できるのか。お前の兵器と呼ばれた力は、消えたわけではない。だからわざわざうちに来て大剣を振い、発散しているんだろう。たまにやるらしいイリスとの勝負、名目上は当主継承のためのものだったか。あれも口実の一つなのだろう」
アーサーが「兵器」という言葉を使うのは、ニア当人の前でだけだ。カスケードやイリスは、その呼称を仕方がないとわかっていながらも不快に思う。ニアは物ではないのだから。
イリスが隠れて唇を噛んだのは、そのせいだけではない。ニアが今でも軍人時代の強さを保っているその理由が、力の制御のためだということを、初めて聞いてしまったからだった。
しかしニアは、「大丈夫」と微笑んだ。声で、笑っているのがわかった。
「ニールにはもう、傷を負わせないよう尽くすよ。ただでさえ恐ろしい思いをしたのだから、危ない目には絶対にあわせない。僕の力はあの子に見せない。……もし危なくても、僕には僕を止めてくれる絶対のパートナーがいるから、おじいちゃんは心配しないで」
ニアが暴走してしまったら、止められるのはルーファだけ。退役してもルーファと一緒にいるから大丈夫だ、という理由で、軍を辞めるのを、つまりは軍の監視から外れることを許されたニアだった。
だがそれ以外の理由でも、ニアはもう大丈夫なのだ。ルーファがいて、ニールがいて、家族がいる。その中にはイリスも、たぶんいる。
「ね、ニール。ルー兄ちゃんの家もすごいけど、うちもすっごいからね。おじいちゃんは顔は怖そうだけど優しいし、おばあちゃんは明るくて美人なの。お父さんは子供が大好きで家族をとっても大事にするし、お母さんは可愛くて芯の強い人。叔母さんは会ったことあるよね、病院でニールを診てくれたお医者さんだよ。頭良いの。他には一緒に住んでるお姉さんとか、お母さんの叔父さんとか。全員わかるようになるかな?」
「……憶えるの、大変そうですね。でも頑張ります。ニアさんと、イリスさんの家族ですから」
はにかんで笑うニールを、イリスは抱きしめた。兄と自分の、だけじゃない。これからは、彼だって。
「ニールも家族だよ。……ようこそ、わたしたちの家へ」
ニールをインフェリア家に迎える今度こそ、一家団欒の時間を過ごそう。優しくて、温かな。自分たちが育まれてきたあの場所に、彼を迎えよう。



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2016年07月02日

椅子に在る者

この国でたった一人だけが座る椅子に、今は彼が居る。豊かな緋色の髪は炎のようであり、鳶色の瞳は全ての罪をさらけ出し射貫くかのよう。左胸に輝くのは、国章と金色の階級章。この色を身につけられるのもまた、椅子に座れる人間だけだ。
その目は今、真正面に立つ人物を見つめている。左胸の階級章は、中将を表す銅。彼は唇を噛みながら目を逸らしていた。この場所に呼び出された時点で、疚しいことがあったのだ。
「現在、司令部内の備品を一新しているわけだけど。君もそれに関わってるよね」
問えば、肩がぴくりとはねる。一瞬のことだったが、鳶の眼は見逃さない。
「それが何か」
「君の上司が出した発注数を、オレは認めた。そうしてそのまま戻して任せた……と思ったら、その後の処理は君に任されているという。君が実際に発注した数字は、元のものより随分と多くなっている。……これ、どういうことかな」
「さあ? 数字が大きくなっているというのも、初めて聞きましたが」
「そりゃそうだ。君が勝手に大きくしてるなら、聞くこともないよね。でも司令部に入ってきたのは元の数字の通り。けれども備品を扱っている会社が受け取った数字と、こっちが請求された金額が、元のものと異なっている。じゃあ、ものはどこに流れたんだろうね」
「知りませんよ。あちらの会社都合では?」
「そうじゃないのは確認済みだよ。それに関わっている人間が知らないなんて言葉を使うのもどうなのさ」
口調はさほど重くはない。だが確実に責めている。中将のこめかみを、汗が伝った。
「じゃ、質問を変えようか。……水増しした備品、どこに流した?」
この男はすでに調べ尽くし、知っている。この呼び出しは確認のためではなく、処分のためのもの。答えようが答えなかろうが、この先の展開は決まっている。中将もそれを察し、椅子に座る男を睨んだ。しかし男は狼狽えない。こんな場面は、残念ながら何度となく経験済みだ。
「……くそっ」
中将は小さく吐き捨て、それから軍支給の短剣を抜いた。
「名前だけの大総統のくせに、偉そうにしやがって!」
叫んで床を蹴る。短剣を振り上げ、一足で男に迫る。とっさに、それまで男の脇に控えていた者が、腰の剣を抜こうとした。
「閣下、私が」
「いいよ。一瞬だけ相手してやるから」
控えていた者を制し、男は飛び込んできた中将を素早く避けた。しかし椅子から立ち上がった男を、中将は再び狙う。
「なめんじゃねぇ!」
大きく振り上げられる短剣。それが下ろされる前の一瞬で、男は中将の懐に入った。その手にはいつのまにか紅玉を柄にあしらったダガーナイフがあり、切っ先は中将の左胸へ突き刺さる。
目を見開いた中将に、衝撃はあれど傷はない。ナイフは左胸の階級章を割り、肌に触れる前に止まっていた。中将の手から短剣がこぼれ、足がよろけて後退した。
「……見逃したつもりかよ」
憎々しげに吐かれる言葉は、しかし男には全く響かない。そもそも見逃すわけがない。
「いいや。でもその階級章、もう使えないよね。新しいのあげるよ」
割れた銅の替わりに放られたのは、真新しい白の階級章。二階級下の、准将のものだ。――つまりは、それが処分。
「その階級章つけ直して、一か月謹慎。その間の手当なし、給与減額。……もののルートは割れてるし、そう危険なものでもないから、それくらいでいいかな」
元中将がへたり込んでしまうと、脇で控えていた者が彼を引きずって、部屋の外へ出した。
全てが済んでから、控え、いや、大総統補佐大将レオナルド・ガードナーは嘆息する。
「閣下、処分が甘くはありませんか。たった今、ご自身が危険な目に遭ったんですよ。それに彼がものを流したルートは裏でしょう。資金調達などに利用されていたら……」
「割れてるんだから、潰すのもそんなに時間はかからないよ。何だったらオレが直接出向く」
それよりさ、と男――エルニーニャ王国軍大総統、レヴィアンス・ゼウスァートが振り向いた。右手に収まっているダガーナイフを、軽く振りながら。
「今のでちょっと、こいつの刃先やっちゃったんだよね。メンテナンス行ってくる」
苦笑いする大総統に、補佐はまた大きな溜息をもらす。
「……ついでに、ちゃんと休んできてはいかがですか。本日の残りの仕事は私がやりますので」
「悪いね、留守番よろしく。何かあったらすぐに、鍛冶のスティーナに連絡のこと」

第三十一代大総統は、ゼウスァートの名を持っている。この名はエルニーニャ王国建国に際し、設立された軍の初代大総統に与えられたものだ。古代語より、「万能の指揮者」という意味を当てはめた。
しかしゼウスァート本家はとうに断絶していると思われていた。はるか昔、当時十四代大総統を務めていたゼウスァート姓の人間が、軍による政権台頭に反対する者の手で暗殺されて以来、歴史の表舞台からはその名がしばらく消えることとなる。そのあいだ、ゼウスァートの末裔がどこで何をしているかは全く世間に知らされず、そのまま絶えてしまったものだと誰もが認識していた。
ところがそれが覆る事件が、二百五十年の時を経て発生する。エルニーニャの事件史ではイクタルミナット協会事件と名付けられている一連のできごとで、ゼウスァート家の末裔が現代に存在していることが発覚した。――彼こそが、レヴィアンスである。
建国記にあるとおりの緋色の髪と鳶色の瞳、そして現代科学が、それが真実であると裏付けた。三十代大総統の失踪を機に、それに目をつけた女王が、レヴィアンスにゼウスァート姓を名乗り大総統として立つように命じた。名ばかり大総統、と非難されるいわれはここにある。ゼウスァートの人間だから、運よくトップに立つことができたのだと考える人間は少なくない。
だが女王もそこまで愚かではない。彼女はレヴィアンスの元上司であり、彼の活躍を間近で見てきた一人だ。その上で、この人物はゼウスァートと国という重圧を背負うことができると判断した。それを知る者はわずかだが、実際、レヴィアンス・ゼウスァートが大総統に着任して二年のあいだに、その実力は国民の多くに認められることとなった。名前の力ではない、彼自身の力がそうさせた。
いや、要素は他にもいくらかあるにはある。レヴィアンスという人間を育てたのは、二十九代大総統とその補佐なのだ。親の背中を見てきた彼には、自分の目指す国の姿が見えていた。
なるべくしてなった大総統。指揮者の再臨。人々の目に映る現在のレヴィアンスは、そう呼ばれている。
だが一方で、レヴィアンス・ゼウスァートという人間は軍にしかいない。「一国民」としてのレヴィアンスには、彼が本当に名乗りたい名があった。

「シルビアさん、ナイフ一本直して」
レヴィアンスに声をかけられ、赤毛を頭の上でしっかりとまとめた女性が振り返る。そうして、ぱっと花が咲くような笑顔を見せた。
「まあ、レヴィ君じゃない! 最後にここに来たのはいつだったかしら。お仕事忙しいの?」
「うん、まあまあ。一日椅子に座ってるだけなんだけど。で、ナイフを預けたいんだよね。ついさっき刃先がやばいことに」
「さっきって、何をしたの?」
「階級章をぶっ壊した」
「ちょっと見せて。……あら、しかもこの具合、一個じゃないわね。噂には聞いてたけど、本当に軍人さんを降格させるときに、階級章壊しちゃうのねえ……あんなに硬いのに……」
レヴィアンスの愛用するダガーナイフを受け取ったシルビアは、その刃を様々な角度で眺めはじめる。そうしながら考えるのは、これをいかに直し、かつ以前よりも耐久性のあるものにするかだ。この鍛冶屋の本来の主、名匠スティーナ翁も、同じようにするだろう。もっとも、判断は彼女より早いだろうが。
長年、エルニーニャの首都レジーナで鍛冶屋を営んでいたスティーナ翁は、国で最高齢ともいわれる現在はよほどのことがない限り店には出てこない。主な業務は唯一の弟子である、シルビア嬢に任せている。この女性、元の素性ははっきりしないのだが、スティーナ翁の作品をこよなく愛して、鍛冶屋という仕事に情熱を傾けている、腕と熱意は確実に信頼できる人物なのだ。
「しばらく預かるわよ。早めにはするけど。すぐに持って来るってことは、近々使う予定があるんでしょうし」
「お願いね。……で、まあそれはそうとして、じいちゃん元気?」
「出てこないだけで元気よ。腰が痛むから鎮痛剤は使ってるけど、本当はそれも嫌みたい。食事ももっと味がする物にしろって、ハルさんと毎朝のように口喧嘩」
「母さんのことだから、適当にあしらってるんだろうね。父さんは胃が痛いだろうなあ」
「さすが、よくわかってるじゃない。アーレイドさんは逃げるように、うちの品物の配達に行ってるわよ。本当は重いものを持つなら、ハルさんのほうが得意なのにね」
シルビアと笑いあってから、レヴィアンスは店の隣へ目をやる。そこに立つ一軒家が、この店を営む一家が寝起きをする場所であり、レヴィアンスが育った場所だ。鍛冶屋を訪れる際には、実家にも立ち寄るようにしている。どうしても長居してしまうので、仕事の目処が立っているときに限るけれど。
「じゃ、母屋行ってくるから。あとはよろしく」
「任せて。丈夫に直すからね」
店を一旦出て、隣へ。呼び鈴を鳴らすと、そう待たずに家の者が出てくる。明るい赤紫色の長い髪は、今日もしっかり三つ編みだった。
「あ、レヴィだ。おかえり。直接顔見るの久しぶりだね」
「ただいま、母さん。間接的には見てるんだ?」
「新聞とかテレビとか。アーレイドが全部保存してるよ。軍人学校に寄贈して資料にしてもらっても良いくらい」
「……それ、母さんのときにもやってたんだろうなあ……」
レヴィアンスが母さんと呼ぶその人が、ハル・スティーナ。かつて二十九代大総統を務めた人物であり、現在は実家で仕事をしている。スティーナ翁の身の回りの世話から、鍛冶屋の手伝い、そして政治に関わる様々なこと。元大総統という肩書は、つまり当時のこの国を知り尽くしているという証明であり、ゆえに現在の政への意見を仰がれることも多い。レヴィアンス自身、この人に何度助けられたことか。
ちなみに政治に関する相談はハルに、軍の動向に関わることは二十八代大総統カスケード・インフェリアに相談することが多い。肩書は同じだが、得意分野は違うのだ。もっと複雑なことになると、より多くの人の手を借りることにもなる。なにしろレヴィアンスが大総統になって、まだ二年だ。
「父さんは配達?」
「うん。寄り道してることを考えても、そろそろ帰ってくると思うけど。おじいちゃんの薬、もっと飲みやすくしたからってカイさんから連絡があったんだよ」
「じゃあ話しこんでるかもね」
父はアーレイド・ハイル。ハルが大総統だったときに補佐をしていた。この二人に育てられたレヴィアンスの、プライベートでの名はレヴィアンス・ハイルだ。自身はこちらの名のほうが落ち着くし、本来の自分であると思っている。大総統の任に就くまでの人生二十四年間、そう名乗っていたのだから。いや、今だって友人知人のあいだでは、レヴィアンス・ハイルのままだ。
「これ、お土産。新しいケーキ屋ができたってイリスが教えてくれたから、さっき寄ってみた。店の人に確認したから、じいちゃんも食べられると思う。シルビアさんにもあとで言っといて」
「わあ、ここ気になってたんだよ。そうだよね、見回りにでも出なきゃ、新しい店なんてわからないよね。大総統って大枠を見る仕事だから、細かいことはなかなか気づけないし」
「母さんはどうやって知ってたのさ。店に行く機会は少なかったかもしれないけど、美味しいお菓子とかには昔からそこそこ詳しかったよね」
「そこは仲間内の情報網。甘党グループで連絡とりあって、仕事上で使えそうならチェックして。レヴィのお酒の付き合いと同じかな」
なるほど、そうやって人付き合いをしてきたのか。今更気づかされることもたくさんある。代々、それぞれの大総統にそれぞれのやり方があって、エルニーニャという国を動かしてきた。国を作るのは人だ。上の選ばれた人間だけではなく、そこに生きる全ての人が、この国の動力であり礎であり、守るべきものだ。やり方は違っても、それだけは忘れてはいけないと、レヴィアンスもハルから教わっている。
自分がそれを実行できているかは、未だに他人にきちんと見ていてもらわないと、わからないけれど。
「……あのね、レヴィ。アーレイドが心配してたよ。ちゃんと休んでるのか、睡眠はとれているのかって。また仕事に集中しすぎて、補佐のガードナー君を困らせてないかって」
茶の準備をしながら、ハルが言う。アーレイドが、とは言うが、本当のところは自分も気にしているということは、レヴィアンスもよくわかっている。ハルが大総統だった頃は、レヴィアンスが「おじいちゃんが心配してたよ」と同じことを言ったものだ。
あの頃はレヴィアンスが子供だったから、ハルもアーレイドも「大丈夫」と笑っていた。どんなに疲れても、子供に本当のことは話さなかった。でも今は、レヴィアンスだって大人だ。そしてかつてのハルと同じ立場にいる。だから正直に自分のことを話すようにしていた。
「さっき困らせてきたところだよ。だからこっちに顔出してるんじゃん。でもさ、休めっていうけど、オレはちゃんと休んでるつもりなんだって。しょっちゅうニアたちのところに遊びに行くし、三時間は寝るようにしてるし」
「うわー、三時間か……。アーレイドには言わないでね、それ。ボクも現役のときは三時間も寝ればいけるって思ってたけど、アーレイドはせめてその倍くらい睡眠時間をとってほしいっていつも言ってたから。ボクが寝たら、自分が睡眠時間を削って仕事進めるくせに。二人で完徹もよくやったな」
懐かしみながら用意してくれたのは、薄めに淹れたコーヒーだった。現役時代はもっと濃い、それこそ泥のようなコーヒーをおともに、仕事に励んでいたのだろう。ドリップなんて悠長なことはしていられないから、インスタントの粉をさっとお湯で溶かすのだ。今のレヴィアンスもよくやっている。
「母さんたちはさ、大総統と補佐っていうより、大総統が二人って感じだよね。オレは徹夜になりそうなら、さっさとレオやイリスは帰して、翌日に備えさせるけどさ」
「ガードナー君はともかく、イリスちゃんはそもそも正補佐じゃないんだから帰さなきゃだめでしょう。そんなことしたらカスケードさんがなんて言うか」
「いや、情報が伝わるのが早い分、ニアのほうが怖いかな。イリスに何かあったら、耳がちぎれそうなくらい引っ張られる」
舌に広がるまろやかな苦みと、かすかな酸味。仕事用ではなくおもてなし用の、それもレヴィアンスのためのコーヒーを、ハルはいつ突然訪ねても用意してくれる。全く同じものを、アーレイドも淹れることができる。両親は幼少期のレヴィアンスのことをあまりかまうことができなかったのに、好みや考えはよく把握していた。忙しい中でも、常に子供のことを忘れなかった。自分が大人になった今、それがどれだけ大変なことかよくわかる。
レヴィアンスは歴代大総統の中でも余裕があるというのが、周囲からの評判だ。週の半分はさっさと仕事を終わらせて、友人宅や店に飲みに出かける。練兵場に出ていって、階級の低い軍人たちとともに訓練をすることもある。最近は少なくなったが、ときどき大暴れする妹のような補佐見習いを止めに行くことだってする。部下は補佐までも定時に帰らせて、自分は大総統執務室で酒を飲みながら誰かと電話していることがあるというのも、司令部内ではもっぱらの噂だ。
ゼウスァートの血を引いているから、親も大総統だったから、才能があるのだろう。そう教育されてきたからこそ余裕も生まれるのだろう。そんなふうに言う人もいる。
ゼウスァートの名で大総統という立場にいるからこそ、そう見える努力をしているということを、知る者は少ない。そういう人々は、本当にごく限られている。レヴィアンス当人でさえ、自分の行動を努力や頑張り、ときにはあがきであると、さほど思わない。初めのうちこそ考えていたが、二年も経てばそれらはやって当たり前、できて普通のことになってしまっていた。
余裕があるかのように振る舞うために、力を残して、使っている。力の配分は、実はとても危ういバランスなのだということは、ほとんどの人が知らないし、気付くこともない。
もし今のバランスのまま、レヴィアンスが妻や子供を持ったとする。常に考えなくてはいけない事項を増やしたら、たぶん、どこかから崩れていくだろう。完全に崩れてしまったとき、レヴィアンス・ゼウスァートか、レヴィアンス・ハイルのどちらかが、いなくなるかもしれない。
自分ではそう思わなかった。これをはっきりと言葉にして教えてくれたのは、一日のうちもっとも長い時間を共にしている人。正補佐レオナルド・ガードナーと、補佐見習いイリス・インフェリアだった。
最初に言ったのはレオナルドだ。そのときどう考えても仕事を詰め込みすぎていたレヴィアンスが、いつもと変わらない調子でレオナルドを帰らせようとしたときに、彼は切れた。
――そうやって余裕ぶって全部抱え込もうとしていたら、閣下はいつか壊れますよ。
口調は穏やかだが、強かにレヴィアンスを打つ言葉だった。そんなことないよな、とイリスに冗談めかして尋ねると、彼女もまた真剣な表情で返した。
――ガードナーさんの言う通りだと思う。少なくとも今は、一人で何とかできる状態じゃないんじゃないの。
それから時間をかけて、仕事を進めながらの説教が続いた。地道な仕事が得意で周囲によく気を配っているから、という理由で補佐に採用したレオナルドは、レヴィアンスの見立て以上の人物で、本人よりレヴィアンスの仕事のやり方を知っていた。イリスは長い付き合いだが、その分レオナルドの言葉に同意すると重みがあった。
そのときのことを後に実家でハルとアーレイドに話し、やはり同意されて、レヴィアンスはようやく自らを省みたのだった。
そうすることで、かつての両親の大変さや、それでも我が子を愛していたということを、より深く理解できた。
自分にはまだ、そこまでの器はないということも。
「……最近さ、ちょっと失敗して。内部での連携とかチェックとか、オレがちゃんとできてなかったせいで、未然に防げたかもしれないことをとりこぼした。少し大きめの案件が続いたから、そっちに気をとられすぎた。イリスは無理でも、せめてレオにもっと仕事を割り振らせてもらえばよかったなって反省してる」
口の中の苦みが消えないうちに言う。ハルはそれに頷き、微笑んだ。
「わかってるなら大丈夫。レヴィたちでちゃんと解決できるよ。みんなそうしてきたんだから」
危ういバランスのものが、どうして今まで崩れずにいられたのか。言うまでもなく、支えてくれる手があったからだ。レヴィアンスだけではなく、誰だってそうだった。
大総統の椅子に座れるのは一人だけ。でも、大総統執務室には、司令部には、この町、この国には、たくさんの人がいる。
「そうだよね。オレには優秀な部下と、尊敬する相談相手がたくさんいるし。取り返せる失敗だから、さくっと片付けてくるよ」
「お前のさくっとは雑なところがあるから気をつけろよ」
意気込んだところに、突然声がかかる。驚いて振り向くと、アーレイドが腕組みをして立っていた。
「父さん、いつから?!」
「今帰ってきた。ただいま、ハル」
「アーレイド、おかえり。薬貰ってきた?」
「ああ。ちょっと話しこみすぎたけどな。年取ると昔話が多くなる」
それも何度もした話なんだけど、と言いながら、テーブルの上に箱を置く。レヴィアンスが買ってきたケーキの箱と同じものだ。
「あ、父さん、オレも同じの買ってきちゃった」
「マジ? 中身は?」
「ちょっと失礼。……あー、やっぱりうちの好み考えるとかぶるよね」
「じゃあそれ、レヴィが持って帰れば? どうせ執務室で食べるだろ」
「食べる。イリスが喜びそう」
思いがけず土産を手に入れ、時計を確認する。そろそろ戻らなければ、レオナルドの仕事が大変だ。いくら残りはやっておくと言ってくれても、そもそもはレヴィアンスの仕事である。もう弱音も吐いたし、十分休んだ。
「じいちゃんに会ってから、司令部戻ろうかな。どうせナイフもすぐには直らないだろうし」
「シルビアさん、明日の夕方にはって言ってたぞ。近々動く予定なんだろ、間に合うのか」
「うわ、早っ! 十分間に合うよ。夕方なら、明日の晩には動けるってことだし。……じいちゃーん、腰大丈夫ー?」
スティーナ翁の部屋へ向かうレヴィアンスを、ハルとアーレイドは笑みを浮かべて見つめる。あの小さかった子は、あんなに大きくなって、とても重いものを背負って立つようになった。
「しかし、得物が直ってすぐに出るつもりなところは、ハルに似たな。もうちょっと考える時間とかいらないのか」
「もうたくさん考えたんだよ、きっと。そもそも本当にすぐに動きたかったら、今頃はそうしてるんじゃない? レヴィのダガーナイフ、いっぱいあるんだし。たった一つを待つことなんてない」
「それもそうだな」
ハルとアーレイドの入隊当時の大総統は、アレックス・ダリアウェイド。補佐はルーク・ルフェスタ。ここ百年で最も大総統の名に相応しく、補佐もそれをよく助けた「完璧な国長」といわれる。それを引き継いだのが「青き獅子」カスケード・インフェリアで、彼の最初の補佐はディア・ヴィオラセント。互いの長所と短所をわかりあった、力強い二人だった。ディアの退役後は補佐を何度も変えたカスケードだったが、それは自分が大総統でいることで降りかかる危険から、補佐という立場になってしまった人間を守るためだ。次がハル・スティーナと補佐アーレイド・ハイル。最終的な決定権はハルにあったが、互いを支え合い背中を預ける、当時のエルニーニャの「双璧」だった。次代の大総統は職務を半ばで放棄してしまい、国民に大総統不信を生んだ。しかしレヴィアンス・ゼウスァートは見事にそれをひっくり返した。それは彼の実力であり、彼の視界を補うレオナルド・ガードナーとイリス・インフェリアがよく働いてくれているためでもある。「指揮者」はたしかに再臨したが、彼を「万能」たらしめるのは、指揮をよく見ている人々だ。
大総統の椅子は一つ。一人だけが座れるもの。だがその椅子に不具合が生じたときに対応する人々がいなければ、唯一のそれは壊れてしまい、もう直らない。
「……今の大総統の椅子には、二人座ってるかも」
「なんだよ、突然。昔から唐突に妙なこと言うよな、ハルは」
「半ばボクの、そうだったらいいな、っていう希望なんだけどね。今の大総統は、レヴィアンス・ゼウスァートとレヴィアンス・ハイルなんだよ。指揮者はゼウスァートだけど、その指揮についてくるのは、ハイルに魅力を感じた人たちだと思うんだ」
「でも、それってどっちもレヴィだろ?」
「そうだけど……ボクはアーレイドの育て方も褒めたかったんだけどなー」
「それを言うならハルの育て方も良かったんじゃないか。……忙しくてレヴィをほったらかしにしてたあいだは、じいちゃんだけど」
「だよね。おじいちゃんはさすがだよ」
大総統の座に着くまでに、人脈と実績をつくりあげてきたのは、レヴィアンス・ハイルだ。だからこそレヴィアンスは、その椅子を用意された。
求められたのはレヴィアンス・ゼウスァートだった。だからその名を冠するに相応しくあるよう、現在のレヴィアンスがいる。
重なる二つで、一つ。それを取り囲む人垣。それが今のエルニーニャ。
「じいちゃん、長生きしてよ。オレが大総統やってるあいだは見ててほしいな」
「そりゃあ、百五十は目指さにゃならんな。お前、儂の年知っとるか」
「え、……百歳の誕生日祝ったの、いつだっけ」
その歴史を見てきた者は、ひ孫を見て実に嬉しそうに笑った。



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2016年06月04日

変わらぬ誓いで走れ

エルニーニャ軍の訓練は、様々なところで行なわれる。練兵場、市街地を想定した専用施設、平地、森、川べりに山。海にはほとんど縁がないが、夏に避暑を兼ねてプールで救助訓練が行なわれることがある。
軍で山を一つ、訓練用に持っている。一般人は基本的には入れないことになっているが、時折侵入者や迷い人が現れるので、軍の者が頻繁に見回りをしている。ごくまれに、軍の最大の敵ともいえる裏社会の人間が、そこで捕まることもある。
見回りが行なわれないのは、天候により地盤が緩んでいる可能性があるだとか、危険が想定される日くらいなものだ。だが、そういうときに限って、部外者が巻き込まれているというケースもある。したがって、天候悪化のあとの見回りは、通常より注意しなくてはならない。
「おい、足元気をつけろ。……そこ、遅れるな!」
「気をつけて遅れるなって、無茶言わないでくださいよ」
「無茶は承知の軍だろう」
例によってバケツをひっくり返したような雨が降った翌日、山中の見回りが慎重に行なわれていた。ぬかるみに足をとられながら歩く隊の、その先頭が、山を下りる途中でふと足を止めた。
ほぼ土色の地面に、ぽつりと鮮やかな色がある。植物や茸の類ではない。人工的な、明るい青色。よく目を凝らせば、それは靴の形をしていた。軍支給のブーツではない。それに、小さい。
この国の軍は十歳の子供から入隊が可能だが、それにしてもあれは。
「待て! この付近に人はいないか、確認するぞ!」
「さっき見たじゃないですか。俺たち以外に誰がいるって……」
「いいから! 子供の姿を捜すんだ。泥で汚れていたり、怪我をしている可能性もある!」
見回りから帰るのが遅れる、と司令部に連絡をとり、彼らは捜索を開始した。


大陸の中央にして大部分を占めている、エルニーニャ王国。現在の土地は、幾度も施行された統合政策により、かつて周辺にあった小国や、他の大国との交渉で得た地域によって構成されている。かつて大陸戦争で、人々が暮らすためにと確保した土地は、もっと狭かった。
建国から、生活のために法と街を整備し、国が栄えるまで。そんな歴史の中で、商売をする者も動き、富を得てきた。
この国の大手家具会社、フォース社もそのひとつだ。有名優良企業として、多くの商品と雇用を生み出し、庶民から貴族、王宮までも味方につけている。その現社長は若い頃軍人であったが、引退して家業を継いでからは、最初からそのための修行でもしていたかのように辣腕を振るっていた。実際、彼は軍に入るまでは、そういう教育を受けていた。そして引退後は、商業の世界に生きるために猛勉強をしたのである。
――という親を持つのが、ルーファ・シーケンスだ。彼も二年ほど前までは軍人であり、しかしながらこの国の軍人の退役時期が三十歳前後であること、いつかは親の仕事を継がなければと思っていたことから、自分も会社勤めになった。
勤務先こそ親の会社ではあるが、軍以外の仕事についてはまだ素人寄りだ。いくら必死で勉強しても、他の者に追いつけない部分がある。つまり、経験だ。それを着実に積んでいくために、ルーファは研鑽の日々を送っている。
「軍ほど簡単に伸し上がれるとは思わないことだな。……まあ、軍も簡単ではないが。昇進は早かったから、しばらくはこのなかなか上に行けない世界に戸惑うだろう」
入社時に親が告げた言葉は、会社で働くようになって二年経った今、痛感している。だがこれはルーファだけの感覚ではなく、この国の多くの人間が感じることでもあった。
「軍では将官だったのに、退役したら一番下っ端だぜ? やってられるかよ」
同じ境遇の同僚がぼやくのを、ルーファは苦笑しながら聞いていた。そう思わなかったことがないとは言いきれないが、社長の息子がそんなことを口にすることはできないのだった。
「シーケンスは将来が約束されてるからいいよ。そのうち役員になって、社長になっちゃうんだろ」
「いや、そうとは限らないよ。俺がどうして平社員から出発したかって、それは社長の意向だからだ。ちゃんと経験積んで、仕事ができるようになって、その上で跡を継がせるかどうか考えてやるって。つまり俺以外に良い奴がいたら、そっちに役目がまわることも可能性として十分にあるんだよ」
やっかみを避けるため、というのもあっただろうが、嘘を吐かない親が言っていたことだから、これが本当のことなのだろう。ルーファが真面目に仕事をしなければ、親――社長は認めない。
「じゃあ、オレが社長になれる可能性もあり?」
「お前が真面目にちゃんと仕事をして、認められればな。実力主義だぞ、社長は」
その人に育てられたから、誰よりもわかっているつもりだ。だが、だからこそ、自分が努力して、この大会社をまとめられるような人物にならなければと思う。親の顔に泥を塗るわけにはいかないのだ。

仕事を終えて帰る先は、実家ではない。実家は豪邸で、使用人も多く雇っている、至れり尽くせりの環境なのだが、ルーファはそれに甘んじることができなかった。と、いうのも。
「ただいま」
「ルー、おかえり」
一般的なファミリー向けのアパートの一室で、パートナーは待っていてくれる。元軍人、現画家であるニア・インフェリアと一緒にいたいがために、ルーファはこの暮らしを選んだ。いつまでも実家に甘えて、ニアもそれに巻き込むなんて、それでは誰のためにもならない。
「おかえり、ルーファ。先に飲んでたぞー」
「ルー兄ちゃんおかえり! わたしも先にご飯食べてた!」
「……お前ら、また来てんの? イリスはともかく、レヴィは仕事しろよ。大総統閣下様だろ」
ただ、実家ならばこのような事態にもならなかっただろう、とは思う。
ニアと二人暮らしをしているはずの部屋には、毎日のように来客がある。軍人時代の同期で友人であるレヴィアンス・ハイルと、ニアの実妹であるイリス・インフェリア。この二人が来ると賑やかだとニアは喜んでいるが、ルーファとしてはもう少し、ニアと二人きりの時間が欲しいのだった。
「仕事はちゃんと終わらせて来てる。面倒な案件続いてて、毎日忙しいんだよな」
「だったらもっと忙しそうにしろよ……」
「わたしもレヴィ兄手伝ってたけど、今度こそ死ぬかと思ったね。あの書類の量ときたら、思い出すだけで眩暈がするよ」
「イリスはもうちょっと断っていいんだぞ。大総統補佐っていうけど、まだ中尉だろ」
「そうだよ。レヴィはもっと将官を働かせることを考えないと。イリスが過労で倒れたら訴えるからね」
ルーファが喋りながらジャケットを脱ぎ、ネクタイを緩めているあいだに、ニアは夕飯を用意してくれる。何かハーブらしき匂いがするので、今日もアーシェあたりが何か差し入れてくれたのだろう。大文卿夫人アーシェ・ハルトライムは、仕事と子育てで忙しいはずなのに、誰も料理ができる者のいないこの家に頻繁におかずを持ってきてくれるのだった。ちなみに、ハーブ系ではないソースの匂いがすると、グレイヴが何か持ってきてくれたのだなと思う。グレイヴ・ダスクタイトは、こちらも仕事と子育てを両立させている。そろそろヴィオラセント家に籍を入れ直すだとか言っていた気もするが、それはどうなったのだろうか。
「お兄ちゃん、わたしは倒れないから安心してよ。それよりルー兄ちゃん、最近仕事忙しくない? 今、軍で備品の入れ替えしてるから、受注多いでしょう」
考え事をしていたら、不意に話を振られた。ああ、と返事をして席につくと、やはりハーブで香味をつけた鶏肉があった。「アーシェちゃんが」とニアが言うので、予想はあたっていたようだ。
「いただきます。……その、軍からの受注だけどな、数字おかしくないか? ちゃんと確認してるのかよ、大総統」
「今はプライベートだから大総統じゃないって。ちゃんと確認して書類通してるから、大丈夫だと思うんだけど。……やっぱり一部の将官が上乗せしてるのかなあ」
「ほら、ちゃんと見ておかないからそういう疑いがでる。私的流用させないように、しっかり管理しなきゃ駄目じゃない」
「うわー、早く将官になりたいなあー。そうしたら、ずるいことなんか絶対にさせないのに」
「イリスが手を出すまでもなくレヴィがちゃんとしていればいい話だろ。……うん、美味い。これもアーシェのところの自家製ハーブ?」
「みたいだね。双子ちゃんが摘むの手伝ってくれるって言ってたよ。いいね、子供がいるって」
仕事の話と、それを和らげるように食事の話。そしてまた、仕事の話。いつもこの繰り返しだ。軍を辞めても、軍との関わりは切れない。この国がそういう社会であり、ルーファが元軍人で、友人と義妹(といっていいものか)が現役軍人である限り、たぶんこの話は終わらないのだろう。
夕飯をきれいに平らげ、ごちそうさま、と言ったとき、ニュースが聞こえてきた。
「――軍所有の山林で捜索が続いています。引き続き情報提供を求めているとのことです。心当たりがある方は、司令部に情報をお寄せください」
いつのまにか、レヴィアンスとイリス、そしてニアの表情も硬くなっていた。ルーファもこの事件を不安に思っているので、客先を訪問した際に、世間話のひとつとして持ちだして、情報を集めようとしている。だが、今のところ収穫はない。あればすぐに軍に連絡している。
軍が訓練用に所有している山で、片方だけの子供の靴が見つかったのは、昨日のことだった。一昨日の雨で地盤が緩くなっている。万が一土砂崩れに巻き込まれていたら。その懸念のもと、山での捜索と、行方不明者の情報収集や整理が行なわれていた。
人員の割り振りは、時間、気候や地盤の条件などをもとに決められている。今日の午前は、イリスも捜索に加わったらしい。
「靴があった場所を中心に捜してるんだけどね。ゼンたち男は、穴掘ったりもしてた。わたしも他に何かないか目を凝らしてみたけど、手掛かりはなし。犬かなにかが、どこかから拾ってきた靴を置いていったんじゃないかっていう話も出てる」
「明日何も見つからなければ、そういうことになりそうだな。ニアとルーファはどう見る?」
「敷地内に子供が入り込んでたって話はたまにあるから、心配だよね。靴に獣の痕跡はあったの? ていうか、その獣に襲われた可能性もあるよね」
「周辺にそういう形跡はあったか? ちゃんと調べてるのかよ」
「報告にはあがってきてないな……。靴は科学部にまわしたけど、結果はまだ出てない。出たとしてもオレまで情報が来るのが遅いんだよな。犬が運んできた説は、まだ信じられるような段階にない」
「周辺は、今度はもうちょっと範囲を広げて調べてみるよ。わたしは明日も出動するから」
現場の状況も、寄せられる情報も、決め手に欠けるようだ。ぎりぎりまで調べるけどね、とレヴィアンスは言うが、いつまでもその件に人を割いていられないというのが現実だということも、軍人であったルーファにはわかってしまう。ニアも同じことを考えているようだった。
捜索のために早く帰る、というレヴィアンスとイリスを見送ってから、ルーファは茶を淹れて、ニアと話をした。
「本当に子供が迷い込んだんだろうか。無事ならいいんだけどな」
「そうだね。……あの山は小さいけど、子供には広大に見えるから。ある程度訓練してないと、軍人でも迷子になるし」
「ニアも迷子になったっけな、昔。レヴィと勝手にどっか行って」
「ああ、あったね。あのときは引率してたダイさんにすごく怒られたっけ」
「俺も心配したんだからな。アーシェなんか泣きそうになってたし、グレイヴはそれ見て焦るし」
自分たちにとっては懐かしい思い出だ。もう過ぎたことだから。無事に帰ることができたから。でも、あの靴の持ち主は、どこにいて何をしているのかわからないのだ。今、この瞬間も。
「一番良いのは、靴を失くした子が普通に元気にしてて、軍に連絡をくれることかな」
「そうだな。俺も営業のとき、心当たりないか訊いてみるよ。今日も何か情報ないかって思ってたんだけど、何もなかったからな」
「ルーってば、全然軍にいた頃の癖が抜けてないね。あのまま軍にいたほうが良かったんじゃないの?」
ニアが微笑む。嬉しそうなのと、心配そうなのとが、混じった笑みだ。
「いや、一般市民にしかできないことだってあるだろ。それに、いつかは親の仕事を継ごうって、ずっと前から決めてた。いつまでも軍にいたら……それこそ、良くない将官の一人になってたかも」
「ならなかったよ。だって、もしそうなら真っ先にレヴィに使われるはずだもの」
「それもそうか」
軍人なら、山に直接入って捜しに行けた。それを考えなかったわけではない。でも、今のルーファはそうではない道を選んだのだ。できることを、するだけだ。

全部の仕事を経験しろ。それが跡を継ぐための条件の一つだ。そういうわけでルーファは、経理もやれば営業にも行き、その他一般事務もこなす。部署をまたいで業務にあたり、社長の息子、という肩書以外の部分でも存在を覚えられている。
そもそも名乗る姓がフォースではなくシーケンスなので、社長の子だと気づかない者も、とくに勤務歴がさほど長くはない人々には多い。家庭が多少複雑なのもたまには役に立つものだ。社長の子というだけで態度を様々に変えてくる輩もいるのだから。
だがそこは、軍にいてもそう変わらない。将官だからおもねる、大総統の子だからと、名のある軍人と繋がりがあるからと、全く関係のない者から贔屓や嫉妬を向けられる場面は、よくあることだった。ニアやレヴィアンスと付き合いがあるルーファには、はっきりと見えていた。
今はルーファ自身が、当時の彼らの立場だ。社長の子はいいよな、という言葉には、良い意味も悪い意味も含まれる。社長の子だから何をしても将来が約束されている、と勘違いしてほしくはない。こっちはこっちで、その社長に迷惑をかけないよう必死なのだ。
だがその気持ちをうっかり口にしてしまうと、何かの機会に社長本人から叱責が飛ぶ。本当に必死になるべきはそこじゃないだろう、と。客を相手にするのだから、そちらに目を向けろと、至極当然のことを言う。――それは、軍と一緒だとも。
いつかニアと約束した、「人を助ける軍人になる」というそれが、軍人ではなくなっただけのこと。だが、軍人時代もそうだったが、それはなかなか大変なことなのだ。
「外出てきます。店舗じゃなく、個人宅ですけど」
「ああ、例の貴族家だろ。時間も時間だし、長引くだろうから、終わったら直帰していいぞ」
仕事によってはそういうこともある。どれくらい時間がかかるかはわからないが、現場から直帰はありがたい。ちょっと癖のある客なのだ。
ルーファが向かったのは、とある貴族家。貴族認定されている家には貴族条項というものが適用されており、それに違反すると、貴族として得られる特権などが剥奪される。一時期には一気にこの貴族条項違反が増え、国内の貴族家は減った。他にも、貴族家は悪人にその財産などを狙われやすく、いつ突然滅ぼされてもおかしくないという危険にさらされている。
かつては狙われた貴族を守ったり、起こってしまった事件を解決するのがルーファの仕事だった。ときには貴族を取り締まることもあった。だが、今は貴族家に課されたつとめをサポートする立場にある。貴族家はその財産で、庶民を助けなければならない。持てる者は与えよ、という精神が、貴族条項に反映されているのだ。それは多くの場合、財産のうち何割かを慈善活動に使うということで、クリアされることになる。
ルーファが担当する貴族の客は、新しく児童養護施設を作ろうとしていた。そこで使う家具一式を、フォース社のものにするつもりなのだとか。正確には施設をつくるならうちの家具を使いませんか、という営業をかけて、それがうまくいきかけているのだ。
「こちらの製品なら角に緩衝材を使っているので、子供がぶつかっても怪我をしにくく、家具自体も倒れにくいです。高さも調節できますから、フリースペースに本や遊び道具を置くのに良いかと」
「さすがにフォース社の製品はバリエーションが豊かだね。……おや、こっちの棚はどうなんだ? デザインが美しいじゃないか。美しいものを見て育った子供は、感性が豊かになる。私はこちらを採用したいね」
「彫りものがきれいですからね。これもオプションでより良い事故防止用の加工ができます」
「シーケンス君は随分と安全性を推すねえ」
客は苦笑いをしたが、ルーファが安全面を気にするのは実体験からのことだ。自分自身、幼い頃に今の親に引き取られるまでは、施設に入っていた。そこで、喧嘩をして家具にぶつかり、怪我をした子供を見てきた。それ以外にも、子供が危険にさらされる可能性というのはいくらでもある。こちらで防げるものなら防ぎたい。
「安全性能だけにこだわっているわけではありませんよ。こちらは丸みがあるので、見た目にも実用面でも優しいです」
「ああ、それもいいね。じゃあこれと、さっきの棚とを発注しようか」
「ありがとうございます」
やっと発注を決めてくれたことにホッとしたルーファは、ふと、客の座るソファの向こう側にある袋に目を留めた。透明の、大きなビニール袋。ごみが雑多に入っているその中に、鮮やかな青い色が見えた。それが子供の靴だととらえるまでに、時間はかからなかった。
「……お子さん、いらっしゃいましたっけ」
「子供? 私に実子はいないよ。だから施設を作って、子供たちを笑顔にしたいと思ったんじゃないか」
元の職業のせいかもしれない。どこにでもあるようなものだから、普通の人は気にも留めないかもしれない。けれどもルーファは、妙な胸騒ぎを覚えていた。ニュースで、心当たりのある方は連絡を、と呼びかける声とともに流れていた、写真を思いだす。山の中で見つかった、泥だらけのわりに新しそうな、その靴を。
軍人時代と、自分が引退してからも現場に残った仲間から得た、様々な事件の知識が頭の中を駆け巡る。子供が関わった事件も何件かある。――もう自分はそれらを取り締まれる立場にはない。だが市民として、情報を確認し、提供するくらいはできる。
「子供といえば、今、軍所有の山で子供の靴が見つかった事件が話題ですよね。立ち入り禁止ではありますが、入り込んでしまったんじゃないかって」
「知らんね」
あまりに早い反応だった。心配ですよね、などと続けるまでもなく、相手ははっきりと「知らん」と言った。施設を作ろうと思うくらい子供を気にしているのなら、この事件にも関心をもっていていいはずなのに。それとも、ルーファが気にしすぎているのだろうか。
「そんな話をしている場合じゃないだろう、君も仕事中なんだから」
「……そうでした。すみません」
謝りながらも、袋の中に見える青い靴から目が離せない。仕事の話の続きができない。そうしているうちに別室にいた奥方がやってきて、ごみ袋を持ち上げた。
「あなた、こんなところにごみを置いて……人目につくのに、恥ずかしいでしょう。捨ててきますわ」
「その人前でごみとか言うんじゃないよ。まあいい、捨てるのは任せた」
奥方に運ばれ、青い靴は視界から消えた。この近くの廃棄場はどこだったか、軍人時代に頭に叩き込んだ付近の地図を探る。
「それではシーケンスさん、頼みましたよ。一日も早く、子供たちを良い環境に置いてやりたいのです」
客が笑う。思わずその瞳の奥を覗き込みながら、ルーファも笑顔を作って返した。
「はい。こちらこそよろしくお願いします」
その家を辞した後、ルーファが真っ先に向かったのは、ここから一番近い廃棄場だった。今日、この時間なら、直近に持ち込まれたごみはまだ放置されているはずだ。
――軍にいた頃の癖が抜けてないね。
思い出したニアの言葉に、そうだな、と小さく呟いた。
親に憧れ、その背中を見て、子供の頃から携わってきた仕事だ。すでにこれは、性になってしまっているのだ。


エルニーニャ王国軍中央司令部はまもなく通常業務を終えようとしていた。山の捜索は、本日分はすでに終了していて、入り込んだ子供などいなかったのではないかという結論に達しようとしていた。もっともそれはトップたるレヴィアンスの意向ではなく、仕事が詰まりに詰まっている将官、佐官たちの判断だったが。彼らが忙しいということは当然レヴィアンスも忙しいのだが、この件についてはどうにも気になることがあって、捜査の打ち切りを決めかねていた。
「しかし閣下、山の捜索には、もうこれ以上人員を割けませんよ。せめて明日からは縮小しては?」
「今日の時点でかなり削ったのに? どうにも気になるんだよな、あの靴……山に入ったにしてはきれいすぎるというか……」
「泥がついていたじゃないですか」
「歩いて付いた泥じゃなさそうだって、科学部も言ってる。実際、靴底はほとんど汚れていなかったわけだし」
正補佐と問答をしていると、割り込むように内線が入った。口をとがらせながら電話をとると、困ったような声がした。
「山捜索についての情報提供だそうですが……閣下と直接話がしたい、と」
「オレと? 相手はなんて名乗ってる?」
「ええと、シーケンスと言えばわかる、と」
レヴィアンスの知っているシーケンス姓の人間は二人いる。一人は薬屋で、もう一人は元同僚だ。とりあえず繋ぐように指示をし、少しの間があった後に、昨夜も聞いた声がした。
「レヴィ、突然悪い。調べてほしいことができた」
「何だよルーファ、情報提供じゃなかったの?」
「情報提供になるといいんだが……今から言う住所の近辺で、最近おかしなことがなかったか調べてほしい。たとえば、誰かの姿が見えなくなったとか、逆に見慣れない人が訪ねてきたようだったとか」
そうしてルーファは、住所を伝えてきた。それと調べる内容をメモして、その下に「インフェリア中尉にまわせ」と書いてから、正補佐に渡す。彼はすぐに大総統執務室を出て行った。急がなければ、終業時間になってしまう。
「調べる根拠は? 元軍人なら、それを先に言ってくれないと」
「ああ、そうだった。俺もちょっと焦ってて……。実は、山で見つかった靴と同じものを、うちの客の家で見つけたんだ。片方だけごみ袋に入ってて、今それを確保したところだ。山で見つかったのは左右どっちだっけ?」
「右だ」
「俺が見つけたのは左だった。ほとんど新品なのに、片方だけ捨てられてるって変だろ?」
ルーファは軍を辞めた人間だ。もう二年経っている。しかし十歳で入隊し、十六年のあいだ軍人として培ってきた勘は、未だに侮れるものではない。それを抜きにしても、今はもうこれに賭けるしかない、重要な情報だった。
「今、イリスに行くように頼んでる。ルーファはどこにいるのさ?」
「さっき言った住所に一番近い廃棄場……の近くの公衆電話だ。イリスたちを見つけたら声をかける」
「仕事はどうしたんだよ」
「ちゃんと終わらせたよ、お前と同じに」
電話の向こうで、少しだけ笑ったのがわかった。かつてともに現場に出ていたときに見せていた、緊張感のある笑みだ。だからレヴィアンスも、にやりとする。

「汚れを確認した時点で、自分で歩いてきたわけじゃないってわかってるべきだったよ。ていうかこんなに大事な情報を、なんでレヴィ兄もちゃんと教えてくれないかな」
「現場に来られなかったからだろ。担当してたのはあくまで佐官以下、指示は将官。科学部からの報告も、閣下にいくのは遅れたんだろうな」
文句を言いながら聞きこみ情報をまとめるイリスを、ルイゼンが宥めながら分析する。靴が発見された当日に、発見者たちが焦ってしまったということもあるだろうが、それにしても情報伝達が悪かったのは否めない。
イリスたちが住所のメモを受け取ったのは終業時間直前、聞き込みを開始したのは、完全に終業後のことだった。だが、もちろん事件性のあるものを放っておくわけにはいかない。それがこの国の軍人というものだ。
到着してすぐに、ルーファとは合流できた。が、状況説明をしてもらい、靴を受け取ってから、すぐに帰らせた。ごみの廃棄場に長い時間いたおかげで、臭いが染みついてしまっていたのだ。今日はもう職場に戻らなくていいというから、さっさと家で風呂に入るように、イリスが言った。ちゃんと「ありがとう、お疲れさま」と添えて。
「ルーファさんが訪ねたという家の、向かいの人の証言が一番はっきりしているな。見慣れない女性と子供……おそらく親子だろうと思われる人たちが、一昨日の朝に目撃されている。このあたりは貴族家が多いが、その人たちは貴族風ではなかった。しかし身なりは小奇麗だった……ということだったな」
「フィン、よく憶えたね。でもそれ以降、その人たちは目撃されていない」
「だが、この貴族家の主人の車が家を出て行ったのは、見た人がいる。山中見回りの前だな。貴族様のくせに、よほど冒険好きと見える」
「ごみから見つかった靴は、山で発見された靴とサイズが同じ。一組だった可能性はある。……とすると、この家をつついてみるしかないな」
大総統閣下の許可は下りている。貴族家の住人は逃れられない。何があったのか、きっちりと説明してもらおうではないか。
イリスたちはその貴族家に乗り込んだ。


帰宅して、ニアには会わずにすぐにシャワーを浴びたルーファだったが、結局は服の臭いを問い詰められて、事情を説明することになった。
ニアは話を真剣に聞き、それから息を吐いた。
「もし直帰が許されてなかったらどうしてたの。完全に仕事放棄だよね」
「そうだな。レヴィに冗談でも仕事しろなんて言えなくなった」
だが、後悔はない。少しでも真相究明に近づけば、いや、事件に全く関係なかったとしても、ルーファは自分の行動を間違っていないと思っていた。もちろん、正しくもなかったけれど。
あれから続報はまだない。イリスたちが、捜査を続けてくれているのかもしれない。終業直前に連絡をしたのは、少しだけ申し訳ないと思う。しかしかつての自分なら――実際は今でも――動かずにはいられない。人を助けたいと思う気持ちが先に立つ。
「いずれにせよ、今回みたいな場合は、ルーのお母さんも許してくれるんじゃない? 直属の上司にちょっとは怒られるかもしれないけれど、それだってルーは後悔しないでしょう」
「しないな、きっと」
「そうだよね。僕はルーのそういうところが好きだよ。さすが僕らの隊長」
そう言ってから、ニアが小さな声で付け加える。それから、僕の大好きなパートナー。それだけで今日一日が報われたような気がした。
そして翌日の朝、事件は急展開を迎えていた。ルーファが訪問した貴族家の主人が、殺人の容疑で捕まったのだ。仕事に遅刻しそうになるのも忘れて、ルーファは、ニアも、ニュースに集中した。
貴族家の主人は、浮気をしていたのだという。靴が見つかったあの日の朝に、浮気相手は子供を連れて、貴族家を訪れていた。親子は貴族ではなかったが、新しい服に新しい靴と、身綺麗にして彼のもとへやってきた。男が妻と別れて自分たちと一緒になってくれるよう、妻がいないところを見計らって話し合いをする予定だった。そもそも彼女らを呼び出したのは、男のほうだったのだ。
しかしそれは男の罠だった。これから慈善事業を始めるにあたり、クリーンなイメージを保ちたかった男にとって、子供のいる浮気相手は邪魔になってしまったのだ。彼は浮気相手を家で殺害し、その血を風呂場で洗い流し、死体を遺棄するために車に積み込んだ。
子供は一部始終を見ていた。拘束されていたが、一時はそれを解いて逃げ出そうとした。だが玄関で靴を履いたところで、男に捕まり、首を絞められて同じく車に詰め込まれた。靴はその時、左だけが玄関に落ちた。
軍に知人がいた男は、それを通じて、軍の所有する山のことを知っていた。見張りがいない時間帯、昔訓練用に造られた壕があるが今では点検もされていない、そもそも存在すら知っている者がほとんどいないということなど。もちろん部外者にそんなことを喋った者も処分されるだろう。とにかく遺体はそこに放り込まれた。子供のもう片方の靴は、そこへ向かう途中で落ちた。ぬかるむ山を、よく重い死体を担いで歩けたものだが、貴族の男は趣味で登山を含むあらゆる活動をしていたという。
ちなみに、当日に軍が見回りをするということは知らなかったようで、たしかに彼は「冒険」をしたのだろう。
――以上の顛末は、ニュースだけではなく、後のレヴィアンスからの報告で全容を知ることができた。
「子供に手をかけておいて、何が児童養護施設だ」
「ルーが気づいてよかったよね。もし気づかなかったら、もっと酷いことになってたよ」
「まあね。……子供が助かっただけでも、少しはましだったんじゃない?」
いつものようにアパートに来たレヴィアンスは、そう言って、酒の入ったグラスを傾けた。
子供は壕に放り込まれたあと、息を吹き返したのだ。だから事件のことを証言することができ、真相が明らかになった。イリスたちの追及だけではわからなかった部分を、子供はつらいだろうに、全て軍に話したのだった。
「でもね、その子お母さんと二人暮らしだったから、身寄りがなくなっちゃったんだよ。今は入院してるけど、そのあとは信頼のおける施設……たぶん昔レヴィ兄やルー兄ちゃんが入ってた施設になると思うんだけど、そっちに預けられる予定。十歳になってないから、軍にってわけにもいかないし」
イリスが神妙な顔をして溜息を吐いた。この結末は、ましではあっても、良くはない。一人の命が奪われ、子供の心には深い傷が残った。
ルーファは自分が施設にいた頃のことを思い出す。職員は良くしてくれたが、ルーファ自身が他人とうまく関われず、孤立した日々を過ごしていた。それを救ってくれたのが、今の親だ。
「……あのさ、その子に会うことってできないか?」
「ルーファが? ……ちょっと難しいかな。事件の状況説明は妙にはっきりしてたけど、そのあとは喋らなくなっちゃったんだよ。オレも行ってみたけど、大総統は軍の人間、軍といえばあの事件を思い出す、って感じで怖がられちゃって。子供に怖がられたの初めてだよ……」
「レヴィ兄、子供受けいいのにね。わたしは助けたときに一回会ってるけど、むしろそれが駄目なのかな、お見舞いに行ったら怯えられた」
「イリスでも駄目だったの? それはたしかに難しいね……」
しばらくはそっとしておいたほうがいい、とニアも言う。だが、ルーファは放っておくことができなかった。子供が退院を翌日に控えていたその日、仕事で外に出たときに、病院に立ち寄った。
来てはみたものの、会えないだろうと思っていた。だが、顔見知りの看護師に話を聞くと、どうやら今は庭にいるらしい。大きな中庭の、木の下にあるベンチに、黒髪の子供はぽつんと座っていた。
話しかけても答えないかもしれない、と看護師は言っていた。だがかまわずに、ルーファは子供の前に立った。
「ニール君、だね」
名前を呼ぶと、子供は顔をあげた。表情はない。金色の瞳も暗い。
「はじめまして。俺はルーファっていうんだ。……ええと、具合は大丈夫?」
尋ねると、俯いてしまう。それでもいい。それが彼の返事だ。
「……ニール君は、絵は好きかな。いくつか持ってきてみたんだけど」
鞄から、ニアの描いた絵――はがきサイズのものを譲ってもらった――を取り出す。彼に見える位置に差し出すと、少しだけ目を開いた。
「俺はあんまり絵に興味ある方じゃないんだけど、この人の描いた絵はすごく好きなんだ。見てると、懐かしいような、胸のあたりが温かくなるような、そんな絵。これは全部風景画だけど、人物とかも描くよ。どれもすごくきれいなんだ」
「……うん」
彼は小さく声を出した。そして、絵をそっと手に取り、見つめた。花でいっぱいの、野原の絵を。しばらく見つめて、そして、そこにぽたりと雫を落とした。
「……来年になったら。一緒に行くって、約束してたのに」
涙声で言うそれは、母との約束だったのだろうか。こんな景色を、見に行こうとしていたのだろうか。でも、その人は、もう。
「なんで……ぼくだけ生き残ったの……。なんでお母さん、あんなことされなきゃいけなかったの……」
残酷な場面を見せつけられ、母の遺体と一緒に閉じ込められて、この子は本来なら言葉にできないような苦しみを味わった。でも、軍の人間には、見たこと全てを淡々と語ったという。泣きもせずに、ただ起きたことを順番に。
消された感情が、そうしなければいけなかった心が、戻ってきたのかもしれない。それが良いことなのかどうかはわからない。わからなくても、ルーファは彼を抱きしめた。このまま思い切り泣いてもいいと、泣いてしまえと思った。
この子は一度殺されてしまった。泣いて生きかえるなら、生きてほしい。――それはルーファ自身が救われるための望みだったかもしれない。
彼は、ニールは、声を出さなかったけれど。それでもルーファの胸をぐしゃぐしゃになるくらい濡らした。そうして顔をあげてから、とても申し訳なさそうに言った。
「絵、濡らしちゃった。服も。ごめんなさい」
「服なんか良いって。絵はまあ、大丈夫だろ」
「でも、にじんだ……」
きれいだったのに、とニールは顔を歪ませる。ルーファが何と言っていいかわからずに困っていると、背後から足音と、声が聞こえた。
「また描けばいいんだよ。……全く同じにはならないけど」
振り向くと海色の瞳が笑っていた。濃い青色の髪を、風に揺らして。
「ニア、なんで……」
「僕がルーの行動を読めないと思う?」
絵を持って行ったときからわかってたよ、と、ニアもニールに近づいた。戸惑う彼に、「はじめまして」とにっこり笑う。
「この絵の作者、ニア・インフェリアです。気に入ってくれた?」
「……うん、でも……」
「濡らしたのは、元には戻らないね。それは一枚しかないし、さっきも言ったけど、全く同じものは二度と描けない」
そんな言い方をしてはニールが傷つくのではないかと、ルーファはハラハラした。だが、当のニールにその様子は見られない。ニアをじっと見て、話を聞いていた。
「だけど、絵そのものが描けなくなったわけじゃない。僕は生きてるし、君も生きていれば、僕は君に次の絵を見せることができる」
絵を持つニールの手を、ニアが片手でそっととる。もう片方の手はルーファに伸びて、同じように手を重ねさせた。
「見たものを思い出すことも、生きていればできる。つらいことも一緒に憶えてることにはなってしまうけれどね。……つまり結論としては、僕は君にもっと生きてほしいわけだけど。もし良かったら、僕らと一緒に」
「え、ニア、それは」
ルーファが驚く横で、ニアは全く口調を変えずに、「ゆっくり考えていいよ」と言う。ニールはニアを見て、絵を見て、それからルーファを見た。戸惑いながらも、しっかりと目を見られるようになっていた。
「さて、ルー、そろそろ仕事に戻ったほうがいいんじゃない?」
「いや、とても仕事に戻れるような感じじゃ」
「戻って稼いでくれないと困るよ。ほら、行った行った」
ニアに背中を叩かれて、ルーファは仕方なくニールに別れを告げた。「さよなら」ではなく「またな」と。――また近いうちに、会えると思った。今度は「初対面のよく知らない人」ではなく、もっと別のかたちで。
そしてその予感は、ちゃんと当たるのだった。



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posted by キルハ制作委員会 at 15:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 小ネタ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする